現代アドラー心理学(上)画像
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 『現代アドラー心理学』(上)(下)(ガイ・J・マナスター、レーモンド・J・コルシーニ、春秋社、1995年)を読みました。

 ここでは、下巻の「教育」のところを主に読みました。アドラー思想の継承者として1に挙げられるのがドライカース、そしてそのさらに弟子の世代のコルシーニが個人心理学教育を確立し、個人教育学校を設立しました。

 「ほめない叱らない(No Reward No Punishment)」方針を徹底したその教育とは――。

 詳細ははぶきますが子どもたちは自分で自分の学びたい教科を選び、その選んだクラスに出席するもしないも自由である。テストは子どもが要求したときに行う。という徹底した自己責任を求められる。

 子どもが自分のクラスで騒いだら、先生は叱らない。叱るかわりに黙ってドアを指差す。すると子どもは教室から出ていかなければならない。もし指差されても出て行かなかったり、すぐに出て行かなかったりすればルール違反であり、ルール違反の回数がたまると退学になる。

 「叱らない」を標榜する学校の「叱る」に代替するものは、「排除」なのではないか?との疑問がわきます。

 それ以外には「共同体感覚」を増すようなグループワーク等の取り組みが行われ、共感できるところも多々あります。子どもたちはこうした学校に通うのが好きであるし、教師たちもこうした学校で教えることを楽しいと感じるといいます。

 ――うん、合わない子をどんどんドロップアウトさせれば、均質になって「楽しい」かもしれないですね。

 以前から、アドラー式子育てや教育には、「ドロップアウトを出すこと必至」の印象がありました。特定の資質をもった人や子どもさん――おおむね、知的レベルが高く言語能力の高い穏やかな気質の人――だけが対象になりやすい。そういう人たちだけを集めたら、たしかにエリート教育はできます。


 Wikiなどによるとこうした徹底したアドラー式の「個人教育学校」は1972年にハワイのワヒオワで設立されたのを皮切りに、最盛期の1980〜90年代には世界で12校ほどあったようです。その後閉校が相次ぎ、現在ではワヒオワ校をはじめ数校になっています。

 非常に高い教育の理想を掲げた、モンテッソーリやシュタイナーと同様のオルタナティブ教育のひとつなのではないかと思います。もし自分の子どもがそこに適合するような資質があり、かつ自分に資力があれば、子どもに与えてやれる可能なかぎり理想的な教育でしょう。


 この本の上巻では、アドラー派の学生たちが、「ほめ育て」の祖ともいうべき行動主義者のB・スキナーのベストセラーとなった著作を茶化して、「支配者と被支配者の論理」と揶揄してごっこ遊びをするようなくだりが出てきます(pp.50-51)

 この著作とは『ウォールデン・ツー』(邦訳『心理学的ユートピア』)というもので、小説家志望でもあったスキナーが行動主義を使った理想的なコミュニティを描いたもの。実際には単独の独裁者ではなく、数名のプラトン型哲人が集団指導式に社会をデザインしたらしいのだが、アドラー派の学生からみるとこれは独裁者による「支配―被支配」の世界に映ったようです。

 『嫌われる勇気』の続編、『幸せになる勇気』で、岸見一郎氏扮する「哲人」が「ほめ育ては独裁者の武器」という珍妙な論理を振り回していますが、これのルーツはここにあったのか、と納得がいきました。


 そして苦笑しました。アドラー派はアドラーの死後弟子たちもあらかたナチスに捕らわれて亡くなってしまい、一時期滅亡の危機に瀕しました。ブラジルに難を逃れたドライカースがアメリカに移住し必死で建て直しました。ドライカースは非常に戦闘的な人だったようですが、その建て直しの過程で、「アンチ・フロイト」「アンチ行動主義」がDNAとして深く刻み込まれたようなのです。

 いわば「ほめ育て」の悪口を言うのは、アドラー派の伝統に深く根差したもの。彼らのアイデンティティの一部なので、仕方のないことなのです。


 ちゃんとしたエビデンスがあれば、他流派のわるくちなど言わなくて済むんじゃないでしょうかねえ。

 「ほめない叱らない」と言いながら、アドラー派の教育にも「教師によるフィードバック」はちゃんとあるし、学生の長所を指摘するようなこともします。"No Punishment"と言うわりに、「問答無用で教室から出ろ」というのはけっこうキツい「罰」です。だから定義の仕方が変なのです。


 その他アドラー派の心理療法について、専門家のかたは学べるところがあるかもしれないが、わたしは個人的には「パス」です。現在「神経症」という病名そのものがどれだけ有効かも不明になっています。発達障害概念が生まれ、いまや人格障害も摂食障害も食べ物の好き嫌いも発達障害に関連して理解されるようになるなど、疾患名や病因の理解もドラスティックに変わってきています。アドラー派の人に言わせればそうした「病因」とか「基礎疾患」という発想も「原因論的だ」と一蹴されかねないので、話しても不毛であるように思います。(以前野田俊作氏に振ってみたが、発達障害と知的障害を混同していたようだった)

 わたし個人的にはアドラーの原著に人間的に共感するところは多々あるし、当時として革命的なことをした偉大な人だとは思いますが、今の時点であえて採用する意義はないように思います。

 
 ともあれ、アドラー派の人はフロイトの悪口を言いたいし行動主義およびほめ育ての悪口を言いたい。また、『嫌われる勇気』で「承認欲求を否定せよ」と言ったのと同様、アドラー派の人のブログやFacebookをみると「承認欲求」のことも貶す”風習”があるようで、これはわが国独自の「承認欲求バッシング」の尻馬に乗っているだけなようなのだが、とにかく何かの悪口を言っていないと気がすまない伝統のようです。


 というわけで、このブログでアドラー派のことを調べて書くのもそろそろ終わりにしたいと思います。いつかはこの時ならぬブームも自然消滅するでしょう。