このブログの友人、佐賀県の研修業Training Office代表、宮崎照行さんから、「教育困難校における承認の重要性について」という原稿をいただきました!

 もともとは、わたしがKindleで『行動承認』の続編、『行動承認第二章』を書くにあたって宮崎さんに寄稿をお願いしていたのに対しこたえて送ってくださったもの。

 宮崎さんはこうした「教育困難校」でのマナー講師で既に8年のキャリアを持ち、その5年目にして心境の変化で「承認」のマナー教育に転換されたそうです。すると起こったことは…。

 図々しいお願いで、Kindle掲載前にブログでの掲載もお許しいただきました。宮崎さん、感謝!

 かつてわたしは宮崎さんのご経験を伺い、「この手法は、社会を建て直す力のあるものだと思っているんです」などと、大言壮語を吐いたのでした。それにしてもこうして新たな担い手の方が出てくるのは嬉しいことです。論理的で内省的な宮崎さんの言葉で、新たな「承認ワールド」を体験していただきましょう。

 若い人が伸びる風景を想像するだけでワクワクするという読者の方にお勧め!「教育困難校」もそうですがすべての教育関係者のかたに届くことを願って、お送りします。

******************************************

教育困難校における承認の重要性について

宮 照行


 教育困難校(高校)におけるキャリア教育やマナー指導で大切なものは何かと問われたら、真っ先に答えるとするならば「承認」だといえます。
 教育困難校とは、はっきりした定義はありませんがさまざまな背景や問題を抱えた子どもが集まり、教育活動が成立しない高校のことです。私は高校生の職業意識を育てる「キャリアガイダンス」のマナー講師をしてもう8年になります。そのなかで教育困難校にも数多く足を運びました。
 こうした高校の生徒の特長として挙げられるのが、低い自己効力感です。
「就職するために、最低限のビジネスマナーを身につけておかないと面接を乗り越えることもできないし、就職しても苦労するよ」
などと言って動機づけをねらうのですが、生徒からは
「なんでこんな面倒くさいことをやらなければいけないんだよ。うざいな。やっても無理だよ」
というような、半ば投げやりの言葉が返ってきます。限られた時間の中で指導しなければならないので、この状態の生徒に指導することは困難を伴います。

 そこで通常ならば、『相手を承認する』という概念がなかった私や多くの講師は次のような指導方略をとります。

「屁理屈言わずにやってみる。私に合わせてやる! ダメダメ!何でできないかな?真剣にやっている?真剣にやってないからできないんだよ。ほら、真剣じゃないという証明が服装や髪型にでもでている 。」

 いわば喧嘩腰ですね。情熱と力でねじ伏せようとします。講師初心者や講義を形式的なテクニックで乗り越えようとする講師が陥りやすい罠です。

 しかし、このようなやりとりが続くと自己効力感の低い生徒は、ますます自信をなくししやる気がそがれてしまいます。最悪の場合、低い自己効力感が更に強化されるという状況に陥りました。本来、教育や研修では、知識や技能を習得するだけでなく自己効力感も高めるという目的もあるにも関わらず、全く持って逆効果の状況に陥ります。私自身、過去の指導方法では相手のことを思いやらずに形式だけを重んじていましたが、一向に思うように指導ができませんでした。

 そもそも、講義もコミュニケーションの一環だとすると相手の気持ちを考えずに一方的に押し付けてしまうことはコミュニケーション同様、うまく機能することができるのだろうか?ふとそうという疑問が生じ、思い切って『相手を承認する』という前提を取り入れた指導を目指すようになりました。

 『相手を承認する』という方法はいろいろと考えられますが、私にとって『相手を承認する』とは、一つには教える内容の質を徹底的に高めたり、相手のことをしっかり把握したりすることが必要ではないかと思っています。講師として教える内容の質を高めたり、相手のことをしっかり把握したりすることは、それこそ相手を承認している結果です。形式的な指導は相手を軽んじているような気がします。このように指導に承認の概念を取り入れることによって、下記のような変化が起こりました。

「なんでこんな面倒くさいことをやらなければいけないんだよ。うざいな。やっても無理だよ」(生徒)
「そうだよね。面倒くさいよね。でもさ、面倒くさいというのは、ただ慣れていないからそう思うんだよ。スポーツやゲームなどもそうだけどさ、最初はうまくやれないよね。全部を完璧にやる必要はないんだよ。少しずつチャレンジしてみようか!」(講師:私 )

 ここで大事なのは、相手の思いを講師側が素直に受け取ることです。逆に相手の思いを否定したり遮断したりすると、特に自己効力感が低い生徒はそっぽを向いてしまいます。

 次に実際に実演をさせます(例えば、挨拶)。しかし、1回目の実演で大きな声ではっきりと出せません。もう1回やってもらいます。間違いなく1回目より2回目のほうがしっかりできています。ここでこのようにフィードバックを行います。

「気持ちいい挨拶だね。やっぱり大きな声ではっきりとした挨拶をしてもらうといいよ。やればできるじゃん。姿勢も1回目よりも綺麗に伸びているよ。だから挨拶をされたほうは ものすごく気持ちいいんだ。もっと、僕を気持ちよくさせてみて」

 1回目でダメ出しをするのではなく、必ず2回目に何かしらのプラスの変化があるので、そこを具体的に指摘することで更にチャレンジしようとする気持ちが生徒側に芽生えてきます。慣れていないことを行うので、当然、修正点もでてきます。ここですぐにダメ出しを行ってしまうと元の木阿弥です。修正点を矯正するために私は

「もっと相手をの喜ばせてみようか。背筋をしっかり伸ばして、喉の奥から声を出すイメージで声をだしてみると、クリアな挨拶になって相手はもっと喜ぶよ 」(私:講師)
(生徒の実行後)
「ああ、いいね〜。やればできるじゃん。」としっかり私の感想を述べます。

 「相手を喜ばせる」これも、私が発見した生徒の中の「承認を求める気持ち」でした。相手を喜ばせることで相手に受け入れられたい。つまり承認されたいという本質的な欲求が生徒の中にあるのです。

 このようなやりとりが続いていくと、私と生徒には信頼関係が生まれてきて、指示に素直に従うようになります。ここまでくると伸びしろの大きい彼(彼女)らは、こちらがビックリするほどうまくできるようになります。そして、研修終了後、

「大きな声で挨拶するなんて、面倒くさくてはずかしかっただけで、やってみたら何ともなかったです。相手も喜ぶことなんで自分からチャレンジしてみます」(生徒)

という言葉をいただきます。こういう言葉を貰うと実に講師冥利につきます。

 私のような外部講師は彼(彼女)らにとっては異文化の人間だと思われています。彼(彼女)らの特徴としてもう一つ挙げられることは、牋枴顕修紡个靴討侶找感がすごく強い“ことです。だから、話を聞いていない素振りをしたり、あえて茶々を入れることでふざけてみたり することで、異文化の私たちの反応を試そうとします。私自身、これらの反応は警戒感の表象であると考えています。

 では、警戒感の強い生徒さんに対して異文化を理解してもらうためには、何が必要なのか?私は文化間の橋渡し役になる信念や行為は「承認」だと強く認識しています。ここで注意していただきたいのは、「承認」が行為レベルにとどまらせずに哲学・信念レベルまで達していることです。行為レベルに留めてしまうと、「承認」は人を動かすためのアルゴリズム的で薄っぺらな方略だと誤解されかねません。生徒とのやりとりの会話をご覧いただくと簡単にやっているように思われますが、形式的に相手を褒めたり、フィードバックを行ったりすると、特に教育困難校の生徒は異文化に対して警戒感が強いために、相手が真剣なのか表面的なのかということを簡単に見破られてしまいます。だから、哲学・信念レベルまで「承認」の必要性や重要性を認識しておかなければなりません。

 そして、抽象的なフレーズではなく具体的に。抽象的フレーズでは解釈が必要となるため、生徒たちにとっては間があきます。具体的かつシンプルに伝えることで、講師と生徒とのやりとりのリズムが中断されることがないことが効果を発揮しているのだと思います。
 そのため、講師自身素直な気持ちになって、少しの変化も見逃さないように真剣に相手を見なければなりません。

 「承認」は、低い自己効力感によって異文化に対する警戒感が強い人たちにとって、安心感をあたえる効果があるのではないかと考えています。それは、承認されることで、異文化における彼(彼女)ら自身の犁鐓貊蝓箸鮓つけることができます。居場所が見つかれば、チャレンジ精神も生まれ、フィードバックによる強化も効果を示しパフォーマンスが驚くほど向上していきます。根底に相手を承認するという信念をもって指導すれば、負のフィードバックも素直に受け入れてくれます。
 彼(彼女)たちにとって異文化の人間である私たちが承認を与えることで、将来の芽目を摘まないようにすることが私たちの責務ではないのだろうかということを念頭におきながらキャリア教育にあたっております 。(了)

******************************************

 「承認は人間の行動・文化・発展の『胚細胞』ではないか」という宮崎さん。

 というのは、きっといかようにも成長し、変容し、つながりあっていく驚くべき生命力をなぞらえて言われたのでしょうか… 現にそうした現象を眺めてきたわたしには、自然と受け取れる言葉でした。

 宮崎さん、ありがとうございました!