正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ: 学びに感謝

 「ダークトライアド」という概念に出会って考え込んでいます。

 「ダークトライアド」とは人の邪悪な性質を表す3つのパーソナリティー。ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパシーを総称して言います。

 このブログでは過去にナルシシズムに凝っていたりサディズムについても少し調べたりしました。
 「承認」という、明らかに善人の武器であるものを掲げて売るなかで、否応なしにそれにはまりきらない人格の人びとにも出会いました。

 「悪」が少しずつ現代心理学の力で明らかになっていきます。研究によればこうした邪悪な性質の持ち主は前世紀後半から今世紀初めにかけて少しずつ増えているそうです。若い人たちに増え、とりわけ女性の伸び率が高いそうです。
 (でも、犯罪発生率は減っているんですけどね。)
 「悪」は否応なくあります。またわたしたちの中にも「悪」を賛美し、魅力的だと感じる感性がたしかにあります。
 
 わたし自身は正直、「悪」については苦手意識をもっていました。できればお近づきになりたくないほうです。
ですが今は、「悪の性質」についてもっと知りたいと願います。
「悪」について理解することは、ひょっとしたら究極の「赦し」につながるのかも?と思いました。もちろん自分自身の欲得も希望も度外視することができれば、ですけれど。

 「ダークトライアド」については和文Wiki はいささか情報不足なので、英文Wikiを全訳してみました。(「続き」参照)
 元の記事が印刷して本文だけで10Pになる長文ですので、訳文も長文になります。誤訳等ありましたらご指摘いただければ嬉しく思います。
続きを読む

 よく晴れた4月14日、大阪市立南港光小学校さんで行われた菊池省三先生の公開授業と講演を聴かせていただきました。

 午後から、4年生と6年生それぞれ45分ずつの授業と講演。

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 最初に「やる気の姿勢」と板書。白板の左側のスペースが「価値語」を提示するスペースです。
 「これ読める人!」「1文字でも読める人!」
 そして
 「ああ、君は全部は読めないけれど一部は読めたから発表したんだ。偉いね」
 「後ろの人に教えてもらったの?さっそくともだちと助け合ったんだ。すごい」

 小さなことに目をとめ話題に取り上げて、ほめます。
 そして

 「はい、二人に大きな拍手」
 「彼女が笑顔になるように拍手してあげてください」
 ともだち同士がお互いをほめるように仕向けることも繰り返します。



 菊池先生は、大きな多目的室を動き回りながら1人ひとりにかかわります。

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 4年生では、「さかなやのおっちゃん」という大阪弁の詩を教材にしました。
 白板に詩を1行1行書き、最初の節を書き終えたところでペンを止めてその先の予想を質問する菊池先生。
 「ほめ育て」だけでなくこうした授業の工夫も飽きさせません。

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 みんなで立って詩を朗読しました。
 このあとも何度も立って歩き回り、ともだちと話し合うよう仕向ける場面がいっぱいあります。


 「はい、まわりの人と相談した人、手を挙げましょう」
 「君たちすごいな、切りかえスピード」

 みんなが大多数のほうに手を挙げるなかで違う意見に手を挙げる子に
 「君、偉いね。1人が美しい」。
 多数に流されない、自分の意見をもつことを奨励します。



 左側の「価値語」のスペースには、こうして授業の展開とともに
 「やる気の姿勢」
 「切りかえスピード」
 「1人をつくらない」
 「1人が美しい」
 こうあってほしい、という「価値語」が次々書き加えられます。

 こうした「価値語」は、最初は先生の側から提示し、やがて子どもたちのほうからも新たな「価値語」が口をついて出るようになります。「それ、いいね」と新たな価値語が書き加えられます。
 菊池先生が2016年度から通われている高知県いの町では、日めくりの「価値語カレンダー」というものが作られ、この日南港光小学校でも教室の前に掲示されました。

(参考)いの町長、町教育長と菊池先生の鼎談
http://www.town.ino.kochi.jp/pdf/topic1610_1.pdf


 「次先生が何をきくかわかる人?」
 という質問。
 「読め、先生の考えを」

 それは何かというと、
 「どうしてそう思うか」
 1つ前の選択肢「Aと思うか、Bと思うか」について、こんどはその理由をきく質問でした。
 この同じ場面は6年生の授業でもありました。


 45分授業の最初の数分で、子どもたちは力いっぱい拍手することを学びます。また、まっすぐに手を挙げることを学びます。
 このことに異論もあるでしょうが、わたしの目にはこれは「他人とかかわる」ということ、それから「自分の意見を表明する」ということを「型」で教えた、というようにとれます。武術で往々にしてそうであるように、「型」を学ぶことで心があとからついてくる、というのは真実です。

 菊池先生の
 「このクラスはすごい。もうこんなことができている」
 「君えらいね、○○したんだよね」
 こうした言葉がけの中で、子どもたちはみるみる「型」を学んでいきます。

 そのほめ言葉の教育力のすごいこと。
 それは、かりに「まっすぐ手を挙げてないじゃないか。」「ほら、拍手に気合が入っていないぞ」といった言葉がけをしていたら、どうか、を考えればわかります。


 
 6年生の授業。
 ここでは、「夢」という言葉を取り上げました。
 この題材は直前に菊池先生が「光小学校の記録」という分厚い冊子をみて、その中の子どもさんの文章から取り出したようです。

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 「『夢』という字が書ける人?」

 1人の女の子が前に出て、大きく板書しました。横から菊池先生が、「こんな大勢の前で、先生方や保護者の方や学生さんがみている前で、よく書いてるね」と茶々を入れます。
 ぶじ書き終わった女の子に、
 「先生は書いている間じゅう、横から煽りました。ああやって煽られたら、心の弱い人だったらあそこでこちょこちょっと小さく書いて、逃げてしまうかもしれません。でも彼女は最後までしっかり書きました。彼女は心の強い人です。はい、彼女が笑顔になるように拍手!」


 この授業でも、
 「あなたたち相談するときの表情がいいね。口角が上がっている」
 折に触れほめます。

 
 ここでは、みんなが立って動き回るときに新しいリクエストがありました。

 「相談しあうとき男の子同士、女の子同士、なかよし同士でつい話してしまうよね。そうではなく、同じ人でかたまるのではなく、男の子は女の子と、あるいはなかよしでない人と、話してみましょう。新しい出会いで新しい考えが生まれる」
 
 このことを図解しながら話し、立って相談する時間に。
 子どもたちの動き方はまだぎこちなかったですが、男の子が「女の子、女の子」と探してまわる姿もみられました。

 「夢」の意味とは、,佑討い襪箸に見るもの。ではそれとは違う△琉嫐は?

 1人の子が「将来の夢」と答えます。「なるほど、将来の目標、ということね」と先生が返します。
 
 次の子は「将来なりたいもの」と答えます。
 そこで「あなたはえらい。」。前の人が「夢って何?」「将来の夢」というふうに「夢」という言葉を使って言ったけれど、君は「夢」のところを「なりたいもの」と言い換えたんだね。そうやって同じ言葉を使うんじゃなく、言い換えをするというわざを学ぶとレベルアップしていくよね。

 小さなところにほめるための「種」があります。うっかりしているとスルーしてしまうところです。

 最後は、

「しっかりした夢をもってください。その実現のために何をしたらいいか準備する気持ちをもって、この1年間この学校の機関車として走ってください」

 こう締めくくられました。


 この後の講演では、

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 「きくち先生へ 先生はなぜ授業のときほめてくれるんですか?僕は、授業中ほめられたことがありません」

 しいんとなってしまう過去の授業の子どもさんの感想が披露されました。

 菊池先生はこの感想をみてしばらく悩まれたということですが、後ろでみているとよくわかります。子どもたちはほめられて心底嬉しいのです。もしこのお子さんのように、これまでほめられたことがないという場合には、その嬉しさもひとしおのものがあるでしょう。
 ほめ言葉をシャワーのように浴びながら、子どもさんがたはその動作も心もみるみるシェイピングしていきます(菊池先生が行動理論をどこまで意識して使っておられるか、定かではないのですが)



 その光景を、TVのスクリーンを通さず直にみているとびんびん伝わってきます。
 たとえば巷間いわれる「すごいね」「えらいね」は子どもをバカにしている、などの風説はまったくナンセンスで、子どもたちは、6年生でもほめられることが純粋に素直に嬉しいのだと。その子どもさんがたの嬉しさを否定するような言説は、これからもわたしは出会ったら悲しくなるでしょう。


 菊池先生が教職を務められたのは荒れた学校の多い北九州市。そこで繰り返し「学級崩壊建て直し」を経験されたことは以前の記事で触れました。

●「公」と「不易」に至る「父性」と「母性」のプロセス、適切な厳しさの復権―菊池省三先生『学級崩壊建て直し請負人』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51863372.html


 
 今回の授業の舞台となった大阪市立南港光小学校は、岡田治美校長の決断で菊池先生の公開授業を行うことが決まりました。学年初めの忙しい時期、どれほど時間をやりくりされたことでしょう。しかしこの時期にこうした学びをされたことは、同校の先生方にも子どもさんがたにもどれほどの幸運だったことでしょう。


 詳細ははぶきますが岡田先生は自費で菊池先生の主な著書を、各クラス1冊・15冊ずつそろえて配布されました。わたしはFBでのご縁で岡田先生にお声がけいただき、この日寄せさせていただきました。学校の先生には珍しいほどユニバーサルな岡田先生の人柄で、先生、保護者のほか大阪市内の学校に案内してこられた他校の先生、教職志望の学生さん、地域の人、さまざまな分野の活動をしておられる人、が集まられました。


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 校門を一歩入ると夢かと思うほどの一面の花、花。これも岡田校長先生になってからだそうです


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 また、無粋な事後の感想です。

 以前も(2013年)ほめ育てをされるべつの先生の授業を見学させていただき、そのときは学年終わりに近い2月だったので、ほめ育ての完成期の子どもたちの力強いうごきかたを見せていただきました。

●褒めること聞くこと、記録、スピード、歌声・・・城ヶ崎先生クラス訪問記
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51846161.html

(この記事も、もし「ゴールイメージ」をもたれるのに参考になるようでしたら、どうかご覧ください)


 今回は、初めてほめ育てに出会う子どもさんがたの様子をみさせていただく機会になりました。

 「ほめ育て」の実際について、よく知らないで悪口を言う方がいらっしゃいます。
 分断を防ぐのはなにごとも理解することです。
 ぜひ、誤解にもとづいた誹謗中傷はやめ、そこで行われていることを虚心にみていただきたいのです。

 そして、個人的には、そこにある子どもさんがたの幸せに心無い言葉を投げかけないでいただきたいとせつに願います。



もうひとつ無粋な話を追加。

まっすぐに手を挙げ先生の指名を待っている子どもたちの姿をみると、
「承認欲求を否定せよ」
という言葉がいかに酷(むご)いものかもよくわかります。
苦労してつくりあげた、周囲への信頼感にもとづく子どもたちの積極性を、一歩前に出ようとする芽を摘んでしまうことになるからです。
これまで、その手の言説を信じて消極的になっていた若い人がいたとしたら、なんという損失だったことでしょう。

現代アドラー心理学(上)画像
現代アドラー心理学(下)画像

 『現代アドラー心理学』(上)(下)(ガイ・J・マナスター、レーモンド・J・コルシーニ、春秋社、1995年)を読みました。

 ここでは、下巻の「教育」のところを主に読みました。アドラー思想の継承者として1に挙げられるのがドライカース、そしてそのさらに弟子の世代のコルシーニが個人心理学教育を確立し、個人教育学校を設立しました。

 「ほめない叱らない(No Reward No Punishment)」方針を徹底したその教育とは――。

 詳細ははぶきますが子どもたちは自分で自分の学びたい教科を選び、その選んだクラスに出席するもしないも自由である。テストは子どもが要求したときに行う。という徹底した自己責任を求められる。

 子どもが自分のクラスで騒いだら、先生は叱らない。叱るかわりに黙ってドアを指差す。すると子どもは教室から出ていかなければならない。もし指差されても出て行かなかったり、すぐに出て行かなかったりすればルール違反であり、ルール違反の回数がたまると退学になる。

 「叱らない」を標榜する学校の「叱る」に代替するものは、「排除」なのではないか?との疑問がわきます。

 それ以外には「共同体感覚」を増すようなグループワーク等の取り組みが行われ、共感できるところも多々あります。子どもたちはこうした学校に通うのが好きであるし、教師たちもこうした学校で教えることを楽しいと感じるといいます。

 ――うん、合わない子をどんどんドロップアウトさせれば、均質になって「楽しい」かもしれないですね。

 以前から、アドラー式子育てや教育には、「ドロップアウトを出すこと必至」の印象がありました。特定の資質をもった人や子どもさん――おおむね、知的レベルが高く言語能力の高い穏やかな気質の人――だけが対象になりやすい。そういう人たちだけを集めたら、たしかにエリート教育はできます。


 Wikiなどによるとこうした徹底したアドラー式の「個人教育学校」は1972年にハワイのワヒオワで設立されたのを皮切りに、最盛期の1980〜90年代には世界で12校ほどあったようです。その後閉校が相次ぎ、現在ではワヒオワ校をはじめ数校になっています。

 非常に高い教育の理想を掲げた、モンテッソーリやシュタイナーと同様のオルタナティブ教育のひとつなのではないかと思います。もし自分の子どもがそこに適合するような資質があり、かつ自分に資力があれば、子どもに与えてやれる可能なかぎり理想的な教育でしょう。


 この本の上巻では、アドラー派の学生たちが、「ほめ育て」の祖ともいうべき行動主義者のB・スキナーのベストセラーとなった著作を茶化して、「支配者と被支配者の論理」と揶揄してごっこ遊びをするようなくだりが出てきます(pp.50-51)

 この著作とは『ウォールデン・ツー』(邦訳『心理学的ユートピア』)というもので、小説家志望でもあったスキナーが行動主義を使った理想的なコミュニティを描いたもの。実際には単独の独裁者ではなく、数名のプラトン型哲人が集団指導式に社会をデザインしたらしいのだが、アドラー派の学生からみるとこれは独裁者による「支配―被支配」の世界に映ったようです。

 『嫌われる勇気』の続編、『幸せになる勇気』で、岸見一郎氏扮する「哲人」が「ほめ育ては独裁者の武器」という珍妙な論理を振り回していますが、これのルーツはここにあったのか、と納得がいきました。


 そして苦笑しました。アドラー派はアドラーの死後弟子たちもあらかたナチスに捕らわれて亡くなってしまい、一時期滅亡の危機に瀕しました。ブラジルに難を逃れたドライカースがアメリカに移住し必死で建て直しました。ドライカースは非常に戦闘的な人だったようですが、その建て直しの過程で、「アンチ・フロイト」「アンチ行動主義」がDNAとして深く刻み込まれたようなのです。

 いわば「ほめ育て」の悪口を言うのは、アドラー派の伝統に深く根差したもの。彼らのアイデンティティの一部なので、仕方のないことなのです。


 ちゃんとしたエビデンスがあれば、他流派のわるくちなど言わなくて済むんじゃないでしょうかねえ。

 「ほめない叱らない」と言いながら、アドラー派の教育にも「教師によるフィードバック」はちゃんとあるし、学生の長所を指摘するようなこともします。"No Punishment"と言うわりに、「問答無用で教室から出ろ」というのはけっこうキツい「罰」です。だから定義の仕方が変なのです。


 その他アドラー派の心理療法について、専門家のかたは学べるところがあるかもしれないが、わたしは個人的には「パス」です。現在「神経症」という病名そのものがどれだけ有効かも不明になっています。発達障害概念が生まれ、いまや人格障害も摂食障害も食べ物の好き嫌いも発達障害に関連して理解されるようになるなど、疾患名や病因の理解もドラスティックに変わってきています。アドラー派の人に言わせればそうした「病因」とか「基礎疾患」という発想も「原因論的だ」と一蹴されかねないので、話しても不毛であるように思います。(以前野田俊作氏に振ってみたが、発達障害と知的障害を混同していたようだった)

 わたし個人的にはアドラーの原著に人間的に共感するところは多々あるし、当時として革命的なことをした偉大な人だとは思いますが、今の時点であえて採用する意義はないように思います。

 
 ともあれ、アドラー派の人はフロイトの悪口を言いたいし行動主義およびほめ育ての悪口を言いたい。また、『嫌われる勇気』で「承認欲求を否定せよ」と言ったのと同様、アドラー派の人のブログやFacebookをみると「承認欲求」のことも貶す”風習”があるようで、これはわが国独自の「承認欲求バッシング」の尻馬に乗っているだけなようなのだが、とにかく何かの悪口を言っていないと気がすまない伝統のようです。


 というわけで、このブログでアドラー派のことを調べて書くのもそろそろ終わりにしたいと思います。いつかはこの時ならぬブームも自然消滅するでしょう。
 

福祉の哲学とは何か 画像


 千葉大から京大こころの未来研究センターに移られた広井良典教授の新著(編著)『福祉の哲学とは何か――ポスト成長時代の幸福・価値・社会構想』(ミネルヴァ書房)を読みました。

 
 この本全体の目次と執筆者は:
第1章 なぜいま福祉の哲学か(広井良典)
第2章 福祉哲学の新しい公共的ビジョン(小林正弥)
第3章 福祉と「宗教の公共的役割」(稲垣久和)
第4章 「生命」と日本の福祉思想(松葉ひろ美)

 
 それでは各章ごとに抜き書きをしていきましょう。
 各章が本1〜2冊分の内容のダイジェストになっている感じで情報量が多く、ダイジェストを作るのが難しい本です(泣)すみません、今回はワード15pぶんの読書日記です。

 全体には第1章に編著者の広井氏が「新しい公共」「不幸を減らすか、幸福を増進するか」「地球倫理・自然のスピリチュアリティ」などの論を立て、後の章でそれらを補完しているようなおもむきがあります。


第1章 なぜいま福祉の哲学か(広井)

●「福祉」を考える2つの事例。アメリカの富裕層による自治体独立、分断と排除の現状。そして200人いる災害避難所にNPOが100人分の食料を届けたら?という思考実験。

●「福祉」のもっとも広義の意味としての「幸福」。
 収入と生活満足度の関係。年間平均所得1万ドル当たりまでは経済成長に伴う所得増加と生活満足度の上昇との間にかなり明瞭な相関が見られるが、それを越えたレベル以降は徐々にそうした相関関係が薄くなり、たとえば所得1万5000ドル以上の国々で見ると両者の関係はきわめてランダムなものになっている(フライら2005)。

●一定以上の所得で「幸福」を左右する要因は何かの(著者の)仮説
 (1)コミュニティのあり方(人と人との関係性)
 (2)平等度(所得等の分配)
 (3)自然環境との関わり
 (4)精神的、宗教的なよりどころ等
 (5)その他

●現代の日本における「福祉の“二極化”」
 現代の日本社会においては、一方で(「幸福」「存在欲求」など)福祉をめぐる“高次の欲求”が多くの人々の関心事となりつつあるが、他方では、それとは対極的に(格差や貧困の拡大の中で)基本的な生存そのものが脅かされるという状況が広がっており、これは福祉における“二極化”と呼ぶべき状況なのではないか。

●「承認欲求」の話題。犯罪学者ジェームズ・ギリガンの言葉を引用(孫引き)しつつ、
「ここで述べているような「承認」欲求――逆にいえば「承認されない」ことが人間にとってもつ否定的な意味――が、その中身は多様であっても、人間にとって根底的なものとしてあるということである。」

――この著者が「承認欲求」について著書で触れたのはこれが初めてではないでしょうか。ちょっと嬉しい。また余談だがこの著者独特の、引用・出典の扱い方の几帳面な態度は好感が持てるしほっとします。

●自己実現への関心、社会的志向をもった学生の「世界実現」発言はマズローのいう「自己超越」の段階か?

――たしかに、今若い人も二極化していて、情報化社会は非常に幼い心の若い人も作り出すいっぽう、過去にみなかったような非常に成熟したこころをもった若い人も作り出していると感じる。

●「まったくの理想論あるいは理論的な可能性としていうならば、もしも人間の欲求と言うものが、純粋に、あるいは自然な形で高次の方向に発展していけば、それはいま述べているような社会貢献や他者へのケアを含む意味での「自己実現」ないし「自己超越/世界実現」に展開していき、それは結果としてここで論じている「福祉の“二極化”」の状況を是正する方向に働きうると考えることは、あながち不可能ではないだろう。」

●幸福政策についてリベラリズムとコミュニタリアニズムの差異。
(1)リベラリズム→「幸福」について積極的に語ることには慎重で、むしろ「不幸を減らす」ことに重点を置く。
(2)コミュニタリアニズム→「幸福」について積極的に語ることを前向きにとらえ、またコミュニティや内的倫理を重視する。
 リベラリズムが「幸福」(や善、徳などの価値)について積極的に語ることに慎重なのは、それらが個人の内面に関わり、その「自由」に委ねられるべきものと考えるから。

●「不幸を減らす」政策。東京都荒川区はGAH(グロス・アラカワ・ハピネス)の関連で最初に取り組んだのは「子どもの貧困」に関する課題だった。また石川県加賀市では、幸福度に関する政策を進めるにあたり、幸せを「不幸をなくす」ことととらえ、やはり子どもの貧困問題を重点化するとともにスクールソーシャルワーカーの配置と関連施策を始めた。

●幸福政策が単に“総幸福量”つまり人々の幸福の「総和」を増加させるというだけのものだとしたら、それはまさに(思想家ベンサムの)「最大多数の最大幸福」と同じになり、また「幸福量増加」という目標は「GNP(GDP)増加」という目標とあまり変わらなくなるだろう。つまり幸福の総量にとどまらず、その「分配」のあり方――いわば“幸福格差”の是正――が重要なのであり、「不幸を減らす」という方向はこうした意味でも重要なのである。

――先日の国連幸福度報告書でもこの点の言及があった。よく考えるとこの本は3月20日、「国際幸福デー」に発刊されていたのだ。

●「コミュニティ」の重要性。「公―共―私」「政府―コミュニティ―市場」。

――このあたりの広井氏の概念のマトリクス化の力は独特だと感じさせられる。

●コミュニティ的なつながりとは人と人との“水平的”な関係性であり、他方、格差・貧困といった問題は“垂直的”な軸といえる。経済的な格差が一定程度以上になると、その個人あるいは集団の間でコミュニティ的なつながりを維持することはほとんど不可能になるだろう。

●「コミュニティ」と「ソサエティ(社会)」の二者をいかにして両立させるか(根源的なテーマ)。同質的な集団として「コミュニティ」は放っておけば他を排除するあるいは内側に向かって閉じるような存在になりがちであり、それを「ソサエティ」という場において他者に向かって開いていく必要がある。

●「拡大期」の幸福概念と「定常期」の幸福概念。前者は「近代的」な幸福概念とも呼べるもので、幸福を考えるにあたって「個人」ないしその自由を重視し、基本的に功利主義的である。そしてこれを「拡大期」の幸福概念とするのは、それが実のところ近代における経済の「拡大・成長」という社会構造と不可分のものであり、個人の経済活動や消費等々の拡大ないし量的増加に基本的な価値を置くものだからである。
 「定常期」の幸福概念は、古代ギリシャ、仏教、老荘思想などに広く見られるもの。そこでは、前述の拡大期あるいは近代的な幸福概念とはやや異なって、個人の内的な充足あるいは「知足」、充足、平安といったものを重視し、量的拡大よりもしばしばその自制や安定に価値を置く。(ブータンの「GNH」の幸福概念もこれに通じる)

●社会における人と人との関係性にかかわる原理。
(1)「共」的原理〜コミュニティ   …互酬性
(2)「公」的原理〜政府       …再分配
(3)「私」的原理〜市場       …交換

●工業化の時代以降、「共」的な原理、「公」的な原理、「私」的な原理のいずれもがナショナル・レベル(=国家)に集約されていった。そして1970年代ないし80年代から時代は「金融化=情報化」の時代へと入っていく(産業化社会・後期)。

●これからの時代の基本的な方向として
(1)各レベルにおける「公―共―私」の分立とバランス
(2)ローカル・レベルからの出発
という二点が重要となると考えられるだろう。

●「“大きな共同体”としての国家」像は、自ずとパターナリスティック(父権主義的)な性格のものになりやすい。つまり、ちょうど親が子どもの面倒を見るように、国家が個人の世話をする(しなければならない)という国家観である。
 ここで問題なのは、こうした国家イメージの場合、「税」というものの位置づけがきわめて困難なものになるという点だ。つまり、もし国家が親のような存在だとすれば、子どもが親に対して(世話をしてくれた)謝礼を払うことがないように、個人が国家に対し税を払うという発想は成り立ちがたくなる。市民革命後のイギリスのような「自発的納税倫理」というものが発達しない。…福祉サービスは(子が親に世話を求めるのと同様に)“クニ”に対して要求するという性格のものとなり、その財源はもともとは人々が支払った税であるという認識は背後に退き、あたかも“クニ”自身がお金を持っているかのように観念される。
(借金財政の原因は経済成長頼みの財政という性格も一因としてあるが、このような「国家」像の問題も根本的な要因として存在していると考えられる)

●テツオ・ナジタの『相互扶助の経済』の論。近世までの日本には、「講」(頼母子講、無尽講、「もやい」などと呼ばれる「相互扶助の経済」の伝統が脈々と存在していた。しかもしれは二宮尊徳の報徳運動に象徴されるように、村あるいは個別の共同体の境界を越えて講を結びつけるような広がりをもっていた。明治以降の国家主導の近代化の中でそうした伝統は失われあるいは変質していったが、しかしその“DNA”は日本社会の中に脈々と存在しており、震災などでの自発的な市民活動などにそれは示されている。

●ナジタ続き。そのような相互扶助の経済を支えた江戸期の思想においては、「自然はあらゆる知の第一原理であらねばならない」という認識が確固として存在していた。

●ナジタの議論への著者の疑問。ナジタの日本社会への評価は、日本における「相互扶助」が概して集団の内部に完結しがちであることを十分に見ていないのではないか。

――おもしろい視点。日本人は内向き志向(=内集団志向)が強く集団の枠を超えて関係を作るのが苦手というのは社会心理学の山岸俊男氏の指摘もある。やはり遺伝子的な不安感が強く対人関係を作ることが全般に苦手なので(一部の人をのぞく)、対人関係を作ってもせいぜい身の回りの集団内にとどまってしまうのだろうか。あるいは集団から排除されることを極端に恐れるからだろうか。

●現代の日本人は、江戸時代の日本人がある程度生活に密着した形でもっていた伝統的な世界観や価値原理――最もシンプルには“神仏儒”で表されるもの――をほぼ失っている。そのことが現在の日本社会において、いわば集団の“空気”しか拠り所がなく、それぞれの集団や個人が内部で自閉するという状況を生む根本的な下人の一つになっているのではないか。言い換えれば、こうした「集団を超える価値原理」を再評価し取り戻していくことが、個別のコミュニティないし集団を開き、つないでいく通路になるのではないか。

●「個人」をしっかりと立てながら、同時に生命や自然を普遍的な原理にまで高めることができれば、それは現代における新たな福祉思想となりうるのではないか。→「地球倫理」

●心のビッグバン、枢軸時代。いずれも狩猟採集時代、農耕時代が限界を迎えたときに生じた(『ポスト資本主義』を参照)現代は人間の歴史の中での“第三の定常期”への移行という大きな構造変化の時代であり、地球倫理はこうした文脈の中に位置づけられるものである。

●自然信仰は、枢軸時代に生まれた普遍宗教に先んじる、地球上の各地域におけるもっとも基層的な自然観ないし信仰に通じるものであり、むしろさまざまな宗教がそこから生成したその根源にあるものと考えられる。

――感覚的にはすごく同意するのだがわが国の最近のトレンドとして、自然信仰ないしは自然礼賛が、ゆきすぎた愛国主義(「日本スゴイ!」という)とつながってしまっているのが今ひとつ不気味。自然信仰の強調がかえって国家間地域間の対立を深めてしまうということはないのだろうか?

●現代のターニングポイント:従来のような市場経済の「拡大・成長」が望めなくなる中で、格差の拡大と並行して資本主義がある種の生産過剰に陥り、かつ地球資源や環境の有限性が顕在化する中で、いわば資本主義の最も根幹に遡った「社会化」、そして「成熟・定常化」への新たな社会システムの構想が求められているという状況である。

●そこで重要な対応とは、(1)「人生前半の社会保障」。教育を含めて子どもや若者に対する支援を強化し、個人が生まれた時点あるいは人生の初めにおいて“共通のスタートライン”に立てる仕組みを徹底して実現していくこと(2)「ストック(資産)」に関する社会保障、つまり住宅や土地所有に関する公的支援や規制を強化し、近年進みつつある資産格差(金融資産、土地・住宅資産)の拡大を是正すること。

●“福祉をローカル・コミュニティに返していく”。セーフティネットの歴史的発展を反転させる。近代以降の経済社会の展開がいわば“地域からの離陸”の時代だったとすれば、今後の成熟・定常型社会はそのベクトルが反転し、“地域への着陸”の時代となる。その中で社会的セーフティネットの主体も段階的にローカル・レベルに移っていく。自然エネルギーや地場産業、商店街、ケア関連、農業関連などを含め、今後はコミュニティ的な(相互扶助的な)性格をもち、ローカルなレベルでヒト・モノ・カネがうまく循環するような経済から出発し、そのことを通じて雇用を含む社会的包摂を実現していくことが大きな課題となる。

●「持続可能な福祉社会/緑の福祉国家」。個人の生活保障や分配の公正が実現されつつ、それが資源・環境制約とも両立しながら長期にわたって存続できるような社会。

●各国のジニ係数と環境パフォーマンス指数をそれぞれ縦軸横軸にとったときに現れる相関。(『ポスト資本主義』参照)。日本は残念ながら「格差大、環境パフォーマンス低」の左上の群の中にある。同じ群にはアメリカ、韓国、ギリシャなど。

●いま日本そして世界に求められているのは、福祉思想あるいは「地球倫理」の掘り下げと並行しての、こうした「持続可能な福祉社会=定常型社会」の構想と実現ではないか。

――おおむね2015年の『ポスト資本主義』の議論だった。『ポスト資本主義』でだいぶ新しく踏み込んだ議論をされたのだな。テツオ・ナジタの相互扶助に関する議論のあたりが新しかった。



第2章「福祉哲学の新しい公共的ビジョン」(小林)

――ここではリバタリアニズムとコミュニタリアニズム、わかっている積りになっている2つの流派の解説があります。そのあとポジティブ心理学の議論があります。広井氏が簡単に触れた点を詳しくしたような内容です。教科書的ですがおさえておきましょう。

●近代以降の政治哲学において初めから最も大きな役割を果たしたのは、人間の快楽や苦痛、利益などにより幸福や利益を量としてとらえそれを最大にしようという考え方である。これは、人々の主観的な福利(幸福や利益)に基づいて考えるという点で「福利型思想」であり、その量的増大を正しいと考えるという意味で「福利型正義論」ということができる。この発想においては倫理や道徳よりも快楽や利益の追求が優先される。

●今日の正統的な自由主義的経済学は、市場だけでは防衛や、法・秩序、正常な空気などの環境保全を達成することができないことを認めている。だからこのような「市場の失敗」に対処するために、国家が公的政策を行うことは認めている。しかし貧困や窮乏を緩和するために福祉政策を行うことは、論理的には容易に正当化できないのである。
(パレート原理:いかなる人にも不利益をもたらすことなく、一人以上の人々の利益が増大する場合にのみ、その行為や政策は「より良い」といえる。逆に言えば誰かに悪影響をもたらすときには、そのような政策を倫理的(規範的)に「より良い」とはいえない。累進課税などによる再分配の政策は、高額の税をとられる富者が一般的には不利益を被ることになるから、正しいとはいえないことになる。

●福祉の思想の発展に大きな歴史的役割を果たしたのは、社会主義や共産主義ではなく、19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス理想主義(グリーン、ボザンケら)である。経済テクや功利主義が方法として個人から考えるのに対し、カントやヘーゲルの影響を受けた子の哲学は、国家によって強制されないという個人主義的な自由(消極的自由)の考え方を批判して、人格の陶冶により社会的な共通善に貢献するための積極的な能力として自由や権利を考えた(積極的自由)。

●ロールズの正義論(平等主義的リベラリズム)。
第一原理:人間が基本的な自由に対する平等な権利を持っている。
第二原理:経済的・社会的不平等に関する原理。次のような二つの条件が満たされている場合にのみ不平等が許容される。(1)人々は公正な機会の均等という条件の下で、すべての人に職務や地位が開かれていること。(2)最も不遇な立場にある人の便益を最大化すること

●ロールズの格差原理。もし格差がなく完全に平等なら、最も貧しい人にとって良いと考えられるかもしれないが、それでは人々に勤労の意欲がなくなってしまいかねない。働いても働かなくとも報酬や所得が同じになってしまうからである。そうすると経済は停滞するから福祉を行うことができなくなり、結果的にはみんなが平等に貧しくなってしまって、最も貧しい人にとっても望ましくない。ある程度の格差は存在するほうが、最も貧しい人にとっても好いのである。格差の存在によって経済が発展し、さらに福祉によって格差が一定程度に小さくなることによって、最も貧しい人にとっても良い――そういう格差になるべきなのである。
→今日の政治哲学において福祉国家を主張する最有力な議論となる。「分配的正義論」

●ロールズに近い経済学者の考え方:アマルティア・セン。効用の概念の代わりにケイパビリティ(潜在能力、達成可能性)という観念を中核にして、主体的自由(市民的自由・政治的自由)とともにそれとの関係を考えつつ「福祉的自由(良き状態への自由)」を実現させようとするものである。

●リバタリアニズム(自由原理主義)。政治哲学でリバタリアニズムと言うときには、経済学的なネオ・リベラリズムとは異なって、権利の概念で自分たちの正義を主張する場合が多い。代表的論者ノージックらは、人間が自分の体を所有するということ(自己所有)から、自分の肉体を用いての労働の成果は自分のものになるということを権利(所有権・財産権)として主張する。こうして自分のものになった所得や財産は自分自身のものであり、自分がそれを自由に用いる資格(権原(entitlement))を持っているのであって、その権利を自由に行使することは正義に適う。逆に貧者のためとはいっても福祉を行うために国家が富者に課税を行うことは、強制的に権力を行使して正当な所得や持参を富者から取り上げることだから、不正義である。これはいわば搾取であり、その分について富者を貧者のために「奴隷」として労働させるようなものである。治安や市場のルールの維持などの最低限の役割に国家を限定して「最小限国家」(ノージック)にすることを主張する。

●リバタリアンも貧者を放置して死なせることには反対して、最低限の福祉は許容する論者が少なくない。

●コミュニタリアニズム。価値観・世界観を正面から議論することによって正義を考えようという思想。アリストテレスなどのギリシャ哲学に淵源を持ち、「善き生」についての考え方を重視する。「負荷のある自己(負荷ありき自己)」。価値観・世界観を負うことによって「善き生」を探求する物語のように人生をとらえる見方。

●「善き生」はまずさまざまなコミュニティの伝統の中で培われているから、コミュニティに目を向けることも重要になる。自由形正義論があくまでも個人を中心に考えるのに対し、人々がコミュニティにおいて共に生きて行動することを重視する。だからサンデルをはじめとする一群の思想家たち(サンデルの師である哲学者テイラーや倫理学者マッキンタイアなど)が「コミュニタリアニズム」と呼ばれるようになった。ただしコミュニタリアニズムは彼らの自称ではない。

●また「善き生」との関係で正義を考えるという点において、私的生活だけではなく公共的生活についての議論においても、道徳性・倫理性・精神性を重視する。美徳を会得することによって「善き生」を送ることが可能になるとされるから、これは「美徳型思想」である。それとの関係で正義を考えるのが「美徳型正義論」である。複利型思想が経済的な考え方、自由型思想が法的な発想という特色を持つのに対し、美徳型正義論は倫理的・政治的な傾向が強い。

●今日のコミュニタリアニズムは基本的に北米で始まったので、自由や権利は当然に重要であると考えている。ただ、それらばかりを強調することが弊害をもたらすことを指摘して、伝統・秩序・協調などのコミュナルな側面の重要性を指摘しているといえる。だからその両側面が存在するということを明確にするために「リベラル・コミュニタリアニズム」と呼ぶことがある。

●コミュニタリアニズムの福祉論。ロールズの設定した他者に関心のない抽象的な人間(負荷なき自己)と異なり、実際の人間はコミュニティの中に生きていて価値観・世界観を負っており、その「善き生」の一つの要素として、同胞に対する友愛の美徳を持っている。その同胞愛に基づき、共通善として一定程度の福祉は実現されるべきであると考えられる。しかしそれは自分の利益を合理的に追及する結果ではなく、同胞愛などの「善き生」の考え方に基づいて貧者や弱者を助けようという気持ちが基礎になっている。だから、ロールズ的なリベラリズムが主張するように、福祉は正義という名の権利によって正当化されるべきものではない。人々が公共的な美徳を持って政治に積極的に参加し、「善き生」の考え方に基づいて福祉を主張することによって、福祉の政策を共通善として民主主義的に実現することができる。

――考え方の道筋はわかったがわたしたちが現実にそれほど高尚な存在かというと、井手英策氏が指摘したように「弱いものいじめ」「袋だたきの政治」なのだから……。コミュニタリアニズムにたどりつくためにはわたしたちがグイッと姿勢を正し、つま先立ちしなければならない。アメリカでもまた、トランプ氏が当選したように「反ポリコレ」が高い支持を獲得しているわけで、いわば「反美徳」の流れともいえる。その状況についてコミュニタリアンはどう言っているのだろうか。

●ウォルツァーの複合的正義論。コミュニタリアニズム的福祉論の1つ。福祉の領域においては市場の領域とは異なる基準が適用されるべきであり、市場の領域における貧富の格差が医療などの水準に反映されるべきではなく、人々の共有理解に基づく必要性に応じて福祉が行われるべきである。

●具体的な福祉政策の議論を提起しているのはエツィオーニ。「中道主義的コミュニタリアニズム」を自称する。「善き社会」とは、人々が互いを道具として扱うのではなく目的として扱う社会であるとして、コミュニティを道徳的に活性化して国家と市場とコミュニティを均衡させることを主張した。福祉のセーフティネットを主張し、「機会の平等」とともに一定の「結果の平等」にも配慮すべきだとした。エツィオーニn中道主義的コミュニタリアニズムは、アメリカでクリントン政権や特にゴア副大統領、イギリスのブレア政権に思想的影響を与えた。

●ブレア政権の「第三の道」(=コミュニタリアニズムに近い)に影響を与えた思想。社会学者アンソニー・ギデンズは、社会民主主義の刷新を主張し、古い社会民主主義とサッチャー主義的なネオ・リベラリズム(リバタリアニズム)という二つの道を克服するのが「第三の道」であるとした。ポジティブ福祉という考え方。再分配という理想を維持すべきだが、従来の社会民主主義における単純な「結果」の再分配に代えて、個々人の潜在能力を可能な限り研磨して「可能性の再分配」の実現を重視する。

●急進的コミュニタリアニズム。代表者ビル・ジョーダンは、非常に早い時期(1989)にベーシック・インカム(無条件の基礎所得)を第一歩として主張した。ベーシック・インカムは、最低限の生活を送るのに必要な額の現金を政府が無条件で(所得調査や就労義務なしに)すべての人に定期的に給付するという政策。そしてサンデルのアリストテレス的正義論などを援用して、契約的方法だけではなく、美徳を涵養してコミュニティの人間観のコミュニケーションにおいて経済・社会に対する文化的・道徳的規制を行い、道徳的秩序を通って共通善の政治を目指す必要があると主張している。

●幸福研究としてのポジティブ心理学。従来の心理学においては、鬱をはじめとする精神疾患を治すことが主たる目的だった。それはネガティブな心理の研究であるのに対し、アメリカ心理学会長だったセリグマンが2000年に心理学の新しい課題として、健康・幸福・成功などにおける人間のポジティブな心理を科学的に研究する必要性を挙げ、ポジティブ心理学とそれを名づけた。ポジティブ心理学は、調査票などを用いた科学的研究を推進することによって急速に発展し、人間の幸福をもたらす心理を統計的に明らかにしつつある。

●「幸福」の意味。初期のポジティブ心理学では幸福感を主観的な感情によって調べることが多く、幸福感の調査で最もよく使われていた指標(主観的良好状態〔ウェルビーイング〕)では、生への満足と感情が聞かれていた(「快楽的心理学」)。
 これに対して、このような方法では人間の一時的・表面的な感情的幸福感しか調べられないという批判が現れ、自己実現や意味などのように持続的で深い内なる喜びや幸福を考えて調査する必要が主張されるようになった。古代ギリシャのアリストテレスの幸福概念を用いて、これを「エウダイモニア的良好状態(ウェルビーイング)」という。アリストテレスは、「美徳(資質)に即する魂の活動」によって「エウダイモニア」がもたらされると論じた。これは、各人の潜在的資質が開花して心の底からの深い喜びをもたらすことを意味しており、一時的な幸せ(ハッピー)の感情ではない。そこで最近は英語では「happiness(幸福)」よりも「flourish(開花・繁栄)」などとこれを訳すことが増えている。ポジティブ心理学ではアリストテレスが言ったような「善き生」が深い幸福をもたらす傾向があることを、統計調査により科学的に明らかにしつつある。
 
●ポジティブ福祉の可能性。ベヴァリッジ報告で指摘された「窮乏、病気、無知、不潔、怠惰」はネガティブな不幸であり、それに対する福祉という従来の考え方はネガティブな問題を克服しようということだから、ネガティブな福祉観といえよう。これに対してギデンズはそれぞれをポジティブなものに置き換えるポジティブ福祉を提唱した。言い換えればこれらは「不幸解消福祉」と「幸福増進福祉」ということだろう。

●エツィオーニの「善き社会」のビジョン。善き社会とは「我―汝」という人格的関係が育まれて、人間が手段ではなく目的として扱われる社会。市場が「我―それ」というような道具的な関係の領域であるのに対し、コミュニティは「我―汝」の目的に基づく関係である。拡大家族のようなグループへと結びつける感情の絆がそこには存在し、社会的な意味や価値からなる道徳文化が共有されている。
 福祉についていえば、最低限賃金などの政策で貧者の収入や所有物を増やすことによって、「善き社会」の中核の原理にとって本質的に重要な「豊かな基礎的最小限」(ベーシック・ミニマム)」の生活水準をすべての人に対して実現することがまず必要である。それに加えて、不平等が増えていかないように多くのものに累進課税を維持し、相続税を増やしたり、労働とともに資本にも課税をしなければならない。ただ、一国だけでこのような大きな課税を行って富の大きな再分配を行おうとすると、国外に資本が逃げてしまって難しいので、EUや世界規模の政策調整が必要であり、広汎な道徳対話を促進することが必要である。……このような優先順序の巨大な変化においては、知識人と人々の間で巨大な対話が必要なのである。

――おおむね賛同するがここなのだなー、「知識人と人々との間の巨大な対話」。その回路が絶たれていることを象徴するのがトランプ政権の誕生だったとおもう。知識人の側の努力不足か、ネットのデマゴーグ機能の強大さがそれを上回ったか。
 とまれ、欧米と比べても知識人の層がはるかに薄いとみられるわが国(残念ながら遺伝子的な裏付けがある)では、知識人は知識人の間だけに通じる言語で話していてはならない。

●福祉国家の再編、新しい国家像「可能にする国家(enabling state)」。従来の福祉国家は市場から労働者を守るために、マーシャルが指摘したような社会権の考え方によって公的に便益を与えるという普遍主義的な方法を用いていた。これに対してこの新しい「可能にする国家」は、労働者が市場で働き個人的責任を果たすことができるように民間が私的に社会的保護を行うという選択的な方法を中心にしている。

●もしリベラリズムの主張のように国家は価値に中立的でなければならないと厳密に考えるならば、このような就労支援政策を国家が行うことはできない。国家による就労支援政策を認めることは、市場で労働するという「善き生」を国家が促進することを認めることだから、権利ではなく「善き生」を実現するための公共政策を正義と考えていることになる。そこで社会的投資国家や「可能にする国家」は、本質的にコミュニタリアニズムの発想をすでに採用していることになる。

●「善き生」は労働市場における要請に応える生き方・働き方なのか。労働市場が過酷なものだったらどうか。今の労働市場の要請から「善き生」を解放して、思想的・科学的な「善き生」そのものから考え直す必要がある。たとえば幸福研究やポジティブ心理学は幸福をもたらす「善き生」を科学的に明らかにしつつある。失業者も含め人々がこのような「善き生」そのものを生きることが可能になるように国家が公共政策を行うことが、コミュニタリアニズム的な考え方からすれば正義である。

●人々が生産的にポジティブに生きて働くことを可能にする福祉は「ポジティブ福祉」といえるし、それを行う国家を「ポジティブ福祉国家」といっていいだろう。ブラック企業のような労働市場の問題がある場合には、労働者が「善い生き方」をできるように国家が労働市場を変革させることも「ポジティブ福祉国家」における正義である。

●アリストテレスやポジティブ心理学に基づいて「善き生」が幸福をもたらすと仮定すれば、ポジティブ福祉国家は、人々が「善き生」を送ることによって幸福になることを促進する。「可能にする国家」は「幸福を可能にする国家」となり、単純明快にこれを「幸福(促進)国家」と呼ぶこともできるだろう。ポジティブ福祉の実現が幸福国家における国家目的の中枢であり、国家の第一の存在理由であるといえよう。

――やっとここまできた。ポジティブと幸福について語ることばはえもいわれぬ幸福な気分をもたらしてくれる。ここにたどり着くまでに著者はなんと多くの学説と現象を押さえてきたことだろう。

●ポジティブ福祉国家では不幸の減少と幸福の増進の双方を目指している。またネガティブな自由とポジティブな自由の双方を尊重する。言い換えれば、自由主義における「自由」とコミュニタリアニズムにおける「共通性・共同性」の双方が重視されている。この2つを正義についての第一基本原理と第二基本原理と考え、それぞれを(1)自由(リベラル)原理、(2)共同(コミュナル)原理 と呼ぶことができよう。この2つの原理は、(1)すべてを個人に還元して考える(原子論)か(2)個人の合計や総和以上のものを考える(全体論)か、という相違に相当している。
 幸福国家は、リベラル/コミュナルな要素(とそれに伴うネガティブ/ポジティブな自由)を統合的に発展させるという点で、「統合的自由」を追求する。同時に、不幸の減少と幸福の増大という「ネガティブ(解決)/ポジティブ」な福祉を目指すという点で、「統合的福祉」を目指すといえよう。このような統合的観点からの福祉論を「統合的福祉論」とよぼう。

●最小限福祉は、リバタリアニズムでもコミュニタリアニズムでも擁護されている。

●ケアの倫理。一般的にケアとは愛や思いやり、気遣い、配慮などのことを指し、メイヤロフはケアについて他者の成長や自己実現を助けることと考えている。経験的研究によって発達心理学者ギリガンは、男性と異なる心理的発達経路が女性には存在することを発見し、発達した女性の心理的特質として文脈的・物語的・関係的な思考が存在して、責任・責務の感覚も敏感であることを明らかにした。さらに教育学者ノディングズは、母子の関係を原点に考えて「ケアする人/ケアされる人」という「ケアリング」がさまざまな領域に存在することを指摘し、相互性・関係性をその特色として指摘した。

●正義とケア両者の統合のためにコミュニタリアニズムの思想は大きな役割を果たしうる。正義がケアと対立しているように思えるのはロールズ的な正義論を念頭に置いているからであり、コミュニタリアニズムは正義とケアとを統合的に理解することができるのである。

●(一部のケアリング論者はコミュニタリアニズムを男性的として忌避するが)ケアとは関係の美徳であり、ケア倫理とはコミュナルな美徳の1つである。コミュニタリアニズムにおいて正義とケア倫理とは「結婚」することが可能であり、そのようなコミュニタリアニズムを特に「ケアリング・コミュニタリアニズム」と呼ぶことができるだろう。この思想は、ケアに基づく正義を公共政策において実現することも主張するのである。

●今の時代においては「公共」を国民国家の中で考えることが多いが、公共哲学やコミュニタリアニズムにおいて公共性を時間的・空間的に拡大して考えることを著者は主張している。空間的には国民国家はさまざまなコミュニティの中の1つであり、公共体の1つである。国家を超えた子ユニティにおいても地域においても福祉の実現は課題となる。そして世界には主に発展途上国で飢えや不衛生による病気で死につつある多くの人々がまだいる。国家を超えたこのような地球規模の福祉を「地球的福祉」と呼ぶことができる。

●このように世界には家族や地域、国民国家、そしてさらに地球という多層的なコミュニティが存在し、それぞれが人々の幸福の実現のために必要不可欠な役割を果たしうる。地域・国家・地球においてはそれぞれ何らかの公共的組織(政府や国連などの公共体)が存在するが、それらの複層的な公共体の目的は実は福祉の実現、つまり人々の幸福という共通善の実現に置かれなければならない。多層的な「公共体」は基本的に福祉を目的として成立していると考えることができるから、多層的な「福祉公共体」ともいえるのである。…ポジティブ福祉哲学のこの公共的ビジョンが、多層的なコミュニティにおいて福祉が実現され、幸福な世界が実現するために寄与することを希望したい。

――最後になって著者のビジョンが立て続けに出てきました。今ひとつ現実感がない気もするしいささか急展開でびっくりするが……、
 ともあれコミュニタリアニズムとポジティブ心理学が「美徳」「善き生」を志向するという点で重なり合うことはよく理解できました。ほんとうは財政による格差是正の前提として人びとの道徳的向上がはかられなければならないと思うのでした。


――それでは第3章にまいります。わたしとして疎いテーマでしたがハーバーマスは出てくるし、無視できない領域になりつつあるかもしれません。


第3章 福祉と「宗教の公共的役割」(稲垣)

●福祉的な働きは、かつて洋の東西を問わず、その多くを宗教者が担っていた。戦後、福祉の働きは国家によってなされ、先進諸国の国家予算の多くを福祉関連予算が占めている。しかし他方で、対人援助サービスつまり人が人を支援しケアするミクロな場面で、依然として「人が人をどう見るか、どう支援するか、どう寄り添うか」というところで、人と人との心の問題は問われ続けている。場合によってはスピリチュアル・ケアと呼ばれ、そこに宗教性が関わらざるを得ない場面も出てきている。人間どうしが人格的に向き合う場面で、また生死にかかわる人間存在の根源として制度化される以前の宗教が問題になる。

●特に現代日本は、人と人のつながりが弱体化し社会的孤立の著しい時代に入っている。人と人の結びつき、絆のあり方には伝統、習俗、宗教などが関わってきた。人が人をケアする場面だけではなく、コミュニティ形成という日常生活においても、「福祉と宗教」は再び関係する可能性が出てきているのである。

●福祉、特に対人援助においては、家族が行っていた時には問題となっていなかったことが問題化している。労働への対価の「貨幣との交換」という経済レベルの問題だけではなく、「(家族)愛の交換」という倫理的価値のレベルの問題が生じているということである。この「家族愛を社会化する」という点を考慮すれば、今日の福祉という分野が経済学上の「労働力の商品化」以上に倫理的、哲学的問題を提起していることがわかるであろう。そこで、より人間学的・倫理学的な「自己―他者」関係を問題にしなくてはならない。
 そこでは、「新しい公共」という概念が重要性を増していると著者は考える。つまり「旧い公共」の互酬制は「与え受ける」双方向であったが、「新しい公共」では見返りを期待しないボランティア活動ないしは「与える」生活すなわち贈与の心、利他的心がいかに公共生活の一部になれるか、という新たな問題を抱えるのである。「互酬」から全き「贈与」への転換を含んだ社会のあり方だ。「愛の社会化」とは、こういう意味である。宗教的な愛すなわち仏教の慈悲、儒教の仁愛、キリスト教の隣人愛が新たな形で再考されなければならない理由がここにある。枢軸時代以来の伝統宗教、哲学が一人ひとりの課題として新たに再編される時代に入らざるを得ないのである。

――問題意識はわかった気がするが多様な宗教が公共圏で仲良く共存できるのか?という問いに著者はこう答える。

●スピリチュアルな意味の次元ないしは宗教が認識論の中に入ってくると、公共圏の議論では「自己―他者」関係が重要になる。ハーバーマスの議論にすでに出てきたように、他者の信じているものを寛容に承認しつつ民主的な対話を遂行するためには、「異質な他者」を自覚的に表現した「自己―他者」軸を導入して公共圏を定義する必要があるからだ。
 他者に全き「贈与」を承認しつつ対話的に共存をはかる訓練が必要になり、伝統的に同化主義の傾向の強い日本文化の中では新しい課題とならざるを得ない。

――おやおや、異なる宗教どうしの対話には「承認」が必要なようだ

●戦後福祉はイギリス型、北欧型の福祉政策論、アメリカ型のソーシャルワーク論等々、モデル「移入」のオンパレードであった。しかし日本の状況に適合しない。そこで本当に必要なのは日本文化、日本の伝統宗教との交渉である。そして福祉「国家」ではなく、もし福祉「社会」の建設であれば、宗教思想は十分にエートスになりうるであろうということだ。

―このあとは徳川時代の儒者・三浦梅園、大正〜昭和の浄土宗の僧侶渡辺海旭とその弟子の長谷川良信、そして神戸で救貧活動にあたったキリスト者賀川豊彦の事例をとりあげた。

●広井氏の地球倫理との関連。グローバルな時代、宗教が自らの真理の“普遍性”を掲げて“力”と結びつけば戦争になる。したがってキュンクが、世界平和にはまずは世界宗教の対話が必要であり、さらには政治や経済の視点が欠かせないとして、世界倫理(global ethics)を提唱したのが1990年だった。キュンクが世界倫理を提唱する背景は当時のポスト・モダン思想の流行の危うさである。キュンクの指摘によれば、「近代の超克」を語る思想は20世紀前半に生まれ、それはファシズムの台頭と悲劇的結末を招いてきた。戦後の日本でのポスト・モダン思想の流行は、“日本主義”という名の価値が宗教にとって代わる疑似宗教的な最高価値になっている。

――出てきましたね。

●著者は宗教が国民国家と結びつくことの危険性を指摘し、市民社会のモラルに寄与すべきことを主張してきた。キリスト教、イスラーム教、仏教、儒教などが「公」(=国家)と結びつけば、それは“力”の論理と結びつく。

●「和魂」というスピリチュアリティが「公」と結びつくとまさに“日本主義”となった。しかし、日本思想史上の弱点であるこの点が克服されれば、すなわち宗教が「公」(=旧い公共)ではなく「共」(=新しい公共)と結びついて市民自治という目的で協働作業するのであれば、今後の日本のポスト資本主義とスピリチュアリティとの関係は実り豊かなものになるであろう。いわば「新しい公共」は世界倫理として提起できる大きな可能性を秘めていると考える。ただ、そのためには市民一人ひとりに自己変革のための大いなる訓練と梅園、海旭、豊彦を引き継ぐ自治の能力が要求されるということであろう。

――最後の一文。結局ここがきもだ。私はペシミストなので今の平均的日本人が向上してここまで立派な存在になるのは無理なのでは、とすぐ思う。トンデモ心理学を有り難がって何の成長もないまま3年もたっているぐらいだから……、普通の人の心の弱さにコマーシャリズムがしのびよる。

――第4章は「生命」と日本の福祉思想 は主に、二宮尊徳の報徳思想の話。…は、ちょっと疲れたので割愛します。

 
 本書の構想にわが国が追いつくことはあるのだろうか。


画像財政から読みとく日本社会

 『財政から読みとく日本社会――君たちの未来のために』(井手英策、岩波ジュニア新書、2017年3月)を読みました。

 気鋭の財政社会学者の本。このところ著者は若者向けの本の執筆が増えています。この本は大人にもわかりやすく日本財政の「これまで」と「いま」を解説してくれますが、日本独特の寒々しい現状をいやでも再認識させられます。

 若者という読者を想定しているためか、印象的な呼びかけのフレーズがたくさんあります。

「この本は君たちだけの本ではありません。まだこの世に生を受けていない、君たちの次の世代の子どもたち、つまり、将来の若者たちが大人になった君たちとつながり、ゆたかな将来を見とおすことができることを願って書かれます。」

 財政とはそれぐらい気の長いいとなみだ、それを国民にわかってもらうことに歴代内閣は成功してこなかったが著者はあえてその困難に挑もうとしているのだ、と知らされます。

 
 日本の財政と社会を読みとくキーワード、それは「勤労国家」であり自己責任社会だ、と著者はいいます。

「『勤労国家』の枠組みのなかで大切にされたのは、自助努力や自己責任でした。勤労にはげみ、所得を増やして貯金をする。子どもの教育費、病気や老後へのそなえ、住宅の取得、将来の人生設計を自分でおこなう自助努力と自己責任の社会。それを『奥さん』、コミュニティ、企業がささえる社会。これらの条件が小さな政府を可能にしてきたのでした。」

 だが「勤労国家」にはひとつの大きな前提があった。それは経済成長。バブル後、この土台が崩れ、「総額に気をつかう財政」という日本財政の特徴が再登場した。増税もままならないまま、さまざまな「ムダ」を発見し、これを批判しては削り、増えていく社会保障の穴を埋めた。そこでは公共投資、特殊法人、公務員や議員の人件費、地方自治体への補助金、生活保護の不正受給、震災復興予算と、次から次へとムダ使いのレッテルがはられ、削減や抑制の対象とされていった。

 著者はこれを「袋だたきの政治」と呼びました。じつは、このような袋だたきの対象となっているのは、地方や低所得層といった社会的に弱い地域、弱い人たちです。都市部へと人口の集中が進み、中間層が貧しくなっていくなかで、こうした弱者へのやさしさが少しずつうしなわれていった、といいます。

 生活保護費の不正な受給は全体の0.4%程度なのに、多くの人々は受給者を疑いのまなざしで眺め、メディアも不正受給があたかも日常茶飯事であるかのようにとりあげる。

「この本のなかで何度も考えてきた痛税感、租税への抵抗は、仲間とは思えない『他人』に対して税をとられることの痛み、反発なのかもしれません」


 このあと著者は居住地の小田原市のあるエピソードから、「税とは共感なんだ」と学ぶ。
 共感は――、ホルモンの働きからいうと「信頼」とも言い換えられる。「スピード・オブ・トラスト」、信頼社会の意志決定のはやさはいろいろなところで経験する。小さいサイズの自治体であると、それはできやすいかもしれない。

 著者は信頼感の低いわが国社会を背景に行き詰まる財政の突破口として、「だれもが受益者」という財政戦略を挙げる。貧しい人だけに〔再分配」するのではなくお金持ちも受益者にすることによって、格差は和らぐという。大きな財政となり増税は当然避けられないが、所得制限をなくして受益者の数を増やしている国では、総税収が大きくなるのだという。

 財政とは「必要」と価値判断、哲学の思惟のかたまりなのだ。またそのよってたつ社会を映す鏡なのだと、この分野に疎いわたしにも刻みつけられました。

 もういちど著者の印象なことばを、あとがきから。

「このくたびれた社会を君たちにゆずりわたす瞬間、それは僕たちが『歴史の加害者』になる瞬間です。歴史の加害者になるのは簡単です。ただだまって見ていればよいのです。傍観者になりさえすれば、君たちはこの生きづらい社会をさらに生きづらい世の中にし、次の世代の子どもたちにそれをあっさりと『受け伝え』ていけることでしょう」

 分野こそ違え、おおいに共感することばだった。

本当は間違っている心理学の話画像

 『本当は間違っている心理学の話――50の俗説の正体を暴く』(スコット・O・リリエンフェルド他、化学同人、2014年3月)を読みました。


 ワイドショーなどで「心理学」をおもしろく扱ったコーナーが受け、そこで言葉巧みに語る見た目の良い心理学者に人気が集まるのは、このところ日本でもお馴染みの光景ですがアメリカのほうが一歩先を行っているよう。そこで間違った心理学知識が流布していることに危機感を抱いたまじめな心理学者の側からの本です。


 アメリカの「通俗心理学」を初めて広く見渡した本。筆頭著者のスコット・リリエンフェルドはエモリー大学の臨床心理学教授で、人格障害の原因、精神疾患の分類と診断基準、エビデンスに基づく診療の推進などのほかに、心理学の哲学、科学的思考法、疑似科学などを研究している人だそう。


 一般人にわかってもらいたい仕事のためか、「ですます」体の訳文で平易に書かれています。「(愛着のある)常識に反することをわかってもらう」という仕事のむずかしさ、私もつとに経験するので頭が下がります。

 
 この本によると――。

 
●通俗心理学の神話レベルの多くのものは、人間の特性についての誤解を生むだけでなく、日常を生きていくのに賢明でない、間違った決定を招きかねないのです。

●問題は、通俗心理学産業が科学的証拠に基づくような顔をして、助言をまき散らすことなのです。たとえば、ある有名なトークショーに出ている心理学者はいつでも恋愛関係では「こころの流れに身を任せよ」と強いています。たとえこの助言が人間関係をダメにしてしまう場合にでも、そう助言するのです。

●私たちは全員いわば心理学者である。友人、家族、恋人、見知らぬ嫌な奴らをどうすればよいか理解しようと努め、彼らがすることの理由を理解しようという気持ちに駆られます。

●通俗心理学には十分に支持できる主張もありますが、一部の主張はそうではないというのは困ったことです。

●私たちが心理学神話にいとも簡単に誘惑されてしまう理由は、それが常識をもてあそぶところにあります。予感や直感、第一印象などを揺さぶるからなのです。

心理学神話は有害でもある。
 経済学者は、「機会費用」とは、人間が有効でない処置を求めることで真に必要な援助が得られる機会を逃してしまうことをいう、としています。たとえば、意識下で作用する自己啓発テープが体重を落とすのに有効であると間違って信じている人が、時間、お金、努力を有効でない無駄な処置に費やしてしまうことをいいます。その人たちは実際に価値のある、科学的な基礎を持つ体重提言プログラムを見逃してしまうことになるのです。

心理学神話を受け入れるとほかの分野でもきちんと考えることができなくなる。
 たとえば心理学のような科学的知識の一つの分野で、現実から目をそらして神話と区別しなくなると、現代社会で遭遇するさまざまな、非常に重要な分野での嘘から事実を見分けることもまたできなくなってしまうのです。…知識は力であり、無知は無力なのです。

――これですねー。わたしが間違った言説が流布することにやたらとイライラする理由は。それらを信じる人たちとは、永遠に同じものを見て同じ結論に達する基盤が失われるということですから。そしてまた近年のイライラの種は、「子どもをどう育てるか」についてあまりにも隔たりがあることであります。可哀想なのは子どもさんです。


●神話の正体を暴くことはリスクも伴います。ときには、間違った考え方をただすことが、かえってその考え方がもっともらしいと誤解するような逆効果をもたらします。というのも、人びとは発言そのものよりも「警告タグ」を記憶していることが多いからです。

●幸い、心理学の学生はたとえば「われわれは脳の10%しかその能力を発揮していない」というようなことは心理学的に間違っていると、心理学の授業をとっていない学生よりも理解しているという研究があります。教育は人々の中にある心理学神話の間違いを減らすことができるという望みを与えてくれるものです。


 そしてこの本は、日常生活の中で心理学的な主張を上手に評価するのに大切なのは「批判的思考」であること、心理学的な話を決してすぐには受け入れないこと、いつも精査する、自分がこれは正しいと思っていることに疑問を投げかけることを勧めています。
 
 この本が扱った「50の神話」のタイトルを抜き書きしておきましょう:

神話1 人は脳の10%しか使っていない
神話2 左脳人間と右脳人間がいる
神話3 超感覚(ESP)は科学的に確立された現象だ
神話4 ものが見えるのは、眼から微細な物質が出るからだ
神話5 サブリミナル効果でものを買わせることができる
神話6 モーツァルト効果で子どもの知能が向上する
神話7 青年期は心理的に不安定な時期である
神話8 40代から50代前半に中年の危機が訪れる
神話9 高齢者は不満が多くなり、心身ともに衰えが増す
神話10 余命を知ると、誰もが同じ心境の変化を経験する
神話11 人は過去の出来事を正確に記憶している
神話12 催眠術で忘れた記憶を取り戻せる
神話13 トラウマ的な出来事の記憶は抑圧される
神話14 記憶喪失者は過去の人生をすべて忘れる
神話15 IQテストは特定の人には不利になる
神話16 試験に自信がないなら、最初の直感を信じるのが一番
神話17 ディスクレシア(読み書き障害)の特徴は逆さ文字である
神話18 生徒の学習スタイルに合った指導で最高の学習効果が得られる
神話19 催眠は目覚めているのとは違う「トランス」状態である
神話20 夢には象徴的な意味がある
神話21 睡眠学習は効果的な方法である
神話22 体外離脱体験の間、意識は身体から離れる
神話23 嘘発見器は確実に嘘を見破る
神話24 幸せは生活環境で決まる
神話25 潰瘍の原因はストレスだ
神話26 ポジティブ思考でガンを克服できる
神話27 自分とは違うタイプの人に惹かれる
神話28 緊急時、数多ければ安全である
神話29 男女のコミュニケーション方法はまったく違う
神話30 怒りは抱え込まず発散したほうがよい
神話31 同じ環境で育てられた子どものパーソナリティは似ている
神話32 遺伝的な特性は変えることができない
神話33 自尊心の低さが心理的問題の原因だ
神話34 幼児期の性的虐待は、深刻なパーソナリティ障害を引き起こす
神話35 ロールシャッハ・テストでパーソナリティがわかる
神話36 筆跡にはパーソナリティが現れる
神話37 精神医学的診断名は差別のもとになる
神話38 自殺するのは重いうつ病患者だけだ
神話39 統合失調症患者は多様なパーソナリティを持つ
神話40 アルコール依存症の親を持つ子どもはすぐにわかる
神話41 幼児の自閉症が急増している
神話42 満月の日には精神病院への入院と犯罪が増える
神話43 精神病の人は暴力的である
神話44 犯罪プロファイリングは事件解決に役立つ
神話45 犯罪者の多くは心神喪失で罪から逃れようとする
神話46 自白する人は実際に罪を犯している
神話47 臨床場面で一番頼りになるのは専門家の判断と直感だ
神話48 アルコール中毒の現実的な治療法は禁酒である
神話49 幼児期の問題に対峙させる心理療法は効果がある
神話50 電撃(ショック)療法は残酷で身体にも悪い

 本文が330pの本なので全部を丁寧に読んでいないのですが…、個人的におもしろかったのは神話37「精神医学的診断名は差別のもとになる」という神話のくだり。とくに子どもさんがADHDと診断されたとき、学校の先生のその子に対する好意の感情がUPしたというのが私的にはヒットでした。


 アメリカの「良心的な心理学者」の仕事。リリエンフェルドの仕事は同業者のキース・E・スタノヴィッチ(『心理学をまじめに考える方法』の著者)からも賞賛されていました。さあ日本にはこういう仕事をする心理学者はいるのかな…。


 


 精神科医で、家族機能研究所所長の斎藤学氏から、『嫌われる勇気』についてのコメントをいただいた。斎藤氏は日本のトラウマ治療者としては草分け的な存在で、NPO法人日本トラウマサバイバーズユニオン理事長を兼任するなど、トラウマをもつ人の支援も行ってきた。

 フロイディアンである同氏からは、「フロイトをよく知らないでフロイトを批判している」「アドラー1人が屹立して他はダメだというのはどうか」と厳しい言葉があった。


 斎藤氏はコメントを引き受けられたあと『嫌われる勇気』を取り寄せて読まれたうえで、非常にきっちりとしたコメントをくださった。
 他の多くの先生方もそうだが、斎藤氏のコメントを引き受ける姿勢、コメントする姿勢には、とりわけ「これぞ知識人」と感銘を受けるものがあった。

 ご了承をいただき、謹んでブログに掲載させていただきます。


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 いい本だと思います。読みやすいし。しかしアドラーの心理学ではないな。
 著者がプラトンを研究している人ということなのでそちら側に引き寄せているのかも。アドラーの中の著者たちにわかりやすいところを抜き出している印象。

 しきりにフロイト的因果論を否定しているが、そもそもフロイト的因果論などというものはない。フロイトと言っても、初期、中期、晩期で言ってることはまったく違うんですよ。例えばフロイトは1886年に『ヒステリーの源流』で大人の子どもに対する誘惑(性的児童虐待)が後年子どもの神経症を作ると言った。その後彼自身が、この仮説を引っくり返してしまう。「フロイトの撤退」と呼ばれている事態で、その代わりに登場したのが「子どもは親たちからの被害を空想するものだ」というファンタジー説。そのファンタジーの中身が「エディプス・コンプレックス」です。

 ところが今の精神医学では彼が引っくり返す以前の説のほうが正解ということになっていて、児童期のインセスト・アビューズ(近親姦虐待)の成人になってからの障害(例:境界性パーソナリティ障害)をどう治すかということが課題になっています。1970年代以降、フロイトの空想説によって消えかかったシャルコーからジャネを経てフロイトにつながる外傷体験説が復活して今のPTSD論の一部を構成しています。脳図像学の発達によって心的外傷による海馬体の萎縮などが明らかになっているので、単なる「論」や「仮説」を越えた実体として治療対象になっているのです。

 確かに「子どものころ親に虐待されました。」で終わっては治療にならない。例えば私は外傷性記憶の曝露療法というものをやっています。外傷体験を言語化するのは苦しい。しかし過去を明らかにすれば治るなんて誰も考えてないので、目の前に居る患者の人格障害や解離性フラッシュバックという、「今、ここ」の苦痛の解消が私たち治療者の仕事です。他者に向けて外傷体験を曝露するという作業はあまりに痛いので、過去の外傷そのものは大した痛みでなくなり、過去のとらわれから解放されるのです。 

 以上がひとつの例で、この本には誤解(あるいは省略)が多すぎる。とは言っても私はこの本全体を否定するつもりはないのです。正しいこと、常識的なことも多いのですが、その多くは既にフロイトやその後輩たちによって吸収されてしまっています。例えばサリヴァンなどを読むと、アドラーとの類似に驚くでしょう。アドラー1人が屹立していて他はダメだといい、フロイトを否定して敵を作って叩いて売っているというのは商法ですよね。フロイトをよく知らないでフロイトを否定している。読む方はそんなことどうでもいいでしょうけれど。

――教育心理学の分野などでも常識の逆張りを狙って明らかに間違いということがベストセラー本に書かれ、学識経験者はあまりにもバカバカしいからと黙殺しているとそれが一人歩きするということがよくあります。

 変だよね、ということはいっぱいある。
 「承認欲求を否定せよ」などは、単なるレトリックですよね。あとの方で自己受容はいい、と言っているじゃないですか。受容は承認されることで生まれますから。何も根本的な違いはない。
 「トラウマは存在しない」という言い方は派手ですが、上に述べたように誤りです。アドラーは「トラウマは無い」と言っているのではなく、「トラウマを含む過去にとらわれてはいけない」と言っているのです。

 アドラーの代表的仮説である劣等コンプレックスや器官劣等性の概念は外傷体験というものを前提にした因果論そのものじゃないですか。これらはアドラーの代表的著作「Adler, A: Der Aggressionstrieb in Leben und in der Neurose.〔『日常生活と神経症における攻撃欲動』〕」(1908)に収められていますが、記述の仕方そのものが精神分析です。アドラーの著作は彼が望んだか否かは別として、精神分析を補完するものです。

 アドラーの評価を語るに当たっては、エレンベルガ―の書いた『無意識の発見』(第8章,邦訳,弘文堂)が参考になります。そこではアドラーに100頁ほどが当てられています。その前の第7章はフロイトに当てられていて、こちらは約200頁。公平な評価で、アドラーがフロイトに比肩される心理臨床家であることには間違いありません。その点、この本(『嫌われる勇気』)はアドラーを誤解させますね。

 アドラーは1902年から1911年まで精神医学会の4人の理事の1人でした。
 アドラーは、フロイトのエディプスコンプレックス仮説を受け入れられなかった。リビドーとは無関係に発生する攻撃性や権力意志が存在すると説いたのです。そしてそれは後期のフロイトによってもタナトス(エロスと対立して自己破壊に向う衝動)という言葉で説明されています。それと、アドラーはトロツキーの友人でもある社会主義者でした。フロイトは同じくユダヤ人の医者ですが、金持ちばかりを診ていたし、本来「大学の人」でウイーン大学の客員講師(後に客員教授)でした。アドラーにはこうしたことへの反発もあって、フロイトたちから離れたのではないでしょうか。

 1911年以降のアドラーは大衆への説教者になっていきます。説教をして、社会共同体の向上をはかる。これが何につながるかというと、自己啓発ですね。デル・カーネギーや『7つの習慣』などの。専門家でもなくて。扇動者とまで言わないが、大衆を集めて真理を説く人の元祖になりました。

 1920-30年のアドラーは社会状勢の読みがよかった。早々とアメリカに移ったので。フロイトのようにナチの迫害にも遭わなかった。恵まれない人たちの人間共同体にどう関心を向けるのかに力を注いだ。啓発者としてのアドラーですよね。その件に関してアドラーは偉大です。

 この本(『嫌われる勇気』)について憂慮するのは、この本を鵜呑みにする「無智な大衆」の中に大かたの精神科医も入ってしまうことです。実は医学生の訓練課程ではフロイトの「フ」の字も習いません。精神科医になってからも同じことです。未だに精神分析は学びたい者だけが時間とお金をかけて、苦労して身につけるものなのです。

 今や患者さんのほうが精神療法をよく知っています。自分が困っていますから真剣に勉強します。しかしその中には、ネットの解説だけでわかった気になってしまう人たちも出てくる。この本は150万部も売れているそうだから、わかった気になった患者がわかっているつもりの精神科医と出会うことも多々あるでしょう。

 そんな人の中で「トラウマはない」とか「過去は要らない」みたいなことが常識になれば、そういう親たちに育てられた子どもたちの問題が深刻なことになるでしょう。

 『嫌われる勇気』のオールオアナッシングの断定口調ぶりを、数字で検証してみた。

 とりあえず先日『暴力の人類学』(下)で学んだ、「統合的複雑性(integrated complexity)」の初歩のところを調べてみることにした。


 『嫌われる勇気』の文章の中の断定的な単語を抜き出し数える。「すべての」とか「あらゆる」とか「何もない」「誰も…しない」「いつも」「必ず」「絶対に」「無条件の」など。

 数えてみると、著者らのあとがきを除いた本文で349個。本文283ページ、1ページあたり1.23回断言口調があったということになる。ちなみに「すべての人の悩みは…」のように多用された「すべて」という語は55回登場した。一方「非断定的」な単語も数えてみた。「ほとんど」とか「基本的に」「多くの場合」など。こちらはわずか29個で、1ページあたり0.10個だった。

 これだけでは多いのか少ないのかよくわからないかもしれない。そこで、比較対象に先日読んだ『認められたい』(ヴィレッジブックス)をもってきてみた。熊代亨氏、怒るかな。

 『認められたい』に比較的よく出てきた「断定語」は、「〜だけ・〜ばかり・〜しか」などの語の後ろにつけて限定するもので、これが35回で最多だった。その次が「まったく(ちっとも)〜しない」で16回。全体では185ページに158回登場して、1ページ当たり0.85回。「非断定語」は133回で、0.72回/ページ。



 どちらの本もページあたりの文字数は同じようなものだが、念のためちゃんと字数を調べることにした。といってもおおざっぱに各ページの行数と1行当たり字数を数え、それにページ数を掛けて400字で割る。すると『嫌われる勇気』は505.155枚だった。『認められたい』は330.225枚。

 こうして分母をそろえたところで比較してみると下記のようになった(数字はいずれも400字詰め1枚あたりの出現回数)

『嫌われる勇気』
断定語   0.69
非断定語 0.0057

『認められたい』
断定語   0.48
非断定語 0.40

 やはり、『嫌われる勇気』の断定語が多いのがわかる。『認められたい』の1.5倍。アドラー自身は、「親相手に断定口調でものを言ってはいけない」と言った人なのだが。

 『嫌われる勇気』では非断定語が極端に少ないが、これは断定語を使いすぎて非断定語を使う余地がなかったのだろうか。あるいは非断定語を使うと自信がないように見えてしまうからだろうか。
 断定語の「すべて」を多用したり、「〜ばかり」「ちっとも〜しない」といったフレーズを読まされていると、それらの言葉の背後にある刺激の強い言葉で注目を集めたい幼稚な自己顕示欲か、あるいは他人への拒絶の姿勢、他人の行動に向ける強い嫌悪の視線のようなものを感じて、わたしなどは気分が悪くなってくる。だからこの本を最初読み通せなかったのだ。
 しかし自己啓発本の読者はこういう言葉が好きなのだろう。最近も筋トレを自己啓発に応用して「あらゆる悩みは筋トレで解決する」というフレーズをみた。断定語はマッチョでもあるようだ。

 またおもしろいのは、『嫌われる勇気』では「断定語」を「青年」も「哲人」も「地の文」も、それこそ「みんなが」言っている。三者とも「断定語」の使い手なのだ。こういうオールオアナッシング思考や過度な一般化の思考は、認知行動療法では「認知の歪み」と呼び、鬱になりやすい思考だからカウンセラーは修正を図ろうとするものだ。しかし『嫌われる勇気』の世界では、青年だけが「断定語」の使い手なのではなく、「哲人」も果ては「地の文」さえも「断定語」を使うのだから、始末におえない。狂気の世界に巻き込まれそうだ(途中、「哲人」がとってつけたように「神経症の人は『すべて』と言いやすい」云々と言うくだりもあるが、その「哲人」自身が「すべての」「あらゆる」を連発している)




 いっぽう『認められたい』は、極端から極端ではなく、もっと狭い振れ幅のなかでロジックが動く。
「○○な人も、××な人もいるでしょう」
「そうかと思うと、△△な人もいます」
等。
 文章が「キラキラ」でないから、わたしなどは安心して読める。一方、「キラキラ」文章ばかり読んで中毒になっている人だと、何が書いてあるかマイルドすぎてよくわからないかもしれない。
『認められたい』では、「〜だけ」「〜ばかり」が登場するのは、おおむね行動傾向が偏っていて特定の行動ばかりとりがちな人に向けられている。戒める文脈である。


 なお、こうして「統合的複雑性」を調べてみたが、
 1月にUPした『暴力の人類史』(下)の読書日記で、

 「統合的複雑性があまり高くない言語を用いる人々は、フラストレーションに対して暴力で反応したり、戦争ゲームに参戦したりする確率が高い。」

というフレーズがあることにも注意したい。それからしても『嫌われる勇気』を好んで読んでそれと同じ言語を使う人々がほかの人と平和的に共存できるとはとても思えない。





 ついでに便乗して、わたしの拙著『行動承認』の紙版も同じ尺度で測ってみた。

『行動承認』
断定語  0.26
非断定語 0.25

 断定語も非断定語も3冊の中で圧倒的に少なかった。3年前の本。

 これにはわけがあって、「統合的複雑性」の概念は執筆当時知らなかったが、この本のミッションというのはそもそも、読んだマネジャーに気持ちよく実践したいと思ってもらうこと。そのために、

,笋譴个垢瓦だ果の出るものだとわかってもらう
△靴し、反感を買ってはいけない。

 著者のわたしの語り口に少しでも強引なところがあったら、良識的なマネジャーは「引いて」しまう。「すごい成果が出ることは言っているけど優しい語り口でいっさい強引さのないロジック」という難しいかじ取りが必要だった。
 そのために断定語を極力省いた。非断定語も、恐らく使うとあいまいな印象を持たれてしまうのを危惧して省いた。数字で言えるところはできるだけ数字で言った。

 そういう工夫が読んだ人の「やりたい」と前のめりになる気持ちに直結しているかどうか――。

 でも自分が工夫したことが数字で証明できたのでちょっと満足している。


 わたしはわたしの文章を読んだマネジャーたちがわたしのように思考してもらいたいと思っている。緻密に細やかに、愛情をもって。幸い類は友をよぶのか、過去にわたしのもとに集まってくれた人たちは似たような言葉づかいをしていた。

 ちょっと最後は手前味噌がすぎたかもしれない。


 参考リンク・断定口調で話す専門家の予測は当たらないという研究

●断言する人は信用しないのが一番―『専門家の予測はサルにも劣る』
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51819125.html

サイコパス 表紙

 『サイコパス』(中野信子、文春新書、2016年11月)。


 読みやすい文体だが、以前に読んだロバート・ヘアの『診断名サイコパス』より新しい知見がふんだんに入っている。今の時点でこの分野のスタンダードとしてチェックしておこう。


 「ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。ウソが完全に暴かれ、衆目に晒されても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。それどころか、「自分は不当に非難されている被害者」「悲劇の渦中にあるヒロイン」であるかのように振る舞いさえする。
 残虐な殺人や悪辣な詐欺事件をおかしたにもかかわらず、まったく反省の色を見せない。そればかりか、自己の正当性を主張する手記などを世間に公表する。
 外見は魅力的で社交的。トークやプレゼンテーションも立て板に水で、抜群に面白い。だが、関わった人はみな騙され、不幸のどん底に突き落とされる。性的に奔放であるため、色恋沙汰のトラブルも絶えない。
 経歴を詐称する。過去に語った内容とまるで違うことを平気で主張する。矛盾を指摘されても
「断じてそんなことは言っていません」と、涼しい顔で言い張る。
 ――昨今、こうした人物が世間を騒がせています。」


――たしかに、たしかに。
 では、この本で新しくわかったことをご紹介します。

●サイコパスは研究によってはアメリカの全人口の4%にものぼる(診断基準による)。およそ100人に1人ぐらいとして、日本人のうち約120万人はいる計算になる。

●サイコパスにもグレーゾーンがあり、症状のスペクトラム((連続体)をなす複合的な障害。


●サイコパスを見た目で判別する方法。
 顔の縦と横の長さの比率を比較して横幅の比率が大きい男性ほどズルをする傾向があり、サイコパシー傾向が高い。男性に比べて女性ではあまり相関関係がなかった。

●心拍数が低いと暴力や反社会性につながる。モラルに反する行動をとっても心拍数が上がらないから?
 不安を感じにくいため、サイコパスは、一般人よりもまばたきの回数が少ない。

●サイコパスは相手の目から感情を読み取るのは得意。

●サイコパスは他人の恐怖や悲しみを察する能力には欠ける。
 サイコパスにとって他人の感情を知ることは、学校の国語の試験問題を解いているようなもの。

●サイコパスが重視する道徳性は、「共同体への帰属、忠誠」「権威を尊重する」「神聖さ、清純さを大切に思う」。一方で「他人に危害を加えないようにする」「フェアな関係を重視する」はスコアが低い


●サイコパスは孤独感が強く、職場の環境を「協調し合う場所」というより「競争的なもの」であると捉える。

●サイコパスの反社会行動に関する4つの仮説。〃臟_樟癲閉磴ざ寡欖蕎隹樟癲法´注意欠陥仮説(反応調整仮説) 性急な生活史戦略仮説 ざΥ鏡の欠如仮説

●サイコパスの脳の特徴。
・恐怖を感じにくい。扁桃体の活動が低い
・眼窩前頭皮質(抑制する)や内側前頭前皮質(モラルを感じる)の活動が低い
・扁桃体と眼窩前頭皮質や内側前頭前皮質の結びつきが弱い
・前頭前皮質内側部(VMPFC)が、痛々しい画像を見ても反応しない
・海馬の機能低下。恐怖条件付けの反応が鈍い
・脳梁の容積が一般人と比べて増加

●勝ち組サイコパス(成功したサイコパス)と負け組サイコパス(捕まりやすいサイコパス)の違い。
 勝ち組では背外側前頭前皮質(DLPFC)が発達し、短絡的な反社会行動を起こしにくい。

●昔からいたサイコパス。革命家・独裁者。推測では、織田信長、毛沢東、ロシアのピョートル大帝、ジョン・F・ケネディ、ビル・クリントン。意外なところでは聖女マザー・テレサ。援助した子どもたちには冷淡で、残酷とも思える扱いをしていた。

●歴代の精神科医もサイコパスの存在を指摘していた。
 
●2000年代から、神経倫理学(ニューロエシックス)や神経犯罪学が台頭。19世紀の「犯罪人類学」の祖、チェーザレ・ロンブローゾの骨相学や遺伝学の研究が再評価される。

●反社会性は遺伝するのか。ある研究では顕著にサイコパス的な双子の反社会的行動は、遺伝の強い影響を受けており、要因の81%が遺伝性、環境要因はわずか19%(英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン発達精神病理学教室教授のエッシ・ヴィディングの研究)。

●MAOA(モノアミン酸化酵素A型)遺伝子の活性が低い人は、セロトニンやドーパミンなどの神経伝達物質がなかなか分解されずに残ってしまい、それらの効果も持続するため、つねに浮ついた感じになったり、攻撃性が高くなったりする。

●ADHDの人も、MAOAの活性が低い。

●ドーパミンを大量放出することとサイコパスの特性の相関。サイコパスの診断基準であるPCL-Rのスコアとドーパミンの最終代謝物であるホモバニリン酸の脳脊髄液中の値が高いことは関連している。ドーパミンが多ければ多いほど人間が報酬を求める欲が大きくなるので、大量放出する遺伝子を持つ人は強烈な刺激を求め、犯罪を犯す?

●遺伝とともに環境の影響の可能性。脳科学や神経科学の研究者は「遺伝的な要素が大きい」と判断しがち。社会学者や教育学者は、「後天的な要素が大きい」と判断しがち。

●遺伝と環境の相互作用説。神経科学者ジェームス・ファロンによる、サイコパスの発現についての「3脚理論」。ヾ窿歔案前皮質と側頭葉前部、扁桃体の異常なほどの機能低下 △いつかの遺伝子のハイリスクな変異体(MAOAなど) M直期早期の精神的、身体的、あるいは性的虐待
ファロンはこの3つが揃わなければ反社会的行動をするサイコパスにはならないと指摘する。

●現時点で言えるのは
・脳の機能について、遺伝の影響は大きい。
・生育環境が引き金になって反社会性が高まる可能性がある。

●今からは遺伝情報が当たり前のように取り扱われるようになっていくので、社会制度や法整備、遺伝に関するリテラシー向上をはかるべき。また虐待や劣悪な環境を避けることで反社会性の発現のいくらかは抑えられるという研究があるので、社会全体として施策を行っていくべき。

●サイコパスが人類を進化させた可能性。前人未到の地への探検、危険物の処理、スパイ、新しい食糧の確保、原因不明の病気の究明や大掛かりな手術、敵国との外交交渉など。

●「良心」とは「うしろめたさ」である説。マーサ・スタウトによれば、自然に湧いて出るうしろめたさや心の痛み、善悪や美醜の判断などを担う領域である内側前頭前皮質に良心が存在するのだという。

――内側前頭前皮質、以前にこのブログでは「自己観」と「規範の学習」を担う領域として登場した。善悪や美醜の判断も担うんだそうだ。そういうものも一体なのね。――。

●「サイコパスには良心がない」とは、彼らの内側前頭前皮質が機能不全を起こしているということ。


●倫理や道徳とは、人類が生きていくために後付けで出現したもの。それは脳の発達段階からもわかる。良心をつかさどる前頭前皮質と扁桃体のコネクティビティが他の部分に比べて遅れて発達するということは、進化の過程において絶対に必要な原始的な部位が完成した後に、いわば「建て増し」のような領域としてできた部位だと考えられる。

●サイコパスが生きやすい環境とは、たとえばブラジルのアマゾン南部の先住民族、ムンドゥルク族。男たちは雄弁、恐れ知らずの勇敢さ、戦闘に秀でていることが求められ、日ごろから「俺はこれだけ危険な男なんだ」と大風呂敷を広げてアピールしあう。その他良心の欠如、表面的な愛想の良さ、言葉の巧みさ、節操のなさ、長期的な人間関係の欠如という特徴がある。

●またブラジル北部からベネズエラ南部にかけて住むヤノマミ族は、争いが頻繁に起こる。男性の死因の30%がなんと暴力によるもの。25歳を超える男性の44%に殺人の経験がある。殺人をすることで集団内での地位が上がり、殺人を犯したほうが妻の数も子どもの数も多い。

●対照的なのが南アフリカのカラハリ砂漠の狩猟採集民、クン族。食糧に乏しく生存に困難な生活条件に置かれているため、共同で狩りに行き、成果は平等に分配される。ウソは厳しく禁じられ、一夫一婦制、子どもは一族で面倒をみる。

●男性にはアルギニン・バソプレッシンの受容体の遺伝子のタイプによって、生まれつき愛着を形成しやすい人と、しにくい人の2タイプがいる。後者では妻の不満度が高く、未婚率、離婚率が高い。

●日本は国土面積は全世界の0.25%しかないが、自然災害の被害総額では全世界の約15〜20%を占める。すると集団内での協力体制が強固でなければならない。夫婦はともにいて、子どもに対してもリソースを割くべき。こういう国ではサイコパスは育ちにくく生き残りにくいはず。


●韓国の新聞報道では「サイコパス」の語が頻出する。犯罪者や仮想敵を叩くためのレッテル貼り。伝統的な集団社会から、急速な経済成長で利己的で競争的な生き方が歓迎される社会へとがらっと変わった。頭では他人を出し抜くような生き方に適応しなくてはいけないと分かっていても、情動の部分ではそんな人間は許せないと感じてしまう。その軋轢が、過剰なまでのサイコパス呼ばわりと集団的なバッシングにつながった?

――おもしろい指摘。日本ではサイコパスバッシングというのはきかない。「承認欲求バッシング」がそれに当たるのだろうか……、特定の他人ではなく自分たちの中に普遍的にあるものをバッシングするというのがよくわからない(言っている人は、自分たちの中に普遍的にあるものだという自覚があるのかどうかもよくわからない)

 
●現代ではサイコパスはどう生きているか。口ばかりうまくて地道な仕事はできないタイプが多い。

――以前ブログ読者さんの指摘で、そんな人格の人が会社をひっかき回したお話が出てきたなー

●起業家として成功する勝ち組サイコパス。故アップルの創業者スティーブ・ジョブズはそう。ジョブズの周囲には「現実歪曲フィールド」が発生し、彼の話を聞くものは誰でもコロッと乗せられてしまう、と言われていた。

――なるほど、「驚異のプレゼン」はそうだったのね。

●”起業家のふりをしたサイコパス”(アメリカの産業心理学者ポール・バビアク)
1.変化に興奮をおぼえ、つねにスリルを求めるので、さまざまなことが次々起こる状況に惹かれる。
2.自由な社風になじみやすい。杓子定規なルールを重視せず、ラフでフラットな意思決定が許される状況を利用する。
3.リーダー職は他人を利用することが大得意なサイコパスにもってこい。スピードが速い業界や土地においては、メッキが剥がれる前に状況やポストが次々変わっていくことが幸いする。

●ママカーストのボス、ブラック企業経営者。

●サイコパスはとくに看護や福祉、カウンセリングなどの人を助ける職業に就いている愛情の細やかな人の良心をくすぐり、餌食にしていく。自己犠牲を美徳としている人ほどサイコパスに目をつけられやすい。

●サイコパスはネット上で「荒らし」行為をよくする。

●問題発言やわざと挑発的な言動をしてよく炎上し、しかしまったく懲りずに活動を続け、固定ファンを獲得しているブロガーにも、サイコパスが紛れ込んでいる確率は高いと考えれる。彼らは人々を煽って怒った様子を楽しみ、悪目立ちすることで快感を得る。

――なんか特定の人を連想したが、、、だからこの手の人について、「承認欲求がどうのこうの」という切り口を使うのは間違い。もともと脳の機能が普通ではなくて、ネットの存在で顕在化しただけなのだ。

●いうまでもなく、こうした人物の発言は、真に受けないことです。彼らの脳は、長期的なビジョンを持つことが困難なので、発言に責任を取ることができず、またそのつもりもなく、信じるだけバカを見ます。しばらく観察するとわかりますが、変節に呆れて旧来からのファンが離れた頃に、何も知らない人間が引き寄せられてまた騙され……の繰り返しです。

●オタサーの姫/サークルクラッシャー。後妻業の女。涙を流す女

――このあたりも特定の人をほうふつとさせる。

●サイコパスと信者の相補関係。人間の脳は、「信じるほうが気持ちいい」。人間の脳は自分で判断することが負担で、それを苦痛に感じる(認知的負荷)。また、自身の中で矛盾する認知を同時に抱えて不快感(葛藤)をおぼえると、その矛盾を解消しようと、都合のいい理屈をつくりだす(「認知的不協和」)。何かを信じたら、そのまま信じたことに従い、自分で意思決定しないほうが、脳に負担がかからずラクである。

●ネットでウソの検証手段が増え暴露装置である反面、ネットは同類の人間を即座に結びつけることができるツール。信者同士がすぐにつながり、クラスター化する。いったん信者たちから搾取できる宗教的な構造やファンコミュニティをつくってしまえば、崩壊することはまれ。

――これだなあ。わたしは過去にNPOで会員さんのコミュニティをつくろうと試みたが、わたしがやっているとどんなに頑張っても強固な信者組織はつくれないのがわかっていた。そのように働きかけることに気恥ずかしさがあった。「よそさん」と比べると脆弱だとわかっていた。

●サイコパスの診断法。ロバート・ヘアによる「PCL-R」。DSM-5による反社会性パーソナリティ障害の診断基準。心理学者ケヴィン・ダットンによるチェックリスト。

●サイコパスに治療法はあるか。1960〜70年代から治療不可能という研究が出ていた。これを受けてアメリカの刑事司法は厳罰化に傾くが、それも犯罪の抑止力にはならなかった。

●ある種の心理療法に限定すれば半分くらいのケースではサイコパスにも再犯抑止効果があった。集中的な1対1の治療を受けた群と通常の治療を受けた群では、その後2年間で後者の再犯率は前者の倍以上。

●サイコパス傾向の高い子どもの話を聞く、ほめる、毅然として叱るというやりかたを母親に訓練し実践させたところ、子どもたちがルールを無視するような傾向は減ったという報告(米サザンメソジスト大学のマクドナルドら)。

――これは行動療法プラス構造化ということではないのかな。

●サイコパスの多い職業トップ10。1.企業の最高経営責任者 2.弁護士 3.マスコミ、報道関係(テレビ/ラジオ) 4.セールスマン 5.外科医 6.ジャーナリスト 7.警官 8.聖職者 9.シェフ 10.公務員

●サイコパスの少ない職業トップ10。1.介護士 2.看護師 3.療法士 4.技術者、職人 5.美容師、スタイリスト 6.慈善活動家、ボランティア 7.教師 8.アーティスト 9.内科医 10.会計士

――知り合いにサイコパス的な人は少ないがそのわけがわかった。しかしわたしが親しくないだけで、研修講師にはサイコパスが多いかもしれない。魅力的なしゃべり手というのは。

●サイコパスは、100人に約1人という決して少なくない社会の成員。

●罰をおそれない人間からすれば、反社会的行為を抑制するために作られた社会制度やルールはほとんど無意味。別の手段によってサイコパスの犯罪を抑制・予防する方向へ発想を転換しなければならない。


――サイコパスとの共存。わたしにはほとんど想像すらできない。著者には想像できるのかな。

 ふだんあまり読まない著者だったがさすがに売れっ子、うまくまとめているなあ。

 ともあれ「顔の幅の広い男性」には、気をつけましょう。一番大きな収穫はそこかも。


こんな風にも思った。
「サイコパス」とはほど遠いドンくさいわたしが、仕事の世界を幸せにする手法を編み出しこの歳まで生きてきた。この人生、もうそれで十分ではないか。

認められたい表紙


 ネット時代の「承認欲求」について語らせたら第一人者、Dr.シロクマこと精神科医・熊代亨氏の新著『認められたい』(ヴィレッジブックス、2017年2月28日)が出た。
 表紙の可愛らしい男の子と女の子のイラストの目がまっすぐにこちらを見てくる。(本を読まない時代、「イラスト」の存在は大きいですね。)

 「私は精神科医として、一人のインターネットマニアとして、私自身と他の大勢の人々の『認められたい』気持ちと、その気持ちに引っ張られた人生模様を観察し続けてきました。」
と、熊代氏は書く。
 きわめて大きな切り口だ。ネットで否応なく肥大した承認欲求の観察というのは。
 (アメリカではそれを「ナルシシズム」という文脈で考えているようにみえる)

 わたしはちなみに、承認を長くやっていますがここまで丁寧に「承認欲求」を観察していない。多くの人がそうであるように「承認欲求」の観察というのは気恥ずかしいものだ。自分の奥のほうがくすぐったい感じがする。熊代氏はそれを本書で入念にやっている。自身、精神科の患者さん、そしてネットユーザーと3つの視点で。

 では心に残ったところを抜き書きします。

●承認欲求を持っていない、例外はいるものでしょうか。
 …たとえば統合失調症で長期入院している患者さんのなかには、仙人のような心持で過ごしている人がいなくもないのです。しかし、精神医療の世界でさえそういった人は例外中の例外で、褒められたがりな人にはたくさん遭遇しますが、褒められることに興味の無い人は非常に少ないのです。

●何かを学びたい・身に付けたいと思った時、承認欲求を充たせるか否かはとても重要です。

●承認欲求の時代がやってきた。企業の雇用も流動化する現代には、滅私奉公を良しとする所属欲求の強い心理よりは、他人から褒められたり評価されたりしてモチベーションを獲得するような、承認欲求の強い心理のほうが都合がよかったとは言えるでしょう。

●ネットでいかにも承認欲求を充たしたくて頑張っている人。なにか気の利いた事を書いて「いいね」や「リツイート」を集めたがっているツイッターアカウント、グルメや観光地の写真をせっせとアップロードして「いいね」をもらいたがているFacebookアカウント。ユーザーの褒められたい欲求を充たしやすく、刺激しやすいようなシステム上の工夫。

●変化は2000年代の中ごろから。ネットコミュニケーションは匿名アカウントから個人のアカウントへ。

●情報の真偽には注意を払わない。大半の人は自分がどれだけ褒められ、他人にどんな風に評価されるのかに心を奪われながら使っているのではないでしょうか。


――「承認欲求」の「レベルが高い人」と「レベルの低い人」がいる、と熊代氏。

●レベルの低い人の事例1。始終認められたい、評価されたい。「認められなければならない」があらゆる人間関係に付きまとっていて、身も心も休まる時間がありません。

●レベルの低い人の事例2。大学で演劇部にのめりこみ、次いでオンラインゲームにのめりこんで、そこで目立てるからやめられなくなり、留年確定。

●「承認欲求は貯められない」。この点でお金より食欲に似ている。いっぺんに沢山充たしても定期的に充たさなければ、じきに飢えてしまう。また注目や承認を繰り返していると、充足感を実感するためのハードルが高くなってしまいがち。

――食欲の比喩はまた出てきましたね

●承認欲求が低レベルな人の類型。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)承認欲求が強すぎる人 3)褒められ慣れていない人 4)褒められどころの“目利き”が下手な人 5)承認欲求が承認義務になってしまっている人。

――こうした類型を知っておくと、実際にそうした人に遭遇したときに役に立つ。本書では熊代氏独自の類型が多数でてくるが、その思考の緻密さに驚く。

●承認欲求を充たすにはどうしたらいいか。オンラインゲームに時間をつぎこむ、Youtube等で肌をさらす、ホストクラブやキャバクラに行く。そうした充たし方は代償が大きすぎ、お勧めしない。

●承認欲求の充たし方が上手な人は、「褒めたり評価してくれる人にきちんと“お返し”をする」能力に長けている。40代〜50代の人たちにはこういう人がゴロゴロいる。

――うちの受講生さん方などはこういう人たちだろうな。

●承認欲求を抱えているのは自分ひとりではない以上、自分だけではなく、周りにいる人達も承認欲求が充たされるような、いわば認め合いのエコサイクルを成立させるほうが、結果として幸福な状態を維持しやすいはずです。

――「認め合いのエコサイクル」いい言葉だ。
 わたしが本を書くばあいは、出発点がここから始まる。対象者はいつも大体40代以上の管理職だ。その人たちにここまで「承認欲求」について話してあげることはしない。
 なぜかというと、やや言い訳めくが、「認め合う」ことを実現するためには「認める」という行為をしなければならなくて、その行為にもそれなりに練習が必要なのだ。40代以上の男女は、仮に会社で言われたから、マネジメントを上手くいかせたいからといった即物的な動機でもいい。まずは「認める」ということにスポーツトレーニング的に取り組んで欲しいのだ。細かいことはそのあとで「つかんで」もらえるだろう、と思っている。ただしそうやって彼(女)ら自身の学習能力に期待ばかりしているので、わたしはここまで丁寧に言語化する作業をおこたってきた。

●私は、承認欲求を“独り勝ち”的に充たせる状況を夢見るのは、危なっかしいと思っています。…私には、街でまずまず幸せそうに暮らしている人達の大半は、自分ばかりが褒められたがる人ではなく、周囲の人達と認め合える関係をつくりあげている人にみえるのです。


●昔の日本人は所属欲求で回っていた。承認欲求のレベルの高い人の例、家ではマイホームパパであり会社の付き合いも上手にこなす。所属欲求と承認欲求を両方うまく使っている。

●社会のすべての人が自分自身が褒められること・評価されることでしか心理的に充たされなくなったら、どうなってしまうだろうか。部分的にはそうした世界がある。お受験にわが子を駆り立てる親などもそう。

――『嫌われる勇気』の中心読者層が30-40代男女だ、というのも思い浮かべた。恐らく「自己啓発本のヘビーユーザー」と「お受験親」がまじりあっているであろう。お受験も、みんながみんな勝者になれるわけではなく、国立小を目指しても倍率は5倍だから5人に4人は敗者になる。そんな負け気分のとき、「人生の悩みは対人関係の悩みである」「他人の評価を気にする必要はない。承認欲求を否定せよ」の教えには、ほっとするであろう。
 熊代氏はそうしたベストセラーのことを挙げつらってはいないが、部分部分で「ベストセラーの謎」にうまく“回答”してくれている。

●所属欲求には、「自分自身が褒められたり評価されたりしなくても、心を寄せている家族や仲間や集団が望ましい状態なら、それだけでも自分自身の気持ちが充たされ、心強くなる」という性質があります。ほとんどの人間関係が承認欲求だけで成り立っているのではなく、こうした所属欲求も含んでいるからこそ、人間は家族や集団をつくり、お互いを信頼したり敬意を払ったりしながら、長く付き合っていられるのではないでしょうか。

●所属欲求にも、「低レベルな人」がいる。それは「承認欲求が低レベルな人」とも重なるという。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)「ひとりが一番」な人 3)「我々はかくあるべし」と思い込む人 4)完璧な人間を追いかけている人 5)いつも減点法の人

●承認欲求や所属欲求をうまく活かせる人と、そうでない人は、人生の難易度も幸福感も断然違ってくる。人間関係は私たちが思っている以上に、承認欲求や所属欲求のレベルに左右される。

●「認められたい」はレベルアップできる。

●子どもや若者は承認欲求や所属欲求のレベルが低い。たとえば保育園や幼稚園に通っているぐらいの子どもは、自己中心的に出しゃばり、褒められたがるもの。思春期の男女も、“中二病”や“意識高い系”のように安易に自分自身を特別だと思いたがる。

●「認められたい」のレベルアップが進んでいる人は、日常の挨拶などからも、承認欲求や所属欲求を充たすことができる。

●コフートの主張「自己愛は生涯にわたって成長し続ける」

●コフートの考えたレベルアップ―「変容性内在化(transmuting internalization)」、雨降って地固まるの経験。他人に期待した「認められたい」が充たされなくて失望しかけても、その辛さがあとで理解してもらえたり、仲直りして次の機会にはまた気持ちが通じ合えたりするなら、自己愛は成長していく。

●コフートによると、“適度な欲求不満”があるくらいの関係が良い。いつもいつも承認欲求を充たしてくれるとは限らない。

●「認められたい」のレベルアップをしたいなら、“雨降って地固まる”が成立し得る人間関係を大切にし、そのような人間関係に発展する目をつまないこと。多少の摩擦を含んでいても、お互いに「認められたい」をまずまず充たし合えるような人間関係を長続きさせること。

●ネットコミュニケーションを通じてのレベルアップは可能だが、時々会う機会ももつこと。

●認められたいあまり四六時中LINEやSNSにはりついているのは考え物。LINE疲れやSNS疲れに陥りやすく、疲れの蓄積はメンタルヘルスにもよくない。

●思春期の子どもの「認められたい」を親が充たしてやるのは役不足になる。外の関係を築くのが望ましいが、外の関係で傷ついて帰ってくる場合もある。躓いた子供に手を差し伸べられるのはやはり親。この時期の子の親は「裏方」として重要。

●「認められたい」のレベルアップを男女間の関係で行うのは難しい。多くは、「認められたい」のレベルが低い同士がくっついてそれぞれ異なるかたちで「認められたい」を充たそうとする。

●選択の自由が与えられた人間は、意外なほど似た者同士でつるみあう。

●「認められたい」のレベル差を挽回するのに重要なもの。コミュニケーション能力。

●コミュニケーション能力を高めていくときの重要な基礎。
1.挨拶と礼儀作法
2.「ありがとう」
3.「ごめんなさい」
4.「できません」
5.コピペ
6.外に出よう
7.体調を管理しよう
 そして時間をかける。

●友人・家族・会社の同僚との日常的な人間関係で満足している人。コミュニケーション能力は、有名人からではなく、そういう人からコピペすべき。

●ほとんどの人間にとっての幸福は、際限のない承認欲求や、カルト的な所属欲求に支えられるのではありません。もっと身近で、もっと少ない人数で、人間関係の持続期間が数年〜数十年単位の、そういう人間関係が、人間に幸福をもたらします。そのような「認められたい」の繋がりを、世間では「愛」や「友情」と呼ぶのでしょう。

●ヤマアラシのジレンマ。人間関係は近ければ近いほど傷つけあってしまう。

●親子関係のヤマアラシのジレンマ。子育ては核家族単位で行われるため、小学校以上の子どもの面倒まで、親がみる。親子間の距離が近い。「毒親」もそうした背景から生まれやすい。

●親は、子育て一本槍の生活や人間関係を改めて、他の人間関係に「認められたい」の供給源を見出していくこと。

●新しい人間関係ができるたびに相手に急接近してしまい、「ヤマアラシのジレンマ」を繰り返してしまうパターンの人が気を付けたほうがいいのは、「むやみに仲良くならないこと」「新しい関係をむやみに理想視しないこと」。

●あらゆる人との心理的距離を遠くする処世術には、以下のような欠点があってお勧めしない。
1.人と心理的距離の遠い生活をしてきて何かの拍子に近い人間関係を経験すると、距離感がわからなくて心理的距離を詰めすぎてしまい、しんどくなる。
2.スキルを磨きにくくなってしまう。
3.「認められたい」そのもののレベルを上げることも難しくなってしまう。


 抜き書きはおおむね以上。

 本書の中で熊代氏自身言っているように、本書に書かれていることは統計でエビデンスをとったものではなく、精神分析的でもあり、わるくいえば「印象論」である。ただそれが説得力があるのは、氏がきわめて膨大なネット世界の見聞やサブカルチャーの知識を持って発言しているからであろう。

 そこここに独自のパターン帰納がみられ、その観察と分析のきめの細かさに驚く。間違いなく、この分野で後々まで残る1冊となるだろう。

 若者だけでなく、若者を監督したり育成する立場の人、自分自身も承認欲求の使い方が今ひとつわかっていないという自覚のある人には、ぜひお勧めしたい。





 「トラウマは存在しない」というフレーズについて、
 女性や子どものトラウマ治療を多く手がけ、『赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア』(アスク・ヒューマンケア)などの著者である精神科医、白川美也子氏からコメントをいただいた。白川氏のクリニック「こころとからだ・光の花クリニック」のFBページのブログにて。

 ずしんと持ち重りのするような、最前線の治療者からのコメント。
 ご了解をいただきこちらにも転載させていただきます。

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【院長ブログ:ほんとうに「トラウマなんて存在しない!」のか?】

正田 佐与 (Sayo Shoda)​さんから「嫌われる勇気」という本を契機にしてアドラーの言葉として一人歩きしている「トラウマなんて存在しない」という言葉に関する2つの質問をいただきました。

【正田佐与の愛するこの世界】
http://c-c-a.blog.jp/


とても重要な問題だと感じたため、以下に考えたことをまとめてみました。

1.「トラウマは存在しない」という言葉は、現にトラウマに苦しむ人にとって二次被害になることはありえますか。

→文脈によって十分あり得ると思います。

2.「トラウマは存在しない」という言説に対してどのようなご感想をお持ちになりますか。快、不快でいうとどちらになりますか。

→これも文脈によります。実際「嫌われる勇気」は拝読しておもしろいなと感じ、クリニックの書棚においてあるくらいです。ただ正田さんのブログを拝読し、アドラーは、実際はそんなこと(「トラウマなんて存在しない」)とは言っていない、という詳しい検証を見せていただき、それはまた別の重要な問題だと思います。また、以前ある心理臨床家の論文に「トラウマは存在しない」という文章を見つけて、それは、心理療法全般におけるトラウマ治療の否定だと感じたため不快であり、問題を感じたことがあります(その論文がどうしても見つけられません)。

以下にどうしてそうお答えしたかということの説明を書きます。

よくトラウマ・ケアのトレーニングのときに、使う比喩ですが「俺、失恋してさ、トラウマになっちゃってさ」という男の子が、6ヶ月後には別の女の子と楽しくしていたら、それはトラウマではないという話をします。そのときにそのときのガールフレンドの記憶は既にセピア色のものになっているでしょう。

トラウマ記憶はそんなものではありません。どれだけ時間がたっても生々しく鮮明に甦ります。〔技間性、∩杁に苦痛な情緒を伴う、8斥佞砲覆蠅砲い、という3つの大きな特徴をもちます。ここに私が書く<トラウマ>の定義はPTSDの診断基準Aに該当する重篤なトラウマです(子どもは別ですが話が難しくなるのでまた別の機会にします)。

トラウマ記憶の実体はこれも比喩でしかありませんが、特殊なメモリーネットワークということができます。PTSDや、その他のストレストラウマ性疾患として現れることもあれば、再演なども含め、行動パターンとしてその人の人生そのものに影響を及ぼすこともあります。

そして、その様態は、その人が置かれた状況や体験、回復レベルなどで刻々と変化していきます。最終的には、ある体験が、現在から振り返ると、非常にそこから学べるよい体験だったと結論できることもできます。

ただ問題は、「そのこと」をどう捉えるかは、その時、その人にしか定めることができないものであるということです。すなわちトラウマ問題は、経験したことがない人は理解しにくいということも含めて、一般論では語りにくい問題であることは間違いないと思います。

そして、トラウマをどう捉えるか、ということについての治療論(目的論と原因論)の異なりと、トラウマがあるかないか、ということの混同が、話をより複雑にしています。

密かにファンであるゆうメンタルクリニックの漫画にアドラー心理学の説明として、目的論と原因論についてわかりやすく述べられています(ただし、再度書きますが、正田さんによればアドラーは「トラウマなどない!」とは言っていないそうです)。

http://yuk2.net/man/110.html

原因論と目的論の違いは、.肇薀Ε淆慮海砲茲辰鴇評が出ていることを重用しする(それに気づくこと、そこになんらかの操作を行うことで変化が起きる)、▲肇薀Ε淆慮海砲茲觚絨箴匹鮟纏襪垢襪茲蠅癲¬榲にむかってどういう対処を取るか・どういう考え方をしていくかが重要だと考えるーこの違いだと思いますが、多くのトラウマを診る臨床家はその2つの考えを柔軟に自分の臨床に活かしています。

たとえば、私であれば、通常の診察では感情に焦点をあてながら未来志向・解決思考的なソリューションフォーカストの話法を中心に問題解決を行ないつつ、リソースを形成し、対処スキルを増し、それでも課題がある場合、長めの時間をとってトラウマ=特殊な記憶ネットワークの処理を特殊技法で行う、というように、治療上の文脈に応じて様々な介入をしていきます。そうやっていろいろやっても治療が難しいのがトラウマサバイバーの治療なのです。

多くのトラウマに焦点をあてる治療を行ったことがなく、かつトラウマ治療を批判するセラピストは、トラウマ治療というのは、「過去にこだわる治療」だと考えているのだと推測します。

「赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア」に書いたようにトラウマの処理とは、患者の過去を癒すのではなく(実際にどうやっても過去に起きたこと自体は変えることができない:過去そのものを癒すことはできない)、そのような体験をしたことによってトラウマ記憶が生じ、それが患者の「今ここ」に影響を及ぼしていることに変化を及ぼして行くわけです。

多くのトラウマを重視しないと述べる治療者が、重度のトラウマを経験した方の治療経験を欠き、トラウマ治療の実際を知らないという現実が、さらに問題を大きくしています。

実際のトラウマ記憶に苦しむ患者を診たことのある治療者は、その生物学的なレベルで残る後遺症が、どれほど患者が「今ここで」を幸せに生活して行くかを阻害するかを知っています。

人の苦悩に対してどういうアプローチをするのか、<原因論を取るのか、目的論を取るのか>ということと、<トラウマがあるのか、ないのか>という考えを混同しないでほしいと思います。

自分の治療的な立場が目的論<のみ>で(実際にそれでいけるということは、素晴らしいセラピストであるか、重篤なトラウマサバイバーの治療を行なったことがないか、あるいは壮絶な被害を体験した直後の方にも出会ったことがないか、のどれかであると思われます)あったとしても、もし、その治療法のみでうまくいっていたとしても、一般的に「トラウマという現象がない」というような安易な机上の論考をしないでほしいと切に願います。


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 非常に「熟考」してくださった白川氏。丁寧に完成度の高い文章として、コメントを執筆してくださった。この記事は既に10数件「シェア」されている。
深く感謝します。
 
 実は、心底「この件でコメントをいただいて良かった」と思ったことが、白川氏のこのご投稿の直後にあった。投稿についた読者コメントの中に、こういうものがあったのだ。

「患者さんがアドラー関連書を読み、トラウマがないなら今の私は何に苦しんでいるんだと混乱されていました。
正しい知識が広まることをねがうばかりです。」

 やはり、あるのだ。


 このところの見聞で、『嫌われる勇気』のコアな読者層は自己啓発本のヘビーユーザーの読者層なのであろう、その層にだけ通じる言語で書かれているのであろうと思っているのだが、

 それがすでに155万部の「国民的」ベストセラーとなり、一人歩きしている。書かれている文言も一人歩きする。

 そうなった今、”実害”も既に出てきているのだ。

 もはや、「若者世代の軽口」と見過ごしていい段階ではなくなった。


 というわけでこの問題の追及はまだまだ続きます。。


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 そんななか、正確には今月22日、当ブログは通算来訪者40万人の大台に乗った。ブログ開始から40年、じゃなかった12年。

 ベストセラーと比べ一けた少ない(泣笑)けれど、ここまで支えてくださった読者の皆様に感謝。





 

 ブログ読者の40歳女性、NYさんからメールをいただいた。
 ちょっと疲れ?が出ているわたしには涙が出るほどありがたかった。

 ご了解をいただき2回のメールをご紹介させていただきます。

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岸見氏の講演参加、また質問状のやりとりお疲れ様でした。
講演中、嫌なストレスをお感じになりませんでしたか?
ご体調に悪影響かないか少々心配しております。
くれぐれもご無理はなさらないでください。

正田先生が火中の栗を拾うかのように、
アドラー批判をはじめ正しく現実的な情報を発信してくださっているのに、
なかなか有益なお手伝いが出来ず、申し訳ありません。

個人的には野田俊作氏がおっしゃる、理論と技術の違いとう部分を納得しました。
身近に医者しかも外科医がいるからかもしれませんが、
理論がわかっても技術が追いつかないと、手術はできません。
手技が下手な外科医は、いくら理論を知っていても、患者の命を危険にさらします。

そういう意味で、岸見氏は理論家(それも正田先生の分析によれば、それもあやしいですが)なのかもしれませんが、
その理論は手技を伴わないものだということ。
そう考えると、あの本の位置づけわかった気がしました。

「嫌われる勇気」は空想の話=フィクションで、現実世界に適用できるものではない。
だが、なぜか読者のほうが現実世界に適用できると勘違いして、
(あるいは勘違い生むように岸見氏他の関係者は振る舞っている?)
その勘違いを誰も訂正しないまま、今に至っている。

アドラーのような自己啓発とも重なる分野の話は、
その性質上、理論と実践の整合性をチェックすることが難しいのだと思います。
そんな中、正田先生が反証や検証をしてくださっていることは
本当にありがたいことだと思います。

嫌われる勇気のような本が売れる背景を思うとき、
現代社会の問題の深刻さを考えてしまいます。
中庸を忘れ、多様性や寛容さといった人間の知性やあるいは思いやりを軽んじるような風潮が人の心を浸食している気がします。
嫌な世の中ですが、そういう現実を変えて行くのもやっぱり一人一人の心と実践なので、
行動承認の実践は、善い変革のもとになる1つの大きな実践と思います。
「まずは、ささやかでもできることから」を、自分も心がけたいと思います。


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正田先生

お世話になります。

メールのブログへの掲載、どうぞお使いください。
お返事がおくれてすみません。

ブログやメルマガの読者の多くの方が、
私と同じような想いを感じていらっしゃると思います。

その後の、著者、編集者の皆様のお返事をよませていただくと、
正田先生の質問に正面から回答することはさけていらっしゃるようなので、
たぶん、彼らの視界には、先生が指摘されている深刻なトラウマを抱えた少年だったり、
あるいは褒め育てて成果をあげている教師や組織のマネージャー層というのは
全く入っていないのだと思います。

また幸福や自由、あるいは勇気についても、
例えば貧困や虐待、あるいは戦争、人種や宗教による差別、
などの理由によってそれらを享受することが不可能な人々にとっての幸福や自由、
あるいは勇気については考えが及んでいないのだと思います。

なので、「誰もが」の意味するところが、先方とこちらでは乖離していて、
議論の前提が噛み合ないのではないでしょうか。

私は、やはり「誰もが」の中には、
やはり貧困や虐待、あるいは戦争や差別に苦しむ人が含まれているべきだと思いますし、
もしそういう人々が対象者に含まれないならば、
誰もがという表現を使うことは不適切にも感じてしまいます。

そういう部分にそれほど過敏になる問題ではないと言う意見が大半なのかもしれませんが、
正田先生のおっしゃるように例えば公教育だったり、社会的に影響力の大きい組織や団体が、
弱者に対する眼差しを欠いた思想を積極的に採用することは危険だと思います。
そういう意味では、やっぱり今の状況はかなりおかしい、危ない状況にも思えます。

私はアドラー心理学も、教育も門外漢なので、的外れなことを考えているのかもしれませんが、
私のように感じるものの先生の読者の中にはいるということをお伝えすることが
少しでも先生のパワーにつながるといいのですが。


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 NYさん、ありがとうございます。しっかりパワーになっていますよ。

 気がつくと「独走状態」なのである。「アドラー心理学批判」では。
 今月初めからGoogle1-4位独占、Yahoo!1-6位独占になり、その状態が続いている。

 新聞はじめ大手メディアは2月10日に日本アドラー心理学会のフジテレビへの抗議文掲載を報じたあと、また「だんまり」になっている。
 出版界、広告料への気兼ねだろうか。

 だから「独走」していてもしょっちゅう考える。本当に正しいことをやっているのだろうか?わたしの独りよがりではないのか?

 そういっているうちに豊中市の国有地の学校法人「森友学園」にたいする売却価格の問題と、同学園の認可が下りない可能性が報じられた。

 結びつけるのは強引すぎるかもしれないが、「おかしい」と感じたことはおかしいと言わないと。今、そのセンサーが「いいね!」や「ほめない叱らない」「怒らない」のはんらんでで皆さん弱っているのかもしれない。


 
 いろんな形でお友達が支援してくれる。NYさんのようにご感想を寄せてくれる人、アドラー関係の催しに「潜入ミッション」をするわたしにイベントの案内をしてくれる人、そしてFacebookで「いいね!」をつけたりコメントしてくれる人。


 そしてここまで、当ブログに貴重なコメントをくださったトラウマ支援者の方、精神科医、小児科医の皆様、ありがとうございます。









 表題の通り、『嫌われる勇気』の編集者、(株)コルク 柿内芳文氏より当方の質問へのご回答をいただいた。
 心の準備をされていたのか、若干丁寧な文面だった。

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正田佐与様

先日は不在で電話に出れず、たいへん失礼いたしました。
『嫌われる勇気』および『幸せになる勇気』の編集を担当した、コルクの柿内芳文と申します。
このたびはご質問をいただき、まことにありがとうございました。

わたしは編集者として、「自由」や「幸福」、また「勇気」をテーマに、わたしたちが幸せに生きるための提案のひとつとして、両書を出版したつもりです。
また、現在たくさんの読者の方々からご支持いただいている理由も、わたしたちの真意が届いた結果ではないかと受け止めております。
ご意見、ご批判は真摯に受け止めたいと思いますが、そうしたわたしたちの制作意図をお酌みとりいただけますと幸いです。
なにとぞ、よろしくお願いします。 柿内拝


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 「自由」や「幸福」、また「勇気」をテーマに。

 かっこいい言葉だ。クリエイターなら誰しも一度は言ってみたいであろう。

 ともあれ、二人の著者・編集者計3氏の回答はこれで出揃った。




 柿内氏の回答内容とは別に、このところモヤモヤしていること。

 質問リストに書いたように、社会の分断は本の作り方、いやクリエイティブな仕事全般に現れているのだろう。

 本が読まれない。だから今の出版界でメガヒットを作ればそれは間違いなく出版社の功労者で、
 「ヒットを作ればいいんだろ」という「勝てば官軍」の姿勢にもなる。

 またヒットが出ると、
「これ本当は問題はらんでるよ。ほどほどのところで撤収しようよ」
というような「慎重論」は出てこず、韓国へ台湾へ中国へ「アドラー女子」へTVドラマへ、ガンガン売りまくる。

 そして怖いのは、本というメディアが今読む人・読まない人にくっきり分かれているために、
 「本を読まない層については何を書いてもいいんだ!」
という姿勢になるかもしれないこと。たとえば「トラウマは…」のように(本当にそうなのかどうかわからないが)

 それは当然、差別の固定化・激化にもなるだろう。

 「今までにない、新しい切り口」
ともてはやされるものが、実は単に自分と異なる層への想像不足なだけで、見る人が見ればとんでもないものかもしれない。単に良識的なクリエイターがそこまでやらなかった、というだけの。

 こんなことを考えるのがわたしだけなのだろうか、出版界のことだけに相互批判が生まれにくいのだろうと思うが、ちょっと怖い。


 来ないかと思っていたら古賀史健氏(『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』共著者)から、本日ご返信が来た。

 内容的にはほぼ、先日の岸見一郎氏と同様の文面。

ダイヤモンドオンラインのこちらの記事などによれば、古賀氏が岸見氏に『嫌われる勇気』の企画を持ちかけ、10数年越しで実現したのだという。

 古賀氏の回答内容から紹介させていただこう。


正田様

先日はお問い合わせありがとうございました。『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』共著者の古賀です。
ご質問の中、初めて耳にするようなお話も多く、幾分困惑しております。ただ、さまざまなご意見に対するわれわれの思いは、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』両書の中で述べられており、特にこれ以上申し上げるべきことはないように思われます。われわれとしましては、両書を「人は誰でも幸せになることができる」「勇気をもって一歩を踏み出そう」という希望的なメッセージを届ける本としたつもりです。
正田様のご著書が有益な一冊となりますことを祈念しております。

古賀史健



 ちなみにわたしからの質問状は9問で、先日の岸見氏に宛てたものより少し詳しくなっている:

株式会社バトンズ
代表取締役社長 古賀史健 様

はじめまして。先ほどはお電話で大変失礼いたしました。わたくしは正田と申します。神戸に住む研修講師兼ブロガーです。『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』とそれらが生み出した社会現象について調べ、書籍にまとめさせていただこうとしております。
共著者である古賀様に、お忙しいことと存じますが、ご質問をさせていただきたいと存じます。以下のご質問にお答えいただければ幸いです。
(すべてが難しくても、答えやすいご質問にだけでもお答えください。)

1.『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(以下「両書」と略)の中で「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」など、読む人の置かれた状況によっては非常に残酷な言葉が使われています。このことについてどうお考えですか。

2.「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」は、既にネットやメンタルクリニックのキャッチフレーズ、常識のウソ本などで二次使用、三次使用されています。このことについてどんなご感想をお持ちになりますか。

3.両書に出てくるフレーズで、上記の2つを含め、アドラーが実際には言っていない言葉や、実際に言ったのとはほど遠い言葉が多数あります。本を作るにあたってアドラーの原著を参照して確かめるということはなさらなかったのですか。

4.「承認欲求を否定せよ」は、まともにその通りやると抑うつ的になるだろうという精神科医からの指摘があります。また「トラウマは存在しない」というフレーズは、現にトラウマに苦しんでいる患者さんが二次被害に遭ってしまう可能性があり、いずれも深刻な事態を招くおそれがあります。こうした本を作りアジア各国で400万部も売ったことについての社会的責任についてはどのようにお考えですか。

5.岸見一郎氏の『アドラー心理学入門』『アドラー心理学シンプルな幸福論』(いずれもベスト新書)では、まだ「承認欲求を否定せよ」という言葉は入ってきていません。この語を『嫌われる勇気』に入れるよう進言されたのは古賀様ですか。またそれはなぜですか。

6.『幸せになる勇気』では「ほめ育て」について、独裁者の武器であるかのように言っている箇所があります。全国にはほめる教育で成果を上げ、ひたむきに従事している多数の先生方がおられますが、その先生方の心を傷つけることはご想像されませんでしたか。

7.『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』がともに、深刻な状態の弱者を視野に入れておらず、「社会の分断化の象徴」という見方をされることについてはどんなご感想をお持ちになりますか。

8.韓国での熱狂的な歓迎にみられるように、「経済的に深刻な状態の国の抑圧された若者にとって絶望を固定化させる書物だ」と見られていることについてはどんなご感想をお持ちになりますか。

9.最終的に、両書はどんな読者にどんなメッセージを届けたいというコンセプトでしたか。

以上
ご質問は以上です。何卒よろしくお願いいたします。


 質問状を送ったのは13日だったので、1週間後に回答がきた。

 

 ちょうどこれと前後して、日本アドラー心理学会からもご回答がきていた。

正田佐与様

ご返信がおそくなり、申し訳ありません。
当方の状況についてご配慮いただき、感謝申し上げます。

さて、ご依頼の件について、理事会にて検討させていただきました。
結論としては、取材はお断り申し上げます。
理由は、当学会はテレビドラマ『嫌われる勇気』について株式会社フジテレビジ
ョンに抗議をいたしましたが、岸見一郎氏の学説そのものについては、現段階で
は態度を保留しております。したがって、これについては公的な立場でコメント
できることはありません。また、テレビドラマ『嫌われる勇気』に対する抗議内
容は抗議文に書いた通りで、それ以上コメントすることはございません。従いま
して、取材していただいても、お答えできる内容がございません。

ご期待に添えず、申し訳ありません。


日本アドラー心理学会会長
中井亜由美


*******************************************
日本アドラー心理学会
〒532‒0011 大阪市淀川区西中島3‒8‒14‒502
TEL:06‒6306‒4699 FAX:06‒6306‒0160
Mail:lem02115@nifty.com
*******************************************



 というわけで、取材へのガードは固い。
 でも理事会にもかけていただいたということだし、当方の真摯さは理解してくれたようだ。


 ”宿題”は少しずつやっている。

 きのうは急に下血してしまった。お友達に「もう免疫つきましたから〜」などと言っていたが、ちょっとストレスだったかな。





 




※先ほど、誤ってタイトルをデフォルトにしたままメルマガを送信してしまい
ました。読者の皆様には、ご不審に思われたのではないかと思います。改めて
タイトルを変更したものを送信させていただきます。メール受信件数を余分に
増やしてしまい誠に申し訳ありませんでした。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ・・・……<<<エウダイモニア通信>>>……・・・
発行日 2017.2.20
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ※「エウダイモニア」は「幸福」、また「栄える」という意味のギリシア語
です。
 「業績1位」の山を築いてきた承認マネジメントの研修講師・正田佐与が、
経済的繁栄を含めたわたしたちの「幸せ」についてご一緒に考えるメルマガで
す。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントや
セミナーにご来場いただいた方にお送りしています。
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 ┃本日の話題 ☆☆☆☆☆
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【1】 アドラー心理学特集:
     Yahoo!トップ6、Googleトップ4達成。
     これが最先端の「アドラー心理学批判」だ!
     岸見一郎氏、野田俊作氏とのやりとりも収録。

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【1】 アドラー心理学特集:
     Yahoo!トップ6、Googleトップ4達成。
     これが最先端の「アドラー心理学批判」だ!
     岸見一郎氏、野田俊作氏とのやりとりも収録。

 アドラー心理学をベースにした人生論の書『嫌われる勇気』とその続編、
『幸せになる勇気』。今月初め時点で、2冊合わせて日本・韓国・台湾・中国
で計400万部を超えるメガヒットになっています。メルマガ読者の皆様も手に
とられた方が多いでしょう。
 しかし、その内容に「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」など、
アドラーが言ってもいない「捏造語録」や、アドラー心理学としても一般的で
ない、かつ人の心身にとって有害なことが多数含まれている…ということは、
まだあまり広く知られていません。
 今月10日には、同書を原案とした関西テレビ系ドラマ「嫌われる勇気」が、
「アドラー心理学に対する誤解を招くおそれがある」と、日本アドラー心理学
会からの抗議を受けています。
 わたくし正田は昨日、兵庫県教委播磨東教育事務所・加古川市教委・加古川
市PTA連合会の共催による岸見一郎氏の「アドラー心理学講演」に約1年ぶり
に行ってまいりました。
 そこでは、同氏が相変わらず「ほめない叱らない」という、非科学的な子育
てのお話をしていました。
 大新聞やTVはアドラー心理学と『嫌われる勇気』を礼賛するばかり。一方、
拙ブログ「正田佐与の愛するこの世界」での「アドラー心理学批判」のシリー
ズ記事は検索エンジンから高く評価されており、本日現在、Yahoo!でトップ6、
Googleでトップ4にランキングされます(いずれもPC版)。
 昨日未明は、下記のように岸見一郎氏本人から、不完全なものですが質問へ
の回答を受け取りました。「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」
など、有害なフレーズを含む本をなぜ上梓したのか、読者の置かれた状況によ
ってはこうしたフレーズで深刻な影響を受ける人が出ることをなぜ想定しなか
ったのか、についての回答です。
 今号のメルマガは、「アドラー心理学批判特集」として、一連のシリーズ記
事の主なものをご紹介いたします。
 わたしは、お出会いするすべての方々が正しい情報を知り、その方々と共有
しながらお話をできることを願っています。
 なぜか、ここでしか読めない本当の話。お仕事のかたわら、どうぞご覧くだ
さい:

●「人は誰でも幸せになれる」「私たちの思いはすべて両書の中に」『嫌われ
る勇気』著者岸見一郎氏への質問とその回答(2017年2月19日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51953105.html

●重い傷を負った少年たちとともに「トラウマ」と向き合う――土井ホーム・
土井高徳氏の話(同2月17日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51953044.html

●三たび野田俊作氏が口を開く 岸見氏の問題は「手術じゃなくて解剖」(同
2月14日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952959.html 

●精神科医・熊代亨先生より「トラウマは本当に『ある』?/目的論・原因論
どちらを重視?/承認欲求を否定したらどうなる?(同2月10日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952757.html 

●トラウマの存在と野田氏との最後のやりとり(同2月4日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952515.html 

●野田俊作氏との対話。トラウマ、米国でのアドラー心理学、承認欲求、その
他。(同2月2日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952455.html 

●岸見氏の「脳内混線」の起源を探る――『アドラー心理学入門』をよむ(同
2月1日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952397.html 

●アドラー心理学批判 再度のまとめ:オールオアナッシングと「明確に否定」、
バグだらけのプログラム…『嫌われる勇気』は発達障害者の自己正当化だ!懸
念される「アドラー心理学鬱」(同1月14日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51951658.html 

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
(2016年5月29日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html 

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在し
ない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪(同5月30日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃今日の一筆箋  
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 梅の季節となりました。わたしの住む六甲アイランドにも梅林があり、紅白
の花が清らかな香りを運んでくれます。

※今号の「ユリーの星に願いを」は、お休みです。

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100年後に誇れる教育事業をしよう。

 発行者 正田佐与承認マネジメント事務所代表 正田 佐与

◇―――――――――――――――――――――――――――――――――◇
このメールは転送歓迎です。

 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の主著者、岸見一郎氏にメールで質問をした。
 1週間後のきょう未明、メールでご回答があった。
 質問と回答を原文のまま掲載。

 なお共著者の古賀史健氏、編集者の柿内芳文氏にもメールで同様の質問を出してみたが本日まで回答はない。
 岸見氏の回答文中の「私たち」とは、古賀氏や柿内氏まで含むものと解してよいのだろう。


*******************************************


岸見 一郎先生

初めてお便りいたします。
わたくしは神戸で管理職教育の研修講師・ブロガーをしております、正田佐与と申します。
現在、「アドラー心理学の真実」について、本にまとめようとしています。

『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』その他講演でのご発言について、岸見先生にご質問したいことがございます。
ご質問内容は以下の通りです。


1.『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』のほ中で「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」など、読む人の置かれた状況によっては非常に残酷な言葉が使われています。このような配慮に欠ける本をなぜ作ったのですか。

2.上記のフレーズをはじめとして、アドラーが実際には言っていない言葉や、実際に言ったのとはほど遠い言葉、真逆の言葉が多数あります。アドラー心理学が社会から誤解を招くリスクはお考えになりませんでしたか。

3.「承認欲求を否定せよ」は、まともにその通りやると抑うつ的になるだろうという精神科医からの指摘があります。また「トラウマは存在しない」というフレーズは、現にトラウマに苦しんでいる患者さんが二次被害に遭ってしまう可能性があり、いずれも深刻な事態を招くおそれがあります。こうした本を作り400万部も売ったことについての社会的責任についてはいかがお考えですか。

4.『嫌われる勇気』また『幸せになる勇気』の文章は、いずれもフロイト学派やほめ育ての手法、承認論などへの強烈な対抗意識を含んでいます(本来のアドラーの思想はここまで露骨に他の手法を貶したりはしていません)。それらの人々のこれまでの実践を侮辱し、それらの人々の感情を傷つけるということは事前にお考えになりませんでしたか。

5.本日、フジテレビ系ドラマ『嫌われる勇気』の内容について、日本アドラー心理学会が抗議したことが報じられました。同学会はこれまでにも岸見先生にコンタクトを試み、ドラマの内容がアドラー心理学への誤解を招いていることについて善処を要望していたときいております。岸見先生はドラマの内容についてどの程度の指導等をされたのでしょうか。


ご質問は以上です。できれば、これらのご質問について、お電話か面談でお答えいただけたらと存じますが、お忙しければメールでも結構です。
本日より1週間以内、2月19日までにご回答もしくはお電話または面談によるご回答の日程設定をお願いできればと存じます。


※尚、野田俊作先生は、厳しいご質問にも真摯にお答えいただき、対話から逃げるようなことはされませんでした。
真実のアドレリアンはそうしたものだと思っております。

何卒どうぞよろしくお願いいたします。



‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥

 100年後に誇れる人材育成をしよう。
   正田 佐与(しょうだ さよ)
正田佐与承認マネジメント事務所

‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥


正田様

ご連絡いただきどうもありがとうございます。
私たちとしましては、『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』によって特定の方々を傷つける意図はなく、アドラーの思想をベースに「人は誰もが幸せになれる」という大きなメッセージを投げかけたつもりでいます。ご批判は真摯に受け止めたく思いますが、私たちの思いはすべて両書の中に込めてありますので、それ以上のご返答は差し控えさせていただきます。
どうもありがとうございました。

岸見 一郎(ichiro kishimi)



*******************************************


 さて、上記の回答の中で岸見氏は「『人は誰もが幸せになれる』という大きなメッセージ」と言う。確かに『嫌われる勇気』も『幸せになる勇気』も最終的に同様のフレーズを謳っているが、しかし承認欲求を否定した人が幸せになることはそもそも不可能である。できるとしたらそれは認知能力の重篤な障害のある人が主観的にそう思っている、という世界だろう。そしてトラウマを負っているのにトラウマを否定される人も…。

 「人は誰もが幸せになれる」という言葉を言えば、ほかのことすべての免罪符になるんだろうか?

 ともあれ、岸見氏古賀氏柿内氏への質問というのは非常に気の重いフェーズだったので、少し肩の荷を下ろした気分だ。

 今日はいい天気。

 『嫌われる勇気』について調べるなかで、引き続き様々な関係者にご意見を伺っている。
 Facebookでご縁をいただいた、土井ホーム運営・土井高徳氏のコメントを、ご了解をいただいてブログにUPさせていただく。

 子どもたちの中でももっとも重い傷を負った、被虐待経験や少年犯罪、非行の経験をもつ少年たちを受け入れ、日々目の前にみて向き合い、励まし、時には真剣に叱りもする土井氏の目には、「トラウマは存在しない」が一人歩きする現状はどう映っているだろうか。


*******************************************

 こうした、「トラウマは存在しない」が一人歩きしている現状について、「トラウマ」を抱える当事者と現在形で向き合っている支援者はどうみているだろうか。
 福岡県北九州市で、深刻な発達上の課題を持つ少年を多く受け入れている里親型ホームを運営する土井高徳氏にお話を伺った。

 土井氏は1970年代から不登校や引きこもり、ネグレクトの少年たちの支援を行ってきた。今世紀に入ってからの支援は、親から虐待された過去を持つ少年を多数受け入れるようになり、治療的専門里親として少年の生活全般を建て直す方針になっている。
 土井ホームで受け入れた少年たちは、家庭や児童養護施設で激しい虐待を受け、虐待の影響によって解離症状などの深刻な精神医学的症状を見せる少年、深刻な少年犯罪や非行、逸脱行動を表出する少年、不眠や抑うつ症状、自傷行為を見せる少年など、深刻な状態の少年ばかり。このような虐待と発達障害の重複という子どもも多い。少年同士の激しい対立が起こり、警察を呼ぶことすらあった。

「トラウマは存在しない」というフレーズが独り歩きしていることについて、土井氏はこう語る。

「トラウマ概念は紀元前8世紀のホメロスのイリアス、紀元前5世紀のヘロドトスの著作物にトラウマ類似の事例が記載され、戦争神経症、鉄道脊椎症候群などと時代時代で報告されてきました。こうした驚愕反応や侵入症状などの中核症状は、フロイト、フィレンツ、ジャネによって次第に明確化され、戦争体験者、大規模災害やユダヤ人収容所の生存者、性被害者などに広く認められる症状として、1980年にアメリカ精神医学会によって提唱され、引き続き1992年にWHOの診断基準に掲載されたという歴史があります。トラウマの存在を前提とした診断と適切な治療や援助は、臨床医学や臨床心理学、保健学や看護学などの分野ですでに確立されたものであることは論を待ちません。」

 児童養護施設で同室の子どもの体の50か所以上にやけどを負わせ、年下の男の子に性的いたずらをするなどして土井ホームに入所してきたA少年のケース。
 入所後も、少年の暴力と規則に従わない行動、それに解離症状は折に触れ噴出した。A少年も大事だがホームの他の少年も守らなければならない。このため土井氏はA少年に対して4点の指導方針を決めた。
1.「再演」としての逸脱行動に対する「強い枠付け(禁止)」
2.自分自身の行った行為に対する事実とそれに対する感情の徹底的な言語化
3.逸脱行動の背後にあるこれまでの心的外傷の語り
4.加害少年と被害少年との修復的司法の取り組み

 土井氏はA少年の被害にあった少年2人から聞き取りを行い、A少年による暴力行為の内容を確認。続いてA少年と面接を行った。
 A少年は身体的暴力だけでなくペットボトルの小便を飲ませるなど、性的暴力も行っていた。土井氏はA少年に、
「ひとが苦痛を覚えることを力で強要するのは最大の暴力だ。やってきたことはおまえ自身が施設でされてきたことではないか」
と施設での体験を話すように促した。するとA少年は激しい葛藤の表情を見せ、話すことへの強い躊躇を示した。
 土井氏がさらに
「つらく傷つくような体験をいっぱいしてきたと思う」「そうした体験をじっと心に隠しているといつまでもそのことに囚われてこころが晴れない」「言葉にすることで自由になれる」と促すと、A少年はようやく以下のような体験を語り始めた。

A少年:「養護施設では、小学生の間はまだ良かったが、中学生になったころからいじめが酷くなり、態度が悪い、言葉遣いが悪いと殴られたり蹴られたりした。子どもたちが囲んだ中で年長児とのたいまんを強要され、ボコボコにされた」「首を絞められ喉から血が出た」
土井氏:「施設の卒業生によれば、風呂場が一番苦痛だったとT教授から聞いたが」
A少年:「熱湯や洗面器に入れた小便をかけられた」「気を失うまでお湯に体を沈められ、浴槽のお湯を飲め、飲まないと殴るぞと強要された」
 その後A少年は施設で年長児3人から性的暴行を受けていたこと、自分も下級生に性的暴行をする側になったことなども語った。
 土井氏は「そうか、辛かったな。施設での出来事をよく勇気をもって話してくれたな」
とA少年を評価した。そして、ホームの多くの少年が家族愛に恵まれない中でA少年には母親や姉がいること、また土井氏の夫人がA少年を受容的に処遇したいと言っていることなどを語ってきかせた。A少年は号泣した。

 「明日からがんばるな」と土井氏とA少年は握手。「ただし再発した場合は即座に断固とした処置をとる」と告げた。面接終了は夜中の11時15分だった。
 「トラウマ記憶の言語化」については、90年代アメリカで「記憶の捏造」が訴訟問題にまで発展し、そのために今でもトラウマの存在に懐疑的な精神科医もいる。土井氏は大学の先生や出身施設など少年の周囲から情報を得ることでその問題をクリアしている。

 翌日、A少年は被害を受けた少年2人に謝罪。被害少年たちも謝罪を受け入れた。
 A少年はこの後、トラブルを起こすことはなかった。暴力の再発はなく、周囲からも「A少年は変わった」「以前は暴力で解決しようとしていたが、今は言葉で解決しようとするようになった」という評価の声が上がった。やがてコンビニエンスストアで高校の放課後アルバイトをするようになり、地場の企業に合格し、会社の社員寮に入ってホームから巣立っていった。

 土井ホームでのこのエピソードを紹介したのは、ほかでもない。
 「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」に代表される、まったくの「頭でつくった言葉」がベストセラーに載り、一人歩きしている状況にNOを言いたかったのだ。
 切実にトラウマに苦しみ、自分が苦しむのみならず周囲にまで苦しみをもたらしてしまう当事者がいる。そしてその当事者と「本気」で向き合う支援者がこの地続きの世界に、いる。

 土井氏に、「目的論か、原因論か」について問いかけるのもいささか「野暮」のような気がする。氏の手法は、発達障害児への支援技法(構造化など)を加味しているが、基本的にオーソドックスな行動療法。そして上記のA少年に対しては、「トラウマを言語化する」という、認知行動療法の手法も使っている。大いに「原因論的」といえる。
(実は、筆者も自分の子がいじめによって不登校になり、鬱が治り元気になりはじめた頃家族にたいして荒れた。このときに「いじめっ子にされたことを言語化する」ことを勧めたことがある)

 あえて土井氏に伺ってみた。
Q.土井ホームで受け入れているような深刻なトラウマを抱えた少年について、この例のように原因にさかのぼって言語化してもらうことは多いですか?全体の何割ぐらいのお子さんにこういうアプローチをしますか?

A.子ども支援はマラソンです。まず安全感のある環境を保障し、内面で言語化の用意が十分に整ったことを見極めてから取り組みます。準備のできないうちに言語化を急ぐと回復の基礎が崩壊するからです。
 基本、虐待などの被害体験がどの子にもあり、その被害が加害へと転化した深刻なケースを長期にわたって取り組むことも少なくありません。「安全」、「相互性」、「回復・自立」という段階をゆっくりと穏やかに円環的に進めていきます。このようなアプローチはどの子に対しても同様です。子どもの傷の深さによって、「安全」の段階で回復する子も「相互性」の取り組みによって回復する子などそれぞれです。現場と子どもは実に個別的で、ケースバイケースす。
それと同時に、最近ではこうした「リスク管理モデル」から「長所基盤モデル」へとスライドし、子どものストレングスやレジリエンシー重視という方向へと向かっています。その際に、私たちと子どもにとどまらず、子ども同士の相互性を生かした言語化という取り組みを行っています。」

*******************************************

 ちょうど奥様がインフルエンザで発熱、ホームレスの少女が来訪するなど大変な取り込み中のさなか、いただいたコメントだった。
 重い。でもこちらが確実に真実だ。

 ウソや軽い言葉より真実を尊ぶ私たちでありたい。

 この場を借りて土井高徳氏に深く感謝します。

 元アドラー心理学会会長、現アドラー・ギルド代表の野田俊作氏から再度メールのご返信をいただき、公開をお許しいただいた。

 今回は、正田から『嫌われる勇気』の中のアドラーの言葉の”捏造疑惑”についてお問合せしたことへの回答として。

 余談だが野田氏は日本人として初めてアドラー心理学をアメリカで学び日本に持ち込まれた方。帰国の2年後に日本アドラー心理学会を設立、初代会長に就任されている。正田はカジュアルにメール差し上げているが…偉い方なのだ。

*******************************************

岸見氏は、私などよりははるかにアドラー自身の文献には詳しいので、彼が言う
ことは、探せばどこかに出典はあるのだろうと思います。また、出典があろうと
なかろうと、そこが問題ではないと思っております。むかし(1960年くらいまで
かな)のフロイト派は、「あなたの言葉はフロイト全集に出典がない」などと言
って他の学者を批判したりしていたようですが、アドラー派は、アドラー在世の
時代から、アドラーの言葉を引用しているかいないかを問題にしたことはありま
せん。それは現在もそうなので、岸見氏の書かれたものがすべてアドラーの言葉
の引用であっても、逆にすべて岸見氏のオリジナルであっても、どちらでも別に
かまわないのです。要は、彼が言っている言葉が、アドラー心理学の基本的な理
論や思想や技法と矛盾していないかどうかが問題です。

たとえば古典物理学は、アイザック・ニュートンやその後継者たちが作ったシス
テムですが、誰もニュートンやその他昔の学者の文献を引用して話をしません。
若いころに実際にニュートンの『自然における数学的原理』という著作を読んだ
ことがあるのですが、いまの物理学と違って数式はまったく使われておらず、幾
何学的な方法で説明がされています。それを、ある時代に、誰かが、すべて数式
に書き換えたわけです。だから、たとえば現在の高校の物理学の教科書には、た
だのひとこともニュートン自身の著作からの引用はありません。しかし、紛れも
なくニュートンの力学です。

アドラー心理学も同じことで、アドラー心理学の理論と思想と技法というものが
あって、それをわれわれは伝えています。ある主張がアドラー心理学であるかど
うかは、アドラーや他のアドレリアンの文献の言葉を引用しているかどうかでは
なくて、アドラー心理学の理論や思想や技法に矛盾していないかどうかで決まり
ます。

理論に関しては、ハインツ・アンスバッハーという人がアドラーの死後に、アド
ラーの理論を抽象的にまとめました。いまでは、私たちは、アドラーを引用する
代わりに、アンスバッハーがまとめた言い方(たとえば目的論)をもとに話をし
ています。では、岸見氏はアンスバッハーがまとめた理論について問題があるか
というと、詳細に検討したことがないので断言はできませんが、そんなに大きな
逸脱はないんじゃないかと思っています。つまり、理屈はわかっているんじゃな
いかということです。

思想に関しては、岸見氏の共同体感覚論は議論の余地があると思いますが、そも
そも共同体感覚論そのものが、理論のような科学的なものではなくて、だからさ
まざまの解釈の余地があると思います。岸見氏の解釈もありうるかもと思ってい
ます。私は好きではありませんが、許容範囲内かもしれません。共同体感覚論は
科学理論ではなくて思想ですので、そこで論争すると、宗教論争になってしまい
ますから、避けたいのです。

技法はルドルフ・ドライカースが大成しましたが、岸見氏に問題がもしあるとす
れば、技法論においてでしょうね。彼は、アドラー心理学の治療技法のごく初歩
しか学んでいないので(「カウンセラー」という資格はそういう意味です)、し
ょうがないのかもしれませんが、われわれ専門の治療者から見ると、「それじゃ
治療にならないでしょう」というようなものの言い方をしばしばされるように思
います。正田さまが引っかかっておられる部分も、多くはそれに関連していると
思います。

たとえば、岸見氏が、「不安だから、外に出られないのではなくて、外に出たく
ないから、不安という感情をつくり出している」という意味のことを言われるの
は、理論的にはそのとおりだと思います。しかし、治療現場で患者さんに向かっ
て、「あなたは外に出たくないから、不安という感情を作りだしているんです
よ」というようなことを言うのは、ほとんどの場合に反治療的だと思います。ア
ドラー心理学の目的は、「人間を知る」ことではなくて、「人間を援助する」こ
とです。「人間を知る」のは、あくまで「人間を援助する」ためです。ですから、
ものの言い方にはいつも敏感でなければなりません。たとえば私が、「あなたは
不安なのは、所属がうまくいっていないからだと思います。ですから、どうすれ
ば所属できるようになるか、一緒に考えていきませんか」というのは、岸見氏と
同じ意味のことを、治療的に言っているわけです。岸見氏は、私が知るかぎりで
は、この部分を習ったことがないと思います。まあ、私以外の治療者からどこか
で習ったかもしれませんので断言できませんが、そうであったとしても、まった
く勉強が足りないように感じます。つまり、岸見氏の問題点がもしあるとすれば、
治療の勉強をしていないのに、治療の話をするところではないかと思います。そ
の結果、しばしば反治療的な結末を作りだしているように思います。

大昔のことですが、郭麗月というお医者さんが、アドラーの本(たぶん "The
Science of Living" ではなかったかと思う)を訳して、『子どものおいたちと
心のなりたち』という本を出されました。その後書きに、当時、近畿大学医学部
精神医学教室の教授であった岡田幸夫先生が、「アドラーは人間を見るまなざし
がやさしいのがいい」と書いておられたことを、印象的に覚えています。私も本
当にそう思っていますし、その点が私がアドラー心理学を好きな最大の理由です。
岸見氏が現在説かれるアドラー心理学には、どうもそのあたりに問題があるよう
に思っています。

もっともこれは、岸見氏の人格的な問題ではなくて、治療理論と治療技法をきち
んと習わないままで、アドラー心理学の解説を始めたことによるのだと思ってい
ます。外科の実技を習ったことがない医学生が手術の話をしているようなもので、
「それでは手術じゃなくて解剖で、患者さんは死んでしまうよ」と思います。外
科手術のほとんどの手数は止血です。少し切っては出血部を糸でくくり、また少
し切ってはくくり、無限にそれを繰り返して、そうして最後に患部を切除します。
その途中の手数は、実際に手術場にいた人間しか知りません。ちなみに私は、若
いころに麻酔の研修医をしていたことがあって、2年あまり手術場をウロウロし
て暮らしていましたので、外科医がやっていることはよく知っています。心理療
法も外科手術に似ていて、すこしずつすこしずつ患者さんの納得をいただきなが
ら治療していきます。その手順の習得には、かなり長い期間の研修が必要です。

岸見氏と学術的な場で会えそうな感じになってきています。その際には、そのあ
たりの話をしようと思っています。テレビドラマは見ていないのですが、人々の
噂によると、「止血をしない外科手術」みたいなことが行なわれているようです
ね。そういうのは手術と言わないで、傷害事件と言います。それをみてアドラー
心理学だと思われると、本当に困ってしまいます。

野田俊作

*******************************************

 「所属がうまくいっていない」
この言葉は、とりようによっては「承認欲求を満たしてあげましょう」と同義のようにとれなくもない。
「承認欲求」の定義しだいだが、わたしなどはマズローのいう承認欲求と所属欲求をひっくるめて承認欲求と呼んでいる(ヘーゲル-ホネットの承認論から逆算して考えても、そうなる)。承認欲求とは、決して「悪目立ちしたい」とかいう意味ではない。

 もうひとつ、
 「治療理論と治療技法をきちんと習わないままで」というところがわたし的にはヒット。

 そう、岸見氏は学会認定カウンセラーではあるのだが、その語るカウンセリング場面には今ひとつ援助職の人の共通してもつありようが見えない。私ごときですら、武田建氏(関学大名誉教授)が口を酸っぱくして言われたこと、「共感」を叩き込まれたのに。

――ちなみに武田氏はロジャーズの孫弟子でありかつ、行動療法家でアサーションの始祖ジョゼフ・ウォルピの直弟子でもあるという稀な人で、そういう人から行動療法を学べたのは私にとって幸運だったと思う――


 「治療」としてのリアリティが見えない。これは、他の精神科医の方も言われたことだ。

「親から優秀な兄と比べられて育ったことがトラウマだったんです」
「トラウマは存在しません。アドラー心理学ではトラウマを否定します」

 非常にライトな文脈で「トラウマ」と軽々しく言い、そのライトなのを受けて「トラウマは存在しません」と大見得を切る。なんというリアリティの無さか。

 いや、そのままだともの知らずの人同士の会話だと聞き流しておけた。わたしも3年間聞き流していたが、大真面目に二次使用三次使用され講演でも堂々と言っているとなると、ね。


 岸見氏がアドラーの訳書を出したのは10冊以上になり、国内ではぶっちぎり最多。そういう独自の立ち位置があったので独特の解釈を打ち広げることができ、またほかの人も意見できなかったのかもしれない。

 
 このブログではスルーしていたが、日本アドラー心理学会は今月10日、フジテレビに対してドラマ『嫌われる勇気』への抗議文をホームページに載せた(抗議文は3日付)。それより前、野田氏、岸見氏らにそれぞれのアドラー心理学観をきくコラムがHPから消えていた。

 というわけでこの項まだまだ続きます…

信頼はなぜ裏切られるのか 表紙画像

 引き続き『信頼はなぜ裏切られるのか』(デイヴィッド・デステノ、寺町朋子訳、白揚社、2015年12月1日、原題'The Truth About Trust')の読書日記。今回は後編です。

 後半は、「権力はなぜ腐敗するか」「金がからむと人は裏切り者になる」また、「しぐさ心理学の決定版!”この4つ”が信頼できる人そうでない人を決める」(ポップ心理学風に)があります。

 またITと信頼の項目では、ゲームに勝つことを目的に自分のアバターを利己的に改造すると、そのキャラに自分が乗っ取られ利己的でウソつきになる可能性があることが取り上げられています。ちょうど「フェイクニュース」拡散が大学生の仕業だった、などがわかってきたときに、「IT、ゲームと信頼にかかわる人格変容」を考察した気になる箇所です。

 全体の目次は以下の通りで、このうち第1〜4章の内容は前編でとりあげました。こちらの記事でどうぞ。

第1章 信頼とは何か?
第2章 無意識が支配する
第3章 赤ちゃんは見ている
第4章 恋愛と結婚の核心
第5章 権力と金
第6章 信頼のシグナル
第7章 操作される信頼
第8章 あなたは自分を信頼できる?
第9章 信頼するか、欺くか

 それではいよいよ、第5〜9章の内容です:

●信頼は、他者を頼らなくてはならない人にとって生き延びるための手段である。

●最下層に分類された車種のドライバーは一人残らず車を止め、研究者に横断歩道を渡らせてくれた。中間層では、ドライバーの約30%が法律を破り、車を止めないで研究者の行く手を遮った。そして最上層(フェラーリ)では、ドライバーの約50%が法律を無視して自分の都合を優先させた。

●社会階級の高い人はウソつきにもなる。採用面接の実験では、これから面接する求職者が少なくとも2年以上の雇用期間がなければ仕事に就くつもりがないことを知っておりその仕事が6か月で終わることになっているとき、雇用主の社会階級が高いほど、その仕事が短期間で終わることを隠す人が多かった。

●社会階級の高い人びとのほうが、他者の犠牲によって自分の利益を増やす行動を容認しただけでなく、自分もそうふるまう可能性があると答えた。

●社会階級の高い人びとの信頼度が平均的に低いのは、彼らの育ちのせいではなく、この瞬間に消費できる資源を持っているからだ。信頼度を生み出すのは、自分には他者が必要だという感覚である。独りでは望む目標を達成できないという感覚だ。

●人の信頼度は生まれ育った社会階級によって決まるのではなく、現在、周囲の人々と比べたときの自分の位置によって決まる。

●自分の権力や社会的地位が上だと感じた参加者――社会階級の低い人と比べたばかりの人びと――は、それとは反対に感じた参加者よりも、ボウルからかなり多くのキャンディーを取った(食べたければキャンディーを1つとってもいいと言われていた)

●人は権力を得ると不誠実になるだけでなく、ぬけぬけと嘘をつけるようにもなる。高い地位の盗人群――短時間、ボスの役になった人びと――は、平気で面談者に嘘をついた。じつは、高い地位の盗人群では、実験前に面談者から「嘘つき」に分類された人はほとんどいなかった。ちょっとした地位の変化が彼らに自信を与え、利己的な嘘つきにしたのだ。

――「テストステロン」は地位上昇に伴って出るという。本書では触れていないがこの人たちはテストステロンが出たのだろうか。

お金がそばにあるだけで、人をだます傾向が高まり、信頼度が低下する(ハーヴァード・ビジネススクールの行動経済学者、フランチェスカ・ジーノの研究)。現金7000ドル以上が机に積んであったグループでは、アナグラム問題の採点におけるごまかしは大幅に増えた。

お金のことを思い出させたりするだけで、人びとが自分中心になり、仲間との社会的な交流より自己充足を重視する。ミネソタ大学カールソン経営大学院のキャスリーン・ヴォースの研究)。お金があるという考えを実験参加者に強調すると(お金を見せたり、お金について書いてもらったりすると)、対人行動に劇的な違いが出る。お金を目立たせると、人びとは、助けを求められても積極的に支援しなくなるうえ、自分が困難な課題にぶつかったときに、他者の助けをm止めるのをためらうようにもなった。お金があるというシグナルは、自力本願の気持ちを強め、助けを求める他者や協力の意向を示す他者の拒絶につながるのだ。

●お金と社会的近接性の実験(ヴォース)。社会的近接性とは、他者とどこまで近づきたいかという感覚で、相手との関わり合いへの意欲を示す指標。二人の人間の距離は、交流したいという気持ちが強いほど近くなる。実験から、お金を思い起こさせるものがあれば、人びとが互いに離れて座ることを見出した。

●お金が社会的嗜好に及ぼす影響(ヴォ―ス)。参加者はこれから与えられる難しい課題を誰かと一緒にするか、一人でするかを選ぶように求められた。人はふつう、楽しくない課題では協力したがるが、(お金の絵を見せられるなどして)お金のことを思い出させられた参加者では、それ以外の参加者よりも、単独作業を選ぶ割合がかなり高かった。彼らは、成果を分け合うことや、成果を出すために他者を頼ることを嫌がったのだ。

――このくだりが本書の一番の「きも」。昨年初め、『「学力」の経済学』という本について「教師も子どももカネで釣れ、というおそろしい思想だ」とわたしは批判したのだが、カネで釣ってはなぜいけないか。ウソつきになるし人と助け合わない一匹狼になるし、と「人格面」でのよくない影響が出るということがちゃんと研究されているのである。教育経済学という狭い分野の知見だけで判断してはいけない。

――もうひとつは、アドラー心理学はじめ行動主義に対するアンチの言説をみると、結局かれらは「おカネによる報酬」を批判しているのではないか、そこだけをピンポイントで叩けばいいのにほめる(精神的報酬)までもを批判してしまっているのではないか、という気にもなる。


●権力者は信頼を重視しないが、「人を信頼するのはよいことだが、信頼しないのははるかによいことだ」と言ったベニート・ムッソリーニは最終的にどうなったか。処刑されたのち、遺体はミラノのガソリンスタンドの柱に逆さ吊りにされた。

●専制君主、上流階級の子孫、PTAの会長などは多くの場合、階層的地位が高いおかげで、社会的責任を果たす場面で制約を受けないように感じる。ほかの人びとは彼らの指示を聞かなくてはならないので、彼らは通常、反撃を恐れずに自分の短期的な目標を達成できる。つまり、他者を信頼しなくてもよく、他者に指図できる。

●だが、こうした統率戦略には、暴力や恐怖による強制力を何度も行使して地位を維持しなくてはならないという問題がある。そのため、有力人物が強制力を失うと、搾取に苦しめられた人々は、しばしば報復しようとする。

――どこかの大統領のことをつい考えてしまうが彼はどんな末路をたどるのだろう?

●心の知能(EQ)が高い人びとも、やはり権力のある地位に押し上げられたとき権力の毒に冒される可能性がある(ケルトナーの研究)。だがそれに抗える人もいないわけではなく、そうした人びとは名誉や公平さ、信頼を保とうと努める情け深いリーダーとなり、長く自分の地位を維持する。

●数学的シミュレーション(マーティン・ノヴァク)でも、さまざまな社会集団における現実世界での階層ダイナミクスの研究でも、公平で誠実で寛大な人は、長期的には得する傾向がある。

――受講生さん方、読んでくれているかな。

――ここからは「信頼のシグナル」の話。

●信頼のシグナルは、きわめて慎重に出される必要がある。自分の手の内を一度にすべてさらすと破滅する。

●身ぶりや表情を正しく解釈するには、2種類の文脈が欠かせない。私はそれらを「配置の文脈」と「場面の文脈」と呼んでいる。単独の身ぶりや表情は、人の感情や意図を表す確かな指標ではない

●顔の表情は、単独では人の感情を突き止めるのには役立たない。運動選手が勝つか負けるかして激しい感情を抱いている瞬間の写真を用いた実験で、人間は表情のみから感情を推測するのがひどく下手だということがわかった。

●「場面の文脈」。同じシグナルでも、それを発する人によって、伝えたいことが異なるかもしれない。心が誰かの微笑みを支持のシグナルと解釈するか悪意のシグナルと解釈するかは、その相手の社会的カテゴリー次第。競合相手や敵対する人の笑みは、よくない出来事の前触れかもしれない。

●相手のふるまいを予測する制度は、相手と対面で会話した参加者のほうが、インスタントメッセージを用いた参加者よりかなりよかった(著者の研究)。

●4つの手がかりに注目すると、参加者が感じ取った信頼度についても、実際の行動が誠実なものだったかどうかについても精度よく予測できた。4つの手がかりとは、腕を組むこと、体をそらすこと、顔に触れること、手に触れることだ。これらの仕草を頻繁にするほど、その人は不誠実に振る舞った(相手に渡したメダルの枚数が少なかった)。

●次にこの4つの手がかりをロボットの「ネクシー」に学習して実際にやってもらったり、やらなかったりしてもらったところ、会話中にネクシーが4つの手がかりを出すのを見た参加者は、あとでネクシーを信頼できないと述べた。彼らは、あたりさわりのない手がかりを見た参加者たちと同じくネクシーに好感を持ったが、ネクシーから騙されそうな気がしたのだ。さらに、4つの手がかりを見た参加者はネクシーからもらえるメダルは少ないと予想しただけでなく、メダルをネクシーと分け合う気持ちも薄れた

そして最も重要なのは、信頼度の感じ方がすべてを結びつけたことだ。すなわち、参加者が報告したネクシーの信頼度から、ネクシーが渡してくれそうなメダルの予想枚数と、参加者がネクシーに渡すメダルの枚数が、両方とも直接予測できたのだ

――4つのシグナルとは何!?テストに出ますよー(笑)

●能力のシグナルには微妙さが必要でないので、その構成要素は誠実さのシグナルに比べてはっきりしている。能力を示すシグナルは、自尊心や地位を表す非言語的な表現にそのまま結びついている。たとえば、胸を張る、頭をぐっと上げる、両手を広げて掲げる、両手を腰に当てる、交流するときに他者をあまり見つめない、などだ。


●人は一線を越えて思い上がる(過度な自尊心を持つ)こともあるが、心理学者のリサ・ウィリアムズと著者の研究からは、自尊心がきわめて有用であることが示されている。人は自尊心に駆り立てられて有益な技能を獲得しようとするが、自尊心がなければ、そんな気も起るまい。

――ここもひそかに重要。一時期、自尊心が高いことが暴力傾向につながることが強調された。しかしそれは過剰なレベルになった自尊心について言うもので、自尊心が低すぎる人や子どもには、まず上げてあげなければ学習意欲も湧かない。これは、「承認導入企業」で最初の意欲向上のマーカーとして学習意欲が高まり、仕事関係の本を読んだり社内勉強会を開いたりするようになるのだが、それとも一致する。
(当ブログの『「学力」の経済学』批判の最初の記事なども参照されたい)

――そしてやはり、「自尊感情をもちましょう」という教育は子どもさんのほうにではなく、親御さんや先生のほうにしたい。

 
●自分には専門技能があると思い込まされた参加者は、できるという単純な思い込みによって、自信のシグナル――胸を張った姿勢、頭を上げることなど――を発し、ほかの人びとは彼らの指図を信頼した。メンバーたちは、脅されて従ったのではなく、報告によれば、自信に満ちた仲間についていきたいと思ったとのことだ。彼らは、自信のある人を否定的に捉えたり、偉そうな奴と見なしたりはしなかった。逆に、好感を持ったと報告した。信頼できそうな人が見つかって喜んだのだ。

●心はよく間違いをする。だが、手がかりはつねに間違っているのではない。間違っているのは、心がそれを一般化しすぎるときだけだ。

●顔のつくりによるバイアス。静止状態での顔の構造的な違いを過度に一般化して感情を見つける。その結果、眉が目立つ人や口角がやや下がっている人は、そうでない人よりも、腹を立てている、よからぬことを企んでいる、あまり信頼できないと判断されることがある(トドロフの知見)。

●童顔の人は一般的に、温かい心や善意を持つが能力はやや劣ると見られることが確かめられている(トドロフら)。

●候補者の顔が選挙に及ぼす影響(トドロフ)。2000年から2004年までの5つの選挙で候補者の顔のみに基づいた有権者の選択を分析した。研究チームはニュージャージー州プリンストンの住民に、アメリカの別の地域で出馬した候補者の顔写真だけを見せた。結果は、顔の特徴のみから最も能力があると判断された候補者が、実際の選挙戦において、約70%の確率で当選したのだ。

●政治評論家のラリー・サバトは、「連邦議会が、ニュースキャスターやクイズ番組の司会者に似た人びとに乗っ取られていることがおわかりでしょう」と述べている。

●テクノロジーを信頼するバイアス。想定リスクが高いほど、人間の助手より自動化ツールから提供された情報に基づいて決定することが増えた。

●アバターの仮想世界でも、現実世界の男性と同じように、男性のアバター同士が会話するときには、女性同士や男女の場合に比べて、互いの距離がかなり開いていた。

●ある人から自分のアバターを信頼してもらいたいとしよう。人が他者に対して抱く共感や責任の大きさは、相手が自分にどれほど似ていると思えるかで決まる。たとえば、相手と同じリストバンドをつけるといったささいなことでも効果がある。

●仮想世界で、候補者2にんのうち一方の顔写真を参加者1人ひとりの顔に合わせて変形させ、参加者の顔が40%含まれるようにした。この程度の変形だと意識的な心は気づかないが、無意識的な心はパターンに対して敏感で、この変形に気づく。この結果、大多数の人が、政治的な立場についての情報を無視し、自分の顔が40%含まれる候補者に投票する意思を示した。

●相手より戦略的に有利な立場を得られるようアバターの外観を変えると、そのような変更が逆向きに作用してアバターのユーザーに影響を及ぼす。この可能性は「プロテウス効果」と名付けられている。背の高さは、他者と交流するときの自信や優越感、自尊心の大きさと関連することがわかっている。その分、誠実に振る舞おうという気持ちが薄れる。大柄なアバターを使った人は、バーチャルな世界で自分本位に振る舞うだけでなく、その態度を現実世界にも持ち込む。

●プロテウス効果を裏付けるように、背の高いアバターを割り当てられた参加者は、バーチャルな世界だけでなく現実世界でゲームをしたときにも、自分の取り分を多くした。自分には力があるという感覚が、無意識のうちに「通常の」自分に対する認識にも波及し、信頼に関連する振る舞いが悪い方向へと変わったのだ。

●ファンタジーの世界で利己的に振る舞う力やそうした役割のあるアバターを選ぶと、思いがけず、同じ振る舞いが現実の日常生活でもわかりにくい形で引き起こされる可能性がある。そして、もし誰もがこのようなゲームで何としても勝って他者を支配しようとするのなら――その可能性は高い――、私たちの社会の全般的な誠実さは、じわじわと下降線をたどるかもしれない

――「フェイクニュース」蔓延と関連するかもしれないところだ。ゲーム育ちの若者がネットでウソを拡散する、既に起きていることだが科学的にもその可能性が高いことがわかっているのだ。

●ヘルスリテラシーの低い人へのITを使った援助の試み。ヘルスリテラシーの低い人は勧められた治療を理解できず、指示された治療法に従えないため、退院後の健康状態がきわめて悪い。しかもその率は高く、アメリカの成人全体の36%、都市部の貧困層では80%を超える。ここで「信頼」できる特性を備えたエージェントを設計し、患者にこのエージェントとタッチパネルで交流してもらった。すると、ヘルスリテラシーの低い患者たちは、このエージェントに大きな信頼と安心感を抱いたと報告しただけでなく、大多数が人間の看護師よりもエージェントと交流したいと答えた。

●この実験でエージェントは、親身になっていることを占める感情表現と、患者の注意を退院後のケアプランの情報に向けるための手振りという二つの非言語的な行動によって、双方向の関係をつくり出した。それはヘルスリテラシーの低い人々と人間の看護師や医師との間に欠如しており、学習効果を高めるうえで大切なものでもあるからだ。エージェントの社会的な表現や患者への接し方を機械的なものにすると、患者たちはエージェントにあまり親近感を持たなかった。

――やっぱり、「AI先生」普及の余地はありそうですね

●患者の意識が高まった理由は、1つには患者が情報をしっかり理解したことにある。だが著者はひそかに、患者が誠実に振る舞いたいと望んだことも関係しているのではないかと思っている。患者はデジタルの看護師に対して、自分が信頼に値することを示したいと思ったのではないだろうか。


 抜き書きはおおむね以上。

 たいへん面白い読書でございました。


ネット時代、「社会全体の誠実度が低下するかもしれない」という著者の予測が既に当たりつつあるように見えるのが気がかりです…。

 精神科医・ブロガーである、Dr.シロクマこと熊代亨先生の新着記事を、こちらにも全文転載させていただきます。

※元の記事
>>http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20170209/1486634304


 熊代先生は従来より精神科領域から「承認欲求を否定することは危ない」と発言。
 2014年にはブログ「シロクマの屑籠」「承認欲求四部作(リンクは第一記事)」をまとめられ、当ブログでも引用させていただいたりしました。
 (当ブログの引用記事はこちら


 このシロクマ先生に最近、わたしから3つのご質問を投げましたところ、それへのお答えをこんな風にブログ記事にまとめてくださいました。

 大変熟考されたうえ、記事としては手際よくまとめてくださっています。わたし自身にも大変参考になりました。

「承認欲求を否定したら、どうなりますか?」普通の精神科医なら「考えたこともない」と答えるであろうご質問にシロクマ先生は、「抑うつ的になるでしょうね」。明確に言い切られました(←某ベストセラー的表現)

 読者の皆様も、よろしければご覧ください:


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「 トラウマは本当に「ある」?/目的論・原因論どちらを重視?/承認欲求を否定したらどうなる?


先日、ある方から3つの質問をいただいた。これについて、自分なりに整理してみたかったので、ブログ上で清書をしてみます。
 
 お題は、以下の3本です。
 
 1.「トラウマ」の有無について複数の精神科医に訊いて回ったが、回答がまちまちだった。結局、トラウマは「ある」のか「ない」のか。
 
 2.トラウマの有無はともかく、現場では「原因論」と「目的論」どちらの考え方を重視するのか。
 
 3.「承認欲求を否定せよ」というフレーズがあるが、本当に否定したらどうなるか。
 
 


 
 【1.トラウマは「ある」のか「ない」のか】 
 

 どちらかといえば、私は「ない」派かもしれません。

 私は、フロイト直系の精神分析でいう(古典的な意味の)トラウマについて、あまり考えません。
 
 ちょっと古めの精神医学事典によれば、
 


 心的外傷 psychic trauma
 
 個人に、自我が対応できないほど強い刺激的あるいは打撃的な体験が与えられることをいう。
 (中略)
 フロイトS.Freudの神経症に関する初期の研究の中で提唱されたもので、恐怖、不安、恥、あるいは身体的苦痛などの情動反応を示す刺激として論じられた。これらの刺激は意識的世界では受け入れがたいので抑圧されてコンプレックスを形成することになる。すなわち、心的外傷体験は新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大する。


 とあります。
 
 問題は、「新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大するようなトラウマ体験」が一体どういう体験か、です。私の記憶が間違っていなければですが、古典的な意味でのトラウマとは、特別にひどいエピソード一回で生じてしまうものだったはず。
 
 対して、私が愛好する自己心理学*1では、トラウマに相当するものは、特別な一回や二回の外傷体験によってできあがるものではなく、もっと長期間の、持続的な共感不全や不遇によって生じるもの、とみなされていました。逆に言うと、一回のひどい体験があっても、その体験と当人を周りの人達が適切に受け取って対処できていれば、トラウマへと発展しない、という考えかたです。
 
 私は、世間で騒がれるところの「幼少期のトラウマ」の大半は、こちらの考え方で捉えたほうが妥当だと思っています。
 
 ただし、PTSDを念頭に置いたトラウマに関しては、ある程度「ある」と想定しています。
 
 PTSDという精神疾患は、もともと第一次〜第二次世界大戦に砲弾ショックや塹壕神経症と呼ばれていた軍関係の領域で発展してきたものですから、主に、長期間にわたって極限状態に曝される人々を対象として発展してきた疾患概念でした*2。それが、20世紀末になって戦場帰りではない人々にも適用されるようになり、90年代〜00年代にかけて、たくさんの人々この言葉を好んで用いました。こういった経緯には十分な留意が必要だと私は思っていますが、それでも、重度の災害等でPTSDの診断基準に見合った患者さんを発見したら、そのように診断するよう心がけています。そんなに多く出遭うものではありませんが。
 
 また、PTSDの研究領域では、海馬の縮小や扁桃体の変化といった器質的な変化や、交感神経系の異常な反応などが報告されています。これらも、PTSD領域にトラウマという語彙にふさわしい変化が存在する傍証になるのでは、と思っています。
 
 まとめると、私は
 
 ・精神分析のトラウマに相当するものは、古典的な一発ノックアウト説には懐疑的だが、長期的には発生し得ると考える
 ・PTSD領域のトラウマは、日常臨床ではそれほど多くは出遭わないにせよ、「ある」と考える
 
 という立場を取っています。
 
 
 【2.現場で「原因論」と「目的論」どちらの見方を重視するのか。】

 
 「目的論」と「原因論」については、私自身は、アドラー風の目的論的思考にあまり重点は置いていません。
 
 ですが、患者さんとお話をする時には、「原因論」にもとづいた原因探し、いわゆる“悪者探し”を滅多にやりません。
 
 古典的な神経症の患者さんに出会った時も含め、一般に、過去の出来事や心的外傷を振り返って得をする場面はあまり無いと私は思っています。PTSD系の論説のなかには、過去をほじくり返すとかえって侵襲が増すという話もありますし、また、過去を振り返るよう勧めすぎると「トラウマのねつ造」のようなアクシデントが起こることもあります。その片棒を担ぐようなことはしたくありません。
 
 また、“悪者探し”は家族関係や周囲の援助関係に悪影響を与えやすく、これが、アンコントローラブルな事態をもたらす可能性があります。かりに、99%親が「トラウマの源泉」だったとして、患者さんに「親が悪いんですよ、あなたは悪くないんですよ」と囁く行為が、どこまで患者さんのためになるのでしょうか。
 
 のみならず、患者さんに「親が悪い」と囁くことによって、治療者自身の問題や病理を反映しているってこともあるように思います。これも一種の「転移」ですよね。そういう転移混じりの状況では、治療者は思い切ったことを言いたくなるものですが、それが患者さんにとっての最適解なのか、治療者自身にとっての最適解なのか、よく振り返ったほうが良いことがあるように思います*3。
 
 なにより、過去の原因をどれだけ探したところで、過去は訂正できません。それより未来の社会適応を考えたほうが建設的なので、臨床場面では目的論的な話し合いをする機会のほうが多いと私自身は感じています。
 
 他方で、個人としての私は「原因論」、というよりも「因縁論」者です。私は大乗仏教を広く薄く信奉しており、思考のベースには縁起の考え方があります。
 
 私が見聞している範囲で「因果」と「縁起」の違いを述べてみると、因果とは、科学にみられるような原因-結果を一対一の対応とみなすのに対し、縁起とは、ものごとが起こる種子(要因)は単一ではなく無限にたくさんの要因が寄り集まって結果を生じるもので、その結果が、更に次のたくさんの出来事の種子となっていく、といったものです*4。科学という枠組みで取り扱いやすい物理現象や化学反応のたぐいはともかく、娑婆の出来事を考える際には、こちらのほうが実地に即していると私は感じています。
 
 また、なんだかんだ言っても私は精神分析っぽい考え方が好きなので、患者さんの縁って立つ背景についてはできるだけ情報を集めますし、ネガティブファクターたり得る要因の洗い出しは不可欠とも考えます。ただし、集めた情報とその分析結果をどこまで患者さんに伝えるべきかはケースバイケースで、伝えるとしても、細心の注意が必要です。
 
 なので私は、頭のなかではだいたい「原因論>目的論」ですが、実地に人と喋っている時には「目的論>原因論」という構えをとることが多いです。
 
 
【3.承認欲求を否定したらどうなる?】
 

 マズローの欲求段階説をベースに、「承認欲求を否定したらどうなるか」について私なりの考えを書いてみます。
 
 現代日本には個人主義的な自意識とイデオロギーが浸透しているので、承認欲求は、関係性の欲求として最も重要とみなしても良いのだと思います。ですから、その承認欲求が断たれてしまえば抑うつ状態に陥りやすいでしょう。あるいは酒やギャンブルといった嗜癖に溺れやすくなるか。このあたりは、実地の観察とも矛盾しません。
 
 ただし、昭和時代の日本人、途上国の町村部といった個人主義的な自意識やイデオロギーがそれほど広まっていない地域では、承認欲求よりも所属欲求のほうが関係性の欲求として重要度が高いので*5、承認欲求を否定されても、現代人ほどにはメンタルヘルスに打撃を受けないんじゃないか、と思っています。
 
 自分自身が承認の焦点になっていなくても、自分が所属している集団を誇りに思えたり、仲間意識や一体感が感じられれば、所属欲求が充たされてまあまあ幸せになれたのではないでしょうか。そのような現代以前の社会*6では、承認欲求を否定されるよりも所属欲求を否定されるほうが“堪えた”のではないかとも思います。これは、現代の大都市圏でスタンドアロンに働く人には、信じられない世界の話と聞こえるかもしれませんが。
 

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来
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 このあたりは、リースマンやエリクソンやマズローといった昔の社会心理学っぽい書籍だけでなく、『昨日までの世界』のような最近の書籍を読んでいても、さほど間違っていないんじゃないかと感じます。また、私自身の親世代〜祖父母世代を見ていても、20代〜30代に比べて所属欲求への親和性は高いように見受けられます。
 
 ですから「承認欲求を否定したらどうなる?」の答えは「現代日本ではヤバいことになる。しかし人類史全体で考えるならそうとも限らない」が正解だと思っています。特に、内戦中の国のような境遇では、承認欲求/所属欲求どころではなく、マズローの三角形でいえば下のほうの、生理的欲求や安全欲求が脅かされるので、まず、それらを充たすことこそが焦眉になることでしょう。そのような状況下では、承認欲求が充たせるかどうかは、もっと後回しの問題になっているのではないでしょうか。あくまで相対的に、ということですが。
 
 

 
 ここに挙がっている3つの問題は、どれも、つきつめてYesかNoかで考えると割と考えが狭くなりやすいものだと私は思うので、ガチガチに肯定したり否定したりせず、コンテキストに即した柔軟な捉え方をしていくのがいいのかな、と私は思います。少なくとも実地で応用する際にはそうでしょう。そろそろ時間切れなので、今日はここまでにいたします。
 


*1:H.コフートが創始した自己愛についての精神分析学派。自己愛パーソナリティの研究で名を馳せた

*2:全米ベトナム戦争退役軍人再適応研究NVVRSによると、戦争に従事した後の30%の人がPTSDの診断基準をみたし、22.5%が診断基準の一部をみたすそうです。

*3:こういう、治療者自身の病理の取り扱いって、現在の精神科研修医はきちんと教わるものなんでしょうか。教えて偉い人。

*4:ちなみに宗教的には、そういった多岐にわたる縁起の連なりを全て把握できるのは人間には不可能とされています。それができるのは如来。

*5:「所属欲求よりも承認欲求が上」というあのピラミッドの書き方は、現代日本の個人にはあまり当てはまらないものだとは思いますが、西洋史観にもとづいて文明発達を考えるなら、順序として当てはまっているように私にはみえます

*6:ああ、これも西洋史観的なモノ言いですね、その点には留意しましょう


(太字一部正田)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 いかがでしょうか。

 熊代先生は、「承認欲求」の定義としてはマズロー説にしたがっていらっしゃるので、当ブログの通常のつかいかたとしての「承認欲求」と少しずれるのですが、その点もメールで少しお話ししたうえで、ここでは熊代先生の定義のほうを採用させていただいています。

 熊代/マズロー説による「承認欲求」でも、否定すれば抑うつ的になってしまう、ということですね。

 当ブログの定義による、「赤ちゃんのころから」の「承認欲求」だと、どうなってしまうでしょう…


 とまれ、素人のわたしのご質問に真剣に悩んで答えてくださいましたシロクマ先生、どうもありがとうございました!


信頼はなぜ裏切られるのか 表紙画像

 『信頼はなぜ裏切られるのか』(デイヴィッド・デステノ、寺町朋子訳、白揚社、2015年12月1日、原題'The Truth About Trust')を読みました。

 あまり期待しないで読み始めた(失礼)が意外におもしろかった(それも失礼)、いや、素直におもしろかったです。

 「信頼と教育」というところで「教育屋・正田」が素直に腑に落ちたところがありました。
 簡単にいうと「小学校以上の子どもは物知りの人に教えてもらうのが好き」ということです。


 またアドラー先生のお好きな「協力」「貢献」「共同体感覚」に近いお話も出るので、最近ブログ読者に多いアドラー・ファンの方々も必見ですヨ!!

 今回も長い日記になるので2回に分けます。全体の目次をご紹介してからこの記事では前半部分、1−4章をご紹介します。

第1章 信頼とは何か?
第2章 無意識が支配する
第3章 赤ちゃんは見ている
第4章 恋愛と結婚の核心
第5章 権力と金
第6章 信頼のシグナル
第7章 操作される信頼
第8章 あなたは自分を信頼できる?
第9章 信頼するか、欺くか

(第5章以降は次の記事(未投稿)で。)

 以下、抜き書きです。


●そもそもなぜ人間は信頼するのか?人を信頼することはまさに賭けであり、当然リスクがある。一言で答えれば、そうするしかないからだ。他者を信頼することで得られそうな恩恵が、被りそうな損失より平均するとかなり上回るのだ。

●宇宙船の打ち上げのような共同事業を成功させるためには、みなが各自の役目を果たして任務を完遂すると、全員が信頼しあわなくてはならない。

●日常のほとんどの事柄でも私たちは他者の協力を当てにしなくてはならない(例、子どもを人に預けて働くなど)

●アクシデントにあう場合もあるが、統計的に言えば、他者を信頼しないよりも信頼したほうが、一般に長期的な利益は大きくなる。

●問題点その1.人の行動すべてを確認できない。

●問題点その2.行動のやり取りのあいだに時間のずれが起こりうる。

●囚人のジレンマ――『暴力の人類学』で既出。「寛大なしっぺ返し戦略」が長期的にみて最終的な勝者になる。

●評判は「間接的互恵性」という、他者の経験から恩恵を得るメカニズム。評判は、他者を信頼すべきかどうかの判断の手がかりになるほか、みなが誠実にふるまう可能性も高めてくれる。

●しかし、評判は個人の不変的な特性を表しているわけではない。科学的データからは、人間の道徳性が非常に変わりやすいことがはっきりと示されている。同情や利他主義、寛大さや公平さ、浮気や嫉妬、偽善や賭博のどれを取り上げても、人の道徳的な行為の揺れ幅は予想以上に大きいことが実験的なデータから繰り返し示されている。(このことは多くの人は信じられないと思うようだ)

●客観的な状況が変わったり、水面下の心の計算が変化してはじき出す報酬が変わったりすると、行動も変わる。もちろん、どれくらいの量の報酬で誠実な態度が翻されるかは、人によって違うかもしれない。だが、人の信頼度のレベルが固定されていないというのは事実だ。だから自覚のあるなしはともかく、誰でも報酬如何でころっと変わってしまう。私たちの心は、つねにコストと利益を計算しているのだ。誠実さはどんな状況でも、競合する心的なメカニズム同士の目下のバランスによって決まると提唱した。

――こういうのは、わたしもよく経験した。慣れっこになったとまではいかない、いまだにうっかり信頼して裏切られ、裏切られるとその都度傷ついている。ただ以前に比べると裏切られることへの耐性ができていると思う

●「ギブ・サム・ゲーム」で、参加者がサクラに感謝する理由のない群では、参加者は相手に平均で2枚のメダルを渡すことを選択した。サクラに対して(事前のイベントにより)感謝の気持ちを抱いている参加者はより協力的で、対照群よりも多くのメダルを相手に与えた。この結果は、参加者が初対面の相手とゲームをしたときも同じだった。これは感情の状態の一時的な揺れによって信頼度の評価が変わることを示している。

●社会的ストレスは、誠実な振る舞いを劇的に増やす。社会的な不安のある人たちは、そうでない人に比べて相手に協力する割合が約50%多かった。

●何を身に着けるかという単純なことで、その人の誠実さが変わる。偽ブランド品だといわれた眼鏡をかけた参加者は、数学テストの得点を自己申告するとき参加者の71%が自分の得点を水増しした。本物のブランド品をかけていた参加者で得点をごまかしたのは30%にとどまった。偽ブランド品の眼鏡をかけているだけで、偽という観念を生み出し、嘘をつく傾向を大幅に増加させたのだ。

――ウソの下手なわたしは今度偽ブランド品を身に着けてみようかな

●したがって、誰かを信頼する際、あの人は信頼できるかと問うべきではない。正しくはこうだ。あの人は、現時点で信頼できるか?

人の道徳性はほぼすべて、短期的な利益と長期的な利益の兼ね合いとして理解できる。信頼は異時点間の選択のジレンマとして概念化できる。成功とはたいてい長期的な観点で決まる。成功する戦略を擬人化すれば、それは何百、何千もの交流を重ねて、結果的に多くの資源を蓄積する人と言える。

●だとすれば、誠実さの核をなす特徴の一つは自己制御能力と言うことになる。言い換えれば、長期的な利益につながる願望を優先し、目先の願望に抗う能力だ。

●他者の信頼度についての評判があてにならないとすれば、信頼度を直感で見抜くことができるだろうか?

●非言語的な手がかりや生理的な指標を利用して感情や動機を見極める方法についての科学的な理解は、急速に見直されている。それら従来の手法は、ほぼ使い物にならないことが示されてきた。

●信頼度のシグナルがまだ特定されていない理由。
1.信頼度のシグナルは微弱で、すぐ読み取れるものであってはならない。
2.これまでのシグナルの探索がまったく間違っていたこと。信頼にかんしては、視線をそらすことや作り笑いのような決定的な手がかりなどない

●信頼のためには誠実さだけではダメ。能力も誠実さと同じくらい重要。そして信頼にかんする心の計算のほとんどは、意識外でおこなわれる。

私たちの心は、能力のシグナルに関連する手がかりをすばやく処理する。すなわち、地位や力、リーダーとしての資質を評価したがる。そうした手がかりによって、それらを示した人が周囲から信頼される度合いははっきりと変わる。

●信頼にかかわる生理機能が進化によって形作られてきた様子は、突然変異の結果を時間の経過で比較すればわかる。こうした取り組みのなかで有名なモデルが、ポージェスの提唱する「ポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)」だ。

●哺乳類の迷走神経は2つの部分からなる。1つは、髄鞘に覆われていない古い部分で、もう1つは、髄鞘に覆われた進化的に新しい部分だ。迷走神経の古い部分と新しい部分、それに交感神経系の特徴によって、脊椎動物の神経系の発達段階がはっきりと3つに分けられる。

●1つめは、髄鞘に覆われていない迷走神経からなる古いシステムで、動きを止める反応に関係がある。そのシステムが活性化すると、硬直や死んだふりが起こる。動物が極度の恐怖にさらされたとき(捕食者に追い詰められたときなど)に実行できるきわめて単純で効果的な戦略の1つが、死んだふりなのだ。

●第2のシステムは、交感神経系が活性化したときの脅威に対する第2レベルの反応、すなわち「闘争・逃走反応」を生む。つまり、生物に行動を起こす準備をさせるのだ。そのシステムが活性化すると、心拍数や呼吸数が上がり、血液が四肢の筋肉に送り込まれ、アドレナリンなどのストレスホルモンが分泌される。これらは、不安や心配、どうしようもない恐怖を感じたときに起こる。

●第3のシステムは、髄鞘で覆われた迷走神経系だ。このシステムは哺乳類にしかなく、人間を含む霊長類などの高度な社会的動物と関連が深い。信頼にかんして重要なのは、それが心臓やストレス応答と結びついていることだ。
 心臓については、迷走神経の活動が高まると、心を落ち着かせる効果がある。言い換えれば、心臓にとってブレーキの役目を果たし、鼓動や呼吸を緩やかにする。ストレスについては、迷走神経が高まると、視床下部―下垂体軸の活動が低下してストレスホルモンの分泌が減少する。

●興味深いのは、第3のシステムは、社会的な交流に関連した体の部分を調節する神経とも脳内で相互に結びついていることだ。たとえば、感情表現に必要な顔の筋肉、人の声と同じ周波数域の音を聞くために内耳の能力を変化させる筋肉、発生に抑揚をつける喉頭の機能をつかさどる筋肉などと結びついているのだ。以上から、髄鞘で覆われた迷走神経には、社会とのかかわりを調整する機能があることがわかる。このシステムは体を穏やかな状態にし、社会的な交流を円滑におこなえるようにする。安心感や落ち着きをもたらし、分かち合いや傾聴、心地よさ、そして信頼を促すのだ。

哺乳類、なかでも人間は、闘争や逃走や死んだふりでは対処できない困難にもぶつかる。私たちは生き延びるために、折に触れて他者と一緒に働き、協力し、他者と信頼する必要がある。…迷走神経の活動が高まると、体はコミュニケーションや共有、社会的なサポートを図りやすい状態になる。


●ポリヴェーガル理論が提唱されたのはわりと最近。支持する研究結果は増え続けている。たとえば、子どもを対象とした研究で長期的に迷走神経の活動が活発な状態だと、否定的な感情や問題行動が少なく、社交性が高いことがわかっている。大人でも同様で、迷走神経の活動が活発だと、社会とのつながりが強く、幸福度が高く、さらには他者の苦しみへの思いやりが深いことが見込まれる。これらはすべて誠実な行動を促す性質だ。私たちは、穏やかな気分のときや他者との絆を感じるときには、他者を助けてあげたことによる長期的な見返りを高く評価する。


――いわゆる「共同体感覚のある人」とは、「迷走神経の活発な人」じゃないでしょうか…

●迷走神経の活動が活発だと、行為の品性だけでなく知覚の精度にも影響があることが示されている。迷走神経による穏やか効果を活用すれば、他者の感情を正しく理解する能力が研ぎ澄まされることも多い。迷走神経がこのように働くのはなぜか?脅威に対する体の反応をなだめれば、心が眼前の社会的な課題に集中できるようになるからだ。社会的な課題への対応では多くの場合、相手の感情を確実に知る能力と、それに基づいて行動する意欲の両方が求められる。

●信頼だけですべてが解決できるわけではない。そのため、3つのシステムは階層構造になっている。私たちの心は、最上位のシステム――髄鞘で覆われた迷走神経――から出発し、そのシステムで問題が解決できなければ下に降りていく。

●迷走神経が緊張するほどよいわけではない。過度に社会的、あるいは過度に楽観的なのは病的と言える。心理学者のジューン・グルーバーによる研究では、迷走神経の活動レベルが極端に高いと、自信過剰や、人とのつながりを求めすぎる衝動に結びつくことがわかった

●そうした無差別的な迷走神経の緊張は、躁病と結びつくようだ。私たちの心はそうした状態を直感的に認識する。そうした人を、緊張がほどほどの人に比べて社会的なパートナーとして信頼できないと即座に見なす。

●私たちは普通、自分の生理反応を支配できず、逆にそのような反応に支配される。信頼の重要性や意義を踏まえれば、心が信頼に関わる計算をより効率的・自動的に達成する方法を生み出したのは当然である。

――ここまでが本書の前フリです。直感的な信頼のメカニズムとは何か、をここから解き明かしていきます

サルや類人猿の多くの種が、人間と同じように、不公平に対して断固とした嫌悪感を示す(ブロスナンの研究)。2頭のサルが同じ課題をして不公平なご褒美と交換するようにすると、チンパンジーやオマキザルは、自分が不当に扱われていることに気づくだけでなく、そのような扱いに対して憤慨する。交換に応じない、気に入らない食物をスタッフに投げ返す、あるいは少なくとも待遇に不満だという態度をありありと示す。

●チンパンジーの心には人間ほどではないが推論能力がある。しかし、オマキザルの分析能力ははるかに限られている。それでもオマキザルはチンパンジーのように、だまされると同様の嫌悪感を示した。したがって意識的な分析によって嫌悪感が生じたのではなさそうだ。

●オランウータンは逆に不公平に扱われても腹を立てない。人間以外の霊長類の中でも特に賢くて認知能力が高いのに、だ。理由は、チンパンジーやオマキザルと違いオランウータンは野生では単独で暮らしている。だから、彼らは協力をしないし、ほかの霊長類のように他者の信頼度を気にする必要もない。

●人間を対象とした研究から、心はしばしば状況を把握する前に判断をくだすことが一貫して確認されている。ニューロセプションはすばやく働くシステムで、意識的な思考を必要としない。人間やチンパンジー、オマキザルなどの社会的な種では、不公平な扱いに対する反応の多くは、時間をかけて状況を分析しなくても起こる。不公平な扱いや信頼の裏切りに対する怒りは、私たちのDNAに刻まれている。

●チンパンジーやオマキザルでは、不当に多い報酬を断るふるまいも見られた。長期的に信頼できるパートナーだという信頼を得るためには不公平を断ることも大事。

●チンパンジーにはパートナー候補を見分ける能力が十分にある(アリシア・メリスら)。2党が互いを信頼して協力しないと解決できない課題を出すと、チンパンジーは過去に食物を自分と公平に分け合った個体をパートナーに選んだり、すでに実力を示している個体を選んだ。

●オキシトシンに関する知見。
オキシトシンの鼻腔からの吸入量を増やすと、人がたとえ裏切りに遭っても相手を信頼し続けることを示した。

●オキシトシンの二面性。オキシトシンは確かに信頼や絆を強めるが、一方で不信や嫉妬、差別も煽る可能性がある。どちらになるかは文脈次第で、信頼にかかわる事柄では相手の素性によって決まる。

●オキシトシンの暗黒面。オキシトシンには信頼や協力を増す作用も減らす作用もある(カルステン・ド・ドリュの研究)。決断を左右したおもな要因は、相手の身元。外集団のメンバーにかかわる決断の場合、オキシトシンは温かい気持ちを引き出さず、それどころか差別的な決断を導いた。そのような決断は、よそ者ではなく自分やない集団の利益を優先する偏見の存在をはっきりと示していた。

――「自国ファースト」を叫ぶ大統領やその支持者の姿はあまり気持ちのいいものではないが、あの人たちもひょっとしたらオキシトシンの申し子かもしれない?

●道徳にかかわる出来事にかんしても結果はほぼ同じで、オキシトシンはつねに、外集団より内集団にとって有益な決断をくだす意欲を高めた。生か死かの場面でよそ者より同胞のほうを多く助ける決断を進んでくだした。要するに、オキシトシンが多いと、自民族中心主義や偏見の増大につながるのだ。

●オキシトシンはたいてい信頼感を増すが、その効果は相手に対する好感度によって左右される。たとえば、自分をつねに負かしたり不公平に扱ったりする相手と経済ゲームをした場合、オキシトシンが増えると妬みが助長される。したがって、オキシトシンが多ければ、相手がついに負けたときに、いい気味だという気持ちが強く引き起こされる。

――愛、憎ともに強くなるんでしょうかね。これ、従来男性のほうが競争相手の不幸に非共感的で、女性はその点競争相手にも同情する、という風に言われていたのと逆なような気がするんですが、オキシトシンが多ければ競争相手に同情できる、と思っていましたから。あと「ねたみ」は、よくタイプわけサポーターさんやFタイプの人はもっとも承認欲求が高く承認されないとひがみやすい、という説明をしますが、この人たちは妬みも強いのかもしれない。良くも悪くも感情が濃いというのはそういうことなんですね。

●オキシトシンはいつまでも相手を信頼しているわけではなく、しばらくすれば、あなたは信頼できない人を嫌い始める。特に興味深いのは、血管を駆け巡っているオキシトシンが多ければ多いほど、そのような人々に対する嫌悪や彼らの痛みに対して覚える喜びが増すほか、進んで痛めつけたいという思いさえ強くなることだ。

――可愛さあまって憎さ百倍ということか。これもこわっっ。この本を読むと、ポール・ザック本を読んで得たオキシトシンへの好感がふっとんでしまいそうだ。

●人間には、他者への信頼と自分の誠実さを高める生理的なメカニズムだけでなく、それとは逆に働くメカニズムも備わっている。人間は安心できる他者がいるときには心が落ち着くシステムを持っており、そのようなシステムはコミュニケーションや支援、信頼を促す。一方、人間は霊長類と同じく、これらの反応を修正するシステムも持っており、そのようなシステムは行動や技能に基づいて信頼できる人物を自動的に判断しようとする。そして、目の前の人が何となく信頼できなさそうなときには、相手を避けたり、相手を犠牲にして自分が得をするように振る舞ったりして、その人物の意に反する行動をしようとする。


――ここからはいよいよ「学習と信頼」の話。研修講師にとっても関心の高いところだ。案外シンプルな話なのかもしれないが……、

●何かを知りたいとき、大人ならいくつもの手段を自由に選べる。図書館やデータベースで疑問について調べることもできるし、実験をして自分の考えが正しいかどうか確かめることができる。それができないときは、誰かの話をそのまま信じるという選択肢もある。

●7歳ぐらいまでの子どもは使える調査方法があまりない。推論能力どころか語彙力もないので、Googleやウィキペディアを使いこなすこともできない。自分で実験して何かを学ぶ能力も限られている。

●実験で、子どもは自分の間違いから学べないことがはっきりした。何回間違えても、子どもたちは考えを変えなかった。幼い子どもたちは、重力の働き方についての思い込みに頼り続け、目の前のデータを無視した。子どもは実験や観察だけで学べるわけではない。

●そのような子どもは何から学ぶのか?第3の学習方法は、他者の発言に頼ることだ

●以上から、教室での学習効果を高めるためには、教師は指導の際に社会的な側面を考慮しなければならない。生徒に見せる教師の社会的なイメージづくりを強化すれば、学習効果はさらに高まるだろう。

●子どもの無私の親切心。心理学者フェリックス・ワーネケンの実験では、生後18か月の子どもたちに演技者が困った状況に陥り助けを求めるところを見てもらったところ、大多数の子どもが、演技者が助けを求めているようにみえる状況で、その人をすぐさま助けに行った。人を助けたい、人に協力したいという衝動は、1歳半になるころにはすでに目覚めている。

●3歳の子どもでは、報酬をパートナーと分けるさい相手の働きのほうが良ければ報酬を半々に分け、自分の働きのほうが良ければ相手に少なく与えた。相手の働きのほうが良いとき、誠実な振る舞いを促す心理的メカニズムと、利己的な振る舞いを促す心理的メカニズムとのあいだに根本的な対立が起こっている。

●子どもは8歳になるとこのような報酬の分け方をすると長期的にはトラブルを招きかねないことを学び、大人と同じように不公平に対して、少なくとも人前では強い嫌悪感を示す。この年頃の子どもはパートナー候補がいると、通常は不当に多い報酬を拒絶する。

●以上をまとめると、子どもは、公平かつ立派にふるまう動機がもともと備わっている。信頼や協力を促すメカニズムと、それとは逆に働くメカニズムが幼い子供の心に共存している。ただしだからといって道徳を教える必要がないわけではなく、子どもに約束を守る価値を教えれば、子どもが約束を守る見込みは確実に高まる(特に、子どもがあなたを信頼しているならば)こうした道徳的な価値観を身に着ければ、意識的な心が大いに働くようになるだろう。

●赤ちゃんでも道徳的に信頼できる他人を見分けられる。ブルームとウィンの実験では、「登山者」「協力者」「妨害者」の操り人形の劇を見せたところ、登山者が協力者ではなく妨害者のほうに飛び跳ねていってペアになると(期待違反課題)、赤ちゃんは信じられないという顔でその新しくできたペアに視線が釘付けになった。生後6か月の赤ちゃんは、二体の操り人形のうち、協力者か妨害者のどちらかを抱いてもいいよと言われると、すべての赤ちゃんが協力者に手を伸ばした。人形の色や形は重要ではなかった。

●信頼は誠実さと能力で決まる。子どもに潜在的な知的能力を存分に発揮してほしければ、子どもが最適だと思えるタイプの指導者をあてがわなくてはならない。

●また、子どもが成長するにつれて、子どもが重視する信頼関連の特性が変わることへの注意も必要だ。幼い子どもの心は、母親や父親など、自分と似ていて安心できる相手から学びたがる。だが、初等教育の初めごろにもなると、自分との類似性や気安さへの関心は薄れ、能力や専門知識を重視するようになる。子どもの潜在的な学習能力を最大限に引き出したければ、指導する者は、感じはいいけど重要ではない人物として無視されないように、専門知識を示す必要がある。

――ここですね。わたしは研修業界でも珍しく、仕事上のパートナーの方には「○○先生」と呼んでいただくようにしている。大多数の講師のかたが「さんづけでいいですよ」と仰っているなかでは、それは傲慢に映るかもしれない。しかし、受講生さんがよりよく学んでいただくためには、講師は「専門知識のある人」とみなされたほうがいいのだ。親しみやすく感じのいい人、ではなく。「さんづけ」は主にアメリカの教師生徒の間の民主的関係を重んじる20世紀後半の思潮の影響ではないかと思うのだが、その思潮にあまり妥当性はないと、近年の研究は教えてくれる。

ーーまた、このブログで何度か取り上げた「社内講師」の問題について。以前にも言ったように、管理職の受講生さん方は、圧倒的に豊富な知識スキルを持った「先生」に出会いたいのだ。人事の人などが社内講師を嬉々として買って出るとき、マネジャーのこうした密かな望みは無視されている。



――ここからは恋愛と結婚の話題。

●恋愛や結婚の関係の数十年に及ぶ研究や数百年にわたって培われてきた常識から、二人のコストと利益がだいたい同等な関係が、最も満足できて長続きするらしいとわかっている。二人の関係をうまく維持する秘訣は、ずばり相手が高く評価する分野で利益を与え合うことだ。そして、主観的に見て受け取る利益と支払うコストが同等ならば、その関係は順調に進む。

●このバランスをとる基本的な方法の1つは、誰が誰のために何をしたか、今後何をするつもりかを記録するだけでいい。

――行動承認ですね

●現実問題として、人間の心がいちいち正確に記録することなどできるはずはない。ここで信頼が登場する。信頼は、コストと利益を事細かくたどる必要性を取り除く認知的近道の役割を果たし、長期の関係を築いている人の心で計算の負荷を軽くするのだ。

●恋愛関係に信頼が生まれると、関係の快適さに著しい変化が起きることが多い。それは、その関係が長続きする新たな段階に入りつつあることの表れだ。この変化は「交換的」関係スタイルから「共同的」関係スタイルへの移行と呼ぶ(マーガレット・クラーク)。交換的関係では、互いにコストや利益を遠慮なく記録しようとするが、共同的関係では、交換の監視に費やされていた多くの思考力が解放される。

●互いに信頼感の高いカップルは、対立する話題について話すときそうでないカップルに比べて折り合いや協力の程度がはるかに大きかったのだ。彼らは、相手の望みを聞いてそれを真剣に受け止めることにより前向きだった。また、二人ともが受け入れられる解決策を見出そうとする意識も高かった。信頼は、心が長期的な利益より短期的な利益に注目しがちなのを抑制しようと働く。

●話し合いを始めたカップルがもとから相手に高い信頼を置いていた場合、自分が図ってもらった便宜を過大評価することがよくあった。相手を信頼しているほど、相手の行動を貴い犠牲とみなす。

●信頼は逆の方向にも同様に働く。相手の犠牲を価値あるものと見なすほど、相手に対する信頼がさらに高まる。互いに高い信頼を置いていたカップルは話し合いの後、相手をさらに信頼していた。信頼が信頼を生む好循環。

●信頼がバイアスをかける力、つまり相手の話し合いの態度を実際より誠実なものと心に受け止めさせる力は、寛大なしっぺ返し戦略に似た機能を果たす。

●「直感的な信頼」とは、相手の信頼度について意識の外でおこなわれる評価を意味し、「衝動的な信頼」とも呼ばれる。自動的で絶え間のない計算によって更新される相手の信頼度についての感覚ということだ。もう1つは「理屈に基づく信頼」あるいは「思慮に基づく信頼」だ。それは直感的な信頼とは対照的で、慎重な分析に基づいた評価を指す。

●2つのシステムの相互作用。カップルたちが、信頼を揺るがす問題を意識的なレベルと無意識的なレベルの両方でどう乗り切るか。過去20年に及ぶ心理学研究から、意識的な心が直感的な評価を覆す気にならないか覆せない場合には、直感的な反応が行動を誘導するという一般原則が導かれている。思考には時間がかかり、直感的な決断はすみやかで労力を要さない。

●実行制御力。意識的な分析の結果を優先して直感的な反応を抑える力。実行制御力があるほど、気を散らすものや時間の制約があっても分析能力は影響を受けない。つまり、直感的な反応を抑えやすい。

●実行制御力が高く、思考力を十分に使って相手の行動を慎重に分析した人は、カップルのあいだで疑わしい出来事が起こったときも、たいてい思慮に基づく信頼に従って、相手との付き合い方を決めた。また実行制御力の低い人は、直感が実際の反応につながること多かった。

●つまり、直感は相手の信頼度に大きく影響を与える。実行制御力の高い人でも疲れていたりひどく動揺していたり寄っていたりするとき、何かが起きて相手に対する信頼に疑問が生じたら、無意識的な心の判断に従う。

●思慮に基づくプロセスよりも直感的なプロセスから正しい情報が得られる可能性が高い。どちらのメカニズムも完璧ではないが、2つの組み合わせによって最良の判断が得られることが多い。

●嫉妬を理解するための2つの段階。
1.嫉妬がすべてセックスに絡むわけではないと認識すること。
2.三角関係の存在。

●ライバルにパートナーを奪われることへの不安には、それが現実になるのを防いだり、パートナーを取り戻したりする行動を起こさせるという特定の目的がある。

――おっ、「目的論」だ。

●嫉妬に襲われたときは、不安に怒りが混じっていることが多い。

●2つの予測:
1.もし嫉妬が信頼に関係しているのであれば、危機の初期段階で、人は嫉妬によってパートナーにもっと寛容になるように促されるはずだ。
⇒YES.嫉妬を感じていた人々は、相手からもっと頼りにされるような行動をとってからは、相手の熱意を疑う気持ちが少なくなった。
2.嫉妬は恋愛関係や結婚における現在のコストと利益だけでなく、将来的なコストと利益にも敏感に反応するはず、というものだ。言い換えれば、嫉妬は信頼にかかわるすべての現象と同じく、将来の影を敏感に察知して生じるに違いない。
⇒著者自身の研究。
YES,嫉妬は信頼が裏切られるのを防ぐ気にさせる。ライバルが自分やパートナーが高く評価する性質を持っている場合に嫉妬はピークに達する。嫉妬は実際には何か起きていなくても、将来に裏切られる可能性を追跡していた。

●嫉妬は今のパートナーだけでなく、かろうじて知っている間柄の人にも起こる(著者の研究)。数分間一緒に作業して好印象をもったパートナーが他の参加者を選択し裏切られると、「捨てられた」参加者は嫉妬の感情を報告し、機会が与えられるとほぼ例外なく以前のパートナーとライバルを罰した。嫉妬は将来見込まれる関係からくる利益が失われることを防ごうとする。

●怒りの結果として起こる仕返しの特徴:罰。

●「第三者罰」(行動経済学で知られる現象)。自分とは無関係なものに被害を与えた加害者を第三者の立場で罰する傾向を指す。数々の実験から、人は、たとえ自分は被害者でなくても、いかさまをするものをばするために金銭的な負担をすることが繰り返し示されている。

●嫉妬がDVのおもな原因になるのを防ぐのは困難(暴力による罰はよいことではないが)。




 前半部分は以上です。嫉妬のところ、こわかったですねー。
 後半部分は、「権力とカネ」や、お待ちかね「しぐさの心理学」的なお話が出てきます。なるべく早くアップします。乞うご期待。

 
「トラウマは存在しない」についての進展。

 結論から先に言いましょう、「トラウマはありまーす!」

 精神科医の先生により表現方法が違い、興味深かった。

 そのなかで日本トラウマティックストレス学会会長の岩井圭司氏(兵庫教育大学教授)からのメール。

 引用について正式のお許しがまだ出ていないので、要旨部分だけ抜き出すと、

※※※※

結論を先取りするならば、
> 1.動物でもトラウマに似た現象はあるのではないか
> 2.被災地にトラウマ、PTSDという現象はみられるのではないか
> 3.とくにASDの人ですと扁桃体が大きく、トラウマが残りやすいので、他人からみると些細なことでもトラウマになって動けないということが起きるの
> ではないか
>
すべてイエス、です。

で、敢えてわたくし流の独善的な言い方をするならば、
  PTSDはたしかに存在する。
  一方、トラウマは実在物ではない。ただ、構成概念ないし仮想実体としてのみ存在する。
ということになります。
・・・われながら、禅問答めいてきましたね(笑)

※※※※

と、いうことだった。

 ご自身は「隠れアドレリアン」とのこと。
 

 
 また今朝(2月6日)のNHK「あさイチ!」では、「いじめ後遺症」の特集をやり、そのなかで「トラウマ」に触れた。

>>http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/170206/1.html


※※※※

いじめの認知件数は、22万4,540件と過去最高(文科省調査・2015年度)。そんな中、子どもの頃にいじめを受けた人が大人になってもその後遺症に苦しむ“いじめ後遺症”の実態が、最近明らかになってきました。容姿のいじめをきっかけに何十年も「摂食障害」に苦しむ女性や、いじめから20年後に突然思い出して「対人恐怖症」に陥った女性もいて、多くの精神科医がその深刻さを訴えています。
いじめ被害者のその後を追ったイギリスの調査では、40年たってもうつ病のなりやすさや自殺傾向がいじめられていない人と比べてかなり高くなることが疫学的に明らかになっています。いじめはその人の健康リスクや人生までも脅かすのです。さらに、最新の研究では、いじめなどの幼い頃のストレスが、脳の形や機能に影響を及ぼす可能性も指摘されています。
番組では、知られざる“いじめ後遺症”の実態を明らかにするとともに、いじめの過去を精算する克服法もお伝えし、“いじめ後遺症”について考えました。

※※※※

という問題提起で、実際に”いじめ後遺症”に苦しむ人や精神科医が登場した。

 またこのブログで以前にも登場した、福井大学医学部の友田明美教授の研究により、

 幼少期の虐待で脳の一部の変形や萎縮が起こることが脳画像で示された。




 というわけで、トラウマは「あります」。この番組ではあまりにも「トラウマ」が人口に膾炙しすぎて否定的感情を生むことに配慮したためかあまり使わなかったが、ところどころではやはり「トラウマ」と言っていた。


 番組に登場した「いじめ後遺症」に40代になっても苦しむ女性は、摂食障害を患い、ずっとマスクを着けていた。
「誰かに認めてもらいたいと思うほうが高望みだし自分が我慢したほうが…」
という言葉が印象的だった。

 以前の「アドラー心理学特集」で「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」と大きなテロップで流したうっかりさんのNHK、軌道修正してきたか。


 一方で元アドラー心理学会会長の野田俊作氏(精神科医)とのメールのやりとりは昨5日まで続き、最後は野田氏の「コメント拒否」で完結したのだが、そこへ至るまでのメール公開はお許しいただいた。


 そこは「続き」部分で。続きを読む

 元日本アドラー心理学会会長で現アドラー・ギルド代表の野田俊作氏とメールのやりとりをさせていただいた。

 野田氏のご了承をいただき、そのやりとりを公開させていただこうと思う。

 かなり長いやりとりなので、中身は「続き」で…。

続きを読む

アドラー心理学入門表紙画像


※2017年2月1日現在「アドラー心理学 批判」のキーワードで、Googleのトップから4本、当ブログ記事がランキングされるようになっていました。ありがとうございます。


 『アドラー心理学入門』(岸見一郎、ベスト新書、1999年9月15日)。

 『嫌われる勇気』の系統の「アドラー心理学」をわたしが看過できない理由は、ひとつにはそれが若い人たちに及ぼす影響の深刻さを考えるからだ。周囲の人に心を閉ざし人との交わりから学んだり視野を広げたりすることができない。頼るのはもっぱらネット情報。そのもとからある傾向に「承認欲求を否定せよ」「人の期待に応えるために生きているわけではない」が拍車をかける。

 2つ目は、なんども書いていることだが「トラウマは存在しない」といったフレーズの傲慢さ。医療でいえば(精神医学も医療だが)ある特定の疾患について「存在しない」と言い切ってしまうことがどれほどその患者さんたちにとって残酷だろうか。

 3つ目は、笑われるかもしれないがアジア各国に我が国発でおかしな不良品を垂れ流しているということが我慢ならないのだ。それは過去に「トヨタやソニーの国」と尊敬された時代をなまじ知っているからかもしれない。


 そんなわけで異常な執念のようではあるが岸見思想の源流を探るため『アドラー心理学入門』を手に取る。1956年生まれの著者の43歳当時の著作ということになる。

 
「アドラーは人間の悩みはすべて対人関係の悩みである、といっています」(『個人心理学講義』26頁)(p.44)

 「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」。このフレーズも以前から不思議だった。せっかく出典が付してあったので手元にある『個人心理学講義』の該当のページを調べてみたが、そんなフレーズはない。版が違うからだろうかと、その周辺のページをくまなくみたが、やはりない。

 かろうじて近いと思われるのは、

「個人の人生を統一のとれたものと見なすことに加えて、人生を社会的な関係の文脈と関連づけて考察しなければならない」

という書き出しで、劣等コンプレックスにつながる話をするくだり。個人・個体として見るだけではなく周囲の人間関係も見なさいよ、と言っている。治療者としての視点で書かれており、「人間の悩みは」などという哲学者めいた主語のセンテンスはない。
※2017年2月現在、このフレーズは出典を付さないまま他の捏造語録と同様、「アドラー心理学ではこう言います」「アドラーはこう断言しています」とネット上に流布している。捏造語のリストはすなわち巨大なフェイク・ニュースの塊なのだ。

※※その後『人生の意味の心理学』を探すと、やや近いと思われるフレーズがあった。それでも言っている中身は「人間の悩みは…」とは180度真逆である。冗長になってはいけないので、この記事の末尾に追加したい。


 やれやれ、この時期から既に奇妙なフィルターをつけて「アドラー心理学」を名乗っていたのだ。

ちなみに昨年5月にまとめた「捏造語リスト」はこちら
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html">http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 このあとは、岸見一郎氏の「息子さん」とその周囲の人にまつわる記述がある。「息子さん」についていろいろと感じることはあるがここでは触れない。

 このあとp.48-69あたりは、「目的論」の題目のもと、アドラーのみた問題行動をとる子どもに関する記述が続くが、たしかにこれらは子どもが「注目を引きたい(=承認欲求の一部。自己顕示欲)」あまりに問題行動をとるケースのようである。これらの症例に目が釘付けになっていると、いかにも承認欲求はわるいもののように見えるだろう。

(ちなみにこの本にはまだ「承認欲求を否定せよ」のフレーズは出てこない。やはり、出版界の「承認欲求バッシング」の尻馬に乗った捏造と考えていいのだろう。「承認欲求バッシング」は2008−11年ごろ流行った出版界の潮流である)

 ただし、アドラーはカウンセラーとして問題のある子どもを診てはいたが、自分の子どものことはよく見ていなかったということにも注意しておきたい。普通の子どもの中にも自然に「注目されたい」という承認欲求はあるし、親はそれを適当に満たしたり、無視したりしている。その中の病的な領域の子どもがアドラーの元を訪れるわけである。病的でない普通の子どもの日常生活をアドラーがどこまで見ていただろうか。

 また、「目的論」の正当性がもっぱらこれらの「注目を引きたい子ども」の症例によってサポートされているなら、だからといって「原因論」を完全否定することはできないだろう、という結論にもなる。注目を引きたいだけの子どももいれば、ひどいいじめに遭って外に出たくなくなり、今も人の目が怖いと思っている子どももいる。



 「課題の分離」と「責任・責任範囲」というふたつの概念についても色々と思うところがある。
 アドラー(と岸見氏)が「課題の分離の例」として挙げる例のうち、かなりの部分が、「責任感の高い人だったらその課題までを自分の責任範囲とみなすだろう」というもの。課題の分離と責任範囲と2つの物差しを見比べてどちらを使うのがふさわしいか決めないといけない。また、特に企業のマネジメントでは部下の一挙手一投足にマネジャーが責任を負うので(その感覚が肥大しすぎると問題があるが)「課題の分離」は、使えない場面のほうが多い。

もちろん、今のお受験目的で「勉強しなさい」といい続けて親子関係にひびが入っている例だとその限りではない。アドラー心理学が子育てに効くというのは、その「勉強しなさい」という言葉の多用を戒めるところではないだろうか。



 修学旅行中の電車の中での先生と生徒の会話。

●「『いいか、先生の降りる駅はA駅だ。君らが降りる駅は次の次のB駅だ。降り間違ってはいけないぞ』
 私がこの会話を聞いて感じたことは、先生が生徒を対等の関係の存在と見なしていない、ということです。
」(p.84)

 本当はこの前段もあるのであまりいい例とはいえないが、この先生の立場にも大いに同情してしまう。修学旅行である。失敗が許される場面とはいえない。もしそこで迷子が出たら、あるいは生徒たちが自分の正しい目的地で降り損なったためにコースの大半を辿れなくなったら、途中まで引率していた先生が責任を問われてしまう。電車の中という制約もあり、先生は短い指示語で言っただろう。それを責めるのもどうかと思うのだが。

 
 
●「アドラーはいっさいの罰に反対しました」(p.87)

 これも眉唾。さきの『個人心理学講義』や『人生の意味の心理学』などを読むかぎり、体罰や厳しすぎる態度に反対していたという風にしかとれない。ただアドラーの生きた時代には体罰は今よりはるかに一般的で、普通のご家庭でも子どもを鞭で打っていたので、それに反対したのは先見性があったのは確か。


「アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である、と考え、横の対人関係を築くことを提唱します。」(p.89)

 これには反論が3通りほど考えられる。
 まず、そもそもアドラーはそのようなことを言ったのか?ということ。ここでは出典自体述べられておらず、どこで言っているのかわからない。(もしこのブログの読者にアドラー心理学に詳しいかたがおられたら、ご教示いただきたい)
 2つめは、ネットでもよく見られる反論。「そうは言っても現実世界は縦関係で動いているではないか。親子関係も縦関係ではないか」というもの。
 縦関係を否定し、横関係を称揚するのは、学者やコンサルタントにはよくみられる。メディア関係者にもよくみられる。個人主義的で独立心高く、個として業績を挙げ、「上」からの管理を嫌う、その自分たちの性質を正当化するために、この人たちはよく「縦ではなく横関係」のほうを礼賛する。しかし多くの組織には当てはまらない。私はよくいうのが、「組織を否定するなら、電車が動いている恩恵にもあずかれない」。
 3つめは、「ケアと依存」のモデルだ。人は赤ちゃんのころ全面的に周囲の人に依存し、大人はそれをケアする。子どもはいずれ独立して巣立つが、やがて老人になり、またケアされる側になる。病気のときも然りだ。「私たちは依存がデフォルトなのだ」と上野千鶴子氏はいう。
 もちろんケア関係でも子ども・利用者の尊厳をとうとび、関係をより対等に近づける試みはなされる。それでも、「依存」という現実はなくならない。完全な横ではなく、斜め横ぐらいになるだけだ。依存することを弱者に許さなければ、生存すること自体できない。

 このあとにアドラー心理学の継承者であるリディア・ジッハーのロマンチックな言葉の引用が出てくるが(pp.90-91) この本全体で、アドラー以外の人名、たとえばソクラテスやプラトン、が出てくるときは要注意で、論理の筋が通っていないのを視点を変えて誤魔化しているようにしかみえないのだ。読者が反論するタイミングを逸するように仕向けているとでもいうか。


ほめてはいけないという話を聞いたある人が、その場にいあわせた小さな子どもに「おりこうさんやね」と声をかけました。ほら、そういうのがほめるということなのですよ(だからいけないんですよ)(p.95)

 これがまさに、上記の3つめの反論にあたる話である。わたしたちは体感的に、就学前ぐらいの子どもだと大人への依存度が非常に高いことを知っている。だから「上から」であろうと、ほめられたら嬉しいということを知っていて、学のない人でも自然と声をかけるものだ。とりわけ、親以外のよその人からほめられるとさらに嬉しいものだ。
 なのだが岸見氏は独自理論でこれを否定する。自然な近所の人同士の心のつながりを断ち切ってしまっている。


 さて、この本で「トラウマは存在しない」という言葉の起源らしいところを見つけた。それも意外な「出所」だった。

 V.E.フランクル『宿命を超えて、自己を超えて』(春秋社)の中の言葉として。

「フランクルがこの著書の中で非常に明確に、「反」決定論に立っていることは興味深く思います。『後まで残る心的外傷という考えは、根拠薄弱である」とフランクルは明言していますが、しきりにトラウマ(精神的外傷)が問題にされる今日、アドラーの見解は改めて考察するに値します」(p.138)

 つまり、「トラウマはない(んじゃないのか)」と言ったのは、アドラーではなくてフランクルである。岸見氏の頭の中で後年そこがごっちゃになってしまったのではないかと思われる。
 この文の末尾に「アドラーの見解は改めて考察するに値します」とあるので、アドラーがトラウマの有無について何か言った箇所が前段にあるのだろうかと探したが、見当たらなかった。岸見氏は他の論文か何かと混同したのだろうか。アドラーが言ったとすれば、これまでにみたように、「トラウマに新しい意味づけをして乗り越えよう」という意味の言葉である。
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.htmlなど参照。

 それと、フランクルのこの著作をまだ見てないのだが、フランクル自身はご存知のようにアウシュビッツの過酷な経験を生き延びた人だった。そのあとに精力的な学術発表を続けたから、「トラウマなど存在しない」と言う資格は、この人にはあるかもしれない、と思う。ただそれをほかの人に押しつけることまでできるかどうかはわからない。

 2月4日注:フランクルの『宿命を超えて、自己を超えて』を入手したところ、上記の「後まで残るトラウマは…」という言葉は、これもフランクル自身の言葉ではなく著書に登場する他の人の言葉の引用だった。伝聞として言っているのである。したがって「フランクルは明言した」は成り立たない。岸見氏の本の読み方や引用の仕方全体がおかしい、としか言いようがない。


 岸見氏が1999年のこの著作の中でトラウマ(精神的外傷)に言及した背景にはどんなものがあったろうか、とも思う。4年前の1995年に阪神大震災とオウム・サリン事件があった。97年には神戸で酒鬼薔薇の小学生連続殺傷事件があった。大事件事故災害のたびに「トラウマ」「PTSD」が話題になり、その治療技術をもつ臨床心理士が現地に派遣された。一般人の間でも「トラウマ」は日常語として、「俺、あの失敗がトラウマだよ」などと使われるようになった。

 「真性のトラウマ」もあるが「なんちゃってトラウマ」もある、そうした状況に苛立ち、「トラウマ」を標的にするようになった。そして著名人の言葉に「トラウマ否定」のフレーズがあることに救いを見出した、ということはないだろうか。

 
 『嫌われる勇気』の中の捏造フレーズ「トラウマは存在しない」は、昨年5月、NHK「おはよう日本」のなかでも大きなテロップで流れた。識者の懐疑的なコメントなどつけず、あくまで肯定的に。また最近書店で手に取った「常識のウソ」の本には、冒頭付近に「トラウマは存在しない」とある。理由は、「トラウマはフロイトが提唱したものであり、フロイトは原因論者で誤っているから」と、『嫌われる勇気』の論法そのままである。ライター自身が『嫌われる勇気』の信者で恐らく身内にトラウマに悩む人などいなかったのだろうし、編集部にもチェック能力が働かなかったということである。


 だから、ある程度大人の友人は「ウソなんか放っておけばいいよ」と言うが、わたしにはそうは思えない。本気で真に受けている人びとがいるからだ。とんでもなくいびつな人間理解がはびこり、どこかでそのために苦しんでいる人がいる。そしてアジア各国にも広まってしまっている。
 日本の片隅で、だれかが「それはおかしい」と言わなければならないと思うのだ。
 
 

※※「人間の悩みのすべては対人関係の悩みだ」に該当すると思われる『人生の意味の心理学』の中のフレーズ。

「われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない。…そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。…それゆえ、人生の問題へのすべての答えはこの結びつきを考慮に入れなければならない。」(p.11-12)

 ごく常識的な言葉である。しかしこれが「人間の悩みのすべては対人関係の悩みだ」というフレーズとして一人歩きしているため、TVドラマ「嫌われる勇気」の初回でヒロイン・庵堂蘭子の恩師は、この言葉のあとさらに「つまり他人さえいなければ私たちの悩みは消えるんです」と180度反対のことを言っているのである。
 

電通事件表紙画像

 『電通事件――なぜ死ぬまで働かなければならないのか』(北健一、旬報社、2017年2月1日)。昨年秋発覚した、入社1年目(当時)だった高橋まつりさんの過労自殺にまつわるタイムリーな本。

 結論からいうと、この本で分かったこと、分からなかったことがあった。


 分かったことから先に。

●「鬼十則」に長時間労働の推奨は見当たらない。しかし、時代はめぐり若者の気質も変わる。大学教授によると、「うちの大学でも、できる学生ほどまじめで、レールから外れることへの強迫観念が強い。それまで『ノーと言っちゃいけない』『意見を言っちゃいけない』と育てられてきましたから」。まじめで従順なサラリーマンが増えた電通で、「鬼十則」はたぶん、制定当時とはかなり違った読まれ方をしたのではないか。

●高橋まつりさんの過労自死は、2016年9月30日、三田労基署が労災認定。10月14日には東京労働局が電通本社を抜き打ちで調査。さらに11月7日の家宅捜索では88人の労働基準監督官が電通本社と3支社に踏み込んだ。

●12月28日、法人としての電通と幹部社員の労働基準法違反(違法な長時間労働)の疑いで書類送検。この日の送検は一部の容疑に絞ったもので、捜査は今(17年1月)も継続中。

●高橋さんは2015年4月電通に入社、インターネット広告を扱うデジタルアカウント部に配属される。「主な業務は、ネット広告のデータを集計・分析してレポートを作成し顧客企業に改善点などを提案して実行すること」(川人弁護士)。

●10月の本採用から忙しくなり、10月から11月初めにかけて長時間過重労働が続いた。
 高橋さんのツイッターやLINEなどによると
「休日返上で作った資料をボロくそに言われた もう体も心もズタズタだ」(10月13日)
「もう4時だ 体が震えるよ……しぬ もう無理そう。つかれた」(10月21日)
 10月25日の週には、日曜日の午後7時半に出社し、水曜日午前0時42分まで会社にいた。その水曜日も、朝9時半に再び出社。

●残業時間を少なく見せる方法。
「中抜き」。たとえば実際に退社したのは22時でも、20時から22時までは仕事をしていなかったことにする。
「私事在館」。自己啓発や忘れ物など私的な理由で会社にいたとウソの申告。

●2016年12月28日、電通は労基法違反の疑いで書類送検されたのを受け初めての記者会見、石井直社長が辞任を表明。そこで2015年4月以降「三六協定違反ゼロ」に取り組んだ結果、過少申告が急増したことを認めた。

●パワハラの風土。元電通マンの証言によれば、残業が月200時間を超え、会議中ウトウトすると「体調の管理、できてねえのか」と叱責される。上司に殴られ頸椎損傷のケガ。軍隊組織で新人は1番下。いじめて使い倒す。

●有名な社内行事「富士登山」。7月に社員が富士山に登り、山頂郵便局から得意先に暑中見舞いのはがきを出す。関連会社も含め400人ほどの社員が登り、走らせる。

●ネット広告時代への対応の遅れ。
 既存マスコミの広告の落ち込みをネット広告で代替しようと躍起だがそれがうまくいっていない。
「マネジメント層にデジタル・リテラシーが低すぎて」(=ネット広告の実務が上司にはよくわからない)
 IT、システムの仕事は、年長の役員、管理職には技術が乏しく、仕事のイメージと納期と価格だけ上で決めてきて、実際の作業は20代、30代に回し、上司が配慮しきれずに過重な責任を負わされる。

●「高橋さんの上司は、『間に合わないぞ』『頑張れ』と叱咤するばかりで、実際の仕事の進め方に即したアドバイスができなかったんじゃないでしょうか」(立教大・砂川教授)

●テレビ、新聞など既存メディアへの広告と違い、デジタル広告は終わりがない。表示回数、クリック数などで効果が細かく測定され、その結果次第で、どう掲載するかを変えることができる。「できる」ということは際限がない。

●ネット広告部門は高橋さんが亡くなる前に無理がきていた。2016円9月、ネット広告での不正請求が発覚。

2015年10月、高橋さんの部署は人員が14人から6人に減らされ、高橋さんはそれまで担当していた保険会社に加え、証券会社も担当させられ仕事量がぐっと増えた。予定通り売り上げが上がらなかったから投入する人数を減らすことで「部門採算」の黒字化を図ったのか?

長時間労働の背景に「クライアント・ファースト(お客様第一)」。所定外労働(残業)が発生する理由を企業側に聞くと、「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要があるため」が多い。とりわけ情報通信業では「顧客(消費者)からの不規則な…」が65.0%とダントツ。顧客のありとあらゆる注文や要望、時にはわがままに振り回されて働き過ぎが発生する。

●自発的な働き過ぎ。クリエイティブ部門では、いくら時間をかけても、作品の完成度はキリがない。TVは24時間放送、新聞もネット展開と、24時間365日「オン」が続きかねない状況が出現した。

●投入した労力を請求に載せられず、「一式いくら」のように決まる商慣行。受発注と制作のルールがない。

●今50代、60代の経営層、マネジメント層が、高度成長期やバブル期の成功体験のまま、今でも会社を運営している、そこに無理がきている。

●安倍首相「働き方改革」の本音。2016年10月19日、「働き方改革に関する総理と現場との意見交換会」(第2回)の冒頭あいさつ。
「働き方改革は、安倍政権にとって最重要課題の1つです。なぜ最重要課題化と言えば、日本は人口が減少していくわけですが、その中でも成長していかなければ、伸びていく社会保障費に対応できない。そのためには生産性をあげていかなければいけない、という側面があります。働き方改革を進めていくことで生産性の向上に結びついていくと同時に、それぞれの人々にとってより豊かな人生にも結び付いていくのではないか」

●2016年9月21日、ニューヨークでの金融・ビジネス関係者との対話では、
「この問題は、社会問題である前に、経済問題です。我々は労働参加率を上昇させなければなりません。賃金を上昇させなければなりません。そして、労働生産性を向上させなければなりません。『働き方改革』が生産性を改善するための最良の手段だと信じています」

●「世界で一番企業が活躍しやすい国」という企業ファーストの政策目標と、「働き方改革」という一見働き手に寄った施策とは、どういう関係にあるのか。

●「残業代ゼロ法案」(労基法改正案)の2つの眼目:
・労働基準法の労働時間規制が適用されなくなる「高度プロフェッショナル」と呼ばれる働き手を作ること
・企画業務型裁量労働制を営業社員などに広げること

●「残業代ゼロ」の先例は学校教育現場。東京都内で2012年度の小中学校の「定年以外の理由での退職者」のうち10.5%(14人)が在職死、13年度は14.4%(20人)が在職死。

●OECDが2013年に実施した「国際教員指導環境調査」(TALIS)でも、教員の週労働時間の平均が38.3時間なのに対し、日本は53,9%と突出している。

●週60時間という過労死ラインを超えて働いている教員は小学校で72,9%、中学校で86,9%。

●文部科学省によれば、2015年度に病気で休職した公立学校の教員は7954人で、そのうち5009人(62,9%)がうつ病など精神疾患が理由だった。

●経団連の意向。日本を代表する大企業の多くが「過労死ライン」を超える三六協定(特別条項)を結んでいる。特別条項のある大企業の1か月の残業の上限は、過労死ラインの80時間超が25%、100時間超も7%もある。三六協定の上限が長い企業は実際の残業時間も長くなる傾向にある。

●インターバル規制についても、経団連はまだ前向きとはいいがたい。

●操業短縮の波。ロイヤルホスト、マクドナルド、吉野家など外食産業での24時間営業の中止。イオンの営業時間短縮、三越伊勢丹ホールディングスン1月2日休業など。背景には深刻な人手不足。

●中小企業でも改善の動き。親会社の要求を満たすと社員に負担がかかるため、完全下請け部門を廃止したところも。

●コンビニ店主のユニオン設立の動き。2014〜15年、本部に団体交渉応諾を命じられる(係争中)。

●2015年12月8日、ワタミ過労死裁判和解。


 抜き書きは以上です。この問題の「おさらい」になりました。

 さて、分かったことも多々あったのだがとうとう分からなかったことは、亡くなった高橋まつりさんの上司とは、どういう人物だったのか。実は知りたかった。この本ではとうとう顔が見えなかった。どういう人物だったのだろう。何歳ぐらいだったのだろう。

 
 この本で訴えている「長時間労働につながる顧客を切る」というのは、実は過去の受講生さんに例がある。現関西国際大学経営学科長の松本茂樹さんが、2005〜6年、銀行支店長時代にそれをやっている。松本さんは「残業バスター」という目安箱のような箱を備え付け、残業につながる要因を行員に入れてもらった。そうして残業要因を特定し、それが顧客だとわかると自ら客先に乗り込んで改善を求め、改善してくれない顧客は「切る」ということもした。

 松本さんはこれに限らず恐ろしく先進的なマネジメントをやっているのだが、手前味噌だが一支店長の判断でそれができたのは、前提に「承認」で業績が上がっていたからできたのだ。

 
 そして、「人員削減」の話があった。高橋さんの部署は14人から6人に削減された、という話。
 ちょうど、最近ある鬱休職した友人の話を聴くなかでこの「人員削減」の話が出ていたのではっとなった。その友人は、3人でやっていた仕事をいつの間にか1人でやらされていて、それに対する配慮もねぎらいもない上司に失望して鬱になっていた。

 人をたんなる数字でみている、とも言えるが――、
 わたしなどは、やはり「承認欠如」の話に思えてならない。「行動承認」をするマネジャーであれば、人間を「活動する肉体」としてみるはずなのだ。そして3人でこなしていた仕事を1人でできるわけがない、ぐらいのことは想像できるはずだ。そして万一、部下がそんなめにあっていたら、ねぎらい労わらないわけがない。

 だから、以前「長時間労働以外にパワハラがあり、それは尊厳の軽視であり、すなわち承認の不在である」のようなことを言ったが、長時間労働自体もまた「承認欠如、承認の不在」の問題とも読み替えられるだろう。

 この本の帯には著名経営者や学者の「人命軽視」ととれる「長時間労働擁護」の言葉が並んでいて、本の中身を読む前にこれらの言葉と人名を読んである種、慄然となった。一時期は時代のヒーローと目された経営者たちではないか。わたしたちはある時代の価値観と訣別しなければならないのだ。

マネジャーの最も大切な仕事表紙画像


 『マネジャーの最も大切な仕事』(テレサ・アマビール、スティーブン・クレイマー著、英治出版、2017年1月25日、原題’THE PROGRESS PRINCIPLE: Using Small Wins to Ignite Joy, Engagement, and Creativity at Work’)。

 ハーバード・ビジネススクール教授の著者らが3業界、7企業、238人に対する1万2000の日誌調査を中心として創造性と生産性に関する35年間にわたる研究をまとめた。結論としては従来の常識と異なり、「進捗」こそが創造性と生産性の源であり、マネジャーの最も大切な仕事は、やりがいのある仕事が進捗するよう支援することだという。元早稲田ラグビー部監督、現日本ラグビーフットボール協会コーチング・ディレクターの中竹竜二氏が監訳。

 「行動承認」は、相変わらず正しい。この「進捗の支援」という新たな真実もそのなかに包含している。素直に喜びたい。(マネジャーに「やってほしいこと」を告げるうえで、その内容はシンプルであればあるほどいいのだ)
 とはいえ、あまり短絡的に結びつける前に、やはりこの労作の内容をじっくりみておきたい。中には、以前からある「外発」「内発」という用語の混乱について独特の解釈を施しているおもむきもある。(わたし的には賛同する)




 以下、恒例の抜き書きです:


どうすればビジネスの成功と社員の幸せを両立できるのだろうか?私たちの研究によれば、その秘訣は豊かなインナーワークライフ(個人的職務体験)を生み出す環境を作り上げること。すなわち、ポジティブな感情、強い内発的なモチベーション、仕事仲間や仕事そのものへの好意的な認識を育める状況をつくり出すことだ。


――「インナーワークライフ」。この本全体を通じて登場する言葉だ。押さえておきたい

●豊かなインナーワークライフとは仕事そのものから得られるものであり、仕事に付随する特典から生じるものではない。

●30年以上の研究を活用しながら、本書では7つの企業の内部に深く潜り込み、社員のインナーワークライフ――認識と感情とモチベーションの相互作用――に影響を与える日々の出来事を追跡した近年の調査に重点を置いた。
 
●驚くべき結果が判明した。彼らの95%が、最も重要なモチベーションの源泉について根本的に誤解していたのだ。各企業の内部をつぶさに追跡した私たちの調査が解き明かしていたのは、進捗をサポートすることが日々社員のモチベーションを高める最善の方法であるということだった。…しかしマネジャーたちは「進捗をサポートすること」をモチベーションを高める要素として最下位にランクづけしていた。

●従来の常識は優れたマネジメントにおける根本的な要素である進捗に向けたマネジメントを見落としている。私たちの研究によれば、マネジャーが進捗に着目したときに決定的なマネジメントの影響が現れる。


●インナーワークライフとは豊かで多面的な現象である。

●インナーワークライフは「創造性」、「生産性」、「コミットメント」、そして「同僚性(collegiality)」というパフォーマンスの4要素に影響を与える。私たちはこれをインナーワークライフ効果と呼ぶ。

●インナーワークライフが会社にとって大きな意味を持つのは、会社の戦略がどれほど素晴らしいものであっても、その戦略の実行は組織内の社員の優れたパフォーマンスに依存するものであるからだ。

――大いに同意。戦略が大事でないとは言わないが、戦略を実行するのはつねに「社員のパフォーマンス」という問題が横たわっている。だから戦略が横並びであれば、「行動承認」のマネジャーたちはつねに「1位」をとる…

●インナーワークライフは職場で起こる日々の出来事に深く影響を受けている。

●インナーワークライフは社員にとって大きな意味を持つ。

●3つのタイプの出来事が、インナーワークライフをサポートし得る要素として次の順序で際立っていた。,笋蠅いのある仕事における進捗触媒ファクター(仕事を直接支援する出来事)、そして栄養ファクター(その仕事を行う人の心を奮い立たせる対人関係上の出来事)だ。

●インナーワークライフに影響を与える戦術の3つの出来事群のなかで進捗が最も大きな要素であることを指して進捗の法則と呼ぶ。インナーワークライフに影響を与えるすべてのポジティブな出来事のうち、最も強力なのが「やりがいのある仕事が進捗すること」である。

●この3つの出来事群がネガティブな形をとると(あるいは欠如すると)インナーワークライフは大きく暗転する。その3つの出来事群を、順に仕事における障害阻害ファクター(仕事を直接妨げる出来事)、毒素ファクター(その仕事を行う人の心を蝕む対人関係上の出来事)と呼ぶ。

――3番目は「ハラスメント」の問題とつながりそうですね

●他の条件がすべて同じである場合、ネガティブな出来事はポジティブな出来事よりも強い影響力を発揮する。

――だから「5:1の法則(ポジティブなフィードバックとネガティブなフィードバックの比は5:1であれ、という法則)」なんですね

●たとえ一見ありふれた出来事であっても――たとえば小さな成功や小さな障害であっても――インナーワークライフに大きな影響を及ぼし得る。




●インナーワークライフとはインナー(個人的・内的)なものだ。各人の心のなかに宿るものである。インナーワークライフは個人の職場での経験にとって重要なものだが、普通周囲からは認識できないし、それを経験している本人さえ自覚できないこともある。

●インナーワークライフとはワーク(職務)である。基本的に仕事上の出来事に対する職場での反応のことを指す。インナーワークライフは私生活での出来事によって影響を受けることもあるが、それはその出来事が仕事に対する認識、感情、モチベーションに影響を与える限りにおいてのことだ。

●インナーワークライフとはライフ(人生・体験)だ。自分の仕事はかけがえのないもので、自分は成功していると感じると、個人としての成功という人生にとって重要な要素に対する認識も向上する。仕事に価値がないだとか、自分は失敗していると感じると、人生から大きく勢いが失われるのである。

●インナーワークライフとは認識のことだ――マネジャー、組織、チーム、仕事、ひいては自分自身に対する好意的あるいは敵対的な(そしてときに漠然とした)印象のことである

インナーワークライフとは感情のことだ――ポジティブであれネガティブであれ、職場でのあらゆる出来事から生じる気分のことである。


●インナーワークライフとはモチベーションのことだ――何かをする際の、あるいはしない際の原動力のことである。


●日誌の分析を通じて、出来事に対する即時の感情的反応は、本人が思うその出来事の客観的重要度とは無関係に大きくなることがあると分かった。小さな出来事の28%が大きな反応を引き出していた。つまり、人が重要ではないと感じる出来事でさえ、しばしばインナーワークライフへ大きな影響を与えていた。


●内発的モチベーションが下がるか、外発的モチベーションが上がると、結果として創造性が低下する。

――ここで「内発的モチベーション」として著者が挙げるのは、関心、喜び、満足感、仕事へのチャレンジ
また「外発的モチベーション」として挙げるのは、報酬、低評価への恐怖、勝つか負けるかの競争のプレッシャー、厳しすぎる締め切り、など。
 よく「賞罰主義を否定する」と言ったり、「内発、外発」の意味が混乱しているのだが、マネジャーの賞賛や励ましの言葉は、わるいものとして言われることの多い「外発的モチベーション喚起策」には入っていない。この本全体では、それらはどちらかというと「内発的モチベーション」を強めるものとして扱われていることに注意したい。
 要は、お金、昇進、(賃金や昇進を決める考課としての)評価、競争での勝ち負け などが外発的報酬(外発的モチベーションを喚起する報酬)。
 また、外からであれ内からであれ、精神的な喜びや満足をもたらすものが内発的報酬。

 ちょっとわかりにくい。
 ここでは、行動理論でいう「強化子」の概念とは、少しズレた意味合いで使われている。
 「強化子」は、むしろ大きな概念なのだ。上司からのほめ言葉も、賃金も、お客様からの喜びの声も、仕事そのものからくる手ごたえも、たとえば本書で重視する仕事の「進捗」も、すべて仕事を促進する「強化子」である。

 ところで、「外発・内発」の定義の分け方は、決して本書のようなものばかりではない。「上司や親や先生からのほめ言葉」も、「アメとムチ」と呼んで、「外発的報酬」に入れるものもある。
 当ブログの『報酬主義をこえて』にたいする批判のシリーズなど参照。

 なので、ここの定義は結構混乱している。比較的最近では、『ビジネススクールでは教えない世界最先端の経営学』でも出てきた話題。


 実務のなかでの対処法としては、
 「行動承認プログラム」を教える人が、もし今後「マネジャーからの承認の言葉は『外発的報酬』に当たるので、良くないものではないか」という反論に遭ったときには、本書を参照し、「マネジャーからの承認は『内発的モチベーション』を強化する役割を果たすので、『内発的報酬』に分類すべきだ」と反論すればよい。

 …正直、書いていてわたし自身あまり信じていない。あやふやな定義だ、と思う。「内発・外発」というくくりそのものが。
 しかし、次へ進もう。

●ある実験で72名の作家を集め、1つのグループには「ベストセラーを書けば経済的に保証される」などの外発的動機付けについて考えてもらったあと詩を書いてもらうと、その詩は「自己表現の機会を享受できる」などの内発的動機付けについて考えたグループのものより創造性が低かった。

●内発的モチベーションは組織内の創造性にも重要な役割を果たす。内発的なモチベーションが高いときのほうが個人としての仕事の創造性は高かった。

●心理学者のバーバラ・フレデリックソンあ、ポジティブな感情が人間の思考や行動の幅を広げるのに対し、ネガティブな気分には正反対の効果があることを理論的に解き明かした。

――このブログでは『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』という本の読書日記の中で触れています。いろいろと接点があるなあ。やっぱり「これは」と思う本はチェックしておくものですね

●仕事が実際に進捗すると、たとえば満足や嬉しさ、さらには喜びといったポジティブな感情が引き出される。進捗は達成感や自尊心、そして仕事やときには組織へのポジティブな認識につながる。

――「承認企業」では「企業理念への共感」が上がるという統計結果があるんですが、最後の一文はそのことを言っていそうですね

●ツイッターの共同創設者ジャック・ドーシーは、自分のアイデアで立ち上げた会社のCEOの地位を追われたことについて「腹を殴られたような」気分だったと表現している。…同じことが組織の上から下の人びとにまで言えることがわかった。仕事における進捗と障害がこれほど大きな意味を持つのは、仕事そのものが大きな意味を持つものだからだ。仕事とは人間の一部なのである。

――仕事が大きな障害に遭ったとき、自分が根本的に否定されたような感情にさいなまれる。自分も経験したこの感じ、わかるなぁ。

●人間の最も基本的な原動力のひとつは自己効力感――自分には望む目標を達成するために求められる作業をプランニングし実行する能力があるのだという信念だ。…仕事を通じて、人は進捗し、成功し、問題や作業を乗り越えるたびに自己効力感をますます強く育てていく。

●やりがいを失くす4つの道。
1.自分の仕事やアイデアがリーダーや仕事仲間から相手にされないこと。
2.自分の仕事から当事者意識が失われること。
3.自分たちが従事している仕事は日の目を見ないのではないかと社員に疑念を抱かせること。
4.頼まれた数多くの具体的な作業に対して、自分にはもっと能力があるのにと感じてしまうとき。

●進捗が人間のモチベーションにとっていかに重要か。マネジャーたちは気づいていないが、すべての優れたゲームデザイナーたちは、その秘密の事実を知っている。真に優れたゲームデザイナーは、ゲームのすべてのステージでプレーヤーに進捗の感覚を与える方法を知っているのである。

●感情に対する障害の効果は進捗の効果よりも強い。障害は、進捗が幸福感を増幅させる力の二倍以上の力で幸福感を低下させる。
 インナーワークライフへの影響力が相対的に弱いがゆえに、職場ではネガティブな出来事よりもポジティブな出来事が数で勝るように努力しなければならない。

●明確な目標は、触媒ファクターの主要な要素の1つだ。触媒ファクターはインナーワークライフに影響を与える3大カテゴリーのうち、進捗の法則に次ぐ効果を持つ。

●驚くべきことに、触媒ファクターと阻害ファクターは、まだそれらが仕事自体に影響を与えるまでに至っていなくても、インナーワークライフへ瞬時に影響を与え得る。

栄養ファクターの効果。ヘレンの休暇の申請に対して、「プロジェクト・マネジャーのルースからこれまでの働きに対する感謝と、この『自由な1日』はこれまでの懸命な働きぶりに対する報酬なのだと念押しが書かれたメモを受け取った。そのメモは私の気分を良くしてくれたし、このプロジェクト・マネジャーとチームを成功させるために、もっと頑張りたいと思わせてくれた。」ルースは栄養ファクターを行かしたのだ。

●栄養ファクターにまつわる4つの出来事。
1.尊重
2.励まし
3.感情的サポート
4.友好関係

●毒素ファクター。栄養ファクターの対をなすもので、正反対の効果を持っている。
4つの毒素ファクター:
1.尊重の欠如
2.励ましの欠如
3.感情無視
4.敵対

――「尊重」が一番上にきている。このことは大きな意味をもっている。人は、「下」にみられたくないのだ。できれば「対等か上」にみられたい。
 だからこそ職場の人にとってマネジャーとの関係はつねに悩みのタネだ。最近よく思うのは、「勇気づけ」を行うときにこの「尊重」の要素を欠いていると、いかに「勇気づけ」をしたつもりでも相手には「尊重欠如」になる、ということ。だから、「勇気づけ」にけっして反対はしないけれど、「勇気づけ」という言葉で意識するより他の言葉で意識したほうがいい結果につながりやすい、とひそかに思っている。やはり、「勇気づけ」はカウンセラーからクライエントへ、大人から子供へ、の目線が根底にあるのではないだろうか。

●多くのマネジャーは人間関係上のサポートが部下たちをやる気にさせ感情を上向かせるのに重要であることを知っているように見える。しかしこの栄養ファクターで難しいのは、このファクターが優れた仕事を讃えたり、長い1週間の終わりに激励の言葉をかけるだけにとどまらない点だ。人間関係のサポートはマネジャーが直接部下とやり取りするときだけに生じるとは限らない。それは部下同士が互いに栄養を与え合う基礎を築くことでもある。

――実はポジティブな職場風土を築くというとき、部下同士のよい関係にばかり着目して部下側に研修を施そうという考え方が根強いのだ。実際は、ポジティブな職場風土はマネジャーから発信される。このことはいくら言っても言い過ぎではないと思う。幸い、本書の著者はそのことがよくわかっている。(←えらそう)




 おおむね抜き書きは以上。

 有り難いことに「行動承認」は揺るがない。

 ハーバード大ビジネススクールという本書の著者の「環境」にも思いを馳せる。「論理的」であることを尊ぶ風土のところで、「感情」の重要性を言うむずかしさを、膨大なエビデンス群で跳ね返してきたであろう。その労を多としたい。

 そのうえで、現代はまた、「感情」のさらに高次のもの、「理性」についても言わなくてはならない。従業員の「感情」を尊ぶが、その主体であるマネジャーは「理性」の人でないと、という、入れ子状態。

 だが、恐れることはない。

 「誕生学」という分野が最近あるらしい。このところFacebookで話題になっている。
 子供がその年齢でなくなってだいぶ経つので、すっかりこういう分野に疎かった。
 
 「誕生学アドバイザー」という民間資格をもった人が小学校等を訪れ、「いのちの大切さ」を教える。

 この資格を認定している「公益社団法人誕生学協会」によると、誕生学スクールプログラムとは、

『誕生』を通して、子供に「自分自身の産まれてくる力」を伝え、生まれる力を再認識することで自尊感情を育むことを目的とした次世代育成のためのライフスキル教育*プログラムです。

 
と説明されている。


 一見すばらしい、誰にも反対できないような授業。しかし、これに疑義を呈する声がこのところ強くなっている。
 代表的なのが精神科医・松本俊彦氏の論考。

●「誕生学」でいのちの大切さがわかる? - 精神科医 松本俊彦

 ここでは、
・誕生学プログラムは自尊感情を高める効果はないこと
・自殺予防にはまったく役に立たないこと。むしろ自殺予防の専門家からみると非常にまずい
・中高生の約1割に自傷経験があり、この子たちに必要なのは「いのちの大切さ」の教育ではなく、他人に助けを求めるスキルと、信頼できる大人を探すスキルであること。またわたしたちが「信頼できる大人」であること。

を、述べている。

 誕生学は幸せに育った上位9割の人にとっての真実であり、深刻な虐待やいじめに遭ってきた1割の子どもにとってはただのきれいごとでしかない。

 なるほど。
 このところこのブログで批判している某「心理学」とも絡め、おおいに頷いてしまった。


 一昨日1月26日には、産婦人科医宋美玄(ソンミヒョン)氏が松本氏の論考に賛同するこんな記事を掲載している。

●「誕生学」に疑問 生きづらさを抱える子を追い詰めるのはやめて! 

誕生学は、感動させたい大人自身が満足するためのものになってはないでしょうか? 教育は子どものためであってほしいですし、それも本来、最も助けが必要な子どものためであってほしい。その子たちを追い詰めるような教育をして、大人が満足するなど、あってはいけないことだと思います。
 


 これも、なるほど、だった。


 ネットで見ると「誕生学」への批判は2012年ごろから出始めている。
 (松本氏や宋氏よりもっと過激なものもある)

 宋氏は上記の記事の中で

私自身、誕生学関係者にはよく知っている方々もいますし、共通の人間関係も非常に多いです。そのため、今までは批判をすることが 憚はばか られていましたが、よく聞いてみると、その中でも実は疑問に思っているという人たちに会い、勇気を持っておかしいと言うことにしました。


と、「批判のしづらさ」を乗り越えて今、はっきりと批判をすることにしたと述べており、こういう分野にもやはり乗り越えなければならない「壁」があることがわかる。



 今回は私があまり詳しくない分野のことなのであまり突っ込んだことは言えず、ほかのかたの議論をご紹介するにとどめたいと思うが――、



 某「心理学」のブームと一緒で、「想像力不足」があるのではないか、と思ってしまった。

 少数派の1割がどれほど傷つくかにたいする想像力の不足。
 それは某「心理学」の、「トラウマは存在しない」もそう。トラウマを抱える人にとっては残酷な言葉だ。また周囲の人にこういう考え方をする人が1人いただけで有効な治療が遅れてしまうおそれがある。
 「原因論はダメで目的論」というのも、上記の松本氏の記事のなかで、自傷行為をしたり「死にたい」という子供には「何があったか(原因論)」を十分に聴く姿勢で寄り添うこと、と述べている。常識的にはそちらだろう、と思う。フロイトが言ったからどうとか、どうでもいい。傷つき失意のどん底にある人に「あなたは目的があってそうしているのだ」と告げるとはいかに残酷だろうか。それは単に某「心理学」の限界を示しているに過ぎない。重症の人は力不足で扱えないのだ、という。


 社会の分断、想像力不足。先の米大統領選も含め、さまざまなことがつながっている。
 やりきれなさでしかこういうことを記述できない。
 

追記: もう一つ言うと最近学校で「自己肯定感を持とう」という出張授業をするのが増えているようなのだが、これにもわたし個人は違和感を禁じ得なかった。やはりいじめや虐待を受けた子供に、「自助努力」で自己肯定感を持てというのは無理があるのではないだろうか?信頼できる周囲の人との関わりの中で初めて自己肯定感を持てるのであり、こうした教育はまずは子供たちの周囲の人すなわち先生や親御さんにすべきなのではないだろうか?

読者の皆様は、どう思われますか。

 再度のアドラー心理学批判のまとめ記事である。今日は少し物騒なタイトルをつけてみた。

 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(いずれも岸見一郎+古賀史健、ダイヤモンド社)はそれぞれ2017年1月現在で累計150万部と44万部のベストセラーだ(同社調べ)。

 だがその論法を少し丁寧にみれば、この本の著者と想定読者層の独特の「認知的な偏り」をみてとることができる。既に日本の全人口の1,5%前後の方が購入した本であるが、その多くの方はこの本の内容をご自身の生き方やお子さんの子育てに応用する必要はない。できれば早めに内容を忘れたほうがいい、そういう本である。

 「この特性がなぜ発達障害?」と首を傾げる読者の方もいらっしゃるかもしれない。その場合は、発達障害の人の特性について比較的詳しいこちらのリンク先

●発達障害者は注意するのが好き?『大人の発達障害ってそういうことだったのか』を読む」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51873335.html

も、参照しながらこの記事を読み進めていただくとありがたい。

 また過去のアドラー心理学批判のまとめとしては、下記2本の記事がGoogleトップにランキングされているので、ご興味のある方はこちらも参照されたい:

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html
●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 さて、今日の記事の目次は以下の通り。今回も長い記事になるので本文は「続き」部分に。

1.オールオアナッシング、論理の飛躍
 ――フロイトが原因論ならアドラーは目的論だ!

2.「…してはいけない」「トラウマは存在しない」極論の否定形連発
 ――「構造化」が好きな発達障害者向けのパフォーマンス

3.体内感覚との乖離
 ――承認欲求への嫌悪、しかし本来は「共同体感覚」「協力」「貢献」と不可分のもの。

4.尻切れとんぼのプログラム、 「実行」への想像力不足
 ――ほめるを否定し勇気づけを肯定、承認欲求を否定して貢献・協力を肯定

5.現場的努力への不敬/「ほめる」「承認」が定着した職場や学校への異常な妄想

6.「すべての悩みは人間関係からくる」は出家遁世のすすめ

7.結局「何もしない」で、嫌悪の感情が残るだけ!!

8.「アドラー心理学離婚」も発生?「アドラー心理学鬱」は?

9.アドラーは科学哲学者ポパーの反面教師だった!

10.「行動承認プログラム」は、「能動態の承認」



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 アドラー心理学最新情報。アメリカの権威からみた「岸見アドラー心理学」とは。

 北米アドラー心理学会元会長のリチャード・ワッツ氏からメールをいただいた。昨日昼に思い立ってお問い合わせのメールを書いたところ、夜中にご返信があった。

 その内容をご紹介させていただきましょう:

著者はアドラーの教えについてアドラーとはかけ離れた解釈をしているようですね。

まず、他人の注目を集めることだけを考えて生きるのは不健全なことです。しかし、他者の承認を求めるのは正常なことです。私たちは所属とつながりの感覚を切望する存在なのですから。ヒトは社会的存在であり、よい関係性のためには協力は不可欠なものです。

第二に、上と同様、他人の期待だけに基づいて意思決定をするのは不健全なことです。しかしながら、周囲の人との協力という概念、また共同体感覚/社会的利益(ゲマインシャフト、共同社会)という概念は、関係性の中のギブアンドテイクを含むのです。それはすなわち、われわれは関係性の世界の中で自分の意思決定が他人に及ぼす影響を考慮しなければならないということです。自己の利益にだけ動機づけられているというのは正しくありません。

第三に、「他人の問題に介入しない」という概念は、主に問題を抱えたお子さんをもつ親御さんに向けて言ったものです。「絶対にしない(never)」という言い方は、アドラーもドライカース(注:アドラーの弟子の1人。アドラーの死後、アメリカでシカゴを拠点として活発なグループを設立し、個人心理学国際ニュースレターを発行した)もしていません。彼らは、「子どもにはできる限り自分の問題を自分で解決する機会を与えよう」と言ったのです。これは大人にも当てはまると私は思います。子どもが自分で解決できなかった場合、まただれかが攻撃的になった場合には、親や監督者が介入します。要は、私たちはほかの人たちに、自分で問題解決する機会をできるだけ多く与えるべきだ(そして私たち自身の問題解決にベストを尽くすべきだ)、介入したり助けを求めるのはそのあとだ、ということです。「絶対に介入しない」「絶対に助けを求めない」という言い方はアドラー心理学の常識を超えています。

このメールが助けになればと思います。

最高の勇気の表現の1つは、不完全であることの勇気だ。―アルフレッド・アドラー


リチャード・E・ワッツ、Ph.D.LPC-S, Distinguished Professor of Counseling
テキサス州立大学System Regents' 教授
サムヒューストン州立大学カウンセラー教育学科(テキサス州ハンツビル)

米カウンセリング協会フェロー
アドラー心理学会資格保持者
元北米アドラー心理学会会長(Past-President)

Hello, Sayo Sodo.

It appears the author takes some of Adler’s ideas far beyond what Adler meant.

First, to base one’s view of self solely on how much attention one receives from others is not healthy. However, it is normal to seek recognition from others in the sense that we all desire to have a sense of belonging and connection. Humans are social beings and cooperation is a crucial value for successful relationships.

Second, and similar to the first, to base all our decisions merely on the expectations of others is not healthy. Nevertheless, the notion of cooperation, as well as community feeling/social interest (gemeinschaftsgefuhl), with our fellow human beings includes relational give and take; that is, we should consider the impact of our decisions for others in our relational world and not be solely motivated by self-interest.

Third, the notion of not intervening in problems is typically addressed to parents when siblings are having difficulties. To use “never” is not what Adler or Dreikurs stated. What they said is that we should give children every opportunity to work out problems for themselves. I believe this applies to adults as well. Leaders should give those they supervise every opportunity to work our problems. If the cannot work them out, or if one of the persons becomes aggressive, then a parent or a supervisor should intervene. In summary, we should give others the space to work out problems as often as possible (and we should do our best to work out our own problems) before intervening or seeking help from others. To say we should “never” intervene or “never” receive assistance goes well beyond the common sense of Adlerian psychology.

I hope this is helpful. rew

One of the highest expressions of courage is the courage to be imperfect. - Alfred Adler
Richard E. Watts, Ph.D., LPC-S, Distinguished Professor of Counseling
Texas State University System Regents’ Professor
Department of Counselor Education
Sam Houston State University
SHSU, Box 2119
Huntsville, TX 77341-2119
Phone: 936/294-4658
Fax: 936/294-4277
Email: rew003@shsu.edu
SHSU’s CACREP Accredited Ph.D. Program: http://www.shsu.edu/programs/doctorate-of-philosophy-in-counselor-education/

Fellow of the American Counseling Association
Diplomate in Adlerian Psychology, NASAP
Past-President, North American Society for Adlerian Psychology (NASAP)
ResearchGate Webpage: https://www.researchgate.net/profile/Richard_Watts8
My Website: http://sites.google.com/site/richardwattswebsite/Home
Twitter: @Richard_E_Watts
Article on Reflecting As If in Counseling Today: http://ct.counseling.org/2013/04/reflecting-as-if/
ACA Podcast on Reflecting As If: http://www.counseling.org/knowledge-center/podcasts/docs/aca-podcasts/ht026-reflecting-as-if-(rai)-adler-and-constructivists-unite





 このブログの少し長い読者の方には、もうワカッテイルお話だとは思うが、こうして米アドラー心理学界の重鎮の方が言ってくださると重みがある。

 できれば、日本のアドレリアンの方々もきちんと発言していただきたいものだ。



※ちなみにワッツ氏から上記のメールをいただいた元の私からのお問合せメールはこういうものです:


こんにちは、私は日本の研修講師兼ブロガーです。
日本のアドラー心理学のトレンドについて先生のご意見を伺いたいと思い、メール差し上げました。
近年、アドラー心理学に関する『嫌われる勇気』という本が日本とアジアでミリオンセラーになっています。
私はこの本を読んだらとても変に感じ、アドラーの原著を読んでみたところ大きなギャップがあることがわかりました。『嫌われる勇気』は個人心理学について誤解を招いてしまうのではないかと思います。「他者からの承認を求めるな」「他人の期待に応えるな」「他人の問題に介入するな、自分の問題に他人を介入させるな」などと、アドラーの思想であるかのように言っているのです。私はそれは変だと思いましたしアドラーがそんなことを言うわけないと思いました。

先生がこの状況をどうお考えになっているかぜひお伺いしたいです。私の友人たちはこのままだと、アドラーの教えは若い人に有害な教えだと思われてしまうかもしれないと不安がっています。私たちに正しいお導きをください。

Mr.Richard Watts,

Hello. I’m a Japanese business instructor and blogger.
I’d like to ask you about your opinion on Japanese Adlerian trend, if you don’t mind.
These years, a Japanese book on Individual psychology, ‘Kirawareru Yuuki’ (means ‘Courage to be Hated’) has become million seller in Japan and other Asian nations.
I read the book and felt very odd, so I read Adler’s original works and found many large gaps between the books.
I felt the book, ‘Kirawareru Yuuki’, induces a lot of misunderstandings about the individual psychology. It says "do not seek recognition from others," or "there is no need to fulfill others' expect," or "never intervene to others' problems and never let others intervene to your problems" as if they are Adler’s thought. So I felt it odd and thought that Adler should not say such a matter.

Please tell me how you think about this situation. My friends are anxious that if it were in this way, Adler’s teaching would be taken as a harmful to young people. Please give us a collect guidance.

Thank you,

Best Regards

Sayo Shoda
Koyocho-naka 1-4-124-205, Higashinada-Ward, Kobe-City, Hyogo-Prefecture, Japan



 今日はとりわけ当ブログの「アドラー心理学批判」の記事にアクセスが多いです。
 たぶん、ドラマのせいです。

 「嫌われる勇気」フジテレビ系、木曜22時〜
 http://www.fujitv.co.jp/kira-yu/

 アドラー心理学をベースにした刑事もの。
 毒食わば皿まで、この国で起こっている思想的狂騒を見ておこうとわたしとしては珍しくTVをつけました。

 香里奈が、冷え冷えとしたなんの潤いもない心のヒロイン「アンドウランコ」を好演しています。

 岸見アドラー心理学本の文体をまねしてか、「明確に否定します」というセリフをやたら乱発。少女が泣きわめくのを尻目に満足顔でショートケーキを食べる冒頭シーンなどは異常性格にしか見えません。

 (あとのほうになると、「皆さんは先生がいいというものをすべていいというのですか?」なんていう、正論めいたことも言います)

 椎名桔平扮するヒロインの恩師役によれば、アンドウランコは教育を受けてそうなったわけではなく生まれながらのアドラー、ナチュラルボーンアドラーなのだそうで、これなどは岸見アドラー心理学はもともと適性のある人を吸い寄せる性質のものなので、違和感はありません。そのマイペースでやれる人はやればいい、ただそれをやる人達はなまじアドラー心理学というテキストを手に入れたので教条主義的になってすごく鬱陶しくなる、ということだと思います。自己正当化しまくってはいますが香里奈の表情はお世辞にも幸せそうとは言えません(このあたり、上手い演技なのでしょうか)

 で、アンドウランコ的生き方が成立するのは、「上司も同僚もあたしよりバカばっかり」という状況であるということも指摘しないといけません。現実にも遭遇する「信者」の方の周囲へのリスペクトの無さも想起します。普通はここまで極端な職場環境はあり得ず、上司先輩周囲の人々に教えてもらって仕事するのですから、「つながり感」はもっと重要なのです。アドラー心理学信者には世界はこのようにみえている、ということでしょうか。


 さて、「この国で起こっている思想的狂騒」という言い方をしましたが…、


 国際的にみても、やはり日本のアドラー心理学の現状はかなり奇妙なことになっているようだ、という証左をみつけました。

 元日本アドラー心理学会会長・野田俊作氏の昨年3月31日のエントリ。

 http://jalsha.cside8.com/diary/2016/03/31.html


 この記事では野田氏は、米国のアドラー心理学会関係者の問い合わせに答えてこんな苦渋に満ちた回答をしています。

残念なことに私は彼の本を好意的に評価することができません。彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。多くの日本のアドレリアンたちは当惑していて、彼の本を無視していますが、けれども彼の本は爆発的に売れています。たくさんの人たちが彼の本を読んでそれが与えた先入観をもって私たちの講座にやってきます。私たちアドラー心理学の教師たちは彼らの間違いを修正することでとても忙しいです。経済的には幸福ですが、学問的には不幸です。私たちは「アドラー・ブーム」に圧倒されていて、ただ台風が過ぎ去るのを待っています。これが私たちの状況です。



 いかがでしょうか。
 以前にこのブログに「日本のアドラー心理学関係者や研究者は、岸見氏の暴走を批判しないのでしょうか」というようなことを書きましたが、ここでは野田氏は「台風が過ぎ去るのを待っています」と述べています。批判を封じられており奥ゆかしいので、公に批判したりはしないようです。


 しかし、以前にも書きましたように「岸見アドラー心理学」はアドラーの原著から恐ろしくかけ離れたことを言っていて、ほとんど虚構に近く、しかも人間性に対して有害な要素がいっぱい入っているのです。下手にかぶれた人が気の毒なのですが。

 そんないわば”不良品”をここまで大きくしてしまったのは、早いうちに誰も適切な批判をしなかったせいなのでありアドラー心理学関係者らの罪は大きいと、わたしは思っているのでした。

(だから、畑違いのわたしが今やっているのです)
 

暴力の人類史下


 前記事に引き続き『暴力の人類史』(上)(下)(スティーブン・ビンカ―、青土社、2015年1月、原題'THE BETTER ANGELS OF OUR NATURE')を読んでいます。

 今日はその後半、下巻の「第8章 内なる悪魔」と「第9章 善なる天使」をじっくりと。いよいよ進化心理学者、認知科学者である著者ピンカーの本領発揮の、非常に読みごたえのあるところです。


 ですが、面白すぎてはしょれるところが少ない。ざくっとしたロジックの筋を追うことも大事ですがわたし的には脳科学の細かい知識のほうにも目が行きます。
 なのでこの記事は「続きを読む」を活用しようと思います。「ざくっとしたロジック」を表のウインドウで、細部の知識を「続きをよむ」で。


 「第8章 内なる悪魔」は、わたしたちを暴力的・攻撃的にさせる脳機能を扱います。これには5つのカテゴリーがあります。すなわち:

1.プレデーション(捕食):最も単純な種類の暴力で、ある目的のための手段として力を行使する。探索系によって設定される食欲や性欲や野心などを追い求めるために暴力が配備され、背外側前頭前皮質を格好の象徴とする脳内の知的な部分すべてによって暴力が誘導される。

2.ドミナンス(支配、優位性):ライバルよりも自らが優位に立とうとする衝動的欲求のこと。この欲求は、テストステロンを燃料とする支配系やオス間攻撃系と結びつくこともある。ただし、この欲求がオスだけのものというわけではなく、また個人間だけでなく集団間でも優位をめぐって争いをする。

3.リベンジ(報復、復讐):受けた危害を同じように返そうとする衝動的欲求のこと。直接的な主動力となるのは怒り系だが、その目的のために探索系を引き込むこともある。

4.サディズム:傷つけることそのものを喜びとする。

5.イデオロギー:あるイデオロギーを心から信じている人びとは、さまざまな動機を1本の教義に織りなし、そこに他人を引き込んで、破壊的な目標を遂げさせる。


 これに対してわたしたちを善たらしめる脳のはたらきがあり、これを「第9章 善なる天使」で取り上げます:

1.共感:「共感は過大評価されてきた」とピンカーは言います。

2.セルフコントロール

3.最近の生物学的進化?

4.道徳とタブー

5.理性

 このうちピンカーがもっとも期待と信頼を寄せるのは最後の「理性」です。「理性」は「セルフコントロール」や「道徳」と連携して「平和化効果」をもたらすといいます。
 加えて、人類のIQは20世紀初め以来、向上している(フリン効果)。自分の目の前のものだけでなく、より抽象的なものを理解し目の前にないものも推論できるようになり、この推論能力の向上が、「理性の平和化効果」と結びついて、20世紀後半の暴力減少や権利革命(人種、女性、子ども、動物など)をもたらしたのだろう、とピンカーはみています。

 本来凶暴なチンパンジーに近い人類が環境や文化や後天的努力によって長い平和を維持している。凄いことですね。


 大雑把にこれが『暴力の人類史』下巻の筋です。


 ところで、この原著の出版は2011年。この本には、最近のIS(イスラム帝国)の勃興やそれへの先進国の若者の参集はふくまれていません。

 また、「トランプ大統領」の誕生とそれを支えたアメリカの分断、それにネットデマの拡散や「PC(ポリティカル・コレクトネス)」への反動について、ピンカーはなんと言うだろう。という興味もそそられます。

 
 大統領選はるか前に書かれたこの本の中のひとつのヒントとして、ここには「統合的複雑性」という概念が出てきました。政治演説の洗練度を、「統合的複雑性」の概念によって測れる、といいます。

 たとえば「統合的複雑性」の低い文章は、「絶対に」「つねに」「間違いなく」「確実に」「完全に」「永遠に」「明白に」「疑いの余地なく」「まぎれもなく」といった単語を使います。
 文章の統合的複雑性は、それを作成した人の知能と相関関係にあり、特にアメリカ大統領において顕著だといいます。統合的複雑性があまり高くない言語を使う人は、フラストレーションに対して暴力で反応したり、戦争ゲームに参戦する機会が高いとも。

 そして、指導者の演説の統合的複雑性が低下すると、そのあと戦争が起きることが実証されているそうです。



 さあ、わたしたちが生きているのは「平和化から暴力化への揺り戻し」のプロセスなのでしょうか。
続きを読む

暴力の人類史












暴力の人類史下




 ちまたでは『サピエンス全史』が流行っているようです。
 
 そんなとき天邪鬼なのか、一昨年邦訳された大作『暴力の人類史』(上)(下)(スティーブン・ビンカ―、青土社、2015年1月、原題'THE BETTER ANGELS OF OUR NATURE')のほうを手にとるわたしです。


 『サピエンス全史』は、まあTVで結論らしきことをきいたからいいかと(笑)いや、なんか「持ってかれそう」な匂いも感じたんですよね。


 当面ここでは『暴力の人類史』から学べることを丁寧にみたいと思います。著者ピンカーは認知科学者。上巻は歴史と統計を駆使して人類史を通じて暴力は減少していることを実証。下巻は著者の本領発揮で脳科学、認知科学をフル活用しながら暴力をつくる脳と、それを抑制する脳の働きを説明してくれます。

 はい、実は2つ前の記事以来のわたしの「側頭頭頂接合部」にかんする説明のタネ本は『暴力の人類史』です。

 ピンカーの脳科学の説明のしかたや、過去の諸研究の押さえかた、それへの疑義の呈しかたと結論の立てかたは、わたし個人的に非常にすきです。このようにものを考えたいものだと思います。(ページ数を食う記述方法かもしれませんけれどね)


 
 この本によると、わたしたち人類は古代も中世も、今よりはるかに残虐でした。

 現代人の目から見ると、聖書に描かれた世界の残虐さは驚くばかりだ。奴隷、レイプ、近親間の殺人など日常茶飯事。武将は市民を無差別に殺しまくり、子供でも容赦しない。女性は人身売買され、セックストイのように略奪される。神ヤハウェはささいな不服従を理由に、またはなんの理由もなしに何十万もの人びとを拷問したり虐殺したりする。


 ヘブライ語辞書には「国家や王、あるいは個人が他の人びとを攻撃したり殺したりしたことを明示的に記している箇所が600以上ある。…ヤハウェ自身が暴力的な罰の執行人として登場する箇所がおよそ1000、主が罪を犯した者をそれを罰する者の元に送る場面も数多くあるが、それ以外にヤハウェが人を殺すように明確に命令する箇所は100以上に及ぶ。


 イエス・キリストが処せられた「磔刑」という刑罰は、こんなおどろおどろしいものでした。


 ローマの磔刑は、まず裸にした受刑者を鞭打つところから始まる。使われたのは先の尖った石を編み込んだ短い革の鞭で、ローマ兵がそれで男の背中や尻、足を打つ。この論文によれば「裂傷は骨格筋にまで達し、血を流して痙攣する細い筋肉の束が剥き出しになる」。次に、両腕が重さ45キロほどもある十字架にくくりつけられ、男はそれを背負って支柱が立てられた場所に運んで行かなければならない。そこで彼は背中をずたずたにされた体を起こされ、手首に釘を打ち込まれて十字架に磔にされる(手のひらに釘を打ち込むという説明がよくされるが、手のひらの肉では体重を支えることはできない)。次に十字架が支柱にかけられ、両足は支柱に――通常は支柱のブロックなしに――釘付けにされる。両腕に全体重がかかり、肋骨はその重みで広げられるため、腕に力を入れるか、釘を打たれた両足を踏ん張るかしない限り呼吸はむずかしくなる。3,4時間から長ければ3,4日間苦しみ抜いた末に、男は窒息か失血のために死亡する。処刑人は男を椅子に座らせることで拷問の時間を引き延ばすこともできるし、こん棒で両足を叩きつぶし、死を早めることもできる。


 凄いですねえ。この本の上巻の前半はこれに限らず、残酷な刑罰、拷問、残酷な戦乱シーンのオンパレードです。こんな残酷刑を公開でやっていて、それを近所の人と見物に行って歓声をあげる感覚ってどうよ?と思いませんか。昔の人は、今の基準からみてお世辞にも人格高潔な人びとではありませんでした。


 中世の騎士道精神というのも全然かっこいいものではなく、ちょっとでも名誉を傷つけられた面子を潰されたと言っては剣を抜いて殺しあいました。昔の人の「承認欲求」は今よりはるかに剥き出しで血なまぐさいのです。

 
 原始時代の紀元前5000年ごろから数千年単位で、人類のうち暴力的な死を遂げる人の数が5分の1ほどに減った、といいます。さらに中世後半から20世紀までの間にヨーロッパ諸国では殺人の発生率が10〜50分の1に減りました。

 第一次・第二次大戦は20世紀を「暴力の世紀」と呼ばしめましたが、だから人類は暴力化の一途をたどっているかというと、それは大きな間違いでした。第二次世界大戦後は、超大国や先進国が互いに交戦しなくなりました。そして武力衝突やジェノサイドも、いまだに報道はされているものの過去より減っているというのです。さらに少数民族、女性、子ども、同性愛者そして動物に対する小規模の暴力に対しても嫌悪感が増大し、これらの暴力も減っています。


 人類は本来的に平和的なボノボよりは凶暴なチンパンジーのほうに近い、とピンカーは言います。進化の枝分かれにおいて、チンパンジーの祖先がわれわれの祖先に近かったようです。チンパンジーはボスが君臨するタテ社会でボスがメスザルを独り占め、メス同士の抗争で憎いライバルの子供を食べてしまうこともするし、クーデターが起こればボスの女をレイプしてしまうこともします。


 では、そんな人類がどうしていま、比較的フラットな社会をつくり一夫一婦制で平和を志向することができるのでしょうか。


 ピンカーはそこで「啓蒙」そして「文化」の力を挙げます。


 大きなターニングポイントは18世紀。ヴォルテール、モンテスキューら代表的な啓蒙思想家らが残虐刑を批判。ミラノの法学者・経済学者チェーザレ・ベッカリーアが1764年に『犯罪と刑罰』を発表するに及び、以後数十年以内に主要な西欧諸国では拷問がなくなりました。
 

 さらに下って20世紀のとりわけ第二次大戦後には世界中で急速に犯罪発生率、殺人発生件数が減少します。

 が、中で例外的な現象もありました。アメリカの60年代です。
 人口10万人当たりの殺人件数は、1957年の4人から60年代末には10人近くにはね上がりました。60年から70年までの殺人増加率は135%。自由に心のままに振る舞うことが奨励され、抑制された態度をとることをあざわらい、フリーセックス、ドラッグ、逸脱の文化が花開いた時代でした。

 この時代はベビーブーマーが10代後半〜20代を過ごした時期でもあります。この世代は世代的連帯感が強く、そして通信機器の発達もあってサブカルチャーの影響を強く受けました。この時代にアメリカの犯罪発生率は突出した高さを見せ、先進諸国の中の例外となりました。それは「抑制」の方向へすすんできた歴史的趨勢への反逆のような時代でした。

 その後、90年代にはカウンターの力が働き、アメリカは一転して「抑制」へ。犯罪発生率、殺人件数も急降下します(年間7%減)。


 結局、「文化次第」なのだということをこの例は教えてくれます。遺伝子的に進化が起こりようのない時間軸でも、「文化」が変わることで人類は行動様式を変容できるのです。

 (ちなみに、アメリカのベビーブーマーに当たるわが国の某世代も、人口比で犯罪発生率が突出して高いのだそうで…、この世代は「暴力の世代」なのです)


 
 
 このことは、教育屋のわたしにはさまざまな示唆を与えてくれます。


 例えば「承認教育」10数年の歩みの前半は、上の世代の行動様式との闘いでありました。暴力がデフォルトの世代の人びとからみると、「承認マネジメント」など綺麗ごとすぎて噴飯ものでした。実際、ベビーブーマーに当たる世代の男性コンサルタントから脅迫状がきたこともありました。


 しかし、「非暴力化」は国家間のみならず会社のようなコミュニティレベル、個人レベルにも及んでいるのです。上の世代にとって当たり前でなかった「承認」のような行動様式でも、今は新しい規範とすることができるのです。むしろ過去の規範が明らかに役立たなくなった今日、新たな規範の確立は必須でしょう。


 そして遺伝子的にシャイな日本人がデフォルトでは「ほめる」「認める」ことを苦手にすると言っても、アメリカで起きた犯罪発生率の極端な上下をみるかぎり、デフォルトでどうか、よりも「文化」の影響力のほうが大きそうです。文化は、教育やTV、ネット等メディアの力でつくれるものです。

 よくいわれる「遺伝の影響が大」というのも、さまざまな形質にたいする遺伝の影響は多く見積もっても40%であり(注:例外は知能。60%ほどが遺伝に影響される)、残りの60%以上は「環境」それも生育環境でなくある程度大きくなってからの外部環境に影響されるのです。なので遺伝子決定論<文化決定論 と言っていいかもしれないのです。

(家庭教育は、それほど大きな影響を与え得ない、というのはちょっと悲しいですけれどね。)



 
 この本では、ここ数十年の「非暴力のゆきすぎ」についてもややアイロニカルに触れています。小学校ではドッジボールが禁止され、今のアメリカの小学生はドッジボールをすることができない。失踪した子供のために「誘拐防止」のキャンペーンを大々的に張った結果、親たちは子供を学校まで車で送り迎えするようになり、公園から子供の姿が消えた。送り迎えの車にはねられて交通事故に遭う子供の数のほうが誘拐される子供よりはるかに多いという。ある女性ジャーナリストが9歳の息子の冒険の希望を叶えて1人で地下鉄に乗るのを許したところ、轟々たる非難がきたという。「ゆきすぎは見直しが必要だ」とこの本は言います。

 
 それでいえばこのブログでよく槍玉に挙げている「批判しない」テーゼも、ひょっとしたら「非暴力のゆきすぎ」であり、見直しをしないといけない種類のものなのかもしれない。とわたしなどは思います。





 もうひとつは、人類が「デフォルトで暴力的」である以上、「承認」はやはり、「批判理論」なのです。わたしたちのデフォルトに反逆するいとなみなのです。それは繁栄に通じる、価値ある反逆だからこそ、やる。フランクフルト学派の創始者の一人であるアドルノがナチスに追われ亡命したユダヤ人であり、暴力的なものにきわめて敏感な人物であったことなども想起しました。

 心優しい人、なんにでも「いいね」というタイプの人も、「承認」に共感してくださいますが、基本的に承認はデフォルトに対する抗いであり、闘争の意味合いをはらんだものである、ということです。

 「行動承認」の初期の担い手だった気骨あるマネジャーたちは、上の世代にたいする反逆精神を持ち、それとは違うやり方で成果を上げたいと考える人びとでした。今の時代のマネジャーたちにはそれほどの思い入れがなくとも学習できるものかもしれませんが。


 せっかく書き始めたので、ぜひこの本の脳科学・心理学的知見も次の記事でご紹介したいと思います。

 アドラーの「子供」に関する原著をまた2冊読みました。『子どものライフスタイル』(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2013年。原題'The Pattern of Life'1930年)と『子どもの教育』(著者訳者出版社同上、2014年、原題'The Education of Children'1930年)

 どうしても「承認欲求を否定せよ」と「ほめない叱らない」に関連する語を探し出したいという、しょもない執念からであります。この「アドラー心理学批判シリーズ」としては、1つ前の記事に「まとめ」として中間報告のようなものがあります。「捏造語録」の「正誤表」のようなものも載せていますので、お時間のない方はそちらをご参照ください。


●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

(本記事での発見に伴い上記の記事の「一覧表」を一部修正しております)


 今日の記事は上の記事の補足のようなものです。


 『子どもの教育』のほうから行きましょう。

 ここには、相変わらず優越コンプレックス、劣等コンプレックスなどの極端な性格の例が出、やはりアドラーはカウンセリング畑の世界の人だなと思わせます。

 そして「第十三章 教育の誤り」「第十四章 親教育」これらの章に、「ほめない叱らない(捏造と認定)」に当たるフレーズはあるか?やはり残念ながら、ありませんでした。あるとしたらこの本のこのあたりの章にあるだろう、と目星をつけておいたのですが。

 あるのは、「絶えずがみがみ言って息子を破滅に追い込んだ教育者」といった、極端な例です。また殴るとか鞭打ちとかの体罰への批判です。(p.191)

 「ほめない」に関わりそうな言葉はようやく、みつかりました。

「子どもをあまりにほめるのは賢明ではない。あまりに多くのことが自分に期待されていると思うようになるからである。」(付録II 五つの症例と症例のコメント p.228)
「いつもほめ、知能指数が高いということで認めるというようなことをしてはならない」(同、p.229)

というふうに「過剰」を戒めています。「行動承認」論者からは、とくに異論はありません。「行動承認」に徹しておけばいいんじゃないの?というだけです。

 これも、じゃあ「ほめてはいけない」「ほめない叱らない」に即結びつけていいわけではなく、むしろ現代からみてもごく常識的な、「過剰の害」を戒めたにすぎません。よって、上記に挙げたまとめ記事の結論は変わりません。

 後世のアドラー心理学信者の方々が、「アドラーは賞罰主義を否定した」と言いますが、それにあたると思われるフレーズはありません。

 


 それから、「承認欲求を否定せよ(捏造語録に認定)」に関係ありそうなフレーズ。
 実は、180度真逆のことをアドラー自身は言っていることがわかりました。

 
 「第十二章 思春期と性教育」。ここでは、以前にご紹介した『人生の意味の心理学』で使ったと同じと思われる少女のエピソードがまた出てきます。

 いわく、病気の兄や父、小さい妹がいて自分に注目を向けられずに育った少女がいた。少女は人に世話をされ認められることを熱烈に希求するようになった。中学では成績が良かったが高校では成績が振るわず、先生に認められなくなった。すると家出して知り合った男性と2週間過ごしたが、男性に飽きられてしまった。すると家族に手紙を送り自殺を予告した。しかし実際には自殺せず、母親が家に連れ帰った。(pp.170-171)

 このエピソードを紹介したうえで、アドラーはなんと言っているか。

「われわれが知っているように、もしも少女が、人生のすべては認められたいという努力によって支配されていることを知っていれば、これらすべてのことは起こらなかっただろう。」(p.171)

 おわかりになりますか。
 アドラーのこの言葉は、ニーチェ的なニヒリズムよりもむしろヘーゲルの「承認をめぐる生死を賭けた闘争」という言葉を彷彿とさせます。つまり、「認められたい」一心でばかげたことをしてしまう少女の例を紹介しつつも、それにたいするアドラーの処方箋は「承認欲求を否定せよ」ではないのです。むしろ180度真逆の、ヘーゲル的な現実認識を示したうえで、少女自身にもそれを教えてやり、欲求を自覚させ、そのうえで欲求に振り回されない対処法をおぼえよう、ということを言っているのです。
 常識的ですよね。
 現代の「承認欲求バッシング」の書籍の著者らにも言ってやりたいぐらいです。

「また、もしも高校の教師が、少女がいつも学業優秀で、彼女が必要としていたのは、いくらかでも認められるということであったということを知っていれば、悲劇は起こらなかっただろう。状況の連鎖のどの点においてでもいいが、少女をしかるべく扱えば、少女を破滅から救うことができただろう。」(同)


 この言葉は、処方箋の第2としてアドラーは、教師や親はじめ周囲が「認めてやる」ことが解決策だ、と考えていたことがわかります。

 アドラー先生、すごく正しいではないですか。

 だから、もうやめましょう。「承認欲求を否定せよ」なんていう現実離れしたことを言うのは。



 次の本『子どものライフスタイル』は、問題のある子どもの症例報告とアドラー自身によるカウンセリングからなっています。

 これをご紹介するのは、ちょっと言ってはわるいですがアドラーの「誤診集」のようなおもむきがあります。やはり、20世紀初頭のカウンセラーであったアドラーの時代的制約だろうなと思います。

 てんかん発作がある少女。男兄弟の間で育ち、男と闘わなければならないと思って男の子らしいスポーツを好んできた。同じ男性と8年つきあい婚約して3年。婚約して以来発作が頻繁になった。

 アドラー:トラブルのすべては、あなたが十分勇気がないからです。あなたが自分自身の行動の全責任を負う決心をすることを提案しましょう。私はあなたがこの一歩を踏み出せば、そのことは大いにあなたのためになると確信しています。
 フローラ:私が勇気を持てば、発作を治せるという意味ですか?
 アドラー:そうです。
 フローラ:どんなことでもやってみます。
(カウンセリングおわり)


 うーん。。。今ならてんかん治療に別のアプローチがあるだろうし、「行動療法」からは脱感作療法のような提案があるだろうし、。。。
 一事が万事、アドラーは「勇気を持つ」を提案するのですが、わたしがみてこれに同意するクライエントは、多少カウンセラーに迎合しているようにもみえます。軽症だから素直に受け入れるのだろうともいえます。

 勇気がない人に対して勇気をもってもらうためにはどうするか。

 「行動承認」では、オキシトシン、セロトニン、ドーパミンを同時に分泌してもらうことだ、そのうえで、小さな行動を1つずつ着実にとってもらい、行動をとるたびに認めてあげることだ、というでしょうね。その繰り返しが勇気と自信を生みます。決して、「勇気を持ちなさい」とお説教すればほんものの勇気が出るわけではありません。


 そんなわけで、アドラー良心的な人だとはいえ、今の尺度からは賛成できないところがいっぱいあります。




 ところで、この記事のタイトルの後半のほうのお話。

 「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?」というところです。

 これはわたしも詳しくないのですが、わが国ではアドラー心理学の組織は「東」と「西」に分裂しているんだそうです。

 参考URL:http://onigumo.sapolog.com/e427281.html

 これによると、「西」はアドラー心理学会。「東」はヒューマン・ギルドといい、操作主義OKの教義。

 上記の記事では操作主義はわるいことだと言っているようなのですが、記事の筆者は『嫌われる勇気』の愛読者なのでこれも注意が必要です。だって、アドラー自身は操作主義はよいとも悪いとも言っていないのですから。

 「操作主義」といわれるものは後世の「行動理論―行動分析学」の「ほめ育て」を外部の人が揶揄していったもので、アドラーの時代にはそもそもありませんでした。

 たぶん、行動理論的な「ほめ育て」に対して「内発的動機付け至上主義」の人から批判が起こったとき、アドラー心理学の内部の人もそれに同調する人、いやほめ育てしたってええじゃないかという人、議論が分かれたのでしょうね。・・・というあくまでわたしの推測です。

 で、岸見一郎氏はその「操作主義反対」のほうの流派で、「西」のアドラー心理学会の理事をしています。ただその中でも最右翼のようです。

(※上記の記事からさらにリンクをたどって論文を読むと、たとえば「ヒューマン・ギルド」の操作主義のわるい例として、小さいお子さんが熱いコーヒーカップに触りたがったとき、ヒューマン・ギルドの講師が「触りたいの?ほら、熱いよ」と言って実際に触らせ、お子さんが熱いと泣いた例を挙げています。わたしなどには何がわるいのかわかりません。親の管理下であれ自然の環境であれ、子供は負の経験からも学ぶのです。アドラーがこの例をわるいと言うとも思えないのですが、この例ではどう働きかけるのが正解なのでしょうか)


 素直にアドラーの著作を読むと、過剰な場合を除いて普通にほめること叱ることについてはいいとも悪いとも言っていない、むしろ前提としていたように読めます。

 分派すると、過激なことを言い出すってよくありますよね。

 「行動承認」も気をつけなくっちゃね。


 

<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

●アドラー心理学批判 まとめの補足:正確な言葉は「人生のすべては認められたいという努力によって支配されている」、「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941508.html

 今朝iPadを開くとこんな記事が「グノシー」から届いていました。


 「STAP細胞ビジネス」がついに欧米で始まった! 小保方潰しに没頭した日本は巨大マネーもノーベル賞も逃す羽目に?」
>>https://gunosy.com/articles/RoXC9


 この記事の筆者は(文=王山覚/グローバルコンサルティングファームに勤務するビジネスウォッチャー)となっており、肩書はなんだかすごそうですが、上田眞実氏大宅健一郎氏に続く新たなトンデモライターの出現です。

 
 わたし自身はSTAP細胞ネタは重要でもないし単なる目くらましの気すらして、早くこの話題から離れたいのです。しかし「あるある」の方々が絶え間なく話題づくりをして世論をかく乱します。


 たまたま上記の例は「グノシー」ですが、このところビジネスジャーナル上田眞実氏大宅健一郎氏の「STAPあるあるネタ」が「Yahoo!ニュース」「MSNニュース」等、大手ニュースサイトに上がってくる例が続きました。

 こうしたニュースサイトは、要は儲け主義なのです。記事のアクセス数が多ければ広告主からの評価が上がるので、「STAP―小保方ネタは美味しい」ということです。また、ニュースサイトの運営というのは少ない人員でやっており、「ビジネスジャーナル」などは2人でやっているのだそうです。勢い、他のニュースサイトの記事を裏も取らずに転載することになります。

 こうしてネットデマは作られていくというお手本。



 国会では、山本太郎氏が「小保方晴子氏を潰した理研が「特定国立研究開発法人」(スーパー法人)になるのはけしからん!」と候補から外すよう求める動議を内閣委員会に出したんだそうな。



>>http://biz-journal.jp/2016/06/post_15341.html

 これはおなじみ上田眞実氏の記事。


 STAP―小保方ネタ、国会に上陸。


●STAP特許のありえない大ウソと、STAPあるあるウイルスに罹患したひとのこころの病
 

 さて、上記のグノシーの記事にある「特許ネタ」は、これまで当ブログでは紹介していなかったのですが、先月ビジネスジャーナルが騒いでいました。

「STAP細胞の特許出願、米ハーバード大学が世界各国で…今後20年間、権利独占も」(by上田眞実)
>>http://biz-journal.jp/2016/05/post_15184.html

 ・・・・・あるあるの方々の情報を全部フォローしてご紹介する気力が正直いってないのです……

 
 で、手が回りきらないので上記の記事の裏取りはしないでほっておいたところ、スカッと気が晴れる専門家の検証記事が出ました。

「STAP細胞の特許と論文 見比べて初めてわかる図版の不自然さ」
>>http://bylines.news.yahoo.co.jp/takumamasako/20160603-00058326/

 正しい記事なのでタイトルを太字にしております(笑)STAP事件を発生当初から追っていた科学ライター、詫間雅子氏の記事。丁寧な検証の結果、衝撃的な結果が出ています。

 STAP論文で正式に不正と認定された4つの図版のうち、3つが特許の書類にそのまま残っている。
 STAP論文の図版は「おえかき」か

 ぜひ、この内容をみるために上記のリンクをクリックして記事を一度ご覧ください。
 どれだけ悪質なウソか。

 専門家がみるとこれらは一発で特許却下になるレベルなのだそうで、ハーバードというかブリガムウィメンズ病院がどれだけお金を使って話題づくりをしたかわかりませんが、だませるのは素人だけのようです。


 友人は、上記の詫間雅子氏の記事の内容などを米国の弁護士の友人に送ると言っています。確認が取れたら特許は一発アウトであろうとも。


 しかし。

 以前にも少し触れましたが、
 「STAPあるあるウイルス」に感染すると、人間がおかしくなってしまう。

 という例を、最近も新たに1例、友人で体験しました。


 私と同年代の既婚、個人事業者の女性です。
 この人が上記の上田眞実氏のSTAP特許の記事をフェイスブックでシェアし、自分のコメントとして
「これでまたアメリカがボロ儲けってことでしょうかねー」
と、揶揄うような言葉を添えていました。

 わたしはそれにコメントを入れ、そうではないということを説明しましたが、彼女は会話しているふりをしますが受け付けていないのでした。

 記事内容をもとに次から次へと質問を投げつけ、わたしがそれに答えても回答への応答はなし、次の質問を投げつけるのみでした。明らかに回答は読んでおらず、単なる悪意を投げつけられたとしか認識していないのでした。そして自分も手りゅう弾を投げつけて反撃するのでした。コミュニケーションではなく、勝ち負けの問題になっているのでした。

 なんでこんなふうになるんだろう。


 以前は、というかほかの点では聡明だった女性でした。哲学カフェを主宰もしていました。


 無力感でした。わたしがこれまでのノウハウを基に、丁寧に丁寧に、相手へのリスペクトを欠かさない姿勢で語っても、逆に相手は当方を「下」にみて嘲笑するのみ。

 単にネットでみたしょもないデマジャーナリズムを信じこみ、普通の誠実な人を信じなくなるとは。

 デマジャーナリズムの中にある、嘲笑、揶揄、居丈高、センセーショナリズム、そしてマスメディアより自分たちが偉いんだという「上から目線」に感染したとしか思えないのでした。

 自分がすごいことを知っている特別な人間だという思い込み。
 まるでSTAPを妄想した元研究者の人格をコピーしているようです。

 そして、単なるナルシシズムを通り越した攻撃性。
あとで友人と話しました。これは「下剋上感覚」なのではないかと。
研究者、理研、マスメディア。普段ならどうやっても太刀打ちできない大きな権力を持った存在に、「STAP細胞」「小保方さん」という題材は、「自分は不遇だ」「抑圧されている」と思っている人にとっては意趣返しするための有効なネタだ、と捉えられているのではないかと。

でも、STAPがこういう人間を作ったのです。こういう人が今後、Yahoo!、MSN、グノシーといった大手ニュースサイトを通じて次々つくられていく可能性があります。


 このブログを読んでいるあなたの隣の人も、既にそうかもしれません。

 そして国会にまで行っているし。


 ほらね、3月ごろブログに書いた、

「元特ダネ記者のわたしが『まずい』と思うことは多分本当にまずいのです」

当たってたでしょう?


 STAP細胞自体は科学的決着がついている問題なのです。わたしはそれより、人びとの「こころの病」の問題のほうが怖い。

 NHK今期の朝ドラ「とと姉ちゃん」。5月31日は視聴率23.1%を記録し、今世紀の朝ドラで「あさが来た」を抜いて最高記録を更新しているそうです。

 今週は、ヒロインのとと姉ちゃんこと常子が女学校を出て就職しました。そこで、妙に「承認」が絡みそうな展開になってきます。


 就職先は文具会社で、職種はタイピストです。このタイピストの女性集団は会社の中でちょっと特殊な立場にあり、「タイピスト部屋」のようなところで仕事しています。

 昨日今日のあらすじを簡単に言うと…。

 未熟練でタイプの仕事をなかなか貰えない常子(高畑充希)。社内の他部署の男性に仕事を頼まれて引き受け、徹夜で机の整理整頓、書類整理、書類清書をこなす。真夜中まで残ってやっていた常子に、用務員のおじさん?がキャラメルを手に乗せてくれる。しかし時間内にやりあげた仕事に対し、依頼した男性は「もう帰っていいよ。邪魔」というのみ。

 タイピストの元締めのような先輩女性には、「男性は私たちを便利な雑用係としか思っていないから、仕事を引き受けてはダメ」と言われる。

 その先輩女性は、タイプでの清書を「原文通り打たなかった」と依頼元の男性になじられて切れ、
「文法がおかしいものを直してはいけないんですか!」
「私たちのことも男性と同様、ちゃんと苗字で呼んでください!オイや君じゃなくて」

 
…というような話です。

 はい、「承認研修」の受講生様方、ここには何と何の「承認欠如」が出てきましたか。

 なーんて、ね。

 答えは、「行動承認」「感謝」「ねぎらい」「ほめる(結果承認?)」「名前を呼ぶ」でした。基本中の基本です。皆さま、できてますね?(逆に、用務員のおじさんのキャラメルは、ささやかな無言の「承認」でしたね)

 ドラマでは、こうした「承認欠如感」を抱えてモヤモヤした常子が、家に帰って居候中の仕出し屋のおばさんに相談する、さあ何を相談するか、というところで今日は終わりました。

 もちろん戦時中の話ですから、「承認」なんて言葉はここに直接出てこないと思いますが…。


 ついでに、上記の話に常子の「義理のおじさん」(青柳家の養子。母の義理の兄弟)がサイドストーリーでちょっと絡んでいます。

 道で常子が自慢の多いおじさんとすれ違い、「ああまたいつもの自慢話をきかされるか?」と常子が身構える。しかし、おじさんは上機嫌の顔のまま、自慢せずに通り過ぎる。
 
 番頭の隈井(片岡鶴太郎)によると、おじさんはこのところ仕事で成功が続き、祖母(大地真央)からの信頼も厚いため、自慢しないでも良くなったのだという。ふうんと納得する常子。

 この話も、仕事自体によって十分な自信を得、また上司からの承認(信頼も承認のうち)も貰っていれば、自己承認をする必要がなくなった、というふうに解釈することができます。


 まあなんで「承認屋」の解説を必要とするドラマでしょうか。





 このところ「承認欲求バッシングの批判」という、批判の批判、ねじくれたことをやっていますので、「承認」のたいせつさがストレートに伝わりにくくなっていたのではないかと思います。

 しかし、「承認欲求」はわたしたち人間の基本欲求です。


 去年の10月、『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月)という本について、読書日記を書いて考察しました。

 この本では、「五段階欲求説のマズローは間違っている」といいます。マズローは所属と愛の欲求、承認欲求を五段階の上のほうに置き、生理的欲求のところに置かなかった。しかし、現実には人間の赤ん坊は片時も愛されなければ、そして注目され世話をやかれなければ死んでしまう存在だ。たえず愛、注目、ケアを求める。だからヒトにとって、愛され注目されるということは生死のかかった基本欲求で、それを一生涯引きずるのだと。



●『21世紀の脳科学』をよむ(1)読書日記編―「自立した個人」の幻想、マズローとジョブズの犯した間違い
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51923413.html


●『21世紀の脳科学』をよむ(2)考察編―新しい欲求段階説、作っちゃいました
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51923415.html

 
 上記の「欲求」についての考察を、わたしがこの本に基づいて、またこれまでの人間観察に基づいて、勝手に図にしてみたものがあります。


スライド1

 
 
 
 ちょっと字が細かいのでまた手直しが必要ですけれど…

 この図では、「つながり欲求」を大きく赤色で分類して、その中の原始的な乳幼児〜思春期ぐらいまでのものを「生理的・利己的なつながり欲求」、もう少し成熟した、社会人以降のより高次な関係欲求を「社会的思考の欲求(承認欲求)」としてみました。

 でもざくっと言うと、赤い色のところは全部「承認欲求」とよべるのです。

 また、大人の年代になってからの「承認欲求」は、倫理的に高いレベルの人でありたい、ということも含みます。そのことを通じて他者に良い影響を与えたい、自分についても良いイメージを保ちたい、と思っているからです。決して自己完結的に成熟するわけではないのです。


 また、青い色のところはこれまでモチベーション論の中で高級なものとみられていたところでした。「能力をフルに発揮したい」「夢中になり集中したい(フロー体験だ)」、「挑戦・冒険したい」。

 これらは、重要なものではあるけれど、これだけでは自己完結的なモチベーションです。他人目線を欠いていて、ひとりよがりになる危険性もあるものです。赤いところとセットになって、初めて周囲の人に役立つことができるのです。

 ・・・という、わたしの解釈であります。


 脳科学者もいろいろな考え方があると思います。上記の『21世紀の脳科学』原題'SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’の著者リーバーマンは40代の少壮学者ですが、人と人の心の結びつきを重視するスタンスの脳科学者さんだったようです。ソーシャル・ブレイン(社会脳)系の人ですネ。いくらMRIのような文明の利器があっても、その学者さんがそういう仮説を立てなければそういう知見は生まれてきません。


 でもわたしはこの考え方に賛同するのです。


 
 また上記の読書日記では、その後繰り返し使うことになる「内側前頭前皮質」についての知見が出てきています。
 すなわち、「わたしたちが自己を認識する部位」と、「外部からの規範を取り入れる部位」は同じものだ、と。ひとつの部位がふたつの働きをしているのだと。


 だから、相手に規範を教え込みたいときには、相手が「たしかに自分のことだ」と思うような「承認」の言葉をかけながら教えてやるのがよい。

 「行動承認プログラム」の中では、この知見をこのように使います。

 はい、みなさん。「相手がたしかに自分のことだと思うような承認の言葉」って、どんなものでしょう?

 大丈夫ですね。「行動承認」でほぼOKです。「名前を呼ぶ」などもいいかもしれません。




 今日は、フェイスブックのお友達に「正田さんは承認のことを書かなければダメだよー」と言われてしまいました。

 最近たしかに寄り道ばかりしています。
 「承認」のすばらしさをもっと書かなくちゃね。

 とと姉ちゃん、明日からどうなるんだろう。



 ふたつの道筋があり得るんですが、
 ヒロインの常子自身には、「人に認められたいと思わず貢献しようと思って働け」というアドバイスがあり得ます。
 しかしタイピストの元締め、早乙女という女性の言い分ももっともです。この人の言動やスタンスには、「性差別と承認欠如が合体した状態」に対する抵抗が感じられます。こういうときに「人に認められようと思うな」ということは、「性差別を容認せよ」ということになってしまいます。
 
 さあ承認欲求バッシングか、それとも承認欲求肯定にいくか。目がはなせません。

 「アドラー心理学批判」のまとめとして、現在アドラーの言葉として出回っている「有害フレーズ」を一覧にしてみました。


アドラー心理学批判:発言の捏造ver2


※2017年1月31日、「トラウマ」の項を更新しました。
 
 いかがでしょうか。

 今のところわたしはアドラーの著作を全部読んだわけではなく、『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』それに『子どものライフスタイル』『子どもの教育』しか読んでないので、「中間報告」のようなものです。上記のフレーズが他のアドラーの著書のどこかに絶対ないとは言えないです。それは「STAP細胞が絶対にない」ということが難しいのと一緒です。ただし、代表的な著作には出ていないし、それらの文章のトーンから考えてもほかの著書に出てくるとは考えにくい。仮に出たとしても偶発的な、文脈依存のもので、アドラーの主たる主張とはいいがたいものだろう、ということですね。

 (まあもし、「いや、アドラーは言っている」というのであれば、何という著作の何頁にあるかまできちんと言ってください)


 それで、こういう捏造は果たして許されるか?ということを考えてみたいと思います。


 わたしたちは日頃、孔子の言葉、アリストテレスの言葉、マザー・テレサの言葉…に触れることがありますが、ここまで極端に捏造された言葉をきかされているだろうか?

 まさか、中間の人がここまで勝手なアレンジを加えた言葉を「アドラーの言葉」としてきかされるとは、思っていないんじゃないでしょうか。しかも有害なことを。

 原著を読んだ限りではアドラーは、ところどころ見立ての間違いがあるとはいえ良心的な常識的なカウンセラーです。「逆張り」などはしていません。時々「過剰」を憂慮していたにすぎません。しかも彼自身は、誰かの言葉を借りて言うということもほとんどしていません。けっして「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」などではありません。そこまで悪ノリして暴走するタイプの人ではありません。


 「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」は、主に、岸見一郎氏です。

 岸見一郎氏のWikiはこちらですが――

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E8%A6%8B%E4%B8%80%E9%83%8E

 まあ大学の非常勤講師を務めながら売れない頃からずっとアドラーの著作を訳してきたわけですね。わが国のアドラーの翻訳書はほとんど岸見氏の手になると思っていいぐらいです。

 しかもアドラー以外の心理学書はほとんど読んでない、というのも変わった方ですねえ、というかんじですが。そこまでアドラーがすきだったんですね。そのコダワリの強さは、あれっぽいですね。

 たしかにアドラーは同時代のフロイトやユングに比べてもまっとうな気がしますが、それでも現代のちょっと知識のある人からみれば間違いがたくさんあります。「トラウマを乗り越えよう」というのも、良心的な言葉ではありますが、重度のトラウマを負った人からみれば有害フレーズです。

 だから過去の遺物としてみるぶんにはいいんですけれどね。
 どういうわけか近年スポットライトが当たってしまい、そしておそらく、ヘーゲルの時代の哲学者よろしく、人生のあらゆる局面について発言していますから、「偉人」あつかいして「語録」あつかいするには都合がよかったんですね。
 しかし、過去のどの偉人と比べても発言を捏造されていますよ。


 よくわかりませんが『嫌われる勇気』のときに、なんでもダイヤモンド社の敏腕編集者がついていろんな提案をしたそうですが、そのときに今どきの「承認欲求バッシング」を入れこもうとか、「ほめない叱らない」を強いトーンで入れようとか、が入ってきた可能性があります。
 そのとき、売れたい一心の岸見氏がそれに乗っかったのかなと。

 ほんとうに良心的な専門家なら、「いや、アドラー自身はそこまでのことは言っていません。アドラーの言葉として言うのはやめてください」と言うと思います。でも「今が売れるチャンス!」と思ったら、乗っかるかもしれません。


 そのあたりはわたしは事実関係を良く知らないんですけどね。

 それにしても一連の「承認欲求バッシング」の書籍の中でも、「承認欲求を否定せよ」は、もっとも過激な、そして有害なフレーズです。他の本はおおむね、承認欲求ゆえに問題行動をとる人の例を挙げて嘆いてみせているだけなのです。承認欲求は人間の基本欲求なので、否定すれば簡単に鬱になってしまいます。もう既に鬱になりかけの人も多いかもしれません。

 「承認欲求バッシング」自体が、気に食わない優等生を袋叩きにする「いじめ」のような現象だったのですが、その中でも「承認欲求を否定せよ」とは、いじめグループの中の一番ヘタレの弱虫君が一番悪質なことをやってしまうというようなおもむきがあります。


 一般人のわれわれが知っておくべきことは、アドラーの言葉として出回っているものにはかなり「捏造」でかつ「有害」なものがあるので、聞き流しておくのが賢明だ、ということです。





 岸見氏の暴走ぶりというのは、例えば過去に講演で

「反抗期などというものはない」

と発言。

 詳細はこちらの記事参照

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html


 このあとすぐ某週刊誌で、思春期の子どもの脳についての特集があり、ちゃんと「反抗期はある」と実証されているわけですが。
 またアドラーも、思春期の子ども特有の逸脱行為について書いており、決して「反抗期はない」などと思っていたようにはとれません。


 またその後わたし自身が聴講した講演では、「自分の息子」をしきりに例として挙げながら「ほめない叱らない」論をぶっていたので、私が切れて反対質問をしたのでした。

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

 岸見氏の息子さんは、のちに京大に入って哲学者になられたのだそうで、自慢の息子なのだろうと思います。講演では、この息子さんがプラレールか何かを上手に組みあげたので、ほめたところ嬉しそうな顔をせず、「お父さん僕は当然できることをしただけだよ」と言ったという。その例を挙げて、「ほめることは対等の関係ではないんだ。上から目線だ。ありがとうと言わなければならない」と、いうのでした。

 これは「行動承認」の側から当然、反論があります。息子さんはIQの高い、言語能力の高いお子さんだったのであろう。また「ツンデレ」だったのであろう。あくまで息子さんの個体差の問題で、一般的にはお子さんは大人からほめられれば喜びます。また、「ツンデレ」を回避したければ、「行動承認―Iメッセージ」を使っておけば問題はありません。

 この講演では、3時間の講演と質疑の間に「うちの息子」の例が10回ぐらい出てきたのではないだろうか。息子自慢に終始した講演だったのでした。

 べつの例としては、お母さんのカウンセリングの50分間、一緒に入って静かに過ごした4歳か5歳の子供に、お母さんが「静かにしていてえらかったね」と言った。それが良くないと、岸見氏は言います。
「えらかったね。これを大人相手には言いますか?対等な関係だったら言えないことを子供に言ってはいけません。『静かにしてくれてありがとう』と言うのが正しいのです」
 しかし、岸見氏はそれを直接このお母さんに伝えたわけではないようでした。講演でカゲ口として言うのでした。
 わたしがきいていて、このケースでえらかったね」と言うのは、何も間違っていません。だって、4-5歳の子どもさんですよ?

 
 しかし、岸見氏の講演はこんな話が満載なのでした。300人ぐらいの善男善女ふうの人たちがこういう話をかしこまってきいているのでした。

 今から日本には「ほめられない子供」があふれることになります。やれやれ。この責任、どうとるのでしょう。製造物責任じゃないですか。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

●アドラー心理学批判 まとめの補足:正確な言葉は「人生のすべては認められたいという努力によって支配されている」、「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941508.html

 さて、わたしはここまでアドラーの原著『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』を読んでみて、アドラーという人にわるい印象はもちませんでした。良心的な、一生懸命なカウンセラーさんだったのだろうなと思いました。

 また、同時代のフロイトが捏造だらけだったことが明らかになったり、ユングはポエムだったと言われることなど考えると、意外とアドラーが一番「まっとう」な人だったかもしれない、とも。


 しかし。
 ここでは、アドラー心理学全体の解説を試みるつもりはありませんが、現代人の目からみると、どうみても明らかにおかしいところがあります。見立てもおかしいから治療アプローチも間違っている。

 そして、それがどうも思想全体に影響を与えているのではなかろうか?と。部分的な間違いではなく、全体に及んでいるのではないか?と。


 非常に「ざっくり」とした整理ですが、アドラーの考える「いい人」「わるい人」とはどんなものか、みてみます。


スライド2



 よろしいでしょうか。

 
 アドラーのいう、「共同体感覚をもとう」「他人に関心をもとう」「協力しよう」「貢献しよう」どれも、間違いではないんです。むしろ、常識的なことです。わたしも小学校の先生にさんざん言われました。

 しかし、カウンセラーであるアドラーが、こうした言葉を口酸っぱくして言わなければならなかった相手とは、どんな人だったか?

 実は、アドラー自身が描写する、「他者に関心のない人」「協力しない人」「貢献しない人」、ひとことで言うと「共同体感覚のない人」とは、よくよくみると、現代でいうところの発達障害者、なかでもアスペルガー症候群の人に当てはまりそうなのです。

 なんども言いますように、アドラーはカウンセラーとして、「人生がうまく行ってない人」に関わってきました。その中で、不幸な事例をたくさん見てきました。

 そして、人生の不幸を作り出すのはこういう人だ、と彼なりのモデルをつくりだした、それが「共同体感覚のない人」だったようです。

 
 ところが、彼がカウンセリング場面で手を焼いたような、「共同体感覚のない人」とは。

 おそらく、知能程度は普通かそれ以上で、なのに他者への共感や思いやりに奇妙に欠けた人物だったろうと思います。そしてアドラーはそうした人びとは先天的にそうなのだろうとは考えませんでした。後天的な育て方のせいでそうなった、と考えました。だから、教育者向けに「こういうことを徹底して教え込みなさい」とクギをさすことになったのです。

 アドラーが自閉症スペクトラムと定型発達の区別がついていなかっただろうと思われる記述――。


 もっぱら自分自身の利害を追求し、個人的な優越性を追求する人がいる。彼〔女〕らは人生に私的な意味づけをする。彼〔女〕らの見方では、人生はただ自分自身の利益のために存在するべきである。しかし、これは共有された理解ではない。それは全世界の他の誰もが共有しそうにない考えである。それゆえ、われわれはこのような人が他の仲間と関わることができないのを見る。しばしば、自己中心的であるように育てられてきた子どもを見ると、そのような子どもが顔にしょんぼりした、あるいは、うつろな表情を浮かべているのを見る。そして、犯罪者や精神病の人の顔に見られるのと同じような何かを見ることができる。彼〔女〕らは他の人と関わるために目を使わないのである。彼〔女〕らは他の人と同じ仕方で世界を見ない。時にはこのような子どもたちや大人は、仲間の人間を見ようとはしない。目を逸らし、別の方を見るのである
(『人生の意味の心理学』下巻第十一章個人と社会、「共同体感覚の欠如と関連付けの失敗」、pp.129-130)


 このパラグラフの前半は自己中な大人のことを言っています。自分の損得勘定ばかりを考える大人のことです。そして後半は自己中に育てられた(とアドラーが考えている)子供のことを言っています。そうした子供の特徴として、アドラーは「視線を合わせない」ということを言っているのです。

 
 このブログの長い読者の方々だと、「損得勘定にばかり関心」そして「視線を合わせない」どちらも、アスペルガーの人の特徴だということがおわかりになるでしょうか。


 アスペルガーに限らず発達障害の人は共感能力が低いので、自分の言動が他人にダメージを与えているということがわかりません。またワーキングメモリが小さいので、「情けは人のためならず」というような話はわからないんです。まわりまわって自分にもいいことが起きるというお話は長すぎるんです。勢い、てっとりばやく自分の手元にお金がいくら残るか、いくら節約できるかという話がすきです。
(これも、例外として高機能の人だとお勉強するとちゃんと慈善事業ができるようになることがあります。ビル・ゲイツ氏などはたぶんそうなのでしょう)

 だから、現代のお医者さんによるとアスペルガーの人に問題行動をやめさせようとするとき、倫理道徳の話では理解してくれないので、「そんなことをするとあなたが損するよ」というと、きいてくれることがあるそうです。

 また、自閉症スペクトラムの人は視線は合わさないですね。これも、他人の視線は情報量が多すぎるからしんどくなるのだ、という説があります。


 でも、アドラー先生にとってはこれらは自己中でけしからんことのサインなんです。

 それは仕方ないんです。アドラー先生の時代に発達障害概念はなかったのですから。

 ここでちょっと年表的なものをお出しすると、


スライド1



 自閉症やアスペルガーについての報告が出てきたのはアドラーが亡くなったより後です(表左)。アドラーは、精神遅滞、今でいう重度の知的障害の人のことはみたことがあったようです。しかしIQは高いが認知能力の一部を欠損しているアスペルガーの概念などは全然知りませんでした。

 われわれにとっても、今でこそ徐々に知識が普及しつつありますが、知識がなければアスペルガーの人というのはやはり理解しがたい存在です。そして、この人たちが知的能力は高いのに人間的なことにはやたらと感度が低いのをみたとき、往々にして「親の躾が悪いんだろうか」と思ってしまいます。

 アドラー先生がカウンセリングでクライエントに良くなってほしくて焦れば焦るほど、この人たち相手には空回りしたはずです。

 その結果が、恐らく「共同体感覚をもて」「協力せよ」「貢献せよ」といったテーゼになったであろう。
 それでカウンセリングが成功したかどうかは、疑問です。

 
 決して、定型発達者にとっても悪いフレーズではないんですけれどね。

 
 
 また、上記の表について補足なんですが、「ほめない叱らない」をアドラーが言ったはずがない。

 というのは、行動理論がヒトに応用されて「ほめ育て」が出てきたのは、これもアドラー先生が亡くなった後だからなんです(表右)。だからそれについて批判するはずもない。


 行動理論に対する批判の声が高まったのは(言いがかり的なものですが)1990年代です。このころに、恐らく後世のアドラー心理学の人たちが反応して、「操作することはいけない」「賞罰主義はいけない」と言い出したと思われます。アドラーが言い出したことではないはずです。ただ「アドラー心理学では賞罰主義を否定する」このフレーズは、岸見氏にかぎらずアドラー心理学を標榜する人は言っていますね。


 追記:ひとつの資料

 一人にされた三歳か四歳の女の子がいる、と仮定してみよう。彼女は人形のために帽子を縫い始める。彼女が仕事をしているのを見ると、われわれは何てすてきな帽子だろう、といい、どうすればもっとすてきにできるか提案する。少女は勇気づけられ、励まされる。彼女はさらに努力し、技能を向上させる。(『人生の意味の心理学』下巻第十章「仕事の問題」、p.115)


 ここでは、「われわれ」という主語ですが、最初に「何てすてきな帽子だろう」と、言っています。これは、「ほめている」のではないでしょうか?そして続けて「どうすればもっとすてきにできるか提案する」とします。この2つの働きかけを、アドラーは「勇気づけ」と言っています。わかりますか?「ほめて、提案する」なんです。
 この相手は3-4歳の女の子ですが、ここで「提案」単独では勇気づけになりません。女の子がつくっていたものに、いきなり「こうすればもっとよくなるよ」と言ったら。それは失礼というものです。頭に「素敵だね」をくっつけて、少女の仕事を肯定していることを示したうえでなら、提案は勇気づけの役割を果たすでしょう。

 このエピソードのすぐあとにこう続きます。


 
しかし、少女に次のようにいうと仮定しよう。「針を置きなさい。怪我をするから。あなたが帽子を縫う必要なんかないのよ。これから出かけて、もっとすてきなのを買ってあげよう」と。少女は努力を断念するだろう。このような二人の少女を後の人生において比較すれば、最初の少女は芸術的な趣味を発達させ、仕事をすることに関心を持つことを見るだろう。しかし、後の少女は自分でどうしていいかわからず、自分で作るよりも、いいものが買えると思うだろう。(同、pp.115-116)


 ごく常識的なことを言っていて、わたしなども何も異論をはさむ余地はありません。「行動承認」のスタンスとも矛盾しないでしょう。ここでのポイントは、アドラーは「勇気づける」ことを「勇気をへし折る(奪う)」ことと対比させたのでした。決して、「勇気づけることは良くてほめることは悪い」などとは言っていないのでした。
 また、著書のすべてを読んで言っているわけではないのですが、アドラーの考える「勇気づけ」の全体像は、「承認」とよく似たものだったと思われます。細かくカテゴリ分けすれば、当社の「承認の種類」と同様に、そこには「ほめる」も含むし「励ます」も含む。人が人を力づける行為全体を包含していたと思われるのです。


 …ただ、細かいことを言いますとアドラーが「勇気づける」対象としたのは、こうした幼い少女であったりカウンセリングで出会う、社会から排除されたクライエントであったりし、やはりいささか「上から目線」が入っていないとはいえません。相手に行動力が「ない」「低い」とわかっているときに言うぶんには、いいものです。わたしのような年をくった人間に「勇気づけ」を使うのは「おこがましい」と言われても仕方がないのです。


 
 

 もうひとつアドラー心理学の大きな問題点は、

「批判はいけない」
「対立はいけない」

と言っている点です。これは原著の中にあります。

 以前から言っていますように、「批判はいけない」は心理学、カウンセリング独特の話法です。哲学の中にはちゃんと批判はあります。わたしがひそかに名乗っているドイツ・フランクフルト学派は別名「批判理論」ですし、その中の重鎮ハーバーマスはあっちこっちを批判しまくっています。


 で、とりわけわが国のように「波風立てない」ことを尊ぶ気風の中では、「批判はいけない」は、非常に有害な思想です。薬が効きすぎてしまうんです。

 端的に、このところわが国で連続して起きている不正問題などは、内部で適切な批判が起きないから起きるんです。

 岸見一郎氏なども、アドラー先生が言ってもいないことを捏造して触れまわっていますが、これはアドラー心理学業界さんの中で批判は起きないのでしょうか?
「アドラー先生はそんなことは言っていない!アドラー先生が誤解されるようなことを言うな!」
と血相を変えて言う人はいないのでしょうか?

 アドラー心理学陣営のご同業のみなさんは、岸見氏が有名になってくれれば自分のところにも食い扶持が回ってくるからと、黙認状態なんでしょうか?


 「批判」を封じると、自浄作用がありません。向上がありません。不良品を出してしまいます。

 
 アドラー自身が良心的な人であっても、後世のアドラー心理学が有害なものになったことに、責任の一端がないとはいえませんね。「批判はいけない」を彼自身が言ってしまっていますから。




<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 引き続きアドラーの原著を読みます。『人生の意味の心理学』(上)(下)(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2010年。原題'What Life Should Mean to You'1931年。

 この本は、NHK「100分de名著」に今年2月に取り上げられています。

>>http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html
 

 で、この本にどうやら「承認欲求否定」と「トラウマ否定」につながりそうなフレーズが見つかりました。

 しかし、「つながりそうな」というだけです。アドラーは決して「承認欲求を否定せよ」「トラウマなど存在しない」などという言葉は言っていません。では、何と言っているのでしょうか。

 上記番組でも上記のフレーズを使っていますが、番組プロデューサーさん、この本をちゃんと自分の目で読みましたか。


 まずは、「トラウマなど存在しない」(の起源)のほうから。


 
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(前掲書上巻第一章「人生の意味」、p.21)


 トラウマに苦しむのではなく、経験に意味を与えなおすことで自らを決定せよ。そういう意味のことを言っています。

 この一節の前には、子供時代の不幸な経験について、不幸な経験があってもその経験にとらわれず今後は回避できると考える人もいるし、同じような経験をした人が人生は不公平だと考えたり、自ら犯罪に手を染めて不幸な経験をその言い訳にする人もいる、という意味のことを言っています。

 なんども言うように、アドラーは心理学者・カウンセラーさんです。トラウマに苦しむ人を膨大な数、みてきました。この本にも他の本にも、アドラーがみてきたトラウマのために社会不適応を起こす人、問題行動をとる人、が多数登場します。

 だから、「トラウマなど存在しない」という言い方は誤り。

 ただし、そうとれることを言っている、というのは、アドラーは恐らく過去の経験に囚われている人を何とか治したかったのだろうと思います。実際に治せたかどうかはわかりません。治したい一心で言った言葉が、上記で引用した一節であろうと思います。すなわち簡単に言えば、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

と。

 読者の皆様、どう思われますか?

 「トラウマ」については、現代では色々な形で反論できるんです。

 例えば、

1.動物でもトラウマと似た反応はある。セリグマンの「学習された無力感」の実験などはそう。

2.地震大国の日本では阪神淡路、東日本大震災などで家を失い、近親者を失ったことなどによるPTSD患者が多数出たことを知っている。その人たちに「トラウマなど存在しない」と言えるだろうか?

3.発達障害の一種、自閉症スペクトラム(ASD)の人ではトラウマが残りやすいことが知られている。彼らは恐れをつかさどる偏桃体が普通の人より大きい。

・・・などなど。

 アドラーは身体の障害には言及していますが、こころの個体差にはかなりむとんちゃくでした。知能にも限界はないと言ったように、個体差を否定したがる傾向がありました。
 それもまた度を過ぎたポジティブさとも言えるし、優生思想を回避したいがための「べき論」とも言えるし。現代のわれわれは、人間は「タブラ・ラサ」ではなく、生まれつき脳の個体差があることを知っています。また遺伝形質の影響が大きいことも知っています。


 ただ上記のような、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

こういうフレーズを、現代でも認知行動療法のカウンセラーさんなどは言っているような気がします。不遜な言葉ですけどね。わたしならそのカウンセリング、やめますね。

 こころの痛みを負った人には、まず十分な傾聴、共感、慰め、いたわりが必要です。そののちに、もしトラウマとして残っているようであれば、以前にも書きましたがEMDRは、クライエントに治りたいという意志が強いならいい選択だと思います。

 
 ともあれ、まとめますと、アドラーは「トラウマは存在しない」などということは言っていない。ただ「トラウマを乗り越えよう」という意味のことを言っている。ということです。




 もうひとつ、「承認欲求否定」につながりそうな一節をご紹介しましょう。「第八章 思春期」に出てきます。

 
 
以前は貶められ無視されていたと感じた子どもたちは、おそらく今や、仲間の人間とのよりよい関係を築いたときに、ついに承認されるだろう、と期待し始める。彼〔女〕らの多くは、このような賞賛の渇望にとらわれる。少年が賞賛を求めることにあまりに集中することは危険だが、他方、多くの少女はいっそう自信を欠いており、他者に認められ賞賛されることに、自分の価値を証明する唯一の手段を見る。このような少女たちは、容易に彼女たちをおだてる方法を知っている男の餌食になる。私は家では賞賛されていないと感じ、セックスをし始める多くの少女に会ってきた。それは自分が大人であることを証明するだけではなく、ついに、自分が賞賛され、注目の中心になるという状況を達成できるという空しい希望からである。(下巻第八章思春期、pp.47-48))



 思春期は、たしかに承認欲求が亢進する時期なんですね。また承認欲求ゆえに性的逸脱行動も出ます。そういう現象にこの時代に目をとめたのはアドラー、えらかったですね。ここで使っている「承認」「賞賛」は英語で言うとなんなんだろう、と気になりますが。
 そしてこの次に、承認欲求が家庭でも学校でも適切に満たされず問題行動に走る少女の例が出てきます。


 …絶え間なく勇気をくじかれた。すぐにほめられることをあまりに強く願っていた。学校でも家でもほめられないことがわかった時、一体何が残されていただろうか。

 彼女は、彼女をほめるであろう男性を探し求めた。何回かの経験の後、彼女は家から出て、2週間男性と一緒に住んだ。(同p.49)


 このあと、この少女は家出先から家に「毒を飲んで死ぬ」と予告したが、実際には自殺せず家族が迎えにくるのを待っていた。…


 このエピソードは、どう解釈したものでしょうねえ。確かにこの女の子は承認欲求、それに自己顕示欲の強い子だったのだと思います。
 もちろんアドラー、慧眼です。21世紀になると、こうした承認欲求ゆえに問題行動をとる子、とりわけ売春のような性的逸脱行動をとる子の事例はうんざりするほど報告されるようになります。


 ただまあ、上で言いましたように思春期は性ホルモン値が男女ともに生涯最高に上昇する時期で、それとともに承認欲求も性欲も両方亢進します。両者は連動するといっていいです。なので中には承認欲求の亢進にともなって性産業にいく子、逸脱行動をする子がいてもそんなに不思議ではない。もちろん、ご家庭や学校で承認欲求の正しい満たされ方ができればそれは何よりですが。

 あと、上のエピソードを読むかぎりほめることが悪いことだというふうには読めないですね。ほめられることを渇望するヒロインの姿に多少のグロテスクさはありますが、ご家庭や学校の周囲の人はほめてやったほうが良かった、というふうにとれますね。

 まあ、私はほめるという言葉もあまり好きではなくて使いたくないんですけれど、少女は「かけがえのない存在」だと誰かに言ってほしかったんだと思います。それは一義的には、親が与えてやるべきだったのです。


 で、この本『人生の意味の心理学』が承認欲求に触れたのはこのあたりです。「承認欲求を否定せよ」という言葉はどこにも書いてありません。それは、岸見一郎氏の「誤読」ないしは「捏造」です。


 ただ、承認や賞賛を求めるあまりに問題行動をとる思春期の少年少女たちを描写していると、まあ滑稽ともいえるのですけれども読者はそこにグロテスクさを感じ嫌悪の念をもよおすかもしれません。わたしの想像ですが、岸見一郎氏はこのエピソードを嫌悪したのではないかと思います。それが昂じて、「承認欲求を否定せよ」という彼オリジナルのテーゼを作ったのではないかと思います。


 しかし、アドラーはそれを望んだでしょうか?
 わたしの目には、アドラーはクライエントを治したい一心の良心的なカウンセラーだったと思います。ただし現代人なら持っているはずの新しいツールは持っていませんでしたが。そこで教条主義的なテーゼなどは言っていなかったと思います。上記のエピソードをみていても、アドラーはむしろ、ご家庭で適切な承認は与えてしかるべき、と考えていたようにとれます。


 アドラーの名を騙って勝手なテーゼを触れ回るということが許されるのだろうか――。
 先日、週刊誌の記者さんにわたしは

「アドラーの教えとして『ほめない叱らない』『承認欲求を否定せよ』なんてことを信じているのは世界中で日本人だけかもしれませんよ」

と言ったのでした。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 「アドラー心理学」について、友人の40代女性からメールをいただきました。実務経験の長い聡明な方です。
 わたしが書くよりコンパクトでわかりやすいアドラー心理学批判になっているかと思います。 「幼稚―成熟」という切り口も新鮮です。

 ご了承をいただいて、ご紹介させていただきます。


*********************************************


ブログで話題のアドラー心理学、私、お恥ずかしいことに
正田先生の最近の批判記事を読んで、やっと手に取ってみようかと思い始めました。

ベストセラーの『嫌われる勇気』は、文体が好みではなくて食指が動かず、
近寄らなかったのですが
最近になって、読んでみたいと言う家人のリクエストで、
続編の『幸せになる勇気』とあわせて手元にあります。

文体や語彙が好みでない(を通り過ぎてなんだか気持ちが悪い)、
読み進めるのは苦痛なのですが、
せめて大きな論旨とキーワードだけでも拾いたいと、ぱらぱらめくっています。

いくつか気がついたことです。

時代背景や社会状況に依存する事象を、
普遍的な価値として提起していて、
つながりや関係のもつ価値や意味が、
Gemeinschaftを前提にしたものに偏っているのではないかという疑問がわきます。
(この本は設定では、それでいいのかもしれませんが)
Gesellschaftを前提とした一般社会人には当てはまらないと思えます。

子育てに関わる部分は私には経験もないのであくまで第三者的な考えですが、

褒めず叱らずで、子供に規律や倫理や秩序をどうやって教えるのか、
人は永遠にGemeinschaftに留まれるわけではなく、
Gesellschaftのなかで生き抜いていくために必要な知識や知恵としての信賞必罰や他者との関係性は、
どこで学ぶのか?といった疑問がわいてきます。

そして、『嫌われる勇気』という受動表現に端的だと感じたのですが、
周囲に干渉される存在であることが暗黙のうちに前提となっている読者のために書かれた本で、
(正田先生の表現をおかりすればナルシシズムが亢進気味の人)
成熟した内面をもつ大人を対象に書かれた本ではないような印象です。


そして、家人とこんな話をしました

家人「今の若手は(若手と言ってもそれは40代の教授だったりするんですけども)、
何がやりたいのかわかってない人が多い、自分のテーマをもっていないんだよ。
結局、医学部に入って医者になって、海外にも留学して、博士もとって、論文を書いて、
で運良く教授になっても、自分のテーマを持っていないから、結局、ポストだけにこだわって、
学内や学会のポスト漁りに躍起になってみたりするんだよなあ。
そういうところを、彼らの部下はしっかり見ていて、自分の教室は迷走してるって言ってるよ」

私「結局、教授になるまで競争に勝つことだけをやってきて、自分が本当にやりたいことに向き合ってこなかったってことかしら。
大企業にいる高学歴な幹部社員にもそういう人はいて、都度都度の競争に勝つことが目的になってしまってて、それしかできない人もいるよ。
競争ではなくて、ゼロからの創造が必要なシーンになるとそういうタイプは全然機能しないんだけど、
最近は、競争に勝つためにゼロからの創造が必要なこともあるから、その辺りに気づき始めている企業もあるにはあるけども、まだ少ないかなあ」

家人「例えば、●●先生(若手教授)には嫌われる勇気が必要だということなんじゃないかなあ。若いやつを見てるとそういう気もしなくもないよ。」

という意見でした。
私はそこまで短絡的には思えないのですが、
話題になった教授がそうであるように、ナルシシズムが亢進気味で迷路にはまった人には、
嫌われる勇気は響くのかもしれないようです。
ただ、多数の一般社会全体には適用できない話だと思います。


そして、ナルシシズム亢進で思い出しましたが、
小保方氏と瀬戸内寂聴氏の雑誌での対談、たまたま見ました。
小保方さん、かなり「幼稚」な人なのですね。
寂聴さんが、小説としての「あの日」の文章を褒めて、もっと文章をかきなさいとすすめると
その返答に「私に小説の書き方を教えてください。」と言い出す。
んー、たぶん、これまでもそうやって年長者と関わってきたんだろうなと思えるやりとりでした。

しかし、幼い。発言が1つ1つが幼い。
うつ病の治療を続けているそうなので、
そのせいかもしれませんし、もともとそうなのかもしれないですが、
いずれにしても人格の幼稚さが透けて見え、
その点がもしかしたら、彼女を擁護する人々があれだけいる理由かと思ったり。

彼女を擁護する人々の側にある教条主義は、
彼女のもつ独特の幼稚さによって刺激され活性化するように見えます。
その幼稚さの正体が何なのか、そして相手の何を刺激しているのかを分析できれば、
現代の大衆病理を読み解けるのでしょうか。
私がそれがわかったところで、正しい治療法がわかるとは思えないですが、
正田先生のあの日の解説を読ませていただいたことも手伝って、そのような興味が深まっています。


先日、違和感の正体という新潮新書を読んだのですが、
そのなかで、著者(先崎彰容氏)は現代日本社会を「ものさし不在」で「処方箋を焦る」社会と形容していました。
言い得て妙だと思いました。
そういう社会になっている要因には、何かしらの「幼稚さ」が関係するのではないかという気もします。
成熟を拒否しているのかあるいは成熟できないのか、
その精神性や風潮が、我が物顔で世の中を跋扈しているような状況にも思えます。

本来であれば、未成熟なことは恥ずかしいことで、自分を成熟させていく努力をすべきなのに、
幼稚さを純粋さとを同一視してそれを美徳として煽り、
成熟に向かわせようとしない風潮があるような気もします。

未成熟な人材を管理職に登用することで経営者に都合のいい独裁的な体制を強化している企業もあり、
私のいたIT業界でも、新卒を大量に採用し、ある種の洗脳をしていくような経営がもてはやされています。

極端な考えと思いますが、そういう経営者を見ていると、
知識人を追いやり虐殺し、
文字の読めない人や子供を煽動して独裁を進めたポルポト派のことがなぜか思い出されて、
ぞっとします。

正田先生の発信を読ませていただいているうちに、
行動承認に対する態度は、成熟した内面を持つ大人であるかどうかの試金石のように思えてきました。
行動承認の効果やあるいはその大きな意味を、自分ごととしてとらえることの出来る方は、
「幼稚さ」とは縁遠く、内面の成熟に向かわれているような印象です。

内面の成熟とは、自分の努力でしかなし得ないものであり、
挫折に向き合い、葛藤をかかえ、矛盾にさいなまれておきる心境の深まりなのかと思います。
暗くて深い地下トンネルの中で孤独の空気に囲まれて眠るワインのようです。

(注:2通のメールをドッキングさせていただきました)

*********************************************

 いかがでしょうか。

 最後のほうに「行動承認」について、またその世界の人びとについて、過分なお褒めをいただいてしまいましたが、わたしも内心、そう思っています。
 「行動承認」は人を成熟に導きます。また、成熟度の高い人びとに響きます。
 トレーニングの易しさ続けやすさのお陰もあって、「行動承認」の人びとは、一般社会とは段違いの成熟度と思考能力の高さを獲得していきます。

 
 逆に、このところの出版業界のベストセラーの作られ方をみていると、
 
 まず年齢層が、20−30代の独身者層をターゲットにするのですが、その中でも、この友人のメールの中にもあったナルシシズム亢進気味の人をターゲットにします。『嫌われる勇気』などを読むと、社会人の中のいわゆる「中二病」で社会不適応気味の人が、これを読むとかぶれそうだなと思います。

 「中二病」の人は、現実世界で出会う人をリスペクトなどしません。叱られてもききません。そうして浮き気味のときに、ベストセラーで「哲人」が上からお説教をしてくれる『嫌われる勇気』は、ウレシイのです。

 うーん、ストレングスファインダーで言うと何?というと、大体答えは出ているのですけどね。

 今のベストセラーの作られ方をみていると、「中二病」が中二のときだけでなく社会人になっても延々と続くように、ベストセラーが仕向けているような気すらします。

 それは、友人の言うように思考能力の低下にもつながるし、カルト形成にもつながりますね。はたからみるとすごく変な教祖様を尊師とあがめていて、つじつまの合わないおかしな考え方にかぶれている集団。
 
 その集団のコアには戦略的に大衆を騙そうという仕掛け人がいます。そして当初は思考能力の偏りのひどい人、判断力のない若い人が取り込まれ、コア集団を形成し、そして一定の勢力を形成すると、周囲のそれほど偏りのない人も取り込まれていきます。普通の善男善女が入信していきます。

 
 アドラー心理学も小保方擁護派も結局そうです。

 さあ、こうやって社会を幼稚化させるたくらみに対抗するすべはないのでしょうか――


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 アドラーの原著の1つ『個人心理学講義―生きることの科学』(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2012年。原題'The Science of Living'1928年)を手にとりました。

 興味としては、わたしが批判する(岸見)アドラー心理学の非常に問題の多い幾つかのポイント

1.人に認められなくてもいい
2.ほめない、叱らない
3.トラウマはない


などは、どこからくるのか。アドラーの原著ではそれは、どういう文脈で出てくるのか、あるいは根本的に原著にないものか、ということです。


 で、結論から言うと予想どおり、この本にはそれにあたるフレーズは出てきませんでした。


 もちろんこの本1冊で判断するのは早計です。でもこの本の奥付には

「アドラー心理学入門の決定版!
ウィーンからニューヨークへと活動の拠点を移したアドラーが初めて英語で出版した、アドラー心理学全体を俯瞰できる重要著作。

過去と自己への執着から離れ、仲間である他者に貢献することを目指す共同体感覚をいかに育成するべきかを人生の諸像の考察を通じて明らかにする」

とあります。いちおう「アドラー心理学全体を俯瞰できる」とありますので、この本をじっくり読んでみるのもわるくないと思ったわけであります。

 で、ぼんやり思うのはアドラーの考える「共同体感覚」なるものは何か、ということです。どうもここが上記の”変な思想”のすべての起源になっていそうです。


 ただ、最近の読者の方は文字をびっしり書いてあるのを読むのは「たるい」とお感じになると思います。なので、
スライドで図をつくってみました。


スライド1


 おそらく、この本が構想しているのはこういうものであろう、ということです。ひとりひとりが向上し、共同体感覚をもって貢献しあいましょう。
 学校の教室の目標に貼ってありそうです。


 わるいけど、わたしはこの図を作りながら「革命家の青い思想だなあ」と思ってしまいました。ひとりひとりが誰の助けも借りずにここまで立派に向上して、というのは絵空事です。マルクス主義がすごく自立した立派な人が構成する社会を念頭に置いてできていてすぐポシャッたのと同じ。もし組織の成員のだれか1人がこういうことをお勉強してやりはじめたとしても、線香花火で終わるでしょう。

 もちろん、理想は理想として結構です。ただ、これは組織が非常に大きく「リーダー」に依存しているという現実をみていません。泣いても笑ってもそれが現実です。その部分を無理やりスルーして、フォロワー側の努力で良くしようと思っているようですが、それは現実逃避です。

 現に、いまどきの学校ではしょっちゅう学級崩壊が起きるのですが、そこでは生徒をリスペクトしていない、褒めない先生のもとで容易に起きます(学級崩壊の原因をたどると大抵はそういうところにたどりつきます)。そういう先生が「ひとりひとりが向上して貢献しあいましょう」と声をからして言ったところで無意味なのです。


 で、手前味噌で恐縮ですがわたしが数年来研修で使っている「承認モデル」の図というのをお出しします。


スライド2
スライド3
スライド4


 これは法螺を吹いているわけではなく、実際に働きかけをすることでこうなってきました。
 こちらのほうが、学習機会を与えるのはリーダーに対してだけで良いのです。あとはリーダーからフォロワーへ、日々のやりとりの中で自然に良いものが流れていくのです。

 おそらく過去10数年にわたる再現性からみて、こちらのほうが人間社会の真実です。



 この「共同体感覚」というものについて、この本の末尾の訳者・岸見一郎氏の「解説」から引用します。


 
アドラーがこの共同体感覚という考えを友人たちの前で初めて披露したのは、アドラーが軍医として参戦した第一次世界大戦の兵役期間中、休暇で帰ってきた時、なじみのカフェにおいてであった。

 このことで、アドラーは多くの友人を失うことになった。価値観にもとづくような考えは科学ではないというわけである。しかし、アドラーにとって個人心理学は価値の心理学、価値の科学である。(前掲書p.182)


 おいおいー。

 ここは、アドラーにも書いている岸見氏にも両方ツッコミを入れたくなります。「価値の心理学」そして「価値の科学」ってなんだよ!?主観に科学ってつけないでくれよ。

 要は、アドラーさんは自分の価値観を一般論みたいに書いているだけのようです。「貢献することが好き」これは、ソーシャルスタイルのFタイプさん、4つのタイプ分けでいうサポーターさんが当てはまります。みんなが私みたいだったらいいね!ということを言ってるんです。


 「私は貢献することこそ自分をそして全体を幸福にすることだと発見した。」

 別に、間違ってはいないんですが。

 問題はそれに「承認欲求否定」「ほめない叱らない」がどうしてひっつくのか、ということです。この本にはそうした言葉そのものでは出てきません。では、文脈上そう読み取れるところがあるのでしょうか。

 あくまで、この本単体から読み取れることで言いますと――。


 この本をパラパラめくると、「甘やかされた子ども」「憎まれた子ども」という言葉が多数出てきます。父親や母親が過度に罰して虐待したことによってもたらされる、抑圧された感情という言葉が出てきます。それから、「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」という言葉も出てきます。

 それに関連したいくつかの症例も出てきますが――、

 要は、カウンセリングの世界の話なんです。

 以前から言っていることと同じです。アドラーは、心理学者・カウンセラーとして、社会不適応を起こした大人や子供さんをみてきました。その背景に、さまざまな「過剰」の現象をみてきました。すなわち、甘やかしすぎ。叱りすぎ。他者に優りたいという気持ちが強すぎ。劣っているという気持ちが強すぎ。


 そこから、どうも、「過剰」がなければ、「共同体感覚」のある、アドラーの考える「いい人」をつくれると考えたようです。

 引き算の発想ですね。岸見アドラー心理学の「ほめない叱らない」の起源は、どうも、ここにあるようです。

「この主題を扱う時、罰することや、諭すこと、説教することでは何も得ることはできないということは、いくら強調してもしすぎることはない。」(p.20)

 さあ、「叱らない」に通じそうな言葉が出てきました。
 しかし、この言葉はその前段に出てくる問題行動をする子供たちの例との絡みで理解する必要がありそうです。
 いわく、怒りっぽい父親をもった女の子が男性を排除する。厳格な母親によって抑圧された男の子が女性を排除する。あるいは内気ではにかむ、性的に倒錯する。
 こういう子たちを罰しても意味はない、ということを言っているのであって、一般論としていついかなる時も罰することがいけないと言っているわけではありません。


 そして、理想的な状態をどうやってつくるか。


 一番最初から共同体感覚を理解することが必要である。なぜなら、共同体感覚は、われわれの教育や治療の中のもっとも重要な部分だからである。勇気があり、自信があり、リラックスしている人だけが、人生の有利な面からだけでなく、困難からも益を受けることができる。そのような人は、決して恐れたりしない。(p.16)



 その理想は大変結構なんですけど。じゃあどうやってそういう人をつくるの?「過剰」さえなければつくれるの?

 これが結局、カウンセリングの側から教育を語ることの限界を物語っているのだろうと思います。「治療」と「教育」は違うものです。「治療」は、「過剰」を是正することが大きな仕事になります。しかし「教育」は、なにかを加算することです。


 「行動承認」の世界にいるわたしは、そこで「訓練」の存在をみます。訓練は、人為的に指導者が負荷をかけたのかもしれないし、人生のあるいは不幸な巡り合わせで困難な課題を与えられ克服する経験を通じてもたらされたのかもしれない。「過剰」を控える以外何もしないでつくれるわけではありません。また、困難な負荷であれば、それを乗り越えたときには「承認」が必要でしょう。




 アドラーも「訓練」の重要性を、実は言っています。
劣等感と社会的な訓練の問題は、したがって、本質的に連関している。劣等感が社会的な不適応から起こるように、社会的な訓練は、それを用いることで、われわれ誰もが劣等感を克服することができる基本的な方法である。(p.31)


 ほかにも、甘やかされて行動しない子どもには訓練が必要だ、というフレーズが出てきます。


 これは後世のアドラー心理学の人が「操作」を罪悪視するのとはちょっと矛盾するのですが。訓練っていわば操作じゃないんですか。 「・・・をしなさい」って言って、できたらほめたりするのを訓練って言わないですか?


 この「操作」が悪玉になった流れというのは、アドラーの時代からずっと下った1990年代ぐらいに、「内発と自律論」がもてはやされました。どうもそのころ行動理論があまりにもメジャーになったので、反発を買った。また、部分的には弊害も出てきた。『報酬主義をこえて』でアルフィー・コーン氏が批判したような、子供をお金で釣って勉強させるような。(2015年日本では某美人学者さんが「お金で子供を釣ってよい」と本に書いているが、コーン氏はそれにはどう言うのだろう…)

 その当時は、「ほめたり叱ったり」というのを、「アメとムチ」と、汚い言葉でくさすのが主流になりました。それとの絡みで、アドラー心理学陣営も、「操作はいけない」ということを言うようになったのではないかと思われます。いかにも、「過剰」には「過剰」に反応するアドラー心理学らしいです。
 
 アドラーが、普通のご家庭の躾としての「ほめたり叱ったり」までを否定していたのかというと、この本でみるかぎりクエスチョンですね。


 
 そういうわけで、この『個人心理学講義』からは、「認められなくてもいい」「ほめない叱らない」「トラウマ否定」は、読み取れませんでした。

 これらのフレーズは、岸見一郎氏の誤読、牽強付会あるいは創作の可能性が高いです。もともと、『嫌われる勇気』をはじめとする岸見氏の一連の著作、ならびに他の著者によるアドラー心理学本は、アドラーに依拠したというより、「二次創作」のようなものが多いのです。コミケで売っている同人誌のようなものが多いのです。





 「承認欲求否定」に関しては、アドラーからとったというより、わが国の出版業界の流行りである「承認欲求バッシング」の尻馬に乗ったのではないか、というのが、わたしの見立てです。

 このブログでかねてから批判していますように、出版業界の流行りで、わが国では2008年ごろから「承認欲求」をやたらに非難する書籍が続々と出てきました。
 その「はしり」のような本が、『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)。
 この本についてのブログ記事
●奇妙で不快な論理構築:承認欲求バッシングはこんなに変!―『友だち地獄』『希望難民ご一行様』
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927340.html

 その後2011年には『「認められたい」の正体』『人に認められなくてもいい』といったタイトルの新書本が相次いで出、ちょっとした「承認欲求バッシングブーム」の感がありました。

 岸見氏の「承認欲求否定」は、どうも、このバッシングブームの尻馬に乗って言っているだけ、という感があります。前にも書きましたようにアドラー自身は「承認欲求」という言葉を使っていません。

 「甘やかされた子ども」「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」これらは、「承認欲求」が絡んでいないとはいえないですが、どれも異常に暴走して正常範囲から逸脱したものです。


 岸見氏の言う「認められたいと思わないで、貢献しようと思えばいい」このフレーズは、個別のクライエントに対するカウンセラーのアドバイスとしては、「あり」だろう、と思います。
 例えば、「認められたい」がやたら強すぎる人。「自分が人に10やってあげたら、20も30も50も認められたい」と思っている人。
 あるいは昇進し損ねて、同期より昇進が遅れてしまい、それがコンプレックスになって鬱になってしまっている人(実際、男性はそういうきっかけで鬱になることがよくあります)。

 そういう人を目の前にして言う場合には、「認められたいと思わなくていい。貢献しようとだけ考えればいい」これは、「あり」です。わたしでもそういう人に対してはそう言うかもしれない、と思います。
 しかしあくまでそういう個別の人に対してだけ有効なテーゼなのであって、一般化して教育の教義にまで格上げするようなものではありません。




 これはあくまでわたしの想像ですが、岸見氏はこの出版界の流行りである「承認欲求否定」と、アドラーのいう「共同体感覚」「貢献する」を合体させて、これならうまくいく、と思ったのかもしれません。つまり、各自が「共同体感覚」をもち、「貢献さえすればいいんだ」と強く思っていれば、「承認欲求」は必要なくなる(これも幻想なのですが)。

 それプラス、アドラーの「甘やかされた子ども」の概念も使って、つまり親がほめるから子供が甘やかされるんだ、承認欲求をもった人に育つんだ、と。親がほめないで育てれば、承認欲求のない、「人から認められたい」という願望のない人ができるんだ、と。
 
 それはサイボーグづくりのような、ものすごい人間性に反した考え方ですけどねえ。




 
 なんどもいいますように「承認欲求」はたまに逸脱も起こしますが、圧倒的に多くの場合は人びとが規範的に振る舞うことを促します。わたしたちの規範意識はそもそも承認欲求によってつくられていると言ってもいいのです。そして承認欲求は精神における食欲のようなもの、根源的に大事なものです。

 「角を矯めて牛を殺す」という言葉がありますが、一部の問題行動をとる人にばかり注目して原因を過剰に摘み取ろうとするのは、癌細胞は細胞だから細胞が全部わるい、と言っているようなものです。ターゲット以外のものを叩いてしまう副作用の強い薬のようなものです。






 それから、アドラー自身について思うのは、この人はやっぱり発達障害が全然わかっていないですね。時代的に仕方ないですけれどね。『個人心理学講義』の中にも、「その子はADHD」と思うような症状の子が、「甘やかされた子ども」と解釈されている例があります。岸見氏も全然わかっていないです。またLGBTもわかっていないです。性的倒錯を育て方のせいにしている記述がこの本にはあります。

 今からはもう少し、今年2月にNHKが名著として取り上げた『人生の意味の心理学』も、読んでみようと思います。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 本日、NHKおはよう日本(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集し、それに対して私が批判の書き込みを即、フェイスブックにUPしたものだから、お友達がコメントをくださいました。

 
 お名前を伏せて、貴重なコメントを紹介させていただきます。

「ほめること、承認することは必要です。また、勇気づけることも大切です。仮説に過ぎないアドラーの考えを、無批判に振り回すのはやめませんか。」(学校教員)


「情けは人のためならず、とか、無私、とかが好きな日本人には「承認されること」「褒められること」にたいする含羞というか、拒否感があって、しかもその拒否が建て前で、実はとても認められたい欲求が強いくて、それを外に出せないし、他人の欲求も否定する。
お礼は言らないよ、といいつつ、好きでやってるのだからと、無理に努力をして、結局それを評価されないと落ち込む自分がいて、しかも、そういう自分を汚いと思い。内心を人から見透かされないよう気をつけつつ気づいてほしいというねじくれた状況に陥りやすいですね。」(
料理研究家)


 お二方、それぞれおっしゃる通りです。まず、人が育つ現場において「承認欲求」は根源的な欲求だということ、それは目の前の存在のもつ性(さが)を素直に観る力のある方なら見てとれることでしょう。
 また、日本人特有の「承認欲求」に対する含羞の気持ち、これもマネジメント分野で「承認論」を唱えた太田肇氏が当初から言われていたことで、「『認められたい』は人の心に眠る巨大なマグマ」であると、かなり深層のインタビューをしないとそれは見えてこないと。


 お次はご同業の友人、宮崎照行さんより。

「私もNHKのニュースを拝見しました。

大手メディアが取り上げるということは、まさに「権威に訴える論証」。
「権威に訴える論証」は、アドラー心理学の表面的な部分、アドラー心理学が流行っているからということで盲目的に信じている人たちにとっては、まさしく無批判に考え方を正しいと強化するものです。

特にアドラー心理学を信奉し一般化している人は批判的思考能力が高いとは言えないのでその傾向は強いと思います。多分、原著を読まれている人は殆どいないでしょう。多くが岸見本の受け売りです。(アドラーの原著は抽象的すぎるので読破することは難しいでしょう)

最近、私が危惧しているのは、キャリコンをされている方に岸見本で解釈されているアドラー心理学を盲目的に信じている人が多いということです。キャリコンやカウンセラー・、コーチの方々のクライアントに対して影響力を及ぼしている方が無批判に浅い理論や考え方を使用すると大いに「毒」となります。


例えば、荒れている高校生に対してアドラー心理学の考え方を講演等で押し付けてしまうと、却って素直なので彼(女)からそっぽを向かれます。

彼(女)らは様々な環境で傷ついています。不器用で且つ限られた中でしか生きていないので、自分の存在を反抗という形で表しています。

こういう人たちに対して、例えば、岸見本にあるように「学歴が低いことで卑屈になるのは自分の見方がおかしい」といえるでしょうか。多分、猛反発を食らうでしょう。

比較するほどではありませんが、相手の存在を承認し、話をする・聞くという「場」をつくり、建設的に構成していくほうがよっぽど効果的です。


私はアドラー心理学が存在すること自体は否定しませんが、専門的職業と名乗っている方々で岸見本レベルで仕入れた表層的な知識だけで、すべてが解決するということに対して猛烈に批判します。

私自身、「嫌われる勇気」があるので「嫌われる勇気」のような本を全く必要としないというのは皮肉でしょうか(笑)
..


 そうなのだ、(岸見)アドラー心理学は、「承認欲求批判」「期待に応えなくてもいい」以外にも、非常に気になるところがいっぱいある。

 弱者目線を欠いている、というのは、上記の「学歴が低いことで卑屈になるのはおかしい」もそうだし、発達障害などの障碍者目線がまったく入っていないこともそう。

 (これは『個人心理学』のAmazonレビューにもそういう批判があった。今からその本を読んでみるが)

 以前にも、わたしとは別の方による「岸見講演」講演録をUPしたが、それによると講演には産業カウンセラーの方々がわんさか来ていたという。キャリコンや産業カウンセラーの先生方が、弱者であるクライアントに

「承認欲求を持たないほうがいいんだよ」

と、説教している図を想像したら…、

 ゾッとする。弱者を痛めつける、悪用されやすい思想だと思う。

(アドラーが影響を受けたニーチェ思想は実際にナチに悪用されたそうだ)


 アドラー心理学がまき散らす害について語りつくせる日はくるのだろうか。

 これ、アメリカでは今どういう位置づけになっているんだろうか。ご存知の方はご教示ください。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 「メディアの劣化」という話題についていよいよこのブログにカテゴリを立てなければならなくなったかもしれません。
 わたしのいや〜な予感が当たってしまいました。表舞台に出てはいけないものが出てしまいました。


 今朝、NHKの「おはよう日本」(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集していました。

 全然予期していなかったので録画などはしておりません。しかし非常に問題のある内容で、わたしは9時になるのを待ちかねたように「NHKふれあいセンター」(Tel.0570-066-066 )に抗議してしまいました。

 
 

追記: こちらに特集内容がUPされています
http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2016/05/0524.html

途中からみたのかもしれないのでもし違っていたら訂正していただきたいのですが、

 「アドラー心理学で心の安寧を得た(番組ではそういう表現ではなかったが)人」として、2人の人物が登場します。
 1人は、男性のビジネスマン。「承認欲求批判」がモチーフです。
 「認められたいと思っていて苦しかった。アドラー心理学に出会い、『人に認められなくていいんだ』と思えるようになって、楽になった。『人を信頼し、貢献せよ』という教えに従って、貢献しようという気持ちでいると楽になった。今では自分から人に貢献することだけを考えている」

 もう1人は子育て中のお母さん。「期待に応えなくていい」がモチーフ。
 「子供たちをひどく叱ってばかりいた。アドラー心理学で、『他人は自分の期待に応えるためにいるのではない』と習い、気持ちが楽になった。(叱らなくなった?)」

 これを取材してきたディレクターと男女のアナウンサー2人が少し会話して終了。
 
 女性アナウンサーが、「これまでにも普通に言われてきたことではないですか?」と怪訝そうにいうが、それ以上の追及はなし。


 さて、上記のどこに問題があるでしょうか。
 このブログの長い読者の方だと、お分かりいただけるのではないでしょうか。

 簡単に言うと、「人に認められなくていい」「期待に応えなくていい」
 これらが正解なのは、「過剰」な場合だけなんです。 
 多くの場合は、「認められたい」と思うことも「期待に応える」ことも正常なことで、否定するのはおかしいことなんです。否定して鬱を作ったり人間関係の問題を作ることのほうがはるかに怖いんです。


 「人に認められなくていい」
 このフレーズは、ごく限定された場面でだけ正解です。
 すなわち、承認欲求が極端に強いナルシシストの場合。リーダーには、昇進などが原因でナルシシズムが亢進することがあります。TVに映っていた人はこのタイプのようにみえました。
 また往々にして、能力の低い人ほどセルフモニタリング能力が低く、自分の能力には見合わない評価を求めることがあります。
 あるいは、自ら選んだボランティアのような仕事をしていて、時折「誰も認めてくれない…」という無力感にさいなまれるようなケース。その場合は、自分が選んだ道そのものの意義と認められない苦痛と天秤にかけて、どちらをとるか決めないといけません。選んだ道そのものの意義を重視するなら、とりあえず「認められたい」は封印したらいいでしょう。

 人は誰でも認められたいと思っています。だから効果的に認められれば、絶大なる力を発揮します。こちらのほうが、パフォーマンスを上げるには正解です。もちろん精神衛生上も正解です。「行動承認」を導入してくれたマネジャーの下では、何年もにわたって大きな問題が起こらず成長を続けています。
 (ごくたまに、その中で伸びすぎて問題行動を起こす人が出て退社してもらうケースも出るようです。それはむしろ例外的な例です)

 「承認欲求」は食欲と同じで、人間の基本欲求。精神における食欲と同じようなものです。
 もし「承認欲求はわるいものだから、押さえこみなさい」というなら、それは「食欲はわるさをするものだから、抑えなさい」というのと一緒。よほど食欲が亢進しておデブになっている人には必要なことかもしれませんが、必要な食欲まで抑えたら摂食障害になってしまいます。ガリガリにやせて低栄養になってしまいます。

 
 たとえば、「認められたいと思わないで、相手に貢献することだけを考える」という方針で、みんなが仕事をしたらどうなるか?
 これは、独りよがりな仕事の仕方にすぐ、なるでしょうね。相手が喜んでくれようがくれまいがどうでもいい、ということになりますから。会社の中が独りよがりな仕事だらけ不協和音だらけになるでしょうね。

 また、万一マネジャーが「承認欲求は否定してよい」と思っていたらどうなるか?
 自分の承認欲求だけを否定していればよいですが、それだけにはとどまらないでしょう。部下が承認欲求を持って働くことにも否定的な目を向けるでしょう。「認められたい」と思っている人を、自分と違ってレベルの低い人だとみなして見下すでしょう。

 そう、「承認欲求」を見下す人は、最終的には人間性全般を見下すようになりますね。

 いみじくも、TVに映っていたビジネスマン氏は、職場で人と話しているときも相手の目を見ないで会話していました。「相手の目をきちんと見て話す」これも広い意味での承認を与えていることですが、それを重視していないことが仕草に出ているのでした。

 だから、「承認欲求」を否定することで、自分が高級な人になったなどと思ったら大間違いなんです。人間性全般を見下した不遜な人間になってるんです。独りよがりな人間になっているんです。

 

 もう一人の「期待に応えない」を習ったことで子供さんを叱らなくなったお母さん。
 これも、それまで何のためにガーガー怒っていたのかわかりませんが、「ゆきすぎ」のケースであったのかもしれません。例えば、「最上思考」の人が、子供さんにやたら塾習い事の早期教育をさせて、それが思い通りにならないで怒っているケース。あるいは、「活発性」や「指令性」の高い人が、やはりあっち、こっちと自分の思い通りに連れまわして、子供がどこかで引っかかって動かなくなると怒っているケース。

 そのタイプの人が、ガーガー叱っていたのを多少和らげることができたのなら、それは喜ばしいことなのかもしれませんが――、
 一面、怖いことでもあります。
 「人の期待に応えなくていい」
 では、子供に道徳の躾はしなくていいのでしょうか?
 お兄ちゃんが弟の頭をガンと殴りました、それを叱るのも「期待に沿わせる」ことになるのでしょうか?

 この「倫理道徳の躾」というものが、わたしの子育て時代にも既に周囲のお母さんの間ではナアナアになっていて、唖然としました。

 わが家では歳の近い3人きょうだいだったので、きょうだい喧嘩とそれを仲裁する機会には事欠きませんでした。
 そのたびに「どっちが先に悪いことをした」と認定し、バシッと叱り、謝らせました。まず端緒を作ったほうに謝らせ、そして最終的に両方が謝るようにさせました。

 「いじめ」的になる場面も時折あったので、「いじめは許しません」を伝える機会にも事欠きませんでした。
 「ちょっと待って。今の『●×におやつやらない』っていうのは何か?それはいじめやで。いじめは許さへんで」

 しかし、こうして親が子に自分の道徳観を伝える作業も、「他人を自分の期待に応えさせる」ことにはならないでしょうか?
 「他人を自分の期待に応えさせる」ことのすべてを否定すると、倫理道徳の躾というのはすべて不可能になってしまうのではないでしょうか?

 もちろんこれは会社組織にも言えることで、例えば「会社の理念」というのも、ある意味押しつけです。ある行動規範に社員を従わせる作業です。もしも社員が「他人の期待に応える必要はない」と信じていたら、会社の理念にも従う必要はありません。
 それで会社、回りますか?


 実は、この件であるアドラー心理学者(大学の心理学の教授。特に名は秘す)に伺ったところ、
「アドラーの著書に承認欲求(needs for esteem)という言葉はない」
ということがわかりました。

 具体的には、アドラーの主著でバイブル的な'The Individual Psychology of Alfred Adler' (邦題『個人心理学』)には、esteemという語はない。self-esteemという語はある。といいます。

 もともと、承認欲求(needs for esteem)は、五段階欲求説のマズローの造語のようなもので、時代が後になります。だからアドラーが「承認欲求」という語を言うのはおかしいのです。(マズローはアドラーから影響を受けたそうです)

 アドラーは「承認欲求」という語そのものを使っていないとしたら、どういう文脈で言ったのだろうか…。

 アドラー(1870-1937)の時代ですと、ヘーゲル哲学の「承認」は、既にあったものです。またそれのアンチテーゼとしてのニーチェ(1844-1900)は既にあり、アドラーはニーチェからは影響を受けたといいます。

 ニーチェ。。。
 わたしはニーチェ哲学には疎いです。はっきり言ってどうでもいいと思ってるんですが、
 Wikiからニーチェ思想を引用しましょう。

「ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。」

 わかります?まあ、ぱっと浮かぶイメージは「ニヒリズム」なんです。隠遁者の夜郎自大の思想、というイメージをわたしは持っています。勝手にやっててください、という感じ。

 たぶんすごく頭のいい人だったのでしょうが、自己完結的な世界で生きる人。強い人だけに可能な、他人に期待しないで生きる生き方。(内心ではぶっちゃけ、「その人アスペだったんじゃないの?」とも思っています)
 
 それから影響を受けたのがアドラーらしいんです。

 だから、そういうアドラー思想を子育てなんかに応用するのは大変におかしなこと。隠遁したひきこもりの人や、すごい実力のある個人事業者の人が信じていればいい思想なんです。だから承認や承認欲求、期待を否定する。


 これを会社に応用して部下育成などに応用するのも、大変におかしなことです。

 (なお、学者さんによればアドラー心理学を子育てに応用したのはアドラー自身ではなく、その弟子の代からだそうです)


 ああもう言っているのもたるくなった。

 NHKふれあいセンターのオペレーターの人には、

「職場に鬱を作ったらどうするんですか?アドラー心理学はブームとはいえカルトのようなものです。それをNHKさんが全国ニュースの特集で流すというのはものすごく影響力が大きいです。過剰なダイエットブームを取り上げるのと一緒で、専門家からの批判的なコメントを入れるのが正しいのです。視聴者に対して何らかの訂正をしてください」

 オペレーターは「よくわかりました、担当者に伝えます」と言いましたが、のれんに腕押しの気配あり。

 これ、どういう落としどころになるんでしょうか…

 オペレーターさん、モンスタークレーマーに怒鳴られても、上司がねぎらってくれると期待しちゃダメですからね…


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
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●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
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●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
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●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
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●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
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●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
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●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
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●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
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●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
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●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
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●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
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●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 今日は、わたしの中で長年モヤモヤとしていることについて書いてみます。ただあまり纏まっていないかもしれません。下書きレベルの記事になるかもしれません。

 『行動承認』は、2015年1月に絶版となったあと、何度か大手出版社での再出版を検討していただいたことがありました。
 中には、『聞く力』や『女性の品格』と同様の人生論の本として位置づけて大きく売り出すことができないか、という形で働きかけてくださった方もいました。有り難いことです。
 しかしいずれも沈没。

 出版社側の返事は、

「既に一度出版され市場からの評価も定まったものについての再出版は難しい」

 それから、

「読者対象が狭い」

でした。

 前者はともかく、(わたしの方は、前者にも相当言いたいことがあるのだが)

 後者は、メディアの考える「読者対象」とは、なんなのだろう?と改めて考えるきっかけになりました。


 『行動承認』は、ある教育の効果を最大化するために、「この教育を受けたらこうなった」という事例(もちろんすべて実話)を集めた本ですが、

 逆にこういうドラスティックに人びとが前後で変化してしまう話というのは、メディアが考える「読者」とは、結びつかないのかもしれないなあ、と。

 彼らの考える読者は、「静的(スタティック)」であります。成長とか変化とかは似合いません。TVの前で日がな一日、ポテチ食べながらワイドショーをみてあーだ、こーだ言っているのが似合います。

 その人たちの発する言葉は、「けしからん!」「いやーねー」それに「それおもしろそう!」「それ美味しそう!」

 その人たちの期待に応えて、その人たちの想像の範囲内のことでちょっと奇をてらったことを提供して、みてもらう、アクセスしてもらう、というのが今のメディアの仕事になっています。

 
 「想像の範囲内のことで」というのが、上手く言えないのですが、納豆ダイエットとかバナナダイエットみたいなことだと、むしろOKなんです。でも行動承認はダメ。どこにOKラインがあるのかはよくみえません。

 ともあれ、メディアが想像する「お客様」は、怠惰なんです。そして被害者的なんです。何かを実際にやるということはあまり想定しなくていい。『行動承認』のように、

「実際にやってやり続けた人はこんなに素晴らしくなりました」

などという物語は、お客様にとってはかえってウザいのです。メリットよりは、「ウザい」という感覚が先に立ってしまうのです。

 なので、市井にあふれる「人生論」の本は、怠惰で何も努力しない人向けの「とかくこの世は生きづらい」「その中でどうやってしのぐか」というたぐいの話であふれます。たぶん最大の読者層は定年後の脳の萎縮がはじまっている人たちだと思います。
 『聞く力』はどうかというと、あれも読むだけで、やらなくていいのです。だって、職業的インタビュアーの話ですから、自分ごととして読みませんから。

 たしかに「怠惰で何も努力しない人」のためにわたしが本を書けるかというと、難しい。延々と人間関係で悩む話を最後まで書き続けられるかというと。『行動承認』でいうと、「はじめに」のところに、現代の上手くいっていない典型的な職場の事例を4話載せていますが、あれも書いていてものすごく苦痛だったんです。すぐにでも問題のあるマネジャーに飛びかかって改造したい、わたしだったら。

 『行動承認』は、本でも研修でもあえて省略している部分が本当はあって、「被害者になるな。行為者であれ」というメッセージが、暗に入っているんです。
 でもそれをわざわざ言わなくても成立する。なぜなら「行動承認」をするということ自体とてもシンプルなので、あの一連のエピソードを読んだ人だと「やってみたい」「やれそう」と思えますし、実際やれてしまうからです。

 ただ、根っから怠惰で行動することがキライな人にとっては、そういうベクトルをもった本というのは迷惑なんだと思います。
 日本人の大半がそこまで怠惰だとは、わたしは思いたくないのですが――。

 
 というわけで、メディアが怠惰で成長のないワイドショー視聴者の人びとをお客様に想定している限り、わたしは「行動承認」のお話をどこか大手で書いてメインストリームにするということはあり得ないです。

 本当は、心のどこかで

「マネジャーという狭い範囲の人びとを対象にしてはいるが、この本がもつ推進力はマネジャーの周辺にいる人びと、中堅から部下世代の人(男性女性含め)、奥さんやお母さんまでも取り込めるはずだ」

という発想が出版社の人にあったなら、そしてそのつもりで気合を入れて広告宣伝を打ってくれたなら…という淡い期待があったのですけれど。

 編集者自身がその世界の人からほど遠く、彼ら自身の世界観が全然別のところに築かれているようなので、しょうがないですね。



 
 この話はしょもないのでこれぐらいにして、

 タイトルに書いた後半部分、「王道」と「パチモン」のお話です。

 実はここでも、「STAP細胞」の話が奇妙に交錯してきます。

 ご存知のようにSTAP細胞は、京大山中伸弥教授らのiPS細胞への対抗馬として論文発表されました。

 iPS細胞は、山中教授のノーベル医学・生理学賞受賞(2011年)の時に大きく経緯を報道されましたが、その後STAP細胞がクローズアップされたときに忘れてしまった人が多いかもしれません。

 iPS細胞は、皮膚などの体細胞にわずかな操作をして培養するといわゆる「万能細胞」になります。つまり、様々な組織や臓器の細胞に分化する能力とほぼ無限に増殖する能力をもつ多能性幹細胞になります。例えばどこかの内臓が病気になりそれを治したいと思ったとき、その内臓になってくれる細胞をその人の体の細胞から作ることができますから、他人の内臓を移植する臓器移植のような拒絶反応の問題が起きません。

 このiPS細胞のマウス由来のものを山中教授らは2006年に、またヒト由来のものを2007年に作製に成功。その作製方法がシンプルなことと再現が容易なことで、今では世界中の研究機関が追随するようになりました。人の病気の治療への臨床応用も始まっています。

 日本生まれ日本育ちの「万能細胞」であることから、国歌や国旗ならぬ「国細胞」というものがあるなら日本の「国細胞」はiPS細胞だ、とまで言われています。

 しかし、このままではiPS細胞に幹細胞研究や、再生医療研究の研究費の大半を持っていかれてしまうかもしれない。そういう危機感が、理研の笹井氏らによるSTAP細胞研究の大々的な発表につながったようです。しかし、なんども言いますようにSTAP細胞は架空の細胞で、論文はほとんどすべてのデータが捏造の塊でした。

 
 そして今、奇妙なことですがわが国では「STAPあるある派」による「iPS憎し」の議論が起こっています。iPS陣営がSTAP研究を潰したというのです。
 これがどの程度世論の支持を得られているのかわかりませんが――、何度も書きますように何も知らない人がうっかりネットを見てしまうと、「STAPあるある派」の言説のほうに触れてしまうようにネット世論が誘導されています。彼らはデマゴーグの訓練をどこかで受けてきたのかと思うぐらい、誘導が上手いです。だから今後も気をつけないと、「あるある派」の言説が「世論」として格上げされてしまわないとも限らないのです。
 ほとんどの日本人は無関心ですが、無関心だから怖い。

 
 この、明らかに「パチモン」であるSTAP細胞が、「本家」「王道」であるはずのiPS細胞を大衆的人気において食ってしまっているという図は、どこかでみたことがあります。

 
 
/翰学の「行動理論―行動科学―行動分析学」への対抗軸としての「内発と自律論」。△△襪い蓮崗鞠論」への対抗軸としての「承認欲求バッシング論」。  
 これらの対抗軸は、とっくに定説となっていいはずの有力な理論への反発心から生まれ、片隅でやっていればいいものが妙に有力になり本家にとって代わる勢いだというところが、「iPSとSTAP」の構図と似ています。

 対抗軸の側はエビデンスなんてないのです。本家のほうがはるかに高い数字を叩きだしています。人類を幸せにする力があります。なのに、本家が偉そうで気に食わない、そして今更本家に取り込まれるのはプライドが許さないという理由であえて対抗軸を立て、本家を汚い言葉で罵る「芸風」で大衆的支持を集め、のし上がってきたわけであります。

 このブログでは,領磴箸靴謄▲襯侫ー・コーンという人の『報酬主義をこえて』という本を2011年12月、ボロクソに批判しました。また△領磴蓮∈鯒来「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリをこのブログに立てて、連続して批判してきたのをご存知の方も多いかと思います。

 本当は、△領れで2014年以来では『嫌われる勇気』などの「岸見アドラー心理学」がとんでもなく勢いをもってしまっているので、このブログでもちょこちょこ批判していますけれども本格的にやらないといけないのですけれども着手が遅れています。

 そんなわけでまたSTAP問題と交錯してしまいました。




 ちなみに今日フェイスブックでご紹介したのですが、台北で発行されている科学雑誌「PanSci(汎科学)」に、わが国の「STAPあるある論」のことが記事になっていました。

 http://pansci.asia/archives/98876
 
 過日Biochemical and Biophysical Research Communications(BBRC)に発表された独ハイデルベルク大学の論文のことを日本のネットニュースが報じ、「STAPあるある」の人びとが騒然となったが、よく読めばこの論文は小保方氏のSTAP研究とはまったく「別物」だった…という意味のことを言っています。

 わが国の「STAPあるある論」は、日本の恥。

 韓国の捏造科学者、黄禹錫氏にもいまだにファンがいるそうですが、「STAPあるある論」がMSNニュースのような変にメジャーなところに間違って上がってくるのは避けたいものです。アングラな一部の人の趣味にしておけばよろしい。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 久しぶりにまたSTAP関係の話題です。
 今日、たまたま普通の社会人(注:ここでは、STAP/小保方擁護派でも批判派でもなく、特段強い関心があるとはいえない企業人の意)のお友達のフェイスブックページに遊びにいったところ、

「 ちょっと質問^_^;ドイツとアメリカでスタップ細胞実験成功って本当ですか?」

と、ご質問を受けました。

 すっかりこの分野の人とみられてしまっているなぁ。
 でもこうして真正面からご質問いただけるのは幸せなことなのです。

 ちょっと居ずまいを正したかんじで、こうお答えしました。

「はい、ご質問ありがとうございます。お答えします。
ネットでまことしやかに言われてますが、あれはデマです。
アメリカとドイツ、どちらの論文もまったく実験方法が違い、スタップ細胞ではありません。
ただメカニズムのコンセプトは似ていて、外部刺激で細胞が初期化するとか万能細胞になるとかいうことをめざしています。
ただこの種の実験はもう10数年来あちこちで行われています。スタップ細胞だというためには実験方法が同じでないといけません。
論文を最後までちゃんと読むと違うものだとわかるのですが、小保方さんの熱心なファンの方が部分的な一致だけでスタップだスタップだと騒いでいらっしゃるのです。」



 半可通のくせに、生意気にねえ。
 実は、本当にたまたまだったのですが、この同じ内容の質問をSTAP細胞に詳しいある科学者の方(先生の身辺に危険が及ぶかもしれないので、仮に「ドクターX」としておきますね)にしていて、それへの回答がけさ、返ってきてそれを読ませていただいたところだったので、割合自信をもってすらすら答えられたんです。X先生からのご回答はもっとはるかに専門的な長文のもので、上記のはわたしが勝手にそれを素人言葉で縮めてしまいました。

 有り難いことに質問者のお友達とそのやりとりを読まれていたお友達の方々には、このご説明でご理解いただけたようです。


 このSTAP細胞をめぐる言説というのは今、本当に特異な状況になっています。
 大手メディアは、黙殺。そしてネット上には、「STAPあるある」の言説があふれています。で、そちらはデマです。

 例えばマスコミが電通とかロスチャイルド(?)に支配されていて信用ならん!と思ったとき、これまでのわたしたちだったら「じゃあネットをみてみよう。そちらのほうが真実だろう」と思います。ところがそういう過去のノウハウがまったく当てはまらないのが、今のSTAP細胞・小保方晴子さんをめぐる情報です。

 ドクターXら少数の心ある科学者が匿名のグループで運用しているブログがあり、それによると、小保方さん擁護の総本山のようなブログがあります。宣伝する気もないので名前は出しませんが、そのブログのコメント欄というのは、複数の擁護派の非専門家いわば素人の人がコメントしあい、科学的に間違ったことを言い合います。要は、上記のアメリカとかドイツの紛らわしい論文をネタに、

「これで小保方さんの正しさは証明された!」
「日本では大きな力が働いて小保方さんを潰した!」

とか、わいわい仲良く言い合っているわけです。
 そこへ、ドクターXのような研究者が、「いやそうじゃないよ。科学的にはこうだよ」ということを言うと、その素人の方々が総攻撃してその人を叩き出します。それだけでなく、ブログ主は「アク禁(アクセス禁止)」という手段で、気に入らないコメント者を締め出すことができ、実際にそれをやって締め出しています。結果、コメント欄は素人だけになり、科学を装った似非科学コメントで溢れるそうです。

 それだけではありません。
 なんと、これまで小保方さんを実名で批判した科学者には、擁護派の方々は脅迫状を送ったり、Twitterで「死ね」とツイートしたり、勤務先の大学へメールして圧力をかけたりするんだそうです。そのためにブログ閉鎖に追い込まれた科学者の方もいるそうです。

 そうして、ネット上では小保方さん同情論・擁護論だけが幅を利かせることになります。


 えっ、正田はどうかって?

 まあ、老い先短い身なので、「どうぞ、やるならやってください」という心境で、実名で批判しております。
 「小保方さん」も「STAP」も割としょうもない問題ではありますが、言論統制というのは、いやですね。

 そんなことをやっていると案の定自分の著書のAmazonページに「呪いレビュー」を書かれましたけど(苦笑)

 
 『ダメ情報の見分けかた―メディアと幸福につきあうために』(荻上チキ他、NHK生活人新書、2010年)を久しぶりに手にとりました。
 たしか震災の年の6月、「情報とどうつきあう?」のよのなかカフェの時にこの本を参照した記憶があります。

 ここでは、「ウェブ流言」というものにも触れていますので、その部分を引用してみましょう:

「インターネットが普及してから、これまで数多くの流言やデマがウェブ上に広がってきました。もちろん流言やデマは、ネットが普及する以前のどの社会にも存在する、普遍的な現象です。しかしインターネットは、流言やデマの拡散を様々な形で強化してしまいます。短期間でより多くの人たちの目に留まるようになり、そのログをいつまでも残してしまうためです。

 そうしたインターネットと付き合うには、マスメディアに『批判的』で、『多様な解釈』をすることで『抵抗』していくとする、従来の『反権力』的なメディア・リテラシー論の枠組みだけでは不十分です。これまで以上に、『大きな権力に騙されない』といった気構えや能力だけではなく、『隣の誰かに騙されない』ための気構えや能力が必要となります」
(『ダメ情報の見分けかた』pp.31-32)


 ね?上で言ってることと一緒でしょ?
 要は、この問題に関しては、「大手メディアがダメだからネットで見よう」という、「AがダメだからB」という思考では、ダメなんです。ネット上に「ためにする情報」を確信犯的に流している方がいらっしゃるので、今、ネットはデマだらけなのだと思ってください。

 で、読者の利便のためにその「ためにする情報」を確信犯的に流す代表格の方のお名前を出しておきます。

 まずは、前にも名前をお出ししましたが自称ジャーナリスト(女性)の上田眞実(まみ)氏。別名「木星通信」。この方が、アメリカとドイツの論文を「どうしたらそこまで『誤読』できるの?」というぐらい誤読して拡散した張本人の方です。(これは人格批判ではありませんからね、単に行動をトレースして言っているだけです。)
 それから、これも自称ジャーナリスト、こんどは男性の大宅健一郎氏。この方も小保方さん擁護の記事をやたらと書いてはりますがほとんど根拠はありません。苗字から、大宅壮一とか映子の縁者なのかとうっかり思ってしまいますが違うようです。紛らわしいですネ。

 上記のお二人の「自称ジャーナリスト」が、これも以前に触れましたが(株)サイゾー運営の「ビジネスジャーナル」という情報サイトに頻繁に寄稿します。だからこのお二人プラス「ビジネスジャーナル」が発信源ともいえます。このサイトも、名前からして一見ニュースサイト風ですが信憑性は非常に低いところだといわざるをえません。

 あとは有名人で、前にも出した武田邦彦氏、青山繁晴氏、西岡昌紀氏も盛んに小保方さん擁護の論陣を張ってらっしゃいますが、内容をよくきいていただくとわかりますが根拠はありません。また、日本全国回ったことが自慢の最近落ち目の地域エコノミストのMK氏もネット上で盛んに匿名で擁護してはります。別にいいです、家に火をつけられても。


 
 もうひとつタイトルに「『あの日』症候群」とつけてしまったので、それについても書きたいと思います。

 小保方さんに騙される人たち。うっかり同情してしまう人たち。
 過去のブログ連載や著書にも書きましたが、非常に多様な人たちが「とりこまれやすい」因子をもっています。

 まず、高齢者。
 小保方晴子さんを自分の娘や孫のように感じ、「娘や孫がいじめられている」と受け取ってしまう。
 高齢になると人は細かいことを考えずポジティブになるので、「研究で少々ミスがあっても不正があっても、STAP細胞が存在するならそれでいいじゃないか」と考える(科学者サイドからみると、これは非常に悩ましい思考のようなのだが)その人たちにとっては、擁護派”ジャーナリスト”たちの「STAP細胞はある!」言説は、細かいロジックはどうでもよく喜ばしいことなのだ。「振り込め詐欺」に騙される層の人と重なる。
 なんらかの持病を持っているので、それをSTAP細胞が治してくれると考えている。小保方さんが「若い」ことも、なんとなく「若返り」作用がありそうで期待できる。

 それに、アスペ気味の理系男子。ブログなのでぶっちゃけ「アスペ」って書いてしまいますね。
 実は「アスペは詐欺に遭いやすい」これは常道なのです。過去に漁った発達障害関連の文献に出ていました。わたしも身近な高学歴男子で詐欺に引っかかりそうになったのを必死で止めた経験があります。小保方さんに高名な学者さんもたくさん引っかかりましたが…やめとこ。

 著書にも書きましたが、美貌正社員女子(「キラキラ女子」)。
 美貌に頼って上司の覚えめでたく、正社員・管理職として活躍。しかし自分のその地位は上司のご寵愛に頼る非常に不安定なものだとわかっている。ちょっとしたきっかけでポイと捨てられるとわかっている。その彼女らの不安心理に見事にフィットするのが小保方さんの手記『あの日』です。

 その他、大組織からスピンアウトした転職組、個人事業者の方々。
 給与や福利厚生のいい大組織を離れるには何らかの挫折があるものですが、その挫折経験のトラウマやら現在の境遇への不満が『あの日』に触れたときにワーッと出てきてしまう。自分を重ね合わせてしまう。そして、彼ら彼女らは大抵、「自分は悪くない。当時の上司や同僚が悪い」と思っていますから、それと重ね合わせて「理研けしからん!若山許すまじ!」とやる。

 ・・・・

 ほかにも、難治性の病気や障害をもった人で、「STAP細胞なら、治してくれるかも」と期待を託す人は、下手するとみんな小保方さん贔屓になるのかもしれません。知人のそのまた知人に、iPS細胞の治療の適応の病気なんだけれど状態がわるすぎて治療してもらえない、という人がいたそうですが、その人はもう、「iPSはヒドい。STAP細胞なら治してくれるかもしれない」と思っているんだそうです。

 そのあたりは、お気の毒なことですがiPSの臨床応用は慎重に慎重にすすめられていて、やたら高いところで適応の「足切り」をしてしまうところが確かにあるのかもしれません。でもそれはiPS細胞の罪でもないし、山中伸弥教授ら京大iPS細胞研究所の罪でもありません。そして、STAP細胞はほぼ「ない」細胞なのですが、仮にあったにしても臨床応用されるのは遠い遠い未来の話です。
 

 要は、「詐欺は人の弱いところにつけこむ」。

 身内に病気の人がいると高額の壺を買わされるように、STAP・小保方さんの場合は、身体の病気だけでなく心にもちょっとでもトラウマがあると、そこに入り込んできます。脆弱なところが1つでもあったら、危ないと思わなければなりません。

 わたしも、優秀な「承認リーダー」でこの人は大丈夫だろうと思っていた人が「小保方さんのあの件は、単なるケアレスミスですよね」と言っていて「えっ」とのけぞった経験をしましたので、「この人は大丈夫だろう」というラインが、この問題は「ない」のだな、と思いました。


 以上は、「こういう因子をもった人が巻き込まれやすい」という話ですが、じゃあ巻き込まれたらどうなってしまうかというと、それが「『あの日』症候群」です。
 すなわち、やたら感情的になる。やたら一方的にしゃべったり、情に流されて相手の言い分を受け付けなくなる。合理的に判断し、行動していたその人の面影は微塵もなくなる。ネットのデマを無批判に信じ込み、そしてネットデマの中にある2ちゃんねる的な嘲笑的な傲慢なスタンスも学習してしまい、事実に基づいて丁寧に議論する人を嘲笑するようになる。自分のほうがワイドショーレベルの低次元な思考法をしているのに、です。


 残念ながらこうなると、宗教談義をしているのと一緒ですね。政治と宗教の話はしない、と取り決めをするように、「小保方さん・STAP細胞」の話題を避けるしかありません。しかし、信じているご本人は宗教だと思っていないので、問題を現実とリンクさせます。「理研けしからん!Wけしからん!」で、下手すると焼き討ちしに行きかねない勢いです。

 3月末、理研OBの男性が告発していたES細胞窃盗事件の捜査が終結し、玉虫色のままになりましたが、この告発した男性は郷里で自宅に石を投げられたそうです。そういう本当に怖い世界です。


 わたしは、某岸見先生の唱道するアドラー心理学――アドラー心理学全般ではなく、「岸見アドラー心理学」と呼ぶべきなのだと思う――も、その種のラジカルな新興宗教に近いものだと思っていますが、ネットでそういう新種の「教団」が短時間で形成されてしまう時代です。


 というわけで、このブログを読んでくださる長年の友人たちは、もう既に連載を通じてこの問題に免疫ができていることと思いますが、是非周囲の方にご注意喚起ください。『あの日』は、心身に有害な本です。今からは古本で廉価で出回ると思いますが、免疫がない状態で読むことは厳にお控えください。
 
 


 
 

 前2つの記事(『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む』読書日記前後編)の読書は、このところのわたしによい示唆を与えてくれました。
 すみませんリンクを出しておきますね
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939597.html (前編)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939825.html (後編)


 「こころの栄養になるような良書を読みたい」と思っていたのもたしかですが、目下のテーマ「小保方さん・STAP事件」についてのヒントを探していたのもたしかです。


 で、結論としてはヒント、大ありでした。
 

「アリストテレスはこの徳の学習における魂の発達の初期段階により大きな注意を払っており、教室での徳の教育のためには、「聴講者の魂は習慣によってあらかじめ、美しい仕方でよろこび、かつ嫌うように準備されていなければならない」ことを強調する。」
「性格の徳とも関係することであるが、喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌うことが最も重要なことであると考えられる。」
「徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為される。」
「子供は「カロン(美しい・立派な)」といった言葉、あるいは「アイスクネー(みにくい、恥ずかしい)」といった言葉を対象や行為に適用する仕方を学び、「美しい、立派な」「みにくい、恥ずべき」といった事態を徐々に了解できるようになっていく。その結果、「美しい、立派な」行為へと動機づけられ、「恥ずべき」行為を避けるようになる。したがって、どのような現象や行為を「カロン(美しい)」と捉えるかに習熟していくことは「思慮」の能力と密接に結びついており、「思慮」の機能の成立は情念や欲求の訓練と切り離すことはできない」


 このあたりの言葉を書きうつしながらわたしが何を考えていたのかというと…

 「不正をしない教育」には何が必要か、ということでした。言い換えれば「高い倫理性を備えさせるための教育」ともいえます。

 それは「美しい」「みにくい」ということへの感受性を育て、美しいことを喜ぶと同時にみにくいことを嫌うように仕向けること。その営みが不可欠になると。

 ここで「嫌う(嫌悪)」という要素が入ってきます。

 実は、わたしが自分で「小保方さん」についてなぜ嫌悪感を禁じ得ないか。それを延々と考えるうち、この「教育において『嫌う』ように仕向ける必要があるからだ」ということに行き着いたのです。わたしの中の「教育屋気質」がそこに反応するわけです。

 そこは、ほんとうは「罪を憎んで人を憎まず」というのが正しいのだろうけれども、この言葉もけっこう「誤読」されていて、本来は、人を憎んではいけないが罪は憎んでいい、いやむしろ憎む必要があるのです。行為は憎んでいいのです。それがなんとなく、罪も人も憎まない方がいい、のように理解されてしまっているところがある、言葉の語義を離れて。要は「まあまあ」と火消しにまわって、ネガティブ感情は全部良くないよ、と言っているような感覚です。

 ここでいえば「不正」という行為は憎む必要がある、嫌悪する必要がある。それらの甘い誘惑に耳を貸さない人になるために。

 それをまだ感受性の柔らかい子供や若者のうちに叩き込まないといけないわけですが、そこへ昨今の「小保方さん同情論」があり、「可愛い」「可哀想」さらには「きっと悪い人ではない」「罪のない間違い」という、「憎む」対象とは程遠いイメージが入ってきます。

 学問の府の中では「絶対にしてはならない、截然と一線を画すべきもの」という教育をしても、世間一般の、下手をしたらマジョリティのイメージとしては、そうではありません。学生が家に帰ったらお父さんお母さんお爺ちゃんお婆ちゃんが、そう思っていない可能性があるのです。晩御飯を食べながら、「小保方さんは可哀想にねえ。純粋ないい人なのに」と話題にしているかもしれないわけです。

 それが、こわい。教育を施す側からしたら。


 さきほど、「小保方さん」への嫌悪、という言い方をしたのは何故か。「行為」だけでなくカギカッコつきの「存在」まで広げて嫌悪するような言い方をしたのは何故か。

 それはわたしからみて、「小保方さん」とは既に「一個人ではない社会現象」だからです。認定された不正の事実」にとどまらず、その後2年たってもまだ再燃し続ける、「無実を訴えるご本人の言い訳自己正当化のデマゴーグと、それを擁護しデマを流し続ける集団のパトス(情念)の集合体」という奇妙なモンスターになっているからでしょう。

 その集団のパトスが、下手をしたら自分のごく身近なところにも入り込んでいるかもしれない。

 例えばそうした人びととそれと知らずに一緒に仕事をする羽目になるとしたら。
 わたしは、過去に心理学セミナーにかぶれた人びとと仕事をした経験を思い出し、底知れぬ恐ろしさをおぼえます。

 
 健全に「不正への嫌悪」を共有できる人とだけお仕事できたらいいですが。同じ倫理観を共有し、過剰に疑心暗鬼に陥ることなく、性悪説を前提とすることなく、サクサクストレスフリーでお仕事できると思いますが。


 榎木英介氏『嘘と絶望の生命科学』(文春新書、2014年7月)には、「ピペド(奴)」という言葉が出てきます。将来への見通しも立たず、ひたすら毎日ピペットを振り続ける若手研究者の日常。その彼ら・彼女らにとって、下手をしたら「不正」の甘い囁きは魅力的です。


 「小保方さん」――「晴子さん」といったほうがいいのだろうか――は、こうしてわたしたちの日常に奇妙に影を投げかけ続けます。


「余話」を結局シリーズ化しました

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html
 
◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)読書日記の後半です。

 前回は第一章「幸福(エウダイモニア)とは何か」第二章「人はどのようにして徳ある人へ成長するか」を丁寧にみてきました。

 今回は残りの章、第三章「性格の徳と思慮の関係」、第四章「徳とアクラシア(無抑制状態)」、第五章「友愛について」、第六章「観想と実践」を取り上げます。

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第三章 性格の徳と思慮との関係

●アリストテレスはプラトンの超越的な「善のイデア」を退け、「エンドクサ」、すなわち「人びとが抱いている定評ある見解」を吟味することを通して「幸福」ならびに「徳」の概念を考察している。このアリストテレスの立場を「内在主義」と呼び、この立場を明らかにするために、「ノイラートの船」という比喩を導入することにしよう。(p.83)

●ウィーン学団の指導者オットー・ノイラート(1882−1945)は、「知識の体系」を大海原で修理を必要とする船に喩え、「われわれは自分たちの船をいったんドックに入れて解体し、最上の部品を用いて新たに建造することはできず、海上でそれを改造しなければならない船乗りのようなものである」と述べている。われわれは「知」のゆるやかな体系を、それに頼りながら少しずつ改良していくことはできる。しかし、それから離れて概念化されていない実在との比較をおこなうことは不可能である。デカルト以来、近世哲学が求めてきた「知の普遍的な基礎づけ」は大きな幻想であったと言うことができる。(pp.83-84)

●「エンドクサ」の吟味を通して「幸福」を追求するアリストテレスは、過去から受け継いできた「徳の価値空間」という「ノイラートの船」に乗っており、倫理的価値(徳)を「内在的に」追求している。(p.84)
 
●20世紀後半以降の『ニコマコス倫理学』研究においては、カントと同様な意味で道徳判断の普遍性を主張する解釈が数多く見られる。この解釈を「普遍主義」と呼ぶとすれば、この普遍主義に対して、私は行為を問題にする場合普遍性は成り立ちがたく、具体的な状況を考慮する「個別主義」、「内在主義」が『ニコマコス倫理学』の思想を正しく捉える道だと考える。(同)

――アリストテレスは「個別主義」「内在主義」の人だったんだ。「個別化」のわたしと似た人だったかもしれないな^^(こらこら)

「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」「思慮(プロネーシス)」との関係を正しく理解することが重要である。「勇気」、「節制」、「正義」といった「性格の徳」はよく知られているが、そのような「性格の徳」を示す行為を遂行する場合、そこに必ず「思慮」が働いているとアリストテレスは主張する。そこでまず、「思慮」の機能を把握する必要があるが、「思慮」の概念は『ニコマコス倫理学』の中心概念のひとつであって複雑であり、しかも20世紀後半以降の研究においては普遍主義的な捉え方が支配的であることから、アリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているように思われる。(pp.84-85)

――おっ、野中郁次郎氏のいう「フロネシス(賢慮)」が出てきました。ところが、おやおや、20世紀後半以降の研究でアリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているというではありませんか。要注目です

●本書第三章第1節では、カントの「定言的命法」とアリストテレスの「思慮ある人の実践的推論」を対比し、従来なされてきた「思慮」ならびに「実践的推論」の解釈を批判し、アリストテレスの「思慮」がカントの「理性」とはその機能を大きく異にしていることを明らかにしたい。この作業を通してはじめて『ニコマコス倫理学』の中心概念である「性格の徳」と「思慮」の正しい姿が捉えれらると考えている。(p.85)

――はい先生、異存ございません。
ちなみに「性格の徳」と「思慮」の関係ということでいうと、わたしは従来から「強み」「価値観」などはいわばその人のパラダイムや認知バイアスとして働き、その人の思考能力に大きく影響を与えると考えてきました。哲学者の書いたものを読むとその人の強みが透けてみえるようにも思います。カント先生などは規律性か公平性ですね、わたしからみて。

●人間の場合、振る舞いとそれが目指す目的の関係は、動物の場合のように直接的ではなく、時間的にも、空間的にも遠く広がっていき、その目的もさまざまな視点からそれを捉えることができる。もちろん、それは人間に言語を介した思考能力があるためである。(p.869

●人間の振る舞いとその目的とを関係づけるのが、アリストテレスが「思案(boueusis)」と呼ぶ働きであり、それを通して行為「選択(proairesis)」が成立する。この行為「選択」に向けての「思案」の作用を実践的推論と呼ぶとすれば、アリストテレスはこの推論に、演繹的推論の場合と同じ「シュロギスモス(syogismos)、三段論法」(第六章第一二章、1144a31)という言葉を使っている。また実践的推論を妥当な演繹的結論を導くものであるかのように語っている箇所もあり、他方それ以外のタイプの実践的推論の事例を挙げて論じている箇所もある。(pp.86-87)

●まず、アリストテレス自身が「思慮」をどのように捉えているか、それを確認しておこう。アリストテレスは次のように述べている。
 “「思慮(プロネーシス)」については、われわれがどのような人を「思慮ある人(プロニモス)」と呼んでいるかを考察することによって、把握することができるだろう。
 思慮ある人の特徴は、自分自身にとって善いもの、役に立つものについて正しく思案をめぐらしうることであり、それも、特殊なこと、たとえば、健康のために、あるいは体力をつけるためには、どのようなものが善いものなのかといった仕方で部分的に考えるのではなくて、まさに「よく生きること(エウ・ゼーン)」全体のためには、いかなることが善いかを考えることである。このことの証拠は、われわれが「思慮ある人」と呼ぶのは、その人が技術のかかわらない領域において、何らかの立派な目的のために分別を正しくめぐらす場合である、という事実である。したがって、人生の全般にわたって思案する能力を備えた者が、思慮ある人ということになる。(第六巻第五章、1140a24-30)(pp.87-88)

●この箇所で、第一に、「思慮」は医術や大工術といった技術知のかかわらない領域において、「よく生きること全体のために、何が善いか」を思案する能力として捉えられている。第二に、アリストテレスは「思慮」の概念を「思慮ある人」の概念を通して捉えているが、「思慮ある人」はつねに具体的文脈のなかで状況を正しく捉え、行為する人物である。私は、これが「思慮」、「思慮ある人」の最も基本的な特性であると考える。(pp.88-89)

●それに対して、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉える人びとは、上に示した「思慮」の概念とは異なる把握を示している。彼らは、実践的推論の大前提を、具体的な文脈から独立に「思慮」を通して捉えられる普遍的道徳判断として把握し、小前提はその大前提の具体的な適用事例として捉えている。それゆえ、実践的推論は演繹的推論に類似した推論になってくる。(p.89)

●以下、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉えるのは誤りであることを明らかにし、それに代わる解釈を「思慮ある人の実践的推論」として提示したい。
 演繹的推論の例:
  大前提 すべての動物は死ぬ。
  小前提 すべての人間は動物である。
  結論  すべての人間は死ぬ。
 「すべての動物は死ぬ」という大前提命題は小前提からまったく独立に主張できる普遍的命題、つまり全称的判断である。また前提と結論のあいだの必然的な関係はそこに登場する「動物」や「人間」といった概念内容には依存しない。純粋に形式的な関係である。
 実践的推論の例
「友人を助ける行為は善き行為である」といった道徳判断はどのような場合にも成立する「普遍的判断」にはなりえない。というのは、この判断は、友人が困っている「ある状況において」はじめて成立する判断だからである。友人が困っていても、別の状況においては、友人を助ける行為よりもより優先すべき行為が考えられるからである。そこに、具体的な状況においてのみ真偽が問題になる実践的判断の特徴がある。(pp.90-91)

――フロネシスの例が出てきました。なるほど、野中氏は経営者の備えるべき徳としてフロネシスを言っていますが、わたしはむしろ上記の例は、ミンツバーグ的なマネジャーの状況判断に当てはまるもののように思えます。もちろんそれの延長線上に経営者がいます

●どうして現代の研究者たちは「規範―事例」型の推論をアリストテレスと結びつけるのであろうか。その大きな理由は、「規範―事例」型の説明が行為の正当化に端的に繋がっており、また次の第四章で取り上げるように、アリストテレス自身が、第七巻第三章において、実践的推論を「規範―事例」型の推論のように提示していることによっている。アリストテレスの「実践的推論」についての見解は必ずしも一貫していないのである。しかし私は本章において、第六巻第五章以下で展開される「思慮の働き」の視点から「実践的推論」の特徴を取り出し、それが「実践的推論」の正しい構造であると主張したい。(p.91)

●カントの定言的命法(道徳法則)およびカントとアリストテレスの見解の類似点と相違点。
 アリストテレスの倫理学においては、「思慮ある人」、「徳ある人」がその中心を演じている。「正しい行為」とは、思慮ある人が具体的な状況に直面した場合、その状況を把握し実行する行為である。「行為の正しさ」の基準は思慮ある人にある。他方、近世のカントにとって、「正しい行為」を考える場合、「思慮ある人」、「徳ある人」が介在する余地はない。「正しい行為」は「正しい行為の原則」から、つまり「定言的命法」から導出されることになる。
ところで先に述べたように、「規範―事例」型の推論解釈では、大前提には、具体的文脈から独立に捉えられる「普遍的な道徳判断」が掲げられ、小前提はこの大前提の具体的な適用事例とされて、結論の行為の導出が説明されている。しかし、この説明の中には「思慮ある人」も登場しないし、「思慮ある人」がその能力を発揮する具体的文脈への言及もない。
カント倫理学は近世思想を代表するものであり、この新しい時代の思想には「徳ある人」「思慮ある人」に代わって「正しい行為の原則」が登場する。しかし、アリストテレス倫理学がこのカント的思想を介して解釈されるならば、「徳倫理学」のもつ真の意義は歪められてしまうことになると私は考える(pp.92-93)。

p.94 カントの「定言的命法」−省略。

●アリストテレスも、カントと同様に道徳的行為に関して、「ここで何を為すべきか」は客観的に決まっており、そこに真偽の問題が成立すると考える。すなわち、道徳判断は行為者の先行する意志に依存する条件的命法ではなく、定言的命法であると考えているのである。アリストテレスはそれを次のように述べている。
 “思考の働きにおける肯定と否定にあたるものは、欲求の働きにおける追求と忌避である。また、性格の徳は選択にかかわる性向であり、選択は思案に基づく欲求であるから、選択がすぐれたものであるためには、道理(ロゴス)は真なるものであり、欲求は正しいものでなければならず、道理が肯定するものを欲求は追求しなければならない。
 ……行為にかかわる思考的なものの機能(エルゴン)とは正しい欲求に一致している真理を捉えることにある。(第六巻第二章、1139a21-31)
 この最後の文章において、アリストテレスは、思慮の機能は具体的な状況で「正しい欲求」が何かを把握することであり、それが「真理」を捉えることであると主張している。(pp.95-96)

●では、「正しい欲求に一致している真理」とはどのようにして捉えられるのだろうか。
「優れて善き人(スプウダイオス)」という言葉は『ニコマコス倫理学』で最も頻繁に登場する表現であり、それに次いで「思慮ある人(プロニモス)」という言葉が多く用いられている。またアリストテレスがこの両表現をほぼ同義の表現として使っていることは広く認められる。(p.96)

●“実際、優れて善き人(スプウダイオス)がそれぞれのものごとを正しく判定するのであり、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が見えているのである。……優れて善き人はそれぞれの場面で真実を見ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そうした美しさや快さを判定する尺度であり、基準なのである。(第三巻第四章、1113a29-33)
(p.97)

●「優れて善き人」、つまり「思慮ある人」が、個々の具体的な行為の文脈において捉える判断が、「行為の正しさ」の基準であり、「思慮」を示す「中庸の判断」であり、それが「正しい欲求に一致している真理」であるとされるのである。
 このように、思慮ある人はその推論において具体的な状況を重視し、文脈から独立な「普遍的規範」を機械的に個別的事例に適用するようなことはない。したがって、アリストテレスが実践的推論で「規範―事例」型の推論を考えていたという根拠は乏しいように思われる。(p.97)

――このあたり著者独自の見解を述べていると思われますがおそらくこちらが正しいのでしょう。やはり哲学者、あるいは哲学研究者というのはわたしからみてちょっとASD的な人が多く、ある法則を演繹的に杓子定規に当てはめるやり方に魅入られやすいのだと思います。たぶんその人たちはカントとも親和性が高いです(こらこら)

●『ニコマコス倫理学』において、まず強調したいのは、「大前提における道徳判断はつねに小前提との関係において成立する」ということである。しかもその場合、「規範―事例」型の解釈とはまったく逆に、アリストテレスは、実践的推論の出発点が「普遍的な規範命題」ではなく、具体的な状況についての知覚であると語っている。すなわち、アリストテレスの「思慮」はカントの「理性」とは異なり、「小前提における具体的な状況を把握する知覚能力であるとともに、大前提における目的に関わる思考能力」なのである(第六巻第八章1142a23-30、第六巻第九章、1142b32-33参照)。(p.98)

●行為者は直面する具体的な状況を知覚することを通して、「ここで何をすべきか」を把握する。具体例を挙げると:
 ある人物(思慮ある人)が以前から楽しみにしていたパーティに出かけようとしているところに、突然、友人が悩みを抱えて訪ねてくる。そこで、その人物はただちにパーティをキャンセルして、友人の悩みを聞き友人を慰めようと決心する。(pp.98-99)

●このエピソードにかかわる「実践的推論の構造」を次のようにまとめることができる。
(1)小前提とは、ある状況に遭遇した行為者が、その状況のうち彼が対応すべき最も突出した事実(the salient fact)として立ち現われてくるアスペクトを記録したものである。(「何が突出した事実のアスペクトであるか」は行為者の「性格」、「人柄」と相関的である。)
(2)また、この小前提(として記述される出来事)はそれにかかわる人生における様々な「価値」や「理念」を活性化するが、それが大前提として捉えられる。すなわち、「いかに生きるべきか」について行為者が抱く価値観が、その状況下で、彼に立ち現われているアスペクトを小前提として最も突出したものたらしめるが、その価値観が行為の理由のかたちで大前提として立てられ、具体的な行為を導くのである。
 これが「思慮ある人」が具体的な状況において遂行する「実践的推論の構造」であると私は考える。(p.99)

――おもしろいですね。わたし的にいえば「友達を大事にする」という「価値観」ですが、それが状況に応じて「大前提」になっていると考える。文脈を表面的にみれば「大前提」は「パーティに行く予定」とか「パーティを楽しみにしていた」のようにみえるのですが、「悩みを抱えた友人が訪ねてきた」という事態に応じて、大前提は全然違うものになってしまうというのです。しかし、こういうのは行為者自身も「あとづけ」でしか説明できないでしょうけれどね・・・。
何かに使えないかな、と思いました。

●「なぜキャンセルするのか?」という問いが投げかけられる。それに対して行為者は「友人が悩みを抱えて訪ねてきたのだ」と答える。その場合、相手はさらに「そうだとしても、どうして楽しみにしていたパーティまでもキャンセルするのか?」と尋ねるかもしれない。その問いに対して、行為者はさらに「行為の理由」を挙げて説明するであろう。
 為された行為に対して「なぜ?」という問いが立てられ、それに対して「行為の理由」を挙げて答える。このように、行為にはその「行為の理由」「行為の秩序」があり、それを示すことがアリストテレスの実践的推論の目的であったと思われる。(pp.100-101)

――たしかに、突発的な事態に対してマネジャーが意思決定を行う、選択を行う、というとき、上述のような「大前提のすりかわり」は日常的に起きているかもしれないですね。「クレーム対応」などはそうですね。

●実践的推論は二通りに分類されていた。すなわち、^綵僂簑膵術といった技術知がかかわる推論、つまり目的を前提して、その目的をめざす手段の選択が問題となる推論と、◆峪徇犬△訖諭廚かかわる、「善く生きること」全体のために、「ここで何をすべきか」にかかわる推論とである。
 普遍主義的解釈が取る「規範―事例」型の推論は、後者の実践的推論をあまりにも演繹的推論に同化してしまっていると私は考える。(p.101)

――それは、ASD系の人ならやりそうです。ビジネススクールで教えるロジカルシンキングもそのきらいがありますね。

●勇気、節制、正義といった徳の行為が成立するための条件が下記の文章に3つ述べられている。
”徳に基づいてなされる行為は(芸術作品の場合と異なり)、それが特定のあり方を持っているとしても(それだけで)、正しく行われるとか、節制ある仕方で行われることにはならないのであって、行為者自身がある一定の性向を備えて行為することもまた、まさに正しい行為や節制ある行為の条件なのである。すなわち、第一に、行為者は行っている行為を知っているということ、第二に、その行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択するということ、第三に、行為者は確固としたゆるぎない状態で行為しているということ、これら三つの条件が満たされなければならないのである。(第二巻第四章、1105a28-33)(pp.103-104)

●ここでは、第二の条件と第三の条件に注目したい。「行為者はその行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択する」という第二の条件は、「いま、この状況で為されるべき最も善き行為」の「選択(proairesis)」であると言える。この働きがまさに「思慮」の働きなのである。また第三の条件として「行為者は確固としたゆるぎない状態で行為する」とは、行為者が「節制」、「勇気」、「正義」等々の徳の教育、訓練、経験を通して、そのような「性格の徳」がしっかり身についているということを示している。『ニコマコス倫理学』第二巻の狙いは、子供を節制、勇気、正義等の「徳の空間」、つまり「倫理的価値の空間」へと導き入れることにある。その結果、子供は、動物のような「非理性的性向」を脱し、正しい行為のかたちを学んで行くことになる。(p.104)

●子供は「カロン(美しい・立派な)」といった言葉、あるいは「アイスクネー(みにくい、恥ずかしい)」といった言葉を対象や行為に適用する仕方を学び、「美しい、立派な」「みにくい、恥ずべき」といった事態を徐々に了解できるようになっていく。その結果、「美しい、立派な」行為へと動機づけられ、「恥ずべき」行為を避けるようになる。したがって、どのような現象や行為を「カロン(美しい)」と捉えるかに習熟していくことは「思慮」の能力と密接に結びついており、「思慮」の機能の成立は情念や欲求の訓練と切り離すことはできない。(pp.104-105)

――「美しい、みにくい」という価値づけによる正しい行為の教育。こうあるべきだなあ、と思いながら、現代はどれほどそこから離れてしまっただろうか?とも思う。武士道教育などはそれに近かったのだろうか。学校のいじめについて、「絶対あってはならない」という立場と、「必要悪。無菌状態で教育することはできないのだから、慣れて適応すべき」という立場があると思う。前者に立たなければいじめは根絶できないのだが、現実には親もそして先生も、後者の「本音」をやっているのではないだろうか?
 いずれにせよ、この一節が妙にこころに響いてしまうのは、わたしがどうしようもなく「教育的人間」だからかもしれない

●普遍主義的解釈は、「思慮」を情念や欲求から独立なカント的「理性」能力として捉える傾向があるが、われわれは逆に「性格の徳」のみならず、「思慮」の能力も、人間の自然的な欲求や情念を陶冶することによって「第二の自然」として成立すると考える。(p.105)

●“人間の機能(ergon)は「思慮」および「性格の徳」に基づいて成し遂げられる。なぜなら、(性格の)徳は目標(ton skopon)を正しいものにするのであり、「思慮」はその目標へと至るものごと(ta pros touton)を正しいものにするからである(第六巻第一二章、1144a6-9)
(p.106)

●先に述べたように、「徳とは知である」とするソクラテスは「性格の徳」と「思慮」を同一視するが、普遍主義を取る人びともソクラテスと同様に考える傾向がある。しかし、「性格の徳」と「思慮」は区別しなければならない。「性格の徳」は「思慮」と結びつくことによってこの世界にかかわるのであり、逆に「思慮」は「性格の徳」と結びつくことによって、「ひと」に宿った「正しい目標」にかかわることになる。すなわち、「性格の徳」とは「思慮」をそなえた「魂の性向」なのである。(p.107)

――今更ですがビジネススクール的ロジカルシンキングがそれ単独で「正しく考える方法」を教えてくれるわけではないんですよね。いわば「正しい価値観」がその大前提にないといけない。ということをアリストテレス先生が言ってくださっているようで、うれしかったです。

第四章 徳とアクラシア

●『ニコマコス倫理学』第七巻では「アクラシア」を取り上げている。ギリシア語の’akrasia’の’a’は否定を示し、’krasia’とは’kratos’、つまり「力」という意味であって、「アクラシア(akrasia)」とは「力のないこと」、「力をもって自己自身をコントロールできない状態」。「無抑制の状態」を意味する。(p.109)

●ソクラテスは対話篇『プロタゴラス』(352C-)において、知識は他の諸能力を宰領してひとを善き行為に導いていく最高・最強の力であり、「善と知って行わず、悪と知りつつ行うことはあり得ない」と主張する。(略)しかし、このソクラテスの見解はパラドクスであり、常識と明らかに矛盾する。われわれは知識をもちながら、欲望に支配されて為すべきではないことを行い、後になって後悔することが多い。(p.110)

●アリストテレスは、ソクラテスの理性主義を受け継いでおり、この立場に立って現実のアクラシア現象を説明し、パラドクスを解こうとする。しかし、第七巻で目指しているのはむしろパラドクスを解くことを通して、「徳」と「幸福」の関係を別の視点から明らかにしようとしている。(pp.110-111)

●第七巻の「アクラシア」の議論は「徳へ向けての途上の状態」とはどのような状態であるかを解明している。それは「無抑制」と「抑制」の状態であり、われわれ人間のほとんどはこの状態にあるといえる。したがって、「無抑制な人」は「抑制ある人」とどのように異なり、「抑制ある人」は「徳ある人(思慮ある人)」とどのように異なるかを明らかにすることは、われわれはどのようにして幸福に至るか、その道筋を示すことになる。(p.111)

●アリストテレスは、アクラシア(無抑制)」を次のように説明する。われわれは普遍的知識を「所有」していても、具体的な行為に直面した場合、欲望に支配されて、酩酊の人物と同じ状態になってしまい、その知識を「使用」できず、正しい行為ができなくなり、アクラシア状態が生じてくる、と。
 ソクラテスの「アクラシア(無抑制)の否定」に対して、アリストテレスはこのように知識の「所有」と「使用」、あるいは「普遍的な知識」と「個別的な知識」といった概念の意味の区別を通して、知識をもちながらアクラシアが成立することを説明しているのである。これはアクラシアの「ロギコース(logikōs、概念的)」な説明と言える。(p.113)

●他方、アクラシアが生じる原因をピュシコース(phusikōs、自然学的)に見定めることができる。
 ピュシコースな説明とは、簡単に言えば、行為者の「思いなし」と「行為」との間の「因果的な関係」の考察である。(p.114)
例:“もし甘いものはすべて味わうべきであり、いま個別的なこのものが甘いとすれば、その場合、行為する能力をもっており、かつ行為が妨げられることのないような人は、同時にまたこの特定の甘いものを味わう行為をすることは必然である。(第七巻第三章、1147a29-31)(同)

●次にアクラシア(無抑制)という事態がどのようにして成立するかの説明。
ここに「すべての甘いものは健康に悪い」と「すべての甘いものは快い」というふたつの大前提が存在する。前者は道理(ロゴス)が告げるものであり後者は欲望が告げる普遍的な思いなしである。そして目の前に「甘いものがある」という事態が成立している場合、アクラシアに陥る人は、「すべての甘いものは健康に悪い」という普遍的な知識を所有してはいるが、目の前の「甘いもの」に対する欲望が力ずくで「甘いものを食べる」という行為に引っ張っていき、アクラシアの行為が生じることになる。
 一方、「節制ある人(ソープローン)」つまり「徳ある人」の推論と行為では、欲望は関与しない。道理(ロゴス)に基づく推論「すべての甘いものは健康に悪い」に従い、目の前の甘いものにたいして「これは健康に悪い」と判断し、食べない。
 このように、道理(ロゴス)が占める大前提と欲望が示す大前提との対立葛藤が存在し、無抑制な人(アクラテース)は甘い食べ物を食べてしまい、後で後悔することになる。「アクラシア」という事態がどうして生起するのかに関する、ピュシコースな(自然学的な)説明として多くの人びとが取っている解釈は、以上のようなものである。(pp.116-117)

●行為とは、「何かを目指す行為」であると同時に、必ずまた「誰かの行為」である。それゆえ、アリストテレスの徳倫理学はこの行為の主体をめぐって展開する。(p.120)

●アリストテレスは、ここで、徳ある人(思慮ある人)とそれ以外の人びととの根本的な相違を強調している。それ以外の人びととは、無抑制な人と抑制ある人、ならびに放埓な人(akolastos)、つまり悪徳に支配されている人物である。(同)

●実践的推論において、徳ある人(思慮ある人)は直面する「個別的な事柄」を知覚することを通して「何を為すべきか」を導出する。その場合、徳ある人(思慮ある人)が示す「思慮」とは、「ある状況が含む行為誘導的諸特徴(the potentially action-inviting features of a situation)」のどれがここで重要なのかを見抜く能力である。
 すなわち、「思慮」がかかわる実践的推論の場合、アリストテレスの見解は「欲求(意志)」を「信念(知覚)」から独立に捉えるヒュームの二元論的な考え方とは根本的に異なっている。アリストテレスにとって、思慮とは「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のどれがここで重要なのかを見抜く知覚能力であり、この知覚を通して「何を為すべきか」が導かれる。それゆえ、行為が帰結するために、この思慮以外のものは何ら必要とはしないのである。(pp.120-121)

●「無抑制の人」と「徳ある人(思慮ある人)」との区別、さらに「抑制ある人」と「徳ある人(思慮ある人)との区別を明らかにしよう。
 少し前の「悩みを抱えた友人が訪ねてきたので楽しみにしていたパーティをキャンセルした人」の話。
 徳ある人(思慮ある人)は当の状況の特性を十全に把握し行動するが、抑制ある人と無抑制な人は徳が要求している以外の特性(パーティがもたらす喜び)に魅せられ、駆られる人である。したがって、彼らは直面する状況の意味を十全に捉え切っていないと言える。(pp.121-123)

●徳ある人(思慮ある人)は「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のうちのしかるべき特性を注目し、彼の「動機的エネルギー」はその特性に集中し、それ以外の特性に惹かれることはない。たとえば、悩みを抱えて訪ねてきた友人を知覚する場合ただちにパーティをキャンセルして友人の悩みを聞くのであり、彼が行為する以外の可能性(たとえば、パーティに行くという行為)は彼に生じることはない。その状況の知覚はそれ以外の行為の可能性を「沈黙させる(silencing)」と言える。(p.123)

●それに対して、無抑制な人は徳ある人(思慮ある人)とは異なり、「友人の悩みを聞くべきである」と思いながら、「パーティでの喜び」に惹かれて、パーティに出席してしまう人である。なお、第七巻第七章において、アリストテレスは「無抑制」を「性急さ(プロペティア)の無抑制」と「弱さ(アステネイア)の無抑制」に区別している(1150b19)。(pp.123-124)

●他方、抑制ある人は、徳ある人(思慮ある人)と同じ振る舞い(パーティをキャンセルして友人の悩みを聞く)をする。しかし抑制ある人と徳ある人(節制ある人)は異なる。
 “抑制ある人とは身体的な快楽のゆえに道理に反して何かをするということを決してしない人であり、節制ある人も同じである。しかし、抑制ある人の方は低劣な欲望をもっているのに対して、節制ある人はそのような欲望をもたない人である。また節制ある人は道理に反しては快楽を感じない性質の人であるが、抑制ある人の方はそのような快楽を感じても、それに導かれない性質の人である。(第七巻第九章、1151b34-1152a3)(pp.124-125)

――むずかしくなってきた……。甘いものの例でいえばわたしはアカラシア(無抑制)の人に入るかも。悩みを抱えた友人の件は、もちろん善意の友人だという前提があるのだと思う。この件に関しては「抑制ある人」になれるかな、という気がする。後ろ髪くらいは引かれそうな気がする。

●この考察にとって重要なのは、「徳ある人」、つまり「思慮ある人」の把握である。徳倫理学にとって、「思慮ある人」は具体的な状況に直面したときにその状況を正しく捉え、行為する人である。……アリストテレスはアクラシアをめぐる考察を通して「徳に向けての途上にある」とは具体的にはどのような状態なのかを示し、それによって「人は徳を習得することによって幸福に至りうる」という道徳的発達論を補強しているのである。(p.126)

――こういう文章を読むのがわたし的に何に役立つのかというと……、「強み」の学習などによって、「自分のパラダイム」に気づいてもらい、たとえばその人の何かの強みが「欲望」になり得、「煩悩」とよべるレベルにまでなり、その人に不利益をもたらしている可能性を考えてもらう。というところかな。

――「中庸」の概念も一緒に学べるとよいですね
よくあるのが、「承認」を学んだ人が、「自我(強い承認欲求につながる強み)」がガーッと亢進しやすいです。それはなかなか厄介な状態で、なんとか防止しやすいのですが、事前に釘をさしてもたぶん理解できなくて、フォローアップの中で治すしかないのでしょう。
フォローアップ大事です。

第五章 友愛について

●『ニコマコス倫理学』では第八巻と第九巻の二巻、つまり全体の五分の一が「フィリア」論に当てられ、アリストテレスがいかに「フィリア」を重要視していたかが窺える。「フィリア」は普通、「友愛」と訳されるが、日本語の「友愛」や英語の”friendship”よりも広い関係であり、そこには親と子、主人と奴隷、客と店員、支配者と国民といった関係が含まれ、それを通して「社会的な人間関係」が追求されている。(p.127)

――「フィリア」と「承認」の関係もみてみたいですね

●『ニコマコス倫理学』の第七巻まで、アリストテレスは自己のエウダイモニア(幸福)を実現する「勇気」、「節制」、「温和」、「高邁」といった「徳」を考察しており、第八巻、第九巻の「フィリア」の考察は、「性格の徳」から「社会的な人間関係」のような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるへと、すなわち『政治学』の主題へ向けて一歩を踏み出していると言える。(p.128)

●愛されるもの(phiēton)が「有用なもの(xrēsimon)」、「快いもの(hēdu)」、「善きもの(agathon)」に分けられる。つまり「利」、「快」、「善」に応じて三種類の友愛が区別されている。
 三種類の友愛のうち相互に相手に「善きもの」を与えようとする友愛関係が「真の友愛」と呼ばれる。これは徳ある人同士の関係であり、この関係がアリストテレスの「友愛」論の核心部分を形成する。また「友愛が幸福の不可欠な条件である」という見解も述べている。(pp.128-129)

●「有用性」と「快楽」に基づく人間関係。
“有用性のゆえに互いに愛し合っている人びとは、相手の人自身に基づいて愛しているのではなく、相手からお互いに何か善いものがもたらされるかぎりにおいて愛しているのである。快楽のゆえに愛する人びとも同様であり、たとえば、そのような人びとは機知に富む人びとを、その人が特定の人柄であるから好むのではなく、もっぱら自分たちにとって愉快だから好むのである。(第八巻第三章、1156a10-14)

●これに対して、「善きもの」に関わる友愛関係はその性質を大きく異にしており、アリストテレスはそれを「完全な友愛」、「真の友愛」と名づけている。
“完全な友愛とは、徳に基づいて互いに似ている善き人びと同士のあいだの友愛である。なぜなら、完全な友愛にある人びとは、互いに相手にとって善いことを同じような仕方で望むが、それはお互い善き人として相手自身の善さに基づいたものだからである。すなわち、友人にとって善いものを、当の友人のために望む者は、真の意味での友人である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方のゆえであり、付帯的な仕方に(kata sumbebēkos)よるものではないからである。(第八巻第三章、1156b7-11)
 このように善き人びとのあいだの友愛は、善き人びと自身のあり方に基づいて、つまり徳に基づいて、お互いに相手のために善きものを願う関係である。またこの真の友愛は当然「有益なもの」と「快いもの」を含んでいる。(pp.130-131)

●ところで、「快楽」や「有用性」のゆえの友愛関係は、「善きもの」のゆえの友愛関係と同様、相互的である。しかし、前者の関係は低劣な人びと同士のあいだでも、また善き人と低劣な人とのあいだでも成立するが、他方、「善きもの」のゆえの友愛関係は、アリストテレスが「高潔な人(エピエイケースepieilēs)」と呼ぶ人びとのあいだにおいてのみ成立する関係である。(p.131)

●以上の友愛はいずれも「等しさ(イソテース)に基づく者同士」、つまり「上下関係にない者同士」の友愛関係である。しかし、第八巻第七章から第一四章において、アリストテレスは「優越性(ヒュペロケー)に基づく」友愛関係を取り上げている。それは、たとえば、親と子供、夫と妻、主人と奴隷など、「家族における友愛関係」であり、あるいは、支配者と被支配者といった「ポリスにおける友愛関係」である。この友愛関係の分析はアリストテレスが「家族」や「ポリス」をどのように捉えているかを知るうえで有益である。(p.131)

――ここは、研究者は重視していないみたいですが、わたしは「マネジメント」を考えるうえで大事だと思っています。上司部下関係というのは、部下側の「承認欠如」の感覚を容易に招くものです。だから、それを補う意味でも上司の側から「承認」をしないといけない。また実際やってもらうと驚くほど効果がある。ただそれは「徳ある人」同士の友愛または承認と異なり、自然にできるものではなく困難が伴います。だから訓練してでもやらないといけない。
 いつもいうように「研究者は自分のことを研究するのが好き」ですからね。

●「性格の徳」は個人の魂の卓越性であり、すべて個人の幸福を増進するものである。したがって、このアリストテレスの議論に対して「利己主義の傾向が強い」という批判がなされてきているが、この友愛の議論はその批判を考える上で重要な内容を示している。
アリストテレスの徳の教義をイエス・キリストの教え、あるいは近世のカントの定言的命法の主張、さらには功利主義の「最大幸福の原理」と比較するとき、上記の批判は一応成り立つように思われる。しかもアリストテレスによれば、「真の友愛」とは隣人の善を願い、相手のために振る舞うことであるが、この「真の友愛」の考察においても、彼は「友愛は自己愛に由来する」と主張し、「友愛」を「自己愛」の延長において捉えようとしているのである。

●しかし、アリストテレスの見解ははたして「利己主義」と言えるであろうか。アリストテレスの「真の友愛」についての見解は彼の「徳」についての見解に基づいているが、そこにアリストテレスの「友愛」論の特色が示されることになり、逆にこの友愛論において、彼の徳倫理学の真価が示されているとも言える。(p.133)

――これもおもしろいですね。徳を身につけ人格的完成をすることはそもそも何のためなのか。自分づくり、自分探しに埋没していたら何にもなりません。大事なのは他人に何を施すかです。アリストテレス先生そのことに後から気がついたのかな、それとも最初からそういう構成にしようと思っていたのかな。

●アリストテレスは第九巻第四章において、「隣人に対する友愛関係は自己自身に対する友愛に由来する」と語っている(1166a1-2)。「友愛」とは普通、「他者」に対する関係であるが、「自己自身に対する友愛」とは一体どのようなものであろうか。(p.133)

――他人を大切に思う心が自分への慈しみから発生する、というのは今の心理学、脳科学からみても間違いではないんじゃないだろうか。他人がこう扱われたいだろう、ということは自分の感覚から「類推」して考える。それはメタ認知のはたらきだ。

●アリストテレスはまず、「友人」つまり「友である者」の特徴(条件)を5つ挙げている。
〜韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する者である。
∩蠎蠅存在し、生きることを相手のために望む者である。
ともに時を過ごす者である。
ち蠎蠅汎韻犬海箸らを選ぶ者である。
イ箸發鉾瓩靴漾△箸發亡遒崋圓任△襦
(pp.133-134)

●アリストテレスは人間の魂を「ロゴス(道理、分別)をもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けている。「ロゴスをもたない部分」とは「欲求・情念」が関わる部分であり、ちょうど、父親の言葉に従うように「ロゴスに耳を傾ける部分」として規定される。すなわち、しつけ、訓練を通して、われわれの「欲求・情念」には「ロゴス(理性)」の働きが浸透していくのであり、そこで欲求・情念を、「ロゴス(理性)」の働きが浸透しロゴスに支配されているものと、そうではないものに分けることができる。
 このようにわれわれの魂を二つに分けるならば、「高潔な人(エピエイケース)の自己自身に対する関係」と「低劣な人の自己自身に対する関係」ははっきり異なってくることになる。高潔な人の自己自身に対する関係は、ロゴス(理性)が欲求・情念を正しく支配する関係であり、他方それに対して、低劣な人とはそのロゴス(理性)が欲求をコントロールできない人であり、抑制のない人である。(pp.134-135)

●先に挙げた友人の条件のうち、,痢崛韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する」ということが成立するためには、アリストテレスによれば、「善もしくは善と思えるものを自分のために望み、かつそれを実行する」ということが成立していなければならない。そうなると、真の友愛の条件はきわめてきびしいものになってくる。
 たとえば、母親の子供に対する愛は「真の友愛」には当たらない、それは相互関係ではないし、母親も子供も「徳ある人」には当たらない。このように、徳ある人が稀であるおうに、「真の友愛」関係はきわめて稀な関係になってくる。

――きたきた。これも、「自己実現」が、マズローの本来構想した意味は極めて限られた卓越した人のものだったように、哲学者の考えることは大体において、自分たち自身の話になっていくのだ。それでいうと母の子に対する愛を称揚したヘーゲルやホネットはむしろ「まとも」だったかもしれない。

●アリストテレスは「自己愛」をどのように捉えているのだろうか。
 第九巻第八章では、「ピラウトス(philautos)」という概念が取り上げられている。「ピラウトス」とは「愛(philia)」と「自己(autos)」から合成された言葉であり、「自己を愛する者」、「自己愛者」、「利己主義者」という意味である。アリストテレスは「ピラウトス」の通常の意味を次のように説明している。
 “自己愛(ピラウトス)を非難すべきものと考える人びとは、金銭や名誉、あるいは身体的快楽において自分により多くを配分する者のことを「自己愛者」と呼んでいる。というのも、多くの人びとはこうしたものを欲求し、またこうしたものを最も善きものと見なして、それらに夢中になっているからである。(第九巻第八章、1168b15-19)。
 このように、アリストテレスは、人びとは「自己愛者」という言葉を非難の意味を込めて使っていることを認めたうえで、真の意味での「自己愛者」という概念を新しく次のように規定する。
 “もし人がつねに、正しいことや節制あること、あるいはその他、徳に基づくことなら何であれ、そうしたことを誰にもましてみずからが行うことに熱心であり、また一般に、美しいものをつねに自分自身の身に備えようとするのであれば、だれもそのような人を「自己愛者」と呼んで、非難したりはしないはずである。こうした人こそ、むしろ優れて「自己を愛する者」と考えることもできよう。(第九巻第八章、1168b25-29)(pp.136-137)

●このように、アリストテレスは高潔な人(エピエイケース)、つまり徳ある人は誰よりも自己を愛する人であると主張し、この人物は非難されるたぐいの「自己愛者」とは別種のものであることを強調し、次のように述べている。
“この2つの種類の自己愛の相違は理性(ロゴス)に基づいて生きること、情念(パトス)に基づいて生きることの相違に対応し、また美しいもの(カロンなもの)を欲求することと、利益になる(シュンペロン)と思われるものを欲求することの相違に対応しているのである。(第九巻第八章、1169a4-6)
 ここで、われわれは真の意味での「自己愛者」が「カロンなもの(美しいもの)」を欲求する者として規定されていることに注目したい。このように、アリストテレスは真の「自己愛者」を規定するために「カロン(美しい)」の概念に訴えているのである。(p.138)

●アリストテレスは、常識的な意味で「自己の利益を最大にすることが幸福である」とは考えていない。すなわち、彼の「友愛論」は利己主義とは無縁であると言える。アリストテレスは、自己犠牲の行為を選択する人は「カロンなもの」を自己自身のために選ぶと述べており、「カロン(美しい)」という概念を価値を最終的に決めるキー概念として捉えている。(p.139)

●カロンの概念整理。
(1)「カロン(kalon)」は「美しい、見事な、立派なもの」という意味であり、その反対語は「アイスクロス(aischros)」、つまり「醜い、恥ずべき、卑劣なもの」である。『ニコマコス倫理学』の多くの箇所で、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と述べている。すなわち、「カロン」という表現は「勇気」、「節制」、「親切」といった個々の「徳」の概念に並ぶ概念ではなく、具体的な状況において、そのような「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。言い換えれば、勇気ある行為であれ、親切な行為であれ、それが徳ある振る舞いであるためには、それらの行為は「カロンな行為」として捉えられていると言えるのである。
(2)この「カロン(美しい、立派な)」の概念は、『ニコマコス倫理学』第五巻で論じられる「正義(デュカイオシュネー)」の概念と同じ機能を果たしていると言うことができる。アリストテレスは「正義」を「配分における公正」という意味での部分的な「正義」の概念と、「性格の徳」である「全体的な徳性(hole arēte)」としての「正義」に分けている。そしてこの後者の全体的な徳は「性格の徳」のひとつであるが、しかし、それはその他の個別的な徳とは異なり、すべての「性格の徳」を統括する徳であり、勇気ある振る舞いにせよ、節制ある振る舞いにせよ、それが徳ある振る舞いであるためには、「正義」の徳が成立していなければならないとされている。ここには、ソクラテスの「徳の一性」の思想が反映していると言える。
 このように、「カロン(美しい)」の概念は、「全体的な徳性」としての「正義」の概念とともに、最終的な価値の客観的基準を示す概念として捉えられている。(pp.139-141)

●幸福な人はまさに友人を必要としていると言える。アリストテレスは友愛の必要性を次のように述べている。
 “幸福な人にあらゆる善きものを分配しながら、外的善のうちでも最大のものと考えられる友を分配しないのは、奇妙なことに思われる。そして、相手からよくされるよりも、相手によくする方がいっそう友にふさわしく、しかも相手によくすることが、善き人と徳に固有の特徴であるとすれば、また見知らぬ人よりも友によくすることの方が美しい(カロン)とすれば、その場合、優れて善き人(スプウダイオス)は、自分のほどこす恩恵を身に受けてくれる人びとを必要とすることになるだろう。(第九巻第九章、1169b8-13)(p.142)

●次に、アリストテレスは、人間は本性的に「社会的存在(ポリティコン)」であり、どんな幸福な人も友人を必要とする」ことを指摘する。
 “あらゆるものを所有して、自分だけで過ごすといった孤独の生活を選ぶような人は、誰もいないはずである。なぜなら、人間は自然本性上ポリスを形成して他者とともに生きる存在だからである。事実、幸福な人にもこの自然本性は備わっている。というのも、幸福な人は自然本性上さまざまな善きものを備えており、彼にとっては見ず知らずの手当り次第の者たちよりも高潔な善き友とともに過ごすことの方がより善いからである。それゆえ、幸福な人には友人が必要なのである。(第九巻第九章、1169b17-22)(pp.142-143)

●「友が存在するということも、それぞれの人にとって、自己の存在と同じように、あるいはそれに近い仕方で、望ましいものであることになる」(第九巻第九章、1170b7-8)
「幸福になろうとする人は、優れた善き友人を必要とする、という結論が導かれることになる」(第九巻第九章、1170b18-19)(p.144)

●“人は自分の存在とともに、友人の存在もまた知覚しなければならないのであって、このことは「ともに生きる(シュゼーン)」こと、つまり言葉や思考を共有することにおいて実現されうるのである。というのも、「ともに生きる」とは、人間の場合、言葉や思考を共有するという意味で言われるのであって、牛たちが同じ放牧地で草をはむのとはわけが違うのである。(第九巻第九章1170b10-14)
 以上のように、アリストテレスは「友愛が幸福な生の本質的な要因である」ことを示している。(p.144)

●この「(真の)友愛が幸福な生の本質的な要因である」という命題は普遍的に成立すると言えるように思われる。すなわち、アリストテレスはこの議論を通して、「幸福な生」を形成する「友愛」が、またそれを支える「性格の徳(倫理的な徳)」が、「市民生活において政治的生」を生きる人びとだけではなく、観想活動、つまり「哲学的活動の生」を生きる人びとにとっても必要であると考えているように思われる。(p.145)

●アリストテレスは『ニコマコス倫理学』全体を通して「幸福とは何か」を追求しており、第一巻から第九巻までは、それを「実践活動」を中心に進めているが、最終巻の第一〇巻では、「実践」に対して「観想活動」の幸福を強調する議論を展開している。
 アリストテレスは第一巻第二章で、「人間にとって善とは何か」を体系的に追及する実践的学問を「政治学(ポリティケー)」と呼んでいる。他方、第一〇巻第七章では、「観想活動」を「知恵を愛する哲学の営み」(1177a25)と名づけているが、これはプラトンの『国家』第六巻に登場する哲人統治者の機能を受け継ぐものと言うことができる。(p.147)

●私も以下、アリストテレスに倣って「実践」にかかわる学を「政治学」、実践活動を遂行する者を「政治家」と呼ぶことにする。倫理学はこの実践の学に属する。他方、「観想」にかかわる学を「哲学」、観想活動を遂行する者を「哲学者」と呼ぼう。現代社会では、圧倒的多数の人びとにとっての実践活動は政治活動ではなく、経済活動である。しかし、古代ギリシアにおいて、人びとは経済活動を自由人に相応しい活動であると考えていなかった。そこに現代との大きな相違がある。(pp.147-148)

●第一巻第五章では、古代ギリシアで伝統的に捉えられてきた「幸福」として、「享楽の生」、「実践的な徳に基づく生」、「観想活動の生」の三種類の「生」を挙げていた。しかし「享楽の生」はいわば「快楽の奴隷」のごとき「家畜の生」として外され、「実践的な徳に基づく生」と「観想活動の生」の二つが「幸福な生」として提示される。
 第一〇巻では、「実践的な徳に基づく活動」と「観想的な徳に基づく活動」の「二つの生」はどのように捉えられているだろうか。アリストテレスは、最もすぐれた活動とは知性に基づく観想活動である(1177a19-20)と主張している。
アリストテレスはこの「観想活動の幸福」を「完全な幸福(teleia eudaimonia)(第一〇巻第七章、1177b24-25)と呼び、他方「実践的活動の幸福」を「第二義的な幸福(eudaimonia deuterōs)(第一〇巻第八章、1178a9)と呼んで、両者の価値の違いをはっきりしたかたちで示している。(p.149)

●アリストテレスは、『形而上学』第六巻や『ニコマコス倫理学』第六巻において、「人間の知識」の三つの働きの区別を強調している。
〕論的学問(テオーレーティケー)――第一哲学(神学)、数学、自然学
⊆汰的学問(プラクティケー)――倫理学、政治学
制作的学問(ポイエーティケー)――各種の制作学、たとえば詩学
 理論的学問は「他の仕方ではありえない必然的な事柄」にかかわる。すなわち、数学や形而上学のように永遠不動の事柄を対象とする。他方、実践的学問と制作的学問は「他の仕方でもありうる非必然的な事柄」にかかわるものとされる。すなわち、倫理学(エーティカ)を含む政治学と各種の制作学はこの世界においてわれわれが働きかける蓋然的な事柄を対象とする。(pp.150-151)

●「ヌース(知性)」
 永遠不動の必然的な事柄にかかわる知識である「ソピア(知恵)」を成り立たせている能力が「ヌース(知性)」であり、第一〇巻第七章、第八章では、アリストテレスはこの「ヌース」の働きを通して「観想活動」の特性を説明している。
 他方、「性格の徳」は「情念」や「欲求」といった「複合的なもの」にかかわる「人間的な徳」であるが、それに対して「ヌース(知性)」は、そのような「複合的なものから切り離された徳である」(第一〇巻第八章、1178a22)。したがって、アリストテレスにとって、この「ヌース(知性)」は人間の能力というより、まず至福である神々の能力であり、観想活動は何よりも神々の「観想活動」である。(pp.151-152)

「生きる(zēn)」「活动する(energein)」といった営みは植物、動物、人間、そして神々に共通するものである。他方、アリストテレスが強調しているのは、われわれ人間と神々の相違である。オリンポスの神々やユダヤ人の神ヤーヴェとは異なり、アリストテレスの神々は情念をもたず、それゆえ、情念を正しくコントロールする「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」をもつことはない。すなわち、アリストテレスの神々にとっては、「正しい行為」も「勇気ある行為」もありえず、そもそも、「行為すること」も、「ものを作ること」もせず、したがって、神々は「実践的な徳に基づく活動」を行うことはない。神の活動は至福の上で比類のない観想活動である。
 他方、第一巻から第九巻の主題は「人間」であり、アリストテレスは「人間」をまず「欲求」と「情念」をもち、さらに「ロゴス(理性)」をもつ動物として把握する。それゆえ、人間は「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と「思慮(プロネーシス)」を遂行することを通して「幸福な生」を目指す存在として捉えられている。(p.153)

●神々の行為をモデルとする「観想的活動」は「それ自身以外のいかなる目的も目指さず、それ自身に固有な快楽をもっていると考えられ、……人間に可能なかぎりの自足性(autarkes)、ゆとり(sxolastikon)、疲れのなさ(atruton)、その他至福な人にあてがわれるかぎりの特性」(第一〇巻第七章、1177b18-23)をもっている。

●アリストテレスは観想活動について次のように語っている。
“こうした(観想活動の)生は、しかし、人間の次元を超えたものであるかもしれない。というのも、そのような生き方ができるのは、彼が人間としてではなく、彼のうちに何か神的なものが備わっているからである。……
(略)
 したがって、人間にとってもまた、知性に基づく生き方が、何よりも知性こそ人間自身にほかならない以上、最も善くかつ最も快い生き方なのである。それゆえ、知性に基づく生き方が、最も幸福な生き方なのである。(第一〇巻第七章、1177b26-1178a8)(pp.154-155)

●この印象深い箇所で、アリストテレスは「知性こそ人間自身にほかならない以上」という表現を通して、「人間=知性(ヌース)」という把握を示している。しかし同時に、第一巻から第九巻において、人間を「情念や欲求をもつ複合的存在」として捉え、「実践的な徳に基づく活動」の重要性を主張しているのであり、その点は第一〇巻においても明確に維持されている(第一〇巻第八章、1178a9-22)。このように、アリストテレスはアンビバレントな人間の状態を表現するとともに、しかし、人間は「できるかぎり自分を不死なものにすべきである」という理念を示していると言える。(p.154)


●アリストテレスの「徳の考察」(おさらい)
 “われわれは徳を「思考に関するもの」と「性格に関するもの」に分け、「知恵」、「理解力」、「思慮」を「思考の徳(ディアノエーティケー・アレテー)」と呼び、他方「気前のよさ」、「節制」を「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と呼んでいる。(第一巻第一三章、1103a4-7)

●アリストテレスは第二巻から第五巻までは「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」の考察を行っているが、本書第二章で示したように、第二巻第六章で「性格の徳」を「中庸」と捉え、この「中庸」を「思慮ある人が中庸を規定するロゴス(道理)によって定められるもの」として捉えている。それゆえ、「中庸」を規定するためには、第六巻の「思考の徳(ディアノエーティーケー・アレテー)」の考察、とりわけ、「思慮(プロネーシス)」の概念の解明が必要になってくる。(p.157)

●ここで強調したいのは、第六巻において「思考の徳」を考察するにあたって、アリストテレスが「広い意味でのヌース(知性)」という概念を出発点においているということである。この「ヌース」は第一巻で「人間のエルゴン」を規定する場合に使われる「ロゴス(理性)」と同じ意味をもつ概念であると私は解釈する。この広義の「ヌース(知性)」は単に「理論的な知」だけではなく、「実践的な知」としても使われている(1139a18)。その後の第六巻第三章以下では、「ヌース」は観想にかかわる狭義の「ヌース」として規定され、第七章では、「ソピア(知恵)」と結びつき「最も貴重な諸存在」を対象とする「知」として、つまり観想活動を遂行する「知」として捉えられている。(pp.157-158)

●他方、行為にかかわる「知」は第六巻第五章以下で、「思慮(プロネーシス)」として規定され、「性格の徳」との関係がくわしく説明されている。それゆえ、広い意味での「ヌース(知性)」が、観想にかかわる狭義の「ヌース」と行為にかかわる「思慮(プロネーシス)」に分かれていったと見ることができる。(pp.157-158)

●アリストテレスがわれわれ人間を植物や動物から区別し、人間と神々とを区別しないのは、人間と神々が「ロゴス(理性)の能力」、「ヌース(知性)の能力」を共有しているということにある(ただ、その能力のあり方には大きな相違があるが)。
 人間と神々は「ヌース(知性)の能力」を共有している。これが『ニコマコス倫理学』において、「人間」を捉え、人間を神々と結びつける太い線である。しかし、人間は身体をもち、情念と欲求をもつ存在であって、純粋なかたちで「ヌース」の生を生きる神々と異なっている。すなわち人間にとって、善き生(エウダイモニア)のためには実践的な徳が不可欠である。そしてアリストテレスは、人間が観想活動の生を送るためにも、実践的な徳、つまり性格の徳と思慮が不可欠であると考えている。それゆえ、人間にとっては「観想活動の生」と「実践活動の生」は緊密に結びついていると言えるのである。(pp.159-160)

●われわれの解釈の重要なポイントは「人間の生(活)のいずれの善(善きもの)もその頂点に一つの最高目的(観想的な徳の遂行、性格的な徳の遂行)をもつ階層のうちに位置づけられる」ということにある。(p.164)

●われわれは観想者(哲学者)になるか、政治家になるか決断しなければならないが、いずれを選択するにせよ、必要となる重要な善きものがある。それはすなわち、正義、勇気、思慮、等々の徳である。これらの徳は、二つの生、つまり「観想活動の生」にとっては必要条件であり、「実践活動の生」にとってはその目的である。(p.165)

●しかし、アリストテレスはこの『ニコマコス倫理学』の講義を通して、聴講生に対して「観想活動の生を選ばなければならない」と主張してはいないように思われる。というのは、われわれが、第五章「友愛について」において紹介し、そこで強調したように、第九巻第八章で、アリストテレスは次のように語っているからである。
 “優れて善き人(スプウダイオス)に関して言えば、彼が友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、友人や祖国のために死さえ辞さないというのは真実である。なぜなら、優れて善き人はお金や名誉や、その他一般に争いの的となるもろもろの善きものを投げ出し、自分自身に美しい(カロン)ものを確保しようとするからである。(第九巻第八章、1169a18-22)
 ここで、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己の為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と語り、「カロン(美しい、立派な)」を行為の最終的な価値基準として捉えているが、その際、「優れて善き人は友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、死さえ辞さない」と述べている。したがって、アリストテレスは「各人は自分のために最大限の善きものを増進するよう努めなければならない」といった立場を取ってはいない。(pp.166-167)

●アリストテレスは「ある状況において、人は自分自身にとって最善の幸福を得られなくとも、他人の幸福のために行為すべきである」という余地を認めている。(p.168)

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以上であります。後編はワード22pになってしまいました。
いや〜、捨てるところがないものですね〜。近年歳をくえばくうほど読書日記が長文化します。あとで思わぬところを参照するかもしれないと妙に不安にかられるんですね。

途中、「観想的生活」を神のような生活だと言ってるところは、やっぱり「哲学者は自分のことを研究するのが好き」ププッ、となってしまうわたしは意地悪女です。
それでも、紀元前としては極めて完成度が高く、現代の脳科学、性格心理学などからみても正しいことを言っている『ニコマコス倫理学』、本書『アリストテレス「『ニコマコス倫理学』を読む――幸福とは何か」のお陰でやっと出会うことができました。著者様に感謝いたします。

『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)という本を読みました。

 このところわたしが好んで使っている「エウダイモニア(幸福)」という語の起源、それが『二コマコス倫理学』。
 しかし、実はこの原典が難解で、過去に読んでも挫折していました。こういう場合にはなりふり構わず入門書から入るわたしです。
 この『ニコマコス倫理学』は、いまどきのポジティブ心理学や幸福学、徳倫理学などでも論拠としてよく引かれますから、押さえておいて損はないですよ。
 実際、読んでいると「強み」「価値観」など、わたしなどが日常的に使うツールの意義づけにつながるような言葉がちょこちょこ出てきます。またなんと「行動承認」の理論的根拠これでいこうか、というところも出てきました。


※なお、こういう詳細な読書日記のブログアップの仕方が著作権法違反に当たらないのか?厳密にいうと、当たる可能性があります。ただ、有り難いことにこれまでのところは問題になっていません。
 これまで、読書日記をアップしたときに著者自身からお礼のコメントをブログに直接いただいたことが3回ありました。『ポスト資本主義』の広井良典教授(千葉大から京大に移られました)からは、当日夜に丁寧なお礼のメールをいただきました。
 また『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』の藤野寛教授(一橋大学)には、あまりにも「捨てる」ところがなく丸写しのような読書日記になってしまったので、後日「著作権上問題のあるレベルなのではないかと思いますが」と自分から申告したところ、藤野教授が「自分ではわからない」とわざわざ出版社に連絡をとっていただき、すると編集者から「嬉しい反響ですね!」というリアクションがあった、というような話もありました。
 …まあ、なまじそういう著者さん方の心優しいリアクションの経験をしてきたものだから、著作権というものを甘く見てしまっていたきらいがあります。
 今後も、万一読書日記について著者・出版社から削除依頼等がありましたら、真摯にご対応したいと思います。

 今回も、とくに第一章の「エウダイモニア」の定義に関しては、「捨てる」ところが少なく、丸写しに近い読書日記になってしまいます。お叱りを受けないことを祈ります。

 そして第二章、本書の約半分のp.80まで読書日記をつけ終わったところですでにワード18pになったので、読書日記を前後編とします。太字・色字は正田です

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 まえがき

●「人生、いかに生きることが最善の生か」。アリストテレスはこのように尋ね、この「最善の生」を、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という言葉で捉えている。それゆえ、『ニコマコス倫理学』の主題は「幸福(エウダイモニア)とは何か」を明らかにすることであると言える。(pp.i-ii)


第一章 幸福(エウダイモニア)とは何か
 この章は、やはり「捨てるところが少ない」章です。ほとんど丸写しになるかもしれません。著者様、ごめんなさい。

●「まえがき」で紹介したように、アリストテレスは「いかに生きることが最善の生か」という問いを追求するが、この「最善の生」を第一巻第四章で、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という語で捉えている。それゆえ、「幸福とは何か」を明らかにし、人びとに「幸福に至る道」を示すことが、『ニコマコス倫理学』の主題である。(p.35)

●アリストテレスはこの主題に取り組む二つの方法を明らかにしている。まず、第一巻第六章で、プラトンの超越的な「善のイデア」をはっきりと退け、「エンドクサ」、つまり、人びとが抱いている定評ある見解の吟味を通して「幸福」の探求を行うことを宣言する。また続く第七章では、人間の「エルゴン(機能)」の解明を通して「幸福」を求めていくことを明らかにしている。(pp.35-36)

●アリストテレスは第一巻の巻頭で、「すべての行為はアガトン(善、善きもの)を目指している」(第一巻第一章、1094a1−2)と主張し、『ニコマコス倫理学』が何よりも「アガトン(善)」の研究であることを宣言している。
 しかし、ここで素朴な疑問が生じてくるかもしれない。はたして人間の行為はすべて「善」を目指していると言えるだろうか。われわれは日ごろ、「悪い」と知りつつタバコを吸っているのではないだろうか。だが、アリストテレスの視点から言えば、喫煙者は健康よりもともかくタバコを吸いたいのであり、喫煙は彼にとって善い行為なのである。このように、アリストテレスは「善」を道徳的な意味ではなく、「欲している」、「利益になる」という意味で用いており、この素朴な地平から道徳の問題を考えていこうとする。
 これは、「誰も悪を欲する者はいない」(『メノン』78A)と主張し、「すべての者は善を欲している」と考えるソクラテスの態度でもあった。しかしもちろん、善と思ったことが悪であり、また善を欲しながらも意志の弱さのゆえに生じてくる、やっかいで重要な問題が存在する。ただ、この問題については第四章「徳とアクラシア」において検討することにして、先に進むことにしよう。(p.37)

―いきなり予想外の定義が出てきました。「善」って「欲求」のことだったの!?
ここでは「タバコ」の例を出していますが、もちろんわたしたちは「欲求」が非常に多くのばあい、わるさをするものだということを知っています。依存症にもなるものだと知っています。でもまあ、この定義に従えばソクラテスが「すべての者は善を欲している」というのも納得は納得でありますが。それも何だかトートロジーのようにもきこえますが。モヤモヤを抱えて第四章(この読書日記では後編)を楽しみにいたしましょう。

●第一巻第一章から第四章で、アリストテレスは、人間は「善きもの」を目指して行為するが、人間が求める「善きもの」には階層(ヒエラルキー)があると語っている。それは次のようにまとめられる。
,泙此現に為している行為が、それを超える別の目的のために為されるといった場合が挙げられる。たとえば、畑を耕すのは種を蒔くためであり、種を蒔くのは小麦を収穫するためである。
他方それに対して、別の行為の手段ではなく、その行為自身が目的であるような行為が存在する。テニスをする、酒を飲む、音楽を聴く、古典を読む、隣人を助ける、といった行為は一応そのようなタイプの行為である。「なぜテニスをするのか」と問われ、「楽しみのために」と答えるとしても、その答えは「テニスをする」ことから独立の行為を述べているわけではない。ただ、通常は、その行為自身が目的であるタイプの行為であっても、ある場合には、他のものの手段として為されることがある。たとえば、肥満を解消するためにテニスをするなどの場合である。
しかし以上とは別に、このような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるとアリストテレスは述べている(第一巻第四章、1095a18−19)。(pp.37-38)

●ギリシア語の「エウダイモニア(eudaimonia)」は、日本語では「幸福」と訳され、今日それが定着している。この「幸福」は明治以降、「倫理学」、「道徳」、「功利主義」といった翻訳語とともによく使われるようになった言葉であり、辞書を引くと、「心が満ち足りていること、仕合せ、幸い、幸運」という説明が載っている。ただ、日本語の「幸福」とギリシア語の「エウダイモニア」は、当然、まったく同義というわけではない。「心が満ち足りていることが幸福である」と日本語の辞書が説明するように、「幸福」という言葉は人びとが感じる感情を表すのに使用される。他方、ギリシア語の「エウダイモニア」は人びとが感じる感情というより、人びとが目指す「最高善」を表す表現であり、目指すものが「最高善」でないならば、「エウダイモニア」とは言いがたい。(p.39)

●そこで、日本語の「幸福」に「最高善」といった厳めしい意味を与えることには抵抗を感じる人びともいるかもしれない。しかし、日本語の「幸福」にもたしかに「最も善きもの」という意味が含まれており、われわれは「お金や地位がなくとも、幸福でありたい」と言うが、「幸福でなくとも、お金や地位が欲しい」とは言わないように思われる。(同)

――ちょっとわかってきた気分になりました。「善」と「最高善」と、ランクが違うわけですね。「善」は「欲求」「快楽」レベルのことを言うけれど、「最高善」はもっといいものだ、と。

●「最高善」と「幸福」とを結びつけるとアリストテレスの思想はソクラテスやプラトンの見解を受け継ぎながら、西洋倫理思想の大きな流れを形成しており、たとえば、「最大多数の最大幸福」を主張する功利主義思想をそのうちに位置づけることができる。他方それに対して、カント倫理学も「最高善」を求めるが、この「最高善」を「幸福」ではなく、「義務」、「正義」と結びつけており、この「義務の倫理学」も西洋倫理思想を代表する思想であると言える。(p.40)

●ここで、アリストテレスの「エウダイモニア(幸福)」の概念を考える場合、重要な二つの特性を取り上げておくことにしよう。
 第一は、ギリシア語の名詞「エウダイモニア」は「エウダイモネイン(eudaimonein)」という動詞形をもち、「よく為している(eu prattein)」、「よく生きる(eu zēn)」というかたちで行為や活動に基づいているという点である。これは、日本語の「幸福」や英語の”happy”にはない構造であり、『ニコマコス倫理学』を読む場合、最も重要な特性である。すなわち、「エウダイモニア」は「善き営み」、「善き行為」において実現するのであり、「状態」ではなく、「活動」である(第一巻第八章、1098b33-1099a3)。序章で紹介した術語を使えば、「エウダイモニア」は「デュナミス(可能態)」ではなく、「エネルゲイア(現実態)」である。(pp.40-41)

――「エウダイモニア」は「行為」と不可分の考え方なんですね。行動承認の究極目的としてのエウダイモニア、という図式を考えていたので嬉しくなってしまいました。

●ところで、明治以来わが国で親しまれてきた、「山のあなたの空遠く、<幸い>住むと人のいふ」という句で始まるカール・ブッセの詩があるが、この詩では、「幸福(幸い)」を人間が生涯を通して求めていく、「山のあなたの空遠く」にある事態として把握している。アリストテレスもソロンの言葉を引用し、死を迎えるまでは、人は幸福であったかどうかを言うことはできないと述べている(第一巻第10章、1100a10−)。このように、第二の特性として、「エウダイモニア」というギリシア語表現は「まっとうした人生」(第一巻第八章、1098a18)に対して適用されるのが基本的な用法である。(p.41)

●それでは、「まっとうした人生」に対して適用される「エウダイモニア」と「よく為している」、「よく生きる」というかたちで具体的な行為や活動と結びつく「エウダイモニア」はどのように関係するのだろうか。これは見解が分かれる難解で重要な問題である。
 私の理解では、上で指摘したように、「エウダイモニア」とはまず直面する具体的状況において「よく為すこと(eu prattein)」「のよく生きること(eu zēn)」である。そして徳を備えた人はそのようによく生きているのであり、そのような生涯を生きる人が「エウダイモニアな人」「幸福な人生」である。この点はすぐ後で主題になってくる「徳」の概念についても言えることであり、「勇気ある行為」、「正しい行為」とは具体的状況における行為であるが、それは「徳ある人」の概念を通して解明されることになる。(pp.41-42)

●アリストテレスは、ギリシア社会において伝統的に捉えられてきた「幸福」の三種類のかたちを紹介している。
,泙座臀阿蝋福を快楽だと考え、「享楽の生活(ho apolaustikos bios)」を愛好する(第一巻第五章、1095b17)。
他方、「政治的生活(ho politicos bios)」を目指す者は「幸福とは名誉である」と考える(第一巻第五章、1095b22-29)。
B荵阿法⊃人の探究、すなわち「観想活動の生(ho theōrētikos bios)」(第一巻第五章、1095b19)こそが「幸福」であると考える人びとが存在する。
 この区別はプラトンの『国家』第四巻で論じられている三種類の階層、すなわち、大衆階層、補助者(戦士)階層、支配者階層に対応している。またこのプラトンの見解はさらにピュタゴラス(前570頃)に遡ると見られている。(pp.42-43)

●ピュタゴラスの思想についてはローマ時代のキケロ(前106〜前43)がそれを伝えている。「フィロソフォス(愛知者、哲学者)とは何か」と聞かれて、ピュタゴラスはオリンピアの大祭に集まって来る人びとを三種類に分ける譬えを使って説明している。第一は人びとに飲み物や食べ物を売って「お金」を得ようとする人、第二は競技に参加して「栄誉」を得ようとする人、第三は競技をただ「観よう」とする観客である。人生においても、商業活動を通してお金を得ようとする人びと、政治活動を通して名誉を得ようとする人びと、そしてオリンピアの大祭の観客の場合と違って、数は非常に少ないが、ものごとの本質(rerum natura)を熱心に観ようとする人びとがおり、この最後の「観(テオリア)の立場」に立つ人が哲学者(愛知者)であるとピュタゴラスは語っている。(p.43)

●ピュタゴラス、プラトン、アリストテレスは最も優れた生き方を「観の立場」に立つことであると捉える点において共通している。(同)

●他方、「快楽」と「名誉」に関しては、アリストテレスはここで独自の見解を示している。
(1)まず「享楽の生活」について、アリストテレスは、それは一般大衆の選ぶ生活であり、大衆は「家畜のような生活を選び取り、まったく(欲望の)奴隷のように見える」(第一巻第五章、1095b20)と語り、「享楽の生」を「幸福な生」から除外している。
 しかし他方、「幸福」、「徳」を規定する場合には、「快楽」の重要性を強調しており、第七巻、第10巻では、彼自身の快楽論を展開している。それは行為の「よろこび」と結びつく、志向的、能動的な快楽論であり、「快楽」を受動的な感覚体験として捉える19世紀の功利主義の見解とは異なり、「快楽・よろこび」についての深い洞察を示している。
(2)また、「政治的生活」に携わる人びとは名誉を人生の目的だと考えるが、その場合、彼らは「名誉は徳に基づく」という見解を取っており、したがって、ソクラテスと同様、「節制」や「勇気」といった「徳」が「幸福」であると考えていることになる。
 それに対してアリストテレスは、徳をもっていても「最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることがあること」を指摘し(第一巻第五章、1095b32-1096a1)、「徳」は「幸福」と同一視できないことを主張する。彼の考えでは、「徳」は「幸福」と同一視することはできないが、「幸福」成立の不可欠の条件である(第一巻第七章、第八章)。この前提のもとに、第二巻から第九巻まで、「性格の徳(倫理的な徳)とは何か」を追求している。
(3)他方それに対して、アリストテレスは「観想活動」を「最も神的な魂の活動」と捉えており、「観想活動こそが最高善(幸福)である」と考えている。(pp.42-45)

――「享楽の生」は幸福な生ではないのだそうです。ワイドショーみている日本の大半の人はそれでしょうかネ・・

●このように、古代ギリシア人たちが抱いてきた「幸福」について、アリストテレスは「実践」と「観想」とを区別する立場から、ソクラテスやプラトンとは異なる独自の見解を示している。すなわち、市民生活における「実践活動」の「徳」と、「観想活動」の「徳」、この魂の二つの活動を通して最高善としての「幸福」に至る道を示していると言える。(略)この「観想活動」と「実践活動」の関係をどう捉えるかは『ニコマコス倫理学』全体の思想をどう把握するかという重要な問題であり、第六章「観想と実践」でくわしく検討することにしたい。(p.45)

●第一巻第七章の議論。
 まず、「幸福=最高善」とは、他のさまざまな行為が、それを目指す「究極的な(teleion)目的」であることが示されている。
 「幸福」の究極性(teleiotēs)は次のように規定されている。
 
 なぜなら、われわれは幸福をつねにそれ自体のゆえに選び、他のもののゆえに選ぶことはないからである。他方、名誉、快楽、知性、そしてすべての徳に関しては、それらをわれわれはそれ自体のゆえに選ぶとともに、……それらを通じて幸福を獲得できるだろうと考えて、幸福のためにそれらを選ぶのである。逆に、それらのために幸福を選ぶというような人はだれもいないし、他のもののゆえに幸福が選ばれる、といったことはありえない。(第一巻第七章、1097a34-b5)

 この行為選択の究極性(終極性)ということが「幸福=最高善」の基本的な意味である。(p.46)

●しかし同時に、「幸福」は「究極的」であるゆえに、「自足性(autarkeia)」という特性を具えている
 この「幸福」の「自足性」は次のように規定されている。

 自足的なものを、われわれはそれだけで生活を望ましいもの、まったく欠けるところのないものにするようなものと規定する。……また、幸福はすべてのもののうちで最も望ましいものであることによって、(他のものによって)加算されえないものであるとわれわれは考えている。加算されうるとすれば、(他の)善いものが僅かでもくわえられれば、いっそう望ましいものになるのは明らかだからである。(第一巻第七章、1097b14-18)

 ここでは、「加算されえないもの(mē sunarithmoumenēn)という概念を用いて、「幸福」の「自足性」を説明している。「加算されうるもの」とは部分的な善であって、功利主義が主張するような量的に規定できるものである。しかし、アリストテレスは「幸福+他の何か」といったものが「幸福」よりも優先することは不可能であると主張し、「幸福の自足性」を説明している。(p.47)

●「幸福=最高善」の概念が含む「究極性」と「自足性」に対応して、アリストテレスの「幸福」の概念をどのように捉えるべきかという議論があり、従来、「幸福」を「支配的目的(dominant end)」と解釈するか、それとも「包括的目的(inclusive end)」と解釈するか、について論争がなされてきている。
 
●幸福を「支配的目的」とする解釈は古くから主張されてきた。「支配的目的」とは「さまざまな優れた活動をそのうちに含む生き方を特徴づけるもののうち、特定の支配的な活動を目的とする」という意味である。具体的に言えば、「幸福」とは「最も神的な魂の活動」としての「観想活動」であるという把握である。(略)
 それゆえ、「支配的解釈」は、われわれの行為は「目的―手段」の階層を形成しており、その究極の目的が「観想活動」としての「幸福」であるという見解である。だがその場合、「観想活動」と「実践活動」の間にはたして「目的―手段」の関係があるかどうかが大きな問題である。(pp.48-49)

●他方、「幸福」の「包括的目的」とは、「さまざまな優れた活動や事物をそのうちに含む生き方全体を目的とする」という意味であり、「幸福」とは、「それ自身のために追求されるすべての善」(テニスをする、音楽を鑑賞する、隣人を助ける、その他、徳に基づく諸々の活動)を含むものだ、ということになる。「幸福」を包括的目的と解する「包括的解釈」の重要な根拠となるのは先に紹介した「幸福」の「自足性」の規定である。すなわち、「幸福」の概念には、そこに何ら「加算する必要はない」という意味が含まれている、という把握である。(p.49)

●アリストテレスは第一巻第七章の後半(1097b22-)では、「人間の固有の機能(エルゴン)とは何か」という問いを通して「最高善=幸福」の問題を考察している。(p.50)

●“ここで望まれているのは、幸福が何であるかをより明確にすることである。おそらくこうした明確化は、人間の「エルゴン(機能)」が把握されるならば達成されるだろう。なぜなら、笛吹きや彫刻家などすべての技術者にとって、また何であれ、一般に何か特定の機能と行為が属しているものにとって、「善」すなわち「よく」ということがそうした機能に認められると考えられるように、人間にとってもまた、もし何か人間としての機能というものがあるとすれば、同じようにそれに「善」すなわち「よく」を考えることができるからである。”(第一巻第七章、1097b23-28)(p.51)

――エルゴンという新しい概念が出てきました。これは「強み」の概念と似ていないかな?とアンテナがたつわたしです

●「笛吹き」、「大工」、「靴職人」といった言葉は社会におけるその役割、機能を表す言葉であり、そのような役割・機能を立派に果たす人は「善き笛吹き」であり、「善き大工」である。また身体の部分である「眼」、「手」、「心臓」、「腎臓」といった器官にも、固有の機能があり、その能力と働きが存在している。
 では、社会における職業や役割、あるいは人間の個々の器官がそれぞれ固有の機能をもつように、「人間」や「狼」といった存在者もその固有の機能をもっていると言うことができるだろうか。もしもっているとすれば、「人間として善き人」、「善き人間」とはどのような者であるかが規定され、そこから「幸福な人間」とはどのような人間であるかが明らかになろう。アリストテレスは「人間」や「狼」といった自然種にも固有の機能(エルゴン)が存在すると考えており、「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」と呼ばれる説明を行っている。(p.52)

●アリストテレスは、「人間に固有な機能としてのロゴス(理性、分別)の働き」を、次のように取り出してくる。

 生きていることは植物にも共通することが明らかである。しかし、われわれが求めているのは人間に固有の機能である。それゆえ、栄養的生や成長にかかわる生は除外されねばならない。次に来るのは感覚的な生ということになるが、これもまた馬や牛、その他すべての動物と共通の生である。すると残るのは、人間において「ロゴス(理性)」をそなえている部分によるある種の行為的生ということになる。(第一巻第七章、1097b33-1098a4)

 このように、「人間固有な機能(エルゴン)」は魂(プシュケー)の「ロゴス(理性)」を有する「部分による行為的生」、すなわち「ロゴスに即した(meta logou)魂の活動」ということになる。(pp.52-53)

●続いて、アリストテレスは「人間の機能がロゴス(理性)に即した(meta logou)魂の活動である」ということから、「幸福とは徳(卓越性)に基づく(kata aretēn)魂の理性的活動である」ということを導いていく。
たとえば、「竪琴奏者」の機能と「すぐれた(卓越した)竪琴奏者」の機能はその種類において同じである。そして、一般に「x」の機能と「すぐれた(卓越した)x」の機能が種類において同じだとすれば、「ロゴスに即した魂の活動」という表現に関しても同様のことが言える。
すなわち、卓越した(徳ある)人の「ロゴスに即した魂の活動」は卓越していない(徳のない)人の「ロゴスに即した魂の活動」よりもみごとな仕方でその活動を果たすことになる。それゆえ、「人間としての幸福とは徳に基づく(kata aretēn)ロゴスに即した(meta logou)魂の活動である」ということになる。
以上が私の解釈であり、私は「徳に基づく」と「ロゴスに即した」を区別して考えている。他方、「普遍主義的解釈」としては、「幸福」という概念は「ロゴス(理性)」を通して「普遍的に」規定されると解釈する。私は本書において一貫してこれに反対し、「幸福」、「徳」の概念についての「内在主義的、個別主義的解釈」を取っている。(pp.53-54)

――このあたりわたし流に総合すると、機能(エルゴン≒強み)を発揮しながら良い仕事をすることを幸福と言っているようであり、著者は「幸福は強みを発揮することにある」と言っているようにもとれます


●以上から、アリストテレスは「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」を次のように締めくくる。
 “もし徳が複数あるならば、人間としての善(幸福)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動であるということになる。しかし、その活動には、「まっとうした人生において」という条件がさらにつけ加えられねばならない。というのは、一羽のつばめが春を告げるのでもなければ、一好日が春をもたらすのでもないからである。同様に、一日や短い時間で、人は至福にも幸福にもならないのである。(第一巻第七章、1098a17-20)(p.55)

●この引用の最初の文章については研究者の解釈が分かれているが、しかし、私は「エルゴン・アーギュメント」を通して導かれる「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という命題は、「実践活動」の徳のみならず「観想活動」の徳も含んでいると解釈する。それゆえ、「もし徳が複数あるならば、幸福(最高善)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動である」という文章における「徳」についても、「実践活動」の徳と「観想活動」の徳を含んでいると解釈する。(p.56)

●また、アリストテレスは「まっとうした人生において」という条件を付けている。幸福とは状態ではなく、活動である。しかし、ある時点で「幸福である」というのは充分ではない。「正しい行為」とは「その状況において、徳を備えた人が行うような行為」であり、そのような行為を為して徳ある人として生涯を生きる人が「幸福な人である」と言えるのである。(同)

●ソクラテスにとっては、「徳」と「幸福」は同一であり、徳を備えた人はいかなる状況においても不幸にはなりえない。プラトンが『クリトン』や『パイドン』で見事に描いているように、ソクラテスはこのことを身をもって実証したといえる。
 それに対してアリストテレスは、「徳」と「幸福」は同一だとは考えない。神ならぬ人間は有限者であり、身体をもつ存在である。したがって、徳をもっていても最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることが生じてくる。アリストテレスはソクラテスとは異なり、そのような人びとが幸福であるとは考えていない。その意味で、アリストテレスの「幸福」観は多くの人びとの見解と一致していると言える。(pp.56-57)

●アリストテレスは「徳」と「幸福」を同一視しないが、しかし、「徳に基づく魂の活動」が「幸福」であるための不可欠の条件であると考えている。彼は、第七章で「人間のエルゴン」の考察を通して導出した「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という見解が「エンドクサ」、つまり人びとが抱いている定評ある見解と一致することを、続く第八章で示そうとする。(第一巻第八章、1098b20-23)(p.57)

●また、最高善としての「幸福」が「状態(ヘクシス)」ではなく「活動(エネルゲイア)」であることの理由を、次のように語っている。

 “なぜなら、「状態」は人に現にそなわっていても、たとえば眠っている人や、他の別の仕方でまったく不活発な人のように、まったく善をなし遂げないということがあり得るが、しかし、「活動」にはそうしたことがありえないからである。すなわち、徳に基づく活動は、必然的に何かを為し、しかもそれをよく為すはずだからである。(第一巻第八章、1098b33-1099a3)(pp.57-58)

――ここも、「行動承認」という概念を補強するものとして記憶しておきたい一節です。欲張りな言い方をするなら、去年からヘーゲル―ホネット/ハーバーマスのラインのドイツ哲学を根拠として「承認」を論じてきましたが、そこでは大きな「承認」という概念はあるものの残念ながら「行動承認」の根拠は得られなかったのです。しかし、ヘーゲルが言ってくれなくてもホネットが言ってくれなくても、アリストテレスが「行動承認」を担保してくれてるじゃないか、という見方もできるわけです。
まあ陽明学もありますけどね―。

●以上のように、「魂」の卓越性である「徳に基づく活動」が「幸福」の不可欠の条件である。否、私の理解では、「幸福」とは具体的な文脈における特定の徳に基づく魂の理性的活動そのものである。同時に、この幸福が成立するには、「魂」のみならず「健康」その他の身体の状態によって左右され、また社会生活のためにはある程度の富が必要であり、さらに家族や友人も必要である。われわれはそのような条件の下で、徳に基づく魂の活動を発揮しているのであり、それが人間の幸福であると言えよう。(pp.58-59)

●“(幸福な行為の)多くが、友人や富や政治権力を道具のように用いることによって行われる。また、欠けていると幸福を曇らせるようなものもある。たとえば、生まれの善さや子宝に恵まれること、容姿の美しさなどがそうである。容姿があまりにも醜かったり、生まれが賤しかったり、また孤独であったり、子どもがいなかったりすれば、人は幸福になりにくいのである。また子どもや友人がいてもその者たちが劣悪だとしたら、あるいは彼らが善い人物だとしても死んでしまうとしたなら、おそらく人は幸福になれないのである(第一巻第八章、1099a33-b6)。(p.59)


第二章 人はどのようにして徳ある人へ成長するか

●「徳」の考察にあたって、あらかじめ、使用するいくつかの基本的な用語の意味について述べておこう。まず、人間の魂が「ロゴスをもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けられる。ここで、「ロゴス(logos)」の訳として、「ことば」、「ことわり」、「理性」、「分別」、「道理」、「規則」等々が考えられるが、日本語の「理性」「分別」は普通、心的能力を意味し、他方、「道理」「規則」は心的能力によって捉えられる側の事態を表す。そこで、文脈によって、「理性(ロゴス)」、「道理(ロゴス)」といった表記を使うことにしよう。
 この「理性(ロゴス)をもつ部分」と「理性(ロゴス)をもたない部分」は明確な二元論的な区別ではない点に大きな特徴がある。アリストテレスは、「理性(ロゴス)をもたない部分」のうち「欲求的な部分」を栄養摂取のような植物的な部分とは区別して、父親の言葉に従うように「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」として捉えている(第一巻第十三章、1103a3)。また「欲求(情念)」と「理性(ロゴス)」はわれわれの成長とともに展開していき、「欲求(情念)」には「理性(ロゴス)」の働きが浸透していくと捉えられている。この点はアリストテレスの「徳倫理学」を考える場合、重要である。
 この魂の区別に応じて、「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」の徳は「エーティーケー・アレテー(ēthikē aretē)」と呼ばれ、他方、「本来の意味で理性(ロゴス)をもつ部分」の徳は「ディアノエーティーケー・アレテー(dianoēthikē aretē)」として区別される。「エーティーケー・アレテ―」は「倫理的な徳」とも訳されるが、「エーティーケー(倫理)」の基になっているのは「エートス(性格、人柄)」、つまり、「勇気がある」、「温厚である」、「臆病である」、「親切である」といった特性であり、本書では「エーティーケー・アレテー」を「性格の徳」と訳すことにする。また「ディアノエーティーケー・アレテー」の具体例は「学問的知識」、「技術」、「思慮」、「知性」等であり、ここでは「思考の徳」と訳すことにしよう。(pp.61-63)

――「性格の徳」。現代のポジティブ心理学に通じそうな言葉が出てきました。また子育て、教育の世界で最近喧しい「非認知的スキル」「性格の強み」にも通じそうですね。

●古代ギリシアにおいて、人びとは「徳は生得的なものか、それともしつけや訓練を通して備わるものか、それとも教室での教育を通して身につくようになるのか」と尋ねてきた。ソクラテスは「徳が何であるかを知らないうちは、徳が教えられるかどうか、知りえない」と答え、まず何よりも、「徳とは何か」を知る必要があることを強調する。(p.64)

●このソクラテスの理性主義に対して、アリストテレスははっきりと異なる道をとっている。アリストテレスはソクラテスのような仕方で「徳とは何か」を尋ね、その定義を求めるのではなく、逆に「徳がどのようにして習得されるか」を問題にすることを通して「徳とは何か」に答えようとする。(略)ただ、アリストテレスはこの徳の学習における魂の発達の初期段階により大きな注意を払っており、教室での徳の教育のためには、「聴講者の魂は習慣によってあらかじめ、美しい仕方でよろこび、かつ嫌うように準備されていなければならない」ことを強調する。(第十巻第九章、1179b24-26)(同)

●また実践的知識を理論的知識から区別するアリストテレスにとって、肝心なのは「徳とは何か」を知ることではなく、「徳ある(善き)人」になることであり(第二巻第二章、1103b27-28)、この徳ある人へ向けての成長にとって、まず「正しい感受性」を習得することが重要になってくる。(pp.64-65)

●第二巻第一章では、「性格の徳がどのようにして形成されていくか」に関する基本的論点が示されている。

 “「性格の徳」は習慣から形成されるのであり、「性格の(エーティーケーēthikē)」という呼び名もこの「習慣(エトスethos)」から少し語形変化してつくられたのである。
 それゆえ、明らかにまた、「性格の徳」はいずれも自然によってわれわれにそなわるものではない。というのは、自然によって存在するものはどれも、他のあり方をするように習慣づけられることはできないからである。……
 それゆえ、「性格の徳」がわれわれにそなわるのは、自然によってではなく、また自然に反してでもなく、われわれがそれらの徳を受け入れうる資質をもっているからであり、われわれは習慣を通じて完全なものになるのである。……
 たとえば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。これと同じように、われわれは正しいことを行うことによって正しい人になり、節制あることを行うことによって節制ある人になり、また勇気あることを行うことによって勇気ある人になるのである。(第二巻第一章、1103a17-b2)(傍点引用者)

 このように「同じような活動の反復」(第二巻第一章、1103b21)という道筋を通って何が正しいかを学び知る。(pp.65-66)

●アリストテレスは、行為が「認識論的な作用」をもっていることを指摘し、次のように忠告している。

 そのような行為を為さなければ、だれも善き人になることはできないだろう。それなのに、多くの人びとは、こうした行為を行うことなく、議論に逃げ込み、議論することが哲学することであり、議論によってすぐれた人間になれると思いこんでいる。(第二巻第四章、1105b11-14)(p.66)

――これはキツイ。哲学カフェ花盛りですしわたしもよのなかカフェを40回もやりましたから、議論は有意義だ、哲学に至る道だ、とつい思いたくなります。でもアリストテレスは行為こそが大事だと。「行為が認識論的な作用をもっている」この指摘、興味深いですね。

●アリストテレスは、ここで、はっきりとしたかたちで、「徳は知なり」とするソクラテスの理性主義に立ち向かっていると言える。だがもちろん、彼は反理性主義を取っているわけではなく、ただソクラテスとは異なり、「徳」の普遍的な定義を求めるというかたちで、「徳」を規定することはできないと考えているのである。……重要なのは、その「徳ある人」がどのようにして成立するかである。そのためには、幼児期において「正しい感受性」をもつようにしつけておく必要があり、「正しい法」のもとで育てられなければならないと考える。(pp.66-67)

――ここでいう「正しい感受性」とは、なんでしょうか。

 p.71に「喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌う」という言葉が出てきます。ここでまた、「なにが『喜ぶべきもの』なの?なにが『嫌うべきもの』なの?」という問いが出てきそうです。
 わたしの勘では、「嫌うべき」はたとえば不誠実だったり怠惰だったり、不道徳なことをいうのかな?と思ったりしますが、さて。


●“行為に伴って生じる快楽や苦痛は人間の性格の性向を示す指標と見なすべきである。なぜなら、肉体的な快楽を差し控え、それによろこびを感じる人は節制ある人であり、それを嫌がる人は放埓な人だからである。また恐ろしいことを耐え忍び、それによろこびを感じる人、あるいは少なくとも苦痛を感じない人は勇気ある人であり、苦痛を覚える人は臆病な人である。つまり、「性格の徳」は、快楽や苦痛にかかわるのである。……
 したがって、プラトンが主張するように、よろこぶべきものをよろこび、苦しむべきものを苦しむようにわれわれは若い頃から何らかの仕方で指導される必要があり、それこそが正しい教育なのである。(第二巻第三章、1104b3-13)(p.70)

性格の徳とも関係することであるが、喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌うことが最も重要なことであると考えられる。というのは、快楽と苦痛は、われわれの人生全体を貫いており、徳と幸福な生き方にとって決定的な意義と力をもつからである。(第一〇巻第一章、1172a21-25)(p.71)

――ここは、現代の遺伝子学や各種人格分析ツールや発達障害の有無の知識などに親しんだわたしたちからすると、何か言いたくなる箇所ですね。
 「勇気」、蛮勇はNOだけど(でもわたしは結構蛮勇っぽいけれど)生来臆病な人が訓練によって、あるいはその人の価値観に準ずるために勇敢に振る舞うときというのは、崇高にみえる。時々そういう場面、人に出会います

――苦痛がわたしたちを導いている、と主張される方もいます。わたしたちの動機付けは苦痛を回避することなのだと。とても気の毒になりましたが、わたしの仮説では、その方は少しASDのけがあって、ご両親も遺伝でその傾向があり、苦痛を人一倍感じやすく、苦痛によって導く子育てをしておられたんではないかと思います。こんなことばかり言ってますねわたしは。

●哲学の歴史においては、一九世紀の功利主義のように、「快楽は活動の結果得られる感情もしくは感覚である」という見解がよく知られている。快楽は計量可能であり、二つの快楽のどちらが大きいかを計ることができる。そこで、われわれの活動の価値は、この快楽という実体をいかに多く生み出すかにおって決められると主張されてきた。アリストテレスの快楽論はそれとはまったく対立する見解である。
 アリストテレスによれば、快楽はさまざまな活動に伴い、またそれぞれの活動の相違に応じてその快楽は質的に異なってくる。詩を読むことによって得られる快楽を、幾何学を考えることによって得られる快楽と置き換えることはできない。(pp.71-72)

●アリストテレスは「快楽はその活動を完全なものにする」と主張し次のように述べている。
“なぜなら、活動はそれ固有の快楽によって高められるからである。事実、快楽とともに活動する人たちは、各自のそれぞれの分野の仕事をいっそうよく判断し、いっそう正確に扱うのである。たとえば、幾何学の研究によろこびを覚える人たちは幾何学者になり、幾何学の問題のそれぞれをいっそうよく理解するのである。同様にして音楽の愛好者も、建築の愛好者も、その他それぞれの分野の愛好者たちも、自分たちに固有の仕事によろこびを覚えることによって、その仕事に上達するのである。(第一〇巻第五章、1175a30-35)(p.72)

●そして「活動」と「快楽」の関係を次のように述べている。
“それゆえ、完全で至福な人の活動が一つあるにせよ、複数あるにせよ、そうした活動を完全なものにする快楽こそ、第一義的に、「人間の快楽」と呼ばれうるものである。そして他のさまざまな快楽は、それらに対応する活動の種類に応じて、第二義的に、あるいはまた、はるかに劣った仕方で、「人間の快楽」と呼ばれうるのである。(第一〇巻第五章、1176a26-29)
 以上のように、功利主義の快楽論が快楽を受動的な感覚状態と捉えるのに対して、アリストテレスは、快楽は能動的活動に、その活動から切り離せないかたちで結びついていると考える。そして、快楽はその活動を完全なものにすると主張する。(pp.72-73)

――このくだりは、やはり「強み」や「価値観」の概念と照らし合わせながら考えると理解しやすいようです。自分の強みや価値観と結びついた活動をおこなっているときは、たとえ少々の困難がともなったとしても喜びを感じられるでしょう。献身的な医療者が人を救う行為のように、根っからの教育者が教育を行う行為のように。

●快楽は自然的欲求の充足において生じる快楽にはじまり、徳ある行為の遂行の「よろこび」に至るまで、きわめて広い幅と深さをもつ概念である。(p.73)

●それと同様に、「カロン(kalon)」というギリシア語は「美しい、見事な、立派な」といった意味をもつ、大きな広がりをもつ概念であり、また、しつけ、訓練、体験を通してその概念は深められていく。この点は美術や音楽といった芸術の事例を考えてみれば明らかである。
“徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為される。だから、気前のよい人もまた、美しいことのために適正にものを与えるのである。なぜなら、気前のよい人は、しかるべき人びとに、しかるべき額を、しかるべきときに……与えるはずだからである。(第四巻第一章、1120a23-26)(pp.73-74)

●勇気、節制、親切、等々の行為に共通しているのは、それらがすべて美しく、立派であるということであり、それを「美しい、立派な行為」と感知するから、それを為すのであり、またそれゆえに、その行為に「よろこび」を感じるのである。したがって、「美しい、立派なもの」を見抜く能力とそれを「よろこぶ」能力は「性格の徳」を習得したかどうかの一つの指標であると言えよう。(p.74)

●アリストテレスは「徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為されるものである」(1120a23-24)と述べているが、行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのであると考えている。このように「カロン(美しい、立派な)」という概念は「勇気」、「節制」等々の「性格の徳」と並ぶ概念ではなく、「性格の徳」のすべてに共通する特性であり、具体的な状況において、「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。またこの「カロン(美しい、立派な)」という判断の背景には、本章でこれまで説明してきた、幼児期以来の「徳の価値空間」のなかでのしつけや訓練が存在していると言えよう。(p.75)

●「徳」の規定は、アリストテレスの有名な「類と種差」による定義のかたちを取っている。すなわち、「人間」を定義するのに、「動物」というその類に種差である「理性的」を加えて、「人間とは理性的動物である」というかたちを取る定義である。
 まず、徳の「類」の候補として「情念(パトス)」、「能力(デュナミス)」、「性向(ヘクシス)」が挙げられ、そのうちで、「情念」と「能力」は「徳」の類にはなりえないことが示される。第一に、「情念」とは「欲望、怒り、恐れ、自信、ねたみ、よろこび、愛、憎しみ、憧れ、羨望、憐れみ、などの感情」(第二巻第五章、1105b21-23)であるが、これらの情念において、われわれは「動かされている(キネースタイ)」のであり、「怒ったり」、「恐れたり」する情念をもつこと自体は、「徳」や「悪徳」とは異なり、賞賛したり、非難したりする対象にはなりえない。第二に、賞賛や非難の対象になりうるためには「行為選択」という要因を含む必要があるが、「情念」や「能力(デュナミス)」にはそれが欠けている。「能力」、たとえば、医術の知識は病気を治す能力をもつが、同時に病気を作り出す能力をもっている。すなわち、「能力」は正反両方にかかわるのであり、したがって、「能力」は行為選択の機能をはたしえないと言える。(pp.76-77)

●それゆえ、「性格の徳」を規定する場合、その「類」に当たるのは、「情念」や「能力」ではなく、情念や行為にかかわる「性向」である。すなわち、「性格の徳」とは「情念や行為に対して正しい仕方で対応する性向である」ということになる。またその場合の「性向」とは、生得的、自然的な性向ではなく、しつけや訓練を通して獲得された性向、つまり「第二の自然」である。(p.77)

――うーん、ここも、読みすぎとお叱りを受けそうだけれど成人に対して「行動承認」の訓練を施すことが「徳ある人」を育てることにつながる、というふうに読めてしまう……

●“徳とは「選択にかかわる性格の性向(ヘクシス・プロアイレティケー)であり、,修遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける「メソテース(中庸、中間)」にあるということになる。△修両豺腓涼耆如蔽羇屐砲箸蓮◆崙四(ロゴス)」によって、しかも思慮ある人が中庸(中間)を規定するのに用いる「道理」によって定められるものである。すなわちそれは、二つの悪徳の、つまり過剰に基づく悪徳と不足に基づく悪徳との間における中庸(中間)なのである。(第二巻第六章、1106b36-1107a3)(p.77)

この徳の規定は古くから「中庸説」と名づけられ、アリストテレスの「徳倫理学」の中心を占める扱いを受けてきた。(p.78)

●アリストテレスは「性格の徳」を捉えるものとしては,鉢△本質的な規定であると考えており、,鉢△楼貘硫修靴燭發里任△襪、核心部分は△竜定である。ここで、アリストテレスは「性格の徳」を(思考の徳である)「思慮」との関係を通して規定しており、この「思慮」を「思慮ある人の判断」を通して捉えている。(p.80)

● 崙舛遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける中庸」とは、「中庸」の概念が「行為の主体に相関的に決まってくる」という意味として解釈される。たとえば、運動選手にとっての適切な食事の量と普通の人びとにとっての適切な食事の量とは当然異なってくる。すなわち、中庸(中間)の普遍的な尺度は存在しないのであって、行為者に相関的な仕方で「中庸(中間)」は規定されると解釈される。
 さらに、「行為者が置かれた状況」に相関的であるとも考えられる。すなわち、,竜定は「行為者が置かれた状況によって、その状況における中庸が決まってくること」を意味していると解釈すべきであるように思われる。(p.81)

●“「性格の徳」は情念と行為にかかわるものである。そして、情念や行為には過剰と不足、中間ということが定められている。たとえば、恐れること、大胆であること、欲求すること、怒ること、憐れむこと、一般に快楽を覚えたり、苦痛を感じたりすることには、多すぎることや少なすぎることが認められるのであって、どちらの場合もよくないのである。けれども「しかるべき時に」「しかるべきものについて」、「しかるべき人びとに対して」、「しかるべき目的のために」、「しかるべき仕方で」こうした情念を感じることは、中間の最善の状態によるのであり、これこそまさに徳に固有なことなのである。(第二巻第六章、1106b16-23)(pp.81-82)


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 ここまでが本書『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』の第一章、第二章です。大体本書の前半部分に当たります。言葉の定義を追っているうちにもうワード18ページになってしまいました。

 予告した通り本当に著作権問題になりそうなレベルです。

 なにごともちょっと新しい分野のものに手をだすと丸写しモードで頭に入れたくなるんですよねーー。本書のようなものはもっと若い頃に読めばよかったな。

 しかし、去年も偶然のお出会いでヘーゲル+ホネットにはまり、いっぱし「隠れフランクフルト学派」を名乗るようになってしまいました。(当たるを幸い批判しまくっている行動パターンはホネットよりはハーバーマスの流儀です)

 今年はギリシア哲学との出会いの年になるんでしょうか・・・




 1つ前の記事で「小保方晴子さんは、『研究不正』をした人です」と書き、それについて「研究の世界での判決のようなものが出ていますから」とも言いました。

 で、その「判決」のところをあまり詳しく言っていませんでしたので、それを少し詳しく書いた、Kindle本の中の一節を今日はご紹介しようと思います。ここは、ブログ連載では触れていなくて、Kindle本化するにあたり加筆したところです。

 第四講2.2)、「理研調査委報告書でみる、小保方さんの「捏造」「研究不正」という項目。

 Kindle本をダウンロードしてくださった方も、この箇所までは読んでくださらなかったんじゃないかなー。

 親しい友人と話していますと、今も「小保方さんのあのSTAP論文は単純ミスが重なったんじゃないの?」という見方に出会います。

 いえ、「公式に認定された事実」からすると、STAP論文は捏造だらけ、真っ当な部分がほとんどないような論文だったんです。そして10数か所も認定された画像の捏造あるいは間違い(不正とは断定できないもの)の責任はすべて小保方さんにあります。いわば「作りまくった」んです。そんなこんなで、「公式に認定された事実」と、「一般に信じられていること」とのギャップにがく然とします。

 その「公式に認定された事実」が、今からみる「理研調査委報告書(桂報告書)」です。理研側の文書やんけ、とは言わないでください。ちゃんとした外部専門家による調査委であり、この作成にあたっては小保方さんにもヒアリングし、小保方さんも少なくとも2つの捏造を自分がやったことを認めています。もちろん弁護士も入っています。

 これは、「研究不正」の世界で一般に判決のようなものとして通用するものであり、さすが敏腕弁護士を4人も抱える小保方さんもこの文書に関して異議申し立てをしていません。ですので、この文書に書いてあることは「事実」として前提としてよいのです。

 ここまで、よいでしょうか?

 最近でもこの「桂報告書」の内容があまりにも一般に知られていないことを知りました。小保方さんは、ここで認定された事実のほとんどを『あの日』には盛り込まず、ただ「ES細胞混入は自分ではない」の部分だけを主張しています。

 それだけをみると、「ES混入をしていない小保方さんは、潔白なんだ。不正なんてなかったんだ、全部冤罪だったんだ」とみえてしまうかもしれません。

 しかし、ES細胞混入以外の実にたくさんの「捏造」および「不正と断定できないがグレーの箇所」があり、その責任者は小保方さんなのです。ぜひ、そのことはブログ読者の皆様には知っていただきたいのです。
 
 それではその内容をご紹介しましょう―。


(以下Kindle本『社会人のための「あの日」の読み方』第四講2.2)
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2) 理研調査委報告書でみる、小保方さんの「捏造」「研究不正」

 今度の報告書は前回よりボリュームが多めです。A4、32ページのPDFです。
2014年12月25日、「研究論文に関する調査委員会」(桂勲委員長)が発表した「研究論文に関する調査報告書」。
http://www3.riken.jp/stap/j/c13document5.pdf

 ちなみに同じ内容のスライド資料はこちらです。24ページのもの。こちらのほうが要点がわかりやすいかもしれません。

http://www3.riken.jp/stap/j/h9document6.pdf

 ここでは、まず連続して「ES混入」の事実を突きつけます。これは各種解析により動かせないところです。
●STAP幹細胞FLSおよびFI幹細胞CTSは、ES細胞FES1由来である(pp.4-7)
●STAP幹細胞GLSは、ES細胞GOF-ESに由来する(pp.7-8)
●STAP幹細胞AC129は、129B6F1マウスから作製された受精卵ES細胞に由来する(pp.8-10)
●STAP細胞やSTAP幹細胞由来のキメラはES細胞由来である可能性が高い(pp.10-11)
●STAP細胞から作製されたテラトーマは、ES細胞FES1に由来する可能性が高い(pp.11-13)
 しかしだれがその混入を行ったかについては、
「若山氏の聞き取り調査から、当時のCDB若山研では、多くの人が夜中にこの部屋(インキュベーター)に入ることが可能だった。つまり…多くの人に混入の機会があったことになる。」(p.14)
「小保方氏をはじめ、いずれの関係者も故意又は過失による混入を全面的に否定しており、…委員会は、誰が混入したかは特定できないと判断した。」(p.15)
と、特定を避けました。
 このあと、マウスの系統が論文記載のものと異なっている疑義、FI幹細胞のRNA-seqのデータが二種類の細胞種を含んだサンプルに由来する指摘などが提示されます。
 これについての評価。
 「小保方氏が様々なバックグラウンドの細胞を寄せ集めてRNA-seq解析、ChIP-seq解析を行ったことは自明であり、…本来比較対象とならないデータを並べて論文に使用したことは不正の疑いを持たれて当然のことである。しかし、聞き取り調査などを通じて小保方氏は「条件を揃える」という研究者としての基本原理を認識していなかった可能性が極めて高く、意図的な捏造であったとまでは認定できないと思われる。」(p.17)

「一方、FI幹細胞データに関しては当初の解析結果が同氏の希望の分布をとらなかったこと、それにより同氏が追加解析を実施していること、当初解析結果と追加解析結果で使用したマウスの種類も含め結果が異なること、複数細胞種を混ぜた可能性が高いこと(故意か過失かは不明)から不正の可能性が示されるが、どのようにサンプルを用意したかを含め同氏本人の記憶しかないため、意図的な捏造との確証を持つには至らなかった。よって、捏造に当たる研究不正とは認められない。」(同)
 とこのように、「不正が疑われるが証拠がなく証明ができない、よって研究不正とは認められない」という箇所がこのあとも非常に多いのです。なんだかイライラする結論ですネ。
 調査報告書のこのあとのくだりでも
「小保方氏にオリジナルデータの提出を求めたが、提出されなかった。」
「オリジナルデータの調査ができなかった。」
という文言が6回出てきます。このことは、調査報告書のまとめの部分で、

 第二は、論文の図表の元になるオリジナルデータ、特に小保方氏担当の分が、顕微鏡に取り付けたハードディスク内の画像を除きほとんど存在せず、「責任ある研究」の基盤が崩壊している問題である。最終的に論文の図表を作製したのは小保方氏なので、この責任は大部分、小保方氏に帰せられるものである。(p.30)

という厳しい指摘につながっています。
 追及逃れのために元データを提出しなかったのか。それともそもそも実験を行っていないのか。それは不明です。
 そして、明らかな不正と認定されたのは以下の2点。

研究論文に関する調査委員会「調査結果報告」スライドp.21
(1)Articleの論文のFig.5c 細胞増殖率測定のグラフにおいて、ESとSTAP幹細胞の細胞数測定のタイミングが不自然な点。(pp.17-18)山中伸弥教授らのiPS細胞の論文のグラフと酷似しています。
ここでは実験をしたとされる時期に3日に1回実験ができた時期が、出勤記録と照合したところ見つからなかったとあります。
小保方氏は聞き取り調査で、若山氏から山中教授らのような図が欲しいと言われて作成したと説明したそうです(若山氏もそうしたやりとりについては認めた)。
このことの評価として、
この実験は行われた記録がなく、同氏の勤務の記録と照合して、Article Fig.5cのように約3日ごとに測定が行われたとは認められない。……同氏が細胞数の計測という最も基本的な操作をしていないこと、また希釈率についても1/5と説明したり、1/8から1/16と説明したりしていること、オリジナルデータによる確認もできないことから、小保方氏の捏造と認定せざるを得ない。
…小保方氏によってなされた行為はデータの信頼性を根底から壊すものであり、その危険性を認識しながらなされたものと言わざるを得ない。よって、捏造に当たる研究不正と判断した。(p.18)
大変に厳しい言葉ですね。
そしてもう1点、不正と認定された箇所があります。

同上 p.23
(2)Article論文のFig.2cメチル化実験の疑義。細胞は分化するとメチル化し、それが初期化すれば脱メチル化を起こします。細胞が初期化しており脱メチル化しているかどうかを調べるのは、その細胞が多能性を有しているかどうかをみるための方法の1つです。
この図ではメチル化を示す黒丸および白丸の整列に乱れがあり、またオリジナルデータとの不一致がありました。手動で作図され、また仮説を支持するデータとするために意図的なDNA配列の選択や大腸菌クローンの操作を行ったことが小保方さんへの聞き取りでわかりました。
「この点について、小保方氏から誇れるデータではなく、責任を感じているとの説明を受けた。」(p.20)

(1)(2)に関してどうして捏造、研究不正と認定できたかというと、(1)は出勤記録との照合ができたから。(2)はオリジナルデータが存在したから。のようです。
ES混入、2つの明らかな捏造。
調査報告書ではそれ以外に10数か所の疑義や間違いが指摘されましたが、「オリジナルデータの提出がない」ことが壁になって、不正と認定されるには至りませんでした。
調査報告書ではまとめとして、2報のSTAP論文は非常に不正や間違い、怪しいデータの多い論文であること、小保方さんの責任とともにそれを見落とした笹井氏、若山氏ほか共著者の責任、またプログレスレポートのあり方など研究室運営の問題にも触れています。



 さて、以上のように、理研の2つの報告書から、小保方晴子さんがSTAP論文作成に当たって行った「不正」についてみてきました。認定されなかった多数の項目も、単にオリジナルデータの提出がなく確認がとれなかったから不正と認定できなかっただけだ、ということもみてきました。
 これらをご紹介するのは残酷でしょうか。
 小保方さんの手記『あの日』には、不思議なほどこれら、認定された不正の事実には触れていません。自ら認めた不正もあるのに、です。ただ、鬱のような状態で聞き取り調査を受け回答した、という記述があるのみです。不正認定された「メチル化」という用語に至っては、実験段階でそうした解析を行ったという記述すら出てきません。
 そして、小保方さん同情論の人が主張するような「この報告書は理研が一方的に小保方さんを非難し潰したものだ」という批判も当たってはいません。例えば「ES混入」については、報告書では誰が行ったかは特定していないのです。後にある理研OBがES窃盗容疑で小保方さんを告発しようとし、結局「被疑者不詳」で告発が受理され捜査した結果「被疑者不詳」のまま検察送致となった、という経緯もありましたが、これは理研調査委の報告書とは明らかに「別件」です。報告書ではそこまでのストーリーを描いてはいません。共著者の責任、管理責任者の責任にも触れています。
 もしこの報告書をもって「理研が罠にはめた!一方的に小保方さんに罪を着せて幕引きを図った!」と主張したいのであれば、社会人として当然名誉に関わる、今後の進路にも関わることですから、小保方さんは理研に対して地位保全の申し立てをしたり、公文書偽造もしくは名誉棄損の訴訟を起こすのが正しいのです。もしあなたが小保方さんの立場だったら、当然そうするでしょう。小保方さんの場合は、有能な弁護士を4人も雇っていたのです。にもかかわらずそれをしない以上は、これらの報告書の内容を小保方さんも認めたことになります。
 言いかえればこれらの報告書の内容は、事実認定されたとして使ってよろしい、ということです。
 そして、STAP事件の事実は何か、という問いになります。
 報告書で認定されたことを事実としてみるなら、やはり小保方さんのしたことは「けしからん」のです。不正など頭をよぎったこともなく、地道に日々実験を行っている大多数の研究者からしたら、唾棄すべき行為でしょう。
現在、多くの実験系の研究者は『あの日』を黙殺していると言われます。もはや、「関わりたくない」の一言なのでしょう。あまりにも「論外」「問題外」すぎるのです。一部理論系の研究者には小保方さんシンパがいるといいます。
「実験はこういうものだよ。この通りやりなさいよ」
と、教え込んで基本動作を身につけさせる、あるいは先輩や指導者の言うことを素直に実行し練習してスキルを身に着けていく、そういうどこのラボにもあるありふれたOJTの風景をも、小保方さんの行為は嘲笑してしまっています。
 理研から追い出され寄る辺ない身の上になった小保方晴子さん。その彼女に対して同情の念が湧くのは、日本人の「判官びいき」の心情として、自然なことかもしれません。
 しかし、彼女のしたことの重大性、悪質性を事実に基づいて考えるなら、やはり同情すべきではないのです。「認定された事実」と「同情論」の間には、天と地ほどの乖離があります。
 小保方さんに同情する人たちは、ぜひ、このことをもう一度考えてみていただきたいものだと思います。彼女に同情することで、自分も普通のまじめな仕事の営為を嘲笑する側に立ってしまっていないだろうか?と。


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 ・・・今見るとこの文章も結構「感情的」になっているかもしれないなあ、と思います。「怒り炸裂モード」などとほかの人のことを言えません。

 やっぱり、「やったことの重さ」と、それでもなお『あの日』を書いて言い訳するメンタリティというのが、みればみるほど「信じられない」と口ポカンとなってしまうのです。

 でもまあ、世の中こういう人ばかりでなく、真っ当な良心的な人が大半だからちゃんと回ってるんだ、ということに感謝したいですね。

 小保方さんに同情する人は、普通の人たちが真っ当に仕事をしてわたしたちの生活を支えてくれることの有り難さを忘れがちになるんじゃないでしょうか。

 おとしより世代の方は、あなたがお世話になっているお医者さんや訪問看護師さん、薬剤師さん、ヘルパーさんの中にこういう人が一人もいないことに感謝してください。それは奇跡のようなことかもしれないのです。


「余話」をシリーズ化しましたので、インデックスを作ります

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

 2つ前の記事で取り上げた『研究不正』(黒木登志夫、中公新書、2016年4月)をもうちょっと読んでみます。

 こうして「研究不正」という現象を横断的にみることも、いま起きている社会現象としての「小保方晴子さん・STAP細胞」現象をみるうえで助けになります。

 たぶん、この本の著者もそういう読み方をされることを願っていることでしょう。


 まずは、

「小保方晴子さんは、『研究不正』をした人だ」

 この点は、大前提として押さえていただいてよろしいでしょうか。


 単純なミスをしたわけではない、研究不正という、その世界では許されないことをした人だと。どの会社でも重大な就業規則違反をした人は解雇されるように、小保方さんも懲戒解雇相当になっていますが、それは仕方がないのだと。

 4人も有能な弁護士をつけていてもその処分を防げなかったのです。

 それを「ない」ことにはできません。また、他の多数の研究不正事件と比較しても、処分が特別に重いとはいえません。

 問題は、その研究不正の主役である小保方晴子さんが今も奇妙な「国民的人気」があり、本を出すと26万部というそこそこのベストセラーになってしまい(ありがたいことに、26万部から先の増刷はないそうですが。講談社企画出版部にききました)
「W山こそがすべての首謀者だ!小保方さんはハメられた!」
という陰謀論が蔓延している。

※これについては、争点は「ES細胞混入は小保方さんだったのか、それともほかの人か」というところに絞って理解したほうがいいと思います。先日兵庫県警の捜査が終結し、「ES盗難は小保方さんとは特定できない」という結論になったところです。

 しかし、ES細胞混入以外のところで、小保方さんは少なくとも2件のはっきりした「捏造」を認定しヒアリングで本人も認めています。このことは『あの日』には書かれていないだけです。他にも「オリジナルデータの提出がない」だけで不正と認定しきれなかったグレーの箇所が10数か所もあるわけです。

 『あの日』だけを読んでこうしたほかの重要な資料を読んでいない人だと、小保方さんのしたことの「重さ」は、想像がつかないと思います。普通の社会人の規範の世界からしてもどれほどかけ離れたことをしてしまった人か、ということが。

 たとえば、銀行の美人営業ウーマンがとってきた融資案件の大半が捏造で架空の顧客だったとか、美人編集者が、著者が遅筆なので勝手に自分がどんどん書いちゃったとか美人記者がとってきた特ダネが大半は捏造だったとか、美人看護師が患者のバイタルを見ていたが記録は大半が捏造だったとか美人教師の担任するクラスは学年トップの成績だったが生徒の成績の大半は捏造だったとか。あとどんな例えがあるでしょうねえ。。。


 さらに追加で「STAP細胞はある!」等の情報をどんどん出してくる。数日たってガセとわかるがその都度騒然とし、「やっぱり日本のマスコミや科学者はウソをついている!」的な「空気」ができてしまう。


 そういう「研究不正」をした人が「アイドル」になっているという現象が、わたしたちの社会に何をもたらすでしょうか。

 職場では、規律規範はどうなるのでしょうか。

 たとえばわたしと同世代くらいの部長級の人が、小保方さんのことをうっかり「可愛い。きっと無実だ」と思っていたとき、その部下の中の可愛い容姿の女性が何かのミスや改ざんをして、ちょうど小保方さんと同じような言い訳を部長に言ったとします。
 つい、クラクラッとならないでしょうか。直属の上司の課長や係長に
「君、厳しすぎるんじゃないか。A子さんに何か含みでもあるのか。A子さんはだれかにハメられたんじゃないかあ?」
と茶々を入れたりしないでしょうか。

 わたしと同世代の男性って、やりそうなんだよなあ、そういうこと。

 それはしかし、もう「乱倫職場」って言われても仕方ないんですけどね。周りの従業員のモチベーションは下がりまくりますね。A子さんが仮にお追従上手の男性でも同じです。


 「行動承認」は「論功行賞」「信賞必罰」や「理非曲直」など、昔から日本のマネジメントにあった四字熟語の体現だ。

 というようなことを、これはまだ本には書いていなかったですが、講演などでは時々言います。

 それでいえば、「小保方さんは不正をした人」だ、ときっちりいうのは、「理非曲直」の側面を出すということです。

 それはもう、研究の世界では「判決」が出ていることなので、小保方さんもそれに異議申し立てをしていないので、仕方ないのです。「一方の意見だ」というレベルの話ではありません。

 沢山ある研究不正事件のひとつとして、教訓を学びとり、過去のものとして前に進むのが正しいのです。


 これも少し余談になりますが、
 「罰」は、存在しないといけない。「罰」の存在しない世界はやりたい放題になり、結果的に人が離れていく。

 そういう「罰」の効用を言ったのが、わたしのよく参照する本『経済は競争では繁栄しない―神経化学物質オキシトシンの効用』です。本全体でいう「共感」「信頼」の効用とは真逆のことを言っている箇所ですが、「罰」はやはり、社会の維持のためにスパイスとしてないといけないのです。

 詳しくはこちらの記事を参照

わが国ではハグはちょっと―じゃあ、どうする?神経化学物質オキシトシンの知見『経済は「競争」では繁栄しない』
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51889965.html

 この記事の上から3分の1ぐらいスクロールしたところにこんな一節があります:

 ●「公共財ゲーム」を使った実験では、厳罰主義のクラブBは最終的に大金を稼ぎ、やりたい放題のクラブAの資産はゼロになった。善に報いるだけでなく悪を制裁することによって向社会的行動を奨励する制度が最高の見返りをもたらすことがはっきりした。

 
 ですね。
 わたしも「承認」をいう人なので、どんなことにも「承認」で対応して仏様のように振る舞うべきだと主張している人のようにみられがちなのですが、これはNOです。わるい行動に正しく「罰」を与えることは、承認のコインの裏表のようなもので、必要なことなのです。その部分がなかったら逆に「承認」も言えません。


 
 もうひとつ『研究不正』の本でおもしろかったのが、研究不正をおこなう人の年齢です。
 簡単に言うと、功成り名遂げた教授もやるし、若い研究者、小保方さんぐらいの歳の研究者もやる、ということです。
 42も事例を出してくれて横断してみると、小保方さんが不正と断罪されて処分されたことが、若いからといって決して「トカゲのしっぽ切り」だとはいえない、ということがわかります。若い人は若い人で、ちゃんと不正をしたくなる動機があります。それを正しく処分しないようでは困るのです。


・事例5 論文盗作事件のエリアス・アルサブチは発覚当時、26歳。
・事例6 スペクター事件のマーク・スペクターはコーネル大学の大学院生(博士課程?)
・事例7 ハーバード大学不正事件の主役は33歳の循環器内科医のダーシー。
・事例12 有名な「シェーン事件」のシェーンは31歳。
・・・

 こういう若い人主導の研究不正を、この本では「ボトムアップ型研究不正」と呼んでいます。

 とりわけ、近年ではアメリカ留学中の日本人の大学院生、ポスドクの人がおこなう不正が急増しているようです。「アメリカで認められたい」という気持ちが勝ちすぎるからでしょうか。

 たまたま、日本では研究室を主宰する「おじさん」教授が主体で不正を行ったケースが多かったので、「不正をやる人=おじさん」という固定観念が、わたしたちに刷り込まれているだけなのかもしれないんですね。小保方さんは、『あの日』でその固定観念(=いわばヒューリスティック)をうまく使い、「若山先生が主犯よ!だっておじさんなんだもん!」というイメージを作ることに成功したともいえますね。

 
 この本では、上記の事例6「スペクター事件」事例12「シェーン事件」とSTAP事件の3つを表にまとめ、その共通項を比較したりしています。(ご興味のある方はこの本をお買い求めください)


 さあ、いかがでしょう。

 「小保方さんは若くて可愛いのに、可哀想」
という幻想は、覚めましたか?


 

 最後に、やはり「教育」にどう影響してくるのか、ということも考えたいところです。

 小学校高学年ぐらいから、理科の実験がはじまり、「レポートの書き方」も教えられると思います。
 実験の目的、手順、材料、結果、考察、などを書くよう指導されると思います。

 ところが、それを全然ちゃんとやっていなかったのが小保方さんのあの実験ノートなわけです。

 ハーバードなのに。理研なのに。

 もちろん、もっと上の年代の「科学者教育」に携わる人たちにはさらに頭の痛いところでしょう。緻密に地道に、手順を覚え1つ1つ積み重ねてデータをとっていく…基本の倫理が崩れてしまいます。

 
 だから、「小保方さんOK」にしてしまうと、社会の隅々まで変てこりんなことになってしまうんです。

 前にも書きましたが、うっかり小保方さんに肩入れした人たちは、思考法全般が「変てこりん」になっていきます。事実、情報の評価が歪み、おかしなセンセーショナルな情報に流され、多数の良心的な人々の気持ちを思いやることなく小保方さん中心にものを考えるようになります。
 そんな人が今からも増殖する気配があります。


 わたしは、そこで「社会にたいするむだな責任感」を抑えられるかというと。。。


 

結局シリーズ化したので、インデックスを作ります

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの(本記事)


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

 前回の記事で、『あの日』に関して批判的解読をするのは、できればおさぼりしたかった、という意味のことを書きました。教育分野の「ダメなベストセラー」の批判の作業だけで手いっぱいだった。『あの日』に関しては批判的なレビューを書いている方も多数おられるので、その方々の良識に任せたい。

 ・・・と思っていたのに、なぜ結局ブログで15回もの連載をやり、Kindle本まで書くことになったか?


 それは、たぶん、「この問題で科学者・科学ジャーナリストの言葉に残念ながら説得力がない」と感じたからです。

 ウソだ、とは言わないです。彼ら・彼女らは正しいんだけど、一般の人の心に届く言葉が言えていない。


 ひとつの例として、今月19日に出たばかりの『研究不正―科学者の捏造、改竄、盗用』(黒木登志夫、中公新書)という本を読んでいます。

 著者は1936年生まれ、元東大医科学研究所教授。
 STAP細胞事件がこの本の出版の動機だ、と著者自身述べているように、全部で42の研究不正の例を集めていますが、中でもSTAP事件は事例21として大きな紙幅を割いています。これ自体は、大変な労作です。わたしのKindle本なんか比較にならない。資料的価値のある本といえるでしょう。

 その中のSTAP事件に関する記述をみてみましょう:


STAP細胞は、ねつ造、改ざん、盗用の重大研究不正をすべて目いっぱい詰め込んだ細胞であった。はなばなしい発表からわずか11か月で、そのような細胞が存在しなかったことが明らかになり、わが国の名誉を傷つけた末に、消えていった。(p.ii)


 HOは、STAP細胞発表から2年後の2016年1月、『あの日』という本を出版した。自らを正当化し、若山照彦にすべてを押しつけようとする作為的な内容である。彼女は、ES細胞の混入を「仕掛けられた罠」として否定している。(p.124)



 いかがでしょうか。
 これが、科学界の標準的な小保方さんに対する見方です。きついでしょう?

 それは、一般には知られていないそう信じるべき根拠があるから、そうなのです。つまり、わたしの本にも書きましたが、理研の再現実験報告書であったり調査報告書であったり、昨年9月ネイチャーに載った「世界で133回追試して再現されなかった」という報告であったり。

 ところが、それら通常なら「決まり。ここで議論打ち切り」になるような資料があまり存在も知られず参照されず、中には「陰謀だ」とまで言われる困った状況が、STAP騒動にはあります。

 とりわけ今年になってからの状況では、真偽不明の小保方さん側が出す情報だけがネットでセンセーショナルに取り上げられ、リツイートされ、マジョリティになってしまう。


 科学者の言葉が通じにくくなった。少なくともこの問題に関しては。
 

 もうひとつ例を挙げると、こちら

「STAP騒動『あの日』担当編集者に物申す」(2016年2月27日)

>>http://bylines.news.yahoo.co.jp/takumamasako/20160227-00053974/


 STAP騒動について初期から発言してこられた、科学ライター詫間雅子氏の記事。

 これも、正しいことを言っている記事です。なのだけれども、実は『あの日』という本でやっている多数の欺瞞を指摘していると、とくに記事1本ぶんの短い文章では、「怒り炸裂」のトーンになってしまうことを免れない。

 そして「怒り炸裂」トーンになると、読者がついてきてくれなくなってしまう。
 本当に初期から小保方晴子さんの一連の言動の異常さがわかっていて、今も記憶に残っている読者なら、この記事に共感できるでしょう。
 でもそうではない、2年前の研究不正報道、出るもの出るものウソだらけだったという衝撃がすでに記憶のかなたになり、今は小保方さん側の出す情報の妙な「感情的説得力」に感化され、ひょっとしたらこちらが正しいのかな?と思い始めている普通の社会人は、共感できるかどうか疑問です。
 せっかく、正しいことを言っていても。


 どんなに正しくても、この件は、「伝え方をえらぶ」と思いました。相当、考えた伝え方をしないといけない。


 そこでわたしが選択したのは、

「読者のあなた」

をつねに主語に置く、ということでした。

 あなたのことなんですよ。あなたの身近にもこういう人いるでしょう。今仕事を頑張っているあなたなら、同情しなくていいんですよ。

 これは例の、「内側前頭前皮質」というやつです。ご興味のある方はこのブログの検索窓にこの言葉を入れてみてください。


 いや、成功しているかどうかわかりませんよ。Amazonレビューでは、「科学者にきかなくては意味がない!」と書かれましたね。・・・最近うんざりして、みていません・・・

 しかし、科学者・サイエンスライターの方が書いたとしても、説得力をもてるかどうかは疑問なのです。この件に関しては。
 書く人と書き方をかなりえらぶ、というしかないですね。



 
 上述の『研究不正』という本からの引用の続きです。



 (STAP事件の)何よりも深刻な影響は、人々が科学と科学者を信頼しなくなり、わが国の科学が世界からの信用を失ったことである。自らの研究に誇りをもち、一生懸命研究を行っていた研究者にとって、これほどひどい仕打ちはない。(p.125)


研究不正の基本にあるのは、周囲からの様々な圧力、ストレスに加えて、競争心、野心、功名心、出世欲、傲慢さ、こだわり、思い上がり、ずさんさなど、われわれ自身が内包しているような性(さが)である。そのような背景は、社会的な不正と共通している。(pp.287-288)


 わが国は、いつの間にか、研究不正大国になってしまった。…そして、わが国の研究不正は、2014年にピークを迎えた。
 しかし、2014年の不幸な事件は無駄ではなかった。…STAP細胞事件の影は、今でも、われわれ研究者の心に、重くのしかかっている。しかし、われわれは、2014年の不幸な事件を共有し、不正のもつ重大な意味を再認識し、立ち上がろうとしている。その意味で、STAP細胞事件の主役HOは反面教師として偉大な存在であった。(p.289)




「余話」を結局シリーズ化しました

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの(本記事)

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

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