福祉の哲学とは何か 画像


 千葉大から京大こころの未来研究センターに移られた広井良典教授の新著(編著)『福祉の哲学とは何か――ポスト成長時代の幸福・価値・社会構想』(ミネルヴァ書房)を読みました。

 
 この本全体の目次と執筆者は:
第1章 なぜいま福祉の哲学か(広井良典)
第2章 福祉哲学の新しい公共的ビジョン(小林正弥)
第3章 福祉と「宗教の公共的役割」(稲垣久和)
第4章 「生命」と日本の福祉思想(松葉ひろ美)

 
 それでは各章ごとに抜き書きをしていきましょう。
 各章が本1〜2冊分の内容のダイジェストになっている感じで情報量が多く、ダイジェストを作るのが難しい本です(泣)すみません、今回はワード15pぶんの読書日記です。

 全体には第1章に編著者の広井氏が「新しい公共」「不幸を減らすか、幸福を増進するか」「地球倫理・自然のスピリチュアリティ」などの論を立て、後の章でそれらを補完しているようなおもむきがあります。


第1章 なぜいま福祉の哲学か(広井)

●「福祉」を考える2つの事例。アメリカの富裕層による自治体独立、分断と排除の現状。そして200人いる災害避難所にNPOが100人分の食料を届けたら?という思考実験。

●「福祉」のもっとも広義の意味としての「幸福」。
 収入と生活満足度の関係。年間平均所得1万ドル当たりまでは経済成長に伴う所得増加と生活満足度の上昇との間にかなり明瞭な相関が見られるが、それを越えたレベル以降は徐々にそうした相関関係が薄くなり、たとえば所得1万5000ドル以上の国々で見ると両者の関係はきわめてランダムなものになっている(フライら2005)。

●一定以上の所得で「幸福」を左右する要因は何かの(著者の)仮説
 (1)コミュニティのあり方(人と人との関係性)
 (2)平等度(所得等の分配)
 (3)自然環境との関わり
 (4)精神的、宗教的なよりどころ等
 (5)その他

●現代の日本における「福祉の“二極化”」
 現代の日本社会においては、一方で(「幸福」「存在欲求」など)福祉をめぐる“高次の欲求”が多くの人々の関心事となりつつあるが、他方では、それとは対極的に(格差や貧困の拡大の中で)基本的な生存そのものが脅かされるという状況が広がっており、これは福祉における“二極化”と呼ぶべき状況なのではないか。

●「承認欲求」の話題。犯罪学者ジェームズ・ギリガンの言葉を引用(孫引き)しつつ、
「ここで述べているような「承認」欲求――逆にいえば「承認されない」ことが人間にとってもつ否定的な意味――が、その中身は多様であっても、人間にとって根底的なものとしてあるということである。」

――この著者が「承認欲求」について著書で触れたのはこれが初めてではないでしょうか。ちょっと嬉しい。また余談だがこの著者独特の、引用・出典の扱い方の几帳面な態度は好感が持てるしほっとします。

●自己実現への関心、社会的志向をもった学生の「世界実現」発言はマズローのいう「自己超越」の段階か?

――たしかに、今若い人も二極化していて、情報化社会は非常に幼い心の若い人も作り出すいっぽう、過去にみなかったような非常に成熟したこころをもった若い人も作り出していると感じる。

●「まったくの理想論あるいは理論的な可能性としていうならば、もしも人間の欲求と言うものが、純粋に、あるいは自然な形で高次の方向に発展していけば、それはいま述べているような社会貢献や他者へのケアを含む意味での「自己実現」ないし「自己超越/世界実現」に展開していき、それは結果としてここで論じている「福祉の“二極化”」の状況を是正する方向に働きうると考えることは、あながち不可能ではないだろう。」

●幸福政策についてリベラリズムとコミュニタリアニズムの差異。
(1)リベラリズム→「幸福」について積極的に語ることには慎重で、むしろ「不幸を減らす」ことに重点を置く。
(2)コミュニタリアニズム→「幸福」について積極的に語ることを前向きにとらえ、またコミュニティや内的倫理を重視する。
 リベラリズムが「幸福」(や善、徳などの価値)について積極的に語ることに慎重なのは、それらが個人の内面に関わり、その「自由」に委ねられるべきものと考えるから。

●「不幸を減らす」政策。東京都荒川区はGAH(グロス・アラカワ・ハピネス)の関連で最初に取り組んだのは「子どもの貧困」に関する課題だった。また石川県加賀市では、幸福度に関する政策を進めるにあたり、幸せを「不幸をなくす」ことととらえ、やはり子どもの貧困問題を重点化するとともにスクールソーシャルワーカーの配置と関連施策を始めた。

●幸福政策が単に“総幸福量”つまり人々の幸福の「総和」を増加させるというだけのものだとしたら、それはまさに(思想家ベンサムの)「最大多数の最大幸福」と同じになり、また「幸福量増加」という目標は「GNP(GDP)増加」という目標とあまり変わらなくなるだろう。つまり幸福の総量にとどまらず、その「分配」のあり方――いわば“幸福格差”の是正――が重要なのであり、「不幸を減らす」という方向はこうした意味でも重要なのである。

――先日の国連幸福度報告書でもこの点の言及があった。よく考えるとこの本は3月20日、「国際幸福デー」に発刊されていたのだ。

●「コミュニティ」の重要性。「公―共―私」「政府―コミュニティ―市場」。

――このあたりの広井氏の概念のマトリクス化の力は独特だと感じさせられる。

●コミュニティ的なつながりとは人と人との“水平的”な関係性であり、他方、格差・貧困といった問題は“垂直的”な軸といえる。経済的な格差が一定程度以上になると、その個人あるいは集団の間でコミュニティ的なつながりを維持することはほとんど不可能になるだろう。

●「コミュニティ」と「ソサエティ(社会)」の二者をいかにして両立させるか(根源的なテーマ)。同質的な集団として「コミュニティ」は放っておけば他を排除するあるいは内側に向かって閉じるような存在になりがちであり、それを「ソサエティ」という場において他者に向かって開いていく必要がある。

●「拡大期」の幸福概念と「定常期」の幸福概念。前者は「近代的」な幸福概念とも呼べるもので、幸福を考えるにあたって「個人」ないしその自由を重視し、基本的に功利主義的である。そしてこれを「拡大期」の幸福概念とするのは、それが実のところ近代における経済の「拡大・成長」という社会構造と不可分のものであり、個人の経済活動や消費等々の拡大ないし量的増加に基本的な価値を置くものだからである。
 「定常期」の幸福概念は、古代ギリシャ、仏教、老荘思想などに広く見られるもの。そこでは、前述の拡大期あるいは近代的な幸福概念とはやや異なって、個人の内的な充足あるいは「知足」、充足、平安といったものを重視し、量的拡大よりもしばしばその自制や安定に価値を置く。(ブータンの「GNH」の幸福概念もこれに通じる)

●社会における人と人との関係性にかかわる原理。
(1)「共」的原理〜コミュニティ   …互酬性
(2)「公」的原理〜政府       …再分配
(3)「私」的原理〜市場       …交換

●工業化の時代以降、「共」的な原理、「公」的な原理、「私」的な原理のいずれもがナショナル・レベル(=国家)に集約されていった。そして1970年代ないし80年代から時代は「金融化=情報化」の時代へと入っていく(産業化社会・後期)。

●これからの時代の基本的な方向として
(1)各レベルにおける「公―共―私」の分立とバランス
(2)ローカル・レベルからの出発
という二点が重要となると考えられるだろう。

●「“大きな共同体”としての国家」像は、自ずとパターナリスティック(父権主義的)な性格のものになりやすい。つまり、ちょうど親が子どもの面倒を見るように、国家が個人の世話をする(しなければならない)という国家観である。
 ここで問題なのは、こうした国家イメージの場合、「税」というものの位置づけがきわめて困難なものになるという点だ。つまり、もし国家が親のような存在だとすれば、子どもが親に対して(世話をしてくれた)謝礼を払うことがないように、個人が国家に対し税を払うという発想は成り立ちがたくなる。市民革命後のイギリスのような「自発的納税倫理」というものが発達しない。…福祉サービスは(子が親に世話を求めるのと同様に)“クニ”に対して要求するという性格のものとなり、その財源はもともとは人々が支払った税であるという認識は背後に退き、あたかも“クニ”自身がお金を持っているかのように観念される。
(借金財政の原因は経済成長頼みの財政という性格も一因としてあるが、このような「国家」像の問題も根本的な要因として存在していると考えられる)

●テツオ・ナジタの『相互扶助の経済』の論。近世までの日本には、「講」(頼母子講、無尽講、「もやい」などと呼ばれる「相互扶助の経済」の伝統が脈々と存在していた。しかもしれは二宮尊徳の報徳運動に象徴されるように、村あるいは個別の共同体の境界を越えて講を結びつけるような広がりをもっていた。明治以降の国家主導の近代化の中でそうした伝統は失われあるいは変質していったが、しかしその“DNA”は日本社会の中に脈々と存在しており、震災などでの自発的な市民活動などにそれは示されている。

●ナジタ続き。そのような相互扶助の経済を支えた江戸期の思想においては、「自然はあらゆる知の第一原理であらねばならない」という認識が確固として存在していた。

●ナジタの議論への著者の疑問。ナジタの日本社会への評価は、日本における「相互扶助」が概して集団の内部に完結しがちであることを十分に見ていないのではないか。

――おもしろい視点。日本人は内向き志向(=内集団志向)が強く集団の枠を超えて関係を作るのが苦手というのは社会心理学の山岸俊男氏の指摘もある。やはり遺伝子的な不安感が強く対人関係を作ることが全般に苦手なので(一部の人をのぞく)、対人関係を作ってもせいぜい身の回りの集団内にとどまってしまうのだろうか。あるいは集団から排除されることを極端に恐れるからだろうか。

●現代の日本人は、江戸時代の日本人がある程度生活に密着した形でもっていた伝統的な世界観や価値原理――最もシンプルには“神仏儒”で表されるもの――をほぼ失っている。そのことが現在の日本社会において、いわば集団の“空気”しか拠り所がなく、それぞれの集団や個人が内部で自閉するという状況を生む根本的な下人の一つになっているのではないか。言い換えれば、こうした「集団を超える価値原理」を再評価し取り戻していくことが、個別のコミュニティないし集団を開き、つないでいく通路になるのではないか。

●「個人」をしっかりと立てながら、同時に生命や自然を普遍的な原理にまで高めることができれば、それは現代における新たな福祉思想となりうるのではないか。→「地球倫理」

●心のビッグバン、枢軸時代。いずれも狩猟採集時代、農耕時代が限界を迎えたときに生じた(『ポスト資本主義』を参照)現代は人間の歴史の中での“第三の定常期”への移行という大きな構造変化の時代であり、地球倫理はこうした文脈の中に位置づけられるものである。

●自然信仰は、枢軸時代に生まれた普遍宗教に先んじる、地球上の各地域におけるもっとも基層的な自然観ないし信仰に通じるものであり、むしろさまざまな宗教がそこから生成したその根源にあるものと考えられる。

――感覚的にはすごく同意するのだがわが国の最近のトレンドとして、自然信仰ないしは自然礼賛が、ゆきすぎた愛国主義(「日本スゴイ!」という)とつながってしまっているのが今ひとつ不気味。自然信仰の強調がかえって国家間地域間の対立を深めてしまうということはないのだろうか?

●現代のターニングポイント:従来のような市場経済の「拡大・成長」が望めなくなる中で、格差の拡大と並行して資本主義がある種の生産過剰に陥り、かつ地球資源や環境の有限性が顕在化する中で、いわば資本主義の最も根幹に遡った「社会化」、そして「成熟・定常化」への新たな社会システムの構想が求められているという状況である。

●そこで重要な対応とは、(1)「人生前半の社会保障」。教育を含めて子どもや若者に対する支援を強化し、個人が生まれた時点あるいは人生の初めにおいて“共通のスタートライン”に立てる仕組みを徹底して実現していくこと(2)「ストック(資産)」に関する社会保障、つまり住宅や土地所有に関する公的支援や規制を強化し、近年進みつつある資産格差(金融資産、土地・住宅資産)の拡大を是正すること。

●“福祉をローカル・コミュニティに返していく”。セーフティネットの歴史的発展を反転させる。近代以降の経済社会の展開がいわば“地域からの離陸”の時代だったとすれば、今後の成熟・定常型社会はそのベクトルが反転し、“地域への着陸”の時代となる。その中で社会的セーフティネットの主体も段階的にローカル・レベルに移っていく。自然エネルギーや地場産業、商店街、ケア関連、農業関連などを含め、今後はコミュニティ的な(相互扶助的な)性格をもち、ローカルなレベルでヒト・モノ・カネがうまく循環するような経済から出発し、そのことを通じて雇用を含む社会的包摂を実現していくことが大きな課題となる。

●「持続可能な福祉社会/緑の福祉国家」。個人の生活保障や分配の公正が実現されつつ、それが資源・環境制約とも両立しながら長期にわたって存続できるような社会。

●各国のジニ係数と環境パフォーマンス指数をそれぞれ縦軸横軸にとったときに現れる相関。(『ポスト資本主義』参照)。日本は残念ながら「格差大、環境パフォーマンス低」の左上の群の中にある。同じ群にはアメリカ、韓国、ギリシャなど。

●いま日本そして世界に求められているのは、福祉思想あるいは「地球倫理」の掘り下げと並行しての、こうした「持続可能な福祉社会=定常型社会」の構想と実現ではないか。

――おおむね2015年の『ポスト資本主義』の議論だった。『ポスト資本主義』でだいぶ新しく踏み込んだ議論をされたのだな。テツオ・ナジタの相互扶助に関する議論のあたりが新しかった。



第2章「福祉哲学の新しい公共的ビジョン」(小林)

――ここではリバタリアニズムとコミュニタリアニズム、わかっている積りになっている2つの流派の解説があります。そのあとポジティブ心理学の議論があります。広井氏が簡単に触れた点を詳しくしたような内容です。教科書的ですがおさえておきましょう。

●近代以降の政治哲学において初めから最も大きな役割を果たしたのは、人間の快楽や苦痛、利益などにより幸福や利益を量としてとらえそれを最大にしようという考え方である。これは、人々の主観的な福利(幸福や利益)に基づいて考えるという点で「福利型思想」であり、その量的増大を正しいと考えるという意味で「福利型正義論」ということができる。この発想においては倫理や道徳よりも快楽や利益の追求が優先される。

●今日の正統的な自由主義的経済学は、市場だけでは防衛や、法・秩序、正常な空気などの環境保全を達成することができないことを認めている。だからこのような「市場の失敗」に対処するために、国家が公的政策を行うことは認めている。しかし貧困や窮乏を緩和するために福祉政策を行うことは、論理的には容易に正当化できないのである。
(パレート原理:いかなる人にも不利益をもたらすことなく、一人以上の人々の利益が増大する場合にのみ、その行為や政策は「より良い」といえる。逆に言えば誰かに悪影響をもたらすときには、そのような政策を倫理的(規範的)に「より良い」とはいえない。累進課税などによる再分配の政策は、高額の税をとられる富者が一般的には不利益を被ることになるから、正しいとはいえないことになる。

●福祉の思想の発展に大きな歴史的役割を果たしたのは、社会主義や共産主義ではなく、19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス理想主義(グリーン、ボザンケら)である。経済テクや功利主義が方法として個人から考えるのに対し、カントやヘーゲルの影響を受けた子の哲学は、国家によって強制されないという個人主義的な自由(消極的自由)の考え方を批判して、人格の陶冶により社会的な共通善に貢献するための積極的な能力として自由や権利を考えた(積極的自由)。

●ロールズの正義論(平等主義的リベラリズム)。
第一原理:人間が基本的な自由に対する平等な権利を持っている。
第二原理:経済的・社会的不平等に関する原理。次のような二つの条件が満たされている場合にのみ不平等が許容される。(1)人々は公正な機会の均等という条件の下で、すべての人に職務や地位が開かれていること。(2)最も不遇な立場にある人の便益を最大化すること

●ロールズの格差原理。もし格差がなく完全に平等なら、最も貧しい人にとって良いと考えられるかもしれないが、それでは人々に勤労の意欲がなくなってしまいかねない。働いても働かなくとも報酬や所得が同じになってしまうからである。そうすると経済は停滞するから福祉を行うことができなくなり、結果的にはみんなが平等に貧しくなってしまって、最も貧しい人にとっても望ましくない。ある程度の格差は存在するほうが、最も貧しい人にとっても好いのである。格差の存在によって経済が発展し、さらに福祉によって格差が一定程度に小さくなることによって、最も貧しい人にとっても良い――そういう格差になるべきなのである。
→今日の政治哲学において福祉国家を主張する最有力な議論となる。「分配的正義論」

●ロールズに近い経済学者の考え方:アマルティア・セン。効用の概念の代わりにケイパビリティ(潜在能力、達成可能性)という観念を中核にして、主体的自由(市民的自由・政治的自由)とともにそれとの関係を考えつつ「福祉的自由(良き状態への自由)」を実現させようとするものである。

●リバタリアニズム(自由原理主義)。政治哲学でリバタリアニズムと言うときには、経済学的なネオ・リベラリズムとは異なって、権利の概念で自分たちの正義を主張する場合が多い。代表的論者ノージックらは、人間が自分の体を所有するということ(自己所有)から、自分の肉体を用いての労働の成果は自分のものになるということを権利(所有権・財産権)として主張する。こうして自分のものになった所得や財産は自分自身のものであり、自分がそれを自由に用いる資格(権原(entitlement))を持っているのであって、その権利を自由に行使することは正義に適う。逆に貧者のためとはいっても福祉を行うために国家が富者に課税を行うことは、強制的に権力を行使して正当な所得や持参を富者から取り上げることだから、不正義である。これはいわば搾取であり、その分について富者を貧者のために「奴隷」として労働させるようなものである。治安や市場のルールの維持などの最低限の役割に国家を限定して「最小限国家」(ノージック)にすることを主張する。

●リバタリアンも貧者を放置して死なせることには反対して、最低限の福祉は許容する論者が少なくない。

●コミュニタリアニズム。価値観・世界観を正面から議論することによって正義を考えようという思想。アリストテレスなどのギリシャ哲学に淵源を持ち、「善き生」についての考え方を重視する。「負荷のある自己(負荷ありき自己)」。価値観・世界観を負うことによって「善き生」を探求する物語のように人生をとらえる見方。

●「善き生」はまずさまざまなコミュニティの伝統の中で培われているから、コミュニティに目を向けることも重要になる。自由形正義論があくまでも個人を中心に考えるのに対し、人々がコミュニティにおいて共に生きて行動することを重視する。だからサンデルをはじめとする一群の思想家たち(サンデルの師である哲学者テイラーや倫理学者マッキンタイアなど)が「コミュニタリアニズム」と呼ばれるようになった。ただしコミュニタリアニズムは彼らの自称ではない。

●また「善き生」との関係で正義を考えるという点において、私的生活だけではなく公共的生活についての議論においても、道徳性・倫理性・精神性を重視する。美徳を会得することによって「善き生」を送ることが可能になるとされるから、これは「美徳型思想」である。それとの関係で正義を考えるのが「美徳型正義論」である。複利型思想が経済的な考え方、自由型思想が法的な発想という特色を持つのに対し、美徳型正義論は倫理的・政治的な傾向が強い。

●今日のコミュニタリアニズムは基本的に北米で始まったので、自由や権利は当然に重要であると考えている。ただ、それらばかりを強調することが弊害をもたらすことを指摘して、伝統・秩序・協調などのコミュナルな側面の重要性を指摘しているといえる。だからその両側面が存在するということを明確にするために「リベラル・コミュニタリアニズム」と呼ぶことがある。

●コミュニタリアニズムの福祉論。ロールズの設定した他者に関心のない抽象的な人間(負荷なき自己)と異なり、実際の人間はコミュニティの中に生きていて価値観・世界観を負っており、その「善き生」の一つの要素として、同胞に対する友愛の美徳を持っている。その同胞愛に基づき、共通善として一定程度の福祉は実現されるべきであると考えられる。しかしそれは自分の利益を合理的に追及する結果ではなく、同胞愛などの「善き生」の考え方に基づいて貧者や弱者を助けようという気持ちが基礎になっている。だから、ロールズ的なリベラリズムが主張するように、福祉は正義という名の権利によって正当化されるべきものではない。人々が公共的な美徳を持って政治に積極的に参加し、「善き生」の考え方に基づいて福祉を主張することによって、福祉の政策を共通善として民主主義的に実現することができる。

――考え方の道筋はわかったがわたしたちが現実にそれほど高尚な存在かというと、井手英策氏が指摘したように「弱いものいじめ」「袋だたきの政治」なのだから……。コミュニタリアニズムにたどりつくためにはわたしたちがグイッと姿勢を正し、つま先立ちしなければならない。アメリカでもまた、トランプ氏が当選したように「反ポリコレ」が高い支持を獲得しているわけで、いわば「反美徳」の流れともいえる。その状況についてコミュニタリアンはどう言っているのだろうか。

●ウォルツァーの複合的正義論。コミュニタリアニズム的福祉論の1つ。福祉の領域においては市場の領域とは異なる基準が適用されるべきであり、市場の領域における貧富の格差が医療などの水準に反映されるべきではなく、人々の共有理解に基づく必要性に応じて福祉が行われるべきである。

●具体的な福祉政策の議論を提起しているのはエツィオーニ。「中道主義的コミュニタリアニズム」を自称する。「善き社会」とは、人々が互いを道具として扱うのではなく目的として扱う社会であるとして、コミュニティを道徳的に活性化して国家と市場とコミュニティを均衡させることを主張した。福祉のセーフティネットを主張し、「機会の平等」とともに一定の「結果の平等」にも配慮すべきだとした。エツィオーニn中道主義的コミュニタリアニズムは、アメリカでクリントン政権や特にゴア副大統領、イギリスのブレア政権に思想的影響を与えた。

●ブレア政権の「第三の道」(=コミュニタリアニズムに近い)に影響を与えた思想。社会学者アンソニー・ギデンズは、社会民主主義の刷新を主張し、古い社会民主主義とサッチャー主義的なネオ・リベラリズム(リバタリアニズム)という二つの道を克服するのが「第三の道」であるとした。ポジティブ福祉という考え方。再分配という理想を維持すべきだが、従来の社会民主主義における単純な「結果」の再分配に代えて、個々人の潜在能力を可能な限り研磨して「可能性の再分配」の実現を重視する。

●急進的コミュニタリアニズム。代表者ビル・ジョーダンは、非常に早い時期(1989)にベーシック・インカム(無条件の基礎所得)を第一歩として主張した。ベーシック・インカムは、最低限の生活を送るのに必要な額の現金を政府が無条件で(所得調査や就労義務なしに)すべての人に定期的に給付するという政策。そしてサンデルのアリストテレス的正義論などを援用して、契約的方法だけではなく、美徳を涵養してコミュニティの人間観のコミュニケーションにおいて経済・社会に対する文化的・道徳的規制を行い、道徳的秩序を通って共通善の政治を目指す必要があると主張している。

●幸福研究としてのポジティブ心理学。従来の心理学においては、鬱をはじめとする精神疾患を治すことが主たる目的だった。それはネガティブな心理の研究であるのに対し、アメリカ心理学会長だったセリグマンが2000年に心理学の新しい課題として、健康・幸福・成功などにおける人間のポジティブな心理を科学的に研究する必要性を挙げ、ポジティブ心理学とそれを名づけた。ポジティブ心理学は、調査票などを用いた科学的研究を推進することによって急速に発展し、人間の幸福をもたらす心理を統計的に明らかにしつつある。

●「幸福」の意味。初期のポジティブ心理学では幸福感を主観的な感情によって調べることが多く、幸福感の調査で最もよく使われていた指標(主観的良好状態〔ウェルビーイング〕)では、生への満足と感情が聞かれていた(「快楽的心理学」)。
 これに対して、このような方法では人間の一時的・表面的な感情的幸福感しか調べられないという批判が現れ、自己実現や意味などのように持続的で深い内なる喜びや幸福を考えて調査する必要が主張されるようになった。古代ギリシャのアリストテレスの幸福概念を用いて、これを「エウダイモニア的良好状態(ウェルビーイング)」という。アリストテレスは、「美徳(資質)に即する魂の活動」によって「エウダイモニア」がもたらされると論じた。これは、各人の潜在的資質が開花して心の底からの深い喜びをもたらすことを意味しており、一時的な幸せ(ハッピー)の感情ではない。そこで最近は英語では「happiness(幸福)」よりも「flourish(開花・繁栄)」などとこれを訳すことが増えている。ポジティブ心理学ではアリストテレスが言ったような「善き生」が深い幸福をもたらす傾向があることを、統計調査により科学的に明らかにしつつある。
 
●ポジティブ福祉の可能性。ベヴァリッジ報告で指摘された「窮乏、病気、無知、不潔、怠惰」はネガティブな不幸であり、それに対する福祉という従来の考え方はネガティブな問題を克服しようということだから、ネガティブな福祉観といえよう。これに対してギデンズはそれぞれをポジティブなものに置き換えるポジティブ福祉を提唱した。言い換えればこれらは「不幸解消福祉」と「幸福増進福祉」ということだろう。

●エツィオーニの「善き社会」のビジョン。善き社会とは「我―汝」という人格的関係が育まれて、人間が手段ではなく目的として扱われる社会。市場が「我―それ」というような道具的な関係の領域であるのに対し、コミュニティは「我―汝」の目的に基づく関係である。拡大家族のようなグループへと結びつける感情の絆がそこには存在し、社会的な意味や価値からなる道徳文化が共有されている。
 福祉についていえば、最低限賃金などの政策で貧者の収入や所有物を増やすことによって、「善き社会」の中核の原理にとって本質的に重要な「豊かな基礎的最小限」(ベーシック・ミニマム)」の生活水準をすべての人に対して実現することがまず必要である。それに加えて、不平等が増えていかないように多くのものに累進課税を維持し、相続税を増やしたり、労働とともに資本にも課税をしなければならない。ただ、一国だけでこのような大きな課税を行って富の大きな再分配を行おうとすると、国外に資本が逃げてしまって難しいので、EUや世界規模の政策調整が必要であり、広汎な道徳対話を促進することが必要である。……このような優先順序の巨大な変化においては、知識人と人々の間で巨大な対話が必要なのである。

――おおむね賛同するがここなのだなー、「知識人と人々との間の巨大な対話」。その回路が絶たれていることを象徴するのがトランプ政権の誕生だったとおもう。知識人の側の努力不足か、ネットのデマゴーグ機能の強大さがそれを上回ったか。
 とまれ、欧米と比べても知識人の層がはるかに薄いとみられるわが国(残念ながら遺伝子的な裏付けがある)では、知識人は知識人の間だけに通じる言語で話していてはならない。

●福祉国家の再編、新しい国家像「可能にする国家(enabling state)」。従来の福祉国家は市場から労働者を守るために、マーシャルが指摘したような社会権の考え方によって公的に便益を与えるという普遍主義的な方法を用いていた。これに対してこの新しい「可能にする国家」は、労働者が市場で働き個人的責任を果たすことができるように民間が私的に社会的保護を行うという選択的な方法を中心にしている。

●もしリベラリズムの主張のように国家は価値に中立的でなければならないと厳密に考えるならば、このような就労支援政策を国家が行うことはできない。国家による就労支援政策を認めることは、市場で労働するという「善き生」を国家が促進することを認めることだから、権利ではなく「善き生」を実現するための公共政策を正義と考えていることになる。そこで社会的投資国家や「可能にする国家」は、本質的にコミュニタリアニズムの発想をすでに採用していることになる。

●「善き生」は労働市場における要請に応える生き方・働き方なのか。労働市場が過酷なものだったらどうか。今の労働市場の要請から「善き生」を解放して、思想的・科学的な「善き生」そのものから考え直す必要がある。たとえば幸福研究やポジティブ心理学は幸福をもたらす「善き生」を科学的に明らかにしつつある。失業者も含め人々がこのような「善き生」そのものを生きることが可能になるように国家が公共政策を行うことが、コミュニタリアニズム的な考え方からすれば正義である。

●人々が生産的にポジティブに生きて働くことを可能にする福祉は「ポジティブ福祉」といえるし、それを行う国家を「ポジティブ福祉国家」といっていいだろう。ブラック企業のような労働市場の問題がある場合には、労働者が「善い生き方」をできるように国家が労働市場を変革させることも「ポジティブ福祉国家」における正義である。

●アリストテレスやポジティブ心理学に基づいて「善き生」が幸福をもたらすと仮定すれば、ポジティブ福祉国家は、人々が「善き生」を送ることによって幸福になることを促進する。「可能にする国家」は「幸福を可能にする国家」となり、単純明快にこれを「幸福(促進)国家」と呼ぶこともできるだろう。ポジティブ福祉の実現が幸福国家における国家目的の中枢であり、国家の第一の存在理由であるといえよう。

――やっとここまできた。ポジティブと幸福について語ることばはえもいわれぬ幸福な気分をもたらしてくれる。ここにたどり着くまでに著者はなんと多くの学説と現象を押さえてきたことだろう。

●ポジティブ福祉国家では不幸の減少と幸福の増進の双方を目指している。またネガティブな自由とポジティブな自由の双方を尊重する。言い換えれば、自由主義における「自由」とコミュニタリアニズムにおける「共通性・共同性」の双方が重視されている。この2つを正義についての第一基本原理と第二基本原理と考え、それぞれを(1)自由(リベラル)原理、(2)共同(コミュナル)原理 と呼ぶことができよう。この2つの原理は、(1)すべてを個人に還元して考える(原子論)か(2)個人の合計や総和以上のものを考える(全体論)か、という相違に相当している。
 幸福国家は、リベラル/コミュナルな要素(とそれに伴うネガティブ/ポジティブな自由)を統合的に発展させるという点で、「統合的自由」を追求する。同時に、不幸の減少と幸福の増大という「ネガティブ(解決)/ポジティブ」な福祉を目指すという点で、「統合的福祉」を目指すといえよう。このような統合的観点からの福祉論を「統合的福祉論」とよぼう。

●最小限福祉は、リバタリアニズムでもコミュニタリアニズムでも擁護されている。

●ケアの倫理。一般的にケアとは愛や思いやり、気遣い、配慮などのことを指し、メイヤロフはケアについて他者の成長や自己実現を助けることと考えている。経験的研究によって発達心理学者ギリガンは、男性と異なる心理的発達経路が女性には存在することを発見し、発達した女性の心理的特質として文脈的・物語的・関係的な思考が存在して、責任・責務の感覚も敏感であることを明らかにした。さらに教育学者ノディングズは、母子の関係を原点に考えて「ケアする人/ケアされる人」という「ケアリング」がさまざまな領域に存在することを指摘し、相互性・関係性をその特色として指摘した。

●正義とケア両者の統合のためにコミュニタリアニズムの思想は大きな役割を果たしうる。正義がケアと対立しているように思えるのはロールズ的な正義論を念頭に置いているからであり、コミュニタリアニズムは正義とケアとを統合的に理解することができるのである。

●(一部のケアリング論者はコミュニタリアニズムを男性的として忌避するが)ケアとは関係の美徳であり、ケア倫理とはコミュナルな美徳の1つである。コミュニタリアニズムにおいて正義とケア倫理とは「結婚」することが可能であり、そのようなコミュニタリアニズムを特に「ケアリング・コミュニタリアニズム」と呼ぶことができるだろう。この思想は、ケアに基づく正義を公共政策において実現することも主張するのである。

●今の時代においては「公共」を国民国家の中で考えることが多いが、公共哲学やコミュニタリアニズムにおいて公共性を時間的・空間的に拡大して考えることを著者は主張している。空間的には国民国家はさまざまなコミュニティの中の1つであり、公共体の1つである。国家を超えた子ユニティにおいても地域においても福祉の実現は課題となる。そして世界には主に発展途上国で飢えや不衛生による病気で死につつある多くの人々がまだいる。国家を超えたこのような地球規模の福祉を「地球的福祉」と呼ぶことができる。

●このように世界には家族や地域、国民国家、そしてさらに地球という多層的なコミュニティが存在し、それぞれが人々の幸福の実現のために必要不可欠な役割を果たしうる。地域・国家・地球においてはそれぞれ何らかの公共的組織(政府や国連などの公共体)が存在するが、それらの複層的な公共体の目的は実は福祉の実現、つまり人々の幸福という共通善の実現に置かれなければならない。多層的な「公共体」は基本的に福祉を目的として成立していると考えることができるから、多層的な「福祉公共体」ともいえるのである。…ポジティブ福祉哲学のこの公共的ビジョンが、多層的なコミュニティにおいて福祉が実現され、幸福な世界が実現するために寄与することを希望したい。

――最後になって著者のビジョンが立て続けに出てきました。今ひとつ現実感がない気もするしいささか急展開でびっくりするが……、
 ともあれコミュニタリアニズムとポジティブ心理学が「美徳」「善き生」を志向するという点で重なり合うことはよく理解できました。ほんとうは財政による格差是正の前提として人びとの道徳的向上がはかられなければならないと思うのでした。


――それでは第3章にまいります。わたしとして疎いテーマでしたがハーバーマスは出てくるし、無視できない領域になりつつあるかもしれません。


第3章 福祉と「宗教の公共的役割」(稲垣)

●福祉的な働きは、かつて洋の東西を問わず、その多くを宗教者が担っていた。戦後、福祉の働きは国家によってなされ、先進諸国の国家予算の多くを福祉関連予算が占めている。しかし他方で、対人援助サービスつまり人が人を支援しケアするミクロな場面で、依然として「人が人をどう見るか、どう支援するか、どう寄り添うか」というところで、人と人との心の問題は問われ続けている。場合によってはスピリチュアル・ケアと呼ばれ、そこに宗教性が関わらざるを得ない場面も出てきている。人間どうしが人格的に向き合う場面で、また生死にかかわる人間存在の根源として制度化される以前の宗教が問題になる。

●特に現代日本は、人と人のつながりが弱体化し社会的孤立の著しい時代に入っている。人と人の結びつき、絆のあり方には伝統、習俗、宗教などが関わってきた。人が人をケアする場面だけではなく、コミュニティ形成という日常生活においても、「福祉と宗教」は再び関係する可能性が出てきているのである。

●福祉、特に対人援助においては、家族が行っていた時には問題となっていなかったことが問題化している。労働への対価の「貨幣との交換」という経済レベルの問題だけではなく、「(家族)愛の交換」という倫理的価値のレベルの問題が生じているということである。この「家族愛を社会化する」という点を考慮すれば、今日の福祉という分野が経済学上の「労働力の商品化」以上に倫理的、哲学的問題を提起していることがわかるであろう。そこで、より人間学的・倫理学的な「自己―他者」関係を問題にしなくてはならない。
 そこでは、「新しい公共」という概念が重要性を増していると著者は考える。つまり「旧い公共」の互酬制は「与え受ける」双方向であったが、「新しい公共」では見返りを期待しないボランティア活動ないしは「与える」生活すなわち贈与の心、利他的心がいかに公共生活の一部になれるか、という新たな問題を抱えるのである。「互酬」から全き「贈与」への転換を含んだ社会のあり方だ。「愛の社会化」とは、こういう意味である。宗教的な愛すなわち仏教の慈悲、儒教の仁愛、キリスト教の隣人愛が新たな形で再考されなければならない理由がここにある。枢軸時代以来の伝統宗教、哲学が一人ひとりの課題として新たに再編される時代に入らざるを得ないのである。

――問題意識はわかった気がするが多様な宗教が公共圏で仲良く共存できるのか?という問いに著者はこう答える。

●スピリチュアルな意味の次元ないしは宗教が認識論の中に入ってくると、公共圏の議論では「自己―他者」関係が重要になる。ハーバーマスの議論にすでに出てきたように、他者の信じているものを寛容に承認しつつ民主的な対話を遂行するためには、「異質な他者」を自覚的に表現した「自己―他者」軸を導入して公共圏を定義する必要があるからだ。
 他者に全き「贈与」を承認しつつ対話的に共存をはかる訓練が必要になり、伝統的に同化主義の傾向の強い日本文化の中では新しい課題とならざるを得ない。

――おやおや、異なる宗教どうしの対話には「承認」が必要なようだ

●戦後福祉はイギリス型、北欧型の福祉政策論、アメリカ型のソーシャルワーク論等々、モデル「移入」のオンパレードであった。しかし日本の状況に適合しない。そこで本当に必要なのは日本文化、日本の伝統宗教との交渉である。そして福祉「国家」ではなく、もし福祉「社会」の建設であれば、宗教思想は十分にエートスになりうるであろうということだ。

―このあとは徳川時代の儒者・三浦梅園、大正〜昭和の浄土宗の僧侶渡辺海旭とその弟子の長谷川良信、そして神戸で救貧活動にあたったキリスト者賀川豊彦の事例をとりあげた。

●広井氏の地球倫理との関連。グローバルな時代、宗教が自らの真理の“普遍性”を掲げて“力”と結びつけば戦争になる。したがってキュンクが、世界平和にはまずは世界宗教の対話が必要であり、さらには政治や経済の視点が欠かせないとして、世界倫理(global ethics)を提唱したのが1990年だった。キュンクが世界倫理を提唱する背景は当時のポスト・モダン思想の流行の危うさである。キュンクの指摘によれば、「近代の超克」を語る思想は20世紀前半に生まれ、それはファシズムの台頭と悲劇的結末を招いてきた。戦後の日本でのポスト・モダン思想の流行は、“日本主義”という名の価値が宗教にとって代わる疑似宗教的な最高価値になっている。

――出てきましたね。

●著者は宗教が国民国家と結びつくことの危険性を指摘し、市民社会のモラルに寄与すべきことを主張してきた。キリスト教、イスラーム教、仏教、儒教などが「公」(=国家)と結びつけば、それは“力”の論理と結びつく。

●「和魂」というスピリチュアリティが「公」と結びつくとまさに“日本主義”となった。しかし、日本思想史上の弱点であるこの点が克服されれば、すなわち宗教が「公」(=旧い公共)ではなく「共」(=新しい公共)と結びついて市民自治という目的で協働作業するのであれば、今後の日本のポスト資本主義とスピリチュアリティとの関係は実り豊かなものになるであろう。いわば「新しい公共」は世界倫理として提起できる大きな可能性を秘めていると考える。ただ、そのためには市民一人ひとりに自己変革のための大いなる訓練と梅園、海旭、豊彦を引き継ぐ自治の能力が要求されるということであろう。

――最後の一文。結局ここがきもだ。私はペシミストなので今の平均的日本人が向上してここまで立派な存在になるのは無理なのでは、とすぐ思う。トンデモ心理学を有り難がって何の成長もないまま3年もたっているぐらいだから……、普通の人の心の弱さにコマーシャリズムがしのびよる。

――第4章は「生命」と日本の福祉思想 は主に、二宮尊徳の報徳思想の話。…は、ちょっと疲れたので割愛します。

 
 本書の構想にわが国が追いつくことはあるのだろうか。