正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ: 正田よもやま話

 「誕生学」という分野が最近あるらしい。このところFacebookで話題になっている。
 子供がその年齢でなくなってだいぶ経つので、すっかりこういう分野に疎かった。
 
 「誕生学アドバイザー」という民間資格をもった人が小学校等を訪れ、「いのちの大切さ」を教える。

 この資格を認定している「公益社団法人誕生学協会」によると、誕生学スクールプログラムとは、

『誕生』を通して、子供に「自分自身の産まれてくる力」を伝え、生まれる力を再認識することで自尊感情を育むことを目的とした次世代育成のためのライフスキル教育*プログラムです。

 
と説明されている。


 一見すばらしい、誰にも反対できないような授業。しかし、これに疑義を呈する声がこのところ強くなっている。
 代表的なのが精神科医・松本俊彦氏の論考。

●「誕生学」でいのちの大切さがわかる? - 精神科医 松本俊彦

 ここでは、
・誕生学プログラムは自尊感情を高める効果はないこと
・自殺予防にはまったく役に立たないこと。むしろ自殺予防の専門家からみると非常にまずい
・中高生の約1割に自傷経験があり、この子たちに必要なのは「いのちの大切さ」の教育ではなく、他人に助けを求めるスキルと、信頼できる大人を探すスキルであること。またわたしたちが「信頼できる大人」であること。

を、述べている。

 誕生学は幸せに育った上位9割の人にとっての真実であり、深刻な虐待やいじめに遭ってきた1割の子どもにとってはただのきれいごとでしかない。

 なるほど。
 このところこのブログで批判している某「心理学」とも絡め、おおいに頷いてしまった。


 一昨日1月26日には、産婦人科医宋美玄(ソンミヒョン)氏が松本氏の論考に賛同するこんな記事を掲載している。

●「誕生学」に疑問 生きづらさを抱える子を追い詰めるのはやめて! 

誕生学は、感動させたい大人自身が満足するためのものになってはないでしょうか? 教育は子どものためであってほしいですし、それも本来、最も助けが必要な子どものためであってほしい。その子たちを追い詰めるような教育をして、大人が満足するなど、あってはいけないことだと思います。
 


 これも、なるほど、だった。


 ネットで見ると「誕生学」への批判は2012年ごろから出始めている。
 (松本氏や宋氏よりもっと過激なものもある)

 宋氏は上記の記事の中で

私自身、誕生学関係者にはよく知っている方々もいますし、共通の人間関係も非常に多いです。そのため、今までは批判をすることが 憚はばか られていましたが、よく聞いてみると、その中でも実は疑問に思っているという人たちに会い、勇気を持っておかしいと言うことにしました。


と、「批判のしづらさ」を乗り越えて今、はっきりと批判をすることにしたと述べており、こういう分野にもやはり乗り越えなければならない「壁」があることがわかる。



 今回は私があまり詳しくない分野のことなのであまり突っ込んだことは言えず、ほかのかたの議論をご紹介するにとどめたいと思うが――、



 某「心理学」のブームと一緒で、「想像力不足」があるのではないか、と思ってしまった。

 少数派の1割がどれほど傷つくかにたいする想像力の不足。
 それは某「心理学」の、「トラウマは存在しない」もそう。トラウマを抱える人にとっては残酷な言葉だ。また周囲の人にこういう考え方をする人が1人いただけで有効な治療が遅れてしまうおそれがある。
 「原因論はダメで目的論」というのも、上記の松本氏の記事のなかで、自傷行為をしたり「死にたい」という子供には「何があったか(原因論)」を十分に聴く姿勢で寄り添うこと、と述べている。常識的にはそちらだろう、と思う。フロイトが言ったからどうとか、どうでもいい。傷つき失意のどん底にある人に「あなたは目的があってそうしているのだ」と告げるとはいかに残酷だろうか。それは単に某「心理学」の限界を示しているに過ぎない。重症の人は力不足で扱えないのだ、という。


 社会の分断、想像力不足。先の米大統領選も含め、さまざまなことがつながっている。
 やりきれなさでしかこういうことを記述できない。
 

追記: もう一つ言うと最近学校で「自己肯定感を持とう」という出張授業をするのが増えているようなのだが、これにもわたし個人は違和感を禁じ得なかった。やはりいじめや虐待を受けた子供に、「自助努力」で自己肯定感を持てというのは無理があるのではないだろうか?信頼できる周囲の人との関わりの中で初めて自己肯定感を持てるのであり、こうした教育はまずは子供たちの周囲の人すなわち先生や親御さんにすべきなのではないだろうか?

読者の皆様は、どう思われますか。

 『行動承認』をいよいよKindle本化することにし、それ向けに原稿を打ち直し始めました。
 
 手始めに手持ちの本を1冊、裁断機で切ってページをばらばらにし、クリップで止めました。ワードで入力しやすくするためです。

 入力しているとさまざまなことが去来します。

 この本は、やはり徹頭徹尾、「マネジャーのためのテキスト」として書かれました。
 言い換えると「行為者」のための本。

 たくさんのエピソードがありますが、その中で読者が主人公のマネジャーに没入し、その味わった人間的な痛みも追体験し、そして彼(女)が解決のために何かを行為することも自分の肉体がそれをしたように追体験してもらえるようになっています。いわばバーチャル体験をテキストの中でしてもらいます。

 それは、たとえば1人のマネジャーが研修を受けても、その研修をその場限りのものとせず、その後の一定期間、学びを実地に落とすことで自分が何を体験するかを、あらかじめ体験してもらうことでもあります。

 それだけにエピソードは生き生きしていなければなりません。現場に立ってその場の空気を体感できるようでなければなりません。わたしごときの筆力で実現しているかどうかわかりませんが――。

 その場限りの研修は世にあふれています。ほとんどの研修は、現場を良く知らない人事研修担当者がみて見栄えのいいように、華やかな理論や専門用語、表面的な演出であふれています。

 マネジャーたちは半ばおもしろがりながら半ば冷め、アンケートにはいい感想を書きますが自分が職場でやることとは別だ、と切り離して考えています。

 わたしが非営利の、マネジャーたちが自主的にポケットマネーで集まってくる勉強会を主宰してから、いざ企業内研修の世界にいくと、いわばインディーズからメジャーに行くと、どれほど驚いたことでしょう。その落差に。

 マネジャーたちの冷めた眼差しに。

 彼らは自社の人事・研修担当者が選定してくる研修にうんざりしきっているのでした。

 しかし、その「企業内研修の壁」を乗り越えなくては、ひとつの研修が職場の空気を変え人びとを幸せにすることはできません。

 『行動承認』はその「研修の壁」を乗り越えるために書かれたものでした。


 2014年、前著『認めるミドルが会社を変える』から4年、本を書くことの有効性に倦んでいたわたしがどうしてもあと1冊本を書こうと思ったとき、迷ったすえに結局ベストセラーは志向しませんでした。ただ1つ、「現場のマネジャーの心を動かし、身体を動かす本を書く」それだけを考えました。


 あの頃の自分はそういうことを考えていたな。
 入力で手を動かしながらそんなことを思います。

 最近ちょっと話した神戸在住の元編集者の人は、『行動承認』を評して「凡庸な本。身体を動かすまでの力はない」と言っておられましたが、逆にその人自身が「自分は後進を育てることはできなかった」と言っていましたから、編集者は得てしてそういう人種なのだろうと思います。編集者が求めるような言葉のきらびやかさはない本だろうと思います。でもわたしの勘では、変な言葉の綺麗さというのは、現場の人が身体を動かすためには必要ないのです。
 ……と、編集者さん業界のわるぐちを書いてしまいましたが、商業出版を諦めている状態なので許してください。わたしは読者はそんなにバカだと思っていません。編集者さんが思うよりはるかに、社会人というものは聡明です。その方向に導こうと思えば聡明になるし、バカ扱いすればバカになります。
 それは、わたしの中に抜きがたくある「教育屋気質」が、引き上げたいという衝動がそうさせるのかもしれません。
 でも実際に教育の力で引き上げれば素晴らしい状態が実現するのですし。みんなをワイドショー視聴者のレベルに引き下げていいことなど何もありません。


 結局『行動承認』は初版3000部で終わった本でした。この世に3000部しかありません。(だから、今この本をお持ちの方、希少本なんですヨ。意外とAmazonでもあまり中古本の値が下がってないです。皆さん手放されないみたいですね^^)

 弱小だった出版社は、出版前に約束していた販促策を、前後の会社の体制の変化(縮小)もあり、履行していないことがわかりました。信頼を失い、「絶版契約書」を作り絶版にしてもらい、版権を手元に取り戻しました。


 今は、Kindleで出して必要な人の手には届くようにしようと思います。
 Kindleはまだ裾野が狭く、たとえばローテクの人が多い介護職の人などには届きにくくなりますが、仕方ありません。電子出版の市場全体は膨らんでおり、将来的にはKindleで本を読む習慣も根付いていくことを信じたいです。

 『行動承認』を書店の店頭で手に取られた方がお客様になってくださった、という現象も去年はありました。「承認」関係の本を5,6冊購入された中で『行動承認』がいちばん役立った、と共通で言っていただきました。

 
 今日はあまり心と体に力がないのでぼやき日記です。



 そして…、

 わたしが主婦だからお母さんだから、主婦・お母さん向けの本を書けばこの社会は幸せになるのか?
 違うと思うのです。
 マネジメントの世界を幸せにすることが、一番社会全体を幸せにできる道なのです。
 なんども、それは考えました。
 職場を幸せにすることが社会の隅々までトリクルダウンを生み届けるのだと。そして職場を幸せにするとは、マネジャーの能力を上げてやることなのだと。

 前回の記事で、『あの日』に関して批判的解読をするのは、できればおさぼりしたかった、という意味のことを書きました。教育分野の「ダメなベストセラー」の批判の作業だけで手いっぱいだった。『あの日』に関しては批判的なレビューを書いている方も多数おられるので、その方々の良識に任せたい。

 ・・・と思っていたのに、なぜ結局ブログで15回もの連載をやり、Kindle本まで書くことになったか?


 それは、たぶん、「この問題で科学者・科学ジャーナリストの言葉に残念ながら説得力がない」と感じたからです。

 ウソだ、とは言わないです。彼ら・彼女らは正しいんだけど、一般の人の心に届く言葉が言えていない。


 ひとつの例として、今月19日に出たばかりの『研究不正―科学者の捏造、改竄、盗用』(黒木登志夫、中公新書)という本を読んでいます。

 著者は1936年生まれ、元東大医科学研究所教授。
 STAP細胞事件がこの本の出版の動機だ、と著者自身述べているように、全部で42の研究不正の例を集めていますが、中でもSTAP事件は事例21として大きな紙幅を割いています。これ自体は、大変な労作です。わたしのKindle本なんか比較にならない。資料的価値のある本といえるでしょう。

 その中のSTAP事件に関する記述をみてみましょう:


STAP細胞は、ねつ造、改ざん、盗用の重大研究不正をすべて目いっぱい詰め込んだ細胞であった。はなばなしい発表からわずか11か月で、そのような細胞が存在しなかったことが明らかになり、わが国の名誉を傷つけた末に、消えていった。(p.ii)


 HOは、STAP細胞発表から2年後の2016年1月、『あの日』という本を出版した。自らを正当化し、若山照彦にすべてを押しつけようとする作為的な内容である。彼女は、ES細胞の混入を「仕掛けられた罠」として否定している。(p.124)



 いかがでしょうか。
 これが、科学界の標準的な小保方さんに対する見方です。きついでしょう?

 それは、一般には知られていないそう信じるべき根拠があるから、そうなのです。つまり、わたしの本にも書きましたが、理研の再現実験報告書であったり調査報告書であったり、昨年9月ネイチャーに載った「世界で133回追試して再現されなかった」という報告であったり。

 ところが、それら通常なら「決まり。ここで議論打ち切り」になるような資料があまり存在も知られず参照されず、中には「陰謀だ」とまで言われる困った状況が、STAP騒動にはあります。

 とりわけ今年になってからの状況では、真偽不明の小保方さん側が出す情報だけがネットでセンセーショナルに取り上げられ、リツイートされ、マジョリティになってしまう。


 科学者の言葉が通じにくくなった。少なくともこの問題に関しては。
 

 もうひとつ例を挙げると、こちら

「STAP騒動『あの日』担当編集者に物申す」(2016年2月27日)

>>http://bylines.news.yahoo.co.jp/takumamasako/20160227-00053974/


 STAP騒動について初期から発言してこられた、科学ライター詫間雅子氏の記事。

 これも、正しいことを言っている記事です。なのだけれども、実は『あの日』という本でやっている多数の欺瞞を指摘していると、とくに記事1本ぶんの短い文章では、「怒り炸裂」のトーンになってしまうことを免れない。

 そして「怒り炸裂」トーンになると、読者がついてきてくれなくなってしまう。
 本当に初期から小保方晴子さんの一連の言動の異常さがわかっていて、今も記憶に残っている読者なら、この記事に共感できるでしょう。
 でもそうではない、2年前の研究不正報道、出るもの出るものウソだらけだったという衝撃がすでに記憶のかなたになり、今は小保方さん側の出す情報の妙な「感情的説得力」に感化され、ひょっとしたらこちらが正しいのかな?と思い始めている普通の社会人は、共感できるかどうか疑問です。
 せっかく、正しいことを言っていても。


 どんなに正しくても、この件は、「伝え方をえらぶ」と思いました。相当、考えた伝え方をしないといけない。


 そこでわたしが選択したのは、

「読者のあなた」

をつねに主語に置く、ということでした。

 あなたのことなんですよ。あなたの身近にもこういう人いるでしょう。今仕事を頑張っているあなたなら、同情しなくていいんですよ。

 これは例の、「内側前頭前皮質」というやつです。ご興味のある方はこのブログの検索窓にこの言葉を入れてみてください。


 いや、成功しているかどうかわかりませんよ。Amazonレビューでは、「科学者にきかなくては意味がない!」と書かれましたね。・・・最近うんざりして、みていません・・・

 しかし、科学者・サイエンスライターの方が書いたとしても、説得力をもてるかどうかは疑問なのです。この件に関しては。
 書く人と書き方をかなりえらぶ、というしかないですね。



 
 上述の『研究不正』という本からの引用の続きです。



 (STAP事件の)何よりも深刻な影響は、人々が科学と科学者を信頼しなくなり、わが国の科学が世界からの信用を失ったことである。自らの研究に誇りをもち、一生懸命研究を行っていた研究者にとって、これほどひどい仕打ちはない。(p.125)


研究不正の基本にあるのは、周囲からの様々な圧力、ストレスに加えて、競争心、野心、功名心、出世欲、傲慢さ、こだわり、思い上がり、ずさんさなど、われわれ自身が内包しているような性(さが)である。そのような背景は、社会的な不正と共通している。(pp.287-288)


 わが国は、いつの間にか、研究不正大国になってしまった。…そして、わが国の研究不正は、2014年にピークを迎えた。
 しかし、2014年の不幸な事件は無駄ではなかった。…STAP細胞事件の影は、今でも、われわれ研究者の心に、重くのしかかっている。しかし、われわれは、2014年の不幸な事件を共有し、不正のもつ重大な意味を再認識し、立ち上がろうとしている。その意味で、STAP細胞事件の主役HOは反面教師として偉大な存在であった。(p.289)




「余話」を結局シリーズ化しました

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの(本記事)

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

 ブログ更新がまた時間が空いてしまいました。

 長い読者の方はご存知と思いますが、昨年末ぐらいからこのブログで「ベストセラー本の批判的解読」という作業を立て続けにしました。

 時系列に並べると
『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(昨12月、4回連載)
『「学力」の経済学』(1月、7回連載)
『ほめると子どもはダメになる』(1月、1回)

 それと本ではないですが、『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏の講演会で異議申し立てをした(1月16日)というのも記憶に新しいです。

 本当は『嫌われる勇気』もまた、上記の本と同様に「逐文的」に批判読みをしないといけないのですが、おさぼりしています。それはあまりにもわたしからみて「パッと読んでダメ」な部類の本だったからです。それがこんなに影響力をもってしまうとは。

 そんなことをやっている分「良書」を読むことがこのところ後回しになりがちで、こころの栄養が足りないと思っていました。

 
 そんな風に、教育分野のものだけでもダメなベストセラーが量産されていて、それらを批判する作業だけで忙しすぎたので、『あの日』については、サボろうと思っていました。わたしがやることではない、と思っていました。


 なんでこう、ダメなベストセラーばかり出るのだろう。

 答えはわかっています。出版不況だからです。人々が本を読まないからです。


 「紙の出版物、15年の販売額5.3%減 減少率は過去最大 」(2016年1月25日日経)
 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ25II6_V20C16A1TI1000/?n_cid=SPTMG002


 「出版業界の調査・研究を手がける出版科学研究所(東京・新宿)は25日、2015年の紙の出版物の推定販売額を発表した。14年比5.3%減の1兆5220億円と、減少率は1950年に調査を始めてから過去最大となった。特に稼ぎ頭の雑誌の落ち込みが深刻で、出版市場は底入れの兆しが見えていない。

 前年割れとなるのは11年連続。減少率は14年の4.5%を上回り、過去最大だった。書籍は240万部超の大ヒットになった又吉直樹氏の「火花」(文芸春秋)など文芸書が好調で14年比1.7%減の7419億円にとどまったが、雑誌は同8.4%減の7801億円と大きく落ち込んだ。「15年は雑誌市場の衰退が一気に進んだ」(出版科学研究所)」


 出版社別にみると、例えば『あの日』の出版元で業界2位の講談社は、2012年売上高が前年度比マイナス3.3%となっています。(数字がちょっと古いですが、大きな趨勢としてはこうなのでしょうネ)


 そして前にも書いたかと思いますが、こういう本離れの時代にどうやって買わせようとするかというと、「逆張り」がよくやるテクニックです。なかでも教育分野では、「ほめる否定」を使うのがこのところ顕著です。

 子供をもつ親御さんというのはどの時代も不安なのだと思いますが、その心理につけこんで「逆張り」をやり、「ほめてはいけない」という、もっとも不安を煽ることをやる。「えっ、自分のやっていたことは間違いだったのだろうか」と思わせる。上記の『「学力」の経済学』『ほめると子どもはダメになる』『嫌われる勇気』いずれもそうです。

 ちょっと丁寧に読めばそれは意図的な論理のスリカエを行っていたり
(例えば『ほめるとー』では、「ほめる教育」と「叱らない教育」をわざと混同している)、
でたらめなデータの並べ方をやっていたり
(『学力の――』では、データをいくつか並べるがそれと結論がどうみてもつながっていなかった)
するのです。そんなやり方で親御さんの不安を煽ってどうするんだ。

 そして、行動理論−行動分析学のほうの、「ほめて伸ばす」で明らかにパフォーマンスが上がるほうのデータは、意図的に見せません。ずるいですねえ。


 ※ここからちょっと寄り道で、

 まあ「ほめる」にはゆきすぎ現象も確かにあるので、わたしは極力「ほめる」という語を使わないできたのですが。ゆきすぎれば問題があるということと、最初から全否定することは当然違います。


 また、否定ばかりして育てた結果、強い個体は生き延びるし雑草のように根性がすわって育つかもしれませんが、それはやはり「歩留まりのわるい」やり方といわなければなりません。ごく一部の強い個体を除いて死滅してしまい、収穫高はわるくなります。本性に逆らう育て方をしたら。人は、ごく一部を除いては肯定されて育つほうが育ちやすいんです。そして、「否定して育てる」を推奨した場合にパワハラや虐待を防止できるのか?クエスチョンです。普通は、「否定する」を推奨した場合はエスカレートしやすいんです。

 最近ドラマなどで「日陰において育てると強くなる」とか、ちょっと「鍛える」的な言い回しをききますが、それは一人歩きすると指導者側の傲慢にすぐつながると思いますね。相手がそこまでして育ちたいと思っているかどうかですね。子供さんだったらグレさせてしまってからでは遅いですね。

 そう、「否定して育てる」は、反発心のいたずらに強い、ひねくれた嫌な人格を作ってしまうリスクもあります。育てられた当人も他人を否定ばかりするようになります。
 逆に肯定して育てるといろんな意味で素直な性格に育つので、教えたこともよく受け取って学習します。効率がいいのです。

 わたしが「承認」と言っているときはおおむねGOとSTOPを適切な比で与えよ、GOのほうを多く、STOPをたまに効果的に、それが一番いい結果につながるから、ということを言ってるんです。もちろん相手の個体差も丁寧にみます。否定メッセージを比較的好む個体というのもあるにはあります。それも程度問題で、否定ばかりで育てていい個体などありません。

 日本人の場合例の遺伝子的な特性で、肯定的な感情を初期設定ではあまり持っていないのです。で指導者になる人も、人を肯定するということを訓練なしにはできないのです。一方で育つ側というのは肯定されたほうが育つ、これは日本人の場合であっても真理なので、指導者側の訓練が要るんですね。やっぱりほめるタイプの先生のほうが成績は伸ばしますよ。

 

 はい、最近あまり「承認」のことをブログに書いていなかったので、久しぶりに基本のことを書かないといけませんね。

 閑話休題です。




 そうして「ほめてはいけない」のメッセージを与えられた今の時代の親御さんたちがどうなっていくのか、というのは空恐ろしいです。いや本なんかみんな読んでないから大丈夫だよ、という考えもあるでしょうが、例えば上記の『「学力」の―』の著者は安倍首相の教育再生会議の委員です。新自由主義を教育に持ち込み教育をその支配下に置きたい、という主義主張の方です。この本の影響ですでに大阪市教委は先生方の給与体系に成果主義を大幅導入することを決めました。『ほめると―』はちょっとわかりませんが、『嫌われる勇気』の津々浦々までの浸透ぶりはすごいですねえ。講演会にはごく普通の善男善女という感じの方々が来られていました。そこでは英語教室で「Good job」も言ってはいけないんだそうです。


 だから、本が売れない時代のベストセラーというのは、手段を選ばず人間性を破壊するようなとんでもないことを書きます。それをなめてかかっていると案外な影響力を及ぼし、とても変な世の中をつくっていきます。

 『あの日』もその中の1つです。
 『あの日』を読んでその変なロジックに巻き込まれ被害者表現もすべて真に受けてしまった人というのは―(略)


 こういう時代に対して変に責任感をもつわたしはどこかおかしいのでしょうか――。


 『あの日』に関わるのは本来は3月いっぱいまでのつもりでした。連載の第14回を「最終回」として書き上げ、年度も変わりさあ次へ進もう、というつもりでした。

 ところが、同じ3月31日の数時間後に例の「STAP HOPE PAGE」というのが公開され、それでまた一時期騒然となり、この問題が収まりそうにありません。


 そこで翌4月1日、仕方なく落としたエンジンをまた回転させたようなつもりで、「エイプリルフール企画・社会人のための小保方情報」解読講座」というのを追加で書きました。
 やっぱり、ネット上には小保方さんに一方的に有利な情報ばかりあふれている。それをうのみにしてしまうと、今度は普通に良心的にやっている科学者研究者の方々が非難されたり不信の目でみられてしまうことになる。ひいては、普通の仕事の現場の規律規範までガタガタになってしまう。そのあたりはちょっと、やむにやまれぬ気持でした。アホだ、と自分でも思いますが。


 そうして「毒食わば皿」で、Kindle本をつくってしまおう、ということになりました。

 というのも、ブログ読者の方々はご存知かどうかわかりませんが、既に「STAP細胞・小保方晴子さん」関連のKindle本というのはうじゃうじゃ出ているのです。
 内容は
「小保方さんは若山照彦にハメられた!」
「STAP細胞はある!」
という怪しげなもの。それも紙の本で20−40ページ程度の内容のものが500円とか700円という価格で出ています。


 それだったら既に新書本1冊分くらいの分量のあるもので、科学的にも「情報の読み方」的にも正しいところを伝える本を1冊Kindleから出したほうがいいじゃないか。

 そんな思いでKindle本『社会人のための「あの日」の読み方』を出すことになったのですが、まあそのあともゴタゴタ長引いています。まだこの件から手を引けそうにありません。


 本当は、今月からはもともとの教育分野に戻って『「学力」の経済学』批判や岸見アドラー心理学批判をしたかったな。
 それに前著の『行動承認』のKindle化もしたかったな。


 
 
 『行動承認』は、たぶん100年後に残る本です。
 地味で、ベストセラーになる種類の本ではありません。

 しかし私は書きながら読者を定めたのです。
 頭でっかちの学者さんやコンサルタントさんにわかってもらわなくてもいい。
 頭に思い描いていたのは、研修でお出会いする、高卒の工場リーダーやサービス業のリーダーたちでした。現場で育ち仕事脳を発達させてきた、彼・彼女らにわかってもらえればいい。「自分たちのことだ」と思ってもらえればいい。

 そう、例えば大手商社やメーカーのホワイトカラーの旧帝大出の人たちも眼中にありませんでした。人事・研修担当者も、極端にいえば対象外でした。

 現場のリーダー層の人たちにわかってもらえれば。


 そんな思いが通じてか、去年は、お陰で2か所で研修テキストとして採用していただきました。受講生様方の手元に「あの本」がありました。
 とりわけ、「研修前にもう本を読んで自己流で実践を始めています」というある受講生様の言葉には感激でした。


 読者対象として想定していなかった層の人にも響いたようでした。

 佐賀県のご同業の宮崎照行さんからも、「医大の救命救急センターで組織開発サブテキストとして採用しています」と嬉しいご連絡をいただきました。
(これは本来想定外の読者層でしたが、わたしのつもりでは易しい言葉だけれど医学的にも正しいことを書いているつもりなので、幸甚でした)

 またオープンセミナーに参加された、獣医さんにも好評でした。
 

 『行動承認』を自分が教えたい、と思う講師のかたは、このブログの「教授法へのこだわり―人に教えるということ」というカテゴリをぜひ読まれてください。

 あのカテゴリに書かれていることが、いわば『行動承認』研修のプロトコルのようなものです。講師がどんな心構えであれば伝わるか、というお話が書かれています。

 また「研修副作用関連」のカテゴリも読んでください。
 あれは、わたしなりに観察してまとめてきた、「研修の『やってはいけない』」集です。


 もし、『行動承認』を読んでいただいてそれから「教授法へのこだわり」カテゴリと、「研修副作用関連」カテゴリを読まれたときに「すっ」と反発心なしに頭に入るようでしたら、その方はきっと『行動承認』の講師の適性がある方だと思いますね。


 
 たぶん『行動承認』は再出版などされることなく、Kindle本で出しなおすことになると思います。「エウダイモニアブックス」というレーベルで。できれば、今の哲学や脳科学の動向を入れた『行動承認 第二章』のようなものも出せないかなと思っています。

 そういう、素直に読んでいただければものすごく実際の役に立つもの、というのはもう今の時代、出版社さんが出せなくて、Kindleで出すしかないのかもしれませんね。


 わたしがそこまで生きていられれば。
 
 

「余話」を結局シリーズ化しました

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html 
 
 

 

 今日はぼーっとしています。

 このところのシリーズ「社会人のための『小保方手記』解読講座」の執筆が少し煮詰まっているところです。

 先日、ある友人とメールで議論になりました。テーマは「小保方手記」。

 差支えない範囲でお出しします。

 友人はほとんどの情報を小保方本(『あの日』)から得、内容を真に受けてしまったようでした。

「小保方さんは、ハメられた」

と言いました。

 また友人は開発関係のお仕事の経験があるようで、

「研究者などみなモンスターだ!」
「ないものを『ある』というのが研究者だ!」

と言います。

 本当は、よく存じあげていますがふだんはこんなアグレッシブな物言いをする人ではないのです。小保方本の影響で感情的になっているとしか思えません。

 この本はこういう恐ろしい力がある、と先月来、わたしは思っていたのでした。Amazonレビューで、擁護論のレビューを書かれる方、コメントをする方、いずれもとても感情的で、反論を受け付けない!という感じなのです。その人の過去のトラウマが全部引っ張り出されてきているのだろうか、というぐらい。

 以前にも取り上げた小保方本の中の、過剰すぎるほどの感情表現に影響されてしまうのでしょうか…

 (詳しくはこちらを参照
社会人のための「小保方手記」解読講座(5)―プロファイリングVol.3 多彩な感情表現は人を被害者的にする!心理学セミナー、カウンセリングの副作用のお話


 以前から知っていた友人をこういう状態にしてしまうことに空恐ろしさを感じましたが、この人には結局、夜中に2時間ほどメールのやりとりをし、当ブログでの連載のリンク先を1つ1つ紹介したり、アメリカで最近発表されたSTAP細胞的な研究(「小保方さんはハメられた」という陰謀論の方々の論拠になっている)はSTAP細胞ではないこと、再現性も担保されてないこと、などを丁寧にご説明しました。

(詳しくはこちらの記事の末尾の追記参照
社会人のための『小保方手記』解読講座(10 )―再度「STAP細胞はありません」―「ウソ」と真実・ネット世界と現実世界のギャップ、社会人の分断リスク

 そのすえに友人は最終的には

「STAP細胞はある、と私は信じたいだけです」

というところに後退され、また若山照彦氏(山梨大学教授)への非難もやめてくれました。


 ほっとし、そして、やっぱりこのシリーズ「小保方手記解読講座」を書き続けてよかったのだろうな、と改めて思いました。

 うっかり感情移入した人には、論理一点張りでは通じないのです。その人の感情に丁寧に寄り添いながら説得してあげる必要があるのです。大きく振れるその感情に寄り添う作業は、感情労働の極致ともいえます。

 ブログのリンクを1つ1つメールに貼って送りながら、このシリーズでは一貫して小保方さんへのあからさまな批判や悪感情は表現せず、たかぶらず穏やかな優しい語り口で書いておいてよかった、と思いました(一部に例外はありますが。また私の本音は上記の(10)の記事に書いておりますが)


 最後のメールで、私はこの友人に、「あなたの幸せを真摯に願っている」と伝えました。
 友人がこのメールを手元に置いておいてくれることを願います。



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 実は「小保方手記解読講座」連載開始以来、詳細は伏せますがわたしの一身上にも色々と異変が起こり、そのことでFacebookのお友達にご心配をお掛けするような事態になってしまいました。


 そんななか尊敬する友人(福祉施設女性施設長)からメッセージをいただきました。
 ご了承をいただいて、掲載させていただきます。



私も小保方さんには違和感を感じていたので、興味深くホームページを読ませていただきました。
小保方さんのファンは新興宗教のような盛り上がりだと聞いたことがあります
心労が尽きないことと思いますが、見えない力に屈することなく、かわらずご活躍下さることをお祈りしています



 ありがとうございます…(>_<)…

 やはりこれも、意図したことは間違ってなかった、と。
 つまり、さほど関心のない管理職層の方にもおおむねどういうことが起こっているかを理解していただき、次いで部下やお子様などにもご自分の言葉で説明できるようになっていただく、ということ。

 そしてそのような意図を読みとってこのように返してくださる大人の友人の心遣いが、嬉しかったのでした。


 えっ、そんな手間ひまかける必要があるのかって?

 これは、手前味噌な言い方ですが、元特ダネ記者のわたしとしては、
「私がマズイと思ったことは多分本当にマズイ」
のです。だから誰かが無償でもこういう仕事をしないといけないのです。


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 このブログに以前にも登場された、佐賀県の研修業Training Office代表、宮崎照行さんから嬉しいご連絡をいただきました。

 宮崎さんの現在の研修先でも、拙著『行動承認』をサブテキストに使ってくださっているというお話。

 研修先は某大学の救命救急センターとのことで、大変光栄でした。


 宮崎さんは過去に、高校生さん向けのビジネスマナー研修である時期から「行動承認」を取り入れた研修方法をとったところ、飛躍的に成果が上がってしまった、というお話をしてくださいました。以来、『行動承認』も読まれ、確信をもって取り組んでくださっています。

 詳しくはこちらの記事を参照
新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより

 だんだん、日本中の心ある人達が気がついてくださっているという段階なのカナー。

 とにかく「この手法」かそうでないかで明暗が恐ろしく分かれてしまうので、早く普及させたい、また一度研修したら長く定着してほしい、と願う次第です。

 今までのところとびきり賢い方々が「行動承認」を見込んでくださっていると思います。







100年後に誇れる人材育成をしよう。
正田佐与



 「情熱の営業マネジャー」OA機器販売業主席の永井博之さんから、メールをいただきました。
 こちらも、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてのものです。

 ご了解をいただいてご紹介させていただきます。

正田さん

ご無沙汰しています。永井です。

会場にいた人達はその場では間違った事を覚えたとしても、子育てや仕事をしっかりしていればいずれ必ず褒める事、叱る事の重要性がわかると思います。
(中には手遅れになる場合もあるかもしれませんが)

それは正田先生がその場で勇気を持って指摘されたからこそ記憶に強く残り案外早くに考えを改めることになるのではないでしょうか。

正田先生が意見したその会場にいた人達は本当に幸運でしたね。

先生の勇気ある行動、心から尊敬致します。

先生の最近の記事からは弱い立場にいる人間への愛を強く感じます。
また仕事だけでなく生きる事に必要な智慧も教えてもらっています。

メールでの応援くらいしか出来ませんがこれからも引き続きどうかよろしくお願いします。


(注:2通のメールをドッキングして編集済)


 過去の永井さんの登場記事は…、ご紹介していると際限なく長くなりそうです。
 永井さんは京都営業部長時代の2010年夏に神戸のオープンセミナーで「承認コーチング」を学ばれ、その年の売上を1.2倍に伸ばされました(もちろん、永井さん自身の実力でもあったのですが)
 2011年4月、事例セミナーに登壇。
 その後は遠方に異動になりましたが、折にふれ新しい職場のご様子や正田に対するコメントなどをメールでいただいています。

 「承認マネジャー」は仕事も家庭もしっかりした人たち。仕事では、責任を負っていますから、誰よりも「叱ること」の必要性をわかっています。また子供たちが社会人として就職した後の振る舞いなども上司の立場から想像がつき、それをもとに現在の子育てを考えることができます。
 その人たちから支持されているのが、「行動承認」です。

 この人たちからの支持の言葉が、何よりもわたしには励みになります。


 ・・・ところで、「アドラー心理学」の信者の方々って、職場では出世できないほうの人なんじゃないかと思いますがいかがでしょう。そんな功利的なことを言っちゃいけないのですが。「叱らない、ほめない」では上司は一日も務まらないはずですよね・・・それでもやってる人、いてるのかな。


2016.1.25追記

 実は、ここからは永井さんのメールと直接関係ないのですが、アドラー心理学セミナーの中には、1位マネジャー育成研修講師としては気になる点が他にもありました。

「職場の人間関係にはコミットしなくていい」
と勧めている点です。
 わたしは詳しくないのですが、岸見一郎氏によればアドラー自身がそう勧めているそうです。

 曰く、職場の人間関係というものは仕事の間だけのかりそめの関係である。仕事が終わったら即スイッチオフにしてよい。プライベートまで引きずる必要はない。

 部分的には、それも正しいと思えます。
 しかし、全面的に正しくはありません。わたしなら研修中に講師としてこういうことは言えません。

 理由はマネジャー側、部下側両方にあります。

 たとえばマネジャーの立場であれば、部下の私生活まで気に掛けるのが仕事の1つだからです。当方から積極的にお勧めするわけではありませんが、「承認マネジャー」であれば、ある部下の顔色が悪かった、受け答えに元気がなかった、ということが仕事が終わってからでも気にかかるのが自然だからです。ミンツバーグ的にいえば「マネジャーの仕事には終わりがない」のです。

 かつ、部下の側であれば、良いリーダーシップの下では全人格的に「仕事に巻き込まれる」という場面があっていいからです。とりわけ仕事が大詰めのとき、従来の自分のキャパを超えるようなサイズの仕事が襲ってきたとき、にはそうです。そういう場面を経験して人は仕事人として成長するのです。ワークライフバランス的には、「時間になったらオフにしよう」というのは間違いではありませんが、それを金科玉条としていついかなる時も全面的なコミットをしないでいると、その人の成長はありません。
 良いリーダーに出会っても心動かされないというのは、不幸なことですね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 引き続き体調不良ぎみです。

 このところの読書から思い切って離れて、わたしが3人の子育てを通して「学校の先生」をみてきた体験と、よのなかカフェで「教育」をテーマにしたり関連で何人かの優れた先生方にインタビューした経験にもとづいて、(はい、「老婆の個人的体験」です笑)思うところ考えるところを書いてみたいと思います。


 変に数字をみていると大事な直感のはたらきが悪くなってしまいそうです。免疫は既に害してしまいました(笑)


****

 わたしは子供たちから担任の先生の話を聴くのがすきでした。先生の力量によって、子供たちのモチベーションも学力も見事に左右されました。優れた先生に持っていただいたときの子供は、言うことがしっかりし、自律的になり、学業にも身が入ります。勉強のおもしろさに目を開かされるようです。
 また人間関係の悩みが激減しているようだ、というのも感じました。子供の話からその手の愚痴がなくなりました。
 
 後年、子供たちを持っていただいた優れた先生方にインタビューさせていただきました。2012年5月、「学級崩壊」を扱ったよのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催準備のためです(肩書は当時)


◆「公平」は絶対的に大事なもの。しかしむずかしいもの―神戸市青少年補導センター・井上顕先生

http://c-c-a.blog.jp/archives/51802377.html

◆子どもには仕事を任せる。一線を超えたら叱る。人を傷つけたら叱る―吉森道保先生(渦が森小学校教頭)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51803263.html


 それぞれ、大変おもしろいお話をしてくださっています。両先生とも、「ほめる」を上手く使い、「ほめる叱る」のメリハリをはっきりつける方でした。井上先生はそれに加えて小テストをこまめにされ、これも「行動理論的」に、子供たちが自分の実力を計測できるようにしていました。吉森先生はまた、「仕事を任せる」という、これも「承認」の一形態を効果的に使われ、任せた仕事をやりとげるとしっかりほめてあげる、を繰り返すことで問題のあったお子さんもどんどん能動的自律的、責任感のあるお子さんになっていきました。

 こういう、数字には表れなくても結果を出す優れた先生のされることは大体共通項があり、「ほめる」「承認」は欠かせないものです。

 その後は、フェイスブックのひょんなご縁から千葉県船橋市の小学校の先生、城ケ崎滋雄先生の実践を見学させていただきその後インタビューもさせていただきました。大変楽しい経験でした。

◆褒めること聞くこと、記録、スピード、歌声・・・城ヶ崎先生クラス訪問記 (2013年2月)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51846161.html

(城ケ崎先生―正田の対談はこちらから。全13回シリーズの、ちょっとオタクな会話です)
◆城ヶ崎×正田対談(1)メンバーの個性をどうつかむか

http://c-c-a.blog.jp/archives/51853434.html 

 
 こうして、あくまで「エピソード」として積み上げたものではありますが、優秀な先生の行動様式にはかならず共通項があります(エピソードのシリーズも「エビデンス」の1つです。"中室エビデンスおばあちゃん本"を読むと、うっかり「統計のデータでないとエビデンスと言わないのか?と錯覚してしまいそうですが…)。
 …そういう、ちょっと現場のことをかじった程度のわたしが知っていることを、「ほめ育てはしてはいけない」「教育経済学」の某女性学者さんはなぜご存知ないのでしょうね…このままではとんでもない悲劇が起こりますね、もし彼女の言う通りに現場が動いてしまったら…

 
 ただし。
 あくまでわたしの「感触」のようなものですが、井上先生や吉森先生や城ケ崎先生のような「スーパー先生」は、出てもせいぜい10人に1人ぐらいです。
 残念ながら一般企業にも、「マネジャーになる人、そうでない人」というのがいらっしゃると思います。それと同じぐらいの確率だといえばいいのか…。
 個体としての「強さ」が違うんです。やっぱり頑健な方、となりますね。城ケ崎先生は陸上の先生で、武術家で、毎日プールで泳いでいらっしゃいました。かつ、強い軸をもち、正義感、責任感、人に向かっていく強さ、それに教えるスキル、コミュニケーションスキル、など総合して優れた方。男性が多いのは、恐らく家事育児を負担していると時間的体力的に難しい仕事だからでしょうか、残念なことに。

 で、そのラインまで届かない人はどうなるか。今の35人とか40人学級のもとでは、下手にまじめだと壊れて脱落していくか、生き残ろうと思えば、やや「半身」で仕事をするか、に分かれることになると思います。スーパー先生とそれ以外の先生の差がどんどん開いていきます。

 その状況をどうしたらいいのか。
 ここからはあくまで試論です。

 わたしは、多めにみてもざくっと「10人に1人」ぐらいしか出現しない一部の「スーパー先生」にみんながなることを期待するのではなく、もう少し普通の体力、資質の先生でも(だって一般企業のサラリーマンだってそうなんですから)勤まるような仕事にしていく必要があると思います。
 そこでまた「学級定員は」という話になりますが、このところの記事で繰り返し出るように、「スマホ(LINE)の登場」「発達障害の急増」という要素が、子供〜若者の世界を激変させています。かつてなく彼らと心を通じ合わせることがむずかしくなっています。
 それに対して、「承認/ほめる」「個人面談」「思い切った少人数ゼミ/部署」といったやり方が、大学〜社会人の世界では功を奏しているわけで、それらの組み合わせで初めてこの難しい時代のフィルターを飛び越えて若い人のこころと接続できるのです。そんなことは、もちろんエビデンスも必要ですが、エビデンスが間に合わなくても早急に考慮すべきでしょう。

 そのうえで、「スーパー先生」から周囲の先生が学べるようにする。こまめに経験交流をする。学習する組織にする。ここでマネジメントの人の役割は大事です。
 過去によのなかカフェで出たように
◆マニュアル思考×同僚に教え同僚から学ぶ気風―よのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催しました (2012年5月)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51804206.html  
 先生方の世界の「学び合わない」気風は深刻なのです。このとき出席されたスーパー先生の1人、「学級崩壊お助けマン」の間森誉司先生は、「若い先生がぼくから学ぼうとしない」とぼやいていました。上の城ケ崎先生も、「若い先生はぼくの授業を見ても、ほんの表面しか見てないんですよね」と嘆いていました。

 「先生の質の向上」を語るにあたって、「教職大学院」が話題になりますが、わたしは大学院の2年間が優れた先生をつくるとは思えません。仕事の実務の中でつねに現実から学び、内省し、また外にも目を向けて情報を集め…、その繰り返しが優れた働き手をつくります。それはどの仕事でもそうだろうと思います。
上記の、井上先生吉森先生城ヶ崎先生間森先生とも、大学院で学んだわけではありません。吉森先生は、「先生はいじめは許しません。体を張ってでも止めますよ」と言われるほど、いじめについて毅然とした態度をとった方でしたが、それは「最初からそうだったわけではなく仕事上の経験、人生経験を通じてそういうスタイルになった」ということをおっしゃいました。そうした「経験知」を質量ともによりよく蓄積していくためには、対話を通じて言語化し、内省し、また同僚と経験交流することが大きな役割を果たすのです。

 だから、「経験交流」をファシリテートする役割を、マネジメントは果たしていただきたい。以前「マネジャーズ・カフェ」といってミンツバーグの「リフレクション・ラウンドテーブル」に「承認」を組み合わせたようなものをやったことがあります。週1回45分程度、マネジャー同士が対話を通じて経験交流をするもの。先生同士でも有効だろうと思います。またもちろん授業の相互見学もどんどんしていただきたい。
 そして「現実を直視し、内省する」そういう人材をつくるためにマネジメントがどうアプローチするのが正しいのか?
 「学ばない気風」を改めるため、自我のバリアを外して周囲を信頼し、周囲から素直に学ぶ人材をつくるためにマネジメントはどうアプローチするべきか?
 このブログを続けてみられている方は、もうおわかりですね。

 まとめると、
1.学級定員を妥当なところまで減らす
(目的は、「普通の先生」でも努力すれば「スーパー先生」に近いことができるような環境を作る)
2.承認、個別面談など個々のお子さんに向き合うアプローチをする
3.教員同士の経験交流を促す対話、見学などをする

 ”中室説”では、2.とか3.を全然やらなかったので、せっかく1.をやっても「宝の持ち腐れ」だった可能性があるんですね。
 (この内容を支持するブログ記事を3つ後の記事でご紹介しています)



 このほかに『「学力」の経済学』にもちらっと出ていたような、「有資格者でない先生も任用する」というのも組み合わせてもいいと思いますが。

 
 あんまりまとまっていませんが、気分がふさぐので少しでも「前向き」なことを書きたかったものですから。


追記:

 上記の話とどう組み合わせていいかわからなかったのであとで追加することになってしまいましたが、ドイツのように、中学生ごろから「職業訓練校」の選択肢をつくる、ということも考慮されたらよいのではと思います。
 「労働」は人に誇りを与えます。学業に身が入らないお子さんも、中学高校大学まで我慢してお勉強の学校に通うより、仕事の実習プログラムを多く含む学校に早くから行ったほうが、そこで自分の誇りの源泉を見つけられるかもしれません。
 また「個人的経験」ですが、わたしの3人の子のうち2人は高校で普通科に行きませんでした。それぞれ、「美術科」「国際経済科」に行きました。(あとの方は残念ながら普通科に統合されて、今はありません)
 美術科に行った子は、「あたし、プロの芸術家になるほど才能はないのはわかってるの。でも今は、思い切り美術をしたいの。大学は普通の大学に行くかもしれない」と入学時に言い、実際にそうなりました。ある年齢のとき専門性のあることに打ち込みたい、そういう選択の仕方もあるのか、と思いました。
 国際経済科は、これも地域で特殊な立ち位置の学科でしたが、簿記やタイピング、英検など細かい実技の検定を受検させ、自信をつけさせます。3年までに全商と日商両方で簿記一級をとる子もいました。企業見学にも行きます。社会人の面白い取り組みの人、経営者さんなどを呼んで話をしてもらいます。熱心な先生方のもとで、入学時には成績「中」ぐらいだった子供たちが卒業時には有名大学に受かっていきます。「仕事の現場」をつねにイメージさせながら教育を施すことが、子供たちのモチベーションを刺激します。
 子供たちは、案外「仕事」がすきなのではないかと思います。昔の日本人が丁稚奉公で、小学生年齢から奉公に上がり仕事の中で勉強をさせてもらったというのも、わるくなかったのではないかと思います。
 
 
正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました。

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html



『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』について、考察編の蛇足のような記事です。


※ここまでの流れをお知りになりたい方はこちらをご参照ください

悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

『ビジネススクールでは学べないー』経営学は"残念な学問"か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html



 「ダイバーシティー経営」の知見について、なぜあれほど生理的嫌悪感をもったのだろう。

 今日の記事では、全然論理的・客観的でなく、むしろバイアス満載の、感情的・主観的な自分になって語りたいと思います。

 自分個人の体験として。
 わたしはバリバリの均等法世代、同法施行2年目に入社した女子です。入社したとあるマスコミの会社は業界の中でも女性活用が遅く、女性総合職の記者2期目、そして配属された部署では初めての女性記者となりました。
 そして平凡な話だと思いますが、上司は女性の受け入れについてなんら研修など受けておらず、違和感マンマンの表情でわたしを受け入れました。口を開けば「女の子は叱ると泣くんじゃないか」と言われ、一方では「叱られて初めて本物だぞ」と言われ(じゃあ女の子は永遠に本物にならないのかよ)、腫れ物に触るような扱い。
 過去にこのブログにも書いたように、そんな中でも精一杯優等生の1年生社員をやっていたのですが、中にはわたしが周囲のおぼえめでたいのをやっかんで悪質な嫌がらせをしてくる先輩社員あり。また当初は上司がそうした先輩の嫌がらせに盾になってくれていたのですが、前門の虎後門の狼というやつで、今度はその上司が「対価型セクハラ」というやつをやり、わたしはそれを断ったのでいきなり不興を買い、仕事を干されました。哀れ可愛がられっこだった1年生女性社員は、以後毎日ひたすら出社しては何もやることがなく、新聞を読むようになりました。約4か月その状態が続き体重は7kg落ちました。そして問題の上司が他部署への転属を打診しに来たので、組合に駆け込み、組合もさすがに「それは不当人事だ」と会社に掛け合ってくれ、私は希望通り地方に出してもらえることになりました。
 その地方勤務の準備のため警視庁、環境庁(当時)に各2か月詰めたのでした。かなり異例のことでした。
 地方に行ってからはこれも受け入れ先が渋々受け入れたようで、当初「無任所」、決まった担当先がなく仕事が何もないに等しかったのですが、その地方では手つかずだった医療分野を自分で開拓して特ダネを書くようになりました。そしてある時期は社内報に毎回名指しでおほめの言葉が載り、表彰もされるように。東京から地方巡回してきた社長や編集局長には「次の香港特派員はお前だからな」と言われ。
 東京勤務時代に本社に女性の宿泊施設がなく、それでも宿直勤務を希望したので、宿直に入っても男性と違って寝に行くところがなく、勤務が終わってから資料室でつっぶして寝ていたこと、地方勤務もまたその地方では「初物」になり違和感に囲まれながらの仕事でした。そしてそこにも悪意の先輩というのがいました。最近膳場貴子氏がNEWS23の降板を希望したと偽情報をリークされていましたが、わたしも結婚ネタをリークされ退職に追い込まれたようなものでした。
 わたしの10代くらいあとの女性でしょうか、その会社で初めて海外特派員に出たとききました。先輩女性たちの死屍累々のあと、死体の山を踏み越えて、初めて1人の女性特派員が誕生するのです。

 そういう、男性だけだった会社や職場に初めて1人の女性が入ることがどれほど大変なことか。軋轢の多いことか。志を貫こうと思えば、人としてどれほどの苦痛を味わい続けることか。経営学者たちにはわからないでしょう。
 こんにち、それなりの規模の会社にはどこでも女性がそこそこの人数いるのは、その蔭に多数の痛みに満ちた女性たちの人生があるのです。女性が存在できるようになったのは、闘争のすえに勝ち取られた「進歩」なのです。

 で、後輩や自分の娘のような世代の人たちにはなるべくもっとスムーズに働き、経済的不利益も味わわないで済んでほしいと思っているのだけれど、昨今のミソジニー(女性嫌い)の風潮はそんな思いをあざ笑うかのようです。
 だから、わたしは女性たちに不利益をもたらす言説にはNOを言います。

****

 もう1つ、また「生理的嫌悪感」にまつわる話を。
 たとえば「白人、男性、同年代だけで固めた職場なら、ツーツ―で仕事がはかどって楽だなあ」こういうメンタリティに対して、わたしは不快感なのです。それは堕落したこころの状態だ、という気がするのです。
 読者の方は、いかがでしょうか。
 
 またひとつの実体験です。「女の園は苦手だ」と言いましたが、地元の商工会議所の人に頼まれて、「女性経営者の会」に2年ほど入っていた時期がありました。40歳前後のこと。
 その「女性経営者の会」は、主力は60歳代の女性社長たち。お父さんが亡くなったから、ご主人が亡くなったから、と受身なきっかけで経営者になった人が大半で、自力で起業した人は少数でした。そして、ホテルのレストランで毎月ランチをご一緒するのですが、まあ円卓に一緒に座っていても共通の話題がない。60代女性の共通の趣味で、踊り(日本舞踊)に行ったとかシャンソンに行ったとか歌舞伎に行ったとか、同年代同士ベチャクチャと話しておられる。こちらからは口を挟むとっかかりがない。
 そこで如才なくあれこれ話しかけられればいいのでしょうが、わたしと同様、「入っていけない…」と感じる若手女性経営者は少なくなかったようで、2年間のあいだにわたしと同年代の人が入っては辞めていきました。2年もったのは辛抱強かったほうでした。
 そのうち、その会の「外」で、やはりその会から脱落したという50歳前後の女性経営者と出会い、「もっと若い者同士の女性経営者の会をしましょうよ」と声をかけられましたが、行ってみるとそこもまた、今度は50代の人の集いの場でありまして。
 
 どうも、「女同士だから気安く話しやすい」場として設けられたところでは、メンバーは気安さを求め、女性同士というだけではなく、同年代同士というさらなる気安さを求めてしまうのです。こういうのは煩悩のようなもので、せっかく気安いのだからもっともっと気安く、と追い求めてしまうのです。
 たぶんそれはサークルのようなところだけでなく、カイシャでも同様で、女同士だからサクサク話が通じるかといえば、その中で年代ごとの壁をつくり、あるいは既婚者・未婚者の壁をつくり、いたちごっことなるでしょう。同質性を際限なく求めるでしょう。
 そういう、「べたっ」と同質な世界というのは、わたしは堕落だ、と感じてしまうのです。こころのどこかが麻痺しているように感じてしまうのです。
 たぶん仮にそういう中にいて居心地がよいと感じるとしたら、その場にはいない異質の人に対してはものすごく不寛容になりそうです。ヘイトスピーチなどもしてしまいそうです。男だったら、配偶者にDVなどもしてしまうかもしれません。また、女でも自分の子供が仕事の同僚のようにサクサク動いてくれないことに腹を立てるかもしれません。
 異質の人が周りにいるというのは、いいことなのです。こころの訓練になっているのです。同質の人だけと一緒に過ごしたいなどというのは、「退化」なのです。
 経営学が「こころの退化」を勧めるのなら、やはりNOを言いたい。


正田佐与


 急に「美」という軸を考えてみたくなりました。

 
私人



 わたしの読書歴の中でも珍しいんですが、最近不思議なご縁で手に取りました。
 『私人』(ヨシフ・ブロツキイ著、沼野充義訳、群像社、1996年11月)。詩人ブロツキイの1987年ノーベル文学賞受賞講演。本文わずか35pの小さな小さな本です。

 
 ・・・なぜなら、美学こそは倫理の母だからです。「良い」とか「悪い」といった概念は、何よりもまず審美的な概念であって、「善」や「悪」の範疇に先行しています。…まだ何もわからない赤ん坊が、泣きながら見知らぬ人を押し退けたり、あるいは逆に見知らぬ人のほうに手を伸ばしたりするとき、この赤ん坊はそうすることによって、審美的な選択を本能的にしているのです。この選択は道徳的なものではありません。

 
 ・・・なにしろ人間は、自分が何者なのか、そして自分に何が本当に必要なのか、完全には分からないうちにもう、たいてい本能的に、自分の気に入らないもの、自分を満足させないものを知っているのですから。繰り返しますが、人類学的な意味において人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。



「良い」「悪い」の概念は何よりもまず審美的な概念である。
人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在である。

 詩人の言葉ですが、読者の皆様にとっては、いかがでしょうか。

 わたしはこれらのフレーズに出会って急に気がついたのです。自分が無意識に「美しい」という単語を使っているなと。本当に自分でも気がつかないうちに、いろいろな場面で。

 明らかにそれはわたしのその場での「選好」を決めているのです。何かやだれかを「よい」と思って称揚すること。逆に、「わるい」と思って批判しよう、と思ったりすること。


 
 
 それが人類に普遍の現象なのかどうかは、わかりません。

 少なくとも自分はそういう「フレーム」を持つ人間のようだ、ということを念頭に置いておくことにしましょう。



※なお、このところ記事タイトルなどに「正しい」という言葉が入っていますがこれは結構自分でも意識していて、忸怩たる思いで使っています。
 心理学では「正しい」「正しくない」は相対的なもの。哲学でも一部の人はそういう言い方をします。
 ところが、「正しい」「正しくない」の軸を否定してはいけない領域は、仕事をしていれば確かにあるのです。そこに心理学のそうした議論を持ち込むとどんなに”めんどくさい”ことか。
 その2本の軸が両方あり得るなかで「正しい」を主張することは「つかれる」こと。でもやらなくてはならないこと。
 「正しい」を書く時は内心疲れをおぼえながら書いていますね。



 この本はそのほかにも印象的な警句に満ちていて、読んでいてそこでしばらく頭がストップしました。いくつか例を挙げると、

「…言葉というものは、ほんの少し不正確な使い方をしただけでも、人生に偽りの選択を持ち込むことになりかねないのですから。」
 
「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは―繰り返しますが―他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば『相互厭人的』な会話なのです。」

「ロシア語を母語とする人間にとって、政治的な悪について話すのは、食物を消化するのと同じくらい自然なことではありますが、やはりこの辺で話題を変えたいと思います。自明のことに関する会話の落とし穴は、それがあまりに簡単で、それを通じてあまりに簡単に『自分は正しいのだ』という感覚を得られるため、意識が堕落してしまうということです。」




正田佐与

 『ポスト資本主義』の著者、千葉大学法経学部の広井良典教授(科学哲学)と、最近メールのやりとりをしました。同教授はアカデミズムの中では数少ない、わたしの信頼する学者さんの1人です。

 今回の対話の焦点は、おおむね、
「データの裏づけのある知見でも疑え」
ということだと思っていいようです。
 このところこのブログで展開している某トンデモ心理学への批判とはまた別の、ちょっと高度な次元のお話。
 アカデミズムの知性もまた、信頼に値しないのではないか?というようなお話です。
 広井教授のご了解をいただき、内容をご紹介させていただきます。
 
 どう扱ったものか迷いましたが、今回は正田を青字、広井先生を黒字で表示させていただきます。


正田:
「広井 良典先生
大変お世話になっております。
正田です。
その後、お変わりありませんか。
学生さん方を連れてのフィールドワーク、フェイスブックで拝見しました。

さて、私は最近はドイツ思想づいていますが
そこでも面白い学びをさせていただいています。

改めて広井先生に、「ケアと承認」についてのお考えを伺ってみたいと思いました。
また、最近の興味としては
「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。
(略)
正田」

広井教授:
「正田様
メールありがとうございます。

「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。

 これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。
 一方、私はあまり詳しくないのですが、最近の精神医療の領域で主流になっているいわゆる認知行動療法は、人間が物を見る際の「フレーム」というのを重視しているそうなので(これは80年代前後からの認知科学の台頭の影響の流れですね)、ある意味では上記のような「パラダイム論」とも親和的でありうる面があると思いますが、しかし実際にはわりと単純に世界を因果論的かつ操作主義的に(アメリカ的に)とらえている印象ももっています。
 話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと思ったりしました笑。       広井」


正田:
「広井先生、ご返信ありがとうございます。


>話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと>思ったりしました笑。

⇒とても頷けるところです。先生はどんなところでそれをお感じでしたか。
高度成長期にできた「フレーム」…たとえば私などは「長時間労働」「男は外、女は内(専業主婦)」などのフレームが女性の社会進出を阻んだり給与体系や正規・非正規の区別の形で残って女性の貧困、ひいては子供の貧困のような形でツケが最終的に社会に回ってくる、というようなことを想起します。



>これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。


⇒これもとても興味深いです。
 最近、私はある経験をしました。話題に沿っているようでもありひょっとしたら外れているかもしれませんが…。
経営学の本を読んでいますと、各種統計、メタ分析で裏づけられていることとして紹介されている知見が、何か実感と合致しないのです。
 もちろん当方の思い込みが誤っている場合もあるのですが、ひょっとしたら、研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。
 こういう理解の仕方というのは正しいのでしょうか。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。書かれていることはまさにその通りで、大変共感いたします。


研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。


 以上の点もそのとおりで、こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。
 このあたりは現代社会の隅々に浸透している面もあり、そうした問題に意識的であることがとても重要と思っています。  広井」



正田:
「広井先生
ご返信ありがとうございます。

広井先生の投げかけに当方で勝手に事例を持ち出して語ってしまったようになったのですが、話題としてずれていませんでしたら幸いです。

それは、例えば「仮説を立てる段階でのバイアス」という言い方もできますか?あるいは「研究者の主観」という言い方もできますか?


>こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。

そうですか。少し興味があるのですが、そうした研究者は例えばどのような言動となりますか?
私は決して血液型信者ではないのですけれども、
「血液型性格分析は科学ではない。血液型を取り上げた研究が存在しないから」
ときくと、もしだれか研究者が本気で興味を持って血液型と性格の相関について大規模統計をとったら有意差が出る可能性も、まだ排除できてないのではないか?と思ったりします。


背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。


そうですか。
学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。


実は、これともう1つ、はるかに低次元の問題で、学術的云々以前に
「いっさい根拠のないオピニオンに過ぎないものを信じる」
という態度も蔓延していて、これも近年流行を繰り返しているようにみえ、無視していると思わぬ勢力になっていて、どうしたらいいのでしょう…というのもあります。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。

学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。

 このあたりは非常に根本的な問題と思います。基本的には、「無知の知」という言葉がギリシャ以来あるように、完全な認識というものはなく、科学の限界性や、自己の認識の不完全性について常に自覚的であることが基本で、優れた研究者ほどそうした態度をもっていると思います(わかっていないことのほうがはるかに多いという認識)。
メタ認知能力ということが言われていると思いますが、科学や学術の領域に限らず、優れたスポーツ選手なども(自己の技術の限界や課題について)常に自覚的ですね。       広井」



 いかがでしょうか。
 今年は、年初のころ「反知性主義」についての議論があって、わたしはあんまりそこに興味がなくフォローできずにいましたが、おおむね「大学アカデミズムをバカにする風潮はけしからん」みたいなことを言っていたんではないかと思います(違っていたらごめんなさいね)。

 しかし、大学の先生が出してきたデータの裏づけのある知見もまた、疑わないといけない。なぜならそれは「仮説の制約」を受けているから。
 今回の広井教授は、おおむねそういうお話でした。

 正田も以前から、研修業界では常識として使われている知見を「その実験デザインではそういう結論は言えない」などと言ってスルーしていることがありますが。学者さんの言うことも取りあえず疑うことは必要なようです。

またここ数年の流れでいうと、「ビッグデータ時代」もあって「統計学絶対視」というのが流行りではあったんですが、統計学もまた仮説のしもべに過ぎない、仮説がダメだと統計が正しくてもダメ、ということですよね。
 
 あっ、ちなみに正田は以前「医薬翻訳者」というのもやっていましたから、ものごとを論証したり統計学的に裏づけしたりする作業を軽視しているわけではないんですよ。


 じゃあ何を信じたらいいのか。科学がダメだと思う時に最終的な答えは哲学だと言っていいのか、哲学だったら信じていいと言えるのか、これもまた悩ましいところですけどね。
 わたしが個々の学者さんを信頼する時は、たぶん広井教授の言われる「メタ認知能力」というのを、これも漠然としていますが信頼するのだという気がしますね。


 で、この対話の中で話題にした「経営学の本」。

 このブログの読者の方で勘のいい方だと、「ああ、あれだな」と気づかれるかもしれないと思います。

 次の記事以降で、ある悩ましい「経営学本」を俎上に上げたいと思います…。



正田佐与

 今日はなんか背伸びをやめて普段着のわたしに戻っております。

(「大学の先生」が話題になっておりますが最近このブログに登場された方々のことではありません。念のため)

 昔々の大学時代、恩師は院に進学しろと言ってくださったんですが「家が貧乏ですから」と言って就職しました。
 貧乏も嘘じゃなかったんですが、本当に進学したかったらバイトしてでも何でもしたと思います。本当は自分は学者になれるたちではない、と思っていたんです。

 ゼミの1年先輩にすごく深く掘り下げる、しかもすごいスピードで、という方がいらっしゃいまして。中本義彦さんとおっしゃり、今静岡大学の教授になられています。どんな文献を読まれても、わたしなどが「この本には今いち乗りきれないなあ」というときでもウッと深く突っ込んでいかれその文献の世界の住人になられるんです。かと思うと「自分の中にもナチズムやマルクス主義と同様のファナティシズム(H.アーレントの世界ですね)がある」と内省されたり、いやファナティシズムも才能でいらっしゃるから内省しなくていいんじゃないですか、と思いましたけれど、まあそういう、文献の中に深く潜る、しかも素早く、ということにかけてオリンピック選手のような方がいらっしゃったんです。
 先年恩師の逝去後のゼミOBの集まりでその中本さんにお会いし、いい大人になられてるなあと思いました(失礼か!?)

 ともあれ大学時代にそういう方を間近でみていて、「あれはできないなあ」と。

 このところのこのブログをご覧になって、既に話題が難し過ぎる高踏的すぎるとお感じになった方もいらっしゃるかもしれないし、「正田はアカデミズムの方へ行くのか?」と思われた方もいらっしゃるかと思いますけれど、わたし的にはその当時から、ひとつ動かせない自分の傾向性というのがある気がしていました。

 それは、
「知的好奇心は人一倍ある。しかしふつうの人にわからない領域まで突き進めない、突き進みたくない自分。ブレーキをかけてしまう自分」
ということであります。
 あるところまで突き進むと、振り返って
「ふつうの人と乖離していないだろうか?」
と不安にかられる、だけでなく本気でそれ以上進みたくない自分がいる。

 たとえば抽象的な言葉だけで書かれている文章を読むと、自分的に無理すればわからないことはないのだけれど、自分にとってのわかる/わからないはさておき、「どうしよう、こんなのほかの人に説明できない」という感情のゆらぎが起きます。
 その「説明できない」という感覚はすごく不快なものなのでした。
 探検ずきではあるのだけれど、しょっちゅう後ろを振り返ってほかの人に説明したい、それが不可能になるほどの探検はしたくない。
 普通にいう「世間の目が気になる」というのともちょっと違って、わたしの場合は「自分の後ろにいる親しい人につねに説明したい、それができないのはイヤ」という感覚なのでした。
 亡くなった母によると、幼児の頃のわたしはお砂場で遊んでいても、しょっちゅう母のほうを振り返ってみる子供だったそうです。

 そういう意味ではそのあとマスコミに行ったのはまあまあ正しい選択だったのかな、と思います。マスコミに行ったら行ったで「学究肌のほうの記者」になったのですが。


 そして「ふつうの人と乖離している、していない」というとき、ではその「ふつうの人」って誰なのか、といいますと、知り合いがすくなく世間のせまいわたしにとって、「ふつうの人」の基準に置いていたのは、自分の親戚のおじさんおばさん、ではなかったかと思います。

 このブログに以前出てきました(2014年3月だったカナ)、長野県の伯父さん伯母さんは農家で、とても聡明な優しい人たちでした。
 わたしは結局、「自然の制約を受けながら、『こうやれば、こうなる』の単純なロジックの連なりで世界を捉え、働きかけ、生計を立てている人たち」のことが無条件ですきなのではないか、と思ったりします。

 
****

 成り行きでフランクフルト学派についての本を、まずは例によって入門書から、読んでいます。
 例の、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマス、ホネットという人たちであります。
 
 おおむね、フランクフルト学派の哲学者はマジメな嫌みのない感じの人たちで好感がもてます(本当カナ)

 そのうちハーバーマスという人は「対話教」「コミュニケーション教」の教祖のような人で、「討議倫理」のようなことも論じていて、よのなかカフェを主宰していた正田も無関心ではいられません。この人はまた相手かまわず批判しまくった人のようで、あっちこっちで論争の当事者になっています。それだけきくと「怖い感じの人」ですが、本来はすごいマジメな秀才であったとのこと。またこの人と直接会った人は「市井の素朴な哲学者」とその印象を述べています。ので、ちょっといいなと思います。ので、ハーバーマス関係の本もまた読んでみることにします。

 しかし、この人の文章は入門書の中にも引用がありますが、まあ難解。抽象に次ぐ抽象で、例によってわたしは「なんか例示してよ?」「どういう実体験があったのよ?」とイライラしてきます。こういう文章を書くのは、知識人コミュニティの品質を保ちたいためなのでしょうかネ…。

(そういいながらアドルノの『三つのヘーゲル研究』という本を読んでいると、ヘーゲルのあの難解な文章は独特の思想のうねりのようなものを表現していること、抽象に徹した文章なのは自分の思考の限界を極めるような作業だったこと、などが書かれていてちょっと腑に落ちました。読み手も限界になるんですけど;;)

(またこの本によると、ヘーゲルは人気教授だったそうですがその語り口は雄弁とはほど遠いものだったそうです。あらかじめ用意したテキストを話すのではなく、訥弁で、その場でお腹の底から言葉を紡ぎ出して話す人だったそうです。そういうので感動させる語り手だったんですね)

 お話は戻って、EUの理念を提唱したのもハーバーマスだといいます。
 EUに関しては、壮大な理想ですがこれも付け焼刃の知識ですが2012年1月でしたか、日経ビジネスオンラインでの岩井克人氏の「知性の失敗」という言葉が印象的で、このブログにも引用したことがあります。
 それによれば、EUを構想した知識人たちは労働力に国境がなくなる、と信じていた。労働力の完全流動化を予想していた。統一通貨というものは労働力の流動化のもとで機能するのだ。現実にはヨーロッパにも、自分の生まれた土地からまったく動かない層の人びとがいる。その人たちについて知識人たちは想像力が働かなかった。

 これはとても示唆的な認識であり分析で、知識人やメディアというのは、往々にして、社会の「動きのある」部分に着眼しますが、動かない「不易」の部分はみえにくいのです。そこをみないがゆえに墓穴を掘ることがあるのです(いや、まだ、EUが失敗だったかどうかわかりませんが)。また、このブログでしょっちゅう書くように、「大学の先生は自分たちのことを研究することが好き」で、自分や自分のコミュニティ内部の皮膚感覚を社会全体に一般化して当てはめようとするところがあります。大学の先生方は、国境を苦もなく越えて仕事するのです。

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「お叱りを受けそうですが、マネジャー教育という一方の軸足のある中でどこまでこういう思想の世界に首を突っ込んでいいのか…」

 過日一橋大学の藤野教授に書いたメールの中で正田は泣き言を言いました。

 たぶんわたしの性格からして、アカデミズムには入らないでしょう。昔お砂場でしょっちゅう母のほうを振り返っていたのと同様に、「思想」のお勉強をしていてもしょっちゅう親愛なる受講生様方やお友達のほうを振り返り、自分が「わからないこと」をやっていないかどうか、ちゃんと共有できることをやっているかどうか、確認し続けるでしょう。


正田佐与

 

 
 
 


 この春からうちの本棚に急に増えたコレクション。

本棚の指輪物語-2


 映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作、『指輪物語』関係の本。

 重い荷をもって旅するお話。

 戦い、仲間割れ、沼地、邪悪との出会い、信頼、不屈―。

 本棚が整理できることなんて永遠にありません。リビングの向こう側の床は本の山です。

4よのなかカフェ-1
 ブログ開設10周年、やっぱり振り返ってみたい大切にしてきたことがありました。

 2009年4月から始まった「よのなかカフェ」(旧NPO法人企業内コーチ育成協会の事業の1つ)は、2014年12月まで通算41回開催されました。

 ネーミングは、藤原和博氏が世田谷の中学校長時代にやっていた「よのなか科」のパクリです。中身は授業ではなく、特定の時事問題のテーマを参加者の話し合いで掘り下げていく、というものです。

 時事問題といっても個々の殺人事件とかを取り上げるよりはもう少し普遍的にみんなに関係あることを、ということで、いくつか繰り返し扱ったテーマがありました。

 たとえば「労働」。

 2010年8月「日本人と仕事」。

 
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 ひょうご仕事と生活センター長・北条勝利氏、同志社大学教授太田肇氏、と正田の公開対談。
 この公開対談は5回シリーズでご紹介していますが、大変おもしろい内容でした。大筋、「日本人のモチベーションの低さ、労働生産性の低さ」に関する調査数字を取り上げて、じゃあどうするか?を語っています。
 

 2012年2月、正田が「日本人不安説に基づく承認マネジメント論」を初めて出したのが「日本の企業をつながり力で変える!」同月中に三宮と姫路で開催しました

 三宮編「なぜ語られないのか?日本人の特性に合った人材育成」

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 初の姫路開催となった、大人数参加で熱気あふれる姫路編「凄い回になりました 日本の企業をつながり力で変える!」

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 そして「教育」。学校の荒廃に何ができるのか?姫路から「学級崩壊お助けマン先生」を招いて2012年5月、「子供たちが危ない!」

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 12年8月、「たくましい若者の作り方」(姫路)では、地域の大学関係者と中小企業経営者が「若い人の人材育成」を共同で議論。有意義な回でした。

 
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 「福祉」と「地域のつながり」を探った回、「姫路版・高齢化社会を探る!」2013年2月。

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 まあ地域のおじいさん(失礼)方が元気。そしてNPOの人たちも元気。よう語りました。


 「政治」を初めて扱ったのが2013年5月の「もしも私が首長だったら」(三宮)。
 この年、兵庫県知事選と神戸市長選が同日選挙になるのを控え、「首長の仕事って何、行政の仕事って何?もっと主体的に選ぼうよ」という問題意識で開催しました。

 
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 松本茂樹先生(関西国際大学)の解説が秀逸。松本先生は他にも、「ユーロ危機」の回にも登場され大変おもしろい解説をしていただきました。


 忘れられないのが、3・11を受けた2011年4月の「震災」の回。
 
 神戸に本拠を置く被災地NGO協働センターの村井雅清代表にお越しいただきました。参加費を無料としたため、よのなかカフェ史上最高の集客に。

 
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 タイトルにもなった村井氏の「非日常の中から生まれた良いものを日常に」、いい言葉ですよね。


 地元「神戸」を話題にした回「神戸は住みやすいのか住みにくいのか?『外から見た神戸、内から見た神戸』」(2012年10月)は今も高いアクセスを集める人気記事です。どうも、まじめに神戸への移住を考えている人が参照されるよう。ひょっとして地元の悪口言って地方創生の邪魔してないか?

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 「データ重視」のよのなかカフェ、このときは地域の経済指標等に関するその年の日銀支店長の講演データを借用して冒頭に解説し、たたき台としました。しかし議論はそのデータには全く頓着せず自由な方向に(苦笑)
 

 「スウェーデン」も2回、テーマに取り上げました。
 (本当は、スウェーデンというより「北欧」を取り上げたかったんですが、そういうと漠然としているので、あえて人口規模の一番大きいスウェーデンを選んだ、という感じです)

 IKEA神戸の2人の女性管理職を招いた回「責任と決断の根づく人びとが作る社会」(2011年5月)
 
 
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 IKEAのお二人は日本人ながらIKEA精神を体現して自分の「責任」に基づいて語ると、わが「承認」受講生の男性管理職たちも「ほ〜」という感じ。カッコ良かった。

 同じ年の秋、こんどはスウェーデン人福祉研究者のアンベッケン女史を招いてカフェを開催しました。
 「議論、透明性、そして信頼」(2011年10月)。

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 福祉関係者を中心に大変意識の高い方々が参加され、アンベッケン女史へ熱気ある質問が相次ぎました。
 「スウェーデンでは政府への信頼があるから、政策にも納得感がある」という同女史の言葉が印象的でした。

 

 「女性」。主宰者が女性なもので(汗)、いや、やっぱり人口の半分が冷遇されている社会はおかしいです。いろんな角度からあの手この手とやりました。

 これは過去にも一度まとめをしましたけれど、もう1回出すと…。

 女性に「働いてほしい」(行政)されど事情は。。 女性活用カフェ開催しました!(2011年1月)
 ―神戸市男女共同参画課の方にもお越しいただきデータをみながら議論しました

 リツイート感謝。団塊の世代価値観を問う「男のプライド」よのなかカフェ (2011年8月)
 ―正田のアナーキーな性格がわかるちょっとカゲキな回でした

 「女性が輝く社会には何が必要?」(2014年12月)
 ―少人数で公務員さん中心のちょっと偏った回でしたが、そのぶん比較的先進的なところでは今こういうことが起こっている、という理解には役立った。

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 このほかにも「スウェーデンよのなかカフェ」の2回とも「女性」の回であるともいえますし。


 さいごに、「幸せ」について。

 過去に開催したよのなかカフェでも、たとえば「人口減少社会」「ユーロ危機」がテーマのときにも後半は「(色々問題はあるけど)じゃあ私たち自身の幸福とは何か、考えようじゃないか」という時間がありました。

 その「幸せ」を正面からとりあげたのが、第40回「幸せって何?」

 
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 やってみるとわかったのは、おもしろいことに、自分個人の「幸せ」をとことん考えると、自然と「社会全体の幸せとは」「(自分や自分の子でない)若い人にとっての幸せとは」を考えるようになる、ということでした。参加メンバーが良かったのかもしれませんが…。

 後日有光毬子さんが「正田さん、あの『幸せよのなかカフェ』ぱくらせてね」なんて言っていただきましたが、どんどんぱくってやっていただきたいものです。

 絵本風「よのなかカフェ総まくり」は以上であります。


 さて、ここからは多少手法の「ネタばらし」的なお話です。

 よのなかカフェがやろうとしたのは「対話」と「議論」の両方でした。「うちの業界」には、「議論はわるいもので対話はいいもの」という変なコードがありますが、当社ではそれに縛られず、「議論も対話も両方OK」にしました。共感もあり、反論もあっていい。

 そこでは、今みてもうるさすぎるほどのファシリテーションのルールがありました。

 ファシリテーション方法についてまとめた回

 後日談 よのなかカフェと女性とファシリとブログ文体と。。

 色んなことを言っていますが要は「承認」。

 ここでいう「承認」はほめるなんていう薄っぺらいものではなくて、「すべての人が属性に関わりなく尊重される、尊厳を傷つけられない、敬意をもって遇される」ということ。
 また「悪平等」ではなく、「重要な発言については(これも属性に関わりなく)きちんと価値づけすること」(公正)もあります。
 
 とりわけ、やはり、男女に平等に機会を与えること、公正に評価すること、についてはうるさかったですね。できなかったファシリは「クビ」にしちゃいましたからね。「どけ、あたしがやる!」みたいな感じで。本当に。たぶん女性主宰者じゃないとそこまでできなかったでしょうね。

 
 でもそういう、異常なぐらい「機会の平等、評価の公正」に神経をとがらせた世界は、案外男性にとっても居心地がいいものだ、というのは、参加者への個別インタビューで出ました(インタビュー先が偏っていたかもしれませんが)。


 男性も女性も同じ地平にたってワイワイ、っていいものですよ。私は男性だけが大声でしゃべってて女性はお茶をついで回るだけ、みたいな昔の村の寄り合いみたいなダサイ場にはしたくなかったんです。自然に任せるとすぐそうなってしまいます。


 
 まあこうして改めてみると2011〜12年がよのなかカフェ一番元気あったなあ、今はそんな元気ないなあ、というのも思いますけど、思い出にひたる記事でございました。おつきあいくださいまして、ありがとうございました。

 よのなかカフェ41回を支えてくださったお客様、スタッフの皆様にも、改めてお礼申し上げます。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 ブログ開設10周年記念。
 どこまでやるべきなんでしょう。

 読者様に抽選でプレゼント!なんていう気の利いたことはできないのがわたし。

 他ならぬ”このブログ”について過去に書いた記事としては、こちら

 当ブログ流の「僕は君たちに武器を配りたい」(2013年11月)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51875568.html

があります。
 「マネジャー教育で1位輩出開始10周年」で感謝のつどいをした時ですね。今は蹴とばしてしまった、わずか2年前ですが遠い過去です。

 なんで今孤独を選んでいるのかというと、この世は一歩外は敵だらけだ、ということを、「味方」「仲間」はだれも理解しなかったからです。どんな殺伐とした世界を正田が生きていて闘わなければ生き残れないか、そして満身創痍状態か、わからない人たちばかりだったからです。ブログには繰り返し外の世界の「悪」について書いていたのに、かれらはその意味をわかっていませんでした。

 そういうことで繰り返し落胆するよりは、いっそ1人でいるほうが心穏やかにいられます。

 最近は、「敵」の正体がすこしわかってきた気がします。

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 その一方で最近はフェイスブックのお友達の皆様にお願いしにくいことをお願いすることが続いていまして、でも意外なことに心温かく応じてくださる方がいらっしゃるのは本当にありがたかったのです。

 ネットもある意味情報戦の場です。

 決してお友達を利用したいなんて思っていなくて、今後はできるだけこういうことをしないで済むように願います。
 温かいご理解をくださった皆様、リアルの友人以上に味方でいてくださった皆様、本当にありがとうございます。

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 自分自身について、最近「ビジョン型ではなく価値観型」だ、と書きました。未来にどうなりたい、という夢が持てなくて、ただ毎日を自分らしく価値観を大事にして生きたい。

 ではそれはどういう価値観なのか、と訊かれると、

 「幸福な王子に出てくるツバメ」のように生きたい、と答えます。

 オスカー・ワイルドの『幸福な王子』('The Happy Prince')は、ブログ読者の方はご存知でしょうか。最近も新訳本が出ていましたが。

 ご存知ない方のために、Wikiに載っていたあらすじを引用させていただきます。


ある街の柱の上に、「幸福な王子」と呼ばれる像が立っていた。かつてこの国で、幸福な生涯を送りながら、若くして死んだとある王子を、記念して建立されたものだった。 両目には青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。 しかし、人々が知らないことが有った。その像には、死んだ王子自身の魂が宿っており、ゆえに自我を持っていること。王子が、この町の貧しい、不幸な人々のことを、嘆き悲しんでいることである。

渡り鳥であるが故にエジプトに旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってくる。 王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。 ツバメは言われた通り王子の剣の装飾に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、両目のサファイアを飢えた若い劇作家と幼いマッチ売りの少女に持っていく。エジプトに渡る事を中止し、街に残る事を決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼む。

やがて冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも次第に弱っていく。 死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

天国では、下界の様子を見ていた神が天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。


 ほらね、いいお話でしょ?

 正田は「非業の死」を遂げる人が好きで、ワトソンとクリックに研究を盗用されて37歳で病死する女性研究者ロザリンド・フランクリンにも憧れています(もうすぐ52歳、ああ15年も余計に生きてしまった)。
 (ロザリンド・フランクリンに関する記事はこちら

 この物語のツバメは、サブキャラで王子ほど強い信念をもっているわけではないんですが、王子に心動かされてその意思の実現のために働きます。南に向かうことも忘れて貧しい家々に宝石や金箔を配ります。そして寒さに凍え力尽きて死にます。

 そして人々が全然真相を知らないし感謝もしないところが、イイですよね。

 悲劇の話を好きなのは、正田が悲しみの感情を好きな人だからかもしれません。
 いけないなあ、否定的な情報や物語に注目する習慣を止めましょうって『ワイル博士のうつが消えるこころのレッスン』に書いてありました。


 また、現実の正田は1人親方なんですが、「王子」という架空の上司がいる物語が好きなのは、自分は本来は番頭タイプだ、と思っているからかもしれません。「王子」、どこにいるんでしょうね。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 さて、10周年記念。無精ものの正田の精一杯の読者様サービスです♪

 1つ前の記事で、『環境世界と自己の系譜』という本の読書日記をちらっとご紹介しておりましたが、これは1冊の本を延々9回ものシリーズ記事で取り上げたもの。2009年9月のことです。

 昔は、長い記事1本にまとめたりせず、シリーズにしたりしてたんですねー。ほかには「U理論」の本もこういう扱いをしましたが、こちらの本のほうが今みてもおもしろいです。

 インデックスをお作りしましたので、タイトルだけ見ておもしろそうなところを、お時間のあるときお読みください:


『環境世界と自己の系譜』の読書日記
「日本人の自己観と幸福観」シリーズ、インデックスを作りました!!
2015年10月現在読み返してもなかなか面白いことを言っております。
よろしければご覧ください:

日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515101.html

日本人の自己観と幸福感(2)−「つながりの自己」と「アトム型自己」
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515159.html

日本人の自己観と幸福感(3) −心理学が強化した「アトム的自己」観?
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515163.html

日本人の自己観と幸福感(4)− ふたつの幸福感、離脱肯定とつながり肯定
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515305.html

日本人の自己観と幸福感(5)―エイズパニックにみる、自我拡張と自我縮小の出会い
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515882.html

日本人の自己観と幸福感(6)―江戸時代に完成された「閉鎖系」の倫理観
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516148.html

日本人の自己観と幸福感(7)―アトム的自己観を前提とする不幸
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516790.html

日本人の自己観と幸福感(8) ―「つながりの自己」は万能か
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517365.html

日本人の自己観と幸福感(9)―不安にみちた現実世界と世界仮構のいとなみ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517379.html


本シリーズは以上であります。

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もうひとつ思い立って、ブログの新カテゴリを立てました。

中嶋嶺雄先生・国際教養大学(AIU)
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056392.html

先生っ子のわたし、亡くなった恩師を慕っていると(生前も同じでしたが)強くなれる気がするのでした。

AIU訪問記などは今も高いアクセスがあります。中嶋先生はもういらっしゃいませんが、同大学を目指される方の手掛かりになれば幸いです。

また恩師の死の4か月前のインタビューは―、ゼミOBの方から「先生の遺言のようなインタビューだったな」と言っていただきます。わたしの宝物です。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


大変申し訳ありません。
自分のアニバーサリーを忘れておりました。
いえ50歳はもう一昨年迎えたんです。

当ブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は
先月21日をもちまして、10周年を迎えておりました。
2005年9月21日、イベント「コーチング関西」の準備中に
ストレス解消のために(?)開設したのでした。

最近は1日平均200人強の方がご訪問くださいまして、
すごく人気ブログであるとはいえませんが
延々と文章ばっかりの不愛想なブログに辛抱づよくおつきあいいただき
ありがたいことです。

相変わらず、成長のない当ブログですが
読者のみなさまのご愛読に心から感謝申し上げます。
みなさまのより充実した1日にお役立ちできますよう、
ひきつづき精進してまいります。
何卒今後ともどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 某デザイナーと東京五輪のエンブレムその他のデザイン盗用問題がこのところ話題でありまして、

 すごくこの問題に興味があるわけではありませんが自分の分野に照らして考えれば、「出典明記主義」を改めて確認するのは大事なことかと思います。

 このブログで何度もお話したとおり、当協会というか正田は「出典明記」にこだわるほうです。こういう人は業界でも珍しいと思います。他社様の研修で資料をもらうと、「おやおや、出典が書いてないのだなあ」と思うことはよくあります。心理学の知見でもなんでも、だれがどういう実験デザインでやった、とわからない書き方をしています。
 
(実は心理学の実験にはかなりいい加減なものもある、追試してみたところ3分の2は再現できなかったという記事がありまして

 http://www.afpbb.com/articles/-/3058654?act=all 

これも1つ前の記事でいう「業績至上主義」のもたらす弊害といえそうですね。信頼できる重要なものを選別できる目を持ちましょう)


 出典明記のお話に戻ると、これも何度も書きますように、人様に教えている自分は所詮先人の知識や思考の蓄積の「器」であります。オリジナルの部分などそんなに多いわけではありません。それを自覚したうえで、自分オリジナルの考えについてはそうと断ったうえで述べます。

 それは決してアカデミズムの世界に入りたいからとかの下心ではなく、自分的にほかのかたの仕事をリスペクトする形で文を書きたいからそうなりました。自分がそういうスタイルで文を書くので、書物を読んでいてもそういうスタイルで書かれている方の文章が好きであります。フェアプレイで誠実な仕事だと感じます。

 ちなみに「行動承認」を重視するのは一応オリジナルの考えであります。「例の表」を使用しだしたのは記憶に残っている範囲では2006年ごろから。当時から既に「行動承認」は「存在承認」に次ぐ位置にありました。それ以前から、学校や大学と違って会社組織という共通の目的のもとに集まった人々について最適化した承認とは何か、ということを延々と考えてきました。ただひょっとしたらわたしの知らないだけで先行の類似のものがどこかにあったかもしれません。

 ひとつ懺悔をしないといけないのは、目下「月刊人事マネジメント」誌に連載中の「行動承認マネジメント読本」では、あまり出典明記とか引用の形で書けていません。これは編集部様からの「あまり理屈っぽくなく、話しかける文体で書いてください」というリクエストに従った形で、そうなりました。(人のせいにしていますネ)本当は忸怩たるおもいです。これに限らず、引用とか出典明記にこだわると、文章の読みやすさをそこなう、という問題はたしかにあります。


 なおこういう盗用剽窃花盛りで、「やったもん勝ち」みたいな時代ですと、当協会コンテンツが盗用される側になる危険性は大いにあります。とりわけ「内製化論」に煽られた人事担当者の皆様は…、やめとこう。そしてわたしが「女性」であることは盗用リスクを増します。ワトソンとクリックはDNA螺旋構造に関する研究を…これもやめとこう。


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 「研修カクテル」という現象について、過去に何度か触れました。

 「研修カクテル」がもたらす副作用―傲慢、ナルシシズム、全能感、打たれ弱さ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51819638.html

 当協会方式の研修に触れてせっかく素晴らしくよい状態になった個人や企業様が、矢継ぎ早に類似の研修に触れることによって、急速にダメになってしまわれることがあります。

 事実なので、こうした指摘をするわたしのことを傲慢だと思わないでください。


 どういう現象なのだろうか、わたしの考えた今のところの答えは、

 昔の人だったら素直に一生の指針にするような思想にせっかく触れても、今の時代はどんどん他の類似品にアクセスできる。色々と見比べて天秤にかけて、そこで「消費者気分」が出てくる。
 さらに、自分が色んな思想群を俯瞰できる立場だ、という傲慢な感覚が出てくる。実はまだ何も自分は習得していないのであっても。
 最初の研修で味わった、自分の枠が大きく拡がったという感覚、自分の側の「修練」が問われるという感覚、それを「維持」するにも自分の努力が要る、という感覚、それがどこかへ行ってしまう。クルマの免許が取れてもいないのに大型バイクの免許もあるよねー、二種の免許もあるよねー、と屁理屈こねているようなものです。


 そうして伸びきったゴムのような感性の、とんでもなく傲慢なナルシシストができあがる。企業の人事とか研修担当者にそんな人は多いです。先日わたしが会った、「承認」について社内講師をやったという研修担当者も、「承認」にどういうカテゴリがあるか、かなり上のほうの代表的なカテゴリについても忘れていました。


 わたしが「例の表」にこだわるのはなぜかというと、あれは「承認」という難しいものをいつも脳のワーキングメモリに置いていただくためのいわば「圧縮フォルダ」なんです。

 最近の研究で、人のワーキングメモリは思われているほどキャパが大きくない、一度に4つぐらいのものしか処理できない、という知見が出てきまして

 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52199837.html

 
 ―お友達(それもあまり近い縁ではない)の投稿でこういう知見に出会えるからフェイスブックも捨てがたいのですが―

 拙著『行動承認』に書いた、

「『承認』『傾聴』『質問』その他で構成される『コーチング』ですら、マネジャーがワーキングメモリの上に置いておくには『メモリ過多』です。
 しかし、『承認』だけでいいですよ、と言われれば置いておけるのです」

 これも決してどこかからの盗用剽窃ではなくてわたしのオリジナルの考えであり言葉なんですが、

 こうした「ワーキングメモリの限界」の知見をみるにつけ、やはりそれで正しいのだ、と思います。


 「『承認』だけでいいんですよ」

 こういうフレーズは、一見「甘やかし」のようにも見えてバッシングを浴びてきましたが、著書をきちんと読んだり研修をきちんと受けた方なら、その世界にはきっちり「叱責」もあり、バランスを欠いたものではないことがお分かりになると思います。

 そして実際に強烈な成果に結びついています。

 不遜な言い方ですが、わたしは職場という「乱戦状態」のただなかにあるマネジャーの脳内活動にきちんと想像力をめぐらしたからこそこういう教育プログラムを作ることができた、と思います。


 ・・・そして、極限までシンプルにしたいわけですが、しかし「承認」が「ほめる」に矮小化されたり、「感謝」だけに偏ったり、という、困ったところまでメモリサイズがダウンしてしまうのは避けたい、のです。

 だから「あの表」があります。これだけのメモリサイズのものですよ、これをワーキングメモリに置いておいてくださいね、と繰り返し念押しするために。


 だから、過去記事の繰り返しになりますが、当協会方式と他社方式をまぜないでください。まぜるな危険。まぜたら、今あなたの手にしている成果は失われます。すみません一見エクストリームなことを言っていて。でも過去のさまざまな事実に照らして本当です。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 注:ここで扱う「学者さん」とは最近このブログに登場された方のことではありません。


 つれづれなるままに。

 「学者さんはなぜ正しくものを考えられないのか」
 
 これは特に、わたしに関わりのあるとみられる経営学とか経営教育学の分野について感じることですが、
 彼らの一人のブログをみていると、

「業績数値化」

というプレッシャーがあるらしい。

 論文を何本書いたとか、大学院生を何人獲得したとか。

 (実は、これを書いているのがわたしの天敵、「研修内製化」を提唱している当の大学の先生ご本人だったりする。消されるかもしれないから書いておくと7月30日付の記事である。だから「ベンダー排除―内製化論」のよって来る動機は自明なのだ。社内講師志望の人を大学院生として囲い込むことなのだ。たぶん本人さんも自分の動機はそこなのだと自覚はしていないだろうが、なんという利己主義の独り勝ち理論(笑)さすが団塊ジュニア。)


 そして最近のブログを見ていると、この人は「ものさしは幾らでも多数ある」という趣旨のことを書いていらっしゃるようなのだが、これは要は「iPS細胞に対抗するSTAP細胞的なものを論文数作成のためにいくらでも作り出せる」と言っているのにひとしいのではないのでしょうか。まあどうぞやってください、国の研究費使って。

 わたしは、自然科学分野の研究でもある一つの理論に収斂することは珍しくないことなので、価値のある理論は大きく価値づけすればいい、と思うほうです。もちろんそれしかないと思う思考停止はいけませんが。過去のこのブログで取り上げた経営学の本『世界の経営学者は何を考えているのか』でも、「理論のインフレ」という現象に言及しています。しかしそれは必要悪で仕方ない、と思わず、良識のある知性は「重要なもの」と「その他色々」をきちんと切り分けることが必要です。前にも書きましたよね、栄養学のスタンダードと、納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいの関係って。この人、最高学府のくせに要は納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいに際限なく惹きつけられる知性なんですよ。もっと三流大でやるならわかるんですが。
(そういう人に限って大学名を冠した自分のメルマガを発行したりするんです笑)

 学者さんがオリジナリティを追求するということを宿命づけられている限り、例えば学者さんが100人いてうち1人が正しいことを言ったら、残り99人は間違うことを運命づけられる。だから学者さんの集団に石を投げたら、99%の確率で間違っている人に当たる。「学者さんを見たら間違っている人だと思え」と思うのが正しいのかもしれない。正しい人を探すのは本当に難しい。彼らは自分の生存のために際限なく珍説を開陳し、「まだ確立されたものは何もない」と言い張る。自分の分野で確立されたものができてしまったが最後自分は確実におまんま食い上げになる。


 もちろんこの分野に研究者はうじゃうじゃいらっしゃるわけだが、わたしはこれまで何人かアクセスしてみた結果、この人たちとお付き合いすることに倦んでしまっている。ナルシシストで嫉妬ぶかくて、当協会の出してきた研修実績を認めようという気などさらさらない、簡単に言えば口惜しいから。中には女性のわたしにとんでもない汚い嘲り言葉を言った人もいた。そんな人たちをおだてたいとは思わない。彼らはやるべきことをやらない怠慢な人たちなのだ。


 ここで余談:他分野の例を挙げると、発達障害や自閉症のお子さんの療育指導の方法でTEACCHという有名な手法があるが、その中でも有名な「構造化」という手法は、まだ本家アメリカで検証されていないという。しかし「構造化」はとっくに津津浦浦で使われているし、体感的に有効なのは自明な手法である。たぶんあまりにも有効なので、学者たちが「無力感」で検証するのをサボってしまったのだと思う。それは反知性主義というような問題ではない、学問が無力だっただけの話だ。


 わたしが「この人ダメだな」と思った人は大体本当にダメになる、明らかにおかしなタイトルの本を書いたり良識ある人の吟味にたえないような底の浅い議論をするようになる。過去に「ほめる教」の教祖の1人と仲良くなった知り合いの学者さんが、急に発言の中に「ほめる」という言葉が増え、加えてわたしに対するメールに小バカにしたトーンがまじり、そしておかしなタイトルの本(うち何冊かは読んでみたがやっぱり中身も本当に変だった)を書くようになった。「ほめる」と「おかしくなる」がどう関連しているのかわからない。ただわたしは研修副作用のシリーズの一環で「幼児化か、老化か」という記事を書いたが、ある種の研修に暴露して幼児化したような状態になった人の脳の状態は、幼児化とも言えるが老化とも言える。何か、理性のタガが外れてしまったような状態になる。

 よくわからないが「承認」だと脳の可動域が広がるのだが、「ほめる」だと逆に狭まる気がする。

顔も「悪相」になる。テストステロンードーパミンが行動原理になった人の顔はそういうものだ。なぜ「ほめる」という本来いいことをやっているのにテストステロンードーパミン連合になるんだろう。すべてをバカにしちゃった感じ。


 お客様に「研修後、時間がたつと『承認』の理解が『ほめる』とか『感謝する』とかの部分的な理解に変質してしまって後退してしまうことがあるので気をつけてください」とメールする。

 このお客様は良くわかっていらして、「例の表」をラミネートして受講生さんに配ってくださっていた。


 いまだ、出口のみえないトンネル。

 敵だらけ。昨日の友は今日の敵。
 

 去年、「仲間」とよんだ人を全部切ってしまった。「仲間」になど期待できない、自分の思考の跡しか信じられない。
 たとえ「手伝いたい」というオファーがあったとしても、
 どんな醜い世の中をわたしが闘いながら生きていて、手伝うということがどんな泥沼の戦場に自分自身も身を置くことになるとわかって言っているだろうか。自分自身も手ひどく汚されるかもしれない、と知っているだろうか。また対立相手を斬るという汚れ仕事をしなければならないということをわかっているだろうか。


 ああまたネガティブなことを書いてしまった。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」(論語 為政編)

意味:

「私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった」
(故事ことわざ辞典より)


 孔子晩年の言葉だそうです。
 

 偉大な人の人生の言葉から自分を振り返るというのも傲慢なかんじがしますが、ふと考えました。

「五十にして天命を知る」。


 そういえば『行動承認』はちょうどわたしの五十の年の出版でした。

 でも今51になり、

「こんな虚業はもうイヤだ」

と迷っていたりします。偉大ではない凡人のゆえんです。


 読者のかたは、いかがでしょうか。


 「七十にして…矩を踰えず」というのは、「いちいち考えずに自然体で発言しても、人を傷つけるようなことがなくなった」というような意味かなあ、と考えます。

 そういう時がくるといいですねえ。



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 『行動承認』で良かったナと思うことは、あの本の中には一切「他社批判」がなく、「毒」がないことです。

 昨年は有名な「心理学」の本で「承認欲求」や「承認」を否定するくだりがあり、それを読んだらしい受講生さんの奇妙な反抗に遭い苦労しました。

 その他、「早くこのトレンド終わってよ」といいたくなる流行はようさんあります。また露骨な「他社批判」もさまざまな書籍の中にあります。仁義なきたたき合いの時代です。

 自分の身に火の粉が降りかかったらはらう。このブログでは時折そんなことをやって長い友人のかたにご心配をお掛けすることがありますが、何かの折に自分のスタンスを明確にするのは、そういうよくいえば百家争鳴、わるくいえば「なんでもありの無法状態」には必要な作業と思います。


 ただ、自分の「本」では一切そういうのを出さなかった。
 「承認の世界」のエビデンスとエピソードをつづり、それらを信頼してくださるお客様と対話しようと努めました。

 たぶんお客様がこちらからお願いもしないのに本を「反転学習」の教材に使ってくださったりするのも、そういう「毒気」のないスタイルを信頼してくださったゆえと思います。

 ほんとはブログでは結構どんぱちやって殺伐としているので、びっくりされるかもしれませんが。


また偉大な人を引き合いに出して恐縮ですが、孔子先生は競合のよその塾の先生を暗殺したことがあるそうです。すごいですよねー。



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 あの「大学の先生」も、よくわからないけど生き残り大変なのだろうな、と思います。

 「大学の先生」も「ベンダー」も、要は企業の人事の人を奪い合う「競合同士」なのです。お客さんを永遠に囲い込んでおきたいと思えば、「研修内製化」とか「ベンダーを使うのは思考停止」みたいな言葉が出てしまうのでしょう。

 「大学」のような大組織に属していると、むしろ別の種類の重いプレッシャーがあるのかもしれない。「現場」がどうなるか、ということまで気にかけてられない。

 そんなふうに同情することにしました。


当方は大事なことをしているので、邪魔しないでください。

「女性活躍」について書いた記事のゲラを返していただいたところ、すごく言葉に「トゲ」があって赤面した。結局この分野について冷静になれない自分がいる。「認められていない」と感じながら働く女性たちのことを考えると、「たまらない」のだ。でも読者は管理職を想定しているので、管理職がイヤな気持ちになったら元も子もない。ので何か所か慌てて修正する。

…ということをフェイスブックに書いていたらお友達(男性)のかたから心優しいコメントいただき、「そのリアクションは正しいと思いますよ。身近な女性管理職も、気持ちが分かるだけに辛いと言っています」とのことでした。
 そうなんだ、「認められてない女性のことを考えるとつらい」というわたしの感覚は間違ってないのだ、とほっとしました。

 そしてこのことも、新たに思い出したわたしのひとつの「暗黙知」につながるなあ、と思いました。

 暗黙知とは、すなわち「両方よし」ということです。
 これは、このブログにも滅多に書かないです。やっぱり管理職がイヤな気持ちになってしまうといけないので。

 管理職とは気の毒なもので、管理職が何かを「できてない」ことがその管理職を「悪」たらしめてしまうことがある。
 「承認」などはその最たるものです。

 「承認」が「ない」「できない」ことで職場の末端にどれほど多くの種類の「不幸」をつくりだしてしまうかイヤというほど知っています。1つ2つ前の記事に出てくる「職場のストレスレベル」などもそうですが、あくまで沢山ある中の1つです。

 しかし、「できない」管理職を「けしからん」と「勧善懲悪」の目でみてはならない。そのトーンで「承認」を語ってはならない。彼ら彼女ら自身も生身の人間で、それまで一生懸命生きてきていて、あと一歩枠を拡げなくてはならない局面にきているだけなのです。

 そして、「できてないあなたがたはけしからん」というトーンをにじませる研修講師のことは、管理職は決して好きにはなりません。自分たちの味方だとはみなしません、「この人敵だ」と認識します。それは恐らく社内講師だろうがベンダーだろうが一緒だと思います。

 できてない管理職に「アソシエイト」しながら、「このスキルを習得すればあなたがた自身幸せになれますよ」という意味のことを、「けしからん」を一切まじえず真心から伝えなければなりません。

 それができれば、管理職は幸福感をもって習得できるし、また習得したスキルを幸福感をもって使いこなすことができます。それが最終的に部下の側のほんものの幸福感になります。
 それが、ここでいう「両方よし」。


 この、「けしからん」を自分のこころから完全に追い払った状態で管理職の前に立ち、彼ら彼女らの味方に徹して語るということが、やっぱりノウハウとして必要だとわかっている人はすくないですね。これまで何度かほかの講師のかたとご一緒に仕事させていただいて思います。とりわけ「承認」というコンテンツは、問題解決の「急所」になるところだけに、「けしからん」という居丈高な感情を誘発しやすいようです、講師の側に。

 正田なんかはご存知のようにけっこう怒りっぽかったり悲しみやすかったりネガティブ感情をいっぱい持っている人間で、「認められない」人の悲しみはイヤになるぐらい自分のこころの中にも入ってきます。ときには怒りもわきます。それは確実にわたしの動機づけになっているのですが、それとは真逆に、文章や語り口にはそれを消し去り、管理職たちのほうをしっかり向いてあげることをします。枠を広げる彼ら彼女らがいかに大きな勇気と克己心でそれをなしとげるかを称揚し、彼ら彼女らのこころの疲れにも寄り添います。



 …ところで、このところこのブログで取り上げている「研修内製化」。
 最近またあるところで、「社内講師」のかたが「承認研修」をどういうやり方でやったか、きくことができました。
 管理職たちに、部下の名前をフルネームで書かせたのでした。そして、「下の名前まで書けない」「漢字で正確にどう書くか忘れた」という管理職たちに、「ほら、それが『承認がない』ということですよ」と言ったそうでした。なんでも「承認」だけを扱った研修ではなく、色んなことにちょっとずつ触れる研修だったらしいですが―。

 それをきいて脱力しました。
 管理職たちはすっかり「承認」なんて「嫌い」になり、何かのときに人に語る際には嫌悪をにじませた口調で「承認」を語るでしょうね―。

 こうやって、「社内講師」のかたがどういうやり方で研修をやっているか、事例を集めていくと、「内製化」をやみくもに謳うことがどんなに「危険」か、わかってくると思うのです。
 過去の「内製化」関連の記事はこちら。ここにも1つ事例が載っています

 内製化ブームに「1位マネージャー育成」の講師が思うこと
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51885682.html


 「内製化」が正しい文脈というのもあるにはあり、ベンダーが粗悪品の研修をバカ高いねだんで売っているケースもあるのです。ただ、正しい場合と正しくない場合とある。「理念研修」のような、その会社のまったく独自のことは内製化で当然いいと思います。

 わたしなどは「ワールドカフェ」みたいな、碌なコンテンツも存在しないようなものは「社内講師」のかたがしてもいいとは思いますが、それでもやはり講師に一定の訓練が必要と思います。最低限、「リスペクトの口調」とか、「ある程度の歯切れのよさ」とか「手際よく的確な指示出し」とか。

 (補足:世間のワールドカフェのプロの方などには、「人を『乗せる』面白おかしい流れるような口調」というのもあるみたいですが、わたし個人的にはそういうのがもたらす人のこころの状態というのはイヤなもので―。チャライのは嫌い。はい、純粋に好みの問題です)

 「見よう見まね」レベルで、プロのノウハウのごく一部しかわからないで講師をしたがる「社内講師予備軍」の人が多すぎます。先の例の社内講師のかたは、「コーチングの本格的なトレーニングをどこかで受けましたか」ときくと、受けてなくて、「社内でやったコーチング研修にアテンドしたことがある」ということでした。なんか「本格的な訓練」というものを小バカにして、広く薄く、カタログだけぺらぺらめくっているようなところがある。そんなでも人に(それもラインマネジャーに)教えていいと思ってる。こういうのも、「内製化のすすめ」+「大人の学び」のもたらした荒涼たる風景でしょう。

 こういう人に、今回の記事の内容のような、一子相伝的なあまり外に公開しないノウハウを教えてあげたいかというと、教えたくない。意地悪するわけじゃないけれど。あ、ノウハウほかにもようさんありますからね。



 …さて、「認められないと感じながら働く女性たち」の風景というのは、わたしもつらくてみていられないところがあるのですが、もし機会があればまた情報収集してこのブログにでも書くでしょう。
 
 管理職たちにとっても「女性」は非常にセンシティブな話題のようで、「女性活用研修」などと銘打った研修をすると、露骨にイヤそうな顔で参加されます。「この講師は敵だ」と思っていることでしょう。ありがたいことに正田のところにはそういうタイトルのご依頼はめったにきません。
 ところが「承認研修」の流れの中でちらっと「女性にも『行動承認』してあげましょうね」ぐらいに触れておくと、それはイヤではないみたいで、ちゃんとやってくれます。そしてしばらくすると「えっ」と思うような素敵な活用事例を報告してくれることがあります。

 なので、「女性の一味」である正田は、「承認研修」という千載一遇のチャンスを、いい加減な講師のかたにやっていただきたくないのです。

 なお、「内製化のすすめ」を謳っている大学の先生には、社会的地位の高い人だけにわたしは厳しいです。どんな事態を全部でもたらすか想像力がはたらかないままに言っているとしか思えない。仕事柄企業の人事の人を敵に回してはやっていられない立場だろうとは思いますが(正田だって本当は敵に回したくないけど)、逆に事ここまでに至ってしまうと、「ベンダーを使ったほうがいい場合もありますよ」ということは口が裂けても言えないだろうと思う。旧日本軍みたいに、薄々間違っていると知りながらその方向に突っ走るしかないと思う。

 そして、ただでさえ企業の1人あたり教育訓練費が先進国の中でも極端に低いわが国で、粗製乱造の「内製化」がダブルパンチで来ると、わが国の強みである「現場力」すらも急速に衰えてしまうことが予見されるのです。最後は学者さんみたいな口調になっちゃった。

 真摯に企業のゆくすえを案じる立場の人がこの記事を読んでくださることを祈ります。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 このブログでは過去、『報酬主義をこえて』という本を徹底批判しました。今読んでも、行動理論という当時すでに確立された理論について面白くないとかみついた、それに大層な理屈をまぶしつけた、不愉快な本でした。

 「確立されたものだから、面白くない」
というゆがんだ情熱に動機づけられた本は、独特の邪悪な匂いをはなつのです。
 去年STAP細胞の記者発表をした(のちに亡くなった)学者さんも、iPS細胞への対抗意識をむきだしにしていましたねぇ。またそれに近いものは、ここ2−3年流行っているべつの「心理学」―これもわたしからみると、心理学というより極論のオピニオンに近いのだが―にも感じます。

 余談になりますが大学教育でまた「教養」を否定する流れがあるとき、「実学」もいいのですがこういう、
「変なものに騙されない能力」としての「教養」は継承され得るのか、と心配になります。


 そしてそれに続き、巷にある「大人の学び」なるものを批判しなければならないところに来ているのかどうか―。
 批判ということは、するのは「大人げない」のですが、言語化することでほかの方の頭の中にもあるモヤモヤしたものを具現化することができるようだ、というのも思います。だれかがどこかで言語化しないといけない。


 この件に関してまだあまり固まっていないのですが、今の私の中に出来上がりつつある見方は、


 「『大人の』も『学び』も本来、使うに値しない。いうなれば『意識高い人(痛)のための参加型情報番組』という呼び方がふさわしいのではないか」

ということです。

 主宰者の大学の先生の、「大人の学びはあくまで個人の学びの入り口」という言葉がほんとうであるなら、所謂「大人の学び」という楽しいイベントのその先には自発的に求める克己的求道的な厳しい学びの世界があるはずであり、それこそがほんとうは「大人の学び」とよぶに値するはずでしょう。英語でもなんでも何かを「習得した」といえるレベルになるには相応の時間数が必要で、自分の従来のキャパを打ち破ろうとするような克己心や集中力も必要です。

 何の負荷もかからない、TVの情報番組のように早いテンポでぱっぱと移り変わり仕事の息抜きにはいい、所謂「大人の学び」のところにいつまでもとどまっていたら、

「まだそんなことやってるの!?ガキじゃないの」

とバカにされるのが正しい、のではないでしょうか。


「いや、つかれてるから本当は何も学びたくないんだ、ただ新しい情報がぱっぱと入れ替わるのをみると息抜きになるんだ」
という需要に心優しく応えるのを「大人の」というならべつですが―。


 ただ所謂「大人の学び」は、異業種交流というお土産もあるから、「夕活」ブームの中で一定の地位を占めるでしょう。

 しかし「学び」というものの中には、一方の対極にわたしがやっているような「修練」「習得」に重きを置いたような学びもある。こちらはむしろ本当に種もしかけもない。しかし、それを「学ぼう」と決意した人、というのはある意味、その時点で大いに「大人」なのです。

 「真摯さ」を嘲笑のタネにしたい、という歪んだ心理も世の中にあるのは承知していますが―、
 往々にしてそうした心理は、「邪悪」のレベルまでいってしまいます。そちらを肯定してしまうと極端な話、「いじめ」にまでいってしまいます。
 これも「功罪の比はどれくらいか」という話になるのですが、「真摯さ」がわるさをする確率は「あるにせよごくまれで小さい、多くの場合は良い方向に作用する、わるい兆候がみえた場合には待ったをかけることも必要だが兆候がみえない場合には肯定しておいてよい」です。医薬品の副作用のようなものです。
 「真摯さがわるさをすることがある」ということを論じる場合には、「そういう功罪比である」ということが読み取れるように語らないといけません。

 そして仕事の現場は「真摯さ」のかたまりです。


 「大人の学び」という、大人げない名称を変えてくれるならいいのではないでしょうか。

(「大人」を自称する時点で「大人」ではない、という見方もできるかもしれませんね…)


****


 こうした問題を考えるとき、わたしはどうしても「ラインマネジャーとスタッフ部門の人の人格の違い」ということにも思いを馳せます。

 たとえば、「情熱」はどちらかというとラインマネジャーのほうに多い。スタッフ部門の人には、生得的に少ないのではないかと思える人が多い。それは加藤清正と石田三成の違い、をイメージしていただければわかるでしょうか。

 自分が生得的に持ち合わせていないもの、というのは、不気味にみえたりするものです。

 だから、スタッフ部門の人に「受ける」話をしようと思えば、ラインマネジャーの「情熱」を笑いのめすというネタもあり得る。

 しかし現場的にはそれは間違いだったりする。


 この業界に入ってから10何年、こんなことばかりです。


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 ・・・あと、こういうことを言うと関係者のかたを傷つけてしまうかもしれないんだけれど、

 際限なく新しいことを言ってあるいは自己矛盾するようなことをわざと言って混乱させ、ひっぱりまわし、受講生にいっさい「達成感」を与えない、というやりかたは、「自己啓発セミナーの教祖」もおなじことをするんですよねえ。永遠に自分が優位に立てるんです。あくまで似ている、というだけです。ついていく人は、際限なくついていきます。

『ヤフーとその仲間たちのすごい研修』(日経BP社)という本を読みました。

 ヤフー、インテリジェンス、日本郵便、野村総研そして北海道美瑛町の職員という異色のコラボで、ベンダーを通さない人事の人主導のプロジェクト型研修のもようをドキュメント風に語った本です。


 幹部候補生のリーダーの研修と「地方創生」のテーマを組み合わせた意欲的なプロジェクトであり関係者のかたの熱気と労力がしのばれます。
 こういう研修を企画するのは人事担当者の人にとって「夢」であろうなあ、とも。


 登場する有名教育学者の言葉の端々からは「ベンダー(教育研修業者)を使う研修は悪い研修」という含みが感じられます。不定形なものがすきなのだろうなあ、このひとは。


 さて、詳細は本書を読んでいただくとして、
 ベンダー(のはしくれ)として思うところを述べます。

 
 自社の研修をベンダーに依頼する風景の中に思考停止のもの粗悪なものがある、ということは認めるにやぶさかではありません。その結果ゆがんだ市場原理が起き現場のマネジャーとその部下が翻弄されるのはわたしもずっと危惧してきたところでした。

 しかし、「だからベンダーを使わず自前でしたほうが優れた研修効果が得られる」と結論づけることはできない、とも。短絡的な「ベンダー悪玉論」は正しくありません。

 というのは、しょってる言い方ではありますがわたしが過去お邪魔してある程度の時間数を確保して研修をさせていただいた先では、むしろ劇的な各種指標の向上が起こっている、という単純な事実から言うのであります。


 それは、わたし流に種明かしをするなら、
1.「定番」であること。
2.専門ベンダーによる研修であること。

 管理職研修にも「定番中の定番」と位置づけるべきものが本来存在する、それが「承認研修」。
 ただ、定番だから変化がなくておもしろくない。未知のフロンティアを探究するプロジェクト型研修ほどには。

 ところがその定番であるべきものが定番である、そもそも定番が存在する、というコンセプト自体がまだ普及していない。管理職研修のメニューも無数にある中で「どれが基本でどれが応用」という階層的なイメージが見えないまま選択されることが多い。さらにともすれば中小〜中堅企業では、「管理職に研修などけしからん。若いやつらにこそ研修を手厚くするべきだ」という考えが支配的になり、研修の導入がなかなかできないうちに若手の離職がどんどん起きてしまう。


 定番/基礎編をすっ飛ばして応用編ができるのかというと…、

 わたしは例えば、本書の1人の登場人物の言葉
 「ただ外国人を入れました、女性を入れましただけがダイバーシティじゃない」
 という言葉に「一部賛成、一部反対」なのだけれども、

 そう言っている人自身、例えば「女性」や「外国人」に対するバイアスを卒業できているだろうか?という疑問があるのです。

 意識の高いブログ読者のかたは「まさか」と思われるかもしれません。
 あまりにも基本中の基本、耳にタコができた、でも本当はその段階を卒業できていない。
 実際は世の中にはそういうことがいっぱいあります。

 「バイアス」について最近新しく思ったことをこの記事のあとのほうで述べます。


 …で、「承認研修」は、多分講師のわたし自身が女性であることも手伝って、「バイアス」全般をとるのに大きな効果を発揮します。
 こんなことを書くとまた、
 「要は宣伝したいんでしょ」
 と思われるでしょうか。

 
 そして、2番目の点、「ベンダーであること」も、「承認研修」に関しては大事なのだろうと思います。

 その会社の従来の管理職のありかたとは真逆で社内にロールモデルがいない、自分が部下時代に上司をみていて管理職の振る舞いとして学んだことをアンインストールしないといけない、そういう種類のものについて、それでも時代の趨勢によりやらなければならない研修というのは、信頼できるベンダーから学んだほうがいい。

 その場合重要なのはなんなのだろうか。

 管理職にとって重要なのは、「コンテンツをきっちり確信をもって教えてくれる先生」であろうとわたしは勝手に思っています。
 同じ手法でこれまでの成功したマネジャーたちの群像も、社内でロールモデル不在の状況で学ぶには参考になる。


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 「バイアス」「ヒューリスティック」については、このブログでは2013年前後にシリーズで、認知科学の一連の知見を紹介してきました。もしご興味のある方がいらしたら、「判断を歪めるものとの闘い」という言葉でこのブログの検索窓に入れてみてください。

 自分自身女性なので、こうした問題はいつもひとごとではないのです。またこうした問いを立てることは、このブログによく登場する発達障害をはじめ障害者や外国人、あらゆるダイバーシティの問題についても役に立つと思います。


 最近の見聞でまたおもしろかったこと。

 あるところから取材を受けたのですが、取材者のかたが「専業主婦からリーダー教育の第一人者になったのはなぜか」という問いをもっていて、「専業主婦」という言葉を繰り返しぶつけてこられます。

 わたし自身べつに「専業主婦」に対してバイアスをもっているわけではなく、だからこそ自ら一時期専業主婦にもなれたので、経歴の中にも長いバージョンの中では1行「子育てのため専業主婦8年」と入れています。

 「生老病死」
という、人生の基本のところを大事にしたい、というようなことは過去にもこのブログに書いたことがあります。「専業主婦」を一時選択したのは自分にとってはそういう意味あいがあったでしょう。


 ところが、どうも話がかみ合わないなあ、と思ったのは、取材者のかたが途中で

「西も東もわからない専業主婦」

という言葉を使われたので。
 
 ああ、そういうイメージでこのひとは「専業主婦」をつかっているのか、と思いました。

 わたしの場合、実家も遠い中で子育てを自分でちゃんとやりたかったので人生の一時期無職期間をつくったが、一生そうしていたいと思っていたわけではなく、子どもがある程度手を離れたら仕事の世界に戻ることは念頭にありました。1人M字カーブ。たまたま仕事として選んだのが当初は医薬翻訳者であり、次にコーチング、そしてマネジャー教育の研修講師、だったのであります。

 そしてあまり傲慢な言い方にならないよう気をつけたいのですが結婚前の職業は通信社記者であり、女性としてはかなりさまざまな世界に触れさせてもらったほうなのです。


 このインタビューでは結局取材者のかたの期待されるようなお話はできなかったのではないかと思います。


「困られたのはどんなことですか」
「そうですね、早くから成果は出ていたのですが、皆さんがなかなかそれを信じてくださらない、そのことが辛かったです。この手法が普及しないということは、この手法によって幸せになれるはずの人を幸せにできないということですから」

 わたしは淡々と言いました。

「2003年から14年までの間に『業績1位になった』などの成果事例発表のセミナーを通算7回やっています。いかに長い間信じていただけなかったかということですよね」


 たぶんこういう答えは取材者のかたにはおもしろくなかったのだろうと思います。期待されていたのは、たとえば

「私は仕事になど興味はなかったのです。若い頃から花嫁修業をして主人や子供のためだけに生きることが夢でした」
といった、絵に描いたような優等生の「専業主婦」の答えなのでしょう。それと「リーダー教育」のイメージギャップを記事に仕立てよう、という構想があったことでしょう。

 取材者のかたが自分にとってピンとくる「フック」に出会えずにじりじりされているのがなんとなく伝わりました。でも嘘は言えないんですよね。

 もうひとつ付け加えるなら、わたしの研修講師として駆け出し時代のころから出会ったマネジャーたちは、わたしについて「専業主婦」という言葉では考えなかった、「正田さん」という一人の真摯な人として出会い、遇してくれたのです。そしてわたしも彼ら彼女らを心からリスペクトしていたのです。

 そういう言葉をこの取材の中で言ったかどうか、ひょっとしたら嫌味に響くかもしれないから言わなかったかもなあ。


 こうした行き違いもいずれは笑い話になるでしょう。

 それにしても、「取材」を業とする人は読者のかたにわかりやすい物語をつくろうとするあまり、自分自身もステレオタイプの思考にはまっていることが多いです。この件にかぎらず。


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 NHKの朝ドラ「まれ」。

 このブログではよく朝ドラをネタにとりあげるので、そういう行動傾向はまんま専業主婦なんですが、、
 過去には朝ドラに明らかに「発達障害」を思わせる人物が、それもヒロインの恋人役という重要な役どころで登場したことに注目し、今世の中の認識はそうなってるのかと思ったり。


 この春からやっている「まれ」ではどうなのかというと、多分初めて、「中国人」が登場しています。ヒロインの「まれ」の横浜での修業先の洋菓子店のご主人の奥さんがやっている中華料理店のシェフの陳さん。

 この陳さんは実生活でも本物のシェフらしいのですが、劇中では在日経験が長いにもかかわらず日本語は片言(かたこと)。いつも「はい、激辛マーボー豆腐〜」と激辛料理をつくって出す。

 しかし、しょっちゅう本質を突いたことを言ったり、あるときには合コンをやろうと「まれ」たちのために若いイケメンの男の子をつれてきたり、不思議なところで能力を発揮する、おもしろいキャラクターです。


 何がいいたいのかというと…、

 朝ドラは当然「主婦」がみることを前提につくられていますが、
 「主婦」たちのイメージする「中国人」はドラマとはいえまだこれぐらいステレオタイプだ、ということ。
 もちろん、差別だと腹を立てるのも大人げないように漫画チックにデフォルメされていますが。


 ―異質な者の存在を認めるとき、わたしたちはまず「ステレオタイプ」として認めるのだ。でもいつまでもその段階に留まっているべきではない―


 そしてまた、

 メディアの世界の人にとっての「専業主婦」という言葉もまた、「主婦」が魚眼レンズから世の中をみている世界の「中国人」と同じくらいステレオタイプなイメージを誘発するのではないか、と。

 ひどい言い方をすると、「主婦」の世界も「メディア」も実は鏡のこちらとあちら、よく似ているのではないかと。


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 『月刊人事マネジメント』誌での連載は、3回目の「女性活躍」に関する記事を編集部にご送付したところです。

 締切より10日ほど早めに提出し、「ご意見お願いします」と言葉を添えましたら、「これでいきましょう」というお返事をいただきました。
 自分のものの見方がおかしいんじゃないか、ときにそんな不安に襲われるときに、すこし元気になります。


 今月号に掲載された同誌での連載記事『上司必携!人手不足時代のチームをやる気にさせる 行動承認マネジメント』第1回の記事は、編集部様のご厚意で8月上旬にブログにもUPさせていただきます。


 猛暑の中、読者のみなさまもくれぐれもお体お労りください。

 

(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 「月刊人事マネジメント」((株)ビジネスパブリッシング)誌様よりお声がけいただき、「行動承認マネジメント」についての全7回の連載をさせていただくことになりました。


 その第1回が7月号に掲載されています。

5月刊人事マネジメント10705月刊人事マネジメント2


 表紙にも「新連載」として取り上げていただきました。

 題して
「上司必携『行動承認マネジメント読本』〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜」 
とこの連載タイトルは編集部の方が案を出していただきました。

 中身はちょっと格式あるフォントやレイアウトで、「行動承認マネジメント」というやや硬い定番チックなタイトルに見合うように。

 全7回の構成は以下の通りです:

第1章 「行動承認」は”儲かる技術”である(7月)
第2章 「承認研修」の実際(8月)
第3章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月)
第4章 上司の「承認」が若手の早期離職を防ぐ(10月)
第5章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月)
第6章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月)
第7章 「腹落ち感」をつくる「伝え方」とは(2016年1月)


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 「ああ、やっぱりそうですか」

 このところ続けて、研修や講演のご依頼に対してそんなお返事をしました。

「介護施設の離職原因は給与や労働環境より、スタッフ間の人間関係のほうが大きいのだという」

「チェーンストアの売上は立地もさることながら、スタッフ間の人間関係が大きく影響する」

 お客様のそうした問題意識に基づいて「承認研修」のご依頼をいただくのです。

 それも聡明なトップの方ご自身が気づかれて、というパターンが続きましたので、有難いことと感じます。

 当方のソリューションにあまりバリエーションがないのがちょっと悲しいです。


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 「たった一度きりしかない人生」

 51歳、当たり前のこの言葉が繰り返し頭をめぐります。

 不完全で取り立てていいところのないわたしも、この人生を一度きりしか生きられない。泣いても笑っても。
 またほかのかたにとっても。

 「自己受容」や「個別性」、長年学んできたつもりではありますが、時に応じて新しい言葉で腑に落ちることがあります。
 今のわたしにとっては、(輪廻転生のような可能性を排除すれば)与えられた生命と人生は一度きりしかない、ということが、歯ぎしりするような現実として腑に落ちているのであります。

 それはまた、研修に行かせていただいた先の、わたし自身は出会うことのない若手や中堅や役職定年後の人びと、研修のエンドユーザーである管理職のそのまた先にいる人びとの人生もまたそうなのだ、と頭はそこに向かいます。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


 丹波市の社会福祉法人山路福祉会の特養山路園施設長、澤村安由里様より、法人のおたよりをいただきました。

山路だより


 
 巻頭の澤村さんの「ご挨拶」から。

人にではなく、主に仕えるように、
    善意をもって仕えなさい。
      エペソ人への手紙6章7節

(略)

 昨年度は、「独立型再生可能エネルギー発電システム等対策補助金」の交付により、太陽光発電のためのソーラーパネルや蓄電池等を設置し、快晴の日には、ロビーの発電モニターの棒グラフを見るのが楽しみになりました。これにより、災害により送電がストップしても最低限の電力は確保でき、利用者さんの生活の安心と福祉避難所としての機能強化につながると思われます。
 今年度は、特に「〜してあげる」ではなく「〜させていただく」気持ちを忘れず、謙遜に、献身的に、愛のある介護の実践に力をいれます。在宅福祉・施設福祉の両側面から、地域福祉の向上に寄与できるように、職員の成長と法人組織の充実を目指します。
 そのためにも、今年度も、職員がひとつになり、職員ひとりひとりが心も体も健康で、気持ちよく楽しく働ける職場風土を築くとともに、お互いのよいところを認め、思いやりをもって、仕えあい、支えあい、心をひとつにして、愛のある介護を実践していきたいと思います。



 

 このほかおたよりからは、たくさんの委員会活動や啓発活動、施設整備など常に一つところにはいないたゆまぬご努力ぶりに心打たれます。
 また編集後記にあったアラフィフの会での
「内科的な衰え」「脳神経科的な衰え」
は、わたしにとってもまさしく自分ごとでありまして、

「私たちの肉体は日々衰えている。
しかし、魂は衰えるどころか新たに生まれ変わることができる。
日々新たにしてくださる神様が共にいてくださることに、感謝しつつ、
変わらない愛を用いて『愛のある介護』の実践をしていきたい」

この言葉がひときわ心に沁みました。


 澤村さんは、2013年2月の兵庫県社協・青年協主催の「承認研修」に参加され、以来「『承認』は根源的なことですね」と言われました。
 このたび丹波ブロック老人福祉事業協会総会の講演にお招きいただき、当日お食事をご一緒しながら、その後の職員さん方のお話をひとしきり伺いました。
 施設では年間にほとんど退職者は出ず、皆さん元気に頑張っておられるご様子。この日6月16日はちょうど職員さんのUSJへの親睦旅行の日でした。

 80人の職員さん一人一人に誕生月には記念品を贈り、自筆のお手紙を添えて渡すという澤村さん。
 「私自身はクリスチャンなので、『だれも見ていてくれなくても神様は見ていてくださる』という感覚があるんです」と、澤村さんは言われました。


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 以前にこのブログでもインタビューをご紹介した、元コープこうべ役員の有光毬子さん(70)が、24日、男女共同参画社会づくり功労者として内閣総理大臣の表彰を受けられました。

 http://www.gender.go.jp/public/commendation/souri/meibo-h27.html

 あれっどこかで見た写真のような気が…(*^^*)

「生活協同組合コープこうべ女性初の食品バイヤー、店長等を経て役員に就
任するなど女性が社の方針決定に参画する道筋を切り開いた。また、兵庫県
経営者協会内に女性産業人懇話会(VAL21)を発足させ、女性の管理職登用
促進等に尽力した。」

と、兵庫県ホームページに功績内容が載っています。


 嬉しいですね(*^_^*)

 有光さんの世代のかたは、制度が整った現代では想像ができないぐらいハードな頑張り方をして道を切り拓かれました。周囲も必ずしも理解ある目線ではない中、結婚子育てもされながら意志を保ち続けるのは大変な困難なことだったでしょう。

 そしてむしろこの世代のかたは、いま沈黙されがちなのでした。「今の若い方々に当てはめることはできないから」と自ら謙虚に振る舞われことさら体験を語ろうとはされないのでした。

(ブログに掲載させていただいたインタビューは、だから口を開いてくださった貴重な機会なのです。ちなみにそのインタビュー記事はこちらからご覧くださいませ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51881408.html


 だから、表彰されたとの報が傍の目にはひときわ嬉しいのです。

 有光さん、おめでとうございます!

 お知らせくださった友人にも感謝。


****


 引き続き新しい受講生様に出会い、新しい宿題を拝見し、コメントしてお返しします。

 
 お伝えしたことが永くお役に立てますように。




(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 関東の某大学医学部付属病院のお話。

 このブログではめったに時事問題を直接とりあげないんですが、ある意味「典型的」だと思うので…。

 「承認教の正田」は、この事件はこうみる、というお話です。


 問題の男性医師自身が悪いことは、論をまたないです。たぶんこのブログによく登場するある種の知性の偏り、
「セルフモニタリング能力低」
「ミスの認識力低」
「内省力低」
という問題です。


 いっぽう、それを「10人死亡」になるまで放置してきた組織の問題については。

 いくつかの要因があるでしょう。わたし的には、


1.「ものに驚かない精神」
2.性差別/性バイアス
3.相互批判をしない気風


です。

1.ものに驚かない精神 については、1つ前の記事をはじめこのブログで何度も触れました。「12年1位」の正田も今もずうっと「これ」の被害に遭い続けています。

 「えっ」「おやっ」「むっ」という感覚。情報に接して自分の細胞が入れ替わるような感覚。膝から下がぴくっ、と動くような感覚。
 …が、ない奇妙なフラットな感情状態。

 ストレングスファインダーでいうと「×××」が関わっていそうだ、という話も以前に書きました。

 たぶん、「10人死亡」になる前の段階で、報告相談めいたものはちょこちょこあっただろう、常識的に。
 しかし「黙殺」されてきただろう。


 「1人死亡」の段階も、それでも由々しきことですが、「6人、7人、8人、9人死亡」ということになるともう、話が大きすぎちゃう。「なんで、2人3人の段階で予防しなかったんだ」という話になり、不作為を責められるのが怖さに再度不作為をする。この段階になると「隠ぺい」と言ってもいいと思います。

 それはまだむしろ「理性的」(でもほめられないけれど)な反応だが、それ以前に、

「8人?イヤだ、そんなのすごすぎて信じられない、きかなかったことにしたい」

そういう「感情的」というか「感情不全」の反応があるようだ。と「12年1位」をいくら言っても信じてもらえない正田はおもいます。

 要は、サイズの小さい知性の人同士自分たちの想定内の情報をチャラチャラやりとりしているのが心落ち着くのに、感情のメーターが振り切れるようなサイズの情報が来てしまうと、「思考停止」になり、「ききたくなかった」「言ってきたこいつが悪い」となる。「なかった」ことにしちゃう。

 「妄想的」で「知的怠惰」の人たちが、大きなサイズの情報に対しては「感情的拒否」を起こす。あ、多いんですよ社会的地位の高い人で、現場から遠いとか遠くなった人の中に。

 「ものに驚かない精神」が起こす殺人。

 「10人」の後半ある時期からは、それの繰り返しだったのではないかと思う。




2.上記に関連して、たぶん、「性差別」「性バイアス」的なものが関わっているだろうなと、この問題解決能力の低さの裏側に。


 なんでそうつながっちゃうの?と思われると思いますが、

 恐らく、報告相談めいたものがあったとき、それはくるとしたら「ナース」からだろうと思います。患者家族は、その医師がそんなことを繰り返しているとは気がつきにくい、ナースだったら気がつく。


 どこに相談するだろうか、診療科長とか学部長病院長かそれに準じる人たちでしょうかね。看護師長にまず言って、師長からその先はそういう人たち。


 そのとき、「ナース」に対する医師からの差別意識とか、もっというと性差別意識が出るだろうと思います。

 人は、自分が見下している人の言うことはリアリティをもって聴けない。

 今どきのナース、きれいにお化粧して髪も薄い色に染めて、という人が多いですけれども、それを悪いとはいいません。外見がどんなでもナースの多くは責任感当事者意識の高い人たちだと思います。問題は、やはり社会的地位のある男性たちが、彼女たちのお化粧した顔、リップを塗った唇、甲高い声によって伝達される情報をリスペクトしないという問題であります。

 とりわけ、話の内容が男性の医師を告発する内容であると、「けしからん!(ナースが)」という意識が先に立ちやすいでしょう。いえあたしは全然「共感」しませんよそういうの、バカだ、と思ってますよ。


 ほんと、冗談じゃなくそういうのが現実に日常的にあります。問題解決能力の低さの裏側に。中1の子の殺人事件も、母子家庭で保護者がお母さん1人だったのが問題解決にマイナスに働いたかもしれない、と思ったりしますもの。ドスの効いた腹式の声で「そのにやにや笑いをやめなさい!」なんて怒鳴れるお母さんはそう多くないですよ。そうして子供さんの命を見殺しにしちゃったかもしれないです。


 女の人の言葉をリアリティをもって聴けない。昨今、どうもそういう風潮が以前より強まっているような気がします。まかり間違えば人を殺しちゃう感性です。

(逆にだから、「承認研修」を女性講師の正田から受けるのは、マイナス点ではなく恩恵なんです。「女性が有益な情報をもってくる」と認識することができ、あらためて「女性」についての研修をする手間が省けますから)

(拙著『行動承認』では、わざと「だ、である」調の文章を一か所入れて、「物事を認識し判断する力に男性も女性もない」と最終章で種明かししたりしました。でもそんなことをわざわざやらないといけないぐらい、「女性は判断力が低い」という迷信がまかり通っています)


 1.2.の問題は「傾聴教」の人は「傾聴の問題だ」と言われるかもしれませんがあたしは「承認の問題」ととらえます。「承認教」では、聴き手も運動体ですから、聴いても何もしないカウンセラーさんじゃないですから。また「承認教」では、相手をリスペクトしますしまっとうな社会人で判断能力もある相手のもってくる情報もリスペクトしますから。それは自然とそうなるものなんです。


 
3.あと相互批判不在の問題。

 
 お医者さん業界は相互批判しない、のは以前は有名な話で、医療過誤訴訟の弁護士さんは原告側に立って証言してくれるお医者さんを探すのに苦労してました。1990年ごろ。今は、状況は変わってますかどうか、業界の風雲児的に発言するお医者さんはちらほらいますが。

 たぶん今回も、院内でも話が表に出にくかったと思いますが、表に出ていたとしてもちゃんと批判する同僚はいなかったんじゃないでしょうか。


 あたしは、批判しないのは無責任だとおもってます。人の命とひきかえにできることじゃない。
 このブログの読者のかたは、このロジック理解していただけますでしょうか。
 目の前の同僚を批判することがけしからんか、患者さんの命をそまつにすることがけしからんか。




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 さて、また蛇足で自分の仕事に引きつけて書きますが、

 これも、あたしが「承認大事だ」というとかならず「ほかのことも大事じゃないか」という反論が出るわけですが、


 「ほかのこと」をやって無効だったときに「承認」を入れたら「がん」と業績が伸びたんです。
 そういうのを、今年が2015年だからもう10年以上やり続け、結果の比較も出続けてるわけです。

 詳しくいうと、例えば他研修機関で研修を受けて「傾聴」「質問」を一生懸命1年ぐらいやり続けてそれでも業績が低迷していた人に、しばらく見て「足りないのは『承認』だな」と思って「『承認』だいじですよ、部下が求めているのはそれですよ」と言ってあげてツールも提供してあげて、そしたら右肩上がりで業績が上がった。半年ほどで1人当たり生産性で90位から50位代へ、そして目標達成率は1位へ。

 その「右肩上がり」以前に「傾聴と質問」をどれくらい一生懸命やっていたかというと、プロコーチの真似して部下1人1人に週1回パーソナルコーチングみたいなことを電話でしていた。かなり徹底してます。でも本人さん「他者否定」が強かった人なので、そういう性格のまま「傾聴と質問」をいくらやっても部下は苦痛なだけなんです。だから業績が上がらなかったんです。

ー 経営者管理者は、そういう過去の方式では結果が出ないとわかったら割合方式の転換を納得してやっていただきやすいです。問題は中間に入るひとたちが面子にこだわることですー

 だから、「傾聴とか質問」「だけ」で何かができる、と思うのは幻想なんです。
 「承認」は「がん」と業績が上がりますが「ほかのもの」は「ほとんどゼロ」に等しい成果なんです。多少はあってもプラセボ程度です。

 経済活性化をしようと本気で思ったら、どっちがいいんですか。

 そのたぐいのことは枚挙にいとまがなくて。2003年ぐらいからそんなことやってます。


 そういう、あたしは「ほかのことも大事じゃないか」という人に対しては「当方はエビデンス出てますから」と、いとも冷たい言い方をします。本来はお客様が幸せになることが、エビデンスうんぬん以前に大好きな人間なんですけどね。


 「ほかのこと」を一生懸命やってるのは、あたしからみると「周回遅れ」なんです。PDCAを回し始めてもいない、幻想妄想のたぐいなんです。「未知のものに期待する」って、ドーパミンが出て「楽しい」ことらしいですけどね。子供の遊びをしてるわけではないので。


 傾聴セミナーの中で絶頂感恍惚感を得て、「あの喜びを否定しないで!」と言ってるようなものです。あたし心理学より倫理のほうの先生だから、絶頂感与えるのは上手じゃないんです、丁寧にしみじみ言って論理的に順序立てて納得させるほうの講師なもので、ごめんなさいねテクニック不足で。


 
 



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp” target=”_blank” title=””>http://abma.or.jp



 





 

 
 

 このところまた「傾聴教」の人たちと接して違和感を感じたことを備忘録として書いておくと、

 この人たちは「ものに驚く」ということがない。

 人の話を聴いて、「ええっ」と飛び上がったり、「大変だ」と感じたり、「大変勉強になります」ということがない。


 ほんとうは、わたしたちは人の話を聴くなかで、自分の細胞が全部入れ替わるぐらいすごい体験をすることがあり得るのだ。


 以前にも書いた、「特ダネをとるコツは?」のひとつの答えが「ものに驚くこと」だということ。従来自分の知っていた知識経験の中に収まりきらない、従来の序列をくつがえしてしまうものに出会うことがある。そのとき、驚きを驚きとしてきちっと知覚できるか。ひょっとしたら不快体験かもしれないその感情をちゃんと受け入れ、そして次の段階の思考をできるか。

 まあ、これがちゃんとできる人は記者さんでもほとんどいないんですけどね。みなさん自分の「想定内」のことしか聴こうとしません。


 でも、「傾聴教」が具体的にどんな研修の仕方をしているのか知らないのだが、みていると彼ら彼女らは、驚いたほうがいいところで驚かない。
 「それはすごいことですね」
と言うべきところでそう言わない。


 以前にもどこぞで「傾聴研修」を受けてきたらしい高校の養護教諭の先生を怒鳴りつけたことがあった、

「そのにやにや笑いをやめなさい!どこの『傾聴研修』でそれを習ってきたんですか!真剣な話のときは真剣な表情をしなさい!」

と怒鳴りつけたのだが


―その後結局この養護教諭の先生の見立てや筋読みは完全に誤りであったことがわかり、いじめ被害者の側であったわたしの子供は養護の先生の勧める自主退学を免れ卒業までこぎつけた。ほとんどの先生からみて「いい子」であり「守ってやるべき側」であった―

―「見立てる力」というものについては、すごく難しいが別の記事で触れたいと思う。全部で何が働いているのかわからない。わたし個人にとっては、記者経験、翻訳者経験や母親経験、あるいは幼少期からの読書経験いろんなものが役立っているが結果としては「12年1位」と、「業績向上の山」を築いている。このことはきちんと踏まえたうえで議論していただきたいものだと思う―


 いろんな体験を経て、「傾聴教」は、「他者への見下し」を教えているのではないか?と思う。

 カウンセラーさんから教わるばあい、実は先の養護教諭の先生のように援助職の人にも結構「邪悪」な心根の人がいるのだが、クライエントつまり話者を最初から見下しているばあいがある。

 とりわけカウンセラーでない一般社会人に「傾聴」をわざわざ教えにくる先生というのは、「傾聴」をできない一般人への見下しから入っているのではないだろうか。


 そしてとりわけ「クレーム対応のための傾聴テクニック」を教えたり学んだりするときそうなりやすい。表面的にほほえみ、表面的に共感しながら傾聴をすると、クレーマーは機嫌を直してこちらの言うことを聴いてくれる、みたいな。

 それは「人が人を『操作』することへの歪んだ期待」ともいえる。

 多いんだなあ、心理学を「いいものだ」という人の中に、その「操作したいという歪んだ期待」の人が。



 上記の高校の養護教諭の先生のように、そもそも「傾聴」をする側のスタンスが間違っている場合には、それはとんでもない「不敬」である。
 クレーマーがクレーマーでなく正義の側だったらどうするんだ、ということはそこではいつまでたっても考慮しない。(なのでわたしは緊急避難的に怒鳴りつけた)


―カウンセラーさんの仕事では、基本的に「内省を迫られる場面」というのはないのだ。
 ついでにいうと研修講師も内省のない人が多く、かれらの人格をかっこいいと思って真似すると内省のできない人ができてしまう―


 そして、「12年1位」のわたしは言ってしまうが、仕事というものは実績や事実に基づいて思考し、お客様のためを考え抜くのが仕事である。この基本から外れたら間違う。カウンセリングは、心を病んだときの緊急避難である。


 以前に「脳画像診断医との対話」の中での質疑、

「右脳だけを鍛えたらどうなりますか」
「簡単です。妄想的な人になります。何もやらない人になります」

というやりとりも、想起されたい。


 「行動に価値を置く」は、価値があるのである。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

 「ヘーゲル承認論」のシリーズをやっと2回書いたところですが、ここでわたし個人のここ14年間の思索の歩みを書いておきたいと思います。


 年譜的にいうと、

2001年 コーチングの学びに入る。パーソナルコーチングも仕事として開始
2002年 マネジャー教育開始。100人ほどのマネジャーのMLの主宰者になる
2003年 「業績1位」輩出開始。任意団体CLSを立ち上げる。
      (組織と理念についての思索を開始する)
      この年から、やっと研修講師としての自覚をもち「教える」ことを始める
2003~06年 4年連続で事例セミナー開催。
      「業績1位」多数
      マネジャー教育の傍ら、「エグゼクティブ・コーチング」でも高い効果が出、「正田マジック」の異名。
2005年 太田肇教授の「承認論」に出会う
2006年 某ビジネススクールに通うも、1か月半で退学。
      「感情認識なきロジカルシンキング」の限界をみる
      「マネジャー論」のミンツバーグに親しむ
2007年 武田建氏の授業(@関西福祉科学大学)に3か月通う
      心理学史を解体・再構築
2008年 このころNLP、アサーティブネスを並行して受講。
      「研修副作用」に関するブログ記事多数。
      脳画像診断医との対話
      リーマンショック。
      NPOを設立。
      哲学カフェに通い、翌年からの「よのなかカフェ」につながる
2009〜10年 低迷期。NPOとして神戸で講座を行うも、集客で苦しみ続ける
      「つながりの自己観」と「アトム型自己観」(@大井玄)について思索
      英国の倫理学の先生から「正田の講師ぶり」が高く評価される
2010年 『認めるミドルが会社を変える』発刊
      第一回承認大賞
2011年 東日本大震災
      久しぶりの事例セミナー開催、業績向上例回復
      ナルシシズムについて、アンチ行動理論について思索
2012年 統計調査開始(まだテスト段階、試行錯誤を重ねる)
2013〜14年 業績向上例8例。奇跡と呼べるような事例がゴロゴロ出る
2013年ごろから 「発達障害」についての思索
2013年秋から 「スマホ・ネット依存」についての思索
2014年 『行動承認』発刊
     「柔道有段・凄腕担当者がみた承認研修」をブログ掲載。



 まあ山あり谷ありなんですが、「業績1位」を生み続けました。そしてPDCAを重ねてきました。受講生さんとの長年の対話を通じて、また読書と思索を通じて。というのを、読み取っていただけるでしょうか。      


 そのなかで昨2014年は、やや不作年だったといえましょう。「某商工会」の事例はありましたが(しかしその後某トップが公開の席でとんでもない裏切り。恥ずかしいことですね)、お客様のもとで「1回研修」「2時間研修」のご要望が増え、お答えせざるを得なかった。せっかく業績が向上するプログラムなのに、早回しの1回こっきりで、というのは効果を発揮するどころか「机上の空論、きれいごと」に響いてしまうおそれがあり、忸怩たる思い。途中から「短時間1回こっきりのご依頼お断り」をブログに書いた時期がありました。


 
 さて、こういう14年の中で、心理学系のセミナーは大量に受けているわけです。コーチング研修機関大手2社(それぞれ100時間超のもの)、アサーション(日精研、26時間)、アサーティブネス(アサーティブジャパン40時間)、NLP(約100時間)、武田建氏の臨床心理講座3ヵ月毎週(行動理論・ロジャーズの傾聴を含む)、自治体主催の心理学コミュニケーションセミナー連続もの、強みセミナー、そのほか自団体主催の各種セミナーや、自分自身では受けていないけれどCLS〜NPOの講座を開催する中で、他研修機関で受講した人にどんな行動傾向が出る、というのを観察してきました。

(なので、このブログの読者の方々は、くれぐれも「承認」以外の心理学セミナーを新しくいっこ受けたから「自分はえらい」と思わないでください。某トップもそのケースだった可能性があるんですが…、お出会いする方がそんなふうに思っているのをみると、何百時間も受けてきているわたしはつらいです。心理学セミナーって勘違いをさせやすいし免疫のない人はすぐそうなるんです。手の内を隠さず、「この研修を受けましたが先生がご覧になってどうですか?」ときいていただけるといいんですけどね)

 
 そしてあるころから、わたしなりに到達した結論があります。
 それは、「コーチング研修機関がいうコーチング」ではない、会社の上司部下関係というのをしみじみ観察して考察したから生まれた結論ですけれども、


「部下は上司にコーチングされたいのではない。

『肯定』されたいのだ。

そして『道徳的、人道的』に扱われたいのだ。

そのなかで指示命令、指導を仰ぎたいのだ」


と、いうことです。

 こういう言い方は、「自立した人格」を前提とする「自己啓発」の考え方の人には、

「けしからん!依存的だ」

となるかもしれませんけれども、でも現実としてそうなんです。


 ぜひ、このブログを読まれている経営者管理者の方は、現在の功成り名遂げた時点の自分を基準にせず、学校を出たばかりの若い人の身になってみてください。20代の人と30代ぐらいの人とではまた微妙に違うかもしれませんけれどね。


(あとジャーナリストとか大学教授研究者、コンサルタント、といったお仕事の方は、もし上記のことがご自分に当てはまらなくても、「自分のほうが働く人全体の中では特殊なんだ」と自覚なさってください)


(そしてまた、「肯定されたい」という言葉を使うと、「じゃあこんな部下どうやって肯定しろというんだ!」という「悪意の部下」の例を出される人がいますけれど、あなたの会社ほんとにそういう部下ばっかりなんですか?それ「例外例」じゃないですか、ちゃんとやってる普通の部下のことちゃんとみてますか、という話になります。また「承認不在」のためにひねくれる部下も多いし、「承認」実践後もやっぱり悪意で仕事したら「じゃあその人は個体差でこういう人かもしれませんね」という話になります)


 そこで上司側に必要なのは、主に倫理学です。それも知識が大量に必要なわけではなく、日常行動にできる指針があればよい。あともう少し心理学をテクニックとして身につけ、また若い人の現状認識や個体差についての知識を持てばよい、というかんじです。
 「心理学」は現実世界にふだん「ない」ものなので、現実がうまくいかないと「心理学」はすっごい答えをもっているように錯覚してしまいます。でもそれは幻想で、実際に現実に働きかける力があるのは倫理学とそれを行動化することのほうです。
 

 「承認本」でなんども書くように、「質問」(「君はどうしたい?」)は、よほど会社の理念ミッション戦略を共有している相手でないとよい効果を生みません。また経験値の低い人ではよい効果を生みません。それらの条件をクリアした後でなら、ときどき有効かもしれません。あくまでときどき、であります。


 会社には理念があり、それに沿って大量の仕事があり、学校を出たばかりの若手社員はその仕事に合流するよう求められます。
 多くの若手社会人にとっては、上司は「仕事の配分者」として存在するのであり、まず明確に指示をしてほしい。かつ、それに加えて行動したことへの承認があれば、さらに良い仕事をするモチベーションになります。そして会社の理念への共感も上がっていきます。
 これも仮説ではなく統計で裏付けをとりながら言っていることなので…。


 少し前の記事で出たような、上司や会社というものに心を閉ざしている感じの若い人。そういう人たちはいきなり「傾聴」で、「話を聴いてやるから、しゃべれ」と言ってもしゃべらないのが普通です。「行動承認」で前向きの行動が増えた段階でなら、少しずつ「傾聴」でこれまでの生育歴を話してもらったり、あるいは「アドバイス」「叱責」などの「介入」をしたり、「仕事とは、生きるとは」といった、上司の哲学的なものを話してやることができます。

 だから、「ほかのもの」は、「承認」が根づいたあとで少しずつつけたしてあげればいいのです。

 こういうことは、農業や製造業、実際に手を動かして物や自然にはたらきかけて仕事している人だと、むしろすぐわかっていただけるんだけどなあ。間に入る人たちに色んな考えが入りすぎている。


 
「必要なのはコーチングではない、心理学でもない、むしろ倫理学だ」


という考えに行きついたのはいつごろからだろう―。かなり早かったです。「1位続出開始」の直後くらいではなかったかと思います。

 そこに太田肇氏の「承認論」に出会って「これだ!」と思ったのは、それが「肯定されたい」を「肯定する」に行動様式として落とし込む、誰にもわかりやすい共通ルールにしやすい倫理学の可能性を感じた、のではないでしょうか。


 「共通ルール」ということに反発を感じるようだと、例えば武田建氏の「行動理論コーチング」も、100数十人いる選手たちを指導する10数人のコーチたちに共通の指導ルールにするために、だれにもわかりやすい言葉で書いてあるわけですが、そういう「7連覇、5連覇」の勝利のための営みがじゃあわるいものなのか、ということになってしまいます。実は組織で、指導者側にこういうことを共有するのは全然わるくないのです。そして、1つの組織のなかにいろんな考え方が混在するのは、おそろしく非効率なのです。



 また、「誰にもわかりやすい共通ルール」ということにからめて、つい一昨年までわたしが身を置いた「陽明学」の学びの場に苦言を呈すると、

 「人間学」が大事だ、と定年後や会長職に退いた段階の男性たちが気づき、熱心に学ぶのはご立派ではありますが、
 じゃあ江戸期の日本の儒者たちの事績を延々と学び続けよ、歴史学なくして人間学なし、みたいな袋小路に入り込むと、今どきの若い人とか現役経営者だれがそこまで学ぶんですか、ということになります。
 「歴史がすき」というのはつきつめると「過去がすき」「未来に興味がない」というところまでいくなあ、とその姿を観察していて思います。(ほんとは、恩師も言っていたけれど未来を考えるための歴史です。)

 現実にみんなが担い手になって世の中をよくするためには、倫理学として一番大事なことだけを教え、行動指針にできればそれで足ります。現実に膨大な量の問題解決がありますから。

 そして「承認」はその役を担うに足る思想というか概念なんです。最後は法体系にまでいきますから。

 せっかくこんな使い勝手のいい現実に効果のあるものが現代に出てきたのに、自分たちの若い頃にはなかったというだけでキーッと切れてしまい悪口を言うみたいな、大人げのない対応をするようでは、立派なお勉強が身になってない、というほかないです。



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「先生の指導が入らなくなった」。

「中1いじめ殺人事件」でNHKの番組に出ていた教育評論家の尾木直樹氏が興味深いことを言われていました。
 

 何かというと、スマホとくにLINEの影響。先生があらかじめ「こういうテーマで」と指示したことでも、先生のいないところで勝手にLINEで議論し、とんでもないテーマを決めている、先生が「あ、それは去年の先輩が大失敗したやつなのに」というのに決めている。これも大変な非効率です。


 そこで尾木氏がやったのは、「LINEでは連絡しかしない、議論はしない」と決めることでした。「お蔭で今はゼミは活発に動いていますよ」。


 大人の教育の世界で起きていることを考えてみても、大変示唆的なことでございます。経験の少ない人の「自由」に任せることは、正しくないのです。どうも、一部のADHD傾向の人ばかりでなく普通の若い人も、「上の人の言うことをきかないで勝手なことやっちゃう」という傾向があるようです、見識ある大人がみていて手綱を引かなければなりません。また、ほっておくと「横」のつながりで間違った考え方をしてしまう今の人、という風に読み解くこともできます。


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それからですね、、
一回「承認」を習っただけで「社内で自分が教えたい」という人に、わたしは厳しいんですが、そういうのをみて「正田って性格わるい」と思われたかもしれませんが、
その理由はいくつもあるんです。

今日の話題とのからみで理由の一つを挙げると、
元々他者否定の強い経営者管理者に、「承認」という他者肯定の方法を教えて、実際にやってもらって「できる」という感覚をつかんでもらい、「部下って反応してくれますねえ!」と言ってもらうのは、実はすっごい力技をやっているんです。そのために論法とか実習の組み方とかを考え抜いています。「例の表」もイノベーションの一つです。それにわたしの話し方とか、過去の事例の蓄積の見せ方とか、もノウハウのかたまりなんです。

どれだけ渾身の「力技」をしているか、は、参加者の中の比較的「他者肯定」が高くて穏やかな気質のほうの人には見えづらいのではないかと思います。その人たちのご気性とは、闘ってないので。
 ひょっとしたら、わたしがリーダー教育の先生の中では穏やかな口調で話をするほうなので、「自分と同様穏やかな人だ」「自分も穏やかに話すればいいんだ」と思うかもしれません。

もしその人たちが気性の激しいほうのリーダーと直接対決したら、先生がどれだけとんでもない相手をニコニコしながらねじ伏せていたか、わかるんではないかと思います。
ただまた、社内で一度でも失敗すると「後がない」ので…。
「きかなかったことにします。ご健闘をお祈りいたします」
の意味、わかっていただけますでしょうか?


100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp


 


 
 

 12月と1月、受講してくださった農業経営者さんに様子うかがいのお電話をする。

 ご自身も元ビジネスマンでIターンかUターンで農業経営をはじめた方、多分仕事の出来る人だったろう、目の鋭い人である。

 もう1人の「反応の薄い」若手社員さんを扱いあぐねていたが、セミナー当初の宿題では「反応が薄いながら行動してくれる」「言い訳が減った」と、まずまずの結果を得られていた。「行動承認」一本槍で関わられたようだった。「いいチョイスだと思いますよ」わたしは賞賛していた。


 2ヵ月経った時点で再度伺うと、引き続き「反応は薄いながら行動している」「言い訳は過去より減った」。そして、「厳しいことも言っているがちゃんと受けとめ取り入れてくれている」という。
 よかった。この子は一段階逞しくなった、と思っていいのだろうか。


 この農業経営者さんはブログを見ていてくれた派だったので、セミナー中はもう1人ご同類の方とにやにや頷き合い、わたしの言葉の裏の裏を読んでいてくれた。

 3時間やそこらのセミナーで伝えられることなど本当に少ない。今どきのビジネスパーソン、マネジャーならこのブログぐらいの情報量を得てちょうどいいぐらいなのだ。

 できれば、単なる「承認」だけでなく、探究する心、まじめに悩む姿勢、それに問題解決のために闘う姿勢などを受け取ってほしいと思う。


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 Iターンなどで就農する若者、ということも思う。

 サンプルがまだ少ないけれど、都会の職場で何かなじめず、あるいは傷つけられてきた可能性は大いにある。

 そういう子たちでも、私見では農業というものはクラフツマンシップを獲得していかなければならないだろう、主に上司からのOJTによって。


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 新温泉町でのセミナーを終了。

 最終22名の方が参加された。LPガス、旅館業の方多数。

 真摯な方はとても真摯。事前の情報量の違いにみえた。そして真摯な人に向けてお話しする。

 今から地方ではこうした手法に真摯に取り組むかどうかが生死を分ける。

 真摯な人にしっかり残っていることを期待。


 ともあれ前日のお宿の手配までお手数をお掛けしました、新温泉町商工会温泉支所長の安田様、ほかの皆様に感謝です。


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 イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」を観る。

 何を観たのか全部はまだわからない…。

 イーストウッド監督の切り取る世界はその分野の専門家も追いつかないほどの真実だ、何故か。
 同じ人を礼賛していると思考停止しているみたいで悔しいけれど本当だもの。近作「ジャージー・ボーイズ」も感動してプログラムまで買ってしまった
 
(何度も言いますが「インビクタス/負けざる者たち」は「承認リーダーシップ」のサブテキストにしたいような映画です。低音の名優モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラ元大統領の「承認」のかっこよさ、最近「承認教」に親しまれた方は是非みてください)


 イスラム教徒への憎悪をあおる、という批判があるようだが最近の出来事を考えると、既に現実化していることだ。憎しみ、「邪悪」とみなすこと、罰を与えること、報復すること…。


 愛や結婚や出産子育てと対極の世界がある、世界各地に。どちらも真実なのだ。



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一般財団法人承認マネジメント協会

 「承認」実践の世界の人になった友人から嬉しいお知らせ。


 この人は今月限りで勤務先を辞めることになっていたのだが、「承認」実践をきっかけに心境の変化があった。イヤだった上司のイヤさ度が下がり、仕事がはるかにスムーズになった。辞めたいという気持ちが低下した、という。

 そこへ勤務先からも慰留された、ということでいったん辞めても再雇用となる可能性が出てきたのだ。


 「これは『承認』のお蔭です。『承認』は人材定着にはっきりつながる、自分の経験に基づいて信念をもって地域で言っていきたいと思います」

と友人。


 もうひとつ「離職」関連のお話が今月はあり、先日研修をさせていただいた先では、やはり辞めたいと言っていたある非正規職員―仕事量が減ると電話して休んでもらわなければならない、不安定な立場であり「ほか」を探したくなる気持ちもわかる―が、気持ちの変化があり「今月一杯様子をみる(辞める決断を先延ばしする)」と言った。その後も上司側に様子をきくと、「残ってくれそうだ」ということだった。上司の「承認」―「休まず責任感高く来てくれますね」という意味の「行動承認」―が功を奏した。


 1か月に2つのサンプル。残念ながら大規模調査での「離職防止」につながるかどうか、の統計はまだない。


 「承認」は離職防止につながるかどうか、自前のデータはないので研修でも「本」でも、昨2014年8月ジェイック社の調査を引用する。
 「尊敬する上司が離職を減らす」という趣旨のもので、そこでいう「尊敬する上司」の中身はほとんど「承認する上司」とイコールである。


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 発売中の「週刊文春」2月26日号では、「高齢者施設『修羅場』ルポ」と題して5ページの記事を載せる。介護報酬下げに伴う3K職場・介護現場の悲鳴。迫真のルポ。

 確かに、新聞にはこうした話は載らないなあ。
 本来ははたらく人の中のかなりの比率の人口と、そしてすべての人の親御さん祖父母さんの幸せに関わる話なのである。

 このブログでもちょこちょこ介護職の方や施設長の方のお話を載せるが、ここまで悲惨な話というのはまだない。実は当財団とコンタクトがあったり研修を採用してくださる施設・法人様というのは、その業界でも比較的「優良企業」であり、「エステに行くのは美人」なのである。それでも中には、「法人内のある施設では離職続出のため40代以上のリーダー層が月8回夜勤に入る。そうなると研修が必要でもそのためのシフトも組めない」というような話もある。


 人材確保難。これは建設業などとも共通するのだけれど。


 わたしが

「『承認教育』を普及することが必要なんです」
「それも『決定的にこの教育が重要』と位置づけていただくことが必要なんです」
「わたし個人のために言っているんではないんです。お願いします」

 さまざまなところで頭を下げつづけるとき、視野にはつねにこうした、誇りをもって働いていながら痛めつけられている人たちの生身の存在がある。

 話している相手にはほとんどの場合、それは見えていない。共通のものが見えていない。


 そして相手に見えているのはつねに目の前のわたしという存在であり、

「正田さんという『女性』のために何かをしてやった」

という話に、話がすり替わっている、気がつくと。


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 来週24日に県内遠方で実施する研修の受講生様―ものづくり、建設、LPガス等現業の管理職の方―から、事前アンケートのお返事をいただいた。


「やる気をいかに引き出すか」
「挑戦する気持ちをいかに奮い起こすか」
「お客様の懐に入りこむか」
「仕事をプラス思考でさせるか」

という課題。

 非常に正確に研修趣旨をわかってくださっている、きっと間に入った担当者さんが役員会で苦労してプレゼンしてくださったのだろう。

 これも、だれが間に入っても絶対に一言では説明しにくいテーマだけに、頭が下がる。
 



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会

 神戸、今朝も抜けるような青空。

 わたしは「1人でも多くの人が幸せであってほしい、いい人生を送ってほしい」と願っている。

 あくまでその立場から、最近また「不毛だ」と感じたことを書きますね。

 ここ2日間でもたとえばわたしを「正田さんという女性」という言い方をして「女性じゃありません人です」みたいに突っつかれ「失礼じゃないか!」と怒りだしたり、類似の不毛なやりとりがあり、

 そういう方のことは多分今後スルーするしかないのだろう、と思う。

 ただまたそういう方について気がつくのは、

 会話の中でわたしのブログに登場した言葉を使ったりするのだ、その方が。

 例えば最近でいえば「スタンダード」とか「地動説」とか「プラットフォーム」とかね。


 たぶん、これはわたしの想像だけれどずっと以前から薄々感じていることで、

 こういう方はわたしのブログの愛読者なのだ、実は。
 PCかスマホか知らないが毎日、気になって読み、反発をおぼえながらもこのブログの独自の見聞や発見や思索を無意識に学習してとりこんでいたりする。それでちょっと「得した」と思ったりしている。

 こんなに無料で情報量が多く、情報の質の高い読み物も本当はないんです。天下国家とかそういう大きなところは論じないですけどね。
 日常的な事柄について、新しいものの考え方のフレームワークを日常的に提供している、と思います。

 多分、特ダネ記者体質の正田の書くものをずっと読んでいたら、その人自身も発見が毎日多くなると思う。
 また論理的で問題解決能力の高い正田の書くものをずっと読んでいたら、その人自身も問題解決能力が高くなると思う。

 ごめんなさいね、傲慢なもの言いをして。


 でも本当、もう何年も出会う先の社会的地位の高いおじさまに対して感じてきた。
 「この人、無意識にあたしのブログで使った言葉や考え方を使っている」と。

 その話は先般の凄腕担当者Nさんとの対話でも出て来て、Nさんは「あるでしょうね」と同意されていた。

 (Nさんは125kgの巨漢で柔道三段者だけれど一方で非常に心の柔らかい、体内感覚を言語化する能力の高い人で、かれによると「正田先生のブログは毎日怖いものみたさでみる。『怖い怖い』と思って、人との葛藤があると一度閉じてしまうけれどまたもう一度開いてみる」ということだった)

 
 (そしてまたNさんによると、「正田先生のブログを読んでいると僕も以前よりものすごくものを考えるようになったし、考えたことを伝えるようになった」とも言われていた。こういうことをそれも男性で素直に言う人は確かに珍しいが、多分その通りなのだと思う)


 ・・・そして、思うのが「わたしのブログの本当は愛読者なのに反感をもって侮って、わたしに上から口調とかひどい態度をとる」というような、ねじくれた態度は、決してその人の人生のために良くない、ということ。


 本当はみなさんNさんのように「あなたのブログを愛読しています。うなずくところが多いです。あなたのブログのファンです」と言ったほうが、自分自身の中に一本合理的な筋が通るのではないか。


 生きているポジションは違っても、わたしはわたしの置かれているポジションで出来ることを精一杯やっている。それはこのブログを読めばおわかりになるし人として通じるものはあるはずだと思う。
 そのことにことさら目を背けていると、その人の人生は間違ってしまうと思う。ほかの正しいものにも心開かれなくなる。可哀想なことだと本気で思う。


 「汝の敵を愛せよ」なんていう高級なことを言うつもりもないですが―、

 以前こちらのブログの末尾部分に書いたこと

◇気づきにみちた日常を生きる―受講生様の幸福を祈って―『マインドフルネス 気づきの瞑想』
http://livedoor.blogcms.jp/blog/officesherpa/article/edit

 ここに、「敵を慈しむ」ということに関して、 「当分この境地にはたどり着けないであろうけれど、いつかあるかもしれない到達点として、書いておきました」なんてことをわたしは書いていますが、最近ちょっと部分的にそこに近づいたかな?と思いました。

 「可哀想。どうか間違わないで」と思うことが多い。

 わたしの大切な友人たちは、どうか「正田先生のブログの愛読者です」とさらっと言える人であってほしい。

 これも不遜ですけどねえ。



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一般財団法人承認マネジメント協会




 

 昨夜遅く1つ前の記事「『地域でお金を使うのが正しい』『Iターンを呼び込む施策を』内田樹×藻谷浩介対談」をアップしたところ、今朝早くフェイスブックの親しいお友達の1人から嬉しいコメント。

「故郷の秋田を思うと、とても重要な、大事な点をご指摘なさっている講演内容でした。早速、母校の研究会に紹介しました。ありがとうございました。」


 嬉しいなあ。こんな風に反応してくださると、長い記事をアップした甲斐があります。


 ちょっぴり自慢ですがこのブログでは過去、三枝匡氏・伊丹敬之氏の講演(対談ではない)聴講記をそれぞれアップしたところ、まったく面識のない方から「非常に正確な講演録だ」とおほめの言葉をいただきリンクしていただき、そこから今に至るまで高いアクセスをいただいたりしています。


 スピーカーの方は、内容がネタバレになると「損」なのかもしれないですけれども、わたしたちが日頃何事によらず安心感を求めることを考えると、「内容の濃い、依頼して間違いのないスピーカーだ」とご依頼担当者さんがわかるのはいいことだと思うんですよね。

 わたし自身にとっては、読書であれ講演セミナーであれ、学んだことをこのブログにアップしておくことは、自分の脳の「外付けメモリ」のような役割を果たします。


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 さて、本日はごあいさつ回りをちょっとお休み。


 わたしはこの仕事をもう10数年やってきて、(正確に言うと「コーチング」は2001年8月から、「マネジャー教育」は2002年9月から、そして「1位輩出開始」は2003年10月から)

 その大半を、「なぜ」この手法がいいのか、をご説明する仕事に明け暮れてきました。

 むしろ仕事本体のほうをそんなに多くやったとはいえません。世間の「通算何千何万人の経営者管理者に教育を実施」とうたうコンサルタントさんみたいな実績があるとはいえません。
 言い訳になりますが単発の講演よりは「質重視」でなるべくシリーズ研修でご採用いただいてきた、というのもあるんですけどね。


 でそんなことをやって40代を丸々終えて50代に1年踏み込んでしまい、なんともったいない人生の時間の使い方、とも思います。

 
 なぜそんなことができるか、といえば、これも「師」がいたのです。

 これは、中嶋嶺雄氏とも武田建氏とも違う、記者時代に取材させていただいた方です。


 1989年、島根医科大学第二外科の助教授(当時)だった、永末直文氏です。


 永末氏は国内最初の生体肝移植手術の執刀医でした。ご存知のかたはご存知の事情で、わが国の「臓器移植」は1960年代の「和田移植」の失敗によりタブー視され、一部研究者が盛んに動物実験を行っていたものの人間には実施されませんでした。その間、心臓や肝臓に先天的な異常があり移植でしか助からないと宣告された小さなお子さん方がオーストラリアやアメリカに渡航して手術を受ける、莫大な費用がかかるし渡航先でもだんだん日本人が国内で解決せず海を渡ってくることに厳しい目が注がれるようになりました。

 そんなとき、やはり動物実験を繰り返していた永末氏のもとに瀕死の赤ちゃんをもった患者家族が嘆願に来て、ほだされた永末氏は第二外科の医師団とともに独断で手術を決行してしまいます。

 大学の倫理委員会は「後づけ」で承認する形になり、非常に横紙破りの形でした。

 これは世間の非難を集め、永末氏が手柄欲しさのために患者に持ち掛けたのではないか、という疑念すら生まれました。

 
 記者時代の正田は広島から島根県出雲市まで何度もカバーに行き、そのうち永末氏とも馬が合ってしまい(どうもわたしは向こうっ気の強い人と相性がいいのだ;;)永末氏に手術に至る経緯を本として出版してもらうまでになります。

 そして自分でも関係者に繰り返し当たったのですが、だれに当たっても「永末氏の功名心」という線は出てこなかった。患者から腕を見込んで嘆願され、決断した、それ以上の裏事情はない、という結論になったのです。


 あまり報道されなかった一面として、永末氏は優れた論文の書き手でそして指導者でもあり、弟子の書いた論文をちょちょっと手を入れるとそれらは、ネイチャーサイエンスとは行きませんが「セル」「キャンサー」「ニューイングランドジャーナルオブメディシン」等のやはり一流誌に載るのでした。そうして取材の10年後、ふと思い出して検索をしてみると、あのときの医師団はやはり固い団結で島根医科大学にいて大量の論文を発表していたのでした。


 それはどうでもいいこととして、

 そうしたまぢかでみると誠実で裏表のない人柄の永末氏が繰り返し記者会見に出て記者たちの底意地の悪い質問を浴びせられるのにもたびたび立ち合いました。
 医師たちは昼夜わかたずのICU(集中治療室)詰めで疲れきっているはずで、それでも永末氏は時には顔をこわばらせる場面もありながらも、誠実に1つ1つ受け答えするのでした。
 説明に次ぐ説明。


 島根医大第二外科は恐らく史上最初で最後、「記者の出入り自由」の医局で、記者たちは中央のソファにどっかり腰かけて医師たちがICUから戻るのを待っていました。そのオープンさも永末氏自身の持ち味であり、また「移植医療の推進のため」必要と判断したことでした。


 ブタ肝移植実験も見学させてもらいましたが、

 彼らはもう何年実験をやり続けていると言ったのだったか―、さまざまな実験デザインで実験をし、データをとり論文化することを繰り返していました。
 

 これはほかの大学でも同じで、その後広島大学でも肝移植実験には立ち会わせてもらい、本当はこちらのほうが実験の歴史は古く何十年もやってきたといいました。広島大学では学内政治を牛耳る脳外科医の先生がいてその人が脳死も臓器移植も認めない、としてきたのですがその支配構造をわたしが週刊誌にかいてしまったので流れがかわり、移植ができることになりました。後にも先にも1回のみの広大の移植はこうして行われました(しかし失敗)。
だから、わたし自身は記者時代、イノベーターの味方だった。


 こういうこと書くとまた記者さんに嫌われるなあ。


 決してここでは「臓器移植」が唯一無二の正解、と言いたいわけでもないんです。その当時も人工心臓という、臓器移植に代替することを期待された技術があり、今はまた「再生医療」に期待が高まっています。


 ただまあ、ものごとを1つ変えることは日本では信じられないぐらい息の長いこと、というのを覚悟しないといけない。

 それは、あの意地の悪い質問を浴びせられる医師たちの姿をまぢかでみたから、自分もまたそれを引き受ける力になるような気がします。行動理論でいうモデリングですね、これも。


 新しいことをしようとする人は辛抱づよくないといけない、日本では。言っても言ってもわかってもらえないフラストレーションに耐えなければならない。孤独にも悩まなければならない。


 だから、わたしの40代がもうにどと還ってこないとかそういうのは別にどうでもいいのです。

 たくさんの人が「この方式」のもとでなら、幸せになる。その幸せは従来手に入らない、みんなが諦めていた種類のものだった。

 いつか、今ではないいつかなのだろうか、これが普及することが加速する日がくるのだろうか。


 やっぱり「あの人たち」は男性だったのだなあ。そしてわたしは女性。
 わたしの言っていることは従来この国が女性に与えてきた役割より大きすぎる。それも思う。


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 去年「職員研修(管理職研修)」をさせていただいた、経営支援機関さんにお電話してみる。

 県下に散らばっている、それぞれ独立性の高いプライドもある団体さん。


 あるトップの方は、

「研修後みんな自発的にすぐ報告してくれ、あれ以降も前向きによくやってくれています。良い研修だったと思いますよ」

と言われ、統合後の大変さも気になっていたが大丈夫のようだった。

(今、地方を支える大動脈のような組織に「統合」の問題は必ずついて回る)


 そしてよく光る眼をした管理職さんは、「お待ちしています」と力強く。


 この人たちとは一緒に闘える、たぶん。


「宿題まとめA3ファイル」というものを作ってお送りするようになったのは実はこの方々の代からで、それまではなかった。
「承認」というものが10数年来正しく、従来考えられていたこの種の研修よりはるかに効果が安定して出る、とわかっているとき、次の段階どうやって受講生さんに
「一生もののかけがえのないものに出会ったのだ」
とわかってもらうか、ということに知恵を絞った。とにかくこの分野には同工異曲のものが溢れていて放っておくとすぐ新しい考えが入ってきて。
宿題も出しコメントも返していたが、もう一歩「まとめファイル」というものも(相互公開に同意を得たものについて)作ることで、自分の成功は偶発的なものではなくほかの人も先生の言う通りのメソッドで成果を出しているのだ、今後もその通りやり続ければいいのだ、と実感してもらうことにしたのだった。





100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会

「ご挨拶回りと答弁」の日々の合間にある人に正田が書いたメールです。
頭が早回しでメールを書いていても「答弁」になっています。


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○× 先生

あの本をまだ手元に置いてくださっていますか。
あの本について冷静客観的な本だと賞賛してくださった、
あれは間違いなく真実です。

わたしはビジネススクールでEQの低い人たちが論理を振り回す愚をみました。
私見では本当の論理性はEQも兼ね備えた人がもつものだと思います。
自分の感情をわからない人には本物の客観性は備わらない。
それはビジネススクールでも ロジカルシンキングを習いながらつねに感じていました。
自分の感情認識ができない人がロジカルシンキングという武器をもっても
人を傷つける凶器にしてしまうだけだと思いました。
ビジネスの世界の奇妙に人格のわるい人はこうしてできるのかと思いました。
そして退学しました。

一方で心理学系の研修で「感情」が過度に強調されているのもみました。
「感情」を過度に強調するとどうなるか、というと、
疲れたとかめんどくさいとか言ってやるべきことをやらなかったり、
正しいことを言う人への反発心でやらなかったり、
という、「やらない」方向へのだらしない「不作為」が起こる、というのもみてきました。
脳科学でいう「感情優位」という状態です。
また野放図でルール軽視、他人の感情軽視、
職場の秩序としては明らかに困ったことが起こる、
というのもみてきました。

それをみて思ったのが、
結局行動することは価値のあることだ、
わざわざ行動すると身体が疲れたり葛藤に出会うことだからこそ
「行動」こそ価値あるものだ、と位置づける必要がある。
ある会社がうまくいくためには、
理念に沿って人々が行動することが必要です。
その「理念に沿った行動」を増やせば、業績が上がる。

一方でやはり「行動」一本槍では人は息切れする。
どれほど大変なチャレンジだったか、
それをみていて嬉しい、
あるいは安心できる、助かる、
そうした「Iメッセージ」を添えることで人間らしい表現になる。

そうして「行動承認+Iメッセージ」の形が生まれました。

この形に定まったとき(正確にいつ頃定まったのか定かではありません)
きわめてコンスタントに成果が上がるようになりました。

行動承認に添えるIメッセージ、というのは
決して「感情」が主役なのではありません。
よい「行動」がまず第一であり、
それに添える感情、とデザインすることで、
「感情こそが何よりも大事」と位置づけたときに起きる
怠惰や野放図を避けることができます。

ただ、やはり行動承認だけが大事なのではなく
そこにIメッセージもあるから、
温かい言葉がけとなり部下のこころに響くようです。


そのように、わたしなりに「論理か、感情か」の問題をクリアしました。
どちらか一方ではない。
脳科学者さんは、大脳旧皮質の存在を挙げて
「人間は感情の存在だ」
という言い方をしがちです。
しかし教育によって社会的存在をつくる、という立場からいうと
これは誤りです。
「行動承認」によって大脳新皮質(理性)のほうを
つくっていかなければなりません。


※ただし、発達障害の人の場合は
体内感覚を認識する力が弱いので、
スキルトレーニングより、「感情認識」を先に重点的にやらないといけないようです。
この点、定型発達の人とは教育の順序が逆になるようです。
それは最近になって友人たちの示唆で知りました。


そのように、「行動承認+Iメッセージ」は、人類にとって新しい発見であるはずです。
わたし自身がどんな人間かに関わりなく、
それを見出した○×先生もまた、誇りにしてくださっていいものです。

(一部改変の上掲載)



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会

 引き続きご挨拶回りをしています。


 そこでの会話(正田発言部分)。何か所かでの発言をとりまぜております。

「後進の講師の育成」
「女性活用は『承認教育』から」
「女性主導社会の予測」
「教育の特徴/例の表」
「オキシトシンの作用」

などについて、発言しております。


正田:「(承認マネジメント教育の)講師が今わたししかいない、という状態はいずれ解消しなければならないと思っています。第2第3の講師を養成したい。
 去年の暮れごろから、『教習所の教官』という言い方をするようになっています。マネジメント教育で従来ここまで受講生様が実際にやってくれる、ということを前提にしたものがなかったので、今度は実際にやったらどういうことが全部で起こりえるか、事故にならないか、というところの想像力が必要になります。講師にはそこまで要求される、と志望する方には思ってほしい。
 ただ、従来は甘い考えで『教えたい』と入ってくる人が多すぎたんですけれど、『教習所の教官』という言い方をすることで、それぐらい難易度が高いことにチャレンジするのだ、とちゃんとわかった上で入ってもらえれば、習得していただけると思うんです、これの教授法を」


正田:「女性活用に関しては、数値目標などの考え方が入って来てわたしは非常に危機感をもっています。また女性のほうをパワーアップしようという考え方が優勢ですが、管理職の意識改革のほうがはるかに現実に大事です。意識改革というのも、『女性女性女性』と意識するのは関わり方がおかしくなってしまいます。永遠に異性と意識していることになります。
 わたしどもの考え方で、相手がだれであれ『行動』に注目して認める、これを励行すると女性へのバイアスは見事に直ります。ぜひ、こちらの考え方を推進していただきたいものです」


正田:「このところ中央の人材育成系のメルマガをみておりますと、『男がだらしない』という見方がちらほら出てきています。『草食系男子』というのももう数年来言われていますが、実は個体としての女性が個体としての男性より優秀だ、ということは現実に大いにあり得ることなのです。
日本も亜熱帯のようになっていますが、東南アジアのどこかの国のように女が外で働いて社会を引っ張って、男が家で子守をする、というのが普通になるかもしれない。そうであってもじゃあ女性に頑張って働いてもらわないといけない。そういう事態を想定して備える、要は女性を本気で職業人として鍛え上げることが必要になってきます。甘やかしている場合ではないのです」


(あなたの教育の特徴は何だ、と問われて)
正田:「例えば、この本の後半に載っているこちらの表。元はエクセルのA4・1枚のものですが、内容は業界内外で非常に評価の高いものです。研修ではこの表を受講生様にピラッと渡して、『これをいつも見れるように置いておいてください』と言います。すると、皆さん『承認』ができるようになってしまう。
本来こういうものをお渡ししてみなさんができるようになってしまう、というのは研修機関からすればおまんま食い上げになってしまう、ノウハウを手放してしまうようなものです。それでもみなさんができるようになる、というのはそれだけ価値がある。
コンテンツ盗用も実際、されやすいです。ずっとそれとの戦いです」
(本当は当財団の教育の特徴は「これ」1つなわけではなくて、何せカイゼン大好きな正田が10何年細かくカイゼンしてきたものだから、全部でどういうカイゼンをやったか本人も忘れているのです。とにかく「12年1位」をやってきたのは確かです)


正田:「今日の会話ではとても厳しいご質問をいただいて、わたしが食ってかかるみたいに攻撃的な人間のようにお話をせざるを得なくて、とても残念だったんですけれど、ぜひこの本は虚心にお読みになってください。
 この本は日本語も徹底的にブラッシュアップして書かれています。そして、読まれた方がオキシトシン的なこころの状態になることを意図して書かれています。
 そのオキシトシン的な状態を体験していただけると、『承認の世界』の感情状態がおわかりいただけると思います。
 この本でもオキシトシン、セロトニン、ドーパミン、テストステロンといった神経化学物質の作用に触れています。中でもオキシトシンは、平和で温かく、周囲の人への好意に満ち溢れた状態をつくり、免疫にもとてもよい働きをもたらすものです。そしてオキシトシンはセロトニン、ドーパミンの分泌をうながし、きわめて問題解決能力の高い状態を作りだします。
 はたらく人びとがオキシトシン的なこころの状態で仕事をずーっとできる、そのことがどれほど価値のあることか、ぜひ体感してみてください。
 従来のモチベーション理論で言うところのモチベーションは、ドーパミン的なものだったんです。一過性で、持続力が弱かったんです。また周囲への共感に基づいていなかったんです。それと比べるとオキシトシンは、持続的で穏やかな心優しい状態をつくりだします。組織が一丸となった状態をつくりだします。
 わたし個人のキャラクターからは想像がつかないかもしれませんが、『承認』がつくりだす圧倒的な高業績の世界というのはそういうものです。従来のマネジメント教育ではこういうことまで触れていませんでしたが、わたしどもの教育では脳科学、遺伝子学と神経化学物質まで触れます」

先方:「それは教育の前提ということですか、研修の中でそこまでの話はしないでしょう」

正田:「いえ、研修の中でもいたします。高卒の工場のリーダーさんでも非常に興味をもってきいてくれますし、理解してくれます。従来の研修では、言ってはわるいですが受講生様を子供扱いしていたんじゃないでしょうか。そして心理学の表面的なところをなぞっていたのではないでしょうか。
 現代では心理学も、脳科学、遺伝子学、神経化学物質の各方面から解体して理解されつつありますので、心理学にこだわらずにそういうお話もいたします。そこで結局『行動理論』は正しいよね、という結論にもなります」


 
****


 ほんとうは、正田は今、津々浦々まで「承認教育」を普及させることで、社会の中の攻撃的な感情を少しでも減らしたい。『行動承認』にも書いたがひとりの人の中でオキシトシンとテストステロンはトレード・オフ関係にあるそうであり、オキシトシンが増えると相対的にテストステロンは下がる。みんなが、というか1人でも多くの人が穏やかなこころの状態でいられるようになる。

 そして、前にも書いたけれど心理学の本家アメリカにもないものだから、「クール・ジャパン」のコンテンツとして平和外交のツールとして輸出したい。とりわけ東アジアでは効果を発揮するはずなのだ。


****


 でもわたしの立ち回る先の人たちは想像がついていないと思う、
 例えばここ1−2年、「正田先生」はとんでもない形で足を引っ張られることが増えた。
 親を亡くした直後に自宅に脅迫状のようなものが来て、そのまた直後にシリーズ研修をだれかの差し金で中断させられた。
 自団体主催のイベントで、スピーカーがとんでもない言葉で正田を貶めた。
 過去をはるかに上回る恐ろしいナルシシズムそしてやっかみの行為。
 とても、「良い教育をしているから結果も出しているから地道にやっていればみんながわかってくれる」という牧歌的な環境ではなくなりつつある。
 


 そして業種によってオキシトシン的なこころの状態とは相いれない業種があるのだ。テストステロン―ドーパミンが初期設定みたいな。

 正田は「橋げた抜かせていただきました」なんて言っているけれど、それは当時「仕事だからベストを尽くして頑張りました」というだけで、人を出し抜こうとか負かしたい、あざむきたいみたいな動機はなかったんですけどね。なんども言うように医療報道のほうが好きだったんです。

 

****


 「承認」は実践者と外部の人の皮膚感覚が大きく異なってしまうものなのだが、最近新しく感じたこと。

 「承認の宿題」によって「実践」の壁をクリアしてない人は、例えば相手が異性のとき「お疲れさま」が言えない、とくに男性はそのハードルが高いみたい。

 男性管理職は、女性部下に「お疲れさま」を言うと、なんか性的意味あいがあるみたいで言えてないってことはないだろうか。

 本当は、「行動承認」は言葉による行動への従量的な対価、報酬、という意味合いのものなので、男性から女性、異性に「お疲れさま」「大変でしたね」と言って全然不思議ではない。でもそこを「恋愛関係みたい」って逡巡する男性は多いみたいである。

 ばかばかしいようだけれど、結構根深い問題、というのは、やはり男性管理者が評価者となり女性が評価対象者となる構図が結構多いとき、その「行動承認」をすべきときに逡巡してしまっていると、女性の働き手の仕事を正しく評価できなくなる恐れが出てくるからだ。


 「行動承認」は言葉で行動の報酬を与えることで、評価者自身も相手の行動の量や質を記憶するはたらきがある。

 それが回りまわって「評価の公正さ」にもつながってくるのだけど。


 また、「行動承認」は恐らくミラーニューロンの働き、いうなれば「共感」とも密接につながっていて、「あなたは○×しましたね」「大変な仕事量でしたね」と、行動の量や質を言っていると、そこでは言っている人の相手に対する「共感」のアンテナも同時に振れる。それにより次の段階さらにいいことがいっぱいある。


 ただその「共感」のアンテナが振れてしまうことを怖がっていると、「行動承認」はできない。でも相手がだれであれ、男であれ女であれどの女の人であれ、「行動承認」はするものなのだ、と統一したルールで適用したらどうだろう。

 
 そこまで他人に興味はない?そうでしたかどうもすみません…



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一般財団法人承認マネジメント協会
 

 超体力のないわたしですが時間が「早回し」のように過ぎていきます。

 きのう12日は午前、地域の経済団体さん2か所をご訪問。

 
 なんとどの面下げてか、仕事と生活センター様もお訪ねしてしまいました。北条センター長が寛容に応対してくださいました。こういう大人にならなきゃなあ。


 そのあと銀行手続きをし、法務局で登記へ…と勇んでまいりましたが残念、一か所だけ不備があり登記にはなりませんでした。

 (一か所だけだったのは奇跡です。この関係のことで何往復もするとどんどん「自己有能感」が下がりQOLに影響します。)


 最初にご訪問した経済団体様での会話。というか正田発言部分。

「ブリッジング(薬効に関する異人種間の橋渡し)」
「遺伝子学的日本人論」
「巨大なプラットフォームとしての『承認』」
「『目標達成』のリーダー教育の中の位置づけ」
「スマホ依存等職場の諸問題についての情報提供」
「営業下手な正田の特性」

などについて、生意気にも発言しております。


正田:「わたしは医薬翻訳者というのもしていたんですが、クスリの世界では『ブリッジング(橋渡し)』というのは当たり前のことなんです。アメリカ人と日本人、体質が違うから薬の効き方が違ってくる。思わぬ副作用が出るかもしれない。だからアメリカで認可された薬でも日本で再度治験をして、いいかどうか確認する。ドラッグラグ(薬や医療機器で海外で認可されたものが日本でなかなか認可されず恩恵に浴せない現象)というのもありますが、あれはお役所の仕事の遅さなどの問題もからみますが、基本ブリッジングというのは必要な考え方なんです」

正田:「日本人の遺伝子は特殊です。わたしは以前遺伝子学者さんにもインタビューしたのですが(注:これはちょっと「論理が粗い」と感じてボツにしている)遺伝子学者がみると、『あ、この人は日本人』とすぐわかるそうです。特徴的な遺伝子スニッブの型がいくつかあり、それ全部併せ持っている人が多い。そうしたらそういう日本人に合う教育のやり方をしないといけない。幸いわたしどもの『承認』は過去10数年にわたり日本人について検証をしてきて、わるいことは起きない、反対にいいことは限りなく起きる、とわかっている方法です」


正田:「『承認』のことばかり言っている、とよくお叱りを受けますが、『承認』は従来まったく想像できなかった種類のマネジメントの巨大なプラットフォームなのです。女性活用、障碍者外国人高齢者雇用、若者の離職防止、コンプライアンス/規範維持、品質、知識創造経営、ワークライフバランス…、すべてがこのプラットフォームに載せられます。個別の取り組みをしてもいつまでもできないことがこれに取り組むとできてしまいます。それだけ大きなものを今手にすることができているのだ、ということにご理解をいただければ」


正田:「『目標達成』のコンテンツは「承認マネジメント教育」の長いバージョンの中にもありますが、あまりそこに重きを置かないようにしています。とりわけ経営者さんの人格を考えると、もともと目標志向的な人が多い。そこへ『目標達成』の教育をすると、クスリが効きすぎてしまい、普通の社員さんから遊離してしまうのです。彼らの人格特性を考えると、むしろ『承認』に重きを置くのが一番いいのです」


正田:「去年わたしが貴団体の会誌に書かせていただいた若者のスマホ依存に関する記事が、今になってネット上でご覧になった方がいて『あれは無茶苦茶必要な考え方ですね』と言われたりしています。このほかこのところ言及していることがいくつかありますが、おこがましいことですが、わたしどもで独自に蓄積してきた情報を会員企業様のお役に立てなければならない局面になっていると思います」


正田:「わたし自身はものづくりで言えば開発のほうの人の頭に近いのだと思います。開発、製造のほうの仕事がすきな人間で営業は今でも得意ではないと思います。なのでこうしておこがましくお話をしているのが自分でも信じられないくらいなのですが、何卒今後ともよろしくお願いいたします」




 ほんと、51歳の今でも自分が本当に社会人と言えるのかわからない。

 このところ「悪太郎キャラ」も思い切って打ち出していて、心ある地域のみなさまが寛大にお目こぼししてくださることに感謝です。





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一般財団法人承認マネジメント協会





 

 新財団設立メンバーの中でも「承認の宿題」を出してやってもらっています。

(注:一部「したくない」人には無理強いはしない。研修受けてない本も読んでない人には確かに難しいだろうと思う。逆に本を読んでくれた人はメンバーになった時自分の勤務先の総務の人に「読め!」と勧めてくれた、というくらい、あれはいい本です。そういうのも強制はしてないですよ)

(ただ、「承認」の世界のすぐ近くにいるのに自分は「承認」を習得しないでいる人は、外部者目線で「承認」をみることを続けていると奇妙にこころがねじくれて反社会的な行動をとってしまうことがある。それは警告しておきますので、選ぶ選ばないは自己責任でお願いします)


 そのうちのお1人は、まだ組織の「最若手」の立場で部下がいなかったのですが、上司の方3人に対して実践をされました。

 これまでも衝突の絶えない「困った上司」についてご相談をいただき、「それはちょっと___入ってるかもねえ」と正田が言った(__のところは長い読者の方、類推してくださいね)その上司さんにも、果敢にこころみました。

 武道家らしくきれいに「型通り」に。

 すると。

「口調が穏やかになった」
「よく気遣いをしていただけるようになった」
「指摘が減った」
「褒めてもらえるようになった」

という結果になった、というではありませんか。

 良かったですね〜〜。ご立派!!\(^o^)/


 というわけで、正田からは「絶賛」のコメントを入れお返ししました。


 さらに後日談があり、

 宿題にコメントすることについて、その方から真摯なご感想をいただきました。


 ご同意をいただきましたので、こちらでご紹介させていただきます:


正田先生

お世話になっております。

今回の承認の宿題をやってみての感想があります。

本日、フィードバックをいただいて、研修で教えていただいた
「オペラント条件づけ」
人は、行動のあと褒められると
その行動を繰り返しとる性質がある。
というのが、すごくわかりました。

何度も何度も繰り返していかないと身につかないものですが、
フィードバックをいただくと、やはりうれしいですし自分のどの部分がうまくいった
かを
知ることにより、精度を上げていこうという気持ちにもなりました。

宿題を機に、人間関係の壁を超えることが出来ました。優しい気持ちも取り戻せたよ
うな気がします。
先生もおっしゃっていただいていたとおり、これまでは直線的にハッピーエンドには
ならなかったことでも
一つ踏み込んでいくことによって、得られるものは大きいなと思いました。

先生、ありがとうございました。

引き続き、やっていこうと思います。



 えへ★

 なんで、今回「コメントに対していただいたご感想」がこんなに嬉しかったのかといいますと、ブログでご紹介しちゃったのかといいますと、

 長年承認のコメント書きの仕事をしていまして、それが受講生さんに役立つものだということはわかっているのですが、またその後職場をご訪問させていただいたとき

「ああ、引き続きやっていてくれてるなあ。職場から光り輝く『気』が出ているなあ」

と感じそこに宿題コメントもお役に立ったかも、という形で手ごたえは得ているものですが、
(最終的には「業績向上」とか「1位になりました!」という形で返ってくるのですが)

 なにせ、こんなふうにコメントをもらったその時の気持ちを言葉でフィードバックいただいたことがない。

 
 化学実験のようなことをしているが、各段階ごとの化学変化を全部全部知っているわけではないのです。かかわれる時間が短いですし。結果、結果が出たときに化学変化を類推する感じです。


 上記のように言葉でご感想を言っていただけると、これまで経験した「各段階の結果」をつなぐ「線」が見えたような気がしました。上記の方も言われるように一応正田自身も「行動理論」でコメントをしているのですが、それはめくら打ちではなくちゃんと効果につながっているのだ、とわかったような感じです。


 1つ前のこのブログでも「何をやっているのかわからない」と言われて宿題の記入前の白紙のシートをお見せして、「こんな単純なものです。これに記入していただきます」と言ったのだが、


 当協会方式の教育というのは、ほんと種もしかけもない「公明正大」なものなんです。


 ・・・ただそうは言っても習熟してない人には講師をやってほしくない、「マネジメント」に関して不用意な発言は許されないから、教育の信頼性が上がれば上がるほどそこは厳しくならざるを得ないから。



 参考記事

 「受講生様大好き」の正田が過去、ものづくり企業の受講生様の宿題に添え書きした文―

「承認と生産性向上」宿題まとめファイルへの添え書き
http://c-c-a.blog.jp/archives/51860119.html


****


 読者のかたにお役に立つカナ?と思って、もひとつ補足をいたします。冒頭の記事の中の「承認の宿題」のかたの事例でみられたことですが、

「『承認』ができるようになると、人に仕事を頼めるようになる」。

従来より、「一粒で何度も美味しい承認研修」は、実質的に「アサーション研修」の役割も果たすだろう、むしろ言ってはわるいけど本家以上にその役割を果たすだろう、と正田は思っていました。

 今回の提出者ご本人は「部下側」です。そして年上の人ばかりの職場で、周りの人に仕事を頼むことができず困っていたようです。
 ところが、「○×してくれて助かりました(行動承認―Iメッセージ)」の形で事後に声かけすることを心がけていると、次頼みやすいし相手の方も動いてくれやすい。という現象がみられたそうです。

 この方も、年下だからだけでなくわたしと同じ、「指令性低」という要素があったみたいなのですが、「承認」を意識しているとそれがある程度クリアできる、というお話なんです。


 読者の多くを占めるであろう「指令性低」のみなさま、ご参考になりましたでしょうか・・・。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会(HPは建設中)

 阪神大震災20年の次は、よく考えたらオウム20年なのだ。


 そんな2015年2月9日、正田はまじめに「あいさつ回り」をしました。


 あるところでは、

先方「そうですか、89年から91年まで広島ですか、じゃあH大の助手が教授を殺した殺人事件があったころじゃないですか」

正田「いえ、それは少し前です。私のころは『国勢調査員殺人事件』とか『橋げた落下14人死亡事故』です。
 橋げたでは抜かしていただきましたので、ご迷惑をおかけしたと思います」


 地獄の鬼同士のような会話です。

 承認の正田先生、天女のような優しいキャラでいたかったです。うそですだれもそんなこと思ってません。

 あと本当の本領はわたし、医療報道だったんです。


 しかし考えてみれば、「地元紙」の人とはこんな会話になったことないですね。相手の人のサイズ感ですかね。
 あそこには小粒のお嬢さんしかいないんじゃないですかね。男を脅かさないような。


 またちなみに、「橋げた落下事故」というのはH島市の新交通の建設中の橋げたが下の道路に落下して14人が亡くなったのですが、
 それの発生を無線から抜いて他社さんに数時間先んじたのと(それはC日新聞さんからめちゃ感謝されたらしい)、捜査情報もいち早く抜いて後々までそれが正解だったのですが、だから他社さんには大迷惑かけたのですが、その捜査情報とは、「H形鋼の組み方を間違えたのが事故原因」というものでした。


 ほかにも「医療過誤訴訟」の提訴とか判決の記事もかきましたが、、


 だからね、どんな仕事でもやり方間違えたら人を死なせることがあるんです。研修も本当はそうです、特にリーダー研修は。


****


べつの某所では「ご献本」したりほかにさまざまな「研修成果資料」をお渡ししたが、

「これがどういうことをやっているかイメージできない」

と言われました。

もともと、1つのマネジメント教育がここまで「原発並み」の成果を上げるということが今までだれもイメージできなかったろうと思うのですが、

ただ事ここに至っては、またそれをやってきた当人が目の前にいて説明してるんですからイメージしてくださらないと困ります。

考えたすえ、印刷してもってきた資料以外の資料をその場でPCをあけてお見せしました。

「こちらが宿題の白紙のシートです。こんな簡単なものです。これに受講生さんに記入していただいて、こちらの宿題一覧のようなものになります」

この場合は先方さんはそれをみて納得してくださったようです。

だからPCも持ち歩かないといけない。Dynabook立ち上がりが早いので助かります。薄軽ではありますが非力なわたしには重いです。

さいごは、

「正しい方向の社会イノベーションなんです。どうかお力をお貸しください」

と頭を下げ、先方もわかってくださったようでした。


****


 夕方からは、某所で持参の割れおかきをポリポリ食べながら、

正田「○×ちゃん(人名、男性)も一緒に来ておかき食べたらいいんじゃないですかね」
先方「呼ぼうか?○×ちゃん」
正田「○×ちゃんがあたしと仲良くしたいかどうか、じゃないですかね」


正田「これって、うちの県の特産品なんですよ?材料も県特産のものでできてるし。東京とかよそにこれと同じものはないんですから。みなさんわたしが情報発信し続けてるのをみて、麻痺してないです?その麻痺がこわいです。こんなすごいものが目の前にあるのに。
あとこれって、日本が世界に誇る『クール・ジャパン』のコンテンツとして輸出できるものかもしれないんですよ」



・・・

あとは、人の品評会みたいになり、天女はおろか「悪太郎キャラ」全開で、

正田「○×(人名)はもうちょっとまともな男かと思ったけどダメでしたね。あたしがどんだけあの人らに頭下げたかわからない。あそこ部長がきれいな女の人でいかにも『見栄でつくられた部長』ぽいらしいんですけど(注:決してきれいな女の人=無能 と思っているわけではない)そういう部長の下だとモチベーション湧かないんじゃないです?冒険する気になれないんじゃないです?」

―こういう発言をわざわざここにも書くのは今からやり方を間違うと日本中にそういう部署が出現するのではないか、と思っているからです。「オボカタ部長」みたいな―


正田「__(社名)のことはあらゆるアプローチしましたけどダメでしたからね。N_のO_さん(海軍兵学校おじさん)まで動いてもらって社長に直談判して『正田さんをもっと取り上げてくれ』と言ってもらって、それでもおかしなことして潰しちゃいましたからね。O_さんの顔まで潰されて怒り心頭でしたよ」



正田「○×会(団体名)のことはもう諦めてます。前の○×専務の時はよくしていただいた。大阪でやった事例セミナーにも足を運んでくれて、あたしがどれだけ苦労してここまで来てるかご存知だった。今の○×専務はあたしのそういう苦労を知らない、見た目だけで昨日今日出て来た調子よく生きてる女の子、みたいに思ってるし大企業のほうを向いてる」



正田「ここにいるとわからないだろうと思いますけど、県内の色んなところがいかに性差別的かご存知です?うちの県の女性活用度は全国で下から数えて何番目ですからね、働く女性にとっていいところじゃないんですよ。あたしがどんだけエビデンス出しても女だというだけでいろんなところで相手にされない、アポすら応じてもらえない、説明しても一蹴される、それがこの県の現実です。うちの県のスタンダードで考えちゃダメですよ」


―先方の懐の深さに感謝します―


さいごは、人が増えて4人でおかきをポリポリしました。
そこでも悪口雑言。

正田「大企業の女の人事の人はタチ悪いですね。あの人ら『男の先生が好き』でしょ。○×さん(人名、女性)なんかは、苦労して苦労して切り拓いた方だからわたしのことも見下さない、リスペクトしてくださいますけどね。今の代の人たちはわたしがどれほど苦労して『承認教育は有効』っていうのを切り拓いてきたかが見えない。だから平気で自分の手柄みたいに思う。見事にマウンティング女子」


―こういうのは、正田私利私欲で言ってるんじゃなくて、そういう世間知らず苦労知らず罰当たりの人たちが担い手になっても現場リーダーの心には響かないだろうし「承認」への信頼性は生まれないし結局だれも恩恵に浴さないから言うんですよ―


とりあえずどこへ行っても、「『行動承認』まずは読んでみて考えます」となりました。
「すっごく読みやすい本ですから!!」と、強調しておきました。
「本」と「著者」がギャップありすぎだ、と思われるかもしれません。


ご一緒のおかきポリポリのみなさんいい方々そうなのだがこの中には「命令キャラ」の人は居なさそうだ。
だからおじさんが命令してるんだろうか。
さあ、これからどんな展開になるのだろう。


あたしは仮に東京で先に認められても別にダメだとは思わないけれど、
でも自分の県で一番お役に立ちたいんだもの。
裏日本の新温泉町とかからご依頼があるとどんな謝金でも嬉しくてぴゅーっと行っちゃうもの。


そして、あたしが「メディアに取り上げられてない」という状況について、
「正田の努力不足とかやり方が下手」
という原因に帰し続けるのは、ちょっと「正常性バイアス」入ってるかも、と思う。
ものにちゃんと驚かないメディアさんの責任もある。かれらの内部の意思疎通のわるさみたいな問題もある。これまで無定見に変なものを取り上げ続けたせいもある。そして要所要所に「性差別」がある。


ともあれ、「正田の言いたい放題」におつきあいいただいた先方様、
お疲れさまでした&ありがとうございました…



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会(HPは建設中)

 

 あるところで「正田には威厳がない」ということが話題になりました。


 だから、「セミナー妨害」みたいな現象がよく起きるんじゃないだろうか?


 昔から、正田は年配男性諸氏から「自分の部下」「自分の秘書(兼愛人?)」と間違われやすい。それもバカだ、と思うんですけど。いえ男性がね。何か言われると基本、「はいは〜い」とやってしまうし少々難しいことでも工夫して乗り越えてしまうし報連相もいいし、人の気持ちに察しもいいし。

「手元に置いとくと便利そうだ」と思われ、そして本人は意外に自立していて自分のやりたいことをはっきり持っていておじさんの思い通りにはならない人間だ、というのがわかってくると今度は怒りをぶつける。わたしの息の根を止めよう、というところまでいく。

 どうも若い頃からその手のことを繰り返してきたようだ。もう51歳なんだから勘弁してほしい。


 新財団設立にあたり、内部で申し合わせたことが幾つかありました。


 たとえば、「待たせない」ということもそうです。恩師の思い出で触れた、「人を待たせない時間管理」。

 また言ったのが、

「わたしは基本、皆さんに何か言われると『ラジャー!!』って言ってピッピッ、とやってしまうほうの人間です。でも、任意団体、NPOとやってきてそれがみなさんの『甘え』につながってしまうのも残念ながらみてきました。
 みなさんも何かのときは(そんなに難しいことはお願いしませんから)『ラジャー、ピッ』ていう感じでやる人であってください。そうすることで末永く対等によい関係でおつきあいできると思います」


「待たせない」ことを意識してると、威厳がないようにみえると思うんですよね。女だし恩師のような大御所じゃないですしね。

 でも、「自分を偉く見せたい」がために「人を待たせる」っていうのも、あほらしいじゃないですか。

 
 もうひとつ不遜エピソード。


 新財団の役員さん評議員さんは、二転三転した結果、本職以外の兼職がこの財団以外にない、珍しいくらいフレッシュな顔ぶれになりました。


「大学の先生」とかは公務員さんなどと違い自由度があるので、特に引っ張りだこになりやすい、と思うんですけどね。

 
 それについてわたしが過日某友人との電話で言ったのが

(大体わたしは陰口は言わない、「本人返し」するか言ってもばらすのだ)


私「手アカのついてない人が欲しかったんですよ。色々兼職している人だと、ありがちなのが
『ああそれは私が兼職している先のNPOでもありますが、難しい問題ですよね〜』
とか、すぐ言っちゃう」

友人「あ、それイヤですね、『難しいですよね』って言うの」

私「でしょ。『よそ』で解決しないかどうか知らないけど、うちでは解決するの。そういうことで『よそ』に義理立てしておつきあいして永遠に解決しないことみたいに考えるの、やめてくれる?って思うの。そういう発言に時間を費やすのってばからしい」


 どうでしょ、この不遜発言。天上天下唯我独尊。


****


 あと、正田はお出会いするかたの「人生の苦」を背負えるわけではない。こういうことも後々のために一度書いておかなきゃなあ、と思う。

 色々と人間関係で悩んだすえに。


 わたし自身もここ数年、身近な人との死別や別離、ほんとうに色々あって今もメンタル万全な状態とはいいがたいのだけど、

 ほかのみなさんにしても、「人生の『苦』」的なものは色々おありだと思う。


 たとえばのお話、(決して直近でやりとりする方々がそうだ、というわけではないんですよ。誤解のありませんように)

・自分の病気怪我
・家族の病気怪我、介護、認知症、死の床にあること、死
・子供の受験(の失敗)、反抗期、いじめ
・配偶者との不仲、離婚協議
・パワハラ上司に仕えること
・出来がわるいか悪意を持った部下をもつこと
・・・

 こうしたことを抱えるというのは、だれでもあり得ることなのだけど、普通はおおっぴらには言わない。とりわけわたしのようなコンサル業の人は言わない。
 考えてみるとミドル層の人たちは集中的に抱え込みそうな気がする。


 ただ、「言わない」でいると、その人の中に自分でも制御しきれない感情の澱が溜まることがある。

 そして、とりわけ「承認の正田」(注:ほんとは全然そんないい人ではない、ブログ読者の方々はご存知のように)には、甘え依存が起こりやすいので結果、すごく変な形で噴出することがある。


 「変な形で噴出」というのは、例えば純粋に事務連絡をしているところで「変なねちっこい口調」「ネガティブな口調」が入ってきたり、あるいは理由もわからないまま連絡に応答しなくなったり、という。
 微妙に「八つ当たり」がまじる、というんでしょうかね。

 どういう形で出るかはこちらでは予測しづらい。

 しかし、これまでのささやかな人生経験で言うと確かにそういう現象はある、それもわたし正田が被害を受けやすい。期待してくるんでしょうね、「この人は当然受け止めてくれるはずだ」と。

―それも結局、カウンセリング等で話をして傾聴してもらってオートクラインの働く人であればそれを通じて自分の問題に直面することができる、というような高級なことではなくて、言葉はわるいが「排泄欲」、「あっ、漏れちゃった」という無自覚なレベルのものになるのだが。受け止めさせられるとこちらも大変なのだが―

―そしてそんな些細な、というか相手にとっては無自覚なちょっとした「お漏らし」のようなものが正田にはとりわけ団体運営の中で出されると多大な迷惑になり、結果的に取り返しのつかない物別れになってしまうことがある―


 例えばある程度親しい関係で一緒にゴハン食べてプライベートの愚痴をきいてあげる、というのは全然やぶさかではないんだけれど。
 (ただそれも程度問題で、これまで最高5時間にわたってその人の奥さんの陰口をきかされ続けたことがある)


 なので、もちろん新財団の関係者のみなさんもそうだしほかのことでおつきあいのある方々も、「人生の『苦』」を全部言わないでも察して事務連絡のやりとりの中で解決してあげられるほど正田は全能の神ではないし、事務連絡にはできるだけそういうのをまじえないでほしい、というお願いであります。

(それと切り分けた形での愚痴だったらきいてあげるから、程度によるけど)




100年後に誇れる教育事業をしよう。…今日の記事は関係あるのカナ?
一般財団法人承認マネジメント協会



 淡路島に行ってきました。


 いいお天気に恵まれ、黒岩灘水仙郷では満開の水仙がお出迎え。


水仙1



水仙2



水仙3



水仙4



明石海峡大橋




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 映画「ANNIE/アニー」に行ってきました。

 
 格差社会の映画です。州政府の窓口のおばちゃんのとげとげしくて相手によって180°変わる対応などリアルにこうなのかな、と思わせます。そして露骨に結婚に物欲しげな女性たちは、やはり自立して生きられないいらただしさでしょうか。


 フェイスブックでやたら有名人と2ショットを上げたがる人々は、「ゴーン・ガール」―これもグロテスクなナルシシズム・ホラーと呼べる映画でした―にも出てきました。それが選挙活動も邪魔してしまいます。
 だからセミナー妨害みたいな行為が出るのも当たり前なのかな。



 あと収穫はこのセリフ


「NOと言うのは、YESと言うのが怖いからよ」

 うんうん。

 このブログには「二重否定」の人たちが出てきますが。「怖い」という自分の気持ちに気づいたほうがいいですね。それが正しい認識を妨げてます。


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 あすいよいよ「新財団」の認証にこぎつけることになりました。予定より2日遅れました。

 気持ちよく爽やかに連絡し合う社風がいつまでも続きますように。





100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
⇒一般財団法人承認マネジメント協会認証申請中

 今日も「マッサン」で男の人が女の人に謝っていた。


 今日のばあい、せっかく謝った男の人が「言い方が悪い!!」と女の人にどつかれていた。


 嫌なドラマだなあ。


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 また昔の恩師の話に戻ってしまうけれど、

 恩師の故・中嶋嶺雄氏は、時間管理の達人でもあった。


 たぶんそれに関連した思い出を語られるかたは多いだろう、

 わたしの場合は、2011年春に大学(AIU)を訪れたときに「承認大賞」への推薦文を依頼したところ、先生は夕食をご一緒した席で趣旨文などをじっくり読まれ、「わかりました」と言われ、翌日には「推薦文」を書いてくださったとか、

(先生は、渡された資料を「その場でみる」人だった。まぢかでみた食い入るような先生の眼のいろをはっきりおぼえている)

(だから、このところ会う、渡された資料を碌にみもせず重ねて置いたままで「2週間後にお返事します」なんていう「先生方」には、尊敬の念を持てない、上から目線だから悠長なんだな、と思う)


 2012年10月AIU祭のときにもう一度お邪魔してインタビューさせていただき、原稿をお送りした。先生は欧州出張されていたのでしばらくタイムラグがあったけれど、秘書の方が丁寧に対応いただき、欧州から帰国された翌日には校正原稿をくださった。PDFで秘書の方から送っていただいた手書きの校正は見事に的確で、すみずみまで目を通してくださっていた。


 2つ前の記事にある先生の年譜を考えると、一見華やかな経歴でいそうで実は信じられないほど長い間、辛抱強く「待った」人だったのだ。

 
 そして、プロパーの学者であった先生がどこでどうやってビジネスパーソンのような時間管理の要諦を学んだのかはわからない。とにかく、「待たさない」人だった。たぶん学者さんに多い「待たす」ことの時間的精神的ロスを嫌というほど経験していただろう。



(それを言うと先生はその世代の男性に似ず「褒める」達人でもありこのことも多くの方が証言されているが、先生がどこでそれを学んだのかわからない。また弟子の手柄をとるような人でもなかった。わたしはゼミで「政治文化論」という物差しを初めて入れて、先生はそれを非常に気に入ってくれてその後ご自身でも「政治文化論」に言及するようになったが、わたしを賞賛するのも忘れなかった)


(またプロパーの学者であるにもかかわらず、先生は自ら果敢に売り込みをする人でもあった。AIU設立準備期間にご自身で全国各地の高校に電話をかけまくり、AIUの意義を説いて受験生を集めた。そのことは広告業界では語り草になっているそうだ。それは余談)


 AIUは、秘書の方ほか職員さん方も優秀でこれまで3回訪問して「待たされた」記憶がない。研究者さんがたのことはあまり存じ上げないが元日経新聞で図書館長(365日24時間開館のあの図書館である)の勝又美智雄教授などはやはりレスポンスの速い方だった、タイミング的にはイベントを準備中だったときでも。


 それは学長自らそういう、大学としては特異な企業文化を意識して作り上げたかもしれない。


 先生ご自身の年譜を考えて胸が痛み、そして畏敬の念を抱く。



 今、ゼミの先輩方が先生の著作集を編纂されていて、大変な労力でそこに何もできないのだけど小さなわたしから垣間見えた先生の横顔をまたひとつ。

 


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


 また新しいグループの宿題をみています。

 ”メンタル弱り気味”(本当)の今のわたしには、宿題コメントの仕事も結構感情が上下してしまいます。いつもの倍の時間がかかってしまいました。


 「承認研修」の宿題コメントも、ちょっとした「職人芸」であります、自分でいうのもなんですが。
 公開用ファイルの一番右にあるコメントは実は氷山の一角で、本人さんに返す個別のコメントはもっと宿題のエクセルファイルのすべての欄にびっしりコメントを入れます。
 もう何年もこればっかりやっているので―。

 自分で、多少コメントのノウハウかな、と思っているのは、部下側の気持ち上司側の気持ち両方を同時に斟酌することです。
 気持ちと、あと両方の性格ですね、この部下は恐らくこういう性格であろう、だからこういう「承認」の言葉になったのであろう、上司側は研修で直接お会いしていますがこういう性格であろう、としたらこの人にとってどれほど高いハードルをクリアしただろうか、と想像をたくましくしながらコメントを入れます。


 このたびの皆さんの宿題は、大変よい実践でよい結果を得られていました。

 ちょっと気がかりな部下のことをご相談いただいていた上司さんも、果敢にアプローチされ、いい手ごたえだったようです。


 わたしは割と、

「ああ、あんまり(部下が)ひどかったら叱っていいんですよ」

とか、

「それ(サボタージュとか指示違反とか)は懲戒でいいんじゃないですか」

みたいなことをすぐ言ってしまう「承認研修」の講師です。


「…ただ、今この研修ではみなさんに『承認』という武器をお渡ししますから、まずはこの武器で行けるところまで行ってみていただきたいんです。それでも改善しなかったら叱るとか処分でもいいと思います」


 最悪「叱ってもいい」「処分してもいい」と言われると、上司のみなさんは「ほっ」とされるようです。
 そして、そういう「奥の手」がちゃんとあるとわかると、じゃあ「承認」をまずは真剣にやってみようかな、と思われるみたいです。


 今回は、「これまでの研修に比べて非常にわかりやすかった」というお褒めの言葉と、「辞めたいと言っていた社員がとりあえず辞めないで様子をみると言うようになった」という記述が宿題の中にあり、嬉しゅうございました。

 
 でも「相互公開不可」の方が多いのが残念…。組織内研修では「公開不可」とされることが多いんですが、相互公開はしないともったいないです。いくら先行事例がよそにあっても、自組織の事例のほうがはるかに気持ちが上がります。


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 今週はまた、当社とは全然企業文化が真逆の組織に出向かないといけません。

 当社が「筋肉質の組織」だとしたら、それの真逆ってなんでしょうね…。


 贅肉をとろうと、人を減らす企業や組織は多いですが、わたしが一番「ムダ」だと感じるのは、こころを傷つけることによる「時間のロス」です。

 前回の面談からもう2か月も経っている。その間、わたしも動けなかった、正直平気で人のこころを傷つける人たちに対する恐怖心で。


 そこでは、法的にセクハラに該当するかどうかは、全然大した問題じゃないんです。

そういう時間のロスがやれるのは、要はヒマなんです、余裕があるんです、また事態の深刻さがわかってなくて優先順位のつけ方が間違ってるんです。自分の上から目線を自覚できてないんです。


元特ダネ記者で現「12年1位」のリーダー教育の先生と見解が食い違ったとしたら、それは自分のほうが間違ってるかも、と思った方がいいです。自分の固定観念にこだわり続けることは時間のロスになるかも、と思ったほうがいいです。

 
 あと、わたしの著書『行動承認』を読んで、この本を「正しい」と思った人は、「承認」の実践者になっていただきたい。
 そんなにむずかしいことじゃありません、過去に「承認ができない人って発達障害なんじゃないかしら?(アニメ声)」てなことも、書いたことがありますが。


 言語による「承認」について例文を出しますので、是非声に出して読んでいただきたい。リピート・アフター・ミー。


「正田さんは過去12年にわたり『1位マネジャー』を育ててこられましたね」(行動承認)

「正田さんは過去通算7回も事例セミナーを開催してこられましたね」(同上)


 
 どちらも「事実」ですからね。でも他人事と思ってきいているか自分で声に出して読むか、で体の感じも変わってくると思います。練習してないと講師紹介でも噛む人多いんですよね、多分その場で初めて実感が湧くんでしょうね、どんなに凄いことかって。


 「事実認定」に基づいた会話をしようじゃないですか、固定観念ではなく。

 あ、「事実認定」に基づいて会話してるときの正田は、全然怖いひとではないですよ、むしろ「こんないい人いるんだ」と感激するぐらいいい人ですよ。「承認」もちゃんとしますよ。


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 矢継ぎ早に新たな「師」のお話を書いて恐縮です。


 「行動理論コーチング」の武田建氏(関西学院大学名誉教授)と初めてお会いしたのは2006年秋のこと。何月だったか忘れましたがブログにもちゃんと残っています。神戸元町のどこかでおしゃれなランチをご馳走になりました。


 そのときの会話で「おっ」と思ったことがあります。

 武田氏が、実にカジュアルに、「ごめんなさい」という言葉を使ったことです。


 確か、わたしが当時も関西福祉科学大学で教鞭をとっていた武田氏に「聴講したい」と言い、そのことの具体的な段取りを話していて、何かの取り違えとか勘違いを武田氏がされたんだと思います。そのことに気づいた武田氏が、即言われたのが「ごめんなさい」です。


 で、引っかかりました。当時も武田氏の『コーチング―人を育てる心理学』(誠信書房、今は新刊本で入手できると思います、いい本です)ほかアメフトコーチングやリーダーシップに関する本を何冊か読んでいまして、「ごめんなさい」は行動理論の中のものではないとは知っていた。武田氏は徹底した現場リーダーなので、スキナー由来の行動理論以外にも自分が現場でぶち当たって失敗して悩んだことなどを正直に本の中に書いておられ、それがただの行動理論でなく共感するところでした。失敗した選手をひどく叱ったあと自宅に電話して謝る、というようなこともありました。


 そのときの会話の「ごめんなさい」でわたしが感じたのは、武田氏はこうして意識的に「ごめんなさい」を頻繁に使うことで、自分が傲慢になるのを抑え、現実認識が狂うのを抑えているのではないか、いわば武田氏流の「ナルシシズム封じのおまじない」のようなものではないか、ということでした。

 これも結局ご本人に確かめてないんですが―、いっぺんまた会いにいかなきゃなあ。


 それで、わたしの「承認教」の中にも、バイブルの中には入ってないですが、ちゃんと辞書の中に「ごめんなさい」「申し訳ありません」「すみませんでした」のような言葉はあるんです。

 気をつけてみるとこのブログの中にしょっちゅう出てくると思います。


 わたし自身も「ナルシシズム封じ」気をつけたいところですし、またこのブログを読まれる方がモデリングで学習してくださるといいなあ、という願いもあります。


 しかし、どうなんでしょ。

「ごめんなさい」

と言う他人をみたとき、「こいつダメなやつだ。自分のほうが上だ、自分が勝った」と思うか。

 あるいは「謙虚な人だなあ、自分もそうならなきゃなあ、見習わなきゃなあ」と思うか。


 どうも、残念ながら男性の圧倒的多数は前者のほうなんじゃないですかね。バカだ、と思いますけどね。



 わたしは師匠の一挙手一投足から学ぶほうの人間なので、だから「承認教」を人様に教えるなんていうおこがましいことができるんだと思いますよ。

 あ、きついこと言っちゃった。



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NPO法人企業内コーチ育成協会
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 「正常性バイアス」という言葉がありまして、どうもわたし正田51歳女が生きていくうえで必要な概念とか言葉かな、と思いました。ので、このブログを見てくださるご縁のある方々とも共有したいと思います。


 正常性バイアスは、社会心理学や災害心理学でよく出てくる用語です。ので、多分このところのうちの地域でもあちこちで多用されたかと思います。


 これまでの常識を外れた異常なことが起こったときに、「これは異常でもなんでもない。正常な範囲だ」と考える。そのことによって自分の心の安定を保つ。

 
 災害では、非常ベルが鳴ったり避難警報が出たりしたときも、「こういうのよくあるよ」「多分誤作動だよ」「騒ぎすぎだよ」と考えて、動かない。その結果悲惨な結果になってしまう。

 
 経営の世界で言う「ゆでガエル」の心理とも似ています。

 多分、ストレングスファインダーでは「これ」が高い人にはそれが起きやすいだろう、というのもあるんですがギャラップ社さんにお叱りを受けてしまいそうだからやめておこう。


 …あと、犯罪とかトラブルが発生したときに「被害者が悪い」という方向にものを考えることも「正常性バイアス」に含まれます。「ミニスカはいてるから露出多い服着てるから○○されるんだ」みたいな話。いやあたしもミニスカは履かないし露出多い服も着ないですけど、被害者のほうにやたらと原因を帰し加害者を責めない、というのは、結局「何も悪いことは起こっていない」と考えたい心理からくるんです。それは「承認教」の事実認識の世界からするとダメな考え方です。


 で、正田とはどういう関係があるのか、ということですが先日も一部の受講生さんには感じ、一部の受講生さん―多分、このブログに一通り目を通していてくださったほうの方―には感じなかったのですが、


「女性でこの容姿のこの社会的地位の人がこの場(他は男ばかり)やあらゆる経営学心理学を俯瞰した中で一番正しいことを言うなんてわけないだろ」

という形で、「正常性バイアス」が働く。

 やっぱり、属性で差別をしたくはないですがご高齢の方へいくほどそれは働きやすいなあ、とも思います。


 そしてその「正常性バイアス」が働くと、次から次へと重要性の低いこととか前回きちんと触れてシートも提供していることについて重複した質問をする。
 あるいは、時間枠の関係でどうしても触れられないことに立ち入った質問をし、
「今ここでこの質問に答えなければあなたを無能な人間とみなす」
というオーラを出す。


 要は、「女性の正田」を引きずり降ろしてその人たちの妥当だと思う地位に着地させたいわけです。


 まあ受講生様だけでなく担当者さんにもいらっしゃるんですよね、「トウシューズに画鋲行為(サボタージュを含む)」をして、正田を無能な人間として演出しようとする方が。意識してか無意識か知りませんが。去年そういうのにあまりにも遭いすぎてしまったからこのところ体調を崩してたんです。


 …と、いう現代日本の社会の中を正田51歳女は生きているんでした。なかなか疲れますよ。


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 NHKローカル「かんさい熱視線」で、子供をもつ働く女性が上司の「過剰な配慮」でモチベーション下がる、がんばっても認められない、というのをやっていました。

 同期の男性より5年昇進が遅れ年収が100万円低い、という女性。つらくて、見ていられなくてTVをけしました。

 この女性の口惜しさは、単なる「競争心」の問題ではないだろう、と思えてしまったのです。感情移入しすぎるあたし。

 例えばしばらく一緒に仕事をしていたら、

「この人、それほど会社を愛してない」
「仕事を愛してない」
「お客様を愛してない」
「だから仕事の質が低い」

あるいは管理職になった段階だったら、

「この人、部下を全然愛してない」
「だからマネジメントが下手。
この人の下で砂をかむような気持ちで仕事してる部下がいっぱいいる」

というのが、同僚の女性から手にとるようにみえてしまう場合があるわけです。

 なのにその人のほうが高く評価され昇進が速く給与も高かったら。


 うーん、エステ行って散財したくなるかなあ。その業界は儲かりますね。

 こういうのって、「女子会」みたいな研修いくらやってもムダだと思いません?


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 えーと、わたし的には、この番組の最後のほうにひょっとしたら「研修風景」もあったかもしれないですけどそこは見てないんですけど、

 「承認」を「女性活用」とだけ結びつけて考えるのは「承認」がやれることの全体像の巨大さからいって勿体ない、という考えなので、当面静観しとこうと思います。

 そういう考えで去年の出版の際も、「女性活用の本」にすることをお断りしました。


 「女性活用」の講演を去年1回だけ、なんで引き受けちゃったのかといいますと、一応「女性パワーアップ研修」じゃなくて、要は女子会研修じゃなくて、「マネジメント」の研修だったからです。うわー親会社の方もきっと見てはるよ。ごめんなさいごめんなさい。


 ただ会場の人は会社の人事の人が多くて、やっぱり「正常性バイアス」が働きそうな表情の人ばっかりだった。特ダネ記者にはある、「えっ」とか「むっ」とか「おやっ」とかいう感情がない感じ。もちろん主催者による講師紹介で「この人はこの分野で第一人者なのでしっかり聴いてください」みたいなのもなかった。通り一遍、どこの大学ご卒業とか職歴はどうだったか、というやつ、それでもないよりましですけど。


 で、それは事前にも割と予測されたのでちょっと自分自身にパワーがなくてどなたかの講演スライドを借用してしまった、のでした(事前了承済み)。
正しいことを正しいと言い切るって結構なエネルギー要りますよね。


 あ、そのときの講演でも冒頭に「『女性を』マネジメントしようと思わないほうが女性マネジメントは上手くいく」、もちろん妊娠とか育休とかの要素はあるにせよ大筋、男がイヤだと思うことは女も当然イヤだ、と考えたほうがいい、全然別の人種だなんて思わないほうがいい、というようなことは言いました。


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 あー、「特ダネ記者体質」の中に「○○○低」というのもあるかもしれないな。


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 「承認研修」の組織力向上を説明するときに、「承認力」も当然上がるし講師の正田のキャラもあるんですけど、「○○○低下」という現象もあるかもしれないです。

「○○○」をつかわなくても、人と人とはうまくやっていけるんだ、とわかって自然と優先順位が下がってくる。すると今まで見えなかったものが見えるようになり、発見の多いみずみずしい組織になる。



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 19日、岡山の社会福祉法人夕凪会さんで「承認研修」。

 6名の聡明な介護職のリーダーさんが参加されました。


 直前のお迎えの車の中で、吉永施設長とのお話より「介護報酬下げ」「人件費上げ」に挟撃されて何が起こるか。経費圧縮、そして研修費の圧縮。最低限の介護スキルなどの研修はせざるを得ないから、リーダー研修はゼロになると考えなければならない。


「今年度この『承認研修』を押し込めて良かったですねえ」

実感を込めて言いました。


 研修では、1回目の休憩明けに受講生様にもそのお話をしました。


「そういう事情ですから今日は本当に貴重な機会です。皆さんしっかり吸収できるものを吸収してください」

 力強くうなずいてくださった皆さんでした。


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 ここ1年くらい、「承認研修」はそのまんまのタイトルでやるわけではなく、「部下をもつあなたに武器を配りたい―静かに職場を改革する最強ツール『承認』」というタイトルでやらせていただいています。瀧本哲史氏の本へのオマージュかな。


 「武器」というと穏やかではないですが、「承認」の「褒める」とは違ういいところの1つは、「性善説」から「性悪説」へ一瞬で切り替えができることです。このブログの読者の方はご存知のとおり。

 最悪の場合、法的措置をとるときの武器としても使えます。どうも時節柄すごい必要性が高そう。いえ夕凪会さんでそうだ、というわけではなく。


 夕凪会さんは人件費60%を維持し教育研修にもしっかりお金もお時間もかけてやっておられ、福祉法人さんとしては非常に優等生さんです。離職率はゼロに近いそうです。さすがですね。

 ただあと一歩足りない何かがある、というとき「承認研修」を採用いただき、

 終了して送迎の車の中で吉永施設長(この方は吉永祐介元検事総長のご縁の方なのだそうな)が言われたのは、

「お蔭でわれわれも『闘う組織』に変貌できます」

ということでした。

 それは「承認」が良かったのか、講師の正田の「闘うキャラ」が良かったのか。


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 介護業界さんではまじめな話、もう「承認研修」をできるのは最後になるかもしれません。

 試しに吉永施設長におききしたところ、

「次年度以降、こういう教育が必要なリーダーさんに『本』を買って配布する、ということは経費的にはできますか」

とおききすると、それはできる、とのことでした。

「しかし、こうして研修で先生がライブで伝える、ということには叶わないでしょうね」

とも。


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 某「首長」からお葉書がきて、自筆で「読ませて頂きます」と添え書き。

 年明け5日に某所での祝賀会でわたしが「ご献本させていただきます!」と言い訳のおまけつきで言ったのだ。


 このおじさんも「人材育成」に関しては過去には変なことを言っていた人だった。だから東大の人は。

 早よ読め。

 最近のおじさんはあんな読みやすい本を読むのに2か月ぐらいかかるのだ。


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 大きな社会イノベーションのようなものは、多分大きな「ところ」や大きな「人」が何か所か何人か連動して動かないと実らないのだろう。

 青色LEDの場合は、どうだったのだろうか。


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 あすは地元兵庫県中小企業団体中央会様での2回目の研修。

 16人中11人の方が宿題を提出された。いずれも素晴らしい実践だった。

 こちらからご案内メールを出すと、3人ほどの方が(欠席連絡を含めて)気持ちいいお返事をくださった。1人の方は「その後承認にはまってます」と宿題で書いてくださっていた。


 何があっても、あたしは受講生様を愛す。




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 以前にも人の「瞳孔(ひとみ、黒目)」の大きさと脳の状態についての記事を書いたことがある。


 『ファスト&スロー(上)』についての読書日記

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51849252.html


 この記事では桁の大きい計算をしている人は瞳孔の大きさが1.5倍程度になるという実験が出てきて、それを評して正田が「真摯な人は黒目が大きいってことでしょうかね?」てなことを言っています。「脳を注意ぶかく使っている」ということだから当然「承認」との関連性も興味深いです。


 あっちなみにこのブログの過去の登場人物はどうしてこういう言動になるのか?という疑問にも上記の記事は結構答えてくれていて、お時間のあるときにはおすすめです


 一方で悪感情をもっている人が黒目が小さくなる、というのも現実生活でよく経験することで、これに関する記事がないかなあと探していたら、よそのブログで辛うじてこんな記事が出てきました


 「ネコ語のチェックポイント 耳・目編」

 http://blogs.yahoo.co.jp/miki1958jp/19882963.html

 
 ―とりあえずネット上で情報を探しましたが文献でも見つかるとよいですね―

 
 ニャンコちゃんの言語の「目」に関わる部分をちょっと引用させていただくと(ちなみに人間でも同様だそうです)

感情による変化は、恐怖を感じたりして興奮すると瞳孔が開いて円形に近づき、反面、攻撃モードへ突入すると瞳孔が閉じていき、最後は針のように細くなります。

★目の感情表現
普通・・・中ぐらいの瞳孔の大きさ
攻撃・・・瞳孔が針のように細くなる
恐怖・不安・・・目を見開き、瞳孔も広がって丸くなる
迷い・・・瞳孔は中ぐらいからやや開き気味で、左右の目がバラバラに相手を見つめる
満足・・・半ば目を閉じて半眼になる

私は上に、「好奇心・いたずらしている時・・・くりくりまん丸」を付け足したいですね。



 恐怖を感じると黒目は大きくなるのですって。

 先日アニメ映画『進撃の巨人前篇』を観に行って、違和感を感じたのはこの部分ですね。
 登場人物が明らかに「恐怖」を感じている場面で、黒目が逆に小さく描写されてましたからね。
 逆だろ、って1人でつっこんでました。

 今年夏にはアニメ版後編も公開されるそうですが…、
 今から修正するのは無理だろうなあ〜。全体としては好きな世界観でしたけど。


(はい、実写版も観たいと思っています。仕事しろよ)


 
 で、恐怖より「攻撃」のほうに興味をもって元々調べていました。

 「攻撃」モードのときは黒目が針のように細くなるそうです。

 人間のときはどうかな?細くはならないと思いますが「小さく」はなるでしょうね。


 「脳が照準を定めた」という感じでしょうかね。


 そういうことを知っていたとしてわたしが変な攻撃に遭うのを防ぐことができるのかというと…、
 できない、のかもしれませんけど。


 あと「S(攻撃)モードに入ったときは黒目が白っぽく濁る」という情報も最近入りまして、これも裏づけの知見がどこかにあるといいな〜、どういう現象やろな、と思います。どなたかご存知の方はご教示ください。

 (わたしも「ビー玉のような眼」が、「対話を打ち切った」ときに出現するのはみたことがあります。一緒カナ)
 


 まあそういう人に会わないで済めばそれに越したことはないですね。


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 「自分原因教」のバイブルを1冊買って読んでみましたが

 途中で「レディースコミックやな、これ」と放り投げました。いえそういうのの読者なわけじゃないんですけど。

 以前にも心理学のセミナー後の「信者」の方のこころの状態について感じた、「魚眼レンズから世界を見ているような状態」。自分中心に曖昧模糊とした世界が広がっていて、周囲の人もみな「点景」にすぎなくて。


 そして、「すべては自分の思考が引き起こしている」というお題目。わたしは近所のP&Gビルの壁で高所作業をしているおじさんをみながら、「あのおじさんが作業するのもわたしの思考が引き起こしているのかなぁ」とつっこみました。いや、「承認教」的には、おじさんにはおじさんのロジックがあって作業していると思います。


 実は「モンスター魔性の女性研究者」がつくられるロジックもここにないか?ということも勘ぐってしまいました。
 生命科学の世界の歪みについては、このところ出版が相次いでどれも興味深いものですが、わたしは「人分析」の人間なもので―。


 生息環境も大事ですが、本人自身の中にどういうロジックが流れているか?

 「女の子はみんなプリンセス、だって可愛いんだもん」という奇怪な実験ノートのフレーズ(注:ネット情報による)は何から生まれるか?

いみじくもこのバイブル本には、主人公の女の子が会社の上司と不倫をして相手の家庭を破壊しその後別の男性と幸せになるというハッピーエンドのエピソードが出てきます。いいんですかそれ。自分原因教って魔性の女のすすめですか?


 この本も、まっとうな知性の持ち主なら普通は放り投げる種類のものですが、年頃の女の子にとっては著者が「アメリカで学んできた」というだけで「お墨付き感」がある。

 (自己啓発の世界は大体どれもそうです、どんないい加減な内容のものでも)


 こういう「魚眼レンズ思考」の人は、過去の経験から言うと、非常に仕事とかやることにムラが多く、たまにすごくいいことをしたかと思うと後に続く日々はすごく「やる気のない」仕事ぶりで時間もルーズ、仕事の質も低かったりする。朦朧とした感じで日々を送っている。

 そしておそらく「本やセミナー」だけの影響でそうなったというより、もともとそういう傾向があって刺激を受けてますます強化された、のであろうと思います。

 本当はそういう傾向の持ち主の方の正しい問題解決方法はそうではない、ちゃんと診断を受けて適切な薬をのんで、というほうが社会適応がいいのだろうに。


 ココロヤジンノスケという人の本も読んだほうがいいのだろうか。

 仕事しろよー。これも仕事です。どうだか。



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NPO法人企業内コーチ育成協会
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 『行動承認』を読まれてわたしのことを「承認の人」と思っている方は、わたしが「叱り技」に転じたときにびっくりして、そして「この人裏表がある」とか「期待を裏切られた。イヤだ」と思われるのかもしれない。


 実は本来めっちゃくちゃ「叱りキャラ」である。


 そういうわたしの近年「叱った」エピソードを挙げておくと、


1)ある人に書いたメール。


「あなたは思春期のお子さんをお持ちですね。あなたの少し口を尖らせたような甲高い声の短い最低限の受け答えは、思春期の反抗期の子供さんのそれを彷彿とさせます。
 あなたは、反抗期の子どもさんのような心理状態でわたしに対して会話しているのではないだろうか。自分のお子さんの日頃ご家庭でみせる態度をあなたも真似されているのではないだろうか。
 わたしはあなたのお母さんではありません。
 あなたのお母さんはご存命と伺っているが多分ご高齢ですよね。『反抗』するなら、その年老いたお母さんになさってください。そしてもしお母さんがそのために衰弱されたら、ご自身で責任もって介護を引き受けてください。
 わたしにはあなたのような大きな子供はおりません。また、やっと子育てを終えて今から社会を幸せにするための仕事をしなければなりません。でも年齢相応にあちこちガタがきています。今の段階で反抗期の子供にかかずらわっている暇はないのです」



2)またある人との電話でのやりとり。


正田「このところNさんがインタビューでわたしについて証言されたこと(要は、「承認研修」の講師である正田がいかにすみずみまでの配慮をもって「承認」を伝えているか)は、誇大広告ですかそれとも真実ですか?」

ある人「いえ、誇大広告ではありません」


正田「誇大広告でなかったら、何ですか?以前にも言いましたが否定形でなく肯定形で言ってください」


ある人「(強い口調で)誇大広告ではありません(←「誇大広告か、どうか」ということに目を奪われているので、否定形で強く言うことが正しい、と思っている)」


正田「『誇大広告ではない』を肯定形で言うとすれば、それは『真実である』ということです。『Nさんが言っていることは掛け値なく100%真実だ』ということが、どうして言えないのですか。
『あれは真実だ』と表現することを100点だとするなら、『誇大広告ではない』と表現することはそれを50点60点に勝手に『減点』していることになりますよ。どうして他人様のやっていることを勝手に減点できるのですか。それは無茶苦茶Nさんに失礼な話ですよ」


ある人「…20代の頃の上司に言われたことがあります、『出し惜しみするな』と。『いいものはいい、とはっきり言え』と」


正田「ほう。ではそれをどう思いましたか。どうしましたか」


ある人「その通りだ、と思いました。そうするように努力しました、その当時」


正田「では、なぜ今はそれができないのですか。若い頃上司の方に躾をされたことを、今は偉くなって忘れてしまったのではないですか。大切なことだったのではないですか。
 今、会社の人があなたの言うことをきいてないとしたら、あなたが率直に『いいものはいいと言う』態度を忘れてしまったからではないですか」


以上


 1)のケースも正直ほんとに沢山経験する。イクメンも決して100%いいわけじゃなく、自分のお子さんの精神年齢がその人に伝染っているのではないだろうか、お子さん並みの精神年齢になっているのではないだろうか、とくに女性のわたし、NPO代表のわたし、との関係性の中で、というのもよく思います。要は「子供に感情移入したうえでの投影」ですかね。「主婦」が働き始めのときに「仕事」の世界の人たちに言われたり思われたりすること―「子供を言い訳にするな」―は、意外にイクメンの方々にも当てはまったりするのです。

 かつ、お父さん世代の方々に要望したいことですけれども、お子さんが思春期の反抗期でお母さん(自分の奥さん)にやたらとつっかかっているとき、奥さんに対して「ざまあみろ」と思ったりしてないだろうか。正義がないのに子供のほうの肩を持ったりしてないだろうか。
 文脈にもよるが、
「お母さんに対してその口の利き方はなんだ!」
とお父さんが言うのが正しい、というケースはいっぱいある。またそれを自信をもって言えるお父さんは少ない、むしろ漁夫の利を得ようとすることが多い、とも。
 


 そして2)のケースはより普遍化すると、人は40になっても50になっても「上位」の人から叱られなければならないようなことをする、とりわけ男性ではそれがある、ということです。20代ごろに躾けられたことも忘れてしまって再インストールしないといけないケースがある。しかしその年齢になって「一から躾けなおしてくれる親切な上司」にめぐりあえる人は少ない、本人も既に躾など受けつけない心理状態になっていることが多い。

 ご家族のいる人は、一番率直に愛情込めて厳しいことを言ってくれるのは家族なので、「ご家族を大切にする」は大事なことですよね…。


 ―えと、1)2)とも直近にやりとりしている方々のことでは断じてありませんのでくれぐれも「自分のことだ」と思われませんよう― (えっ、「思うよ」って?ちがいますちがいますちょっと必要性があるもんですから;;)



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 某所で久しぶりに人材コンサルタント(笑)をする。
 なんで笑うんだ。たぶん、自分で「コンサルタント」を自称するとついおちゃらけてしまうんですよね。
なんちゃってコンサルタント。


でも本当は研修講師よりこちらの方が適性として合っているはずなんです。


 先方の社長さんは、『行動承認』をあらかじめ目を通しておいてくだり、沢山の付箋をはり線を引いていてくださった。嬉しかった。
 ―そういえば先日東京でもそういう読み方をされていたマネジャーさんがいらしたっけ―

「若い頃の一時期新興宗教にはまり掛け軸を2本買わされました。それ以来そういうものとはきっぱり縁を切ってきました。血液型占いも信じていません」
と社長さんはおっしゃる。

「だって、そういうものに支配されていたら、自分の人生じゃなくなってしまいますから」。

 
 まさしく、そういう方(極少数派なのかもしれないけれど)のために書いた本のつもり。

 そして最近のこのブログにも一通り目を通していてくださったのだろうか、沢山の共通認識をもってお話をすることができた。
 やはり必要なことなのだ、「こういうこと」について共通認識をもつことが。
このブログで言ってることは現実に起こっているのだ。


 そのやりとりに立ち会われた方がいらして、「こんなに『内面』に入ったコンサルティングは初めてだ」と言われた。普通はSWOT分析のよううなものから入るのだろう。正田式は徹頭徹尾「人分析」である。今回はそういうのなかったけれど場合によっては「その人は最悪の場合、あきらめてください」などとシビアなことも言う。


 でも最後は結局「承認」に落とし込ませていただいた。


 どうなられるかなあ。


****

 「社長」であるということは普通にやっていてもそれだけで「生身の人」の負担を超えることなのだろうと思う。

 社長さんでも多くの方は何かに逃げる。占い、新興宗教、自己啓発セミナー、やたらと動員の多い忙しい経営者団体(いつ経営してるんだろうか)…。

 そういうものにはまり込まないだけでも大変なことだ、と思う。その人のそれまでのめぐり合わせや聡明さとの掛け合わせ。


 血液型占いにはまり込んでいるある社長さんは、履歴書を全部占い師にみせてだれを採用するか決めるそうだ。

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 今日は震災20年。

 あまり意識せずにその日を迎えた。

 ここ六甲アイランドでは1人も死亡者が出なかった。埋め立ての方式がよかったらしくほとんど液状化も出なかった。

 わたしは当時対岸の住吉本町に住んでいて新築の賃貸マンションだったので建物も家族も被害がなかった、しかし周囲には木造住宅が多く軒並み倒壊した。

 毎日、南側のベランダに面した窓から倒壊したお向かいの家をみる。やがて3月、4月が来て、その敷地に唯一残った立派な枝ぶりの桜の大樹が見事な花をつけた。倒壊した家をバックに。


 その年の暮れ、六甲アイランドに移り住んだ。


****


 そういえば大学のゼミ時代のわたしは「ツッコミ女子大生」というキャラだった。

 ゼミで先生が何か言うとつっこむというかまぜっかえすというか。

 学術論争という次元の高い話ではない、もっと他愛ない話で。
 たとえば―。


 先生のお嬢さんが留学先でピアスの穴を開けて帰ってきた、けしからん、とぷんぷん怒っている。

「中国では、論語の時代から『身体髪膚これを父母に受く』といって、身体には傷をつけないものだ」

と先生。

 すかさず、

「先生、今の中国の女性はみんなピアス開けてます!」

と私。先生、苦笑。

 気持ちとしては、愛情表現なのだ。大好きな先生に間違ったことを言ってほしくないのだ。ゼミの内輪で間違っても公的な場で間違ってほしくないのだ。

 先生にもそれはちゃんと通じていたようで、そういうのでお咎めを受けたことはなかった。


 先生はほかにもその手のつっこみどころ満載のエピソードが意外とある人でOBが集まると必ずそういう話になる。


 恩師のことをやたら思い出すのは冥界に近いところにいるからじゃないだろうなあ。


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 「出版社」よりレターパックにより「絶版等契約書」が届く。やっと。

 こんなことも急かしに急かしたすえ、だった。社長は「あのメールのPDFにうちがハンコ押したのを郵送しましたからあれでいいんじゃないですか?」とワケのわからないことをFBメッセージで言っていた。

 そして今度届いた「原本」も、よくみると印影が薄く悪意なのか仕事の質が低いのかわからないが。


 たぶんこの手のことも2015年、今の時代は横行しているのだろう、口にしても「はしたなくない」ことなのだろう。

 

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 佐用町社会福祉協議会様で12月3日、1月14日と2回の全職員ワールドカフェを行いました。

 最若手のご担当者N原さんが当協会ホームページに目を留めてご依頼くださった、というご縁でした。
 準備物なども多い中、きめ細やかにご準備、アテンドいただきました。

 きのうは最後にN原さんへの感謝を言おうと思ったのに時間が押して言えませんでした。ごめんなさい。
 N原さん、ありがとうございました!皆様が今年また一歩新たな前進をされることをお祈りします。


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 ご請求書を作成した。


 「ご請求書作成」は苦手科目の1つ。前回もN原さんに数字の間違いを指摘された。
 自分を「性悪説」でみなければならない。

 ただここ数年、「苦手がますます苦手に」という傾向が強まっているように思う。「集客活動」などもその一つ。以前は百何十人規模のイベントをしたときもあったから。



 またしょもないことで自慢をひとつすると、正田は45歳ぐらいのとき脳MRIの詳しいやつをとって(このブログでは2008年の5月だったかに記事があります)、画像診断の先生から「年齢相応の老化のサインがほとんどない。非常に意志が強い。バランスよく多くの思考能力を使っている」とお褒めの言葉をいただいたのでした(先生「数字に弱い」ことは見抜けなかったな)


 今とったら、ちょっと老化のサインが出てるかもしれない。

 これもサンプル数がいっこしかないのでアレなのだが、「承認」実践者の側の方、つまりマネジャーの脳で「老化」についてどんなことが起こるか、ということもちょっと夢想する。老化スピードが低下するんじゃないかと正田は思っている。つまり、「承認」は自分以外のたくさんの人の強みを認めるので、自分に本来ない強みも駆使することになるだろうからだ。


 とはいえ「体力」はそんなことでは伸びないし「ナルシシズム」は伸ばしたくないものなんだけどね。


 「老化をストップさせる」だけじゃなく、近年「意志力」などでよく言われる「認知的負荷」「ワーキングメモリ」を鍛えることにもなるだろう、と思います。脳を注意ぶかく使う習慣がつきますからね。ひいては、判断力決断力向上など多くの喜ばしい結果をもたらす…


 実践者もそうだし「承認」対象者―会社だったら部下、学校やご家庭では子供さん―の側の脳発達はさらに顕著なのではないかと思う。そういうこと考えるとわたしは結構ワクワクするほうです。


 この画像診断の時点では先生が目視でやってましたが(だから「科学ではない」という批判もあったようですが)今は白質の密度を計測する技術があるそうです。


―「承認」と比較してよく「瞑想」に関する実験を取り上げます。「瞑想」実践者では恐れをつかさどる「扁桃体」の白質密度が低下する、つまりあまり恐れを感じなくなる(多分ゼロになるわけではなく、過剰な恐れがなくなり適度な感じ方になるのでしょうね)、とされています。恐れが低下するということはすなわち、「勇気」が相対的に上がるということ。「瞑想」と「承認」は恐らくよく似た効果があり「承認」のほうがはるかに速く大きな効果が出るのではないか(しかもドロップアウトが少なく)とわたしは思っているのですが、「承認」によって日本人が「勇気ある(蛮勇でなく)民族」になったら―時節柄変な方に想像されないことを祈りますが―喜ばしいと思いませんか?


 あ、だから正田はMRI経験者なんです、「若い女性」だから「ない」だろう、と思ったみたいだけど。
 「すごく負荷の高いものですからね」とか言われましたけどあのグワングワンいうドームでしょ?そんなに威張らんでも。



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 よくある誤解で、「競争心―他人に勝ちたい圧倒したい気持ち―」と「闘う」は同じかというと、別物です。よく「恩師はよく『闘う』人だった」とか、書きますけど。


 「競争心」のほうは、ゼロサムなんです。独り勝ちしたい。
 他人が勝つということは、自分が負ける。だから面白くない。WINWINということはあり得ない。
 また、他人が明らかに勝つとわかっている勝負からは「降りる」ということもします。手を貸さない。


 「闘う」というのは、使命感とか責任感からくるもので(ちなみにこの2つはどう区分したらいいのだろう、今のところわからない)ある目的―たぶん、ここでは周囲への共感に基づく、周囲からも共感される目的―のためにケンカすることも厭わない、ケンカは極端だけど少々の障害とか反論とかは気にしないで意志を貫く、という。


 これまで色々と「不毛な押し問答」をしてきて、ようやっと気づいたのは、先方は「正田さんに勝たすのは面白くない」と思っているということでした。
 やっぱり自分に「ない」思考回路のことは理解するのに時間がかかるなあ。

 つまり、先方は上記の「競争心」の思考回路でものを考えている。
 正田は、それはない。このブログを読んでいて「競争心」の人間なんじゃないの?と思われる向きもあるかもしれないが、まあ本人が言うことだから当てにならないがそうじゃないです。必要以上に人の痛みも喜びも見えてしまうだけです。
 でも先方は自分を物差しにしてものを考えますからね。「この女性は『勝ちたい』一心でものを考えている、そんなものに手を貸すわけにはいかない」と考える。


 これまでの経験で企業の窓口である「ご担当者」にも「これ」があるために講師に対するマウンティングが出た場合もあるし、報道機関、自治体、議員先生、あちこちで見る。

 当方は社会のたくさんの層の人たち、経営者・マネジャー層から最末端の非正規の人たちまで含めて幸せを願って物事をすすめているときに、先方ではその場の会話とか二者関係の間の「勝ち負け」の問題に話がすり替わっているのもみる。


「出版社の社長」も、そうなのだろうと思う。「あなたの言うことをきかなければぼくの、あるいはほかの著者の勝ち」という。


 追記 これも思いました。日常生活では、この人たちはお母さんとか奥さんに叱られ、「女性に負ける/敗北する」ことをよく経験しているのだろう。
 それへの報復を、社外から自分に頼み事をしてきた無名の女性・正田にして恨みを晴らす、ということをやっている匂いも、申し訳ないけれどぷんぷん感じてしまうのだ。
 そういうのはもう変えられないですね。



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 去年、ある人がわたしの側に立って発言してくれたが実りがなかった、という話を書いた。

 「海軍兵学校世代」の人でした。その世代の人に、まあ功成り名遂げた後の段階で持ち上げて言うのもあれですが時々「巨大な知性」の持ち主の人がいた。

ハゲタカファンドを株主総会の席で怒鳴りつけて追っ払う、という快挙ー比較的近年のエピソードーをやった人だった。
また、神戸で20年も続いているイベントの創始者であり今も精神的支柱でもある。

 もう、そういう知性の人が、(もちろん大学の先生を含め)絶滅したのかもしれないと思っていた。



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 4本ほど前の「自己啓発セミナー、自己啓発本」についての記事の中で、昔特ダネ記者だった話を書いた。


「広島のハタケヤマ、独自!!」

 東京のデスクが叫ぶ、電話口で。


 これも以前書いたことがあるけど、わたしの姿形を目の前にみていない人のほうが公正(fair)である。仕事をした結果とかプロセスをその通り受け取って「認めて」くれる。そしてわたしを目の前にみた人は…、


 電話で話していると普通にちゃんとした人なのに、対面で会って話すとイヤな人になっちゃう人多いなあ。
 

 容姿にそうとう問題のある人みたいだ、正田は。


 だから、「研修担当者Nさん」が長時間にわたり「サシ」でお話をしていて、一度も態度が崩れなかったのは驚異的でした。
 かれは担当者として「研修のなかでの正田」を正確にみて、そして歪曲なく正確に語りつづけてくれました。評価してくれました。


 これもなんというか、「不毛な押し問答」をして最後には頭を抱えているときの正田と、研修講師としての正田は当然キャラが違います。


 たぶんですが正田の研修に来てニコニコして語る講師の「正田先生」をまぢかにみた人は幸せな気持ちになっていると思います。またその後実際の「行動」までとり、それによってますます幸せになっていると思います。




 一方で「不毛な押し問答」の一方の当事者になった人は―、

 その後一生、正田のことを「優れた研修講師」と認識することはできないのでしょうね…、
そういうのは「選択バイアス」といいます。自分の選択は正しいと思いたい一心で、すべての反証から目を背ける。

 かわいそうだな。
 
 というのと、

 じゃあこの人はこれからの人生でずうっと「正しいこと」に目を背け続けるのだろうか、それはどんな人生になるのだろう、

 と索漠とした気持ちになる。


 先月、正田に失礼なことを色々言った人がいて、その人はその後も「間違ったことは言ってない」と意固地になって凝り固まってしまっているのだときいた。

 あたまが凝り固まって事実は何かということにも意識を向けられなくなっているときというのは、身体はどんな状態になってしまっていることだろう。


 たぶん、ほかの色んなことに対しても心と身体が開かれていない、部分的な認識しかできない状態になってしまっているのではないだろうか。


 過去に正田とトラブルを起こして物別れになった人と何かの拍子に鉢合わせすると、とても強張った、心を閉ざした表情になってしまっていることに気づく。いやわたしと会ったからじゃなくて、先方はわたしに気づいてないことも多い。


あー。
あとでひょっとしたら、と思った。
正田を面談室とかで間近にみた男性は、
「自分の話をきいてほしい」
と思っちゃうのかもしれない。
「そうですよねえうんうん、なるほど〜、おっしゃるとおり、お気持ちはよくわかります、それからどうされたのですか?」
って、共感的な口調とか表情で言ってほしいと思うのかもしれない。

そうしないから怒りが出ちゃうのかもしれない。

でもそれは有料のお客さんにしかしないですよ。

当方が言いたいことがある、要望したいことがある、
だからあえてアポをとって面談に足を運んだ。
あなたの話をお聴きするために行ったわけではない。
そして、先方が当方の知見により間違ったことを言われたらやっぱり反論する。
また、当方が「あれもしてきた、これもしてきた」と言って大量の資料も出しているのに
「何もしていない、よそと何も違いはない」
と言われたら、
いくら「否定してはいない」と言ってもそれは否定でしょう。
「ああ、正田さんはあれもしてこられたのですね、
これもしてこられたのですね」
と「行動承認」の形で話し、それを前提として次の議論をする、
それが「否定していない」ということだ。


その「行動承認」の部分がないから「不毛だ」と感じるんだな。

やれやれ、
「わたしの作る世界を拡げることはなんと難しいのでしょう」。

でもやっぱり「行動承認」決定的に大事ですね。


ヘイトスピーチ・・・。
わたしに何かできる余地ない。
社会に「テストステロン―ドーパミン連合」が溢れている。
女性に対する態度も、そうなんじゃないだろうか。


そして、これだけ「やってる」人に
「あれをしてない、これをしてない」(事実として、「やってる」ことまで含めて)
という人は、
たぶんそれも「依存」なのだ。
こんなに「やる」人なのだから、本人に何もかもやってもらえればいい、
と「過剰期待」をするという。
とっくに1人の人間ができることの限界を超えているのに。
みんなそんな人ばかりだ、珍しくはない。



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 久しぶりに「柔道有段者Nさん」とお話する。

「最近のブログえらい怖いなあと思ってみてたんですけど、何があったんですか」

と心優しいNさんは言い、

 それに対して実はこうこうで、と「予定稿」の内容も含め事情をお伝えした。このために身体の生命力が吸い取られていたんです、とも。

「なるほど、『塩漬けにされる恐怖』ですね。分かります。それは離れたほうがいい」

とNさん。


****


 「原因は100%自分にある」という教えのもとで「塩漬け」という現象が起こりやすいことも、ちょっと考えればわかるのだ。

 「手柄は全部自分のもの。自分に帰すことのできない手柄は『ない』ことにしちゃっていい」

ということにつながるもの。
 
 怖い宗教だなあ。


****


 このブログでは以前、

『独裁力―ビジネスパーソンのための権力学入門』という本の読書日記を載せました。

http://c-c-a.blog.jp/archives/51887844.html

(すみません、先ほどリンクが切れていたので直しました)


 ヒットラーも良くないしプレゼン上手で真実味の薄い首相も良くないけれど、いっぽうでわたしの恩師・故中嶋嶺雄氏は大学の教授会の不毛さを東京外大学長時代に知りぬいたすえ、自ら設立した国際教養大学では学長のトップダウン体制を実現してしまった人でした。


 そして上記の記事にもあるように、「お客様のため」に「副作用斬り」という汚れ仕事を誰も理解してくれないのにやり続けたわたしも、手痛い失敗を散々経験したすえに「トップダウン志向」になっています。

 「賢人政治」というのもひょっとしたら大事なのではないかな、と思ったりしますが票のとりにくい考え方ですね。


****


小包

マーマレードタルトから食べている
おいしい
無駄な金使うな
返事はいらん




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 昨日の記事でお知らせしたように「出版社の社長」から「絶版等契約書」の押印したものをメール送付いただき、同時に郵送もした、という連絡を受けた。


 ので、当方では最悪の事態に備えて今朝8時に期限をきって大量の「予定稿」を準備していたのだけれど、それらを掲載しなくて済みそうだ。

 
 ただ今後も「誠意ある対応」が必要なので、先方の動きを注視する。主な要望点はレターパックによる契約書送付、在庫分は先方で販売して良いのでAmazonの在庫補充などである。


 

 「原因は100%自分にある」という自己啓発本のフレーズの作用は、読者の年齢層によってまた個体によって出方が色々なのだが、

 ひとかどのビジネスパーソンが信じ込むとこういう困った事態が起きる、というのもみた。


 本来、真実とか誠実とは個人の中に100%あるものではないのだ。人と人の間にあるものだ。商売人は信用が何より大事。

 その「基本中の基本」を忘れてしまう、というか前提条件を欠いてしまう、とどうなるかというと、

 例えば、だらしない性格により約束をなおざりにし、人に去られ、その都度「すべては自分の中にある」ひゅう〜、とつぶやく、ああ無常、みたいなことが起こる。多分もうそういうことを死ぬほど繰り返しているのではないかと思う。


 とにかく「去る」のがいちばんである。


あと、このプログラムには「感謝」が組み込まれてないんだね。わたしの行動をみてわたしの方に感謝がないと思うかもしれないけれど、FBメッセージのやりとり等をみるかぎり感謝は明らかにわたしの側の「出超」で、この人の側は「してやってるんだ」と「下」にみる発言ばかりだった。大新聞に書評が載ったというのもこの会社始まって以来の快挙だったはずだが、わたしの方で「いい本を出してくださってありがとうございます!」と言ってるけどこの人の側は何も感謝とかなし。「いやいや正田さんがいい本を書いてくださってありがとうございます」みたいなのは、全然なかった。そしてそれを受けたアクションというのも一切なかった。手土産持って行っても社員さんも礼を言わないし、「自分原因教」は「感謝しない教」でもあるみたいだ。



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このブログで「自己啓発セミナー」「自己啓発本」について、あまり深入りして論じたくない。去年暮れも1冊読んで、「自分の血が汚くなる」のを感じたから。テストステロン―ドーパミン連合、つまり「悪」の匂いを感じたから。

自己啓発セミナー等の源流についてご興味のあるかたは、

もしお時間が十分にある方はこちらの記事をご覧ください
(読書日記です。最近はこういうガッツリした本の読み方をしてないなあ):

エスリンでうまれたものと日本(2008年5月)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51344385.html


続・エスリン研究所―実験と成功と失敗の歴史 (同)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51344817.html


要は、アメリカ心理学というのは1960年代からバカな実験を繰り返してエクストリームな方へ行っていて、その中から今の自己啓発セミナー、自己啓発本につながる流派が生まれ、またそれのうちの1つがわが国の大手コーチング研修機関に「進化」したりしました(有名な話であります。えっ、しらなかったの?)
以前に取り上げたNLPもエリクソンの弟子と銘打っているがこの流れのようだ。


正田の私淑してる「行動理論」の武田建氏(関西学院大学名誉教授)はそうしたどぎついきわどい素人を惑わす心理学の一連の流派を、「ビジネスコーチング」も含め、徹底的に嫌った人でした。そういうのもあまり知られてないことですよね。


その武田氏が、今時のコーチングの徒だった正田を大学院の聴講に受け入れてくれたのは(2007年のこと)、不遜ながら多分正田がその当時から現代のビジネスコーチングに疑問を感じそれをこのブログでも発信していたのを信頼してくれた、のではないかなあと思っております。そこはご本人に訊いてないんですけど。

―あとから思い出しました、武田氏が2007年、当時のCLS(NPOの前身)主催の講演会に来て話してくれたのはさらに驚異的なことだったな、と思います。かれが講演の中のスキナーの説明でイヌの真似までしてみせたのは、「行動理論家」としての強固な誇りゆえだったと思います。おっさんまだ元気かなあ―



なんであんただけそんなこと知ってるんだ、と言われると、よくわからないですけど正田、記者時代から特ダネ記者でしたから。としか答えられないなあ。
「広島のハタケヤマ(旧姓)から、独自(特ダネのこと)!」
っていう東京のデスクの叫ぶ声を何度電話口できいたかしら。

あっ、その要素があるから新聞記者さんには嫌われるんです、たぶん。わかりますよねそういう気持ち。


なので、まあこのブログの長い読者のかたはみなさん正田のことを信頼して読んでくださってると思うんですけど、たぶんそのまま信頼してくださって大丈夫です。はい。


自己啓発セミナーの有名なフレーズに「すべては自分の選択である」というのがあり、一見間違ってないように見えますけど場面によって個体によってはおかしなことになるんです。まあいっこ前の記事にあるように、「ブラック企業をガマンしましょう、わるいのは自分教」になっちゃう可能性もあります。わざわざあえて言う価値のあることかな、と思います。今はやっている女性向け自己啓発本のフレーズにちょっと似てますね。その古いほうのフレーズは今コーチング研修機関に「化けた」自己啓発セミナー研修機関の教祖の人が言ってましたね。

あっ、よく見たらエスリンの一本目の記事にこの人物のセミナーの模様を紹介してますが、現代のミニスカ女子を集めた自己啓発セミナーもこんな感じ違いますか?結構な高額らしいですねえ。社長お持ち帰りし放題w


ああそれでね、正田が「行動理論ー承認論」っていう心理学のごく浅い分野をやってると、得意そうに「もっと高度なこと知ってますよ」って振り回してくる人がいますけど、前にも書いたけどそういうのは「ニンフォマニアック」に出てくるおばちゃんと一緒でただの悪趣味ですw ごめんね言い方えげつなくて。でもそういうおバカな人があまりにも多いからw



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追記
たった今、パブラボ社菊池社長からメールPDFで、押印した「絶版等契約書」をいただきました。同様のものを郵送でもくれるそうです。
厳密には当方で「生」で押印した、レターパックで郵送した契約書を郵送で返送してもらうのが後々トラブルがないんだと思いますけどね。

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