「承認欲求」についての世間の不当なバッシング、それにもっと前からあった「内発と自律論」による「行動理論叩き」は、あきらかに成果の上がる手法にたいして机上の空論で貶める、非常にもったいない時間の浪費である。わざわざわたしたちが有能に幸福になる道筋を閉ざしてしまっているのだから。

 ここで、現時点での脳科学からみた「承認欲求」とはどういうものか、というお話をしようと思う。「承認欲求」というモノについて恣意的にホラーめいた妄想をするより、生産的な議論ができるのではないだろうか。

 

 出典は『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(原題’SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’、マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月20日)。

 こちらの記事で2015年秋に詳しい読書日記を書いているが、例によって長大な記事で印刷すると10Pにもなった。今回はそのなかから、「承認欲求」に直接関係しそうなところだけ抜き出してご紹介しよう。


 ここでは、「内側前頭前皮質(MPFC)」という部位が問題になる。人類を他の哺乳類から区別して特徴づけている脳の一番外側、大脳新皮質のうち、理性にもっとも関わる前頭葉の内側の一部位。ちょうど額の真ん中の”第三の眼”のあたりを指で指すと、その奥が内側前頭前皮質だ。ここが”自己”という感覚をつくり出している。


 人間以外の霊長類では、脳全体に占める内側前頭前皮質の割合が0.2〜0.7%だったのに対して、人間の場合は1.2%だった。他の霊長類の脳と比べてこれほど大きな割合を占める人間の脳の領域は、内側前頭前皮質を除いてあまり見当たらないという。

 「礼儀正しい」「話好き」といった形容詞を見せ、「形容詞が自分自身に当てはまる」と判断した人の脳では、内側前頭前皮質が活性化していた。わたしたちが自己を概念的に捉えるとき、内側前頭前皮質を使っている。

 とりわけ、思春期の子供でみると、自分が自分をどう思っているか、他人が自分をどう思っているか、どちらを考える場合でも、内側前頭前皮質とメンタライジング系の両方が活性化していた。この時期の子供は「自分とは誰なのか」という問いに答えるのにさえ、自己の内面を探るよりも他人の心に焦点を当てて考えるようだ。人生で最も承認欲求が亢進する時期の子供の頭のなかは、そうなのだ。

 内側前頭前皮質は自分自身について教えてくれる、いろいろな情報を反映する領域だ。その中には、個人的で内省的な情報もあれば、周囲が自分をどう思っているかという反映的評価から生まれる情報も含まれる。つまり「自分とは誰なのか」という自己感は社会的に作り上げられたものであり、そのプロセスに関わっているのが内側前頭前皮質なのだ。

 内側前頭前皮質にはもうひとつ重要な働きがある。「説得に従う」ということである。暗示にかかりやすい人の脳では、内側前頭前皮質が活発に反応していた。日焼け止めの効用についての説明を聞いていた人たちのなかでは、内側前頭前皮質が活発に反応していた人ほど、そのあと日焼け止めを使っていた。わたしたちが態度や行動を変えるかどうかは、内側前頭前皮質が広告や説得にどう反応するかによって決まる。


 「これらの実験は、自己とは他者と自分とを明確に区別し、私たちを特別な存在にしてくれるものだという考えにとどめを刺したと言えるだろう」とリーバーマンはいう。「なぜなら、私たちの概念的な自己感をつくり出す内側前頭前皮質は、『私たちの考えや行動に影響を与える情報を、外部から取り入れるルートでもある』からだ」

 他人の目から隔てられまったく独自の価値観、独自の動機づけで生きる自分というのは、そもそも「ない」のだ。

 もう少し平たくいうとこんな風に言えるだろう。
 わたしたちは、生まれてからこのかた、親をはじめ周囲の人に自分がどう思われているかという情報を取り入れる。同時に周囲が提供してくれる、どう振る舞うべきかの規範の情報も取り入れ、内面化する。そのふたつの役割を、内側前頭前皮質が担っている。「どう振る舞うべきかの規範の学習」と「どう思われているかの情報を気にすること(=承認欲求)」はだから、一体にして不可分のものなのだ。

 


 わたしたちは現在、1日か2日に一度入浴し、きちんと洗濯した服を着て人前に出る。赤ん坊時代であれば入浴していなくても汚い服を着ていても気にならなかったかもしれない。
 しかし、「きちんとした人として見られたい(=承認欲求)」ことが規範を学ぶエンジンになり、そこそこ社会的な立ち居振る舞いをするようになる。幼いころからこのかた、わたしたちが承認欲求のお蔭をもってに身に着けてきた規範的・社会的な行動はどれほどたくさんあるだろうか。
 
 
 某アドラーの弟子ドライカースの著書では、人が悪いことをする契機の第一は「称賛の欲求」なのだという。それだけを見るといかにも承認欲求はわるいもので、アンインストールしたほうがいいもののように思えるかもしれない。

しかし、ドライカースはわたしたちが良いことをする契機については書いてくれなかった。わたしたちが人生の中で規範に従った「よい行動」をする回数と悪いことをする回数のどちらが多いか考えてみよう。ときどき悪いことをさせるのも承認欲求かもしれないが、日常的にそれをはるかに上回る数の規範的な行動をわたしたちにさせてくれるのも承認欲求だ。それは「操られている」「囚われている」といった被害者的なタームで表現する必要はなくて、そもそもそういう風につくられているのだ。


 この「承認欲求が規範の学習の原動力となる」という知見は、当然マネジメントにも応用できる。
 「行動承認研修」のなかではこのリーバーマン説との出会い以来、こんな風に教える:

 あなたがマネジメントの中で部下に順守してほしい行動を教えたり指示したりするときには、同時に部下を承認しなさい。できれば部下が「たしかに自分自身のことだ」と思えるような承認をしなさい(たぶん行動承認をしておけば間違いないでしょう)

 もっと以前から、「行動承認」の世界では、「部下がぼくの言うことを信頼して聞いてくれ、その通り行動してくれる」という報告がされていた。だから「信頼の問題」であるともいえるし、「承認欲求の問題」だともいえるだろう。いずれにせよ「行動承認」をしていればよいことなのだ。
 
 
 そういうわけで、承認欲求はわたしたちが生涯にわたってアンインストールできないOSのようなものだ。よく、前頭前皮質の一部を損傷した患者さんが抑制がなくなり、不道徳な言葉を言ったり約束を守らなかったりする事例が取り上げられるが、そういう逸脱した人になりたいと思うのでなければ、これまで通り承認欲求とともに生きればよいのだ。