再度のアドラー心理学批判のまとめ記事である。今日は少し物騒なタイトルをつけてみた。

 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(いずれも岸見一郎+古賀史健、ダイヤモンド社)はそれぞれ2017年1月現在で累計150万部と44万部のベストセラーだ(同社調べ)。

 だがその論法を少し丁寧にみれば、この本の著者と想定読者層の独特の「認知的な偏り」をみてとることができる。既に日本の全人口の1,5%前後の方が購入した本であるが、その多くの方はこの本の内容をご自身の生き方やお子さんの子育てに応用する必要はない。できれば早めに内容を忘れたほうがいい、そういう本である。

 「この特性がなぜ発達障害?」と首を傾げる読者の方もいらっしゃるかもしれない。その場合は、発達障害の人の特性について比較的詳しいこちらのリンク先

●発達障害者は注意するのが好き?『大人の発達障害ってそういうことだったのか』を読む」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51873335.html

も、参照しながらこの記事を読み進めていただくとありがたい。

 また過去のアドラー心理学批判のまとめとしては、下記2本の記事がGoogleトップにランキングされているので、ご興味のある方はこちらも参照されたい:

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html
●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 さて、今日の記事の目次は以下の通り。今回も長い記事になるので本文は「続き」部分に。

1.オールオアナッシング、論理の飛躍
 ――フロイトが原因論ならアドラーは目的論だ!

2.「…してはいけない」「トラウマは存在しない」極論の否定形連発
 ――「構造化」が好きな発達障害者向けのパフォーマンス

3.体内感覚との乖離
 ――承認欲求への嫌悪、しかし本来は「共同体感覚」「協力」「貢献」と不可分のもの。

4.尻切れとんぼのプログラム、 「実行」への想像力不足
 ――ほめるを否定し勇気づけを肯定、承認欲求を否定して貢献・協力を肯定

5.現場的努力への不敬/「ほめる」「承認」が定着した職場や学校への異常な妄想

6.「すべての悩みは人間関係からくる」は出家遁世のすすめ

7.結局「何もしない」で、嫌悪の感情が残るだけ!!

8.「アドラー心理学離婚」も発生?「アドラー心理学鬱」は?

9.アドラーは科学哲学者ポパーの反面教師だった!

10.「行動承認プログラム」は、「能動態の承認」



 
 それではいよいよ本文:
「嫌われる勇気は発達障害者の自己正当化本だ!」

1.オールオアナッシング、論理の飛躍
――フロイトが原因論ならアドラーは目的論だ!


 『嫌われる勇気』を開くと、まず目につくのがこれ。引きこもりの友人の話をする「青年」に、「哲人」が答える。

 
「過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話はおのずと『決定論』に行き着きます。すなわち、われわれの現在、そして未来は、すべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものである。違いますか?」
「そこでアドラー心理学では、過去の『原因』ではなく、いまの『目的』を考えます」
(『嫌われる勇気』pp.26-27)

 さて、ここに既に論理の飛躍があることに気がついた方。

「引きこもりになるには理由があると考える」⇒「過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとする」=「決定論」

 「理由があると考えることが「原因だけで考える」こととイコールになり、さらには「決定論」だとまで断じてしまっている。聡明なこのブログの読者の方々は、ここで「おいちょっと待て」と言わなければならない。「引きこもりになるには理由がある」と考えるのはべつに決定論でもなんでもない。

 このあと哲人は「目的論」に基づいて「この引きこもりの友人は、外に出たくないから不安という感情をつくり出しているのだ」と独自の見立てをする。しかしそれに惑わされる必要はない。「原因論はダメだから目的論」というのはそもそもオール・オア・ナッシングであり、なんの説得力もないのだ。
 「オール・オア・ナッシング」は発達障害をもった人に特有の思考法である。「哲人」はそれをなんの疑問ももたずに提示してしまっているし、「青年」もそれに疑問を持たずに受容しているところをみると、その傾向の疑いありである。
 気をつけてみると『嫌われる勇気』にはこの手の強引なロジックがそこここに埋め込まれている。注意深い読者ならそのことに気がつくだろう。




2.「…してはいけない」「トラウマは存在しない」極論の否定形連発
ーー「構造化」が好きな発達障害者向けのパフォーマンス



 このブログの1つ前の記事

●元北米アドラー心理学会長がきっぱり「他者の承認を求めるのは正常なこと」「問題の本はアドラーとはかけ離れた解釈」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51951614.html

でリチャード・ワッツ氏が率直に述べてくださったように、アドラーは「絶対に…してはいけない」「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」などのような極論を言う人ではなかった。また強いトーンの否定形で人を縛るような人ではなかった。
 しかし、ご存知のように『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』では、この種のフレーズがあふれている。
 なぜ、このような極論があえて書かれたのか。
 答えは、極論の命令形を好む人びとがいるからである。それはすなわち、発達障害かその傾向をもった人びとである。
 発達障害のある人は、無秩序な世界には不安を抱く。勢い、これらの人びとに安心してパフォーマンスを上げてもらうには、「構造化」という手法を使う。高度にルール化し、選択の余地をなくすことである。さらに発達障害者、特に自閉症スペクトラムの人は「否定形」を好む傾向もある。重度の自閉症の人を観察していると、折に触れすべてを拒絶するかのように腕を振りまわすしぐさをする。これはこの人たちの生存本能と強い恐怖心がそうさせるのだ。程度の差はあれ、自閉症スペクトラムの人はこの傾向をもっている。

 冒頭に挙げた2つの「まとめ記事」に書いたように、アドラーはもともと発達障害概念が生まれる前に生涯を送った人なので、発達障害概念をとうとう知らずに過ごした。そのことは、かれの著作にしばしば現れる「共同体感覚のない人」についての解釈をみるとわかる。ひょっとしたらアドラーの見立てによる「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」の事例も、今の基準でいえば発達障害者だったかもしれない。アドラー心理学には、発達障害者は「ない」ものとして扱われてきた。
 そして、『嫌われる勇気』著者の岸見一郎氏は現代の人であるが、やはり発達障害概念を使うことは避けている。過去の岸見氏の講演では、質疑で「大学生で、発達障害の疑いありと言われた」
という事例について、「決めつけるのはいけない」「原因を探すことはよくない」と発言している。
 そのようにアドラーも岸見一郎氏も、二重に発達障害への視座を持たない人びとなので、『嫌われる勇気』にもそれが反映されている。ただ岸見氏がカウンセリングで出会う人の中に発達障害をもった人は多かっただろうし、勢いそれらの人を「治したい」あまり、それらの人びとを念頭に置いた「お説教」が多くなっただろう。その結果が「…してはいけない」「…は存在しない」などの高度に「構造化」された否定形のフレーズだった。
 もしこれを読んでいるあなたが「…してはいけない」「…は存在しない」「…を明確に否定する」などのフレーズに心動かされ惹きつけられるるようであれば、あなたは自閉症スペクトラムの傾向が少々強い人かもしれない。


3.体内感覚との乖離
ーー「承認欲求」への「不自然な嫌悪」



 『嫌われる勇気』を全体を通してみると際立っているのは、この本が称揚するもの、ほめたたえるものと、口を極めて罵るものの極端なギャップだ。
 そこでは、「共同体感覚」「協力」「貢献」「勇気づけ」「感謝」をよいものとして称揚する。一方で、「承認欲求」と「ほめる」は、異常なエネルギーで貶しまくる。「承認欲求」は「囚われ」であるという。
 奇妙なまでの「承認欲求」への嫌悪。
 しかし、良識ある読者の皆様はわかるはずである。いわゆる「共同体感覚」「協力」「貢献」と「承認欲求」は不可分に結びついていて、切り離せるものではないのだ。そのことは1つ前の記事でリチャード・ワッツ氏もごく常識的に同意している。
 私たちの「人とつながりたい」「所属したい」「愛されたい」という感覚、これは生得的なものだ。生まれたての赤ちゃんは周囲の大人から注目され愛されなければ生きていけないことから、脳科学者マシュー・リーバーマンは、この「注目されたい」「愛されたい」というつながり欲求を生きるため最も根源的な欲求の1つだと述べ、マズローの「5段階欲求説」に異議を唱えた。マズロー説ではピラミッドの最底辺の「生理的欲求」には食事、睡眠、排泄などしか含んでいなかったのだ。リーバーマンはそれに「つながり欲求=承認欲求」を加えるべきだとする。
 私たちには「承認欲求」の原形は赤ちゃんのころからあり、死ぬまでそれを維持する。嫌悪しても仕方のないことなのだ。
 「承認欲求」は肉体にとっての「食欲」と同様に大事なものだ。肉体が栄養を必要とし、それを取り込むために「食欲」を持っているように、精神はこころの栄養としての「他者からの承認」を必要とし、それを取り込むために「承認欲求」を持っている。「承認欲求」がまったく無くなれば病気になってしまう。すなわち鬱になる。私たちのこころを健全に保つために「承認欲求」は不可欠なものだ。
 こうして見てくれば、「承認欲求」をまるで汚いもののように罵りまくることがいかに私たち自身への冒涜であるか、わかっていただけるだろう。良識的な人であれば、自分の内面に湧く、「人とつながりたい」「人から注視され、そこそこ重要な存在だと思われたい」という自然な欲求の存在に気づくだろうし、それを否定しても仕方がないことに気づくはずだ。
 ところが、発達障害の人だとそれがわからない。冒頭に挙げた記事の中にあるように、発達障害の人は自分の体内感覚を正しく察知することができないので、自分の中にも普通に「承認欲求」が存在することに気づかない。勢い、「承認欲求」は犯罪に走るような一部の奇矯な人だけのもの、という風に考えやすい。
 こうして、自分のからだの声に耳をそばだてられない人びとによる「承認欲求はけしからん」という大合唱が生まれた。そこまで強固に、「承認欲求=口を極めてわるく言っていいもの」という構図を見せつけると、本来わかるはずの人びともそれに感化される。
 このブログを読まれたあなたは、どうか気づいていただきたいと思う。「承認欲求」はあなたの中にも当たり前に「ある」ものだということ、それにあなたがここまでの人生を生きてくる中で重要な役割を果たし、あなたに恩恵をもたらしてきたのだということに。
 なぜ今ここで、「承認欲求」の名誉回復をしなければならないか。それは、さまざまな分野で今、切実に必要な社会改革の成功には、「承認欲求」または「承認」が決定的に重要な役割を果たすからだ。



4.尻切れとんぼのプログラム、「実行」への想像力不足


 上記のように、『嫌われる勇気』やその続編では、ほめるを否定し勇気づけを肯定、承認欲求を否定して貢献・協力を肯定する。
 ぱっと見て気づくように、これは非常に無理のあるプログラムだ。人が人にたいする色々なかかわりをする中で、勇気づけは行うもののそこから「ほめる」を排除する、貢献・協力はするがそこから「承認欲求」をつねに排除する、というのは、アクロバット的に難しい。もともとそれらは生理学的にも一体のものなのだから。
 実際、アドラー自身が行う「勇気づけ」をみていると別段そこで「ほめる」を敵視してはいない。アドラー自身も小さい子供を勇気づけるときに自然に「ほめる」も行っているのだ。
 だが、こういう無理難題を「アドラーがこう言ったのだから、やりなさい」と押しつけ、それを疑問にも思わずに受容している。
 仮にこれが仕事の中の指示だったら、どうだろうか。素直にきけるだろうか。
 こういうお説教とその受容は、要は語り手、受け手がともに「実行への想像力」が働いていないから成り立つのだ、と言っては言い過ぎだろうか。
 発達障害の人だと、「実行機能の障害」それに「イマジネーションの障害」がある。ワーキングメモリが小さいため、未来の実行について十分な想像力が働かない。だからこのような明らかなバグを含んだプログラムをやりとりしている構図は、やはり当事者の発達障害を疑わせるのだ。



5.現場的努力への不敬/「ほめる」「承認」が定着した職場や学校への異常な妄想


 現実には「ほめる教育」は学校現場で非常に効果を上げている。わたし自身も「ほめる」を駆使して子供たちの学力も人格も向上させる優秀な先生方をなんどか取材させていただいた。
 これに鑑みてか、続編『幸福になる勇気』では論法を変えて、現に行われている「ほめ育て」を槍玉に挙げている。
 その論法をみてみよう:
「(独裁的なリーダーが国民から熱烈な支持を集めるのは)そこに苛烈な賞罰があることです」
「人々は、リーダーの人格や思想信条を支持しているのではなく、ただ『ほめられること』や『叱られないこと』を目的として、従っているのです」
「『ほめられること』を目的として人々が集まると、その共同体には『競争』が生まれます」

 さあ、いかがだろうか。ここにも、この記事の1.で見たような、「論理の飛躍」をみることができる。順番にみてみよう。
 まず,任蓮◆屬曚瓩襪海箸寮非」を話しながら、いつの間にか「賞罰」と「独裁的なリーダー」が結びついてしまっている。これが飛躍の始まりだ。「賞罰」は、民主的なリーダーでも使うものなのだから。

 △任蓮◆屬曚瓩蕕譴襪箸曚瓩蕕譴襪海箸自己目的化する」という意味のことを言う。だが本当にそうだろうか?現実に「ほめる教育」あるいは「承認のマネジメント」を行ってみると、ほとんどの子どもたちや部下は、いつまでもほめられることに依存してなどいない。習熟するにつれ勉強や仕事そのものにやりがいを見出し、いわば自律的になっていく。その段階になるとほめる/承認の言葉がけはわずかでよくなる(まったく要らなくなるということはない)。こうした変化は、現実に行っていないと想像がつかないことである。
 岸見氏がよくいう「ほめられるとほめられることが自己目的化する」というのは、ごく一部の、生まれつき承認欲求が人一倍高いナルシシストの子供にはみられる。決して多くはない。だがその子たちは決してほめられたからそうなったわけではないし、ほめられなかったら今度は何とか注目してほしくて問題行動を起こすだろう。

 またでは、ほめられることを目的として集まった共同体では競争が始まる、という。これも、本当にそうなったことを観察したのだろうか疑わしい。
 一般にはほめる/承認が十分に浸透した職場や学校では、人びとが良いほうに人格変化を起こす。余計な不平不満がなくなり、他人に悪感情を持つことが少なくなり、親切になって教えあい助けあう気風が生まれる。人は、「認められていない」と感じるといくらでも悪くなれるし、問題行動を起こす。逆に「認められている」と感じると人格が向上する。このことは「認められる」ことによって信頼ホルモンのオキシトシンが部下それぞれに産生したと考えれば説明がつく。その風景をみたことがないのではないだろうか。

 このように、『嫌われる勇気』やその続編、それに岸見一郎氏が講演でばらまいた「ほめる/承認」に関するデマは枚挙にいとまがない。当ブログが岸見氏ほかを批判することが狭量にみえるかもしれないが、彼らの流したデマのほうがはるかに悪質なのだ。
 このブログで以前にも書いたが、「承認」は、本来暴力的な存在である人類が生み出した繁栄のためのわざである。生まれつきのデフォルトにはないものだから、リーダーは少々苦労してインストールする。しかし、フォロワーや若い人、子どもさんにとってはそれはきわめて大きな恩恵になる。「承認」導入後の職場の活気ぶりは見違えんばかりだ。
 そこで人々を「承認」してまわるリーダーの姿は、岸見氏が夢想した独裁者などよりはるかに献身的で、注意深くこまやかなものだ。
 「承認」による職場づくりは、人間であるリーダーの献身によって支えられている。そのことの尊さを知る身にとっては、岸見氏がやるような誹謗中傷はおいそれとはできない。
 岸見氏の言説は自分が立ち会ってもいない現場に対する不敬にみちている。岸見氏、僻みなのではないだろうか。『嫌われる勇気』の側には、エビデンスなどないのだから。



6.「すべての悩みは人間関係からくる」は出家遁世のすすめ


 「すべての悩みは人間関係からくる」
 このフレーズも、アドラー自身の言葉ではない、岸見一郎氏の捏造。そしてやはり「オール・オア・ナッシング」の色彩を帯びている。悩みには当然自分由来のものもあるのだ。
 しかしこのように言い切ってしまうと、中には「スッキリした」「楽になった」という人も出てくるだろう。なぜなら自分には原因がない、他人を遠ざけさえすればいい、ということだから。
 いわば出家遁世のすすめ。人を遠ざけよう、人に心を閉ざそうという教え。これも感覚過敏を持つ人が多い発達障害の人には受け入れやすいフレーズだ。



7.結局「何もしない」で、嫌悪感が残るだけ!!

 色々みてきたが、結局『嫌われる勇気』とその続編は、「行動する人」をつくったりはしない。根本的にバグがあるのだから。できるのは、会う人すべてを見下し、積極的に人に関わらないで「承認欲求」には強い嫌悪感を刷り込まれた人をつくるだけなのだ。
 中には、子育てに応用しようという人もみかける。しかし、その人たちは、「ほめない叱らないって難しいですよねえ。やっぱり叱ってしまいます…」と、苦笑いする。当然なのだ、最初から無理難題なのだから。自己評価を低下させるぐらいなら、しないほうがいい。
 フェイスブックのお友達のそのまた年長の知り合いは、『嫌われる勇気』は自分の生き方を肯定してくれた!と感激したあと、「嫌われてもいいんだ!」を連発するようになったそうだ。とりわけ年配の人の場合、「嫌われる」というフレーズが独り歩きして人間関係を自分の側から良くしようと努力することを怠ってしまわないか、気がかりではある。
 ある人は、「ほめることは評価であり評価とは『上から目線』だ」と、この本に載っているような飛躍した論理を言ったあと、周囲の人との相互評価をやめ自己評価に徹することにしたそうだ。いつまで続くのだろうか…。ほとんどの人は、自己評価だけで満足できるほど強くない。「他者のまなざし」を渇望するのが自然な姿だ。
「勇気づけセミナー」と題しほめることを否定した子育てセミナーも世の中にあふれているが、子供がなにかを上手にやったとき「よくできたね!」も言えないとは不自由なものだ。(「ありがとう」と言わなければならないのだそうだ。子供は親のために上手に絵を描くわけではない…)
 またある人は、「私は人の気持ちがわからず『変わっている』と言われてきた」と言い、「他人にどう思われているか気にすることをやめたら楽になった」と、アドラー心理学の効用を語る。好きずきの問題かもしれないが、発達障害あるいは「発達凸凹」をもった人は、そのような存在として自己受容したほうが社会適応がいい、というのがわたしのスタンスである。(「われわれは覚悟のある障害者を採用します」など参照)しかし従来アドラー心理学に限らず、心理学セミナーの類は発達の問題で生きづらさを抱えた人びとの逃避と開き直りの場になってきた。



8.「アドラー心理学離婚」も発生?「アドラー心理学鬱」は?


 この記事を書いている最中にお友達からこういう記事を教えていただいた。

●アドラー心理学にハマって離婚危機に!? 実践して大失敗しちゃった人たちの悲痛な叫び
>>https://www.sinkan.jp/news/6845

 わたしにとってはまったく意外ではなかった。なぜなら『嫌われる勇気』にはアサーティブネスとも重なる部分があるのだが、アサーティブネスを実践した人で周囲との人間関係が悪化したり破たんした人を知っているからだ。自己主張は一種の「攻撃行動」であり、それを緩和するすべを同時におぼえておかない限り、それ一本槍で行ったら破綻する。
 『嫌われる勇気』はアサーティブネスよりさらに対人嫌悪感を増大させる働きが強く、修復する試みも無効化する思想なのでそうなるのは自然だ。今はまだ有害性があまり認知されていないが、もっと認知されればこの種の報告はもっと増える可能性があるだろう。
 わたしが心配するのは、「承認欲求」を否定するあまりギリギリまで我慢した挙句の「アドラー心理学鬱」が既にあちこちで起きているのではないかということ。産業カウンセラーさんもアドラー心理学を盲信している人が多いのでそれに拍車をかける。鬱は一度発症すれば1年から数年がかりの病気であり、その後も生涯にわたって再発に気をつけなければならない。ご本人の人生もそうだがこのことの社会全体での損失もばかにならないのだ。一刻も早く「承認欲求」を敵視・軽視するのはやめたほうがいい。



9.アドラーは科学哲学者ポパーの反面教師だった!


 20世紀を代表する科学哲学者、カール・ポパーは、若いころウィーンでアドラーに師事していた。
●「ポパー哲学への手引き」
>>http://www2.plala.or.jp/kohsaka/page017.html

 ポパーはある日アドラーに、全然アドラー的でない1人の子供の例を出して問うてみたところ、アドラーは持論の劣等コンプレックスを使って説明してみせた。「どうしてそんなことがわかるのですか」と問うとアドラーは、「もう1000事例もみてきたからね」。ポパーはいささかの皮肉を込めて「これであなたの事例は、千と一回になったわけだ」と言ったという。
 この経験がやがてポパーを特徴づける「反証可能性」の理論につながった。科学と科学でないもの(疑似科学)を分けるのは、反証され得るかどうかだという。ポパーにとってフロイドの理論もマルクスの理論もアドラーの理論も、「反証可能性がない」という意味で科学ではないものだったのだ。



11.「行動承認プログラム」は、「能動態の承認」


 そうして、「じゃあ、あなたは何をしてきたんだ」と言われるかもしれない。
 私は「行動承認」をマネジャーに教える教師をしてきた。「承認」とは、相手を肯定的に認めること。なかでも「行動承認」は、「あなたは…したね」と相手の行動を事実その通りに記述的に言葉で伝えることである。
 そのなかで「能動態の承認」ということを強く言ってきた。「認められる」「認められたい」という受け身形ではなく、「認める」とストレートに能動態で言い、行う。やってみると、恐ろしく職場の業績が上がり、従業員の満足度も上がった。岸見氏が杞憂するような、ほめられ競争も起きなかったし褒められることを自己目的化する人なども生まれなかった。
 「能動態の承認」は、すべての弱者を包摂する、極めて精神年齢の高い大人を作ることが可能だ。今月初めの記事に書いたように

●ブログ読者の皆様にお年玉 あなたがたはなぜこんなに聡明なのか
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51951145.html
●ブログ読者の皆様にお年玉(2)OSとアプリ、「無罪判決」とマネジャーの 「寛容」、ダイバーシティ―の思考法について(試論)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51951308.html

  「行動承認」を実践し続けることにより、マネジャーたちは極めて高いレベルの思考能力、判断能力を手にする。それは彼(女)ら自身にとってもその部下や子供さんたちにとっても大きな恩恵になる。それをみるかぎり、「承認」の中核は「行動承認」でほぼ間違いないようだ。
 そして「承認」受益者の若者や子供や末端の働き手は安心感、信頼感、幸福感から体の動き全体が良くなり、パフォーマンスを上げ有能になっていく。ほめられたさで仕事をするなどとんでもない。むしろ自律的になり、次第に仕事そのものに面白さを見出し、上司の承認よりも仕事そのものや顧客からの感謝にモチベートされるようになる。「承認」浸透後の職場を訪問すると、老若男女じつに瑞々しい、プラスの感情にみちた顔に出会う。
 彼ら上司部下双方の喜ばしい変化が業績も変動させる。「行動承認」は過去10数年にわたり連続して「1位マネジャー」を作ってきた。これは恐らくさまざまな研修、介入の中でも「行動承認」がもっとも業績向上効果が高いということを意味しているだろう。
 「行動承認」はもう10数年にわたって使い続け、コンスタントに成果を挙げ続けている人がいるように、明らかな効果があり副作用の少ない手法だ。
 それは、当事者のマネジャーたちの真摯さやこまやかさ、流した汗に負うところが大きい。
 だから、岸見一郎氏よ、汚い言葉での罵詈雑言はやめてほしい。実践者の彼(女)らにたいして、あなたの空疎な著作や講演は足元にも及ばないのだから。


【謝辞】
この記事を執筆するにあたりフェイスブックの複数のお友達に助言、情報提供をいただいた。この場を借りて心から感謝申し上げます。