ブログ開設10年、いろんな場面がありました。
個人的に非常に苦しかった体験の1つが、「某ビジネススクールに入学してわずか1か月半で退学」したときのことです。2006年春のことです。
途中から、「これはどうも一種異様な体験をしているぞ」と思って、その顛末をブログに書き始めました。
カテゴリ:ビジネススクール観察記
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html
長い間読み返しませんでしたが、今読み返すと、
「三つ子の魂百まで」
といいますか、
今わたしが教育上のこだわりとして持っていることの原型がこのときできたんだな、と思います。
例えば、
「恣意的に振り回さない。勝手なルールで運ばない。後出しジャンケンをしない」
とか、
「言葉の語義を良く知らないでものを言わない。印象論でものを言わない」
とか。
(このときも、講師が出したお題の言葉の意味をちゃんと調べてそれに基づいてものを言ったのがわたし1人だったので、腐ったのでした)
また、
「論理的思考うんぬんより前に正確な事実認識が大事。そこがきちんとできていれば、あとは職場で普通に使う『こうなれば、こうなる』というロジックのつながりでほとんどは十分思考できる。事実認識の方法を教えないまま論理的思考を教えるのは本末転倒」
ということも言っていて、これは初めてきかれる方には「???」なお話かもしれませんけれども、逆に「事実認識抜き」で架空のロジックを振り回している図を想像していただくと、それが変なのはちょっとご理解いただけるでしょうか。
例えばハーバード大MBAで使われる「ケーススタディ」という手法。
ある(実在の)企業の成功のプロセスが「物語風」に出され、それを元に議論するというものです。先生は正解を用意していて、このケースはこのマーケティング戦略を使ったから成功したんだ、というところに着地させるようになっている。
ところが、実在の企業なのでそのケースについてちょっとネットで調べると、「ケーススタディで紹介されているのは『神話』で、実際にはそれとは別に『〇×』が功を奏した」なんていう話がゴロゴロ出てきます。
なんじゃらほい。
でも、そういうネットだけでも調べたことは使ってはいけないことになっています。
普通は、そういうルールだと納得して従うんですが、正田は「おかしいんちゃうの?」と思いました。
だって、あらゆる手を講じてサイド情報を仕入れようとするじゃないですか、現実のビジネスでは。
で事実はどうだったか、というと、マーケティング戦略よりは組織論的なことが功を奏したりしてね。ありがちなことです。
ビジネススクールを辞めて数年後、わたしは認知科学の分野の「ヒューリスティック」にはまりはじめ、その手の本を収集したり読書日記を書いたりするようになりますが、この時の体験は大きかったと思います。
人は、どれほど願望、妄想、希望的観測で事実認識を誤ってしまう生きものか。
その事実認識の部分をきちっと押さえないまま論理とか思考法を使用しても意味のないものか。
また、教育を担う人の「口調」の問題。
講師の言葉の端々ににじむ「見下し」等の悪意が、いかにその場の空気を悪くするか、学生たちの人格を悪くするか、攻撃的にするか、ということも、このときうんざりするほど体感したことでした。なので「正田研修」で「リスペクト」は絶対死守しなければならないものなのです。
これは現在でも、「嫌悪」というのは非常に感染力の高いやっかいな感情なので、たとえば研修講師や講演業の人、経営者等人前で話す立場の人は、相当気をつけていただきたいことであります。年配の講演業の人などによく見るのは、お爺さんらしい底意地の悪さや「女性嫌悪(ミソジニ―)」の気分をまき散らしながら話す人。そういう人とは正田は決してご一緒いたしません。
・・・そしてその当時は家族とも同居していたので、学校を辞めるかどうか真剣に悩んで当時の家族に相談したりしているのが、ほほえましいというか笑えるというか、でした。
というわけで、もし余程お時間のある方でご興味があれば読んでみてください:
カテゴリ:ビジネススクール観察記
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html
(一財)承認マネジメント協会
正田佐与
個人的に非常に苦しかった体験の1つが、「某ビジネススクールに入学してわずか1か月半で退学」したときのことです。2006年春のことです。
途中から、「これはどうも一種異様な体験をしているぞ」と思って、その顛末をブログに書き始めました。
カテゴリ:ビジネススクール観察記
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html
長い間読み返しませんでしたが、今読み返すと、
「三つ子の魂百まで」
といいますか、
今わたしが教育上のこだわりとして持っていることの原型がこのときできたんだな、と思います。
例えば、
「恣意的に振り回さない。勝手なルールで運ばない。後出しジャンケンをしない」
とか、
「言葉の語義を良く知らないでものを言わない。印象論でものを言わない」
とか。
(このときも、講師が出したお題の言葉の意味をちゃんと調べてそれに基づいてものを言ったのがわたし1人だったので、腐ったのでした)
また、
「論理的思考うんぬんより前に正確な事実認識が大事。そこがきちんとできていれば、あとは職場で普通に使う『こうなれば、こうなる』というロジックのつながりでほとんどは十分思考できる。事実認識の方法を教えないまま論理的思考を教えるのは本末転倒」
ということも言っていて、これは初めてきかれる方には「???」なお話かもしれませんけれども、逆に「事実認識抜き」で架空のロジックを振り回している図を想像していただくと、それが変なのはちょっとご理解いただけるでしょうか。
例えばハーバード大MBAで使われる「ケーススタディ」という手法。
ある(実在の)企業の成功のプロセスが「物語風」に出され、それを元に議論するというものです。先生は正解を用意していて、このケースはこのマーケティング戦略を使ったから成功したんだ、というところに着地させるようになっている。
ところが、実在の企業なのでそのケースについてちょっとネットで調べると、「ケーススタディで紹介されているのは『神話』で、実際にはそれとは別に『〇×』が功を奏した」なんていう話がゴロゴロ出てきます。
なんじゃらほい。
でも、そういうネットだけでも調べたことは使ってはいけないことになっています。
普通は、そういうルールだと納得して従うんですが、正田は「おかしいんちゃうの?」と思いました。
だって、あらゆる手を講じてサイド情報を仕入れようとするじゃないですか、現実のビジネスでは。
で事実はどうだったか、というと、マーケティング戦略よりは組織論的なことが功を奏したりしてね。ありがちなことです。
ビジネススクールを辞めて数年後、わたしは認知科学の分野の「ヒューリスティック」にはまりはじめ、その手の本を収集したり読書日記を書いたりするようになりますが、この時の体験は大きかったと思います。
人は、どれほど願望、妄想、希望的観測で事実認識を誤ってしまう生きものか。
その事実認識の部分をきちっと押さえないまま論理とか思考法を使用しても意味のないものか。
また、教育を担う人の「口調」の問題。
講師の言葉の端々ににじむ「見下し」等の悪意が、いかにその場の空気を悪くするか、学生たちの人格を悪くするか、攻撃的にするか、ということも、このときうんざりするほど体感したことでした。なので「正田研修」で「リスペクト」は絶対死守しなければならないものなのです。
これは現在でも、「嫌悪」というのは非常に感染力の高いやっかいな感情なので、たとえば研修講師や講演業の人、経営者等人前で話す立場の人は、相当気をつけていただきたいことであります。年配の講演業の人などによく見るのは、お爺さんらしい底意地の悪さや「女性嫌悪(ミソジニ―)」の気分をまき散らしながら話す人。そういう人とは正田は決してご一緒いたしません。
・・・そしてその当時は家族とも同居していたので、学校を辞めるかどうか真剣に悩んで当時の家族に相談したりしているのが、ほほえましいというか笑えるというか、でした。
というわけで、もし余程お時間のある方でご興味があれば読んでみてください:
カテゴリ:ビジネススクール観察記
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html
(一財)承認マネジメント協会
正田佐与