正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

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画像財政から読みとく日本社会

 『財政から読みとく日本社会――君たちの未来のために』(井手英策、岩波ジュニア新書、2017年3月)を読みました。

 気鋭の財政社会学者の本。このところ著者は若者向けの本の執筆が増えています。この本は大人にもわかりやすく日本財政の「これまで」と「いま」を解説してくれますが、日本独特の寒々しい現状をいやでも再認識させられます。

 若者という読者を想定しているためか、印象的な呼びかけのフレーズがたくさんあります。

「この本は君たちだけの本ではありません。まだこの世に生を受けていない、君たちの次の世代の子どもたち、つまり、将来の若者たちが大人になった君たちとつながり、ゆたかな将来を見とおすことができることを願って書かれます。」

 財政とはそれぐらい気の長いいとなみだ、それを国民にわかってもらうことに歴代内閣は成功してこなかったが著者はあえてその困難に挑もうとしているのだ、と知らされます。

 
 日本の財政と社会を読みとくキーワード、それは「勤労国家」であり自己責任社会だ、と著者はいいます。

「『勤労国家』の枠組みのなかで大切にされたのは、自助努力や自己責任でした。勤労にはげみ、所得を増やして貯金をする。子どもの教育費、病気や老後へのそなえ、住宅の取得、将来の人生設計を自分でおこなう自助努力と自己責任の社会。それを『奥さん』、コミュニティ、企業がささえる社会。これらの条件が小さな政府を可能にしてきたのでした。」

 だが「勤労国家」にはひとつの大きな前提があった。それは経済成長。バブル後、この土台が崩れ、「総額に気をつかう財政」という日本財政の特徴が再登場した。増税もままならないまま、さまざまな「ムダ」を発見し、これを批判しては削り、増えていく社会保障の穴を埋めた。そこでは公共投資、特殊法人、公務員や議員の人件費、地方自治体への補助金、生活保護の不正受給、震災復興予算と、次から次へとムダ使いのレッテルがはられ、削減や抑制の対象とされていった。

 著者はこれを「袋だたきの政治」と呼びました。じつは、このような袋だたきの対象となっているのは、地方や低所得層といった社会的に弱い地域、弱い人たちです。都市部へと人口の集中が進み、中間層が貧しくなっていくなかで、こうした弱者へのやさしさが少しずつうしなわれていった、といいます。

 生活保護費の不正な受給は全体の0.4%程度なのに、多くの人々は受給者を疑いのまなざしで眺め、メディアも不正受給があたかも日常茶飯事であるかのようにとりあげる。

「この本のなかで何度も考えてきた痛税感、租税への抵抗は、仲間とは思えない『他人』に対して税をとられることの痛み、反発なのかもしれません」


 このあと著者は居住地の小田原市のあるエピソードから、「税とは共感なんだ」と学ぶ。
 共感は――、ホルモンの働きからいうと「信頼」とも言い換えられる。「スピード・オブ・トラスト」、信頼社会の意志決定のはやさはいろいろなところで経験する。小さいサイズの自治体であると、それはできやすいかもしれない。

 著者は信頼感の低いわが国社会を背景に行き詰まる財政の突破口として、「だれもが受益者」という財政戦略を挙げる。貧しい人だけに〔再分配」するのではなくお金持ちも受益者にすることによって、格差は和らぐという。大きな財政となり増税は当然避けられないが、所得制限をなくして受益者の数を増やしている国では、総税収が大きくなるのだという。

 財政とは「必要」と価値判断、哲学の思惟のかたまりなのだ。またそのよってたつ社会を映す鏡なのだと、この分野に疎いわたしにも刻みつけられました。

 もういちど著者の印象なことばを、あとがきから。

「このくたびれた社会を君たちにゆずりわたす瞬間、それは僕たちが『歴史の加害者』になる瞬間です。歴史の加害者になるのは簡単です。ただだまって見ていればよいのです。傍観者になりさえすれば、君たちはこの生きづらい社会をさらに生きづらい世の中にし、次の世代の子どもたちにそれをあっさりと『受け伝え』ていけることでしょう」

 分野こそ違え、おおいに共感することばだった。

本当は間違っている心理学の話画像

 『本当は間違っている心理学の話――50の俗説の正体を暴く』(スコット・O・リリエンフェルド他、化学同人、2014年3月)を読みました。


 ワイドショーなどで「心理学」をおもしろく扱ったコーナーが受け、そこで言葉巧みに語る見た目の良い心理学者に人気が集まるのは、このところ日本でもお馴染みの光景ですがアメリカのほうが一歩先を行っているよう。そこで間違った心理学知識が流布していることに危機感を抱いたまじめな心理学者の側からの本です。


 アメリカの「通俗心理学」を初めて広く見渡した本。筆頭著者のスコット・リリエンフェルドはエモリー大学の臨床心理学教授で、人格障害の原因、精神疾患の分類と診断基準、エビデンスに基づく診療の推進などのほかに、心理学の哲学、科学的思考法、疑似科学などを研究している人だそう。


 一般人にわかってもらいたい仕事のためか、「ですます」体の訳文で平易に書かれています。「(愛着のある)常識に反することをわかってもらう」という仕事のむずかしさ、私もつとに経験するので頭が下がります。

 
 この本によると――。

 
●通俗心理学の神話レベルの多くのものは、人間の特性についての誤解を生むだけでなく、日常を生きていくのに賢明でない、間違った決定を招きかねないのです。

●問題は、通俗心理学産業が科学的証拠に基づくような顔をして、助言をまき散らすことなのです。たとえば、ある有名なトークショーに出ている心理学者はいつでも恋愛関係では「こころの流れに身を任せよ」と強いています。たとえこの助言が人間関係をダメにしてしまう場合にでも、そう助言するのです。

●私たちは全員いわば心理学者である。友人、家族、恋人、見知らぬ嫌な奴らをどうすればよいか理解しようと努め、彼らがすることの理由を理解しようという気持ちに駆られます。

●通俗心理学には十分に支持できる主張もありますが、一部の主張はそうではないというのは困ったことです。

●私たちが心理学神話にいとも簡単に誘惑されてしまう理由は、それが常識をもてあそぶところにあります。予感や直感、第一印象などを揺さぶるからなのです。

心理学神話は有害でもある。
 経済学者は、「機会費用」とは、人間が有効でない処置を求めることで真に必要な援助が得られる機会を逃してしまうことをいう、としています。たとえば、意識下で作用する自己啓発テープが体重を落とすのに有効であると間違って信じている人が、時間、お金、努力を有効でない無駄な処置に費やしてしまうことをいいます。その人たちは実際に価値のある、科学的な基礎を持つ体重提言プログラムを見逃してしまうことになるのです。

心理学神話を受け入れるとほかの分野でもきちんと考えることができなくなる。
 たとえば心理学のような科学的知識の一つの分野で、現実から目をそらして神話と区別しなくなると、現代社会で遭遇するさまざまな、非常に重要な分野での嘘から事実を見分けることもまたできなくなってしまうのです。…知識は力であり、無知は無力なのです。

――これですねー。わたしが間違った言説が流布することにやたらとイライラする理由は。それらを信じる人たちとは、永遠に同じものを見て同じ結論に達する基盤が失われるということですから。そしてまた近年のイライラの種は、「子どもをどう育てるか」についてあまりにも隔たりがあることであります。可哀想なのは子どもさんです。


●神話の正体を暴くことはリスクも伴います。ときには、間違った考え方をただすことが、かえってその考え方がもっともらしいと誤解するような逆効果をもたらします。というのも、人びとは発言そのものよりも「警告タグ」を記憶していることが多いからです。

●幸い、心理学の学生はたとえば「われわれは脳の10%しかその能力を発揮していない」というようなことは心理学的に間違っていると、心理学の授業をとっていない学生よりも理解しているという研究があります。教育は人々の中にある心理学神話の間違いを減らすことができるという望みを与えてくれるものです。


 そしてこの本は、日常生活の中で心理学的な主張を上手に評価するのに大切なのは「批判的思考」であること、心理学的な話を決してすぐには受け入れないこと、いつも精査する、自分がこれは正しいと思っていることに疑問を投げかけることを勧めています。
 
 この本が扱った「50の神話」のタイトルを抜き書きしておきましょう:

神話1 人は脳の10%しか使っていない
神話2 左脳人間と右脳人間がいる
神話3 超感覚(ESP)は科学的に確立された現象だ
神話4 ものが見えるのは、眼から微細な物質が出るからだ
神話5 サブリミナル効果でものを買わせることができる
神話6 モーツァルト効果で子どもの知能が向上する
神話7 青年期は心理的に不安定な時期である
神話8 40代から50代前半に中年の危機が訪れる
神話9 高齢者は不満が多くなり、心身ともに衰えが増す
神話10 余命を知ると、誰もが同じ心境の変化を経験する
神話11 人は過去の出来事を正確に記憶している
神話12 催眠術で忘れた記憶を取り戻せる
神話13 トラウマ的な出来事の記憶は抑圧される
神話14 記憶喪失者は過去の人生をすべて忘れる
神話15 IQテストは特定の人には不利になる
神話16 試験に自信がないなら、最初の直感を信じるのが一番
神話17 ディスクレシア(読み書き障害)の特徴は逆さ文字である
神話18 生徒の学習スタイルに合った指導で最高の学習効果が得られる
神話19 催眠は目覚めているのとは違う「トランス」状態である
神話20 夢には象徴的な意味がある
神話21 睡眠学習は効果的な方法である
神話22 体外離脱体験の間、意識は身体から離れる
神話23 嘘発見器は確実に嘘を見破る
神話24 幸せは生活環境で決まる
神話25 潰瘍の原因はストレスだ
神話26 ポジティブ思考でガンを克服できる
神話27 自分とは違うタイプの人に惹かれる
神話28 緊急時、数多ければ安全である
神話29 男女のコミュニケーション方法はまったく違う
神話30 怒りは抱え込まず発散したほうがよい
神話31 同じ環境で育てられた子どものパーソナリティは似ている
神話32 遺伝的な特性は変えることができない
神話33 自尊心の低さが心理的問題の原因だ
神話34 幼児期の性的虐待は、深刻なパーソナリティ障害を引き起こす
神話35 ロールシャッハ・テストでパーソナリティがわかる
神話36 筆跡にはパーソナリティが現れる
神話37 精神医学的診断名は差別のもとになる
神話38 自殺するのは重いうつ病患者だけだ
神話39 統合失調症患者は多様なパーソナリティを持つ
神話40 アルコール依存症の親を持つ子どもはすぐにわかる
神話41 幼児の自閉症が急増している
神話42 満月の日には精神病院への入院と犯罪が増える
神話43 精神病の人は暴力的である
神話44 犯罪プロファイリングは事件解決に役立つ
神話45 犯罪者の多くは心神喪失で罪から逃れようとする
神話46 自白する人は実際に罪を犯している
神話47 臨床場面で一番頼りになるのは専門家の判断と直感だ
神話48 アルコール中毒の現実的な治療法は禁酒である
神話49 幼児期の問題に対峙させる心理療法は効果がある
神話50 電撃(ショック)療法は残酷で身体にも悪い

 本文が330pの本なので全部を丁寧に読んでいないのですが…、個人的におもしろかったのは神話37「精神医学的診断名は差別のもとになる」という神話のくだり。とくに子どもさんがADHDと診断されたとき、学校の先生のその子に対する好意の感情がUPしたというのが私的にはヒットでした。


 アメリカの「良心的な心理学者」の仕事。リリエンフェルドの仕事は同業者のキース・E・スタノヴィッチ(『心理学をまじめに考える方法』の著者)からも賞賛されていました。さあ日本にはこういう仕事をする心理学者はいるのかな…。


 

サイコパス 表紙

 『サイコパス』(中野信子、文春新書、2016年11月)。


 読みやすい文体だが、以前に読んだロバート・ヘアの『診断名サイコパス』より新しい知見がふんだんに入っている。今の時点でこの分野のスタンダードとしてチェックしておこう。


 「ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。ウソが完全に暴かれ、衆目に晒されても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。それどころか、「自分は不当に非難されている被害者」「悲劇の渦中にあるヒロイン」であるかのように振る舞いさえする。
 残虐な殺人や悪辣な詐欺事件をおかしたにもかかわらず、まったく反省の色を見せない。そればかりか、自己の正当性を主張する手記などを世間に公表する。
 外見は魅力的で社交的。トークやプレゼンテーションも立て板に水で、抜群に面白い。だが、関わった人はみな騙され、不幸のどん底に突き落とされる。性的に奔放であるため、色恋沙汰のトラブルも絶えない。
 経歴を詐称する。過去に語った内容とまるで違うことを平気で主張する。矛盾を指摘されても
「断じてそんなことは言っていません」と、涼しい顔で言い張る。
 ――昨今、こうした人物が世間を騒がせています。」


――たしかに、たしかに。
 では、この本で新しくわかったことをご紹介します。

●サイコパスは研究によってはアメリカの全人口の4%にものぼる(診断基準による)。およそ100人に1人ぐらいとして、日本人のうち約120万人はいる計算になる。

●サイコパスにもグレーゾーンがあり、症状のスペクトラム((連続体)をなす複合的な障害。


●サイコパスを見た目で判別する方法。
 顔の縦と横の長さの比率を比較して横幅の比率が大きい男性ほどズルをする傾向があり、サイコパシー傾向が高い。男性に比べて女性ではあまり相関関係がなかった。

●心拍数が低いと暴力や反社会性につながる。モラルに反する行動をとっても心拍数が上がらないから?
 不安を感じにくいため、サイコパスは、一般人よりもまばたきの回数が少ない。

●サイコパスは相手の目から感情を読み取るのは得意。

●サイコパスは他人の恐怖や悲しみを察する能力には欠ける。
 サイコパスにとって他人の感情を知ることは、学校の国語の試験問題を解いているようなもの。

●サイコパスが重視する道徳性は、「共同体への帰属、忠誠」「権威を尊重する」「神聖さ、清純さを大切に思う」。一方で「他人に危害を加えないようにする」「フェアな関係を重視する」はスコアが低い


●サイコパスは孤独感が強く、職場の環境を「協調し合う場所」というより「競争的なもの」であると捉える。

●サイコパスの反社会行動に関する4つの仮説。〃臟_樟癲閉磴ざ寡欖蕎隹樟癲法´注意欠陥仮説(反応調整仮説) 性急な生活史戦略仮説 ざΥ鏡の欠如仮説

●サイコパスの脳の特徴。
・恐怖を感じにくい。扁桃体の活動が低い
・眼窩前頭皮質(抑制する)や内側前頭前皮質(モラルを感じる)の活動が低い
・扁桃体と眼窩前頭皮質や内側前頭前皮質の結びつきが弱い
・前頭前皮質内側部(VMPFC)が、痛々しい画像を見ても反応しない
・海馬の機能低下。恐怖条件付けの反応が鈍い
・脳梁の容積が一般人と比べて増加

●勝ち組サイコパス(成功したサイコパス)と負け組サイコパス(捕まりやすいサイコパス)の違い。
 勝ち組では背外側前頭前皮質(DLPFC)が発達し、短絡的な反社会行動を起こしにくい。

●昔からいたサイコパス。革命家・独裁者。推測では、織田信長、毛沢東、ロシアのピョートル大帝、ジョン・F・ケネディ、ビル・クリントン。意外なところでは聖女マザー・テレサ。援助した子どもたちには冷淡で、残酷とも思える扱いをしていた。

●歴代の精神科医もサイコパスの存在を指摘していた。
 
●2000年代から、神経倫理学(ニューロエシックス)や神経犯罪学が台頭。19世紀の「犯罪人類学」の祖、チェーザレ・ロンブローゾの骨相学や遺伝学の研究が再評価される。

●反社会性は遺伝するのか。ある研究では顕著にサイコパス的な双子の反社会的行動は、遺伝の強い影響を受けており、要因の81%が遺伝性、環境要因はわずか19%(英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン発達精神病理学教室教授のエッシ・ヴィディングの研究)。

●MAOA(モノアミン酸化酵素A型)遺伝子の活性が低い人は、セロトニンやドーパミンなどの神経伝達物質がなかなか分解されずに残ってしまい、それらの効果も持続するため、つねに浮ついた感じになったり、攻撃性が高くなったりする。

●ADHDの人も、MAOAの活性が低い。

●ドーパミンを大量放出することとサイコパスの特性の相関。サイコパスの診断基準であるPCL-Rのスコアとドーパミンの最終代謝物であるホモバニリン酸の脳脊髄液中の値が高いことは関連している。ドーパミンが多ければ多いほど人間が報酬を求める欲が大きくなるので、大量放出する遺伝子を持つ人は強烈な刺激を求め、犯罪を犯す?

●遺伝とともに環境の影響の可能性。脳科学や神経科学の研究者は「遺伝的な要素が大きい」と判断しがち。社会学者や教育学者は、「後天的な要素が大きい」と判断しがち。

●遺伝と環境の相互作用説。神経科学者ジェームス・ファロンによる、サイコパスの発現についての「3脚理論」。ヾ窿歔案前皮質と側頭葉前部、扁桃体の異常なほどの機能低下 △いつかの遺伝子のハイリスクな変異体(MAOAなど) M直期早期の精神的、身体的、あるいは性的虐待
ファロンはこの3つが揃わなければ反社会的行動をするサイコパスにはならないと指摘する。

●現時点で言えるのは
・脳の機能について、遺伝の影響は大きい。
・生育環境が引き金になって反社会性が高まる可能性がある。

●今からは遺伝情報が当たり前のように取り扱われるようになっていくので、社会制度や法整備、遺伝に関するリテラシー向上をはかるべき。また虐待や劣悪な環境を避けることで反社会性の発現のいくらかは抑えられるという研究があるので、社会全体として施策を行っていくべき。

●サイコパスが人類を進化させた可能性。前人未到の地への探検、危険物の処理、スパイ、新しい食糧の確保、原因不明の病気の究明や大掛かりな手術、敵国との外交交渉など。

●「良心」とは「うしろめたさ」である説。マーサ・スタウトによれば、自然に湧いて出るうしろめたさや心の痛み、善悪や美醜の判断などを担う領域である内側前頭前皮質に良心が存在するのだという。

――内側前頭前皮質、以前にこのブログでは「自己観」と「規範の学習」を担う領域として登場した。善悪や美醜の判断も担うんだそうだ。そういうものも一体なのね。――。

●「サイコパスには良心がない」とは、彼らの内側前頭前皮質が機能不全を起こしているということ。


●倫理や道徳とは、人類が生きていくために後付けで出現したもの。それは脳の発達段階からもわかる。良心をつかさどる前頭前皮質と扁桃体のコネクティビティが他の部分に比べて遅れて発達するということは、進化の過程において絶対に必要な原始的な部位が完成した後に、いわば「建て増し」のような領域としてできた部位だと考えられる。

●サイコパスが生きやすい環境とは、たとえばブラジルのアマゾン南部の先住民族、ムンドゥルク族。男たちは雄弁、恐れ知らずの勇敢さ、戦闘に秀でていることが求められ、日ごろから「俺はこれだけ危険な男なんだ」と大風呂敷を広げてアピールしあう。その他良心の欠如、表面的な愛想の良さ、言葉の巧みさ、節操のなさ、長期的な人間関係の欠如という特徴がある。

●またブラジル北部からベネズエラ南部にかけて住むヤノマミ族は、争いが頻繁に起こる。男性の死因の30%がなんと暴力によるもの。25歳を超える男性の44%に殺人の経験がある。殺人をすることで集団内での地位が上がり、殺人を犯したほうが妻の数も子どもの数も多い。

●対照的なのが南アフリカのカラハリ砂漠の狩猟採集民、クン族。食糧に乏しく生存に困難な生活条件に置かれているため、共同で狩りに行き、成果は平等に分配される。ウソは厳しく禁じられ、一夫一婦制、子どもは一族で面倒をみる。

●男性にはアルギニン・バソプレッシンの受容体の遺伝子のタイプによって、生まれつき愛着を形成しやすい人と、しにくい人の2タイプがいる。後者では妻の不満度が高く、未婚率、離婚率が高い。

●日本は国土面積は全世界の0.25%しかないが、自然災害の被害総額では全世界の約15〜20%を占める。すると集団内での協力体制が強固でなければならない。夫婦はともにいて、子どもに対してもリソースを割くべき。こういう国ではサイコパスは育ちにくく生き残りにくいはず。


●韓国の新聞報道では「サイコパス」の語が頻出する。犯罪者や仮想敵を叩くためのレッテル貼り。伝統的な集団社会から、急速な経済成長で利己的で競争的な生き方が歓迎される社会へとがらっと変わった。頭では他人を出し抜くような生き方に適応しなくてはいけないと分かっていても、情動の部分ではそんな人間は許せないと感じてしまう。その軋轢が、過剰なまでのサイコパス呼ばわりと集団的なバッシングにつながった?

――おもしろい指摘。日本ではサイコパスバッシングというのはきかない。「承認欲求バッシング」がそれに当たるのだろうか……、特定の他人ではなく自分たちの中に普遍的にあるものをバッシングするというのがよくわからない(言っている人は、自分たちの中に普遍的にあるものだという自覚があるのかどうかもよくわからない)

 
●現代ではサイコパスはどう生きているか。口ばかりうまくて地道な仕事はできないタイプが多い。

――以前ブログ読者さんの指摘で、そんな人格の人が会社をひっかき回したお話が出てきたなー

●起業家として成功する勝ち組サイコパス。故アップルの創業者スティーブ・ジョブズはそう。ジョブズの周囲には「現実歪曲フィールド」が発生し、彼の話を聞くものは誰でもコロッと乗せられてしまう、と言われていた。

――なるほど、「驚異のプレゼン」はそうだったのね。

●”起業家のふりをしたサイコパス”(アメリカの産業心理学者ポール・バビアク)
1.変化に興奮をおぼえ、つねにスリルを求めるので、さまざまなことが次々起こる状況に惹かれる。
2.自由な社風になじみやすい。杓子定規なルールを重視せず、ラフでフラットな意思決定が許される状況を利用する。
3.リーダー職は他人を利用することが大得意なサイコパスにもってこい。スピードが速い業界や土地においては、メッキが剥がれる前に状況やポストが次々変わっていくことが幸いする。

●ママカーストのボス、ブラック企業経営者。

●サイコパスはとくに看護や福祉、カウンセリングなどの人を助ける職業に就いている愛情の細やかな人の良心をくすぐり、餌食にしていく。自己犠牲を美徳としている人ほどサイコパスに目をつけられやすい。

●サイコパスはネット上で「荒らし」行為をよくする。

●問題発言やわざと挑発的な言動をしてよく炎上し、しかしまったく懲りずに活動を続け、固定ファンを獲得しているブロガーにも、サイコパスが紛れ込んでいる確率は高いと考えれる。彼らは人々を煽って怒った様子を楽しみ、悪目立ちすることで快感を得る。

――なんか特定の人を連想したが、、、だからこの手の人について、「承認欲求がどうのこうの」という切り口を使うのは間違い。もともと脳の機能が普通ではなくて、ネットの存在で顕在化しただけなのだ。

●いうまでもなく、こうした人物の発言は、真に受けないことです。彼らの脳は、長期的なビジョンを持つことが困難なので、発言に責任を取ることができず、またそのつもりもなく、信じるだけバカを見ます。しばらく観察するとわかりますが、変節に呆れて旧来からのファンが離れた頃に、何も知らない人間が引き寄せられてまた騙され……の繰り返しです。

●オタサーの姫/サークルクラッシャー。後妻業の女。涙を流す女

――このあたりも特定の人をほうふつとさせる。

●サイコパスと信者の相補関係。人間の脳は、「信じるほうが気持ちいい」。人間の脳は自分で判断することが負担で、それを苦痛に感じる(認知的負荷)。また、自身の中で矛盾する認知を同時に抱えて不快感(葛藤)をおぼえると、その矛盾を解消しようと、都合のいい理屈をつくりだす(「認知的不協和」)。何かを信じたら、そのまま信じたことに従い、自分で意思決定しないほうが、脳に負担がかからずラクである。

●ネットでウソの検証手段が増え暴露装置である反面、ネットは同類の人間を即座に結びつけることができるツール。信者同士がすぐにつながり、クラスター化する。いったん信者たちから搾取できる宗教的な構造やファンコミュニティをつくってしまえば、崩壊することはまれ。

――これだなあ。わたしは過去にNPOで会員さんのコミュニティをつくろうと試みたが、わたしがやっているとどんなに頑張っても強固な信者組織はつくれないのがわかっていた。そのように働きかけることに気恥ずかしさがあった。「よそさん」と比べると脆弱だとわかっていた。

●サイコパスの診断法。ロバート・ヘアによる「PCL-R」。DSM-5による反社会性パーソナリティ障害の診断基準。心理学者ケヴィン・ダットンによるチェックリスト。

●サイコパスに治療法はあるか。1960〜70年代から治療不可能という研究が出ていた。これを受けてアメリカの刑事司法は厳罰化に傾くが、それも犯罪の抑止力にはならなかった。

●ある種の心理療法に限定すれば半分くらいのケースではサイコパスにも再犯抑止効果があった。集中的な1対1の治療を受けた群と通常の治療を受けた群では、その後2年間で後者の再犯率は前者の倍以上。

●サイコパス傾向の高い子どもの話を聞く、ほめる、毅然として叱るというやりかたを母親に訓練し実践させたところ、子どもたちがルールを無視するような傾向は減ったという報告(米サザンメソジスト大学のマクドナルドら)。

――これは行動療法プラス構造化ということではないのかな。

●サイコパスの多い職業トップ10。1.企業の最高経営責任者 2.弁護士 3.マスコミ、報道関係(テレビ/ラジオ) 4.セールスマン 5.外科医 6.ジャーナリスト 7.警官 8.聖職者 9.シェフ 10.公務員

●サイコパスの少ない職業トップ10。1.介護士 2.看護師 3.療法士 4.技術者、職人 5.美容師、スタイリスト 6.慈善活動家、ボランティア 7.教師 8.アーティスト 9.内科医 10.会計士

――知り合いにサイコパス的な人は少ないがそのわけがわかった。しかしわたしが親しくないだけで、研修講師にはサイコパスが多いかもしれない。魅力的なしゃべり手というのは。

●サイコパスは、100人に約1人という決して少なくない社会の成員。

●罰をおそれない人間からすれば、反社会的行為を抑制するために作られた社会制度やルールはほとんど無意味。別の手段によってサイコパスの犯罪を抑制・予防する方向へ発想を転換しなければならない。


――サイコパスとの共存。わたしにはほとんど想像すらできない。著者には想像できるのかな。

 ふだんあまり読まない著者だったがさすがに売れっ子、うまくまとめているなあ。

 ともあれ「顔の幅の広い男性」には、気をつけましょう。一番大きな収穫はそこかも。


こんな風にも思った。
「サイコパス」とはほど遠いドンくさいわたしが、仕事の世界を幸せにする手法を編み出しこの歳まで生きてきた。この人生、もうそれで十分ではないか。

認められたい表紙


 ネット時代の「承認欲求」について語らせたら第一人者、Dr.シロクマこと精神科医・熊代亨氏の新著『認められたい』(ヴィレッジブックス、2017年2月28日)が出た。
 表紙の可愛らしい男の子と女の子のイラストの目がまっすぐにこちらを見てくる。(本を読まない時代、「イラスト」の存在は大きいですね。)

 「私は精神科医として、一人のインターネットマニアとして、私自身と他の大勢の人々の『認められたい』気持ちと、その気持ちに引っ張られた人生模様を観察し続けてきました。」
と、熊代氏は書く。
 きわめて大きな切り口だ。ネットで否応なく肥大した承認欲求の観察というのは。
 (アメリカではそれを「ナルシシズム」という文脈で考えているようにみえる)

 わたしはちなみに、承認を長くやっていますがここまで丁寧に「承認欲求」を観察していない。多くの人がそうであるように「承認欲求」の観察というのは気恥ずかしいものだ。自分の奥のほうがくすぐったい感じがする。熊代氏はそれを本書で入念にやっている。自身、精神科の患者さん、そしてネットユーザーと3つの視点で。

 では心に残ったところを抜き書きします。

●承認欲求を持っていない、例外はいるものでしょうか。
 …たとえば統合失調症で長期入院している患者さんのなかには、仙人のような心持で過ごしている人がいなくもないのです。しかし、精神医療の世界でさえそういった人は例外中の例外で、褒められたがりな人にはたくさん遭遇しますが、褒められることに興味の無い人は非常に少ないのです。

●何かを学びたい・身に付けたいと思った時、承認欲求を充たせるか否かはとても重要です。

●承認欲求の時代がやってきた。企業の雇用も流動化する現代には、滅私奉公を良しとする所属欲求の強い心理よりは、他人から褒められたり評価されたりしてモチベーションを獲得するような、承認欲求の強い心理のほうが都合がよかったとは言えるでしょう。

●ネットでいかにも承認欲求を充たしたくて頑張っている人。なにか気の利いた事を書いて「いいね」や「リツイート」を集めたがっているツイッターアカウント、グルメや観光地の写真をせっせとアップロードして「いいね」をもらいたがているFacebookアカウント。ユーザーの褒められたい欲求を充たしやすく、刺激しやすいようなシステム上の工夫。

●変化は2000年代の中ごろから。ネットコミュニケーションは匿名アカウントから個人のアカウントへ。

●情報の真偽には注意を払わない。大半の人は自分がどれだけ褒められ、他人にどんな風に評価されるのかに心を奪われながら使っているのではないでしょうか。


――「承認欲求」の「レベルが高い人」と「レベルの低い人」がいる、と熊代氏。

●レベルの低い人の事例1。始終認められたい、評価されたい。「認められなければならない」があらゆる人間関係に付きまとっていて、身も心も休まる時間がありません。

●レベルの低い人の事例2。大学で演劇部にのめりこみ、次いでオンラインゲームにのめりこんで、そこで目立てるからやめられなくなり、留年確定。

●「承認欲求は貯められない」。この点でお金より食欲に似ている。いっぺんに沢山充たしても定期的に充たさなければ、じきに飢えてしまう。また注目や承認を繰り返していると、充足感を実感するためのハードルが高くなってしまいがち。

――食欲の比喩はまた出てきましたね

●承認欲求が低レベルな人の類型。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)承認欲求が強すぎる人 3)褒められ慣れていない人 4)褒められどころの“目利き”が下手な人 5)承認欲求が承認義務になってしまっている人。

――こうした類型を知っておくと、実際にそうした人に遭遇したときに役に立つ。本書では熊代氏独自の類型が多数でてくるが、その思考の緻密さに驚く。

●承認欲求を充たすにはどうしたらいいか。オンラインゲームに時間をつぎこむ、Youtube等で肌をさらす、ホストクラブやキャバクラに行く。そうした充たし方は代償が大きすぎ、お勧めしない。

●承認欲求の充たし方が上手な人は、「褒めたり評価してくれる人にきちんと“お返し”をする」能力に長けている。40代〜50代の人たちにはこういう人がゴロゴロいる。

――うちの受講生さん方などはこういう人たちだろうな。

●承認欲求を抱えているのは自分ひとりではない以上、自分だけではなく、周りにいる人達も承認欲求が充たされるような、いわば認め合いのエコサイクルを成立させるほうが、結果として幸福な状態を維持しやすいはずです。

――「認め合いのエコサイクル」いい言葉だ。
 わたしが本を書くばあいは、出発点がここから始まる。対象者はいつも大体40代以上の管理職だ。その人たちにここまで「承認欲求」について話してあげることはしない。
 なぜかというと、やや言い訳めくが、「認め合う」ことを実現するためには「認める」という行為をしなければならなくて、その行為にもそれなりに練習が必要なのだ。40代以上の男女は、仮に会社で言われたから、マネジメントを上手くいかせたいからといった即物的な動機でもいい。まずは「認める」ということにスポーツトレーニング的に取り組んで欲しいのだ。細かいことはそのあとで「つかんで」もらえるだろう、と思っている。ただしそうやって彼(女)ら自身の学習能力に期待ばかりしているので、わたしはここまで丁寧に言語化する作業をおこたってきた。

●私は、承認欲求を“独り勝ち”的に充たせる状況を夢見るのは、危なっかしいと思っています。…私には、街でまずまず幸せそうに暮らしている人達の大半は、自分ばかりが褒められたがる人ではなく、周囲の人達と認め合える関係をつくりあげている人にみえるのです。


●昔の日本人は所属欲求で回っていた。承認欲求のレベルの高い人の例、家ではマイホームパパであり会社の付き合いも上手にこなす。所属欲求と承認欲求を両方うまく使っている。

●社会のすべての人が自分自身が褒められること・評価されることでしか心理的に充たされなくなったら、どうなってしまうだろうか。部分的にはそうした世界がある。お受験にわが子を駆り立てる親などもそう。

――『嫌われる勇気』の中心読者層が30-40代男女だ、というのも思い浮かべた。恐らく「自己啓発本のヘビーユーザー」と「お受験親」がまじりあっているであろう。お受験も、みんながみんな勝者になれるわけではなく、国立小を目指しても倍率は5倍だから5人に4人は敗者になる。そんな負け気分のとき、「人生の悩みは対人関係の悩みである」「他人の評価を気にする必要はない。承認欲求を否定せよ」の教えには、ほっとするであろう。
 熊代氏はそうしたベストセラーのことを挙げつらってはいないが、部分部分で「ベストセラーの謎」にうまく“回答”してくれている。

●所属欲求には、「自分自身が褒められたり評価されたりしなくても、心を寄せている家族や仲間や集団が望ましい状態なら、それだけでも自分自身の気持ちが充たされ、心強くなる」という性質があります。ほとんどの人間関係が承認欲求だけで成り立っているのではなく、こうした所属欲求も含んでいるからこそ、人間は家族や集団をつくり、お互いを信頼したり敬意を払ったりしながら、長く付き合っていられるのではないでしょうか。

●所属欲求にも、「低レベルな人」がいる。それは「承認欲求が低レベルな人」とも重なるという。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)「ひとりが一番」な人 3)「我々はかくあるべし」と思い込む人 4)完璧な人間を追いかけている人 5)いつも減点法の人

●承認欲求や所属欲求をうまく活かせる人と、そうでない人は、人生の難易度も幸福感も断然違ってくる。人間関係は私たちが思っている以上に、承認欲求や所属欲求のレベルに左右される。

●「認められたい」はレベルアップできる。

●子どもや若者は承認欲求や所属欲求のレベルが低い。たとえば保育園や幼稚園に通っているぐらいの子どもは、自己中心的に出しゃばり、褒められたがるもの。思春期の男女も、“中二病”や“意識高い系”のように安易に自分自身を特別だと思いたがる。

●「認められたい」のレベルアップが進んでいる人は、日常の挨拶などからも、承認欲求や所属欲求を充たすことができる。

●コフートの主張「自己愛は生涯にわたって成長し続ける」

●コフートの考えたレベルアップ―「変容性内在化(transmuting internalization)」、雨降って地固まるの経験。他人に期待した「認められたい」が充たされなくて失望しかけても、その辛さがあとで理解してもらえたり、仲直りして次の機会にはまた気持ちが通じ合えたりするなら、自己愛は成長していく。

●コフートによると、“適度な欲求不満”があるくらいの関係が良い。いつもいつも承認欲求を充たしてくれるとは限らない。

●「認められたい」のレベルアップをしたいなら、“雨降って地固まる”が成立し得る人間関係を大切にし、そのような人間関係に発展する目をつまないこと。多少の摩擦を含んでいても、お互いに「認められたい」をまずまず充たし合えるような人間関係を長続きさせること。

●ネットコミュニケーションを通じてのレベルアップは可能だが、時々会う機会ももつこと。

●認められたいあまり四六時中LINEやSNSにはりついているのは考え物。LINE疲れやSNS疲れに陥りやすく、疲れの蓄積はメンタルヘルスにもよくない。

●思春期の子どもの「認められたい」を親が充たしてやるのは役不足になる。外の関係を築くのが望ましいが、外の関係で傷ついて帰ってくる場合もある。躓いた子供に手を差し伸べられるのはやはり親。この時期の子の親は「裏方」として重要。

●「認められたい」のレベルアップを男女間の関係で行うのは難しい。多くは、「認められたい」のレベルが低い同士がくっついてそれぞれ異なるかたちで「認められたい」を充たそうとする。

●選択の自由が与えられた人間は、意外なほど似た者同士でつるみあう。

●「認められたい」のレベル差を挽回するのに重要なもの。コミュニケーション能力。

●コミュニケーション能力を高めていくときの重要な基礎。
1.挨拶と礼儀作法
2.「ありがとう」
3.「ごめんなさい」
4.「できません」
5.コピペ
6.外に出よう
7.体調を管理しよう
 そして時間をかける。

●友人・家族・会社の同僚との日常的な人間関係で満足している人。コミュニケーション能力は、有名人からではなく、そういう人からコピペすべき。

●ほとんどの人間にとっての幸福は、際限のない承認欲求や、カルト的な所属欲求に支えられるのではありません。もっと身近で、もっと少ない人数で、人間関係の持続期間が数年〜数十年単位の、そういう人間関係が、人間に幸福をもたらします。そのような「認められたい」の繋がりを、世間では「愛」や「友情」と呼ぶのでしょう。

●ヤマアラシのジレンマ。人間関係は近ければ近いほど傷つけあってしまう。

●親子関係のヤマアラシのジレンマ。子育ては核家族単位で行われるため、小学校以上の子どもの面倒まで、親がみる。親子間の距離が近い。「毒親」もそうした背景から生まれやすい。

●親は、子育て一本槍の生活や人間関係を改めて、他の人間関係に「認められたい」の供給源を見出していくこと。

●新しい人間関係ができるたびに相手に急接近してしまい、「ヤマアラシのジレンマ」を繰り返してしまうパターンの人が気を付けたほうがいいのは、「むやみに仲良くならないこと」「新しい関係をむやみに理想視しないこと」。

●あらゆる人との心理的距離を遠くする処世術には、以下のような欠点があってお勧めしない。
1.人と心理的距離の遠い生活をしてきて何かの拍子に近い人間関係を経験すると、距離感がわからなくて心理的距離を詰めすぎてしまい、しんどくなる。
2.スキルを磨きにくくなってしまう。
3.「認められたい」そのもののレベルを上げることも難しくなってしまう。


 抜き書きはおおむね以上。

 本書の中で熊代氏自身言っているように、本書に書かれていることは統計でエビデンスをとったものではなく、精神分析的でもあり、わるくいえば「印象論」である。ただそれが説得力があるのは、氏がきわめて膨大なネット世界の見聞やサブカルチャーの知識を持って発言しているからであろう。

 そこここに独自のパターン帰納がみられ、その観察と分析のきめの細かさに驚く。間違いなく、この分野で後々まで残る1冊となるだろう。

 若者だけでなく、若者を監督したり育成する立場の人、自分自身も承認欲求の使い方が今ひとつわかっていないという自覚のある人には、ぜひお勧めしたい。




信頼はなぜ裏切られるのか 表紙画像

 引き続き『信頼はなぜ裏切られるのか』(デイヴィッド・デステノ、寺町朋子訳、白揚社、2015年12月1日、原題'The Truth About Trust')の読書日記。今回は後編です。

 後半は、「権力はなぜ腐敗するか」「金がからむと人は裏切り者になる」また、「しぐさ心理学の決定版!”この4つ”が信頼できる人そうでない人を決める」(ポップ心理学風に)があります。

 またITと信頼の項目では、ゲームに勝つことを目的に自分のアバターを利己的に改造すると、そのキャラに自分が乗っ取られ利己的でウソつきになる可能性があることが取り上げられています。ちょうど「フェイクニュース」拡散が大学生の仕業だった、などがわかってきたときに、「IT、ゲームと信頼にかかわる人格変容」を考察した気になる箇所です。

 全体の目次は以下の通りで、このうち第1〜4章の内容は前編でとりあげました。こちらの記事でどうぞ。

第1章 信頼とは何か?
第2章 無意識が支配する
第3章 赤ちゃんは見ている
第4章 恋愛と結婚の核心
第5章 権力と金
第6章 信頼のシグナル
第7章 操作される信頼
第8章 あなたは自分を信頼できる?
第9章 信頼するか、欺くか

 それではいよいよ、第5〜9章の内容です:

●信頼は、他者を頼らなくてはならない人にとって生き延びるための手段である。

●最下層に分類された車種のドライバーは一人残らず車を止め、研究者に横断歩道を渡らせてくれた。中間層では、ドライバーの約30%が法律を破り、車を止めないで研究者の行く手を遮った。そして最上層(フェラーリ)では、ドライバーの約50%が法律を無視して自分の都合を優先させた。

●社会階級の高い人はウソつきにもなる。採用面接の実験では、これから面接する求職者が少なくとも2年以上の雇用期間がなければ仕事に就くつもりがないことを知っておりその仕事が6か月で終わることになっているとき、雇用主の社会階級が高いほど、その仕事が短期間で終わることを隠す人が多かった。

●社会階級の高い人びとのほうが、他者の犠牲によって自分の利益を増やす行動を容認しただけでなく、自分もそうふるまう可能性があると答えた。

●社会階級の高い人びとの信頼度が平均的に低いのは、彼らの育ちのせいではなく、この瞬間に消費できる資源を持っているからだ。信頼度を生み出すのは、自分には他者が必要だという感覚である。独りでは望む目標を達成できないという感覚だ。

●人の信頼度は生まれ育った社会階級によって決まるのではなく、現在、周囲の人々と比べたときの自分の位置によって決まる。

●自分の権力や社会的地位が上だと感じた参加者――社会階級の低い人と比べたばかりの人びと――は、それとは反対に感じた参加者よりも、ボウルからかなり多くのキャンディーを取った(食べたければキャンディーを1つとってもいいと言われていた)

●人は権力を得ると不誠実になるだけでなく、ぬけぬけと嘘をつけるようにもなる。高い地位の盗人群――短時間、ボスの役になった人びと――は、平気で面談者に嘘をついた。じつは、高い地位の盗人群では、実験前に面談者から「嘘つき」に分類された人はほとんどいなかった。ちょっとした地位の変化が彼らに自信を与え、利己的な嘘つきにしたのだ。

――「テストステロン」は地位上昇に伴って出るという。本書では触れていないがこの人たちはテストステロンが出たのだろうか。

お金がそばにあるだけで、人をだます傾向が高まり、信頼度が低下する(ハーヴァード・ビジネススクールの行動経済学者、フランチェスカ・ジーノの研究)。現金7000ドル以上が机に積んであったグループでは、アナグラム問題の採点におけるごまかしは大幅に増えた。

お金のことを思い出させたりするだけで、人びとが自分中心になり、仲間との社会的な交流より自己充足を重視する。ミネソタ大学カールソン経営大学院のキャスリーン・ヴォースの研究)。お金があるという考えを実験参加者に強調すると(お金を見せたり、お金について書いてもらったりすると)、対人行動に劇的な違いが出る。お金を目立たせると、人びとは、助けを求められても積極的に支援しなくなるうえ、自分が困難な課題にぶつかったときに、他者の助けをm止めるのをためらうようにもなった。お金があるというシグナルは、自力本願の気持ちを強め、助けを求める他者や協力の意向を示す他者の拒絶につながるのだ。

●お金と社会的近接性の実験(ヴォース)。社会的近接性とは、他者とどこまで近づきたいかという感覚で、相手との関わり合いへの意欲を示す指標。二人の人間の距離は、交流したいという気持ちが強いほど近くなる。実験から、お金を思い起こさせるものがあれば、人びとが互いに離れて座ることを見出した。

●お金が社会的嗜好に及ぼす影響(ヴォ―ス)。参加者はこれから与えられる難しい課題を誰かと一緒にするか、一人でするかを選ぶように求められた。人はふつう、楽しくない課題では協力したがるが、(お金の絵を見せられるなどして)お金のことを思い出させられた参加者では、それ以外の参加者よりも、単独作業を選ぶ割合がかなり高かった。彼らは、成果を分け合うことや、成果を出すために他者を頼ることを嫌がったのだ。

――このくだりが本書の一番の「きも」。昨年初め、『「学力」の経済学』という本について「教師も子どももカネで釣れ、というおそろしい思想だ」とわたしは批判したのだが、カネで釣ってはなぜいけないか。ウソつきになるし人と助け合わない一匹狼になるし、と「人格面」でのよくない影響が出るということがちゃんと研究されているのである。教育経済学という狭い分野の知見だけで判断してはいけない。

――もうひとつは、アドラー心理学はじめ行動主義に対するアンチの言説をみると、結局かれらは「おカネによる報酬」を批判しているのではないか、そこだけをピンポイントで叩けばいいのにほめる(精神的報酬)までもを批判してしまっているのではないか、という気にもなる。


●権力者は信頼を重視しないが、「人を信頼するのはよいことだが、信頼しないのははるかによいことだ」と言ったベニート・ムッソリーニは最終的にどうなったか。処刑されたのち、遺体はミラノのガソリンスタンドの柱に逆さ吊りにされた。

●専制君主、上流階級の子孫、PTAの会長などは多くの場合、階層的地位が高いおかげで、社会的責任を果たす場面で制約を受けないように感じる。ほかの人びとは彼らの指示を聞かなくてはならないので、彼らは通常、反撃を恐れずに自分の短期的な目標を達成できる。つまり、他者を信頼しなくてもよく、他者に指図できる。

●だが、こうした統率戦略には、暴力や恐怖による強制力を何度も行使して地位を維持しなくてはならないという問題がある。そのため、有力人物が強制力を失うと、搾取に苦しめられた人々は、しばしば報復しようとする。

――どこかの大統領のことをつい考えてしまうが彼はどんな末路をたどるのだろう?

●心の知能(EQ)が高い人びとも、やはり権力のある地位に押し上げられたとき権力の毒に冒される可能性がある(ケルトナーの研究)。だがそれに抗える人もいないわけではなく、そうした人びとは名誉や公平さ、信頼を保とうと努める情け深いリーダーとなり、長く自分の地位を維持する。

●数学的シミュレーション(マーティン・ノヴァク)でも、さまざまな社会集団における現実世界での階層ダイナミクスの研究でも、公平で誠実で寛大な人は、長期的には得する傾向がある。

――受講生さん方、読んでくれているかな。

――ここからは「信頼のシグナル」の話。

●信頼のシグナルは、きわめて慎重に出される必要がある。自分の手の内を一度にすべてさらすと破滅する。

●身ぶりや表情を正しく解釈するには、2種類の文脈が欠かせない。私はそれらを「配置の文脈」と「場面の文脈」と呼んでいる。単独の身ぶりや表情は、人の感情や意図を表す確かな指標ではない

●顔の表情は、単独では人の感情を突き止めるのには役立たない。運動選手が勝つか負けるかして激しい感情を抱いている瞬間の写真を用いた実験で、人間は表情のみから感情を推測するのがひどく下手だということがわかった。

●「場面の文脈」。同じシグナルでも、それを発する人によって、伝えたいことが異なるかもしれない。心が誰かの微笑みを支持のシグナルと解釈するか悪意のシグナルと解釈するかは、その相手の社会的カテゴリー次第。競合相手や敵対する人の笑みは、よくない出来事の前触れかもしれない。

●相手のふるまいを予測する制度は、相手と対面で会話した参加者のほうが、インスタントメッセージを用いた参加者よりかなりよかった(著者の研究)。

●4つの手がかりに注目すると、参加者が感じ取った信頼度についても、実際の行動が誠実なものだったかどうかについても精度よく予測できた。4つの手がかりとは、腕を組むこと、体をそらすこと、顔に触れること、手に触れることだ。これらの仕草を頻繁にするほど、その人は不誠実に振る舞った(相手に渡したメダルの枚数が少なかった)。

●次にこの4つの手がかりをロボットの「ネクシー」に学習して実際にやってもらったり、やらなかったりしてもらったところ、会話中にネクシーが4つの手がかりを出すのを見た参加者は、あとでネクシーを信頼できないと述べた。彼らは、あたりさわりのない手がかりを見た参加者たちと同じくネクシーに好感を持ったが、ネクシーから騙されそうな気がしたのだ。さらに、4つの手がかりを見た参加者はネクシーからもらえるメダルは少ないと予想しただけでなく、メダルをネクシーと分け合う気持ちも薄れた

そして最も重要なのは、信頼度の感じ方がすべてを結びつけたことだ。すなわち、参加者が報告したネクシーの信頼度から、ネクシーが渡してくれそうなメダルの予想枚数と、参加者がネクシーに渡すメダルの枚数が、両方とも直接予測できたのだ

――4つのシグナルとは何!?テストに出ますよー(笑)

●能力のシグナルには微妙さが必要でないので、その構成要素は誠実さのシグナルに比べてはっきりしている。能力を示すシグナルは、自尊心や地位を表す非言語的な表現にそのまま結びついている。たとえば、胸を張る、頭をぐっと上げる、両手を広げて掲げる、両手を腰に当てる、交流するときに他者をあまり見つめない、などだ。


●人は一線を越えて思い上がる(過度な自尊心を持つ)こともあるが、心理学者のリサ・ウィリアムズと著者の研究からは、自尊心がきわめて有用であることが示されている。人は自尊心に駆り立てられて有益な技能を獲得しようとするが、自尊心がなければ、そんな気も起るまい。

――ここもひそかに重要。一時期、自尊心が高いことが暴力傾向につながることが強調された。しかしそれは過剰なレベルになった自尊心について言うもので、自尊心が低すぎる人や子どもには、まず上げてあげなければ学習意欲も湧かない。これは、「承認導入企業」で最初の意欲向上のマーカーとして学習意欲が高まり、仕事関係の本を読んだり社内勉強会を開いたりするようになるのだが、それとも一致する。
(当ブログの『「学力」の経済学』批判の最初の記事なども参照されたい)

――そしてやはり、「自尊感情をもちましょう」という教育は子どもさんのほうにではなく、親御さんや先生のほうにしたい。

 
●自分には専門技能があると思い込まされた参加者は、できるという単純な思い込みによって、自信のシグナル――胸を張った姿勢、頭を上げることなど――を発し、ほかの人びとは彼らの指図を信頼した。メンバーたちは、脅されて従ったのではなく、報告によれば、自信に満ちた仲間についていきたいと思ったとのことだ。彼らは、自信のある人を否定的に捉えたり、偉そうな奴と見なしたりはしなかった。逆に、好感を持ったと報告した。信頼できそうな人が見つかって喜んだのだ。

●心はよく間違いをする。だが、手がかりはつねに間違っているのではない。間違っているのは、心がそれを一般化しすぎるときだけだ。

●顔のつくりによるバイアス。静止状態での顔の構造的な違いを過度に一般化して感情を見つける。その結果、眉が目立つ人や口角がやや下がっている人は、そうでない人よりも、腹を立てている、よからぬことを企んでいる、あまり信頼できないと判断されることがある(トドロフの知見)。

●童顔の人は一般的に、温かい心や善意を持つが能力はやや劣ると見られることが確かめられている(トドロフら)。

●候補者の顔が選挙に及ぼす影響(トドロフ)。2000年から2004年までの5つの選挙で候補者の顔のみに基づいた有権者の選択を分析した。研究チームはニュージャージー州プリンストンの住民に、アメリカの別の地域で出馬した候補者の顔写真だけを見せた。結果は、顔の特徴のみから最も能力があると判断された候補者が、実際の選挙戦において、約70%の確率で当選したのだ。

●政治評論家のラリー・サバトは、「連邦議会が、ニュースキャスターやクイズ番組の司会者に似た人びとに乗っ取られていることがおわかりでしょう」と述べている。

●テクノロジーを信頼するバイアス。想定リスクが高いほど、人間の助手より自動化ツールから提供された情報に基づいて決定することが増えた。

●アバターの仮想世界でも、現実世界の男性と同じように、男性のアバター同士が会話するときには、女性同士や男女の場合に比べて、互いの距離がかなり開いていた。

●ある人から自分のアバターを信頼してもらいたいとしよう。人が他者に対して抱く共感や責任の大きさは、相手が自分にどれほど似ていると思えるかで決まる。たとえば、相手と同じリストバンドをつけるといったささいなことでも効果がある。

●仮想世界で、候補者2にんのうち一方の顔写真を参加者1人ひとりの顔に合わせて変形させ、参加者の顔が40%含まれるようにした。この程度の変形だと意識的な心は気づかないが、無意識的な心はパターンに対して敏感で、この変形に気づく。この結果、大多数の人が、政治的な立場についての情報を無視し、自分の顔が40%含まれる候補者に投票する意思を示した。

●相手より戦略的に有利な立場を得られるようアバターの外観を変えると、そのような変更が逆向きに作用してアバターのユーザーに影響を及ぼす。この可能性は「プロテウス効果」と名付けられている。背の高さは、他者と交流するときの自信や優越感、自尊心の大きさと関連することがわかっている。その分、誠実に振る舞おうという気持ちが薄れる。大柄なアバターを使った人は、バーチャルな世界で自分本位に振る舞うだけでなく、その態度を現実世界にも持ち込む。

●プロテウス効果を裏付けるように、背の高いアバターを割り当てられた参加者は、バーチャルな世界だけでなく現実世界でゲームをしたときにも、自分の取り分を多くした。自分には力があるという感覚が、無意識のうちに「通常の」自分に対する認識にも波及し、信頼に関連する振る舞いが悪い方向へと変わったのだ。

●ファンタジーの世界で利己的に振る舞う力やそうした役割のあるアバターを選ぶと、思いがけず、同じ振る舞いが現実の日常生活でもわかりにくい形で引き起こされる可能性がある。そして、もし誰もがこのようなゲームで何としても勝って他者を支配しようとするのなら――その可能性は高い――、私たちの社会の全般的な誠実さは、じわじわと下降線をたどるかもしれない

――「フェイクニュース」蔓延と関連するかもしれないところだ。ゲーム育ちの若者がネットでウソを拡散する、既に起きていることだが科学的にもその可能性が高いことがわかっているのだ。

●ヘルスリテラシーの低い人へのITを使った援助の試み。ヘルスリテラシーの低い人は勧められた治療を理解できず、指示された治療法に従えないため、退院後の健康状態がきわめて悪い。しかもその率は高く、アメリカの成人全体の36%、都市部の貧困層では80%を超える。ここで「信頼」できる特性を備えたエージェントを設計し、患者にこのエージェントとタッチパネルで交流してもらった。すると、ヘルスリテラシーの低い患者たちは、このエージェントに大きな信頼と安心感を抱いたと報告しただけでなく、大多数が人間の看護師よりもエージェントと交流したいと答えた。

●この実験でエージェントは、親身になっていることを占める感情表現と、患者の注意を退院後のケアプランの情報に向けるための手振りという二つの非言語的な行動によって、双方向の関係をつくり出した。それはヘルスリテラシーの低い人々と人間の看護師や医師との間に欠如しており、学習効果を高めるうえで大切なものでもあるからだ。エージェントの社会的な表現や患者への接し方を機械的なものにすると、患者たちはエージェントにあまり親近感を持たなかった。

――やっぱり、「AI先生」普及の余地はありそうですね

●患者の意識が高まった理由は、1つには患者が情報をしっかり理解したことにある。だが著者はひそかに、患者が誠実に振る舞いたいと望んだことも関係しているのではないかと思っている。患者はデジタルの看護師に対して、自分が信頼に値することを示したいと思ったのではないだろうか。


 抜き書きはおおむね以上。

 たいへん面白い読書でございました。


ネット時代、「社会全体の誠実度が低下するかもしれない」という著者の予測が既に当たりつつあるように見えるのが気がかりです…。

信頼はなぜ裏切られるのか 表紙画像

 『信頼はなぜ裏切られるのか』(デイヴィッド・デステノ、寺町朋子訳、白揚社、2015年12月1日、原題'The Truth About Trust')を読みました。

 あまり期待しないで読み始めた(失礼)が意外におもしろかった(それも失礼)、いや、素直におもしろかったです。

 「信頼と教育」というところで「教育屋・正田」が素直に腑に落ちたところがありました。
 簡単にいうと「小学校以上の子どもは物知りの人に教えてもらうのが好き」ということです。


 またアドラー先生のお好きな「協力」「貢献」「共同体感覚」に近いお話も出るので、最近ブログ読者に多いアドラー・ファンの方々も必見ですヨ!!

 今回も長い日記になるので2回に分けます。全体の目次をご紹介してからこの記事では前半部分、1−4章をご紹介します。

第1章 信頼とは何か?
第2章 無意識が支配する
第3章 赤ちゃんは見ている
第4章 恋愛と結婚の核心
第5章 権力と金
第6章 信頼のシグナル
第7章 操作される信頼
第8章 あなたは自分を信頼できる?
第9章 信頼するか、欺くか

(第5章以降は次の記事(未投稿)で。)

 以下、抜き書きです。


●そもそもなぜ人間は信頼するのか?人を信頼することはまさに賭けであり、当然リスクがある。一言で答えれば、そうするしかないからだ。他者を信頼することで得られそうな恩恵が、被りそうな損失より平均するとかなり上回るのだ。

●宇宙船の打ち上げのような共同事業を成功させるためには、みなが各自の役目を果たして任務を完遂すると、全員が信頼しあわなくてはならない。

●日常のほとんどの事柄でも私たちは他者の協力を当てにしなくてはならない(例、子どもを人に預けて働くなど)

●アクシデントにあう場合もあるが、統計的に言えば、他者を信頼しないよりも信頼したほうが、一般に長期的な利益は大きくなる。

●問題点その1.人の行動すべてを確認できない。

●問題点その2.行動のやり取りのあいだに時間のずれが起こりうる。

●囚人のジレンマ――『暴力の人類学』で既出。「寛大なしっぺ返し戦略」が長期的にみて最終的な勝者になる。

●評判は「間接的互恵性」という、他者の経験から恩恵を得るメカニズム。評判は、他者を信頼すべきかどうかの判断の手がかりになるほか、みなが誠実にふるまう可能性も高めてくれる。

●しかし、評判は個人の不変的な特性を表しているわけではない。科学的データからは、人間の道徳性が非常に変わりやすいことがはっきりと示されている。同情や利他主義、寛大さや公平さ、浮気や嫉妬、偽善や賭博のどれを取り上げても、人の道徳的な行為の揺れ幅は予想以上に大きいことが実験的なデータから繰り返し示されている。(このことは多くの人は信じられないと思うようだ)

●客観的な状況が変わったり、水面下の心の計算が変化してはじき出す報酬が変わったりすると、行動も変わる。もちろん、どれくらいの量の報酬で誠実な態度が翻されるかは、人によって違うかもしれない。だが、人の信頼度のレベルが固定されていないというのは事実だ。だから自覚のあるなしはともかく、誰でも報酬如何でころっと変わってしまう。私たちの心は、つねにコストと利益を計算しているのだ。誠実さはどんな状況でも、競合する心的なメカニズム同士の目下のバランスによって決まると提唱した。

――こういうのは、わたしもよく経験した。慣れっこになったとまではいかない、いまだにうっかり信頼して裏切られ、裏切られるとその都度傷ついている。ただ以前に比べると裏切られることへの耐性ができていると思う

●「ギブ・サム・ゲーム」で、参加者がサクラに感謝する理由のない群では、参加者は相手に平均で2枚のメダルを渡すことを選択した。サクラに対して(事前のイベントにより)感謝の気持ちを抱いている参加者はより協力的で、対照群よりも多くのメダルを相手に与えた。この結果は、参加者が初対面の相手とゲームをしたときも同じだった。これは感情の状態の一時的な揺れによって信頼度の評価が変わることを示している。

●社会的ストレスは、誠実な振る舞いを劇的に増やす。社会的な不安のある人たちは、そうでない人に比べて相手に協力する割合が約50%多かった。

●何を身に着けるかという単純なことで、その人の誠実さが変わる。偽ブランド品だといわれた眼鏡をかけた参加者は、数学テストの得点を自己申告するとき参加者の71%が自分の得点を水増しした。本物のブランド品をかけていた参加者で得点をごまかしたのは30%にとどまった。偽ブランド品の眼鏡をかけているだけで、偽という観念を生み出し、嘘をつく傾向を大幅に増加させたのだ。

――ウソの下手なわたしは今度偽ブランド品を身に着けてみようかな

●したがって、誰かを信頼する際、あの人は信頼できるかと問うべきではない。正しくはこうだ。あの人は、現時点で信頼できるか?

人の道徳性はほぼすべて、短期的な利益と長期的な利益の兼ね合いとして理解できる。信頼は異時点間の選択のジレンマとして概念化できる。成功とはたいてい長期的な観点で決まる。成功する戦略を擬人化すれば、それは何百、何千もの交流を重ねて、結果的に多くの資源を蓄積する人と言える。

●だとすれば、誠実さの核をなす特徴の一つは自己制御能力と言うことになる。言い換えれば、長期的な利益につながる願望を優先し、目先の願望に抗う能力だ。

●他者の信頼度についての評判があてにならないとすれば、信頼度を直感で見抜くことができるだろうか?

●非言語的な手がかりや生理的な指標を利用して感情や動機を見極める方法についての科学的な理解は、急速に見直されている。それら従来の手法は、ほぼ使い物にならないことが示されてきた。

●信頼度のシグナルがまだ特定されていない理由。
1.信頼度のシグナルは微弱で、すぐ読み取れるものであってはならない。
2.これまでのシグナルの探索がまったく間違っていたこと。信頼にかんしては、視線をそらすことや作り笑いのような決定的な手がかりなどない

●信頼のためには誠実さだけではダメ。能力も誠実さと同じくらい重要。そして信頼にかんする心の計算のほとんどは、意識外でおこなわれる。

私たちの心は、能力のシグナルに関連する手がかりをすばやく処理する。すなわち、地位や力、リーダーとしての資質を評価したがる。そうした手がかりによって、それらを示した人が周囲から信頼される度合いははっきりと変わる。

●信頼にかかわる生理機能が進化によって形作られてきた様子は、突然変異の結果を時間の経過で比較すればわかる。こうした取り組みのなかで有名なモデルが、ポージェスの提唱する「ポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)」だ。

●哺乳類の迷走神経は2つの部分からなる。1つは、髄鞘に覆われていない古い部分で、もう1つは、髄鞘に覆われた進化的に新しい部分だ。迷走神経の古い部分と新しい部分、それに交感神経系の特徴によって、脊椎動物の神経系の発達段階がはっきりと3つに分けられる。

●1つめは、髄鞘に覆われていない迷走神経からなる古いシステムで、動きを止める反応に関係がある。そのシステムが活性化すると、硬直や死んだふりが起こる。動物が極度の恐怖にさらされたとき(捕食者に追い詰められたときなど)に実行できるきわめて単純で効果的な戦略の1つが、死んだふりなのだ。

●第2のシステムは、交感神経系が活性化したときの脅威に対する第2レベルの反応、すなわち「闘争・逃走反応」を生む。つまり、生物に行動を起こす準備をさせるのだ。そのシステムが活性化すると、心拍数や呼吸数が上がり、血液が四肢の筋肉に送り込まれ、アドレナリンなどのストレスホルモンが分泌される。これらは、不安や心配、どうしようもない恐怖を感じたときに起こる。

●第3のシステムは、髄鞘で覆われた迷走神経系だ。このシステムは哺乳類にしかなく、人間を含む霊長類などの高度な社会的動物と関連が深い。信頼にかんして重要なのは、それが心臓やストレス応答と結びついていることだ。
 心臓については、迷走神経の活動が高まると、心を落ち着かせる効果がある。言い換えれば、心臓にとってブレーキの役目を果たし、鼓動や呼吸を緩やかにする。ストレスについては、迷走神経が高まると、視床下部―下垂体軸の活動が低下してストレスホルモンの分泌が減少する。

●興味深いのは、第3のシステムは、社会的な交流に関連した体の部分を調節する神経とも脳内で相互に結びついていることだ。たとえば、感情表現に必要な顔の筋肉、人の声と同じ周波数域の音を聞くために内耳の能力を変化させる筋肉、発生に抑揚をつける喉頭の機能をつかさどる筋肉などと結びついているのだ。以上から、髄鞘で覆われた迷走神経には、社会とのかかわりを調整する機能があることがわかる。このシステムは体を穏やかな状態にし、社会的な交流を円滑におこなえるようにする。安心感や落ち着きをもたらし、分かち合いや傾聴、心地よさ、そして信頼を促すのだ。

哺乳類、なかでも人間は、闘争や逃走や死んだふりでは対処できない困難にもぶつかる。私たちは生き延びるために、折に触れて他者と一緒に働き、協力し、他者と信頼する必要がある。…迷走神経の活動が高まると、体はコミュニケーションや共有、社会的なサポートを図りやすい状態になる。


●ポリヴェーガル理論が提唱されたのはわりと最近。支持する研究結果は増え続けている。たとえば、子どもを対象とした研究で長期的に迷走神経の活動が活発な状態だと、否定的な感情や問題行動が少なく、社交性が高いことがわかっている。大人でも同様で、迷走神経の活動が活発だと、社会とのつながりが強く、幸福度が高く、さらには他者の苦しみへの思いやりが深いことが見込まれる。これらはすべて誠実な行動を促す性質だ。私たちは、穏やかな気分のときや他者との絆を感じるときには、他者を助けてあげたことによる長期的な見返りを高く評価する。


――いわゆる「共同体感覚のある人」とは、「迷走神経の活発な人」じゃないでしょうか…

●迷走神経の活動が活発だと、行為の品性だけでなく知覚の精度にも影響があることが示されている。迷走神経による穏やか効果を活用すれば、他者の感情を正しく理解する能力が研ぎ澄まされることも多い。迷走神経がこのように働くのはなぜか?脅威に対する体の反応をなだめれば、心が眼前の社会的な課題に集中できるようになるからだ。社会的な課題への対応では多くの場合、相手の感情を確実に知る能力と、それに基づいて行動する意欲の両方が求められる。

●信頼だけですべてが解決できるわけではない。そのため、3つのシステムは階層構造になっている。私たちの心は、最上位のシステム――髄鞘で覆われた迷走神経――から出発し、そのシステムで問題が解決できなければ下に降りていく。

●迷走神経が緊張するほどよいわけではない。過度に社会的、あるいは過度に楽観的なのは病的と言える。心理学者のジューン・グルーバーによる研究では、迷走神経の活動レベルが極端に高いと、自信過剰や、人とのつながりを求めすぎる衝動に結びつくことがわかった

●そうした無差別的な迷走神経の緊張は、躁病と結びつくようだ。私たちの心はそうした状態を直感的に認識する。そうした人を、緊張がほどほどの人に比べて社会的なパートナーとして信頼できないと即座に見なす。

●私たちは普通、自分の生理反応を支配できず、逆にそのような反応に支配される。信頼の重要性や意義を踏まえれば、心が信頼に関わる計算をより効率的・自動的に達成する方法を生み出したのは当然である。

――ここまでが本書の前フリです。直感的な信頼のメカニズムとは何か、をここから解き明かしていきます

サルや類人猿の多くの種が、人間と同じように、不公平に対して断固とした嫌悪感を示す(ブロスナンの研究)。2頭のサルが同じ課題をして不公平なご褒美と交換するようにすると、チンパンジーやオマキザルは、自分が不当に扱われていることに気づくだけでなく、そのような扱いに対して憤慨する。交換に応じない、気に入らない食物をスタッフに投げ返す、あるいは少なくとも待遇に不満だという態度をありありと示す。

●チンパンジーの心には人間ほどではないが推論能力がある。しかし、オマキザルの分析能力ははるかに限られている。それでもオマキザルはチンパンジーのように、だまされると同様の嫌悪感を示した。したがって意識的な分析によって嫌悪感が生じたのではなさそうだ。

●オランウータンは逆に不公平に扱われても腹を立てない。人間以外の霊長類の中でも特に賢くて認知能力が高いのに、だ。理由は、チンパンジーやオマキザルと違いオランウータンは野生では単独で暮らしている。だから、彼らは協力をしないし、ほかの霊長類のように他者の信頼度を気にする必要もない。

●人間を対象とした研究から、心はしばしば状況を把握する前に判断をくだすことが一貫して確認されている。ニューロセプションはすばやく働くシステムで、意識的な思考を必要としない。人間やチンパンジー、オマキザルなどの社会的な種では、不公平な扱いに対する反応の多くは、時間をかけて状況を分析しなくても起こる。不公平な扱いや信頼の裏切りに対する怒りは、私たちのDNAに刻まれている。

●チンパンジーやオマキザルでは、不当に多い報酬を断るふるまいも見られた。長期的に信頼できるパートナーだという信頼を得るためには不公平を断ることも大事。

●チンパンジーにはパートナー候補を見分ける能力が十分にある(アリシア・メリスら)。2党が互いを信頼して協力しないと解決できない課題を出すと、チンパンジーは過去に食物を自分と公平に分け合った個体をパートナーに選んだり、すでに実力を示している個体を選んだ。

●オキシトシンに関する知見。
オキシトシンの鼻腔からの吸入量を増やすと、人がたとえ裏切りに遭っても相手を信頼し続けることを示した。

●オキシトシンの二面性。オキシトシンは確かに信頼や絆を強めるが、一方で不信や嫉妬、差別も煽る可能性がある。どちらになるかは文脈次第で、信頼にかかわる事柄では相手の素性によって決まる。

●オキシトシンの暗黒面。オキシトシンには信頼や協力を増す作用も減らす作用もある(カルステン・ド・ドリュの研究)。決断を左右したおもな要因は、相手の身元。外集団のメンバーにかかわる決断の場合、オキシトシンは温かい気持ちを引き出さず、それどころか差別的な決断を導いた。そのような決断は、よそ者ではなく自分やない集団の利益を優先する偏見の存在をはっきりと示していた。

――「自国ファースト」を叫ぶ大統領やその支持者の姿はあまり気持ちのいいものではないが、あの人たちもひょっとしたらオキシトシンの申し子かもしれない?

●道徳にかかわる出来事にかんしても結果はほぼ同じで、オキシトシンはつねに、外集団より内集団にとって有益な決断をくだす意欲を高めた。生か死かの場面でよそ者より同胞のほうを多く助ける決断を進んでくだした。要するに、オキシトシンが多いと、自民族中心主義や偏見の増大につながるのだ。

●オキシトシンはたいてい信頼感を増すが、その効果は相手に対する好感度によって左右される。たとえば、自分をつねに負かしたり不公平に扱ったりする相手と経済ゲームをした場合、オキシトシンが増えると妬みが助長される。したがって、オキシトシンが多ければ、相手がついに負けたときに、いい気味だという気持ちが強く引き起こされる。

――愛、憎ともに強くなるんでしょうかね。これ、従来男性のほうが競争相手の不幸に非共感的で、女性はその点競争相手にも同情する、という風に言われていたのと逆なような気がするんですが、オキシトシンが多ければ競争相手に同情できる、と思っていましたから。あと「ねたみ」は、よくタイプわけサポーターさんやFタイプの人はもっとも承認欲求が高く承認されないとひがみやすい、という説明をしますが、この人たちは妬みも強いのかもしれない。良くも悪くも感情が濃いというのはそういうことなんですね。

●オキシトシンはいつまでも相手を信頼しているわけではなく、しばらくすれば、あなたは信頼できない人を嫌い始める。特に興味深いのは、血管を駆け巡っているオキシトシンが多ければ多いほど、そのような人々に対する嫌悪や彼らの痛みに対して覚える喜びが増すほか、進んで痛めつけたいという思いさえ強くなることだ。

――可愛さあまって憎さ百倍ということか。これもこわっっ。この本を読むと、ポール・ザック本を読んで得たオキシトシンへの好感がふっとんでしまいそうだ。

●人間には、他者への信頼と自分の誠実さを高める生理的なメカニズムだけでなく、それとは逆に働くメカニズムも備わっている。人間は安心できる他者がいるときには心が落ち着くシステムを持っており、そのようなシステムはコミュニケーションや支援、信頼を促す。一方、人間は霊長類と同じく、これらの反応を修正するシステムも持っており、そのようなシステムは行動や技能に基づいて信頼できる人物を自動的に判断しようとする。そして、目の前の人が何となく信頼できなさそうなときには、相手を避けたり、相手を犠牲にして自分が得をするように振る舞ったりして、その人物の意に反する行動をしようとする。


――ここからはいよいよ「学習と信頼」の話。研修講師にとっても関心の高いところだ。案外シンプルな話なのかもしれないが……、

●何かを知りたいとき、大人ならいくつもの手段を自由に選べる。図書館やデータベースで疑問について調べることもできるし、実験をして自分の考えが正しいかどうか確かめることができる。それができないときは、誰かの話をそのまま信じるという選択肢もある。

●7歳ぐらいまでの子どもは使える調査方法があまりない。推論能力どころか語彙力もないので、Googleやウィキペディアを使いこなすこともできない。自分で実験して何かを学ぶ能力も限られている。

●実験で、子どもは自分の間違いから学べないことがはっきりした。何回間違えても、子どもたちは考えを変えなかった。幼い子どもたちは、重力の働き方についての思い込みに頼り続け、目の前のデータを無視した。子どもは実験や観察だけで学べるわけではない。

●そのような子どもは何から学ぶのか?第3の学習方法は、他者の発言に頼ることだ

●以上から、教室での学習効果を高めるためには、教師は指導の際に社会的な側面を考慮しなければならない。生徒に見せる教師の社会的なイメージづくりを強化すれば、学習効果はさらに高まるだろう。

●子どもの無私の親切心。心理学者フェリックス・ワーネケンの実験では、生後18か月の子どもたちに演技者が困った状況に陥り助けを求めるところを見てもらったところ、大多数の子どもが、演技者が助けを求めているようにみえる状況で、その人をすぐさま助けに行った。人を助けたい、人に協力したいという衝動は、1歳半になるころにはすでに目覚めている。

●3歳の子どもでは、報酬をパートナーと分けるさい相手の働きのほうが良ければ報酬を半々に分け、自分の働きのほうが良ければ相手に少なく与えた。相手の働きのほうが良いとき、誠実な振る舞いを促す心理的メカニズムと、利己的な振る舞いを促す心理的メカニズムとのあいだに根本的な対立が起こっている。

●子どもは8歳になるとこのような報酬の分け方をすると長期的にはトラブルを招きかねないことを学び、大人と同じように不公平に対して、少なくとも人前では強い嫌悪感を示す。この年頃の子どもはパートナー候補がいると、通常は不当に多い報酬を拒絶する。

●以上をまとめると、子どもは、公平かつ立派にふるまう動機がもともと備わっている。信頼や協力を促すメカニズムと、それとは逆に働くメカニズムが幼い子供の心に共存している。ただしだからといって道徳を教える必要がないわけではなく、子どもに約束を守る価値を教えれば、子どもが約束を守る見込みは確実に高まる(特に、子どもがあなたを信頼しているならば)こうした道徳的な価値観を身に着ければ、意識的な心が大いに働くようになるだろう。

●赤ちゃんでも道徳的に信頼できる他人を見分けられる。ブルームとウィンの実験では、「登山者」「協力者」「妨害者」の操り人形の劇を見せたところ、登山者が協力者ではなく妨害者のほうに飛び跳ねていってペアになると(期待違反課題)、赤ちゃんは信じられないという顔でその新しくできたペアに視線が釘付けになった。生後6か月の赤ちゃんは、二体の操り人形のうち、協力者か妨害者のどちらかを抱いてもいいよと言われると、すべての赤ちゃんが協力者に手を伸ばした。人形の色や形は重要ではなかった。

●信頼は誠実さと能力で決まる。子どもに潜在的な知的能力を存分に発揮してほしければ、子どもが最適だと思えるタイプの指導者をあてがわなくてはならない。

●また、子どもが成長するにつれて、子どもが重視する信頼関連の特性が変わることへの注意も必要だ。幼い子どもの心は、母親や父親など、自分と似ていて安心できる相手から学びたがる。だが、初等教育の初めごろにもなると、自分との類似性や気安さへの関心は薄れ、能力や専門知識を重視するようになる。子どもの潜在的な学習能力を最大限に引き出したければ、指導する者は、感じはいいけど重要ではない人物として無視されないように、専門知識を示す必要がある。

――ここですね。わたしは研修業界でも珍しく、仕事上のパートナーの方には「○○先生」と呼んでいただくようにしている。大多数の講師のかたが「さんづけでいいですよ」と仰っているなかでは、それは傲慢に映るかもしれない。しかし、受講生さんがよりよく学んでいただくためには、講師は「専門知識のある人」とみなされたほうがいいのだ。親しみやすく感じのいい人、ではなく。「さんづけ」は主にアメリカの教師生徒の間の民主的関係を重んじる20世紀後半の思潮の影響ではないかと思うのだが、その思潮にあまり妥当性はないと、近年の研究は教えてくれる。

ーーまた、このブログで何度か取り上げた「社内講師」の問題について。以前にも言ったように、管理職の受講生さん方は、圧倒的に豊富な知識スキルを持った「先生」に出会いたいのだ。人事の人などが社内講師を嬉々として買って出るとき、マネジャーのこうした密かな望みは無視されている。



――ここからは恋愛と結婚の話題。

●恋愛や結婚の関係の数十年に及ぶ研究や数百年にわたって培われてきた常識から、二人のコストと利益がだいたい同等な関係が、最も満足できて長続きするらしいとわかっている。二人の関係をうまく維持する秘訣は、ずばり相手が高く評価する分野で利益を与え合うことだ。そして、主観的に見て受け取る利益と支払うコストが同等ならば、その関係は順調に進む。

●このバランスをとる基本的な方法の1つは、誰が誰のために何をしたか、今後何をするつもりかを記録するだけでいい。

――行動承認ですね

●現実問題として、人間の心がいちいち正確に記録することなどできるはずはない。ここで信頼が登場する。信頼は、コストと利益を事細かくたどる必要性を取り除く認知的近道の役割を果たし、長期の関係を築いている人の心で計算の負荷を軽くするのだ。

●恋愛関係に信頼が生まれると、関係の快適さに著しい変化が起きることが多い。それは、その関係が長続きする新たな段階に入りつつあることの表れだ。この変化は「交換的」関係スタイルから「共同的」関係スタイルへの移行と呼ぶ(マーガレット・クラーク)。交換的関係では、互いにコストや利益を遠慮なく記録しようとするが、共同的関係では、交換の監視に費やされていた多くの思考力が解放される。

●互いに信頼感の高いカップルは、対立する話題について話すときそうでないカップルに比べて折り合いや協力の程度がはるかに大きかったのだ。彼らは、相手の望みを聞いてそれを真剣に受け止めることにより前向きだった。また、二人ともが受け入れられる解決策を見出そうとする意識も高かった。信頼は、心が長期的な利益より短期的な利益に注目しがちなのを抑制しようと働く。

●話し合いを始めたカップルがもとから相手に高い信頼を置いていた場合、自分が図ってもらった便宜を過大評価することがよくあった。相手を信頼しているほど、相手の行動を貴い犠牲とみなす。

●信頼は逆の方向にも同様に働く。相手の犠牲を価値あるものと見なすほど、相手に対する信頼がさらに高まる。互いに高い信頼を置いていたカップルは話し合いの後、相手をさらに信頼していた。信頼が信頼を生む好循環。

●信頼がバイアスをかける力、つまり相手の話し合いの態度を実際より誠実なものと心に受け止めさせる力は、寛大なしっぺ返し戦略に似た機能を果たす。

●「直感的な信頼」とは、相手の信頼度について意識の外でおこなわれる評価を意味し、「衝動的な信頼」とも呼ばれる。自動的で絶え間のない計算によって更新される相手の信頼度についての感覚ということだ。もう1つは「理屈に基づく信頼」あるいは「思慮に基づく信頼」だ。それは直感的な信頼とは対照的で、慎重な分析に基づいた評価を指す。

●2つのシステムの相互作用。カップルたちが、信頼を揺るがす問題を意識的なレベルと無意識的なレベルの両方でどう乗り切るか。過去20年に及ぶ心理学研究から、意識的な心が直感的な評価を覆す気にならないか覆せない場合には、直感的な反応が行動を誘導するという一般原則が導かれている。思考には時間がかかり、直感的な決断はすみやかで労力を要さない。

●実行制御力。意識的な分析の結果を優先して直感的な反応を抑える力。実行制御力があるほど、気を散らすものや時間の制約があっても分析能力は影響を受けない。つまり、直感的な反応を抑えやすい。

●実行制御力が高く、思考力を十分に使って相手の行動を慎重に分析した人は、カップルのあいだで疑わしい出来事が起こったときも、たいてい思慮に基づく信頼に従って、相手との付き合い方を決めた。また実行制御力の低い人は、直感が実際の反応につながること多かった。

●つまり、直感は相手の信頼度に大きく影響を与える。実行制御力の高い人でも疲れていたりひどく動揺していたり寄っていたりするとき、何かが起きて相手に対する信頼に疑問が生じたら、無意識的な心の判断に従う。

●思慮に基づくプロセスよりも直感的なプロセスから正しい情報が得られる可能性が高い。どちらのメカニズムも完璧ではないが、2つの組み合わせによって最良の判断が得られることが多い。

●嫉妬を理解するための2つの段階。
1.嫉妬がすべてセックスに絡むわけではないと認識すること。
2.三角関係の存在。

●ライバルにパートナーを奪われることへの不安には、それが現実になるのを防いだり、パートナーを取り戻したりする行動を起こさせるという特定の目的がある。

――おっ、「目的論」だ。

●嫉妬に襲われたときは、不安に怒りが混じっていることが多い。

●2つの予測:
1.もし嫉妬が信頼に関係しているのであれば、危機の初期段階で、人は嫉妬によってパートナーにもっと寛容になるように促されるはずだ。
⇒YES.嫉妬を感じていた人々は、相手からもっと頼りにされるような行動をとってからは、相手の熱意を疑う気持ちが少なくなった。
2.嫉妬は恋愛関係や結婚における現在のコストと利益だけでなく、将来的なコストと利益にも敏感に反応するはず、というものだ。言い換えれば、嫉妬は信頼にかかわるすべての現象と同じく、将来の影を敏感に察知して生じるに違いない。
⇒著者自身の研究。
YES,嫉妬は信頼が裏切られるのを防ぐ気にさせる。ライバルが自分やパートナーが高く評価する性質を持っている場合に嫉妬はピークに達する。嫉妬は実際には何か起きていなくても、将来に裏切られる可能性を追跡していた。

●嫉妬は今のパートナーだけでなく、かろうじて知っている間柄の人にも起こる(著者の研究)。数分間一緒に作業して好印象をもったパートナーが他の参加者を選択し裏切られると、「捨てられた」参加者は嫉妬の感情を報告し、機会が与えられるとほぼ例外なく以前のパートナーとライバルを罰した。嫉妬は将来見込まれる関係からくる利益が失われることを防ごうとする。

●怒りの結果として起こる仕返しの特徴:罰。

●「第三者罰」(行動経済学で知られる現象)。自分とは無関係なものに被害を与えた加害者を第三者の立場で罰する傾向を指す。数々の実験から、人は、たとえ自分は被害者でなくても、いかさまをするものをばするために金銭的な負担をすることが繰り返し示されている。

●嫉妬がDVのおもな原因になるのを防ぐのは困難(暴力による罰はよいことではないが)。




 前半部分は以上です。嫉妬のところ、こわかったですねー。
 後半部分は、「権力とカネ」や、お待ちかね「しぐさの心理学」的なお話が出てきます。なるべく早くアップします。乞うご期待。

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 『電通事件――なぜ死ぬまで働かなければならないのか』(北健一、旬報社、2017年2月1日)。昨年秋発覚した、入社1年目(当時)だった高橋まつりさんの過労自殺にまつわるタイムリーな本。

 結論からいうと、この本で分かったこと、分からなかったことがあった。


 分かったことから先に。

●「鬼十則」に長時間労働の推奨は見当たらない。しかし、時代はめぐり若者の気質も変わる。大学教授によると、「うちの大学でも、できる学生ほどまじめで、レールから外れることへの強迫観念が強い。それまで『ノーと言っちゃいけない』『意見を言っちゃいけない』と育てられてきましたから」。まじめで従順なサラリーマンが増えた電通で、「鬼十則」はたぶん、制定当時とはかなり違った読まれ方をしたのではないか。

●高橋まつりさんの過労自死は、2016年9月30日、三田労基署が労災認定。10月14日には東京労働局が電通本社を抜き打ちで調査。さらに11月7日の家宅捜索では88人の労働基準監督官が電通本社と3支社に踏み込んだ。

●12月28日、法人としての電通と幹部社員の労働基準法違反(違法な長時間労働)の疑いで書類送検。この日の送検は一部の容疑に絞ったもので、捜査は今(17年1月)も継続中。

●高橋さんは2015年4月電通に入社、インターネット広告を扱うデジタルアカウント部に配属される。「主な業務は、ネット広告のデータを集計・分析してレポートを作成し顧客企業に改善点などを提案して実行すること」(川人弁護士)。

●10月の本採用から忙しくなり、10月から11月初めにかけて長時間過重労働が続いた。
 高橋さんのツイッターやLINEなどによると
「休日返上で作った資料をボロくそに言われた もう体も心もズタズタだ」(10月13日)
「もう4時だ 体が震えるよ……しぬ もう無理そう。つかれた」(10月21日)
 10月25日の週には、日曜日の午後7時半に出社し、水曜日午前0時42分まで会社にいた。その水曜日も、朝9時半に再び出社。

●残業時間を少なく見せる方法。
「中抜き」。たとえば実際に退社したのは22時でも、20時から22時までは仕事をしていなかったことにする。
「私事在館」。自己啓発や忘れ物など私的な理由で会社にいたとウソの申告。

●2016年12月28日、電通は労基法違反の疑いで書類送検されたのを受け初めての記者会見、石井直社長が辞任を表明。そこで2015年4月以降「三六協定違反ゼロ」に取り組んだ結果、過少申告が急増したことを認めた。

●パワハラの風土。元電通マンの証言によれば、残業が月200時間を超え、会議中ウトウトすると「体調の管理、できてねえのか」と叱責される。上司に殴られ頸椎損傷のケガ。軍隊組織で新人は1番下。いじめて使い倒す。

●有名な社内行事「富士登山」。7月に社員が富士山に登り、山頂郵便局から得意先に暑中見舞いのはがきを出す。関連会社も含め400人ほどの社員が登り、走らせる。

●ネット広告時代への対応の遅れ。
 既存マスコミの広告の落ち込みをネット広告で代替しようと躍起だがそれがうまくいっていない。
「マネジメント層にデジタル・リテラシーが低すぎて」(=ネット広告の実務が上司にはよくわからない)
 IT、システムの仕事は、年長の役員、管理職には技術が乏しく、仕事のイメージと納期と価格だけ上で決めてきて、実際の作業は20代、30代に回し、上司が配慮しきれずに過重な責任を負わされる。

●「高橋さんの上司は、『間に合わないぞ』『頑張れ』と叱咤するばかりで、実際の仕事の進め方に即したアドバイスができなかったんじゃないでしょうか」(立教大・砂川教授)

●テレビ、新聞など既存メディアへの広告と違い、デジタル広告は終わりがない。表示回数、クリック数などで効果が細かく測定され、その結果次第で、どう掲載するかを変えることができる。「できる」ということは際限がない。

●ネット広告部門は高橋さんが亡くなる前に無理がきていた。2016円9月、ネット広告での不正請求が発覚。

2015年10月、高橋さんの部署は人員が14人から6人に減らされ、高橋さんはそれまで担当していた保険会社に加え、証券会社も担当させられ仕事量がぐっと増えた。予定通り売り上げが上がらなかったから投入する人数を減らすことで「部門採算」の黒字化を図ったのか?

長時間労働の背景に「クライアント・ファースト(お客様第一)」。所定外労働(残業)が発生する理由を企業側に聞くと、「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要があるため」が多い。とりわけ情報通信業では「顧客(消費者)からの不規則な…」が65.0%とダントツ。顧客のありとあらゆる注文や要望、時にはわがままに振り回されて働き過ぎが発生する。

●自発的な働き過ぎ。クリエイティブ部門では、いくら時間をかけても、作品の完成度はキリがない。TVは24時間放送、新聞もネット展開と、24時間365日「オン」が続きかねない状況が出現した。

●投入した労力を請求に載せられず、「一式いくら」のように決まる商慣行。受発注と制作のルールがない。

●今50代、60代の経営層、マネジメント層が、高度成長期やバブル期の成功体験のまま、今でも会社を運営している、そこに無理がきている。

●安倍首相「働き方改革」の本音。2016年10月19日、「働き方改革に関する総理と現場との意見交換会」(第2回)の冒頭あいさつ。
「働き方改革は、安倍政権にとって最重要課題の1つです。なぜ最重要課題化と言えば、日本は人口が減少していくわけですが、その中でも成長していかなければ、伸びていく社会保障費に対応できない。そのためには生産性をあげていかなければいけない、という側面があります。働き方改革を進めていくことで生産性の向上に結びついていくと同時に、それぞれの人々にとってより豊かな人生にも結び付いていくのではないか」

●2016年9月21日、ニューヨークでの金融・ビジネス関係者との対話では、
「この問題は、社会問題である前に、経済問題です。我々は労働参加率を上昇させなければなりません。賃金を上昇させなければなりません。そして、労働生産性を向上させなければなりません。『働き方改革』が生産性を改善するための最良の手段だと信じています」

●「世界で一番企業が活躍しやすい国」という企業ファーストの政策目標と、「働き方改革」という一見働き手に寄った施策とは、どういう関係にあるのか。

●「残業代ゼロ法案」(労基法改正案)の2つの眼目:
・労働基準法の労働時間規制が適用されなくなる「高度プロフェッショナル」と呼ばれる働き手を作ること
・企画業務型裁量労働制を営業社員などに広げること

●「残業代ゼロ」の先例は学校教育現場。東京都内で2012年度の小中学校の「定年以外の理由での退職者」のうち10.5%(14人)が在職死、13年度は14.4%(20人)が在職死。

●OECDが2013年に実施した「国際教員指導環境調査」(TALIS)でも、教員の週労働時間の平均が38.3時間なのに対し、日本は53,9%と突出している。

●週60時間という過労死ラインを超えて働いている教員は小学校で72,9%、中学校で86,9%。

●文部科学省によれば、2015年度に病気で休職した公立学校の教員は7954人で、そのうち5009人(62,9%)がうつ病など精神疾患が理由だった。

●経団連の意向。日本を代表する大企業の多くが「過労死ライン」を超える三六協定(特別条項)を結んでいる。特別条項のある大企業の1か月の残業の上限は、過労死ラインの80時間超が25%、100時間超も7%もある。三六協定の上限が長い企業は実際の残業時間も長くなる傾向にある。

●インターバル規制についても、経団連はまだ前向きとはいいがたい。

●操業短縮の波。ロイヤルホスト、マクドナルド、吉野家など外食産業での24時間営業の中止。イオンの営業時間短縮、三越伊勢丹ホールディングスン1月2日休業など。背景には深刻な人手不足。

●中小企業でも改善の動き。親会社の要求を満たすと社員に負担がかかるため、完全下請け部門を廃止したところも。

●コンビニ店主のユニオン設立の動き。2014〜15年、本部に団体交渉応諾を命じられる(係争中)。

●2015年12月8日、ワタミ過労死裁判和解。


 抜き書きは以上です。この問題の「おさらい」になりました。

 さて、分かったことも多々あったのだがとうとう分からなかったことは、亡くなった高橋まつりさんの上司とは、どういう人物だったのか。実は知りたかった。この本ではとうとう顔が見えなかった。どういう人物だったのだろう。何歳ぐらいだったのだろう。

 
 この本で訴えている「長時間労働につながる顧客を切る」というのは、実は過去の受講生さんに例がある。現関西国際大学経営学科長の松本茂樹さんが、2005〜6年、銀行支店長時代にそれをやっている。松本さんは「残業バスター」という目安箱のような箱を備え付け、残業につながる要因を行員に入れてもらった。そうして残業要因を特定し、それが顧客だとわかると自ら客先に乗り込んで改善を求め、改善してくれない顧客は「切る」ということもした。

 松本さんはこれに限らず恐ろしく先進的なマネジメントをやっているのだが、手前味噌だが一支店長の判断でそれができたのは、前提に「承認」で業績が上がっていたからできたのだ。

 
 そして、「人員削減」の話があった。高橋さんの部署は14人から6人に削減された、という話。
 ちょうど、最近ある鬱休職した友人の話を聴くなかでこの「人員削減」の話が出ていたのではっとなった。その友人は、3人でやっていた仕事をいつの間にか1人でやらされていて、それに対する配慮もねぎらいもない上司に失望して鬱になっていた。

 人をたんなる数字でみている、とも言えるが――、
 わたしなどは、やはり「承認欠如」の話に思えてならない。「行動承認」をするマネジャーであれば、人間を「活動する肉体」としてみるはずなのだ。そして3人でこなしていた仕事を1人でできるわけがない、ぐらいのことは想像できるはずだ。そして万一、部下がそんなめにあっていたら、ねぎらい労わらないわけがない。

 だから、以前「長時間労働以外にパワハラがあり、それは尊厳の軽視であり、すなわち承認の不在である」のようなことを言ったが、長時間労働自体もまた「承認欠如、承認の不在」の問題とも読み替えられるだろう。

 この本の帯には著名経営者や学者の「人命軽視」ととれる「長時間労働擁護」の言葉が並んでいて、本の中身を読む前にこれらの言葉と人名を読んである種、慄然となった。一時期は時代のヒーローと目された経営者たちではないか。わたしたちはある時代の価値観と訣別しなければならないのだ。

マネジャーの最も大切な仕事表紙画像


 『マネジャーの最も大切な仕事』(テレサ・アマビール、スティーブン・クレイマー著、英治出版、2017年1月25日、原題’THE PROGRESS PRINCIPLE: Using Small Wins to Ignite Joy, Engagement, and Creativity at Work’)。

 ハーバード・ビジネススクール教授の著者らが3業界、7企業、238人に対する1万2000の日誌調査を中心として創造性と生産性に関する35年間にわたる研究をまとめた。結論としては従来の常識と異なり、「進捗」こそが創造性と生産性の源であり、マネジャーの最も大切な仕事は、やりがいのある仕事が進捗するよう支援することだという。元早稲田ラグビー部監督、現日本ラグビーフットボール協会コーチング・ディレクターの中竹竜二氏が監訳。

 「行動承認」は、相変わらず正しい。この「進捗の支援」という新たな真実もそのなかに包含している。素直に喜びたい。(マネジャーに「やってほしいこと」を告げるうえで、その内容はシンプルであればあるほどいいのだ)
 とはいえ、あまり短絡的に結びつける前に、やはりこの労作の内容をじっくりみておきたい。中には、以前からある「外発」「内発」という用語の混乱について独特の解釈を施しているおもむきもある。(わたし的には賛同する)




 以下、恒例の抜き書きです:


どうすればビジネスの成功と社員の幸せを両立できるのだろうか?私たちの研究によれば、その秘訣は豊かなインナーワークライフ(個人的職務体験)を生み出す環境を作り上げること。すなわち、ポジティブな感情、強い内発的なモチベーション、仕事仲間や仕事そのものへの好意的な認識を育める状況をつくり出すことだ。


――「インナーワークライフ」。この本全体を通じて登場する言葉だ。押さえておきたい

●豊かなインナーワークライフとは仕事そのものから得られるものであり、仕事に付随する特典から生じるものではない。

●30年以上の研究を活用しながら、本書では7つの企業の内部に深く潜り込み、社員のインナーワークライフ――認識と感情とモチベーションの相互作用――に影響を与える日々の出来事を追跡した近年の調査に重点を置いた。
 
●驚くべき結果が判明した。彼らの95%が、最も重要なモチベーションの源泉について根本的に誤解していたのだ。各企業の内部をつぶさに追跡した私たちの調査が解き明かしていたのは、進捗をサポートすることが日々社員のモチベーションを高める最善の方法であるということだった。…しかしマネジャーたちは「進捗をサポートすること」をモチベーションを高める要素として最下位にランクづけしていた。

●従来の常識は優れたマネジメントにおける根本的な要素である進捗に向けたマネジメントを見落としている。私たちの研究によれば、マネジャーが進捗に着目したときに決定的なマネジメントの影響が現れる。


●インナーワークライフとは豊かで多面的な現象である。

●インナーワークライフは「創造性」、「生産性」、「コミットメント」、そして「同僚性(collegiality)」というパフォーマンスの4要素に影響を与える。私たちはこれをインナーワークライフ効果と呼ぶ。

●インナーワークライフが会社にとって大きな意味を持つのは、会社の戦略がどれほど素晴らしいものであっても、その戦略の実行は組織内の社員の優れたパフォーマンスに依存するものであるからだ。

――大いに同意。戦略が大事でないとは言わないが、戦略を実行するのはつねに「社員のパフォーマンス」という問題が横たわっている。だから戦略が横並びであれば、「行動承認」のマネジャーたちはつねに「1位」をとる…

●インナーワークライフは職場で起こる日々の出来事に深く影響を受けている。

●インナーワークライフは社員にとって大きな意味を持つ。

●3つのタイプの出来事が、インナーワークライフをサポートし得る要素として次の順序で際立っていた。,笋蠅いのある仕事における進捗触媒ファクター(仕事を直接支援する出来事)、そして栄養ファクター(その仕事を行う人の心を奮い立たせる対人関係上の出来事)だ。

●インナーワークライフに影響を与える戦術の3つの出来事群のなかで進捗が最も大きな要素であることを指して進捗の法則と呼ぶ。インナーワークライフに影響を与えるすべてのポジティブな出来事のうち、最も強力なのが「やりがいのある仕事が進捗すること」である。

●この3つの出来事群がネガティブな形をとると(あるいは欠如すると)インナーワークライフは大きく暗転する。その3つの出来事群を、順に仕事における障害阻害ファクター(仕事を直接妨げる出来事)、毒素ファクター(その仕事を行う人の心を蝕む対人関係上の出来事)と呼ぶ。

――3番目は「ハラスメント」の問題とつながりそうですね

●他の条件がすべて同じである場合、ネガティブな出来事はポジティブな出来事よりも強い影響力を発揮する。

――だから「5:1の法則(ポジティブなフィードバックとネガティブなフィードバックの比は5:1であれ、という法則)」なんですね

●たとえ一見ありふれた出来事であっても――たとえば小さな成功や小さな障害であっても――インナーワークライフに大きな影響を及ぼし得る。




●インナーワークライフとはインナー(個人的・内的)なものだ。各人の心のなかに宿るものである。インナーワークライフは個人の職場での経験にとって重要なものだが、普通周囲からは認識できないし、それを経験している本人さえ自覚できないこともある。

●インナーワークライフとはワーク(職務)である。基本的に仕事上の出来事に対する職場での反応のことを指す。インナーワークライフは私生活での出来事によって影響を受けることもあるが、それはその出来事が仕事に対する認識、感情、モチベーションに影響を与える限りにおいてのことだ。

●インナーワークライフとはライフ(人生・体験)だ。自分の仕事はかけがえのないもので、自分は成功していると感じると、個人としての成功という人生にとって重要な要素に対する認識も向上する。仕事に価値がないだとか、自分は失敗していると感じると、人生から大きく勢いが失われるのである。

●インナーワークライフとは認識のことだ――マネジャー、組織、チーム、仕事、ひいては自分自身に対する好意的あるいは敵対的な(そしてときに漠然とした)印象のことである

インナーワークライフとは感情のことだ――ポジティブであれネガティブであれ、職場でのあらゆる出来事から生じる気分のことである。


●インナーワークライフとはモチベーションのことだ――何かをする際の、あるいはしない際の原動力のことである。


●日誌の分析を通じて、出来事に対する即時の感情的反応は、本人が思うその出来事の客観的重要度とは無関係に大きくなることがあると分かった。小さな出来事の28%が大きな反応を引き出していた。つまり、人が重要ではないと感じる出来事でさえ、しばしばインナーワークライフへ大きな影響を与えていた。


●内発的モチベーションが下がるか、外発的モチベーションが上がると、結果として創造性が低下する。

――ここで「内発的モチベーション」として著者が挙げるのは、関心、喜び、満足感、仕事へのチャレンジ
また「外発的モチベーション」として挙げるのは、報酬、低評価への恐怖、勝つか負けるかの競争のプレッシャー、厳しすぎる締め切り、など。
 よく「賞罰主義を否定する」と言ったり、「内発、外発」の意味が混乱しているのだが、マネジャーの賞賛や励ましの言葉は、わるいものとして言われることの多い「外発的モチベーション喚起策」には入っていない。この本全体では、それらはどちらかというと「内発的モチベーション」を強めるものとして扱われていることに注意したい。
 要は、お金、昇進、(賃金や昇進を決める考課としての)評価、競争での勝ち負け などが外発的報酬(外発的モチベーションを喚起する報酬)。
 また、外からであれ内からであれ、精神的な喜びや満足をもたらすものが内発的報酬。

 ちょっとわかりにくい。
 ここでは、行動理論でいう「強化子」の概念とは、少しズレた意味合いで使われている。
 「強化子」は、むしろ大きな概念なのだ。上司からのほめ言葉も、賃金も、お客様からの喜びの声も、仕事そのものからくる手ごたえも、たとえば本書で重視する仕事の「進捗」も、すべて仕事を促進する「強化子」である。

 ところで、「外発・内発」の定義の分け方は、決して本書のようなものばかりではない。「上司や親や先生からのほめ言葉」も、「アメとムチ」と呼んで、「外発的報酬」に入れるものもある。
 当ブログの『報酬主義をこえて』にたいする批判のシリーズなど参照。

 なので、ここの定義は結構混乱している。比較的最近では、『ビジネススクールでは教えない世界最先端の経営学』でも出てきた話題。


 実務のなかでの対処法としては、
 「行動承認プログラム」を教える人が、もし今後「マネジャーからの承認の言葉は『外発的報酬』に当たるので、良くないものではないか」という反論に遭ったときには、本書を参照し、「マネジャーからの承認は『内発的モチベーション』を強化する役割を果たすので、『内発的報酬』に分類すべきだ」と反論すればよい。

 …正直、書いていてわたし自身あまり信じていない。あやふやな定義だ、と思う。「内発・外発」というくくりそのものが。
 しかし、次へ進もう。

●ある実験で72名の作家を集め、1つのグループには「ベストセラーを書けば経済的に保証される」などの外発的動機付けについて考えてもらったあと詩を書いてもらうと、その詩は「自己表現の機会を享受できる」などの内発的動機付けについて考えたグループのものより創造性が低かった。

●内発的モチベーションは組織内の創造性にも重要な役割を果たす。内発的なモチベーションが高いときのほうが個人としての仕事の創造性は高かった。

●心理学者のバーバラ・フレデリックソンあ、ポジティブな感情が人間の思考や行動の幅を広げるのに対し、ネガティブな気分には正反対の効果があることを理論的に解き明かした。

――このブログでは『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』という本の読書日記の中で触れています。いろいろと接点があるなあ。やっぱり「これは」と思う本はチェックしておくものですね

●仕事が実際に進捗すると、たとえば満足や嬉しさ、さらには喜びといったポジティブな感情が引き出される。進捗は達成感や自尊心、そして仕事やときには組織へのポジティブな認識につながる。

――「承認企業」では「企業理念への共感」が上がるという統計結果があるんですが、最後の一文はそのことを言っていそうですね

●ツイッターの共同創設者ジャック・ドーシーは、自分のアイデアで立ち上げた会社のCEOの地位を追われたことについて「腹を殴られたような」気分だったと表現している。…同じことが組織の上から下の人びとにまで言えることがわかった。仕事における進捗と障害がこれほど大きな意味を持つのは、仕事そのものが大きな意味を持つものだからだ。仕事とは人間の一部なのである。

――仕事が大きな障害に遭ったとき、自分が根本的に否定されたような感情にさいなまれる。自分も経験したこの感じ、わかるなぁ。

●人間の最も基本的な原動力のひとつは自己効力感――自分には望む目標を達成するために求められる作業をプランニングし実行する能力があるのだという信念だ。…仕事を通じて、人は進捗し、成功し、問題や作業を乗り越えるたびに自己効力感をますます強く育てていく。

●やりがいを失くす4つの道。
1.自分の仕事やアイデアがリーダーや仕事仲間から相手にされないこと。
2.自分の仕事から当事者意識が失われること。
3.自分たちが従事している仕事は日の目を見ないのではないかと社員に疑念を抱かせること。
4.頼まれた数多くの具体的な作業に対して、自分にはもっと能力があるのにと感じてしまうとき。

●進捗が人間のモチベーションにとっていかに重要か。マネジャーたちは気づいていないが、すべての優れたゲームデザイナーたちは、その秘密の事実を知っている。真に優れたゲームデザイナーは、ゲームのすべてのステージでプレーヤーに進捗の感覚を与える方法を知っているのである。

●感情に対する障害の効果は進捗の効果よりも強い。障害は、進捗が幸福感を増幅させる力の二倍以上の力で幸福感を低下させる。
 インナーワークライフへの影響力が相対的に弱いがゆえに、職場ではネガティブな出来事よりもポジティブな出来事が数で勝るように努力しなければならない。

●明確な目標は、触媒ファクターの主要な要素の1つだ。触媒ファクターはインナーワークライフに影響を与える3大カテゴリーのうち、進捗の法則に次ぐ効果を持つ。

●驚くべきことに、触媒ファクターと阻害ファクターは、まだそれらが仕事自体に影響を与えるまでに至っていなくても、インナーワークライフへ瞬時に影響を与え得る。

栄養ファクターの効果。ヘレンの休暇の申請に対して、「プロジェクト・マネジャーのルースからこれまでの働きに対する感謝と、この『自由な1日』はこれまでの懸命な働きぶりに対する報酬なのだと念押しが書かれたメモを受け取った。そのメモは私の気分を良くしてくれたし、このプロジェクト・マネジャーとチームを成功させるために、もっと頑張りたいと思わせてくれた。」ルースは栄養ファクターを行かしたのだ。

●栄養ファクターにまつわる4つの出来事。
1.尊重
2.励まし
3.感情的サポート
4.友好関係

●毒素ファクター。栄養ファクターの対をなすもので、正反対の効果を持っている。
4つの毒素ファクター:
1.尊重の欠如
2.励ましの欠如
3.感情無視
4.敵対

――「尊重」が一番上にきている。このことは大きな意味をもっている。人は、「下」にみられたくないのだ。できれば「対等か上」にみられたい。
 だからこそ職場の人にとってマネジャーとの関係はつねに悩みのタネだ。最近よく思うのは、「勇気づけ」を行うときにこの「尊重」の要素を欠いていると、いかに「勇気づけ」をしたつもりでも相手には「尊重欠如」になる、ということ。だから、「勇気づけ」にけっして反対はしないけれど、「勇気づけ」という言葉で意識するより他の言葉で意識したほうがいい結果につながりやすい、とひそかに思っている。やはり、「勇気づけ」はカウンセラーからクライエントへ、大人から子供へ、の目線が根底にあるのではないだろうか。

●多くのマネジャーは人間関係上のサポートが部下たちをやる気にさせ感情を上向かせるのに重要であることを知っているように見える。しかしこの栄養ファクターで難しいのは、このファクターが優れた仕事を讃えたり、長い1週間の終わりに激励の言葉をかけるだけにとどまらない点だ。人間関係のサポートはマネジャーが直接部下とやり取りするときだけに生じるとは限らない。それは部下同士が互いに栄養を与え合う基礎を築くことでもある。

――実はポジティブな職場風土を築くというとき、部下同士のよい関係にばかり着目して部下側に研修を施そうという考え方が根強いのだ。実際は、ポジティブな職場風土はマネジャーから発信される。このことはいくら言っても言い過ぎではないと思う。幸い、本書の著者はそのことがよくわかっている。(←えらそう)




 おおむね抜き書きは以上。

 有り難いことに「行動承認」は揺るがない。

 ハーバード大ビジネススクールという本書の著者の「環境」にも思いを馳せる。「論理的」であることを尊ぶ風土のところで、「感情」の重要性を言うむずかしさを、膨大なエビデンス群で跳ね返してきたであろう。その労を多としたい。

 そのうえで、現代はまた、「感情」のさらに高次のもの、「理性」についても言わなくてはならない。従業員の「感情」を尊ぶが、その主体であるマネジャーは「理性」の人でないと、という、入れ子状態。

 だが、恐れることはない。

暴力の人類史下


 前記事に引き続き『暴力の人類史』(上)(下)(スティーブン・ビンカ―、青土社、2015年1月、原題'THE BETTER ANGELS OF OUR NATURE')を読んでいます。

 今日はその後半、下巻の「第8章 内なる悪魔」と「第9章 善なる天使」をじっくりと。いよいよ進化心理学者、認知科学者である著者ピンカーの本領発揮の、非常に読みごたえのあるところです。


 ですが、面白すぎてはしょれるところが少ない。ざくっとしたロジックの筋を追うことも大事ですがわたし的には脳科学の細かい知識のほうにも目が行きます。
 なのでこの記事は「続きを読む」を活用しようと思います。「ざくっとしたロジック」を表のウインドウで、細部の知識を「続きをよむ」で。


 「第8章 内なる悪魔」は、わたしたちを暴力的・攻撃的にさせる脳機能を扱います。これには5つのカテゴリーがあります。すなわち:

1.プレデーション(捕食):最も単純な種類の暴力で、ある目的のための手段として力を行使する。探索系によって設定される食欲や性欲や野心などを追い求めるために暴力が配備され、背外側前頭前皮質を格好の象徴とする脳内の知的な部分すべてによって暴力が誘導される。

2.ドミナンス(支配、優位性):ライバルよりも自らが優位に立とうとする衝動的欲求のこと。この欲求は、テストステロンを燃料とする支配系やオス間攻撃系と結びつくこともある。ただし、この欲求がオスだけのものというわけではなく、また個人間だけでなく集団間でも優位をめぐって争いをする。

3.リベンジ(報復、復讐):受けた危害を同じように返そうとする衝動的欲求のこと。直接的な主動力となるのは怒り系だが、その目的のために探索系を引き込むこともある。

4.サディズム:傷つけることそのものを喜びとする。

5.イデオロギー:あるイデオロギーを心から信じている人びとは、さまざまな動機を1本の教義に織りなし、そこに他人を引き込んで、破壊的な目標を遂げさせる。


 これに対してわたしたちを善たらしめる脳のはたらきがあり、これを「第9章 善なる天使」で取り上げます:

1.共感:「共感は過大評価されてきた」とピンカーは言います。

2.セルフコントロール

3.最近の生物学的進化?

4.道徳とタブー

5.理性

 このうちピンカーがもっとも期待と信頼を寄せるのは最後の「理性」です。「理性」は「セルフコントロール」や「道徳」と連携して「平和化効果」をもたらすといいます。
 加えて、人類のIQは20世紀初め以来、向上している(フリン効果)。自分の目の前のものだけでなく、より抽象的なものを理解し目の前にないものも推論できるようになり、この推論能力の向上が、「理性の平和化効果」と結びついて、20世紀後半の暴力減少や権利革命(人種、女性、子ども、動物など)をもたらしたのだろう、とピンカーはみています。

 本来凶暴なチンパンジーに近い人類が環境や文化や後天的努力によって長い平和を維持している。凄いことですね。


 大雑把にこれが『暴力の人類史』下巻の筋です。


 ところで、この原著の出版は2011年。この本には、最近のIS(イスラム帝国)の勃興やそれへの先進国の若者の参集はふくまれていません。

 また、「トランプ大統領」の誕生とそれを支えたアメリカの分断、それにネットデマの拡散や「PC(ポリティカル・コレクトネス)」への反動について、ピンカーはなんと言うだろう。という興味もそそられます。

 
 大統領選はるか前に書かれたこの本の中のひとつのヒントとして、ここには「統合的複雑性」という概念が出てきました。政治演説の洗練度を、「統合的複雑性」の概念によって測れる、といいます。

 たとえば「統合的複雑性」の低い文章は、「絶対に」「つねに」「間違いなく」「確実に」「完全に」「永遠に」「明白に」「疑いの余地なく」「まぎれもなく」といった単語を使います。
 文章の統合的複雑性は、それを作成した人の知能と相関関係にあり、特にアメリカ大統領において顕著だといいます。統合的複雑性があまり高くない言語を使う人は、フラストレーションに対して暴力で反応したり、戦争ゲームに参戦する機会が高いとも。

 そして、指導者の演説の統合的複雑性が低下すると、そのあと戦争が起きることが実証されているそうです。



 さあ、わたしたちが生きているのは「平和化から暴力化への揺り戻し」のプロセスなのでしょうか。
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暴力の人類史












暴力の人類史下




 ちまたでは『サピエンス全史』が流行っているようです。
 
 そんなとき天邪鬼なのか、一昨年邦訳された大作『暴力の人類史』(上)(下)(スティーブン・ビンカ―、青土社、2015年1月、原題'THE BETTER ANGELS OF OUR NATURE')のほうを手にとるわたしです。


 『サピエンス全史』は、まあTVで結論らしきことをきいたからいいかと(笑)いや、なんか「持ってかれそう」な匂いも感じたんですよね。


 当面ここでは『暴力の人類史』から学べることを丁寧にみたいと思います。著者ピンカーは認知科学者。上巻は歴史と統計を駆使して人類史を通じて暴力は減少していることを実証。下巻は著者の本領発揮で脳科学、認知科学をフル活用しながら暴力をつくる脳と、それを抑制する脳の働きを説明してくれます。

 はい、実は2つ前の記事以来のわたしの「側頭頭頂接合部」にかんする説明のタネ本は『暴力の人類史』です。

 ピンカーの脳科学の説明のしかたや、過去の諸研究の押さえかた、それへの疑義の呈しかたと結論の立てかたは、わたし個人的に非常にすきです。このようにものを考えたいものだと思います。(ページ数を食う記述方法かもしれませんけれどね)


 
 この本によると、わたしたち人類は古代も中世も、今よりはるかに残虐でした。

 現代人の目から見ると、聖書に描かれた世界の残虐さは驚くばかりだ。奴隷、レイプ、近親間の殺人など日常茶飯事。武将は市民を無差別に殺しまくり、子供でも容赦しない。女性は人身売買され、セックストイのように略奪される。神ヤハウェはささいな不服従を理由に、またはなんの理由もなしに何十万もの人びとを拷問したり虐殺したりする。


 ヘブライ語辞書には「国家や王、あるいは個人が他の人びとを攻撃したり殺したりしたことを明示的に記している箇所が600以上ある。…ヤハウェ自身が暴力的な罰の執行人として登場する箇所がおよそ1000、主が罪を犯した者をそれを罰する者の元に送る場面も数多くあるが、それ以外にヤハウェが人を殺すように明確に命令する箇所は100以上に及ぶ。


 イエス・キリストが処せられた「磔刑」という刑罰は、こんなおどろおどろしいものでした。


 ローマの磔刑は、まず裸にした受刑者を鞭打つところから始まる。使われたのは先の尖った石を編み込んだ短い革の鞭で、ローマ兵がそれで男の背中や尻、足を打つ。この論文によれば「裂傷は骨格筋にまで達し、血を流して痙攣する細い筋肉の束が剥き出しになる」。次に、両腕が重さ45キロほどもある十字架にくくりつけられ、男はそれを背負って支柱が立てられた場所に運んで行かなければならない。そこで彼は背中をずたずたにされた体を起こされ、手首に釘を打ち込まれて十字架に磔にされる(手のひらに釘を打ち込むという説明がよくされるが、手のひらの肉では体重を支えることはできない)。次に十字架が支柱にかけられ、両足は支柱に――通常は支柱のブロックなしに――釘付けにされる。両腕に全体重がかかり、肋骨はその重みで広げられるため、腕に力を入れるか、釘を打たれた両足を踏ん張るかしない限り呼吸はむずかしくなる。3,4時間から長ければ3,4日間苦しみ抜いた末に、男は窒息か失血のために死亡する。処刑人は男を椅子に座らせることで拷問の時間を引き延ばすこともできるし、こん棒で両足を叩きつぶし、死を早めることもできる。


 凄いですねえ。この本の上巻の前半はこれに限らず、残酷な刑罰、拷問、残酷な戦乱シーンのオンパレードです。こんな残酷刑を公開でやっていて、それを近所の人と見物に行って歓声をあげる感覚ってどうよ?と思いませんか。昔の人は、今の基準からみてお世辞にも人格高潔な人びとではありませんでした。


 中世の騎士道精神というのも全然かっこいいものではなく、ちょっとでも名誉を傷つけられた面子を潰されたと言っては剣を抜いて殺しあいました。昔の人の「承認欲求」は今よりはるかに剥き出しで血なまぐさいのです。

 
 原始時代の紀元前5000年ごろから数千年単位で、人類のうち暴力的な死を遂げる人の数が5分の1ほどに減った、といいます。さらに中世後半から20世紀までの間にヨーロッパ諸国では殺人の発生率が10〜50分の1に減りました。

 第一次・第二次大戦は20世紀を「暴力の世紀」と呼ばしめましたが、だから人類は暴力化の一途をたどっているかというと、それは大きな間違いでした。第二次世界大戦後は、超大国や先進国が互いに交戦しなくなりました。そして武力衝突やジェノサイドも、いまだに報道はされているものの過去より減っているというのです。さらに少数民族、女性、子ども、同性愛者そして動物に対する小規模の暴力に対しても嫌悪感が増大し、これらの暴力も減っています。


 人類は本来的に平和的なボノボよりは凶暴なチンパンジーのほうに近い、とピンカーは言います。進化の枝分かれにおいて、チンパンジーの祖先がわれわれの祖先に近かったようです。チンパンジーはボスが君臨するタテ社会でボスがメスザルを独り占め、メス同士の抗争で憎いライバルの子供を食べてしまうこともするし、クーデターが起こればボスの女をレイプしてしまうこともします。


 では、そんな人類がどうしていま、比較的フラットな社会をつくり一夫一婦制で平和を志向することができるのでしょうか。


 ピンカーはそこで「啓蒙」そして「文化」の力を挙げます。


 大きなターニングポイントは18世紀。ヴォルテール、モンテスキューら代表的な啓蒙思想家らが残虐刑を批判。ミラノの法学者・経済学者チェーザレ・ベッカリーアが1764年に『犯罪と刑罰』を発表するに及び、以後数十年以内に主要な西欧諸国では拷問がなくなりました。
 

 さらに下って20世紀のとりわけ第二次大戦後には世界中で急速に犯罪発生率、殺人発生件数が減少します。

 が、中で例外的な現象もありました。アメリカの60年代です。
 人口10万人当たりの殺人件数は、1957年の4人から60年代末には10人近くにはね上がりました。60年から70年までの殺人増加率は135%。自由に心のままに振る舞うことが奨励され、抑制された態度をとることをあざわらい、フリーセックス、ドラッグ、逸脱の文化が花開いた時代でした。

 この時代はベビーブーマーが10代後半〜20代を過ごした時期でもあります。この世代は世代的連帯感が強く、そして通信機器の発達もあってサブカルチャーの影響を強く受けました。この時代にアメリカの犯罪発生率は突出した高さを見せ、先進諸国の中の例外となりました。それは「抑制」の方向へすすんできた歴史的趨勢への反逆のような時代でした。

 その後、90年代にはカウンターの力が働き、アメリカは一転して「抑制」へ。犯罪発生率、殺人件数も急降下します(年間7%減)。


 結局、「文化次第」なのだということをこの例は教えてくれます。遺伝子的に進化が起こりようのない時間軸でも、「文化」が変わることで人類は行動様式を変容できるのです。

 (ちなみに、アメリカのベビーブーマーに当たるわが国の某世代も、人口比で犯罪発生率が突出して高いのだそうで…、この世代は「暴力の世代」なのです)


 
 
 このことは、教育屋のわたしにはさまざまな示唆を与えてくれます。


 例えば「承認教育」10数年の歩みの前半は、上の世代の行動様式との闘いでありました。暴力がデフォルトの世代の人びとからみると、「承認マネジメント」など綺麗ごとすぎて噴飯ものでした。実際、ベビーブーマーに当たる世代の男性コンサルタントから脅迫状がきたこともありました。


 しかし、「非暴力化」は国家間のみならず会社のようなコミュニティレベル、個人レベルにも及んでいるのです。上の世代にとって当たり前でなかった「承認」のような行動様式でも、今は新しい規範とすることができるのです。むしろ過去の規範が明らかに役立たなくなった今日、新たな規範の確立は必須でしょう。


 そして遺伝子的にシャイな日本人がデフォルトでは「ほめる」「認める」ことを苦手にすると言っても、アメリカで起きた犯罪発生率の極端な上下をみるかぎり、デフォルトでどうか、よりも「文化」の影響力のほうが大きそうです。文化は、教育やTV、ネット等メディアの力でつくれるものです。

 よくいわれる「遺伝の影響が大」というのも、さまざまな形質にたいする遺伝の影響は多く見積もっても40%であり(注:例外は知能。60%ほどが遺伝に影響される)、残りの60%以上は「環境」それも生育環境でなくある程度大きくなってからの外部環境に影響されるのです。なので遺伝子決定論<文化決定論 と言っていいかもしれないのです。

(家庭教育は、それほど大きな影響を与え得ない、というのはちょっと悲しいですけれどね。)



 
 この本では、ここ数十年の「非暴力のゆきすぎ」についてもややアイロニカルに触れています。小学校ではドッジボールが禁止され、今のアメリカの小学生はドッジボールをすることができない。失踪した子供のために「誘拐防止」のキャンペーンを大々的に張った結果、親たちは子供を学校まで車で送り迎えするようになり、公園から子供の姿が消えた。送り迎えの車にはねられて交通事故に遭う子供の数のほうが誘拐される子供よりはるかに多いという。ある女性ジャーナリストが9歳の息子の冒険の希望を叶えて1人で地下鉄に乗るのを許したところ、轟々たる非難がきたという。「ゆきすぎは見直しが必要だ」とこの本は言います。

 
 それでいえばこのブログでよく槍玉に挙げている「批判しない」テーゼも、ひょっとしたら「非暴力のゆきすぎ」であり、見直しをしないといけない種類のものなのかもしれない。とわたしなどは思います。





 もうひとつは、人類が「デフォルトで暴力的」である以上、「承認」はやはり、「批判理論」なのです。わたしたちのデフォルトに反逆するいとなみなのです。それは繁栄に通じる、価値ある反逆だからこそ、やる。フランクフルト学派の創始者の一人であるアドルノがナチスに追われ亡命したユダヤ人であり、暴力的なものにきわめて敏感な人物であったことなども想起しました。

 心優しい人、なんにでも「いいね」というタイプの人も、「承認」に共感してくださいますが、基本的に承認はデフォルトに対する抗いであり、闘争の意味合いをはらんだものである、ということです。

 「行動承認」の初期の担い手だった気骨あるマネジャーたちは、上の世代にたいする反逆精神を持ち、それとは違うやり方で成果を上げたいと考える人びとでした。今の時代のマネジャーたちにはそれほどの思い入れがなくとも学習できるものかもしれませんが。


 せっかく書き始めたので、ぜひこの本の脳科学・心理学的知見も次の記事でご紹介したいと思います。

『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)読書日記の後半です。

 前回は第一章「幸福(エウダイモニア)とは何か」第二章「人はどのようにして徳ある人へ成長するか」を丁寧にみてきました。

 今回は残りの章、第三章「性格の徳と思慮の関係」、第四章「徳とアクラシア(無抑制状態)」、第五章「友愛について」、第六章「観想と実践」を取り上げます。

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第三章 性格の徳と思慮との関係

●アリストテレスはプラトンの超越的な「善のイデア」を退け、「エンドクサ」、すなわち「人びとが抱いている定評ある見解」を吟味することを通して「幸福」ならびに「徳」の概念を考察している。このアリストテレスの立場を「内在主義」と呼び、この立場を明らかにするために、「ノイラートの船」という比喩を導入することにしよう。(p.83)

●ウィーン学団の指導者オットー・ノイラート(1882−1945)は、「知識の体系」を大海原で修理を必要とする船に喩え、「われわれは自分たちの船をいったんドックに入れて解体し、最上の部品を用いて新たに建造することはできず、海上でそれを改造しなければならない船乗りのようなものである」と述べている。われわれは「知」のゆるやかな体系を、それに頼りながら少しずつ改良していくことはできる。しかし、それから離れて概念化されていない実在との比較をおこなうことは不可能である。デカルト以来、近世哲学が求めてきた「知の普遍的な基礎づけ」は大きな幻想であったと言うことができる。(pp.83-84)

●「エンドクサ」の吟味を通して「幸福」を追求するアリストテレスは、過去から受け継いできた「徳の価値空間」という「ノイラートの船」に乗っており、倫理的価値(徳)を「内在的に」追求している。(p.84)
 
●20世紀後半以降の『ニコマコス倫理学』研究においては、カントと同様な意味で道徳判断の普遍性を主張する解釈が数多く見られる。この解釈を「普遍主義」と呼ぶとすれば、この普遍主義に対して、私は行為を問題にする場合普遍性は成り立ちがたく、具体的な状況を考慮する「個別主義」、「内在主義」が『ニコマコス倫理学』の思想を正しく捉える道だと考える。(同)

――アリストテレスは「個別主義」「内在主義」の人だったんだ。「個別化」のわたしと似た人だったかもしれないな^^(こらこら)

「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」「思慮(プロネーシス)」との関係を正しく理解することが重要である。「勇気」、「節制」、「正義」といった「性格の徳」はよく知られているが、そのような「性格の徳」を示す行為を遂行する場合、そこに必ず「思慮」が働いているとアリストテレスは主張する。そこでまず、「思慮」の機能を把握する必要があるが、「思慮」の概念は『ニコマコス倫理学』の中心概念のひとつであって複雑であり、しかも20世紀後半以降の研究においては普遍主義的な捉え方が支配的であることから、アリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているように思われる。(pp.84-85)

――おっ、野中郁次郎氏のいう「フロネシス(賢慮)」が出てきました。ところが、おやおや、20世紀後半以降の研究でアリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているというではありませんか。要注目です

●本書第三章第1節では、カントの「定言的命法」とアリストテレスの「思慮ある人の実践的推論」を対比し、従来なされてきた「思慮」ならびに「実践的推論」の解釈を批判し、アリストテレスの「思慮」がカントの「理性」とはその機能を大きく異にしていることを明らかにしたい。この作業を通してはじめて『ニコマコス倫理学』の中心概念である「性格の徳」と「思慮」の正しい姿が捉えれらると考えている。(p.85)

――はい先生、異存ございません。
ちなみに「性格の徳」と「思慮」の関係ということでいうと、わたしは従来から「強み」「価値観」などはいわばその人のパラダイムや認知バイアスとして働き、その人の思考能力に大きく影響を与えると考えてきました。哲学者の書いたものを読むとその人の強みが透けてみえるようにも思います。カント先生などは規律性か公平性ですね、わたしからみて。

●人間の場合、振る舞いとそれが目指す目的の関係は、動物の場合のように直接的ではなく、時間的にも、空間的にも遠く広がっていき、その目的もさまざまな視点からそれを捉えることができる。もちろん、それは人間に言語を介した思考能力があるためである。(p.869

●人間の振る舞いとその目的とを関係づけるのが、アリストテレスが「思案(boueusis)」と呼ぶ働きであり、それを通して行為「選択(proairesis)」が成立する。この行為「選択」に向けての「思案」の作用を実践的推論と呼ぶとすれば、アリストテレスはこの推論に、演繹的推論の場合と同じ「シュロギスモス(syogismos)、三段論法」(第六章第一二章、1144a31)という言葉を使っている。また実践的推論を妥当な演繹的結論を導くものであるかのように語っている箇所もあり、他方それ以外のタイプの実践的推論の事例を挙げて論じている箇所もある。(pp.86-87)

●まず、アリストテレス自身が「思慮」をどのように捉えているか、それを確認しておこう。アリストテレスは次のように述べている。
 “「思慮(プロネーシス)」については、われわれがどのような人を「思慮ある人(プロニモス)」と呼んでいるかを考察することによって、把握することができるだろう。
 思慮ある人の特徴は、自分自身にとって善いもの、役に立つものについて正しく思案をめぐらしうることであり、それも、特殊なこと、たとえば、健康のために、あるいは体力をつけるためには、どのようなものが善いものなのかといった仕方で部分的に考えるのではなくて、まさに「よく生きること(エウ・ゼーン)」全体のためには、いかなることが善いかを考えることである。このことの証拠は、われわれが「思慮ある人」と呼ぶのは、その人が技術のかかわらない領域において、何らかの立派な目的のために分別を正しくめぐらす場合である、という事実である。したがって、人生の全般にわたって思案する能力を備えた者が、思慮ある人ということになる。(第六巻第五章、1140a24-30)(pp.87-88)

●この箇所で、第一に、「思慮」は医術や大工術といった技術知のかかわらない領域において、「よく生きること全体のために、何が善いか」を思案する能力として捉えられている。第二に、アリストテレスは「思慮」の概念を「思慮ある人」の概念を通して捉えているが、「思慮ある人」はつねに具体的文脈のなかで状況を正しく捉え、行為する人物である。私は、これが「思慮」、「思慮ある人」の最も基本的な特性であると考える。(pp.88-89)

●それに対して、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉える人びとは、上に示した「思慮」の概念とは異なる把握を示している。彼らは、実践的推論の大前提を、具体的な文脈から独立に「思慮」を通して捉えられる普遍的道徳判断として把握し、小前提はその大前提の具体的な適用事例として捉えている。それゆえ、実践的推論は演繹的推論に類似した推論になってくる。(p.89)

●以下、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉えるのは誤りであることを明らかにし、それに代わる解釈を「思慮ある人の実践的推論」として提示したい。
 演繹的推論の例:
  大前提 すべての動物は死ぬ。
  小前提 すべての人間は動物である。
  結論  すべての人間は死ぬ。
 「すべての動物は死ぬ」という大前提命題は小前提からまったく独立に主張できる普遍的命題、つまり全称的判断である。また前提と結論のあいだの必然的な関係はそこに登場する「動物」や「人間」といった概念内容には依存しない。純粋に形式的な関係である。
 実践的推論の例
「友人を助ける行為は善き行為である」といった道徳判断はどのような場合にも成立する「普遍的判断」にはなりえない。というのは、この判断は、友人が困っている「ある状況において」はじめて成立する判断だからである。友人が困っていても、別の状況においては、友人を助ける行為よりもより優先すべき行為が考えられるからである。そこに、具体的な状況においてのみ真偽が問題になる実践的判断の特徴がある。(pp.90-91)

――フロネシスの例が出てきました。なるほど、野中氏は経営者の備えるべき徳としてフロネシスを言っていますが、わたしはむしろ上記の例は、ミンツバーグ的なマネジャーの状況判断に当てはまるもののように思えます。もちろんそれの延長線上に経営者がいます

●どうして現代の研究者たちは「規範―事例」型の推論をアリストテレスと結びつけるのであろうか。その大きな理由は、「規範―事例」型の説明が行為の正当化に端的に繋がっており、また次の第四章で取り上げるように、アリストテレス自身が、第七巻第三章において、実践的推論を「規範―事例」型の推論のように提示していることによっている。アリストテレスの「実践的推論」についての見解は必ずしも一貫していないのである。しかし私は本章において、第六巻第五章以下で展開される「思慮の働き」の視点から「実践的推論」の特徴を取り出し、それが「実践的推論」の正しい構造であると主張したい。(p.91)

●カントの定言的命法(道徳法則)およびカントとアリストテレスの見解の類似点と相違点。
 アリストテレスの倫理学においては、「思慮ある人」、「徳ある人」がその中心を演じている。「正しい行為」とは、思慮ある人が具体的な状況に直面した場合、その状況を把握し実行する行為である。「行為の正しさ」の基準は思慮ある人にある。他方、近世のカントにとって、「正しい行為」を考える場合、「思慮ある人」、「徳ある人」が介在する余地はない。「正しい行為」は「正しい行為の原則」から、つまり「定言的命法」から導出されることになる。
ところで先に述べたように、「規範―事例」型の推論解釈では、大前提には、具体的文脈から独立に捉えられる「普遍的な道徳判断」が掲げられ、小前提はこの大前提の具体的な適用事例とされて、結論の行為の導出が説明されている。しかし、この説明の中には「思慮ある人」も登場しないし、「思慮ある人」がその能力を発揮する具体的文脈への言及もない。
カント倫理学は近世思想を代表するものであり、この新しい時代の思想には「徳ある人」「思慮ある人」に代わって「正しい行為の原則」が登場する。しかし、アリストテレス倫理学がこのカント的思想を介して解釈されるならば、「徳倫理学」のもつ真の意義は歪められてしまうことになると私は考える(pp.92-93)。

p.94 カントの「定言的命法」−省略。

●アリストテレスも、カントと同様に道徳的行為に関して、「ここで何を為すべきか」は客観的に決まっており、そこに真偽の問題が成立すると考える。すなわち、道徳判断は行為者の先行する意志に依存する条件的命法ではなく、定言的命法であると考えているのである。アリストテレスはそれを次のように述べている。
 “思考の働きにおける肯定と否定にあたるものは、欲求の働きにおける追求と忌避である。また、性格の徳は選択にかかわる性向であり、選択は思案に基づく欲求であるから、選択がすぐれたものであるためには、道理(ロゴス)は真なるものであり、欲求は正しいものでなければならず、道理が肯定するものを欲求は追求しなければならない。
 ……行為にかかわる思考的なものの機能(エルゴン)とは正しい欲求に一致している真理を捉えることにある。(第六巻第二章、1139a21-31)
 この最後の文章において、アリストテレスは、思慮の機能は具体的な状況で「正しい欲求」が何かを把握することであり、それが「真理」を捉えることであると主張している。(pp.95-96)

●では、「正しい欲求に一致している真理」とはどのようにして捉えられるのだろうか。
「優れて善き人(スプウダイオス)」という言葉は『ニコマコス倫理学』で最も頻繁に登場する表現であり、それに次いで「思慮ある人(プロニモス)」という言葉が多く用いられている。またアリストテレスがこの両表現をほぼ同義の表現として使っていることは広く認められる。(p.96)

●“実際、優れて善き人(スプウダイオス)がそれぞれのものごとを正しく判定するのであり、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が見えているのである。……優れて善き人はそれぞれの場面で真実を見ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そうした美しさや快さを判定する尺度であり、基準なのである。(第三巻第四章、1113a29-33)
(p.97)

●「優れて善き人」、つまり「思慮ある人」が、個々の具体的な行為の文脈において捉える判断が、「行為の正しさ」の基準であり、「思慮」を示す「中庸の判断」であり、それが「正しい欲求に一致している真理」であるとされるのである。
 このように、思慮ある人はその推論において具体的な状況を重視し、文脈から独立な「普遍的規範」を機械的に個別的事例に適用するようなことはない。したがって、アリストテレスが実践的推論で「規範―事例」型の推論を考えていたという根拠は乏しいように思われる。(p.97)

――このあたり著者独自の見解を述べていると思われますがおそらくこちらが正しいのでしょう。やはり哲学者、あるいは哲学研究者というのはわたしからみてちょっとASD的な人が多く、ある法則を演繹的に杓子定規に当てはめるやり方に魅入られやすいのだと思います。たぶんその人たちはカントとも親和性が高いです(こらこら)

●『ニコマコス倫理学』において、まず強調したいのは、「大前提における道徳判断はつねに小前提との関係において成立する」ということである。しかもその場合、「規範―事例」型の解釈とはまったく逆に、アリストテレスは、実践的推論の出発点が「普遍的な規範命題」ではなく、具体的な状況についての知覚であると語っている。すなわち、アリストテレスの「思慮」はカントの「理性」とは異なり、「小前提における具体的な状況を把握する知覚能力であるとともに、大前提における目的に関わる思考能力」なのである(第六巻第八章1142a23-30、第六巻第九章、1142b32-33参照)。(p.98)

●行為者は直面する具体的な状況を知覚することを通して、「ここで何をすべきか」を把握する。具体例を挙げると:
 ある人物(思慮ある人)が以前から楽しみにしていたパーティに出かけようとしているところに、突然、友人が悩みを抱えて訪ねてくる。そこで、その人物はただちにパーティをキャンセルして、友人の悩みを聞き友人を慰めようと決心する。(pp.98-99)

●このエピソードにかかわる「実践的推論の構造」を次のようにまとめることができる。
(1)小前提とは、ある状況に遭遇した行為者が、その状況のうち彼が対応すべき最も突出した事実(the salient fact)として立ち現われてくるアスペクトを記録したものである。(「何が突出した事実のアスペクトであるか」は行為者の「性格」、「人柄」と相関的である。)
(2)また、この小前提(として記述される出来事)はそれにかかわる人生における様々な「価値」や「理念」を活性化するが、それが大前提として捉えられる。すなわち、「いかに生きるべきか」について行為者が抱く価値観が、その状況下で、彼に立ち現われているアスペクトを小前提として最も突出したものたらしめるが、その価値観が行為の理由のかたちで大前提として立てられ、具体的な行為を導くのである。
 これが「思慮ある人」が具体的な状況において遂行する「実践的推論の構造」であると私は考える。(p.99)

――おもしろいですね。わたし的にいえば「友達を大事にする」という「価値観」ですが、それが状況に応じて「大前提」になっていると考える。文脈を表面的にみれば「大前提」は「パーティに行く予定」とか「パーティを楽しみにしていた」のようにみえるのですが、「悩みを抱えた友人が訪ねてきた」という事態に応じて、大前提は全然違うものになってしまうというのです。しかし、こういうのは行為者自身も「あとづけ」でしか説明できないでしょうけれどね・・・。
何かに使えないかな、と思いました。

●「なぜキャンセルするのか?」という問いが投げかけられる。それに対して行為者は「友人が悩みを抱えて訪ねてきたのだ」と答える。その場合、相手はさらに「そうだとしても、どうして楽しみにしていたパーティまでもキャンセルするのか?」と尋ねるかもしれない。その問いに対して、行為者はさらに「行為の理由」を挙げて説明するであろう。
 為された行為に対して「なぜ?」という問いが立てられ、それに対して「行為の理由」を挙げて答える。このように、行為にはその「行為の理由」「行為の秩序」があり、それを示すことがアリストテレスの実践的推論の目的であったと思われる。(pp.100-101)

――たしかに、突発的な事態に対してマネジャーが意思決定を行う、選択を行う、というとき、上述のような「大前提のすりかわり」は日常的に起きているかもしれないですね。「クレーム対応」などはそうですね。

●実践的推論は二通りに分類されていた。すなわち、^綵僂簑膵術といった技術知がかかわる推論、つまり目的を前提して、その目的をめざす手段の選択が問題となる推論と、◆峪徇犬△訖諭廚かかわる、「善く生きること」全体のために、「ここで何をすべきか」にかかわる推論とである。
 普遍主義的解釈が取る「規範―事例」型の推論は、後者の実践的推論をあまりにも演繹的推論に同化してしまっていると私は考える。(p.101)

――それは、ASD系の人ならやりそうです。ビジネススクールで教えるロジカルシンキングもそのきらいがありますね。

●勇気、節制、正義といった徳の行為が成立するための条件が下記の文章に3つ述べられている。
”徳に基づいてなされる行為は(芸術作品の場合と異なり)、それが特定のあり方を持っているとしても(それだけで)、正しく行われるとか、節制ある仕方で行われることにはならないのであって、行為者自身がある一定の性向を備えて行為することもまた、まさに正しい行為や節制ある行為の条件なのである。すなわち、第一に、行為者は行っている行為を知っているということ、第二に、その行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択するということ、第三に、行為者は確固としたゆるぎない状態で行為しているということ、これら三つの条件が満たされなければならないのである。(第二巻第四章、1105a28-33)(pp.103-104)

●ここでは、第二の条件と第三の条件に注目したい。「行為者はその行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択する」という第二の条件は、「いま、この状況で為されるべき最も善き行為」の「選択(proairesis)」であると言える。この働きがまさに「思慮」の働きなのである。また第三の条件として「行為者は確固としたゆるぎない状態で行為する」とは、行為者が「節制」、「勇気」、「正義」等々の徳の教育、訓練、経験を通して、そのような「性格の徳」がしっかり身についているということを示している。『ニコマコス倫理学』第二巻の狙いは、子供を節制、勇気、正義等の「徳の空間」、つまり「倫理的価値の空間」へと導き入れることにある。その結果、子供は、動物のような「非理性的性向」を脱し、正しい行為のかたちを学んで行くことになる。(p.104)

●子供は「カロン(美しい・立派な)」といった言葉、あるいは「アイスクネー(みにくい、恥ずかしい)」といった言葉を対象や行為に適用する仕方を学び、「美しい、立派な」「みにくい、恥ずべき」といった事態を徐々に了解できるようになっていく。その結果、「美しい、立派な」行為へと動機づけられ、「恥ずべき」行為を避けるようになる。したがって、どのような現象や行為を「カロン(美しい)」と捉えるかに習熟していくことは「思慮」の能力と密接に結びついており、「思慮」の機能の成立は情念や欲求の訓練と切り離すことはできない。(pp.104-105)

――「美しい、みにくい」という価値づけによる正しい行為の教育。こうあるべきだなあ、と思いながら、現代はどれほどそこから離れてしまっただろうか?とも思う。武士道教育などはそれに近かったのだろうか。学校のいじめについて、「絶対あってはならない」という立場と、「必要悪。無菌状態で教育することはできないのだから、慣れて適応すべき」という立場があると思う。前者に立たなければいじめは根絶できないのだが、現実には親もそして先生も、後者の「本音」をやっているのではないだろうか?
 いずれにせよ、この一節が妙にこころに響いてしまうのは、わたしがどうしようもなく「教育的人間」だからかもしれない

●普遍主義的解釈は、「思慮」を情念や欲求から独立なカント的「理性」能力として捉える傾向があるが、われわれは逆に「性格の徳」のみならず、「思慮」の能力も、人間の自然的な欲求や情念を陶冶することによって「第二の自然」として成立すると考える。(p.105)

●“人間の機能(ergon)は「思慮」および「性格の徳」に基づいて成し遂げられる。なぜなら、(性格の)徳は目標(ton skopon)を正しいものにするのであり、「思慮」はその目標へと至るものごと(ta pros touton)を正しいものにするからである(第六巻第一二章、1144a6-9)
(p.106)

●先に述べたように、「徳とは知である」とするソクラテスは「性格の徳」と「思慮」を同一視するが、普遍主義を取る人びともソクラテスと同様に考える傾向がある。しかし、「性格の徳」と「思慮」は区別しなければならない。「性格の徳」は「思慮」と結びつくことによってこの世界にかかわるのであり、逆に「思慮」は「性格の徳」と結びつくことによって、「ひと」に宿った「正しい目標」にかかわることになる。すなわち、「性格の徳」とは「思慮」をそなえた「魂の性向」なのである。(p.107)

――今更ですがビジネススクール的ロジカルシンキングがそれ単独で「正しく考える方法」を教えてくれるわけではないんですよね。いわば「正しい価値観」がその大前提にないといけない。ということをアリストテレス先生が言ってくださっているようで、うれしかったです。

第四章 徳とアクラシア

●『ニコマコス倫理学』第七巻では「アクラシア」を取り上げている。ギリシア語の’akrasia’の’a’は否定を示し、’krasia’とは’kratos’、つまり「力」という意味であって、「アクラシア(akrasia)」とは「力のないこと」、「力をもって自己自身をコントロールできない状態」。「無抑制の状態」を意味する。(p.109)

●ソクラテスは対話篇『プロタゴラス』(352C-)において、知識は他の諸能力を宰領してひとを善き行為に導いていく最高・最強の力であり、「善と知って行わず、悪と知りつつ行うことはあり得ない」と主張する。(略)しかし、このソクラテスの見解はパラドクスであり、常識と明らかに矛盾する。われわれは知識をもちながら、欲望に支配されて為すべきではないことを行い、後になって後悔することが多い。(p.110)

●アリストテレスは、ソクラテスの理性主義を受け継いでおり、この立場に立って現実のアクラシア現象を説明し、パラドクスを解こうとする。しかし、第七巻で目指しているのはむしろパラドクスを解くことを通して、「徳」と「幸福」の関係を別の視点から明らかにしようとしている。(pp.110-111)

●第七巻の「アクラシア」の議論は「徳へ向けての途上の状態」とはどのような状態であるかを解明している。それは「無抑制」と「抑制」の状態であり、われわれ人間のほとんどはこの状態にあるといえる。したがって、「無抑制な人」は「抑制ある人」とどのように異なり、「抑制ある人」は「徳ある人(思慮ある人)」とどのように異なるかを明らかにすることは、われわれはどのようにして幸福に至るか、その道筋を示すことになる。(p.111)

●アリストテレスは、アクラシア(無抑制)」を次のように説明する。われわれは普遍的知識を「所有」していても、具体的な行為に直面した場合、欲望に支配されて、酩酊の人物と同じ状態になってしまい、その知識を「使用」できず、正しい行為ができなくなり、アクラシア状態が生じてくる、と。
 ソクラテスの「アクラシア(無抑制)の否定」に対して、アリストテレスはこのように知識の「所有」と「使用」、あるいは「普遍的な知識」と「個別的な知識」といった概念の意味の区別を通して、知識をもちながらアクラシアが成立することを説明しているのである。これはアクラシアの「ロギコース(logikōs、概念的)」な説明と言える。(p.113)

●他方、アクラシアが生じる原因をピュシコース(phusikōs、自然学的)に見定めることができる。
 ピュシコースな説明とは、簡単に言えば、行為者の「思いなし」と「行為」との間の「因果的な関係」の考察である。(p.114)
例:“もし甘いものはすべて味わうべきであり、いま個別的なこのものが甘いとすれば、その場合、行為する能力をもっており、かつ行為が妨げられることのないような人は、同時にまたこの特定の甘いものを味わう行為をすることは必然である。(第七巻第三章、1147a29-31)(同)

●次にアクラシア(無抑制)という事態がどのようにして成立するかの説明。
ここに「すべての甘いものは健康に悪い」と「すべての甘いものは快い」というふたつの大前提が存在する。前者は道理(ロゴス)が告げるものであり後者は欲望が告げる普遍的な思いなしである。そして目の前に「甘いものがある」という事態が成立している場合、アクラシアに陥る人は、「すべての甘いものは健康に悪い」という普遍的な知識を所有してはいるが、目の前の「甘いもの」に対する欲望が力ずくで「甘いものを食べる」という行為に引っ張っていき、アクラシアの行為が生じることになる。
 一方、「節制ある人(ソープローン)」つまり「徳ある人」の推論と行為では、欲望は関与しない。道理(ロゴス)に基づく推論「すべての甘いものは健康に悪い」に従い、目の前の甘いものにたいして「これは健康に悪い」と判断し、食べない。
 このように、道理(ロゴス)が占める大前提と欲望が示す大前提との対立葛藤が存在し、無抑制な人(アクラテース)は甘い食べ物を食べてしまい、後で後悔することになる。「アクラシア」という事態がどうして生起するのかに関する、ピュシコースな(自然学的な)説明として多くの人びとが取っている解釈は、以上のようなものである。(pp.116-117)

●行為とは、「何かを目指す行為」であると同時に、必ずまた「誰かの行為」である。それゆえ、アリストテレスの徳倫理学はこの行為の主体をめぐって展開する。(p.120)

●アリストテレスは、ここで、徳ある人(思慮ある人)とそれ以外の人びととの根本的な相違を強調している。それ以外の人びととは、無抑制な人と抑制ある人、ならびに放埓な人(akolastos)、つまり悪徳に支配されている人物である。(同)

●実践的推論において、徳ある人(思慮ある人)は直面する「個別的な事柄」を知覚することを通して「何を為すべきか」を導出する。その場合、徳ある人(思慮ある人)が示す「思慮」とは、「ある状況が含む行為誘導的諸特徴(the potentially action-inviting features of a situation)」のどれがここで重要なのかを見抜く能力である。
 すなわち、「思慮」がかかわる実践的推論の場合、アリストテレスの見解は「欲求(意志)」を「信念(知覚)」から独立に捉えるヒュームの二元論的な考え方とは根本的に異なっている。アリストテレスにとって、思慮とは「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のどれがここで重要なのかを見抜く知覚能力であり、この知覚を通して「何を為すべきか」が導かれる。それゆえ、行為が帰結するために、この思慮以外のものは何ら必要とはしないのである。(pp.120-121)

●「無抑制の人」と「徳ある人(思慮ある人)」との区別、さらに「抑制ある人」と「徳ある人(思慮ある人)との区別を明らかにしよう。
 少し前の「悩みを抱えた友人が訪ねてきたので楽しみにしていたパーティをキャンセルした人」の話。
 徳ある人(思慮ある人)は当の状況の特性を十全に把握し行動するが、抑制ある人と無抑制な人は徳が要求している以外の特性(パーティがもたらす喜び)に魅せられ、駆られる人である。したがって、彼らは直面する状況の意味を十全に捉え切っていないと言える。(pp.121-123)

●徳ある人(思慮ある人)は「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のうちのしかるべき特性を注目し、彼の「動機的エネルギー」はその特性に集中し、それ以外の特性に惹かれることはない。たとえば、悩みを抱えて訪ねてきた友人を知覚する場合ただちにパーティをキャンセルして友人の悩みを聞くのであり、彼が行為する以外の可能性(たとえば、パーティに行くという行為)は彼に生じることはない。その状況の知覚はそれ以外の行為の可能性を「沈黙させる(silencing)」と言える。(p.123)

●それに対して、無抑制な人は徳ある人(思慮ある人)とは異なり、「友人の悩みを聞くべきである」と思いながら、「パーティでの喜び」に惹かれて、パーティに出席してしまう人である。なお、第七巻第七章において、アリストテレスは「無抑制」を「性急さ(プロペティア)の無抑制」と「弱さ(アステネイア)の無抑制」に区別している(1150b19)。(pp.123-124)

●他方、抑制ある人は、徳ある人(思慮ある人)と同じ振る舞い(パーティをキャンセルして友人の悩みを聞く)をする。しかし抑制ある人と徳ある人(節制ある人)は異なる。
 “抑制ある人とは身体的な快楽のゆえに道理に反して何かをするということを決してしない人であり、節制ある人も同じである。しかし、抑制ある人の方は低劣な欲望をもっているのに対して、節制ある人はそのような欲望をもたない人である。また節制ある人は道理に反しては快楽を感じない性質の人であるが、抑制ある人の方はそのような快楽を感じても、それに導かれない性質の人である。(第七巻第九章、1151b34-1152a3)(pp.124-125)

――むずかしくなってきた……。甘いものの例でいえばわたしはアカラシア(無抑制)の人に入るかも。悩みを抱えた友人の件は、もちろん善意の友人だという前提があるのだと思う。この件に関しては「抑制ある人」になれるかな、という気がする。後ろ髪くらいは引かれそうな気がする。

●この考察にとって重要なのは、「徳ある人」、つまり「思慮ある人」の把握である。徳倫理学にとって、「思慮ある人」は具体的な状況に直面したときにその状況を正しく捉え、行為する人である。……アリストテレスはアクラシアをめぐる考察を通して「徳に向けての途上にある」とは具体的にはどのような状態なのかを示し、それによって「人は徳を習得することによって幸福に至りうる」という道徳的発達論を補強しているのである。(p.126)

――こういう文章を読むのがわたし的に何に役立つのかというと……、「強み」の学習などによって、「自分のパラダイム」に気づいてもらい、たとえばその人の何かの強みが「欲望」になり得、「煩悩」とよべるレベルにまでなり、その人に不利益をもたらしている可能性を考えてもらう。というところかな。

――「中庸」の概念も一緒に学べるとよいですね
よくあるのが、「承認」を学んだ人が、「自我(強い承認欲求につながる強み)」がガーッと亢進しやすいです。それはなかなか厄介な状態で、なんとか防止しやすいのですが、事前に釘をさしてもたぶん理解できなくて、フォローアップの中で治すしかないのでしょう。
フォローアップ大事です。

第五章 友愛について

●『ニコマコス倫理学』では第八巻と第九巻の二巻、つまり全体の五分の一が「フィリア」論に当てられ、アリストテレスがいかに「フィリア」を重要視していたかが窺える。「フィリア」は普通、「友愛」と訳されるが、日本語の「友愛」や英語の”friendship”よりも広い関係であり、そこには親と子、主人と奴隷、客と店員、支配者と国民といった関係が含まれ、それを通して「社会的な人間関係」が追求されている。(p.127)

――「フィリア」と「承認」の関係もみてみたいですね

●『ニコマコス倫理学』の第七巻まで、アリストテレスは自己のエウダイモニア(幸福)を実現する「勇気」、「節制」、「温和」、「高邁」といった「徳」を考察しており、第八巻、第九巻の「フィリア」の考察は、「性格の徳」から「社会的な人間関係」のような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるへと、すなわち『政治学』の主題へ向けて一歩を踏み出していると言える。(p.128)

●愛されるもの(phiēton)が「有用なもの(xrēsimon)」、「快いもの(hēdu)」、「善きもの(agathon)」に分けられる。つまり「利」、「快」、「善」に応じて三種類の友愛が区別されている。
 三種類の友愛のうち相互に相手に「善きもの」を与えようとする友愛関係が「真の友愛」と呼ばれる。これは徳ある人同士の関係であり、この関係がアリストテレスの「友愛」論の核心部分を形成する。また「友愛が幸福の不可欠な条件である」という見解も述べている。(pp.128-129)

●「有用性」と「快楽」に基づく人間関係。
“有用性のゆえに互いに愛し合っている人びとは、相手の人自身に基づいて愛しているのではなく、相手からお互いに何か善いものがもたらされるかぎりにおいて愛しているのである。快楽のゆえに愛する人びとも同様であり、たとえば、そのような人びとは機知に富む人びとを、その人が特定の人柄であるから好むのではなく、もっぱら自分たちにとって愉快だから好むのである。(第八巻第三章、1156a10-14)

●これに対して、「善きもの」に関わる友愛関係はその性質を大きく異にしており、アリストテレスはそれを「完全な友愛」、「真の友愛」と名づけている。
“完全な友愛とは、徳に基づいて互いに似ている善き人びと同士のあいだの友愛である。なぜなら、完全な友愛にある人びとは、互いに相手にとって善いことを同じような仕方で望むが、それはお互い善き人として相手自身の善さに基づいたものだからである。すなわち、友人にとって善いものを、当の友人のために望む者は、真の意味での友人である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方のゆえであり、付帯的な仕方に(kata sumbebēkos)よるものではないからである。(第八巻第三章、1156b7-11)
 このように善き人びとのあいだの友愛は、善き人びと自身のあり方に基づいて、つまり徳に基づいて、お互いに相手のために善きものを願う関係である。またこの真の友愛は当然「有益なもの」と「快いもの」を含んでいる。(pp.130-131)

●ところで、「快楽」や「有用性」のゆえの友愛関係は、「善きもの」のゆえの友愛関係と同様、相互的である。しかし、前者の関係は低劣な人びと同士のあいだでも、また善き人と低劣な人とのあいだでも成立するが、他方、「善きもの」のゆえの友愛関係は、アリストテレスが「高潔な人(エピエイケースepieilēs)」と呼ぶ人びとのあいだにおいてのみ成立する関係である。(p.131)

●以上の友愛はいずれも「等しさ(イソテース)に基づく者同士」、つまり「上下関係にない者同士」の友愛関係である。しかし、第八巻第七章から第一四章において、アリストテレスは「優越性(ヒュペロケー)に基づく」友愛関係を取り上げている。それは、たとえば、親と子供、夫と妻、主人と奴隷など、「家族における友愛関係」であり、あるいは、支配者と被支配者といった「ポリスにおける友愛関係」である。この友愛関係の分析はアリストテレスが「家族」や「ポリス」をどのように捉えているかを知るうえで有益である。(p.131)

――ここは、研究者は重視していないみたいですが、わたしは「マネジメント」を考えるうえで大事だと思っています。上司部下関係というのは、部下側の「承認欠如」の感覚を容易に招くものです。だから、それを補う意味でも上司の側から「承認」をしないといけない。また実際やってもらうと驚くほど効果がある。ただそれは「徳ある人」同士の友愛または承認と異なり、自然にできるものではなく困難が伴います。だから訓練してでもやらないといけない。
 いつもいうように「研究者は自分のことを研究するのが好き」ですからね。

●「性格の徳」は個人の魂の卓越性であり、すべて個人の幸福を増進するものである。したがって、このアリストテレスの議論に対して「利己主義の傾向が強い」という批判がなされてきているが、この友愛の議論はその批判を考える上で重要な内容を示している。
アリストテレスの徳の教義をイエス・キリストの教え、あるいは近世のカントの定言的命法の主張、さらには功利主義の「最大幸福の原理」と比較するとき、上記の批判は一応成り立つように思われる。しかもアリストテレスによれば、「真の友愛」とは隣人の善を願い、相手のために振る舞うことであるが、この「真の友愛」の考察においても、彼は「友愛は自己愛に由来する」と主張し、「友愛」を「自己愛」の延長において捉えようとしているのである。

●しかし、アリストテレスの見解ははたして「利己主義」と言えるであろうか。アリストテレスの「真の友愛」についての見解は彼の「徳」についての見解に基づいているが、そこにアリストテレスの「友愛」論の特色が示されることになり、逆にこの友愛論において、彼の徳倫理学の真価が示されているとも言える。(p.133)

――これもおもしろいですね。徳を身につけ人格的完成をすることはそもそも何のためなのか。自分づくり、自分探しに埋没していたら何にもなりません。大事なのは他人に何を施すかです。アリストテレス先生そのことに後から気がついたのかな、それとも最初からそういう構成にしようと思っていたのかな。

●アリストテレスは第九巻第四章において、「隣人に対する友愛関係は自己自身に対する友愛に由来する」と語っている(1166a1-2)。「友愛」とは普通、「他者」に対する関係であるが、「自己自身に対する友愛」とは一体どのようなものであろうか。(p.133)

――他人を大切に思う心が自分への慈しみから発生する、というのは今の心理学、脳科学からみても間違いではないんじゃないだろうか。他人がこう扱われたいだろう、ということは自分の感覚から「類推」して考える。それはメタ認知のはたらきだ。

●アリストテレスはまず、「友人」つまり「友である者」の特徴(条件)を5つ挙げている。
〜韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する者である。
∩蠎蠅存在し、生きることを相手のために望む者である。
ともに時を過ごす者である。
ち蠎蠅汎韻犬海箸らを選ぶ者である。
イ箸發鉾瓩靴漾△箸發亡遒崋圓任△襦
(pp.133-134)

●アリストテレスは人間の魂を「ロゴス(道理、分別)をもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けている。「ロゴスをもたない部分」とは「欲求・情念」が関わる部分であり、ちょうど、父親の言葉に従うように「ロゴスに耳を傾ける部分」として規定される。すなわち、しつけ、訓練を通して、われわれの「欲求・情念」には「ロゴス(理性)」の働きが浸透していくのであり、そこで欲求・情念を、「ロゴス(理性)」の働きが浸透しロゴスに支配されているものと、そうではないものに分けることができる。
 このようにわれわれの魂を二つに分けるならば、「高潔な人(エピエイケース)の自己自身に対する関係」と「低劣な人の自己自身に対する関係」ははっきり異なってくることになる。高潔な人の自己自身に対する関係は、ロゴス(理性)が欲求・情念を正しく支配する関係であり、他方それに対して、低劣な人とはそのロゴス(理性)が欲求をコントロールできない人であり、抑制のない人である。(pp.134-135)

●先に挙げた友人の条件のうち、,痢崛韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する」ということが成立するためには、アリストテレスによれば、「善もしくは善と思えるものを自分のために望み、かつそれを実行する」ということが成立していなければならない。そうなると、真の友愛の条件はきわめてきびしいものになってくる。
 たとえば、母親の子供に対する愛は「真の友愛」には当たらない、それは相互関係ではないし、母親も子供も「徳ある人」には当たらない。このように、徳ある人が稀であるおうに、「真の友愛」関係はきわめて稀な関係になってくる。

――きたきた。これも、「自己実現」が、マズローの本来構想した意味は極めて限られた卓越した人のものだったように、哲学者の考えることは大体において、自分たち自身の話になっていくのだ。それでいうと母の子に対する愛を称揚したヘーゲルやホネットはむしろ「まとも」だったかもしれない。

●アリストテレスは「自己愛」をどのように捉えているのだろうか。
 第九巻第八章では、「ピラウトス(philautos)」という概念が取り上げられている。「ピラウトス」とは「愛(philia)」と「自己(autos)」から合成された言葉であり、「自己を愛する者」、「自己愛者」、「利己主義者」という意味である。アリストテレスは「ピラウトス」の通常の意味を次のように説明している。
 “自己愛(ピラウトス)を非難すべきものと考える人びとは、金銭や名誉、あるいは身体的快楽において自分により多くを配分する者のことを「自己愛者」と呼んでいる。というのも、多くの人びとはこうしたものを欲求し、またこうしたものを最も善きものと見なして、それらに夢中になっているからである。(第九巻第八章、1168b15-19)。
 このように、アリストテレスは、人びとは「自己愛者」という言葉を非難の意味を込めて使っていることを認めたうえで、真の意味での「自己愛者」という概念を新しく次のように規定する。
 “もし人がつねに、正しいことや節制あること、あるいはその他、徳に基づくことなら何であれ、そうしたことを誰にもましてみずからが行うことに熱心であり、また一般に、美しいものをつねに自分自身の身に備えようとするのであれば、だれもそのような人を「自己愛者」と呼んで、非難したりはしないはずである。こうした人こそ、むしろ優れて「自己を愛する者」と考えることもできよう。(第九巻第八章、1168b25-29)(pp.136-137)

●このように、アリストテレスは高潔な人(エピエイケース)、つまり徳ある人は誰よりも自己を愛する人であると主張し、この人物は非難されるたぐいの「自己愛者」とは別種のものであることを強調し、次のように述べている。
“この2つの種類の自己愛の相違は理性(ロゴス)に基づいて生きること、情念(パトス)に基づいて生きることの相違に対応し、また美しいもの(カロンなもの)を欲求することと、利益になる(シュンペロン)と思われるものを欲求することの相違に対応しているのである。(第九巻第八章、1169a4-6)
 ここで、われわれは真の意味での「自己愛者」が「カロンなもの(美しいもの)」を欲求する者として規定されていることに注目したい。このように、アリストテレスは真の「自己愛者」を規定するために「カロン(美しい)」の概念に訴えているのである。(p.138)

●アリストテレスは、常識的な意味で「自己の利益を最大にすることが幸福である」とは考えていない。すなわち、彼の「友愛論」は利己主義とは無縁であると言える。アリストテレスは、自己犠牲の行為を選択する人は「カロンなもの」を自己自身のために選ぶと述べており、「カロン(美しい)」という概念を価値を最終的に決めるキー概念として捉えている。(p.139)

●カロンの概念整理。
(1)「カロン(kalon)」は「美しい、見事な、立派なもの」という意味であり、その反対語は「アイスクロス(aischros)」、つまり「醜い、恥ずべき、卑劣なもの」である。『ニコマコス倫理学』の多くの箇所で、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と述べている。すなわち、「カロン」という表現は「勇気」、「節制」、「親切」といった個々の「徳」の概念に並ぶ概念ではなく、具体的な状況において、そのような「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。言い換えれば、勇気ある行為であれ、親切な行為であれ、それが徳ある振る舞いであるためには、それらの行為は「カロンな行為」として捉えられていると言えるのである。
(2)この「カロン(美しい、立派な)」の概念は、『ニコマコス倫理学』第五巻で論じられる「正義(デュカイオシュネー)」の概念と同じ機能を果たしていると言うことができる。アリストテレスは「正義」を「配分における公正」という意味での部分的な「正義」の概念と、「性格の徳」である「全体的な徳性(hole arēte)」としての「正義」に分けている。そしてこの後者の全体的な徳は「性格の徳」のひとつであるが、しかし、それはその他の個別的な徳とは異なり、すべての「性格の徳」を統括する徳であり、勇気ある振る舞いにせよ、節制ある振る舞いにせよ、それが徳ある振る舞いであるためには、「正義」の徳が成立していなければならないとされている。ここには、ソクラテスの「徳の一性」の思想が反映していると言える。
 このように、「カロン(美しい)」の概念は、「全体的な徳性」としての「正義」の概念とともに、最終的な価値の客観的基準を示す概念として捉えられている。(pp.139-141)

●幸福な人はまさに友人を必要としていると言える。アリストテレスは友愛の必要性を次のように述べている。
 “幸福な人にあらゆる善きものを分配しながら、外的善のうちでも最大のものと考えられる友を分配しないのは、奇妙なことに思われる。そして、相手からよくされるよりも、相手によくする方がいっそう友にふさわしく、しかも相手によくすることが、善き人と徳に固有の特徴であるとすれば、また見知らぬ人よりも友によくすることの方が美しい(カロン)とすれば、その場合、優れて善き人(スプウダイオス)は、自分のほどこす恩恵を身に受けてくれる人びとを必要とすることになるだろう。(第九巻第九章、1169b8-13)(p.142)

●次に、アリストテレスは、人間は本性的に「社会的存在(ポリティコン)」であり、どんな幸福な人も友人を必要とする」ことを指摘する。
 “あらゆるものを所有して、自分だけで過ごすといった孤独の生活を選ぶような人は、誰もいないはずである。なぜなら、人間は自然本性上ポリスを形成して他者とともに生きる存在だからである。事実、幸福な人にもこの自然本性は備わっている。というのも、幸福な人は自然本性上さまざまな善きものを備えており、彼にとっては見ず知らずの手当り次第の者たちよりも高潔な善き友とともに過ごすことの方がより善いからである。それゆえ、幸福な人には友人が必要なのである。(第九巻第九章、1169b17-22)(pp.142-143)

●「友が存在するということも、それぞれの人にとって、自己の存在と同じように、あるいはそれに近い仕方で、望ましいものであることになる」(第九巻第九章、1170b7-8)
「幸福になろうとする人は、優れた善き友人を必要とする、という結論が導かれることになる」(第九巻第九章、1170b18-19)(p.144)

●“人は自分の存在とともに、友人の存在もまた知覚しなければならないのであって、このことは「ともに生きる(シュゼーン)」こと、つまり言葉や思考を共有することにおいて実現されうるのである。というのも、「ともに生きる」とは、人間の場合、言葉や思考を共有するという意味で言われるのであって、牛たちが同じ放牧地で草をはむのとはわけが違うのである。(第九巻第九章1170b10-14)
 以上のように、アリストテレスは「友愛が幸福な生の本質的な要因である」ことを示している。(p.144)

●この「(真の)友愛が幸福な生の本質的な要因である」という命題は普遍的に成立すると言えるように思われる。すなわち、アリストテレスはこの議論を通して、「幸福な生」を形成する「友愛」が、またそれを支える「性格の徳(倫理的な徳)」が、「市民生活において政治的生」を生きる人びとだけではなく、観想活動、つまり「哲学的活動の生」を生きる人びとにとっても必要であると考えているように思われる。(p.145)

●アリストテレスは『ニコマコス倫理学』全体を通して「幸福とは何か」を追求しており、第一巻から第九巻までは、それを「実践活動」を中心に進めているが、最終巻の第一〇巻では、「実践」に対して「観想活動」の幸福を強調する議論を展開している。
 アリストテレスは第一巻第二章で、「人間にとって善とは何か」を体系的に追及する実践的学問を「政治学(ポリティケー)」と呼んでいる。他方、第一〇巻第七章では、「観想活動」を「知恵を愛する哲学の営み」(1177a25)と名づけているが、これはプラトンの『国家』第六巻に登場する哲人統治者の機能を受け継ぐものと言うことができる。(p.147)

●私も以下、アリストテレスに倣って「実践」にかかわる学を「政治学」、実践活動を遂行する者を「政治家」と呼ぶことにする。倫理学はこの実践の学に属する。他方、「観想」にかかわる学を「哲学」、観想活動を遂行する者を「哲学者」と呼ぼう。現代社会では、圧倒的多数の人びとにとっての実践活動は政治活動ではなく、経済活動である。しかし、古代ギリシアにおいて、人びとは経済活動を自由人に相応しい活動であると考えていなかった。そこに現代との大きな相違がある。(pp.147-148)

●第一巻第五章では、古代ギリシアで伝統的に捉えられてきた「幸福」として、「享楽の生」、「実践的な徳に基づく生」、「観想活動の生」の三種類の「生」を挙げていた。しかし「享楽の生」はいわば「快楽の奴隷」のごとき「家畜の生」として外され、「実践的な徳に基づく生」と「観想活動の生」の二つが「幸福な生」として提示される。
 第一〇巻では、「実践的な徳に基づく活動」と「観想的な徳に基づく活動」の「二つの生」はどのように捉えられているだろうか。アリストテレスは、最もすぐれた活動とは知性に基づく観想活動である(1177a19-20)と主張している。
アリストテレスはこの「観想活動の幸福」を「完全な幸福(teleia eudaimonia)(第一〇巻第七章、1177b24-25)と呼び、他方「実践的活動の幸福」を「第二義的な幸福(eudaimonia deuterōs)(第一〇巻第八章、1178a9)と呼んで、両者の価値の違いをはっきりしたかたちで示している。(p.149)

●アリストテレスは、『形而上学』第六巻や『ニコマコス倫理学』第六巻において、「人間の知識」の三つの働きの区別を強調している。
〕論的学問(テオーレーティケー)――第一哲学(神学)、数学、自然学
⊆汰的学問(プラクティケー)――倫理学、政治学
制作的学問(ポイエーティケー)――各種の制作学、たとえば詩学
 理論的学問は「他の仕方ではありえない必然的な事柄」にかかわる。すなわち、数学や形而上学のように永遠不動の事柄を対象とする。他方、実践的学問と制作的学問は「他の仕方でもありうる非必然的な事柄」にかかわるものとされる。すなわち、倫理学(エーティカ)を含む政治学と各種の制作学はこの世界においてわれわれが働きかける蓋然的な事柄を対象とする。(pp.150-151)

●「ヌース(知性)」
 永遠不動の必然的な事柄にかかわる知識である「ソピア(知恵)」を成り立たせている能力が「ヌース(知性)」であり、第一〇巻第七章、第八章では、アリストテレスはこの「ヌース」の働きを通して「観想活動」の特性を説明している。
 他方、「性格の徳」は「情念」や「欲求」といった「複合的なもの」にかかわる「人間的な徳」であるが、それに対して「ヌース(知性)」は、そのような「複合的なものから切り離された徳である」(第一〇巻第八章、1178a22)。したがって、アリストテレスにとって、この「ヌース(知性)」は人間の能力というより、まず至福である神々の能力であり、観想活動は何よりも神々の「観想活動」である。(pp.151-152)

「生きる(zēn)」「活动する(energein)」といった営みは植物、動物、人間、そして神々に共通するものである。他方、アリストテレスが強調しているのは、われわれ人間と神々の相違である。オリンポスの神々やユダヤ人の神ヤーヴェとは異なり、アリストテレスの神々は情念をもたず、それゆえ、情念を正しくコントロールする「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」をもつことはない。すなわち、アリストテレスの神々にとっては、「正しい行為」も「勇気ある行為」もありえず、そもそも、「行為すること」も、「ものを作ること」もせず、したがって、神々は「実践的な徳に基づく活動」を行うことはない。神の活動は至福の上で比類のない観想活動である。
 他方、第一巻から第九巻の主題は「人間」であり、アリストテレスは「人間」をまず「欲求」と「情念」をもち、さらに「ロゴス(理性)」をもつ動物として把握する。それゆえ、人間は「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と「思慮(プロネーシス)」を遂行することを通して「幸福な生」を目指す存在として捉えられている。(p.153)

●神々の行為をモデルとする「観想的活動」は「それ自身以外のいかなる目的も目指さず、それ自身に固有な快楽をもっていると考えられ、……人間に可能なかぎりの自足性(autarkes)、ゆとり(sxolastikon)、疲れのなさ(atruton)、その他至福な人にあてがわれるかぎりの特性」(第一〇巻第七章、1177b18-23)をもっている。

●アリストテレスは観想活動について次のように語っている。
“こうした(観想活動の)生は、しかし、人間の次元を超えたものであるかもしれない。というのも、そのような生き方ができるのは、彼が人間としてではなく、彼のうちに何か神的なものが備わっているからである。……
(略)
 したがって、人間にとってもまた、知性に基づく生き方が、何よりも知性こそ人間自身にほかならない以上、最も善くかつ最も快い生き方なのである。それゆえ、知性に基づく生き方が、最も幸福な生き方なのである。(第一〇巻第七章、1177b26-1178a8)(pp.154-155)

●この印象深い箇所で、アリストテレスは「知性こそ人間自身にほかならない以上」という表現を通して、「人間=知性(ヌース)」という把握を示している。しかし同時に、第一巻から第九巻において、人間を「情念や欲求をもつ複合的存在」として捉え、「実践的な徳に基づく活動」の重要性を主張しているのであり、その点は第一〇巻においても明確に維持されている(第一〇巻第八章、1178a9-22)。このように、アリストテレスはアンビバレントな人間の状態を表現するとともに、しかし、人間は「できるかぎり自分を不死なものにすべきである」という理念を示していると言える。(p.154)


●アリストテレスの「徳の考察」(おさらい)
 “われわれは徳を「思考に関するもの」と「性格に関するもの」に分け、「知恵」、「理解力」、「思慮」を「思考の徳(ディアノエーティケー・アレテー)」と呼び、他方「気前のよさ」、「節制」を「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と呼んでいる。(第一巻第一三章、1103a4-7)

●アリストテレスは第二巻から第五巻までは「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」の考察を行っているが、本書第二章で示したように、第二巻第六章で「性格の徳」を「中庸」と捉え、この「中庸」を「思慮ある人が中庸を規定するロゴス(道理)によって定められるもの」として捉えている。それゆえ、「中庸」を規定するためには、第六巻の「思考の徳(ディアノエーティーケー・アレテー)」の考察、とりわけ、「思慮(プロネーシス)」の概念の解明が必要になってくる。(p.157)

●ここで強調したいのは、第六巻において「思考の徳」を考察するにあたって、アリストテレスが「広い意味でのヌース(知性)」という概念を出発点においているということである。この「ヌース」は第一巻で「人間のエルゴン」を規定する場合に使われる「ロゴス(理性)」と同じ意味をもつ概念であると私は解釈する。この広義の「ヌース(知性)」は単に「理論的な知」だけではなく、「実践的な知」としても使われている(1139a18)。その後の第六巻第三章以下では、「ヌース」は観想にかかわる狭義の「ヌース」として規定され、第七章では、「ソピア(知恵)」と結びつき「最も貴重な諸存在」を対象とする「知」として、つまり観想活動を遂行する「知」として捉えられている。(pp.157-158)

●他方、行為にかかわる「知」は第六巻第五章以下で、「思慮(プロネーシス)」として規定され、「性格の徳」との関係がくわしく説明されている。それゆえ、広い意味での「ヌース(知性)」が、観想にかかわる狭義の「ヌース」と行為にかかわる「思慮(プロネーシス)」に分かれていったと見ることができる。(pp.157-158)

●アリストテレスがわれわれ人間を植物や動物から区別し、人間と神々とを区別しないのは、人間と神々が「ロゴス(理性)の能力」、「ヌース(知性)の能力」を共有しているということにある(ただ、その能力のあり方には大きな相違があるが)。
 人間と神々は「ヌース(知性)の能力」を共有している。これが『ニコマコス倫理学』において、「人間」を捉え、人間を神々と結びつける太い線である。しかし、人間は身体をもち、情念と欲求をもつ存在であって、純粋なかたちで「ヌース」の生を生きる神々と異なっている。すなわち人間にとって、善き生(エウダイモニア)のためには実践的な徳が不可欠である。そしてアリストテレスは、人間が観想活動の生を送るためにも、実践的な徳、つまり性格の徳と思慮が不可欠であると考えている。それゆえ、人間にとっては「観想活動の生」と「実践活動の生」は緊密に結びついていると言えるのである。(pp.159-160)

●われわれの解釈の重要なポイントは「人間の生(活)のいずれの善(善きもの)もその頂点に一つの最高目的(観想的な徳の遂行、性格的な徳の遂行)をもつ階層のうちに位置づけられる」ということにある。(p.164)

●われわれは観想者(哲学者)になるか、政治家になるか決断しなければならないが、いずれを選択するにせよ、必要となる重要な善きものがある。それはすなわち、正義、勇気、思慮、等々の徳である。これらの徳は、二つの生、つまり「観想活動の生」にとっては必要条件であり、「実践活動の生」にとってはその目的である。(p.165)

●しかし、アリストテレスはこの『ニコマコス倫理学』の講義を通して、聴講生に対して「観想活動の生を選ばなければならない」と主張してはいないように思われる。というのは、われわれが、第五章「友愛について」において紹介し、そこで強調したように、第九巻第八章で、アリストテレスは次のように語っているからである。
 “優れて善き人(スプウダイオス)に関して言えば、彼が友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、友人や祖国のために死さえ辞さないというのは真実である。なぜなら、優れて善き人はお金や名誉や、その他一般に争いの的となるもろもろの善きものを投げ出し、自分自身に美しい(カロン)ものを確保しようとするからである。(第九巻第八章、1169a18-22)
 ここで、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己の為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と語り、「カロン(美しい、立派な)」を行為の最終的な価値基準として捉えているが、その際、「優れて善き人は友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、死さえ辞さない」と述べている。したがって、アリストテレスは「各人は自分のために最大限の善きものを増進するよう努めなければならない」といった立場を取ってはいない。(pp.166-167)

●アリストテレスは「ある状況において、人は自分自身にとって最善の幸福を得られなくとも、他人の幸福のために行為すべきである」という余地を認めている。(p.168)

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以上であります。後編はワード22pになってしまいました。
いや〜、捨てるところがないものですね〜。近年歳をくえばくうほど読書日記が長文化します。あとで思わぬところを参照するかもしれないと妙に不安にかられるんですね。

途中、「観想的生活」を神のような生活だと言ってるところは、やっぱり「哲学者は自分のことを研究するのが好き」ププッ、となってしまうわたしは意地悪女です。
それでも、紀元前としては極めて完成度が高く、現代の脳科学、性格心理学などからみても正しいことを言っている『ニコマコス倫理学』、本書『アリストテレス「『ニコマコス倫理学』を読む――幸福とは何か」のお陰でやっと出会うことができました。著者様に感謝いたします。

『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)という本を読みました。

 このところわたしが好んで使っている「エウダイモニア(幸福)」という語の起源、それが『二コマコス倫理学』。
 しかし、実はこの原典が難解で、過去に読んでも挫折していました。こういう場合にはなりふり構わず入門書から入るわたしです。
 この『ニコマコス倫理学』は、いまどきのポジティブ心理学や幸福学、徳倫理学などでも論拠としてよく引かれますから、押さえておいて損はないですよ。
 実際、読んでいると「強み」「価値観」など、わたしなどが日常的に使うツールの意義づけにつながるような言葉がちょこちょこ出てきます。またなんと「行動承認」の理論的根拠これでいこうか、というところも出てきました。


※なお、こういう詳細な読書日記のブログアップの仕方が著作権法違反に当たらないのか?厳密にいうと、当たる可能性があります。ただ、有り難いことにこれまでのところは問題になっていません。
 これまで、読書日記をアップしたときに著者自身からお礼のコメントをブログに直接いただいたことが3回ありました。『ポスト資本主義』の広井良典教授(千葉大から京大に移られました)からは、当日夜に丁寧なお礼のメールをいただきました。
 また『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』の藤野寛教授(一橋大学)には、あまりにも「捨てる」ところがなく丸写しのような読書日記になってしまったので、後日「著作権上問題のあるレベルなのではないかと思いますが」と自分から申告したところ、藤野教授が「自分ではわからない」とわざわざ出版社に連絡をとっていただき、すると編集者から「嬉しい反響ですね!」というリアクションがあった、というような話もありました。
 …まあ、なまじそういう著者さん方の心優しいリアクションの経験をしてきたものだから、著作権というものを甘く見てしまっていたきらいがあります。
 今後も、万一読書日記について著者・出版社から削除依頼等がありましたら、真摯にご対応したいと思います。

 今回も、とくに第一章の「エウダイモニア」の定義に関しては、「捨てる」ところが少なく、丸写しに近い読書日記になってしまいます。お叱りを受けないことを祈ります。

 そして第二章、本書の約半分のp.80まで読書日記をつけ終わったところですでにワード18pになったので、読書日記を前後編とします。太字・色字は正田です

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 まえがき

●「人生、いかに生きることが最善の生か」。アリストテレスはこのように尋ね、この「最善の生」を、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という言葉で捉えている。それゆえ、『ニコマコス倫理学』の主題は「幸福(エウダイモニア)とは何か」を明らかにすることであると言える。(pp.i-ii)


第一章 幸福(エウダイモニア)とは何か
 この章は、やはり「捨てるところが少ない」章です。ほとんど丸写しになるかもしれません。著者様、ごめんなさい。

●「まえがき」で紹介したように、アリストテレスは「いかに生きることが最善の生か」という問いを追求するが、この「最善の生」を第一巻第四章で、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という語で捉えている。それゆえ、「幸福とは何か」を明らかにし、人びとに「幸福に至る道」を示すことが、『ニコマコス倫理学』の主題である。(p.35)

●アリストテレスはこの主題に取り組む二つの方法を明らかにしている。まず、第一巻第六章で、プラトンの超越的な「善のイデア」をはっきりと退け、「エンドクサ」、つまり、人びとが抱いている定評ある見解の吟味を通して「幸福」の探求を行うことを宣言する。また続く第七章では、人間の「エルゴン(機能)」の解明を通して「幸福」を求めていくことを明らかにしている。(pp.35-36)

●アリストテレスは第一巻の巻頭で、「すべての行為はアガトン(善、善きもの)を目指している」(第一巻第一章、1094a1−2)と主張し、『ニコマコス倫理学』が何よりも「アガトン(善)」の研究であることを宣言している。
 しかし、ここで素朴な疑問が生じてくるかもしれない。はたして人間の行為はすべて「善」を目指していると言えるだろうか。われわれは日ごろ、「悪い」と知りつつタバコを吸っているのではないだろうか。だが、アリストテレスの視点から言えば、喫煙者は健康よりもともかくタバコを吸いたいのであり、喫煙は彼にとって善い行為なのである。このように、アリストテレスは「善」を道徳的な意味ではなく、「欲している」、「利益になる」という意味で用いており、この素朴な地平から道徳の問題を考えていこうとする。
 これは、「誰も悪を欲する者はいない」(『メノン』78A)と主張し、「すべての者は善を欲している」と考えるソクラテスの態度でもあった。しかしもちろん、善と思ったことが悪であり、また善を欲しながらも意志の弱さのゆえに生じてくる、やっかいで重要な問題が存在する。ただ、この問題については第四章「徳とアクラシア」において検討することにして、先に進むことにしよう。(p.37)

―いきなり予想外の定義が出てきました。「善」って「欲求」のことだったの!?
ここでは「タバコ」の例を出していますが、もちろんわたしたちは「欲求」が非常に多くのばあい、わるさをするものだということを知っています。依存症にもなるものだと知っています。でもまあ、この定義に従えばソクラテスが「すべての者は善を欲している」というのも納得は納得でありますが。それも何だかトートロジーのようにもきこえますが。モヤモヤを抱えて第四章(この読書日記では後編)を楽しみにいたしましょう。

●第一巻第一章から第四章で、アリストテレスは、人間は「善きもの」を目指して行為するが、人間が求める「善きもの」には階層(ヒエラルキー)があると語っている。それは次のようにまとめられる。
,泙此現に為している行為が、それを超える別の目的のために為されるといった場合が挙げられる。たとえば、畑を耕すのは種を蒔くためであり、種を蒔くのは小麦を収穫するためである。
他方それに対して、別の行為の手段ではなく、その行為自身が目的であるような行為が存在する。テニスをする、酒を飲む、音楽を聴く、古典を読む、隣人を助ける、といった行為は一応そのようなタイプの行為である。「なぜテニスをするのか」と問われ、「楽しみのために」と答えるとしても、その答えは「テニスをする」ことから独立の行為を述べているわけではない。ただ、通常は、その行為自身が目的であるタイプの行為であっても、ある場合には、他のものの手段として為されることがある。たとえば、肥満を解消するためにテニスをするなどの場合である。
しかし以上とは別に、このような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるとアリストテレスは述べている(第一巻第四章、1095a18−19)。(pp.37-38)

●ギリシア語の「エウダイモニア(eudaimonia)」は、日本語では「幸福」と訳され、今日それが定着している。この「幸福」は明治以降、「倫理学」、「道徳」、「功利主義」といった翻訳語とともによく使われるようになった言葉であり、辞書を引くと、「心が満ち足りていること、仕合せ、幸い、幸運」という説明が載っている。ただ、日本語の「幸福」とギリシア語の「エウダイモニア」は、当然、まったく同義というわけではない。「心が満ち足りていることが幸福である」と日本語の辞書が説明するように、「幸福」という言葉は人びとが感じる感情を表すのに使用される。他方、ギリシア語の「エウダイモニア」は人びとが感じる感情というより、人びとが目指す「最高善」を表す表現であり、目指すものが「最高善」でないならば、「エウダイモニア」とは言いがたい。(p.39)

●そこで、日本語の「幸福」に「最高善」といった厳めしい意味を与えることには抵抗を感じる人びともいるかもしれない。しかし、日本語の「幸福」にもたしかに「最も善きもの」という意味が含まれており、われわれは「お金や地位がなくとも、幸福でありたい」と言うが、「幸福でなくとも、お金や地位が欲しい」とは言わないように思われる。(同)

――ちょっとわかってきた気分になりました。「善」と「最高善」と、ランクが違うわけですね。「善」は「欲求」「快楽」レベルのことを言うけれど、「最高善」はもっといいものだ、と。

●「最高善」と「幸福」とを結びつけるとアリストテレスの思想はソクラテスやプラトンの見解を受け継ぎながら、西洋倫理思想の大きな流れを形成しており、たとえば、「最大多数の最大幸福」を主張する功利主義思想をそのうちに位置づけることができる。他方それに対して、カント倫理学も「最高善」を求めるが、この「最高善」を「幸福」ではなく、「義務」、「正義」と結びつけており、この「義務の倫理学」も西洋倫理思想を代表する思想であると言える。(p.40)

●ここで、アリストテレスの「エウダイモニア(幸福)」の概念を考える場合、重要な二つの特性を取り上げておくことにしよう。
 第一は、ギリシア語の名詞「エウダイモニア」は「エウダイモネイン(eudaimonein)」という動詞形をもち、「よく為している(eu prattein)」、「よく生きる(eu zēn)」というかたちで行為や活動に基づいているという点である。これは、日本語の「幸福」や英語の”happy”にはない構造であり、『ニコマコス倫理学』を読む場合、最も重要な特性である。すなわち、「エウダイモニア」は「善き営み」、「善き行為」において実現するのであり、「状態」ではなく、「活動」である(第一巻第八章、1098b33-1099a3)。序章で紹介した術語を使えば、「エウダイモニア」は「デュナミス(可能態)」ではなく、「エネルゲイア(現実態)」である。(pp.40-41)

――「エウダイモニア」は「行為」と不可分の考え方なんですね。行動承認の究極目的としてのエウダイモニア、という図式を考えていたので嬉しくなってしまいました。

●ところで、明治以来わが国で親しまれてきた、「山のあなたの空遠く、<幸い>住むと人のいふ」という句で始まるカール・ブッセの詩があるが、この詩では、「幸福(幸い)」を人間が生涯を通して求めていく、「山のあなたの空遠く」にある事態として把握している。アリストテレスもソロンの言葉を引用し、死を迎えるまでは、人は幸福であったかどうかを言うことはできないと述べている(第一巻第10章、1100a10−)。このように、第二の特性として、「エウダイモニア」というギリシア語表現は「まっとうした人生」(第一巻第八章、1098a18)に対して適用されるのが基本的な用法である。(p.41)

●それでは、「まっとうした人生」に対して適用される「エウダイモニア」と「よく為している」、「よく生きる」というかたちで具体的な行為や活動と結びつく「エウダイモニア」はどのように関係するのだろうか。これは見解が分かれる難解で重要な問題である。
 私の理解では、上で指摘したように、「エウダイモニア」とはまず直面する具体的状況において「よく為すこと(eu prattein)」「のよく生きること(eu zēn)」である。そして徳を備えた人はそのようによく生きているのであり、そのような生涯を生きる人が「エウダイモニアな人」「幸福な人生」である。この点はすぐ後で主題になってくる「徳」の概念についても言えることであり、「勇気ある行為」、「正しい行為」とは具体的状況における行為であるが、それは「徳ある人」の概念を通して解明されることになる。(pp.41-42)

●アリストテレスは、ギリシア社会において伝統的に捉えられてきた「幸福」の三種類のかたちを紹介している。
,泙座臀阿蝋福を快楽だと考え、「享楽の生活(ho apolaustikos bios)」を愛好する(第一巻第五章、1095b17)。
他方、「政治的生活(ho politicos bios)」を目指す者は「幸福とは名誉である」と考える(第一巻第五章、1095b22-29)。
B荵阿法⊃人の探究、すなわち「観想活動の生(ho theōrētikos bios)」(第一巻第五章、1095b19)こそが「幸福」であると考える人びとが存在する。
 この区別はプラトンの『国家』第四巻で論じられている三種類の階層、すなわち、大衆階層、補助者(戦士)階層、支配者階層に対応している。またこのプラトンの見解はさらにピュタゴラス(前570頃)に遡ると見られている。(pp.42-43)

●ピュタゴラスの思想についてはローマ時代のキケロ(前106〜前43)がそれを伝えている。「フィロソフォス(愛知者、哲学者)とは何か」と聞かれて、ピュタゴラスはオリンピアの大祭に集まって来る人びとを三種類に分ける譬えを使って説明している。第一は人びとに飲み物や食べ物を売って「お金」を得ようとする人、第二は競技に参加して「栄誉」を得ようとする人、第三は競技をただ「観よう」とする観客である。人生においても、商業活動を通してお金を得ようとする人びと、政治活動を通して名誉を得ようとする人びと、そしてオリンピアの大祭の観客の場合と違って、数は非常に少ないが、ものごとの本質(rerum natura)を熱心に観ようとする人びとがおり、この最後の「観(テオリア)の立場」に立つ人が哲学者(愛知者)であるとピュタゴラスは語っている。(p.43)

●ピュタゴラス、プラトン、アリストテレスは最も優れた生き方を「観の立場」に立つことであると捉える点において共通している。(同)

●他方、「快楽」と「名誉」に関しては、アリストテレスはここで独自の見解を示している。
(1)まず「享楽の生活」について、アリストテレスは、それは一般大衆の選ぶ生活であり、大衆は「家畜のような生活を選び取り、まったく(欲望の)奴隷のように見える」(第一巻第五章、1095b20)と語り、「享楽の生」を「幸福な生」から除外している。
 しかし他方、「幸福」、「徳」を規定する場合には、「快楽」の重要性を強調しており、第七巻、第10巻では、彼自身の快楽論を展開している。それは行為の「よろこび」と結びつく、志向的、能動的な快楽論であり、「快楽」を受動的な感覚体験として捉える19世紀の功利主義の見解とは異なり、「快楽・よろこび」についての深い洞察を示している。
(2)また、「政治的生活」に携わる人びとは名誉を人生の目的だと考えるが、その場合、彼らは「名誉は徳に基づく」という見解を取っており、したがって、ソクラテスと同様、「節制」や「勇気」といった「徳」が「幸福」であると考えていることになる。
 それに対してアリストテレスは、徳をもっていても「最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることがあること」を指摘し(第一巻第五章、1095b32-1096a1)、「徳」は「幸福」と同一視できないことを主張する。彼の考えでは、「徳」は「幸福」と同一視することはできないが、「幸福」成立の不可欠の条件である(第一巻第七章、第八章)。この前提のもとに、第二巻から第九巻まで、「性格の徳(倫理的な徳)とは何か」を追求している。
(3)他方それに対して、アリストテレスは「観想活動」を「最も神的な魂の活動」と捉えており、「観想活動こそが最高善(幸福)である」と考えている。(pp.42-45)

――「享楽の生」は幸福な生ではないのだそうです。ワイドショーみている日本の大半の人はそれでしょうかネ・・

●このように、古代ギリシア人たちが抱いてきた「幸福」について、アリストテレスは「実践」と「観想」とを区別する立場から、ソクラテスやプラトンとは異なる独自の見解を示している。すなわち、市民生活における「実践活動」の「徳」と、「観想活動」の「徳」、この魂の二つの活動を通して最高善としての「幸福」に至る道を示していると言える。(略)この「観想活動」と「実践活動」の関係をどう捉えるかは『ニコマコス倫理学』全体の思想をどう把握するかという重要な問題であり、第六章「観想と実践」でくわしく検討することにしたい。(p.45)

●第一巻第七章の議論。
 まず、「幸福=最高善」とは、他のさまざまな行為が、それを目指す「究極的な(teleion)目的」であることが示されている。
 「幸福」の究極性(teleiotēs)は次のように規定されている。
 
 なぜなら、われわれは幸福をつねにそれ自体のゆえに選び、他のもののゆえに選ぶことはないからである。他方、名誉、快楽、知性、そしてすべての徳に関しては、それらをわれわれはそれ自体のゆえに選ぶとともに、……それらを通じて幸福を獲得できるだろうと考えて、幸福のためにそれらを選ぶのである。逆に、それらのために幸福を選ぶというような人はだれもいないし、他のもののゆえに幸福が選ばれる、といったことはありえない。(第一巻第七章、1097a34-b5)

 この行為選択の究極性(終極性)ということが「幸福=最高善」の基本的な意味である。(p.46)

●しかし同時に、「幸福」は「究極的」であるゆえに、「自足性(autarkeia)」という特性を具えている
 この「幸福」の「自足性」は次のように規定されている。

 自足的なものを、われわれはそれだけで生活を望ましいもの、まったく欠けるところのないものにするようなものと規定する。……また、幸福はすべてのもののうちで最も望ましいものであることによって、(他のものによって)加算されえないものであるとわれわれは考えている。加算されうるとすれば、(他の)善いものが僅かでもくわえられれば、いっそう望ましいものになるのは明らかだからである。(第一巻第七章、1097b14-18)

 ここでは、「加算されえないもの(mē sunarithmoumenēn)という概念を用いて、「幸福」の「自足性」を説明している。「加算されうるもの」とは部分的な善であって、功利主義が主張するような量的に規定できるものである。しかし、アリストテレスは「幸福+他の何か」といったものが「幸福」よりも優先することは不可能であると主張し、「幸福の自足性」を説明している。(p.47)

●「幸福=最高善」の概念が含む「究極性」と「自足性」に対応して、アリストテレスの「幸福」の概念をどのように捉えるべきかという議論があり、従来、「幸福」を「支配的目的(dominant end)」と解釈するか、それとも「包括的目的(inclusive end)」と解釈するか、について論争がなされてきている。
 
●幸福を「支配的目的」とする解釈は古くから主張されてきた。「支配的目的」とは「さまざまな優れた活動をそのうちに含む生き方を特徴づけるもののうち、特定の支配的な活動を目的とする」という意味である。具体的に言えば、「幸福」とは「最も神的な魂の活動」としての「観想活動」であるという把握である。(略)
 それゆえ、「支配的解釈」は、われわれの行為は「目的―手段」の階層を形成しており、その究極の目的が「観想活動」としての「幸福」であるという見解である。だがその場合、「観想活動」と「実践活動」の間にはたして「目的―手段」の関係があるかどうかが大きな問題である。(pp.48-49)

●他方、「幸福」の「包括的目的」とは、「さまざまな優れた活動や事物をそのうちに含む生き方全体を目的とする」という意味であり、「幸福」とは、「それ自身のために追求されるすべての善」(テニスをする、音楽を鑑賞する、隣人を助ける、その他、徳に基づく諸々の活動)を含むものだ、ということになる。「幸福」を包括的目的と解する「包括的解釈」の重要な根拠となるのは先に紹介した「幸福」の「自足性」の規定である。すなわち、「幸福」の概念には、そこに何ら「加算する必要はない」という意味が含まれている、という把握である。(p.49)

●アリストテレスは第一巻第七章の後半(1097b22-)では、「人間の固有の機能(エルゴン)とは何か」という問いを通して「最高善=幸福」の問題を考察している。(p.50)

●“ここで望まれているのは、幸福が何であるかをより明確にすることである。おそらくこうした明確化は、人間の「エルゴン(機能)」が把握されるならば達成されるだろう。なぜなら、笛吹きや彫刻家などすべての技術者にとって、また何であれ、一般に何か特定の機能と行為が属しているものにとって、「善」すなわち「よく」ということがそうした機能に認められると考えられるように、人間にとってもまた、もし何か人間としての機能というものがあるとすれば、同じようにそれに「善」すなわち「よく」を考えることができるからである。”(第一巻第七章、1097b23-28)(p.51)

――エルゴンという新しい概念が出てきました。これは「強み」の概念と似ていないかな?とアンテナがたつわたしです

●「笛吹き」、「大工」、「靴職人」といった言葉は社会におけるその役割、機能を表す言葉であり、そのような役割・機能を立派に果たす人は「善き笛吹き」であり、「善き大工」である。また身体の部分である「眼」、「手」、「心臓」、「腎臓」といった器官にも、固有の機能があり、その能力と働きが存在している。
 では、社会における職業や役割、あるいは人間の個々の器官がそれぞれ固有の機能をもつように、「人間」や「狼」といった存在者もその固有の機能をもっていると言うことができるだろうか。もしもっているとすれば、「人間として善き人」、「善き人間」とはどのような者であるかが規定され、そこから「幸福な人間」とはどのような人間であるかが明らかになろう。アリストテレスは「人間」や「狼」といった自然種にも固有の機能(エルゴン)が存在すると考えており、「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」と呼ばれる説明を行っている。(p.52)

●アリストテレスは、「人間に固有な機能としてのロゴス(理性、分別)の働き」を、次のように取り出してくる。

 生きていることは植物にも共通することが明らかである。しかし、われわれが求めているのは人間に固有の機能である。それゆえ、栄養的生や成長にかかわる生は除外されねばならない。次に来るのは感覚的な生ということになるが、これもまた馬や牛、その他すべての動物と共通の生である。すると残るのは、人間において「ロゴス(理性)」をそなえている部分によるある種の行為的生ということになる。(第一巻第七章、1097b33-1098a4)

 このように、「人間固有な機能(エルゴン)」は魂(プシュケー)の「ロゴス(理性)」を有する「部分による行為的生」、すなわち「ロゴスに即した(meta logou)魂の活動」ということになる。(pp.52-53)

●続いて、アリストテレスは「人間の機能がロゴス(理性)に即した(meta logou)魂の活動である」ということから、「幸福とは徳(卓越性)に基づく(kata aretēn)魂の理性的活動である」ということを導いていく。
たとえば、「竪琴奏者」の機能と「すぐれた(卓越した)竪琴奏者」の機能はその種類において同じである。そして、一般に「x」の機能と「すぐれた(卓越した)x」の機能が種類において同じだとすれば、「ロゴスに即した魂の活動」という表現に関しても同様のことが言える。
すなわち、卓越した(徳ある)人の「ロゴスに即した魂の活動」は卓越していない(徳のない)人の「ロゴスに即した魂の活動」よりもみごとな仕方でその活動を果たすことになる。それゆえ、「人間としての幸福とは徳に基づく(kata aretēn)ロゴスに即した(meta logou)魂の活動である」ということになる。
以上が私の解釈であり、私は「徳に基づく」と「ロゴスに即した」を区別して考えている。他方、「普遍主義的解釈」としては、「幸福」という概念は「ロゴス(理性)」を通して「普遍的に」規定されると解釈する。私は本書において一貫してこれに反対し、「幸福」、「徳」の概念についての「内在主義的、個別主義的解釈」を取っている。(pp.53-54)

――このあたりわたし流に総合すると、機能(エルゴン≒強み)を発揮しながら良い仕事をすることを幸福と言っているようであり、著者は「幸福は強みを発揮することにある」と言っているようにもとれます


●以上から、アリストテレスは「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」を次のように締めくくる。
 “もし徳が複数あるならば、人間としての善(幸福)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動であるということになる。しかし、その活動には、「まっとうした人生において」という条件がさらにつけ加えられねばならない。というのは、一羽のつばめが春を告げるのでもなければ、一好日が春をもたらすのでもないからである。同様に、一日や短い時間で、人は至福にも幸福にもならないのである。(第一巻第七章、1098a17-20)(p.55)

●この引用の最初の文章については研究者の解釈が分かれているが、しかし、私は「エルゴン・アーギュメント」を通して導かれる「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という命題は、「実践活動」の徳のみならず「観想活動」の徳も含んでいると解釈する。それゆえ、「もし徳が複数あるならば、幸福(最高善)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動である」という文章における「徳」についても、「実践活動」の徳と「観想活動」の徳を含んでいると解釈する。(p.56)

●また、アリストテレスは「まっとうした人生において」という条件を付けている。幸福とは状態ではなく、活動である。しかし、ある時点で「幸福である」というのは充分ではない。「正しい行為」とは「その状況において、徳を備えた人が行うような行為」であり、そのような行為を為して徳ある人として生涯を生きる人が「幸福な人である」と言えるのである。(同)

●ソクラテスにとっては、「徳」と「幸福」は同一であり、徳を備えた人はいかなる状況においても不幸にはなりえない。プラトンが『クリトン』や『パイドン』で見事に描いているように、ソクラテスはこのことを身をもって実証したといえる。
 それに対してアリストテレスは、「徳」と「幸福」は同一だとは考えない。神ならぬ人間は有限者であり、身体をもつ存在である。したがって、徳をもっていても最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることが生じてくる。アリストテレスはソクラテスとは異なり、そのような人びとが幸福であるとは考えていない。その意味で、アリストテレスの「幸福」観は多くの人びとの見解と一致していると言える。(pp.56-57)

●アリストテレスは「徳」と「幸福」を同一視しないが、しかし、「徳に基づく魂の活動」が「幸福」であるための不可欠の条件であると考えている。彼は、第七章で「人間のエルゴン」の考察を通して導出した「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という見解が「エンドクサ」、つまり人びとが抱いている定評ある見解と一致することを、続く第八章で示そうとする。(第一巻第八章、1098b20-23)(p.57)

●また、最高善としての「幸福」が「状態(ヘクシス)」ではなく「活動(エネルゲイア)」であることの理由を、次のように語っている。

 “なぜなら、「状態」は人に現にそなわっていても、たとえば眠っている人や、他の別の仕方でまったく不活発な人のように、まったく善をなし遂げないということがあり得るが、しかし、「活動」にはそうしたことがありえないからである。すなわち、徳に基づく活動は、必然的に何かを為し、しかもそれをよく為すはずだからである。(第一巻第八章、1098b33-1099a3)(pp.57-58)

――ここも、「行動承認」という概念を補強するものとして記憶しておきたい一節です。欲張りな言い方をするなら、去年からヘーゲル―ホネット/ハーバーマスのラインのドイツ哲学を根拠として「承認」を論じてきましたが、そこでは大きな「承認」という概念はあるものの残念ながら「行動承認」の根拠は得られなかったのです。しかし、ヘーゲルが言ってくれなくてもホネットが言ってくれなくても、アリストテレスが「行動承認」を担保してくれてるじゃないか、という見方もできるわけです。
まあ陽明学もありますけどね―。

●以上のように、「魂」の卓越性である「徳に基づく活動」が「幸福」の不可欠の条件である。否、私の理解では、「幸福」とは具体的な文脈における特定の徳に基づく魂の理性的活動そのものである。同時に、この幸福が成立するには、「魂」のみならず「健康」その他の身体の状態によって左右され、また社会生活のためにはある程度の富が必要であり、さらに家族や友人も必要である。われわれはそのような条件の下で、徳に基づく魂の活動を発揮しているのであり、それが人間の幸福であると言えよう。(pp.58-59)

●“(幸福な行為の)多くが、友人や富や政治権力を道具のように用いることによって行われる。また、欠けていると幸福を曇らせるようなものもある。たとえば、生まれの善さや子宝に恵まれること、容姿の美しさなどがそうである。容姿があまりにも醜かったり、生まれが賤しかったり、また孤独であったり、子どもがいなかったりすれば、人は幸福になりにくいのである。また子どもや友人がいてもその者たちが劣悪だとしたら、あるいは彼らが善い人物だとしても死んでしまうとしたなら、おそらく人は幸福になれないのである(第一巻第八章、1099a33-b6)。(p.59)


第二章 人はどのようにして徳ある人へ成長するか

●「徳」の考察にあたって、あらかじめ、使用するいくつかの基本的な用語の意味について述べておこう。まず、人間の魂が「ロゴスをもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けられる。ここで、「ロゴス(logos)」の訳として、「ことば」、「ことわり」、「理性」、「分別」、「道理」、「規則」等々が考えられるが、日本語の「理性」「分別」は普通、心的能力を意味し、他方、「道理」「規則」は心的能力によって捉えられる側の事態を表す。そこで、文脈によって、「理性(ロゴス)」、「道理(ロゴス)」といった表記を使うことにしよう。
 この「理性(ロゴス)をもつ部分」と「理性(ロゴス)をもたない部分」は明確な二元論的な区別ではない点に大きな特徴がある。アリストテレスは、「理性(ロゴス)をもたない部分」のうち「欲求的な部分」を栄養摂取のような植物的な部分とは区別して、父親の言葉に従うように「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」として捉えている(第一巻第十三章、1103a3)。また「欲求(情念)」と「理性(ロゴス)」はわれわれの成長とともに展開していき、「欲求(情念)」には「理性(ロゴス)」の働きが浸透していくと捉えられている。この点はアリストテレスの「徳倫理学」を考える場合、重要である。
 この魂の区別に応じて、「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」の徳は「エーティーケー・アレテー(ēthikē aretē)」と呼ばれ、他方、「本来の意味で理性(ロゴス)をもつ部分」の徳は「ディアノエーティーケー・アレテー(dianoēthikē aretē)」として区別される。「エーティーケー・アレテ―」は「倫理的な徳」とも訳されるが、「エーティーケー(倫理)」の基になっているのは「エートス(性格、人柄)」、つまり、「勇気がある」、「温厚である」、「臆病である」、「親切である」といった特性であり、本書では「エーティーケー・アレテー」を「性格の徳」と訳すことにする。また「ディアノエーティーケー・アレテー」の具体例は「学問的知識」、「技術」、「思慮」、「知性」等であり、ここでは「思考の徳」と訳すことにしよう。(pp.61-63)

――「性格の徳」。現代のポジティブ心理学に通じそうな言葉が出てきました。また子育て、教育の世界で最近喧しい「非認知的スキル」「性格の強み」にも通じそうですね。

●古代ギリシアにおいて、人びとは「徳は生得的なものか、それともしつけや訓練を通して備わるものか、それとも教室での教育を通して身につくようになるのか」と尋ねてきた。ソクラテスは「徳が何であるかを知らないうちは、徳が教えられるかどうか、知りえない」と答え、まず何よりも、「徳とは何か」を知る必要があることを強調する。(p.64)

●このソクラテスの理性主義に対して、アリストテレスははっきりと異なる道をとっている。アリストテレスはソクラテスのような仕方で「徳とは何か」を尋ね、その定義を求めるのではなく、逆に「徳がどのようにして習得されるか」を問題にすることを通して「徳とは何か」に答えようとする。(略)ただ、アリストテレスはこの徳の学習における魂の発達の初期段階により大きな注意を払っており、教室での徳の教育のためには、「聴講者の魂は習慣によってあらかじめ、美しい仕方でよろこび、かつ嫌うように準備されていなければならない」ことを強調する。(第十巻第九章、1179b24-26)(同)

●また実践的知識を理論的知識から区別するアリストテレスにとって、肝心なのは「徳とは何か」を知ることではなく、「徳ある(善き)人」になることであり(第二巻第二章、1103b27-28)、この徳ある人へ向けての成長にとって、まず「正しい感受性」を習得することが重要になってくる。(pp.64-65)

●第二巻第一章では、「性格の徳がどのようにして形成されていくか」に関する基本的論点が示されている。

 “「性格の徳」は習慣から形成されるのであり、「性格の(エーティーケーēthikē)」という呼び名もこの「習慣(エトスethos)」から少し語形変化してつくられたのである。
 それゆえ、明らかにまた、「性格の徳」はいずれも自然によってわれわれにそなわるものではない。というのは、自然によって存在するものはどれも、他のあり方をするように習慣づけられることはできないからである。……
 それゆえ、「性格の徳」がわれわれにそなわるのは、自然によってではなく、また自然に反してでもなく、われわれがそれらの徳を受け入れうる資質をもっているからであり、われわれは習慣を通じて完全なものになるのである。……
 たとえば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。これと同じように、われわれは正しいことを行うことによって正しい人になり、節制あることを行うことによって節制ある人になり、また勇気あることを行うことによって勇気ある人になるのである。(第二巻第一章、1103a17-b2)(傍点引用者)

 このように「同じような活動の反復」(第二巻第一章、1103b21)という道筋を通って何が正しいかを学び知る。(pp.65-66)

●アリストテレスは、行為が「認識論的な作用」をもっていることを指摘し、次のように忠告している。

 そのような行為を為さなければ、だれも善き人になることはできないだろう。それなのに、多くの人びとは、こうした行為を行うことなく、議論に逃げ込み、議論することが哲学することであり、議論によってすぐれた人間になれると思いこんでいる。(第二巻第四章、1105b11-14)(p.66)

――これはキツイ。哲学カフェ花盛りですしわたしもよのなかカフェを40回もやりましたから、議論は有意義だ、哲学に至る道だ、とつい思いたくなります。でもアリストテレスは行為こそが大事だと。「行為が認識論的な作用をもっている」この指摘、興味深いですね。

●アリストテレスは、ここで、はっきりとしたかたちで、「徳は知なり」とするソクラテスの理性主義に立ち向かっていると言える。だがもちろん、彼は反理性主義を取っているわけではなく、ただソクラテスとは異なり、「徳」の普遍的な定義を求めるというかたちで、「徳」を規定することはできないと考えているのである。……重要なのは、その「徳ある人」がどのようにして成立するかである。そのためには、幼児期において「正しい感受性」をもつようにしつけておく必要があり、「正しい法」のもとで育てられなければならないと考える。(pp.66-67)

――ここでいう「正しい感受性」とは、なんでしょうか。

 p.71に「喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌う」という言葉が出てきます。ここでまた、「なにが『喜ぶべきもの』なの?なにが『嫌うべきもの』なの?」という問いが出てきそうです。
 わたしの勘では、「嫌うべき」はたとえば不誠実だったり怠惰だったり、不道徳なことをいうのかな?と思ったりしますが、さて。


●“行為に伴って生じる快楽や苦痛は人間の性格の性向を示す指標と見なすべきである。なぜなら、肉体的な快楽を差し控え、それによろこびを感じる人は節制ある人であり、それを嫌がる人は放埓な人だからである。また恐ろしいことを耐え忍び、それによろこびを感じる人、あるいは少なくとも苦痛を感じない人は勇気ある人であり、苦痛を覚える人は臆病な人である。つまり、「性格の徳」は、快楽や苦痛にかかわるのである。……
 したがって、プラトンが主張するように、よろこぶべきものをよろこび、苦しむべきものを苦しむようにわれわれは若い頃から何らかの仕方で指導される必要があり、それこそが正しい教育なのである。(第二巻第三章、1104b3-13)(p.70)

性格の徳とも関係することであるが、喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌うことが最も重要なことであると考えられる。というのは、快楽と苦痛は、われわれの人生全体を貫いており、徳と幸福な生き方にとって決定的な意義と力をもつからである。(第一〇巻第一章、1172a21-25)(p.71)

――ここは、現代の遺伝子学や各種人格分析ツールや発達障害の有無の知識などに親しんだわたしたちからすると、何か言いたくなる箇所ですね。
 「勇気」、蛮勇はNOだけど(でもわたしは結構蛮勇っぽいけれど)生来臆病な人が訓練によって、あるいはその人の価値観に準ずるために勇敢に振る舞うときというのは、崇高にみえる。時々そういう場面、人に出会います

――苦痛がわたしたちを導いている、と主張される方もいます。わたしたちの動機付けは苦痛を回避することなのだと。とても気の毒になりましたが、わたしの仮説では、その方は少しASDのけがあって、ご両親も遺伝でその傾向があり、苦痛を人一倍感じやすく、苦痛によって導く子育てをしておられたんではないかと思います。こんなことばかり言ってますねわたしは。

●哲学の歴史においては、一九世紀の功利主義のように、「快楽は活動の結果得られる感情もしくは感覚である」という見解がよく知られている。快楽は計量可能であり、二つの快楽のどちらが大きいかを計ることができる。そこで、われわれの活動の価値は、この快楽という実体をいかに多く生み出すかにおって決められると主張されてきた。アリストテレスの快楽論はそれとはまったく対立する見解である。
 アリストテレスによれば、快楽はさまざまな活動に伴い、またそれぞれの活動の相違に応じてその快楽は質的に異なってくる。詩を読むことによって得られる快楽を、幾何学を考えることによって得られる快楽と置き換えることはできない。(pp.71-72)

●アリストテレスは「快楽はその活動を完全なものにする」と主張し次のように述べている。
“なぜなら、活動はそれ固有の快楽によって高められるからである。事実、快楽とともに活動する人たちは、各自のそれぞれの分野の仕事をいっそうよく判断し、いっそう正確に扱うのである。たとえば、幾何学の研究によろこびを覚える人たちは幾何学者になり、幾何学の問題のそれぞれをいっそうよく理解するのである。同様にして音楽の愛好者も、建築の愛好者も、その他それぞれの分野の愛好者たちも、自分たちに固有の仕事によろこびを覚えることによって、その仕事に上達するのである。(第一〇巻第五章、1175a30-35)(p.72)

●そして「活動」と「快楽」の関係を次のように述べている。
“それゆえ、完全で至福な人の活動が一つあるにせよ、複数あるにせよ、そうした活動を完全なものにする快楽こそ、第一義的に、「人間の快楽」と呼ばれうるものである。そして他のさまざまな快楽は、それらに対応する活動の種類に応じて、第二義的に、あるいはまた、はるかに劣った仕方で、「人間の快楽」と呼ばれうるのである。(第一〇巻第五章、1176a26-29)
 以上のように、功利主義の快楽論が快楽を受動的な感覚状態と捉えるのに対して、アリストテレスは、快楽は能動的活動に、その活動から切り離せないかたちで結びついていると考える。そして、快楽はその活動を完全なものにすると主張する。(pp.72-73)

――このくだりは、やはり「強み」や「価値観」の概念と照らし合わせながら考えると理解しやすいようです。自分の強みや価値観と結びついた活動をおこなっているときは、たとえ少々の困難がともなったとしても喜びを感じられるでしょう。献身的な医療者が人を救う行為のように、根っからの教育者が教育を行う行為のように。

●快楽は自然的欲求の充足において生じる快楽にはじまり、徳ある行為の遂行の「よろこび」に至るまで、きわめて広い幅と深さをもつ概念である。(p.73)

●それと同様に、「カロン(kalon)」というギリシア語は「美しい、見事な、立派な」といった意味をもつ、大きな広がりをもつ概念であり、また、しつけ、訓練、体験を通してその概念は深められていく。この点は美術や音楽といった芸術の事例を考えてみれば明らかである。
“徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為される。だから、気前のよい人もまた、美しいことのために適正にものを与えるのである。なぜなら、気前のよい人は、しかるべき人びとに、しかるべき額を、しかるべきときに……与えるはずだからである。(第四巻第一章、1120a23-26)(pp.73-74)

●勇気、節制、親切、等々の行為に共通しているのは、それらがすべて美しく、立派であるということであり、それを「美しい、立派な行為」と感知するから、それを為すのであり、またそれゆえに、その行為に「よろこび」を感じるのである。したがって、「美しい、立派なもの」を見抜く能力とそれを「よろこぶ」能力は「性格の徳」を習得したかどうかの一つの指標であると言えよう。(p.74)

●アリストテレスは「徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為されるものである」(1120a23-24)と述べているが、行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのであると考えている。このように「カロン(美しい、立派な)」という概念は「勇気」、「節制」等々の「性格の徳」と並ぶ概念ではなく、「性格の徳」のすべてに共通する特性であり、具体的な状況において、「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。またこの「カロン(美しい、立派な)」という判断の背景には、本章でこれまで説明してきた、幼児期以来の「徳の価値空間」のなかでのしつけや訓練が存在していると言えよう。(p.75)

●「徳」の規定は、アリストテレスの有名な「類と種差」による定義のかたちを取っている。すなわち、「人間」を定義するのに、「動物」というその類に種差である「理性的」を加えて、「人間とは理性的動物である」というかたちを取る定義である。
 まず、徳の「類」の候補として「情念(パトス)」、「能力(デュナミス)」、「性向(ヘクシス)」が挙げられ、そのうちで、「情念」と「能力」は「徳」の類にはなりえないことが示される。第一に、「情念」とは「欲望、怒り、恐れ、自信、ねたみ、よろこび、愛、憎しみ、憧れ、羨望、憐れみ、などの感情」(第二巻第五章、1105b21-23)であるが、これらの情念において、われわれは「動かされている(キネースタイ)」のであり、「怒ったり」、「恐れたり」する情念をもつこと自体は、「徳」や「悪徳」とは異なり、賞賛したり、非難したりする対象にはなりえない。第二に、賞賛や非難の対象になりうるためには「行為選択」という要因を含む必要があるが、「情念」や「能力(デュナミス)」にはそれが欠けている。「能力」、たとえば、医術の知識は病気を治す能力をもつが、同時に病気を作り出す能力をもっている。すなわち、「能力」は正反両方にかかわるのであり、したがって、「能力」は行為選択の機能をはたしえないと言える。(pp.76-77)

●それゆえ、「性格の徳」を規定する場合、その「類」に当たるのは、「情念」や「能力」ではなく、情念や行為にかかわる「性向」である。すなわち、「性格の徳」とは「情念や行為に対して正しい仕方で対応する性向である」ということになる。またその場合の「性向」とは、生得的、自然的な性向ではなく、しつけや訓練を通して獲得された性向、つまり「第二の自然」である。(p.77)

――うーん、ここも、読みすぎとお叱りを受けそうだけれど成人に対して「行動承認」の訓練を施すことが「徳ある人」を育てることにつながる、というふうに読めてしまう……

●“徳とは「選択にかかわる性格の性向(ヘクシス・プロアイレティケー)であり、,修遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける「メソテース(中庸、中間)」にあるということになる。△修両豺腓涼耆如蔽羇屐砲箸蓮◆崙四(ロゴス)」によって、しかも思慮ある人が中庸(中間)を規定するのに用いる「道理」によって定められるものである。すなわちそれは、二つの悪徳の、つまり過剰に基づく悪徳と不足に基づく悪徳との間における中庸(中間)なのである。(第二巻第六章、1106b36-1107a3)(p.77)

この徳の規定は古くから「中庸説」と名づけられ、アリストテレスの「徳倫理学」の中心を占める扱いを受けてきた。(p.78)

●アリストテレスは「性格の徳」を捉えるものとしては,鉢△本質的な規定であると考えており、,鉢△楼貘硫修靴燭發里任△襪、核心部分は△竜定である。ここで、アリストテレスは「性格の徳」を(思考の徳である)「思慮」との関係を通して規定しており、この「思慮」を「思慮ある人の判断」を通して捉えている。(p.80)

● 崙舛遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける中庸」とは、「中庸」の概念が「行為の主体に相関的に決まってくる」という意味として解釈される。たとえば、運動選手にとっての適切な食事の量と普通の人びとにとっての適切な食事の量とは当然異なってくる。すなわち、中庸(中間)の普遍的な尺度は存在しないのであって、行為者に相関的な仕方で「中庸(中間)」は規定されると解釈される。
 さらに、「行為者が置かれた状況」に相関的であるとも考えられる。すなわち、,竜定は「行為者が置かれた状況によって、その状況における中庸が決まってくること」を意味していると解釈すべきであるように思われる。(p.81)

●“「性格の徳」は情念と行為にかかわるものである。そして、情念や行為には過剰と不足、中間ということが定められている。たとえば、恐れること、大胆であること、欲求すること、怒ること、憐れむこと、一般に快楽を覚えたり、苦痛を感じたりすることには、多すぎることや少なすぎることが認められるのであって、どちらの場合もよくないのである。けれども「しかるべき時に」「しかるべきものについて」、「しかるべき人びとに対して」、「しかるべき目的のために」、「しかるべき仕方で」こうした情念を感じることは、中間の最善の状態によるのであり、これこそまさに徳に固有なことなのである。(第二巻第六章、1106b16-23)(pp.81-82)


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 ここまでが本書『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』の第一章、第二章です。大体本書の前半部分に当たります。言葉の定義を追っているうちにもうワード18ページになってしまいました。

 予告した通り本当に著作権問題になりそうなレベルです。

 なにごともちょっと新しい分野のものに手をだすと丸写しモードで頭に入れたくなるんですよねーー。本書のようなものはもっと若い頃に読めばよかったな。

 しかし、去年も偶然のお出会いでヘーゲル+ホネットにはまり、いっぱし「隠れフランクフルト学派」を名乗るようになってしまいました。(当たるを幸い批判しまくっている行動パターンはホネットよりはハーバーマスの流儀です)

 今年はギリシア哲学との出会いの年になるんでしょうか・・・




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    ・・・……<<<エウダイモニア通信>>>……・・・
発行日 2016.3.21                 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ※「エウダイモニア」は「幸福」、また「栄える」という意味のギリシア語です。
 「業績1位」の山を築いてきた承認マネジメントの研修講師・正田佐与が、
 経済的繁栄を含めたわたしたちの「幸せ」についてご一緒に考えるメルマガです。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントやセミ
 ナーにご来場いただいた方にお送りしています。
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 ┃本日の話題 ☆☆☆☆☆
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【1】 最大の焦点・STAP細胞は、あったのか。この本に答えがあった
  〜理研関係者も注目!
     小保方晴子手記『あの日』を読み解くシリーズいよいよ佳境に

【2】連載「ユリーの星に願いを」第5回「挨拶」

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【1】 最大の焦点・STAP細胞は、あったのか。この本に答えがあった
  〜理研関係者も注目!
   小保方晴子手記『あの日』を読み解くシリーズいよいよ佳境に


 引き続きGoogle「社会人 小保方」のキーワードでトップ1〜6位を独走中の
大好評シリーズです。
2年前、STAP細胞論文問題で日本中を騒がせ、神戸の理研CDB解体の原因にも
なった、小保方晴子さんの手記『あの日』(講談社、2016年1月)。
 
 いよいよ、特に男性諸氏にはよくご質問いただく話題。
 彼女が発見したと主張した、STAP細胞は、本当にあったのか?
 実はこのことの答えが、『あの日』に載っていました。このことは、まだどの
書評にも載っていません、Amazonレビュー以外では当ブログだけです。
 
 人気シリーズはいよいよ佳境に。メルマガ読者だけにお教えする、その答え
とは。年度末の作業の休憩のお時間にこっそり、ご覧ください:

●社会人のための「小保方手記」解読講座(9)「STAP細胞はあります!」
は本当か?Amazonレビュアーが読み解くプロジェクトの破綻
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51936570.html 
Amazonレビューから出てきた大スクープ。『あの日』をよーく読むと
真実が書かれていた!?元ITマネジャーと研究者、二人のレビュアーが解説
してくれます。

●社会人のための『小保方手記』解読講座(10 )―再度「STAP細胞はありません」
 ―「ウソ」と真実・ネット世界と現実世界のギャップ、社会人の分断
   リスク
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51936986.html 
 マネジャー研修講師、正田が心配する“社会人の分断リスク”とは。
 出版界の”悪しきたくらみ”から身を守るリスクマネジメントとして、
このシリーズがあります。

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【1】 連載・「ユリーの星に願いを」第5回「挨拶」
By ユリー
 ユリー:マーケティングコンサルタント。人と組織のメカニズムに高い関心
を持つ仏教学習者。40代女性。

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「挨拶」

 こんにちは。ユリーです。
 すっかり春めいてきましたね。春は別れと出会いの季節、みなさんも、職場
やその他で、別れと出会いを経験なさっていることでしょう。
 さて、その別れと出会いの季節には「あいさつ」のやりとりが、
当然のごとく増えてまいります。「あいさつ」は承認を実践する皆さんにとっ
ては、最も取り入れやすいもの1つではないでしょうか。私も、まず、あいさ
つだけは丁寧にと決めています。

 ところで「あいさつ=挨拶」の由来は禅の用語。碧巌録(中国宋時代の仏教
書、現在でも臨済宗で使用される公案書)に「一挨一拶(いちあいいっさつ)、
其の深浅を見んと要す」とあります。これは禅問答によって相手の悟りの深浅
を計るという意味ですが、ここから転じて挨拶という表現になったそうです。

 禅問答といえば、答えの無い無用なやり取りという意味で使われることもし
ばしばですが、そもそもは、禅宗の修行者が悟りを開くために師から与えられ
る課題で公案ともいわれるもの、もちろん現在でも禅宗の大事な修行の1つで
す。

 こう考えると、単純な「挨拶」に奥深い世界があることに気づきます。たっ
た一言、二言のやり取りにさえ、私たちは人の心の成熟を見ることができると
言えます。逆に、そのたった一言二言に、自分の心の成熟が反映されるという
ことでもあります。

 また「挨(ひら)く拶(せま)る」ともいうように、挨拶は、自分から心を
開いて相手に迫る行動でもあります。

 挨拶は目下の人から先にするものだという考え方もあるかもしれません。私
は、目上の人が率先して挨拶を実践することは、その人の心が周囲に開かれて
いることを端的に示す効果があると考えるので、それだけで場の雰囲気がよく
なると感じています。「挨拶は自分から」とは子供の頃にさんざん学校や家庭
で言われ続けたことですが、大人だからこそ、役職者だからこその「挨拶は自
分から」が大事。そして、挨拶の一言に人の心の有様が投影されることを常に
に命じ、日々の挨拶を実践したいと思うのです。


□□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃今日の一筆箋  
□□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 「挨拶」の語源、ご存知でしたか?
 仏教のバックグラウンドをもつユリーさんならではの解説でした。

 今回ご紹介した「STAP細胞はありません」これはAmazonレビューを除い
ては他のメディアにはまだ出ていない、当ブログ独自情報です。
 是非、あなたのお取引先にも教えてあげてくださいね!

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 発行者 正田佐与承認マネジメント事務所代表 正田 佐与

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 引き続き、『承認と包摂へ―労働と生活の保障』(大沢真理編、岩波書店ジェンダー社会科学の可能性第2巻、2011年8月、以下「本書」)の読書日記です。貧困、社会的排除、雇用の非正規化―といった、今世紀に入って急速に進んだ経済格差の事態を理解し、それへの処方箋を考えるのにお役立てください。

 今回はワード22pになってしまいました。長文、ご容赦ください。



「後編」では、本書の後半4章、すなわち
II 課題と可能性:再編成と共生
第5章 貧困と社会的排除―ジェンダーの視点からみた実態(阿部彩)
第6章 雇用の非正規化と労働市場規制(遠藤公嗣)
第7章 社会的経済が示す未来―イタリアの協同組合の事例から(田中夏子)
第8章 レジーム転換の福祉政治―包摂と承認の政治学(宮本太郎)
をとりあげます。

 このうちとくに第5章は、・独身非正規女性・求職中の人 の蒙っている不利益、また第6章は、非正規雇用の歴史と、今の労働政策で議論されていることを理解するのに大いに役立つと思います。
 


第5章 貧困と社会的排除―ジェンダーの視点からみた実態(阿部彩)

 貧困という社会的不利が女性に偏って顕著であることは、先進諸国においても途上国においても同様である。日本については、他の先進諸国のような「貧困の女性化(feminization of poverty)」が起こっていないという指摘もあったが、これは主に、この指摘の分析が母子世帯の貧困世帯に占める割合を中心に行われていたことによる。しかし、その後の文献において、例えば、高齢者をも分析に含めると、「貧困の女性化」の現象は日本においても顕著であることが指摘され、日本では貧困の女性化が起こっていないという説は否定されている。女性の貧困リスクを示す統計データも次々と発表され、中でも、女性を世帯主とする世帯の貧困率が際立って高いことが指摘されている。例えば、高齢女性の単身世帯の相対的貧困率は50%を超えており、母子世帯の貧困率も60%近い。(p.113)

働く女性の貧困は、「派遣村」よりずっと以前から起こっていた問題であるにもかかわらず、ワーキング・プア問題は勤労世代の男性にも広がるようになって初めて、社会問題として認知されるようになったのである。社会的排除/包摂の観点からも、女性の問題は「みえにくい」。(p.114)

 
 世帯所得をベースとする所得指標は、世帯内のすべての構成員が同じ等価所得をもっており、そしてその所得から得られる生活水準が同じであると仮定する。しかしながら、これは特に女性にとっては大きなバイアスである。…世帯内の世帯員が同じ生活水準と等価所得を得ているという仮説のもとに算出される貧困率は、女性の場合、過小に計算されていると考えることができる。(p.116)

 図1は、年齢層別、性別に貧困率(低所得率)を示したものである(厚生労働省「平成19年国民生活基礎調査」から推計)。すると、貧困率(低所得率)は、20歳代後半から40歳代にかけてはほとんど男女差がないものの、年齢の上昇とともに拡大し、70歳代・80歳代では6-7ポイントもの違いが生じる。ちなみに20歳代前半のみ、男性の貧困率の方が女性のそれよりも高くなっているが、これは1990年代後半から男性の20歳代前半の貧困率が急増していることに起因している。(p.117)

 図2は、1995年から2007年にかけての男女別貧困率の推移である。図1でみたように、日本においては高齢になるほど貧困率が高くなる傾向にあるので、人口の高齢化の影響を除くため、年齢は20-64歳の勤労世代と、65歳以上の高齢者に分けて示してある。これをみると、1990年代後半から2000年代後半にかけて、高齢者においては女性は横ばい、男性は若干の下降、勤労世代は男女ともに上昇していることがわかる。勤労世代の男女差は、ほぼ均等に2ポイントであり、この間、男女格差は拡大していないものの、縮小傾向もみられない。高齢者においては、そもそも男女格差5ポイントと大きいが、2004年、2007年においてそれが6ポイント以上となっている。しかし高齢者においては、人口のさらなる高齢化が男女の格差拡大に影響している可能性もある。(同)

 次に、配偶関係別・男女別の貧困率をみると(図3、厚生労働省「国民生活基礎調査」各年より計算)、勤労世代においては、男女ともに有配偶が最も貧困率が低く、また1995年と2007年の差がほとんどない。男女差がないのは、先に述べたように同一の世帯内では男性も女性も同じ生活水準のレベルであると仮定しているからである。次に貧困率が低いのが未婚の男女であり、ここでも男女差は大きくない。2007年においては、未婚男性の貧困率が上昇し、未婚女性のそれより高くなっていることが特徴的である。男女差が大きいのは、死別、離別である。死別では、特に女性の貧困率が高いが、2007年には若干下降し、男性の貧困率が若干上昇したことにより、男女格差が縮小している。離別では、男女ともに貧困率が最も高く、男女格差も大きい。離別女性の貧困率は40%近くとなっており、1995年から2007年にかけて離別女性の人数も増えていると考えられるが、この間、貧困率は変化していない。離別男性の貧困率も、男性の中では特に高く、しかも1995年から2007年にかけて約5ポイント増加しており、25%となっている。その結果、男女格差は縮小している。(pp.118-119)

 次に、家族タイプ別の貧困率をみたものが図4である。女性の貧困率が突出して高いのは、高齢単身世帯の女性、母子世帯(勤労世代、子ども)であることがわかる。この2つの世帯タイプの女性は貧困率が50%を超えており、約2人に1人が貧困である。母子世帯の貧困率の高さは比較的よく知られているものの、高齢単身女性も同様に困窮していることを特記したい。また、単身の勤労世代の女性の貧困率も30%を超えており、見逃せない。単身の男性の貧困率も高いが、単身世帯は、高齢者、勤労世代ともに男女格差が大きい。(p.119)

 最後に、主な活動別に貧困率を計算したものが図5である。まず勤労世代の女性について述べると、「主に仕事」「主に家事で仕事あり」「家事専業」がほぼ同一で12-13%の貧困率となる。すなわち、仕事をしていることは、必ずしも、女性の貧困リスクを低めることとはならない。しかし、この数値は20-64歳のすべての女性の平均であるので、年齢層によっては仕事をしている女性と専業主婦との間に差が出てくる可能性はある。通学を主な活動としている者(学生)は、男女ともに貧困率が高くなっている。男性の家事専業は最も貧困率が高く、女性の家事専業と大きな差があるが、これは、男性が家事専業である場合、収入源は配偶者(女性)の勤労のみとなり、貧困線を上回る所得を得られない割合が高いことを表していよう。ただし、このようなケースは非常に少ない。この逆のパターン(女性が家事専業)は、男性が稼ぎ主なので、貧困率場比較的低い。(pp.119-120)

 高齢者をみると、どの活動においても女性の貧困率の方が男性のそれよりも高い。特に仕事をもっている高齢女性の貧困率が男性よりも高いことは特記するべきである。近年、ワーキング・プアの問題がクローズアップされているが、1日の主な活動が仕事であるとした層においても、貧困、すなわちワーキング・プアである率は女性の方が、男性よりも高い。また、高齢者のワーキング・プアは男女ともに多いが、特に主に仕事をしているとする高齢女性のワーキング・プア率が高い。ワーキング・プア問題は、女性にとってより深刻なのである。(pp.120-121)

 次に、日本の貧困率の男女格差を他の先進諸国のそれと比較してみよう。
 …ゴーニックとジャンティの分類によると、アングロサクソン諸国(オーストラリア、カナダ、アイルランド、イギリス、アメリカ)は概ね貧困率の男女格差が大きく、平均で女性の貧困率が男性の貧困率より2.4ポイント高い。大陸西欧諸国(オーストリア、ベルギー、フランス、ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ)では、男女格差は1ポイントから2ポイント程度であり、平均では1.6ポイントの差がある。驚くのは、北欧諸国(デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン)と東欧諸国(ハンガリー、スロヴェニア)である。これらの国々では、男性の貧困率の方が女性よりも高く、さらに詳しく見ると、北欧諸国では再分配前の貧困率(税引き前、手当・年金等給付前の所得で計算した貧困率)においては女性の方が男性より高い。それにもかかわらず、再分配後(可処分所得)の貧困率は女性の方が低い。つまり、政府の再分配機能が、貧困率の男女格差を縮小するだけではなく、反転させているのである。東欧諸国は、再分配前にも女性の貧困率が高いので、このような現象はみられない。
女性の貧困リスクが男性のそれより高いというのは、すべての国の常識ではないのである。(p.121)

 男女格差は、南欧諸国(ギリシャ、イタリア、スペイン)では大陸西欧諸国より若干少なく、ラテン・アメリカ諸国(ブラジル、コロンビア、グアテマラ、メキシコ、ペルー、ウルグアイ)では、コロンビアを除くとすべて男女差は1ポイント以下であり、南欧よりもさらに小さい格差となっている。しかし、ラテン・アメリカ諸国はそもそもの貧困率が男女ともに高いため、男女格差の影響はその貧困率の高さに比べると小さい。(pp.121-123)

日本は、1995年から2007年の5時点における貧困率の差をみると、その大きさでは大陸西欧諸国と同じ程度であり、平均では1.68ポイントの差となっている。しかし、そもそもの貧困率の高さは、男女ともに大陸西欧諸国よりも高く、アングロサクソン諸国並みである。すなわち、貧困リスクの高さから言えば、日本の女性のリスクの高さはアングロサクソン諸国並みであるが、男女格差の観点からすればその差は大陸西欧諸国並みに抑えられている。これは、勤労世代に限って言えば、日本においては、社会における女性の貧困のリスクがアングロサクソン諸国と同等に高いものの、これらの国々よりも離婚率が低いことなどから、所得データからみる貧困率の男女差は比較的に低く抑えられているということであろう。(p.123)

 ピアースが指摘した「貧困の女性化」の概念は、貧困者(または貧困世帯)のうち、どれほどが女性であるかというものである。どのような属性をもつ人々の貧困率が高いのかという視点ではなく、貧困者がどのような属性をもつのかという視点は、貧困に対する政策を講じる際に重要である。(p.123)

貧困者に占める女性の割合は、1995年から2007年にかけて55.8%から57.0%へと増加している。すなわち「貧困の女性化」が、若干ではあるが確認されたこととなる。しかし、増加の傾向を年齢別にみると、その傾向は均一ではない。貧困者に占める子どもの割合と勤労世代の割合は、1995年から2007年にかけて、それぞれ5%程度減少している。代わりに、高齢者は約10%増加している。この変化は、少子高齢化による人口構造の変化より大きいため、この間、人口の高齢化の変化に加えて、「貧困の高齢化」が起こっていることが確認できる。
 では「貧困の女性化」はどうであろう。各年齢層の貧困者に占める女性の割合と、各年齢層の人口における女性比率を比較することにより、高齢化によるバイアスを取り除いた上でも、各年齢層において「貧困の女性化」が起こっているかどうかを確認することができる。…少なくとも1995年から2007年にかけて、年齢層を区分して分析すると、「貧困の女性化」が起こっているという結果は得ることができない。全年齢層を通じてみると、「貧困の女性化」は起こっているものの、それは、そもそも女性が人口的にも多く、貧困者に占める割合が大きい高齢者が、人口に占める割合も大きくなってきているからである。換言すると、「貧困の女性化」は「貧困の高齢化」によってもたらされていると言える。…公的扶助をはじめとする貧困対策を考える際には、日本の貧困の「高齢化、女性化」の事実をしっかりと認識する必要がある(pp.124-125)
 
 勤労世帯では今後も貧困の女性化が起こらないのだろうか。気になるデータがある。年齢別の人口に占める離別者の割合(再婚者を除く)をみると、女性が離別者となる割合は男性を大幅に上回る。離婚率の上昇を考慮すると、人口に占める離別者の割合が今後増加することは必至であり、配偶関係別の貧困率の男女格差に牽引されて、勤労世代の貧困率の男女格差が拡大する可能性がある。一方で、生涯未婚率の男女差をみると、男性の生涯未婚率の上昇は著しいものがあり、今後もその傾向は続くとみられている。未婚者の貧困率も有配偶者に比べて高く、特に未婚男性の貧困率が上昇していることを踏まえると、今後、男性の貧困率が上昇することにより、貧困率の男女格差が縮小する方向に働くことも考えられる。(pp.126-127)

 社会的排除の概念。
 貧困と社会的排除の大きな違いは、まず第1に、社会的排除は、社会的交流や社会参加といった「関係性」の欠乏を従来の貧困概念よりも明示的に問題視する点である。人間関係や社会参加の側面は、従来の貧困概念の中でも取り上げられていたが、そこでは関係性の欠如の要因が資源の欠如によると解釈されることが多かった。社会的排除は、関係性の欠如を資源の欠如と独立した貧困の側面として捉えている点が新しい。(p.128)

 貧困が「状態」を表わすものであるのに対し、社会的排除は、排除されていくメカニズムまたはプロセスに着目する。すなわち、どうやってその個人が排除されていくに至ったか、そのように個人を排除する社会の仕組みは何であるのか、など、「排除する側」を問題視するのである。そのため、社会的排除の概念においては、社会保障やその他の社会の制度から個々人が脱落していくことに大きく重きをおく。(同)

 最後に、社会的排除は、貧困と異なって、個人と社会の関係性に着目する。個人が社会のどのような組織に帰属し、メンバーであり、そして、最終的にはその社会のシティズンとして承認されているのか、それが、社会的排除の関心事項なのである。(同)

 社会的排除の最たるケースが労働市場からの排除である。(p.129)

 女性が家庭内、コミュニティ内の無償労働に従事する場合はどうか。
 イギリスでは、社会的排除における「参加」と「排除」を以下のように定義し直している。
 個人は、その個人の生きる社会において重要とされる活動(key activities)に参加していない時に社会的に排除されている。
 そして、「重要とされる活動」として「消費(consumption)」「生産(production)」「政治的活動(politica engagement)」「社会交流(social interaction)」の4つの分野を設定して、それぞれの女性の状況を分析している。労働が含まれるのは「生産」の分野であり、ここでの重要な活動は「社会的に価値が認められている活動(socially valued activity)」として家庭内労働も含むとしている。しかし、のちにヒューストンは、実際に21世紀のイギリスにおいて家庭内労働に対して付加される「価値」は少ないとし、これらを「重要な活動」として認めていない。そして、ヒューストンは、「価値が認められている」労働市場での優勝労働に女性が従事する割合が男性よりも少ないこと、有償労働に従事していても労働の価値の代償として支払われる賃金率が男性よりも低いこと、労働市場における地位が男性よりも低いこと、女性が従事する労働市場の範囲(職種)が男性よりも狭いこと、を理由に、「生産」の分野においての女性の社会的排除が深刻であることを訴える。
日本においても、どのような活動が「社会的に価値が認められている活動」であるのか、その判定は一筋縄にはいかない。(pp.129-130)

―昨年8月の某次世代の党参議院での発言を念頭に、少し長く引用しました。女性活躍推進法案の審議の中で、「家事労働は価値がないとお考えか?」と女性参考人を問い詰め、さらに「ご主人から褒められたいんですか」と嘲りのような言葉を浴びせた江口克彦議員です。はい、名前出しちゃいます。落としてください。
 のうのうと豊かに暮らす専業主婦がいる一方で、家事労働には価値があるなんて幻想にすがっていると男に捨てられるか死別するかしたときに労働市場からも排除され、一気に貧困に落ち込む女性がいるわけです。「家事労働には価値がある」これには女性にとっての落とし穴があるといっていいでしょう。


 女性の社会的排除の分析の対象が個人としてなのかグループとしてなのか。例えば、大多数の男性が「青年会」ないし「町内会」に参加し、大多数の女性は「婦人会」に参加するとしよう。もし町内におけるあらゆる重要事項は男性の出席する会にて決定され、女性がその決定の場にいないとすれば、これは、その社会の女性すべてが、グループとして社会参加から排除されていることにならないだろうか。これは、外国人やその他のマイノリティ(社会的少数グループ)にも当てはまる問題である。(p.130)

―個人的におもしろかった箇所。経済団体にかならず「女性会」のようなものはあるが、どうもガス抜きと「女部屋」として隔離するために使われているような気がしてならない。全体の交流会なんかやっても、女性会メンバーは隅の一角にかたまって他の(大多数の男性)メンバーとはまざらない。


 社会的排除の男女格差。
 筆者が行った「2008年社会生活調査」。2009年2月に実施し、全国の無作為抽出した地区の成人男女1320人を対象とした。回収された有効サンプル数は1021、有効回答率は77%。この調査では、1.経済的困窮のみならず、社会的困窮も把握することを目指した。2.社会におけるさまざまな公的な制度や仕組みから排除されているさまを把握することを目指した。3.公的のみならず、私的な領域からの排除も把握するために、友人や知人とのコミュニケーションの頻度や、家族・親戚などの私的なネットワークへの参加(冠婚葬祭への出席など)もみている。4.個人の社会における活動度も把握するために投票行動やボランティア活動、地域活動(PTA、町内会など)への参加といった社会参加の項目が含められた。
重要なのは、各項目の「欠如」は非自発的なものであることを確認している点である(p.131)

結果。
男女別にみると、女性の方が男性よりも排除率が高い分野は、低所得、ヾ靄椒法璽困侶臟 ↓∧質的剥奪、制度からの排除、ι埆淑な社会参加の5分野。
逆に男性の方が女性より高いのは、ド堙切な住居、Х从囘ストレス、ぜ匆餞愀犬侶臟,裡格野。統計的に優位なのは、低所得と社会参加のみであり、
他の分野の男女差は有意ではない。(同)

女性・男性をさらに詳しい属性で区切ると、排除リスクのパターンは男女で大きく異なることがわかる。
20歳代については、男性、女性ともに、低所得や∧質的剥奪、ソ撒錣覆鼻金銭的分野での排除率が高く、制度からの排除、社会参加、ぜ匆餞愀犬覆匹糧鷆眩的分野においては排除率は高くはない。この年代では、すべての分野において統計的に有意な男女差は認められない。
30歳代になると、男性の低所得のリスクが下がり、男女格差が生じる。この傾向は40歳代、50歳代と続き、60歳代以降は統計的に有意な差はなくなる。その他の分野においても、30歳代の男性はおおまかに排除率が低く、30歳代の女性に比べても社会参加では低い排除率となっている。(同)

40歳代になると、低所得、ヾ靄椒法璽困侶臟,箸い辰振眩的分野では、男性の優位が明らかになってくる。しかし他の分野においては、男女差は認められない。制度からの排除については、40歳代は他の年齢層に比べても男女ともに低く、この年齢期は、社会的排除リスクが男女ともに比較的に低い時期であるといえよう。
 50歳代も40歳代と同様に、男性が女性に比べて低所得のリスクの低さが続く一方で、他の分野においても有意な男女格差は認められない。筆者の以前の調査を使った分析においては、50歳代男性の社会的排除率が高いことが指摘されたが、本調査では同様の傾向は認められない。しかしながら、統計的に有意ではないものの、ぜ匆餞愀犬侶臟,50歳代男性において高い排除率であるのは興味深い。
60歳代では、男性の制度からの排除率が高いことが特記できる。60歳代女性もこの指標は高く男女差では統計的に有意ではないが、60歳代男性とその他の人々の間では統計的に有意な差が認められる。
70歳代以上になると、いくつかの分野において、女性の排除率が高くなっているのが特徴的である。Х从囘ストレスや、社会参加においては、有意な男女差が認められる上に、制度からの排除においても、社会全体に比べて高い排除率となっている。(p.138)

性別と世帯タイプによる違い。
特にリスクが高いグループは単身の高齢者世帯および勤労世代世帯。
単身の高齢者世帯では、制度からの排除率が高くなっており、これは男性高齢者でも女性高齢者でも認められる(男女差は有意ではない)。
しかし、リスクが高いのは単身の勤労世代世帯である。特に、ド堙切な住居については、男女ともに高い率となっているが、男性は女性に比べても統計的に有意に高い。また、ぜ匆餞愀犬侶臟,砲いても勤労世代の男性の単身世帯はリスクが高い傾向にあり、これは同年代の女性の単身世帯にはみられない。逆に勤労世代の女性の単身世帯は、制度からの排除が顕著であり、男性の単身世帯にはみられない傾向を示している。(同)

性別と活動状況による違い。
活動状況別でみると、正規雇用の排除のリスクの低さがまず目につく。この傾向は特に女性の正規雇用者にみられ、非金銭的指標においても、統計的に有意に低い率となっている。非正規雇用は、低所得、ヾ靄椒法璽此↓Х从囘ストレスの排除のリスクが高い。非正規雇用の男性と女性を比べると、特に統計的に有意ではないものの、排除率は男性の方が高いことが多い。特に、Х从囘ストレスや、ぜ匆餞愀犬侶臟,蓮非正規雇用の男性において高いリスクとなっている。
しかし、最もリスクが高いのが「求職活動中・無職(その他)」の層であり、中でも、女性の排除のリスクは、ぜ匆餞愀犬鮟く7つの分野で、その他の人々より高い。男性のこの属性の人々には、この傾向は認められず、長期失業や就業意欲喪失者(discouraged worker)などに代表される労働市場からの脱落は、むしろ女性に大きな負の影響を及ぼすことが確認される。
専業主婦はサンプル数が少ないので分析が難しいものの、概ね社会的排除のリスクは低い。所得でみた貧困率と同様に、専業主婦であること、すなわち夫という保障を得た上での労働市場からの自主的な退場は、社会的排除には繋がらない。(p.139)

性別と配偶状況による違い。
配偶状況別でみると、まず、離別女性の排除のリスクが非常に高く、また多分野に広がっているのが確認できる。8次元のうち、社会参加とぜ匆餞愀犬鮟く6つの次元で排除率が有意に高くなっており、統計的に有意でない2つの次元においても、その率は高く、いかに離別女性が複合的な社会的排除のリスクにさらされているのかがわかる。有配偶の場合は、男性も女性もリスクが低く、特に、女性の方がよりリスクが低いと言えよう。男性の中で最もリスクが高いのは、未婚者である。未婚男性は、離別男性に比べても排除率が高い項目が多く、特に、ぜ匆餞愀犬侶臟,砲弔い討蓮他のカテゴリーよりも突出して離別男性よりリスクが高く、心配されるところである。
なお、学歴による社会的排除への影響は、低所得以外の次元において、男女差が確認される属性はほとんどなく、学歴によって社会的排除率が大きく異なるということも確認されなかった。(pp.139-140)

政策的インプリケーション。
1.「貧困の女性化」をより明示的に意識する必要。現在の貧困に対する政策議論からは「貧困の女性化」という観点が抜け落ちている。貧困対策の対象となるべき人々の6割近くが女性であるということに留意せずに、貧困政策を講じるなら、それは到底有効ではありえない。同時に、「貧困の高齢化」にも注目すべきである。日本の貧困者に占める女性の割合は徐々に増加しているが、その増加は、高齢女性の占める割合が急増していることによる。その変化は少子高齢化による人口構造の変化より大きい。65歳以上の女性が貧困者に占める割合は、1995年の17.3%から2007年の23.9%にまで増加している。すなわち、貧困の問題を解決するには、公的年金をはじめとする高齢者の所得保障をどうするかという政策論議を避けて通るわけにはいかないのである。(p.140)

 第2に、社会的排除のリスクが高い層を指摘すると、まず、男女ともに若年層、さらには、単身の若年層の社会的排除が今後はさらなる社会問題となる可能性があることである。勤労世代の男性の未婚・単身世帯は、社会関係においても社会的排除のリスクが高いことは特記しておきたい。次に、「求職活動中・無職(専業主婦、学生、退職者を除く)」の層の社会的排除が極めて高いこと、さらには、特に女性においてこの傾向が顕著であることに注意を喚起したい。属性別の分析において、このカテゴリーの女性は最も社会的排除のリスクが高く、複合的なリスクを抱えている。(同)


 


第6章 雇用の非正規化と労働市場規制(遠藤公嗣)

 日本的雇用慣行=終身雇用、年功序列、属性基準賃金
 これにより日本では雇用と賃金のあり方が職務のあり方から切断される。経営者は職務を明示しないまま労働者を雇い入れることができ、労働者の職務を容易に一方的に変更できる。(p.143)

 属性基準賃金の1つである職能給は1960年代から1970年代にかけて普及したが、その建前は、労働者が身につけた職務遂行能力を基準に賃金額を決定するということである。(略)職能給の建前は、OJTによる労働者の能力開発に、年功給よりはるかに適合的である。(p.144)

個々の労働者は、「終身雇用」期間全体の恵まれた処遇を考慮して、ときには課せられる長時間の過重な労働などの恵まれない労働条件を許容する。
こうした日本的雇用慣行ないし恵まれた処遇を享受する労働者は誰なのか。それは、事実上、男性の正規労働者である。この男性正規労働者はどこから供給されるのか。それは、男性労働者が稼ぐ賃金によって主に家計が維持される家族、即ち男性稼ぎ主型家族からである。(同)

正規労働者は日本的雇用慣行のもとで恵まれた処遇を享受するが、その享受は、非正規労働者の存在を前提としてはじめて可能であるといってよい。にもかかわらず日本社会では、非正規労働者の処遇が著しく劣ることを、当然の社会慣行とする。非正規労働者と正規労働者は、日本社会にかなり独特の、差別的な雇用身分というべきものである。(pp.144-145)

さて、非正規労働者とは誰であり、どこから供給されるのか。それは第1に、主婦パート労働者であって、第2に、学生アルバイトである。そして両者もまた男性稼ぎ主型家族から供給される。(p.145)

確認すべきは、主婦パート労働者も学生アルバイトも、家計の主な維持者でないことである。そのため、一方では、その賃金水準は低くてかまわないとされる。他方では、離職しても夫ないし父である男性正規労働者の扶養内に完全に復帰することになるので統計上の「失業」に該当せず、失業率を上昇させない。まさに、雇用量を調整する労働者として最適である。(同)

 さて、男性労働者の長期勤続の傾向、あるいは、相対的にであれ雇用を保障される男性労働者の登場、これが重工業でみられるようになったのは1920年代であり、これを日本的雇用慣行の源流と理解するのは、労働史研究の通説である。これにくわえて私が重視したいことは、第二次世界大戦後の1950年代後半に、経営者が男性労働者の雇用を保障すべきことを自覚したことである。(略)その教訓とは、企業の目先の業績回復を目的に男性労働者を解雇しようとすれば争議が起こり、それは企業の閉鎖や倒産という結果をもたらすかもしれず、逆に、男性労働者にできるかぎり雇用を保障することが経営にとって究極的には有益である(略)なお、経営者がこの教訓をまもることができた歴史的条件として、1955年から高度経済成長がはじまり、解雇の必要のない時期がながく続いたということに留意すべきである。(p.146)

その後、高度経済成長の結果として、1960年代に臨時工は著しく減少し、臨時工問題は注目されなくなる。この臨時工に代わって、雇用量を調整される労働者ないし非正規労働者として、主婦パート労働者と学生アルバイトが登場した。この変化が1960年代型日本システムの確立である。(p.148)

多数の主婦パート労働者の登場は、共働きである自営業主と家族従業者がさらに減少し、代わって雇用労働者が増加したこと、そして、その家族が男性稼ぎ主型家族を志向したことを示唆すると考えられる。また、臨時工から主婦パート労働者と学生アルバイトへの変化が、小売業やサービス業の発展と共に進んだことに留意すべきである。一般的にいって、これらの産業は季節や時間帯による繁忙の差が重工業よりも激しく、それだけ、短時間に細分化された雇用量の調整を必要とするが、これに主婦パート労働者と学生アルバイトは適合的であった。(同)

1960年代型日本システムは、女性労働者を雇用差別するシステムでもある。このシステムのもとでは、女性は学校卒業直後の若年時に正規労働者となっても、その多数はやがて結婚・出産・育児をきっかけに退職して主婦になる。そのため経営者は、彼女ら全体の早期離職を予測して、昇進や職務の配置転換を停滞させ、彼女ら全体に能力開発の機会を与えない。これは「統計的差別」と呼ばれる雇用差別である。女性が再び労働者となるのは主婦パート労働者としてであるが、その賃金水準は低い。低くてかまわないとされるのはこのシステムのためであるけれども、その職務遂行が適切に評価されないという意味で、これは雇用差別である。また、女性のこうした働き方を前提として、女性労働者が正規であれ非正規であれ、職場内における性別役割分業が家庭内におけるそれと同様に成立する。(pp.148-189)

経営者の多数はもちろんのこと、男性正規労働者中心の企業内組合もまた、日本企業の成功を賛美していたから、この社会規範を受け入れていたといってよい。そのため企業内組合は、非正規労働者の処遇改善にも、企業内組合員である女性正規労働者の処遇改善にも、それほど熱心でなかった。後者については、彼女らは早期に離職するはずだから雇用中の処遇改善は意義が薄いうえ、性別役割分業を職場内でも家庭内でも維持したいと、企業内組合が考えていたからでもあったといってよい。(p.149)

政策ないし公的制度もまた、基本的には、1960年代日本システムの社会規範化を補強していた。例をあげよう。1961年に創設された所得税の「配偶者控除」は、主婦パート労働者が夫の扶養内にとどまるように就労調整することをうながし(現在のいわゆる「103万円の壁」である)、結果として、主婦パート労働者の低賃金を助長した。1970年代なかば以降に形成された判例法である「整理解雇の四要件」の1つは、正規労働者の雇用保障を優先するために、非正規労働者の解雇を当然とした。1985年の国民年金改正により「第三号被保険者」が創設され、男性正規労働者の妻に保険料の納入なしで年金を受給できる権利を与えて主婦になることをうながし(現在のいわゆる「130万円の壁」である)、つまりは男性稼ぎ主型家族を奨励した。(同)

1980年代から90年代はじめにかけて、日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムの前提をゆるがす事態が進行していた。
1. 日本的雇用慣行の経済的合理性の減少
情報技術の発展とビジネスにおける情報技術の重要化は、こうした仕事能力の重要性を低下させていた。
2. 女性労働者が、日本的雇用慣行から排除されていたにもかかわらず、絶え間なく増加した。その結果として、職場内でも家庭内でも、性別役割分業が弱まる可能性を潜在的に増すことになった。

 1985年に労働者派遣法が制定された。労働者派遣事業は1960年代から一部の企業によって実態としておこなわれていたが、同法はこれを明白に合法化した。その合法化は、非正規雇用についての労働市場の規制緩和であったといえる。(p.151)

 日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムが社会規範であった時期の真っ只中である1985年に労働者派遣法は制定された。従って同法は、企業内の職務を切り出すということに馴染まない日本型雇用慣行に配慮した法として制定された。具体的には、同法が派遣事業にくわえた多数の規制であった。
例:制定時、派遣が許される業務は13に限定されていた。さらに13業務は「秘書」「ファイリング」など女性職が多かった。
 その後、86年の改正で13から16に、96年の改正で26に拡大した。99年には原則として全部の業務で派遣が許されるという規制緩和に大転換し、例外として、なお派遣を禁止する5業務をネガティブ・リストとして挙げた。さらに2004年改正では、製造業務を派遣禁止5業務からはずした。(同)

 法改正による派遣業務の拡大は、派遣業務が女性職であることを薄めることでもあった。このことは、派遣労働者の増加率の性別比に反映した。1997年までの各5年間では、女性の増加率が男性の増加率より高かったけれども、2002年までと2007年までの各5年間では、男性の増加率が女性の増加率よりはるかに高かった。1999年と2004年の法改正の影響をみてとることができよう。(p.152)

 小泉構造改革。小泉政権のもとでの多方面にわたる規制緩和は、非正規労働者の増加と、そのワーキング・プア化を加速させ、日本社会における所得格差を拡大した。労働市場の規制緩和もすすめられ、その法政策に具体化された重要な結果が、労働者派遣法の2004年改正であった。(同)

 この時期に、少なくない経営者の価値観は、企業収益の増大による企業価値の引き上げを重視する企業経営こそが望ましいと変化したと思われる。彼らにとっては、これが日本企業の「構造改革」であった。そして、そのためには、非正規労働者の賃金を低く抑えるのはもちろんのこと、正規労働者についても低賃金で過重な労働を求めることは問題でなく、むしろ望ましいことと考えるようになってしまった。(同)

 とくに、一部の企業が「ブラック企業」化して「周辺的正社員」を雇用しはじめたことに注目したい。その人事労務管理は、労働者を正規の名目で雇用しながら、そして正規雇用に「ふさわしい」長時間の過重な労働を要求しながら、実際には正規雇用にふさわしい恵まれた処遇や将来展望を与える意思がまったくなく、労働者を短期雇用で使い捨てるものである。これは日本的雇用慣行に反するばかりでなく、それを悪用するという、経営者のモラルハザードの結果である。(pp.152-153)

 また、経営者の価値観をこのように変化させるうえで、市場原理主義を信奉する経済学者が果たした役割の大きさを指摘しておきたい。その総論的な位置にあったのは八代尚宏著『雇用改革の時代』(1999)であって、広く読まれて大きな影響をもったと思われる。また、彼らの主張のなかでもっとも先鋭的だったのは、解雇をおこないやすくせよとの解雇規制緩和の主張であろうが、そうした主張の1つの集大成が福井秀夫・大竹文雄著『脱格差社会と雇用法制』(2006)であった。(p.153)

 2005年ころに経営者団体が提案した「ホワイトカラー・エグゼンプション」は、労働時間についての法規制―つまり残業手当支払いの法的義務―を、ホワイトカラーの正規労働者には適用しないように法改正するという提案であった。(同)

 規制緩和による実害は、なによりも、非正規労働者の無視しがたい低賃金として顕在化した。NHK2006年7月23日放送の「ワーキングプア―働いても働いても豊かになれない」の反響はすさまじく大きな役割を果たした。(同)

 非正規労働者の所得分布は、女性であれ男性であれ、正規労働者のそれより低額であることを確認しよう。女性においては、正規の所得分布は低額寄りに位置し、非正規の所得分布にかなり重複しているが、男性はそうではない。所得分布がこのようになる理由は、女性の正規労働者の所得水準が男性のそれより相当に低いからである。他方、非正規では、所得水準における女性と男性の間の差は小さいものの、労働者数に大きな差がある。すなわち、正規であろうと非正規であろうと女性労働者の賃金が低いことをも示している。(pp.153-154)

 正社員以外の労働者(すなわち非正規労働者)の45.4%は、低賃金であるにもかかわらず、自分自身の生計を維持しなければならない。正社員以外の労働者が女性であっても26.7%が、あるいはパートタイム労働者であっても28.6%が、そうである。これらのなかには、子どもなど家族を扶養する労働者―たとえばシングルマザー労働者―が含まれる。1960年代型日本システムにおける非正規労働者は家計の主な維持者でなかったが、現在はもはやそうではない。自分自身や家族の生計を維持しなければならない多数の非正規労働者の登場は、1960年代型システムが破綻しつつあることを端的に示すであろう。(pp.154-155)


1985年に男女雇用機会均等法が制定された理由
1. 男女雇用平等という価値規範の促進が明白な国際基準となっていたこと。その象徴は、1979年国連女性差別撤廃条約である。
2. 日本社会において、女性労働者の絶え間のない増加を底流として、男女雇用平等という国際標準への希求が強まっていたことである。この希求が、日本政府をして、国連女性差別撤廃条約に署名させた。同条約を批准するためには国内法の整備が必要であり、その整備の1つが1985年均等法の制定である。国際標準という「外圧」によると考えてもよかろう。(p.157)

このような経緯で制定されたため、同法が企業の人事労務管理にくわえる規制は非常にゆるやかなものにとどまった。法の名称が、いわば国際標準である「差別禁止」でなかったことはもちろん、たとえば募集・採用・配置・昇進における男女差別は禁止されず、その解消は単に企業経営者の努力義務とされるにとどまったことなどである。なお、退職年齢や解雇についての男女差別を同法は禁止したが、日本的雇用慣行のもとでは女性正規労働者の多数が若年退職することを前提すれば、これらの禁止はそもそも企業への影響が少ない。同法の規制がゆるやかであったため、国際標準への強い希求を持っていた女性団体などは同法に失望し批判が起こった。(同)

日本的雇用慣行はもともと男女平等ではなかった。これをあらためて形式的には性中立的な人事労務管理に改正し、しかし男女平等でない日本的雇用慣行を温存する工夫をしなければならなかった。それが同法制定前後に大企業に急速に普及した「総合職」と「一般職」のコース別人事管理だった。「総合職」を男性が「一般職」を女性が選択するように誘導し、実質的には男女雇用差別の人事労務管理を温存した。(pp.157-158)

同法に触発されて、自分が雇用差別の被害者であることを知った女性正規労働者がその是正を企業経営者に要求し、認められなかったうちの幾人かが裁判所に提訴した。代表例は、大阪の住友系三社の女性正規労働者による3つの提訴。
 この裁判の特徴:
1. 原告となった労働者全員が企業内組合の組合員であったが、企業内組合は原告への支援を完全に拒否したこと。
2. 原告とWWN(ワーキング・ウィメンズ・ネットワーク)が重視した活動は、国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW、女性差別撤廃条約締結国における条約実効化を促進する委員会)へ裁判関連の情報を提供して、CEDAWが出す日本政府へのコメントを原告に有利な内容とさせる活動であり、そのコメントを裁判で活用して有利な和解に導く活動だった。いわば「外圧」を自己に有利になるように日本から創出する活動であって、労働分野ではおそらく初めての国際活動であり、この意味で画期的であった。(p.158)

 1997年と2006年に均等法が改正され、とくに2006年改正によって、同法に間接差別の概念が導入された。しかしコース別人事管理が間接差別に該当するかどうかの決定は、5年後の法の見直しにいわば先送りされている。(p.159)

1999年男女共同参画社会基本法もまた、このような認識の広まりを背景にして制定されたと考えるべきである。(同)

「同一価値労働同一賃金」原則。日本企業の男女間賃金格差を是正し、職務基準の雇用慣行への志向を意味した。この原則への志向は、日本的雇用慣行ないしは属性基準賃金とは対立する。(p.159-160)

 2010年、連合の古賀伸明会長発言(雑誌『経済界』)で「貧困対策と格差是正のためには“同一価値労働同一賃金”の確立が急務です」と2度も強調。厚労省は同年春、職務分析・職務評価の実施マニュアル冊子を刊行。(pp.160-161)

むすび:
 労働市場を規制しなくてよいのか、それとも規制すべきなのか。
 これについて男性中心の労働研究における2つの見解:
1. 労働市場をふくめて、全般的な規制緩和をなお進めるべきである。その結果として、経済成長が達成でき、ワーキング・プアの賃金が引き上げられる(これは市場原理主義の見解である)
2. 日本的雇用慣行に復帰すべきである。非正規労働者を正規化すべきである(これは男性の労働者と労働研究者に強い見解である)(pp.161-162)

1については、規制緩和によるワーキング・プアの増加という実害が日本社会にすでに現れている。留意すべきは、この実害は将来の経済成長で埋め合わせられないということ。
1. 規制緩和が将来の経済成長を確実にもたらすとはかぎらない
2. 将来の経済成長が仮にあるとしても現在のワーキング・プアの人生は有限時間であるから、彼ら彼女らに将来の経済成長の果実が還元される保証はない。
3. 時間の経過のうちに別の新たな実害が発生し、また経済状況が変化して、現在のワーキング・プアへの還元はできなくなる・忘れられるかもしれない。(p.162)

 2については、日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムが女性雇用差別のシステムであることについて、どう考えるのかが問われよう。(同)

 ではどうすればよいのか。
 日本的雇用慣行から排除された女性労働運動の中で、男女雇用平等ないしは男女雇用差別禁止という価値規範、および、これを実現する道具としての「同一価値労働同一賃金」原則と職務給ないし職務基準の雇用慣行、これらが普及し発展してきたことである。この価値規範は、理論的にも実践的にも、あらゆる点における雇用平等ないし雇用差別禁止に容易に発展する価値規範である。日本では、正規・非正規という雇用身分の間の平等ないし差別禁止がもっとも重要であろう。(pp.162-163)

 第3の途。
 雇用平等ないし雇用差別禁止、「同一価値労働同一賃金」原則と職務給ないし職務基準の雇用慣行、これらが労働市場を規制すべき新たな価値規範であり道具である。これらは日本的雇用慣行とも1960年代型日本システムとも相容れない労働市場の規制である。また、これらは労働供給からみた日本経済の成長戦略でもある(p.163)

 日本の労働研究は、日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムの肯定を担った男性中心の労働研究から脱却すべき時期に至っている。(同)


第7章 社会的経済が示す未来―イタリアの協同組合の事例から(田中夏子)
 すみません、省略。


第8章 レジーム転換と福祉政治―包摂と承認の政治学(宮本太郎)

 新しい福祉政治においては、まず、人々がいかに就労し生活の資を得ていくかという、経済的な「包摂」の達成が求められている。同時に、人々がどのようにむすびつき、認め認められる関係に入るかという、「承認」の実現も問われている。すなわち、新しい福士誠治においては、「包摂の政治」および「承認の政治」として展開されている。(p.191)

 包摂の政治は、就労支援、雇用創出、家族内の扶養関係を含めた社会保障の再設計、雇用と社会保障の連携構築、などを課題とする。それは、経済的な分配と再分配にかかわる政治である。(同)

 これに対して承認の政治という言葉は、ジェンダーや民族集団など、劣位に置かれてきた集団の同権化をめぐる政治を指すことが多かった。だが、様々な社会的帰属を得て認められて生きる条件を確保するという点では、承認という問題は大多数の人々にかかわる普遍的主題である。ここで承認の政治とは、マイノリティをめぐる政治だけではなく、家族と社会における人々のつながりや相互承認のあり方、すなわち、家族・ジェンダー関係、職場コミュニティ、市民権などに関する政治をさす。(同)

 経済的基盤にかかわる包摂と、相互の主観的な認知関係にかかわる承認は、このように別々の事柄であるが一体不可分でもある。人々が働き家族をつくり生活を続ける営みのほとんどは、経済的な包摂の関係と、より情緒的な側面もある承認の関係をともに含んでいる。(同)

 20世紀型レジームの転換に伴い、これまでレジームに組み込まれてきた包摂と承認のかたちが一挙に揺らぎ始め、国民国家、企業、家族という、従来の包摂と承認の枠組みそのものが流動化し、包摂と承認をそれぞれいかなる場で、どこまで実現するべきか、そこで政治が果たすべき役割は何かが争点となりつつある。(pp.191-192)

20世紀型レジームにおける包摂と承認:
包摂:
大量生産・大量消費を旨とするフォード主義的生産体制=20世紀型福祉国家の前提
男性稼ぎ主の安定雇用に役立ったもの
=20世紀型福祉国家・労使交渉による賃金決定システム・ケインズ主義の名で呼ばれた積極的需要喚起政策
そのうえで、社会保障は、平均的なライフサイクルに典型的なリスクに対して、社会保険制度を軸に対応=ベヴァリッジ型の社会保障(pp.192-193)

こうして、ケインズ・ベヴァリッジ型の福祉・雇用レジームによって実現された男性稼ぎ主の経済的な包摂は、多くの国で機能していた家族主義の規範と制度によって、妻や子どもの包摂に連動していった。(p.193)

承認:
 20世紀型レジームにおいて、まず法的な権利関係については、国民国家が承認の大きな枠組みを提供した。
 次に、社会的業績関係については、雇用と労働の現場が、包摂の場であると同時に重要な承認の場となった。
 雇用と承認
1.20世紀型レジームにおいては、男性稼ぎ主の有償労働が承認の対象となり、有償労働の評価のあり方は、労使を中心とした対立と闘争を常に惹起することになる。これに対して、家事労働などの無償労働は、一部のレジームを除き基本的には社会的業績としては認知されることなく、せいぜいのところ私的な関係による承認、ホネットの言う愛の関係に吸収された。
2.フォード主義的生産体制のもとでは働く者がその能力を発揮し、周囲からの承認を得て自己肯定感を強める条件が失われていった。20世紀半ばから生産体制が変容するなかで、労働における承認関係が、激しい競争関係へ転換した。労働の現場は、相互承認による連帯を離れ、下位あるいは同格の人々に対して優位性を確保し、上位の人々に認められるという、承認欲求を駆り立てる場へと転化していく。日本の経営は、こうした男性稼ぎ主の承認欲求を巧みに組織化したものであった。(pp.194-195)

 20世紀型レジームの情緒的な承認関係において、決定的な役割が期待されたのが家族であった。成員間の強い情緒的なむすびつきを特徴とする近代家族の考え方が、フォード主義的生産体制と連携して、より純化されていく。…主婦と軸とした消費モデルが形成され、家族の情緒的なむすびつきと、耐久消費財の大量消費という機能的関係が連動していくのである。(p.195)

 20世紀の制度は、実体としては、国民国家、重要院に忠誠心を求める企業経営、そして家族という様々な共同体的関係を取り込んで制度を安定させ、承認の関係を成立させてきた。しかし20世紀の終わりから、こうした共同体的関係の弛緩が相互に連動しながら進行し、包摂と承認のあり方の抜本的な再設計が求められるに至る。(同)

 個々の福祉国家のあり方やそこでの包摂と承認の仕組みは、福祉レジームと雇用レジームの連携から説明される必要がある。その組み合わせのパターンについて、あらゆる問題に適用可能な単一の類型モデルを構築するのは困難である。(p.197)

 日本は若年層を中心に失業率が高かった大陸ヨーロッパ諸国と異なる。…日本の場合、雇用保護は、公共事業や中小企業への保護・規制をとおして周辺部労働市場の男性労働者にまで及んだ。建設業などの周辺部労働市場にガストアルバイター(外国人労働者)を導入したドイツに対して、日本では公共事業によって建設業を周辺部労働力を吸収する場として肥大化させていった。他方で日本では、コルピのいう「一般家族支援」型の家族手当支出や社会サービスが弱かった。日本の家族主義は、政府の給付やサービスによってというより、男性稼ぎ主の家族賃金や日本的経営の提供する福利厚生に支えられて強化されたのである。そして、教育や住宅についての公的支出が抑制されていたために、主婦は男性稼ぎ主の所得を補完するパートタイム労働を迫られた。
すなわち、小さな福祉国家であることから家計を補う就労の必要が高まったが、男性稼ぎ主型の税制や社会保険制度がその所得を一定以下に誘導した。ここから主にサービス業を中心として、賃金水準の低いパートタイム労働市場が現れた。(p.199)

 児童手当や公教育支出、住宅関連支出などが大きかった大陸ヨーロッパ諸国、たとえばかつてのドイツでは、女性の年齢別雇用力率曲線が「への字」型を描いていた。つまり、育児や介護の時期に退職した女性労働力は労働市場に戻らない場合が多かった。これに対して、日本ではいったん労働市場から離脱した女性労働力がやがて家計補完型の就労を迫られるために、M字型の曲線を示したのである。(同)

 福祉レジーム、雇用レジーム両方の特性に着目した二次元モデルによってとらえる。

スウェーデン:両性支援型。この二次元モデルの第二象限には、個人を対象としてその労働市場参加の条件を福祉レジームが整え、他方で雇用レジームが積極的労働市場政策をとおして両性の雇用を促進したスウェーデン(両性支援型)が位置づけられる。
アメリカ:市場志向型。アメリカの場合は、1946年に完全雇用法が議会で否決されたことに象徴されるように、政府が完全雇用に責任をもつという立場をとることはなかった。他方で、福祉レジームは家族主義的な性格を有するが、男女の賃金格差や管理職に占める女性の割合などで見ると、女性の就労の機会は相対的に開かれていた。したがって、第三象限と第四象限の間に位置づけられよう。
ドイツ:一般家族支援型。ドイツは家族主義的な福祉レジームを有するが、他方で完全雇用への制度的コミットメントは小さかった。ゆえに第四象限に位置づけられる(一般家族支援型)。
日本:男性雇用志向型レジーム。男性稼ぎ主型の制度を前提にその雇用を政府の積極的関与で支えたという点で、第一象限に位置づけることができるであろう。(pp.199-200)

 フォード主義的生産体制においては、労働の場の相互承認関係が、職場の地位の上昇圧力へ誘導されていった。この傾向は、日本の大企業においてはとくに顕著であったのである。とりわけ、日本的経営に「能力主義管理」が導入され確立していった1960年代をとおして、労働者の承認欲求を、昇進をめぐる承認競争につないでいく仕組みが確立していった。
新卒一括採用で同期入社の社員のあいだで競争が始まり、一般に感謝幹部として絞り込まれる時期はかなり遅く設定され、その間は同期入社の同僚に比べて昇進が遅れてもその後の努力で挽回可能な、いわばリターンマッチ付きのトーナメントがおこなわれた。(p.201)

 こうした仕組みは、男性稼ぎ主が企業の承認競争を途中で離脱して別の承認の場を求めていくことを難しくするものであった。さらに、家族が直接に彼の勤労所得に依拠することになったため、承認レースを降りることはなおのこと難しくなった。(同)

 全体として抑制された日本の社会保障給付のうち、とくに児童手当などの家族手当は、GDP比でOECD平均の3分の1程度に留まった。ここに、大陸ヨーロッパのように福祉国家に支えられた家族主義とは異なり、企業に直接にぶら下がるかたちをとった日本の家族主義が形成された。(同)

 図2が示すように、1960年代の初めまでは日本とスウェーデンの女性労働力率はほぼ同じ水準であったが、その後スウェーデンは急上昇し、日本は1970年代の後半まで、先進国のなかでは例外的に女性労働力率が低下する。(p.202)

 日本型福祉の家族主義は、このような時期にとくに強く打ち出されることになる。1978年度の『厚生白書』は、家族依存の子育て・介護の体制を、日本型福祉の「含み資産」とした(厚生省1978)。また、自営業者の税控除とバランスをとるという名目もあって、1987年には配偶者特別控除が導入されるなど、男性稼ぎ主型の制度が強化された。家族は、男性稼ぎ主の扶養と連動した経済的包摂の場として造形されていくと同時に、主婦の無償労働への承認を強める動きが前面に出た、ということができる。(同)

 このように男性雇用志向型レジームでは、包摂と承認の枠が企業と家族に集中することで、それを超えたつながりが弱まることになった。たとえば山岸俊男は、日本社会で起業などの機能集団を超えた信頼関係が低いことを、社会心理学の立場から実証的に示した(山岸1999)。山岸によれば、集団内部では拘束が強く相互の排他性も顕著である反面、集団の拘束が及ばない外部では、人々の関係での不確実性が増し、信頼が醸成されないのである。(pp.202-203)

 つまり、日本では、「ミウチ」「セケン」「ソト」というように、親密な関係からの距離で信頼や人間関係のあり方が原理的に異なる傾向が強い。社会的信頼関係の強度、すなわち社会関係資本という視点から言えば、ミウチ的集団のなかでの「結束型」の社会関係資本は強いが、そのような集団を超えた「橋渡し型」の社会関係資本は弱いことになる(パットナム2006)。日本の承認関係についてのこうした特質は、社会全体を包括する宗教的規範が弱いこととの関連で説明される場合が多い。しかし、男性雇用志向型レジームにおける包摂と承認の仕組みがこうした特質を強化してきた、という事情もまた見て取れるのである。(p.203)

 21世紀。世界大の競争環境の変化が、金融規制の緩和と資本の国際移動の増大とともに進行することで、先進国における安定雇用は浸食される。資本は個別企業との安定的な関係から離れ、国境を越えて新たな投資先を求め続ける。投資対象として優先されるのは、消費者により安い商品やサービスを、次々と意匠換えをしながら、迅速に提供できる企業である。金融と産業の関係は逆転し、金融優位の資本主義体制への転換がすすむ。
 産業界は、男性稼ぎ主の安定した雇用を縮小することで事態に対応しようとしている。男性稼ぎ主の安定した雇用に代わって、非正規労働が投入され、海外生産比率の拡大がすすめられる。多くの事務管理の仕事が失われ、少数精鋭の専門管理的業務と、大多数のルーティン的で不安定(プレカリアス)な仕事へと両極化がすすむ。サービス経済化と労働力の女性化がすすみ、雇用環境はさらに大きく変化する。(p.204)

 男性稼ぎ主の安定雇用が崩れた後に、雇用と社会保障をいかに繋ぎなおし経済的な包摂を実現していくかということについては、大きく3つのオプションがある:
1. 雇用の質を問わず人々に就労を義務づけ、就労に向けた活動について協力が得られないといった場合には社会保障の給付を打ち止めにするという、いわゆるワークフェアのアプローチ。
2. 就労を義務づけることよりも就労を妨げている問題の解決を重視するアプローチもある。これはアクティベーションと呼ばれる方法であり、保育サービスや公的職業訓練の不足を重視し、支援型サービスの給付によって人々を就労に導こうとする。
3. ベーシックインカムのアプローチ。これまでの社会保険、公的扶助などの社会保障制度全体を見直し、すべての市民を対象とした均一の現金給付に置き換える考え方。広義のベーシックインカムとして、人々の勤労所得が明らかに減じている実態から、低下した勤労所得を、公的扶助に依存せずに補完的な現金給付で補うと考えるなら、このアプローチは決して非現実的ではない。(pp.204-205)

 男性雇用型レジームの解体が本格化するのは、1990年代の半ばであり、あえて特定すれば、1995年が転換点となる。この年、日本経営者団体連盟(日経連)のレポート『新時代の「日本的経営」』がすべての従業員を対象とした長期的雇用慣行の終焉を宣言し、またGDPに占める公共事業予算が急速に減額に転じた。(p.208)

 近年の幸福研究は、人々の幸福感の向上のためには、経済的包摂による所得の保障に加えて、社会的承認関係の強化が求められることを示している。(Frey 2008)(p.211)

 包摂と承認の単位として、かつてのようなかたちで企業と家族を再建することはおそらく可能ではないし、望ましいことでもない。流動性を増す労働市場や家族の揺らぎに対して、就労支援の公共サービスや社会的手当を給付することで、人々が経済的包摂の場を変更したり、所得の源泉を多元的に確保できることが必要になる。(p.212)

 承認関係に対しても、男性稼ぎ主が企業に、主婦が家族に「生きる場」を見出すというかたちに代えて、人々にとっての承認の場が多元化していくことが必要になってくる。両性がともに雇用と家族にかかわることが求められているし、雇用と家族の外部に経済的包摂の仕組みを構築する以上、地域や社会のなかに新たな足場をもつことも不可避となる。このことは、人々が豊かな承認関係を享受するためにも望ましいと言えよう。人々が複数の物語を生きて、また自ら物語を乗り換えることができるならば、それは人々の幸福の基盤を拡げると同時に、個々人が人生の主導性を高めることにもつながる。(同)
 



 


 今回はあんまりツッコミが入れられませんでした―。


 
 

正田佐与






 


 このところ、「学者さんが立派な肩書を使って全然正しくないことを言う」という現象が続いています。(もちろん、わたしの信頼する少数の学者さんはそうではありません)
 北朝鮮もミサイル発射する物騒な世相、そんな中では人びとの頭の混乱が加速し、それに便乗してご商売する学者さんや出版社さんも増えるいっぽうかもしれません。

 去年もアカデミズムに疑義を呈する記事を何本かアップしております。代表的なのはこちらの3本:
●試論・学者さんはなぜ間違うのか
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921811.html
●正田がアカデミズムに行かなかったわけ、「知性の失敗」、でもフランクフルト学派に興味津々
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925522.html
●科学の限界性、認識の限界性―アカデミズムも盲信してはいけない?千葉大学・広井良典教授との対話
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931204.html 

 で、「学者はなぜ正しくないことを言うのか」。
 しつこいようですが信頼する学者さんがたにはご迷惑を掛けてしまうようなタイトルですが、そのことを説明する本があったのでご紹介します。
 「女装の東大教授」安冨歩氏の著書『「学歴エリート」は暴走する―「東大話法」が蝕む』(安冨歩、講談社+A新書、2013年)。安冨氏は東日本大震災直後に『原発危機と東大話法』を著し、以来この「東大話法」シリーズを何冊か出しています。本書は同シリーズ4冊目ぐらいの著作。

 本書によると、

東大話法規則
ルール ー分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
ルール◆ー分の立場のよいように相手の話を解釈する
ルール 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする
ルールぁ‥垤腓里茲い海箸ない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す
ルールァ,匹鵑覆砲いげ淡困任弔犬弔泙旅腓錣覆い海箸任蘯信満々で話す
ルールΑー分の問題を隠すために、同様の問題を持つ人を、力いっぱい批判する
ルールА,修両譴納分が立派な人だと思われることを言う
ルール─ー分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説をする
ルール 「誤解を恐れずに言えば」と言って、ウソをつく
ルール➉ スケープゴートを侮辱することで、読者や聞き手を恫喝し、迎合的な態度をとらせる
ルール 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念をもちだす
ルール 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する
ルール 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める
ルール 羊頭狗肉
ルール わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する
ルール亜,錣韻里錣らない理屈を使って相手をケムにまき、自分の主張を正当化する
ルール院,△△任發覆ぁ△海Δ任發覆ぁ△伴分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる
ルール押,△△任發覆ぁ△海Δ任發覆ぁ△醗っ張っておいて、自分の言いたいところへ突然おとす
ルール魁〜澗里離丱薀鵐垢鮃佑┐独言する
ルール粥 屬發掘察察擦任△襪箸靴燭蕁△詫びします」と言って、謝罪をしたフリで切り抜ける

 いかがでしょう。
 まあ東大に限らず、近年ではハーバードコロンビアといった海外有名大学がえりの人々も皆さんご同様に、もっともらしくエビデンスをつけて結論は全然間違ってることを平気でおっしゃいますね。
 このブログで年頭以来批判した『「学力」の経済学』など、もろにこれですね。ルールキ➉悪鵜欧△燭蠅当てはまっています。

(ルールきイ覆鵑は、学者ではないですが某国の首相とか官房長官もやっていそうですね)
(ルール瓦痢崋佞辰織侫蠅鬚垢襦廚箸いΔ里蓮△錣燭靴浪甬遒北鮨輿反イ任茲みました。「もしご気分を害されたようでしたら、お詫びします」「もし誤解を招いてしまったようなら、お詫びします」これ、本当は謝ってないんです。自分が悪いなんてつゆほども思ってないんです。「気分を害したあんたが悪い」「誤解したあんたが悪い」っていう本音が見え隠れします。確かに役人の中でも高学歴のプライドの高い人には多かったと思います)


 で、こういうウソつき学者にダマされる人も、世間には驚くほどたくさんいらっしゃいます。前述の『「学力」の経済学』も、よくみればみるほど笑っちゃうようなずさんな本なのに、昨年のベストセラーでした。
 最近の話題としては、先月の29日に某元女性研究者の手記が出版され、もちろん購入しませんがAmazonのレビュー欄は興味ぶかくて読んでいるわたしです。
 このレビュー欄もまあ典型的な「荒れた」レビュー欄で、335件のレビューがありますが★1つか5つのどっちか。極端な礼賛か批判かのどちらかです。
 礼賛派は、元女性研究者の側に全面的にたち、元女性研究者を悲劇のヒロインに仕立て上げ、理研や他の研究者がよってたかって彼女を潰した、とみます。
 一方自分は理系だ、研究者だと称する人々はおおむね批判派で、★1つ。彼(女)らの論旨はほぼ同じで、「元女性研究者は実験で、またデータで立証すべきだった。その機会があったのに怠った。必要なものを提出しなかった」という。
 常識的には後者のほうがはるかに妥当な見解と思うのですが、ただその論旨一本槍でずっとやっていると、「それしか知らんのか」と侮られるおそれはある。わたしが「承認研修の有効性」をずっと言っていると侮られるように。

 それらの批判レビューなかでこれはと思ったのは、「××氏が製薬会社に勤めていたら」と題するレビューです。
 長文なので一部を引用しますが、このレビューでは元女性研究者が実験データを改ざんし、画像を切り貼りし、盗用し、引用でなくコピペをし、という行為を断罪したうえで、
「こんな倫理観の欠除(ママ)した科学者がいることを、人々はもっと自分に結びつけて考えるべきである。
去年だったろうか。
世界的に有名な製薬会社の実験データ改竄が次々と明るみに出た。
幸いにも大した被害は出なかったが、××氏はないものをあると、しかも200回も出来たと言い張るツワモノだ。
人々が実際口に入れる医薬品の実験に彼女が関わっていたら…と考えると背筋が凍る思いがする。
そのとき何人の患者が、××氏を擁護し、可哀想だと叫べるのだろう。
彼女を持ち上げることはつまり、自分たちの命を危険に晒す結果を産んでも仕方ないということだ。
やがて医学の分野で活かされる可能性がある分野では、少しの改竄も捏造も許されないのだ。
それは命を脅かすことにつながるということに気付いてほしい。」

としています。
 そう、元女性研究者に同情論が出て消えないのは、「人の生死に関わることだ」という実感が湧かないから。
 元女性研究者自身にも、そういう実感は薄かったようで、自分の“発見”が人々の生死を左右する技術として使われることを明確に意識していたようにはみえない。あったのは、「おしゃれをして人前に出てチヤホヤされる自分」という強い願望だけだった。その、通常ならてんびんにかけることを許されないこと同士をてんびんにかけてしまっている。
 そしてまた、「彼女の願望」をわがことのように肯定する人々、このブログで何度も言うようにナルシシストに巻き込まれるのは自分自身もナルシシストである人々なのですが、その人々も、「トンデモ技術を臨床応用されて生死に関わる健康被害を受ける人々」のことはてんで意に介さない。あくまで一人のナルシスティックな女性の成功物語を応援するだけです。

 この傾向は去年の『「学力」の経済学』でも同じで、この本とその美人著者が主張するような、「ほめない、カネで釣る」方式で子供さんを育てた時にどういうことが起こってしまうのか、子育ての現場はどうなるか、親子関係はどうなるか、どんな大人に育ってしまうか、そこまでの想像力は、美人著者自身にもそれを礼賛する読者たちにもまったくなかったようにみえる。そんなにIQが高いのだからそこまで想像せえよ、とわたしなどは思いますが。

 「人が死ぬ」こと、ないしは「人の生と死」について、まったく想像力が働かない、それが2015年のアカデミズムと出版の世界。
 そういえば去年の読書日記の1つ、『見て見ぬふりをする社会』にも、「現場から遠いところにいると見て見ぬふりをする」という知見がありましたっけ。

 以前からこのブログでは「教育は間違っても人は死なない…」と、反語的にぶつぶつ言っていますが。はい、「承認」の世界の同志の方々はちゃんと「人が死ぬ」ことに想像力を持ちましょうね。現場の人のための仕事をしましょうね。

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 最近会った管理職のある友人は、もちろんわたしのメルマガやブログの読者でもいてくれる方ですが、
「正田さんのお蔭で、『誠実に仕事をしよう。ずるをするのはやめよう』と思える」
と、言われました。
 この人の仕事も、他人のした仕事を「チェック」することがほとんどです。
「ずるをする」というのは、詳しくいうと、他人の仕事をみて「このぐらいでいいか」と「OK」を出してしまう、ということです。

 「嫌われる勇気」なんて、誰かに説教される必要もなく、とことん疑い、ダメ出しをするのは本来の管理職の仕事です。わたしはだからこそ、彼(女)らの知性を信頼し尊敬してきました。わたしの仕事にたいしても、どうぞ疑って疑い尽くしてください、と言ってきました。

 この社会をちゃんと動かす人々、「マネジャー」の知性にわたしは今も期待をかけます。


正田佐与

『承認と包摂へ―労働と生活の保障』(大沢真理編、岩波書店ジェンダー社会科学の可能性第2巻、2011年8月、以下「本書」)を読みました。

「骨折りや苦心が適度に分担され、同僚や他者に認められ、順当に報われること、また労働の場を確保するか、生活の糧を確保すること、これらが本巻の副題にかかげる「労働と生活の保障」の課題であり、それを「承認と包摂」という概念で把握している。」
と、「はじめに」(大沢真理)にあります。この一文の前半は、すべてのはたらく人、その中には女性労働者もその他のマイノリティの人も、また無償のケア労働を担う専業主婦の人も、すべての人がうなずくところ、共通の願いでしょう。
 
 先日の読者「NYさん」との対話の中でもお約束しました、障害者、高齢者、幼児ほか弱者への眼差しを強化していきたいと。
 それはコミュニケーションとしての「承認」ではなく、「承認」を法制度等に反映させる取り組みということになるかもしれません。
 それは本来わたしの手には余る、別の種類の力の必要なことですが。
 で「承認」とインクルージョン、法制度を扱っている本書はそのやりとり以前から積ん読してあったものですが、後学のためにも丁寧に読み込みたいと思います。ちゃんと、こういう学問的アプローチが日本でなされてたんですね。

(全然余談なのですが暮れにこのブログで批判的に取り上げた『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』について、先日日経新聞で識者の方が書評していらっしゃいましたが、一目で「あ、これちゃんと読んでないな」という表面的なものでした。Amazonの1つ星レビューのほうがよっぽど当てになります。)
(またまた余談で、わたしの本も以前新聞の書評で取り上げていただいたことがあるけど、あの時の書評子さんはどこまでちゃんと読んでたのかな…謎…)
 
 ちょうど、本書で触れている「ペイ・エクイティ(同一労働同一賃金)」は、今朝のNHKニュースの特集で取り上げていました。本書出版後5年を経過、旬な話題になってきていると言えそうです。

 本書は8人の著者による8本の論文、全8章からなります。どの章にも記録しておきたい知見や提言があり、今回は読書日記を前後編2部として、前編で第I部1〜4章、後編で第II部5〜8章をとりあげます。
 まずは全体の章構成をご紹介してから、第I部の読書日記に入りたいと思います。

序論 経験知から学の射程の広がり(大沢真理)
I ジェンダー分析の学的インパクト:社会的排除/包摂を見据える
第1章 経済学・社会政策の再構築―生活保障システム論」(大沢真理)
第2章 労働法の再検討―女性中心アプローチ(浅倉むつ子)
第3章 「価値の承認」・「資源の配分」の実証研究―ペイ・エクイティ研究の意義(森ます美)
第4章 承認と連帯へ―ジェンダー社会科学と福祉国家(武川正吾)
II 課題と可能性:再編成と共生
第5章 貧困と社会的排除―ジェンダーの視点からみた実態(阿部彩)
第6章 雇用の非正規化と労働市場規制(遠藤公嗣)
第7章 社会的経済が示す未来―イタリアの協同組合の事例から(田中夏子)
第8章 レジーム転換の福祉政治―包摂と承認の政治学(宮本太郎)
 
 それでは、前置きが長くなりましたが前編・第I部のご紹介をはじめます:

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第1章 経済学・社会政策の再構築―生活保障システム論(大沢真理)

 本書ではリーマン・ショックと東日本大震災直後の時代を背景に、
「社会・経済の再構築=復興は日本にとってまさに焦眉の急の課題であり、社会科学の再構築も欠かせない。そうした再構築において、ジェンダーの視点が基軸となる」(p.22)
といいます。
 そして、
「従来、工業化がる程度進んだ諸国での生活保障は『福祉国家』ないし『福祉レジーム』という枠組みで比較分析されてきた。それにたいして本章では、生活保障システムと言うアプローチを打ち出す」(同)
としています。
 なぜなら、
「20世紀第3四半期に整備された福祉国家は、実際には、『男性稼ぎ主』にたいする所得移転を中心としていた。その際の想定は、世帯のおもな稼ぎ手である男性が安定的に雇用され、稀なはずの失業の場合や老齢退職後に現金給付をおこなえば、家族の生活も保障される、というものだった(大沢2007)。逆にいえば、壮年男性が稼得力を一時的(失業、傷病)または恒久的(老齢退職)に喪失することが、主要な社会的ニーズと想定された。」(同)
 しかしその構図は1990年代には崩れた、といいます。新しい社会的ニーズが顕在化し、福祉国家の機能不全が覆いがたくなった。
「それに伴い、後述するようにヨーロッパでは『社会的排除/包摂』という課題が浮上した」(p.23)

 「潜在能力」「ニーズ」という用語が出てきます。経済学者アマルティア・センの提唱した用語。のちに言うように新古典派経済学の「効用」アプローチへの批判を含む概念となります。

「私(大沢)は、人として生活が成り立ち社会に参加できるという「潜在能力」を考え、その潜在能力の欠損を「ニーズ(必要)」と定義している。「ニーズ」は「需要(ディマンド)」と区別されなければならない」(同)
 ニーズは本来、個別的で多様なもの。そして、
「これまで、その社会で優勢な立場をもつ人、たとえば中以上の教育や稼得力をもつ健常な壮年の男性で、優勢なエスニック・グループや宗派に属する人が、「並」とされがちだった。ジェンダー・バイアスをはじめさまざまなバイアスがあるため、「並」でない人の追加的な財・サービスや機会へのニーズは、ニーズというより「甘え」や「贅沢」とみなされてしまう。」(p.24)

「見逃してはならないのは、潜在能力アプローチが、主流経済学の「効用」アプローチにたいする根底的な批判を含むことである。「効用」は、現在なお主流である新古典派経済学の最も基本的な概念の1つである。効用は「幸福」や「福祉」といいかえられることもあるが、主観的満足と理解してよい。新古典派経済学では、個人(実際には家計)は、あらゆる財・サービスについて明確な一貫した効用(感じる満足度)の順位づけをもっていることが前提され、本人が認知しないニーズなど存在しないことになる。また、異なる個人のあいだで効用を比較することはできず、他人の効用が本人の効用に影響することもないという。
 これにたいしてセンは、不利な状況にある人は自分の手が届きそうなものしか欲さず、第三者から見てきわめて不十分な分配にも「満足」を表明する場合が少なくないと指摘する。…とくに「階級、ジェンダー、カースト、コミュニティーに基づく持続的な差別がある場合」に、効用アプローチは「誤った方向に導く」と批判した」(p.25)

 次に、「福祉国家」「福祉レジーム」の定義とその限界のお話になります。
 エスピン⁼アンデルセンの福祉国家三類型。
「自由主義的」(アングロサクソン)、「保守主義的」(大陸西欧)、「社会民主主義的」(スカンジナヴィア)
 「アンデルセンによれば、社会民主主義体制の理想は、女性の経済的自立を含めて、個人が家族に依存せずに独立できる諸能力を最大化することにあり、その意味で「自由主義と社会主義の独特の融合」である。」(p.26)類型分けの指標となったのは、「脱商品化(decommodification)」。社会保険制度のカバレッジや給付水準をおもな要素とする。(p.26)

 これにたいしてフェミニストから、福祉国家類型論はジェンダー中立的な用語で記述や分析をおこないながら、分析概念や分析単位が男性を起点にすることが少なくないという批判が起こった。
 これをうけてアンデルセン自身が、ジェンダー視点も取り入れて自説を「福祉レジーム」の三類型へと進化させる。
 ジェンダー視点はそこで、「脱家族主義化(de-familialization)」という新たな概念として導入されている。脱家族主義化は、メンバーの福祉やケアにかんする家族の責任が、福祉国家からの給付ないしは市場からの供給によって緩和される度合い、あるいは社会政策(または市場)が女性にたいして自律性を与える度合いを示す。(pp.26-27)

 アンデルセンの類型論の限界。
1)「社会的経済(social economy)ないし「サードセクター」が位置づけられていないという批判がある。
2)現金給付中心の福祉国家の機能不全が露わになった。たとえば「ポスト工業化」に伴って顕在化してきた「新しい社会的リスク(new social risks)」に対処しがたい。
 新しい社会的リスクの例:仕事と家族生活が調和しないリスク、ひとり親になるリスク、近親者が高齢や障害により要介護になるリスク、低いスキルしかもたないか、身につけたスキルが時代遅れになるリスク、そして「非典型的」なキャリア・パターンのためにshs会保障から部分的にせよ排除されるリスク(ボノリによる)(pp.27-28)

 福祉国家論も福祉レジーム論も、国家福祉の比重が急速に高まり、際立っていた20世紀第3四半期の先進国の分析には有効だった。しかし、それ以外の時代や社会を分析したり説明するうえでの有効性は限られている。日本は諸類型の“ハイブリッド型”や“例外”として片付けられがちだったが、それは福祉国家論ないし福祉レジーム論の限界の現れともいえよう。(pp.28-29)
⇒そこで生活保障システム論

 生活保障システム論で設定する3類型(1980年前後の実態を念頭に)
「男性稼ぎ主」型、「両立支援(ワーク・ライフ・バランス)型」、「市場志向」型
・「男性稼ぎ主」型:男性の稼得力喪失というリスクに対応して社会保険が備えられ、妻子は世帯主に付随して保障される。大陸ヨーロッパ諸国と日本など。
・「両立支援」型:北欧諸国。ジェンダー平等。雇用平等のための規制、児童手当、乳幼児期からの保育サービス、高齢者介護サービスや育児休業などの家族支援制度。税・社会保険料を負担する単位は世帯でなく個人。税の家族配慮は控えめ、遺族給付は廃止。社会サービスは政府部門から提供される割合が高く、非営利セクターが活発なのは、市民の自己啓発や権利擁護の分野。
・「市場志向」型:アングロサクソン諸国。家族の形成を支援する公共政策は薄く、労働市場の規制は最小限。賃金は成果にみあうものとされ、生活保障を意図しないが、企業にとって価値があるとみなされる労働者には、相当に厚い企業福祉が提供される場合がある。非営利セクターが経済に占める比重は中位のレベル。なお米国はそのなかでも全国民をカバーする公的医療保険制度が存在しないという特異性をもつ。(pp.29-30)

「1人の稼得者と主婦という家族は、制度というより歴史上の例外だったように見える。それはつかの間の、20世紀半ばの幕間劇だったのだ(エスピン=アンデルセン)(p.31)

 生活保障システム論は、労働や経済にかんするジェンダー分析をふまえつつ、「福祉」を公的な所得移転や財・サービスの給付に限定せず、以下のようにあらゆる財・サービスの生産・分配やそれに伴う購買力の流れを視野に収めようとする。
4つの生産関係:
1. 賃金労働による商品の生産
2. 賃金労働による非商品の生産
3. 非賃金労働による商品の生産
4. 非賃金労働による非商品の生産(pp.31-33)

 ここで、生活保障システムの機能ないし機能不全について、「社会的排除/包摂」論を取り入れてそれをシステムの「成果(outcome)」を表す概念とする。
社会的排除:低所得や所得格差はもちろん、雇用機会の不足、言語や情報(教育)の格差、健康の不平等、市民権の壁などのために、社会のいろいろな場面に参加できないこと。1997年のアムステルダム条約では、社会的排除にたいする闘いが欧州連合(EU)の主要目標の1つに位置づけられた。
対理宇西欧諸国では社会的排除がとくに構造的な失業として現れたが、途上国では労働市場の内部にいても排除されている場合を軽視できない。…それはパートタイム労働者をはじめ一時的雇用、劣悪な条件の就労、社会保障へのアクセスから部分的あるいは全面的に排除された者などである。(p.33-34)

日本では
相対的貧困率:「相対的貧困」とは、世帯所得を世帯員数で調整した「等価」所得の中央値にたいして、その50%未満の低所得をさす。相対的貧困の世帯に属する人口が全人口に占める比率が相対的貧困率であり、中位所得から下方での所得分配(格差)を表す。(p.34)

 日本の貧困率がOECD諸国のワーストクラスにあるという状況にかんして、世帯主が労働年齢(18-64歳)である世帯に属する人口(以下、労働年齢人口)に焦点をあわせると、日本の特徴はつぎの通りである。
1. 貧困層に属する世帯のうち、就業者が2人以上いる世帯の比率が約4割と高い。他国では、労働年齢における貧困層といえば、ほとんど就業者のいない世帯かひとり親世帯であるが、日本では共稼ぎでも貧困から脱しにくいのだ。
2. 日本では貧困率の総体的な高さが、税と社会保障制度という政府による「再分配」に起因する。
2. について。日本の可処分所得レベルの貧困率は12.47%で、OECD諸国のなかで6番目に高い。市場所得レベルの貧困率は13.58%で韓国についで低いものの、可処分所得レベルでごくわずかしか低下しないため、OECDのワーストクラス入りしてしまう。(市場所得から可処分所得への貧困率の変化幅を市場所得レベルの貧困率で割った値を、再分配による貧困削減率と呼ぼう)
日本の特徴は、成人の全員が就業している世帯にとって貧困削減率がマイナスになっている。OECD諸国でこのような国は他に存在しない。日本の社会保障システムがOECD諸国きっての「男性稼ぎ主」型であるため。(pp.35-36)

日本の公的負担=歳入は、この間に低所得者にたいする冷たさを増した。1990年のGDP比歳入規模29.5%をピークに2003年まで低下し、2010年で27.6%となった(1990年代末以降に企業と高所得者・資産家にたいする減税がおこなわれ所得税の累進性は顕著に低下した)。この間に社会保障負担は一貫して上昇して2010年度にはGDP比12.4%となった(逆進性があり負担上昇は低所得者により重くのしかかる)上記のような労働年齢人口に対する貧困削減率がOECD諸国中もっとも低く、成人の全員が就業する世帯にとって貧困削減率がマイナスになる事態は、1990年代初年以来の税制改革および社会保障「構造改革」をつうじてつくり出された(pp.36-37)

米国政府が借金による過剰消費を煽ったのは、社会的セーフティネットが粗放なために、格差の拡大と雇用不安にたいする有権者の不満が昂じやすく、それをてっとり早く解消する必要があったからだ。…1990年代初め以来、景気の拡張が雇用増加を伴いにくくなっており(jobless recovery)、有権者と政治家の雇用情勢への反応はいっそう鋭くなったという。
しかも、米国の過剰消費の筆頭項目は医療費である。…米国の国民医療費は対GDP比で15%を超え、OECD諸国のなかで断然トップである。そうした米国の生活保障システムが、世界経済危機の原因ともなったのである。(pp.38-39)
 
日本:2010年の経済財政報告は、先進10か国について、最近の景気の底から3年間における所得の成長にたいする寄与を、営業余剰と雇用者報酬(ともに名目値)に分けて見ている。日本でのみ雇用者報酬の寄与はマイナスのままで、それを示す図の副題は「所得面での企業から家計への波及が遅れたのは我が国特有」となっている。(ただし、日本ほどではないにせよ、同様のパターンはドイツでも見られる)
 格差の拡大と社会保障の不備ないしその将来不安が、中国や日本での過少消費と過剰貯蓄を招いたとすれば、ここでも生活保障システムのあり方が、世界的危機の一因となったといえるだろう。その生活保障システムの類型と機能では、ジェンダーが基軸となっているのである。(p.39)


第2章 労働法の再検討(浅倉むつ子)

 ここでは、「(現状の)労働法の男性中心主義」と、すべてのマイノリティの引き上げにつながる「女性中心アプローチ」について語られます。

 しかし、労働法が包摂したのは男性労働者であり、女性労働者ではなかった。なぜなら、そもそも労働契約法理や集団的労働法の基礎理論の形成にあたり、労働法が対象とした「労働」とh、あくまでも市場労働としての「ペイド・ワーク(有償労働)」であり、その中心に位置したのは常に男性だったからである。(p.44)

 日本においても、1990年代には、.哀蹇璽丱覯修鉾爾Π豺駭働市場の維持の困難性、国内外の競争の激化、人口構造の変化(高齢化、少子化)、は働力の女性化(フェミナイゼーション)、ハ使の意識変化など、急速な社会変化がみられた。かつての標準的な労働者は減少し、多様なタイプの労働者が増大した。(pp.44-45)

 1995年に日本経営者団体連盟(日経連)が出した「新時代の「日本的経営」」は、非正規労働者の大胆な拡大を方向づけ、その後短期間で、日本の労働者全体の「正規」から「非正規」への転換が、大規模に生じたのである。(同)

 2010年時点で、労働者全体の35%に迫ろうとしている非正規労働者の中心にいるのは、女性労働者である。ただし、女性は正規労働者の中心ではない。実は、資本主義の時代を通じてずっと重要な労働力であり続けていたにもかかわらず、2つの理由によって、女性は常に「二流の労働者」であった。1つは、家族圏で担う「ケア労働(アンペイド・ワーク)」のために、もう1つは、妊娠・出産する身体をもつ存在であるために。
 ケア労働は対価を伴わないアンペイド・ワークとして、労働法の対象外であり、そのケア労働を担う者が女性であるため、女性は常に、労働法においては周縁的で補助的な労働者と位置づけられてきた。女性はまた、常に「労働する身体」と「産む身体」の矛盾の中で生きており、一時的に「労働する身体」として敬意やメンバーシップを獲得し、<承認>されたとしても(たとえば「男性並みの有能さ」を認められた総合職女性)、いったん妊娠・出産というプロセスに至れば、まぎれもない「女の身体」による困難さを経験する。労働法は、このような「女性」を、二流の労働者として「保護の対象」とすることはあっても、労働法の中心的担い手として登場させることはないのである。(同)

―大事な視点ですね。繰り返しこの認識に立ち戻らないといけないので、少し長く引用してしまいました。

―そこで本章の筆者は「女性中心アプローチ」を提唱します。

 女性中心アプローチは、従来の労働法理論にさまざまな修正を迫る。女性労働者は、労働市場において、低賃金で社会的評価の低い労働に従事してきた。女性の労働には、正当な経済的評価が与えられず、十分な物質的対価が付与されてこなかった。(p.46)

―このくだりは、ご想像される読者の方もいらっしゃるかと思いますが、わたし自身が引き受けてきた痛みでもあります。今の研修業について10数年、自分よりはるかに力量の低い男性が高額のコンサルティング料、講師料をとって仕事をするのを、何度目をつぶってみないふりをしてきたことだろう。かれらは何の成果も挙げなくても、企業研修・コンサルティングを実施した件数だけは「実績」としてわたしよりはるかに多い。それは、同じ男性の購買担当者が、男性同士思いやり合って優先的に生活の援助を行っているとしかみえなかった。また女性購買担当者も同様に差別的だった。彼女らは魅力的な異性である男性コンサルタント、男性講師のほうを選んだ。

 最低賃金制度の遵守、同一価値労働同一賃金原則の実現は、誰よりもまず、女性労働者にとって不可欠な要求である。女性は、男性が自分では引き受けたくない無償のケア労働を主として負担しているため、アンペイド・ワークとペイド・ワークをあわせれば、男性よりも長時間、労働に従事してきたことになる。労働時間短縮と休暇取得による私生活の確保は、女性労働者にとって何よりも優先すべき要求である。女性労働者は、妊娠・出産する身体をもつため、男性モデルとは異なり、格別な「生命・健康」の保障を必要とする。にもかかわらず、妊娠・出産・育児・介護により、女性労働者はしばしば就労できなくなったり、労働能力が低下したりすることが多く、これらに関連した不利益取扱いを経験してきた。(同)

 「労働する身体」モデルが「男性の身体」という強靭な体力・能力を前提とするものであるとすれば、そのモデル自体の強制に異議を唱え、障がいのある人、病気の人などを含む「多様な身体」をもつ労働者モデルが提示されるべきであろう。そして、性暴力や偏見をなくし、職場における人権侵害を根絶すること、すべての労働者の人格の尊厳を確保することは、職場の内部に「多様な身体」を受容し、<承認>することであって、これは女性中心アプローチにとっての基本的な要求である。(同)

留意点
(1) 女性中心アプローチは女性だけを特別扱いすることではない。「男女」のあらゆる労働者により広範に適用する。さまざまな雇用差別を禁止する法理、ワーク・ライフ・バランスの保障、妊娠・出産・ケア労働を理由とする不利益取扱いの禁止、同一価値労働同一賃金原則などは、女性のみならず、障がいのある人や非正規労働者にも汎用性の高い理論を提供してきた。セクシュアル・ハラスメントの概念を生み出した研究も、他の多彩なハラスメント概念の定着に貢献してきた。女性中心アプローチは、労働法がこれまで「他者」として排除してきたさまざまな人々の問題に焦点をあてる、それらの人々の<承認>の理論ともいえる。
(2) ここで変更を迫られる「男性労働者モデル」は、決して男性労働者の実像ではない。現実の男性労働者は、…身体的・心理的に脆弱性を有し、かつ、家庭でも職場でも、女性によるケアを支えにかろうじて職務をこなしている人々だといっては言い過ぎだろうか。…女性中心アプローチは、実は「男性規範」にとらわれ苦闘している現実の男性労働者の<承認>の理論でもある。

 今世紀になってからの少子化対策の中心には少子化対策基本法(2003)があり、「生活」への介入に抑制的な労働諸立法を尻目に、「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し、少子化の進展に歯止めをかける」と、生活の内容にまで踏み込む前文をもつ。(p.48)

 WLBの内容については、2007年末に策定・公表された「WLB憲章」と「同行動指針」が、その大枠を示している。そこには、すべての労働者を対象とする包括的な「仕事と生活の調和政策」(広義のWLB)と、家族内のケア労働に責任をもつ男女労働者を対象とする「仕事と家庭の両立支援政策」(狭義のWLB)が含まれている。このようにWLB政策の全容が示されている現段階でなすべきことは、WLBを、少子化対策に従属するジェンダー不平等を伴う政策としてではなく、憲法、労働基準法(以下、労基法)などに規範的根拠をおく、ジェンダー平等の基本的要請にかなう政策として位置づけるために、積極的な提案をすることであろう。(p.49)

―このくだりの後半はちょっとわかりにくいですが、少子化対策は、「産む性」である女性に期待するところが大きい。ところが女性に産むことを強要することは女性の経済的損失につながりかねない。損失につながらない十分な保障をともなったうえで「産む選択」をうながすものでなければならない、という言い換えでいいんでしょうか。

―「承認と包摂」のなかにWLBが出てきました。うちの県(兵庫)には、全国でも唯一のWLB推進外郭団体があるんですが、2007年末の「WLB憲章」と「同行動指針」を受けて2009年、設立されたという流れと考えられます。
 それ自体は讃えるべきことですしわたし自身もそこで外部相談員をやらせていただいていますが、「承認概念」とWLBどういう関係性なのか、ということで、今ひとつ同意できないところがあります。
 「承認」は憲法でも保障されている基本的人権のもとになった概念なのです。近代以降の倫理、人格対人格の相互承認、それを法制度化したものが「基本的人権」なのであり、その一環として具体化するのがWLBなのです。わたしたちの社会の成り立ちとしてどちらがおおもとなのか、順序を忘れないでくださいね。なんて、ケンカ売りたいわけじゃないんですけどね。「承認なきWLB」は、「承認なき傾聴」と同様に本末転倒なんです。


 では「女性中心アプローチ」の観点から、WLB政策が備えるべき基本的要請:
第1の基本的要請は、「ワークの規制」と「ライフの自由」である。法は「ワーク」のあり方の枠組みを示し、その権利義務関係等を明確にする役割を担うが、他方、「ライフ」のあり方は、個々人の自由の領域でなければならない。
第2の基本的要請は、生命・健康の確保。それと矛盾する政策は排除されるべきであろう。
第3の基本的要請は、社会的価値が付与された活動の尊重が優先するということ。育児・介護など家族内のケア活動は、社会を支える再生産活動そのものであり、不可欠な社会的価値が付与されている。広義のWLBにおける「ライフ」には、すべての労働者を対象とする、自己啓発や社会貢献活動のための休暇の確保なども含まれるが、休暇日数の確保に上限がある場合や、業務上の必要性から配転すべき労働者の一定数を確保しなければならない場合などにおいては、優先的に配慮されるべき「ライフ」として、まず「家庭内のケア活動」がくることは当然といえよう。

―ここでいう第3の要請、これも以前WLB関係の人の発言に異を唱えた部分でした。妊娠出産子育て介護の要請と、例えば独身者の自己啓発の要請を同列に扱ってよいか、という問題。後者も大事は大事だが、前者の「ケア活動」すなわち社会の維持、種の保存に決定的に関わる活動とは重みが異なるのは当然だろうと思います。その当然が当然とされないのはわたしにはむしろ驚きでした。


―そして妊娠・出産と不利益処遇の問題。

 母性保護に関するILO条約は、「いかなる場合にも、使用者は…給付の費用について個人として責任を負わない」と規定する(4条8項)。しかしその意味は、出産休暇中の金銭・医療給付は、「強制的社会保険または公の基金」によるべきだからである(4条4項)。…すなわち、出産休暇の使用者負担の免除は、休暇の権利性を弱めるものではなく、むしろ、妊娠・出産が、女性労働者にいかなるマイナス効果ももたらしてはならない、というメッセージに他ならない。(p.52)

 ソフトロー・アプローチ(努力義務規定)の問題点。和田肇は、…ソフトローの多用は、法律の樹反論としても、法政策の実現手段としても、疑問であると述べる。両角道代は、ハードロー化を予定した「過渡的努力義務規定」の役割を、スウェーデンでは、労働組合・使用者団体の上部組織が締結する基本協定等が果たしていると紹介しつつ、男女雇用差別の禁止には、協約による逸脱を許さない純粋な強行規定である、と述べる(p.53)

 近年ではむしろ、<承認>の実現を重視する立場から、平等を促進する、より積極的な方策が主張されている。たとえばサンドラ・フレッドマンは、平等の潜在的な「4つの目標(すべての人々の尊厳と価値の尊重、コミュニティ内部への受容・承認、外部グループの人々への不利益のサイクルの分断、社会への完全参加)を達成するための、国家の「積極的義務(positive duty)」の存在を強調している。(同)

―おー。まさに現代、「承認」の立法化という視点で立法を論じる人びとがいるんですね。

間接差別と複合差別。

 【間接差別】ところが、均等法7条は、間接差別を一応禁止するものの、その範囲を厚生労働省令で定めるもののみに限定している。具体的には、(臀検採用時の身長、体重または体力要件、▲魁璽絞霧柩儡浜制度における総合職の募集・採用時の転勤要件、昇進時の転勤経験要件、という3つである(均等則2条)。省令による限定には批判も強く、2006年均等法改正時の附帯決議では、厚生労働省令で規定する以外にも司法判断で間接差別が違法とされる可能性があること、厚生労働省令の見直しを機動的に行うことが確認された。(p.54)
 【複合差別】ある人に対して、重複する2つ以上の差別事由がある場合には、その差別的効果や被害は甚だしくなる。たとえば、人種とジェンダーが交差する差別について、ある論者は、黒人女性と白人女性が経験する差別が類似しているというのは誤った仮説だ、と述べる。人種とジェンダーが一緒になると、2つの差別が加算・総計されたものよりも、さらに悪化した条件がもたらされ、相乗作用が生まれる、という。このような認識に基づき、最近のEU指令やイギリスの立法は、「複合差別(multiple discrimination)」や「結合差別(combined discrimination)」を禁止する条文を設けるに至った。
重要なのは、かかる複合(結合)差別禁止概念を設けることによって、差別の立証が容易になるということである。(pp.54-55)

―たぶん、わたしが受けている差別は「(大学人でない)民間人」と「女性」それに「主婦」「母親」が複合したものなんだろうなー。


―さて、やっと「同一労働同一賃金」が出てきました。

 労働法の学説には、同一価値労働同一賃金原則は、職務給を採用している欧州的な賃金形態を前提として構築されたものであり、日本では適用不可能であるとか、あるいは、かなり日本的にアレンジしたものでないかぎり適用できない、とする否定的な見方がある。たしかに日本と欧米の賃金支払形態は異なる。欧州では、企業横断的に締結される労働協約によって職務給を定めるシステムがとられているが、大半の日本企業が採用している賃金制度の多くは「職能給」である。ILO条約勧告適用専門家委員会も強調するように、同原則を適用するうえで「職務評価システム」は欠くことのできない手段である(p.55)

―では日本では実現不可能なのか。筆者らは2010年に「同一価値労働同一賃金原則の実施システム」を提案した。以下はその概要。

 まず、同一価値労働同一賃金原則を、男女間/正規・非正規間に適用される立法において明文化する必要がある。男女間の賃金差別を禁止する条文である労基法4条には、「同一価値労働同一賃金」を定める明文規定はない。…まずは労基法に、明文で男女同一労働・同一価値労働同一賃金原則を盛り込む必要がある。
(中略)
また、正規・非正規労働者間でこの原則を具体化するために、労働契約法、パートタイム労働法を改正し、「使用者は、合理的な理由がある場合を除いて、同一価値労働同一賃金原則を遵守しなければならない」旨を条文化することも必要である(p.56)

より重要なことは、日本にかかる原則を根づかせ、かつ、裁判所や行政機関が同原則にのっとって判断する「具体的なシステム」を構築し、提案することである。
1.「得点要素法」による職務評価システム実施マニュアルの策定。職能給制度しか経験していない企業には、職務の価値評価の可能性を示すメッセージとなる。厚生労働省は、2010年4月に「職務分析・職務評価実施マニュアル」を公表し、パートタイム労働者と通常労働者の職務を比較する提案をした。ただしこれは、比較すべき職務の範囲がきわめて狭い「単純比較法」である。これに対して、私たちの提案は、「知識・技能、負担、責任、労働環境」の4大ファクターを採用する「得点要素法」であり、労使が参加する7つの段階を踏むことを求めている。
2.「賃金差別」に事後的に対処するため、司法の領域において「独立専門家」制度を設けること。
3.賃金の平等をより積極的に推進する政策としての「平等賃金レビュー」の実施という提案。イギリスの政策に倣い、企業が労働組合と一体となって、個別訴訟を待つことなく、事前に積極的に組織内の賃金格差の有無をチェックして、自らの手で可能なかぎり不合理な賃金格差の解消をはかるというものである。(p.57)

―最後に本章は、ハラスメント概念の定着を「女性中心アプローチ」の労働法における貢献として締めくくっています。

 このことは、労働の場では非能率的と評価されやすい病者、弱者、妊娠・出産する女性、障がいのある人や高齢者などを尊重する結果をもたらしている。「労働する身体」をもつ健康な男性のみのホモ・ソーシャルな場であった労働の領域が、「労働する身体」に足りない存在である多様な労働者の存在を可能にするように、変容を迫られているのだ。(p.58)


―次の章では、より具体的に「同一労働同一賃金」を取り上げます

第3章「価値の承認」・「資源の配分」の実証研究
―ペイ・エクイティ研究の意義(森ます美)

 今日に至るも、日本の男女間賃金格差問題はなんら解消されていない。2009年の女性の賃金は男性の69.8%に留まっており(厚労省「賃金構造基本統計調査」、一般労働者の所定内給与額)、OECDの国際比較データで見ても、2007年の日本ののフルタイムでの男女間の賃金格差(男性=100として女性は68)は、韓国(同62)に次いで2番目に大きく、これに続くカナダ(同79)、イギリス(同79)、アメリカ(同80)などアングロサクソン諸国に比べても際立っている。
 女性雇用者の55.1%がワーキング・プア(働く貧困層)である。労働市場のジェンダー・バイアスが、女性の貧困と生活困難を男性以上に深刻化させていることは明らかである。(p.63)

「政権交代」後の2010年、第三次男女共同参画基本計画に「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約(ILO第100号条約)の実効性確保のため、職務評価手法等の研究開発を進める」ことが明確に位置づけられた。また、同年4月、厚労省が「パートタイム労働法に沿った職務評価手法」である「職務分析・職務評価実施マニュアル」を公表した。(同)

 ペイ・エクイティ(pay equity)は、ILO第100号条約(「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約」、1951年採択)が規定する同一価値労働同一賃金原則(equal pay for work of equal value)を指す。…この原則では、男女の従事する職務の価値が「同一価値」でない場合でも、職務の価値に比例した賃金の支払いを求める「比例価値労働比例賃金(proportionate pay for work of proportionate value)」がその論理にかなった拡張概念として認められている。(p.65)

 ペイ・エクイティの実施プロセスは、大きくは次の4つの段階から成っている。―性職(女性の職務)とその比較対象となる男性職(男性の職務)の選定と職務分析、⊃μ撹床船轡好謄爐虜定、職務評価の実施(職務/労働の価値の決定)、て碓豌礎/比例価値に応じた女性職(女性)の賃金の是正、である。このプロセスで最も重要な局面は、ジェンダーに中立な職務評価システムの設定と労働の価値に基づく賃金の配分である。(同)

 ジェンダーに中立な職務評価システムの策定とは、ブルーカラーや管理職など男性職に有利な評価基準に立つ伝統的な職務評価制度のジェンダー・バイアスを廃し、従来見落とされ、過小評価されてきた女性職の特性を公正に評価できるシステムを再構築することである。例えば、女性が従事する看護・介護・保育など対人サービス職種に要求される「感情的負担」や「患者や利用者に対する責任」、人事部または顧客サービス課の事務職に求められる従業員や顧客に関する「個人情報の管理に対する責任」などのサブファクターの採用とポイントの適切な配分である。(p.67)

1970-80年代の(欧米諸国の)ペイ・エクイティ運動の固有の意義は、ジェンダーに中立な職務評価システムによって女性職(女性)の労働の価値の公正な承認と、労働の価値に基づく資源(賃金原資)の公平な配分を実現することにあった。男女間の配分の不平等、経済的不公正への異議申し立てである。(同)

日本での調査事例(商社):
1997年、ペイ・エクイティ研究会が行った「商社の職務に関するアンケート調査」による職務評価の結果。回答者は大手総合商社を含む15の商社の営業職に従事する男性42人と女性77人(男性は全員が総合職、女性は74人が一般職、3人が総合職)。
 指摘される点:
1. 女性の担当職務の価値(95-110点前後に集中)は、男性(105-125点前後に分布)よりも相対的に低く、商社営業職における性別職務分離が推察される。女性従業員にその「価値」に比例した賃金が支払われているかを平均として見ると、職務の価値の男女比100:88に対して賃金額の比は100:70と低く、女性に対して公平な賃金原資の配分が行われていない。
2. 実際に同一価値の労働に従事する男女が混在する職務評価点106-116点の範囲に注目すると、総じて女性の賃金は男性よりもかなり低く、男女間賃金格差が大きい。女性に比べると、男性従業員は同一価値労働に対して過大な承認を受け、高額な配分を受けていることがわかる。
3. 同一価値労働に対する賃金格差は男性間でも非常に大きいことが明らかである。例えば、職務評価点120点前後の同等価値労働に対する賃金格差は最大で50万円(最低賃金額25万円、最高賃金額75万円)にも及んでいる。同様の傾向は他の職務評価点でも指摘できるが、賃金額が40万円以下の営業職男性のほとんどは勤続年数が10年未満の若年層である。
 以上から明らかなように、日本の賃金は、ペイ・エクイティの原則から見ると、性と年齢による差別賃金である。女性と若年男性の職務/労働には、その価値に相応しい賃金原資が配分されておらず、公正な配分から排除されている。換言すれば、その「価値」に見合った承認を受けていないのである。(pp.67-69)

 「男性稼ぎ主」規範にたつ日本の年功賃金制度が性と年齢による差別賃金をもたらす。日本の雇用を特徴づけてきたのは、<終身雇用と年功賃金>制度であり、それを支えてきたのは男女の<性別役割分業(規範)>である。(p.69)

 日本の「男性稼ぎ主」型賃金制度が持続されてきた社会・経済的要因:
1. 男性正規労働者間(女性不在)での「公平観」。
2. 「企業」と「賃金」への依存度が極めて高い日本型生活保障。家計収入構造の比較では、実収入に占める男性世帯主勤め先収入の割合は80.9%(2009年)で突出して高い。日本の低い社会保障・社会福祉を「企業福祉」が代替してきた。
3. 日本の社会では、賃金決定が「企業内在的」に行われている。(組織ベースorganization-based 賃金制度)。日本の企業における賃金原資の労働者間配分の企業内在的な決定という原則は、「男性稼ぎ主」規範と結合して、若年者と女性への低い配分と、成人男性への高い配分を可能としてきた。パイが一定に枠づけられたなかでは、ジェンダーによる差別的配分としての女性の低賃金が男性の高賃金を保証し、両者は競合関係に立っているのである。(pp.72-73)

 正規・パート間賃金格差の根本的な問題は、雇用形態の差異を根拠に、パートと正規労働者の賃金決定基準がまったく異なっていることにある。そこでは職種・職務の同一性・同等価値性は少しも顧みられていない。日本の企業別・正規労働者中心の労働組合組織が、パートタイム労働者への同一価値労働同一賃金原則の適用に力を発揮していないことも、正規・パート間の賃金格差の解消を遅々としたものにしている。(p.73)

―そしてふたつの職種での「ペイ・エクイティの実証」が紹介されます:

【ホームヘルパー】
(結論部分)介護職であるホームヘルパーや施設介護職員には、仕事の価値に比べて過少に、他方、診療放射線技師に対しては、仕事の価値を超えて過分に賃金配分がなされていることになる。年収換算の自給では、ホームヘルパーと診療放射線技師の賃金が仕事の価値から乖離する度合いはさらに拡大し、同等価値労働に対する賃金評価はおよそ2.3倍である。
 仕事の価値から乖離したこの賃金格差は、ホームヘルパーや施設介護職員が公正な配分から排除されていることを示している。4職種の職務評価によって、介護労働者に対する賃金差別が可視化されたのである。ペイ・エクイティの原則に基づいてこれを是正すると、ホームヘルパーの「公平な賃金」は、表1に示したように、月収ベースでは現在よりも369円上昇して1605円に、年収ベースでは742円アップして1985円となる。(p.76)

【スーパーマーケット・パートタイム労働者】
(結論部分)正規従業員、役付パート、一般パートの職務の価値の比「100.0:92.5:77.6」に対して賃金額の比は「100.0:70.2:54.8」である。年収換算の時給で見ると、賞与が支給される正規従業員の賃金は2153円に上昇し、賞与が支給されないパート賃金との格差は「100.0:63.9:47.6」へと拡大する。少数の正規従業員の賃金水準に比較すると、外部労働市場で採用された多数のパートタイム労働者への賃金配分は、仕事の価値の高さにもかかわらず極度に少なく、大きな差別を受けていることがわかる。スーパーマーケットにおいて役付パ―トや一般パートの労働は相応の承認を受けていないのである。こうした公正な配分からの排除がパートタイム労働者の自立を困難にしている。
 ペイ・エクイティの原則によれば、年収ベースでは、役付パートで1991円、一般パートで1671円が仕事の価値に相応する合理的な水準であり、現在の賃金額よりもそれぞれ600円以上引き上げる必要がある。(pp.77-78)



「男性稼ぎ主」賃金(規範)は、グローバル化が進展する現代社会においては、三重の意味で時代不適合に陥っている。
1. 企業にとって。国際的な低価格競争に打ち勝つためには、コスト高の「男性稼ぎ主」賃金とフレキシビリティを欠く長期雇用は、企業にとって時代不適合となった。
2. 雇用者世帯における「男性稼ぎ主」賃金(規範)の時代不適合。1990年代末以降、企業による男性正規労働者の賃金の抑制と絶対額そのものの現象は、家計に深刻な影響を及ぼした。実収入に占める配偶者の勤め先収入の割合は低い分位ほど高くなっており、労働者世帯において「男性稼ぎ主」賃金による家族扶養」が急速に崩れ、夫婦共働きによる家計の維持へと移行している。
3. グローバルなジェンダー平等の地平から見た「男性稼ぎ主」賃金(規範)の時代不適合。欧米諸国に比較して突出して大きい日本のフルタイムでの男女間賃金格差、「家計補助」として市場評価されてきた主婦パートの低賃金、さらにこれを基準とした男女非正規労働者全般の低賃金という不公正の連鎖は、「男性稼ぎ主」賃金(規範)に起因している。(pp.78-79)

 ペイ・エクイティへの抵抗。非正規労働者の賃金上昇を怖れる企業経営者、企業によるその悪用と男性正規労働者の賃金低下を恐れる労働組合、真剣に家族の生活を心配する男性労働者などからの抵抗。(p.80)

 広島電鉄(従業員数1300人)の取り組み。同社と組合は2009年3月に、契約社員150人を全員正社員化し、「正社員2」と呼ばれる150人の社員も含めて賃金制度を「正社員」と一本化することで合意した。この改定で、「契約社員」「正社員2」の賃金が上昇する一方で、300人弱のベテラン「正社員」の賃金が月額5-6万円下がる。会社は、これら正社員の賃金の急減を避け、10年かけてゆるやかに減額し、かつ定年を5年延長したという。
 正社員は、「いつか契約社員と正社員の人数が逆転するのではないか。そうなった時、わしら正社員が契約社員の方に労働条件をあわせなければいけないのではないか」という事態を避けるために労組の説得を受け入れた。また会社は、今回の賃金制度の一本化に際して、総額人件費(パイ)を3億円増やすことを受け入れた。社長(現会長)は、「非正規の社員を犠牲にして企業が成り立つのは好ましいことではない。同じ職種なら公平な賃金の下で勤務をするようにした」と述べる。(同)

 賃金の公平観を経営者・労働者間で共有するにはどうしたらよいか。「分かち合い」の思想が労働者間で共有されることが重要だ。(p.81)

 ペイ・エクイティにより公平な賃金を労働の価値に相応しい適正な水準で確保するためには、1990年代後半以降大幅に削減されてきた総額人件費/雇用者報酬を回復し、賃金原資(パイ)の拡大を図ることが必要である。(同)

 労働市場において賃金の平等を達成するためには、正規・非正規労働市場を横断するペイ・エクイティを法や政策によって社会的に進めることが必要である。それは正規労働者と非正規労働者、男性労働者と女性労働者を同一労働市場に包摂することによって均等待遇の実現を図るものである。(p.82)

 労働規制の緩和を進め、賃金決定を市場の労働力の需要と供給の均衡にゆだねる主流経済学の賃金政策が格差と貧困を増大させてきたことは、1990年代後半以降すでに確認済みである。平等賃金規制が強いEU諸国において、賃金のジェンダー格差が小さいこと、他方、日本でも改正パートタイム労働法によって、全く不十分ながら同一(価値)労働同一賃金規制を部分的に導入せざるを得なくなったことはその証である。(同)

 とはいえ、ペイ・エクイティ政策は、その先進国であるアメリカ合衆国において、1990年代以降、「経済の再構築」を追求する新自由主義の政治経済勢力から労働市場への干渉として激しく攻撃され、後退を余儀なくされてきた。賃金に対する政府の規制は労働市場の硬直化を招き、規制緩和と雇用のフレキシブル化による現代の経営戦略と直接に矛盾すると批判されたのである。(同)

 日本ではまずはペイ・エクイティの実施システムを確立することが喫緊の課題である。
1. ILO第100号条約に基づくペイ・エクイティ理念を社会に浸透させること
2. ペイ・エクイティの実施を担保する日本の法制度の整備
3. ペイ・エクイティの基礎をなす職務評価システムと職務評価の実施プロセスの構築と社会的確立。(pp.82-83)

第3章のまとめ: 「賃金」と「社会保障」のバランスのとれた生活保障へ。
 西欧諸国と比較して日本の社会保障支出が著しく少なく、しかも社会保障は年金と医療保険に特化した、所得保障中心の構造を持つことはよく知られている。夫婦共稼ぎ世帯の主流化は、これまで妻が無償で担っていた家事・育児・介護等を代替する福祉サービスへの需要を高め、生活を維持するための公共的な対人サービスの提供が不可欠となる。(p.83)

 家族扶養にかかわる家計費とケアサービスが、ユニバーサルな家族手当や福祉サービスとして十全に提供されるならば、ペイ・エクイティによる公平な賃金の最低水準は、論理的には労働者自身の再生産費に近づくことができる。この段階になれば、生活を維持するための「賃金」と「社会保障」のバランスは、現在とは大きく変化しているはずである。(同)


第4章 承認と連帯へ

―ここでは、「ネオリベラリズム」とそれに対抗するものとしての「ジェンダー社会科学」の関係に紙幅を割きます。
 だいぶ疲れてきたので、途中の内容は後日改めて加筆させていただくことにして、章末のまとめ部分の文章だけを抜き書きいたしましょう。

 このように考えてくると、福祉国家の制度がその実現をめざしているのは<承認>と
<連帯>だということができる。もっとも社会給付(再分配)は<連帯>の証しであるが、<承認>のために社会給付が必要となることもありうる。また社会規制は<承認>の前提だが、<連帯>のために社会規制が必要となることもありうる。用語法はともかく、このような<承認>が福祉国家をめぐる規範的議論の中心に据えられるようになったということも、ジェンダー社会科学の影響の1つの表れである。
 20世紀の第4四半期以降、ネオリベラリズムが隆盛を極めた。それは生産レジーム、システム統合、交換の正義を重視するものだった。ジェンダー社会科学は、このトリニティを相対化するうえで重要な役割を果たしてきたと思われる。(pp.106-107)

―思い切りアバウトに考えると、東西冷戦の終結以降、資本主義が我が世の春を誇ったわけですが、資本主義の暴走の形態としてのネオリベラリズムを止める、社会主義に代わる対抗勢力としてジェンダー社会科学が台頭した、そんな感じで理解しておいたらいいのでしょうか。

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後編では貧困と社会的排除、雇用の非正規化などの章を引き続き取り上げます。
あたまがつかれる…でも押さえておかないとね。


正田佐与



資本主義から市民主義へ


今年初めて「良書」の読書日記でございます。『資本主義から市民主義へ』(岩井克人、聞き手三浦雅士、ちくま学芸文庫、2014年4月。原題『資本主義から市民主義へ 貨幣論・資本主義論・法人論・信任論・市民社会論・人間論』新書館、2006年8月)

 昨年来、アカデミズムの悪口ばかり言っているわたしですが、(とはいえそんな中でもご厚誼をいただける大学の先生というのは2−3いらっしゃるのですが) 「この人の知性は一回りも二回りも大きい」と感じさせる方がいらっしゃいます。

 岩井克人氏(東大名誉教授、国際基督教大学客員教授)の『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』は、2006年のわたしの超・短命だったビジネススクール時代、周囲がいまだ「株主主権論」にかぶれていた中、バイブルというか「お守り」のようなものでした。

 ただしわたし自身は「経済頭」ではないため岩井氏の研究全体を理解するすべもなく。今も「単なるファン」です。昨年の同氏の『経済学の宇宙』も読むには読んだが、到底評価などできる器ではございません。ので、読書日記もレビューも上げることができずじまいでした。

 昨年もう1冊手にとった本書『資本主義から市民主義へ』は、岩井氏の「倫理」についての考え方がわかる好著です。2006年時点で既にここに至っていたかと感銘を受けます。

 もちろん「倫理畑」の方々からは異論もございましょうが、わたしの「趣味」とお許しをいただいて、本書の感銘を受けたところをご紹介したいと思います。

 今回は、ワード16ページの長さになりました。要約ではなく引用です(わたしが意味がわかっていないところが多いため)。太字部分はわたしが勝手に主観的にだいじだと思ったところを太字化してあります。

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岩井:法人の成立については、ぼくは、間主観性、というよりも社会的承認が不可欠であることを強調しています。現在のアメリカの主流派経済学の連中や、それに影響を受けた法学者たちは、法人とはたんなる契約にすぎないと言っています。でも、たとえばいまAさんとぼくが法人をつくりたいと思って、二人のあいだでどんなに詳細な契約書を書いたとしても、ほかの人間が、Aさんとぼくがつくった団体をAさんやぼくとは独立の主体であると認めてくれなければ、法人としての機能を果たすことはできません。ほかの人間と契約を結べないし、独自にモノを所有することもできない。つまり、法人という制度にかんしては、他人による承認、もっと一般的には社会的な承認が絶対に必要なのですね。もちろん、「人の噂も七十五日」ではないけれど、社会的な承認などというのは移ろいやすいので、それを国家が法律化して、制度として安定させたものが、法人です。(p.124)

岩井:じつは、会社論の次のテーマとして、国家論のほかに倫理論を考えていますが、その出発点として、信任に関する理論を展開したいと思っています。(p.128)

じつは「資本主義社会は倫理性を絶対に必要とする」というのが、ぼくの主張です。しかも、まさにそれが契約関係によって成立する社会であることによって倫理性が要請されるということなのです。(p.129)

岩井:じつは、ぼくは最近、いま述べたことを一歩進めて、もっとも根源的な人間の関係は信任関係であって、契約関係とはその派生的な形態であると見なすようになっています。そして、そこから出発して、市民社会というものを考え直してみたいと思っているのです。そのなかで、倫理性という問題について考え始めているのです。(p.131)

 だいぶ脱線しました。…先ほどから宿題であった倫理の問題に戻ります。端的に言ってしまうと、倫理とは、人間が死ぬ存在であることと本質的にかかわっていると思っています。なぜなら、人間が永遠に生きられるとすると、現在何か悪いことをやっても、将来かならず相手に対して償いをすることが可能になるからです。それは、すべてを、法律的な権利義務の関係、いや、もっと正確には、経済的な貸し借り関係に還元してしまうことになるのです。そこでは、ほんとうの意味での倫理性は必要でなくなってしまう。だが、人間は有限な存在です。だから、自分のおこなった行為に対して、どのようにしても償いや返済ができない可能性がある。そこではじめて、本来的な意味での主体的な責任という問題が生まれてくるのです。それが究極の意味での倫理の問題だと思うのです。(pp.131-132)

―(???)この論理構築はよくわからない…わからないなりにおもしろかったので抽出させていただきました。

(三浦)デ・ファクト・スタンダードの問題がある場合、倫理はどういうかたちで成立するのか。倫理はなんらかの定点を必要とするのに、地面がぐにゃぐにゃの状態と言っていいわけです。カントの倫理を皮肉ったのはシラーでしたよね。自己一身の責任においてというのでは、結局、あらゆる善行は趣味の問題になってしまうではないか、と。倫理はどうしても大文字にならざるをえない。
岩井 大文字かどうかはわかりませんが、人間には、たとえだれも見ていなくても、神さえ見ていなくても、主体として一方的に責任を引き受けなければならない場面なり瞬間がある。(pp.135-136)

岩井 ちょっと前ですが、猫も杓子も「他者」「他者」といっていた時期がありました。「他者」との出会いを求めて、ノコノコと外国に行ったりしてね。でも、先ほど、人間とは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使って、はじめて人間となる存在であると言ったわけですが、その人間にとっていちばん本質的なことは、そのような意味で人間をまさに人間とさせる言語・法・貨幣、とくに言語が、人間にとってはまったくの外部の存在であるということなのです。
(三浦)われわれがもっとも内部だと思っているものが、じつはもっとも外部だということ。
岩井 まさにそうです。そのことを認識することがすべての倫理の出発点だと思うのです。まさにこれは自己疎外論の正反対です。外部の他者との出会いなど、些末な問題だとは言いませんが、二次的な問題です。人間にとっての最大の他者とは、まさに人間にとって最大の内部である言語であるのです。人間はまさに言語で思考し、言語を介して他人とコミュニケートするわけで、言語とは人間の思考そのもの、人間のコミュニケーションそのものなのですが、その言語が人間にとって、もっとも外部の存在であるということなのです。事実、個々の人間はかならず死にますが、言語は個人の死にかかわりなく生きつづけていくわけです。
(三浦)まったくそうです。個別性自体のなかに彼岸があるということです。岩井さんの考え方でいくと、自己は最初から共同性のなかでしか成立しない。
岩井 共同性と言ってもそれは、言語という外部を媒介とした共同性という意味です。だから連帯していて仲良しというわけじゃない。
(三浦)もちろんそうじゃない。でも、言語で考えるというときには、自分ひとりで考えていたとしても、それは共同性において考えているわけですよ。
岩井 共同性といわれると、抵抗を感じるんです。
(三浦)なんといえばいいんでしょう。
岩井 ぼくは超越性だと思っているんです。
(このあと三浦の反論。「ほんとうに19世紀的なヒューマニズムでしかない」)
岩井 ぼくもわからない。ただ、最終的にはカントのいう意味での倫理になるのではないかとは考えています。(pp.137-139)


岩井 たしかに労働価値もない。主体もない。そこで、ぼく自身は、ある意味で非常に常識的なところに戻っていく。カント的な啓蒙思想です。ぼく自身はこれまでずっと資本主義について思考してきました。その資本主義とは、まさに差異性から利潤を生み出すというもっとも形式的なシステムであり、それゆえにもっとも普遍的なシステムです。だから、必然的にグローバル化してしまった。そして、それを超えるシステムはありえません。では、そのような普遍性をもった資本主義に対抗しうる何かがあるとしたら、それも同じように形式的な原理でなければならない。具体的には、カント的な定言命題による倫理性であり、それを基礎にしたグローバルな市民社会といったものになるのでしょうか。カントの定言命題とは、それが普遍的な法則となるような格率にしたがって行為せよというものですから、完全に普遍化しうる純粋に形式的な命題です。これ以外にはないんじゃないかと思います。たとえばローカルな共同性を強調するコミュニタリアン的な論理だけでは、まったく勝ち目はありません。
(略)
(三浦)岩井さんは、カント主義はヒューマニズムだと思っていないんですか。
岩井 思っていません。だってカントの定言命題の対象は、人間でなくてもいいんですから、理性をもっている存在すべてに当てはまる方法なんです。理性をもっている存在ならば、お互いをたんに手段としてではなく、必然的に目的として扱うはずだ、と考える。(pp.139-141)

岩井 いま理性と言いましたけれど、その理性の意味に二つあることが重要です。ひとつは、なんらかの公理から出発し、一歩一歩論理を積み重ねて真理に達するための理性。これが通常の意味での理性です。もうひとつは、ゲーデル問題に関連しますが、この世の中には、あらかじめ与えられた公理とは独立に、自己循環論法によってそれ自体で完結している真理がある。それは、まさにとびとびに存在する真理です。こういう真理は、まさに歴史的に発見されなければなりませんが、そういう真理を見たとたんに、それを真理として認知できる理性です。(pp..141-142)

岩井 人間はそれに行き当たると、それが真理だとわかる。ハイエクは、ヒュームの偉いところは、この第二の理性について思考したことであるというのです。いずれにせよ、こういう真理は進化論的にしか行き当たらないわけであって、そこに、歴史の本質的な意味での不可逆性があるのじゃないでしょうか。

―このあたりわたしの「趣味」で太字部分が増えてしまいましたが、わたしは勝手に、「承認」というものは、歴史を不可逆的に変える真理の発見の1つなのではないか、と思っているわけです。
自分のコメントも勝手に太字にしてしまいました^^


岩井 ちょっと話がずれますが、同じようなことが倫理についても言えます。カントの道徳論に、すべての人間をたんに手段としてだけでなく同時に目的として扱えという定言命題がありますね。これもよく見ると自己循環論法になっています。理性的存在がお互いに理性的存在であることを承認しあうわけですから。そして、そのような相互承認を実定化すると基本的人権になるわけです。その意味で、基本的人権とは普遍的な概念ではあるけれども、同時に歴史的に発見されたものでもあるというわけです。これは非常に啓蒙主義的な考え方に近い。
 少なくとも倫理にかんして残るものは、案外、常識的なものでしょう。(pp.143-144)

岩井 言語や法や貨幣はデ・ファクト・スタンダードですが、それをぼくは空虚とは言わない。それは、現実に個々の人間のあいだを流通していく社会的実体です。実体的な根拠がないことと、空虚であるということとは、まったく別です。そして同じことは、カント的な意味での倫理についても言える。それも自己循環論法によって成立するひとつの命題です。そして、空虚ではない。実際に、基本的人権というようなかたちで社会的な実体性をもつことができる。
 いずれにせよ、言語・法・貨幣、さらにそれとは別のカテゴリーですけれど、定言命題としての倫理―これらが、まさに自己循環論法の産物であるということ、つまり実体的な根拠をもっていないということに、究極的には人間の人間としての自由の拠り所があるし、人間にとっての救いがあると思っています。自己循環論法であるからこそ、遺伝子情報の制約からも、人間理性の限界からも自由になれるのです。その意味で、言語・法・貨幣、そして倫理、とりわけそれらすべての基礎にある言語のなかに、もっとも根源的な真理が隠されているわけです。無根拠だから空虚なのではありません。無根拠だから真理を見出していく無限の潜在力にあふれているのです。(pp.144-145)

岩井 ええ、信任関係を生み出す。一方が他方を一方的に信頼することによってしか成立しない関係を生み出す。この関係が成立するためには、信頼を受けた側は、自己利益を押さえて行動しなければならない。つまり、倫理性を絶対に要請してしまう。こうして資本主義のまさに中核に信任関係、倫理が登場するわけです。(p.165)

(三浦)岩井さんは『会社はだれのものか』の最後で、ケインズとフロイトの関係にちょっとふれていますが、たとえば、ご存知のように、ラカンがヘーゲルとフロイトを結びつけるとき、ひとつのポイントにしたのがアウフヘーベンという言葉ですよね。『エクリ』のなかに、哲学者のイポリットにフロイトの「否定」という論文について評釈させるところがありますが、そこでポイントになるのがアウフヘーベンという言葉で、要するにフロイトのいう否定し抑圧するということの実質はアウフヘーベンと同じだということですね。(p.174)

(三浦)ヘーゲルがアウフヘーベンという言葉を用いたのは概念の働きを説明するところにおいてですが、ヘーゲルにおける概念、概念化作用というのは、じつはそのまま否定と抑圧のことなんだと言ってもいいほどだと思います。定義が否定によって成り立つように、概念も否定によって成り立つということは古くから言われてきたことですが、ヘーゲルはそこに抑圧の要素をも見た。つまり持続の要素、否定しても無くならないものがあるということを見た。つまり二重性です。ヘーゲルはそれを表現するためにアウフヘーベンという言葉をもってきたわけです。
 ヘーゲルの概念の概念についての研究が必要だと言ったのはガダマーですが、ヘーゲルの概念の概念には、それまでは知性とか悟性とかいうレベルで論じられていた概念というものを生命現象一般にまで強引に拡げてしまったところがあって、たとえば動物の概念化作用というのは食べるということそのもの、生殖ということそのものだというわけですね。
(pp.175-176)

岩井 ぼくはカントの『実践理性批判』や『道徳の形而上学』は、それが純粋に抽象的、形式的な原理として倫理を提示しているところがおもしろいと思っています。なぜならば、資本主義というのも、基本的に形式にすぎません。価値形態論とは、商品と貨幣のあいだのほんとうに形式的な関係です。純粋形式ですよ。ぼくはこれから資本主義論を超えたものとしての市民社会論をやろうと思っているんですが、資本主義とは純粋に形式的なシステムだから、ここまでグローバル化したわけです。その資本主義を超える人間と人間の関係として市民社会が可能になるためには、それは少なくとも資本主義と同じ程度には形式的でなければならない。そこで、やっぱりカント的な理論がその核心になるはずだということです。その基礎として、現在、法人論から出発して、信任論について考えているわけです。(pp.205-206)

岩井 うん。だけど、カントが言う、仮言命題にもとづく倫理は、真の意味での倫理ではない、定言命題として定式化される倫理のみが倫理であるという考え方とおもしろいほど適切に関連してくるんですよ。なぜならば、定言命題とは自己循環論法なんですよ。カントの倫理論がおもしろく、そして深いのは、それが自己循環論法になっているということなんです。
 仮言命題的な倫理というのは、個人の幸福であれ、社会の利益であれ、なんらかの効用や目的を達成するための手段として定式化されている。約束を破ると人からの信用を失って、結局は損をするから約束を破ってはいけないというたぐいの理論です。これに対して、定言命題というのは、外部からのなんの根拠づけも必要としない。それ自体を目的とする行動規範です。つまり、それが同時にすべての人間にとっての行動規範となることをあなたが望む行動規範にもとづいて行動せよ、というわけです。約束を破ることは、それ自体でいけない。他の人が約束を破らないとき自分だけ約束を破るのは個人にとっては得であるかもしれない。だが、すべての人が約束を破ることを行動規範にすれば、約束という制度そのものが不可能になるから、約束は破ってはいけないというわけです。これはほとんど数学のように形式的な命題です。
 言ってみれば、仮言命題は社会主義的で、定言命題は徹底的に反社会主義的です。個人の行動を社会全体の利益の名において制約する仮言命題的な倫理の極致が、社会主義だからです。カントは、外から与えられたなんらかの目的から導かれる倫理というものを全否定する。それ自体が目的である行動規範こそ倫理であるというのは、倫理がまさに自己循環論法であるということです。カントを語る多くの学者はこのことの重要性を理解していないと思うのです。倫理というのは自己循環だということを……(pp.206-207)

岩井 そうなんですけど、重要なことは、カントの理論は権利論として理解できるということです。たんなるシニシズムではなくてね。
 政治哲学や倫理学で、昔から効用主義と権利主義のあいだで論争がありますよね。たとえば、基本的人権や私有財産権のような人間がもつさまざまな権利に関して、その権利を絶対多数の絶対幸福を実現するための手段としてみるのか、それともそれ自体が守られるべき目的とみるのかという論争です。カントはもちろん、権利論者です。ただ、同時に、カントは通常の意味での自然法論者でもありません。
 たとえば、基本的人権とは、すべての人間は他人の手段としてのみ扱われてはならないという倫理規範を法律化したものです。その出発点は、理性的な存在同士がお互いを理性的な存在として認めあうことです。理性的な存在とは自分で自分の目的を設定できる存在であり、お互いが理性的な存在であることを認めあうことは、お互いがお互いを目的それ自体として認めることになるわけです。そのような相互承認がないかぎり、基本的人権などは存在しない。事実、基本的人権なんて昔は存在しなかった。たとえばギリシア時代には、基本的人権なんて、お互いにお互いを英雄として認めあう英雄しかもっていなかった。でもそれが、権利への闘争の長い道のりを経て近代になって確立し、現代においては、少なくとも先進国の人間はあたかも基本的人権が自分の体の一部でもあるかのように振る舞っています。
 そもそも基本的人権というのは物理的にあるわけではない。相互承認を法的に権利化、いや実体化したにすぎない。けれど、たとえばアメリカ人なんか、自分の基本的人権を鎧のように着て世界中を闊歩している。(pp.208-209)

岩井 どこにも実体はない。言語だって、言葉に意味があると言っても、後期ヴィトゲンシュタインの先ほどの言葉を敷衍すると、それは意味があるものとして使われているから意味があるにすぎないわけですね。完全に自己循環論法です。法も、人々がそれに対して法としてしたがうから、法が法として効果をもつ。これも自己循環論法です。カントの倫理にしても、いま説明したように、構造はだいぶ複雑になるけれど、そうなんです。人間社会には、物理的な実体とは違う社会的な実体があるわけです。しかもその社会的実体を媒介にして、はじめて人間は人間となる。その社会的実体は、自己循環論法の産物ですから、物理的には何モノでもないのに、人間にとってはものすごい実体性をもつ存在となっているわけです。(pp.209-210)

岩井 そうですね。貨幣論では、貨幣は自己循環論法の産物であり、実体的根拠はないと言っているわけですし、資本主義論だって、価値体系の異なる二つのシステムを媒介すると、無から有が生まれてくるように、利潤が生まれてくると言っているわけですしね。こういう貨幣の論理、資本主義の論理が、現在、グローバル通貨、グローバル資本主義というかたちで、世界を覆いつくしてしまったわけです。
 このような動きに対して、みんないろいろ抵抗しようとしています。ただ、その抵抗の方法が、コミュニタリアニズムであったり、地域通貨であったりしているかぎり、絶対に勝てない。なぜならば、貨幣も資本主義も、純粋に形式的な論理によって動いているからです。だから、グローバル化しうるのです。それに対して、なんらかの意味で実体的な根拠を示して対抗しようとしても、それはローカルな効果しかもてない。それに対して唯一勝てるのは―べつに勝たなくてもいいんだけれど―、やはり、純粋に形式的な論理、いや倫理なのですね。その点で、カントの倫理論が意味をもってくる。なぜならば、それはまったくの自己循環論法として定式化されているからです。それが、貨幣と資本主義のグローバル性・普遍性に対抗しうるだけのグローバル性・普遍性をもった、唯一の対抗原理でありうると思っているのです。(p.215)

岩井 ふつう、自己循環論法というと、自己矛盾だとかアンチノミーだとか言って話を終わりにしちゃうんだけど、じつはそれこそが真実であると。それこそが貨幣である、それこそが言語である、それこそが権利である、とういことなのです。
(三浦)ヘーゲルに言わせれば、それこそが精神だってことになるでしょうね。
岩井 結局、人間の社会とは、その人間が作り出した数学という純粋論理の世界ですら、進化論的な意味での発展をしているということですね。ゲーデルの定理は、構築された真理ではないから、たまたま発見されるよりほかないのです。もちろん一度発見されると、だれもがその正しさを認めざるをえないのですが、発見されるまでは真理としても存在していなかったわけです。それがたまたま発見されると、それ以前の状態には戻れなくなるわけですよ。一種の歴史的な不可逆性がここにある。つまり、ゲーデルの定理が発見されると、それによって世の中の複雑性が増してくる。エントロピー増大の法則が打ち破られてしまうのです。たしかに、これがヘーゲルの言う精神かもしれませんね。(pp.219-220)

岩井 さっきの、カントの定言命題は真理か思想か、という問題については、こう言ったらいいでしょうかね。いまはまだ思想なんですが、いつかは真理となる思想である。そして、カントの倫理がたんなる思想ではなく、真理となった社会―これが、市民社会であるということです。
 たとえば、市民社会の最低限の条件は基本的人権の確保ですが、基本的人権とは、カントの定言命題の法律的な表現にほかなりません。現代でも、まだ国によって違いがある。基本的人権が守られていない国や社会は、まだたくさんある。しかし、ある歴史段階になって、その国が市民的に成熟してくると、基本的人権が法律的に守られるようになり、そうすると、その国のなかでは、人間が基本的人権をもつということが疑いのない真理になるんだと思う。先ほど言ったように、どの人間も基本的人権をあたかも体の一部であるかのように所有することになるわけです。
 カント的な意味での定言命題的な倫理は、だからいまは思想にすぎないけれど、形式的には自己循環論法になっていますから、そこにうまく法律、場合によっては人々の常識がはまりこんで動き出すと、これは真理になる。そう思いますね。(pp.223-224)

岩井 ぼくはいま市民社会論に足を突っ込み始めているのですが、そのためにはまず最初に資本主義の枠組みのなか、私的所有権の世界のなかでどれだけ言えるのかを確定する必要があると思って、それで、会社の二重構造論から、株主主権論を批判し、経営者について信任論を展開し、ポスト産業資本主義における利潤の源泉がヒトであるという議論を提示してみたわけです。このような議論は、すべて資本主義の枠組みのなかでここまでは言えるということをやっているわけです。
 たとえば、ポスト産業資本主義におけるヒトの役割の重要性を強調している場合でも、それは、心優しく従業員のためを思うヒューマニスティックな経営者がいいんだというような議論を展開しているわけではありません。あくまでも、ヒトを重視しなければ、会社はポスト産業資本主義のなかの競争で負けてしまうと言っているだけです。
 ただ、一歩、社会的責任論に足を踏み入れると、単純な私的所有権の枠組みをちょっとはずれてきます。ぼくの市民社会論は市民社会の定義がまだはっきりしていないんだけど、現在のところとりあえず、市民社会とは資本主義にも還元できなければ国家にも還元できない人間と人間の関係である、と定義しています。資本主義的な意味での自己利益を追求する以上の、何か別の目的をもって行動し、国家の一員として当然果たさなければならない責任以上の責任を感じて行動する人間の社会だということです。それが社会的責任だと思います。(pp.225-226)


岩井 そうかなあ、やはりぼくは社会主義者ではないですよ。あのとき、ぼくは社会主義者ではないが、市民社会主義者であると返事すればよかったと、いまになって思います(笑)。要するに、そのなかではお互いがお互いに対して、資本主義的な自己利益、自己責任という意味での責任にも、国家における法的な義務としての責任にも還元できない責任を考え始める市民社会ですね。
 市民社会というのは一貫して「国家および資本主義を超える何か」という存在でしたし、これからもそうでありつづけるはずです。たとえば、市民社会で障害者の権利についての主張が始まる。だが、それが人々の政治的なコンセンサスにまで高まると、法律化されて国家の側に吸収されちゃうし、あるいは社会的な責任を果たすべく、NPOとかで活動してうまくいくと、そのうちに採算がとれ始めて資本主義に吸収されたりします。市民社会とは、その意味で、確定した領域をもっているわけではなく、つねに自己の領域をつくりつづけていかなければならないものです。
 いずれにせよ、逆説的だけど、国家にしても資本主義にしても、人間がお互いに責任感をもって行動しているような市民社会的な領域の存在を許すだけの余裕がなければ駄目なんです。そして、この領域が増えてくると、たんなる資本主義の単純な私有財産の枠組みにも、国家が定めた法律の枠組みにも入りきらないプラスアルファが、市民だけでなく、会社にも要求されるようになってくる。ここでちょっと私的所有権じゃないところに入っていくんですね。(pp.226-227)

(三浦)そんなことはないでしょう。岩井さんのお話を伺って、カントの歴史的意義がわかったという人もたくさん出てくると思います。とくに思想が真理へと進化するという考え方は画期的ではないでしょうか。
岩井 いろいろな権利が体の一部のように人間に備わってしまうということですね。また、基本的人権とは違ったさまざまな権利もありうる。でも、それらの確立は難しいかもしれませんね。でも、いままで人間としての扱いを十分に受けてこなかった人間がいろいろな権利をもつということは、やはりカントの自己循環論法の領域ですね。お互いの尊厳性を認めあうということが権利というかたちで定着してくるわけです。
(三浦)だけど、繰り返しになって申し訳ないですが、岩井さんの考えが刺激的なのは、つねにすべてが無意味になる地点を含んでいるからです。基本的人権は幻想なんだということも含んでいる。その幻想を受け容れて考えていくことが君たちの自由なんだと言っているように思えますね。
岩井 ただ、ぼくは幻想という言葉は使いたくないんです。幻想じゃないんです、これは。実体なんです。真理なんです。根拠がないということと、幻想であるというのは違うと思うんですよ。だから吉本さんの共同幻想という言葉も、あれは誤解を招きます。やっぱり国家は実体です。権利も実体です。社会的実体。ただその社会的実体は社会との相関関係のうちにしかないということです。そういう意味では、物理的な実体ほどの確実さはありませんけれども、しかしあくまでも実体です。幻想という言葉は、ぼくは批判としてしか使いません。
(三浦)じゃあ、建設的虚構と言えばいいかもしれない。
岩井 そうそう、まさしく建設的虚構です。ほんとうに、良い言葉です。
(三浦)その場合、建設的にウェイトを置くか、虚構にウェイトを置くかで違ってくる。
岩井 小説はフィクションだというけど、そのたんなるフィクションがある意味で現実よりもはるかにリアリティをもつものとして、みんな寝食を忘れて読んでしまうことがあるわけです。そういう作家も読者もいるわけだから、ぼくは建設的という言葉に重きを置きます。(pp.230-231)

岩井 では、このような遺伝決定論の科学的な勝利の結果、人文科学・社会科学は、エドワード・ウィルソンが言うように、すべて生命科学の応用分野に成り下がってしまうのか、というと、じつは、逆転ホームランがある。まさに、すべてを遺伝子に還元しようという動きがあることによって、逆に何が遺伝子に還元できないかが浮き彫りにされることになる。それこそ、言語・法・貨幣の存在なのです。人間が生きている世界のなかには遺伝子に還元できない社会的実体がある。人間の遺伝子をいくら調べても、そのなかに貨幣は明らかに入っていない。法はどうか。もちろん、人間には社会的規範を守るという遺伝子があるということは、最近いろいろな実験によって明らかにされています。したがって、アダム・スミス的な利己的な人間像というのは遺伝的に正しくない。人間には規範を守る遺伝子があるのだ、というわけです。こういう発見は、ぼくは大いに歓迎します。でも、それによって、ことの本質を見失うことになる危険がある。なぜならば、遺伝的な規範意識と法とははっきりと区別すべきだと思うからです。(pp.241-242)


岩井 だが、フリードリッヒ・ハイエクが指摘するには、人間の本能にとっては私的所有権ほど嫌なものはないというのです。
(中略)
 狩猟社会では財産は共有、だれが獲物をとってきてもみんなで分ける。そうじゃないと共同体的な社会組織はうまくいかない。その強い連帯意識がいちばん嫌うのはもちろん個人間の能力の差であり、さらには私有財産です。ところがあるとき、どこかの部族が私有財産制を採用し始めた。ユダヤ人かもしれないし、フェニキア人かもしれない。
(三浦)ユダヤとフェニキアは同祖だという説があります。陸の商人と海の商人。
岩井 人間の本能にはまったく反してしまうんだけど、私有財産制という慣習、さらには法制度に行き当たってしまった。突然変異なのか、だれかが理性的に考え出したのかはわからない。そして、人間の連帯意識的な本能に逆らうこの私有財産制を採用した部族なり民族は、その結果、資本主義を発見してしまい、経済的に飛躍的に発展してしまう。それを見て、対抗上、他の部族や民族も、嫌々ながら、私的所有権制度を採用せざるをえなくなった。その最終的な結果が、現在のグローバル資本主義であるというわけです。だから人間は、規範意識は遺伝的にはもっていても、私的所有権制度という法を遺伝的にもっているわけではない。法律は、遺伝に逆らって成立したんです。(pp.242-244)


岩井 こうして言語・法・貨幣を媒介として、人間は初めて抽象的な意味での「人間」として社会を形成することができる。もちろんこれらがなくても共同体はつくれるけれど、それはお互いをよく知りうる範囲に限定されてしまう。人間は、まさに言語・法・貨幣を媒介として、お互いを抽象的な「人間」として認めあうことになり、動物と違う次元の社会性をもつ存在となる。言語・法・貨幣を媒介とすることで社会を形成する生物、それこそが人間の本性なのです。(p.255)
(三浦)(ドーキンスのミームに言及)
岩井 たしかに、僕の理論はそれに近いと思うけれど、自己循環論法としての言語・法・貨幣を媒介した関係として、もっと正確に人間の社会性を規定している。かれらは「文化」とかいう言い方で、曖昧ですね。(p.256)


岩井 言語、法、貨幣では言語がまず根源的 近代に私有財産についての法が確立 ほとんど貨幣の成立と対応関係をもっている(p.257)


岩井 そうです。だから言語・法・貨幣の成立は、同時に「人間」の成立でもある。人間は社会的生物だけれども、言語・法・貨幣を媒介として初めて「人間」として社会をかたちづくることができる。生活をともにしたことのない相手ともコミュニケーションでき、腕力のかなわない相手とも契約が結べ、自分の欲しいモノをもっていない相手とも交換できる。人間社会というのは、個々の人間の集まりじゃなくて、抽象的な意味での人間同士の関係なのです。(p.259)

岩井 ええ。典型的なのは命名です。岩井克人だって三浦雅士だって自分で名乗っているわけじゃなくて、そういう名前が与えられていたわけです。名前は与えられるわけで、それがまさに個人なのです。
―その仕組み自体が法人の仕組みですよ。
岩井 自然人と言われているものも基本的には法人なんです。子どもは違うかもしれませんが。
―いや、すべての人間が物理的かつ社会的、つまり法人ですよ。言語・法・貨幣という社会的実体を認めなければ人間は生きていけないということは、つまり法人としての側面をもたなければ生きていけないということでしょう。
岩井 ええ。その話と市民社会の話をつなげたいと考えているのですけれどね。


岩井 『貨幣論』のなかで、貨幣論の構造と、木村敏の精神病理論とを対応させたのですが、人間の精神病理のあり方は経済の病理のあり方とそっくりなのです。社会的承認の欠如からうまれる病理とは、精神病理でいえば、たとえば鬱病の問題です。経済では、モノが貨幣によって買われないことによって惹き起こされる恐慌です。だけど、分裂病、最近では統合失調症と言わなければならなくなったみたいですが、統合失調症の場合は、これはハイパーインフレーションと同型です。たとえば、宇宙から指令を受けている、というような妄想が出てきたりするわけです。社会による承認が問題となるのではなくて、言葉が体現している社会そのものの自明性が解体してしまう。それが、自分自身が他人に支配されてしまうという妄想として表現されるわけです。言語・法・貨幣がまさに人間性の中心に存在しているのだけれど、その中心性にじつは実体的な根拠がないということを、人格的な次元で具体的に現象してしまう。それが統合失調症で、たぶん脳のケミカルな問題がそうさせるのだと思います。(p.278)


岩井 最近の、第三の社会領域として市民社会をとらえる議論にかんしては、それが市民社会を、自己完結性をもった社会、場合によっては、国家をも資本主義をも超越した社会としてとらえているとしたら、少し違うのではないかと思います。市民社会とは、基本的には、国家か資本主義のどちらかを補完する社会としてとらえるべきだと思っているのです。カントやヘーゲル的な考え方の基本は、人間は尊厳をもった存在として扱われなければならないということです。理性を持った人間は、まさに自分で自分の目的を設定できる存在であることによって、手段としてのみ扱われてはならないということ。モノとしてだけでなく、尊厳ある存在として扱われなければならないということです。お互いの尊厳がお互いに承認され、国家がそれをきちんと保証するということになって、その尊厳の承認が法的な権利というかたちをとる。法律ができれば、たとえば、尊厳をもって扱われなかった場合は、権利が侵害されたとして裁判所に訴えることができるようになる。つまり、このような国家による法的権利が確立していない状態において、人間がお互いに尊厳をもった存在として遇し遇されるということをつねに問題にしつづける場が、まさにぼくの言う市民社会なのですね。それがきちんと確定すると法治国家になる。資本主義についてはうまい言葉が思いつかないんですが。
(三浦)企業かもしれないですね。それこそ法人というか。国家において法にあたるのが資本主義において貨幣であるとすれば、その仕組みそのものでしょうね。(pp.287-288)


岩井 ぼくの研究テーマはもともと貨幣を基盤とした資本主義がいかに本質的矛盾を抱えているかということです。たとえば不均衡動学では、もし市場経済において価格が伸縮的であれば、累積的な不均衡が起きてしまう。市場経済の安定性を確保するためには、利潤原理によって動かされないなんらかの非市場的制度による歯止めが必要になるということを示しています。しかも、いま考えている会社論では、資本主義活動の中心にある株式会社というものが、まさに法人であるということによって、そのコントロールには経営者を必要とし、その経営者には信任というかたちで倫理的行動が要請されているということが主張されているわけです。つまり、ほんらい自己利益の追求が公共の利益を実現するはずの資本主義のど真んなかに、じつは倫理性とでもよぶべきものがなければならないということです。(p.291)

岩井 言語・法・貨幣に対応する市民社会・国家・資本主義という三角形モデルのなかで、国家と資本主義は安定しているように見えるけれども、じつはそれらの基盤をなしている法と貨幣は、ともに自己循環論法によって成立しているわけだから、実体的な根拠を欠いており、つねに自己崩壊してしまう可能性をもっている。言い換えれば、本来的な不安定性をかかえているということをおさえておかなければならない。不安定だからこそ、国家にも資本主義にも完全には還元されない第三の人間活動の領域としての市民社会を必要としている。市民社会的な部分が消えてしまうと、国家も資本主義もそれ自身が本質的に抱えている不安定性、矛盾によって自己崩壊してしまうことになる。その意味で、市民社会とは、国家にも資本主義にも還元されえないことによって、まさに国家と資本主義を補完するということになるのだと思います。市民社会的な部分があることによって、これは具体的に何を指すのかは難しいのだけれども、国家も資本主義もその矛盾をカバーしてもらわなければならないという論理ですね。(pp.291-292)

岩井 だから、法というのはまさしく自己循環論法なので、直接民主政となると悲劇です。専制政治も悪いけれど、すべてを国民投票の押しボタンで決めるというのはもっと悪いシステムです。
(三浦)結局は集団ヒステリーになる。
岩井 そう。だから最後に憲法があるということは、押しボタン制にしない、国民投票にかけないということです。(p.292)


岩井 株主主権論が少しでも意味をもつとしたら、まさにこのような株式市場の公共性を前提として、内向きの経営をしがちな経営者に対して、株式市場の声に耳を傾けろと叱咤激励するわけです。ところが、株主主権論をもっとも声高に主張していた人間(堀江さんと村上さん)が、株式市場の公共性を裏切ってしまうインサイダー取引をしていたというのは、弁護の余地はない。
(略)
…ぼくの会社論は、株主主権論を理論的に批判しているわけです。法人化されていない八百屋さんのような古典的な個人企業と、法人化された株式会社を混同した理論的な誤謬であると、批判してきたわけです。だから、堀江さんと村上さんにはちゃんとしてもらわなければ困るわけですよ。相手が、法律違反で負けてしまっては、理論的な戦いが成立しなくなってしまう。(pp.294-295)


岩井 (孫正義さんは金儲けから会社を育てるほうによく転換したという話の流れで)日本人はお金がそんなに好きじゃない。好きだとしても、それよりは社会的認知のほうが気になるムラ的な人たちなんだと思う。そこでみんな引っ掛かっちゃう。(p.296)


(三浦)それと同時に、やはり先ほどの大義名分もあるんじゃないですか。日本人はとくにそうかもしれませんが、世界的にもやはり冒険と金儲けだけではない。どんな会社でも、感謝、勤勉、奉仕とか掲げている。逆に言うと、それがなければ、社員が働かない。俺たちは金儲けのためだけに邁進しているというのでは働かない。岩井さんのおっしゃる市民社会的な理念というのを表向きであれ掲げなければやっていけないというところがある。極論すれば、すべての企業がノン・プロフィット・オーガニゼーションみたいなところがあるわけです。(略)
岩井 そうそう。だが、それがぼくの言う市民社会かどうかは疑問ですが。
(三浦)でも、たいていの会社は、社会のためにこの会社は設立されたとか言っているでしょう。
岩井 ええ。定款にもかならず書いてある。
(三浦)定款に「万難を排して金儲けに邁進する」と書いてある企業はない(笑)。なんらかのかたちで社会に貢献する、となっている。
岩井 シニカルに見ればそれは方便なんでしょうけど、同時に方便だけじゃないと思いますね。
(三浦)方便じゃないと思います。労働者も法人の面をもっていますから。家に帰れば夫であり、お父さんであり、会社の外には学生時代の友人もいる。敬意を払われたいという欲望はつねにあるわけだから、大義名分がなければやっていけない。
(p.297-298)


岩井 ただ、ぼくがいまやっている研究は、もう少しテクニカルな研究です。最近、経済学の影響で、人間と人間とのあいだの法的な関係も、すべて契約関係か疑似契約関係に還元しようという動きが、法学のなかでも強くなってきています。契約関係とは、基本的には、自己利益追求が基本原理です。自分の利益にならなければ、だれも契約を結ぶことを強制されません。契約自由の原則とも言われます。だが、じつは、そのような契約関係に還元することのできない人間関係がたくさんあるということを、ぼくは言おうとしているのです。
 最初の研究は、法人としての会社とその経営者との関係を分析することから出発したのですが、その後、財団法人とその理事との関係、国民と国家官僚との関係、患者と医者との関係、支配株主と少数株主との関係、子どもや認知症老人とその後見人との関係、皿には、未来世代と現在世代との関係、などなど、まさに一大領域を成していることに気がつくことになりました。これらの関係には、たとえば医者は患者の病状にかんしては、患者自身よりもよく知りうる立場にあるというふうに、絶対的な非対称性があります。そこで、この関係を契約関係として結ぼうとすると、いくらインフォームド・コンセントと言っても、医者の一方的な自己契約になってしまう可能性がつねにあります。自己契約は、契約にはなりえないというのが、法律上の大原則です。事実、最悪の場合は、契約の名のもとに、2004年の慈恵医大青戸病院事件のように、医者が患者を人体実験に使ってしまうこともありうるのです。そうすると、この患者と医者との関係を望ましいものに維持していくためには、自己利益追求を前提とする契約関係と異なり、医者の側に、患者のために治療すべしという倫理的な義務を一方的に課すことが必要になってくる。それが、信任関係といわれるもので、それにかんする法律を信任法といいます。このようにして、法の世界のなかにも、市民社会的な原理が絶対的に必要とされるという議論を展開しようとしています。(
pp.299-300)

(三浦)イスラム原理主義はアメリカのキリスト教原理主義の模倣だという説がありますね。
岩井 ええ。何度も同じことを繰り返しますが、国家も資本主義も、つねに危機を内にかかえています。法も、貨幣も、自己循環論法であるがゆえに、それ自身に自己崩壊のモードを内包している。それらは市民社会につながることでまがりなりにも維持されているのです。これまでは貨幣の側から倫理性の必要を示してきたわけですが、いまは法の側から倫理性の必要を示そうとしています。それが終わったら、今度は逆に、市民社会の側から考察をまとめてみたいと思っているわけです。(p.301)


岩井 まさにそうです。人間は根拠がないことを恐がります。自己循環論法から逃げ出そうとして、なんらかの実体をもとめてしまう。貨幣の背後に金をもとめ、労働をもとめ、極端な場合は糞尿愛をもとめる。あるいは、貨幣のような媒介を排除して、透明で直接的な人間関係なるものをもとめる社会主義や共同体主義になってしまい、まさに人間の自由をもっとも抑圧する体制を生み出してしまうわけです。国の場合であれば、宗教や民族性をもとめてしまうわけですね。(p.302)


岩井 カントの倫理論の中心には、いま三浦さんが述べられた「定言命題」があります。サンデルも解説していますが、カント以外の倫理論や正義論は、基本的には、最大多数の最大幸福のために何々をせよとか、共同体の善を促進するために何々をせよとかいった「仮言命題」として提示されています。
 だが、そのような倫理はあくまでも何らかの目的の手段でしかなく、その目的の設定には必然的に人間や社会に関する経験論的な判断を必要とします。これに対して、定言命題は法や倫理を幸福や善といった外的な目的から切り離す。そのひとつの定式は「あなたの行動の原理が同時にすべての人間にとっての普遍的な法として成立するように行動せよ」というものです。まさに経験的な世界から独立した、純粋に形式的な命令となっている。  (略)
 まさにいま、無縁性などよりもはるかに根源的な無根拠性の問題に直面している。それだからこそ、共同体的存在としての人間をとりまくさまざまな条件とは独立した、まさに純粋に形式性としての倫理の可能性について考える意味があると思います。そして、それは同時に、物理的な条件にも生物的な条件にも還元できない人間の本質とは何かを考えることでもあるわけですね。(pp.310-311)

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 引用は以上です。
 いかがでしたか。

 
 2006年の時点で既に、生物学者と議論して「遺伝子決定論」で確定だと言っているくだり、着眼の速さに脱帽です。また、引用部分にはなかったかもしれませんが、「承認が極端に欠乏すれば精神疾患になる」ということをあっさり言っています。これも不肖正田が『承認をめぐる病』という本に触れて言ったことと一緒ですね。
 「日本人はお金がそんなに好きじゃない」
 この言葉も至極あっさりと出てきます。某「学力本」のうさん臭さに気がついたわれわれは、耳を傾けたいですね。

 そして、「信任関係」のくだり。
 医者と患者との間には、情報の「絶対的な非対称性がある」、だからこそ「医者の側に、患者のために治療すべしという倫理的な義務を一方的に課すことが必要になってくる」。
 このところ「学者が目立ちたい一心で正しくないことを言ってしまう」という現象が引きも切らなかったわけですが、ここにも、本来は「信任関係」が存在すべきところなのではないでしょうか。「学者と一般人」の関係性のなかには「情報の絶対的な非対称性」があります。であれば、本来学者は間違ったことを言ってはならないのです、わたしの解釈によれば。自分の肩書を、間違ったことを言って本を売るための手段として使う学者が多すぎます。

 いみじくも、昨12月このブログで批判的にとりあげた 『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(日経BP社)の著者、入山章栄氏は、「役に立つかどうかよりも、『おもしろいか、おもしろくないか』が僕の最大の価値基準ですね。」ということを述べていますが、
http://diamond.jp/articles/-/82877?page=2
これは考えてみると恐るべきことで、入山氏の著作で「ダイバーシティー経営」に関してわたしが引っかかった箇所、
「ほとんど男性でできている日本企業に女性を雇う必要はない」
この、当事者にとっては極めてセンシティブな内容の発言も、入山氏は「おもしろいから」もっというと「面白半分で」言っている可能性があるのですね。

 つまり、このへんの「ザコ学者」と「大学者」の言うことの価値には天と地ほどの開きがあり、われわれ一般人は、ごく少数の「大学者」の言うことには耳を傾ける必要があるが、大多数の「ザコ学者」―たとえ東大出でも、海外で博士号をとってきたのでも―は、「正しくない」あるいは「言葉の軽い」人であり、無視してよい、と理解してよいと思います。

 
 というふうにすぐ我田引水的に解釈を施してしまいますが、新年のお口直しに、大きな知性に触れるために、お勧めの1冊です。



正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ろくたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 お待たせしました、”中室提言”に対する「正田の回答編」です。

 1つ前の記事では、「中室本」の第4章・第5章を丁寧にみたうえで、”中室提言”のまとめとして、

1.少人数学級に「しない」。40人学級を維持(一部貧困地域では35人学級でもよい)
2.子供に未来のおカネの話をしておカネのご褒美を出すと学力が上がる。ほめない
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「おカネ返して方式」の「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

と、いうことでした。

 これに対してわたくし正田の回答は、いくつかの項目がありますので、最初にまとめておきましょう。


【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

【補足】少人数学級の財源問題を考える

【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の質の高い先生とは本当に2.おカネで釣る、ほめないをやっている先生なのか?

【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要



 それでははじめたいと思います―

【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

 詳細は、今月3日の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 )に書かせていただきました。
1つ前の記事を見て「じゃああんたは教育あるべき姿はどういうものだというんだ?」というリアクションをされる方もいらっしゃいましたが、ここの記事で言いつくされています。

 個々に向き合うきめの細かい指導とセットにした「少人数学級」は、大きな効果を上げます。企業では、「承認+個人面談」は、学齢期の子供たちと共通の問題をもち指導しにくい今の若い人たちにも非常に有効だということがわかっています。もちろん極端に人数の大きな部署というのはその場合あり得ません。
 そして、今も10人に1人ぐらいはいる「スーパー先生」から他の先生が学べるよう、経験交流の時間を頻繁にとります。ここでも「承認」をベースにした対話が大きな効果を上げます。マネジメント層の方々は、ぜひそこで経験交流のためのファシリテーターの役割を果たしてください。
 「少人数学級」以外のことは、大きな予算措置を必要としません。

【補足】少人数学級の財源問題を考える
 でも「少人数学級」財源をどうするかって?
 35人学級を40人学級にすると86億円が浮くとのことでしたが、これは単純に、学級定員を5人減らすごとに86億円支出が増えるということだと思っていいんでしょうか。2015年度文教及び科学振興費全体は5兆3,600億円余で全体の5.6%でした(医療福祉費は31兆円)。もし30人学級にしたら86億円、25人学級にしたら172億円増えるんですね。それぐらい何とかなりませんか。国民1人当たり172円の増ですよね。

 わたしが思うのは、産業界によびかけて、法人税に上乗せした目的税にできないのか、ということです。未来の産業人を作るための重要な投資です、15年後には確実にリターンがあります、と言って。逆に今これをしなければひょろひょろのもやしっこしか入ってきませんよ、求人難倒産かメンタルヘルス倒産になりますよと言って。先生方は夜中までプリントつけして家庭生活も削ってるんです、普通の生活ができるように、企業で分担し合って先生を余分に雇うつもりになりませんか、と言って。公的教育が充実すれば、社員さんがたも子弟を私学まで行かさなくても地域の公立学校でいい教育を受けさせられますよ、と言って。だめでしょうか。 

 そういう、「今40人だから5人減らして35人にしてよ」「それには予算が―」みたいな、ちまちました議論ではなくて、「まずあるべき姿から」の議論をしてもいいと思うんです。企業の側は、むしろエビデンスなどなくても、部署編成をフラット化の30人40人ではまずいと思ったらすぐ昔同様の10人7人の規模に戻しているわけです。そういう判断が学校には随時出来なくて、身動きとれないというところが気の毒なんです。

 そのためにやっぱりエビデンスが全然無いのもまずいので、どこかモデル校で始めてほしいなあ、とせつに思います。「少人数学級が単独でどうか」ではなくて、「少人数学級+承認、きめ細かい指導」のセットで、2剤併用の形で。

 ただし、「ランダム化比較試験」にこだわる必要もないのではないか、とも思います。そのことは【5】で。



【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「おカネで釣る」。「中室本」には、ことのほか頻繁に出てきます。第2章で「お金でご褒美を上げても『よい』」。第4章で「将来のお金の話をすると、学力が上がる」。

 このくだりをみて、ひょっとしたらこのブログ読者の方は、いや〜な気持ちになった方もいらしたのではないでしょうか。わたしなどは、3人の子供をお金で釣ったことはほぼゼロ回に近いです。それでも子供たちは自分のお弁当をつくり、おせち料理をつくり、その年頃の子の中ではダントツで家事をする子たちでした。「子どもをお金で釣ることは、よくわからないけれどしてはいけないことだ」というタブー意識がわたしの中にはありました。読者の中にもそういう方はいらっしゃいますでしょうか。それは意味のないむだなタブー意識で、打破したほうがいいものなのでしょうか。
 いや、その勘は正しいと思います。

 『経済は競争では繁栄しない―信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と信頼の神経経済学』(ポール・ザック、ダイヤモンド社、2013年8月)では、「お金の話をすると人は道徳性が低下する」という話が出てきます。
(詳しい読書日記はこちら わが国ではハグはちょっと―じゃあ、どうする?神経化学物質オキシトシンの知見『経済は「競争」では繁栄しない』
「プライミング」(暗示)の実験で、お金を一瞬見せられお金について考えるよう仕向けられたグループは、他人を助けたり、他人に助けを求めたりする度合いが低く、一人で物事をこなす可能性が高まった。また、面接のために椅子を並べるように頼まれたとき、お金について考えるようにプライミングされたグループは、他人とのあいだに物理的に大きな距離を置いた。


 つまり、子供たちをお金のために頑張るよう仕向けると、人と助け合うより自分一人が勝って儲かればよいという「1人勝ち大好き」の人になってしまう可能性があるのです。このやり方で学力が上がったしても、そこで作った「学力」は、「人を蹴落とせ」という競争心を土台とした学力である可能性があるのです。
 人の個体差について考えるのがすきなわたしが考えるに、子供たちの中には、確かに生得的に「お金」がすきな子がいます。お金の価値観をもっている、という子。そういう子には、確かに「お金」をイメージさせて訴えるのが、勉強させるにも有効かもしれません。
 しかし、それはその子たちの個別指導で使えばよろしい。お金がとくに好きではない子まで、お金をインセンティブに使う必要はありません。従来通り、学ぶことそのものの楽しさを先生の言葉で伝えていただければいいと思います。
 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生だ」と言います。子供たちの学力を上げた先生が、20年後も子供たちの収入を高めていたと。
 しかし、個人として「収入の高い」人を作ることが経済効果と言えるかどうか。
 わたしたちは、早期教育が作ったのか何が作ったのか、個人として優秀だがきわめて競争心の高い人物をビジネスの中でみることがあります。自分の周りのちょっと優秀な人を目障りだからと平気で潰してしまい、その人の半径10mぐらいにはペンペン草も生えない。そういう人は、自分自身は稼いでいても、周囲の人の年収を下げているはずです。したがってその人を育てたことの経済効果は、その人が潰した周囲の人まで込みでみた場合、非常に低くなるはずです。
 そうした「長期毒性」は、「中室本」の「お金で釣って勉強させる」方式について、まだ全然明らかになっていません。
 
 一方で、「正田試論」の記事の中に出て来た「スーパー先生」は、そのような優秀だが競争心が極端に高い人物を作っていたのではありませんでした。人格教育をし、1人ひとりの良いところを見出させ、優秀な子にはその優秀さをいかんなく発揮させながら、同時に周囲の子に思いやりを持つように仕向けていました。
 こういう子は、将来収入の高い人になった場合でも周囲の人の収入をも高めることができるのです。そういう人を作ってこその経済効果ではないでしょうか。
 競争ということも生まれつきの価値観で好き嫌いがあり、わが国では競争があまり好きではない人が多いようです。それに比べアメリカ人は比較的競争を好むところがあります。
 わが国で従来、優秀な人を作ってきたやり方をだいじにした方がよいのではないでしょうか。


【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見と、「学力を上げるためにはお金の話をしたほうがよい」という知見が無造作に並べられているので、じゃあ学力を上げ、20年後まで本人の収入を高めていた先生がやっていたことはそれだったのか、と錯覚してしまいそうです。しかし、この両者がつながっている保障はありません。
 「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見を導き出した「チェティ研究」は、(1)1人の子供の学力の向上(2)その子の20年後の収入を追跡調査したもので、学力を上げた先生が具体的にどんなやり方で学力を上げていたかまではみていません。"中室提言”2.と3.は、まったく別々に出て来た知見です。むしろ、「チェティ研究」に出て来た優秀な先生は、わが国の「スーパー先生」と同様に、良い人間関係、高い道徳性に立脚した学力向上をやっていた可能性が大だと思います。
 「スーパー先生」たちが何をやっていたか。「結果変数」ではなくほとんどの瞬間、「媒介変数」のところを見て、つまり数字で測れない定性的な子供たちの様子を見、またそれらを「小目標」」として念頭に置いて仕事をしていた可能性があります。というお話を、こちら(「学力を上げる先生」はどこを見ていたか)に書かせていただきました。
 わが国でもし「チェティ研究」的なものをやるのであれば、今国内で高い学力向上をもたらしている「スーパー先生」方の生徒さんたちの「その後の収入」プラス「対人的行動様式」を追うといいかもしれませんね。そのうえで、先生方のやっていることを「解剖」するなら、それは意味のある研究になるだろうと思います。


【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

 1つ前の記事では、先生方の質を向上させるために、成果主義が試みられたがあまり成功しなかった。ところが、成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究がある。というお話でした。
 「ふつうの成果主義」がなぜ上手くいかないか、その理由は経済学者の間でわかっていない、ということでした。
 えーっ、なんでわからないの!?とわたしなどは思います。読者の皆様、そう思いませんか?
 先生になる人というのは、基本的に「人がすき」なんです。そうでない人は、もともとあまり適性がなかった人だと思います。そして「人がすき」な人というのは、お金がすきという価値観をあまり持っていないことが多いです。絶対に両立しないとは言いません。でも多くは、「仕事はお金のためにやっているのではない。生徒やお客様に喜んでもらえるためにやっているのだ」と思っています。そういう人が多く分布している業界だと思ってください。
 経済学者にとっては「想定外」かもしれませんが、「経済人(ホモ・エコノミクス)」ではない人びとがいるのです。お金で釣られても心が動かない人びとがいるのです。
 それなのに「動け!」とばかり、「減点法の成果主義」まで実験してしまうというのは、知らないからとはいえなんと残酷なことでしょうね。「経済学者=バカ」という式がわたしの頭で渦巻きます。
「40人学級を維持した上で、先生方には残酷な負の成果主義を」
"中室提言"が言っているのは、とどのつまり、そういうことなのです。それで学力向上したからといって全然威張れません。わたしには、神をも懼れぬ行為をしているとしか思えません。そのやり方で単年度ぐらい学力向上の効果が上がったとしても、遅かれ早かれ先生の鬱休職や離職が続出するであろうことは火をみるより明らかです。中室先生ちゃんと責任を取っていただけますか。それを決定した役人も責任取れますか。

 逆に、学校の先生のような感情労働の人たちは「承認人」という概念が当てはまります。経営学で「承認論」を提起した太田肇氏の造語ですね。
 先生方に奮起してもらいたかったら、「承認」してあげればよいのです。多くは、「教室の王様」で、逆にだれも自分の仕事を監督してもらえない立場で実は「承認」に飢えています。マネジメントの人たちが細かく授業をみて、先生のちょっとした教材づくり、ちょっとした子供たちとの関わり、ちょっとした判断、を賞賛してあげたらどうでしょう。あるいはその自治体の首長や地元出身の有名人が―たとえばうちの神戸市だったら藤原紀香とか―が、しょっちゅう学校を視察して先生方にねぎらいの言葉をかけたらどうでしょう。
 そういうことをまだランダム化比較試験でやってみたことがないんですよね?たぶん、経済学者さんが興味を持たなそうなところですよね。
 でも経済学者さんが考えるほど、多くの人は「経済人」じゃないんですよ。そろそろ、そういうことを受け入れなくちゃ。

 
【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

 上記の「成果主義導入」と関連しましたが、実はひところ「アメリカ式」を繰り返し輸入して、どんどんダメになった分野があります。経営学です。
 『企業の錯誤・教育の迷走 人材育成の「失われた10年」』(青島矢一編、東信堂、2008年)という本では、バブル崩壊後に自信を失い、アメリカのビジネススクールで生まれた手法をどんどん輸入した日本企業の迷走ぶりを描いています。
(詳しい読書日記はこちら何を失ったのか、何を回復しなければならないのか―『企業の錯誤・教育の迷走』

 ここでは、「成果主義導入」で日本企業の営業組織・研究組織がそれぞれどうなったか、が出てきます。
 
 
営業職では・・・、
 転勤時の得意先の引き継ぎをしなくなった。引き継いでも、特に親しい顧客には「後任に引き継ぎ後半年たったら自社製品の購入をやめてください」と依頼する。
 随行営業をしなくなった。
 若手営業員の定着が悪化した。それまで離職率が低かったA社でも、2002年に入社した営業部員の3分の1が2005年までに辞めた。
 ・・・と、競争の「負の側面」が大きく出てしまいました。

 研究開発職では…
 創造性のある研究員を業績給でつくることはできなかった。創造性のある研究員が求めているのは金銭的報酬ではなく、インフォーマルなフィードバック。(もろに「承認」ですね)しかし業績給導入の結果、インフォーマルなフィードバックは減少した。
 組織としての創造性を発揮するには、部門間協力が必要だが、業績給で評価基準が明文化されると、協力にかかわる関係構築の作業が捨象されてしまい、部門間協力がわるくなる。(⇒実はこれも「承認」の応用で解消することがわかっている)



 さあ、では学校の先生の世界に「(減点法の)成果主義」を導入したら何が起こるでしょう?
 生徒の成績の改ざんなどは容易に起こりそうですね。また、ノウハウを教えない、承認しあわない、協力し合わない。

 もともと日本人はアメリカ人に比べて不安感が高く、競争心の低い人が多いので、わが国で成果主義を入れたら負の影響がもろに出やすいのです。喜んで競争して頑張る人などほんの少数、大半は他人の足を引っ張るという後ろ向きの頑張り方をします。

 さて、医薬品の世界には「ブリッジング(橋渡し)試験」というものがあります。
 アメリカで一通り開発して臨床試験までクリアした医薬品も、日本人では体質の違いで効果が弱かったり、副作用が強く出たりする可能性があります。日本人での安全を確認するため、数年にわたってもう一度日本で臨床試験をします。

 経営学の分野でも教育学の分野でも、「ブリッジング」は必要です。体質が違うものを試しもせずに入れるべきではありません。ただでさえ日本人とアメリカ人は、「不安遺伝子」の出現率において両極端。その他いくつかの「性格」に相関することが分かっている代表的な遺伝子型の分布もほぼ正反対、それぐらい、民族の「気質」が根本的に違うのです。
 いくらハーバードでいい結果が出たという知見でも、わが国で即政策として取り入れるようなことはないように願います。



【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要


 ランダム化比較試験にこだわると、現実問題として、4つ前の記事(「少人数学級で学力は上がらない」はウソ!」にみた赤林研究のように、倫理的問題を避けるあまりきちんとした差が得られない結果に終わるという問題がついて回ります。

 医療でも臨床試験で治療群と対照群に分けるときにかならず倫理的問題が多少はあるわけですが、こと子供の教育は、対象が子供さんなので、自己決定に基づき参加する臨床試験より倫理的問題がより大きくなります。

 すると、全然思い切ったことがやれない。結果的に、現場が考える、実際に成功体験もあるような、本当に効果的な手法というのは、ランダム化比較試験では検証できないことになります。これはもう自己撞着のようなものです。

 だから、現場の感覚からいうと「なんで、そこ!?」というような、どうでもいいような仮説ばかり立てて実験してるじゃないですか。


 なので、いくら米教育省が「エビデンスはランダム化比較試験のことを言う」と明言したからと言っても、米国は米国、追随しないでいいと思います。たぶん多くの先進諸国で20人学級を導入したとき、いちいちランダム化比較試験で決めてはいないだろうと思います。「現場感覚」で決めたと思います。



 そして「つぎはぎ提言」の問題―、
 例えば、
(1)上記の「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「2.学力を上げるためにはお金で釣る、ほめない」という知見をくっつけて提言するのは正しいか?
(2)また「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「4.先生の質を高めるためには減点法の成果主義と教員免許制撤廃」をくっつけて提言するのは正しいか?
 (1)に関しては、チェティ研究に登場する質の高い先生たちが、現場でどんなことをやっていたかをみないといけません。2.お金で釣る、ほめない ではなかった可能性が大です。
 「お金で釣る」でみることができた学力向上はあくまで1学年の短期的な結果です。そのために何年にもわたって努力できるかどうか、は未知数です。一般には、お金によるモチベーション向上効果は短時間しか持続しません。
 また(2)提言3.と提言4.をくっつけることは正しいか?
 それはチェティ研究に出て来た質の高い先生が、「減点法の成果主義」でつくられたわけではない、ということです。「減点法の成果主義」というのは先にも述べたように、ものすごく非人道的な方法なのですが、それをやって先生方が1−2年は頑張れたとしても、数年内に息切れして鬱になっていくかもしれません。だれが責任をとるんですか。学級定員にもからむ問題ですが、先生方が鬱で休職する、離職するという問題も「コスト」としてきちっと扱わないといけません。現実にあることなのですから。

 こういう、現実にはつながっていない「つぎはぎ提言」、入山章栄氏の「複数次元のダイバーシティーを同時に導入しよう」という提言もそうなのですが、それが正しいかどうかは、その「つぎはぎ提言」を「多剤併用試験」として、新たに検証する必要があります。上手くいかない可能性が大ではないかと思います。

「質の高い先生」+「お金で釣る」でしたら、そのやり方で20年後まで収入が高かったか、また周囲の人間を潰すような行為をして複数人の総和でみると低収入になっていないか、そこまでみないといけません。
 わたしなどは、「お金で釣る」方式で育った子供さんが、将来犯罪者になる確率は普通より高いのではないか?ということを、本気で心配するほうです。

 そんなリスクのある教育を、実験できますか?

 経済学者という人種は、教育や実験の倫理的側面にあまり興味をもたないようです。わたしは多分それで、この本を読んだときイヤーな気分になりましたし第4章第5章を読んでも内容がなかなか頭に入らなかったのです。

 そんな極端なことをしなくても、今現場の先生方がおやりになっている優れた実践を「症例報告」として、エビデンスとして扱ったらいかがでしょうか。ランダム化比較試験は必ずしも必要ありません。



 以上がわたしからの「回答」です。

 この記事へのご意見、ご感想を歓迎いたします。是非、FBコメント、メッセージ、ブログコメントなどの形でお寄せください。

 
 きのう、美容院に行ってカットしてもらった25歳の美容師見習いさんは、入店5年目でした。シャンプーと掃除担当からいよいよお客さんのカットをできるように、今テスト準備を頑張っています。

「やめたいと思ったことはないですか?」
「ありますよー。シャンプーで肘の上までかぶれちゃったんです。こんな手でお客さんに触って申し訳ない…と落ち込んでいたら、お客さんが優しくて。
『頑張ってるね』
『手大丈夫?良くなった?』
『気にしないでいいのよ』
そんなふうに言ってもらうと、手治っちゃったんですよ」
「え、そういうので治っちゃうんですか」
「はい。あたしアホなんで、お客さんにほめてもらうと嬉しいんです」

ほめてもらえればうれしい、辞めないでいられる、皮膚も治っちゃう。なんと、いいご性格ですね。
そういうのが「頑張れる人」なんです。また、「周囲の人もハッピーにできる人」なんです。




正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 2016年1月14日現在、Googleで「学力の経済学 批判」で検索すると、本記事がトップページの上から2番目に出るようになっています。有難いことです。

※2017年1月5日追記:本日現在、「批判」をつけずに「学力の経済学」でGoogle検索しても、本記事がトップページに出てくるようになりました!全国の自治体や教委のドメインから多数のアクセスをいただいております。有難うございます!

 一昨年のベストセラー『「学力」の経済学』に疑問をもたれた良心的な読者の方々へ。当ブログでは、企業人向けの女性研修講師53歳が、子ども3人を公立学校で育て、、主宰するイベント「よのなかカフェ」で学級崩壊ほか教育問題をテーマに討論し、現役の優れた先生方にインタビューした経験を基に、『「学力」の経済学』のはらむ諸問題を真摯に考察しています。もしもあなたの心の琴線に触れるところがありましたら幸いです。


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本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ごたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

「またあ?」とこのブログを愛してくださる、心ある読者の皆様の呆れ顔がみえるようですー
 
 ほんとうは、わたしももっと楽しい美しいことを読んだり語ったりしたい。 
 でも目の前に「悲劇」が口を開けて待っているとわかる時には、やはり自分の出来ることでベストを尽くしたいのです。
 その「わかる」のも、ほかでもないわたしのポジションだからわかるのかもしれない。


 今日のお話は、『「学力」の経済学』(以下、「中室本」と略)という本が後半部分で述べているわが国の教育政策への提言、これがどれほど恐ろしいものか、というお話をしたいと思います。

 2-3日前までのわたしと同様、この本を感覚的に「不愉快だ」と感じ、それゆえに「黙殺してよい」「まさかこんなことが実現するわけがない」と思っていた、良心的なわたしの友人の皆様。ぜひ、この恐ろしさを共有してください。そしてまた、これは論理的によく見ると破綻している、しかし役人が騙されていそうだ、ということも。
 
 大まかに言うとそこには、「教師も子供もカネで釣れ」という”思想”が流れています。しかしそれを実現した場合、どんなことが起きるのか?だれが責任をとるのか?

(2017年2月13日追記:
"カネで釣る"は何故ダメなのか?実はお金の存在を意識しただけで、人は利己的になり助け合わない、孤立主義的になるという知見があります。
こちらの記事の後半で詳しくご紹介しています

●『信頼はなぜ裏切られるのか』をよむ◆次爾カネのせいでウソをつく、ネットのせいでウソをつく、信頼を損なう4つの仕草
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952837.html

「第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?―科学的根拠(エビデンス)なき日本の教育政策」「第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?―日本の教育に欠けている教員の「質」という概念」での本書のロジックをまた、丁寧に追ってみたいと思います。


(なおお急ぎの方は、手っとり早く本記事への「回答編」を読みたい、と思われるかもしれません。
「回答編」はこちらです
本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』のもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!  )



 「少人数学級は費用対効果が低い」と「中室本」は言います。学級規模を35人から40人にすると削減できる費用は86億円なのだそうです。
 ここで紹介する知見は3つ、

1.米国の「スタープロジェクト」
−少人数学級(1学級当たり13-17人)と通常学級(同22-25人)を比較したところ、少人数学級の子供のほうが学力が高く、とりわけ学齢の低い子供、マイノリティである黒人、貧困家庭の子供に対する効果が高かった
2.ヘックマン教授らの少人数学級と子供の生涯収入の推計(結果は負の相関、学級定員を5人減らすと55〜77万円の減収)、
3.慶応大の赤林教授らの横浜市データを使った推計(学力の変化ほとんどなし)

 上記のうち、3.に関しては、学力変化がなかったのは自然実験であるため、(1)教材や教え方の工夫がなく(2)むしろ学力変化が生じないよう配慮した可能性がある(3)学力低下につながるような要因が作用し、少人数学級のメリットを相殺した可能性がある―でありデータとして依拠するに値しないことを、3つ前の記事「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判 」で述べさせていただきました。実は1.と2.にも似たような問題があるのではないだろうか?とわたしは思っています。

 「中室本」では、しかし、「少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの、他の政策と比較すると費用対効果は低い政策であることもまた明らかになっている」と言います。

 そして、より費用対効果(「コスパ」ですね)の高いやり方として、「教育の収益率」に関する情報を子供たちに知らせることを挙げています。つまり、「学歴が高いほうが年収が高い(=教育を受けることの経済的な価値)」ということを教えてあげると、他の「ロールモデルを見せる」などの介入よりも学力向上効果が高かった、というものです。要は、「教育を受けたほうが『儲かる』よ」と子供たちに教えてあげることです。
―さあ「カネで釣る」が出てきました―

 このあと「学力テストには学校教育の効果を測る意味はない」「都道府県別の結果も公立だけなのでバイアスが入っている。私学に多く通う東京都・神奈川県の場合残った公立校の成績をみると低く出る」などの議論は正論として、

 「少人数学級は貧困世帯の子供には効果が特に大きかったことが明らかになっています。」として、「少人数学級を全国の公立小学校の1年生「全員」を対象にするのでなく、就学援助を受けている子供が多い学校のみで導入すれば、大きな効果がみられたかもしれません」と”提言”します。

 次に、「いい先生」とはどんな先生なのか。教員の質を計測する方法として、「担当した子供の成績の変化」をみるという方法があり、この学力の変化を「付加価値」というそうです。

 ここで出てくるのがハーバード大学のチェティ教授らの研究。「全米の大都市圏の学校に通う100万人もの小・中学生のデータと納税者記録の過去20年分のデータを用いて、付加価値が教員の質の因果効果をとらえるのに、極めてバイアスの少ない方法であることを明らかにしました」。さらに、質の高い教員は、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めているということです。

 では、教員の質をどうやって高めるか。

 「成果主義」はどうか。あまり効果があがらなかったようです。「成果主義が教員の質の改善につながらない理由は、実のところよくわかっていません」と「中室本」はいいますが、ここは「つっこみどころ」が大いにありそうです。
 ところが、同じ成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究が紹介されています。ボーナスを「失う」という設定。最初に一定のボーナスを受け取るが、学年末に目標の付加価値を達成できなかった場合はそのボーナスを返還する。このグループは成績が上がったそうです。人間がいったん得たものを失うのは嫌だと思う気持ちを逆に利用して、教員の質を高めることに成功したと「中室本」では賞賛します。ハーバード大学のフライヤー教授の研究。

 読者の皆様、どう思われますか?「ええい、ボーナスを出すと言っても働かないのか!じゃあボーナスを取り上げてやる!」と、いかにも機械論が行くところまで行ったような、サディスティックな実験。
 先に「つっこみどころ」と言いましたが、そもそもこういう実験をする人は、学校の先生がなぜボーナスを約束してもパフォーマンスが上がらないのか、その理由を特定できていないのです。だからこんな、まさしく「人体実験」のようなことができる。
 いくら財政負担が少ないやり方だからといって、こんなやり方をされたのでは教師はひとたまりもないでしょう。すいません、このくだりを入力しながらわたし自身はちょっと涙が出てきています。

 たぶん、中室牧子氏の中にはこういう実験をみても「残酷だ。かわいそうだ」などという感情は動かないのです。なぜならこの人は元々経済畑の人で、「経済人」というモデルに慣れてしまっているので、そのモデルが正しいと証明するためにはどんな手段をとることもいとわないからです。
 
 このあと、「教員研修は教員の質に影響しなかった」という研究を紹介。(しかし、どういう内容の研修をどういうデザインでやったか、は言及なし。統計学者らが実験デザインにこだわるのと同様に、研修もデザインがダメであればどんないい内容でもダメ、という場合があるのですが)

 そして「中室本」が教員の質を高めるために「決定打」のように太字で推すのが、
 教員になるための参入障壁をなるべく低くする、つまり教員免許制度をなくしてしまう
 というやり方です。
 経済学者の間では教員免許の有無による教員の質の差はかなり小さいというのがコンセンサスなのだそうです。
 ―なぜここで「経済学者の間では」が出てくるんでしょうね…教育学者は出てこないんでしょうね…既得権益者だからでしょうかね…

 まとめると、「中室本」の「政策提言」とは、

1.少人数学級に「しない」
2.子供に未来のおカネの話をすると学力が上がる
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

 どうでしょう。
 対子供部分はこれに、第2章で出て来た「ほめ育てはしてはいけない」「お金のご褒美はあげてよい」も組み合わせると、
「子どもはおカネで釣って勉強させる。ほめるなどの精神的報酬は与えなくてよい」
という結論にもなります。また、
「クラスの人間関係を良くするなどの取組は学力向上に寄与しないので、しなくてもよい。おカネおカネで走らせればいい」
という結論にもなりそうです。

 はい、これらの提言や結論が「OK」だと思う方。



 わたしの予想では、このブログを続けて読んでくださっている方々は、こんなのはそもそも頭から信じないでしょうし、「まさか、こんなことを真に受ける人がいるわけないでしょ」と思われると思います。
 ところが、どうもそうではないのです。
 わたしたちが自然と共有している「常識」を全然共有しないまま、この本を読み、そして「数字で証明済みなことだけがやるに値することだ」と信じてしまう層の人がいるのです。主にアカデミズム、そして役人の中に。

(大きな声では言えませんが、かれらの中にASDはすごい高率で分布しています。基本的に対人不安が高くて、現場に足を運んで人と話すなんてしたくない、そこに「数字だけで判断すればいいですよ」という「中室本」の”主張”は、すごく魅力的です)

 そしてたちの悪いことに、「中室本」は「老婆」「お母さん/母親」などの言葉で、実体験を貶めてしまいます。また「米国の教育省は、落ちこぼれ防止法の中で、エビデンスとはランダム化比較試験に基づくものであると明言しています。」なんてことを太字で書き、「エピソードのシリーズ(医療で言う症例報告)」にも全然価値がないように言ってしまいます。
 
 そのルールは米国だけにしておいてください。どうせ教育省に同窓生でも送り込んだんでしょう、と思います。



 さて、「数字を持ってる女」中室牧子女史の言う通りの未来が出現してしまうのでしょうか。子供たちを精神的報酬を与えないままおカネで釣り、40人学級を変えないまま先生方を「カネ返して方式」のムチでしばき「学力がすべて」と学校をギスギスした空気にする。

 読者の皆様、それをお望みになりますか?

 「そんなの、イヤだ」と思われるなら、この”主張”にきちんと反論しなくちゃいけません。
 「数字に反論するなんてムリ」なんて思わないで。

 
 次回の記事は、「数字に弱い女」正田の「回答編」です。さあうまくいきますかどうか…。応援してくださいね!






シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

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本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

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本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 よたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。


「質の高い先生とは学力を高める先生だ」。

 このことに別に異存はありません。というのは、やはり4つ前の記事「優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 」で、登場していた「スーパー先生」たちは、例外なく学力を高めていたからです。

 問題は、冒頭のフレーズが、「では学校の先生は塾や予備校の先生のように、生活指導を一切せず教科の指導だけをやっていればいいのか?」という誤解を招きやすいことです。「中室本」には、そうした誤解を防ぐような記述は一切ありません。単に「そうした先生は10代の望まぬ妊娠を予防する」と書いてあるだけです。

 ほんとうは、「学力を上げる」は、「結果」にすぎなかった可能性があるのです。結果変数に至る途中経過、媒介変数のところをみないと、「学力を上げる先生」のやっていることの全体像はわからない可能性があるのです。ここでも「群盲象を撫でる」ですね。

 わたしのマネジャー教育も「10数年1位マネジャー輩出」と、やたら「業績向上」の結果が出てきてしまい鼻につくので、同じことかもしれません。ですが、「承認マネジャー」たちは、「業績を上げる」ことをそんなに強く目標として意識していないのです。というと語弊がありますが、彼(女)らは日々、「みんながいい顔で働いているか」ということに耳目をそばだて続けるのです。

 
 「教育」に関して具体的に言いますと、
 やはり上記の記事に出てきますが、「スーパー先生」たちは

1.ほめる叱るを上手く駆使して規範意識を高め、
2.ほめあいの活動などを通じて子供たちの人間関係を良くし、
3.仕事を任せてほめて自己効力感を高め、
4.小テストを課して実力を測り自己効力感を高める
5.音楽、ディベート、などの実習の中でも細かく評価し達成感を与える

ということをしていました。

 そこで学年初めなどに意識して行われていたのは、「規範維持」と「良好な人間関係」です。
 上記の記事にも出てきましたが、ある先生は学級びらきの日に
「先生はいじめは大嫌いです。皆さんがいじめをしたら、先生は体を張ってでも止めますよ」
と言われました。
 いじめをされないという安心感、次いでもう一段階上の良好な人間関係。
 「ある学校で道徳教育に取り組んだところ学力が上がった」という報道がありましたが、道徳教育も要は、人間関係を良くしいじめをなくすという意味で一緒なのです。
 「学力」に至る媒介変数としては、「規範意識の向上」「人間関係の向上」があります。

 そして、もう1つの媒介変数である「自己効力感」の取組み。「小テスト」「仕事を任せてほめる」「実習の中でも細かく評価」。ほかにも「やり抜く力」というのもあり得ますが、自己効力感の副産物と考えてもいいでしょう。

(なお、「学力が上がったことが将来の納税額の指標になる」これも、少し「カッコつき」で読みたいかな、と思います。
「学力が上がった→自己効力感が上がった→仕事でも頑張る人になった→納税額が上がった」という流れである可能性があるからです。つまり、「学力」はさらに次の「自己効力感」の媒介変数となった、という可能性。)
 

 閑話休題、あくまでわたしの感想ですが、優れた先生方は、これらの初期の「媒介変数」つまり途中経過に現れる変化のほうを、「小目標」として日々、意識しておられた気がします。上記の「承認マネジャー」たちと同様に、ですね。

 だから、「納税者をつくるのは学力かその他か」の論争には、あまり意味はないと思います。媒介変数のところを上げられる先生が、学力も上げる力量がある。媒介変数のところから学力までは、ほんのちょっとしたテクニックの問題であるような気がします。
 そして、いかに真面目な熱心な、「媒介変数の人間関係とか規範のところを良くしよう!」という意気込みに燃えた先生でも、その意欲だけでは効果が上がらないことがあります。まあそれはおおむね「承認」の問題でしょうね…。「肯定する構え」のない人だと、いくら意欲があっても空回りするはずです。

 
 「中室本」では、

1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ
2.少人数学級制は学力を上げない

(注:2.は1つ前の記事でみたようにそのように結論づけることはできない)

というエビデンスを並べ、そこから

「学級サイズはそのままで、先生の質を高めよう」

という提言をします。

 これが、先月にも似たようなものを見ました。「入山経営学エビデンスドヤ顔本」こと『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』でみた、「ダイバーシティー」の議論における「複数のデモグラフィーを同時に多様化するダイバーシティーをしよう」という提言、この提言が「つぎはぎ」であまり意味がないのと同じです。

 この提言は以前にみたように、

「現在ダイバーシティー経営を取り入れ業績が上がっている会社がそのような状態(すなわち、3つ以上のデモグラフィーが同時に存在している状態)だから」

ということを根拠に出ています。しかし、それらの企業も初期には一歩ずつダイバーシティーの幅を広げたであろうことを考えれば、現在その企業が上手くいっていることを、これからダイバーシティーを取り入れることの根拠にはできないのです。結局身の丈に合ったやり方で一歩一歩進め、研修なども併用しながら多様な人材に慣れていくしかないのです。

 
 「中室提言」も同じです。エビデンスからこういうことが言えるからこうしよう、というのは、やはり空中分解必至、の議論です。
 1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ のところにはそんなに問題ありませんが、
 2.の「少人数学級制」の結論が間違っているため、提言も成り立たないのです。

 すなわち、2.の学級定員のところを変えようとしない「中室提言」というのは、今40人学級で高いパフォーマンスを上げている「スーパー先生」のレベルにすべての教師がなる、ということを意味します。このことが「無理」なのは、「スーパー先生」の中に女性が極端に少ないことからもうかがわれます。

 一部に少数の「スーパー先生」がいらっしゃるにせよ、「みんながオリンピック選手になれ」と言っているようなもので、物理的に無理。そんなことはちょっと考えて常識でわからないといけません。

 「少人数学級制で学力が上がらない」というのは、1つ前の記事でみたように、「教え方や教材を工夫しないから学力が上がらない」。
 普通の先生方が発達障害の子供、スマホに気をとられている子供、LINEいじめで苦しんでいる子供、モンスターペアレント…に押し潰され疲れはてている時には、「教え方や教材を工夫しよう」と思うためにも、学級定数を減らして仕事のサイズ全体を適正化する必要があります。


 統計から言える提言、というのは、「カッコつき」で考えたほうがいいのです。わるいけど「なんちゃって提言」なのです。もともと「現場を知らない」から、中室氏らは2.の知見についての考察で「ン?おかしいな」と考えることをしなかった。そういう、「現場を知らない」がゆえの、思考の誤りがプロセスのあちこちに入りこんでいるようなものを、「個人的体験より価値がある」なんて喧伝されては、たまったものではありません。現場で格闘している先生方などのほうが、むしろ「思考の誤り」を生まない知恵をもっているものです。

1つ前の記事で見たように、統計の知見というのは、「一度に一個」のことしかわかりません。1つだけ変数を動かし、他の条件は変えないという形で行いますから。そこから生まれた知見を2-3組み合わせてできる提言というのは「つぎはぎ」になり、現場の人が知っている現実に有効そうな解の組み合わせとは違うものになってしまう可能性が多分にあるのです。



 わたし自身は、本当は元々北欧の教育がすきで、「デンマークの教育」に一時期熱中していた流れで「コーチング」に入った人間なので、「アメリカ」に依拠するのもそんなにすきではないのです。
 今はどうなのかわかりませんが、デンマークでは小学校段階は「道徳教育」「人格教育」に大きなウェートを置きます。良い人格を作り、意欲高く、他人への基本的信頼感高く育った子は、中学ぐらいからハードな勉強に耐えうるようになる。そして専門性を高め、進学していく。
わが国の「スーパー先生」たちは、結果的には40人学級の逆境の下で、デンマークに近い教育をしていたかもしれません。
 中室氏ら教育経済学者はアメリカ育ちなようなのですが、なぜ人格の共通点の少ない「アメリカ」をお手本にしないといけないんでしょうね。

 
 もうひとつ厳しいことを言いますが、上記の入山氏、中室氏とも、どうもアメリカのアカデミズムのわるいところを学んで帰ってきた人達なのではないか、と思います。
 「エビデンスであえて常識の逆張りのようなことを言ってドヤ顔」という、悪い行動パターン。
 
 「常識と違う」というのは、「現場の実感と食い違う」ということでもあります。普通の人なら、そこで
「ン?おかしいな。これは実験デザインに不備があったのかな」
あるいは、
「”統計特有の限界”を意味するのではないかな」
と考えるでしょう。
 ところが、入山氏中室氏は違います。
「どや!これが統計の凄いとこや!あんたらの『個人的体験』なんか価値のないものなんや」
ということを言う、「ネタ」に使ってしまうのです。
「統計そのものがダメなんじゃないか」という考え方は、絶対にしない。ASDの人のパターンよろしく、むきになって正当化します。
(「中室説」にはどうも、「同世代の研究者同士のごますり」も入っていそうです。ほかの研究者の導き出した結論を批判できない)

 中室氏によると、アメリカの教育政策も彼ら教育経済学者の言葉で動いているらしいのですが、恐らく、アメリカ教育経済学というのは、そういうヤクザの脅しのようなスタイルを「売り」にしてきたのではないでしょうか。中室氏などはそれの申し子なのではないでしょうか。


 中室氏自身の経歴をもうちょっと詳しく知りたい気がするのですが、あまりいい資料がありません。日本銀行に勤めていたとか世界銀行に勤めていたとかいう断片的な言葉がご本人からぽろぽろ出ます。もともと教育に興味のある人ではなかったのではないか。なぜ、それがあるとき「教育経済学」という分野に転向したのか。

 ひょっとしたら、とイヤな予感です。アメリカ帰りのスピーカー業の人によくあるんですが、何かの成功哲学にかぶれていて、「自分が世界を変える」とか「VIPになりたい」とかいう”宗教”に突き動かされていて、
「教育という分野では数字がわかると希少価値があるので、政策に関われるよ」
とききつけて、新しい分野である教育経済学を専攻したのではないか。たったそれだけのために何年もコロンビア大学で修業というのも立派といえば立派ですが、要は今のこの人のポジションは、強力な「自分マーケティング」の産物で、教育とか子供さんがたに愛情も何もないのではないか。

 で、「ASD説」のところでも書きましたが、わるいですけれどこの人の知性では本来大学の准教授とか政策提言をする立場になることはできないです。全体的な視野を欠いていますから。せいぜいシンクタンクの統計担当者ぐらいが適当です。人に迷惑を掛けないところでひっそり仕事していればよろしい。


正田佐与


シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判




 みたび、『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 ググってみるとわたしと似た「主張」をしている方がいらっしゃいました。

 http://garnet.cocolog-nifty.com/miya/2015/08/post-6a94.html

 
 こちらの方のほうが多くのポイントを載せていらっしゃいますし、エビデンスも豊富です。
 まあ、「中室本」っていくらでも反証を挙げられるんですね。
 これからもどんどんこういうのが出てきてほしい。

 さて、この記事の中から1つポイントを絞ってこちらでご紹介したいのは、「少人数学級制」についての話題です。

 4. 少人数制でも学力は上がらない ×
 これはAkabayashi&Nakamura(2014)という文献が根拠です.原著は6ドル払わないと読めませんが,著者による解説が
http://synodos.jp/education/12530
 で読めます.本書でも述べられていますが,研究方法の基本は,40人クラスと,転勤等による人数増で偶然20人2クラスに分かれた場合で,差を統計的に比較するというものです.教育現場の対応としては,偶然2クラスに分かれてしまっても,急に教材や授業内容を大幅に変えて少人数制用にしているとは考えられません.40人クラスのときと20人のときで,同じ教材を使って同じような授業をしたら,学力の向上がそんなに変わらない,というのは当然です.たまたま20人になったクラスと,40人になったクラスで学力差がついてしまっては,保護者から批判の的になってしまいますから,むしろ,人数差の影響がでにくくなるように努力するかもしれません.
 少人数制の方が教育効果が高いと評価されているのは,40人では使えないが,20人ならできるよりよい授業方法や教材が使えるからです.これは,PISA調査の結果を使った国際比較でも確認されています.こんなことで,少人数制はお金の無駄というような教育政策を決められたのでは教育現場はたまりません.(太字正田)


 これ、まったくその通りと思います。読者の皆様、いかがですか。

 この「赤林研究」は「自然実験」といわれるものです。実験用に作ったのではなく、自然にランダム化比較試験に近い状況ができたのを利用してデータを調査したものです。「赤林研究」が扱った「少人数学級」のシチュエーションとはどういうものだったかというと、
 例えば、ある学校の3年生が1組2組3組まであり、各40人ずついた。そこへ、夏休みに転校生が1人入ったので、3組が41人になり、3組だけを2学期から21人と20人の2クラスに分けることになった。
 こういう場合の「旧3組」である3組と4組の成績がそれまでより上がったか?というものです。

 読者の皆様、これ、上がると思いますか?
 まず、「担任交代」があります。新たにできた「20人クラス」である3組と4組のうち3組は以前の担任がスライドするかもしれないけれど、4組は「担任交代」となります。学年の途中で担任が替わるというのは、それだけで子供たちにとっては落ち着かない要因になります。1学期の状態に逆戻りです。

 加うるに、わたしが校長の立場だったら、急遽余分にできたクラスである4組の担任には、非正規の産休補助の先生か、学校内で「無任所」だった、鬱休職明けの先生、あるいは指導力がないことがわかっている先生、などを充てるでしょうね。その学校の「エース」のような優秀な先生を充てることはないと思います。

 ですので、教え方の工夫をしない、特別な教材を使わないのに加えて、むしろ成績が「下がる」方向に働く要因があり、それがせっかくの20人学級のメリットを相殺してしまった可能性があるのです。


 要するに、「中室本」の「赤林研究」のエビデンスからいえることは、

「少人数学級にしても教え方や教材の工夫がなければ学力は上がらない」

ということだけです。

「少人数学級にしても学力は上がらない」
と言ってしまうとそれは言い過ぎになり、「×」になります。拡大解釈です。
 是非、高校の時の国語の先生のところに行って小論文として採点してもらってください、中室先生。

 なんで、「政策提言」と大見得をきった人の本をこんなに全部「裏読み」しないといけないんでしょうか。
 この人を生んだアメリカのアカデミズムがそもそも間違ってるんじゃないでしょうか。
 オボカタさんもハーバード行ってましたしね。
 最近、アメリカで本を書く女性学者さんって妙に「美形」が多いですよね。スタンフォードの意志力の先生とかね。あれ、気になってたんです。

 美形だと博士号をとったり教授になりやすい、甘々の世界なんじゃないでしょうか。


 わが国でも、大竹文雄氏、竹中平蔵氏といった錚々たる学者たちがこの女性学者さんに肩入れしてらっしゃるようですが、あなたらこんな単純なミスを読み取れないで、「下半身」でもの考えてる人、決定ですね。惑わされましたね。

 それは余談ですが、

 正田は3つ前の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場をいかにして良くするかの試論)で、「少人数学級にしたうえで承認や個別面談など個に向き合うアプローチをし、先生の相互学習も推進する」という提言をしていますが、
 少人数学級にするのは、「次の一手」をするためなんです。これって、実社会ではふつうのことです。

 統計というのは、1つの変数だけを変え、ほかは一切変えないという原則がありますから、逆に統計で測れることには元々限界があるんです。統計の専門家であればあるほど、そういう限界もある、ということを誠意をもって社会に示さないといけません。


 わたしたちの社会の未来をこんないい加減な本に決められてはいけません。


 科学と目の前の現象との乖離について、1月1日の記事に書いた中国の故事、「群盲象を撫でる」についての文章を再掲します:

 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。






正田佐与
 

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 物議をかもしそうなタイトルをあえてつけてしまいましたが、このブログの長い読者の方からみるとむしろ「自然」な結論ではないかと思います。

 わたしもきのうの記事(月刊人事マネジメント連載 部下の凸凹を包んで戦力化する)を入力していて気がつきました。別に悪意でもなんでもありません、「ASD」「発達障害」という言葉も別に差別語ではないですし。

 昨日の記事の中から、「ASD(自閉症スペクトラム障害)」について書いたところを抜き出しますね。

 またASDは、全人口の1〜2%(最新の報告では4%)を占めるとされ、「こだわりが強い、固定観念が強い」「他人の気持ちに想像力が働かない」「変化、変更が苦手」「ごく狭い範囲の仕事にしか関心がない」などがあります。


 中室氏を昨年一気にスターダムに上らせた著書、『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の中の記述の1つ1つ、またロジックの1つ1つに、「これだけIQが高くてかつ定型発達の人だったらまずやらない」と思われるような、間違いや雑な(荒っぽい)記述があります。


1.1月1日の記事に取り上げたように、「ほめ育てはしてはいけない」と本の冒頭で言いきっているが、中身をみると論理が破綻している。結論ありきで、データは単に並べてみただけ。こういうのは「エビデンス詐欺」とでも言うレベルで、学者として信頼するに値しません。

2.「老婆の個人的体験」という言葉を統計学の西内正啓氏の引用ではあるが、何の疑いもなく言ってしまっている。「脳科学おばあちゃん」の久保田カヨ子氏のことだと思いますが。「老婆」って普通言わないでしょう、中室氏は40歳でかなり美形の方であるのは認めますが。

3.本当は、エビデンスの中にも「エピソード(のシリーズ)」は含まれるので、現場の個別の情報をないがしろにしていいわけではないのです。(Wikiの「根拠のある医療」の項参照)中室氏はそうしたことは一切言わないし、「老婆」「お母さん/母親」などという言葉で貶めるので、エピソードを語ることは恥ずかしいことだ、という思い込みを読者に作らせていなかったろうか。
(注:「一切言わない」は言い過ぎでした。この本の「補論」のところに、Wikiにもあるようなエビデンスの階層表を載せ、その中に「症例報告」というのも入っています。ただ、多分この人自身、「症例報告」の意味が分かってなかったのではないでしょうか)

このほかにも、

4.親を読者対象にした第2章は全体に記述が雑。1.にみるような、エビデンスと結論のフレーズのつながりが悪い例がほかにもみられ、「親をばかにしているのだろうか、この人は」と思う。逆に他の専門家、政策担当者を読者として想定した章はみたところ慎重かつ丁寧な筆運び。専門家筋からこの本が評価が高いのも頷ける。そうした、人としては不愉快な二面性も、権威にすがることが大好きな一部のASDの人の特徴を想起させる。


5.Amazonレビューのコメント欄に中室氏自身とみられる「カスタマー」名のコメントが頻繁に出てくるのだが、3.と同様、「目の前の子供さんなど現場の個別情報」を軽視し、「統計が出した結論通りに対処するのが正しい」とむきになって言い張っていた。上記のWikiのページにも、「エビデンスがいくらあっても目の前の個々の患者をみなければならない」ということは明記されているのだが。こういう人は学問をする資格も政策提言をする資格もないのではないだろうか。

・・・

 いかがでしょうか。
 このブログの長い読者の方はご存知と思いますが、わたしはもともと女性のことは応援したい方です。せっかく頭角を表した女性学者さんを貶めたいなどは、本来つゆほども思わない人間です。

 しかし、この中室氏の言動はいただけない。
 「ほめる否定」ひとつをとっても、それが現場と子供さん方をどれだけ不幸にするか、想像力が働いていない。

 で、わずかこれらの証拠だけをとっても、この人がASDである可能性は高いだろうと思います。コダワリが強く、固定観念が強いので、「エビデンス=統計データ、≠エピソード」というような記述をしてしまう。また自分が「ほめる」を嫌いなので、それを正当化するためにめちゃくちゃな論理構成をしてしまう。他人の気持ちが想像できない(ただデマゴーグ的な才能は割とあるようだ)。現場情報を軽視するのは、興味の範囲が狭いから。

 統計というのは、その専門の方に失礼な言い方をしてしまいますが、「数字遊び」のようなところがあります。数字が好きな方だったら、飽きずに何時間でも何日でもその世界に浸っていられる。で、ASDの傾向のある人に数学的才能のある人も多いですから、そこにのめり込むことも自然です。
 ただし、統計は価値のあるものですが、あくまで手段でしかないのです。目的ではないのです。目的は、目の前の状況に最適解を出していくことです。


 ASDだということがわるいわけではありません。ASDを含む発達障害の人が普通に就労機会が与えられるように、ということをわたしも願って、このブログで一貫して記事を書いてきました。
 しかしそれとは別に、思考能力の一部に重大な欠損をもったASDの人が、沢山の人の幸せに関わるようなポストにつくことは正しいか?という問題はあります。
 企業なら、マネジャーに昇格させることは正しいか?また中室氏のように、「政策提言」それも教育という、沢山の子供さんの幸せに関わる政策提言をする立場になることは正しいか?

―他社さんの宣伝をするようで恐縮ですが、「インバスケット研修」をすると、上記のような「思考の一部情報への固着傾向、i.e.くっつきやすくはがれにくい傾向」のある人はある程度スクリーニングできます。ただしインバスケット傾向も、「決断過多」のリーダーをつくってしまう危険性はあります。また人によっては、インバスケット研修について膨大な予習をして、高得点をとることができるようです。

彼女がもし社会に対して誠実でありたいなら、診断を受け結果を公表し、

「私はこういう障害を持っていてそのために大事なことをよく見落とすことがある。現実の子供や子育てには興味は全くない」

と、きちっと公表したほうがいいと思います。子育て経験がないことを、「エビデンスのほうが大事だから子育てする必要はない」って正当化しちゃいけません。ASDの知能の高い方は、よくむきになって自己正当化をやりますね。

また、「承認」の講師として実感を込めていいますが、ASDの人は一般に「承認/ほめる」を苦手とします。気の毒なことですが感覚過敏なので、通常よりはるかに大量の「不快感情」を持って生きているからです。
中室氏は、「私自身人をほめることが苦手です。ですからこの件について語れる資格はありません」と、正直に認めたほうがよいのです。そういう謙虚な姿勢があれば、障害を持った学者として認知されても、信頼されて仕事していくことができるでしょう。


 彼女の出世作である本をぱっと読んだだけでも(多くの人は気づかなかったようだが)上記のような見落とし、間違いがあったわけです。
 専門家・政策担当者向けの章については、わたしは正直、ささっとしか読んでいないのですが、ここにも親向けのパートのように、恣意的なエビデンスの選択、並べ方、無理のある結論の出し方、が隠れている危険性はあります。書き方みこそ比較的丁寧でしたが。だからわたしはあんまりまじめには読めませんでした。鵜呑みにするととんでもないことが起こるな、という感じでした。
 そういうのは是非、ほかの教育経済学者さんが出てきてじっくり検証していただきたいと思います。この人以外の教育経済学者さんのご意見が是非ききたいです。

 ひょっとしたら、中室氏は「教育経済学界のオボカタ嬢」のような存在なのではないですかねえ…。


正田佐与

 
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

http://c-c-a.blog.jp/archives/51932847.html" target="_blank" title="">「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判
「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 読者の皆様、3が日をいかがお過ごしですか。

 暖かかったですねえ。

 わたしはそんな中、色々無理がたたって(苦笑)少し風邪気味です。


 このブログの目的を確認しておきますと、これはマネジャー向けに「承認研修」を行う研修講師・正田の、現在過去未来の受講生様方へ日々、愛をこめて送り続けるメッセージです。

 ここでは、

1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権
2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」
3.教員定数削減に関する思いと、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」

という、お話をしたいと思います。

****

1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権


 読者の皆様はご存知のように、「行動承認」を中心とする独自の「承認研修」は2003年以来10数年にわたり、「業績1位マネジャー」を生み続けてきました。

 マネジメントの中で1つの手法が成果を生むというのは、
〇マネジャーたちにとって学びやすい・習得しやすい、
〇人間性の根源に触れるものであること、
それに
〇問題が起きない
〇続けやすい
ということなどが相まっての結果であります。これらのうちのどれを欠いても、わたしの受講生様方がなしとげてきたような数年、長い人では10年以上もにわたる成果につながってこないだろうと思います。

 4つ前の記事に書きましたように、マネジャーたちは「承認」の大原則以外にも、マネジメントの中でいくらでも補助線を引きます。「傾聴」や「質問」もそうですが、「叱る」や「ビジョンを語る」もそうです。「社内政治」などもその1つかもしれません。―なにが「幹」でなにが「枝」なのか見極める眼をもちたいですね―

 実はわたしは「叱る研修」をもう7年ぐらいやってないのですが、「承認研修」を採用されたお客様で「叱る研修」までを必要とされることは少ないです。ほとんどの受講生様は、最初の「承認研修」だけで、「承認」と「叱責」、あるいは「承認」と「説諭」などを上手く組み合わせて問題解決することを会得してしまわれるんです。「承認研修」だけで、「優しさと厳しさのバランスのいいマネジメント」を習得していただけることになります。宣伝抜きで、すごくコスパのいい研修です。

 もともと、正田流「承認研修」の理論的根拠の1つ、「行動理論」の「オペラント条件付け」は、「行動したことをほめる」ということで、実はほめることに条件をつけているんです。何もしないでいたらほめないよ、という含意もあるので、「なんでもかんでもほめる」のとは違って、結構厳しいものなんです。

 ―もちろんそことは別に、「あなたはいてくれるだけでかけがえのない存在だよ」という「存在承認」もあって、そことは今ひとつ整合性を説明しきれないんですが、受講生様の中では上手く共存しているようです。ホネットの3定義もそうですよね―

 行動を尊び、行動を奨励する。それは、スマホ時代でともすれば実体験が少なくなる現代においては、いくら強調してもしすぎないほどです。
 そして、やっていただければわかりますが、「行動すること」は子供たちの「自律」をつくっていきます。理性の前頭葉を発達させ、セルフコントロール力を育んでいきます。
 親御さんが「行動承認」をしてくれるお子さん、してくれないお子さんでは、とりわけ今の時代では全然行動の経験値も、精神的成熟度も違ってくるはずです。
 ありがたいことに、「承認研修」受講後のマネジャーたちは、子供さんのいる人はほぼ例外なく子供さんにも「行動承認」を使ってくれています。


 そしてまた、「承認研修」はマネジャーたちに「叱る力」をも与えます。

 「承認研修」の中では(受講されたかたはご経験済みと思いますが)、「承認プログラム」の最後に「過失の重大性に応じた対応」というタイトルのプリントを1枚「ぺらっ」とお渡しします。そこではごく短い時間で、部下の軽微な過失から重大・悪質な過失までに応じて、無視・指摘・質問・叱責・怒る などの対応法を紹介します。

 よく「叱るのはOKで怒るのはダメ」などと言われますが、
「怒るのも否定はしませんよ、本当に確信犯か、慢心かで、会社の理念にもとるようなことを部下がしたときには怒ってもかまいません。ただ怒るのは伝家の宝刀みたいなもので、1年に1回ぐらいにしておいてくださいね」
と講師のわたしは言います。

 そうですね、わたしがいまだに後継者を作れていない理由はいろいろあるんですけど、ひとつにはこの、

「承認って厳しさも包含したものだよ」
「先生は承認って言ってるけどベースはすっごく厳しい人だよ。ダメなことやったら怖いよ」

というのを、言外に空気で見せられるか、というのもあると思います。
 ともすれば、「承認研修の講師になりたい」って言ってこられる方は、ベースからポジティブで優しくて、自分のポジティブさや優しさを商品として売りたい、優しい楽しいだけの研修をしたい、かつ自己顕示欲も満たしたい、という方が多かったですね、一昨年ぐらいまでの傾向は。昨年からちょっと変わってきたかんじですね。

 で、実際に研修中に受講生さんを叱るのもやぶさかではないです。最後に叱ったのは昨年の初めだったかな、腕組みして半身の姿勢のまま実習に参加していた部長級の人を叱りました。
「あなたも部下の方に色々なことを指示したり要求したりされると思います。今このとき真剣に学ぶべきことを学ばなかったら、あなたは部下に何かを要求できる資格はないですよ」
 一期一会の研修講師、叱ると全体の予後はかなり悪くなりますから、本当は叱りたくないです。でも必要な場合は腹をくくって叱ります。

 まあ受講生様方や長い読者の方々なら先刻ご承知のことをつらつら書いてしまいました。


 で、繰り返しますが「承認研修」は優しいだけの研修ではありません。むしろ「承認」の実践を通じて「適切な厳しさの復権」ひいては「規範維持」までをも狙った研修です。

 こういうのはすぐにわかっていただけることではなくて、お客様がブレずに一定期間やり続けてくだされば、そうした全体の意味あいがわかってこられ、メリットを享受していただけると思いますね。
 最近も、「承認研修」数か月後に「LINE禁止令」を出したお客様の話をご紹介しましたね。

 なんども言いますように、人の脳の「自己意識をつくる部位」が同時に「外部の規範を取り込む部位」でもあるので、「承認」で相手の自己意識に働きかけながら規範を叩きこむ、というのは極めて有効なやり方です


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2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」


 このブログでは最近「批判記事」が急増していまして、まあ批判しなければならない、「承認欲求」と「ほめる」をターゲットにした「邪悪かつダメダメな言説」というのも急増しているのも事実です。

 1つ前の記事もそうでしたが本記事の次の記事も批判記事になる予定です。

 で、「承認ファン」(などという人がいらっしゃるのかどうかわかりませんが)の方の中には、当然、

「せっかく人を肯定する、明るく楽しく優しい『承認』というものに魅かれたのに、正田さんは厳しすぎ、トゲトゲしすぎる。楽しくない、イヤだ」

という方もいらっしゃると思います。入り口の空気とあまりに違いすぎますよね。

 しかし。と、わたしは思います。

 「承認」というものが人の世を幸せにするためには、実践者のかたが単なる気まぐれでなく、未来永劫使い続けてくださらなければなりません。
 いや、効果を得るにはそんなに長くかからないですよ。実践を始めて1週間から数週間で、初期の成果は得られます。でも、「やめたら落ちる」。つねに意識的に努力し続けて初めて維持できるんです。そして部下や子供、弱者の側からしたら、上司や親が気まぐれで一時的に「承認」をやり、そのあとやめてしまう、というのは、不幸のどん底に叩き落されることです。やり始めたら、やり続けてほしい。業績がグワーッと上がった後やめたらストンと落ちた人のお話、けっして脅したくないんですがやっぱりそういうものです。


 そして今どきの目立ちたい一心の「おバカ論者」たちが、「ほめ育てはいけない」「承認されたいと思ってはいけない」などのコピーを使いたがることといったら。それらの言説はキャッチーなので、正しくなくても売れてしまうんです。「もう古いよそれ、オオカミ少年少女ちゃん」と言いたいんだけれど。ほんと、この手のことを言う人は例外なく人格がわるいと思っていいです。

 それをこのところ短いサイクルで繰り返していますので、せっかく「承認研修」の機会を持たせていただいても、以前より定着がわるいと感じることが多くなってきました。
 次の世代をたくましく育て、先細りぎみの日本人をよい方向に進化させる、ほとんど唯一の道筋だというのに。

 「おバカ論者」たちはまた往々にしてすっごい高学歴です。次の記事に登場する「先生」も、東大卒です。でも言っていることの辻褄が全然合っていません。
 
 で、正田は、感情的な悪口ではなく、書き手のロジックをきっちり追ったうえで叩き続けます。ダメなものはダメ、鬼デスクと化して。最近はだれもそういうことを精査しなくなったみたいですが、正田は言います。

 申し訳ありませんが、次世代の健全育成をダメにしてしまう言説を弄んで自分の夜遊びとかブランドバッグ用のお小遣いを稼ごうなんていう「おバカ論者」さんがたは、このブログで面目丸つぶれになっていただきます。たくさんの子供さんや若者たちの将来のほうがその人たちよりずっと大事です。


 「叩き記事」は一時的に読者のかたの気分を害するかもしれませんが、何よりも実践者の方々の誇りのことを思います。実践者の方々がだれか知り合いに、「慶応准教授のだれそれさん(この人は慶応の恥ではないのだろうか)がこう言ってたよ」と言われたら、「あ、でもその議論はこういう風に間違ってるってうちの先生が言ってたよ」と、涼しい顔で言い返せるために、ネタをご提供し続けます。涼しい顔で言い返さなくても、流されず引き続き誇りをもってやり続けていただくために。


「ブログ読んでいますよ」
 こう言ってくださる受講生の方が、ほぼ実践を継続し成果を生み続けていらっしゃいます。
 それは、こういう今どきの論壇の荒涼たる風景がその方々にもみえていて、その上で正田ひいては承認を支持してくださるのだと思います。読んでない人は、恐らく例外なく「おバカ論者」とその取り巻きのほうにのまれていきます。

 情報の多い、そして無価値なガセ情報のほうが目立つところで飛び交う時代、この隠れ家的なブログを読み続ける根性のある人々だけが、成果を手にし続けられます。

 あ、あと正田の「汚れ仕事」をさげすむような人は、後継者に指名しないですからねー(笑)手伝えとまでは言いませんけれども。

 
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3.教員定数削減と、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」

 
 2016年度の公立小中学校の教職員定数について、政府・自民党は15年度よりも3470人超減らす方針とのこと。
 この教員定数削減については、1つ前の記事でも述べましたが、「エビデンス」を盾に女性学者さんが何を言おうと、そもそも今どきの諸般の事情で指導しにくい子どもたちをみるのに、40人学級とか35人学級は無茶苦茶なのです。あんたがみろよと言いたい。いいんじゃないですか、40人35人学級でOKだと思ってるひとは、自分が介護受ける側になったとき利用者40人に介護職員1人の施設に入れば。きっと、「エビデンス」は「それでOKだ、問題無い」と言ってくれるでしょ。

 わたしの持論で、日本の45人学級とか40人学級とかは、団塊の世代が50人学級だった時代の名残にすぎなくて、子供がイヤというほど生まれてきた時代に少々の落ちこぼれが出てもいい、また発達障害が顕在化しなかった時代に子供というものはみんな一律の健常者だという前提で生まれたものだと思います。今、その前提がまったく崩れている以上、子供が減ったから先生をそれに応じて減らすというのは大きな間違いで、ゼロベースでクラスの人数を見直したほうがいいです。そして「40人を35人に減らしても成績が向上しないじゃん」というエビデンスがあったとしても、じゃあ30人ならどうなの?20人ならどうなの?20人ぐらいが本当は妥当なんじゃないの?先生の数が増えたら学校のマネジメント体制を見直し、先生7人ぐらいにマネジメント1人、の体制にしてマネジメントの育成機能を強化すればいいんじゃないの?と思っています。

 まあ広井教授流に言うと、日本の子供が人生前半の福祉を受けられないことは目を覆わんばかりです。(先日のメールのやりとりでは、「ギリシャ、イタリアに似た、非常にまずい状態です」と言われていました。)でもおカネの配分の問題はそう簡単には解決しそうにないので、

 ひとつ福音は、
 そういう”不幸”な育ち方をしている若者たちが、「承認企業」に入るとイキイキと働くことです。行動をとり、責任を引き受け、開発をやり、元気な働き手となっていきます。
 
 たぶん昨年を通じてのわたしの感慨として、

「労働は、それ自体に人を『承認』するはたらきがあるのだ」。

 もちろん、労働そのものに付随して周囲や上位者やお客様に、その本人を「承認」する視線や態度、言葉がけがある状況のもとでです。労働の中のそれは、人生前半に十分な福祉を受けられず、親の早期教育熱に押し潰され、かつスマホの不安定な人間関係にすがり続けてきたひ弱な若者たちにとっても、かつてない質の高い力強い「承認」となり得ます。若者たちはそこで「育て直し」をされるのです。「生まれ変わり」といってもいいぐらいかもしれません。
 
 このメカニズムはまだよくわかっていませんが、今までのところそれは再現されてきました。これは某女性学者さんがバカにする「老婆の個人的体験」(この人、「老婆」っていう言葉を使っちゃうんですよね〜。びっくりしますね。あたしも52歳老婆ですけどね(笑))よりは、はるかに広範囲に長期間にわたって認められてきたことです。

 こんな高貴なすばらしいことを、なぜ大学の先生方は研究しようとしないんでしょうね。
 民間のわたしらのほうが、彼らよりはるかに歴史的で高貴なことをやっています。同志たちよ、そして受講生様方、それは信じていいですよ。

 だから、

「承認企業は若者たちの最後のセーフティーネットだ」。

おわかりいただけますでしょうか。


 ちょうど最近フェイスブックのお友達のご縁で、施設出身者や受刑者の就労紹介業のかたとお友達になったりして、この関係も、今後どう発展するか興味をもっています。ビジネスとしては期待できないでしょうけれど、お役に立ちたいですねえ。


2016年1月3日
正田佐与 

 
 
 

 


 

※この記事はその後、シリーズ化しました。『「学力」の経済学』のはらむ問題点、欺瞞、もたらす恐ろしい未来を多角的に丁寧に、だれにでもわかるようにご説明し、「正しい処方箋」を提示しています。
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判


『学力の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年6月)。

 昨年の出版当時から違和感を禁じえなかった本でしたが当時はわたしがパワー不足で記事化するに至りませんでした。新年早々「批判記事」になってしまいましたがお許しください。


 またもや「ほめてはいけない」論。しかし、よくみるとこの人自身の論理が完全に破たんしています。近年こういう雑で不正確な議論が多いのだが、慶大准教授とかコロンビア大学大学院とかご立派な肩書をつけているにもかかわらず、「高校の小論文からやり直してきてください」というレベル。女性の悪口はあまり言いたくないのだが、「くれぐれもこの人の肩書にダマされないように」と声を大にして言いたい。その論理の部分はこの記事の後半でじっくりご紹介しますので、この人が正しいかわたしが正しいか、お時間のある方は見比べてくださいね。

 ごめん、あたしヒューリスティックとかの認知科学のエビデンス満載の本を読み慣れてるんで、いかにエビデンス満載でも論理がおかしいものはすぐ気がつくんですよ。

 「教育にエビデンスを」。
 この主張自体は、企業研修に統計調査を併用することをお願いしているわたしも賛成です。ただ、暮れの広井良典教授との対話にあったように、また経営学でもみたように、エビデンスをとったらとったで、EQの低い人々は極めて部分的な知見についてエビデンスをとって振りかざす傾向があります。下手にそれをきいて現場の意志決定に反映させるととんでもなく間違ってしまうことがあるので要注意です。
 
 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。

 「舌鋒鋭い人」のことをわたしも言えなくなってきましたが。

 で、中室氏は慶応大学准教授、教育経済学者。このところ「教育にエビデンスを」という話題になると必ず引き合いに出されます。コロンビア大学で博士号を取り、沢山のエビデンスを引用しながら語る方ですが、でもこの方の“主張”にもわたしは「ン?」となってしまうのは、例えば教員定数削減が是か非かという議論のときに、「教員定数を増やす(=少人数学級制にする)ことの目的は学力を上げることですよね」と、なんの疑いもなく言ってしまうところです。

 えっと、そうじゃないでしょ。とわたしなどは思います。学力も上げたいが、それ以外のところのメリットを大いにみないといけないでしょ。まず、「学力」については遅咲きの子がいるので、小学校ぐらいの段階では先生の働きかけによって伸びる子伸びない子がいること。

 そして大きいのはメンタル面です。いじめによって失われるコストがどれほど大きいか。いじめ被害によって受けたダメージはトラウマになり、その人の生涯にわたってメンタルヘルス、対人信頼感に影響を与え続ける、という研究があります。今、LINEの登場で容易にいじめ・いじめられ関係が生まれるんですが、そちらには中室氏は恐らく全然関心がないようです。だから、「研究によってこういうことが証明されています」といくら学者さんが言っても、単にあなたがほかのことに関心がなかっただけでしょ、という見方もできるのです。意欲の喪失、人に対する信頼感の喪失。こういうことを「コスト」と認識できないのだろうか。小さい時の学力がどうより、そちらのほうが、大人になって「よい企業戦士」になれるか、「納税者」になれるか、ということに関わってきます。

 大体、わたしが企業研修をさせていただくときお客様にお願いする1クラスの人数というのはここでは言えないような超・少人数です。40人とか35人なんてあり得ません。そのへんだと、5人ぐらい減らしても一緒。経験的に閾値があって、「この人数設定にしないといい学習効果を生まない」ということが、年の功でわかってきましたので確信をもってお願いしています。そこは厳密にエビデンスをとっているのではないが、「技術屋の勘」ですね。また、1人のマネジャーが部下をちゃんと育成指導も含めてみれるのは7人ぐらいが限界、このあたりは心あるマネジメントの人とは共通認識です。

 それからすると、今の40人とか35人学級でやっている先生方はお気の毒としか言えません。壊れていくのも当たり前です。 


 まあ、『学力の経済学』に戻ります。この本には
「子どもはほめ育てしては『いけない』」という項があります。わたしはここに非常に引っかかりをもちました。引用している知見には特に問題はありません。問題は中室氏の「書き方」のほうなのです。

 ここでは、

「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これも、私が友人からよく受ける相談です。

という書き出しで始まります。中室氏はここからほめ育てを推奨している育児書を読んでみると、
「ほめて育てると自尊心が高まる」
という意味のことが書いてあり、ここから、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
は成立するか?という中室氏の問いになります。ところが、過去の研究から導かれた知見は:
 自尊心が高まれば、子どもたちを社会的なリスクから遠ざけることができるという有力な科学的根拠はほとんど示されなかった。
 学力が高いという「原因」が、自尊心が高いという「結果」をもたらしているのだと結論づけたのです。
 このあたりは太字表示され、世の常識を破ったことに、中室氏のドヤ顔が伺われます。
 
 えー。ぽりぽり。
 ここまでの記述、受講生及び『行動承認』読者の皆様はいかがですか。
 よそさんのことは知りませんが、少なくともあたしの「承認研修」では、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
という論理構築はしておりません。しているのは、
良い行動を(行動理論的に直後に)ほめる/承認する⇒その行動を繰り返す、自律的になる⇒仕事ができる人になる
という論理構築です。で、やっていただくと大体この通りになります。

 というわけで「中室説」に浮足立ちませんように。やっている論理構築が違いますから、中室氏の指摘はうちには当てはまりません。もともと正田は「ナルシシズム」に対して警戒感が強いのでー、「自尊心が高まる」は中室氏の言うように、仕事ができる人になったから結果としてそうなったと思います。行動したか、しなかったか、その行動が正しかったか。そういう現実に揉まれる中で身の丈にあった自尊心を持てばよいのです。
 
 次に、中室氏が紹介したのは、「あなたはやればできるのよ」という「ほめ言葉」を伝えて自尊心を高めた学生がテストの成績が良くなったかどうか、という研究。結果としては良くなりませんでした。

 これも、まず「やればできる」というのを「ほめ言葉」と言えるのか、というのがあります。何の根拠もないですやん。単なる期待というか妄想というか、ですやん。近頃は「YDK(やればできる子)」という言葉まであるそうですが、これって上げているようで落としてますよね。「行動承認」的にはもちろん、あり得ません。

 それを言われて、学生の側が自尊心が本当に高まったのかどうか、もクエスチョンです。
まあ、高まったかどうかは「うち」的にはどうでもよろしいのですが。
 
 このあとは本書では、「能力をほめる」のと「努力をほめる」のとどちらがいいか?という研究を紹介します。はい、これは以前別の本の読書日記で出てきましたね。言い古されてますが、あとの方です。ここでも「行動承認」をやってくだされば、問題はありません。

 …で。
 最初の、中室氏が友人から受けるという質問。
「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これへの応答として、中室氏は本書で言っているのは
(1) 自尊心を高めても成績は良くならない
(2) 能力をほめるのは×、努力をほめるのは〇
です。この答え方、どう思いますか?

 「努力をほめるのは〇だよ」
 常識的で親切なあなただったら、お友達にそう答えるんじゃないですか?

 わたしなら、
「ほめるというと中にはダメなほめ方があるのでお勧めできないが、わたしどもで『行動承認』と呼んでいるやり方なら問題が起きず、いい結果になります。むしろこちらはやらないと損なぐらいです。是非おやりになってください」
と答えるでしょうね。
 子供でも親でもそこは一緒なんです。「〇×をしてはダメ」という「禁止」のメッセージばかり与えられると、何をしていいかわからなくなり萎縮して何もしなくなってしまうんです。
「〇〇をやってください」
と、「肯定語」ではっきりしたメッセージを伝えてあげることが大事。

 学問的に正しくあろうと、ああでもないこうでもないと言いたくなる気持ちはわかりますが、いやしくも教育にたずさわる立場の人なら、相手が子供であれ親であれ、混乱させないようなメッセージを伝えてあげてください。中室先生、あなたの生徒さん、成績大丈夫ですか。あたしは正直言って、中室先生に指導教官になっていただきたくありません。

 正田が「行動承認」という限定的な言葉を使っているのは、忙しい受講生様方に無用の混乱を招かないように、という配慮で言っています。わたしの生徒さんがどんどん「1位」になる理由、おわかりいただけますかしら。

 どうも、先日の「アドラー心理学」の件以来思っているんですけど、多少本を読むようなお利口さんの方々というのは、「…してはいけない」というメッセージに弱いのではないかという印象があります。上から、「ガッ」と言われると嬉しくなってしまう、「ああ、偉い人に言ってもらえた」と思って。「M」ですね。お利口さん層を嬉しがらせるフレーズなのではないかと思います、「…してはいけない」というのは。(ストレングスファインダーでいうと何の持ち主かなー、というのは大体想像つくんですが)

 そういうおバカな人はほっておいて、わたしの研修を受ける本当にこころが賢い人は、素直に「〇〇してください」というメッセージを受け取っていただけることと思います。仕事上の指示って大体そういうものでしょ?

 そして上記のように「ほめる」に関して「是々非々」の知見が出ているにもかかわらず、中室氏は「ほめ育てはしてはいけない」と逆張りっぽく、本書の冒頭で言い切ってしまっています。ミスリーディングですね。そこの部分だけ読んで早とちりして「そうなんだ、いけないんだ」と思っちゃう人が、先生にも親御さんにも出てくる可能性があるのでイヤーな気分になります。親に褒めてもらえない子供さんが増える。そういう自分の言ったことの結果について想像力が働いていないのではないか、この人は。先日の経営学のエビデンス坊や、入山章栄氏と一緒ですね。

 少し丁寧に中室氏の論法をたどってきましたが、ここは誰の目にも明らかに論理の飛躍があります。わたしの想像では、ここは中室氏自身のバイアスが入っています。おそらくこの女性学者さんは、「ほめて育てる」ことをご自身が苦手とされてるんです。学者さんにそういう人格の人は実は多いですね。それをなんとか正当化したいので、自分の都合のいい知見を並べ飛躍のあるロジックを展開してしまっています。

 本当は、上に「是々非々」と書きましたけれど、行動理論的に正しい褒め方をして成果が上がったエビデンスなんて、心理学の方には山のようにあるはずですよ。わたしの恩師の一人、武田建氏なんかはアメフトの行動理論で全国7連覇しちゃってますからね。こういう常識的なエビデンスのほうをもっと見た方がいいです。彼女の選び出したエビデンスがそもそも偏っていると思います。本当は、(行動理論的な)「ほめる」と「ほめない」は、1970年代ぐらいからとっくに決着のついている問題なんです。中室氏の個人的な負け惜しみに耳を貸しちゃいけません。

 要は、この人は「エビデンスだけは使っているが、考察部分と結論は×」なんです。ぜひ、高校の小論文をみる教諭になったつもりでこの人の文章を読んでみてください。たぶんほかにも色々な部分で「眉唾」だろうと思います。エリートコースを歩んできて世の中をなめてるんじゃないでしょうか。



 中室氏は本書のあとのほうでは、教員の「質」の問題を言っていますが、そこで「研修」は無効、ということも言っています。それでまた、「研修屋」としては、「ちょっと待ってよ」と思います。

 というのは、教委などで企画する「教員研修」って、やっぱり50人とか100人単位の「マス」の研修が多いんです。大教室での「マス」の講義が、どれほど学び手に「自分なんか、いてもいなくても同じだ」という「承認欠如」の気分を味わわせるか、というのは2つ前の記事(「わざの教育、自我の確立と自我からの解放―『スピリチュアリティと教育』をよむ」)に出てきました。大学生でそうなのですから大人でももっとそうだと思います。

 そういう、研修事務局に「研修とはこういうもの、だって過去もこうだったんだから」という思い込みがある限り、「研修は無効」という結果になり続けるでしょう。ごめん、わたしからみるとそんなのは周回遅れですね。わたしは正しい効果発現メカニズムを早くから特定した人なので、それをどうやってより強力に効果発現させるか、というところにも早くから心砕いた人なんです。過去に自治体研修などでも「50人100人のマスで、かつ1日研修でコーチングの承認傾聴質問叱責の4つをやってください」というご依頼をいただいてお断りしちゃいました。

 というわけで中室氏も先日の入山章栄氏と同じく、「エビデンスをふりかざしてドヤ顔」の人です。今からはこういう人が増えるのでそれに向けたニックネーム考えないといけないですね。(可愛く「エビちゃん」かな)わたし的には「部分的には正しく、部分的には間違い」の人です。「ほかのことはともかくこの主張に関しては現場の実感に照らして間違ってる」と思ったらシカトしていいと思います。ただ政策に関わる人たちは、エビデンスを無視するわけにもいかないんでしょうけどね。

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 新年早々、批判記事におつきあいくださり、読者の皆様ありがとうございます。そしてごめんなさい、お目汚しで。
 たぶんこの次も批判記事になるでしょう、というのは年末にまた、「逆張り」を狙ったらしいおバカな本が出たからです。

 今年も延々とこんなことばかりして暮らすのかなあ〜。それぐらいよくいえば百家争鳴ソフィズム全開の時代なんです。「批判屋」っていうのが商売として成り立たないかなー。。

 たぶんやればやるほど、
「行動承認最強」
を確認することになるんですけどね。


正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

『講座スピリチュアル学第5巻 スピリチュアリティと教育』(鎌田東二企画・編、ビイング・ネット・プレス、2015年12月)を読みました。
 西平直、上田紀行、中野民夫ら豪華執筆陣。「『スピリチュアル学』とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう」と「はじめに」(鎌田東二)にあります。

 正田はこの本の第二部「教育と贈与的他者性とわざ」の伝統芸能の中のわざの伝承の項に興味をもって読み始めたのですが、ほかのパートにもわたしの仕事的に重要そうな記述がたくさんありました。―あまり期待しないで読みはじめた本に多くの発見があるというのは、この歳になって心楽しいことであります―

 また、従来「スピリチュアル大嫌い」の方針で来ていますが、この本で扱う範囲の「スピリチュアリティ」は許容範囲だ、ということにいたしましょう。

 当初のお目当てだったパートを最初に、続いて他のパートからも順に抜き書きをさせていただきます。(引用部分太字)

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◆わざの臨床教育学に向けて―「できる」と「できない」をつなぐ身体(奥井遼)

淡路島を本拠とする人形浄瑠璃の一座、淡路人形座を舞台に、わざの伝承における教え手と学び手の身体の変容を考察しています。3人の人形遣いが一体の人形を動かす、新人は「足遣い」から始め20年以上かけて「頭遣い」になっていく世界。

伝統芸能におけるわざの稽古の現場は、「阿吽の呼吸」や「名人芸」など、とかく神秘的な色合いとともに語られることが多い。しかしながら本稿が光を当てるのは、むしろ華々しく表象化された言説の中でかき消されてしまうような、現場において生じている名もない試行錯誤のやり取りである。彼らの経験は、(略)型の習得に挑んで失敗したり、人形の振りを忘れてしまったり、身ぶり手ぶりを駆使してかろうじて会話し合うような、ままならなさに満ちている。こうした等身大のやり取りに着目することで、習慣的な動作を脱してわざを身につけ、一人の人形遣いになっていくという困難で奇跡的な出来事が見えてくる。(p.205)

 ベテランの人形遣いたちはすでにわざを身につけ、舞台に立っています。身につけたわざを自明のうちに駆使し、わざを同じ程度身につけている人形遣い同士の会話は極めて円滑です。
 だが稽古の時間は違う。とくに、新人がはじめての動きを習得するときや、ベテランが未知の振りに挑戦するようなときがそうである。それまでにやったことのない振りに出くわし、当人の身体がついていかないという事態が起こるからである。このとき稽古の場に居合わせた人たちは、「できる」身体に立つか「できない」身体に立つか、乗り越え不可能な差異に直面することになる。(p.207)

―「できる」人と「できない」人の差異。これは当然、研修講師としての正田と初めて受講する受講生様との間にも横たわっています。また受講後の人とそうでない人との間にも。不思議なもので、「承認研修」は恐ろしく単純なものなのにその前後で大きな段差をつくりだします。そのことは過去に本を書く時にも事例セミナーをやる時にも、つねに課題となってきたところです。とにかく「できる」人たちに見える世界がそうでない人のそれとは違いすぎ、話せば話すほどリアリティがなくなってくるのです。それは余談です。


 すでにその振りが身についている人は、身についていない身体には戻れないし、振りが身についていない人は逆に同様である。ここに教え手と学び手とが誕生し、両者が協力しあって「できる」身体を導く共同作業に挑んでいくわけである。ここで彼らの身体は、身ぶり手ぶりを尽くして、もがく。…この、もがいたり手さぐりしたりするような動きこそ、「概念化される以前の生」の躍動のひとつである。(同)

―もがいたり手さぐりしたり。実は、「承認研修」はこのプロセスをある程度自動化してしまっていますが、つまり「こういう論理展開でこれぐらいの体験をしてもらって、講師の話し方はこんな感じで」というさじ加減をレシピのように決めてしまっていますが、際限なく「これで本当にいいんだろうか」と迷いがわきます。
 今後あるかどうかわかりませんが、「承認」講師志望の方が徒弟制で真摯に学びたい、と言ってこられたとき、こうした「もがいたり手さぐりしたり」の場面があるかどうかはわかりません。上記のレシピを何も考えずにコピーしようとする人も出てくるかもしれないが、ちゃんと考えてほしいものだが…。

―たとえば、‘遣い(教え手)は足遣い(学び手)に自分の動作をゆっくり行って合わせてもらおうとしたときに、不意に自分の動作を忘れてしまう。(「分からへんようになってもうた」。)そして(自分の動作でなく)人形自身の動作をやってみることで、自分の動作を取り戻そうとする。
△△襪い蓮言葉での指示に限界があることがわかると、頭遣いは人形の足をつかみ、動作を分節しながらやってみせる(直接的な介入)。
あるいは、足遣い(学び手)の誤った動作を先輩(教え手)がやってみせたうえで、「こうでなく、こう」と正しい動作を教える。足遣いは、それでも自分のどこが失敗した動作なのかわからない。「こうですか」と自分でもやってみせ、それはやはり違うことを指摘されてはじめて教示されていたことの意味がわかる。(いわば「できる」教え手たちと「できない」学び手とのやり取りは、足遣いCによる積極的な探求によって、足遣いCの「できない」を共同的に析出することによって成立した。pp.223-224)

 手本とは、教え手たちの連携のみによって呈示されるものではなく、それを受け取る学び手からの働きかけを得ることによって、すなわち、送り手と受け手が共同的に探り合う中で、はじめて手本として成立されるといえよう。(p.219)

 総じて教え手たちは、正しい振りについて熟知していたとしても、それだけで学び手を導けるわけではない。反対に、学び手にとっても、いかなる仕方で自分の身体を動かせばよいのかを、動かす前から知る術はない。稽古とは、あらかじめ行く先の見えている道をひた走るような活動ではなく、互いの身体を少しずつ変容させ合うような、教えることも学ぶこともそこから「引き出される」ような、「どちらが創始者だというわけでもない共同作業」であって、道を切り開きながら進むような歩みなのである。(p.224)


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 ここで正田の感慨。
 こうした「徒弟制」が、これまで「承認研修講師」の世界では成立しませんでした。学び手の側にそこまでの学ぶモチベーションの持ち主がいませんでした。
 過去に「承認の講師になりたい」と言ってきた人も、「わたしは講師になる人には厳しいですよ。スパナで殴りますよ」「徒弟制ですよ」と言われると、次に会った時からは「いえ、講師にはなりたくありません」とトーンダウンするのでした。彼(女)らは、講師育成の世界も「承認で優しく」教えてもらえる、と思っていたようでした。
 その人たちにとって、「講師になる」というのはクリエイティブな楽しいだけの作業であり、過去に自分が受講して楽しかった研修の中から切り貼りコラージュしてつくるもので、主眼は
「女子力高いチャーミングな私」
「みんなから注目を浴びる中で大事な人生訓のような『決めゼリフ』を言う私」
をやることでした。「私」が大事なのでした。
 そうじゃないでしょ。マネジャーという人生経験もあり責任もあり、また人一倍、傷つけられ経験も裏切られ経験もある人たちに対して自分の言葉を「しみこませる」というのはどれほど大変なことかわかってるの。薄っぺらな研修講師の言葉なんてすぐ見透かされるよ。ロジカルにつながってない話も見抜かれるよ。(心の声)
 ―まあお客様でも、特に直接の購買担当者の人たちは往々にしてそのへんのことわからないで、底の浅い商品ばかりお買い物するのですけどねー。
 そういうレベルの品質の話をできる人にこれまでお会いしたことがなかった。これからは、できるのかもしれない。少数の人と。
 NPOから財団、そして個人事務所へ。「仲間」の数をどんどん減らしてきたのは、精製したい、ということでもあります。随分読書日記と離れたところへきてしまいました。

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 それ以外の本書『スピリチュアリティと教育』で心に残った箇所を抜き書きします。

 学び始めると、これが、奥が深い。「教育」というのは「底なし」だと思わされた。どこまでいっても窮まりというものがない世界。「納得」もない。常に「反省」と「創意工夫」と「練磨」と「試行錯誤」しかない。一種の「修行」のようなものであるとも思った。それは、「真剣勝負」であるには違いない。(「はじめに」鎌田東二、p.4)

「スピリチュアル学」とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう。また大変重要なことであるが、この世界における人間存在の位置と意味についても真剣に問いかける姿勢も保持している。そのような意図や方向性を持ちつつ、心については心理学、体に関しては生理学や神経科学(脳科学)、魂については宗教学や神学といったような、従来の細分化された専門分野に限定されてきた学術研究の枠を取っ払って、こころとからだとたましいと呼ばれてきた領域や現象をホリスティック(全体的)に捉えようとしたのが本シリーズである。(同、p.7)


―次のパートは、いきなりわたしの仕事的に大事なことが出てきました。

 「自我」は大切なのか、それとも「自我」は危険なのか。自我を形成してゆくべきなのか、それとも自我から離れてゆくべきなのか。(略)
 後年、この二つのメッセージが、実は異なる「読み手」に向けられていたことを知った一方は「自我を確立する以前」の人たちに向けて語られたもの、他方は「自我を確立した後の悩みを抱えた」人たちに向けて語られたもの。(「教育とスピリチュアリティ―その関係をいかに語るか」西平直、p.19)

 ここで話を簡単にするために、教育を「自我形成ベクトル」と重ねる。むろん教育の定義としてはこれではまったく不十分なのだが、それでも一般的な意味において、子どもの「自我形成」を援助するベクトルを教育と理解することは許されてもよいだろう。「自我形成・主体形成」の支援としての教育。
 他方、それとは逆方向の「自我から離れてゆく」ベクトルをスピリチュアリティと理解する。むろんこの場合もたくさんの議論が必要なのだが、スピリチュアリティの一側面として「自我から離れる」という要素が含まれていると理解する。(略)
 ところで、この対比に、ライフサイクル(人生)の区分を重ねてみれば、人生前半においては「教育=自我形成」が大切であり、人生後半においては「スピリチュアリティ=自我からの解放」が大切であるという、分かりやすい図が出来上がる。(同、p.23)

教育とスピリチュアリティ


 さて、こうした図式的な理解において、スピリチュアリティとは、いわば、自我や主体の確立がもたらす「弊害」を警告し、その問題を解決しようとする方向性である。自我や主体は大切なのだが、しかし同時に自我は自己中心的になる。自我に縛られる時、人は、自分を中心に他人を利用し、自然を利用し、のみならず、それを当然と考えるようになる。
 そこでスピリチュアリティは「離れてゆく」ことを勧める。自分(自我・主体)を中心にすることから離れる(手放す・中心を明け渡す・letting go)。そして「関係性」を中心とする。自分一人の利益ではなく、自分を含んだ関係性の利益を中心にする。(同、p.25)

―このあたり、長い読者のかたはおわかりになりますね。「例の漢字2文字」の教育が担う領域というものが。それは上の図でいえば右側、「自我から離れてゆく」スピリチュアリティの教育に該当することをします。人生後半に行われることが望ましい教育です。
 たとえば「若手に承認研修を」というご要望に対しては(よくあるんですが)基本、お断りをしています。それはやるとすれば、組織開発で言えば最終段階です。その年代はまだ「主体確立」の教育をやる段階なのです。中年以上の人にこそ必要です。
 逆に、せっかくの機会なのであえてこういうことも書いておきますが、中年以上の人に教育をする場合、実はわが国では特に、若い頃までの「主体確立」ができてないまま中年になっている人も多いので、「承認教育」をやっても混乱が起こる場合があります。なかなか困った課題です。
 わたしが取りあえずそこでやってきたことは、まずは「承認教育」をする際に「もらう側ではなく与える側になりましょう」と念を押すこと。「承認欠乏症」でその歳まできた人が多いわけですから、ともすれば「オレだってもらう側になりたい(欲しい)」が強く出てしまいます。そこをあえて我慢して「与える」側になっていただく。ちょっと気の毒な要求ですが、第一段階ではそうします。
 思い切って「与え手」になると、意外にそれである程度充足が得られます。若手中堅がよい反応をしてくれたことで「自己効力感」が高まります。
 その段階になっていただいてから、徐々に「強み」「価値観」といった、「主体再確立」に向けたプログラムにも馴染んでいただきます。同時並行といいたいですが時間的にはそちらが「後」になりますね。
(なぜ「主体再確立」が「後」になるかというと、簡単に言うとリーダーが「ワガママ」になってもらったら困るからです。自我がぶわーっと拡張した状態の上司を部下は止められないからです。こんな簡単なこともわからずに無造作に「主体確立」系の研修を最初からリーダー研修としてすすめてしまう業者さんが多すぎます。そっちのほうが高揚感があって楽しいんです)
 ともあれ、「承認される前に承認せよ」と、リーダーに対して最初にする要求がかなり「過大」なので、「承認研修」では、「最適条件」というのをかなりうるさく事務局様にお願いします。ほんとは、毎回「決死の覚悟」でお伝えしているので、もっと評価していただきたいなあ、と思うところです。あとになると「簡単なことじゃん」みたいに見えると思いますけれど。
 ああまた読書日記から離れたところへきてしまった。

―このあとの文章では「スピリチュアリティが教育を『包み込む』」という表現も出てきます。それは、わたしがやっているような「関係構築研修」の中に「主体確立研修」を包含するような作業も言うのか、よくわかりません。

―大教室での講義がもたらす心理的作用。

 従来の大教室の講義は、その内容が最初から決まっている。そして教員はその講義内容を以前であれば黒板に板書しながら、現在の理工系の講義の多くではあらかじめ用意されたパワーポイントスライドを映写しながら説明する。大学の講義といえばこういった風景が思い返されるだろう。
 この講義で伝達されている講義内容はその科目ごとの学ぶべき内容なのだが、それがどの科目であるにせよ、ひとつの大きなメタメッセージを学生たちに伝えている。それは「自分がここにいてもいなくても、世界はまったく変化せず、同じように進んでいく」というメタメッセージだ。
 私がここにいる以前に講義の内容は決定されていて、それが粛々と進行していく。自分がこの教室にいても、家で寝ていても、同じように講義は進行していくだろう。自分自身は世界のあり方に何の変化ももたらさない。そういった世界との切断感をこうした講義は知らぬうちに潜在意識に埋め込んでいく。「あなたなんかいてもいなくても同じだ」、こういったメッセージほど魂を傷つけるものはない。(略)しかし私はここにいてもいなくても世界が同じように進行していくのならば、なぜ私はここにいなければならないのかという、存在に対する不安と無力感、疎外感は、私の青年時代よりも現代のほうがむしろ昂進しているとも言え、その中でのこの講義形態はかなり暴力的なものであるとも言える。
 もっともそこで自身の無力感と世界との切断感に気づかせ、そこからの再起を促すというのであれば、非常に教育的な講義形態だとも言えるが、しかし多くの学生はそこまで至らず、単に「自分がいてもいなくても世界は変わらない」という世界からの切断と自身の無力感にとどまってしまうのではないか。さらにそれは後述する「物事には決まった正解があり、それを学ぶのが学問であり、その正解を求めるのが評価される道である」という、極めて非創造的な学問観に容易につながっていく。(「大学全体の教養劇場化を目指して」上田紀行、pp.45-46)


―いかがでしょ。「大教室方式」がつくりだす「いてもいなくても同じ」感。筆者はすごい雄弁に叙述しますがその通りと思います。これも「例の漢字2文字のやつ」とつなげて考えると良さそうですね。
 いらっしゃるんですよね、50人とか100人とかの大人数集めて盛大なかんじの研修をやるのがいいことだ、と思っている方が。しかし「承認研修」はそれは馴染みません。「承認されてない」感覚満載のなかで「承認」を学ぶという、ねじれ現象になります。結果、大多数の人の「学び逃し」を作り、貴重な機会を逸してしまうもとになります。こういうのはもう技術の世界のセオリーなどと一緒で、厳密に決まっているものです。

―上田氏によるリベラルアーツ教育の「4つのC」。
1.コミュニケーション:伝える力。
2.クリエーション:哲学書(それ以外の書も?)を読んで「自分はどのように成長していくのか」「自分を深めていくのか」「未来をどういうふうに切り開いていくのか」「どのように世の中をよりよきものにしていくのか」を考える創造性をもつこと。
3.コミットメント:「関わる力」。評論家のようにただ言っているだけではダメ。
4.ケア:学生自身が、自分の周囲にいる人がよりよく生きていくことをサポートする能力。(同、pp.52-54)


―気づきの教育について。
 ここは過去にマインドフルネスについて書いた記事とかなり重なりますが、大事なことなので引用しておきましょう。

 ホリスティック教育のなかでは、スピリチュアリティにかかわる取り組みとして観想的実践に大きな比重が置かれている。しかし、それは観想教育でしばしば強調されるような、身心の健康増進のためのスキル学習というものに留まらず、むしろ人間のホリスティックなあり方を実現するための主要な実践として位置づけられる。
 日常生活において人間の行動は、そのほとんどが習慣的なものであり、とくに注意や気づきを要することなく自動的に生じる。そのさい意識はいわば半覚醒状態にあり、ほとんどたえず思考活動に同一化しており、ときおり感情や目立った身体感覚が生じたときには、それらに同一化しやすい。そのような状態では、思考や感情や感覚への無自覚的同一化と、それらに対するパターン化された反応としての断片的行動が継起している。これに対し、観想的な気づきの実践は、非難や評価をまじえず、自分のなかに生じる感覚、感情、思考に注意を向け、それらを細かく観察していく訓練である。このような自己観察は、自己を構成するものを明晰に識別して詳しく知ることに役立つ。そして気づきのなかでは、感覚、感情、思考の個別現象から脱同一化することができ、それらに無自覚に支配されることが少なくなる。観想的実践で重要なのは、気づきの意識を十分に確立し、気づきへのセンタリングが起こるということである。
 クリシュナムルティやオルダス・ハクスレーは、このような意味での気づきの教育を提唱していた。クリシュナムルティは、人間の精神が社会や伝統や宗教によって条件づけられることによって、恐怖、葛藤、苦しみ、悲しみ、暴力などが生じることを分析し、既知のものによる条件づけから抜けだす道として「無選択の気づき」や「全的な注意」を強調した。気づきを高めることによって、人間は自分の条件づけを知りそこから脱同一化し、自由で創造的で、真に英知のある存在になることができる。気づきのなかで精神の思考活動が静まると、現にそこにあるものの直接経験が生まれる。言語的思考による分節化が静まるため、境界意識は消え去り、周囲の世界に直接ふれてひとつになることができる。クリシュナムルティが「教育とは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿を眺め、それらとともに感じ、本当にじかに、それらにふれることでもある」と述べたとき意味していたのは、そのような高められた気づきのことである。(「ホリスティック教育とスピリチュアリティ」中川吉晴、pp.113-114)


―最近は「グーグルの社内教育」としてマインドフルネス研修が隆盛のようですね。これはけっして批判ではないのですが、わたし自身は過去何回か「瞑想」にチャレンジして挫折しました。研修の中ではできますが日常ではなかなか…。(ADHD気味なのだとおもいます)そういうドロップアウト群がかなり出ると思う、ひょっとしたら過半数ぐらい。「承認研修」だと、丁寧にやればそんなにドロップアウトが出ない。かつ、日常動作であるだけに、上記のような「気づき」の効用が得られる。まだだれもそうした効果を検証してくれないんですけどね。

―ベルクソンによる「閉じた道徳」と「開いた道徳」。
(ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』1932年による。「愛と自由の道徳教育」矢野智治、pp.155-157)

 うーん、感動的な文章だけど引用するのをやめよう。「閉じた道徳」よりも「開いた道徳」というもののほうが、素晴らしい模範的人物への熱中により、喜びに満ちていて超個体的な自由への欲望、絶対的な正義への欲望、…などありとあらゆる良いものを希求すると述べています。カリスマ志向というのはないんですね。あたしも家元だけど平凡な人間ですし。
 ここだけ引用しよう。「愛」について言っているところです。

 …このとき「開いた道徳」を特徴づける情動とは「愛」である。この愛は私たちが通常使用している男女の性愛の愛とも、また家族の愛や、祖国への愛とも異なる。このような愛は結局のところ、他の人々とのあいだに境界線を生みだしてしまう閉じた愛であるのに対して、「開いた道徳」を特徴づける愛は、反対にその境界線自体を溶かしてしまうものである。だからこそ先の引用に見られたように、「愛の人」の行いに私たちは引き込まれ共鳴し感動することになる。(同、p.158)


 「愛」の概念。「ホネットの承認3定義」(1)愛(2)人権尊重(3)業績評価―に関して、この定義自体はすごく良いものですが、ここでいう「愛」とすこしちがう「愛」もあるよなあ、と思ったりします。それは「承認」がカバーする範囲ではない、と言われそうですが、ホネットが、「愛」を異性愛と家族愛というところにかなり限定して使っているのにたいして、マネジャー教育をしているともうすこし範囲の広い「愛」がたしかにある気がするのです。
 実際に「承認教育」を受けて使い手になった人たちは、PTAの役員になったり地域や業界団体の仕事を引き受けたり、自分の家族や会社部署の枠組みを超えて責任を引き受けるようになるというのもよく見ます。

―ブーバーの実践。「対話」の奥にあるものは。

 まず、生徒と結ぶべき関係を一言で言えば、「対話的関係」に他ならない。ブーバーにおいて対話的関係とは、独特の深い意味で、呼びかけや問いかけに、応答することであった。子どもが呼びかけるとき、たえず十分に心を集中して耳を傾け、そのときの自分に応えうるかぎり精一杯に応答すること。それが大人の応答的な責任であり、そういった応答の交換が、「対話」の本質である。
 呼びかけに応答する対話が大切なのは、その言葉で伝えられる内容もさることながら、それが他者の存在を肯定し、かけがえのない存在として、ありのままの存在として、存在することを承認するからである。人は自分を、自分自身によってのみでは、自分が存在することの意味を確かめ証すことができない。なんらかの自己を越えるものからの「確証(承認)」によってのみ、自己を肯定することができる。(「教育的日常の中のスピリチュアリティ」吉田敦彦、p.192)


―「対話」というものも「傾聴」というものも根底は「例の漢字2文字」ですね。対話ブームというのも数年来ありましたし、昨年から今年初め、妙に「傾聴研修」がトレンドでした。メンタルヘルスチェック義務化にともなって「メンヘル対策の決定打!」とされたのかもしれません。本来こういうことは「あれか、これか」と選ぶことでもないんですが、そこでは「承認なき傾聴」というものが往々にして行われ、それは「仏作って魂入れず」のきわめて不完全で気持ち悪いものだったのです。わたしなどの感性からすれば。

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 ふー、なんとか今回はワード9ページで終わりました。
 やっぱりあたしの仕事の本筋ですからね、ええ。といっても「承認研修」の構成は別に変らないと思いますが、「なんで、こういうことをこういう形でやってるのか」をつねに新しい言葉で説明することは必要ですね。自分でもすぐ忘れちゃいますからね。


正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました。

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html



『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』について、考察編の蛇足のような記事です。


※ここまでの流れをお知りになりたい方はこちらをご参照ください

悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

『ビジネススクールでは学べないー』経営学は"残念な学問"か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html



 「ダイバーシティー経営」の知見について、なぜあれほど生理的嫌悪感をもったのだろう。

 今日の記事では、全然論理的・客観的でなく、むしろバイアス満載の、感情的・主観的な自分になって語りたいと思います。

 自分個人の体験として。
 わたしはバリバリの均等法世代、同法施行2年目に入社した女子です。入社したとあるマスコミの会社は業界の中でも女性活用が遅く、女性総合職の記者2期目、そして配属された部署では初めての女性記者となりました。
 そして平凡な話だと思いますが、上司は女性の受け入れについてなんら研修など受けておらず、違和感マンマンの表情でわたしを受け入れました。口を開けば「女の子は叱ると泣くんじゃないか」と言われ、一方では「叱られて初めて本物だぞ」と言われ(じゃあ女の子は永遠に本物にならないのかよ)、腫れ物に触るような扱い。
 過去にこのブログにも書いたように、そんな中でも精一杯優等生の1年生社員をやっていたのですが、中にはわたしが周囲のおぼえめでたいのをやっかんで悪質な嫌がらせをしてくる先輩社員あり。また当初は上司がそうした先輩の嫌がらせに盾になってくれていたのですが、前門の虎後門の狼というやつで、今度はその上司が「対価型セクハラ」というやつをやり、わたしはそれを断ったのでいきなり不興を買い、仕事を干されました。哀れ可愛がられっこだった1年生女性社員は、以後毎日ひたすら出社しては何もやることがなく、新聞を読むようになりました。約4か月その状態が続き体重は7kg落ちました。そして問題の上司が他部署への転属を打診しに来たので、組合に駆け込み、組合もさすがに「それは不当人事だ」と会社に掛け合ってくれ、私は希望通り地方に出してもらえることになりました。
 その地方勤務の準備のため警視庁、環境庁(当時)に各2か月詰めたのでした。かなり異例のことでした。
 地方に行ってからはこれも受け入れ先が渋々受け入れたようで、当初「無任所」、決まった担当先がなく仕事が何もないに等しかったのですが、その地方では手つかずだった医療分野を自分で開拓して特ダネを書くようになりました。そしてある時期は社内報に毎回名指しでおほめの言葉が載り、表彰もされるように。東京から地方巡回してきた社長や編集局長には「次の香港特派員はお前だからな」と言われ。
 東京勤務時代に本社に女性の宿泊施設がなく、それでも宿直勤務を希望したので、宿直に入っても男性と違って寝に行くところがなく、勤務が終わってから資料室でつっぶして寝ていたこと、地方勤務もまたその地方では「初物」になり違和感に囲まれながらの仕事でした。そしてそこにも悪意の先輩というのがいました。最近膳場貴子氏がNEWS23の降板を希望したと偽情報をリークされていましたが、わたしも結婚ネタをリークされ退職に追い込まれたようなものでした。
 わたしの10代くらいあとの女性でしょうか、その会社で初めて海外特派員に出たとききました。先輩女性たちの死屍累々のあと、死体の山を踏み越えて、初めて1人の女性特派員が誕生するのです。

 そういう、男性だけだった会社や職場に初めて1人の女性が入ることがどれほど大変なことか。軋轢の多いことか。志を貫こうと思えば、人としてどれほどの苦痛を味わい続けることか。経営学者たちにはわからないでしょう。
 こんにち、それなりの規模の会社にはどこでも女性がそこそこの人数いるのは、その蔭に多数の痛みに満ちた女性たちの人生があるのです。女性が存在できるようになったのは、闘争のすえに勝ち取られた「進歩」なのです。

 で、後輩や自分の娘のような世代の人たちにはなるべくもっとスムーズに働き、経済的不利益も味わわないで済んでほしいと思っているのだけれど、昨今のミソジニー(女性嫌い)の風潮はそんな思いをあざ笑うかのようです。
 だから、わたしは女性たちに不利益をもたらす言説にはNOを言います。

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 もう1つ、また「生理的嫌悪感」にまつわる話を。
 たとえば「白人、男性、同年代だけで固めた職場なら、ツーツ―で仕事がはかどって楽だなあ」こういうメンタリティに対して、わたしは不快感なのです。それは堕落したこころの状態だ、という気がするのです。
 読者の方は、いかがでしょうか。
 
 またひとつの実体験です。「女の園は苦手だ」と言いましたが、地元の商工会議所の人に頼まれて、「女性経営者の会」に2年ほど入っていた時期がありました。40歳前後のこと。
 その「女性経営者の会」は、主力は60歳代の女性社長たち。お父さんが亡くなったから、ご主人が亡くなったから、と受身なきっかけで経営者になった人が大半で、自力で起業した人は少数でした。そして、ホテルのレストランで毎月ランチをご一緒するのですが、まあ円卓に一緒に座っていても共通の話題がない。60代女性の共通の趣味で、踊り(日本舞踊)に行ったとかシャンソンに行ったとか歌舞伎に行ったとか、同年代同士ベチャクチャと話しておられる。こちらからは口を挟むとっかかりがない。
 そこで如才なくあれこれ話しかけられればいいのでしょうが、わたしと同様、「入っていけない…」と感じる若手女性経営者は少なくなかったようで、2年間のあいだにわたしと同年代の人が入っては辞めていきました。2年もったのは辛抱強かったほうでした。
 そのうち、その会の「外」で、やはりその会から脱落したという50歳前後の女性経営者と出会い、「もっと若い者同士の女性経営者の会をしましょうよ」と声をかけられましたが、行ってみるとそこもまた、今度は50代の人の集いの場でありまして。
 
 どうも、「女同士だから気安く話しやすい」場として設けられたところでは、メンバーは気安さを求め、女性同士というだけではなく、同年代同士というさらなる気安さを求めてしまうのです。こういうのは煩悩のようなもので、せっかく気安いのだからもっともっと気安く、と追い求めてしまうのです。
 たぶんそれはサークルのようなところだけでなく、カイシャでも同様で、女同士だからサクサク話が通じるかといえば、その中で年代ごとの壁をつくり、あるいは既婚者・未婚者の壁をつくり、いたちごっことなるでしょう。同質性を際限なく求めるでしょう。
 そういう、「べたっ」と同質な世界というのは、わたしは堕落だ、と感じてしまうのです。こころのどこかが麻痺しているように感じてしまうのです。
 たぶん仮にそういう中にいて居心地がよいと感じるとしたら、その場にはいない異質の人に対してはものすごく不寛容になりそうです。ヘイトスピーチなどもしてしまいそうです。男だったら、配偶者にDVなどもしてしまうかもしれません。また、女でも自分の子供が仕事の同僚のようにサクサク動いてくれないことに腹を立てるかもしれません。
 異質の人が周りにいるというのは、いいことなのです。こころの訓練になっているのです。同質の人だけと一緒に過ごしたいなどというのは、「退化」なのです。
 経営学が「こころの退化」を勧めるのなら、やはりNOを言いたい。


正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
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3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html






『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月、以下、「本書」と略)
 読書日記考察編(1)に続き、考察編の第二弾です。

 考察編(1)の「ダイバーシティー経営」の話題に比べると、”実害”はそれほどないかもしれない、したがって緊急性・重要性とも低いかもしれない部分。
 でも「神戸の承認屋」としては、「世界の経営学ってまだそんな(遅れた)ことやってるの!?」と言いたくなるところです。また、もう少し現実的なところを知っておいたほうが実務家には役立つのではないか、と思われるところです。

 こういうのも、あとで改めてまとめて考察すると時間のムダなので、今やっておきましょう。
 ほんとは、「承認教育はこんなに優れている」と主張することになりますから、わたしの性格的にあんまり気が乗らないんですけれど。

 ポイントは3点、
(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう
(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割
(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変
 
です。

****

(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう


 「モチベーション」に関わるところです。
 おさらいで、2つ前の読書日記の記事でのこの項目に関する要約部分を再掲いたしましょう:

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

 めんどうでも言葉の定義を確認しながらすすめたいんですが、ここでいう「外発的な動機」とは、「給料・昇進・周囲からの評価など、当人の外から与えられるモチベーション」と本書は言います。また「内発的な動機」とは、「当人の心の中からわきあがってくるモチベーションです。仕事へのやりがい、楽しさなどを感じることがその典型」とのことです。
 そして、近年の研究成果では、特に後者の「内発的な動機」の重要性が主張されている、といいます。

 さて。以前からこのブログでは、この「内発、外発」の分け方には意味がない、ということを言っています。「区切り方が変」といいますか。
 本書の記述やその他のこれまでの研究で言っていることを要約すると、「外発」はすなわち、カイシャから与えられるモチベーション。「おカネによる報酬」も「昇進」も「上司からの褒め言葉」もそこに入ります。「内発」はそうではなくカイシャの外から与えられる、あるいは外向けの動機―すなわちお客様からの感謝の言葉とか仕事そのものの意義、例えば社会に与えるインパクト、社会的貢献度など―を指すようです。

 でもそれは、「承認屋」からみると、全部「承認欲求」でくくれてしまうものなんです。単に「承認」を与えてくれるひとが誰か、の違いだけです。 
 本書で例として出している「テッセイ」を例にとりましょう。

 そもそも掃除現場はいわゆる3K職場のようなところがあり、テッセイのスタッフの士気も、以前はとても低いものでした。それを、親会社であるJR東日本からやってきた矢部輝夫氏が、大胆に変革したのです。例えば矢部氏は掃除の仕事を「おもてなし」と再定義し、乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにしました。そのために、制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにしました。
 さらに矢部氏は現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにしました。すると次第に新幹線の乗客がスタッフに対し、「ありがとう」というようになり、それがテッセイのスタッフの仕事に対するプライドへとつながり、スタッフの士気が高まっていったのです。(pp.225-226)

 
 ここでは、
「乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにした」
「制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにした」
 これらは、言葉は悪いですが「自己顕示欲(承認欲求の一形態)から仕事に誇りを持たせる」ということをしています。また、
「現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにした」
 これも「任せる」という、「承認」の一形態をやっています。「任せる」とは、「あなたの判断力を信頼していますよ」という、信頼やリスペクトの表現です。
「乗客がスタッフに対し、『ありがとう』というようになった」
 これは、乗客が「承認」をしてくれた、ということですね。

 そして、本書には載ってないんですが、『新幹線お掃除の天使たち「世界一の現場力」はどう生まれたか?』(遠藤功著、あさ出版)によれば、矢部氏はテッセイに赴任後、マネジメント内部で「現場へのリスペクト」の精神を徹底した、とあります。
 カラフルで素敵な制服を与えるのも、「彼女らは誇りを持つべき人々だ」「だから、彼女らに誇りを与えよう」という、マネジメントから彼女らへのリスペクトの表現だ、とみることができます。
 ひょっとしたら、それ以前はホワイトカラーのマネジメントの人たち(たぶん男性)は、現場の彼女らを「お掃除のおばちゃん」と一段階低くみていたかもしれません。言動にも処遇にもそれが出ていたかもしれません。そしてそんなマネジメントへの反発心で、あるいは見下されることからくる自己評価の低さで、だらだら仕事をする人がいたかもしれません。そして案外、一連の改革プロセスの中でここが一番難しく、かつほかのすべての施策の土台になったところかもしれないのです。

 そういうふうに、テッセイの事例はわたしなどからみると、「マネジメントからの承認、そしてお客様から承認を得られるための仕組みづくり」を組み合わせた例、と考えることができるのです。
 現場の人にとっては、マネジメントからの承認「も」お客様からの承認「も」両方大事です。テッセイの場合は多分とりわけ、お掃除という一般には世間からの評価の低い仕事だからこそ、また人目に触れる仕事だからこそ、「世間/お客様からリスペクトされる」ことを重視しないといけなかったのでしょう。
 一方、看護や介護など専門性の高い仕事では、一般に思われているような、お客様(患者)からの「ありがとう」よりも専門性を熟知している上司・先輩からの(専門性を評価した)承認のほうが嬉しい、という調査結果もあり、どちらが有効かは一概には言えないのです。職種による、ということです。
 あるいは、テッセイの現場の内部でも、「上司・先輩からの個々の仕事に基づく承認」は行われているかもしれません。それがなかったり、攻撃的他罰的な人が混じってギスギスしていたりすると、いかにお客様からの承認があっても上手くいかないかもしれないのです。
 …カイシャの「外」からの評価が嬉しい、というのは、約30年前のわたしが会社員時代にはそうだった。というのは、上司のことがイヤでイヤでたまらなかったから。それは余談です。訓練不足の上司のもとでは、カイシャの「外」からの評価が嬉しい、それだけを励みに仕事している、という人が多くなるかもしれないですね。

 いずれにせよ、「内発的な動機づけ」「トランスフォーメーショナル型リーダーシップ」という概念を使うより、働く人々の「承認欲求」とそれを満たす行動である「承認」という、はるかにシンプルな概念を使った方が、一般のマネジャーにとっては学習のしやすさが全然異なります。「承認」のほうがはるかに学習しやすいです。

 この「テッセイ」の件は「内発的な動機が現場を強くする」事例として高く評価され、ハーバードMBAのケーススタディーとしても取り上げられているそうですが、わたしはハーバードのケーススタディーがいかに自分の理論に合わないものを捨象して出来ているかを知っている人なので、「またやってるな」という感じです。「内発って思いたい」んですよね、大学の先生は。シンプルに、脳のどの部分が活性化するかみればいいんじゃないですか。だめですか。
 
 
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(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割


 本書では、手っ取り早くいうと「優れたリーダーはイメージ型の言葉を使う」と言っています。ただし補足で、「イメージ型の言葉を使うから優れたリーダーになるわけではない、因果関係というより相関関係を示している」ということも言っていたのは、評価できます。

 さて、では、一般のマネジャーがこれを学んで、「伝わる話をするためにイメージ型の言葉を使おう」と思うことは、正しいでしょうか?読者の皆さんはどう思いますか。
 たぶん、いきなりそれをやったら空回りするでしょうね。
 それは何が足りないのか。

 まず、本書で例に挙げたような、アメリカの歴代大統領、こうした「雲の上の人」については、わたしたちはその人との個人的関係がまったくありません。日頃の関係性を「抜き」にして純粋にレトリックだけで左右されると考えられます。ところが、一般の部下と日々接しているマネジャーはそうではないですよね。そこでは、日頃の関係性が、言葉の伝わりやすさに大きく影響します。
 このブログの読者の方はマネジャー以上の立場の方が多いかと思いますが、だからちょっと記憶が遠いものになっているかもしれませんが、皆さんが若くて末端の働き手だったころ、自分の嫌いな上司の言うことを理解できましたか?3分の1とか4分の1ぐらい、「ひゅーひゅー」だったということはないですか?
 とりわけ、その「嫌いな上司」が「組織の理想」のようなことを語った場合、綺麗ごとにきこえてしまって実感がわかなかった、ということはないですか?
 では何が「好き、嫌い」に影響するかというと、とりわけ「上司部下関係」の場合は、「承認」がほとんどすべてを決めてしまうと言っていいと思います。
 このブログでは何度目かの繰り返しになりますが、人は、脳の「内側前頭前皮質」という部位から、他者の自分に対する評価を取り込み、自己評価を作っていきます。そして「内側前頭前皮質」は同時に、外部の規範を取り込み自分の規範意識を形づくる、という役割を担っています。
 だから、「承認してくれる上司の言うことは自分の規範として取り入れやすい」。

 もう1つの説明としては、普通のはたらく人というのはポジティブ心理学でいう「ポジティビティ(ポジティブ感情)」が低いのです。ポジティブ感情の有無は、人が中長期的視野でものを考えられるか、あるいは目先のことしか見えないか、に影響を与えます。ポジティブ感情のある人は少し長い視野でものを考えられ、未来へ目を向けることができるのです。このポジティブ感情の土台がないところに、「ビジョン」を語りかけたり「未来の姿をイメージさせる言葉」をレトリックとして使ったりしても、ぴんと来ないであろうと予測できます。そこまで気持ちがあがってこないのです。

 では、どうしたらいいでしょうか。1つの例を挙げましょう。
 拙著『行動承認』に出てくる事例です。中国工場の総経理である脇谷泰之さんという人が、中国人スタッフに向けて語りかけます。工場が不良を出し、連日深夜までやり直しの仕事に追われていたさなかのこと。

「あなたがたには、十分いいものを作る能力がある。
どこにも負けない技術がある。
ただ、小さな問題が続き、自信がなくなっているだけだ。
僕は、あなたたちの能力を信じている。
だから、自信をもってお客様にいいものを届けよう。
そうすれば、必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」

 いかがでしょうか。
 この「ミニ・スピーチ」の最後の一行が「ビジョン」であり「イメージ型の言葉」になっています。しかし、冒頭の4行は「承認」になっています。いわばビジョンに行き着くための「助走部分」に「承認」を使っているのです。
 ここで、「承認」はマネジャーに対する「求心力」―信頼感とも、愛着心とも言いかえられます―を高める働きと、「ポジティブ感情」を高める働きの両方をしています。いわば、従業員たちとマネジャーの間の心のつながりを太くし、そして従業員の心を浮き上がらせ、少し遠くを見られる状態に持って行ってあげる、そういう役割を果たしているのです。
 こういう「下地づくり」を手順として行うと、「必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」という、ビジョンの言葉がリアルな言葉として響くようになるのです。

 こうして「技術解説」をすると、操作的にきこえてしまいますし単なるレトリックのようにもみえてしまいそうですが、脇谷さんはこの事例の少し前に「承認」の概念に出会い、個人個人へのスタッフへの「承認」を行うようになっていました。
 承認を理論レベルでなく、実践レベルで行うということは、その人自身にとっては、「他者の視点を取得する」体験にもつながります。とにかく相手は「承認」を欲しているのだということ、適切に与えれば嬉しいものなのだということ。その体験を繰り返すことが、他人視点の取得につながり、そしていざという時に、部下が欲するものに応える行動として、「ビジョンの言葉を発する」能力を形成することにもつながるかもしれません。
 「ビジョンを発したリーダーが成功した」「イメージ型の言葉を発したリーダーが成功した」
 それは、実は「ビジョン」や「イメージ」に付帯していたものが大きかったのかもしれないのです。

 脇谷さんは2011年の初めに「承認」の概念に出会って実践者となり、総経理を務める上海工場はその年から2年連続で「業績倍々ゲーム」の快進撃になります。「2年間、お客様のもとに不良を1件も出さなかった」という快挙、そして2014年にはお客様の「優良協力工場」として表彰されます。

 まとめると、「ビジョンの前に承認」これを、日常行動としてもその場のスピーチの構造としても、意識しておいたほうがよいでしょう。わたしからの実務家へのアドバイスは、そうです。

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(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変

 本書では、「トランザクティブ・リーダーシップ」と「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」という2つの概念を紹介し、これらが経営学でコンセンサスとなっているものだ、といいます。
 「トランザクティブ・リーダーシップ」とは、
1)報酬を与え(ほめ)、
2)部下の失敗に事前介入、
3)部下の失敗に事後介入 
ということだそうです。なんか現実の人格ではない、要素だけを抜き出した感じの概念ですが。これだけしかやってない人っているのかしら。
 そして「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」とは、これもおさらいですが、
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
ということだそうです。

 で、優れたリーダーはトランスフォーメーショナル・リーダーシップの4項目プラス、トランザクティブ・リーダーシップの1)を持っているのだそうです。
 これもうーん、なんでそういう分け方になるかなあ。とわたしは思います。
 「内発、外発」のときもそうでしたが、いちどある分け方を決めると、経営学者はみんなそれに沿って追試して、ほかの分け方の可能性をみなくなるのではないかしらん。また、なんでこんな舌をかみそうな用語をがまんして使わなくちゃいけないのかしら。

そして今回の記事の3項目に共通して言えるのは、カイシャやリーダー/マネジャーに対する愛着心(attachment)という要素には全然フォーカスしてないですね。わたしは承認研修の統計の質問紙に「職場アタッチメント」という言葉を入れましたけどね。この項目は研修後に如実に上がりました。
 
 
 ・・・でもわたしもちょっと疲れてきたので、また特に実害のありそうなところでもないので、ここは「違和感の表明」だけにとどめたいと思います。

 「批判記事」書かなきゃなあ、と思うと歳のせいで肩や腰が痛むんです。今回の記事はそんなに「批判」でもないですけどね。お友達の助言に従い、少し休もう…。


正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html




『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄、日経BP社、2015年11月。以下、「本書」と略)
 昨日、読書日記「悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾」をUPしましたところフェイスブックのお友達からさっそくコメント頂きまして、「次回のブログ(考察編)楽しみにしています。」と。このお友達は分析に頼る経営学では全体像がみえない、実際の経営はできない、ということを危惧されていました。

 昨今の「本」というものの読まれ方―例えば去年のベストセラーの某「トンデモ心理学本」を、「なんか心理学の本でも読まなきゃなあ」と、ふだん心理学の勉強なんかしていない人が手にとって盲信してしまったように、この本も、ふだん碌に経営学の勉強なんかしてない人が「この1冊で」と思って手にとり、そして盲信してしまう可能性があるのです。それが経営者である可能性もあるのです。
 そういう時代なのだ、ということを考慮すると、やはり反論すべきポイントは即、反論を公開する必要があるでしょう。あとで悔いのないように。

 今回の記事でのポイントは「ダイバーシティー経営」。
 1つ前の記事のおさらいになりますが、本書では、「ダイバーシティーには2種類あり、その峻別が必要」といいます。その2つとは「タスク型の人材多様性」と「デモグラフィー型の人材多様性」です。
 「タスク型の人材多様性」とは、実際の業務に必要な「能力・経験」の多様性。一方「デモグラフィー型の人材多様性」とは、性別、国籍、年齢など、その人の「目に見える属性」についての多様性です。
 そして「デモグラフィー型の人材多様性」は・組織パフォーマンスには影響を及ぼさない・むしろ組織にマイナスの効果をもたらす という結果。
 この知見を、著者・入山氏は、「事実法則」として紹介します。
 
 数十の研究を再集計してメタ・アナリシスをした結果ということなので、「なるほどそうか」と思ってしまいそうです。わたしも一瞬思いましたが、「いや、しかし」と踏みとどまりました。その結果は本当に信頼できるのか。またその結果をもとにさまざまな意思決定をした場合、どうなるか。
 わたし自身が「女性」という、この知見に対してそもそもバイアスをもった人間であることを前提としつつ、(そのバイアスから言えば、この知見は「不愉快なもの、嫌悪の感情を呼び起こすもの」でした)考えられる反論を挙げてみたいと思います。

●実験デザインが不明確
(1)「デモグラフィー型の人材多様性」の内容にも性別・国籍・年齢などがあるがそれらの要素のうちの個々のインパクトがまだわからない。例えば「年齢」もデモグラフィーのうちであれば、40代のベテラン揃いの会社に20代の未熟練の人が入社したら、パフォーマンスが一時的に下がる可能性はある。ただし40代ばかりであると持続可能性はない。
(2)「デモグラフィー型の人材多様性」の効果を検証するための比較対象としたのはどんな企業か。「デモグラフィー型の人材多様性」の一切ない企業というのを考えると、例えば「白人、男性、同年齢層のみ」といった極めて均質性の高い企業である。
 わたしはアメリカ滞在経験がないのでよく分からないのだが、そのような均質性の高い企業とはどんなものか想像すると、
・ベンチャーのスタートアップ。大学の同級生同士で起業した、など。
 ⇒きわめてモチベーションが高く、コミュニケーションも「ツーツー」であろうと考えられる。
・富裕層向けの高度なサービス。SPとかエリート法律事務所とか。
・いずれにせよ規模があまり大きくなく、属性以外にも能力を非常に高いレベルで揃えた、「少数精鋭」の企業である可能性がある。こうした企業がすべてではなくても比較対象グループの中に一定割合で混じっていれば、比較対象グループの業績を押し上げる可能性がある。
(3)いずれにしても、特に「男性だけ」の企業というのは、長時間労働をさせることが比較的たやすいかもしれない。そして1人当たり売上高(生産性ではなく)は多くなるかもしれない。もちろんその人たちの人生がどうなるか、ご家庭がどうなるか、子育てがどうなるか、配偶者の人生はどうなるか、などは関係なく。
(4)あるいは、それまで白人男性ばかり均質だった企業に女性や有色人種が初めて入社した場合に業績がどう変動するかを見たのだろうか。その場合は「不慣れなので」、当初数年は軋轢が強く出る可能性がある。それは当然でしょう。

●よのなかカフェでは以前、「優秀な女子とそうでない男子、どちらを昇進させますか?」というお題を出したことがある(「男のプライド」)。昇進でなくて採用でもいい、現実に大いにあり得る問い。それには、この「ダイバーシティー経営は損か得か」の研究はまったく答えていない。しかしなまじ「ダイバーシティー経営は損だ」という結論部分を盲信した経営者が、優秀な女性を不採用としたり今いる少数者を解雇したり、ということが起こり得るかもしれないのだ。

●一般には、男女に関わらず優秀な人を採用・登用するわかりやすい実力主義のほうが、組織のパフォーマンスは高いとされる。優秀でも女性だから昇進させない、あるいは採用しないという組織はいびつなのだ。男性もそこでは能力を発揮できなくなるものなのだ。それにはこの研究は答えられていない。

●この知見からわが国で既に現実に起きた負の影響。あるお調子者の大学の先生が、本知見を引用して、自分の関与した研修の参加者の男女比が大きくバランスを欠いていることへの言い訳に使っていた。そうやって教育訓練を受ける機会を与えないことが日本の高学歴女性の離職につながっていることに気づかないのだろうか。
またBCGのコンサルの先生、これも多分お調子者なのだろうが、「男だけの会社、女だけの会社を作ればいい」と発言した。これも結局は女性の職域を狭めるだろう。女性だけの会社というのはよほど大企業の子会社で安定した取引関係をもつのでなければ取引面で脆弱な存在である。なぜなら大企業側の購買担当者は多くの場合男性で、内集団びいきをするのだから。あるいは、ホネットがいみじくも言ったように、女性が向いているとされる職種は低く評価され報酬を低く抑えられる傾向にある。女性が経済的不利益を蒙らないためには、なるべく男女を混ぜたほうがいいのである。

●ここでわたし自身のバイアスを言うと、お兄ちゃん子で共学出身なので、「女の園」は苦手である。そんなわたしにとって女ばかりの会社しか受け皿がない、他に選択肢がない、というのは息苦しい社会だなあ。歌舞伎とかタカラヅカとか、日本にはモノセックスで富裕層向けの高度なサービスを提供し評価の高いものもあるが…。タカラヅカなんか倍率も高いが、好きずきだと思う。

●時代背景の違いを考慮し補正する必要があるかもしれない。2つのメタアナリシスが対象とした研究はジョシらが1992年〜2009年、ホーウィッツらが1985年〜2006年。屁理屈を言いたいわけではなく、近年の現実の人手不足を考えると、「猫の手も借りたい」状況がある。男性だけで優秀な人材を採れるか、というと、もう無理でしょう。アメリカではベビーブーマーの子供世代、ジェネレーションYが概ね1975年から89年生まれ。わが国でも、今40歳の団塊ジュニアが四大新卒で入社したのが18年前の1997年。つまり、研究対象にした期間というのは「人手余り」の時代だったのだ。その気になれば「白人男性のみ」で優秀な会社を作れた時代だったということだ。


●結論部分の著者の考察。
「このように、世界の経営学で分かってきているのは、組織に重要なのはあくまで「タスク型の人材多様性」であって、「デモグラフィー型の人材多様性」ではない、ということです。
 この結果を踏まえて敢えて乱暴な言い方をすれば、「男性社員ばかりの日本企業にとって望ましいダイバーシティーは、多様な職歴・教育歴の『男性』を増やすことである」ということになります。逆にこのような組織が、盲目的に「女性だから」という理由だけで女性や外国人を登用することはリスクが大きい、ということになります。」
 うーんうーん。そう言っちゃうか。ちょっとこの考察部分の記述は入山先生、ドヤ顔ですね。
 2012年10月、NHK「クローズアップ日本」に登場したIMFのラガルド専務理事は、「私は男女の能力が同じだったら女性を昇進させます」と言っていたが…。
(この番組の詳細はこちら「女性は日本を救う?」(クローズアップ現代)にみる前途多難
 現実には、能力が高くても日本企業で差別される屈辱を味わい離職する女性はいっぱいいる。そういうたくさんの女性の人生がこれからも繰り返されるということだろうか。そこに対する配慮は一切ないですね。

●業績の差分の問題。組織パフォーマンスに負の影響などというとき、その負の影響はどのぐらいのパーセンテージなのだろう。本知見についてその数字は出ていないが、ほかの知見(婿養子企業)では、例えば「婿養子企業は血のつながった同族企業よりROAが0.56%ポイント高い」「サラリーマン経営者企業よりROAが0.90%ポイント高い」といった数字が出てくる。
 なーんだ「高い」「低い」ってその程度なのか。「微差」ですね。
 秘書さんや、「承認研修」をやったときの3か月のポイント上昇はどれぐらいだったっけ。あのパワハラ工場長の200人の工場で猛暑の中とった統計ね。7点満点で0.2とかだったっけ。(秘書なんかいないくせに。ちょっと見栄はってしまいました)
 つまり、経営学で言う少々「高い」とか「低い」とかいう数字は、案外、いい研修を1本ちゃんとやれば吹き飛んでしまうようなものかもしれないのです。「承認研修」は内集団びいきやコミュニケーションギャップの問題もきれいに解決できる。入山先生が「婿養子はこのトレードオフをきれいに解決する」と自慢しているのよりはるかに大きくパフォーマンスを上げる。婿養子なんか社長の娘が愛のない政略結婚を我慢すりゃいいだけの話だから大した害はないですが。

●「ダイバーシティー経営は損か得か」こういうテーマを設定すること自体の意義を少し考えていただきたいと思う。なぜなら、そこでは「女性」だけではなく「インクルージョン」の問題も入ってくるからだ。「障害者を雇用することは損か得か?」ということでもあるからだ。「そんなのは損か得かじゃない、義務の問題だ」と、今の法整備はそういう流れでしょう。女性の雇用も、(能力差の問題はそれほどないと思うし中にはオリンピック選手並みに能力の高い人もいるが)同じことだと思う。あとは、負のインパクトを少しでも減らすためにどういう努力をするのがよいか、関心をそこに向けるのが正しい。それこそが学問の意義でしょう。なぜ、経営学者はそちらをこそ重要テーマだと思わないのか。差別を助長するような結論を導き出してそこにあぐらをかくことがそんなに楽しいか。

(入山氏は「多次元のデモグラフィーを同時に導入するタイプの多様性を」と提言するが、それは多様性を導入して久しく、成熟した段階の企業がパフォーマンスが高いことをみてそう言っているので、現実味が薄い。そうした企業も恐らくは一歩一歩多様性の幅を広げてきたのであり、要は異質と共存することに訓練して慣れていくしかないのである)


●いろんなことを言ってますが、ちょっとここは太字で言いたい。
「入山先生、あなたの紹介した知見のために女性の貧困ひいては子供の貧困が加速するかもしれませんが、この社会が先細りするかもしれませんが、それはいいんですか?」
 先日広井先生とメールをやりとりした中の前半のお話ですね。女性の貧困が子供の貧困となり、最終的に社会にツケが回ってくる。アメリカでも「貧困の女性化」というのが起こっていて、人口に占める貧困層の割合が女性のほうが高いそうですね。
 こういうのはもう経営学の領分ではない、社会の持続可能性とか種の保存とかの話になります。「経営学って要は人類を滅ぼす学問なんじゃないの?」とちゃぶ台ひっくり返す話になるかもしれません。経営者にとっても、貧困の連鎖が起き購買層が痩せ細ることは長期的にみていいことではないはずです。子供の貧困のために優秀な働き手が確保できなくなる、ということにもなるでしょう。でも経営学者は、そんなのは自分たちの守備範囲でないから知らん、というかもしれない。
 要は、「ダイバーシティー経営は損だ」という経営学の言説は、「ブラック企業は儲かる」と言っているのと、問題の性質は同じなのです。短期的にその企業だけが儲かれば、従業員の人生がどうなろうと社会がどうなろうと関係ない。
 大体、業績のことだけ考えたら、従業員は妊娠なんか一切しないほうがいいんだから。わかります?
「経営学的に正しいかもしれないが社会にとって有害」 
 こうなると、やはり経営学よりも哲学、社会思想のほうを学問として優位に置きたくなってくるのです。経営学はリスペクトすべき学問ではないかもしれない。
 いや、本当はこんなこと言いたくなかったのにね。多くを学べた本なのに。


正田佐与

『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月)を読みました。
 悩ましい…。
 
※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編 (本記事)

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html


 2つ前の記事(「科学の限界性、認識の限界性―アカデミズムも盲信してはいけない?千葉大学・広井良典教授との対話」)でわたしが言っていた「経営学の本」というのがこれであります。広井先生は一般論として話をされただけで個別の本については言及されておりません。間違えないように。
 この著者の前著『世界の経営学者はいま何を考えているのか―知られざるビジネスの知のフロンティア』(英治出版、2012年11月)は、当ブログでも2012年12月22日
「あると有難い経営学の俯瞰図―『世界の経営学者はいま何を考えているのか』」でご紹介しました。そこでは、“批判色”を入れず、純粋に学びとしてとりあげました。
 本書はその続編のようなものですが、経営戦略中心だった前著とちがい、今回は「ダイバーシティー経営」「リーダーシップ」など、わたしの守備範囲の話題も入ってきたときに、「???」と首を傾げる内容があったわけです。そのあたりを「違和感」として2つ前の記事では言っております。
 ただし本書にはそれ以外にやはり素直に学びとして受け取りたい点も多々ありましたので、2部仕立てとして、第一部読書日記編、第二部考察編、という構成にしたいと思います。違和感とか批判の部分は第二部で。
 それでは、読書日記編。いつもの伝で抜き書きをしたいと思います。

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●現在の経営学では、「経営学者(=ビジネススクールの教員)が授業で教えていることと、彼らがいま最前線の研究で得ている知見の間に、きわめて大きなギャップが存在する(p.14)

●入山氏(著者)流・現代の経営学を把握するポイント。
(1)国際標準化。米国以外の学者の比率が大きくなっている。
(2)科学化。データ分析を重視。
(pp.15-19)

●あとで問題になるかもしれないので第一章で出た本書の問題意識。本の「理念」に当たるかもしれないところです。
「国際標準化が進む経営学で、世界中の学者達が科学的な手法を使いながら日々切磋琢磨して発展させている「ビジネスの最先端の知」「真理法則に近いかもしれないビジネスの法則」が、果たしてみなさんに全く示唆をもたらさないものなのでしょうか。
 私は、そうは思いません。もちろん全てではありませんが、その中には、みなさんがビジネスを考える上でのヒントになったり、ご自身の思考を整理できる助けになったりするものもたくさんあるはずです。本書を通じて、いわゆるMBA本を呼んでも(ママ)、ビジネス誌を読んでも、そしてビジネススクールの授業を通じても知り得ない、世界最先端の経営学の知見に触れていただきたいのです。」(
p.23)

●経営学者の多くは、「経営学は『役に立つ』ことを目的にした学問である」と考えていない。学者にとって経営学を探求する推進力となっているのは、「経営の真理を知りたい」「組織行動の本質を知りたい」という彼らの「知的好奇心」である。(p.26)

●「優れた研究」として評価されるには2つの軸がある。(1)厳密性(Rigorous)(2)知的に新しい(Novel) この2つと「実務に役に立つ(Practically useful)」を同時に追求することはトリレンマである。(pp.27-28)

●どうすればこのトリレンマを解消できるか。著者は、「RigorousとPractically usefulの線を充実させることだと考える。(pp.29-30)

●もう1つ著者の言い訳?
「経営学は、それぞれの企業の戦略・方針に「それは正解です」「それは間違っています」と安直に答えを出せる学問ではありません。企業は一社ごとに、直面する事業環境も社内事情も異なるからです。(略)
 では経営学は何を提供できるかというと、それは(1)理論研究から導かれた「真理に近いかもしれない経営法則」と、(2)実証分析などを通じて、その法則が一般に多くの企業・組織・人に当てはまりやすい法則かどうかの検証結果、の2つだけです。」(pp.34-35)

●バーニーの「3つの競争の型」。1986年、AMRで発表した論文。
(1)IO(Industrial Organization,産業組織)型
 業界構造が比較的安定した状態で、その構造要因が企業の収益性に大きく影響する業界。寡占業界。この業界で有益な戦略は、ポーターのSCP戦略。
(2)チェンバレン型
 IO型よりも参入障壁が低く、複数の企業がある程度差別化しながら、それなりに激しく競争する型。「差別化する力」を磨いていくことが重視すべき戦略になる。したがってこの業界では、技術・人材などの経営資源に注目するRBVに基づく戦略が有用。著者によれば日本で国際競争力のある企業を生み出してきた業界の多くはチェンバレン型だった。
(3)シュンペーター型
 競争環境の不確実性が高い業界。例えば「技術進歩のスピードが極端に速い」「新しい市場で顧客ニーズがとても変化しやすい」。ネットビジネスなどIT(情報技術)業界は典型的なシュンペーター型。(pp.45-48)

●国内でチェンバレン型競争をしてきた日本企業がグローバル進出したとき、中国・インド・東南アジアなど新興国市場は競争がIO型に近いので、ポーター的なSCP戦略を選ばないといけない。しかし日本企業は割り切ったポジショニングが得意ではないので、競争の型と戦略がマッチしていない。(pp.50-51)

●パナソニックは2012年津賀一宏社長の就任以来、シュンペーター型競争への深入りを避け、チェンバレン型に軸足を戻していると解釈できる。対照的にソニーは、シュンペーター型に近いスマホやゲームを主要事業に位置づけ、一方で国内ではチェンバレン型、海外ではIO型のテレビなどの家電事業があり、さらに恐らくチェンバレン型に近い保険などの金融事業も手がけている。異なる競争の型を持つ業種を内包しており、経営のチャレンジといえる。(p.54)

●ビジネスモデルとは、事業機会を活かすことを通じて、価値を創造するためにデザインされた諸処の取引群についての内容・構造・ガバナンスの総体である(アミット=ゾット 2001年論文)(p.57)

●価値を創造するビジネスモデルデザインの4条件(同上)
(1)効率性(Efficiency)
(2)補完性(Complementarity)
(3)囲い込み(Lock-in)
(4)新奇性(Novelty)
(pp.58-60)

●リアル・オプション理論。リアル・オプションを端的に言うと、「不確実性が非常に高い事業環境下では、何らかの手段で投資の『柔軟性』を高めれば、事業環境の下ぶれリスクを抑えつつ、上ぶれのチャンスを逃さない」という発想。
例えば新興国市場に進出するに当たりその市場が成長可能性が高いかどうか不確実であるとき、小出しに投資してリスクを低く抑える。リアル・オプション型の柔軟性ある投資をしなければ、もし高い成長をしたときそのチャンスをみすみす逃してしまう。不確実性が高いほどリアル・オプション型の投資をしたほうが潜在的なリターン(オプション価値)が増える。(pp.68-70)

●「両利きの経営」。知の深化と探索。詳細は前著の読書日記参照。

●「両利きのリーダーシップ」。(タッシュマンら、2011年)
(1)自社の定義する「ビジネスの範囲」を狭めず、多様な可能性を探求できる広い企業アイデンティティーを持つこと
(2)「知の探索」部門と「知の深化」部門の予算対立のバランスは経営者自身がとること
(3)そして「知の探索」部門と「知の深化」部門の間で異なるルール・評価基準をとることをいとわないこと
(p.84)

●イノベーションに対して企業が後手に回る背景。製品やサービスのドミナント・デザインが確立するにつれ、企業の組織構造やルールもそれに順応していく。それだけでなく企業内でのふだんのインフォーマルな情報交換の緊密さなども、ドミナント・デザインに影響される。(p.87)

●そこで「アーキテクチュラルな知」すなわち組み合わせをつくり出す知が促される組織作りが求められる。
 医薬品産業における「アーキテクチュラルな知を高める組織特性」(レベッカ・ヘンダーソン=イアン・コックバーンの論文、1996年)
(1) 研究者が会社の枠を超えた広範な「研究コミュニティー」で知識交換することが評価される組織であること
(2) 社内でも分野の垣根を幅広く越えて情報を交換すること
(pp.90-91)

●「アーキテクチュラルな知」を高めるためにもう1つのポイントは「デザイン力」すなわち、「最適な『組み合わせ』を見出し、まとめあげる力」。製品・サービスデザインにとどまらず、「組織のデザイン」までを意味する。著者によれば、「製品デザイン力を高めるための組織デザイン」についての研究は、世界の先端の経営学でも研究蓄積が十分ではなく、まだ体系だった理論はない。(pp.91-92)

●ビジネススクール教育ではむしろ、デザインスクールと連携するなど、デザイン分野との共同が進んでいる(pp.92-93)

●弱いつながりを多く持つ人は、創造性を高められる。前著に同じ(p.99)

●アイデアは実現(Implement)されて初めてイノベーションになる。クリエイティビティ―の高い人(発案者)が、さらにそのアイデアを「実現化」するために何が必要か。発案者に必要な2つの条件(マーカス・バエアー論文、2010年)
(1)発案者の実現へのモチベーション 
(2)発案者の社内での人脈
(pp.101-102)

―この項目には頷きました。以前から、旧NPOで総会とか理事会をして、色々アイデアを出す人はいるんだけどわたしは「却下」してきた、だって発案者自身が汗をかくつもりがなく、自分のアイデアを全部正田さんにやらせようとしているから。心理学やコミュニケーションの研修でブレストの研修を受けた人なんかは、「アイデアはそれ自身がすばらしい!」って刷り込まれているから困る。自分に行動するつもりのない人のアイデアはどんなによさげでも受け付けません。そういうときは「アイデアは責任を伴わない、行動は責任を伴う」という畑村洋太郎氏の言葉を引いて却下していました。まあ行動承認の応用形ともいえます

●イノベーションについての日本企業に向けての3つの示唆。
1.「創造性」と「イノベーション」は別ものであることを理解した上で、自社の問題が「創造性の欠如」なのか「創造性⇒実現の橋渡しの欠如」なのかを把握すること。どちらが欠如しているかで打ち手は全く逆になる。
2.もし自社の問題が「クリエイティブな人が足りないことにある」と判断したら、社員が「弱いつながり」を社内外にのばせるサポートをしてやること。
3.「チャラ男と根回し上手な目利き上司のコンビ」。弱いつながりを持った創造性の高い人を「アイデアの実現化」まで橋渡しするには、社内で強いつながりを持った人と「ペアリング」をする。強いつながりを持った根回し上手人は、弱いつながりをもった「チャラ男」の創造性を理解できること。
(pp.104-106)

●知の探索を促す組織の学習量とメンバーシップの関係(ジェームズ・マーチ1991年論文、コンピュータ・シミュレーションによる分析)。
発見1.メンバーが組織の考えを学ぶスピードが遅いほうが、最終的な組織全体の学習量は増加する。
発見2.組織の考えを学ぶのが速いメンバーと、遅いメンバーが混在しているほうが、最終的な組織全体の学習量は増加する。
発見3.組織のメンバーは一定の比率で入れ替えがあったほうが、組織の最終的な学習量は増加する。
発見4.発見3で得られた効果は、特に組織を取り巻く環境の不確実性が高い時に強くなる。
(pp.107-110)

●トランザクティブ・メモリー(前著に既出)の知見。トランザクティブ・メモリーとは組織内で誰が何を知っているかを知っていること。トランザクティブ・メモリーを高めているチームは、直接対話によるコミュニケーションの頻度が多い。逆にメール・電話によるコミュニケーションが多いことは、むしろ事後的なトランザクティブ・メモリーの発達を妨げる可能性もある。カイル・ルイス2004年の論文。(pp.115-116)

●同様に「アイコンタクト」や顔の表情を通じてのコミュニケーションがトランザクティブ・メモリーを高める効果。アンドレア・ホリングスヘッド1998年の論文。(pp.117-118)

●トランザクティブ・メモリーを高める仕掛けとしては、平場のオフィス、タバコ部屋、社内カフェテリア、コーヒー飲み場、独身寮(pp.118-121、143-145)。

●ブレストはアイデア出しとしては効率が悪い。しかし(1)組織全体の記憶力を高める(2)参加メンバーが組織の「価値基準・行動規範」を共有しやすい。
(pp.122-129)
―それは「ブレスト」でなく「対話」と言ったほうがいいかもですね…

●成功体験と失敗体験、どちらが組織の学習に役立つか。マドセン=デサイ論文(2010年)
発見1:一般に成功体験そのものは、「その後の成功」確率を上げる
発見2:とはいえ、大事なのは成功体験よりも失敗体験。組織は失敗からも学習してその後のパフォーマンスを高められる。成功体験と失敗体験、どちらのパフォーマンス向上効果が大きいかというと、失敗体験のほうである。成功すると「サーチ行動」をしなくなる。(pp.135-139)

●ここから示唆されるのは、「成功体験と失敗体験には、望ましい順序がある」ということ。長い目で成功確率を上げられるのは、「最初は失敗経験を積み重ねて、それから成功体験を重ねていくパターン」。「若いうちは失敗経験を積め」は真実。(pp.140-142)

●グローバル企業とはそもそも何か。
 海外で成功する企業の強みのことを経営学では「企業固有の優位性(Firm Specific Advantage, FSA)」と呼ぶ。
 世界中からまんべんなく売り上げを得ている企業を真にグローバル企業とすると、どのくらいあるか。アラン・ラグマンの2004年の論文(データは2001年のもの)によると、世界市場を「北米地域」「欧州地域」「アジア太平洋地域」の三極に分け、(各多国籍企業の本社が置かれている)ホーム地域からの売上が5割以下で、他の2地域からの売上がそれぞれ2割以上なら、「真のグローバル企業」と呼べる、と定義づけた。
 この分析の結果、
発見1.ホーム地域への強い依存。分析からは365社のうち320社が、売上の半分以上をホーム地域から上げていることが分かった。ホーム地域外からの売上が半分を超える企業はわずか45社。
発見2.真のグローバル企業は9社だけ。上記の45社のうち、ホーム外の2地域の両方からそれぞれ2割以上の売上シェアを実現できている企業は9社のみ(IBM,インテル、フィリップス、ノキア、コカ・コーラ、フレクストロニクス、モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン、そしてソニーとキヤノン。トヨタやホンダは欧州では売り上げが伸びていない。(pp.149-152)

●ラグマンはその後2008年に日本企業に特化した論文を発表(データは2003年)。ここではフォーチュン誌ランキング世界主要500社のうち日本企業は64社、うち「真のグローバル企業」はソニー、キヤノンに加えマツダ。また著者入山氏が2014年データで計算したところ、フォーチュン500社の中の日本企業は54社で、「真のグローバル企業」はキヤノンとマツダだけだった。(pp.154-155)

●大部分の多国籍企業は売り上げの半分以上を本社のある地域から上げている。ラグマンたちはこれを企業の「地域特有の強み(Regional Specific Advantage, RSA)」と呼ぶ。日本企業はやはりアジアで強みを発揮しやすいが、「自社のアジアで通用する強み(RSA)がそのまま世界中で通用するFSAとはならない」という認識を持つことが肝要。(p.156)

●世界はグローバル化していない。完全なグローバル化状態(一国化)か鎖国状態か。パンガジュ・ゲマワットの2003年の論文では、現在はこの両極端の間のスペクトラム上の鎖国側に極めて近い状態にあることを示した。貿易、資本流出入、海外直接投資などのデータの傍証により、ゲマワットは「世界はグローバル化しておらず、あくまでセミ・グローバル化(中途半端なグローバル化)の状態にある」ことを明らかにした。(pp.159-162)

●世界は狭くなっていない。経済学者は貿易データの統計分析をし、やはり二国間の距離が遠いほど、国同士の貿易量にはマイナスの影響を及ぼすことを示した(グラビティー・モデルという)。これを時系列的な変化でみても、輸送コストが低下しているにもかかわらず国同士の距離のマイナス効果は年々強くなっている。
 キース・ヘッドらの2008年の論文では、103の実証研究から得られた1467の推計値を集計してメタ・アナリシス分析をしたところ、1970年代のデータを使った研究では「距離の違いによる貿易量の変化の弾性値」は平均0.9だった。この弾性値は、90年代以降は0.95に上昇している。(pp.162-164)

●インターネット取引も距離の影響を受けやすい。ブラム=ゴールドファーブの2006年の論文では、インターネット上で取引されたデジタル製品・サービスの量と各国との距離の関係を統計分析したところ、その弾性値は1.1となり、上記のヘッドの研究の弾性値よりむしろ大きな値となった。(pp.164-165)

●世界はフラットではなくスパイキー(ギザギザ)。「世界中の経済活動、特に知的活動や起業活動などは、特定の都市など狭い地域への集中が進んでいる。すなわち世界はむしろスパイキー化しつつある」(リチャード・フロリダ)。(p.166)

●VC投資にはローカル化する傾向がある。ベンチャー・キャピタリストは、距離が近いスタートアップに投資しがち。近接性を好む傾向により、シリコンバレー、ボストン、シアトルなどの特定の地域にVC投資が集中する「スパイキー化」が起こる。(p.167)

●VC投資のような、情報集約型で人と人の交流を必要とするビジネスの国際化は、国と国の間で起きるのではなく、ある国の特定の地域と別の国(の特定の地域)で集中して起きるのではないか。いわばスパイキーなグローバル化。シリコンバレーと新竹(台湾)、台湾とカリフォルニア州、イスラエルとニュージャージー州など。(pp.168-169)

●ゲマワットの「AAA(トリプルエー)」というフレームワーク。(1)集積(Agglomeration)、(2)適応(Adaptation)、(3)裁定(Arbitrage)
 「中途半端なグローバル化」だからAAAは重要。日本メーカーは少なくともどれか1つのAを放棄してメリハリをつけることを検討すべき。(pp.171-174)

●ダイバーシティー経営は有益か否か。ダイバーシティーには「タスク型の人材多様性(Task Diversity,能力・経験の多様性)」と「デモグラフィー型の人材多様性(Demographic Diversity、属性の多様性)」がある。
 この2つの多様性の効果をメタアナリシスで検証した結果、ジョシらが2009年に発表した論文、ホーウィッツらが2007年に発表した論文では2つの事実法則が導かれた。
法則1:ジョシたちの分析、ホーウィッツたちの分析のどちらとも、「タスク型の人材多様性は、組織パフォーマンスにプラスの効果をもたらす」という結果となった。
法則2:「デモグラフィー型の人材多様性」については、ホーウィッツたちの分析では「組織パフォーマンスには影響を及ぼさない」という結果となった。さらにジョシたちの研究では、「むしろ組織にマイナスの効果をもたらす」という結果になった。(pp.177-180)

―本書でも一番論議を呼びそうな箇所ですね。これは、考察を書いていると長くなるので、本記事とは別建てで「考察編」の記事で取り上げようと思います。要は、ツッコミないしは批判をしようとしてるんですけれども。

●「デモグラフィー型の人材多様性」が組織に何の影響も及ぼさないか、場合によってはマイナスの影響を及ぼすこともあるということを説明する代表的な理論は、社会心理学の社会分類理論(Social Categorization Theory)。異なるデモグラフィーの人がいると「男性対女性」「日本人対外国人」のような「組織内グループ」ができ軋轢が生まれ、組織全体のコミュニケーションが滞りパフォーマンスの停滞を生む。(p.181)

●どうすれば、女性・外国人を登用しながら「デモグラフィー型の人材多様性」のマイナス効果を減らすことができるか。
(1)「デモグラフィー型の人材多様性」のマイナス効果は時間の経過とともに薄れていく可能性がある。一方で「このような軋轢は時が経過しても消えない」という研究結果もある。
(2)「フォルトライン(=組織の断層)理論」。デモグラフィーが男性・女性だけでなく年齢・国籍等多次元にわたって多様であれば、組織内の軋轢はむしろ減り、組織パフォーマンスは高まることが実証されている。
(pp.183-185)

●著者曰く、フォルトライン理論は日本企業のダイバーシティー経営に重要な示唆を与える。女性や外国人の登用など「デモグラフィー型の人材多様性」を進めるならば、中途半端にやるのではなく、徹底的に複数次元でダイバーシティーを進めるべきだ、ということ。
(p.185)

●働く女性の働きにくさを説明する「ホモフィリー」の概念。人は、同じような属性を持った人とつながりやすい。さらにそのつながった相手から影響を受けやすい。不健康な人はますます不健康になりやすい。(pp.188-189)

●企業では、日本企業は男性社員が大半なので、「男性のホモフィリー人脈」が厚くなる。ホモフィリーは女性に2種類のハンディキャップを与える。
(1)女性は「男性のホモフィリー人脈」に入りにくいため、そこで流れる情報・知識にアクセスしにくくなる。
(2)女性同士のホモフィリー人脈が薄い。
(pp.190-191)

●男とも女とも上手に付き合える女性が、男性中心の職場では成功しやすい。しかし「ホモフィリーの二重のハンディキャップ」により、この実現がたいへん難しい。ハンディーキャップの解消のためには、企業が多次元で組織のダイバーシティーを高めることと、研修などで女性だけが孤立しないような意識づけを徹底すること。(p.193)

●リーダーシップでは2種類のリーダーシップがコンセンサスとなりつつある
1.「トランザクティブ・リーダーシップ」(アメとムチ)
(1)「コンティンジェント・リワード(状況に応じた報酬)」
(2)(3)「マネジメント・バイ・イクセプション(部下が犯す失敗にどう対処するか)」
  能動型:部下が問題を起こす前に「そのままだと失敗するぞ」と介入する
  受動型:部下が実際に失敗してから問題に対処する
2.トランスフォーメーショナル型(啓蒙)
 1980〜90年代にバーナード・バスが分析。
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
 入山氏曰く、「カリスマ型リーダー」「変革リーダー」はこれに近いかもしれない。
(pp.203-205)
―承認リーダーシップというのは上記の2種類の間を行ったり来たりしている感じだ。この区分って何なんだろう、こういう区分にする意味が分からない…

●複数のメタアナリシス研究によれば、全般的な傾向として「相対的に『トランザクティブ型』よりも『トランスフォーメーショナル型の4資質』を持ったリーダーのほうが、高い組織成果につながりやすい。また、トランザクショナル型の資質の中では、コンティンジェント・リワードが高い組織成果につながる。他方、一般に組織成果につながりにくいのは「マネジメント・バイ・イクセプションの受動型(事後介入する型)」。(pp.205-206)

●パニッシュ・プラナムらの2001年の研究によれば、トランスフォーメーショナル型のリーダーシップは、「不確実性の高い事業環境」下にある企業においてはその業績を高めるが、事業環境が安定している(不確実性が低い)ときには、むしろ企業業績を押し下げる。(p.207)

●女性のほうがトランスフォーメーショナル型のリーダーの資質を身に付けやすいという研究。アリス・イーガリーが2003年に発表したメタアナリシス研究によれば、「トランスフォーメーショナル型の4資質」と「トランザクショナル型のコンティンジェント・リワード資質」で、女性が男性を上回った。
 この説明としては、リーダーになった女性は「力強いリーダー像」と「優しく協調的な女性像」という2つの正反対の期待にさらされる(ロール・インコングリティーRole Incongruity、期待されている役割の不一致)。彼女たちはこの2つのイメージのギャップを克服するための手段として、男性よりもトランスフォーメーショナル型のリーダーシップをとろうとする。(pp.208-211)

●リーダーの優れたビジョンがあると、企業の成長率は高くなる。優れたビジョンの基準として、「ビジョンの中身(Vision Content)」と「ビジョンの特性(Vision Attribute)」がある。
 優れたビジョンの6つの特性。(1)簡潔であること(2)明快であること(3)ある程度抽象的であること(4)チャレンジングなこと(5)未来志向であること(6)ぶれないこと。(pp.215-216)

●バウム論文(1998年)では、優れたビジョンに加えて、CEOと従業員のコミュニケーションが高まるほど企業の成長性が高まるという結果も得られた。(p.217)
―この知見は(入山氏はあまり重視しているようではないが)大事だと思う。ふだん全然コミュニケーションをとらない、雲の上とか象牙の塔の中にいるトップがビジョンだけを語っても「ぴん」と来ないだろう。

●レトリックの問題。イメージ型の言葉とコンセプト型の言葉では、イメージ型の言葉を使う比率が高い大統領ほど「カリスマ性が高く」、そして「後世の歴史家から『偉大な大統領』と評価されている」。したがってイメージ型の言葉は相手にビジョンを浸透させやすい可能性がある。(pp.218-220)

●「カリスマ」「偉大なリーダー」と評価される人は、自身のビジョンを伝えるためにイメージ型の言葉やメタファーを使い「相手の五感に訴える」言葉を使う。しかし因果関係を示しているわけではなく、相関関係を示していると捉えたほうが無難。(pp.221-222)

―リーダーの「伝える力」について、新たな神話ができそうですが、ここも「要考察」なんですよねー。「承認リーダーシップ」ではちょっと違うことを言います。

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

―ここも「要考察」かな〜。もともと「外発」「内発」という分け方の有効性をわたしはあまり認めていない。いつも言うように上司から褒められるのもお客様から褒められるのも同じ「承認欲求」であり、脳の同じ部位が反応する。なんでそれを無理に分けてるんだろう。テッセイの事例も、わたしがみると要は「承認欲求」を満たしているのだ。あたし結局こんなことばかり言い続けて死ぬのかな〜。

●同族企業の業績は、非同族企業よりも優れている。理論的にプラスとマイナスがある。
説明(1)創業家が大口株主であることのメリット。彼らが「もの言う株主」となって経営者の暴走を抑えることができる。
説明(2)創業家出身の経営者は「企業と一族を一体として見なす」ので企業の長期的な繁栄を目指す、結果としてブレのないビジョン・戦略をとりやすい。
説明(3)同族企業のマイナス面は、資質に劣る経営者が創業家から選ばれてしまうリスク。(pp.230-233)

●同族企業のプラスマイナスのトレードオフを解消するのは「婿養子」。婿養子が経営者をしている日本の同族企業は、(1)血のつながった創業家一族出身者が経営をする企業よりもROAが0.56%ポイント高くなり、(2)創業家でも婿養子でもない外部者が経営をする企業よりも、ROAが0.90ポイント、成長率が0.50ポイント高くなった。(pp.233-235)

●CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)は業績を高めるか。セルバエスたちの2013年の論文では、広告費を多く使うタイプのB to C系の企業でCSRは業績にプラスになることを確認した。逆に広告費をあまり使わないB to B企業では、「CSR指数が高いほど、業績はむしろマイナス」という結果になった。(pp.241-244)

●CSRの情報開示効果。CSR報告書を作ることにより企業の透明性が増し、投資家の信頼を増し、資金調達をしやすくなる。(p.244)

●CSRの保険効果。CSR指数の高い企業のほうが、ネガティブ事件による株価の落ち込みが「軽度で済む」。(pp.245-246)

●成功する起業家精神とは。
 「アントレプレナーシップ・オリエンテーション(EO)」。コーヴィンとスリーヴァンの1989年論文。小規模企業が成功するために経営幹部に必要な「姿勢(Posture)」とは革新性(Innovative)、積極性(Proactive)、リスク志向性(Risk-taking)の3つ。事業環境が不安定なときには、経営幹部がこの3つの条件を満たしている企業ほど業績が良くなる。「EOの高い経営者の率いる企業は、業績が良くなる」という傾向は、研究者の間ではコンセンサスとなりつつある。(pp.275-276)

●経営者のパッションについての研究。バウムとロックの研究(2004年)では、経営者のパッションは、ベンチャーの成長率に直接は影響を与えない。しかし他方、強いパッションのある経営者ほど、従業員とのコミュニケーションを重視する傾向が強く、そしてコミュニケーションが盛んな企業ほど、その成長率は高まる(パッションの間接的な効果)。
 起業家のパッションが資金調達に有利に働く可能性を示した研究もある。
(pp.277-278)

●クリステンセンの「イノベーティブ・アントレプレナー」に関する研究。22人の著名な起業家にインタビューした結果、彼らに共通する思考パターンを以下にまとめられると主張した。
(1)クエスチョニング(Questioning):現状に常に疑問を投げかける態度。
(2)オブザーヴィング(Observing):興味を持ったことを徹底的にしつこく観察する思考パターン。
(3)エクスペリメンティング(Experienting):それらの疑問・観察から、「仮説を立てて実験する」思考パターン。
(4)アイデア・ネットワーキング(Idea Networking):「他者の知恵」を活用する思考パターン。「自分がどう考えるか」ではなく、「まずこの問いを誰と話すべきか」。
 著者入山氏は、この「イノベーティブ・アントレプレナー」の知見は、本書のイノベーションや組織学習の知見と一致すると主張する。(pp.279-283)


22-26章は、略。

 以上が大まかな本書の内容です。何とかワード15pに収まりました。
 で、最初にも言いましたように学ぶ点も多くあったのですが、「要考察」の点もわたし的には3点ほどあります。経営学のスタンダードなテキストとして扱われるであろう本だけに、影響力からみて、その欠点も看過できにくいのです。とりわけ、「ダイバーシティー経営」に関しては大きいかなー。
 考察点はまた次以降の記事で…。


正田佐与



 急に「美」という軸を考えてみたくなりました。

 
私人



 わたしの読書歴の中でも珍しいんですが、最近不思議なご縁で手に取りました。
 『私人』(ヨシフ・ブロツキイ著、沼野充義訳、群像社、1996年11月)。詩人ブロツキイの1987年ノーベル文学賞受賞講演。本文わずか35pの小さな小さな本です。

 
 ・・・なぜなら、美学こそは倫理の母だからです。「良い」とか「悪い」といった概念は、何よりもまず審美的な概念であって、「善」や「悪」の範疇に先行しています。…まだ何もわからない赤ん坊が、泣きながら見知らぬ人を押し退けたり、あるいは逆に見知らぬ人のほうに手を伸ばしたりするとき、この赤ん坊はそうすることによって、審美的な選択を本能的にしているのです。この選択は道徳的なものではありません。

 
 ・・・なにしろ人間は、自分が何者なのか、そして自分に何が本当に必要なのか、完全には分からないうちにもう、たいてい本能的に、自分の気に入らないもの、自分を満足させないものを知っているのですから。繰り返しますが、人類学的な意味において人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。



「良い」「悪い」の概念は何よりもまず審美的な概念である。
人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在である。

 詩人の言葉ですが、読者の皆様にとっては、いかがでしょうか。

 わたしはこれらのフレーズに出会って急に気がついたのです。自分が無意識に「美しい」という単語を使っているなと。本当に自分でも気がつかないうちに、いろいろな場面で。

 明らかにそれはわたしのその場での「選好」を決めているのです。何かやだれかを「よい」と思って称揚すること。逆に、「わるい」と思って批判しよう、と思ったりすること。


 
 
 それが人類に普遍の現象なのかどうかは、わかりません。

 少なくとも自分はそういう「フレーム」を持つ人間のようだ、ということを念頭に置いておくことにしましょう。



※なお、このところ記事タイトルなどに「正しい」という言葉が入っていますがこれは結構自分でも意識していて、忸怩たる思いで使っています。
 心理学では「正しい」「正しくない」は相対的なもの。哲学でも一部の人はそういう言い方をします。
 ところが、「正しい」「正しくない」の軸を否定してはいけない領域は、仕事をしていれば確かにあるのです。そこに心理学のそうした議論を持ち込むとどんなに”めんどくさい”ことか。
 その2本の軸が両方あり得るなかで「正しい」を主張することは「つかれる」こと。でもやらなくてはならないこと。
 「正しい」を書く時は内心疲れをおぼえながら書いていますね。



 この本はそのほかにも印象的な警句に満ちていて、読んでいてそこでしばらく頭がストップしました。いくつか例を挙げると、

「…言葉というものは、ほんの少し不正確な使い方をしただけでも、人生に偽りの選択を持ち込むことになりかねないのですから。」
 
「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは―繰り返しますが―他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば『相互厭人的』な会話なのです。」

「ロシア語を母語とする人間にとって、政治的な悪について話すのは、食物を消化するのと同じくらい自然なことではありますが、やはりこの辺で話題を変えたいと思います。自明のことに関する会話の落とし穴は、それがあまりに簡単で、それを通じてあまりに簡単に『自分は正しいのだ』という感覚を得られるため、意識が堕落してしまうということです。」




正田佐与

ジェンダーにおける「承認」と「再分配」

 『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」―格差、文化、イスラーム』(越智博美+河野真太郎編著、彩流社、2015年3月)という本を読みました。


 アメリカでは承認論と公民権運動、とりわけフェミニズムや性的マイノリティが市民権を得るための運動とが分かちがたく結びついて独特の政治空間を作っているもよう。

 正田はフェミニズムと従来やや距離をとってきたつもりだったのですが、最近の格差社会ぶりとそれに連動した女性の貧困という現状をみるに、そうも言っていられなくなってきた感があります。
 そもそもフェミニズムに対して良い感情を持てなくさせられていたのは、最近このブログに登場したようなわが国の反動的男性知識人(=ミソジニーお爺さん)たちの陰謀だったのかもしれない。


 そして、こういうヘーゲルをはじめドイツ観念論を源流とした「承認論」と、まったく次元の違う無根拠なネットスラング、罵倒語としての「アンチ承認欲求論(=承認欲求叩き)」、それに正田のやっているような実践の世界の「行動承認」、これらが同時並行に存在しているのがわが国の状況。

 正田は当然前者の「承認論」にシンパシーを感じています。従来は「アンチ承認欲求論」のほうはめんどくさいから、無視してきました。ただどうも無視しえない勢力になってきて本業の教育のほうにも影響が出てきたから、今年本格的に「承認欲求叩き批判」を開始した、というかんじです。床をあけてみたら想像以上にゴキブリの巣窟になっていたぜ、みたいな。
 新しく「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリを作りました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056406.html

 それはちょっと脱線でした。
 本書『ジェンダーにおける…』は、十三章からなる本ですが実は第一章「承認論とジェンダー論が交叉するところ」に目が釘付けになってしまい、その他の章はちょっとお留守です。
 それぐらい、インパクトのある第一章です。「承認」について、「愛」について、わずかなページ数で多くを語っています。

「はじめに」(越智博美、河野真太郎)より。


「本書は、一橋大学のリレー講義「ジェンダーから世界を読む」をもとに構想されたものである」
と編著者らは言います。

「そう、経済格差は自己責任という個人のレベルでのみ語れるものではないのだ。そしてこのことに今、世界じゅうが気づきつつある」(p.5)

「2014年の12月には、ついにOECDが『トリクルダウン』はしないどころか、格差があることが経済成長を妨げると述べ、従来のネオリベラリズム路線に修正の必要があることをみずから認めるに至った。この制度はおかしいのではないか、限界なのではないか。そのような感情が、おそらくトマ・ピケティの「21世紀の資本」(2013年)が爆発的に受容される裏にはある」(pp.5-6)

「フェミニズムにおける承認は実のところ再分配と切り離せないものではないか。現在の苦境はなにより、承認と再分配を並び立たない問題、ジレンマとして捉える発想にはまり込んでいることにも一因があるのではないか」(p.7)


 そしていよいよ
「第一章 承認論とジェンダー論が交叉するところ」(藤野寛)

 ここでは「承認」の語義の検討から入ります。大事なところです。

 「承認」はドイツ語ではanerkennen 。
 辞書的には、
「正当と認める、承認(是認)する、認可(認知)する、(他人の功労・業績などを)認める、賞賛する、高く評価する」。

 というわけで、日本語に移すときほんとうは「承認」よりは「認める」のほうが適切なのだ、と筆者。
 「承認」というのも名詞化する必要上、しょうがないんでしょうけどね。
 そうそう、わたしドイツ語わからないから困ってたんですよ、このへんのこと。

 では、日本語の「認める」にはどんな意味、どんな用法があるか。

,海亮更塢提案をお認めください。
∋愼涯鬼韻貿Г瓩蕕譟△箸討盍鬚靴ぁ
上空に何らかの飛行物体を認めた。
こ慊垢呂茲Δ笋自らの非を認めた。



 このうち、ドイツ語のanerkennenが表すのは´↓い澄△班者。

 ただの認識と「承認」を分かつものは「肯定的な価値評価」だと筆者は言います。「正当と認める」「是認する」「賞賛する」「高く評価する」というように、対象や相手に対して肯定的に向き合う姿勢が意味されている。

 それは、自然科学で使うような冷静・客観的な認識とは異なる性格のものだ、と筆者。


「その際、この観点がはらむ破壊力の深刻さは、ささやかなものではない。その点は、「事実と価値」に関する学問論的理念を思い浮かべるだけでも、容易に明らかになるだろう。いやしくも学問に携わる者は、(客観的)真理認識のために、まずは、価値判断に関わる自らの先入見を括弧にくくり、価値中立的な姿勢で事実そのものに向き合わねばならない、とする理念である。ところが、承認とは、そもそも対象や相手に肯定的価値評価をもって向き合う姿勢なのだ。」(同)

「そして―承認を認識から区別した上で―ホネットは、承認が価値中立の理念を裏切るにもかかわらず、承認を斥け認識に就くことを要請するのではなく、「認識に対する承認の優先性=先行性」テーゼを掲げる。つまり、承認こそ、人間の態度としてより基底的・先行的であり、認識という姿勢は、そこから派生ないし逸脱し、頽落し、むしろ、疎外されたあり方である、と主張するのである。われわれの世界に対する態度は、はなから、価値評価含みである。価値評価抜きに、中立公正に、客観的に世界と向き合っているのではない。関心によって駆動されており、魅かれ(angezogen)、あるいは反発する(abgestoBen)。」(pp.21-22)


―ここでは、現代ドイツを代表するヘーゲル研究者、アクセル・ホネットが繰り返し引用されているので、引用文中に「ホネット」が多出することをお許しください―

 「認識に対する承認の優先性=先行性」。すごいこと言いますねホネット。認識論については、正田のヒューリスティック趣味も認識論みたいなものですが、それとは別に、たしかにそうなんです。「承認」をやってると、いわば「温かい見方×冷たい(純粋客観的な)見方」の対立というか乖離がうまれます。ところが「承認」的な温かい見方がポジティブバイアスで間違った見方かというとそうでもない。対象者が人間の場合には、温かい見方をされることがむしろ自然の摂理にかなっていて、「生物学的に」成長することにつながり、ひいては多少贔屓目にみた見方が現実のものになってしまう、というのはよく経験するところです。あんまりバカ高い期待をしてもいけませんけれど。

 逆にこの後の記述で言う、「客観的とはいわば疎外されているのだ」、詳しく言うと、

「世界を冷静、客観的に認識することは、それはそれでとても大切なことだが、ただしその時、世界はわれわれにとってすでに「疎遠な」ものになっている。単なるモノの世界、死せるモノの世界、物象化された世界、その意味で、疎外状態にある世界である。こう考えるとき、「価値自由」という理念に拠る学問という営みは、すでに疎外の内にある世界との関わりであることになる。」(p.22)


 そういう「認識論のコペルニクス的転回」のようなことを、現代の承認論者ホネットは言っているというわけです。
 受講生様方おわかりになりますかしら。でも実践してみると、感覚的にわかるでしょ。

 よく、「承認」に関する拙著を読まれた方で「こういう体の構えが大事なんですね」ということを言っていただく、それは要はここでいうような、「純粋客観に先んじる肯定的な見方」ということを仰っているのかもしれません。


 そして承認概念には3つの型がある、と藤野はいいます。
 
 すなわち


⊃邑尊重
6叛喇床


 順番にみてまいりましょう。
 このあたり重要な記述ばかりで引用が続きますが大丈夫かなこんなに引用して。



「愛とは、相手を自分にとって大切な存在として認める、ということであり、その意味で、承認の一つの形である、と言うことができる。(略)その上で、そこにさらに、相手に対する情動上の強い結びつき(Bindung)がつけ加わるのである。
 結びつきとは、拘束とも表現されうる事態である。愛する相手に、私は―強く言えば―縛りつけられている。相手の一挙手一投足に一喜一憂するのだから。その意味で、愛とは、不自由の別名である。そして、にもかかわらずその拘束が、それほどにも大切な人が存在すること自体において、愛する当人に最強度の幸福をもたらしてくれるのである(もちろん、相手を憎みつつ縛りつけられているというケースもあるわけだが、それは、愛の形としてはすでに一種の倒錯であると言うべきだろう)」(p.23)

 ―ここは後で出てくるような母子関係を言っているともとれるし異性愛について言っているようにもとれますね。この藤野寛氏は1956年生まれの一橋大学教授、哲学者ですがまあ愛というものをビビッドな言葉で語るひとですね

「こう考えるとき、われわれが自由の語の下に考えているものの両義性もまた露わになってくるのではなかろうか。「他者=異なるもの」との結びつきを否定し、それから解放され、それなしに自足・自存し、さればこそ他者を自在にコントロールしうるポジションにも立ちうる、ということが、「自由」の語の下に考えられているのだとすれば、それはある意味で、疎外の一形態だとこそ言わねばならないのではないか」(pp.23-24)

「ホネットは、愛の説明において、「異なるものの内にあって自己自身であること(Selbstsein in einem Fremden)というヘーゲルの規定を援用する。この逆説的な規定を、ホネットは、さらに「愛という第一次的な関係は、自立性と拘束との間できわどくバランスをとることにかかっている」という風にほぐして解説する。「共生における自己犠牲と個人としての自己主張との間の緊張関係」とも言いかえられる消息である。愛とは、相手に対する感情面での「依存」を不可欠の要素として含む経験であるけれども、それは否定的に表現すれば「依存」ということになるだけであって―ヘーゲルに倣って―積極的に「異なるものの内にあって自己自身であること」と表現することも十分に可能な事態なのである。」(p.24)

「愛の経験の基底には―拘束と捉えることも可能な―相互依存的な結びつきがある。そして、この結びつきこそが相手に対する細やかでありながら熱い関心と働きかけを可能にする土台となるのだ、と言ってよいだろう。それは「助ける」ということの土台をなすものであり、「ケアの倫理」において浮き彫りにされてきた事態である。自由というあり方が、関係からの解放、その上で、関係のコントロールを志向するのに対し、愛の経験は、関係への沈潜、没入を下支えする。」(p.24)

「愛における共生に関する論述を、ホネットはしばしば、母子関係をモデルに展開してゆく。それは「すべての形態のより成熟した愛の基本的雛形として捉えられうるものだ」とも言う。その際、「成熟」とは何をすることか。その内容の一面は、乳児が、母親の内にも自らのそれと同じ「意図をもった行為者」を認めることにあるという。つまり、母親が、自らの欲求に無条件に応えてくれる、ある意味で、奴隷のような存在であるわけではなく、彼女にも彼女の人生があることを認め始める、ということだ(フロイトなら「欲動断念」というところか)。子の母に対する承認という場合、まずは、相手に対する全面的な信頼が前提にあり、自らの欲求に必ず応えてくれる存在、そのような大切な存在、ということが出発点にあるわけだが、その上に、相手を自律した存在として認める、という異なる方向性の承認(=尊重)が積み重なってゆく。親離れとも表現可能な事態であるが、生後九ヵ月あたりにそれが起こり始めるというのが、近年の実証研究の明らかにするところであるという(「九ヵ月革命」という表現すらあるのだという)」(pp.24-25)

「愛というこのタイプの承認にあって特徴的なことは、それが、特定の個人と個人の間で成立する承認であって、言うなれば、人を選ぶという点にある。われわれは、誰彼かまわず―その意味で、平等に―人を愛するのではない。ある特定の人と―その人とだけ―強く、深く結びつく。分け隔てを特徴とする承認であって、それは、普遍主義的基準を立てれば、欠点ともみなされうる特性である。(略)愛や介護(ケア)を女性の十八番として称揚する場合でも、その視野の狭さを確認して否定性をほのめかすということはしばしばなされてきたのであり、それに対して、男は人類社会に正義を実現しようとする志において偉い、というような話にもなる。だからこそ、愛さえも普遍化しようとする試みが「人類愛」や「隣人愛」の名のもとに繰り返されてきたわけだが、これは「究極の依怙贔屓」としての愛の本質を見誤り、それを薄めて解釈する振舞いだ、と言わざるをえない。」(p.25)

「ただし、ホネットは、愛の経験の重要性を倦むことなく強調しつつも、それを女性という一方の性に割り振る、という理論構築上の誘惑には一切屈しない。愛という形の承認は、言わば、人間的経験として重要なのであり、女性の占有物ではない。ホネットは、これまで女性の十八番に祭り上げられ、そのようにして女性に独占的に押しつけられてきたものを、人間全体に、ということはつまり男性にも奪い返そうとしているのだ、と言ってよい。
 考えてもみよう。仮に、ホネットが母子関係の内に愛という相互承認の形のいわば原型のごときものを見出すとしても、そこから、愛が、母(となりうる存在)にのみ帰する、との結論は決して出てはこないのだ。なぜなら、すべての子供が―女の子も、男の子も―母子関係における愛の経験を経由して大人になるのだから、その意味すべての大人はかつての子供として愛の経験のエキスパートなのであり、だからこそ、逆に、この時期に愛の経験を拒まれた幼児は、その後の成長過程において、しばしば深刻な心理的負荷を抱え込むことになるという点を、ホネットは繰り返し強調することにもなるのである。」(pp.25-26)



⊃邑尊重としての承認

 「基本的人権」の概念って、基本的にドイツ観念論の「承認」をよりどころにしているんですよ、ご存知でしたか。「すべての人が人格として承認される、尊厳を剥奪されない」ということを言ってるんです。

 
「承認論は、避け難い仕方で倫理学的問題に関わる。なぜなら、承認には肯定的評価が含まれるから。ただし、肯定の仕方には様々なタイプがありうる。例えば、人間として認める、という語用。これは、人間にカテゴライズする(人間という範疇に入れる)ということであって、プラスの点数をつける、という意味での肯定的評価ではない。「ある範疇に認め入れる」ということである。人権尊重とは、何か肯定的な資質・能力の故をもってプラスの点数をつけることとは関わらない。あえて言えば、その範疇に認め入れること、そのこと自体が、肯定なのだ。」(pp.26-27)

―重要な箇所。「あるカテゴリーに認め入れる」という作業を「承認者」の側からするとき、これは「被承認者」の「所属欲求」という名の「承認欲求」を満たしてやっている、と言いかえることもできる。
 一方でこれらはきれいに1対1の対応関係にはならないであろう、というのは、「あるカテゴリーにに認め入れられる」というのが、「被承認者」にとってはかなり大きな背伸びである場合があるからだ。
 よくTVで流れる「認められたい」という語には、このパターンが多い。
 例えば:
・芸人として認められたい。
 これは、その世界のプロとして認められるということは膨大な数の志願者の中から氷山の一角のようなきわめて低い確率で、人並み外れた努力をし才能を発揮することのできた者のみが「認め入れられる」わけであるから、単なる就職をするような「カテゴリーに認め入れられる」ことを意味しない。極めて高いレベルの集団に「認め入れられる」、いわば、第三のタイプの「公正な業績評価としての承認」によって、「最高ランクの集団に振り分けられる」ことを意味する。
・外国人嫁が日本人の姑に嫁として認められたい。
 これも、姑の「差別意識」というか「外国人への違和感」があるところから出発して、自分の努力によってそれらを取り除きたい、そこで初めて家族の一員として「認め入れられ」たい、ということ。極めて高い障壁を乗り越えたい、という願望を言う。
 そこでは、「認められる」ことに対して自分の側が努力を惜しまない、という姿勢がある。数年がかりの努力をするだけのファイト、ガッツがある。

 こういうことをNHKなどで「承認欲求」の言葉として「認められたい」と繰り返し流していることに、わたしなどは違和感をもってきた。
 もっとハードルの低い日常的なところに「所属し、認められたい」はゴロゴロ転がっているのではないか?ということ。
 お砂場の遊びともだちでも、学校の友達グループでも、あるいはボランティアグループでももちろんアルバイトから始まって正社員まで、ともに労働をする仲間としても。
 もちろんそうした場で「承認を剥奪」することはそれだけで残酷なことである。

6叛喇床舛箸靴討両鞠

「残る問題が、承認の第三のタイプ、即ち業績評価である。このタイプの承認は、公正な再分配が行われるための前提をなすものであり、したがって、「再分配か、承認か」という「あれか/これか」は、公正な業績評価(としての承認)に基づく再分配か、文化的アイデンティティの承認かと、二つの承認のタイプ間の「あれか/これか」という風にもパラフレーズ可能であると思われる。」(p.27)




●三つの承認の型の相違と相互関係

「愛は、限られた相手・対象に向けられる承認である。すでに確認したように、すべての人を愛する、ということはありえない。ある特定の人だけに向けられる承認、それが愛である。普遍・特殊・個別というカテゴリー・セットで言えば、(略)愛は一人の個人のみを対象とし、つまりは、個別に関わる。もちろん、子の親に対する、あるいは逆に親の子に対する愛のように、相手が複数となり、そのように愛の対象が拡張されることは大いにありうるのだが、だからといって、その拡張が融通無碍、無際限ということはない。とにかく、愛は人を選ぶ(差別する)のである。」(pp.27-28)

「それに対して、第二の承認の型である人権尊重は、普遍性志向を特徴とする。人を人として尊重(承認)するのは、人であるという点以外の特質は無視する、ということであり、愛が究極の依怙贔屓であるのとは対照的に、こちらは、一切の差別を峻拒する。」(p.28)

「普遍性へのこの関係は、第三の承認の型である業績評価にも認められるものだ。それは、評価基準の普遍性を前提する。つまり、公平で偏りのない基準に則る評価でなければならない、ということだ。ただし、この承認は、その結果においては差をつける。立派な業績は高く評価し、見劣りする業績はそれ相応に厳しく評価するのでなければ、公正な業績評価は成り立たない。誰にも同じ点数をつけることで差別を回避していては、評価(という承認)をしたことにならない。この点で、愛という承認との違いは歴然としている。親は、我が子が優れた能力・資質を備えるから愛するのではない。その意味で、親の偏愛は許されると思うが、教師が愛をもってクラスの生徒に接することは認められまい。」(同)

「これを、同一性/差異性というカテゴリー・セットに即して言えば、第一の承認が徹底して差異性の承認である(「あなただけを一途に愛す」)のに対して、第二の承認は同一性の承認であり(「あなたも私も同じ人間」)、第三の承認は、同一性を基準としつつ結果として差異を志向するものだ、と整理できようか。」(p.29)


●承認か再分配か

「しかし、ホネットにとっては、問題は「再分配か、承認か」という二者択一の形をとらない。承認か/認識か、承認か/再分配か、ケアか/正義か―これらの定式化は、いずれも二者択一を迫る点で、問題を捉えそこなっている。承認の経験の上にこそ、正義も成り立つ。後者を成り立たせる、いわば可能性の条件として、前者の意義を浮き彫りにすること、それがホネットの戦略である。(略)ホネットからすれば、批判的社会理論の改訂版にとって、承認こそより基底的な概念となるのであり、フェアな再分配のためにこそ、適切な承認がそれに先行しなければならない、と考えるのだ。」(p.31)

「承認を欠落させた再分配の試みは、適正な承認を伴うことは決してない」(p.32)
例:女性が担い手となる労働は低く評価される。労働の実際の内容にかかわらず。
⇒このようなバイアスが厳然としてあるからこそ、労働の価値は承認によって公正に評価されなければならない、と解される


●イデオロギーとしての「承認」?

 承認が差別や役割の固定化をもたらすという懸念はある。

「イデオロギーとは、虚偽意識の算出のメカニズム、という意味であり、承認はそれではないか、と自問される。ホネットは「承認という実践は、主体の強化ではなく、逆に主体の屈従という結果を生み出す」というテーゼを立て、自律ではなく、全く逆に自発的な屈従を生み出す巧妙な社会的装置としての承認、というこの論点を、さらに次のように解説する。」(p.36)

―例えば「良妻賢母」やアンクル・トムの卑屈な美徳に対して繰り返される賞賛。

―そういう承認はしないでくださいね受講生様。おおむね、「行動承認」に特化していれば、そういう間違いに陥らないですむ、と考えるわけですが油断は禁物。反動男性知識人なんかは容貌を褒めることで女性を自分の都合のいいように仕立て上げようとしますからね、要注意です。


「しかしホネットは、単純な価値の多元主義・相対主義を採らない。複数存在する価値評価基準をさらに比較しうる、いうなればメタレベルの価値を想定するのである。自律である。より高度の自律性を人に可能にする承認こそ、より適切な承認だ、とする論法である。そもそもなぜ、承認されるという経験が決定的に重要視されることになったのか、という着眼点は、それが人間の自律性を強化する、という点にこそ見出されたのだった。

 肯定的に評価するという態度は、明白に、積極的な性格を有している。というのも、そういう態度は、賞賛の向けられる人に、自己自身の資質と同一化し、従って、より大きな自律性に至ることを可能にするからである。」(p.37)

―不思議というべきか、「承認」によって「自律性」が育つという現象は確かにあります。いずれだれかが証明してくれるでしょうけれど。行動承認はそのためにやはり大事です。


「〔承認論の〕試みの全体は、そもそも、承認の欠如ないし不十分さという社会現象を起点として批判的に推進されてきたもの以外ではない。視野に収められるべきは、屈辱を味わわされたり尊厳を傷つけられたりするという現実の経験である。その経験によって、主体は、正当な理由ある社会的承認を与えられず、それに伴い、自律性を育てるうえで決定的に重要な条件を差し控えられてしまうのである。」(p.38)

―そうですね、残念ながらわたしにとってもやはり「承認欠如」の状態をみることが「承認教育の必要性」を繰り返し提唱する動機づけになっていると思います。「承認欠如」は自分にとっての、じゃないですよ。世間の、とりわけわが国では評価されることの少ない良心的な女性の働き手たちについて、思います。
 

 第一章からの抜き書きは以上です。
 このあとの章はわが国におけるフェミニズムの現状や性的マイノリティについての言及が続きます。それなりに興味深いんですが―、


「第十三章 表象=代表(representation)、知識人、教育」(中井亜佐子)から、マララ・ユスフザイに関する記述を抜き書きして、終わりたいと思います。

「彼女(マララ・ユスフザイ)はここ(国連スピーチ)で、みずからrepresentationという困難な任務―表象でありつつ、代表でもあるということ―を引き受けている。それはまさに、スピヴァクが定義する意味での「知識人」の任務でもある」(p.303)

「しかし、マララ・ユスフザイの教育への熱意に接するとき、わたしたちはみずからの教育に対するシニシズムを、いったん学び棄てる必要がある。彼女の言葉はわたしたちに、教育とはなんであったか、あるいは未来においてどのようなものでありうるかをあらためて思い出させてくれる。」(p.308)


「ここでユスフザイが使う一人称複数代名詞「わたしたち」は、「教育という大義のために」団結する人びとを指しているが、「わたしたち」はまた、教育を通じていっしょになり、団結する。知識は「武器」であり、団結は「盾」となる。(略)そして、この「わたしたち」の立ち上げそのものが、彼女にとっての教育の目的でもある。この瞬間、わたしたちが目撃しているのは、representationという任務をみずから引き受ける女性知識人の誕生である。」(p.310)


※藤野寛(第一章の著者)論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)


 


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 1つ前の記事に取り上げた本『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』はわたしの仕事的に非常に示唆に富んでおりました。

 モチベーションに関しては従来心理学分野で言われ、そこでは割と「言ったもん勝ち」と言いますか、恣意的にいろんなことが言われておりました。「内発と自律論」もそうですが承認教のご本尊の1つともいえるマズロー五段階欲求説なども、広く流布してはおりますがどこまでの妥当性があるのかの議論は「保留」という感じでした。

 アメリカは1990年代を「脳の10年」と呼びその後も脳科学が発展し続けました。fMRIについては一部でその限界も言われておりますが、本書でほとんどすべての実験にfMRIによる検証が行われているのは、心強く感じることであります。そういうものが「ない」状態で恣意的なことが言われてきた時代に比べれば。

 また遺伝子学や認知科学、それに神経経済学もそれぞれ発展し、心理学で言われてきたこともさまざまな自然科学分野の手法でメスが入れられるようになりました。実験デザインもそれぞれに工夫され、「ミラーニューロン」の知見についても「発見―批判―再発見―再批判」が繰り返されて「ここまでのことは言える」と精度が上がっているのはすばらしいことです。

 さて、本書に触発されて、
1.「マズロー五段階欲求説」のわたし流の解体、
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討、
3.「承認」と「規範」の関係
―を書きたいと思います。よろしくお付き合いくださいませ。


1.「マズロー五段階欲求説」の解体

 本書には
「生理的欲求の中に『愛されたい欲求』が含まれる。マズローのピラミッドの最下段にこの欲求が来ないといけない。愛され世話されないと人間の乳児は即死んでしまう。そのため『愛されたい欲求』を人間は生涯持ち続ける」
という指摘があります。
 大いにうなずけるもので、「愛される欲求」は従来マズローのピラミッドの下から3番目、「社会的欲求/所属と愛の欲求」に入れられていましたが、実はもっと根源的なものであろうと思います。
 たぶん人間は老人になっても生涯「愛されたい(ついでにリスぺクトされたい)」と願うものです。たとえ愛される愛されないが自分の生死に関わる問題でなくても。

 欲求には階層がある、と最初に言ったのはヘーゲルだったんじゃないですかね。『法の哲学』の中にそういうのが出てきましたね。もっと前の人も言ってたでしょうか。ヘーゲルはあんまり細かい区分は言ってなかったと思いますけど、「承認」という言葉を再生させたマズローはヘーゲルの影響は受けたんでしょうか。

 ちなみにマズローの欲求5段階説をWikiに載っていた図を拝借すると、こうなります

欲求5段階説


 でわたし流の欲求の再区分は、ざくっと「生理的欲求」と「社会的思考の欲求/承認欲求」「非社会的思考の欲求」の3つに区切ってしまいます。すごいアバウト。血液型O型ですかって?いえA型ですけどね。

 でもオリジナルで(まあ、『21世紀の脳科学』に触発されてるんですが)「非社会的思考の欲求」というのをつくって、これは「社会的思考の欲求」の領域の中に食い込んでいます。よくみると従来「自己実現欲求」に分類されていたイチロー的なものがそこに入っているかも…。
 
 議論が分かれると思いますけどね。とりあえず暫定的に作ってみましたね。盗用剽窃しないでくださいね。

欲求段階説正田バージョン201510


欲求段階説正田バージョン2015年10月。禁無断転載



 図形の形がゆがんでいるとか色遣いがヘタクソだ、といった批判は受け付けません。

 えーと、「社会的思考の欲求/承認欲求」として、従来「承認欲求」「所属と愛の欲求」とされていたものを、ここにひとまとめにしてあります。
 よく言葉の乱れとしてあったのは、従来の区分で「所属欲求」としたほうがよいと思われるものを「承認欲求」の中に入れていたことです。スマホで友だちとつながりたい欲求を「承認欲求」とよぶとか、いじめの共犯者や傍観者の形で加担することを「承認欲求」とよぶとか、ですね。
 で今回の区分では、所属欲求も「承認欲求」の下位概念ととらえ、包摂してしまいます。何でも食ってしまうブラックホールみたいな奴だ。たぶん脳科学的にもきれいに「切れない」んではないかと思いますのでね。そのぶん「承認欲求」がわるさもすることにはなりますけどね。
 あっ、犯罪心理学でおなじみの「自己顕示欲」もやっぱり「承認欲求」に入れちゃいました。わるさをすることにつながりそうな要素を「承認欲求」の最下段にまとめましたね。
 また、「内発と自律論」について以前「含む、含まれるの関係でございます」なんて書きましたが、「自律欲求」を、やはり「承認欲求」の少し高次な1ジャンルとして加えてあります。「私、自律的に仕事ができるんだからアゴで使わないで任せてください」っていうのも「承認欲求」の一形態です。今どきの在宅勤務なんかもこれで解決できるんではないかと思います。

 
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討

 1つ前の記事でもかなりコメントを書きましたけれど、欧米的な「独立した個人としての自己」という自己感がだいぶ怪しくなってきました。
 当ブログでは、2009年の秋に大井玄という人の『環境世界と自己の系譜』という本の読書日記を延々とUPして、欧米の「アトム型自己」と東洋の「つながりの自己」との対比を取り上げました。
 参照されたい方はこちらが筆頭の記事になります
 日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より

 その欧米の「アトム型自己」がどうも幻想に基づくもののようだ、ということが本書では沢山の脳科学の知見を添えて書かれています。
 わるいのは「人間は利己的だ」と言ったホッブズとヒューム、それに「心身二元論」を言ったデカルトみたいです。
 そういう“美しい誤解”をしていても欧米社会がそれなりに繁栄してきたのは、ひとつには元々オキシトシン受容体遺伝子の高オキシトシンのスニッブを持つ人が多く、ほっておいても他人との信頼関係のつながりを強く感じて生きられる人が人口比で多いから、という解釈ができるんではないかと思います。

 日本人をはじめアジア人種は遺伝子的にはそういうつながり感というのは弱くて、どうやってカバーしてきたかというとひょっとしたら、フェミニズムの人に叩かれるかもしれませんが、お母さんがずーっとおんぶとか抱っこして皮膚接触を絶えずするような子育てをしていたから、という解釈ができるかもしれません。べつに「お母さんが」じゃなくてもいいんですけど。
 なので、保育所の数が整備されてもそこで働く保育士さんの数が十分確保できないうちは、私個人は子供を乳児のうちから預けて働くことにあんまり賛成できないのです。皮膚接触の絶対量が少なくなってしまいますから。

 あ、それは脱線でした。

 で「内発と自律論」です。
 これらは、上記のホッブズヒュームデカルトらの言葉を盲信しちゃった延長線上にあるであろう、「自分は依存的ではない、自律的だ」と思ったほうが自分に誇りが持てるであろう。とともに断言はできませんが、「内発と自律論」は元々アメリカ心理学界で行動主義/行動理論が普及し権威を持ったことへの反発反感から生まれたようなところがあり、デシの「金銭的報酬がやる気を下げる(ことがある)」という実験も、「だから、報酬を与えることは良くない」という結論を導き出すことはできないものでした。そういう風に拡大解釈して乱用した方も一部にいらっしゃいますが。
 そしてリバタリアニズムの、「がしがし働いてアメリカンドリームを実現した人だけが大金持ちになればいい」という、なんというか「夢中華思想」「成功者ナルシシズム」っていうか、そういうのにも合流し利用されたようにもみえます(リバタリアニズム本当にそんな思想なのか!?)
 このへんはあまりちゃんと調べて書いてるわけではないんですけどね…。
 「内発と自律論」はモチベーション業界で周期的に流行るもので、最近のアメリカではジャーナリストのダニエル・ピンクの『モチベーション2.0』がこの流れで有名ですが、ジャーナリストは唯我独尊の小生意気な職業ですからねえ。
 いくら「ものは言いよう」的にジャーナリストやモチベーション業界の人が言っていても、本書で言うように課題をこなしたあとの休憩時間には他人のことや社会のことが頭に浮かぶのが人間の習性であります。逆にそれが「ない」人は…問題発言になるから、やめとこ。
 「内発と自律論」をわたしが毛嫌いする理由はほかにもあって、実はそれは悩める青少年〜中堅を自己啓発本・自己啓発セミナーの永遠の迷路に引きずり込む入口の商材にもなり得るからです。
 「承認研修」がいくら正しくても、頭でっかち系の職種のこの手の自己啓発にかぶれた若手〜中堅のこころには入っていかない。それは、本書で言う(「自立した個人」という)「自己充足的予言」にかぶれているため、こころが頑なになっているからです。
 それは、彼ら彼女らのために惜しい、と思います。彼ら彼女らの学習能力をむしばんでいます。
 あとは、わたしにとって難攻不落のように思えていた「ジョブズスピーチ」の誤りも指摘してくれているので、ジョブズ決して嫌いではないんですが、あれも「自己充足的予言」に結構なりえるので、非常にスッキリしました。


3.「承認」と「規範」の関係

 これも1つ前の記事の後半部分にかなりコメントで書いておりますが、
「承認すると規範意識が上がる」
という、風が吹けば桶屋が儲かる的な現象があります。
 あるリーダーが部下を承認していると、リーダーが会社のルールやコンプライアンス的なことで指示やお説教をした場面でも、部下はリーダーの言うことを素直に受け取ってくれやすい。
 現象としてはこれまで繰り返し見られてきたことで、これまではその理由を、
「自分を承認されて(特に行動承認を含む承認をされて)感じる喜びはリアリティのあるものなので、承認してくれる人の言うことはそれがコンプラ的なことであっても、リアリティをもって聴けるのです」という説明をしてきました。この説明自体も別に間違いではなかったと思います。
 ところが、脳科学的に、「承認されて喜びを感じる領域」と「外部の規範を取り入れる領域」は同じだ、というではありませんか。
 それじゃ、この2つがダイレクトにつながっていても無理ないですよね。
 社員の規範意識を高めたかったら、承認をしましょう。
 逆にたとえば、ベネッセの個人情報流出なんかも犯人は契約社員だったということですけれど、本人の性格や経済状況の問題もありますが「承認されてない」という問題を抜きには語れなかったんではないでしょうか。(だから、やっぱり正社員/非正規社員の区分も、見直しが必要なんですよねー。改正派遣法は改悪なんちゃうの?と思いますが)

 以上で「考察編」は終わりであります。

 まだ未熟な考察ですが、ご意見ご批判がありましたらコメントかメッセージでもいただければ幸いです。

 

21世紀の脳科学表紙画像


 『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(原題’SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’、マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月20日)を読みました。
 「ソーシャルブレイン」「つながり脳」の系統の脳科学の本。この手の本が好きなのは決して広井教授に影響されたからではないと思います。わたし自身のもとからの選好だと思います。

 脳科学本としては“軽い”文体の本なのでささっと読んでスルーできるかと思ったらあにはからんや、正田の分野的には読み過ごすことのできない重要な知見、主張がたくさんありました。
 例えば「マズローの欲求五段階説」の解体、欧米的「自立した個人」の幻想、スティーブ・ジョブズのスピーチへの反論…。

 今回は二部構成として、まずは本書の内容を一通り押さえたうえで、別建てで正田のほうに引きつけた考察の記事を書きたいと思います。

 著者は、「カリフォルニア大学ロサンゼルス校心理学部教授、精神医学・生物行動科学部教授。社会認知神経科学分野において、世界で最も注目される研究者のひとり」と紹介されています。本書の中ではfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた実験が多数出てきます。若手研究者に贈られる賞を2007年に受賞したとありますが生年が書いてない…。たぶん若いんでしょう。まあいいや。

それでは恒例の抜き書きでございます。(特に断りのない場合は要約)今回はワード20pになってしまいました。職場活性化や教育現場への応用についても終章近くで触れているので、ご興味のあるかたはこの記事をうしろからお読みください。

●大統領選も「自分でなく、他人がどう思うか」に左右される。1984年、レーガンとモンデールのTV討論を聴いた人は、「レーガン健在」と信じたが、それはTVスタジオの聴衆の笑い声に左右されていた。

―アメリカのTV番組の聴衆って大しておもしろくないところで笑いますよねー。あれがいつも不思議でした

●「社会的思考」と「非社会的思考」の定義。
本書で述べる「社会的思考」とは、自分自身と自分を取り巻く周囲との関係や、社会のなかで自分がどう行動するのかを考えるための思考である。つまり、周囲のできごとや社会生活のなかで受け取った情報を処理して、自分自身を知ったり、相手の心の状態を読み取って他者を理解したり、周囲の人間関係について考えたりして、社会的に行動するための思考と言えるだろう。社会的思考に優れた人は、他者とうまく交流したり協調したりして、豊かな人間関係を築き、充実した社会生活を送る能力の持ち主である。
 
 一方の「非社会的思考」とは、文字通り、社会的思考以外のあらゆる思考を指す。そのなかには先にも述べた、チェスをしたり、微分積分を解いたり、ものごとを論理的に分析したりする抽象的な思考能力ももちろん含まれる。世間では、論理的思考能力や分析能力に優れた人を「頭のいい人間」と見なす傾向にある。

●社会的思考と非社会的思考とを脳はまったく別の領域で扱う。そのため複数の領域が連携し合って働く、それぞれのネットワークが発達した。しかもそのふたつのネットワークは、たいてい“互い違いに”働く。社会的思考のネットワークがオンになると、非社会的思考のネットワークはオフになってしまうのだ。

―ここです。少し前の記事で「論理的思考能力と感情認識力はトレードオフ関係ではない、両方優れた人もいらっしゃる」という意味のことを書きましたが、現実には両方優れている人は珍しく、とりわけ学者さんやコンサルタントさんの業界は論理的思考能力「だけ」が強い人が大半を占めている。その人たちがモチベーションを語ると非常におかしなことになる、ということを正田は前から言っていたわけですが。
「両方優れた人」というのは、相当意識してトレーニングした人たちなのかもしれないです。

●自己とは、私たちが考えるような“難攻不落の砦”に囲まれたものではない。それどころか、周囲の考えや価値観を簡単に取り入れる“スーパーハイウェイ”のようなものだ。自己という概念を生み出す脳の同じ領域を使って、進化は、私たちのなかに社会の信念や価値観をうまく取り入れる仕組みをつくり出した。こうして、私たちは自分でも気づかないうちに外部の信念や価値観を自分自身のものと思い込み、社会規範に従い、集団や社会との調和を図ろうとする―そしてそれこそが、進化が私たちに与えた第3の脳力「調和する力」である。

●私たちが言語を獲得したのは約5万〜数十万年前と考えられている。それに対して、私たちの祖先が社会性を獲得したのは、少なくとも哺乳類が地球上に初めて誕生した約2億5000万年前にまでさかのぼる。つまり私たち哺乳類の祖先は“社会的動物”になることで、厳しい生存競争を勝ち抜いてきたのだ。…となると、人類が持つ優れた特徴とは、言語でも理性でも拇指対向性でもなく、進化が私たちに与えた「社会性」と言えるのかもしれない。

●第一の脳力「つながる」。哺乳類が初めて誕生した時、進化は私達の祖先に「社会的苦痛」と「社会的喜び」という、ふたつの基本的な動機を与えられた。未熟なままで生まれ、ひとりでは生きていけない乳児は、常に養育者とつながり、世話をしてもらう必要がある。そこで乳幼児の脳は、養育者から放って置かれるという社会的な分離を、「社会的苦痛」として感じるように発達した。一方の養育者の脳も、我が子の世話を報酬と捉え、「社会的喜び」を感じるように発達した。…しかも、養育者と常につながっていたいという乳幼児期の欲求は、成長後も失われず、生涯にわたって私たちの考えや行動を決定づけるのだ。

●第2の脳力「心を読む」。人や集団や社会とつながり、また他者と戦略的にやりとりするために、進化は私たちに、もっぱら他者の心の状態を読み取るための脳のネットワークを与えた。相手の考えや目的や意図を読み取る脳力のおかげで、私たちは協力し合って難しいアイデアを実現したり、周囲の人間の望みや欲求を予想したりして、集団をスムーズに運営できるのだ。まず「心の理論」、さらに「メンタライジング系」と「ミラー系」という2つのネットワークはそれぞれ異なる機能を持ち、たいてい相互補完的に働く。

―共感の回路。2つのネットワークのそれぞれの役割も後の章で注目です。ちなみに「行動承認」はそこで何をやっているのかというと…。

●第3の脳力:「調和する」:自己観―「自分とは誰なのか」という概念―を生み出す脳の領域は、私たちが周囲の影響を受け、社会の規範や価値観を取り入れるルートでもあるのだ。脳はその同じ領域を用いて、当の私たちも知らないうちに、外部の信念や価値観を私たちのなかにこっそりと運び込んでいる。こうやって私たちの脳は、社会の規範を内面化し、その上に自分自身の自己観をつくり上げ、私たちが外部の信念や価値観に従って考え、行動し、社会の調和を生み出す仕組みをつくりだしたのである。

―「規範の内面化」に関する興味深い考察。後の章では「トロイの木馬」という比喩も用いられています。実はここも、「承認をするとなぜ(部下の)規範意識が高まるか」という点で要注目です。


●脳の「デフォルト・ネットワーク」。1977年、神経学者のゴードン・種ルマンはPET(陽電子放射断層撮影)を用い、「認知、運動、視覚的弁別課題を行っていない時に活性化する領域」を発見した。これを「デフォルト・ネットワーク」とよぶ。何かの課題が終わったときに“デフォルト(初期)設定として現れるネットワーク”という意味。このネットワークと脳の社会的認知ネットワークとがほぼ一致する。休み時間、脳は活発に動き、社会のできごとや周囲の人びとにまつわる情報を処理する認知プロセスに忙しい。

●人間はこの世に生まれるとすぐに、生後2日の新生児の脳でも、デフォルト・ネットワークが活性化する。

●人間と他の霊長類を分ける特徴のひとつとして、脳のサイズがあげられる。とりわけ私たち人間は、前頭前皮質と呼ばれる、目のすぐ後ろに当たる前頭葉の前側の領域が大きい。前頭前皮質は、ほぼどんなソフトウェアでも搭載できる汎用コンピュータによく喩えられる。

●一般的知性や一般的な認知能力と関係がある領域は脳の外側の表面である。一方、社会的知性を働かせる時には、たいてい脳の内側の領域が活性化する。
 さらに、社会的思考を支えるネットワークと、非社会的思考を支えるネットワークは、“シーソー”の両端のように互い違いに活性化する。

●人間の脳は、脳化指数という指標を用いるとバンドウイルカの1.5倍、チンパンジーやアカゲザルの4倍近くにもなる。また人間の前頭前皮質は他の動物と比べても飛びぬけて大きい。

●大きな脳はどんな脳力を提供してきたのか。専門家の3つの仮説は:1.「個人の問題解決能力」。2.「他者の真似をする、個人の社会的学習脳力」。3.「互いにつながり、協力し合う能力」。

●1990年代初め、進化人類学者のロビン・ダンバーは、新皮質比と群れの規模との間には相関関係があり、新皮質比が大きければ大きいほど、群れも大きいという事実を発見したのである。


●マズローの間違い。1943年、心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を5段階のピラミッドで表す「マズローの欲求5段階説」を発表した。最下段から「生理的欲求」、「安全欲求」、「社会的(愛と帰属の)欲求」、「承認の欲求」そして「自己実現の欲求」である。マズローは、これらの5段階をすべて実現した人を「自己実現者」と呼んだ。

●ところが乳児を例にとると、乳児にも水や食べ物や安全が必要だが、乳児は自分ひとりではこれらの欲求を満たせない。そのため、生まれた瞬間から哺乳類の赤ちゃんにとって必要なのは、「生理的欲求」と「安全の欲求」とを満たしてくれる養育者の存在である。とすると、マズローのピラミッドは間違っている。乳児にとって最も重要なのは「社会とつながり、誰かに世話をしてもらう」という欲求だからだ。つまり、ピラミッドの底辺は「生理的欲求」ではなく、「社会的(愛と帰属の)欲求」でなければならない。人はつながりを渇望する。なぜならつながりは、私たちが生き残るうえで最も基本的な欲求と深く結びついているからである。

―マズロー5段階欲求説をひっくり返す説。元々wikiにもマズロー説には科学的厳密さがないとの批判が載っているが。わたしもこのところ、マズローのカテゴリ区分や重要性の順位を見直す必要があるのではと感じていたので、大変タイムリーでございました。食べ物の前に愛が必要なわけございますね。

●ボウルビイの愛着理論。当ブログでも再三ご紹介したでしょうか。フェミニズムからは批判されたが、今日ではほぼ定説。
 愛着理論とは、泣いたり、まとわりついたりして愛着を求める乳幼児の欲求に養育者が積極的に答えることで、ふたりの間に強いきずなが結ばれるという考え方である。ボウルビイによれば、乳幼児は生まれ持った“愛着システム”によって、常に養育者との距離を監視し、愛着関係が脅かされるとすぐに警報を鳴らすという。警報は内面的には“不快な痛み”となり、外面的には“分離苦痛の泣き声”となって現れる。そして、激しい泣き声を聞いた母親を急いでそばに呼び戻すのだ。乳幼児期に私たちを大泣きさせたこのシステムは、のちに成人した私たちを、泣きわめく我が子の元へと走らせる。愛着システムは失われない。養育者とのつながりは、乳児にとって生き残りをかけた欲求である。だがその代償として、私たちは「愛されたい」という欲求を命尽きるその日まで持ち続ける。私たちが生涯を通して味わう社会的苦痛は、すべて乳児の頃の生き残りをかけた欲求から生まれたものなのだ。

●1978年、感情神経科学者のジャーク・バンクセップは、「社会的愛着は身体的苦痛系に便乗し、オピオイドによって機能する」という説を発表した。バンクセップは、動物の母子に見られる愛着行動とドラッグとの類似性を指摘する。動物の母子を分離すると、ドラッグを中止・減量した時の離脱(禁断)症状のような苦痛を引き起こす。その一方で、母子を再び引きあわせると、双方のつながりが痛み止めのように作用して苦痛が和らぐ。しかも両者の間には、依存と呼ぶにふさわしい満ち足りた愛着関係が存在する。イヌを使った実験では、親から引き離されたときモルヒネを与えられた子イヌは、ほとんど鳴き声をあげなかった。さらに分離後に再び母子を会せると、母イヌと子イヌの両方でオピオイドの分泌量が増した。この実験結果は、「身体的苦痛と社会的苦痛とを脳が同じように扱う」という仮説を裏付けた。

●背側前帯状皮質の機能。私とナオミはこの領域を脳の「警報系」と名づけた。「問題を検知し」「警報音を鳴らす」というふたつの機能を持つ領域として捉えた。この領域は情動をも引き起こし、私たちの苛立ちや不安といった情動を強く感じれば感じるほど、強く活性化する。

―預言者カサンドラはいつもイラついている、またイラつくからまた色んな悪い兆しに敏感になるというお話。このブログの読者の方の中にも、心当たりはないでしょうか―。ひょっとしたら福島原発の事故を未然に予測した人もイラついていたかもしれません(ひょっとしたらそれで周囲からイヤがられていたかも)

●死別や失恋、他者からの批判、あるいはただ単に相手の咎めるような表情を見た場合でも、背側前帯状皮質は活性化する。

●いじめがもたらす苦痛。「サイバー・ボール」というコンピュータゲームで仲間外れにされた経験をすると、被験者はそれがプログラミングであるとわかっていても社会的苦痛を感じずにはいられなかった。いじめは広く蔓延する社会的拒絶であり、アメリカ、イングランド、ドイツ、フィンランド、日本、韓国、チリで行われた調査では12〜16再の生徒の約10%が日常的ないじめを受けている。しかもその85%は身体的な暴力を含まず、心無い言葉を投げつけたり、噂話の標的にしたりという陰湿ないじめだ。いじめられたほうは長く苦しむ。抑うつ状態に陥り、自殺まで考える。1989年にフィンランドで5000人以上を対象に行われた調査では、8歳の時にいじめに遭っていた人が25歳までに自殺する割合は、いじめられなかった人の6倍にのぼった。

●公平に扱われると報酬系が活性化する。fMRIと「最後通牒ゲーム」を使って測定したところ、公平な扱いを受けた被験者の脳では報酬系が活性化していた。また別の実験では、金持ちグループの被験者と貧乏グループの被験者との金額差が縮まり不公平さが解消された時には、金持ちグループの被験者の脳で報酬系が活性化していた。利己的な計算よりも公平さが優先されたのである。

―不公平感・公平感は霊長類にも表れる感情で、倫理観の一番基礎だという知見も前にありましたね。あれは『共感の時代へ』だったかな。このパラのあとの方の知見は、金持ちグループと貧乏グループがペアを組んでface to faceの関係であることに注意が必要でしょう。相手が目に入らないとき平気で「1人勝ち」を志向する人はいっぱいいますから。

●一次強化子と二次強化子。一次強化子とは人間の基本欲求を満たし、生命を維持するために必要な水や食べ物、体温調節といったもの。二次強化子とは、それ自体は報酬の働きを持たないが、やがて学習や経験によって報酬を“予測できる”ために強化子となる要素である。人間にとって最も身近な二次強化子といえば、やはりお金だろう。

●自分に関する感動的な手紙を読むと、水や食べ物などの報酬を得た時と同じように、大脳基底核にある腹側線条体と呼ばれる領域が活発に反応する。

●褒め言葉は好意的な評価といった社会的報酬は、一次強化子と二次強化子の両方と言えよう。

●哲学者のホッブズとヒュームは、人間は自己の利益を優先すると述べた。しかし囚人のジレンマとfMRIを使った実験では、これとは異なる結果が出た。Bのプレイヤーが協力を選び、その選択を知って同じように協力を選んだAの脳では、協力しないを選んだ時よりも、(自分の取り分が減ったにもかかわらず)報酬系である腹側線条体が活性化していた。腹側線条体はどうやら、個人が手に入れる金額よりも、双方が手に入れる合計金額に強く反応するらしい。さらに言えば、協力を選んだ時、社会規範に従う時に活性化する外側前頭前皮質に反応はなかった。つまりプレイヤーは社会規範に従って協力を選んだのではなく、本心から協力を選んだのである。

●利他主義。人に役立っていると感じると報酬系が活性化する。カップルを対象に、女性がMRIのなかに入り、恋人の男性はそのすぐ外で電気ショックを受ける。MRIのなかの女性には、「恋人の腕」か「小さなボール」のどちらかを握ってもらう。すると、ボールよりも恋人の腕を握っていた時のほうが、自分が恋人の役に立っているという感情を女性は強く味わった。さらには、電気ショックを受けている恋人の腕を握っていた時に、女性の脳の報酬系が最も強く活性化したのである。大好きな恋人が痛がっているに違いないと思いながら腕を握っている時、自分が恋人を支えているという満足感を女性は強く感じたのだろう。

―意味深な実験だ。恋人が痛がってるのに快感を感じているなんてエゴイスティックにも見える。時々、お叱りを受けるかもしれないけれど慈善行為や災害ボランティアにもその匂いを感じることがある。あんたも行くじゃないか災害ボランティア。よく、「だめんず好きな女性」というのがいるけどあれもこの傾向の強い人なのかな。

●2種類の社会的報酬―「人から好意を持たれる時」と「相手の世話をする時」―には、それぞれ脳の違うプロセスが関係している。人から好意を持たれる時には、オピオイドによって“快”の情動が生まれる。一方、相手の世話をする時には、快感物質であるドーパミンの放出に伴ってオキシトシンが分泌される。

―ここは、ポール・ザックの本の記述と食い違うかも。ザック本では、オキシトシンの分泌に伴ってドーパミンが分泌されると言っているから。どっちが先なんだろう、どっちもありなんだろうか。

●子の世話をしたいという感情は、脳の腹側線条体と腹側被蓋野―どちらも報酬系だ―で作用するオキシトシン濃度と関係がある(腹側被蓋野は脳幹の上部に位置する領域)。一説によると、腹側被蓋野でオキシトシンが分泌されると、その刺激によって腹側線条体でドーパミンが分泌されるという。また、腹側線条体と隣り合った中隔野でオキシトシンが作用すると、恐れの感情が和らぐ。

―最後の一文、ほらね、「承認されると勇気がわく」メカニズムってあるでしょ?本書では言っていないけれど「信頼されたと感じるとオキシトシンが分泌される」っていうメカニズムがありますからね。

●オキシトシンには「世話」と「攻撃性」両方の働きがある。人間では、オキシトシンを投与すると、囚人のジレンマのような行動経済学のゲームに参加する時に気前が良くなる反面、人種の違うプレイヤーに対しては攻撃的になりやすい。このようにオキシトシンは、自分が属する内集団のメンバーをひいきにし、“よそもの”である外集団のメンバーに対しる敵意を促す。

●霊長類かそれ以外の哺乳類かによって、敵味方を分ける境界線が大きく異なる。霊長類以外の哺乳類では、オキシトシンが働くと、内集団以外の相手をすべて潜在的な脅威と見なし、その敵に対して攻撃的な態度をとる。一方、人間の場合は、相手を少なくとも3つのカテゴリーに分ける―「好きな集団のメンバー」「嫌いな集団のメンバー」「どちらに属しているかわからない、見知らぬ相手」。オキシトシンを投与すると、好きな集団のメンバーには親切にする傾向が強まり、嫌いな集団のメンバーに対しては敵意が強まった。それでは、見知らぬ相手に対しては?好きなメンバーの場合と同様に、親切にする傾向が見られたのである。

―オキシトシンの内集団びいきの傾向。だから宗教戦争はコワイのだ。うちらの心理学の教団同士も大変です、なんでそんなひどいことできるの?っていうこと平気でしはります。このへんは要研究課題です。
「味方か敵かわからない相手には親切にする」というのはちょっと救いですね。

●“偽の利己主義”の正体。社会的報酬について、私たちはつい脳の反応とは反対の答えを言ってしまう。
社会心理学者のデイル・ミラーは、この“偽の利己主義”の根本的原因を突き止めた。「利己主義こそがあらゆる動機の源泉だ」というホッブズやヒュームの主張が「自己充足的予言」になってしまったと、彼は言うのだ。自己充足的予言とは、無意識のうちに、周囲や世間の期待に応えるような行動をとってしまい、結果としてそれが現実のものになってしまう現象を指す。偉大な哲学者が「人間は利己的だ」と述べたせいで、社会全体がその期待に沿うように行動してしまった。つまり、「人間は利己的だ」と教えられてきたために、私たちはその文化規範を遵守しようとし、利己的に見える態度や行動を取ってしまうのだと、ミラーは考えたのである。

―なるほどー。でも幼児の世界をみていると「自然状態」っていうか思い切り利己的にふるまいあっているようにも見えるんですけど、そこはミラー先生、どうでしょ。
ただ「利己的」と暗示をかけることによって(要は暗示ですよね)大人が利己的に振るまい合っているという部分は確かにある気もします。わが国では「団塊教」という宗教があり、そこでは「人間社会は競争で成り立っており他人を押しのけて自分ひとりが勝ちを取りにいかなければならない」と教えています。それで大分企業組織が傷んでいます。また「内発と自律論」との関係も悩ましいですねー。あれも自己暗示になるとちょいと困ります。

●私たちは、利己的な動機と利他的な動機の両方を持っている。霊長類は、なんの物質的な見返りもないとわかっている時でさえ、他者を助けようとする。見返りを期待するかどうかにかかわらず、人を助けると、助けたほうも心地よい幸せを感じる。
 利他的に人を助ける行為は、利己的な行為と同じくらい自然である。学校でそう教わり、その事実を良く理解していれば、利他的に行動する時に味わう“後ろめたい気持ち”を感じずに済むのではないだろうか。

―「人間は利他的だ」という暗示を教える。おもしろい提言だ。北欧かどこかでやっているところがあるのではないだろうか。

●演繹法か帰納法を用いて論理的な思考を巡らせている時には、脳の外側前頭前皮質と外側頭頂皮質が活性化する。外側頭頂皮質は、「ワーキングメモリ(作業記憶)」と深い関係がある領域だ。

●心の理論も外側前頭前皮質や外側頭頂皮質と関係があるのではないか?実はそうではない。メンタライジングの必要がないセンテンスを読むと、言語やワーキングメモリと関係のある外側前頭前皮質が活性化する。ところがメンタライジングの必要な文章を読む時には、背内側前頭前皮質(DMPFC)や側頭頭頂接合部(TPJ)、後帯状皮質、側頭極が活性化する。。側頭頭頂接合部は、側頭葉と頭頂葉とが接する領域を指す。後帯状皮質は帯状皮質の最後部に位置し、側頭極は側頭葉のいちばん前の部分である。

●この15年間、たくさんの専門家が同様の実験を行い、次のように結論づけた。第1に、メンタライジング能力を働かせている時には、ほぼ例外なく背内側前頭前皮質と側頭頭頂接合部が活性化する(後帯状皮質と側頭極もかなりの割合で活性化していた)。そのため、私はこの領域を「メンタライジング系」と名づけた。第2に、ワーキングメモリや非社会的思考、流動性知能に関係のある領域は、これらの実験の間、ほとんど活性化していなかった。つまり進化は、社会的思考と非社会的思考とにまったく別のネットワークを与えたのである。

●冒頭で述べたデフォルト・ネットワークを強く活性化させてきた人ほど、社会的な思考に優れていることが証明された。安静時に背内側前頭前皮質が強く反応していた被験者は、メンタライジング課題をこなすスピードが速かった。この領域を最も強く活性化させていた被験者は、活性化の度合いが最も弱かった被験者と比べて、課題を終えるスピードが10%も速かった。この10%という数字は、実社会の色々な場面で大きな影響をもたらすはずである。

●戦略的知能指数と人の心を読む社会的知能との関係。神経経済学者のジョルジオ・コルセリは、戦略を要するゲームをしたあと被験者の“戦略的知能指数”を計算した。他の被験者の戦略的な度合いをどのくらい考慮して―すなわち他者の心をどのくらい読んで―それぞれの被験者が数字を選んだかを計算したのだ。その結果、戦略的知能指数の高い人ほど、メンタライジング系である背内側前頭前皮質が強く反応していた。その一方で、非社会的な知能指数と関係のある外側頭頂皮質は活性化していなかった。

●1996年、イタリアのパルマ大学で「ミラーニューロン」を発見した。以降、これは心理学の難しい問題を何でも解決する“流行りの仮説”としてもてはやされた。心理学のいろいろな現象、言語能力や文化、真似、他者の心を読む能力、そして共感もミラーニューロンによって説明できるとみなされた。

●現在、ミラーニューロンはふたつの役割―「他者を真似る能力」と「他者の心を読む能力」―を担っていると考えられている。

●ミラーニューロンは「モノマネ細胞」とも呼ばれる。1999年、神経科学者のマルコ・イアコボーニが論文を発表し、人間の脳にも“ミラー系”が存在するという初めての証拠を明らかにした。人間の外側前頭皮質と頭頂領域は、マカクザルのミラーニューロンと同様の特徴を持っていると考えられる。だがfMRIでは個々の神経細胞の活動までは直接とらえられないので、人間の脳にミラーニューロンそのものを発見したとは主張できない。そのため人間の場合、前頭葉の運動前野や頭頂間溝前方部、下頭頂小葉は、ミラーニューロン系ではなく、あくまでも“ミラー系”と呼ばれる。

●ミラー系を一時的に損傷すると、被験者は何度も真似に失敗した。また複雑な行為を学ぶときもミラー系は関与する。リゾラッティは、ギターを弾けない被験者が複雑なコードの押さえ方を初めて真似た時にも、やはりミラー系が反応していた。

●ミラーニューロンは「他者の心を読み、相手の意図や目的を理解する能力」の役割を果たすだろうか。リゾラッティと共にミラーニューロンを発見したパルマ大学のヴィットリオ・ガレーセは、「ミラーニューロンはシミュレーション説を脳神経レベルで実行する」と主張する。シミュレーション説とは、私はその状況に“置かれた自分”を想像し、「自分ならどう反応するか」を考える。「他者の心を直接的な体験によって理解する根本的なメカニズムは…観察したできごとを、ミラーメカニズムによって直接シミュレーションすることだ」。

●ガレーセ説によれば、誰かがカップに「手を伸ばす行為」を見た時、あなたと相手の「手を伸ばす時に発火する」神経細胞は活発に反応する。ガレーセはそれを「運動共鳴」と呼んだ。相手が体験している運動状態と同じ運動状態をあなたも神経レベルで体験しているのなら、あなたの脳は本質的に相手の脳の重要な側面を模倣(シミュレーション)していることになる。だからこそ、相手がなんらかの行為をしているのを見ただけで、相手の心の状態も自動的に理解できるのである。

●言い換えればミラーニューロンは―相手の心の状態を理解しようとするか、しないかにかかわらず―他者の心を自動的に読む、魔法のような装置を与えてくれたことになる。

●ミラー陣営とメンタライジング系の両陣営の最大の違いは、それぞれが説明しようとしている目的の種類にある。ミラー系の陣営が重視するのは、低レベルの運動意図である。(「彼がスイッチを入れたのは、明かりをつけるためだ」など)。一方、メンタライジング系の陣営が重視するのは、もっと高レベルの意図である(「彼がスイッチを入れたのは、期末試験の勉強祖するためだ」など)
 運動共鳴という考え方は、私たちが低レベルの意図を理解する方法を説明する。

●他者の心を理解する時にミラー系がすることは高度なマインドリーディングではない。朝っぱらからウィスキーをあおっている人のパーソナリティや動機を探るのは、ミラー系でなくメンタライジング系の仕事なのだ。
 ミラー系は、メンタライジング系が高レベルの意図を理解するための土台となる働きをしている。ミラー系は、人が「何を」しているのかを理解する。つまり、私たちのからだの“動き”を“行為”として認識する。ミラー系は私たちのように心がある動物の世界を、運動ではなく行為の点から捉えるのである。ミラー系の働きは本質的に、メンタライジング系が論理的に働いて「なぜ」の問いに答えるための前提を提供することだ。運動の世界を行為という心理的な要素にまとめ直し、メンタライジング系が作業しやすいようにお膳立てをする―それこそがミラー系の重要な働きなのだ。

●自閉症の原因は、「彼らが周囲の世界に鈍感なせいではなく、外界の刺激に過敏なあまり、社会との接触を子供時代に充分に体験できなかったせいである」―このような考えを「強烈世界仮説」と呼ぶ。外界からの刺激が強烈すぎるために、彼らは周囲に背を向け、ひとり静かに過ごせる世界を好む。そしてそのせいで、メンタライジング系の発達を促す重要な機会を逃してしまうのだ。

―このブログでは過去に綾屋皐月(あややさつき)さんの著書からの引用で、ASDの人の体内感覚の世界をご紹介しました。強烈でしたねえ…

●最近の研究は、自閉症と扁桃体の関係を指摘する。自閉症の子供は他の子供と比べて扁桃体が大きい。扁桃体は側頭葉内側の奥に位置し、神経細胞がアーモンド形に集まっており、恐怖や不安といったネガティブな情動体験に敏感に反応する。これでは“過敏な社会情緒メカニズム”を持って歩き回っているようなものだ。


●1641年、哲学者のルネ・デカルトは「精神と身体とは別物で、このふたつは決して交わらない」という「心身二元論」を発表した。このデカルト的二元論は、過去数百年にわたって広く知られ、私たちに深く染みついた。現代の科学では、心を生物学的で物質的な存在として捉える。

―哲学者の人って過去には随分間違ったこと言って世間を惑わしてたんですねえ(;^ω^)

●自己意識には脳のどの領域が関わるか。鏡に映った自分の姿を見ている人間の脳をfMRIで調べたところ、右半球の外側表面が活性化していた。前頭前皮質と頭頂皮質の頭蓋骨に近い脳の表面である。

●「礼儀正しい」「話好き」といった形容詞を見せ、「形容詞が自分自身に当てはまる」と判断したグループの被験者の脳では、自分の姿を鏡で見た時と同じく、前頭前皮質と頭頂皮質が活性化していたが、その中の活性化した部位はことなった。今回活性化していたのは頭蓋骨に近い外側表面ではなく、脳の内部に位置する内側前頭前皮質(MPFC)とけつ(木偏に契の字)前部だったのである。すなわち、鏡に映った「自己の姿を認知する」時と「自己を概念的に捉える」時とでは、別々の領域が使われるのである。

―自意識にはどこが関わるか。あ、ずっと知りたかったんです、そこ。いえ、知ったって何かいいことが起こるわけじゃないんですけどね。今までの脳科学本には不思議とこれが出ていなかったんじゃないかなあ。承認欲求、ナルシシズムの源もそこなわけじゃないですか?

●私たちが自己を概念的に捉える時、ブロードマン10野に当たる内側前頭前皮質が活性化する。(すぐ下には報酬系の領域であるブロードマン11野に当たる副内側前頭前皮質(VMPFC)がある)あなたが額の“第3の目”と呼ばれるあたりを指で差す時、そこが“自己”という感覚をつくり出す内側前頭前皮質である。

●人間以外の霊長類では、脳全体に占める内側前頭前皮質の割合が0.2〜0.7%だったのに対して、人間の場合には1.2%だった。言い換えれば、人間の内側前頭前皮質はチンパンジーと比べて2倍のスペースを占めるのだ。他の霊長類の脳と比べてこれほど大きな割合を占める人間の脳の領域は、内側前頭前皮質を覗いてあまり見当たらない。この領域はまた、神経細胞の密度が低いため、膨大な数の神経細胞同士がつながりやすい。

●私たちの考える自己感―自分とは誰なのかという感覚―もトロイの木馬と同じではないかと、私は思うのだ。西洋人は、自分を特別な存在だと考える。そして自己を、自分自身の中心にあって、個人の目標を達成したり自己実現を果たしたりするためのものと見なす―しかも、大切な宝物箱のなかに仕舞われ、自分以外の誰にもアクセスできない難攻不落の砦に囲まれたものだ、と。だが実のところ、自己とは、私たちが集団の規範に従い、社会に調和して生きるために、進化が巧みに仕組んだ策略の道具なのかもしれないのだ。

●ニーチェも、自己感とは本質的に内面的なものではなく、自分という存在の中心を成すものではないと捉えていた。ニーチェは自己感を、私たちの人生に関わりのある人間によって組立てられ、私たちのためではなく、彼らのために働く“秘密諜報部員”だと論じたのである。

●人間が本来持っている衝動に社会的な衝動を補い、社会の調和を生み出す手段として、自己は存在するのだ。社会は、私たち自身や道徳について、あるいは生きる価値のある人生についていろいろ教えてくれる。人は、それらの考えを自分自身の信念であり、自分の内面から生まれた価値観だと思い込んでいる―集団の持つ信念や価値観をただ理解するだけでは充分ではなく、自分自身のものとして内面化する必要があるからだ。こうして私たちは、社会の信念や価値観や規範を、知らず知らずのうちに自分のなかに取り込み、“その土台の上に”自己を作り上げた。

●直接的評価(「私は自分を頭がいいと思っています」など)と、反映的評価(「友だちは私を頭がいいと思っています」など)について13歳の思春期の子どもと成人のふたつの被験者グループに訊ねると、どちらのグループでも、直接的評価の場合には内側前頭前皮質が、反映的評価の場合にはメンタライジング系が活性化していた。
 ところが思春期の子どもの場合、「直接的評価を考える時には、内側前頭前皮質だけでなくメンタライジング系も」、また「反映的評価を考える時にも、メンタライジング系だけでなく内側前頭前皮質も」活発に反応していた。すなわち、思春期の子どもは、直接的評価と反映的評価のどちらを考える時でも、内側前頭前皮質とメンタライジング系の両方が活性化していたのだ。思春期の子どもは「自分が自分をどう思うか」を考える時でさえ、自己の内面を探るよりも他者の心に焦点を当てて、「自分とは誰なのか」という問いに答えているのかもしれない。

●内側前頭前皮質は本当の自己を探る近道ではない。それは自分自身について教えてくれる、いろいろな情報を反映する領域である。そのなかには、個人的で内省的な情報もあれば、周囲が自分をどう思っているかという反映的評価から生まれる情報も含まれる。つまり「自分とは誰なのか」という自己感は、社会的に作り上げられたものであり、そのプロセスに関わっているのが内側前頭前皮質なのである。

●暗示にかかりやすい人とそうでない人をfMRIにかけ、催眠術にかかっている時の脳の活動について調べた。催眠術で課題の混乱を防ぐような情報を与えたところ、暗示にかかりやすいグループのほうが課題への取り組みが速くなった。ふたつのグループで脳の活動を調べた結果、暗示にかかりやすい被験者の脳で、内側前頭前皮質が活発に反応していたのである。

●説得に従うプロセスをみる実験で日焼け止めを使うかどうかをみた。被験者が実際に日焼け止めを使用したかどうかと関係があったのは、彼らが米国皮膚科学会の報告を見ていた時の脳の活動だったのだ。その時、内側前頭前皮質が活発に反応していた学生ほど、日焼け止めを使っていた。しかも、実際に日焼け止めを使用したかどうかと、質問にどう答えたかの間には、ほとんど関係がなかった。被験者は自分でもまったく気づかないうちに、日焼け止めを使うか使わないかについて影響を受けていたのだ。私たちが態度や行動を変えるかどうかは、内側前頭前皮質が広告や説得にどう反応するかによって決まるのである。

●これらの実験は、「自己とは他者と自分とを明確に区別し、私たちを特別な存在にしてくれるものだ」という考えにとどめを刺したと言えるだろう。なぜなら、私たちの概念的な自己感をつくり出す内側前頭前皮質は、「私たちの考えや行動に影響を与える情報を、外部から取り入れるルートでもある」からだ。

―おもしろい知見。「説得されやすさ」「影響されやすさ」は、経験的にも個人差があるが。広告や説得に反応する領域と、自己感をつかさどる領域が同一だというのは、「行動承認」で規範意識が向上する現象の説明となりそうだ。自分を承認してくれる上司に対しては内側前頭前皮質が活性化するから、その説得を取り入れ内面化することもしやすい…。

●2005年、スタンフォード大学の卒業式に招かれたスティーブ・ジョブズは次のような名台詞を残した―「他人の意見という雑音(ノイズ)で、心の声を掻き消してはならない……勇気を持って自分の心と直観に従ってほしい」
 だが内側前頭前皮質の働きを考えれば、ジョブズは間違っている。自己感―彼の言う心と直観―とは実のところ、私たちが集団の規範に合わせ、社会の調和を生み出すための“仕掛け”なのである。自己は、私たちが集団にうまく溶け込むために働く。ジョブズにとっては納得し難いかもしれないが、ほとんどの人にとってはそれが真実なのだ。
 人は誰でも利己的な衝動を持つ。その一方で社会的な信念や価値観を自己の一部として取り入れ、内面化している。このふたつの間でせめぎ合いがあるにしろ、それはジョブズが考えたように自分対社会ではなく、自分対自分の闘いなのだ。

―わ〜、伝説のジョブズのスピーチが否定されちゃった。実はこのスピーチは、他にも「自分が納得できる仕事をしなさい」と、困ったキャリアカウンセリング的なことも言っていて、感動的ではあるけどどうかなと思っていたのだ。
 この章が本書でもっとも“革命的”な章ではないだろうか。自立した個人という、欧米の想定した人格モデルの常識を覆してくれる。内発と自律論者どうするかな。

―このあとは「自制心」の話になり、例の「マシュマロ・テスト」などが出てきます。

●認知自制とフレーミング課題の実験で抑制をしていた時、、右腹外側前頭前皮質が活発に働いた。

●抑制と再評価は、どちらも腹外側前頭前皮質と関係がある。抑制の場合、腹外側前頭前皮質は動揺が始まって少し時間が経ってから活性化する。再評価の場合には早い時期に活性化する。抑制の場合、腹外側前頭前皮質が活性化すると顔の表情をうまく隠せるのに対して、再評価の場合には扁桃体の反応と情動が和らぐ。

●情動のラベリングには暗黙の自制効果がある。情動を言葉で言い表すと、右腹外側前頭前皮質が活性化して扁桃体の活動が弱まるのだ。

―感情認識を苦手とする人々よ、感情を言葉で言い表すことをおぼえてください。変に抑制しているとおかしな形で出るよ。

●私たちは「評価され」「自制心を働かせ」「社会規範に従う」動物である。この3つのプロセスは、どれも右腹外側前頭前皮質と関係がある。

●社会に評価される可能性があるだけで、私たちは自制心を働かせる。周囲の人間にどう思われるかと考えただけで、右腹外側前頭前皮質が活性化する。この領域のなかで、「評価され」「自制心を働かせ」「社会規範に従う」という3つの機能がなぜ結びついたのかについては、今後の詳しい研究を俟たなければならない。

●自制心とは、個人と集団との間で目的や価値観が衝突する時、集団の目的や価値観を優先させて、私たちを社会規範に従わせるメカニズムである。アメリカ人は、同調する人を見るとつい、「群れに従う意志の弱い人間」と判断しがちだ。ところが最近の調査によれば、ある状況では、自制心の強い人のほうが同調しやすいという。

―大事ですねー。正田が過去からブログで某心理学セミナー受講者さんに逸脱行為が起こりやすいというのをぶちぶち言う、それはそのセミナーさんに「ルールに従うな。自分の心に従え」「誰一人として、間違っている人はいない」という教えが埋め込まれてるからなんですが、セミナー主宰者の思いに反して人間性に反することをやっていることになります。えっ正田自身が抑制的な人かどうかはちょっと棚に上げます。

―ただ日本人の場合、外部の価値観を過剰にとりいれやすいという別の問題は確かにある気がします。それについては本書は答えてくれてないですね。承認研修のばあいは、正しい価値観を知っているリーダーが承認することによって相手に正しい価値観をしみこませるというモデルをとっています。結局それぐらいしか解はないのかしらん。リーダーが間違っていたらどうするかって?どうしようもないですね。

―このあとは社会や企業を活性化させる仕組みづくりについての提言。ご紹介してもいいけどまあ「『組織や仲間に認められたい』という気持ちは強いインセンティブとして働く。しかも、何度でも使える無限の資源だ」と、要は「承認論」のお話だからとばしますね。

●リーダーシップについての知見。リーダーシップで最も大事な要素は「対人能力」だ。
 リーダーシップの専門家であるジョン・ゼンガーは、優れたリーダーの能力を5つにまとめた。「個人的な能力(知性、問題解決力、専門知識、訓練能力)」「最後までやり抜く力」「人格(高潔さ、信頼性)」「組織を変化させる力」「対人能力」の5つである。そして、どの要素をふたつ組み合わせたときに、リーダーシップが向上するかについて分析した結果、「対人能力」と他の要素とを組み合わせた時に、上司の能力が最大限に発揮されるとわかった。たとえば「最後までやり抜く力」で高く評価されても、上位20%の「素晴らしい」上司にランクされる可能性は14%しかないが、同時に「対人能力」を高く評価された上司が、「素晴らしい」上司入りする確率は72%にまで跳ね上がったのだ。

●SCARFモデルを提唱するロックは述べている。「いつも決まって耳にするのは、専門知識に優れた人間ほど社会的スキルに欠けるという指摘ですね。だから、彼らが管理職かリーダーになると問題が生じやすいのです」

―これはリーダー育成上よくみること。名選手必ずしも名監督ならず。冒頭近くで「社会的思考」と「非社会的思考」はシーソー状態で働き同時に現れることはない、という知見を考えると、仕事の遂行能力(i.e.非社会的思考)に優れた人はそればかり使ってしまうので社会的思考が発達しにくい、ということが考えられるかもしれませんね。

●リーダーシップの中で社会的思考と非社会的思考が補完的に働かない理由の1つは、「非社会的思考を支えるネットワークが活性化する傾向が強く、その偶然の副作用として、社会的思考のネットワークがあまり活性化しない人間がいる」という考え方。遺伝のせいかもしれないし、長年、社会的思考より抽象的思考を重視してきたせいかもしれない。
 第2の理由として、リーダーという仕事を彼らが非社会的な側面で捉えるからである。うまくいかないプロジェクトで、職場の対人関係に目配りが利かないリーダーは、メンバーどうしの人間関係のトラブルを理解せず、「彼女は仕事をやり遂げる能力が足りないのだ」と判断してしまう。
メンバー全員に帰属意識を持たせ、愛着をつくり出す―それが優れたリーダーの姿である。

―リーダーシップについての誤解。アメリカもいまだにそうなんですね。よく見る議論で、「リーダーシップを映画から学ぶ」というと、「ダイ・ハード」の例が上がる。本来高い職位でない、ブルースウィリスのような人物が「自分がやらなければ」と火事場の馬鹿力を発揮する、それをリーダーシップと呼ぶ。研修メニューでも、中堅向けに「自分リーダーシップ」とか「全員リーダーシップ」といったタイトルで入っている。
 ブルースウィリス嫌いではないが、そういうヒーロー的人物を「リーダー」とは言わない、実務では。現実には、不愉快かもしれないけれど、「承認研修」を徹底してやるのがものすごい業績向上効果がある。不愉快さを越えて現実を直視したほうがいいのではないだろうか。
 詳しくは、当ブログ記事
 男性的リーダーシップと女性的リーダーシップ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51834972.html
などを参照。
 
●人と人のつながりを強化するプログラムに政策的に投資すれば、生産性が高まり、犯罪率の低下や医療費の抑制というメリットも生まれる。しかしそのようなプログラムは、道路や鉄道のインフラ整備といった大義よりもわかりにくいために、ほとんど理解を得られない。

―あたしと同じようなこと考えるな、この人。

●アメリカ人の3人に1人がアパートで暮らす。アパートに「大学の学生寮」のような懇親を産む仕掛けを組み込んではどうか。アパートの各フロアで戸数をひとつずつ減らして、その代わりに交流を促すオープンスペースを作ったらどうだろう?そして政府は、そのようなアパートを開発する業者に対して税を優遇するといった策を打ち出すのだ。

―それおもしろい。

●学校での「つながり」感を学力向上に生かそう。
 帰属意識を高めると学力向上に資することを示す実験がある。心理学者のグレッグ・ウォルトンとジェフ・コーエンは、イェール大学の学生のアフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人を対象に、帰属意識を高めるような文章(上級生の手紙)を読ませたところ、その後3年間にわたって成績評価平均値が上がり続け、3年後には0.4も向上した。

―おもしろいですね。日本の大学では、松本茂樹先生のいる関西国際大学で教授陣が「朝のあいさつ」を励行したところ退学者が3分の1に激減した、という例があります。

●社会的報酬は脳の報酬系を活性化させ、私たちを幸せな気分にしてくれる。社会心理学者のアリス・アイセンは実験を通して、ポジティブな感情が思考力と意思決定力を高める現象を何度も目にしてきた。プラスの感情を味わうと、人はいろいろな考えの類似点や相違点を素早く見つけられ、ワーキングメモリの働きも向上する。
 
●神経科学者のグレッグ・アシュビーは、ポジティブな感情も思考力もドーパミンと関係があるからだと説明する。いい気分を味わえ、やりがいを感じる行動を取ると、脳幹の腹側被蓋野からドーパミンが放出されて腹側線条体へと投射される。この時、ドーパミンの影響を受けるのは腹側線条体だけではない。ドーパミン受容体が多く存在する外側前頭前皮質もその影響を受ける。前頭前皮質のドーパミン濃度が高まると、ワーキングメモリの働きが向上するのだ。つまり、「社会的報酬を感じている時に放出されるドーパミンの量が、授業中に前頭前皮質のコントロール力を高めて、成績を向上させる」というのがアシュビーの考えである。

―このブログでもよく「承認の世界の人はあたまがいい」などと感覚的なことを書きますが、それは立証可能なようです。彼ら彼女らは承認と関係のない場面でも、問題解決能力が高いです。

●思春期を過ごす子供の頭の中は周囲の世界のことでいっぱいだ。この時、大いに活躍するのがメンタライジング系である。進化的に見れば、それは単なる気晴らしではない。彼らにとっては、それこそが最大の関心事なのである。
 その強い欲求に対して学校が「“つながり脳”のスイッチを切ってください」というのは得策ではない。それでは腹を空かした者に、食欲のスイッチを切れと言っているようなものだ。

―食欲の比喩でてきた。うわ〜

●“つながり脳”を敵視せずに、学習プロセスの一部として取り入れればいいのだ。メンタライジング系は記憶系としても働くため、一般的な記憶系以上に強力な効果を発揮する可能性があるのだ。情報を“社会的なデータに変換”した場合に、記憶力が高まる。この時に活性化した領域は一般的な学習系ではなく、メンタライジング系のCEOとでも呼ぶべき背内側前頭前皮質だったのである。

―おもしろい知見。昔の「3年B組金八先生」の中の論争を思い出す。金八先生が何かの仕組みを人形や箱などを使って物語風に解説する授業をし、生徒には大好評だった。しかし金八先生のライバルの数学の先生「カンカン」が、「すべての教師が同じことをできるわけではない。人気取りはしないでください」とかみついた。
 どちらも非常にまじめな問題提起だと思ってみていたが、学力向上に資することがわかっているなら、取り入れられる範囲で取り入れればいいのではないだろうか。

●子供同士教え合うことの価値。1980年、心理学者のジョン・バーは、“教えるために覚える”効果を測定した。テストのために情報を覚えるグループと、誰かに教えるために情報を覚えるグループに分けて、記憶力の違いを比較したのだ。すると、誰かに教えるために覚えた被験者のほうが、記憶テストの成績が良かったのである。著者の研究室が行った実験では、教えるという社会的な動機だけでもメンタライジング系が活性化するというかなり確かな証拠がある。

―なるほど。「人に教えることでよりよく学べるんですよ」というフレーズの起源はここからきているのか。
 また別のことを連想してしまった。「社内講師」「内製化」がらみの話。「内製化推進」の人びとはよく上記のフレーズを振り回すのだが、ジョン・バーの実験で教えたのはあくまで数学や科学といった非社会的な内容である。かつ、教えた側にメリットがあったことははっきり出ているが、教わった側のメリットは明らかではない。これでは「社内講師予備軍」の人びとだけが得をする仕組みではないか。

●自制を教えること。著者の実験で、「ストップ・シグナル課題」を試した被験者は3週間に8回の実験終了時、感情をコントロールする能力がずっと向上していた。運動の自制能力が向上していた被験者ほど、感情の自制能力も向上していた。

●中学生が自制心を身につける方法はこのほかにも、「マインドフルネス」などがある。


 抜き書きは以上です。

 非常に重要な知見を惜しげもなく盛り込んでいる本書。このところ「意識と脳」の関係の本が大量に出ているのに今ひとつ食指が動かなかったのは、それらが人間の脳の活動をAIで再現するために「情報処理」に焦点を合わせていたからで、本書はそれとは全然切り口が違うようです。
 
 惜しいのはそれぞれの実験に出典が付されていないので、検証がむずかしい。検証が必要な場合にそなえて、実験した学者の名前(カタカナですが)はできるだけ残しておきました。

 共感するところも多く、本書の主張がメインストリームになることを願います。

(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 このところ「アンチ承認欲求論」―つまり、承認欲求が高じて犯罪や非行やいじめなどの逸脱行為が起こるので承認欲求とはわるいものだというような言説―のようなものの存在が気になり、その系列の本を読んで批判したりしていましたが、

 「承認欲求叩き」というタームを使って昨2014年、この風潮に疑義を呈したブログがあるのを知りました。
シロクマ先生こと精神科医・熊代亨氏のブログ「シロクマの屑籠」です。


 昨年1月、「承認欲求四部作」と題して発表された記事は、今月突然この現象をまじめに調べ始めた正田と違い、非常に完成度の高い論考。

 幸運にも筆者熊代氏のお許しをいただき、本ブログに転載させていただきます。


 四部作の全体像は:

 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について

 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか


 では、1つ1つご紹介していきたいと思います―


 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 「承認欲求や自己愛は人間の基本的な心理的欲求」であり、それそのものをバッシングするのは人間の基本的性質をバッシングするに等しい。


 この記述はまったくわたしの感慨とおなじもので、出会えて非常にスッキリしました。

 (たとえば拙ブログの当たり前の日常から発して、リーダー教育を語る参照)

 あまりにも基本的な欲求である「承認欲求」だからこそ、「承認欲求(笑)」などと叩く人々、風潮の危うさ。

 だから私は、承認欲求という言葉を、考えもなしに罵倒語として用いる人というのは、若いなら若いなりに、年を取っているなら年を取っているなりに「残念」と感じる。人間を飛躍させる原動力になり得るモチベーションを、リスクばかりにとらわれて否定すること、現代という時代に即して評価できないこと、どちらも建設的なことではあるまい。承認欲求の存在*3や今日的意義を認めたうえで、いかにそのモチベーションを運用するのか、どのような目標に向かってモチベーションを転がしていくのかを考えたほうが良いだろう。


 非常にうなずける、私的には常識的な、安心できる見解です。



 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 「承認欲求には社会化レベルがある」と筆者。

 幼児期から学齢期へ、それは褒められたい・認められたい欲求をモチベーション源にして発達していく。この時期に適切に褒め・認められなかった子は、「自分がやりたい事をやって承認欲求を充たす、という心理的営為のノウハウ蓄積が欠落してしまう」と筆者。

 そして思春期になると、子供時代とは違う新たなアイデンティティの構築に承認欲求が大きな役割を果たすが、ここで子供時代の承認欲求の満たされ方がそこに影響する。その人によって特有の躓きを経験するかもしれない。

“褒められたくてもバカにされるかもしれない”……という範疇的な不安だけでなく、自分が褒められてしまう事態にうろたえてしまう人や、自分自身の心のなかにせり上がってくる(思春期特有の)衝き上げてくるような承認欲求が怖くなってしまう人もいる。


 そこで「トライアンドエラー」の重要性を筆者は説きます。

 幸い、思春期前半は誰であれ承認欲求のブレ幅が大きくなりやすい季節なので、それまで承認欲求の社会化レベルが低めだった人でも、トライアンドエラーについてまわるミスや過ちが許容されやすく目立ちにくい――つまり遅れを取り戻すための修練がやりやすい――とは思われる。自分自身のこなれていない承認欲求を否認することなく、認め、乗りこなしていくための意志や能力は必要かもしれないが。



 こうした、逸脱しているわけではない普通の思春期の子供(若者?)についての特定個人の個体を超えた「メタ」な議論には、これまで「承認欲求叩き」の中では中々巡り合えなかっただけに、ほっとしますね。

 
 そして「社会化」の結論部分:

承認欲求がほとんどの人に生得的に存在する以上、それを超克しようとか、無くしてしまおうとか
考えるのは、かなり難しい。それよりも、承認欲求の熟練度を少しでも高め、より社会化された、より穏当なかたちへと洗練させていくほうが、やりやすく、実りも大きかろう。自分自身のなかに眠る承認欲求を弾圧するのでもなく、檻の中で飼い殺しにするでもなく、放し飼いにしても大丈夫なように手懐けていくこと――それが肝心のように思われる*4。


 超克するのではなく「洗練させる」「手なずける」というキーワードが出てきます。


 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について


「昨今、思春期前半の承認欲求が馬鹿にされたり、批判に曝されたりする機会が増えたように思う。」と筆者は書きます。

 その背景には、若者特有の逸脱を許さないいわば狭量な社会がある、と筆者。

そうした逸脱を包摂する共同体的雰囲気はなくなり、きわめて契約社会的な、個人的文脈を忖度しない社会がやってきた。


 こうした社会になれば、若者ははみ出さなくなる。犯罪発生率も下がる。そして若者にとっての”生きづらい”社会が到来する。

中二病が嘲笑され、承認欲求が罵倒語として機能し、若者の逸脱が厳しい制約を受けるようになったため、現代思春期において、承認欲求の社会化レベルをあげる難易度は高くなった、ともいえる。


逸脱の振幅が大きすぎる個人は嘲笑され、叩かれ、排除される。承認欲求絡みのトライアンドエラーの安全マージンが狭くなったということでもあり、ネット炎上に象徴されるような新しいタイプのブラックホールと隣り合わせになった、ということでもある。



 そして幼児期〜学齢期に「承認欲求の社会化」があまりうまくいかなかった人は、その影響をもろに受ける、という。

承認欲求の社会化プロセスのハードルが高くなり、安全マージンが狭くなってしまうと、もともと承認欲求の社会化レベルを稼げている人にはさほど影響は無いかもしれないとしても、承認欲求の社会化レベルの遅れを取り戻したいと思っている人にこそ、そのしわ寄せは大きく響くと推測される。

 こうした社会のなかで、一体どれぐらいの若者が承認欲求を適切に社会化し、モチベーションとして上手に生かしていけるだろうか?



承認欲求の重要性が高まったにも関わらず、その社会化プロセスが難しくなったせいで、おそらく、現代思春期の心理的な成長過程は険しくなっていると思われる。



 わぁあたしが面倒くさがってちゃんとみてこなかったところを静かな目で「まじまじ」と見続けた人がいはんねんなあ。
 ついいつもの癖で、解決編「私の教育の下では…」というフレーズが頭に渦巻きそうになるのを抑え、最終章にまいります。



 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか

 
 
承認欲求全般の否定は、おそらく自分自身の心理的性向の一部を否定することにも直結する。そうやって承認欲求に“臭いものに蓋”を続ければ、さしあたり承認欲求周辺の問題から自由になれるかもしれないが、承認欲求の年齢相応な社会化はいつまでも遅れ、承認欲求をモチベーションとした技能習得やアイデンティティ確立が成立しなくなってしまうため、社会適応に大きな偏りを免れないと思われる。
 

 はいはい。ここはもう一度押さえましょう。
 ではそうならないためにどうするか。

 「だから、よほど特殊事情を持っている人でない限り、自分自身の承認欲求は、なるべく年齢相応に使ってあげて、モチベーションの源としての熟練度をあげていったほうが望ましい。それも、できれば年齢が若いうちのほうがいい」と筆者。
 セルフケアとしては、そうですね。

 ラインケア(メンタルヘルス用語)としては―。

 
 また、もしも承認欲求を不器用に充たしている年下の人を見かけたら、本当にそれを笑って構わないのか、本当に炎上させて良いのか、立ち止まって考えたほうが良いと思う。笑って構わないと判断された場合も、どのように笑うのが適当か検討が必要だ。ちなみに、私自身はそうやって立ち止まって考える習慣がこれまで足りなかった。これは私自身の課題でもある――年少者の成長を願い、喜べるような成人になっていくための。


 うんうん。

 ここでやっと「当協会方式の承認教育」も出番になってくるかな。


 しめくくりに、筆者は「承認欲求の社会化」が困難な現代社会について、こう言う。

承認欲求が個人のモチベーション源として重要な社会ができあがっているにも関わらず、幼児期〜思春期にかけて、承認欲求の社会化プロセスを適切に踏んでいくのは簡単でも当然でもないのは、随分ひどいことだ。


さしあたって今、承認欲求の社会化プロセスが難しくなっていて、それが次世代の精神性に影響を与えているであろう点には留意が必要だとは思うし、今後、どのような社会が理想的な社会なのかを考えていくにあたって、勘定に入れていただきたいとも思う。
 


 いかがでしょうか。

 「解決編」にすぐいきたい正田がふだん思考をサボっている部分をこうして激するでもなく陰陰滅滅とでもなく、描写し分析し建設的に処方箋を出す人がいた。

 こういう品質の思考にこの分野でこれまで出会えなったのだ。

 (欲をいえば正田はマズローだけでなくヘーゲル承認論まで遡りたいが…こらこら。)


 このブログへの引用を快くお許しくださった熊代亨先生、ありがとうございました!


 もう1つ、「承認欲求という言葉の使われ方が変」と感じたわたしの疑問に親切に答えてくださった番外編の記事

 番外編その1 ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史

 本来の語義を離れ(参照することなく)ネットスラング、罵倒語として「承認欲求」が使われるようになった、残念な経緯がまとめられています。
 正田ほんとうにこういうこと知らなくて良かったのか(苦笑)

 ありがたいことに、これまで受講生さん方はあまりネット世界の住人でなかったせいか、こうしたネットでの残念な使われ方の影響をそれほど受けてきませんでした。

 受講生様方、大人は「満たす」ことに集中しましょうね。


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 先の加東市商工会での「行動承認セミナー」を受講された経営者、管理者の皆様の宿題が続々返ってきています。
 皆様一様にいい感触のよう。宿題をみると、つい「にっこり」してしまうわたしです。

 「承認研修」は、シロクマ先生の論考のような、若者の側の「承認の社会化プロセス」の分析を経てうまれたものではありません。

 たんに上司側からこう働きかけるといい結果になるよ、という大人社会側での知恵を集積したもの。

 「行動」承認であるのは、「承認の最適化」「質の高い承認」という、これまで承認不全で育って来たきらいのある若者たちの側のニーズにそれがジャストフィットするからなのでした。

 宿題でも、型どおり「行動承認」の形でやってくださった方が最もよい結果を出され、長く続くモチベーションになるであろう、という予感があります。


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 こうして引用、出典明記にこだわるのはわたしのスタイルです。できればオリジナルの方に仁義を切りたいと思うのもわたしのスタイルです。
 自分以外の聡明な方のお知恵をお借りして少しでもいい仕事をしたいのです。またオリジナルの方がイヤな気持ちにならないやり方でしたいのです。

 そして複雑極まる現代のために真摯に思考したり行動する同時代の人に対しては、敬意をもちます。


 ありがたいことに他所にもそういう方がいらっしゃるようで、8月にこのブログに書いた記事を最近別の人材育成業の方が、

「自分が感じていたことと同じだったので引用させてもらいました」

と事後承諾でしたが、ご連絡をいただきました。

 そういう、認め合って引用しあうようなコミュニティってひそやかにあるのかもしれません。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 2つ前の記事で「ウチダ本学ぶものなし」と取り上げた『困難な成熟』という本のAmazonレビューが、今新規投稿・編集ができなくなっているようです。

 ので、こちらに取りあえずアップしておきます。

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 無知と知ったかぶり、恣意的な用語と思考、ファンタジーのオンパレード ★1つ


組織論を名乗っているが底が浅くペラペラ薄い。用語の用法や、基本的知識で間違いが多く、まったく依拠するに値しない。著者のファンだけが共同幻想のために買えばよい。
間違いを2、3例示する。

”組織論というのは「生き延びるための集団づくり」の知恵のことです。…構成員の心身のパフォーマンスが最大化するのは、どのようなサイズの集団においてか。人類の祖先たちはそれを考え、答えを見出した。”(p.113)
⇒組織論イコール集団のサイズ、という定義づけ。この後もずっとこの定義で行っているが、こんな定義を付与する文献はほかにないだろう。通常はリーダーシップ、組織心理学、組織制度設計などが複雑にからみあっている。

"でも、そのときに見出された組織論的知見は今では軍隊にしか残っていません。もう親族共同体にも、地域共同体にも、企業にさえ残っていない。軍隊だけなんです。”(同)
⇒「軍隊にしか残っていません」がまったく根拠不明。ただ「組織論的知見=最適な集団のサイズ=150人」というこの著者の独特のルールだと、親族共同体に援用するのは難しいかもしれないが。この変な定義づけの下では、確かに残っていないかもしれない。常識的な定義での「組織論」に真摯に取り組む企業は決して少なくない。

”自衛隊では先般「いじめ」による自殺者が出て問題になりました。「戦友」に心理的・身体的ストレスをかけてパフォーマンスを低下させ、ついには自殺するまで追い込むようなことは臨戦体制ではありえないはずです。”(p.114)
⇒ここが一番笑えた。著者は、旧日本軍の下でどれほど熾烈な「いじめ」「しごき」が行われ死者や脱走者が出ていたかご存知ないのだろうか。詳しくは『日本軍と日本兵』(講談社現代新書)など参照。「臨戦体制ではありえないはずです。」このフレーズは完全に著者の妄想の産物である。
わずか2ページで3つの明らかな間違いが見つかった。様々な分野の専門家が力を合わせれば、400ページの本書に600の間違いを見つけるのも夢ではないだろう。
ことほどかように、無知と知ったかぶり、テキトーに作った用語をテキトーに組み合わせた恐ろしく場当たり的な思考、ファンタジーのオンパレード。だが著者の年齢(1950年生まれ)を考えるとちょっと微笑ましくさえある。無害な妄想として、言葉を楽しめばいいのではないだろうか。


(一財)承認マネジメント協会 正田佐与

 『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行、2015年9月)という本を読みました。

 このブログでは最近批判記事ばかり続いていましたが、この本に関しては元々批判しようと思っていなくて「大人の成熟」ということに関してちょっとは答えが書いてあるかな?と手に取ったのですが、

 ダメでした。

 ウチダ本、もはや学ぶところなし。そこまで言っちゃうか。

 以前は、「内田樹本」はそれなりの衝撃があったり、指針にするところがあったのでした。学び手が消費者になったことを指摘した『下流志向』などは、無条件のテキストとして頭に叩き込まれました。

 しかし―、

 やっぱり、「定年後のおじさん」なのだなあ、この人も。小さな小窓から企業とか労働の場を覗いて、そこにたっぷり妄想と恣意的な思考をくっつけて文章を書いている感じ。


 たとえば、

「会社には、『母』がいない」というフレーズ。

 すいません、女性社長たちはあれは何なんですか。

 「姐さん」なんですって。

 会社は、「父性原理・男性原理」でなければならないのですって。

 ここで「あの〜、父性原理・男性原理ってどこの心理学とか哲学の用語ですか?どういう文献の中でどういう文脈で使われてますか?」なんて、野暮なことをきいてはいけないようです。

 この本のあとの方に、「私は用語の定義などしない。そんなことを要求されたら逃げ出す」と、「逃げ」をちゃんと打ってあります。
 ずるいですねえ。
 だからこの本は、内田氏が恣意的にテキトーに作った用語を組み合わせて恣意的に議論をすすめるんです。

 いいですね〜気楽で。自在の境地ってやつですね。

ひょっとしてちょっと、緻密にものを考える姿勢って壊れてきてませんか?私の知り合いでそういう人いたんですよ、その人はアルコール依存でしたけどね、ええ。ちょっとヨタ話の匂いを感じたもんですからね。いろんな理由で脳って壊れますよねー。

あ、わたし「個別化」という資質が強いので、本来はマジメですけど不真面目な人のことは不真面目に相手するんです。

 野暮を承知で、「父性的」や「男性的」をあえて神経化学物質の知見にまで還元すると、「テストステロン原理の会社がいい」と言っていることになります。

 それ、ダメでしょ。

 内田氏がどの程度の人生経験や会社を観察した経験があるのか知らないが、テストステロンの暴力性を肯定してしまうと、それはパワハラ肯定、暴力肯定、それについていけない多数の人たちの切り捨て肯定ということになる。
間違った仮説を持って物事をみると、結局いつまでも正しく見れない。内田氏は結局団塊世代の制約を抜けきれない人なのではないだろうか。


 かつ、今どきの女性も障碍者も外国人も受け入れましょう、という多様性前提のところではテストステロン原理はつかえない。テストステロン性の強いリーダーは、過去も何度もご一緒したが、人の多様性個体差に対して恐ろしく無頓着で、自分と同様の有能さのない人は平気で切り捨てる。障碍者とわかっていながら罵る。女性は見下すか、愛人にするか。ハーレム化しちゃった会社もありましたよ。

 だから、「男性性」なんてむやみに持ち上げないほうがいいのです。わたしの経験では元々テストステロン性の強いリーダーでも、「女性的な」承認トレーニングを受けることではじめてその有能さを組織に反映させられます。男性はそのままでは良いリーダーになれないのです。40代半ばくらいにテストステロン値が落ちてきて、枯れてきて、その頃に女性性を学習して身につける、というのが幸せな転換なんですよ。そのくらいの発達心理学の知見は盛り込んであるのかと思った。全然ない、ウチダ氏の狭い見聞の中からだけの話だった。この人はあんまり成長しなかったほうの人なのではないだろうか。

 でも男性的な会社がお勧めだ、と内田氏は言っているのです。

 この人は女子大の先生だったと思うんですけどねえ。

 全体に、この人の文体に感じるのは、なまじ大学の先生であったがゆえに人生経験の少ない未熟な人向けに大風呂敷広げたような、博識をひけらかしてはいるんだけど恐ろしく断片的で恣意的で、読者がそこから何かを構築しようがない、そういう話のすすめかたなのでした。

 こういうのを喜ぶ人は、本当に人生経験が少なくて「偉い人」に教えてもらって喜んでる人だなあ、あと同じ団塊世代で威張ってるこの人をみて威張りたい自分を投影したい人だなあ、と思うのでした。去年は「哲人」が説教しているスタイルの本が流行りましたけれどね、あの路線ですかね。威張り本とでもいうジャンルですかね。


あと、女嫌い(ミソジニー)の気配も感じる。女を引き合いに出すのはフェミニストとかで、いかにも「嫌い」という文脈で、だ。奥さんに逃げられるとかしたんじゃないだろうか。そして「橋本治さんにゴミ拾いを教えてもらった」などと、男の有名人のお友達にしがみつきたい症候群、みたいのも感じるのだ。(そんなこと市井の経営者なら誰でも教えてくれることだろうに)


 以前はこの人の本を読んでこんな風に感じなかったなあ。

 わたしの人間がわるくなったのだろうか。


 ともあれ、「父性原理の会社がいい」なんて言説は、信じないほうがいいです。良識ある現役の経営者・リーダー層が読む本ではないことを祈ります。

(本当は、本書は黙殺するほうの本だったのだが、「無意味を通り越して有害」という記述があり、過去には一定の影響力のあったことに鑑みてあえてブログアップしたのだ)

 団塊はまだ当分本を買いますからね、こういうのが団塊向けのマーケティングで、老々介護なのかもしれないですね。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 また引き続き「負の承認欲求本」を読んでみる。

 このブログでは2011年7月にもとりあげた『「認められたい」の正体―承認不安の時代』(山竹伸二、講談社現代新書)。

 再読してみますと、この本自体は最終結論部分では「社会の『承認』の総量を増やそう」的なことを言っていてわたしとそんなにスタンス変わらないじゃないの、と思います。だがわたしのやってるみたいなコミュニケーショントレーニングは有効な道筋と認めてなくて、もっと何となくやりたい、自分の身の回りからほそぼそと、というスタンスみたいですが。向こう三軒両隣。

 甘いね。それじゃ1000年かかっても無理、と実際家でコミュニケーショントレーニング屋のわたしは思う。「コミュニケーション」は見下されがちだが、菊池省三先生も著書の中で言われたように、「徳」の手段なのだ。コミュ力を鍛えることが、徳に至る道筋。そう意識して使っている指導者のもとでは、そうだし、そういう志のない空虚で受講料ばかりバカ高いコミュニケーショントレーニングも一部にある。そこと一緒にしないでいただきたい。また現実の手応えとして、何となくやってるつもりでいるのと、きちんとやり方を学び宿題もこなして型を身につけるのとでは、天と地ほどの開きがある。

 
 そして結論部分はそうなのだが、本書『「認められたい」の正体』の導入部分ではやっぱり「犯罪」「いじめ」と「承認欲求」との関連を延々と描き、「承認欲望」という明らかに善悪の「悪」の価値判断を含む言葉づかいをし、陰陰滅滅と、「承認欲求」のきもちわるさを訴える。そんなんで社会に承認が増える結果に結びつくとは思えないのだが。

 もう1冊、『人に認められなくてもいい』(勢古浩爾、PHP新書、2011年12月)は、この年に先行で出た『「認められたい」の正体』を長めに引用し、引用文献としてはそれが唯一と言ってもよく、あとは「認められたい心理(承認欲求)」をひたすら品位の低い言葉で貶しまくっている本。いわば便乗本、尻馬乗り本という感じ。たぶん「内発と自律論」にかぶれて憧れてるほうの人だと思う。

 「内発と自律論」についての最近の記事はこちらです

 ふたたび「内発と自律」をモグラ叩きする
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921314.html


 このへんの論者の方々にわたしが言いたいのは、たとえば大前提として、承認欲求がボルテージ上がってるから犯罪が増えてるんだろうか?そもそも、犯罪発生率が上がってるという事実もあるんだろうか?

 すっごく犯罪が増えていて、アキバ通り魔事件のようなのの発生率が過去に比べて右肩上がりで上がっていて、それの原因が承認欲求の亢進だ、という図式が成り立つんだったらいいですよ。現実には、犯罪は減ってるんでしょ。ちょぼ、ちょぼ、と起きていて、たまに起きるがゆえに目立つそれの原因をみると承認欲求由来のものがある、という話でしょ。

 そのへんのデータ的なところは詳しい方にゆずるとして、、、


 昔から、犯罪の動機が承認欲求だった、というのは実はよくあった。「永山則夫」とかもそうなんじゃないですか、たぶんほかにも枚挙にいとまがない、めんどくさいから一々挙げない。三島由紀夫とかインテリがやるのもそうだし粗暴犯もそうだったろうし、明治の人も江戸時代の人も戦国時代の人ももっと前の人もやってた。だってギリシャローマ秦漢の時代から承認欲求ゆえに戦争をし、主と奴に分かれた、っていうんだから。

 承認欲求ゆえに人は恋愛もする。源氏物語だってそれを言えば承認欲求の産物だと思う。思い返すと近代ヨーロッパの恋愛小説とかビルドゥングスロマンとかも全部、今読み直せば延々と承認欲求のことを書いている。漱石のこころだって言ってみればそうじゃないですか。「近代的自我」なんて今の言葉で言えば全部承認欲求じゃないですか。

 だから、ふつうのことなんです。承認欲求を持っているのって。
 昔から若い人はそれで悶々としてたんです。
 単に今の大人が成熟度が低いから、出し惜しみして与えないから、社会に足りなくて窒息感が起きてるんです。それと、昔は文章を書くなんて一部のエリートの行為だったのが、彼らは社会的地位が高かったので割合承認的に満たされていたのが、今はもっと普通の社会的地位の低い人も書いて公開できるようになったから目立つということはあるでしょう。
 去年はまたナルシシストのスキャンダルが連続して起きたが、あれは「承認欲求」も度を越すと一種の才能だ、という話なんだと思う。別にすきじゃないですよ、あのひとたちのこと。
 (あと多少、顔出しできるツールの出現が自己顕示欲という形の承認欲求を高めたというところはあるでしょうね。拡張させるツールは溢れていますね、それは1960年代からアメリカ人を肥満にさせるスナックが溢れたのと同じです。そういう社会を作っちゃったのは大人です)

 でもこの著者たちは、「アンチ承認欲求」で論陣を張ると、それだけで新書が何冊も書けちゃったのだ。「まるで承認欲求の亢進ゆえに不条理犯罪が増えた」みたいに見せかける文章を書いて、日本的なケガレみたいな味つけをして。そういう、イージーな論客たちの「おまんまのたね」だったのだ、承認とか承認欲求は2008年ごろから最近まで。牧歌的な時代でしたねえ。

 『承認をめぐる病』(斎藤環、日本評論社、2013年12月)は、病気の人のことなので、こころの栄養である承認が極端に不足すれば病気になるのはわかりきっているので、省きます。あと病的に承認欲求の強い一部の人も病気になりやすいです。専門家の方はそういうものだと思って粛々と対処なさってください。


 そしてもうひとつ意地悪なことを言いましょう。

 承認や承認欲求のことを何と表現するか。それは、その人自身の内面の投影だ、とわたしはみています。

 たとえば、求めても得られないもの。ここにはないどこか。幸せの青い鳥のようなもの。J-POPで歌う夢とか幸せのような現実味のないもの。地獄の餓鬼の絵のような嫌悪の情をもよおすもの。際限のない闘争をもたらすもの。羨望と見下し。

 全部それは、その人自身の内面の物語なのです。
 きっと本人さんが「ほしい〜、ほしいのに〜、もらえない〜」と悶々としている人なのです。ノドから手が出ているのです。イソップ童話のキツネのように、手に入らないから、悪口を言うのです。そして「与える側になる」なんて夢にも思わないのです。はいクイズです、そういう人格の人のことを何と呼ぶでしょう。


 わたしなどは、
「そうか、足りないのか、じゃあ与えよう、そのためにトレーニングをしよう。そのために人びとを説得して動かそう」
という脳の回路をしているので、そうした陰陰滅滅としたイメージはあまり持ちません。供給したあとの現実の美しいイメージのほうを沢山蓄積で持っています。しかし根暗イメージを持つ人は持つので、ふうんそう見えるんだなあ、と不思議な思いでみています。
(もちろん不足のために問題が起きていることには人一倍心を痛めます、だから迅速に行動を起こします。わたしの受講生たちが1位続出しはじめたのは、わるいけれどこの論者たちが「承認欲求」の悪口垂れはじめるより5年も早かったのです)


 適切に与えさえすればこんないいものはないものについて悪口雑言たれる人とはお友達になれません。

 彼らは、「承認」「承認欲求」を遠巻きにしてみて悪口言う仲間をつくり、その仲間同士の承認を期待しているナルシシストなのです。


 
 もうひとつ追加しましょう。

 拙著『行動承認』は「はじめに」の一章を除けば、全編が「解決編」でできている、と言ってもいい本です。

 わたしは恨み節嘆き節がすきではないのであまり気乗りがしなかったのですが、打ち合わせでそういう章が必要だ、という話になったので、仕方なく「承認不在の職場でどんなイヤなことが起きているか」を取材して書いたのでした。

 残りは全部、解決編。
 世間には、データだけ出して解決編提言編は書きたくなかったとか言われる御仁もいらっしゃるけど、

「こういう問題が起きています」「さあ、あなたはどうしますか」

という本の書き方より、解決編に徹して書くほうが責任が重いのです。

 とりわけリーダーの行動規範に関する本なので、リーダーが間違ったことをやったらものすごく影響が大きい。それは、あらゆる取り違えや行き過ぎや色々な事態を考えて、丁寧に副作用の芽を摘み取って書いているつもりです。

 わたしは「変える」という言葉もあまりすきではなくて、「変えるより『つくる』ほうがはるかに難しい」と思っています。現状に問題があるから変えたい。でも変えた先の形でまた別の問題が起きない保証はない。

 そして受講生さんや読者さんは素人なので、ほっとくと色んな失敗をされる。本当はリーダーの行動では失敗は許されません。経験値のある当方が、できるだけ失敗しないように丁寧に指導してあげる必要があります。「失敗してもいいですよ」は若いうちだけのことです。


 そういう、「この形に変えたあかつきに何が起こるか」を丁寧に予測して問題の芽を摘み取る作業をしている本なのですが、そういう配慮を読み取ってくれる読者さんはすくないですね。世間の本でそういうの中々ないですよ。いいんだけど。


 わたしは、嘆き節の本何冊も書いているよりも自分の生きている時代に責任持った仕事の仕方してます。超マジメタイプですから。
 
 
 
(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 

『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(広井良典、2015年6月、岩波新書)を読みました。

(すみません、最近読書日記の長文化が続いています。今度はワード18pになりました。ご容赦ください。)

 現代を「第三の定常化社会への移行期」と規定する著者の最近の集大成と位置づけられる本。

 コンパクトな中に非常に多数の分野、多数の研究群を渉猟しながら大きなパラダイムを浮かび上がらせ、そして日本のすすむべき未来(緑の福祉国家/持続可能な福祉社会)を提言しています。

 この著者の近年の著作『コミュニティを問いなおす』『創造的福祉社会』『人口減少社会という希望』などの集大成であろうとともに、著者自身の科学への関心をも盛り込んだ、とあとがきでは述べられています。

 内容的には新書何冊か分を集約している感じで非常に多数の話題が登場するので読みやすい本とは言い難いのですが、さっと読んだだけでも主張が明快に抵抗なく頭に入ってくる、というのは、恐らく著者の簡にして要を得た「文体の力」と、所々に出てくる「ブレードランナー」「インセプション」などの映画の話題、手塚治虫の「火の鳥」など、サブカルチャーからの引用がありイメージが喚起されやすいことなどからくるのでしょう。けっして衒学趣味的な読後感は持たれないでしょう。

 ―「文体」に関しては、ヘーゲル哲学の晦渋を極めた文体に泣かされた身としては有難さが身に沁みますね。

 たぶん、当ブログの長い読者の方は、本書の時代認識と未来への提言について、直感的に同意される方が多いと思うのですが、それが全体としてどういう論考から成っているのか、というところを少し丁寧にフォローしてきたいと思います。
 
 では恒例の抜き書きです。今回は引用多数となります。(引用下線)

 人類の歴史を大きく俯瞰すると、それを人口や経済規模の「拡大・成長」の時代と「定常化」の時代の交代として把握することができ、次のような三回のサイクルがあったととらえることができる。(pp.1-2)
第一のサイクル:現生人類(ホモ・サピエンス)が約20万年
第二のサイクル:約一万年前に農耕が始まって以降の拡大・成長期とその成熟
第三のサイクル:主として産業革命以降ここ200〜300年前後の拡大・成長期
 これについて本書ではアメリカの生態学者ディーヴェイの世界人口の長期推移についてのモデルを提示しています。グラフから、ほぼそうした曲線を描いているのがわかります。

 こうした人間の歴史における「拡大・成長」と「定常化」のサイクルは、人間の「エネルギー」の利用形態、あるいは「人間による“自然の搾取”の度合い」から来ると本書はいいます。狩猟採集の場を各地に求めてホモ・サピエンスは地球上に広がり、そして狩猟採集のみでは十分な食料確保が困難になったとき、約一万年前に農耕を始めた。そして共同体的秩序や階層や格差が生まれた。
 農耕段階が資源・環境的制約にぶつかって成熟・定常化すると、ここ200〜300年の工業化の時代に入る。(pp.3-6)

人間の歴史の中でのこの第三の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が、(近代)資本主義/ポスト資本主義の展開と重なるというのが、本書の基本的な問題意識となる。(p.6)

 そして、「思想」の誕生。「人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような何らかの新たな観念ないし思想、あるいは価値が生まれた(p.7)と本書はいいます。「心のビッグバン(意識のビッグバン)」あるいは「文化のビッグバン」という現象。第一のサイクルの中で加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品が約5万年前に一気に現れた。第二のサイクルでは、現在に続く「普遍的な原理」を志向するような思想が地球上の各地で“同時多発的”に生まれた。すなわちインドでの仏教、中国での儒教や老荘思想、ギリシャ哲学、中東での旧約思想(キリスト教やイスラム教の源流)などがそう。最近の環境史という分野では、この時代、これらの地域で農耕と人口増加が進んだ結果として、森林の枯渇や土壌の浸食等が深刻な形で進み、農耕文明が最初の資源・環境制約に直面しつつあったといいます。本書は、仮説と断りつつも、「これら普遍思想(普遍宗教)の群は、そうした資源・環境的制約の中で、いわば「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という方向を導くような思想として、あるいは生産の外的拡大に代わる新たな内的価値を提起するものとして生じたと考えられないだろうか」と提起します。定常期とはむしろ豊かな文化的創造の時代だ、とも(p.7-9)。

 そこで、現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば、心のビッグバンにおいて生じた自然信仰や、第二サイクルで生まれた普遍宗教に匹敵するような、根本的に新しい何らかの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか という問題提起にもつながります。(p.10)

 このあとは今後のシナリオとして2つの両極端が示されます。

 超(スーパー)資本主義VSポスト資本主義。言い換えれば拡大・成長と定常化と。この2つの方向性がせめぎあいながら、21世紀は定常型社会への移行の世紀となるだろう、本書の大きな見解としてはそうです。

 前者・超(スーパー)資本主義は、「21世紀は『第4の拡大・成長』の時代となるはずだ」というビジョンに基づいています。著者は、「そのような技術的な突破の可能性があるとしたら、以下の3つが主要な候補として考えられると思う」と、第一に「人工光合成」、第二に「宇宙開発ないし地球脱出、第三に「ポスト・ヒューマン」とその候補を挙げます。(ただし著者自身はこれらに懐疑的であるとも述べます)

 ―このあとの「ポスト・ヒューマン」論では、「共同主観性」という、以前ヘーゲル承認論の中でわたしが引きつけられた「間主観性」の概念に似たものが出てきたり、「ソーシャル・ブレイン」が出て来たり、子供のころ親しんだ荘子の「胡蝶の夢」が出て来たりして楽しめました。先月ぐらいに「全部わたしの妄想なのではないだろうか」と言ったばかりですね。「共同幻想」というのは「会社の理念」もまさしくそういうところがあるのですが。

 このなかでおもしろい記述としては、AI(人工知能)に関する記述をひとつご紹介しておきましょう。

 …逆手をとって、AIと人間(ないし生命)を“融合”させていけばよいではないか。そして、AIのすぐれた面(上記のような情報処理能力の速さや記憶容量の大きさ)と人間のすぐれた面(生存への志向とそこから派生する世界の「意味」づけ、あるいは他者との共感能力等々)を組み合わせれば、いわば“最強の存在”―それを「人間」と呼ぶかどうかは別として―が生まれるはずではないか。(p.15)

 ―人間のすぐれた面として、「生存への志向とそこから派生する世界の意味づけ」としているところが興味ぶかいですね。「共感能力」については、ひょっとしたら近い未来に機械に代替されるかもしれない、という気がしています。人間の中にもそれが低い人は多いですし。

 ―さあ、前提の「おさえておきたいこと」のところだけで随分長くなってしまいました。やっと本論にまいります―

 資本主義とは、なにか。
 本書は、「純化した把握」として、
  資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステム」と呼びます。

 「市場経済=悪」ではない。資本主義と市場経済が異なる点は何かというと、それは最終的に「拡大・成長」という要素に行き着くのではないか、と。(「G(貨幣)―W(商品)―G’(貨幣)」)資本主義は「そうした(量的増大を志向する)経済活動を広く社会的に肯定するシステム」だ、とも呼びます。

 こうした資本主義精神を象徴するものとして、第二サイクルから第三サイクル、すなわち定常から拡大へ移行した時期に登場したバーナード・マンデヴィル(1670-1733)という思想家の「質素倹約といった個人のレベルでの“美徳”は社会全体の利益にはつながらない、逆にこれまで道徳的に悪とされてきた、放蕩や貪欲といった行為、一言でいえば限りない私利の追求という行為が、結果的にはその国や社会の繁栄につながり、また雇用や経済的富も生み出す」という主張があります。(pp.28-34)

 では、マンデヴィルのいうような放蕩や貪欲、私利の追求はその後の時代でなぜ可能になったのでしょうか。わたしたちの属する「第三の拡大・成長」期すなわち(近代)資本主義と呼ぶものの中心は、自然資源の圧倒的な規模での開発と搾取という、食糧・エネルギーの利用形態の根本的な転換にあった、と本書では言います。
 ここでは二つの次元が関係し、すなわち

(1)「個人―社会」の関係……個人が共同体の拘束を離れて自由に経済活動を行うことができ、かつそうした個人の活動が社会全体の利益になるという論理【個人の独立】
(2)「人間―自然」の関係……人間は(産業)技術を通じて自然をいくらでも開発することができ、かつそこから大きな利益を引き出すことができるという論理【自然支配】
と言います。(pp.36-37)

 さて、こうした資本主義は、実は「科学」―正確には「(西欧)近代科学」―の基本的な世界観や態度と同じ構造をもっているのではないか、と本書。

 17世紀の「科学革命」以来の「科学」は2つの基本的特質をもっていた。すなわち、
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」


 こうした特質は、「資本主義の2つの次元」として上記に挙げた要素と重なる、といいます。いずれも「共同体から独立した個人」および「自然支配(自然と人間の切断)」という、共通の世界観や思考から派生した営みであると。(pp.38-40)

 このあとは資本主義の歴史の概観になります。お詳しい方は飛ばして読んでいただいたらいいのですが、ジョン・ステュワート・ミル(1806-1873)は19世紀半ばに「定常状態」論を提起しています(『経済学原理』1848年)。当時はなお農業の比重が大きく、ミルの議論も(一国内の)「土地の有限性」を意識したものだったといいます。
 そして20世紀、ケインズの登場。ケインズは、経済成長を最終的に規定するのは(生産ではなく)人々の「需要」であり、しかも人間の需要は政府の様々な政策によって誘発ないし創出することができる、これにより不断の経済成長が可能であると主張しました。人々の需要や雇用という、市場経済ないし資本主義の“根幹部分”を政府が管理しまた創出することができるという、これは資本主義の根本的な“修正”と言えるものです。国家あるいは政府の政策目標として「経済成長」が語られるようになったのは比較的最近のことであり、第二次大戦後のケインズ政策の時代だったといいます。また経済成長の指標である、GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)も世界恐慌後のこの時代につくられました。「“GNPの起源”としての世界恐慌」と言うこともできます。
 一方で近年のブータンの「GNH(幸福総生産)」をはじめとする様々な幸福度指標、またスティグリッツやセンといった経済学者が「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行するなど、「豊かさ」の指標に関する動きが活発化していることについて、本書の解釈は:

 ちょうど世界大恐慌がGNPという新たな指標を要請し、それがケインズ政策と連動していったのとパラレルに、現在の世界の状況を踏まえた真の豊かさや発展に関する新たな指標やコンセプト、ひいては「限りない拡大・成長」というパラダイムそのものの根底的な見直しが求められる時代に私たちは入ろうとしているのではないだろうか。(pp.45-51)


 次に、「科学国家=アメリカ」と「福祉国家=ヨーロッパ」というコンセプトが出てきます。

 ケインズ政策的枠組みにおいて、他国に比べて「科学研究」への公的投資に圧倒的な力を注いできたのが第二次大戦後のアメリカであり、他方、社会保障を通じた再分配に優先的なプライオリティを与えてきたのがヨーロッパであったと言える。象徴的に、前者を「科学国家」、後者を「福祉国家」と呼ぶことが可能であるだろう。(p.53)

 
 
外的な限界と内的な限界。ローマ・クラブによる「成長の限界」(1972年)はミルの定常論に次ぐ、第二段階の定常経済論と位置づけることができ、それは工業化の資源的限界という歴史的局面と呼応していた。これを“外的な限界”とすると、同時に“内的な限界”という状況も起きた。すなわち、人々の需要が徐々に成熟ないし飽和し、かつてのように消費が際限なく増加を続けるということを想定し続けられなくなるという限界。
(p.56)

 80年代以降には2つの動きが起こり、「成長の限界」論がいったん“後退”する。その動きとは、
情報技術の展開とも一体となった、アメリカが主導する金融の自由化とグローバル化
いわゆるBRICsに象徴されるような新興国の台頭と工業化
しかしそうした新たな展開(特に 砲、少なくともいったん明確な形で破綻したのが2008年のリーマン・ショックだった、と本書。(pp.57-58)

 ここまで駆け足で現代までの直近の状況をみてきましたが、今後を展望するための思考材料として、著者は「地球規模での少子化・高齢化の進展」を挙げます。中国をはじめアジア諸国でも高齢化と少子化は進行し、国連推計では世界人口は2100年には109億人で、2050年時点の人口推計は96億人と、21世紀後半はほぼ定常状態に入る。「21世紀はむしろ“高齢化の地球的進行”が進んでいく時代なのであり、それは自ずと人口の成熟ないし減少を意味する」と本書は述べます(pp.60-61)

 このような今世紀後半の展望を本書では「グローバル定常型社会」と名づけたり、国際政治学者の田中明彦の言葉を引いて「新しい中世」と呼んだりしています。(pp.62-63)

 さて、先にみたアメリカが主導する金融の自由化とグローバル化は、この時期における科学・技術の新たな展開、すなわち情報技術とが文字通り“両輪”の関係であった、と本書。
 私たちが生きる今という時代はいわば「情報文明の成熟化ないし飽和」あるいは「ポスト情報化」ともいうべき局面への移行期と考えるべきである。(p.66)

 このあとリーマンショックに絡めて「期待の搾取」、また「観念の自己実現」という概念が出てきますが詳しくは割愛。後者から導きだされるのは、人間の経済とは、その基盤にある貨幣を含めて主観的な(共同)幻想ということになり、まさに“脳が見る(共同の)夢”になる。経済学者の西部忠は、そのような現在のシステムを改変していくためには貨幣そのもののありようを変えていくことが原理的に必要であるとし、それを踏まえて「コミュニティ通過」(ローカルな地域をベースとし、自立循環型の地域経済を確立するような、利子を生まない貨幣)を提案します。(pp.66-76)

 こうした、経済における期待や観念と現実の乖離をどう考えたらいいか。ここで本書は、

  ひとつのありうるビジョンとして、そのように市場経済を無限に“離陸”させていく方向ではなく、むしろそれを、その根底にある「コミュニティ」や「自然」という土台にもう一度つなぎ“着陸”させていくような経済社会のありようを私たちは志向し実現していくべきではないか
と述べます。
 個人・共同体・自然をそれぞれ市場経済・コミュニティ・環境とリンクさせたピラミッ
ドの図が示され、最下層の「自然/環境」に着陸させる矢印があります。

 さて、近年「脳」と「意識」をつなぐ研究が脳科学の方から盛んにおこなわれているよ
うです。私はうっかりこのあたりの文献を積読して読みそびれているのですが、本書では
アントニオ・ダマシオの主張、「事故や意識の根底には、安定した有機体の内部環境から生
まれる『原自己(protoself)』があるとし、それを抜きにして自己意識や思考、感情といった
ものを考えることはできないという議論を紹介します。こうした脳科学の側からの人間認
識が、「市場経済をその土台にあるコミュニティや自然につないでいく」という方向、すな
わち「脳」をその土台にある「身体」に“着陸”させるような方向ともつながるものだ、
と本書は主張します。
 これは著者のかなり以前にさかのぼる「私(自己)の重層構造」という理解にも対応し
ているとします。
A 個人の次元:“思考する私”(=反省的な自己ないし自我)
B 共同体の次元:“コミュニティ的な存在としての私”(=他者との関係性における自己)
C 自然の次元:“身体的な私”(=非反省的な自己ないし個体性
)(pp.80-81)

 という、私流の造語では「自己の身体性」というお話になるのでした。これは、デカルトに限らず哲学書を読んでかならず突き当るフラストレーションと同じで、「思考する私」が、「身体性」から離れて思考しているときその思考の結論を正しいと認めてよいか?という問いにもつながるでしょう。現代のわが国の少壮哲学者にもそれを思うことがあるな。

 さて、第II部「科学・情報・生命」では、

 科学国家アメリカ。戦後アメリカは軍事分野以外では、医療あるいは医学・生命科学研究分野に圧倒的な予算配分を行ってきました。たとえば2015年度の政府研究開発予算のうち、国防省予算を除く部分の4割以上(44.9%)をNIH(国立保健研究所)の予算が締めています。ところが、主要先進諸国の医療費の規模と平均寿命をみると、アメリカは医療費の規模(対GDP比)が先進諸国の中で突出して高く、しかしそれにもかかわらず、平均寿命は逆にもっとも低いという状況があります。;">つまりアメリカは、研究費を含めて医療分野に莫大な資金を投入しているが、にもかかわらず、その成果ないしパフォーマンスはむしろかなり見劣りのするものとなっているのです。著者は、日本版NIH構想のような動きがいわゆるTPPとも一体となり、アメリカのような私費医療の拡大と医療費の高騰、医療における格差拡大と階層化、平均寿命ないし健康水準の劣化など、アメリカの医療システムの“悪いとこ取り”とも言うべき事態が進んでいくことを危惧します。(pp.84-91)

 ところで、医療や健康をめぐるテーマを考えていくに当たって「社会的(ソーシャル)」な要素や側面が重要になってくるということを、近年の諸研究が示唆しています。これは19世紀に成立した「特定病因論」という考え方から、それだけでは解決できないうつや慢性疾患に対応するために新たに発展したものです。「社会疫学」という分野は、「健康の社会的決定要因」という基本コンセプトに基づいています。(pp.92-93)

 そして私がここで注目したいのは、このように、「個人」あるいは個体というものを単に独立した存在としてとらえず、他者との相互作用を含む社会的(ソーシャル)な関係性の中でとらえたり、あるいは他者との協調行動や共感、利他的行動といったものに焦点を当てるような研究が、近年、文・理を含む様々な学問分野で、“百花繚乱”のように生成し発展しているという点だ。(p.94)

 ここでは、『共感の時代へ』のドゥ・ヴァールやオキシトシン研究のポール・ザック、ソーシャル・ブレイン研究など、当ブログでおなじみの著者や文献名が出てきて嬉しくなります。

 こうした諸科学は、「独立した個人」というものを基本に置き、また(経済学などでは)そうした個人は“利潤の極大化”を追求するという個体中心のモデルを想定した近代科学のパラダイムとは異質な要素を含む、科学の新たな方向性を示すものととらえることができるだろう、と本書。
 関係性や人間の協調性等への注目といった点自体を含めて、そうした科学や知のあり方(ひいてはそこで提示される人間観や自然観等々)の全体が、その時代の経済社会の構造変化や環境等によって大きく規定されているのではないか(p.97)

 そこで再度17世紀のマンデヴィルの例を引き、
 およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理といったものは、究極的には、ある時代状況における人間の「生存」を保障するための“手段”として生成するのではないか(p.99)
という著者の考察が述べられます。

 近年の諸科学において、人間の利他性や協調行動等が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済社会がなりつつあることの反映とも言えるだろう。(同)
 さらに一段進めた考察として、
 「情報」を含めてこうした科学の流れは、(略)近代科学が上層の「個人」のレベルから、その視点や関心を中層のレベル(情報やコミュニティ、個体間の関係性に関するレベル)にシフトさせてきたととらえることができるだろう。(p.101)
と、述べています。
 
 このあとの章では自然観や生命観にまつわるかなり深い議論が出てきます。(pp.103-115)
・ニュートンが代表する、機械論的自然観。(ニュートン自身は彼の古典力学の「力」について、キリスト教の神と結びつけて理解していたという)
・またデカルトが代表するような、「人間と人間以外」との間に本質的な境界線を引く立場。
・続いて、「生命と生命以外」に境界線を引く立場。ドイツの生物学者ハンス・ドリーシュ(1867-1941、「エンテレヒー」という概念を唱える)がその代表で、ドリーシュは生命には因果論的把握に還元できない“目的性”をもつ、とした。物理学者シュレディンガーの「生物は負のエントロピーを食べて生きている(無秩序から秩序を生み出している)」という議論がそれに続く。
・最後は、非生命―生命―人間をすべて連続的なものととらえる見方。ベルギーの化学者イリヤ・プリゴジンの非平衡熱力学に関する議論が代表。非生命にも秩序形成(自己組織化)がみられるとする。「それは、自然そのものの中に秩序形成に向けたポテンシャルが内在しており、それが展開していく中で生命、人間(ないし精神)といった存在が生成していったととらえる、いわば一元論的な世界像とも言える。」(p.112)

 ここで著者は、上記の4つの立場のうち、1つめと4つめは実は「共通しているものがある」と述べます。ニュートンらの機械論的な把握なのか、森羅万象は生命も非生命も一元的であるとするアニミズム的把握なのか。
 “機械論ですべてを説明しようとしていったら、人間と人間以外、あるいは生命と非生命の境界線がなくなり、新しいアニミズムに回帰していく”というのが現代の科学において生じつつある状況ではないだろうか。(p.115)

―ここまで読んでわたしは、つい、最近の自分のモチベーション論を化学物質の話に置き換えたり、人の能力低下の状態を「脳のどの部分が縮小したから」と説明したりする議論の癖に思いをいたしました。機械論的一元論良くないのかな、と思うこともあったが実はかまわないのカナ。

 次の段階の議論。本書は、これまでの近代科学の本質的な特質には2つの柱があるとします。
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」
(p.116)

 するとこれからの新たな科学のありようを考えるとしたら、両者について、近代科学が前提としたような方向ではないあり方が可能性として考えられる、とします。すなわち、人間と「自然」「共同体」それぞれの関係性であります。
・(1)については、人間と切断された、かつ単なる支配の対象としての受動的な自然ではなく、人間と相互作用し、かつ何らかの内発性を備えた自然という理解。また、一元的な法則への還元ではなく、対象の多様性や個別性ないし事象の一回性に注目するような把握のあり方。
・(2)については個人ないし個体を共同体的な(ないし他者との)関係性においてとらえるとともに、世代間の継承性(generativity)を含む長い時間軸の中で位置づけるような理解。また要素還元主義的ではなく、要素間の連関や全体性に注目するような把握のあり方。
(p.120)


 ―ここで述懐:正田のマネジメント論というか、「人、物、金」の人に特化したマネジメント上の困り事に対応するやり方というのは、上記の「(1)については」の後半、多様性や個別性に徹底して着眼する。それはおおむね「正解」なようで、困り事は大概直ってしまう。たんに今までにない視点でものを考え、今の時点であまり有名ではない物差しを使うせいでもあると思うが―、

 デカルト的な人間中心の自然観からアニミズムへ。
 近代科学はある意味で、”新しいアニミズム”とも呼ぶべき自然像に接近しているともいえるのである (pp.122-123)

 ただしそれは、かつてのアニミズム的な自然観への単純な回帰ではない。(略)近代科学の機械論的自然観が展開をとげていったその先に、つまり自然や生命についてのより分析的あるいは俯瞰的な把握をへた上で、アニミズムと高次のレベルで循環的に融合していく、ともいうべき姿である(p.123)

 いよいよ、“解決編・提言編”ともいうべき、第III部に入ります。

 ここで提示されるグラフはいきなり暗澹となります。所得格差(ジニ係数)の国際比較。我が国はOECD加盟22か国で上から5番目と上位にあります。アメリカ、イギリス、スペイン、ポルトガル、日本です。下位にはノルウェー、アイスランド、デンマークと北欧諸国がきます。日本は1980年代頃までは大陸ヨーロッパと同程度の平等度だったが、その後徐々に経済格差が拡大し現在の状態になったのです。

 若者を中心とする慢性的な失業のもっとも基底には構造的な“生産過剰”がある、と本書。モノがあふれ、人々の需要の大半が満たされているような時代にあっては、生産物を作っても売れないということが珍しくなくなる。加えて、そこで生産性(労働生産性)を上げれば、それは“より少ない人数で多くの生産を上げることができる”ということを意味するから、必要な労働力はさらに少なくなり、一層失業が増えることになる。結果として、“生産性が上がれば上がるほど失業が増える”という逆説的な事態が生まれているのだ。(pp.126-131)

 楽園のパラドックス。(ローマ・クラブが1997年に公にした「雇用のジレンマと労働の未来」による)
 過剰による貧困。生活保護の受給世帯全体が増加しているが、「高齢者世帯」「傷病・障害者世帯」「母子世帯」「その他世帯」の区分のうち、若者などを多く含む「その他世帯」の割合が顕著に増加している(1997年の6.7%から2012年には18.4%に増加)。さらに、過重労働によりストレスや過労や健康悪化に悩まされる。
 現在は人々の需要が成熟・飽和し、他方では地球資源の有限性が顕在化し、限りないパイの総量の拡大という前提がもはや成立しない状況になっている。そうした中で拡大期と同じような行動を続けるとすれば、プレイヤー同士が互いに首を絞め合うような事態が一層強まっていくだろう。(pp.132-134)

ここからは提言となります。
 “過剰”という富の生産の「総量」の問題と、“貧困”や“格差”という、富の「分配」の問題が互いに絡み合う形で存在している、という現状認識を踏まえ、本書は
(1) 過剰の抑制―富の総量に関して
(2) 再分配の強化・再編―富の分配に関して
 を提言します。

 (1)の例としては近年のヨーロッパにおける「時間政策」を挙げます。そこでは、人々の労働時間(正確には賃金労働時間)を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり“時間を再配分”し、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうとします。

 「時間政策」は「余暇消費」増、創造性の向上、健康増進、失業率削減や貧困是正にも寄与する、地域活性化・コミュニティ再生にも寄与する、など多くのメリットがあると本書は言います。

 著者自身は「国民の祝日」倍増を提案してきたそうです。本音では休みを取りたいが「空気」の支配する職場では休みがとりづらい、そうした日本人の実像に照らした苦肉の策といいます。

 さらに一歩進めて、スピードをゆるめる「時間環境政策」というものも本書は提言します。生物学者の本川達雄(『ゾウの時間、ネズミの時間』の著者)は、人間は生活のスピードを無際限に速めてきており、現代人の時間の流れは縄文人の40倍ものスピードになっている(同時に縄文人の40倍のエネルギーを消費している)、しかしそうした時間の速さに現代人は身体的にもついていけなくなりつつあり、「時間環境問題」の解決こそが人間にとっての課題であると主張します。「時間をもう少しゆっくりにして、社会の時間が体の時間と、それほどかけ離れたものではないようにする」(本川)進化医学という分野でも同様に、「遺伝子と文化(スピードも含めて)」のギャップ―人間の身体が適応できないほどに人間が作った環境が大きく変化したこと―が多くの病気の根本原因だというそうです。(pp.136-143)

 「過剰の抑制」に絡めてもうひとつ、「生産性」の概念の転換も本書は提起します。「労働生産性から環境効率性(ないし資源生産性)」。かつては“人手が足りず、自然資源が十分ある”という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。現在は“人手が余り(=慢性的な失業)、自然資源が足りない”という状況になっている。そこで「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要だと本書。

 経済的なインセンティブとしては1990年代頃からヨーロッパにおいて「労働への課税から資源消費・環境負荷への課税へ」という政策がとられるようになり、例えばドイツで1999年に行われた「エコロジー税制改革」がそう。環境税を導入するとともにその税収を年金にあて、そのぶん社会保険料を引き下げるという内容。(pp.144-146)

 ここで福祉や教育という対人サービスの領域がもっとも“生産性が高い”領域として浮上する、と本書では言います。おやおや本当カナ。これらの領域は基本的に「労働集約的」な分野であり、「労働生産性」という物差しでは“生産性が低い”となるが、労働集約的であるということは“人手”を多く必要とする、それだけ“雇用を創出しやすい”ことを意味するのです。

 資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が基調となって失業が慢性化する成熟・定常期においては、人々の関心はサービスや人との関係性(あるいは「ケア」)に次第にシフトし、人が中心の「労働集約的」な領域が経済の前面に出るようになるだろう。(pp.147-148)

 そしてこうした方向への転換は、市場経済にゆだねていれば自然に進んでいくものではなく、北欧の福祉・教育などの政策や、ドイツのエコロジー税制改革などのように、それを促すための公共政策が不可欠になる、と本書は述べます。(p.150)

 提言編・次に「再分配の強化・再編」について。
 社会保障、社会的セーフティーネットの整備というのは資本主義の末端部分から根幹部分へ順次、分配の不均衡や成長の推進力の枯渇といった各時期の“危機”に対応する形で進んでいったと本書は言います。そこで今後展望されるのは、「システムのもっとも根幹(ないし中枢)にさかのぼった社会化」であろうとも。
 著者の従来からの提言と重なりますが、次の3点を重要な柱とします。
(1)「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における“共通のスタートライン”ないし「機会の平等」の保障の強化
(2)「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)
(3)コミュニティというセーフティネットの再活性化
 
 ここで、例えば相続の問題にも触れられます。「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」が無視できないほど浮上している、と現状認識を述べ、

 個人の「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、ある意味で社会主義的とも言える対応が必要になるという、根本的なパラドックスがここには存在している言い換えれば、逆説的にも個人の「自由」の保障は、“自由放任”によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。(pp.160-161)

 人生前半の社会保障として「教育」があります。わが国は教育に対する公的支出が少なく、私費負担が多いというデータ。GDPに占める公的教育支出の割合を国際比較すると、一位のデンマーク(7.5%)のかノルウェー、アイスランド等北欧諸国が上位を占める一方、日本のそれは3.6%で、先進国(OECD加盟国)中で最下位という状況が5年連続で続いている(OECD加盟国平均は5.3%)。特に日本の場合、小学校入学前の就学前教育と、大学など高等教育における私費負担の割合が高いことが特徴的で、これは「機会の平等」を大きく損なう要因になっていることだろう(就学前教育における私費負担割合は55%(OECD加盟国平均は19%)、高等教育における私費負担割合は66%(同31%、以上2011年のデータ)。(pp.161-162)

 これは戦後の教育改革が存続する中で格差の累積や“世襲”的な性格が強まっているのが現在の日本社会だろう、と本書。「日本社会は、いわば放っておくと“固まりやすい”社会であり、」という記述があり、これはまったくその通り、とわたしも思います。変に「変えたくない」が強く出る。高齢化、長寿命化すると前の世代が決めたことを益々変えられなくなるかもしれません。

 またここに見られる「教育コストを公的に負担したがらない性格」は、企業研修にもまったく同じ現象があり、皮肉なことに国際平均との間の差の数値もよく似ています。「欲しがりません勝つまでは」を教育に関してやってしまっています。

 さらに社会保障の「世代間配分」に関しては、日本は社会保障全体の規模は先進諸国でもっとも「小さい」部類に入るのに、高齢者関係支出(年金)の規模はもっとも大きいというデータが目を引きます。日本と似た構造にあるのはギリシャやイタリアなどの南欧諸国でありこれらの国々は社会保障全体の規模は相対的に低いが、年金の規模は大きいという特徴があります。高齢者の「世代内」にも大きな格差があり、全体として、日本の年金は「世代内」および「世代間」の双方において、ある意味で“逆進的”な、つまり「格差をむしろ増大させる」ような制度になってしまっています。(pp.163-166)

「ストックの社会保障」という概念。
 「所得」つまりフローの格差より「ストック」あるいは資産(金融資産や土地・住宅)に関する格差のほうが大きい。

 実際、格差の度合いを示すいわゆるジニ係数を見ると、年間収入(二人以上の一般世帯)のジニ係数が0.311であるのに対し、貯蓄におけるそれは0.571、住宅・宅地資産額におけるそれは0.579となっており(全国消費実態調査、2009年)、所得よりむしろ金融資産や土地等の格差のほうがずっと大きいのである。(pp.168-169)

 土地所有に関してヨーロッパでは土地における公的所有の割合が相対的に大きく、特に北欧などは、たとえばヘルシンキ市では土地の65%が市有地であったり、ストックホルム市では土地の70%が市有地であるなど、「土地公有」が一般的なのだといいます。ここから、本書では今後は資産の再分配あるいは「ストックの社会保障」という観点からの対応が重要であるとし、具体的には、住宅保障の強化や土地所有のあり方の再吟味(公有地ないし「コモンズ(共有地)」の強化や積極的活用)、そして金融資産・土地課税の強化とそれによるストックの再分配や社会保障への充当を挙げます。(p.171)

これについてピケティの『21世紀の資本』では、「経済成長の速度が弱まる時代においては、自ずと過去の資産が不均等に大きな重要性をもつに至る」そして「起業家は金利生活者に転身するのが不可避となる」と述べています。それは資本主義の終焉または自殺行為であるとし、それを回避するために「資産の再分配」が要請される。本書の記述によれば、「つまり資本主義的な理念を存続するために、社会主義的な対応が必要になるというパラドキシカルな構造があり、これは「人生前半の社会保障」と機会の平等をめぐる議論と同質のものだとします。(pp.172-173)

 第8章「コミュニティ経済」。ここはほぼ過去の著作少なくとも1冊分の考察が収められている「濃い」章です。
 「ローカル‐ナショナル‐グローバル」という横軸と、「共」「公」「私」の原理の縦軸。
一般的には、
「共」〜コミュニティ →ローカル
「公」〜政府 →ナショナル
「私」〜市場 →グローバル
と対応するとします。
 しかし、16世紀前後からのプロト工業化、産業革命期以降の本格的な産業化ないし工業化の中で生じたのは、“「共」も「公」も「私」も、すべてがナショナル・レベル=国家に集約される”という事態だった、といいます。「国民経済」という意識あるいは実体が前面に出ることになり、「産業化(工業化)」の“空間的な広がり(ないし空間的ユニット)”は、ローカルよりは広く、グローバルよりは狭かったのです。「金融化=情報化」の時代に入ると、その最適な空間的ユニットはグローバル・レベルに移りました。(pp.177-185)

 そこで今後の展望は、
(1) 各レベルにおける「公‐共‐私」の総合化
(2) ローカル・レベルからの出発
という2点が重要になるだろう、と本書は言います。
 なぜなら、
 ポスト情報化・金融化そして定常化の時代においては、いわば「時間の消費」と呼びうるような、コミュニティや自然等に関する、現在充足的な志向をもった人々の欲求が新たに展開し、福祉、環境、まちづくり、文化等に関する領域が大きく発展していくことになる。これらの領域はその内容からしてローカルなコミュニティに基盤をおく性格のものであり、その「最適な空間的ユニット」は、他でもなくローカルなレベルにあると考えられるからである<。(pp.185-186)

 ここでまた日本の社会資本という観点からみると、明治以降の日本における様々な社会資本の整備は、鉄道や道路などの社会資本が、徐々に普及しやがてその成熟段階に達するという「S字カーブ」として示されています。鉄道、道路、そして高度成長期後半には廃棄物処理施設、都市公園、下水道、空港、高速道路など“3つのS”があります。
 これら工業化時代あるいは高度成長期の社会資本整備は、いずれも「ナショナル」な空間範囲に関わるものでした。しかしそれらはすでに成熟・飽和状態に達しており、今後大きく浮上する“第四のS”があるとすれば、それは情報化・金融化の波でありグローバルな性格を持つもの。その後にくる“第五のS”としては、福祉(ケアないし対人サービス)、環境、文化、まちづくり、農業等、「ローカル」な性格の領域だろう、と本書は述べます。「言い換えれば、経済構造の変化に伴って、いわば問題解決(ソリューション)の空間的ユニットないし舞台がローカルな領域にシフトしているわけで、(略)“地域への着陸”という方向が今求められているのである。」(pp.187-190)

 地域においてヒト・モノ・カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ的なつながりも生まれるような経済という展望は従来から著者の著作に繰り返し現れ「コミュニティ経済」と名づけられます。イギリスの経済学者シューマッハーの流れを引き継ぐNEFという団体が2002年、「地域内乗数効果」という興味深い概念を提唱しています。
こうしたローカルなコミュニティ経済が比較的うまく機能しているのは、ドイツやデンマークといった国々だそうです。多くの都市で中心部からの自動車排除がなされ「歩いて楽しむ」ことができゆるやかなコミュニティ的つながりを感じられるような街があり、座ってゆっくり過ごせる場所があります。
 著者自身は「私見では」と断り、コミュニティ経済の例として「(a)福祉商店街ないしコミュニティ商店街、(b)自然エネルギー・環境関連、(c)農業関連、(d)地場産業ないし伝統工芸関連、(e)福祉ないし「ケア」関連 などを挙げています。(e)の例としては千葉県香取市の「恋する豚研究所」の試みを挙げます。(pp.190-197)


 著者自身がここ数年進めている「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」。

 ドイツではエネルギーの地域自給を目指す「自然エネルギー100%地域」プロジェクトというものが進められており、2012年現在でそうした自然エネルギー100%地域は74で、ドイツの面積全体の28.6%、人口では2000万人(24.2%)に及んでおり、なお急速に拡大中であるといいます。
 自然エネルギー拠点の整備というテーマはローカルな地域コミュニティの再生という視点とリンクしなければならないと著者は考え、そして「神社」「鎮守の森」に着眼します。全国の神社の数は約8万数千で(お寺もほぼ同数)、コンビニの約5万よりずっと多い。神社は単なる宗教施設ではなく、「市」が開かれたり「祭り」が行われたりするなど、ローカルな地域コミュニティの中心としての役割を担っていた、といいます。こうした鎮守の森と、自然エネルギー拠点の整備を結びつけ、福祉や世代間交流などの視点も総合化して進めていくというのが「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」です。

 そしてこうした試みは実際に進んでいて、岐阜県と福井県の県境にある石徹白(いとしろ)地区という場所で、地域再生機構というNPOが小水力発電を通じた地域再生事業を進めています。そこはかつて白山信仰の拠点として栄えた地域であり、「小水力発電を見に来ていただく方には必ず神社にお参りいただいています」というのだそうです。
 鎮守の森以外にも、学校、福祉・医療関連施設、自然関係(公園等)、商店街、神社・お寺なども、自然エネルギー等とうまく結びつけコミュニティで循環する経済を築いていくことがポスト成長時代の日本における中心的な課題になるだろう、と著者は言います。(pp.200-204)

 ここで、「緑の福祉国家」「持続可能な福祉社会」というコンセプトが出てきます。

 資本主義が様々なレベルの格差拡大と過剰という構造的問題を抱えていることへの対応として、
(1) 過剰の抑制(2)再分配の強化・再編(3)コミュニティ経済の展開
という3つの方向があり、(1)〜(3)を含んだ全体を「緑の福祉国家」ないし「持続可能な福祉社会」という社会構想と本書は位置づけます。

 「福祉」と「環境」を結びつけて論じることは奇異に、また理想論にみえるかもしれませんが、おもしろいことに両者には一定の相関がみられるようなのです。

 本書p.211のグラフでは、ジニ係数を縦軸、環境パフォーマンス指数を横軸にとったとき、メキシコ、トルコ、アメリカ、韓国、日本は同一グループに属し図の左上に位置します。「高ジニ係数、低環境パフォーマンス指数」のグループです。また図の右下には格差が相対的に小さく、環境パフォーマンスが良好な国があり、スイスやドイツ、北欧などがあります。

 ―このグラフは大変興味深いですが、このブログには図表は引用しません。見たいかたは本書をお買い求めくださいね―

 なぜ、こうした相関が起こるか。前者の諸国では、おそらく競争圧力が高く、再分配への社会的合意も低いので、「パイの拡大=経済成長による解決」という志向が強くなり、環境への配慮や持続可能性といった政策課題の優先度は相対的に下がるのだろう、と本書。  逆に後者の「格差小、環境パフォーマンス良」の諸国では、
競争(上昇)圧力は相対的に弱く、また再分配への社会的合意も一定程度存在するため、「経済成長」つまりパイ全体をお拡大しなければ幸せになれないという発想ないし“圧力”は相対的に弱くなるだろう。

 それは(家族や集団を超えた)「分かち合い」への合意が浸透しているということでもあり、つまりこれら「福祉/環境」関連指標や社会像の背景には、そうした人と人との関係性(ひいては人と自然の関係性)のありようが働いているのだ。

 同時にそこには、そもそも自分たちが「どのような社会」を作っていくか(いきうるか)という点についてのビジョンの共有ということが関わっているだろう。(pp.209-213)
 
 −このあたりは力のこもった記述であり少し長く引用しますね−

 日本の抱えるマイナス要素。わが国では、経済格差は大きい部類に入り、労働時間も長く、「社会的孤立度(家族や集団を超えた人とのつながりの少なさ)」も先進諸国の中でもっとも高く(世界価値観調査での国際比較)、年間の自殺者がなお2万5000人程度存在する(2014年)、「人生前半の社会保障」も不十分である一方、国の借金は1000兆円を超え先進諸国の中で突出した規模になっている。
 それらの根本的な背景として、日本においては、(工業化を通じた)高度成長期の“成功体験”が鮮烈であったため、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から(団塊世代などを中心に)抜け出せず、人と人との関係性や労働のあり方、東京‐地方の関係、税や公共性への意識、ひいては国際関係(「アメリカ―日本―アジア」という序列意識など)等々、あらゆる面において旧来型のモデルと世界観を引きずっているという点が挙げられるだろう。(p.214)
 
 さて、最終章では、「市場の失敗」、手塚治虫の「火の鳥」の生命観、文化の多様性、エピジェネティクスなどの話題が出てきますが、最終的に
「『ポスト資本主義』の社会構想が求められているということと、生命の内発性や「関係性」、多様性・個別性に関心を向ける新たな科学のあり方が様々な領域で“同時多発的”に台頭していることはパラレルな現象なのである」と本書は述べています。

 本書の主張としてはこれでほぼ大団円を迎えていると思いますが、わたしの個人的な興味で、「思想」のもつパラドックスのところも抜き書きをしておきたいと思います。

 “第二の定常化”の時代に生成した枢軸時代/精神革命の諸思想、仏教、儒教、老荘思想、旧約思想、ギリシャ哲学など。共通していたのは特定の民族や共同体を超えた「人間」あるいは「人類」という観念を初めて持ち、そうした人間にとっての普遍的な価値原理を提起したという点にその本質的な特徴がありました。それぞれ風土的環境を反映した特徴はありましたが、「普遍性」への志向という点は共通していました。またある意味でいずれも「幸福」の意味を―たとえばキリスト教の愛、仏教における慈悲、儒教やギリシャ思想における「徳」―といった形で説きました。
 さらに、これらの諸思想は、「普遍性」を“自認”するぶん、互いに共存することは困難な性格を持っていました。
 つまり、およそ思想というものは、自らの考えの「普遍性」を自負し主張する度合いが強ければ強いほど、互いに両立が困難になるだろう(これは象徴的には“複数の普遍”は可能か、という問いの形で表現することもできる)。(p.238)
 現代のような時代においては、キリスト教とイスラムの対立を含めて、普遍宗教同士が互いにそのままの形で共存するのはきわめて困難な状況になっている。(p.239)

―耳の痛いところです。正田がときに狭量な記事をブログアップするのは、自分的には妙な邪教のたぐいが正田の領域を侵してきた場合はやり返す、それもその邪教がとりわけ弱者に対して優しくない、と判断したときにそうするのですが、じゃあ副作用のない「普遍志向」のよその思想が出てきたときにちゃんと仲良くできるんだろうか。そもそも正田は狭量な人間なんじゃないだろうか。


 本書の提唱する望ましい「地球倫理」は、第一のポイントとして、「エコロジカル」を挙げます。

「地球上の各地域における思想や宗教、あるいは自然観、世界観等々の多様性に積極的な関心を向け、しかもそうした多様性をただ網羅的に並列するだけでなく、そのような異なる観念や世界観が生成したその背景や環境、風土までを含めて理解しようとする思考の枠組み」(p.239)。

 ―これは、学生時代「国際関係―地域研究」ゼミに籍を置き、「地域研究」がいかに学際的な学問であるか、実際に勉強したかどうかは別にして「こんこん」と恩師から説かれたわたしにとっては、いささかなつかしいフレーズでありました。

 もう一つのポイントは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」。それは自然信仰が重視する生命や自然の内発性に関心を向けるということにもつながります。フランスの精神医学者ミンコフスキーの「生命との直接的な接触」という言葉が出てきます。
 もっとも「ローカル」な場所にある自然信仰は、その根源において宇宙的(ユニバーサル)な生命の次元とつながり、それはグローバルな地球倫理をも包含する位置にあると言えるかもしれない。(pp.240-243)
 
 ―抜き書きは以上であります。丁寧にロジックを押さえながら読めば、著者自身が丁寧にさまざまな議論を踏まえながら論をすすめているおかげもあり、さほど突飛なとか理想論に走った結論部分ではないように思います。

 ―わたし個人は21世紀の初め(もう15年も過ぎてしまったが)の現時点において、アカデミズムの立場での責任感ある論考の仕事と大変興味深く読ませていただきました。

 ―さて、「承認」は「地球倫理」というところまで格上げされるというシナリオはあるのでしょうか。いちおうそういうのを頭のすみに置いて最後のほうの文章を読ませていただいた不遜なわたしであります。拙著『行動承認』の末尾部分で生命活動と「承認」について身近な出来事に絡めて書いたのと、最近はまた個人的に少し「生命との直接的な接触」ということもこころみています。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

『見て見ぬふりをする社会』(マーガレット・ヘファーナン、河出書房新社、2011年12月。原題’Willful Blindness!)という本を読みました。

 表紙には、「見ざる言わざる聞かざる」のイラスト。巨大組織の中で、忙しさや疲れのために、また拝金主義のために「本来見えるものを見ようとしない」人々の行動に焦点を当てています。
 以前伊丹敬之氏の講演に出て来た「偏界曾て蔵さず(真理は現れているものだ、ただ目が曇って見えないだけだ。道元の言葉)」という言葉にも通じそうですね。

 久々の「判断を歪めるものとの闘い」の更新になります。著者のマーガレット・ヘファーナンは作家。ハフィントン・ポストのブログの寄稿者でもありTEDでの「意図的な無視」や「生産性を上げるのにスター選手はいらない」に関する講演をネットでみることができます(ので、この人の存在を知り、検索してこの邦訳書があるのを知りました)

 「見て見ぬふり」に関する非常に多数の事例と人物の登場する400ページに及ぶ分厚い本なので、読書日記も長文になることをお許しください。登場する主な事例にはBP社の製油所爆発事故、エンロン、サブプライムローン、イラクのアプグレイブ刑務所での米軍による虐待事件などがあります。

 長文に備えて、本書の章立てを先に出しておきます。大枠でどういうことを主張している本なのか把握していただくために―。

日本語版刊行に寄せて
第1章 似た者同士の危険
第2章 愛はすべてを隠す
第3章 頑固な信念
第4章 過労と脳の限界
第5章 現実を直視しない
第6章 無批判な服従のメカニズム
第7章 カルト化と裸の王様
第8章 傍観者効果
第9章 現場との距離
第10章  倫理観の崩壊
第11章  告発者
第12章  見て見ぬふりに陥らないために
謝辞

それでは恒例の抜き書きです。なお、それぞれの抜き書きは厳密な引用ではなく本書の文章の要約です。引用をされたい場合には本書をお買い求めくださいね。


●大規模な事故や災害の前には、後悔してもしきれないパターンがあることが多い。早い時期に何度も警告(シグナル)が発せられていたのに無視されていたとか基本的な想定に誰も疑問を持たずにいたなどの状態がある。福島原発は見て見ぬふりの典型的な事例だ。早い段階で危険を知らせる兆候がいくつもあったが、複数の人や組織がそれを深刻に取り上げようとしなかった。

●彼らがそうしないのは、知りたくないからだという場合が多い。疲れすぎているとか、他に注意をそらされている。同時に複数のことをしなければならず、それぞれのシグナルを関連づけて考えるだけの時間も認知の容量もない場合もある。もっとも重要なのは、彼らが悪いニュースは絶対に歓迎されないと考えていることだ。

●法学者キャス・サンスタインは、同じような考えを持った人々を数人集めると、反論が出ないだけでなく、互いに影響しあってみな持論が極端になることを発見し、「集団極性化」と名づけた。サンスタインのグループを使った調査では、広範囲に及ぶデータと反論を提示されても、人々は現在の自説の根拠となるような情報にだけ集中して読み、自説と対立するものにはあまり注意を払わなかった。全体として、人々は自説に有利な情報を探すのに、反論を検討する際の二倍のエネルギーを注ぐ。

―人は自分の好むオピニオンを好む、ということですね。

●インターネットの大きな強みは類似点の多い人々のグループを作り、さらにそのグループ同士をつなげる力にある。我々は新聞と同じように、ブログを読む際にも自分が同意できるものを読む。

―ネットが無限の情報にアクセスできる装置なのかというと、やはり好みによって偏った情報をとりこんでしまうようです。Amazonもこれまでの購買履歴からお勧めしてきますしね、やはり時々リアル書店に行って全体ではどんな本が売られているのかみたほうがよいですね。

●バートン(神経科医)は偏見によって我々が何かを固く信じてしまうメカニズムを理解し、それを防ぐ方法を模索している。「脳は過去に認識したことがあるものを好む。なじみがあるものが好きなのだ。だから見慣れているものはすぐに見える。なじみがないものを見るには時間がかかる。あるいは意識の上では存在を認知せずに終わるかもしれない。それを見たくなかったからだ」

●偏見のできるプロセスは川床ができるプロセスに例えられる。一か所に長く住んだり、ある経験や友人や考え方に慣れたりすると、水は速く、容易に流れるようになる。抵抗がどんどん減っていく。抵抗がないことによって我々は居心地の良さや、安心感や確信を得る。しかし同時に、川の両岸の壁はどんどん高くなっていく。こうして見て見ぬふりがはじまる。意識して積極的に見て見ぬふりをするのではなく、一連の選択の結果、ゆっくりと、しかし確実に視界が狭まっていくのだ。そしてこの経過でもっとも恐ろしいのは、視野がどんどん狭くなっていくと、さらに居心地よさと自信を感じるようになることだ。

―ある主張で徒党を組んでいる人たちの視野が極端に狭いことがあるのを経験したことのある人は多いと思います。それは政党でも宗教でもどこかの有名大学のゼミでも。素人でも思いつくような反論を彼ら自身では思いつくことができない。わたしは去年から今年にかけて、「仲間」というものの居心地の良さと脆弱さを感じる経験をしました。「承認」という、外形的にはカルトにみえなくもないものを標榜する人々が集団をつくると、よほど気をつけないと視野狭窄になってしまうでしょう。


●人間は自分を好きになれ、安心できるような人間関係を探して守ろうとする強い傾向を持っている。だから似た者同士で結婚し、自分に似た人ばかりが住む地域に住み、自分に似た人たちと仕事をする。こうしたものを鏡にして自分の価値を確認している。

―私はつい「承認」というあまりにも正しいことが自明のものを、受け入れられる人そうでない人について考えてしまうのですが、「群れ」で思考するタイプの人は受け入れたがらないようですね。その人の属している「群れ」が、自明のことを正しいと受け取ることを阻んでいると感じます。


●愛は幻想に基づいているほうが長続きする。心理学の専門家グループが交際中のカップルを調査し、相手をどう見ているかを分析した。すると相手を理想化して見ている方が付き合いは長続きする可能性が高いことがわかった。本人がそう思っていない美点があると恋人が考えている場合、その恋人たちの関係に対する満足度が高い。

●ロンドン大学のチームは脳のどの領域が愛に反応して活性化するか調べた。その結果、あまり意外ではないが、愛によって活性化するのは報酬をつかさどる領域であることがわかった。食物や飲み物やコカインを得たときに反応する細胞が愛にも反応している。さらに愛情は死の恐怖さえ減少させることがあると示唆する証拠もあるようだ。

●愛によって活性が止まる領域。愛する対象のことを考えているとき、脳の二つの領域は使用されない。一つは注意や記憶や否定的な感情をつかさどる領域だ。そしてもう一つは否定的な感情と社会的な判断と他者の感情や意図の判別に使われる領域だ。つまり、愛によって脳に化学反応が引き起こされ、愛する人について批判的に考えられなくなる。

●愛が重大な悪行に目をつむらせた1つの例は、カトリック教会での児童虐待スキャンダル。教会への畏怖、両親への愛情、伝統を重んじる気持ち、このすべてのせいでコミュニティ全体が、間違いなくわかっていたはずの事実に目をつぶっていた。

●ナチスでの例。1942年以降ドイツ第三帝国でナンバー2の権力を持っていた建築家のアルベルト・シュペーアの見て見ぬふりは、ヒトラーへの愛情が大きな動機になっているという。シュペーアは若い頃ヒトラーに夢中になっていたので、ナチの残虐行為についての話を耳にしても何が起こっているかわかっていなかった。1944年1月、シュペーアはヒトラーの側近の間の権力争いで力を失い、そしてヒトラーの悪行の証拠をあらゆるところで見るようになった。シュペーアはひそかに命令を無視し、指示を無効にして、ヒトラーの焦土作戦を妨害した。10週間ぶりにヒトラーに会い握手したとき、シュペーアは考えた。「ああ、こんなに醜いと、いままでどうして気づかなかったんだろう?」


●エモリー大学のウェステンは熱心な民主党員と熱心な共和党員を15人ずつ集め、政治的な資料を読んでいる際の脳の状態をfMRIで調べた。実験の結果、熱心な党員である被験者は反対陣営の候補者の矛盾にはるかに厳しい反応をすることがわかった。「被験者たちはライバル党の候補者の矛盾を発見するのにはまったく問題を感じなかった。しかし自分が支持する候補者に関する問題がありそうな政治的情報を読んだときには、苦痛を作り出すニューロンのネットワークが活性化した。脳は誤った論法で苦痛を押さえ込む。しかも非常にすばやく。感情の統制をつかさどる神経回路は信念を利用して苦痛と葛藤を取り除いたようだ」

●ウェステンの実験で脳が用いている報酬回路というのは、麻薬中毒患者が一服したときに活性化するのと同じ部分である。つまり、自分と同意見の考えを見つけたとき、あるいは不愉快になるような考えを排除できたときに、人はお気に入りの麻薬を一服やったときの中毒患者と同じ陶酔と安心感を味わっている。

―フェイスブックも基本有名人のタイムラインは「そうだそうだー」の大合唱になりますね…


●不愉快な異論を、それがどんなに正しくても認めようとしない一例。医師アリス・スチュワートは1956年、妊娠中の母親に対するレントゲン検査が子供がガンにかかる確率を劇的に増加させることをデータで示した。しかし医師たちはその後25年間、妊娠中の母親たちにレントゲン検査を実施し続けた。1980年になってようやく、アメリカの主要な医療組織が実施をやめるよう強く推奨した。なぜそこまで時間がかかったか。アリスが離婚歴のある二人の子持ちの女性という型にはまらない科学者であることも不利な要因だった。当時の大病院は最新鋭の放射線機器をそろえていた。またアリスの発見は当時の科学界の主流となっていた重大な説を覆すものだった。当時、放射線を大量に被曝すれば危険だが、これ以下の値ならば絶対に安全だという閾値が必ずあるという閾値説が支持されていた。しかしアリス・スチュワートはこの場合、胎児にとって放射線はどんなに少量でも有害であると主張した。アリスの主張は科学者たちに認知の不一致を呼び起こした。アリスの説は間違っていなければならない。でなければ、他のあまりに多くの仮説を検証し直さなければならなくなる。

―人の命に関わる重要な発見が25年も黙殺された、というお話です。アリスの説が広く採用されるまでに数百万人の妊婦がレントゲン検査を受けたといいます。正田は10何年になりますがまだ未熟だなぁ。「女性」という要素が関わっているふしもあり少し長く引用してしまいました


●認知の不調和説。相いれない二つの考えが生む不調和は、耐えがたいほど激しい苦悩をもたらす。その苦悩、つまり不調和を減らすもっとも簡単な方法は、どちらか一つの考えを排除し、不調和をなくすことだ。科学者たちにとっては自説を捨てないことの方が簡単だった。

●認知の不調和説を提唱したフェスティンガーによれば、人はみな首尾一貫し、安定していて、有能で、善人であるという自己像を必死で保とうとしている。その人が一番大切にしている信念は、本人や友人や同僚から見たその人自身の人となりの核となる大切な部分だ。自己意識を脅かし、痛みを感じさせるものは、飢えや渇きと同様に危険や不快さを感じさせる。大事にしている考えを揺るがされることは、命にかかわるように感じる。だから我々はその痛みを減らすために、自分が間違っているという証拠を無視し、あるいは自分の都合のいいように解釈して、必死で抵抗するのだ。アリス・スチュワートの説がもし正しいと認めるとしたら、医師や科学者たちは、自分たちが患者に危害を加えていたという事実を認めることになる。


●経済モデルでも、こうしたイデオロギーと同じようなことが起こる。そのモデルに合う情報は取り入れ、組み込むが、当てはめられない情報は排除する。

●我々は自分の経済モデルや個人的な持論を大事にする。それはどういう人生を送り、誰と親しくなり、なにを支持すべきかという決断を容易にするからだ。我々の内面の奥深くにある自分自身というものは、我々の人生のすべての側面にとても深く関わっている。あまりにすべてに関わっているので、我々はなにを見、記憶し、吸収するかを選択するのにどれだけ深く関わっているかを忘れているかもしれない。

●元FRB議長のグリーンスパンは、ロシアからの移民で作家兼経済自由主義者のアイン・ランドの熱心な助手だった時期に世界観の重要な部分をつくられた。グリーンスパンは、政府による規制や制限から解放されれば、人はもっとずっと自由と想像力と富を得ることができるという彼女の信念を、まるである種の宗教のように熱く信じていた。ランドの世界観では、成功した者はすべての抑制から解き放たれ、自分の才能をフルに表現でき、喜びと達成感を味わえる。それを目標としない者は寄生者であり、脱落し、消えていくだろう。

―見事に「自己実現者礼賛」の人間観、世界観ですね。こうした目標志向最上志向自我の方々の自画自賛につきあった挙句現在の世界の格差社会ができあがったのだろうかと暗澹たる気分になります。

●グリーンスパンは規制緩和で金融商品に祝福を与えた。証券取引所を経ない店頭取引の金融商品には何の規制もかけられなかった。必要な資本がなくても、市場操作や詐欺に対する規制もないまま、取引を続けられることになったのだ。そして2001年、エンロンが破綻し、複雑に入り組んだ不正行為の中には自社の株価を頼りにしたデリバティブがあり、これが致命傷になって、出資者たちにはなにも残らなかった。グリーンスパンの信念のためにアメリカ経済は犠牲になった。


●第4章では疲労と脳の限界について解説する。BP社のテキサスシティの製油所の2005年の爆発事故では、従業員たちが過度のコスト削減策で37連勤という過酷な勤務実態で、疲れ切っていたため、事故の予兆を見逃していた。「疲れ切っている人間は思考が硬直化し、環境の変化や異常に反応するのが難しくなる。そして論理的に思考するのに時間がかかるようになる」。あることに意識を集中すると他のすべてが目に入らなくなるというのが疲れが行動に与える典型的な影響だ。これは認知の固着とか認知のトンネル視と呼ばれている。

●イギリス健康安全局(HSE)は連日の朝早いシフト(午前6時前後からの勤務)のせいで疲労のレベルが上がることを発見した。早朝シフト3日目では、初日に比べて30%疲労が増し、早朝シフト連続5日目では60%、そして7日目では75%疲労が増したという。

●一晩眠れなかっただけで脳の機能には多大な影響が出る。ブルックヘヴン国立研究所のダルド・トマシらは健康な非喫煙者で右利きの男性14人を集め、そのうちの半分に徹夜をさせた。翌朝、眠ったグループと眠らなかったグループの被験者に一連のテストをしてもらい、テストを終えた被験者をfMRIにかけて脳を撮影した。予想通り、眠い方の被験者はテストでの正確さが低かった。さらに、眠らなかった被験者たちは眠った被験者たちより脳の重要な二つの領域、頭頂葉と後頭葉が不活発になっていることがわかった。頭頂葉は脳の中でも感覚からやってきた情報を統合する部分であり、数字や物体の操作に関する知識をつかさどる部分でもある。後頭葉は視覚の処理をつかさどる。要するにこの二つの領域は視覚情報と数字の処理に深くかかわっているのだ。製油所のモニター画面を見ている技術者、コンピューターゲームのエンジニアがいつも仕事で扱っているのは?視覚情報と数字だ。つまり、どちらの仕事にも必要な脳の高レベルの活動が最初にだめになるのだ。

●疲れていなくても、我々が見ることのできるものは限られる。「インビジブル・ゴリラ」。バスケをする選手とゴリラの映像。
「我々は目にしたもののうち、自分たちが思っている以上に少ないものしか知覚していません。我々は指示されたことや探していることやすでに知っていることにしか注意をむけていない。特に脳が指示した事柄は大きな役割を果たす」(ダニエル・シモンズ)

―これは「行動承認」をマネジャーに訓練してもらうためのひとつの証左となりそう。これまでは「錯視」を使ったりしていましたが。


●シモンズらは10年にわたって単独でも共同研究でも実験をしてきた結果、人は予想しているものを見て、予想していないものは見えないという結論に達した。そして一定の時間内に取り込める情報量には絶対に超えることのできない限界がある。「人間の脳にとって注意力はゼロサムゲームだ。ある場所やものや出来事により注意を払うと、必ず他の場所への注意がおろそかになる」

―少し話が飛ぶけれど、わたしがなんで「承認」の話をしたいときに「主婦」と呼ばれるのを嫌がるかというと、記事の読者にとって「承認」というこの壮大な広がりのあるものを理解するだけでもそうとうな認知的負荷を伴うのに、それより先に「この女は主婦だ」という情報が先に出てきてしまうと、そこの違和感にばかり注意が引きつけられて、そのあと「承認」のスケールの大きさを理解しよう、などと思わなくなるのがイヤなのだ。よっぽど大きな記事にしてもらえるなら別だけれど―

●人は疲れきっていたり、なにかに注意を引きつけられているなどの、心理学でいう資源消耗の状態にあると、残りのエネルギーを節約して使おうと省エネルギーモードになりはじめる。高次の思考にはそれだけエネルギーが必要だ。疑念を持つことや、議論することなどもそうだ。「資源消耗の状態では、特に認知的に複雑な思考ができなくなる」ハーバード大学の社会心理学者ダニエル・ギルバートは書いている。疑うより信じる方が脳のエネルギーを使わないですむので、疲れていたり、なにかに気を取られていると、人はだまされやすくなる。

●人間の脳は過負荷の状態で睡眠不足になると、倫理的な問題を看過するようになるのを伝道者や洗脳者は熟知していて利用するが、管理職や企業のトップはあえて忘れてしまう。これはアブグレイブ刑務所での出来事の原因の一つだ。

●日焼けサロンは皮膚がんリスクを増大させることに、日焼けサロン愛好家は決して耳を傾けない。「本当は悪いと心の奥ではわかっているものを続けるために、人々が思いつく反論には驚くべきものがあります」ホーク教授は語る。

●スターンビジネススクールの二人の教授、モリソンとミリケンが「雇用者の沈黙」に関する画期的な研究をした。これは雇用者が自分の身の回りの問題について詳しく述べることや、議論することを望まないという現象だ。様々な部署の管理職たちに面接調査を行ったところ、85%が上司に問題提起をしたり、懸念を伝えることができないと感じたことがあった。

●無批判な服従のメカニズムの代表、ミルグラム実験。被験者は権威からの指示に従い実験対象者役に電気ショックを与え続ける。
「権威の下で行動している人は、良心の基準に違反した行動を実行するが、その人が道徳感覚を喪失すると言っては誤りになる。むしろ、道徳感覚の焦点がまるっきり違ってくるというべきだ。自分の行動について道徳的感情で反応しなくなる。むしろ道徳的な配慮は、権威が自分に対して抱いている期待にどれだけ上手に応えるか、という配慮のほうに移行してしまう。」指示にあまりに集中してしまうため、他のすべてが見えなくなるのだ。

●看護師を対象にミルグラム実験と似た実験をし、看護師は医師の指示があきらかに患者の命を危険にさらす場合でも服従するかを調べた。看護師は尋ねられると、患者の事を一番に考えているとかなりはっきりと答える。しかし実験では、22人中21人が医師の指示に従い未認可の薬の投与のための準備をした。

●服従と同化。服従は正規の権威の指示に従うことを伴うが、同化は「その人物に行動を指示する権限を特に持たない仲間の、習慣や日常や言語に適応する」ことだ。社会心理学者ソロモン・アッシュ(ミルグラムの師)の実験では、3人の学生のうち2人が間違った答えをすると、残る1人も40%以上の確率で同じように答える。同化の顕著な特徴は、潜在的なものでありながら、自らの意思で行動したように感じられることだ。我々は自分に似た人々と過ごすことを好むのと同じように、周囲に合わせることも好む。別の実験では、女性より男性のほうが同化しやすいという結果が出た。

●競争的な雰囲気を持つ企業では容易に、時には故意に、社員の同化を引き起こす。トレーディングを扱う組織にはよくあることで、冗談のタネや嘲笑の対象にされたり、社内の勢力争いの中で屈辱を感じたりする。しかし穏やかな組織でも同じような行動が起こることはある。特に医療関係のような、上下関係がはっきりしている組織で起こりやすい。

●ブリストル王立診療所では手術後の死亡率が突出して高く、英国全体の平均の2倍だった。ウィシャートという外科医の執刀例で死亡が多く、死亡した子供は30〜35人に上ったとみられる。これを内部告発したボルシンという医師は村八分となり、オーストラリアに移住した。

―わが国でも今年初めに発覚しましたね、関東のほうの大学附属病院で…。

●人は疎外されると現実に痛みを感じる。社会的に排除されて不快な気持ちを感じると、脳の同じ領域から身体的な痛みが発生する。そして身体的な痛みを調節するのと同じ神経化学物質が社会的な喪失からくる心理的なつらさをコントロールする。我々は社会的な人間関係を形成したり承認されたりすると、それに刺激され、自分をすばらしいと思うようにする物質であるオピオイドが作られる(同様に人間関係が解消されると、オピオイドは作られず、我々はひどい気分になる)。精神薬理学のパイオニア、ジャアク・バンクセップはこういっている。「社会的な影響と社会的な絆は基礎的な神経化学的な意味でオピオイド依存だといえる」つまり、我々が他社との社会的なつながりを求めるのは、社会的な報酬だけでなく、化学的な報酬も原因だ。

―オピオイド説は知らなかったなあ。検索してみよう。
この「同化」は「承認」の正負両方の側面として位置づけられそうだ。朱に交われば赤くなる。いいものにもわるいものにも染まり得る。わるい方にも操作できるからといって、良い方向に組織と人を同化させたいと意図する営みを否定することはできない。

●仲間外れにされたプレイヤーがクンツェンドルフの無意味度診断テストを受けると、自分の人生に意味などないと思いやすくなり、新たな意味を見いだそうという意欲も失っていた。仲間はずれを経験すると、人は希望もやる気も失ってしまう。

―経験しましたね、そういう気分も。

●アッシュの同化のテストをより難しくしたバーンズらの実験では、人々は同化する際、前頭葉は活性化しなかった。つまり意識的な選択が行われていないということだ。活性化は認知をつかさどる領域で起こっていた。つまり他の人びとが見たものを知ることで、被験者が見たものが変わった。また他の人びとが選んだ答えを知ると、被験者の精神的な負担が減っていた。つまり他者の考えを知ると、自分で考えることが減るのだ。同化による決断は、それと知覚されず、感覚もなく、完全に気づかぬまま行われる。

●さらに、被験者がグループの決断に反抗して、独自の決断をした場合は、別の事態が起こる。感情をつかさどる領域である小脳扁桃が高度に活性化するのだ。苦痛と同等のなにかが起こっている。独立はかなりの犠牲を必要とするもののようだ。

●心理学者アーヴィング・ジャニスによると、集団の中では、意見の一致を維持していこうという圧力のせいで、考えることが減る。一人一人が情報を検討して、それを正しいかどうかを確認することがなくなるのだ。「政策決定をする内集団が素直で団結心が強いと、独立した批判的な思考が集団思考に置き換えられてしまうという危険がそれだけ大きくなる。その結果、外集団に対する理不尽で人間性を奪うような行動につながりやすい」

―今年戦後70年でしたが、あらゆる「戦争」はこうした集団思考の危険を最大化したもの、とみることはできるでしょう。


●集団思考をしている集団は、自分たちはなににも傷つけられないと考えがちだ。彼らはもっともらしい理屈をつけて警告を無視し、自分たちの集団が倫理的に優れていると熱く信じている。敵対する者や部外者を悪者と考えがちで、反対者には同化するよう強い圧力をかける。ほとんどの組織では、チームに従い、面倒な質問をいない者がチームの一員として望ましいという暗黙の了解がある。

―ここだな〜。「承認教育」は単体でもきわめて有効なものですが、フォローアップとして必要なことがあるとすれば、「承認」が過度の同質化圧力にならず、内部で何の角も立たないなめらかな文化をつくることを自己目的化せず、異論を歓迎する程よくゴツゴツした文化というところを着地点にするように支援することではないかと思います。簡単なようで結構むずかしいです。

●心理学者ダーリーとラタネの提唱した「傍観者効果」。アンケートに記入している間に部屋に煙がたまってくる。通報したり何らかの対応をする被験者は、一人きりのときは100%、しかし二人でいたときは10人に1人、3人でいたときは24人に1人の率になった。

―これは「承認研修」の受講生人数の設定にも関わるお話です。従来から、宿題提出率や定着率について、「10人なら10人、20人でも10人、30人でも10人」つまり受講者数が多ければ多いほど歩留まりはわるくなる、ということを言っているのですけれど。ドラスティックな変化を起こす研修だけに、人数が多いと「傍観者効果」が起こりやすくなる、という説明ができるかと思います。

●もうひとつ傍観者効果の実験。被験者を小さく区切った部屋に隔離し、癲癇の発作を起こしている人の声が聞こえたと信じさせる。そして、被験者がそれを知っているのは自分だけだと考えている場合は、85%が報告している。しかし、他の場所にいる被験者も発作のことを知っていると考えている場合は、なにか対応した者は3分の1にとどまった。この実験が示すのは、危機的状況を目撃した人数が多ければ多いほど、なにか行動を起こす人が減るということだ。一人ならばちゃんと認識できる出来事が、集団になると見えなくなるということだ。

●「見て見ぬふり」はイノベーションの黙殺についても当てはまる。新たな技術などがアイデアの欠如ではなく、勇気がないせいで導入されないことはあまりに人間的であまりによくあることだ。経営のトップはいつも革新を望んでいるというが、誰かが別のところでリスクを冒してくれるのを待っているので、凍りついたようになにもできなくなっている。

―うん、でしょ?わたしは日本人は独創性のない民族だとは思っていません、単に勇気がないだけです。かつ勇気をもたらすのは、アイデアを提起する本人さんに期待するより、アイデアを奨励する組織の空気づくりをしたほうが現実的に有効なのです。
「イノベーティブな人材づくり研修」にあんまり乗れないのはそういう理由です

●「傍観者効果」はいつ学習するのだろうか。かなり早く、学校でのいじめを目にすることによっても学ぶ。
 ホロコーストの生き残りであるエルヴィン・ストーブはすべての集団暴力には傍観者がいないと成立せず、傍観者によって激化するという観察からいじめに興味を抱いた。
「集団暴力について私が一番強くいいたいのは、我々は早く行動しなければならないということだ。早いうちの方が、信念や地位が固まり、強固になる前の方が行動を起こしやすい。…事態が進んでしまうと、誰かにいわれてやめると、面子が潰れるような状況になる。」

●集団暴力は徐々に進行していく。誰かを疎外したり、職場の環境を差別に都合よく変えていくようなことは、いつも少しずつ段階を踏んで進んでいく。

●「現場との距離」。テキサスシティの製油所で爆発事故を起こしたBP社の本社はロンドンでもっとも優雅な区域、セント・ジェームズ・スクエアにある。役員のマンゾーニ氏は事故前にテキサスシティ製油所を視察しているが、何も見なかった。誰も彼に何も告げなかった。本社役員と現場の距離は、物理的にも心理的にも遠かった。

●「直接見る」ことの意義。ミルグラムの服従実験の新しいバージョンでは、ショックを与える対象者と被験者の距離が、最大のショックを与える率に影響した。同じ部屋にいてわずか数メートルのところに座っていると、その率は65%から40%に減った。また対象者の手に触れ、電気ショックを与えるプレートにその手を導かせるようにすると、接触したことが影響し、最後までスイッチを押しつづけた被験者は30%だけになった。対象者が同じ部屋に座っていて、目を合わせ、身体的な接触まですると、すべてが変わる。

―どこかのファストフードチェーンのCEOも、「ワンオペ」をする学生アルバイトがトイレに行く暇もなく徹夜勤務をするようすをまぢかでみていたら違ったかもしれませんね…

●権力は持つ者と持たざる者の間の距離を広げる。権力を持つ者はこの問題を認識していないことが非常に多いが、どんなに努力をしても、距離はなくならない。

●ステレオタイプ思考と権力の関係。支配欲を持つ者はそうでない者より性急に判断し、既存の知識に従う傾向が強い。

―はは〜、だからだな。先日わたしが取材を受けたのは割合功成り名遂げた資産家の層が読む雑誌なのだが、取材者が「専業主婦」という語を連発して話がかみあわなかった。この人たちにとってほとんど無意識なのだろう、ステレオタイプ思考は。しかも、それを指摘しようとするとむっとしそうな空気があった。こだわるなぁこの話題に。

●ミリケンの研究では、危機的状況に置かれると、裕福で権力を持つ者は、さらに良い結果を期待する傾向がある。彼らがこれほど楽天的である理由の少なくとも一つは、ほとんどどんな逆境でも乗り切れるだけの力があるから、あるいはあると思っているからだ。これは彼らが他の者たちと違って、現実的に考えられないことを意味している。権力と楽観主義と抽象的思考の組み合わせのせいで、権力者はさらに自信を持つ。

―今もいますね、一線を退いた有名経営者で「イケイケドンドン」の持論を展開する人は。

●分業と見てみぬふりの関係。自動車を製造している人と、修理や点検に当たる人とは違う。これは自社の車の構造に問題があったとしても特に知ろうとしなかったら見えてこないということだ。アメリカ食品医薬品局(FDA)では、医薬品の認可を行う部署は規模も予算も大きく、市販後の医薬品の安全性を調査する部署は反対に規模も予算も小さい。そこで、一旦認可された薬の問題点を、局内の影響力の小さい部署から大きい部署へ考え直してくれと指摘するということになり、否定され抵抗されるのは目に見えている。だから、小規模な治験によって承認された薬品は、何百万人もの患者たちに使用されるようになると、事実上は監視されておらず、FDAは自らが下した判断の結果に実質的には目をつぶっていた。

―おもしろい指摘。ドラッグギャップというものがよく問題になりますが、アメリカで認可された薬をはいそうですかとそのまま使用してしまうと問題が多いかもしれないのです

●スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故。部品のOリングは非常な低温下では裂けやすいが、天気予報によると発射予定日の気温は低すぎた。部品メーカーはこれを心配しNASAに伝えようとしたが相手は顧客であり、下請け業者なので発言力も強くなかった。「外注業者」であることがコミュニケーションを困難にした。

●「倫理観の崩壊」。金銭が提示されると人は倫理的な判断ができなくなり、金銭だけを判断材料にするという一連の実験結果。

●金について考えるようきっかけを与えられた被験者は、選択の自由を与えられると、一人で作業をするか、一人で趣味の活動をすることを望む傾向があった。以前より意欲的になったものの、社会性が減り、他人との絆が薄れた。より孤立し、他人に対する親切心が減り、同情心も薄れた。
業績変動給は、従業員がもっとよく働き、忍耐強くなるように考えられたものだが、実際には人間関係に複雑な影響を及ぼす。

―成果主義を取り入れた営業組織では、営業マンたちが仕事上の情報を教え合わなくなり足の引っ張り合いも起こり、非効率になった、という話を以前にもご紹介しましたね。

●社会的な動機と経済的な動機のバランス、それにその2つが相反するように働くことは、科学的には証明されてはいないが直感的に理解されている。人は金を稼げば稼ぐほど、国全体の福祉には関心を持たなくなるという暗黙の理解のせいだ。

―重要な指摘。実は現代ドイツではヘーゲル的な承認と再分配ではなく、逆に富めるものを益々富ませ、かれらからの善意の寄付を福祉に充てるべきだ、という主張が新右翼?から出ていて、エスタブリッシュメントの一定の支持を得ているという。だが常識的に考えて、富を「自らの才覚によって」独占する人々がそれを社会に再分配する方向に自主的に考えるとはとても思えないのだ。

●経済的な優遇を受けると人は、他人への配慮を以前よりしなくなるとわかったのだから、この手段は非常に慎重に扱わなければならない。経済的な優遇策に重きを置きすぎると、大事なのは金であり、それ以外は問題ではないというメッセージを送ることになってしまう。しかし慎重に配慮している企業はほとんどない。

●模倣学習で有名な心理学者、「アル」ことアルバート・バンデュラ。彼は生涯を通じて、人が犯罪行為や非人間的に行動をする際に起こる道徳心からの離脱のメカニズムを解明しようと研究している。避妊と衛生教育がいかに良い影響を及ぼしたかについて語った若いアフリカ人女性に、裕福な欧米人がブーイングした。彼らは欧米の出生率では将来高齢者の年金をまかなえなくなると認識していた(だから産児制限は彼らにとって「悪」なのだ)

●バンデュラは主張する。金は我々に道徳心から離れ、自分の決断が社会におよぼす影響を考えずにいられるようにする。すべてを経済的な観点からのみ考えている限り、自分たちの決断の社会的、倫理的な結果を直視せずにすむのだ。

●内部告発者を、本書は「カサンドラ」と呼ぶ。カサンドラは古代ギリシア神話に登場する預言者で、王家の血を引く娘。アポロンが美貌のカサンドラを見初め、預言の力を与えた。しかし彼女に振られると、アポロンは腹いせに自分が与えた力にその預言を誰も信じないという運命をつけたした。だからカサンドラがトロイ人たちにギリシア人が置いていった大きな木馬を町に入れないようにと警告しても、誰も信じなかった。カサンドラはアガメムノンとともにクリュムネーストラーに殺される。カサンドラの運命が残酷で皮肉なのは、彼女の預言の話を読んでいる我々には、それが本当なのがわかっていても、他の登場人物の誰もが真実を知らないことだ。

●内部告発者は冷笑的でなく、みな前向きな人物で、一般社会への反逆者ではなく、真実を信じているだけだ。彼らの特徴はふてくされたり、落胆したりしないことだ。生まれつき反抗的なわけではなく、彼らが愛する組織や人々が間違った方向に向かっているのを見て、声を上げずにはいられなくなったのだ。

●カサンドラの多くはアウトサイダーだ。生まれ合わせや、送ってきた人生や、事実を知った衝撃などのせいで、周囲との隔たりは埋めようもないほど大きくなっている。

●カサンドラはみな真実を知るために権威に挑戦する。その結果、みな困惑し、いらいらし、頑固になる。こうした性質は彼らの信用を落とそうとしたり、孤立させたりするために利用されることも多いが、この性質こそ彼らが忍耐強くやり通せるエネルギーの源なのだ。

―なんだか共感するフレーズが続くなあ^^

●解決編。カサンドラ、悪魔の代弁者、反体制の人間、トラブルメーカー、道化、コーチ…名前はなんであろうと、トップの人間がはっきりとものを見る力を失わないために、外部の人間が必要だ。(しかし外部の人間もいずれ同化していく)

●だから我々は外部の人間に頼るばかりでなく、自分たちでも2つの重要な習慣を確立しなければならない。それは批判的思考と勇気を持つことだ。

●スタンフォード監獄実験を指揮した心理学者フィリップ・ジンバルドは、その後自分が置かれた状況の影響力に抵抗する教育プログラムを考えた。自分たちがどれだけイージーで、他人の期待に合わせているのかを認識するように促すエクササイズをする。

●集団暴力を研究したエルヴィン・ストーブは、いじめへの対応を子供に教えるためのプログラムを考えた。

●英雄的な経営スタイルを持つトップのいる会社や、一人の人間の権力と影響力に注目が集まっている企業では、役員たちが人の顔色をうかがうようになり、自分たちが知っていることが本当かどうかを考え直したり、分析したりすることができなくなる。…トップの性格やエゴほど、議論や反対意見を押しつぶすものはない。最近の企業や組織の不祥事の多くは強い経営者のいる組織で起きていることを考えると、高級誌の表紙に載ったり、なにかの権威としてあがめられることは、はたして誰かの役に立つのだろうかと思わずにはいられない。

―以前こういう社風の有名企業に関わったが、かなり重症度が高かったが1年関わるとかなりましになった、すなわち人々が率直に話し合う空気ができた。しかし単年度で研修が終わるとすぐどどーんと元の暗いシニシズム文化に戻った。思いつきレベルの単年度の介入では土台むりな話なのだ

―最近のアメリカではこういう傾向はちょっとましになったようで、グーグルの新CEOはインド人の謙虚な人格の人だという。まあグーグルは元々集団指導で、スター経営者はつくらなかったみたいだが

●しめくくりは、歴史から学ぶことの価値。ビジネスの思考や教育の大半にはこの歴史的視点が驚くほど欠けている。商業的な世界は新しいもの、革新的なもの、革命的なものと非常に相性がよいせいで、長期的な傾向やパターンが見えなくなりやすい。…歴史的な感覚を得ることの利点の一つに、長期的な傾向をつかみやすくなり、かすかな兆候にも敏感になることがある。

―ですよね〜。


今回の記事は移動中にワードに打ってからUPしましたが、ワードで15pにもなってしまいました。長文をお詫びします。重要な知見をたくさん含んでいるので(他の本との重複も多いようですが)うかつに省略できませんでした。大変示唆に富んだ読書であったと思います。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与




 『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)の読書日記の後半です。


 ここでは、ある少女「ヤニカ」のインタビューが出てきます。ヤニカは実科学校8年生を落第し、暴力行為のため退学となり、数日間の少年拘禁に処せられたあと生活支援グループホームないしは保護施設へ移される、というタイミングでインタビューに応じました。

 少女が非行に突き進む痛ましい事例の中に「承認欲求」「承認」はどう関わっているでしょうか…。


 「承認欲求」「承認」の問題行為への契機の側面について、当ブログではこれまであまり触れないできました。どちらかというと、世間の「承認欲求本」のほうにそれらの情報はあふれているから、という判断でした。

 しかし、この「ヤニカ」のインタビューは平凡ではあるが痛ましいものであるだけに、あえてご紹介したくなった次第です。

 当協会の教育に触れ、承認を「与える」能力を既にもった大人の方々は、無数の「ヤニカ」をそれと知らずに救っているかもしれない。そしてこれからも救えるかもしれないとの希望のもとに。


 以下、かいつまんで「ヤニカ」の事例をご紹介しますと、
 
 ヤニカは当初「基幹学校」(ドイツの中学生年齢の子が通う職業訓練校のようなもの)に通っていましたが、「通訳になりたい」と希望し、基幹学校には英語のクラスしかなくフランス語やイタリア語も習いたかった、レベルも低いなどの理由で、基幹学校で良い成績をとって実科学校に転学しました。

 ところが、実科学校に行くと、ヤニカの知識不足が明らかになりました。実科学校の教師たちは彼女が遅れを取り戻すことに積極的には手を貸しませんでした。ヤニカは7年生に編入しましたが実科学校5年生6年生の教科書をもらってしばらく独学で頑張りました。しかしその努力は実を結ばず、ヤニカの成績は8年生でさらに下がりました。

「ヤニカは授業への興味を失い、8年生を繰り返すことになった。そのクラスで3人の女子生徒と知り合い、彼女らといっしょに授業をサボり、挑発的な態度をとり、他の女子生徒を殴ったりした。」(p.114)

「実科学校は「それまでの家庭環境を超えた、将来のよりよい人生へのチャンス」を約束してくれる。そのため、抵抗にあってもヤニカは転校を言い出し、実行する。けれども、実科学校での成功とそれにかかわる承認は達成されないままである。基幹学校では優秀な生徒の一人であったが、実科学校では求められる知識や能力の面で遅れを取り戻せないため、その立場に再び立つことができない。彼女は軽蔑的に「天使」や「ガリベン」と呼ぶ他の生徒の成功を知っている。そして、授業の課題や校則にあからさまに背を向け、要求されることに取り組むのではなく、やりたいことだけをするようになる。」(p.115)

「コンフリクトのダイナミクス、すなわち学校での問題やコンフリクトの激化、家庭内の立場をめぐる闘争の激化、そして学校外での暴力の激化は、次のジレンマから生じている。すなわち一方では、職歴や社会的地位に決定的な意味をもつ場所、つまり学校での成功や承認を得るための努力がうまくいかなくなり(または、思い描いていた職業上の目標が結果的に実現できなくなり)、他方でヤニカは(学校や家庭や祖父母のもとで)ますます排除され、根本的な承認の拒否を経験しなければならないにもかかわらず、優越した人物という自己像や成功への要求に固執する、というジレンマである。」(p.116)


 ヤニカは、学校が彼女に与えたダメというレッテルが彼女の自己像と矛盾したため、学校そのものを否定しました。
 ヤニカは、判決後に送られた施設でも若者グループ内でイニシアチブをとり続け、インタビューの中でさえもインタビュアーとの間で優位性をかちとろうとします。彼女のすべての行為は「優位性を効果的に自己主張し自己描写するという課題」のためになされるのでした。すなわち、ヘーゲルの見出した「承認をめぐる闘争」でした。


 こうした「ヤニカ」の事例について、本書では続いて学校の役割について考察し、その中心的な観点は以下の4つであるとします:

ヽ惺擦砲ける公的、法的な関係の基礎。そこから発生する関係者にとっての権利と義務

学校が備える制裁力。もし生徒が義務を怠る場合、教育的な介入または規制措置を行う権限をもつ。

3惺擦人間形成(ビルドゥングス)ないしは教育という課題をもつ。生徒の個別の条件を考慮しつつ、必要な知識、能力、技術、価値観を伝達しなければならない。

こ惺擦備える選別機能。生徒の成績評価をし、異なる教育の進路に割り振る。

 
 著者の見解では、中核的な矛盾はとぁ△垢覆錣舛垢戮討了劼匹發紡个垢訖祐峽狙ないしは教育という課題と、学校のもつ選別機能との間の矛盾だといいます。


 ヤニカをめぐるここまでのお話、いかがでしょうか?

 わたしなりの理解は―、

 ヤニカは、「承認」を人並み以上に求めるタイプの少女だったかもしれません。彼女にとっての「承認」は、「突出して優れていると認められること、優位に立つこと」を意味しました。それは彼女独自の「価値観」あるいは「ニーズ」の世界であったかもしれません。
 
 こういう性向の人が望むような「承認」を得られるのは、それに見合うような突出した「能力」「才能」を幸いにももちあわせている場合だけです。
 残念ながらその均衡がとれていない場合、極端な場合にはヤニカがそうしたように暴力に頼って周囲を支配し、「承認」を得ようとする、ということが起こり得ます。
 また自分の望むように自分を評価してくれない周囲を完全否定することによって自己評価を守ろうとするかもしれません。

 こういうタイプの人がもし身近にいたら何がしてやれるのだろうか?

 賢明な読者のみなさまのご判断をあおぎたいと思います。



 本書ではこのあと「ドイツの教員養成」についてのお話が続きます。2000年のPISAにおいてドイツは読解(総合能力)で21位、「数学」と「科学」でそれぞれ20位という不名誉な結果となり、それに伴って教員養成の在り方が議論されたのでした。
 
 ここには教育の達成をみる指標として学業成績だけではなく人間形成を、という著者の主張も読み取れますが果たしてそれは可能なのですかどうか。

 とはいえわが国でも、過去にこのブログに登場された何人かの優れた先生方は既に取り組んでおられ不可能ではないのでした。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


『僕が18年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと』(和田一郎、バジリコ、2015年2月)を読みました。

 百貨店に大卒後就職し42歳で退社するまでのサラリーマン生活で思い残したことを、現在はアンティーク着物のネット販売を営む著者がつづった本。

 著者自身のとても「痛い」エピソードが満載で、でも読後感がすごく爽やかな、「大人が書いた」味わいです。


 どんなふうに「痛い」かというと、例えば入社式での出来事:

++++

「……というのに、まだ上着も着ていないやつがいる。社会人として……」

 ふと気がつくと、上着を着ていないのは僕ひとりで、あとの同期はいつの間にかすべて上着を着ているではないか。

 僕は慌てて上着を着た。

(中略)

 この一件は、入社初日から僕の心構えがなっていなかったことを存分に示している。ゲームは既にスタートしていた。

++++

 こうした「うっかりエピソード」程度だとだれもが「あるある」と済まされそうだけれど、
 この本では著者がこのあと中堅〜管理職になった時期にいたるまで、仕事以外の夢を追いかけてどこか半身で仕事をしていた自分、仕事に没入するようになってからもどこか方向違いの頑張りをしていた自分、などをさらけ出し、自ら「勘違い」「痛い」と述べています。


 「痛い自分」をここまで徹底的にさらけ出せる強さ。凄いですね。

 著者は十分に優秀な部類のサラリーマンだった、ということも伝わります。しかし上には上がいた。大組織で役員にまで昇進していく人たちは少々の優秀さではないものを持っている。

 この本は著者がアンティーク着物ショップ「ICHIRO-YA」の代表になってから、ブログに連載した文章を書籍化したということで、ブログで自らのサラリーマン時代の悔悟をつづったものが反響を呼んだ、ということです。



****


 ひるがえって、
 わたしはここまで「痛い自分」をさらけ出せるだろうか。

 と、このところ内省モードにいるわたしです。


 そもそも大した人間でないのに管理職の方々に何かをお教えするということが「おこがましい」の極みです。

 その「おこがましい」という感覚についてはこれまでもこのブログの中で何度も触れ、仕事の中でも大事にしてきたつもりでしたが、さて。


 拙著『行動承認』で書かせていただいた、奇跡のような業績向上エピソードの数々はいずれも誇大妄想ではなく、事実です。
 しかしまた、「承認/行動承認」を導入していただいたときの組織に及ぼせる効果の大きさと、伝えているわたし自身とのギャップがこのところ大きくなりすぎてしまい、そのギャップを扱いかねているわたしがいます。


 ところが、そう言っている間にも信頼してくださるお客様がいて、それも非常に優秀な、世間の広い方々から、研修や講演や原稿のご依頼をいただきます。有難いことですね。


「いつもメルマガを見ていますよ。大変なご活躍ですね」

と仰るお客様に、

「ありがとうございます。自慢話ばかり書くメルマガでお目にかけるのがお恥ずかしいです…、
皆様が『そんなに効果があるのなら、やろうか』と思ってくだされば、世の中がより良くなると思いまして」

冷や汗ものでお答えしました。



 おこがましさ、痛さ、ギャップ問題は解決しないものの、

 このようなもの(承認)をご提供してお客様にお役立ちできる立場にいるというのは、幸せなことです。
 
 しかし内省モードは中途半端になってしまうかもしれません。
 
 



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

 

『藻谷浩介対談集 しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社、2014年)を読みました。

「現智の人」7人との対話。それぞれ話題と人を挙げておくと、

「商店街」新兼史(社会学者)
「限界集落」山下祐介(社会学者)
「観光地」山田桂一郎(地域経営プランナー)
「農業」神門善久(農業経済学者)
「医療」村上智彦(医師)
「鉄道」宇都宮浄人(経済学者)
「ユーカリが丘」嶋田哲夫(不動産会社社長)

 「まちづくり」「地域」を考えるうえでカバーしておきたい視点。

それぞれの論者の一人語りだけでなく藻谷氏のエネルギッシュな「かえし」があることで話が立体的に飛び込んできます。

 だけでなく、
 「この国の同時代とは、何か」
 これは「戦争」に向かって突き進んでいるかにみえる政治面、あるいは個別の社会面の事件に目を奪われ見えにくくなりそうですけれども、平成26年2014年という時代に日本はどうだったか、を後から読み取る場合には押さえておきたい1冊になるでしょう。

 本書に繰り返し出るように、島国日本は、本来は生き残りやすい有利な条件にある(たぶん軍事上も)。ただしそれを上手くハンドリングできてない、局所には悲惨な状況を作ってしまっている現状には、メディアを含む意志決定層の妄想と不作為や誤った仮説による施策(正田がいう「知的怠惰」とか「ものに驚かない感性」と似たもの)が関わっていることが、個々の対話から浮かび上がります。「脳化」(バーチャル化?)という言葉が繰り返し出てきます。

 年齢的には、年齢を気にするとお叱りを受けそうだけれど新氏が41歳、山下氏46歳、山田氏50歳、神門氏53歳、村上氏54歳、宇都宮氏55歳、嶋田氏80歳。とよくみると年齢の若い順に並んでいた。同世代の「闘士」の方がいらして結構うれしかった。たぶん、「某高齢者世代」以降にできた社会秩序システムに対して、「これの延長線上ではだめだ」「自分の世代で立て直さないとだめだ」と感じる人たちが、バブル世代前後にいらっしゃるのだ。そして場数を踏んで発言するようになっているのだ。と、自分に都合のよいように解釈します。

 わたしは信頼した人を割合長く信頼するところがある、のは自分でも認めます。
 藻谷氏に関しては、最初に触れた著作『デフレの正体』(2010年)では、基となったデータをすべて辿れるわけではない(もちろん手間を惜しまなければ辿れる)ものの「この論証プロセスは正しい」と直感して、開催予定だった「人口減少社会」のよのなかカフェの課題図書にしましょう、共通の土台にしましょう、と呼びかけたのが始まり。
 その次のベストセラー『里山資本主義』ではこれも知らなかった話が多くて自分では検証不可能だったけれど、地域社会の思想「手間返し」「感謝」という概念が出てきたときに、それは「承認教」なかでも「行動承認」と同じことをほかの言葉で言い換えているように思え、「この著者わかってるな」と思わされたのでした。つまり、共同体が上手くいく基本原理を上手く言い当てている、それほどこの分野に関して沢山のPDCAをしてきたとも思えないのに、と。ウチダ語でいえば「先験的に知っている・わかっている」というか。
 逆にこうした経済学、社会学の人たちが「マネジメント」や「コミュニケーション」「人材育成」の分野に踏み込んで発言したとき、どんなに不用意な間違いをしやすいことか、を考えると。
 
 でどういう知的作業をふだんしている人なのか、というと本書の序文によると
「テレビをまったく見ない、ネットも確認せず、本もほとんど読まない」(うわ〜、そこまで言えないなあわたしには)、
そして情報入手手段として
「対話」

「『現場』の『現実』を目の当たりにしての『自問自答』」
の2つを挙げます。
 後者に関しては、
「全国や世界各地に無数の定点観測点を設置し、そこで出会うあらゆる事象を前に、『うわぁ、こんなことになっているのか』『なぜここがこうで、あそこはこうではないのか』と自問自答を繰り返す」。

 本書でも藻谷氏はその独特の地誌学的見聞を大いに発揮します。地理が苦手科目だったわたしなどには驚くべき知性であります。
 自分には「ない」種類の知性なので想像するほかないのですが、多分極めて優れた映像記憶をもち、行く先々で目に飛びこんでくる膨大な情報群をフィルターをかけずにそのまま蓄積し格納し、土地間の比較や同じ土地の経時的な比較が即座にできるようになっているのだろう。比較のうえ「違い」「変化」に敏感に目をとめ、その都度それが思考材料になる、ということなのだろう。
 そうした「生の情報」に触れ続けることは、これもわたしにはない「体力」という要素も入る。身体の体力と知的体力と。
 知的体力のほうは、「新規の情報をとりこむ」と「脳内の情報を書き換える」ことの手間を惜しまない、ということなのかなぁ。。よくわからない。。
 
「とはいえ自問自答だけでは、学びのスタートは切れても、ゴールにはたどり着けません。そのままでは仮説の山を抱えて立ち往生するだけです。仮説を現実に通じる“智識”にまで昇華させていくのに不可欠なプロセスは別に存在します。それが、現地の人ならぬ“現智の人”との対話です。
 “現智の人”とは、特定の分野の「現場」に身を置いて行動し、掘り下げと俯瞰を繰り返した結果、確固たる『知恵』を確立している人のことです」

 つまり、「生情報」に触れ分析を繰り返すことにも限界があり、さらに「“現智の人”と対話する」と言っているのでした。

 そうした藻谷氏の知的作業プロセスを本書は開示するかのような本になっています。

 一読して思うのは、「よく驚くなあ、この人」ということであります。あっちこっちで「えっ」と言ったり「ああそうか!」「目から鱗でした」とか言っている。
  雑誌連載と単行本化の二度にわたる校正を経て、こうしたやりとりを残してあるのは、あえて意図して提示しているようにみえます。対話集としては、もっと「驚かない」で、予定調和の会話で進むことはできるのだろう。過去に読んだ識者の対話集の類では、ホストはこんなに驚いてない。相手が何を言っても「わかったふり」をしてそれなりに自分の言葉で言い換えて。「驚かない」ほうが「賢そう」で「かっこいい」と思いますね。
 「驚く」だけではなく、「悔悟する」「不明を恥じる」「自分は間違っていたんだろうか、と自問自答する」ということも会話の流れの中でやっている。

 それは対話相手の見聞が自分の予測をはるかに超えたものであるとき、恐らく正しい反応でありましょう。会話の中で自己否定を迫られかねない、大幅な書き換えを迫られかねない、それでも情報に肉薄する。それをやり続けられるのは「知的体力」の問題であったり、相手へのリスペクトの問題であったり、あるいは自分のナルシシズムの克服という問題でもあるかもしれません。そしてそれをしなければ「現智の人」から学ぶことはできないのです。
 とりわけメディアがあらかじめある「絵」に固執してほかのものを報じない現実―本書でも「夕張は実は大都市からアクセスのいい土地なのに、僻地だ、不便だ、住んでいるのはかわいそうな人たちだというイメージに描かれ続ける」という話が出てきます―であると、メディアによってつくられた先入観をリアルな対話の中でこまめに覆す作業が必要になるでしょう。
 自己否定をも辞さず驚き続ける知性はこの不定形な時代にも情報をとりこんで拡大していくことでしょう。ただ、現実にあっちこっち動き回れない身としては結局「信頼できる人」を見極めて情報を入手するしかないのか、ということになるのですけど。



 もうひとつ本書では藻谷氏は自分のルーツ的なものを少しずつ挿入しています。
 母方の祖先が今は廃村となった石川県の「新保」という集落の庄屋であったこと。ディズニーランドの開業直前から10年ほど浦安市民であったこと。…
 それは過去にも「対話集」の中で部分的に試みられたことがあるが、今度のほうがより確信犯的におこなっているようです。優れた観察力の持ち主にして、実は論を立てる前提にみている景色があること、いわば主観の出発点があること。有限の自己、有限の客観性を先に認めることによって手のうちをオープンにし論の普遍性を問うこと、それもまた知的作業として重要なことであろうと思います。主観をいちどくぐり抜けた客観、といいますか。
 
 ―わたしの立ち回り先の「困った人たち」も、何が一番困るかというとその人たちがみてきた、よって立つ風景を開示しないことなのだ。先入観が何から出来上がっているか。それはよくみれば「TVで見たから」みたいな貧困なものかもしれないのだ―

 というわけで本書は現代を停滞させる「知的怠惰」への藻谷氏流のアンチテーゼを提示しているようにわたしには読めてしまったのでした。

 個々の対話の中に付箋をつけた、心に残るフレーズが多数ありましたが全部ご紹介すると長くなりすぎるので諦めます。
 個人的には農業の神門氏、医療の村上氏の章が「行間から血を流している」ようでずしっと重たく、村上氏の章の序文(藻谷氏による)の一文「とりわけ医療と義務教育と地域づくりの現場は、無名の超人たちの墓碑銘で埋め尽くされているように思う」。これは無意識に死に所を探している感のあるわたしにとっても(超人ではないですが)身に迫るものでした。
 「鉄道」の章は「愛」が溢れています。ここは著者が(たぶん本来は強調したかった箇所にもかかわらず)「客観」に徹することを放棄してしまった章なのでしょう。
最終章、千葉県佐倉市のユーカリが丘を作った嶋田哲夫氏の話は「やりようによっては、できるのだ」と希望が持てます。
 わたしにとっては個々の分野へ俯瞰図をもらったような読み応えのある有難い本でした。ご興味のある方はぜひ本書をお買い求めください。



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 ひきつづき、「ヘーゲル承認論」について入門書、解説書研究書、と読んでいます。

 とにかく言葉がむずかしいです。ヘーゲル自身言葉の定義を厳密にする人ではなかったようで、あたしそういう勝手なルールで引っ張る人すきじゃないんです、公明正大なのがすきなんですが。
 なので「超訳本」のようなものにも頼らざるを得ないです。


 いきなりお詫びしないといけないのは、承認はヘーゲルのオリジナルだったわけではないらしい、ということです。この当時の「ドイツ観念論」の中で流行りのような概念だったようです。

 だから、「世界初」と持ち上げると間違ったことになっちゃう。すみません。

 なお、「ドイツ観念論」は「観念」とついてると妄想的に抽象的なことばかり考えてる人たちなんだろうか、というとこの人たちが今の日本の法体系の基礎をつくったと思っていいでしょう。ドイツ法ですもんね、日本は。
 あとヘーゲルの左寄りの解釈をしたのがマルクスなので、ヘーゲルとマルクスは一味だ、ヘーゲルは共産主義者だ、と思うとそれは間違いです。ヘーゲルは左寄りにも右寄りにも解釈できる余地があり、ヘーゲル承認論を「資産分配」の問題として曲解したのがマルクスなようです。たぶんマルクスはストレングスファインダー「公平性」か「規律性」の人だったんだろうなあ。



 ドイツ観念論においてヘーゲルに先立って承認の問題を扱ったのはフィヒテである。ところで、フィヒテが他者の問題や相互人格性の問題に着目するようになったのは、カントにおける人格の共同の思想によって啓発されたためである。また、シェリングも一時期フィヒテの影響のもとに承認について論じており、ヘーゲルはこれを念頭においていたとも考えられる。このようにして承認の問題は、ドイツ観念論全体に伏在しこれを貫流する基本テーマである。ヘーゲルはこのテーマを明るみに出し、展開させたといえよう。(『承認と自由―ヘーゲル実践哲学の再構成』高田純、未来社、1994年、p.304)

 
 だそうです。ああこの人の文読みやすくて助かる。あ、これは超訳本じゃなくて研究書です。

 ドイツ観念論って何?というと、もうWikiでみてください、というかんじですが、

 要は、「承認論」に何人かの「お兄さん格」がいて、お互い切磋琢磨してというかカイゼンをしていたらしい。ヘーゲルはその中で後世に最も有名になった存在みたいです。

 上の文の中に出てくる人の生没年を挙げると

カント(1724-1804)
シェリング(1775-1854)
フィヒテ(1762-1814)
ヘーゲル(1770-1831)

 そうですか、シェリングのほうがヘーゲルより5歳年下だったりしますね。親しかったかどうか知らないけれどシェリングが何か発表するとヘーゲルが「なにを!」と思っていた可能性はありますね。

 なので「承認論」が出てきたのはヘーゲル30代のときでありますが個人史的に何かあったというよりは、同時代の人との切磋琢磨でもまれてきた、結構対抗意識マンマンだったかもね、というかんじです。

 そして主な先輩格としてフィヒテがいたと思っていいようです。


 本書の記述にしたがい、それぞれの人の主張を短く言うなら…。

カント:道徳的共同体
フィヒテ:自由の相互制限
シェリング:自己の自由を制限するのは自我
ヘーゲル:部分的自己否定による他者肯定。家族から経済、国家へ承認の及ぶ範囲を広げる


 これだけでは当然わからないので、もう少し詳しくみてみましょう。
 
 フィヒテは『学者の使命』で、自我と他我との関係を「概念にしたがった相互作用」「合目的的共同(相互性)(ゲマインシャフト)」ととらえているが、これはカントの道徳的共同体(「目的の国」)を念頭においたものである。したがって、フィヒテの承認論はカントに連なる面をもつ。カントがいう道徳的共同体は、もろもろの人格が共同の道徳法則にしたがって結合することによって設立され、そこでは、もろもろの人格は相互に「目的自体」として尊重しあう。カントは人格としての相互承認を道徳関係の基本においているといえる。(同上 p.306)

 フィヒテは、カントが人格的共同の問題を正面から扱っていないことには不満であった。
(中略)
 (フィヒテにおいては)他我が自我を承認するのは、自我もまた他我を承認するばあいである。このように、承認は自我と他我とのあいだで相互的におこなわれる。(同上 pp.306-309)



 ・・・と、フィヒテは「自我と他我の承認関係」を「自由の相互制限」とし、その関係を「法」だと言った、ようです。


 ここでわたしは、はるか以前、2007年に自分が「人と人との関係は風船プールのようなものだ」と書いたことを思い出しました。
http://c-c-a.blog.jp/archives/51071914.html#more

 意外とわたしって、ドイツ観念論的な人だったかも。こらこらうぬぼれるな

「自由の相互制限」についてはヘーゲルはフィヒテにあとで盾ついているようですが、個人的には共感するものがあります。
 この「風船プール」の文章も、どういう背景があって書かれたか考えてみると、心理学系のセミナーに行ってそこの論法により自我がブワーっと拡張した感じの人をみたときに、「これじゃ自分個人は満足でもはた迷惑だわ、社会はこれの集積じゃうまくいかんわ」と思って書いた記憶があります。

 心理学系セミナーはそのように、人々を甘やかしおかしくさせる要素があり、だから「承認研修」以外の心理学系セミナーを受けたことありますよ、なんてのは何の自慢にもならないんです。


 うーん、あたしも何百時間もそういうセミナー受けてきてますから既に相当おかしな人間ではありますけどね(もし「心理学系セミナーを受けたから、自分はえらい」という論法の人がいたとしたら、その人より100倍あたしの方がえらくなっちゃうんですけどね、だからそういう論法はやめときましょうね)。小学生の頃から論語荘子唐詩漢詩史記といった漢籍、それに啓蒙思想やら(これは漫画の影響かも)読む宙二病な小学生でしたから、心理学に対してかなり免疫ができていた可能性はあるんですね。「その論法おかしいやろ」とつねに批判思考が起こりましたね。

 そういうほうの貯金が子どものころから「ない」人は、大人になって心理学に出会うと「かぶれる」かもしれません。甘やかしてくれますからね、心理学は。「きもちいい」ですからね、はしたないけれどドーパミンが出ますから性欲が亢進した状態と一緒ですからね。その代わり倫理的におかしくなっても知りませんよ。


 フィヒテにおいては、まず他我がその自由の自己制限によって自我を承認するといわれたが(正田注:それはフィヒテ先生ちょっと「虫のいい」考え方じゃございません?)シェリングにおいては、まず自分の活動を制限するのは他我ではなく自我である。(同上 p.311)


 だそうです。ここはちょっとシェリング先生に共感しますね。「与える側になれますか?」のあたしとしては。


 さて、いよいよ、じゃあそれに対してヘーゲル先生ははどう考えていたか、というお話です。


 ヘーゲルにおいては、自己の否定はその自由の部分的制限と同一ではない。自己の否定は自己の肯定に転化される。ヘーゲルによれば、承認の弁証法的構造は、「個人が他人のなかで自分を自立的なものとして直観する」ことにあるが、これが実現されるためには、個人はその利己的、排他的あり方を克服しなければならない。個人は他人のなかで自分の個別的あり方を否定することによって、普遍的なものとして肯定される。また、個人が利己的であるかぎり、他人と対立しており、他人の否定によって自分を肯定しようとするが、個人が普遍的なものに高まるときには、他人を肯定する。このように、他人における個人の自己否定をつうじて他人における自己肯定がえられるのである。このように、承認は自分にたいする肯定的かつ否定的な二重の関係を含むと同時に、他人にたいする二重の関係を含む。


 めっちゃ抽象的な文章で、なんか例示してよ、という気分になりますが。
 「個人はその利己的、排他的あり方を克服しなければならない」
 これは、思春期〜青年期から中年期にかけての個人のこころの成熟の推移を思うと、なんとなく理解できる気がします。
 わたしたちは他人を否定することによって自分を肯定する心理、って残念ながらあります。わたし個人についていうと思春期、青年期はもとより30代ぐらいまでそういうのが残っていた気がします。倫理的に悪い他人を考えることによって善であろうとする自分を肯定する、みたいな。
 でも今、メディアで誰かの「悪」を好んでほじくり返すのをみていると、わたしだけじゃないんだなと思いますが、むしろ生涯長きにわたって他人を軽蔑することでやっと自分を肯定できる、ゼロサムの人が多いんじゃないかと思いますが。
 そういう相対関係の中で自分を肯定する、という段階を脱して「他人を肯定する」ことと「自分を肯定する」ということが無理なく両立するようになったのは30代後半以降だった気がします。

 そして、リーダーたちは「承認」実践者になることを通じて、自分のナルシシズムを程よく抑制できるようになる、ということはこのブログで繰り返し言っています。「他人はすごい」と感じたり言ったりすることは「オレ1人がすごい」という唯我独尊を抑制することになるんです。もともと攻撃的でナルシスティックなリーダーたちへの教育として大事な要素であろうと思います。




 ヘーゲルでは「家族愛」と「承認」をリンクしてとらえているのが大きな特徴のようです。そこから、経済、国家に「承認」の範囲を広げていきます。法思想の中核に「承認」の概念があります。


 フィヒテにおいては自我と他我が対立的なものと理解されるために、自我と他我との相互承認も、自由の相互制限という消極的なものとみなされる。
(中略)
 フィヒテにおいては法が承認関係と特徴づけられているが、その妥当範囲は限定されている。
(中略)
 これに対して、ヘーゲルはより広く承認の実現を家族、経済社会(市民社会)、国家に求める。法的承認が形式的、外的であるのに対して、家族、経済、国家においては実質的承認が実現されることをヘーゲルは重視する。ヘーゲルにおいては、承認は、たんに自他が自由を妨害せず、これを許容するという消極的なものにつきるのではなく、承認の根本は、自他が協力して生活を保障しあうことにある。
 後期ヘーゲルにおいては、法は、狭義の法、道徳、人倫(家族、市民社会、国家)を包括している。法のこれらの段階は形式的承認から実質的承認の高まりを含意している。
 


 いかがでしょうか。
 「家族」、わたしには過去のものとなりましたが、やはり大事でした。「承認」という概念とお付き合いして10数年、途中に迷いがなかったわけではないのですがそういう時、やはり「家族」という最小単位はわたしにとって「承認」で運営できる、実体のあるコミュニティであり、そこで生まれるダイナミズムは次の段階、企業体にも当てはめたくなるものでした(そしておおむねうまくいってきました)

 ほかの記事で触れたいと思いますが、ヘーゲルがいう「承認をめぐる闘争」、あるいは何かの事件があり被害と加害が存在するとき、被害とはなんぞや、と考えた時、それは個人(たとえば家族のメンバーのだれか)の「承認」がほかのだれかによって損なわれたときであり、それを回復することが正義、という道筋で単純に考えられました。子ども同士の喧嘩の仲裁も基本、その考え方でしていました。


 そういう実体験による検証がなかったら、わたしはこんなに長くひとつの概念に固執していられなかったでしょう。とりわけ実務での成功体験が少なかった時期には。


(繰り返しますが実績としては「12年1位」です)



 本書『承認と自由』は、この部分だけでなくやはり「家族と承認」「愛と承認」の記述も大変興味ぶかいので、もう何度か引用させていただきたいと思います。


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 突然「ヘーゲル」を読みだしました。本来「承認」を語るのにヘーゲル避けて通れない、はずですがこれまでちょっと食わず嫌いしてきました。

 
 アカデミズム界にも静かなヘーゲルブーム、またそちら側からの「承認」ブームというのがあるようです。資本主義の再構築、という観点からも意義のあることでしょう。


 というわけで原典(邦訳書)と入門書解説書、とりまぜて少しずつ読んでいきたいと思います。

 まずは『法の哲学II』(中公クラシックス、Kindle版)。ヘーゲル51歳のほぼ完成期の著作。「承認論」はこれより前、30代のイエナ大講師のときに出て来たもので、この著作では比較的「さらっ」と触れられています。


 やっぱり言葉がむずかしいんですが(よくこんなに抽象に次ぐ抽象でものを考えられるものだ;;)、重要と思われるところを抜き書きしながら、例によって自分の感慨(ぼやき)を挿入していきます。


※なおこのブログの「引用」機能を使うとバックがグレーで読みにくくなるので、引用部分を太字表示にするという形式にしたいと思います


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 §185

 〔社会の緊急状態の調節者としての国家〕特殊性はそれだけでは、放埓で限度のないものであり、この放埓な享楽の諸形式そのものに限度がない。人間の欲望は動物の本能のように閉ざされた範囲のものではないから、人間はおのれの欲望を表象と反省によって拡大し、これを悪無限的に追いつづける。ところが他方、欠乏や窮乏も同じく限度のないものである。この放埓な享楽と窮乏との紛糾状態は、この状態を制御する国家によってはじめて調和に達することができる。


 いきなり、きたきた、という感じです。
 緊急状態の調節者としての国家。(実はヘーゲル時代のドイツは統一ドイツなどというサイズのものはなく、零細国家に細分化されていたので、ヘーゲルがイメージした国家とは今の日本でいうとどのぐらいの単位のものかというと…、)

 要は、ほっておくと際限なく「弱肉強食」になり「格差社会」になりそうなとき、あるいは「悪貨良貨を駆逐する」になりそうなとき、行政が調節者になることは正しいわけです。


 えっ、我田引水すぎますって?でも教育において「弱肉強食」「悪貨良貨」という事態が起きることは、常識人になら想像がつくことじゃないですか。四字熟語多すぎますか。
 もう少しここを詳しくいうと、大人向けの教育について「ネタ」として取り上げる傾向が強まった、と感じています。極端なもの、「えっそんなものが」と目を引くようなものがメディアに載る、スタンダード/王道は顧みられない。しかし、実際の効果を上げるのはスタンダード/王道のほうなんですけどね、「ネタ」的加工をすればするほど、現実世界を幸せにする力は失われますね。どんどん平気で脇道にそれている。それを本筋に戻すのはもう見識あるところが英断でやるしかないでしょう。

 

 これに続く文章ではこんなことも言います。


 プラトンの国家は特殊性を排除しようとしたが、それはなんの役にも立たない。というのはこうした救助策は、特殊性を解き放って自由にするという理念の無限の権利と矛盾するであろうからである。
 キリスト教においては、とりわけ主体性の権利が対自存在の無限性と同じように芽を出した。しかし主体性の権利が芽を出した場合には、全体性はそれと同時に、特殊性を倫理的一体性と調和させる強さを手に入れなくてはならない。



 ここ1−2週間のうちにわたしは「公正(fairness)」と「平等(equality)」の違い、ということも女だてらに言ったのですが、ひょっとしてそれに近いことを言ってくれてるでしょうか。


****

「欲求」について。のちのマズロー「五段階欲求説」に発展するような欲求の多様性についての視点があります。

§190


 動物の欲求は制限されており、それを満足させる手段および方法の範囲も、同様に制限されている。人間もまたこうした依存状態にあるが、それと同時に人間はこの依存状態を越えて行くことを実証し、そしておのれの普遍性を実証する。

・・・

 人間には、住居と衣服に対する欲求があり、また食物をもはや生のままにしておかないで、適当に調理し、その自然的直接性をこわさなければならない必然性がある。こうした欲求と必然性からして、人間は動物のように安閑と暮らすわけにはゆかず、精神としても安閑とかまえていることはyるされない。

・・・

 こうしてついに、満たされなければならないものは、もはや必要ではなくて意見ということになる。そして具体的なものをもろもろの特殊的な面に分割することこそ、まさに文化の一面なのである。欲求が多様化されると、とりもなおさず、むきな欲望は抑えられる。というのは、人間が多くの物を使用するときは、これだけはどうしても必要だというような何か一つのものに対する切望はさほど強くないからである。そしてこのことは、窮乏の度が総じてそれほど激しくないという証拠である。


****

 そしていよいよ「承認」が出てきます。

§192

 欲求と手段とは、実在的現存在としては他人に対する存在となる。欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており、この制約は自他において相互的であるからである。欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた、諸個人の間の相互的関係の一規定にもなる。承認されているという意味でのこの普遍性が、個別化され抽象化された欲求と手段と満足の方法を、社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである。

 いかがでしょうか。

 個人と個人は欲求を満たしあうことで社会的関係をつくる。「承認する」ということの相互性。

 「当たり前のことを言っている」と思われますか?

 もしあなたが、拙著『行動承認』を読んだ方でいらっしゃるなら、第2章の

「わたしたちは『承認されないと満たされない』心に少しずつ穴の空いた存在です。満たす側になれますか?」

というくだりも想起していただけるかもしれません。

 あれはたぶんヘーゲル的世界では思考として当たり前のこと、しかし「コーチング」をはじめとする心理学の世界では当たり前ではありませんでした。

 というのは、心理学業界というのは、「コーチング」を含め、基本的に個人契約で専門家と個人が契約し、専門家がプロの仕事で個人の思いを受け止めることでご商売が成立してきました。

 また、リーダー研修にもある心理学系のセミナーというものも、現実社会のアンチテーゼ的に個人の自由自発性ということに奇妙に力点が置かれ、そこでは個人が戻った先の現実社会での相互関係ということは捨象した形で個人がねんごろに扱われました。「ご商売だから」とわたしなどはみていましたが、そこではとんでもないロジックの不備が入りこむすきがありました。


 そうした場や利害関係のもとでは、個人が教育を通じて進化して「与える側」になることで理想的な組織をつくる、なんてことは想定されていなかったんです。それができてしまうと専門家の仕事がなくなってしまうんです。だから教育のやり方が雑だった。

 だから、正田は特別高度なことをやっているわけではない。ただちょっと「コーチング」はじめ心理学業界の枠からはみだした思考をしただけです。それを生意気だ、なんて言わないでくださいね。

 ちなみに、某国際同業者団体を含むコーチングの世界では、「クライアントをいかに多数確保するか」がコーチ資格の基準となるので、「承認屋の正田」はある時期からその世界での資格ホルダーになることから降りてしまっています。「承認」習得によって、リーダーたちは多くの悩みから解放されてしまうので、わざわざパーソナルコーチングを受ける必要がないんです。儲からない仕事の仕方ですよね。


 これに続く『法の哲学』の文


 私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり、したがって他人の意見に従わざるをえない。しかし同時に私は、他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない。だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり、他人と繋がり合っているのであって、そのかぎりにおいて、すべて個人的に特殊的なものが社会的なものになるのである。


 これも当たり前のこと言ってますねー。心理学業界にどっぷり浸かっていると、すごく利他的なことを言っているようにみえると思います。あと某高齢者世代の方にとっても常識ではないかもしれません…


****
 
 
 ほんとは、もっと引用したいんですが今日はこのへんで。

 この後はヘーゲル30代のイエナ大学時代の「承認をめぐる闘争」のあたりの思考をフォローしたいと思います。
 ちなみにヘーゲルが結婚したのは41歳だったそうですが、その前の30代はどんな青春だったんでしょうね…恋愛関係と「承認」に関する思索は関連しそうな気がしますけれど、そういう個人的なことは書きたがらないですね。
 あとヘーゲルってジャーナリストだった時期があるんですね。正田もときどき「罪刑法定主義」なんてことを書きますけれど、「罪と罰」についての思考トレーニングに役立ったことでしょう。

 
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 さて、正田が急にヘーゲル読みになったのは、なにも衒学趣味にはしって大所高所から語る偉そうな研修講師をやりたいわけではないんです。

 ただ自分でも以前から「修正資本主義」的なことをやっている、という自覚は薄々ありました。それは最終的に経営者、管理者にとって容易に行動できる教育プログラムでなければならないことに変わりはないのですけれど、あまりにも急激な(過激な、ではない)変化を起こす教育をやっているだけに、そのことの歴史的意味を知っておきたくなった、という感じです。

 なにも、研修や某高齢者世代との論争のなかで「ヘーゲルカード」を持ち出したからといって相手がひれ伏してくれるなんてことはないと思います。ただ自分が知っておきたいのです。


拙著『行動承認』を読まれた方で、もしそこに載っている参考文献を辿ってくださった方なら、それら1つ1つについて膨大な冗長な読書日記がアップされていることに気づいていただけるでしょう。本文中で「さらっ」と言っていることも、実はそれぞれの文献との大真面目な対話を通じて自分の血肉化した(と思っている)思索なのです。いずれ今の読書がそのように結実してお客様のお役にも立てることを願います。
ーただわたしの性格上、「まず文献と思索ありき」から今のリーダー教育というおこがましい仕事に入ることは恐らくなかっただろう。今のタイミングだということも恐らく必然なのだろうー


 2012年から13年ぐらいまで陽明学の学びの場に通いましたので、今度はヘーゲルもいいんじゃないでしょうか。


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 モーゼを扱った映画「エクソダス―神と王」をみました。
 これも格差社会を描いた映画、のように見えてしまいます。
 スペクタクルだったけれどそれ以上の感想は湧きません。カエルやらイナゴやら、CGなら出来るんだと思いますがリドリー・スコット監督ご苦労さま、という感じです。



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一般財団法人承認マネジメント協会

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 『上司になってはいけない人たち』(本田有明、PHPビジネス新書、2014年5月)を読みました。

 これも普段あまり当ブログでは紹介しない系の本で類書はたくさんありそうな気もしますが、当協会受講生、会員さんがたの良いふるまいや事例ばかりを紹介していると目が慣れてしまい、それがどんなに貴重なものであるか、彼ら彼女らが、周囲がけっしてそのようでないなかで独自の行動指針をもって奮闘しているか、わからなくなってしまうおそれがあります。

 彼ら彼女らを正しく評価するためにも知っておきましょう。読んでいてたのしくはない本ですが「あるある」というノリで読んでいただけると。また2つ前の記事でとりあげた『女神的リーダーシップ』と比較してみるのもおもしろいでしょう。
 
「職場の問題の多くは上司の側にある」と著者。
―いいですね。「若者の側にある」と、言っちゃうほうがやすきに流れていて簡単なんです。


● <危険レベル>で罪深さを分類する という項目では、

1.部下を育てる意欲も能力もない=〈危険レベル1〉
  ―これは、教育次第で治るのカナ?しかしやはり素質的なものもある感じがします

2.会社や部下の文句ばかりをいう=〈危険レベル2〉
  ―だからね、こういう人たちにばかりヒアリングしてはいけません。

3.その場そのときの気分でいうことが違う=〈危険レベル2〉
  ―ストレングスファインダーで何がトップにある人、って考えてみるとおもしろいかも。これが「育てる意欲も能力もない」より危険レベルが高いことは要注目ですネ

4.部下の意見や提言を無視する=〈危険レベル3〉

5.自分の好みで部下を選別・排除する=〈危険レベル4〉

6.ハラスメントによる事件を起こす=〈危険レベル5〉


だそうです。ハラッサー上司の危険度が一番高いのは、まあ予想通りでしょう。

 ちなみに、本書にもありますがおさらいで、厚労省が示したパワハラの定義と分類とは:

定義:
「職場のパワーハラスメントとは、同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為をいう」

分類:
1.身体的な攻撃(暴行・傷害)
2.精神的な攻撃(脅迫・暴言など)
3.人間関係からの切り離し(隔離・仲間外し・無視)
4.過大な要求(業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害)
5.過小な要求(業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと)
6.個の侵害(私的なことに過度に立ち入ること)

―おやおや、東京都議のどなたかは2.と6.をやっている。セクハラでもパワハラでもありますネ


●このあと「脱線する上司のタイプ」が列挙されますが・異なる意見を言われると腹が立つ・間違いを指摘されても認められない・・・等々、有能な自信家、要は「ナルシシスト」ですよね、というものです。


●「きみに任せた」という言葉が要注意。
 「任せる」は「承認」の1つの形態としてもありますが、「きみに任せた」という言葉は上司から言われたイヤな言葉としてランクインされるとのこと。
 何年か前、「期待してるよ」という言葉も「イヤな言葉」としてランクインしたそうですが・・・、ほらほら時々こういう落とし穴があるので気をつけましょう。

 ここで本書の分析はなかなかふるっています。この言葉がつかわれるのは、

1.上司がその仕事の責任をとりたくないとき
2.どうでもよい雑用レベルの仕事を与えるとき
3.上司自身がきちんと理解できていない仕事を丸投げするとき
―あたしも経理のYさんにときどきやっちゃっている。あ〃〜
4.ほかの人に任せると文句が出るような仕事を押しつけるとき

だそうです。

 ・・・でじゃあどうすればいいのか、というと、「〜だから、きみに任せた」という形で言えばいいのだそうです。〜のところに丁寧な説明を入れる。説明も承認のうちです。あと本人さんの能力とかこれまでやってきたこと、を〜のところに入れると機嫌よくやってくれそうな気がしますね。がんばります。


●このあと第4章では本書のタイトルと同じ、「上司になってはいけない人たち」が列挙されます。項目だけご紹介して「あるある」気分になりましょう。

1.問題があるのに「ない」という〈無責任上司〉
2.自分が「問題そのもの」になっている〈鈍感上司〉
3.何もしないで会社の評論ばかりする〈負け犬上司〉
4.「ほかにやることがある」でごまかす〈煙幕上司〉
5.その場しのぎの対応に終始する〈お調子者上司〉

 うんうん。
 いずれも「責任感」の低さが問題なような気がしますが・・・、
 これもストレングスファインダーで恐らく「責任感」が極端に低いところにあるんだろうな、わるいひとじゃないのに、というひとはよく見ます。なんでそういう人が上司になってるんだろ、と思いますが、たぶん上司になるまではその決定的な不適格性は見えにくいのでしょうね。不適格性が見えた段階でいさぎよく降格するのが望ましいのだろうと思います。たったこれだけのことでも離職者続出の職場になる例はよく見聞きします


●次はもっと罪深い、「部下をつぶす上司」のリストです

1.気に入らない部下を排除する〈暴君上司〉
2.できる部下の足を引っ張る〈やっかみ上司〉
―これはナルシシストの一形態ですね
3.なんでも他人のせいにする〈卑劣上司〉
4.「会社の敵」をつくってしまう〈傲慢上司〉
5.部下を不正に巻き込もうとする〈極悪上司〉


―いやはや、人間不信になりそうですけど、「上司」という立場になるとわるいことをしても歯止めがかかりませんから際限なくわるくなり得るんですね。「スタンフォード囚人実験」じゃないですが立場が「上」になるということが、どれほど人を嫌な人間にさせることか。それは古今東西、野放しにせず粘り強く教育して抑止すべきものなんです。

ただそこでどういう教育をすべきか、というときに、パワハラ防止研修に終始するのがいいのかどうか。武田建の行動理論に「良い行動を教えることでわるい行動と代替することができる」というのがあります。よい行動様式を教えるほうが有効なんじゃないでしょうか。


 「嫌な上司像」を忍耐強く見つめ続けた著者の労を多としたいです。

 要は、育てない、関心を持たない、オレオレ、誠実さや責任感はない、という男性たち。リーダーシップから「女性性」がすっぽり抜けていると、こうなるのかな、という見本のようなかんじです。

 正しいリーダー教育が存在せず、上司を野放しにした場合の荒涼たる風景が、これです。

 わが子が会社に入ってこういう上司の下ではたらいてこう言ったら、どう答えるだろう。
「あたしもうイヤ。出来そこないの人格のおっさんの下で働いてお守りさせられたり、サディズムの標的にさせられるのは」と言い出したら。
「仕方ない。我慢しろ」と言うだろうかそれとも・・・。

 わたしは日本のとくに男性中高年の質が急速に悪化してるのじゃないかと思いますが・・・、


 ほらね、当協会の受講生さんや会員さんって、かっこいいでしょ。


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 

 『女神的リーダーシップ―世界を変えるのは、女性と「女性のように考える」男性である』(原題”THE ATHENA DOCTRINE  How Women (and Men Who Think Like Them) Will Rule the Future" 、ジョン・ガーズマ+マイケル・ダントニオ、プレジデント社、2013年12月)を読みました。

 著者は、消費者行動を分析する社会理論家とジャーナリストのコンビ。

 ここには「オキシトシン」は出てこなくて、膨大なデータベースと世界13か国6万4千人を対象にした独自の調査結果に基づき、「女性的資質をもつリーダーが成功する」ことを証明しようとしています。

1つ前の記事の『女性資本主義論』のタネ本でもあります。こちらは決して印象論ではなくしっかりした調査に基づいた本です。


●「成功している起業家、リーダー、オーガナイザー、クリエーターが示す特徴の多くは、一般に『女性的(フェミニン)』とよばれる性質に由来していた」と本書はいいます。その「女性的性質」とは誠実さ、共感力、コミュニケーション力、忍耐強さなどです。


●リーマン・ショック後に行った調査では、人々は男性の振る舞いに不満を持っていることがわかった。
「自国における男性の振る舞いに不満だ」と答えたのは全世界の57%、男性平均の54%、ミレニアム世代(2000年以降に成人した世代)の57%。日韓では若者の4人に3人が男性の振る舞いを批判的に見ている。

―日本は、「若者がおっさんを嫌いな国」と思ってもいいようなのです。
 はい、うちの団体の「よのなかカフェ」でも過去、「男のプライド」という回で「おっさん」を攻撃しました。

 「オキシトシン」「女性資本主義」の流れで毒食わば皿で「新女性ヨイショ論」をみてきているわけですが、ちょっと距離を置いておこうと思っていたら、「東京都議会で女性議員にセクハラヤジ」の報道があり、(私はFB友達に教えてもらった)みるとなんと過去から連綿とこの手のヤジの歴史があるそうじゃありませんか。
 あ〜、わが国の「おっさん」は選良でも品性が低すぎます(ため息)


●「男性がもっと女性のような発想をしたら、世界は良い方向へ変わるだろう」と答えたのは、グローバル平均で成人の66%、男性の63%、ミレニアム世代の65%。日本人男性だと79%。

―みっともない「おっさん」に顔をしかめている男性がわが国に多いことに安堵します。


●「男性的と思われてきた発想や行動の流儀に対して、世間の苛立ちが募っているようだ。具体的には、管理や統制、競争、侵略、さらには、戦争、収入格差、無謀にリスクを取る行い、不祥事など、今日わたしたちが直面する多くの問題を引き起こした、「白黒を決めつけようとする姿勢」が苛立ちの対象となっている。」


●著者らのデータによれば、今日の理想的なリーダーに求められる資質の多くは「女性的」とみなされている。特筆すべきは、思いや感情を包み隠さず率直に表現するリーダーが望まれていることだ。

(なお、さまざまな資質の「男性的」「女性的」というカテゴリー分けは、著者らの上記の6万4千人を対象とした独自調査で、被調査者に分類してもらったそうです)

●リーダーの資質として忍耐を重視する人も多く、イデオロギーよりも理性や常識をもとに難局を打開できるリーダーが待望されている。くわえて、ご都合主義に流されずに、長期の視点から将来プランを立てて一過性ではない解決策を導き出すことも、理想のリーダーには必要だとされる。
 私欲よりも全体の理念や目標に関心を集中する姿勢も、リーダーの資質として尊重されていた。だからこそ、プライドが高い(男性的)よりも忠実であること(女性的)のほうが大切だ、という結果になっているのだろう。

●このほか、道徳観、幸せ観も女性的とされる資質や理念と強く関係したそうです。

―男性は幸せになれないのか、ひどいなーと思うなら、男性の生涯にわたるテストステロン値の変遷の知見などを考えてみるといいでしょう。自然低下してきたころにうまくオキシトシン的な行動様式や観念を学習することに成功したひとは幸せになれる、できなかったら一生幸せになれない、競争と他者支配のイデオロギーを信奉したまま不幸せな人生を送る、のかもしれません。
 それと社会的地位が上昇すると男性は低下してきたテストステロンが再度上昇するんだそうで、地位の高い男性が人格がわるいことが多いのはこのためです。ですのでトップマネジメントに近い層のひとびとが「女性的」行動様式や観念を再学習するのは生物学的に必要なプロセスです。わたしは「承認」はミドルマネージャーだけの学びだとは考えていません。

 
●全体の65%が、政府に女性のリーダーが増えれば信頼や公平さが増進して戦争や不祥事は減ると見ている。回答者の念頭にある女性的なリーダー像は、柔和で感傷的なのではなく、賢明で静かな強さをたたえている。

 調査で最も高い評価を得た、成功へのカギを握る資質は以下のようである。

つながり―人脈を築き保っていく能力
謙虚―よく話を聞いて他人から学び、手柄を分かち合おうとする姿勢
率直―包み隠さず誠実に話をしようという意思
忍耐―解決策がすぐに見つかるとはかぎらないという認識
共感―他者への深い理解につながる気配り
信頼―信頼される実績と人柄
寛容―すべての人や考えを受け止めるあり方
柔軟性―必要に応じて変化、順応する力
弱さ―自分は完璧でなく失敗もあると認める勇気
調和―調和の取れた目的意識

 
●そして本書のタイトルになった「女神的」これはギリシア神話の女神アテナを指します。アテナはその知性、技能、文明化への影響、公正さなどが崇拝の対象となり、産業、芸術、工芸の女神とされた。



 このあとは調査対象13か国での「女性的」リーダー―男性でも女性でも―の活躍ぶりを紹介しています。
 

「おわりに」の章で、

●わたしたちは女性的な資質と価値観を頼りによりよい暮らしと世の中を実現しようとする人々こそ、最も有望な革新者だと考えるようになった。

●男性的か女性的かは二者択一ではない。女性らしい思いやりをもつ男性もいれば、男性顔負けの分析や自己主張をする女性もいる。性別は天与のものだが、後天的に異性の美点を取り入れることは可能である。わたしたちは女性的な価値観を女性だけのものと見なすのをやめ、いまの時代にふさわしいイノベーション手段として受け止めなくてはならない。

―だんだんわかってきました。男性的女性的という括りに違和感がとれなかったわたしですが、だれかが従来の「男性的」手法に異を唱えより人道的で効果の高いやり方を提案したとき、予想されるのは「そんな女子供みたいな」という見下しの入った反論でしょう。それには「いや女性的というのが今最高にかっこいいイノベーションなんですよ」と再反論すればいいのです。「男性か、女性か」という二者択一はそもそも権力者の「おっさん」が持っている発想であり、かれらを説得して突破するにはその二者択一を逆利用しなければならないのです。
 こういう理解でいいんでしょうか。


●わたしたちは、女性の権利を擁護する最善の方法は、「男性が女性的な価値観を身に付けること」だと考えている。・・・女性と、女性のように発想できる男性が、暮らしやすい世の中を創造している。

ーこれはその通りと思います。「女性活躍推進」は、男性を教育したほうが早く達成できます。というのが当協会の主張でもあり、実際にこれまでみてきたことです。


●リーダーに表現力と共感力が求められる傾向がかつてなく強まっている。「リーダーシップは情熱だ」という言葉をよく耳にするが、わたしたちは「リーダーシップは献身だ」と主張したい。リーダーシップを発揮したいなら、関係者に共感しなくてはいけない。

―いまでも多いんだな、定年後の「おっさん」たちによる、男らしさを煽るようなリーダー研修が。「もっと、もっと、男らしくあれ!」って。ほんとうの勇気は愛や信頼から生まれる、ナルシシズムからは生まれない。そういう研修がパワハラを招くんじゃないだろうか。
 そんな中では若い人がリーダー、マネジャーになりたくないっていう気持ちもよくわかるし、もし「女性的リーダーシップ」が組織の中に横溢していて、役員部長からミドルマネージャーまでがそうしたリーダーシップをモデリングして見せてくれるような職場だったら、若い人はマネージャーになることに憧れをもつかもしれない。


●リーダーシップと最も関連が弱い特徴は「プライドが高い」(男性的な特徴とされる)、最も関連が強い特徴は「忠実」と「利他的」(いずれも女性的とされる)だという結果が出ている。
 
―当協会では「承認教育」のかたわら「ナルシシズムに陥るな」という戒めもつねにやっていますね


●本書に登場する〈女神的〉リーダーたちは、透明性とオープンな意思疎通を重んじ、タテヨコ両方、とりわけ部下からの意見や提案を歓迎していた。

●リーダーの資質のうち人々が最も尊重するのは、将来を見据える姿勢と忍耐である。世の中でも「一朝一夕に完璧な成果が上がるはずはない」という理解が深まっている。リーダーには目先のことだけでなく、長期的な視野に立った発想と発言をしていく姿勢が求められている。

●イノベーションには批判よりも称賛を。男性的な発想で検証や分析を行ったのでは、アイデアが実を結ぶ前に芽を摘んだり、アイデアの創造に役立ちそうなグループ活動を停滞させたりしがちである。イノベーションの活性化を目指すなら、組織のあり方を振り返ってみるとよい。アイデアを育てようとしているだろうか。それとも厳しい視線を向けがちだろうか。

●失敗は恥ずべきものとされてきた。男性主体の世の中では、失敗を取り繕ったり非難したりする、あるいは自分の評判を守るために後ろ向きな行動を取るといったことさえも行われる。しかし、失敗を恐れていると、試行錯誤や前向きな変化のチャンスを逃してしまう。

●若年成人層には、〈女神的〉価値観に沿って生きようという心構えがある。調査回答者のうち若年成人層は、男性的、女性的といった区別にあまりこだわらず、人間のあらゆる強みや資質を大切にしようとする傾向が強い。


 引用は以上であります。

 男性女性論、これで出尽くしたかな?
 過去わたしがみてきたリーダーたちも、色んな要因で「男性的」とされる考えに流されたときには恐ろしくいやな人格になり、部下たちによくない態度をとったのでした。ひいては見放され、はっきりと業績が下降したのでした。

 できれば、「男性的」なほうがいいものだ、と思いたいのでしょうけど。自己否定になるからお気の毒ですけれど、男性は20代と40代以降では、まったく別のガソリンで動くのが望ましいのです。


 参考になるかもしれない過去記事

◆男性的リーダーシップと女性的リーダーシップ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51834972.html


◆続・テストステロン

http://c-c-a.blog.jp/archives/51360389.html


◆リツイート感謝。団塊の世代価値観を問う「男のプライド」よのなかカフェ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51753490.html




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『女性資本主義論』(高橋仁、幻冬舎、2014年5月)という本を手に取りました。

 著者は株式会社ジンコーポレーション代表取締役社長。脱毛エステサロン「ミュゼプラチナム」を2002年にオープンし成功させた人らしいです。今回初めて知りました。

 日頃このブログでは紹介しない系の本なのですが今回は例の「オキシトシン」を掲げ当協会の主張とも一部重なっているので・・・、「要おさえ」かな、とおもいました。


 「経済を動かすシステムが確実に変わってきている」と著者は言い、20世紀の価値観を「おっさん資本主義」と名付けます。

 いわく、勇敢さや野心、即断や戦略、競争でできた「おっさん資本主義」。しかしそれが決定的に綻びだしたのが21世紀の現代だとし、その綻びの一例として若者の離職も挙げます。

  強く自信に満ちた態度で競争を勝ち抜き、野心的態度で他者よりも多く利益を手にすることで尊敬され評価されてきたことを、おっさんたちはそのまま拡大再生産しようとしてきたと著者。そうした働き方や生き方をカッコいいものだとも、憧れだとも思わないどころか「あり得ない」ものとして完全否定しているのが今の若者たちだ、といいます。

ーわたしも某所でいいました「おっさん価値観がイヤだから若者は辞めちゃうんです!!」って

 その「おっさん資本主義」にとって代わって台頭してきたのが「誠実さ」「利他的」「共感力」「忍耐強さ」「愛情の深さ」などの「女性的価値観」であるとします。そこで例の「オキシトシン」にも触れ、

 その例にバングラデシュ発のバッグのブランド「マザーハウス」を挙げます。

 「女性資本主義」の担い手は「女性」と、「女性のようにものを考える男性」なのだそうで、
 
 『女神的リーダーシップ』という本では、「むしろ、男が女性的価値観を身に付けることで、より男にとっても女にとってもよいことが増えるだろう」と言っているそうです(この本はまだ読んでないので受け売り。これも読みましょう)


女性が消費の主役になったからそれ向けのマーケティングを、というだけだと目新しくないのだが…、本書は例の「オキシトシン本」と前掲の『女神リーダーシップ』の二冊の出版を背景に新しいタイプの「女性ヨイショ」論を展開しています。


 女性のわたしの立場では言いにくいことを言ってくれている本。

 「男性」「女性」という括りはかなり雑で、おおざっぱな極論を言うと反動がきて淘汰され、という流れになるのでわたしはあまり好きではない。でもこういうことを男性が言ってくれると風よけにはありがたい。

 男性が大半の「うちの会員さん」がたは、どう思うんでしょうか・・・、かれらは例外なく「お父さん」なので男性の中でも幸いにもオキシトシン的なひとたちではあります。風貌はけっこういかつい人もいます。「女」って呼ばれるのはかれらでも今いちなんじゃないかなあ。

「うちの団体」は女性講師が主宰するリーダーシップ教育の機関、という今のところ珍しい形態です。


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 ところで「男性、女性」という括りがでてきたのでひとつ思い浮かんだことを言うと、最近の週刊文春の土屋賢二氏の連載で、

「男性は女性が重大視することを過小評価することで優位に立とうとする」

という意味のフレーズがあって、笑った。

 「女子供は些細なことを重大視する。そんなことに右往左往しないのが大人だ」と男性は考え、女が騒ぐことを黙殺することで自分の大人としての面目を保とうとする。

 その結果が多くのことについての問題解決能力の低さではないのだろうか、とわたしは考える。

 オスとしての自分の能力の高さを証明したければ、女性が「大変だ」ということについて、

「これは本当に大変なことです。われわれも重視しており、一刻も早く対策をとろうとしています」

と真顔で言ったほうが得策だとおもう。とりわけ、民族としてあるいは自治体としての消滅がかかっているような事柄についてはそうだとおもう。

 うちの会員さんはおおむねそういう人たちだな。



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 『未来のイノベーターはどう育つのか―子供の可能性を伸ばすもの・つぶすもの―』(トニー・ワグナー、英治出版、2014年5月)という本を読みました。


 わが子がイノベーターになるかどうかは別として、タイトルの後半、可能性を伸ばすか、つぶすか、というのは多くの良心的なお父さんお母さんにとって大きな関心事でありましょう。


 当協会の会員さん方はもとより、きっとそうした関心をお持ちの方が今の時代にも少なくないと信じて読書日記をつけます。

 例によって印象的だったところを抜き書きし時々それにツッコミを入れたいと思います:


●イノベーションとは「クリエーティブな問題解決法」。

●イノベーションといっても、iPadのような物を作ることとはかぎらない。顧客の扱い方であってもいい。

●中核事業におけるイノベーションとは、主力製品とサービスをもっとよく、もっと賢く、もっと速くすることだ。一方、周縁部でのイノベーションとは、新しいビジネスモデルや戦略を作ることだ。


●とりわけ20代の若者の間では、いわゆる社会イノベーションと社会起業に対する関心が急速に高まっている。優秀な若者を貧困地区に教員として派遣するティーチ・フォー・アメリカ(TFA)のアイデアは、ウェンディ・コップが1989年に描いたプリンストン大学の卒業論文から生まれた。

●イノベーターのスキルとは何か。根気。実験する意欲。計算されたリスクを引き受ける能力。そして失敗への寛容性。さらには批判的思考だけでなく「デザイン思考」。

●デザイン思考者の5つの特質とは、1.共感 2.統合的な思考 3.楽観主義 4.実験主義 5.コラボレーター。


●クリステンセンらによると、独創的な人間の5つのスキルとは、関連付ける力、質問力、観察力、実験力、ネットワーク力。さらにそれらを実行力と思考力に分けることができる。

●まとめると、成功するイノベーターに最も欠かせない資質とは・好奇心・コラボレーション・関連付けまたは統合的思考・行動志向と実験志向。


●ミレニアム世代はイノベーション世代である。イノベーション世代の多くは地球の未来を心配し、より健康な生活を送りたいと考え、お金を儲けるよりも世界を変えたいと考えている。


●この世代にやる気を起こさせるには別のやり方が必要だ。「問題はリーダーシップの欠如だ。確かにこの世代は、いろんな意味で甘やかされている。だが彼らは自分が関われること、自分が興味を持てることを探している。多くは物事に激しく熱中するが、そう仕向けるのは簡単ではない。彼らを何かに熱中させることができたら、並外れた結果が得られる。しかし自動車工場の組み立てラインのようなことをやらせたら、つまりとにかく会社に来て言われたことをやらせようとすると、その仕事に熱中することはない」

●ジェネラル・ダイナミクス(重機械メーカー)の最大の課題は、20代の若者が辞めないようにすることだ。「彼らは私が考えたこともないような質問をする。自分は何に貢献しているのか、自分の仕事のより大きな意味を知りたがる。そして自分の満足のいく答えを得られないと辞めてしまう」


●ミレニアム世代は私たちの未来だ。彼らは今よりも健康で、安全で、持続可能な暮らしを生み出せるし、生み出さなければならない。本人たちは認めたくないかもしれないが、彼らもまた成功するために私たちを必要としちえる。彼らは私たちの知識や経験、手引き、指導、サポートを必要としており、私たちはそれを新しい方法で提供しなければならない。イノベーション世代がイノベーションに基づく経済や暮らしを作るのを本気で応援するつもりなら、私たちは学校、職場、そして子育ての習慣のすべてを変えなくてはならない。


―は〜、ここです。読んでいると人類はイヌからネコになったようです。そして「ネコに対する指導法」をわれわれイヌが学ばなければならない、と言っているようです。すごい無理難題のような気も・・・。しかし、この世代がもはやイヌではないのは、諦めなければならないのでしょう。


●ハーバード大学経営大学院のテレサ・アマビール教授によれば、創造性は専門性、クリエーティブな思考力、そしてモチベーションという3つの要素が絡み合った結果である。なかでも教授は、モチベーションが専門性やスキルよりもはるかに重要だと考えている。「専門性やクリエーティブな思考は個人の原料、つまり生まれつきの財産と言っていい。しかし人が実際に何をやるかは、3つめの要因であるモチベーションによって決まる」


●このあとアマビール教授は外的モチベーションと内的モチベーションの話をする。例の「アメとムチは悪いもので本人が心から打ち込めるのがよいものだ」という話。

うーん…、「オキシトシン」に関する知見を読む限り、「外的モチベーションと内的モチベーション」論でいうところの「内的」モチベーションも結局は両親の愛情や指導者との信頼関係で生まれるもので、厳密に言ったら「外的」に分類されてしまい分類が意味をなさなくなってしまわないだろうか、とわたしは思う。この論は要するに、「本人が一生懸命やっているときに『これができたらお小遣いをあげる』てな水を掛けることを言ってせっかくのやる気をそいではいけないよ」ということを言っていて、それだけを気をつければいいのではないだろうか。外的モチベーションのアメとムチの風景が醜いと思えるのは、勉強したくもない子どもにお小遣いやお菓子やおもちゃで釣ってムリやり勉強させようとするからで、そうしないと勉強しない、そもそも勉強がまだあまり好きではない子は、その年齢の子らしく思い切り遊ばせ、自分の好奇心に沿って行動させてやればいいだけのことではないのだろうか。アマビール教授の論文は1999年のものでちょうど「内的動機づけ、外的動機づけ」の議論がアメリカで流行っていたころだ。最近の「モチベーション2.0」やら「同3.0」はこの時期の議論の流れを汲んでいるようなのだが、「内的動機づけ」をあまりに強調すると、人が人を育てる行為すべてを否定してしまいかねない危険をはらんでいる。赤ちゃんは抱っこしないでも、あやしたりほめたりしないでも育つのだろうか。「チャウシェスク・ベビー」たちはどうなのだろうか。


●内的モチベーションには遊び、情熱、目的意識という3つの要素がある。この3つを親、教師、メンター、経営者がどのように奨励するかによって、若きイノベーターの人生には大きな変化が表れる。

●グーグル創業者のラリー・ペイジやセルゲイ・プリン、アマゾンの創業者でCEOのジェフ・ベゾス、ウィキペディアを立ち上げたジミー・ウェールズ、料理研究家のジュリア・チャイルド、ラップ歌手のP・ディディことショーン・コムズらは、みな遊びを通じて学ぶモンテッソーリの学校に通っていた。

●「情熱」「根気」に関するスティーブ・ジョブズの言葉。「かなりの自信を持って言えるのだが、起業家として成功するかしないかの半分は、根気で決まる。・・・だから自分が情熱を感じられるアイデアや課題、あるいは正したいと思う間違いを見つけなくちゃいけない」

●「目的意識」についてのイノベーターたちの言葉。イノベーターたちが自分の動機を説明するとき使った言葉はみな非常に似通っていた。ジェフ・ベゾスは「歴史を作りたい」、スティーブ・ジョブズは「世界をあっと言わせたい」、スカイプの共同設立者ニクラス・ゼンストロームは「世界をよりよい場所にするために破壊的になりたい」と語った。・・・変化を起こすという使命感を持つと、リスクを引き受けたり失敗を犯したりするのはずっと楽になる。

●私が話を聞いた若きイノベーターたちの人生には、遊びが情熱、そして目的意識へと進化していく線がはっきり見えた。彼らは子供時代に大いに遊んだが、その遊びは多くの子供の遊びと比べると極めて無秩序なものだった。・・・子供時代のこうしたクリエーティブな遊びを通じて、彼らは情熱を傾ける対象を(多くは青年時代に)見つけた。しかしその情熱を追及する過程で、関心の対象が変わり予想外の変化が起きる。それは新たな情熱を育み、時間が経つにつれて、より深く成熟した目的意識へと発展していく。


●物事を学ぶ過程で失敗が果たす役割について、オーリン大学のある学生はこう言っていた。「『失敗』という考え方はしない。これは『繰り返し』だ」


●だが若きイノベーターたちは、こうしたことをたったひとりで学んだわけではない。その過程で親や教師やメンターなど、少なくともひとり(しばしば複数)の大人のサポートを受けていた。・・・彼らはそれぞれ静かな方法で、普通の親や教師やメンターとは違う行動を取って、目の前の若者が普通とは違う考え方をできるようにした。


●ビジネススクールはイノベーターの訓練をする場ではない。「戦略を教わると、価値を生み出すことと、他人が作る価値をとらえることが非常にうまくなります。ここで『とらえる』とは、オレンジからもっとジュースを搾り取るということで、すばらしいオレンジを育てることではありません。・・・よりよいオレンジを育てるには、考え方を変えなくては」(アップルのジョエル・ボドルニー副社長)


●イノベーターの親たちの実践。子供が自分の関心にふけるに任せておく。注意深く、思いやりがある(つまりいい人間である)かぎり、子どもは実験でも探検でも好きなだけやっていい。

●自由と秩序のバランス。「親としていちばん重要なのは、子供の意見を尊重して耳を傾けること。でも自由にさせすぎないことも重要で、限界、境界線、秩序は重要です。ただしそれが多すぎると、つまり従順にさせようとすると、クリエーティブな衝動を殺しかねない。むずかしいのは、権威への敬意と、建設的な関与や建設的な反抗のバランスを取ることです。強くなることを教えつつ、越えてはいけない壁を与えること。イノベーションは不服従と切り離せませんが、イノベーターになって銀行強盗をしていたら始まらない」

―非常にむずかしいこと。親としてこのバランスができている人を見たことがない(もちろんわたし自身はできていなかったと思う)。子供の気質にもより、大人しく親の意向に沿いがちな子供であると、その子に秩序を教え込み波乱のない家庭生活を送れることが当たり前になってしまいやすいだろう。わたしの子はあまり従順ではなかったので、衝突ばかりしていたけれど―。

●私が話を聞いた親の多くは、子供のスケジュールをいっぱいにせずに、自由な遊びと発見の時間をたっぷり与える重要性に言及していた。彼らはみな子供たちと時間を過ごしたり遊んだりするのを楽しみつつ、「ヘリコプター・ペアレンツ」にならないことが重要だと理解していた。

―これだけは、わたしはできていたような気がするが―、一番上の子供が熱中型で自分の意志で何かをやり通すのが好きな子だったので、彼女の意向を尊重しているうちに自然とそうなったような気もする。逆にお母さん向けのコーチングセミナーなどをすると、なんとわが子のすべての曜日に異なる習い事を詰め込み、疲弊しきっているわが子に「もっとがんばれ」とムチをふるう道具としてコーチングをとらえるお母さんが多い(とりわけ芦屋などではそうだ)ことに愕然としたのでした

●「仕事ができない人を見ると、秩序的すぎる人生を送ってきたんじゃないかと思います。いつもAを取ることや次のレベルに引き上げてもらうことを追い求めてきたから、自分が興味のあることを突き詰めたり、物事をクリエーティブにやる時間がなかったんじゃないかな、と」

―これは鋭い指摘。よくわたし自身もこれと同様の感慨をもつ。恐らく、わたしと同年代か少し下の年齢層の人たちに、つまり塾へ行くことが一般化した世代の人たちに間違いなくそれはある


●おもちゃは少ないほどいい。イノベーターの親たちの意見はこの点で一致している。与えるとすれば、想像力と発明を促すおもちゃにすること。LEGOで育ったイノベーターは多いし、「スカーフ」をおもちゃにしていた子もいる。ある子は大きな段ボール箱1個と棒が2本、それに2本のロープを5歳の誕生日にもらって何年も同じもので遊んだ。


●スクリーンタイム(TVを見たりコンピュータを使う時間)も少ないほどいい。イノベーターの親たちはスクリーンタイムを慎重に制限していた。子供たちのほとんどは年齢が上がるまで自室にコンピュータを置いていなかった。週末には家族で映画やテレビ番組を見ていた。

●遊びとしての読書。親たちはほぼ全員、子供に頻繁に読み聞かせをしていた。ある親は毎日、学校の宿題とは関係のない本を読む時間を必ず設けていた。読書の習慣は集中力という筋肉と、自発的な学習の習慣を育むようだ。


●子どもたちが情熱を傾けることを見つけさせることを親たちは重要な仕事だと認識していた。しかし多くの親は、子供のスポーツや音楽の習い事をさせているとき、どの程度子供に厳しくやらせ、どの程度子供に任せるべきかは苦悩の種だった。

●子供に嘘の賛辞を与えるべきではないと主張する親もいる。「子供がやりたいことをサポートするのは重要ですが、子供が上手かどうか正直なことを言うのも重要です。上手ではないのに上手だなんてほめるべきではない。物事を上手にやるのは大変なことなんです。・・・何かを本当に上手にやれたことに満足する経験を、人生のどこかですればいいのです」

●イノベーターの親たちの多くが周囲の親と違う子育てをしていることに悩んだと言及した。若きイノベーターの親になることは勇気と自信がいる。必要なのは信じることだ。まず親としての自分の直感、判断、価値観を信じること。また子供を信じること。自分の親としての権威を見直すことも重要だ。子供の活動にどんな制限を設けるか、どこまで子供の自主性に任せ、どこからダメと言うべきか。・・・

●イノベーターを育てるために企業は何をすべきか。「組織内で情報の自由な流れを確保することはイノベーションを促す上で決定的に重要です。トップダウン式の経営は新しいアイデアが生まれるのを著しく制限する傾向があり、会社に『集合知』が生まれるのを阻害します」


●ある研究によると、会社の規模にかかわらず、平均的なアメリカ人従業員のアイデアが採用されることは6年に1度しかない。


●「イノベーターは管理されるのが嫌いです。彼らは自分が尊敬する人と働き、自分が心からおもしろいと思う顧客の問題を解決したがる」

●「アップル社の人たちにインタビューすると、いちばん驚くのは、誰もが問題解決や面白い問題に取り組むことがとても重要だと考えていることです。」


●対面の手仕事の業種にもイノベーションの種がある。米家電販売大手ベスト・バイでは若い従業員がイノベーションを生み出す能力を活用した。同社は従業員の才能を見極め、店内の仕事の種類を大幅に増やした。「ほとんどの人は職場に貢献できるユニークな特性を持っていますが、それを生かすには正しい環境とリーダーシップが必要です。自分のシステムではなく、自分のために働いてくれる人を中心に事業を構築する必要があります」


●軍もイノベーターを必要とし、訓練体系を変えた。米陸軍では新しい訓練の全面的実施時期を2015年とし、ほ教室での授業の大部分をファシリテーションによる問題解決活動に変えることなどを提言した。


●シスコシステムズの幹部養成プログラムは、「教える」のは10%で、90%は新規事業を立ち上げて問題を解決する過程で学ぶ。
このほか、
「企業幹部としての能力を高めるには、新しいことを学ぶこともある程度必要ですが、自分がどういう人間で、何を重要と考えていて、なぜこの地球上にいて、その深い理解をどうリーダーシップに反映させるかを考えることが圧倒的に重要です」
「ビジネスはハードなゲームです。成功するには非常にタフでなければいけません。自分のこと、つまり自分が持つ偏見や自分が育った文化が持つ偏見を知れば知るほど、よりよい決断が下せるようになります。思慮深い幹部のほうが、部下の人生に自分が与える影響を正しく評価でき、より慎重な決断を下せるでしょう」


●イノベーションは極めて破壊的な性格のものであり、伝統的な権威にとっては新たな脅威となる。このため独創的な事業を成功させるには、今までとは違う権威が必要だ。『イノベーションのジレンマ』はゆるぎない自信を持つアメリカの一流企業のCEOたちが、優れたイノベーションの将来性を見抜けず投資を拒否した例を挙げている。こうした企業のほとんどは、今では存在しない。

●本書では、イノベーターの教師が自らの権威と指揮権を手放し、「教壇上の賢人」から「寄り添うガイド役」になることが必要不可欠であることを見てきた。イノベーターの親も同じように伝統的な権威を捨てて、子供が自分で探求し、発見し、間違いを犯す(さらには失敗する)余地を与える。また独創的な企業は現場の従業員と情報をシェアし、現場からのインプットを求めている。

●イノベーションを成功させるのにも権威は重要だが、その権威は地位や肩書に伴うものではなく、何らかの専門性に由来する。相手の話に共感しながらじっくり耳を傾ける能力や的確な質問をする能力、優れた価値を形にする能力、仲間が才能を発揮するのを助ける能力、そして共通のビジョンを作り、グループで実現責任を負う能力が権威をもたらす。それは仲間をエンパワメントする権威だ。あなたが親であれ、教師であれ、司令官であれあるいは雇用主であれ、誰かをイノベーターに育てるには、自分の権威の根拠を見直す必要がある。この新しいタイプの権威を担うのは、ファシリテーターではなくコーチだろう。イノベーターはあらゆる年齢と段階で優れたコーチングを必要とする。


―長い引用の締めくくりに「コーチング」という言葉が出てきました。
 「内的動機づけ」が重要だということに同意するのにやぶさかではないのだが、それは単独で存在し得るものではない。上位者からの”絶妙な介入”がかならずあるのであり、その絶妙な介入方法がコーチングだ、と最後はそういうことを言っているのです。
 また本書には「承認」という語は1回も出てきませんが、アメリカのこの手の本を読むときわたしはいつも「暗黙の前提」「暗黙の了解」を省いて書いているのだろう、と思うのでして、「肯定的な視線」はかならず必要なものです。「若きイノベーターの疑問、破壊、不服従を受け入れ歓迎し祝福する」という姿勢は承認そのものであります。とりわけいつも書くように、不安感が高く信頼感が低い日本人には、上位者からのあたたかい視線、「思ったとおりやれ」という愛情ある揺るぎないメッセージ、すなわち「承認」は必須のものです。


 教育でもマネジメントでも、きわめて真摯な思考の末に「これしかないでしょう」と帰結する結論が「コーチング」である、ということはよくあります。このところ「コーチング」を「週末起業コーチング」と混同されるのがイヤで、封印しようかと思っていたわたしですが―、
 多くの人がそうした丁寧な思考を経ずに「あ、コーチングですよね」と言い、従来品の高踏的な先生、あるいは面白おかしい系の先生、ナルシスティックな先生、といっしょくたにされてしまうことが残念です。
 「ビジネスですよね」と言われてしまうことも非常に遺憾で、とはいえわたしも食べないといけないのですけれども。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

「私たちは生物学的な存在であり、私たちのいっさいは生物学的なプロセスから現れ出てくる。生物学的作用は、自然選択を通して、適応性のある行動に報い、それを奨励する。」


 先日このブログで「わが社の教育は生物学」のような記事を書きましたが(「『化ける』教育、生物学が教養なわけ―『池上彰の教養のススメ』」)

 そこにちょうどこんなフレーズに出会いました。

『経済は「競争」では繁栄しない―信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と共感の神経経済学』(ポール・ザック、ダイヤモンド社、2013年8月)という本です。出版すぐに読まなかったのは痛恨の極み。


 ここでは、オキシトシンという物質がわたしたち人間の信頼や共感をつかさどり、それが道徳的なふるまいや良い人間関係や経済的繁栄にまでつながることを述べています。


 某団体の教育に新たな理論的支柱が加わったかな、というお話ですね。ただものの性質上、大人が読むとついにやりとしてしまう箇所が随所にあります。著者ポール・ザックは神経経済学者で、オキシトシン研究の大家。TEDでの魅力的な講演再生回数は20000回を超えたとか。


 印象的だったところをご紹介しましょう。


●オキシトシンは、信頼の合図を示されたときと、かつては「同情」と呼ばれ、今では「共感」と呼ばれるものを何かに(例えば可哀想な子どもの映像に)引き起こされたときのどちらか、あるいは両方の場合、どっと分泌される。オキシトシンが急増すると、人はいつもより優しく、寛大で、協力的で、思いやりのある行動をとる。

●オキシトシンの報いは、健康や幸せの増進、そして信じがたいかもしれないが、経済の繁栄まで多岐にわたる。

●社会が成功を収めるか、貧しいままでいるかを決めるもっとも重要な要因は、天然資源の有無、教育や医療の優劣、あるいは国民の勤労意欲の程度でさえないことを実証した。経済的な結果を決めるうえでいちばん重要なのは、じつは信頼性、つまり道徳的な要件なのだ。

●オキシトシンの作用は相手を盲信してしまうことではない。適切な刺激が与えられれば相手を信頼して絆を形成するが、その刺激が消えてしまえば、慎重な状態にさっさと戻る。オキシトシンは、そのような微妙なバランスをとるのを可能にする、反応のすばやい分子だ。


●オキシトシンは母親の母性行動を引き出す。オキシトシンが働くと、苦痛を感じることも気が散ることも減り、母親の務めを果たし続ける。

●しかしそういう母親にオキシトシンの作用を阻害する薬を与えると、自分の子どもでもまったく顧みずに死なせてしまう。悲しいことに、これと同じ現象が人間にも見られる。コカインを吸う母親や、ひどい虐待を受けているため、ストレスホルモンによってオキシトシンの働きが妨げられている女性の場合がそうだ。

●プレーリーハタネズミでは、オスの脳の報酬領域に並ぶオキシトシン受容体の数が多いので、オスは一生群れで暮らし、一雌一雄制を守る。近縁種のアメリカハタネズミのオスは群れを嫌い、メスに不誠実。

―動物にも「おしどり夫婦」になるものとそうでないものがいるんですね。

●オキシトシンの分泌はほかの二つの神経伝達物質「ドーパミン」と「セロトニン」の分泌を誘発する。セロトニンには、不安を減らして気分を良くする効果がある。ドーパミンは目標志向行動や衝動、強化学習にかかわっている。ドーパミンによって、生物は報酬が得られるように動機づけられ、そういう行動を続けることが快感になるのだ。

―これは示唆的ですね。当ブログに繰り返し出てくる、「目標設定と達成は大事だが、ほとんどはその前提として何かが大事。それがないと目標設定まで行き着かない」というのに通じます。オキシトシンとセロトニンとドーパミン、似たようなもののように思っていますがオキシトシンが「親玉」のようです
―本書ではオキシトシンが分泌されたときに信頼や共感と同時に現れるとされる「問題解決能力」については説明していませんが、それはセロトニンとドーパミンの分泌によって説明がつくかもしれません。セロトニンによって行動することに対する恐れの感覚が取り除かれ、またドーパミンによって行動の結果与えられる報酬への期待も高まるだろうからです


●ハグやマッサージはオキシトシンを高めるのに効果的。

―マッサージはいいけどハグはわが国文化では、うーん、どうかな(^^;


●同情心はオキシトシンを上昇させる。病気の子どもについての胸の痛むような詳細が描かれたクリップを見た人たちは、オキシトシンのレベルが基準値から47%も上がった。


●ミラーニューロンは他人の行為を見ているとき同じ行為をするニューロンが発火する。特定の種類の情報については、脳は私たち自身とまわりの人たちとの間にある障壁をあっさり取り壊すので、私たちはまわりの人たちを自分自身と同じぐらい大切に扱いたくなる。


●私たちが目にする状況や学ぶ状況のせいで、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもする」とき、それは一つには、人の快感や苦痛をまるで自分自身のものであるかのように、文字通り経験しているからなのだ。


●共感の4要素。
 1つ目は共有感情で、他者の感覚や行動をなぞる現象や共経験をひと言で言えば、この共有感情ということになるだろう。
 2つ目は自己とは別個の存在として他者を認識することで、これは「心の理論」と呼ばれる認知的能力だ。この能力は、人間では2歳ごろに現れはじめる。私たちは鏡に映った自分を認識しはじめるのと同じころ、母親は自分のたんなる延長ではないということを知り、ほかの人たちは自分のものとは別個の思考や感情を持っているということを理解しはじめる。
―うん、大事ですね、「女の人に甘えない」ということは(きっぱり)
 3つ目は、他人は自分とは違うにもかかわらず、他人の身になる心的柔軟性だ。
 4つ目は、適切な反応を示すのに必要な情動的自己規制で、これは前頭前皮質が発揮する、「実行機能」と呼ばれる特別な能力に依存している。
―先日このブログで「ワーキングメモリ」をとりあげましたね


●「HOME」回路。Human Oxytocin Mediated Empathy(ヒトオキシトシン媒介共感)回路。オキシトシンは、自らが分泌させる二つの快楽神経化学物質セロトニンとドーパミンとあいまって「HOME」回路を作動させる。ドーパミンは相手が感謝の笑みを見せるような「他人に優しい行動」を強化し、セロトニンは気分を高揚させてくれる。このHOME回路があるからこそ、私たちは(少なくともたいていの場合)道徳的な行動を繰り返すのだ。

●人間はさまざまな影響にさらされているので、よくも悪くもなりうるが、安定した安全な状況では、オキシトシンのおかげでたいてい善良だ。オキシトシンは共感を生み出し、共感が原動力となって私たちは道徳的な行動をとり、道徳的行動が信頼を招き、信頼がさらにオキシトシンの分泌を促しオキシトシンがいっそうの共感を生み出す。これこそ、私たちが「善循環」と呼ぶ行動のフィードバック・ループだ。


●ストレス・レベルが高いとオキシトシンの分泌が妨げられる。他人の苦悩を目にすると、私たちは注意を惹かれ、相手の経験していることの一部を経験する。それがオキシトシンの分泌につながりうるが、自分自身の苦悩が特定の閾値を超えているとそうはならない。

●私たちは子どもやかわいい動物は進んで助ける。一つには、何が原因で困っていようと、彼らのせいではないのがわかっているからだ。相手がホームレスの大人や薬物常用者となると、私たちはそこまで情け深く寛容にはなりづらい。

―後半は人によって異論もあるかもしれませんが―、「子ども」ではなくて「若者」ではどうなん?とか「スマホに取り込まれた若者だとどうなん?」とか、色々バリエーションがあり得ます 


●スポーツやゴシップ話は信頼を強める。男性はスポーツの話題を好むが、これも目的は人間的な絆を強めることだ。

●カウンセラーは、クライアントの姿勢を真似ると、そのときのカウンセリングをクライアントが高く評価することが多いのを知っている。身体的な人まねがたくさん見られるクラスは、学生自身も互いの親密さを高く評価するという観察結果がある。


●コーチやCEOなら誰もが目指しているもの、すなわち、全員が同じ目標に狙いを絞って同じことを同じやり方で考えている状態を達成するために、認知的な側面が情動的な側面と手を結べる。心理学者はこれを「共認知」と呼ぶ。それは、誰かの仕草や動きが何を意味し、何がその目的で、現在・過去・未来のほかの行為や出来事とどう関係しているのか、瞬時に悟る能力だ。

―そんなことできるのかと思うかもしれませんけれども最近のこのブログにもそういう状態の職場が出てきましたね


●男性ホルモンのテストステロンはオキシトシンと拮抗する(逆方向の)役割を果たす。テストステロンは好色さや暴力性と結びついているが、もうひとつ、違反者を罰したいという衝動と結びついているらしい。テストステロンレベルが上がったときのほうが、他人を罰する可能性が2倍も高かった。


●テストステロンのジェルを塗った被験者は、最後通牒ゲームでプラシーボを塗ったときと比べ27%気前が悪くなっていた。テストステロンはオキシトシンが受容体に結びつくのを妨げ、それが「善循環」にブレーキをかける。


●信頼されていないことでひどく腹を立てた男性は、ジヒドロテストステロン(DHT)が急増していた。DHTはテストステロンのいわば「ハイオクタン版」で、攻撃性と関連した脳の古い領域を刺激する。脳に与える効果という点で、DHTはテストステロンの5倍ある。そして、攻撃性を解き放つだけではなく、ドーパミンを増やす。すると、攻撃性に快感を覚える。

―サディズムはこうして生まれるのか。怖いですね。DHTが分泌されやすい人はサディストになりやすいのかな?


●テストステロンとドーパミンの組みあわせは反HOMEであり、「優しくしない」ことを強化する完全なシステムなのだった。私はテストステロンとドーパミンのこの脳回路を、”Testosterone Ordaimed Punishment (テストステロンに命じられた処罰)”の頭文字をとって「TOP」と呼んでいる。偶然ながら、TOPは自分が社会階層の「トップ」にいると考えている男性によってしばしば使われる。


●「公共財ゲーム」を使った実験では、厳罰主義のクラブBは最終的に大金を稼ぎ、やりたい放題のクラブAの資産はゼロになった。善に報いるだけでなく悪を制裁することによって向社会的行動を奨励する制度が最高の見返りをもたらすことがはっきりした。

―秩序は性善説だけでは維持できない、という例ですね。


●女性のほうがリスク回避傾向が高い。女性のほうが男性より多額の生命保険をかけ、安全な運転をし退職後のための資金を用心深く投資する。

―わたし自身は残念ながらこれと一致しないですが、少し前の「女性役員が会社を滅ぼす」という報道を考えあわせるとおもしろいかもしれませんね。男性がヒロイズムでばかげた投資をすることがあるかもしれないし、女性はリスクを避けすぎるかもしれない


●女子学生のサッカー選手は、強敵との試合前にテストステロン・レベルが上がり、勝った後も高いレベルが何時間も続いたという調査結果がある。


●多少の競争は好成績につながりうる。適度の競争の適度のストレスは、じつは私たちのためになる。集中力が増し、記憶力と認知的能力が高まり、明確な目標が定まる。ほどほどのストレスはオキシトシンの分泌も促し、そのおかげで私たちは自分の社会的資源を利用するように動機づけられる。


●頻繁に大勝ちすると、その人はテストステロン漬けになり、それが害を招きかねない。長いあいだ、いつもかならず競争に勝っていると、テストステロン特有の醜悪で典型的な男性的行動が強化されることがある。

―ですって、○○さん^^


●人はトップに立つと、嫌な人間に変わるらしいのだ。組織を調べてみると、罰当たりな言葉を吐いたり、不謹慎に戯れたり、とげとげしくからかったりという、ひどく無礼で不適切な行動は、役員室で不釣り合いなまでに多く見られる。高い社会的地位を獲得すると、孤独になるだけでなく、道徳的にも危うくなるらしい。

●権力の座にある人は、視線を合わせることがずっと少ない。少なくとも力のない人(女性の場合が多い)が話しているときは、そうだ。


●オキシトシンと共感が減ると、他人はよそ者や敵となり、さらに劣等者や悪魔に変わる。テストステロンに力を発揮させ、共感を減らし、罰したいという欲求を募らせるには、自らの集団の存続に対する外部の脅威をでっちあげればいいのだ。


●内集団と外集団の区別のせいで、共感が抑えられ、非常によくない事態になる場合があるのは、一つには、私たちが群衆に従うとドーパミンのシステムが作動して、集団浅慮や服従が快くなるからだ。高いテストステロン・レベル、権威への服従、集団の圧力、人間性を喪失させる抽象概念といった要因が合わさると、1930年代・40年代のナチスの狂気や、19世紀のコンゴにおけるベルギー人の蛮行などにつながる。ベルギー人たちは、ゴムのプランテーションの収穫が少ないと、罰として労働者の子どもたちの手足を切り落とした。


●男性のテストステロンは30歳ごろから自然に減りはじめ、男性は歳をとるにつれて攻撃性が薄れ、共感的になるので、女性の閉経期に相当する男性の更年期に入ると、罪を犯す可能性が年齢とともに減っていく。だんせいは30歳ごろに前頭前皮質の配線がようやく完了し、脳の実行機能が向上して、衝動を抑えるのがうまくなり、慎重さが増す。


●男性が一人の女性とだけの関係を確立したときにも、テストステロンの効果は弱まり、その女性とのあいだに子どもができると、テストステロン・レベルはさらに下がる。


●より多くの共感を持った男性を子どもの養育にもっとかかわらせることには、ほかにも利点がある。子どもがすっかり共感的な人間になるのにはオキシトシン受容体が必要で、それを発達させるのに欠かせない、愛情に満ちた注意の量を男性が増やせるからだ。


●その逆も起こりうる。機能不全に陥った親は、共感能力が乏しい傾向にあり、その結果、子どもはストレスを抱え、傷つく。そして、十分なオキシトシン受容体を持たずに育って共感能力が乏しい大人となり、新たな悪循環が始まるのだ。

―よくわかります。働いている人でも共感能力が一定レベル以下の低い人は、わたしは「問題解決能力が低い人」とみなして相談ごとをもちかけない傾向にあります。遺伝だろうか家庭環境だろうか、と思います 一定レベル以上共感能力の高い人はたぶん一定以上の家庭教育を受けてきているのでしょうが、今から育つ大人の中に果たしてどれほどそういうひとがいるのだろうか・・・


●テストステロンのほか、虐待などのトラウマを抱えた人もオキシトシンが分泌されず、人を信頼する行動を起こしたり信頼に応える行動を起こしたりすることができない。

●「無条件非返礼主義者」というタイプの人が5%ほどいて、この人たちはなんと過剰なオキシトシンが検出された。日頃から過剰なオキシトシンが分泌され、刺激を与えられても新たなオキシトシンが分泌されない。HOME回路は総体的なオキシトシンのレベルに反応するのではなく、直近のレベルの急上昇に反応するのだ。オキシトシンによって脳が活性化しないので、共感や互恵関係が生まれない。この状態を「オキシトシン欠乏障害(ODD)」と呼ぶ。なぜなら、彼らはオキシトシンを分泌すべきときにまったく分泌しないからだ。


―おもしろい知見。見るからに福々しい人格円満そうな人が、気の毒な人の話になんら同情心を起こさなかったりすることがありますね。一見人格のよい人の奇妙な鈍感さを説明できるのでうれしくなりました


●ストレスには慢性と急性の2種類があり、どちらもHOMEシステムを妨げる。急性のストレスは「エピネフリン」というホルモン(別名「アドレナリン」)の分泌を促し、このホルモンが闘争・逃走反応の準備を整えさせる。エピネフリンは心拍数と血圧を上げ、呼吸を速める。このホルモンのレベルが高まると、嘔吐や失禁を引き起こすことさえある。慢性のストレスでは、コルチゾールが分泌される。行動を起こすようまず一撃を与えるのがエピネフリンなら、次に登場するコルチゾールは、上昇した心拍数と血圧と速くなった呼吸をそのままに保つ。現代によく見られる軽度でかつ持続的な不安によってこの適応の機能が作動した場合、高い心拍数、高血圧、高グルコースなどの反応が継続したままになり、じつにさまざまなかたちで有害に働く。具体的には、心臓病や糖尿病を招くだけでなく道徳的な行動にも障害を起こす。

●エピネフリンとコルチゾールのどちらのレベルが高まっても、オキシトシンの分泌が抑えられ「善循環」が阻まれて共感が弱まり、他者への積極的な気遣いなどどこかに飛んでいってしまう。


●過度のストレスを受けてコルチゾールが多量に分泌されると、もっと有害な結果にもつながる。長期的な「共感疲労」になりかねないのだ。


●コルチゾールの致命的な影響力を解き放つのは、不満が募ったり社会的に下位に置かれたりすることによって生じる、内にこもった怒りであることが判明している。「タイプA人格」の人はそれに比べると幸福度が高い。

●健康と幸福にとって最悪なのは、責任が重く権限が小さい職であることがわかった。これらの中間層の職では、強いストレスがかかったときに分泌されるコルチゾールの供給スイッチがしばしばオンのままになる。

―介護や医療の人たちはこれに当たるでしょう。また中間管理職の人もそうかな・・・


●社会的に低い地位にいるという屈辱と、現実の経済的な不安定状態とが合わさると、苦境に立たされているという感覚によって、オキシトシンの働きを妨げるジヒドロテストステロン(DHT)が一気に分泌されることもある。最近の政治論議が二極に分裂しがちなのも、一つにはこのせいだろう。怒りと、共感の欠如のせいで、じつに安直に相手を責めたり非難したりそいうネガティブなループが生み出される。

―ヘイト・スピーチをする主もニートとかワーキングプアの人だとききました・・・


●オキシトシン欠乏障害(ODD)の特徴の一つは、恋愛関係を維持できないこと。


●自閉症の人は最後通牒ゲームをやってもらうと、28%の提案額がゼロだった。対照群で同じ選択をした人は、3%だけだった。さらに、自閉症の人は低い提案額を受け入れる傾向がある。

●自閉症の治療法でオキシトシン注入は効果が薄い。オキシトシン受容体の数を増やすというアプローチは有効そうであり、齧歯類では有効性が立証され、人間での臨床試験に入る段階になっている。


●社会不安障害もオキシトシンのアンバランスが関係しているかもしれない。この患者もオキシトシンの基準値がはるかに高く、彼らの体もすでにオキシトシンであふれていたので、刺激に対してオキシトシンの急増という反応ができなかったのだ。


●気分安定薬「リチウム」によってもオキシトシンが増加するようだ。2009年に日本の研究者たちが報告したところによると、飲み水にリチウムが自然に含まれている地域では、自殺率が低い
という。

●MDMA(通称「エクスタシー」)というドラッグがオキシトシンの分泌を引き起こすことがわかった。このドラッグ使用者がみんな大好きという感覚を持つのはおそらくこのためだろう。残念ながらMDMAは、ほんの少し服用しただけでも脳に恒久的なダメージを与えるようで、それが鬱や不安、認知障害につながる。

―某アーチストもMDMAをやっていましたっけ・・・


●オキシトシン欠乏障害の極端なものが、精神病質者だ。精神病質者には認知のレベルでは驚くべき社会的能力があるが、問題は、とにかく自己本位で他人のことなどおかまいなしである点だ。共感が欠けているので彼らは他人を物として扱い、それでも認知的技能のおかげでまんまとやりおおせている。


●信仰によって思考が歪められると、ちょうど経済学あるいは優生学によって思考が歪められたときのように、モラル分子が機能を果たせなくなる。モラル分子の仕事は、私たちを「善く」するというよりむしろ、私たちがもっとも適応性のあるかたちで身近な環境と調和を保てるようにすることだ。それはたいてい、向社会的にふるまうことを意味する。
 とても信心深い人は、他人の中に善を見たり、他人の要求に合わせたりしようと一生懸命になるあまり、自分が相手をしている人がよからぬことをたくらんでいるのを警告するサインをときおり見落としてしまう。これでは適応性があるとはいえない。

―ここも非常に示唆的な内容。正田は「承認」をいう一方必要なばあいは叱責もOKと言っているし、できるだけ「リジッドな運用」に陥らないよう注意喚起しています。リジッドだと結局それは何か重大な情報の見落としを産むから。
 またスタンダードなコースの教育のかたわら、「判断をゆがめるものとの闘い」シリーズをやって、人々のバイアス、ヒューリスティックス、ステロタイプをできるだけ排除するよう努めています。
 いつも悩ましいのは、当協会方式の教育と何らかの他社方式が干渉しあうことで、狙いどおりの成果を産まないことがあるのです。他社方式やネット上の情報などでも、何かリジッドなものと混ざったときは良くない結果となります。信仰もひょっとしたらそのひとつです けっして宗教を批判してるんじゃないですよ


●ダンスはオキシトシンを増やすのに役立つ。2時間のダンス後にオキシトシンが平均11%増えていた。またダンスの前後に被験者に社会的な位置関係図をみせ、自分が該当すると思われる箇所に×印をつけてもらったところ、オキシトシンの分泌量が多い人ほど、グループ全体の中心に近い位置に×をつけた。ダンスのあと、他者への親近感は平均で10%増した。

―この効用は予想どおり。というかNHKはここ数年これを企んでいるのじゃないかと思うぐらい、近所の人や職場の人同士で踊る番組をやっていますよね


●瞑想はオキシトシンを増やせるか。教会での瞑想前後では、グループのほぼ半分の人に極端な増加が、残る半分の人に極端な減少がみられた。黙想しながら座っていると、近しさが増したように感じられる人もいれば、退屈という注意力散漫状態に陥る人もいるようだ。少なくともストレスホルモンを誘発する副腎皮質刺激ホルモンが全体としては7.3%減少した。参加者は黙想のあと、仲間の会員に対して前より平均で7%親密に感じ、平均で4%「何か自分より大きなもの」に近づいたと報告した。

―これも結構予想どおり。このところブログで瞑想の効用を紹介することが多いですが、かなり好みが分かれるのではないかと思います。向いてる人は向いてるし、わたしは何回かトライしましたが挫折したくちです。さまざまな瞑想実験で報告される効用というのは、ひょっとしてオキシトシンが分泌される効用と言い換えられるのかな?


●宗教的な儀式に出るとポジティブな結果が体に現れる。オキシトシンの分泌によってセロトニンの分泌が促されて、不安が和らぎ、気が静まり、ドーパミンのせいで「やみつき」になる。つまり、繰り返しそうしたくなる。


●宗教的儀式は共同参加によりオキシトシン分泌を促す。しかしそれは強い内集団バイアスを産みかねない。
士官候補生と福音主義者にそれぞれ信頼ゲームをやってもらったところ、強い内集団バイアスを見せた。


●自分の属する集団のメンバーだけを愛すると、経済的ペナルティーを科されることになる。福音主義者は部外者を信頼する度合いがかなり低かったので、信頼ゲームのあと持ち帰った金額はROTCの士官候補生たちよりも9%少なかった。


●どんなかたちであろうと、見られているという自覚を持たせておいた方が、人は善い行動をすることが研究からわかっている。


●じつはキリスト教は、何十という多様なアプローチをとりながらボトムアップ型の道徳的な力として始まった。のちに権威主義的な人々が勝利し、階層的なローマ・カトリック教会に変身した。それでも、ボトムアップ型という考え方は、キリスト教が打ち出したもっとも重要な新機軸として残った。キリスト教は、どんなに卑しく、どんなに権力者や富裕層から侮蔑されている人も差別することなく、万人に神の愛を差し伸べた。

―ボトムアップ型。やれやれ・・・、
ちょっと話題をすりかえますが正田が若者や女性、弱者のために発言すると、こんどは「人権派ですか」「左翼ですか」というひとがいます。いや、最近の国際調査で「子どもの貧困」でランキング低いでしょー。弱者をかわいそうだと思う自然な気持ちが湧くのは、要するにオキシトシンの作用なんだと思うけれど、それに変なレッテルを貼るほうが変なイデオロギーですよ かわいそうと思うほうが人間らしいんですよ もう団塊イデオロギー引きずっちゃダメっすよ さっきも言ったでしょ、リジッドだと適応できないよって
この際だから言いますが あたしの恩師は安保から転向した右翼の論客だったし、文革や紅衛兵のばかばかしさはさんざんならってきたんで、イデオロギーの文脈にはまらない路線選択は慎重にしてきましたからね 効果が高いのがおもしろくないと本当に変な悪口考え出す人がいるよね


●自分のことを信心深いと思っているこれらの人々は、人生の満足度や精神的な健全性でも最高値を記録した万事を最善の結果につなげるのに決定的に重要な要因は、イエスからジョン・レノンに至るまで、さまざまな教祖が強調している。必要なのは「愛」だけなのだ。


●「リキッドトラスト(オキシトシンスプレーをうたう商品。正田も通販で買ったことがある)」はでたらめ。オキシトシンは処方薬なので市販薬では売れない。


●寛容さと信頼は、平均収入とほぼ足並みをそろえて増していく。


●取引が引き起こす「善循環」は、人に代わって利益が関心の的になったときにはいつも先細りになりかねない。「プライミング」(暗示)の実験で、お金を一瞬見せられお金について考えるよう仕向けられたグループは、他人を助けたり、他人に助けを求めたりする度合いが低く、一人で物事をこなす可能性が高まった。また、面接のために椅子を並べるように頼まれると、お金について考えるようにプライミングされたグループは、他人とのあいだに物理的に大きな距離を置いた。


●「意識の高い資本主義(conscious capitalism)」を実践する企業はこの10年で1026%の収益率を記録している。(「ビジョナリー・カンパニー」の収益率は331%)
 彼らは、最初に答えるべき疑問は「あなたの目的は何か?」であるという前提で始める。すると自分が実業界に身を置いている唯一の理由はお金儲けであるという前提の妥当性を問うことができる。


●意識の高い資本主義はこれは「サーバント・リーダー」モデルと共通点が多い。これは経営者は目的達成のためのただの手段としてだけではなく、目的そのものとして部下を見なくてはいけないという考え方だ。リーダーは人間対人間のレベルで従業員と接すれば、HOMEシステムを利用できる。このシステムでは、恐れや強制ではなく人間の絆が、効果的な協力と、全力で取り組む高い生産性の原動力となる。


●繁栄は、トップダウン型の過剰な統制によっても、共感の不在によっても損なわれかねない。共感の不在は勝者総取りの状況につながり、それが信頼や、信頼がもたらすそのほかの向社会的行動を衰えさせる。生き延びることで頭がいっぱいのときには、オキシトシンの分泌が妨げられるだけでなく、消費意欲が下がり、それがしばしば景気後退への第一歩になってきた。

―わが国まで最近まで続いたデフレはまさしくこれでしたよねー。しかし景気が多少良くなってもあまり幸せそうじゃないのは何故・・・


●信頼は、そしてひいては繁栄の度合いは、収入の大きな格差が人々のあいだに壁を作るときにはかならず下降線をたどる。民族や宗教、言語の違いも、そうした壁にしてしまった場合には、同じことが起こる。貧しさも信頼を強力に抑え込む。33か国の6800人を対象とした最近の研究で、脅威にさらされている社会も寛容さが減ることがわかった。

●ソーシャルメディアの繁栄は福音となるか?問題はまず、フィルターにかけられないいい加減な情報で世の中を埋め尽くしかねない。

―しかし情報のプロたちも決して見識ある存在といえないのだが・・・、うちの会員さんがたのほうがよっぽど情報感覚とか重要な情報を見抜く能力高いよ、と本気で思っています


●次が「自己陶酔のサイロ問題」だ。見るもの聞くもののほぼいっさいを自分向きに仕立てることができてしまうので、オンラインでの経験とラジオやテレビを通しての経験のすべてから、自分の視野をほんとうに広げるものや、好みや偏見に疑問を呈するものが排除されかねない。

―確かにひとりひとりの視野が狭くなってるとおもいますね


●電子的なコミュニケーションは心理学者が「一本鎖相互作用」と呼ぶものにあたる。つまり、表情やボディランゲージのような社会的な手がかりから得られる、ニュアンスの込められたやりとりが欠けているのだ。年少の「デジタルネイティブ」たちはすでに、そうした社会的な手がかりを読み取るのに苦労していると心配する神経科学者もいる。

ーおつしゃるとおり。スマホ持った若い子達の周囲への配慮のなさは目を覆うばかりですし、スマホを手に持っていない場面でも、あれ、この子身体感度低いな、と思うことがあります


●親が携帯型の電子機器に没頭すると子どもにどんな影響が出るかを探った研究がある。彼女が面接した何百人もの子どもは、親が自分よりも電子機器に多くの注意を向けているときに気持ちを傷つけられた経験を、口をそろえて語っている。いつもこんなふうに親の気がそれていたら、今日の子どもたちは、オキシトシンの受容体を上手く発達させられるだろうか?いずれ答えが出るだろう。

―これは本当に深刻な問題。大量の信頼や共感に欠けた子ども、ひいては若者が生み出されるかもしれない。それでなくてもわたしの同世代の親たちでも、「本当に子どもたちが社会に出てうまくやっていくことをイメージして子育てしているのだろうか?」と首を傾げたくなることが多かった


●短期的には移民は信頼を減らすが、このマイナス面は移民たちが同化するにつれて解消する。問題は、あまりに激しい敵意に直面した移民が分離したままになる点にある。

―うちの近所にも2年後に来はるんです・・・


●人々が違いにどう反応するかは、人口の変化の規模と速さでほぼ決まる。隔たりを乗り越えるには、童心に返り、人種や民族の違いについてのネガティブな考え方に邪魔されない、ボトムアップ型の対人関係を築きあげることが必要だ。

―おっしゃるとおりです
 ちなみに受講生さん、会員さんのところでは性差別、人種差別が解消されたり緩和されることが多いです
 本書の説明をかりると、オキシトシンが増えればセロトニンも増えるそうですが セロトニンが足りない状態だと差別をしやすいことがわかっているので、因果関係はあるでしょう
 ポジティブ心理学で説明したりもしますが あれもひょっとしたら全部オキシトシンで説明つくのかもしれない


●子どもが教育の成果を最大限に発揮できるかどうかを決める最大の要因は、ボトムアップ型かどうか、つまり、家庭が安定していて愛情に満ちているかどうかであることがわかっている。

―2つ前の記事にもありましたがご家庭だいじですね。親御さんが幸せでないといけませんね


●共感を強めることについて言えば、私たちの人間らしさを増すうえで、2000年前からとても成功している伝統がある。それは、人文科学を質の高いかたちで経験することだ。人文科学とは、文学、外国語、哲学、音楽、芸術といった学問で、かつてはどんな教養人にとってもいわば共通通貨だったものだ。


●アメリカ海兵隊の大佐と海軍の大佐が2011年にまとめた報告では、「もはやアメリカには軍事力主体で世界と渡り合う余裕はなく、世界で支配的な地位を維持するには、教育システムと社会政策の力に頼るしかない」と主張した。それによれば私たちの最優先事項は「アメリカの若者の継続的な成長をまかなうための、知的資本と、教育・健康・社会福祉事業の持続可能な社会基盤」であるべきだという。そして国防総省は、この分析に沿った予算配分を始め、社会的資本や道徳的資本の神経科学研究に資金援助している。

―国防総省がそういうほうの予算を組むってすごいですね
いやー、日本にも必要ですよね。とりあえず40人学級なんとかして。あとわたしらにも研究資金ちょうだい


●オキシトシンの分泌やテストステロン、社会レベルでのストレスと結びついている可能性のある85の変数を調べたところ、これらの変数のうちでもっとも強い相関が見つかったのは、幸せと信頼だった。この緊密な相関は、国家の所得レベルとは無関係に成立しつづけた。豊かであろうが貧しかろうが、信頼に満ちた社会に暮らしていると人は間違いなく幸せになるのだ。

―信頼しあっていると幸せ、連動するということですね。まあこのブログを長年読まれている方々にとっても、予想どおりでしょう


●ギリシア語の「エウダイモニア」という単語は「栄える」という意味があり、私たちが探している望ましいもの(幸福)は、欲求のたんに一時的な、あるいは表面的な充足ではなく、幸せがみなぎった状態で、生理的作用全般に影響を与え、免疫系も改善し、長く健康な人生や包括的な繁栄の増進につながりうる。エウダイモニアは、西洋文化の土台を築いた哲学者たちによって定義された「よき生活」なのだ。


●ポジティブ心理学者マーティン・セリグマンは、エウダイモニアは「ポジティブな情動」「没頭」「関係性」「意味」「達成」の5つからなると言っている。


●アリストテレスは、自分の倫理体系をそっくりエウダイモニアの上に築きあげ、徳を目指して努力するのは、道徳にかなえば幸せになれるからだと述べている。


●生殖ホルモンのオキシトシンは私たちを道徳的にしてくれる。そこで、神は愛である、あるいはひょっとしたら愛は神であるという、とてもキリスト教めいた考えに逆戻りすることになる。だが、「エロス(性愛)」は愛の一種類にすぎず、オキシトシンはすべての愛を網羅する。「フィリア」として知られる他者への愛や、「ストルゲー」という家族の愛、「アガペー」という自己超越の感覚(踊りや瞑想や魔法のあいだに得られる感覚)を通して私たちが求める神の愛もオキシトシンは感じさせてくれる。




―引用は以上であります。ああ疲れた。

 「私たちは生物学的な存在である」このフレーズにわたしは魅了されるのですが、一時期医薬翻訳者だったせいもあり、コーチングに初めて出会った当時から生物学的・生理学的な納得感というのを大事にしてすすんできた気がします。

 もっというと物事を「分子レベルで理解したい」という衝動は結構古くからあり、料理で「調味料は『さしすせそ』の順で入れるのよ」と教わっても、「なんでさしすせそなん?分子レベルで何が起こるからなん?」と首をかしげる女でした。料理教室にはとうとう行きませんでしたが行ったら嫌われたとおもいます。


 まあ、おおむね当協会の選択してきた路線は間違っていないでしょう。


 従来からイデオロギーとは距離を置いてきましたが宗教スレスレのことをしている自覚はあり、「承認カルト」などと自分を揶揄しております。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 篠山市商工会様でまた「1位」をとられた、とうかがいました。


 今度は、「小規模事業者持続化補助金」の募集について、全県で一次募集90の枠で募集されていたものに、同商工会様で職員さんが次々と申請の提案を上げ、単独商工会で30件を獲得してしまったのだそうな。で「食いすぎると下痢するぞ」と言われたのだそうな。


(注:その後原田事務局長からいただいた詳しい情報によりますと、

「『小規模事業者持続化補助金』は平成25年度の補正予算で付いたもので、
1次募集の1次締切で、全国の商工会地域で約2500件(商工会議所分は別)の応募があり、2140件弱が決定した模様です。
そこで、兵庫県商工会連合会受付(県下の商工会分)の89件中34件が篠山市商工会の案件だったのです。
決定したのはその内88件。篠山市のは33件というのが実績です。」

とのことです。決定率からみて兵庫県全体も優秀ですネ)



 補助金の通達をいち早く見つけた職員さんからの情報共有、それに他の職員さんが次々提案を上げる、これは会員企業さんとの日頃のコミュニケーションで状況把握し、お勧めをしてできることだと思うんですが、そういうことができる。まあどれだけ働きものなんでしょうか、皆さん。

 いくつか前の記事で「『承認』で部下の心の目を開こう」「『承認』のある職場では1人ひとりが見えるもの、聞こえるものの量が多い」というお話が出ましたがそれを地でいくようです。

 2006年地銀支店長だった松本茂樹さんの職場では、「生体認証ICカード」がお客様の利益になるからと窓口の女性たちが競ってお勧めし、加入ランキングが支店内の電子掲示板に出て「1位」になると女子行員さんたちがキャーキャー手を取り合って喜んだ、なんていうエピソードもありましたが、それとも似てきました。


 経営支援のお仕事に対する研修は初めてだったんですが、こうなるのね、と思いました。



 同商工会様では「承認」「傾聴」「質問」「説明力」と、1回あたり半日でスキル1つずつ4回にわたる管理職研修をし、途中で個別面談をし、そのあとワールドカフェ2回をし・・・と近年では久しぶりに理想的なコースで取り入れていただきました。


 研修というものに二の足を踏みやすいこの時代、そういう形での導入を決断していただいた原田事務局長の思い切りの良さに感謝したいものです。



 と、いうわけで、「篠山の奇跡」は「承認」から離れない限りこれからも続くでしょうし、同様に「柏原さんの奇跡」「林さんの奇跡」も続くでしょう。プレッシャーかな。


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「・・・わたしの教えることは学んだかたのところで『化ける』んですよ」

と、あるところでつぶやきました。

「どういう化け方をするかは予測がつかないところがあるんです。でも化けるということがわかっているので、教え方を変えるわけにはいかないんです。一番化けやすいように、拡張性をもつように教えないといけない。

 だからわたしのすることは十年一日のごとく『伝統芸能』のようなことになります。変えられないので、わたし自身は進歩がなくて、これでいいのかと思います」


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 『池上彰の教養のススメ』(日経BP社、2014年4月)を読みました。


 「5限目 生物学 本川達雄」からの引用です。


本川 科学は、理論至上主義で、事実は単なる事実であって、事実の羅列は科学とは言いません。事実を説明する妥当な理論が提出されていない事柄については、いくら事実が積み重なっていても、正式には科学的真実としては認められない。事実よりも理論が主役。理論が事実を真実にする、これが科学のやり方です。

池上 「動物の消費するエネルギーは体重の4分の3乗に比例する」のは、まぎれもない現実なんですよね。その現実をもってしても、「なぜそうなるか」の理論が確立していないと科学じゃない・・・。なるほど、先ほどの「うるう秒」の話に似てきました。

本川 そこで私は、「生物」という現実をまず積み重ねて、なぜそうなっているのかは、たとえわかっていなくても、その現実を認めると、どういう世界がひろがるかと、イメージを湧かせて『ゾウの時間 ネズミの時間』などの本を書いたわけです。生物学は、理系の王道から言わせると、非常に中途半端な立場にいるんです。法則ではなくて、単なる経験則じゃないか、いろいろ変わった事実を集めて喜んでいる、切手収集と同じじゃないかと。
(中略)
 でも、現実とは、実際に存在するものですからね、否定しようがない。人間が科学を確立するよりはるか前から生物は地球上に存在し続けました。そんな生物という、揺るぎない現実を相手にするのが、生物学です。普遍化した理論至上主義だけでは成り立たない学問です。



池上 本川先生のお話をうかがっていると、ますます自然科学だけじゃなくて、社会科学、たとえば経済学でも同じような過ちを犯していることに気づかされます。すべての人間を合理的な利益追求のために行動する「経済人=ホモエコノミクス」と仮定して、理論構築してきた旧来の経済学の現実との遊離などはその典型です。



 たぶん、NPOの会員さん方はなぜこのくだりを引用したかおわかりいただけると思うのですが―、

 多くの組織論やモチベーション論、キャリア論で説明しきれない現象が起きているとき、

 わたしはそこで前提としている人間観のちがいというのをみます。残念ながらそういう議論はまだ経営学の世界では本格的に起きていないようです。でもわたしたちの実践経験から「これが間違いなく真実だ」というものがある場合―。

 そこで「現実をみる目」というものを、そして「客観的事実と認められるものは間違いなく事実だ―だからそれに立脚して話をしなければならない」という感覚を問われなければならないでしょう。


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 ひとつ補足すると、わたしのすることは基本的には変わらないのだけれど、ある部分では次の段階に入っているように思います。

 たとえば「この教育」が響くのはもともと優秀な人だ、ということがわかっているけれど、「この教育」がさらに広がるためには、その伝わった先の人たちが広げる担い手にならなければならない。

 というとき、どうも「この教育」の世界が居心地がいいものだから、その「外」へ一歩踏み出すのが億劫になる、という現象もあるように思います。

 わたしなどはどんなに侮辱されようと疑いの目を向けられようと、「外」へ普及することを担ってきたのですが。
(だから精神的には満身創痍なのですが)


 「この教育」の恩恵に浴したひとは、「この教育」のお化けのような効果を確信をもって話す人になっていただかないといけない。それは別に宗教でも迷信でもない。でないと次の人を幸せにはできません。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp