正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ:学びに感謝 > 読書日記

 篠山市商工会様でまた「1位」をとられた、とうかがいました。


 今度は、「小規模事業者持続化補助金」の募集について、全県で一次募集90の枠で募集されていたものに、同商工会様で職員さんが次々と申請の提案を上げ、単独商工会で30件を獲得してしまったのだそうな。で「食いすぎると下痢するぞ」と言われたのだそうな。


(注:その後原田事務局長からいただいた詳しい情報によりますと、

「『小規模事業者持続化補助金』は平成25年度の補正予算で付いたもので、
1次募集の1次締切で、全国の商工会地域で約2500件(商工会議所分は別)の応募があり、2140件弱が決定した模様です。
そこで、兵庫県商工会連合会受付(県下の商工会分)の89件中34件が篠山市商工会の案件だったのです。
決定したのはその内88件。篠山市のは33件というのが実績です。」

とのことです。決定率からみて兵庫県全体も優秀ですネ)



 補助金の通達をいち早く見つけた職員さんからの情報共有、それに他の職員さんが次々提案を上げる、これは会員企業さんとの日頃のコミュニケーションで状況把握し、お勧めをしてできることだと思うんですが、そういうことができる。まあどれだけ働きものなんでしょうか、皆さん。

 いくつか前の記事で「『承認』で部下の心の目を開こう」「『承認』のある職場では1人ひとりが見えるもの、聞こえるものの量が多い」というお話が出ましたがそれを地でいくようです。

 2006年地銀支店長だった松本茂樹さんの職場では、「生体認証ICカード」がお客様の利益になるからと窓口の女性たちが競ってお勧めし、加入ランキングが支店内の電子掲示板に出て「1位」になると女子行員さんたちがキャーキャー手を取り合って喜んだ、なんていうエピソードもありましたが、それとも似てきました。


 経営支援のお仕事に対する研修は初めてだったんですが、こうなるのね、と思いました。



 同商工会様では「承認」「傾聴」「質問」「説明力」と、1回あたり半日でスキル1つずつ4回にわたる管理職研修をし、途中で個別面談をし、そのあとワールドカフェ2回をし・・・と近年では久しぶりに理想的なコースで取り入れていただきました。


 研修というものに二の足を踏みやすいこの時代、そういう形での導入を決断していただいた原田事務局長の思い切りの良さに感謝したいものです。



 と、いうわけで、「篠山の奇跡」は「承認」から離れない限りこれからも続くでしょうし、同様に「柏原さんの奇跡」「林さんの奇跡」も続くでしょう。プレッシャーかな。


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「・・・わたしの教えることは学んだかたのところで『化ける』んですよ」

と、あるところでつぶやきました。

「どういう化け方をするかは予測がつかないところがあるんです。でも化けるということがわかっているので、教え方を変えるわけにはいかないんです。一番化けやすいように、拡張性をもつように教えないといけない。

 だからわたしのすることは十年一日のごとく『伝統芸能』のようなことになります。変えられないので、わたし自身は進歩がなくて、これでいいのかと思います」


****



 『池上彰の教養のススメ』(日経BP社、2014年4月)を読みました。


 「5限目 生物学 本川達雄」からの引用です。


本川 科学は、理論至上主義で、事実は単なる事実であって、事実の羅列は科学とは言いません。事実を説明する妥当な理論が提出されていない事柄については、いくら事実が積み重なっていても、正式には科学的真実としては認められない。事実よりも理論が主役。理論が事実を真実にする、これが科学のやり方です。

池上 「動物の消費するエネルギーは体重の4分の3乗に比例する」のは、まぎれもない現実なんですよね。その現実をもってしても、「なぜそうなるか」の理論が確立していないと科学じゃない・・・。なるほど、先ほどの「うるう秒」の話に似てきました。

本川 そこで私は、「生物」という現実をまず積み重ねて、なぜそうなっているのかは、たとえわかっていなくても、その現実を認めると、どういう世界がひろがるかと、イメージを湧かせて『ゾウの時間 ネズミの時間』などの本を書いたわけです。生物学は、理系の王道から言わせると、非常に中途半端な立場にいるんです。法則ではなくて、単なる経験則じゃないか、いろいろ変わった事実を集めて喜んでいる、切手収集と同じじゃないかと。
(中略)
 でも、現実とは、実際に存在するものですからね、否定しようがない。人間が科学を確立するよりはるか前から生物は地球上に存在し続けました。そんな生物という、揺るぎない現実を相手にするのが、生物学です。普遍化した理論至上主義だけでは成り立たない学問です。



池上 本川先生のお話をうかがっていると、ますます自然科学だけじゃなくて、社会科学、たとえば経済学でも同じような過ちを犯していることに気づかされます。すべての人間を合理的な利益追求のために行動する「経済人=ホモエコノミクス」と仮定して、理論構築してきた旧来の経済学の現実との遊離などはその典型です。



 たぶん、NPOの会員さん方はなぜこのくだりを引用したかおわかりいただけると思うのですが―、

 多くの組織論やモチベーション論、キャリア論で説明しきれない現象が起きているとき、

 わたしはそこで前提としている人間観のちがいというのをみます。残念ながらそういう議論はまだ経営学の世界では本格的に起きていないようです。でもわたしたちの実践経験から「これが間違いなく真実だ」というものがある場合―。

 そこで「現実をみる目」というものを、そして「客観的事実と認められるものは間違いなく事実だ―だからそれに立脚して話をしなければならない」という感覚を問われなければならないでしょう。


****

 ひとつ補足すると、わたしのすることは基本的には変わらないのだけれど、ある部分では次の段階に入っているように思います。

 たとえば「この教育」が響くのはもともと優秀な人だ、ということがわかっているけれど、「この教育」がさらに広がるためには、その伝わった先の人たちが広げる担い手にならなければならない。

 というとき、どうも「この教育」の世界が居心地がいいものだから、その「外」へ一歩踏み出すのが億劫になる、という現象もあるように思います。

 わたしなどはどんなに侮辱されようと疑いの目を向けられようと、「外」へ普及することを担ってきたのですが。
(だから精神的には満身創痍なのですが)


 「この教育」の恩恵に浴したひとは、「この教育」のお化けのような効果を確信をもって話す人になっていただかないといけない。それは別に宗教でも迷信でもない。でないと次の人を幸せにはできません。




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 『脳のワーキングメモリを鍛える!―情報を選ぶ・つなぐ・活用する―』(トレーシー・アロウェイ他、NHK出版、2013年12月)を読みました。

 
 「あたまを良くする本」です。一昨年流行った意志力とも「認知的負荷」を話題にするときなどにかぶります。

 さて、新たな概念ワーキングメモリとは。


 「ワーキングメモリとは、情報を処理する能力である。もっと正確にいえば、意識して情報を処理すること」と本書。さらに、わたしもしばしば混同していたのですが、ワーキングメモリ≠短期記憶であるとも。短期記憶は、情報を覚える能力。いっぽうワーキングメモリは、その情報を短期間覚えているだけでなく、その情報でなんらかの作業ができるようにする

 「ワーキングメモリはいわば脳の指揮者のようなものだ」。


 べつのところでは、記憶は図書館のようなものでありワーキングメモリは司書で、蔵書を検索して取り出してくれる、ということも言っています。アルツハイマー型認知症ではワーキングメモリと記憶両方がやられるので、司書もダウンしたし蔵書もボロボロ、という状態なのだと。このたとえはわかりやすいですね。


 そういうワーキングメモリに関連する脳の部位とは、・前頭前皮質(電気信号を受け取る、各部位に思考を送る)、・海馬(記憶をつかさどる)、・扁桃体(感情をつかさどる)、・頭頂間溝(数学知識をつかさどる)、・ブローカ野(言語をあやつる)だそうです。


 日常生活でワーキングメモリが果たす役割とは
・情報に優先順位をつける
・重要なものごとに集中する
・ものごとをすばやく考える
・賢くリスクを冒す
・勉強をスムーズに進める
・個人的な判断をくだす
・新たな環境に適応する
・モチベーションを維持し、長期的目標を達成する
・切迫した状況でもポジティブでいられる
・自分のモラルに従う
・すぐれたスポーツ選手になる
だそうです。

 ・・・ここまで読み進めてわたしはつい、これらの分野で「強い」人たちとほとんどこれらを仕事で必要としない人たちのことを思い浮かべてしまいました。はい、こうした人たちは話していても感触が天と地ほどの違いがあります。もちろん「強い」人たちのほうがお話していて楽しいです。


 情報の洪水、目先の誘惑、時間に追われる状況、ストレス、退職、痛み、恋愛、コンピューターゲーム、喫煙、過食などはワーキングメモリを損なう原因になります。恋愛は、男性にとって会話をリードしなければならないというプレッシャーになりますから負荷なのだそうです。それはお気の毒に。

 
 本書によれば、ワーキングメモリは意志を実行する力に大いに関わっており、

・体内の情報―ホルモンのレベル、機嫌、感情、さまざまな器官からの情報
・体外の情報―五感によって伝達される絶え間ない情報の流れ
・根源的システムの情報―わたしたちが縛り付けられている言語、記憶、価値観、文化、倫理観、法律などの情報

を瞬時に統合して判断していると言います。


 ワーキングメモリが弱いばあいは、これらのうち最初の「感情」だけを優先してしまい「感情的」に反応してしまうかもしれません。とりわけ「恐れ」に支配された形で決断してしまうかもしれません。


 その他興味深かった記述は、


・ワーキングメモリと幸福感の関係。ワーキングメモリを要する課題をおこなっている被験者の脳ではセロトニンが放出されていた。

・瞑想実験(れいの8週間のやつ)の被験者はワーキングメモリテストの成績も向上していた

・反すうする傾向のある人は鬱になりやすいかというと、実験ではそうはならなかった。強いワーキングメモリをもつ人は、反すうする傾向のある人でも鬱になることを防止する(正田はたぶん反すうする傾向のあるほうの人だと思う…)

・選択肢が多すぎるとワーキングメモリに過負荷がかかり、さまざまな悪影響が及ぶ。子どもをお稽古ごとなどに駆り立て学校の勉強以外の活動を増やしすぎると成果が上がらないことがわかっている。学校外の活動は絞り込み、集中させてやること。

・重要な問題に本気で取り組まないでいるとワーキングメモリが蝕まれる。問題から逃げないで立ち向かったほうが良い。

・「心の理論」にもワーキングメモリが欠かせない。他人視点で考えてみることができないのはワーキングメモリ不足のせい。

・自閉症の人だと、言語を発するときに必要な情報の一部を見落として発言している。

・フェイスブックはワーキングメモリを強化する役割を果たす。フェイスブック使用歴1年以上の人は、1年未満の人よりワーキングメモリテストの成績が良い。特に友達の投稿をチェックする活動が良い影響を与えるとみられる。もちろん中毒になるのはダメ。

・ワーキングメモリは20代を通じて発達を続け、30代でピークを迎える。40代では衰弱が始まり、30代の時と比べて処理できる情報が2割減る。

・高齢者では、「埋め合わせ」がおこなわれる。ワーキングメモリ課題をおこなっているあいだ前頭前皮質の左側が活性化しており、それまでに蓄積してきた知識を有効活用していた。

・退職者の脳は急速に鈍くなる。引退の時期が遅くなればなるほど、認知機能の健康を保つことができる。

・ワーキングメモリが強い人は痛みから気をそらすのが上手だ。ワーキングメモリの弱い人は痛みにより集中力が低下した。

―正田注:ナルシシズム関係の本にナルシは痛いだの寒いだの体の感覚を声高に訴える、と書いてあるがこうした人たちはワーキングメモリが弱いのだろうか


・文章と思考能力とアルツハイマー型認知症になりやすさの関係。修道女を対象にした大規模な調査で、本人の日記をみたとき単純な文章で書いてある人はアルツハイマーになりやすかった。複雑な文法の文章は思考力の密度の高さを示し、こうした文章を書く人はアルツハイマーになりにくかった。

―ブロガー正田にはちょっと嬉しいニュース。文章を書くことがワーキングメモリを鍛えることにもつながるそうです。


・また「無症候性アルツハイマー」というカテゴリもあり、これは海馬にアミロイド斑や神経原線維のもつれといったアルツハイマーの特徴が出ているのに症状が出ていなかった人。こうした修道女は海馬の神経細胞1つ1つが普通の人の3倍も大きくなっており、ワーキングメモリの強い人はそうしたやり方でアルツハイマーに対抗していたとみられる。細胞が拡大する現象は90代、100歳になっても続いた。なんかすごいですね。

・生産性を上げたいのなら、スマホの電源を切りなさい。週に1度「スマホ休日」をとる実験では、社員は以前より仕事にやりがいを感じるようになり、生産性が上がった。つねに情報が流れてくる状況では、ワーキングメモリにつねに負荷がかかっている。

・リズムを意識する、外国語を学習するなどもワーキングメモリを強化する

・数独が得意な人は苦手な人より50%もワーキングメモリが強い

・任天堂の脳トレゲームでワーキングメモリが強化されるという証拠は得られていない

・ワーキングメモリを強化する食べ物は、乳製品、赤身の肉、フラボノイド、DHA。

・その他強化するものとして、節食、断食、ペパーミントとローズマリー、カフェイン、糖

・睡眠不足はワーキングメモリの大敵。成人では、睡眠不足のとき扁桃体が活性化し感情的な反応を起こしやすかった。

・整理整頓。乱雑な状態はワーキングメモリに負荷をかける。

・ランニング、とくに裸足ランニングはワーキングメモリ強化に良い。それ以上にアウトドアで本能のままに身体を動かすとワーキングメモリは向上する。道でない道を歩く、木登りをするなど。

・ニコチン、マリファナ、アヘンはワーキングメモリを悪化させる。





 抜き書きは以上です。
 本書についての不満はワーキングメモリについてあまりにも多くの要素を盛り込んでいるので、ほんとにそれを1つの概念で言っていいのか?と疑問をおぼえることです。一括で「頭のいい人」と言ってしまっていいのか。でもまあ経営者さんなどで、確かにこうしたものが一括して「強い」人はいらっしゃいますね。


 れいによって、途中で「瞑想の効用」が出てきますので(瞑想なんにでも効くなあ)、「それ承認で代替できるんじゃね?」と心の中でツッコミが入ります。普通に考えても、「承認」は他人の良い行動をおぼえておいてそれを言うという、ワーキングメモリを要する行動なので、鍛えるはたらきはあるでしょう。体感的に「承認ワールド」の人は色んな意味であたまがいいと思います。また前半部分の「ワーキングメモリの役割」のところで言っている機能は、いずれも承認をふくむ「コーチング」で強化できると思います。


あ、それからまた不遜発言なのですけれどもこのブログを日常的に読む習慣があるひとも、読みだす前よりワーキングメモリが向上してアルツハイマーになりにくい脳になってるかもしれないです。。
 


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 レジリエンス(回復力/復活力)についての読書を2冊。

『レジリエンス 復活力―あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』(アンドリュー・ゾッリ、ダイヤモンド社、2013年2月)

は、システムの崩壊・送電系統・都市と熱帯雨林など、非生物のレジリエンスから始まって、個人と社会のレジリエンスを論じます。

 わたしはつい安きに流れて後者のほうから読み始めます。


 たとえばホロコーストや大災害で被災者になった人たちの3分の1はひどいダメージを受けずに自然に立ち直るといいます(3分の1弱はメンタルの疾患にかかります)。それを分けるものは何か。

 ダメージを受けにくい子どもを観察すると、彼らには「自己回復力」(楽観性や自信)と「自己統制力」(将来の目標のために楽しみを先延ばしする力)が備わっていたといいます。

 またそれは大まかに言って3つの信念が土台となっており、

1)人生に有意義な目的を見いだせるという信念
2)自分が周囲の状況や出来事に貢献できるという信念
3)経験はよかれ悪しかれ学習と成長につながるという信念

だそうです。


 性格的要因のほか、
・信仰
・コミュニティ
も個人のレジリエンスを高めるはたらきをします。

 特定のコミュニティの一員が逆境から立ち直る力は、良好に機能する社会的ネットワーク(友人、家族、宗教団体、地域団体、充実した職場、行政による支援やサービスを利用できる環境)によっても強化される。

 ・・・ワーナーとスミスは、社会的要因(例えば、コミュニティの模範的な大人による支援)が逆境を緩和できれば、ハイリスク集団の50から80パーセントに健全な成長を見込むことができると結論づけている。


 
 「コミュニティ」には職場も含まれるので、「上司に対する承認教育」が部下のレジリエンスを高めるはたらきをする(ひょっとしたら上司自身にも)といういくつか前の記事「承認は根性をつくれるか」の仮説はやっぱり正しいのだろうと思います。


 さらに遺伝とレジリエンスの関係では、本書は「5−HTT遺伝子」に言及しますが、これは当ブログでもよく言及する「セロトニントランスポーター遺伝子(不安遺伝子)」のことです。

 不安感が低いとされる長いのが2つそろう「LL型」の人はストレスにも適応が良く、LSとSS型は適応があまりよくなかった。

(かつ、このブログや講演でも紹介するように、日本人ではLSとSS型の人が全人口の90%以上を占めているため、「折れやすい」国民と言えるかもしれないのです)

 そして本書のこの章は個人のレジリエンスを高めるために最終的には「瞑想」を勧め、かつ「瞑想でなくても、幸福感を高める活動を日常的に行えばよい」ということも言っています。引用している「素人に8週間瞑想をしてもらった」論文は当ブログで過去に引用したものと同じようです。

 と、またしても「瞑想」に遭遇し、かつ「瞑想」は「承認」でも代替できそうだ、瞑想がめんどくさいと感じるひとは他人を承認することをやってみよう、ということになるのでした。


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 もう1冊の本、『レジリエンスビルディング―「変化に強い」人と組織のつくり方』(ピースマインド・イーブ株式会社、英治出版、2014年4月)はコンサルティング会社によるレジリエンスを高めるソリューションの本です。

 この会社では、レジリエンスの学習可能な要素を1.信念 2.人間関係 3.考え方 4.専念する力 5.自己コントロール 6.良い習慣  と整理し、研修で提供しています。


 先日NHK「クローズアップ現代」に出ていたのはここの会社かな。


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 自治体にお勤めの管理職の友人とお食事しました。

 
 書いてもいいと言われたのでおそるおそる書きますが、

 自治体の管理職に心折れる人は多いのだそうです。

 3年周期ぐらいで、全然違う仕事の職場にかわる。1から担当に教えてもらいながらやらないといけない。前の職場でつちかったノウハウや自信はまったく通用しない。そして管理職になると、担当時代のように笑いながら相談しあいながら仕事するわけにはいかなくて、すごく孤独。異動して6月から8月くらいまでがしんどさのピークだそうです。


 ではあなたはなぜ心折れなかったの?ときくと、しばらく考えてから、

「子どもたちにみっともないところを見せたくない。強いお母さんでいるところを見せたい」

と、答えはったのでした。


 この人もご家庭で良い躾を受けて育った人で、「武士は食わねど高楊枝、って感じですね」というと「ああそうです。父がよくそう言ってました」。

 彼女の周りには強力なレジリエンス・システムがあるようでした。


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 篠山市商工会の原田局長から、最近の職場のご様子をうかがいました。

 理事会に提出するための何かの資料で情報やアイデアを朝礼で募ったところ、たちどころに部署ごとに集まって活発に話し合う様子がみられたとか。

 
 「打てば響く」感じと、対話や議論と。原田局長自身のもつスピード感も作用しているのか、ますます元気な職場です。


 別のお客様のところでも「部下が自発的に机の周りに集まって話し合う様子がみられるようになった」と伺ったところでした。「承認から自然発生的な対話」という流れになっているようなのでした。


 そんなふうに、「人間性への信頼」を取り戻せるわたしのレジリエンスの源はお客様でした。

 「承認」はお客様のもとに移植され定着してから、何年にもわたって進化し続けます。
 



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『独裁力』というジャンルが出てきています。


『独裁力―ビジネスパーソンのための権力学入門』(木谷哲夫、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年4月20日)では、

組織の生き残りのためには、

○あるべき姿についてのビジョンだけでなく、
 それを実現するための独裁力が重要なことを理解する
○権力欲で動くのではなく、乾いた視点で、道具として権力を活用する
○「正しい独裁者」を見出し、その人の能力を最大限生かす仕組みをつくる
○権力者を有効にサポートするフォロワーシップを育成する

が、重要だとします。


 強大な権力をもった独裁者。現役の経営者の中で何人思い浮かぶでしょうか。(でも、何人かはいますよね。その人たちがいいか悪いか別にして)

 また、わが国でこうした強いリーダーが生まれにくい素地として、日本には4種類のイデオロギーがあるとします。
 それは、・「すりあわせ」至上主義 ・「強みを生かす」というお題目 ・組織文化のせいにする ・間違った権限委譲の信奉―でした。確かによくみるなあ。本書によれば、アメリカではもともとリーダーの独裁力が強すぎるためにそれを制限する仕組みをつくったのが、独裁力が強くない日本にそれを輸入してまじめに運用してしまったのだという。だから、独裁力を身に着けるためにはリーダーは理論武装しなくてはならない、とも。

 
 そして具体的にどうやって権力基盤を構築するか、動員力を発揮するかのノウハウ部分は本書に譲りましょう。知りたい方は購入してください。


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 さて、
 こうして「独裁力」についての学問的知見が出てきたのはわたし的には歓迎であります。

 それはお客様についてとわたしたちのNPOについてと両方あります。

 お客様について、これまでエグゼクティブ・コーチングでご支援してきたのは多くの場合「独裁者」でありました。その人たちが正しくあるように、かつ個別の場面で部下に上手く対応できるように、とご支援しおおむね上手くいっていたわけです。
 「独裁者」のもつ武器としての「承認」という側面もあったと思います。ここは誤解されやすいところですが「承認」は必ずしも「完全民主制」を意味してはいない。

 それぐらい、経験的に、正しい志や信念をもつリーダーの「突破力」というのはすぐれたもので、合議では出せない力が出せる。


 いっぽうでわたしたちのNPOについては、ご存知のように正田は体力もない、知力もさしてない取り柄のない人間でありますが、
 このブログでも悩ましく延々と書き続けているとおり、当協会の歴史の中では「独裁」にならざるを得なかった事情がありました。

 例えばのはなし、旧コーチング・リーダーズ・スクエア(CLS)時代に、他研修機関の考え方の講師を招いて勉強会をする。
 すると、その中には「他研修機関」のものなのかその講師の個性なのかわかりませんが、甘やかされて育った人特有の「自分甘やかし」のロジックが入っている。会社はマネージャーは個人に対してあれしてくれるべきだ、これしてくれるべきだ、というような。
 
 ―どうも、あるときから感じているのですが、こうした「コーチング」などの心理学的な手法に飛びつくひとや講師になるひとの中にみんなではありませんが相当数、「???」というひとがいるのです―

 わたしなどはそういうのは聞き流すのですが、勉強会参加者でそれまでわたしが信頼していたリーダーがその磁場に巻き込まれ影響されて、それまで言ったことがないような「自分甘やかし」のロジックを言い出す。

 おいおい家族持ちでマネージャーのあなたがそれ言ったら人生おかしなことになるだろ、というような。

 
 そうしたことを何回か経験して深刻に反省し、

「これは同じ『コーチング』という名のもとに全然違う考え方を導入してしまったから、一度わたしを通じて『コーチング』を信頼してくださった受講生さんが無批判に無防備に受け入れてしまう状態になってるんだ。つまりわたしが招いたことだ」

と考えるに至りました。


 要は、玉成混交である。マネージャー育成、というミッションに基づいてこちらで選別してあげなければならない。選別はプロの仕事で、素人さんにはそこまでの判断能力がない。往々にして「甘い」ことを言うほうがその場の受けは良い。


 こうした、「選別はこちらでします」という態度は、本書によるとスティーブ・ジョブズのIpod, Iphoneも同様のコンセプトのようです。お客様が安心して楽しめることを優先し選択肢を狭める、という。「わたしはジョブズだ」というんだろうか、なんと怖れ多い。
 でも、それはお客様の人生を大事に思う姿勢から出ているのだ、ということもわかっていただけますでしょうか。


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 本年のNPO会員名簿には、会員のみなさまから「一言メッセージ」を書いていただいたのですが、その中におふたりほど「正田さん/正田先生の考えのもとに集まられた皆さんとの交流を楽しみにしています」という言葉がありました。

 ご承知のように決して新興宗教のたぐいではない、会員さんも狂信的ではない、良識あるハイパフォーマーの方々です。


 それはわたしの中にある悩ましい思いに少し安堵感を与えてくれたのでした。

 すなわち、例えばかつてのわたしの母校の「国際関係論ゼミ」が別名「中嶋ゼミ」であったように、当協会も「NPO法人企業内コーチ育成協会」と、中立な名称ではあるけれど実質は「正田ゼミ」のような(ミンミンゼミじゃないですよ)ものである。そして、「正田さん/正田先生はおおむね間違ってないことを言ってるな」と思うひとがそこに入ってくれる。コーチングは好きだけど正田は嫌い、というひとは入らなくていい。そういうコンセンサスが成立しつつあるのだな、ということに。


 そのコメントを書かれた1人の方に会って、感謝を述べたあと、「私の中にあのように書かざるを得なくさせるようなものがあったのでしょうか?」と訊きました。そうではない、というお答えでした。どのみちこうした問答で本当の答えを言ってもらえるものなのかわかりませんが―、その方のキャラクターで、多分本当に「そうではない」なんだろうな、と思いました。

 
 昨年度からようやっと個々の集会の幹事さんを任命し、任せるようにした当協会です。冒頭の本で言う「民主独裁企業」への移行はなるでしょうか。

 


 参考記事:

 恩師の「お別れの会」と恩師のいさかいの記憶、そして遺してくれた言葉

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51859894.html
 


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 何年ぶりでしょうか、ひょっとしたら数十年ぶりかもしれません。「週刊ポスト」を買ってしまいました。決して回し者ではありません。

 「団塊」と「女性役員」と「マルハニチロ」の特集が面白かったものですから・・・。


 「団塊世代」については個々には人格のいい方もいらっしゃいますし当協会の会員さんにもいらっしゃいますが

(先日の会合では「あなたのことは団塊と思ってないです」なんて酷いことを申し上げてしまいました;;)

トータルではリスペクトしがたい人格の方がたくさんいらっしゃり、このブログでも「当協会の教育事業は団塊がこの社会に残した精神面の負の遺産を一掃する役割を担っているのではないか」なんてことも書いたことがあります。


 第一の特集「団塊世代の罪と罰」は、「頭割りで1人当たり約1000万円もの巨額年金債務」、「巨大インフラ整備の負の遺産」などのほか、(この辺は1人1人に責めを帰すことはできないことだと思う)

 人格面として

「分かち合うより自分の生活重視」
「自己顕示欲が強く、同期にも助け合う友人がいない」
「スポーツでは強いチームを贔屓する『寄らば大樹』」
「マルクス主義が正しいのか自分で考えた気配がない。そしてバブルの担い手になっていく」(高村薫氏)
「聞きたくないことは耳に入れない」
「権力志向」
「(菅直人氏などについて)権力のために簡単に筋を曲げた」
「過剰なまでの自己正当化」
「自分勝手で権威好き世代は指導者より解説者が向いている」
『護送船団方式の成功体験は逆風の時代に何の役にも立たなかった」
「悪しき平等主義」

などと列挙します。

 そして「『団塊』という言葉の生みの親」という堺屋太一氏が、

「団塊世代が自分たちの好きなものを同世代に向けて提供すれば必ず大きなマーケットは生まれます」

と、いわば世代内でのマーケット創出を提言します。


 わたしが思うのは、団塊世代でもコンサルタントや企業顧問のような形で今でも現役世代に関わりを持とうとする人がいらっしゃるんですけど(去年その1人らしき人からうちの事務所に脅迫状を受け取った)

 団塊の方々は、もし教育事業的なことをするのであれば、同世代の人を指導していただきたいな、ということであります。「リタイア後の正しい生き方」「ピンピンコロリになる生き方」「愛される高齢者になる生き方」等、演題はいっぱいあると思います。


****
 

 同じ号の「女性役員が会社を滅ぼす」という特集も大変おもしろかったです。

 一部上場企業に「女性役員比率40%」を定めたノルウェーでは、これが深刻な負担になり上場廃止するところも出ているというから、穏やかではありません。


 えっ、「承認」的にはどうなのかって?

 このブログでは、以前から何度も「お嬢さん管理職」の問題を書いていて、最近の渥美由喜氏の「女性部下を管理職に登用した数を上司の評価に盛り込むことを制度化」案にも疑問を呈したりしていますから、特に矛盾は感じてないんです。

 やっぱり、鍛えられてない女性管理職さんをよく見てきました。あと上司に可愛がられることばっかり考えて生きてきて下の人にはすごくきつく当たり、統計をとると極端にモチベーションが低いとか(幸い当協会会員さんになるような方は、そうではありません。そういうところわたし厳しいんです)

 「承認」の下で女性は顕著に伸びますが、その「伸びる」「伸ばす」という風景の中には、心優しくほめて伸ばすだけではなくて、高い負荷をかけて死に物狂いで頑張ってやっとクリアする、という場面も含まれています。また必要に応じて叱責もします。
 かつ、女性でも優れた人は実力に応じて評価する、間違っても「女のくせに優れてるから可愛げがないから追い出しちゃおう」なんて考えないこと。実際そういうのがよくあるんです、そういうことを繰り返しているから社内にはできない女性しか残ってなくて、それにゲタはかせて昇進させようとする。それは兵庫労働局から「まったくその通りです。ぜひその話してください」って言われて、言いました。そういうところに数値比率なんて持ち込んだらえらいことです。

 このブログでは過去に河本宏子さん(現ANA常務取締役執行役員。その後常務に昇進されていたのだ)、有光毬子さん(コープこうべ顧問、元常任理事)など、優れた女性も登場されてますが、やっぱりパイオニア世代には凄い方々がいらっしゃり、レールが引かれたあとの世代の方はそれとは少し違うなあ、と思います。


****

 もうひとつ「マルハニチロの犯人への独占インタビュー」もお目当てで、ここではかれを犯罪に追い込んだ上司の言葉も出てきました。何が追い込んだのか・・・答えは、雑誌を読んでいただいたほうがいいでしょう。

 
 
 週刊誌さんがこういう形で特集を固めるのもひとつの戦略かもしれないですね。その分野に興味のある人は買いますからね。


 えっ、Hなほうの特集は読んだかって?何のことでしょう。



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 また発達障害の本を読んでしまいました。

1.季刊『発達』2014年冬号 【特集】”発達障害”を問い直す
2.月刊『こころの科学』2014年3月号 【特別企画】自閉症スペクトラム
3.『発達障害の子どもを伸ばす魔法の言葉かけ』
4.『アスペルガー症候群のある子どものための新キャリア教育』
5.コミックエッセイ『ボクの彼女は発達障害―障害者カップルのドタバタ日記』


 決して、ほめてもらいたいから読んでるわけではございません。お友達の皆様いいねしないでください(うそ)


 なんて、もともとこのブログの読書日記は自分のための備忘録のような目的で始めたのですが、近年はここに書かないとお勉強した気がしなくなってしまってるのです。書かないと読んだことを統合できないのです。ますます怪しいなあ。

 
 昨年初め以来もう何十冊発達障害の本を読んでるんだろう。今日も何冊か届く予定です。もちろん、雑誌の特集をみてもわかるように、専門家の間でもホットトピックで、出版のペースも早いです。


 それぞれの本にもちろん学べるところは多々あるのですが、わたしの興味である「職場」「マネジメント」の中の発達障碍者の位置づけをどうすれば、という点では、どうしても不満が残ります。いずれもこどもの療育か、よくいって「就労支援」にとどまっています。「就労支援」のゴールは「就職」で終わり、その先がありません。

 そのなかで1.季刊『発達』2014年冬号【特集】”発達障害”を問い直す の記事「発達障害を楽しむ―保護者であり支援者である立場から」(株式会社Kaien 代表取締役 鈴木慶太)では、

「支援者がどう変わっていけるかが、発達障害の人が生活を楽しめることにおいて、今、鍵になっていると思っています」としたうえで、支援者に伝えることとして、
1.健康であること
2.病理としてみない
3.舞台背景を見る
ということを挙げています。

「まずもって支援者の方は健康であってほしいと思います。…人を助ける前に自分のメンタル状態が保てない人が非常に高い率でいます」

「発達障害であることの前に1人の人間ですので、その受け止めをしっかりしていただきたい」
「ただしこの点で難しいのは、ご本人もご家族も、障害者として受け入れてほしい、というニーズも一定程度あることです。」

―本当に難しい二律背反。

「発達障害の定義は、社会的に依存しています。・・・このため、実は発達障害の本を読んだり、当事者に囲まれたところで会ったりするだけでは、支援が難しく感じられてしまうと思います」
「この社会依存による発達障害の特性を本気で考えるとかなり大きな世界観や個人観をもつ必要があり、支援者として様々な分野に高いアンテナを立てることが必要です。」

―ここなのだな、わたしの興味である「マネジメントの中の発達障害」を考えるとき、たとえ療育の側から発達障害をみてきた人であっても、同じことをマネジメントの中に持ち込めるか、というとクエスチョンです。現状とにかく療育の世界にしか専門的知見はないので、なんとかそこからの視点を取り込みたいと努力中なわけですが―、

 以前から言うように(言ってたかな?)マネージャー支援は子育て中のお母さん支援に限りなく似ています。発達科学の立場、児童精神医学の立場、小児科医の立場、色んな側から専門的知見を言うことはできます。「こうすることが理想」ということができます。でもそれらを全部足し算したら生身のお母さんのできるキャパをはるかに超えてしまうのであり、賢いお母さんは専門家の言うことを適当に割り引いてきかないといけません。
 あるいは、「現実にお母さんができること」を最初から思いやって発言する専門家の言うことなら、できるだけ全部きこうかな、ということになるかもしれません。
 
 あんまり無理難題を言うとじゃあめんどくさいからリストラしちゃおう、という結論にもなりかねないので、もし発達障害の人たちのクオリティオブライフを本気でたいせつに考えるなら、その人たちが生きる現場のロジックにも思いをはせてあげなさいよ、基本お給料をもらえて生きられるのは幸せなことですよ、と言いたい。


 鈴木慶太氏は記事のまとめ部分において、

「社会レベルで発達障害について求めることになると、まだ私の考えもよくまとまっていないというのが正直なところです。・・・ふと言葉としてまとまったのが、『秋葉原のような空間をもっと作っていきたい』ということです」

と述べています。

 今回読んだ他の本でも繰り返し出てくる、「発達障害者にとっての娯楽の場」というコンセプト。これはマネジメントというより起業アイデアの方になるかもしれません。見回してみると、今やどこのまちにもコスプレイベントというものがあり、わが六甲アイランドでも毎週のように開催されていますが、それも多少そういう性格はないかしら?


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 やっと2冊目の本にまいります。

2.月刊『こころの科学』2014年3月号 【特別企画】自閉症スペクトラム


鈴木國文「自閉症スペクトラム障害と思春期―成人の精神科医療の立場から」では、思春期に自閉症スペクトラムの患者さんが抱える問題を「外的な問題」と「内的な問題」のふたつに分けます。

「外的な問題」−たとえば周囲からのいじめとか、指導的立場の人に自分のやり方を否定されるといった出来事、いわば彼らの「独我論的」世界を打ち砕く人との遭遇―を、鈴木氏は「世界にあいた穴」とよびます。

「おそらく、自閉症スペクトラム障害の人たちは、どの年齢においても、彼らの『独我論的』世界を打ち砕く他者とさまざまな場面で出会っているのであろう。そうした他者について、彼らは通常『無視する』という対処によって大きな影響を受けることなく日を過ごしている。」

「また、『世界にあいた穴』を前に、被害的色彩の妄想様観念を発展させる場合もある」―統合失調症との違いは、自閉症スペクトラム障害の場合、妄想発展の前提として「世界が謎化する」という契機が明確に認められることだ、といいます。統合失調症のばあいは妄想に先行する「問い」がないのだそうです。

―こういう心理まで言及することが「差別」にあたるのだろうかといえば―、

 このブログは専門家の書いたものを引用しているだけです、ということもできるだろうし、何か悲劇的なことが起きるのを予防するためには知っておかなければならない知識だ、ということもできるし。

 昨年から繰り返し「発達障害」に言及する記事を書くことに躊躇がなかったわけではありません。とりわけ、「あけすけ」なトーンで書かれた大人の発達障害に関する本を紹介したときには、本当にいいのか、という思いもありました。
 しかし、手がかりを得て、1歩1歩深めていって最後に「差別」ではないところにたどりつくしかないのだと思います。

 後のほうで紹介する文献には、「カテゴリー分けすることが結局本当のインクルージョン」という記述もみえます。

 本稿では、定型発達者は生まれてすぐ「視線触発」(他者の視線に気づく経験をする)があり、むしろそもそも「穴のあいた世界」へと生れ落ちてくると考えることもできる、といいます。わたしたちが他者の期待を感じとりある程度くみとって行動するのはそういうことです。そして言葉ができ、普通の知能を発達させるアスペルガー症候群の子どもは、幼児期〜学童期になんらかの仕方で「視線触発」へ開かれるようです。

 最後のほうの一文は、悩ましいというか考えさせられるというか、です。一応書いておこう。


 「「視線触発」を世界にあいた穴ととらえるならば、アスペルガー症候群の子どもたちは、いったん世界に穴があきながら、それをなんらかの仕方で閉じてしまった子どもたちといえるのかもしれない。あるいは、不安という『心にあいた穴』が『世界にあいた穴』と連動することなく、世界を築き上げた子どもたち、という言い方ができるのかもしれない。そのような仕方で生きてきた彼らに、思春期においてもう一度、ふたつの穴が現れるのである。

 おそらく、そのふたつの穴が連動してくれないこと、このことこそが自閉症スペクトラム障害の人たちの一部にとって、特有の困難を生むことになっているのであろう」


 同じ号の「青年期の自閉症スペクトラムの人たちへの発達支援―心理面接のあり方を中心に―」(日戸 由刈)では、

 「人に相談することが苦手なAS(自閉症スペクトラム)」の特性をとりあげています。

 
ASの人たちは人間関係にストレスを抱えていても、「困っていることはない」と無関心にみえる態度を示すことや、「自分のせいだ」と必要以上に落ちこむこと、相手の行動を誤解して一方的に非難することなどが、しばしばみられる。
 こうしたASの人たちには共通して、周囲の人間関係に漠然とした不安や不満を感じても、その感情がなぜ生じたかという理由がわからず、漫然とストレスを溜めこむメカニズムが考えられる。これは、AS特有の認知特性といわれる”同時総合機能(全体的統合ともいう)の不全”と関係するかもしれない。
 同時総合機能がうまく働かないと、注意の向け方や物事の理解の仕方が断片化しやすくなり、自分に対するモニタリングが働きにくくなる。また、社会的文脈や人間関係などの複雑な因果関係の理解が難しくなる。このため、自分のストレスを自覚すること、ストレスの理由を理解することが上手にできない。



―子どものころ家の中で家族が半ばうなるような喉をこすれる空気の音を立てていることに、小さい頃は怯え、より大きくなってからは嫌悪感をもって受け止めていた。あの人もいつも何らかの説明不能のストレスを抱えていたのでしょう。あの人にとって世界は不快刺激にみちみちていたのかもしれないです―


 こうしたASの人に対する心理面接は独特の「型」があるようです。

 本人のおかれた状況やそこでの感情状態が解明されたら、それを本人に向けてわかりやすく解説する。本人の話に登場した人物の行動や言動をシンプルに書き出し、それぞれ「自分(本人)」がどう感じたか、どうふるまったか」も具体的に書いて示す。「コミック会話」や「五段階表」など、信念や感情を視覚化する技法を用いると効果的である。

 ・・・ASの人たちは、先に因果関係を理解することで、後から自分の感情を適切に理解できることが多い。心理面接で「自分についての解説」を聞くことで、初めて「理解してもらえた」という安心感を抱くケースも少なくない。ASの人たちにとって共感的理解とは、相手からの”正確な理解”にほかならない。

 ・・・心理面接では、本人のニーズに沿って、ストレス事態での発想の転換法、トラブル回避のための対処法などを、視覚的かつ具体的に助言する。その際は、ASの人たちの、物事の応用が難しい特性に配慮し、どの場面でも通用する”社会常識”を伝授するとよい。



 上記には全然反対ではありません。

 これを書き写しながら今思っているのは、これまでみてきたケースでおそらく本人にはASの診断が出ているのに、差別をおそれ上司には言っていない、職場で心を許している同僚にしか言っていない、というケースです。外部からの支援者の助言が、上司をスルーして本人に届いてしまっている。「部下が上司に断りなくパーソナルコーチングを受けている」というケースも結構むずかしいのですが、わたしなどは「そんな部下、やだ」となるところですが、発達障害の人への助言も、真に受けやすいだけに専門家のかたは気をつけていただきたいものだなあ、と思います。ひょっとしたら職場のロジックになじまない助言になっているかもしれない。それをリジッドに信じこんで上司に断りなく職場にもちこむASの人がいるかもしれない。いえ、上記のケースはいいんですよ。


 さて、ASの人の就労支援の場面では、やはりASの人のセルフモニタリング下手の特性が壁になることがあるようです。

 
 しかし、彼らは最初から現実的な自己理解を形成できるわけではない。・・・ASの症状が強く一般就労が難しい状態であっても、一般就労に固執し続けるケースや、能力に見合った職業訓練の内容を「意味がない」と感じるケースも、実は少なくない。このことは、AS特有の認知特性といわれる”自己体験的意識の希薄さ”と関係するかもしれない。

 ASの人たちは、自分自身の体験を「わがこと」として内在化することが難しく、自分の体験と外部情報との区別がつきにくいこともある。職業訓練や職場実習を体験しても、その仕事の意義や難しさを、実感をともなって認識しづらい。(正田注:なるほどー。いるなあ、「実感をともなって認識しづらい」人って。)逆に、自分が体験したことのない仕事でも、メディアから情報を得ると「自分にもできる」と容易に思い込んでしまうことがある。青年期のASの人たちにしばしばみられる、非現実的で歪んだ自己理解は、こうして形成されると考えられる。

(正田注:もちろん人のふり見てわがふり直せなんだけど、こういう記述をみたとき、あたしもこういう人つまり非現実的で歪んだ自己理解の人のようにみえてるんじゃないかって、特にあたしの話をきいてもそれがどれほどすごいことが「ぴん」ときにくい人びとからは、と思うと、すっごくいやな気分になるんだよねー)

 この傾向は、年齢や学歴が高くなるほど顕著になる。とくに大学生は、就職情報に触れる機会が増え、周囲のプレッシャーと実際の就職活動の難しさから、注意・関心の断片化や固執傾向が顕著になりやすい。公務員、専門職、大手企業など、特定情報に本人が固執すると、その書き換えは容易ではない。


 いるなあ、高学歴の人で意味もなく「自分はえらい」って思ってる人…。

 そういう例を下手に沢山みてしまうと、ASの人に好意とか共感をもつのがなかなか難しい。ほんとうは適切な療育を受ければ、バランスのとれたつきあいやすい人格になれたのかもしれないけれど。ただ、こういう傾向が思春期以降、青年期に現れるとすると、その年代のときに適切な修正を受けられることはほんとうに難しいだろうと思う。


 で、このところわたしが凝っているもうひとつのキーワード「ナルシシズム」との切り分けがやはりむずかしいです。正しい自己理解を持てないという問題。ひょっとしたらうまれつき線条体が大きい系のナルシシズムと、ASのセルフモニタリング下手由来のナルシシズムというのがあるのかもしれませんが―、
 さらに健常者、定型発達者でも地位が上がったりチヤホヤされることが続いたりするとナルシシストになるし、某バレンティン選手なんかそっち系かな?と思ったりしますけど。あ、アルコール依存というか酩酊状態というのは脳の中で快楽物質の「ドーパミン」が出っぱなしになるのだそうですね。まあチヤホヤされると大概お酒ものみますよねー


 現実的な自己理解の形成には、どんな関わりが求められるのでしょうか。

 
 
自己理解の形成には、他者視点が大きく影響する。自分の体験をもとに他者とやりとりすることで、より客観的かつ現実的な自己理解の形成が促されるのである。

 ASの人たちは、・・・定型発達の人たちよりもはるかに多く、自分が体験して感じたこと、考えたことを人と一緒にふりかえり、視覚化して整理する手順を踏む必要がある。言い換えれば、この手順を十分に踏むことで、彼らはたとえ部分的であっても、自分の得意・不得意や行動・考え方の傾向などを、実感をともなわせて蓄積し、内在化できるかもしれない。・・・

 ただ、現実的な自己理解は、配慮された環境での成功体験や、他者からの一方的な助言・提案だけでは深まりにくい。ASの人たちにも、私たちと同様、自分で考え行動した結果、「うまくいかなかった、失敗した」という感情体験が必要である。順調に青年期に至った彼らにとって、多少の失敗や試行錯誤はむしろ、等身大の自己理解を深める契機となりうる。

 本人が「こうしたい」と強く希望した時、それが難しいと予想されても頭ごなしに反対せず、「うまくいかなければ、このように援助しよう」という見通しと計画性をもって見守る姿勢が、家族や支援者には求められる。


 上記は、職場のマネージャーにもできそうなことが一部ありますが、しかし「それは療育場面だからだよねえ」という事柄もあります。基本、仕事は失敗しそうな人にはやらせられないものです。

 先日も、セルフモニタリングができなくてできない仕事をやりたがってリーダーを逆恨みする作業者、なんて話題が出ましたが、じゃあどうしたらいいんだろう。

 以前に某所でわたしが言った、「家庭訪問」が本当に解になるばあいがあります。そういう価値あるコンサルティングを受けた、と思うためにも「正田先生」って呼んだほうがよいように思います。どうせ聞き流したんだろうなー。

 あっ会員さんがたは今のままでいいんですってば。


 同じ号の「当事者からみたASD診断―生きやすさの道標とするために」(片岡聡[東京都自閉症協会])

 ここでも多くの重要な事柄が当事者の語りとして述べられます。

 
 真に私たちにできないのは、私たちを利用しようとして悪意で近づいてくる人たちの作為を読むことなのである。したがって、年齢や知的障害の有無を問わず、自閉症の人をだまし利用することはたやすい。この生涯にわたる「純粋という名の無知」こそが、自分で決めたことについてはその責任をとることを前提に成立している社会においての最大の障害性であり、ASD支援が必要な最も大きな理由である。


― 「アスペルガーの人の騙されやすさ」については、あとで取り上げる『ボクの彼女は発達障害』でも、「彼女」の「あお」が振り込め詐欺に危うく引っかかりそうになるくだりがあります。

 ―そういえばわたしも以前身近なアスペルガーの人が「パーティー商法」でしょうか、何かの懸賞に当たりました!という甲高い女の声の電話に見事に騙されて指定場所に行こうとしてしまい、慌てて引き留めたことがあります。

「新聞に載ってるでしょ!そういうの詐欺なんだよ」

「なんで?だっておめでとうございますって言ってたよ」

 なんでええとこの大学出て・・・と思うが、本当にそういうものなんです。



 閑話休題、「グループ分け」と「インクルージョン」をめぐる話題です。
 
 
私は、ASDのグループワークをする場合に支援者がまずするべきことは、すべての参加者にとって安全な場所をつくることだと悟った。ASD診断のたしかな人だけを集めるという意味ではない。誰が診断してもASDである方であっても、二次障害や育ちの困難の深刻さによっては、ASD者のグループワークに加われず、まず支援者の個別対応が必要なことはよくある。またASDでなくても、悪意をもって人を操作して傷つけることをしない健常者の方、あるいは内科や神経内科領域の難病の方とは、何の問題もなくインクルージョンが可能なことが多い。実は支援者のすべきことは、インクルージョンという理念を実現させることではなくて、「グループ分け」というある意味「汚れ仕事」を引き受け、作為を読めない人たちに安全な環境を提供することなのである。


―この記述の前には、同じアスペルガーの人同士のピア活動でも、傷つけあいが起きうまくいかなかったケースも紹介されており、どうもピア活動に参加できるかどうかにはやはり資格があって、人を傷つける傾向のあるASDの人は参加させないほうがよい、という風にもとれるのです。もちろん人を傷つけるのはその人の背景に「二次障害や育ちの困難さ」が考えられるので、そういう人は個別支援の中で問題解決してね、ということのようです。よのなかカフェでも、これはアスペルガーではなくナルシシストですが、どうみても正田のリーダーシップに異を唱えたい、人前で正田を侮辱したい、という意図をもった人がしきりに来ていたのでご遠慮願ったことがありましたね…。私は人様のつくった場に出かけていって「荒らし」なんてしたことないのにね。

 インクルージョンの話の続きです。

 
私はこの病院の初期からのASD向けデイケアの利用者であるが、診断と個々の利用者の困難度のアセスメントが安定するにつれ、グループ分けが利用者それぞれにとってプラスに機能する場面が多くなったと感じる。また逆説的ではあるが、これがより高度のインクルージョンにつながった面がある。



 なのだそうです。だから、レッテル貼りに意味がないとはいえないと思います。

 非常にジレンマなのですが、障害者である前に人である、そのように扱われたい。しかし、障害ゆえにまったく特有の快不快、可能不可能の世界をもっており、それを理解し踏まえたうえでないと、その人にとっての最低限の「人として扱われる」が担保されない。
 そしてその独特の世界は、障害を前提としないと理解できない。

 これが「インクルージョン」のむずかしいところ。ここでいう「インクルージョン」は、職場での受容とは意味が違いまだ「療育」の領域を出ていませんが、職場での問題を考えるうえでも踏まえておきたいと思います。


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3.『発達障害の子どもを伸ばす魔法の言葉かけ』(講談社)は、ABA(応用行動分析)を利用した「言葉かけ」の本です。

 基本的には、ほめることで強化する。「承認」の1時間めでお話しする行動理論の延長です。多少それに

「できない課題には手助け(プロンプト)を」
「コンプライアンスを築こう―子どもの抵抗に負けて、言いなりになってばかりいませんか?親が主導権をもち、時には厳しい態度で指示に従わせることも必要です」
 
といった、プラスアルファがついてきます。

 定型発達の子どもを育てるうえでも役に立つ知識だと思います。


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4.『アスペルガー症候群のある子どものための新キャリア教育』(本田秀夫+日戸由刈、金子書房)は、5つ前の記事でご紹介した『自閉症という謎に迫る』で推薦していた療育の本です。

 これなどは、当事者のかたは是非買って読まれるといい本だと思いますが、たとえば問題解決のときに図示して見せること、アスペルガーの子どもは挫折感を持つとあきらめて心を閉ざしてしまう、そうさせずに希望を持って暮らさせることが療育の目標であることなどが述べられています。

 「少し変わっているけれど、にくめないキャラクター」に育てたい、というくだりは傾聴に値します。


「この子たちを、将来どんな大人に育てるか?」といった議論がありました。最終的には、”ちょっと変わっているけれど、なぜかにくめないキャラクター”に育てたいという、まるで盛親僧都(じょうしんそうず、徒然草の登場人物)のくだりのような結論になったことがあります。『しょうもないこともたくさんするし、とにかく手はかかるんだけど、なぜかにくめない性格で、周りは『しょうがねえなあ』と言いながら、ついつい面倒を見てしまう。人から可愛がられやすいというか、助けられ上手というか、そういうふうになれたら最高だよね』というような話になりました」

(中略)

 「なんだかんだあるけど、アイツ、意外とわかってるし、結構可愛いところもあるじゃないか」と周囲の人に思わせる何か、すなわち、杓子定規な常識よりも、心の通った良識を身につけることが大切なのです。

 学校という枠組みに保護されているうちは、”可愛い不思議ちゃん”でよいと思います。しかし、就労して社会に出るにあたっては、それに加えてある程度の分別と何らかの分野における実力を持っていることが、自立への鍵となるでしょう。先の盛親僧都のエピソードを通して兼好法師が後世に伝えた、人としての”徳”の在り方を、現ぢを生きるBさんたちといっしょに、じっくりと考えていきたいものです。



―いいこと言うなあ。

 ちなみに著者の本田秀夫氏の別の著書『自閉症スペクトラム―10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体』(ソフトバンク新書、2013年)は、去年知人から自閉症のお勧め本を尋ねられたときに私が推薦した本です。

 なんというか、「療育」の世界と「社会」の世界、両方の視点をバランス良く持っていて納得できたような気が、わたし的にはしたのです。


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 やっと最後まできました、

5.コミックエッセイ『ボクの彼女は発達障害―障害者カップルのドタバタ日記』は、可愛い外見の彼女「あお」がチャーミングなので楽しく読めてしまう本です。やっぱり「視覚化」だいじですね。

 「あお」のキャラが可愛いので、色々変なところもゆるせてしまう。いや、やっぱり本当は大変なんだと思うんですけど。

 ここで学べたのは、
例えば先述の「振り込め詐欺への騙されやすさ」であったり、
また「怒った声、怒鳴り声を異常に怖がる特性」であったり、(だからわたしの苦手なストレングスファインダーの資質、○○○はひょっとしたらアスペルガーの人の特性かもしれないのだ) 
「聴覚過敏なので子どもの甲高い声が苦手」ということであったり。
 
 もちろん個人差があることでしょう。


 また発達障害の人にとっての日常を、「寝不足で頭が働かない時に攻略本も説明書もないゲームを渡されて異常に明るいネオンがついてワーワーうるさい中でさあやれって感じ?」といった言葉で、イラストつきで説明してくれると、たとえば綾屋紗月氏の一連の著作に「文学?」って引いちゃう人でも解りやすいのではないかと思います。

 ひょっとしたらこの本は、診断されてない自覚がない発達障害の人に「気づいてもらう」小道具にするにはいいかも?なんて思ったりもしますが、難しいかな?




 非常に長い記事になりましたがあとで見直す手間を考えると1つの記事にまとめた方がいいのだろうと思ったのですよね。

 これで何ができるんでしょうね。まだわたしにもわかりません。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 『自閉症という謎に迫る―研究最前線報告』(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修、小学館新書、2013年12月)を読みました。


 なぜこのところこんなに「自閉症」「発達障害」にこだわっているのかというと、その予想をはるかに超える出現率ともあわせ、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の「敵」あるいは「己」に、その自閉症の性質が深く関わっているのではないかと思うからです。


 そんなことを言っているうちに、本日は面白い”事件”がありました。

 神戸で開催した女性活躍推進のシンポジウムのコーディネーターをされたダイバーシティーの専門家・渥美由喜氏が、冒頭あいさつの中で

「カミングアウトします。私、アスペルガーです。」

と言われたのです。数年前の来神のとき(2010年だったカナ)には言ってなかった。

 あとでお名刺交換して質すと、「ああ、最近言うようにしてるんですよ。大事でしょ?」とのことでした。

 私は承認という、ダイバーシティーに関連の深い手法の普及をしていること、最近「発達障害」にとりわけ関心をもっていること、などをご紹介しました。どうもやっぱりタイムリーな話題のようでした。


 いつもの伝で本書『自閉症の謎に迫る』の印象的だったところをご紹介します。


●自閉症スペクトラムあるいは自閉症スペクトラム障害について。自閉症の症状はスペクトラム状に現れて、自閉症の人とそうでない人を絶対的に区別することは非常に難しい。

●スペクトラムという考えを前提とすると、自閉的な傾向というものはすべての人にあるということになり、そのような傾向が濃いのか薄いのか、濃淡の違いにすぎないとも言える。ただし、誰でも自閉的な傾向があるからといって、すべての人に同じように問題が生じるかというとそうではなく、やはり自閉的な傾向が強いことによって、「生きにくい」状況を招くことは多々あるように思われる。


●青年期以降の自閉症をスクリーニングする自記式テストAQ(自閉症スペクトラム指数)。ネット上で無料で受検できる。たとえばhttp://www.the-fortuneteller.com/asperger/aq-j.htmlなど。質問項目50で50点満点。33点以上だと自閉症と診断される割合が一気に高くなる。健常大学生で33点を超える人は3%しかおらず、一方自閉症の診断を受けている人の9割弱が33点を超える。
 ひきこもり女でこだわり症の正田が上記のAQを試してみると、どれも真ん中へん(つまり「すごくそう思う」とか「全然そう思わない」ではないもの)の回答になり20点でした。ほんとか正田。本章の著者(大学教授)はいつも40点代後半だというが、正田は自分に甘いのかもしれません。
 えと、読者の方で「自分も怪しいかも?」と思われる方は、是非上記のサイトでお試しください…。


●自閉症の人の親やきょうだいに自閉症の徴候が部分的に見られる様態をBAP(Broader Autism Phenotype)という。自閉症とは診断されないきょうだいに、微妙な感情表出の苦手さがあったり、コミュニケーションの不得意があったりする。親は、人柄がよそよそしいとか、硬いとか、言語を対人的に使うのが不得手だとかいう報告がある。自閉症児の父親の他者の視線の動きに対する反応速度が、定型発達児の父親に比べて微妙に(0.04秒!)遅れるとする報告もある。

●一般大学生の専攻やパーソナリティとAQとの関連をみた研究では、英国でAQが高いと神経症傾向が強く、外向性と同調性が低かった。男子は女子よりも、また、物理や化学専攻の学生はそうでない学生よりもAQが高かった。興味深いことに、親が科学に関する仕事をしている学生は、そうでない学生よりもAQが高かった。日本では高知大学が一般学生にAQを実施したところ、文系学部よりも理系学部の学生のAQが高かった。

●自閉症はカテゴリでなく、程度問題に、すなわち量的に測定されるものに概念を変えることが今後検討されるだろう。(太字正田)


―ここなのです。私がこのところ「自閉症」について延々と考える理由は。わたしたち定型発達者の中にもある自閉傾向(ほんとは正田にも「おおあり」のはず)を考えることで、従来の人材育成の壁を突破できないか、と考えています。
 あっすいません突拍子もなくみえるでしょうが一応「12年、1位マネージャーを生んできました」の人が考えることだ、と思ってくださいね。当協会の会員さんぐらいは、ご理解くださるでしょうか・・・。


●自閉症はバイオマーカーではなく、行動特徴の定義に基づいて診断される。AQで勝手に自己診断しちゃいけません、あれはあくまで参考指標。観察や家族への聞き取り手続きが厳密に工夫される。が、所詮は観察し、聞き取りを行う専門家の直観に依存している。

―以前、「採用面接で発達障害を見抜けるか」と問われたことがあり、「セルフモニタリングが下手でできないことをできると答えてしまうことがある言行不一致の特徴を考えると、面接では見抜けない可能性がある。職場で日々行動をみているマネージャーが一番よくわかる」と答えました。


●発達障害の診断概念が広がり、それが一因となって診断が急増した。2012年にDSM-5が定められ、自閉症の診断名がそれまでの広汎性発達障害から、自閉症スペクトラム障害(ASD)に一本化された。ASD三基準の第一基準は、文脈の違いを超えた対人コミュニケーションの永続的な欠陥、第二が限局された行動、興味、あるいは活動の反復様式。三番目がこれらの徴候の小児期早期の発現だ。


●本書では落語「池田の猪買い」と「宿替え」を紹介する。古典落語に登場するおかしな人、粗忽な人はやっぱり発達障害だったっぽいのだ。正田は以前きいた落語で「これは絶対発達障害」と思ったやつをいまだに思い出せない…。


●「心の理論」の欠如は自閉症の専売特許ではない。

●自閉症状説明能力の高い理論構築が進んでいる。
1つめは、ローソンによる心の深部アクセス困難モデル(DAD)は、自閉症者が世界を、互いに結びつきのない原子論的現実に還元してしまっているとする。自閉症者の体験する世界は、膨大な、しかしばらばらな現実のモザイク、それの再現が興味や行動の反復性として現れ、対人コミュニケーションでは字義拘泥や文脈情報利用の失敗となる。

●2つめは、意識の進化論についての社会脳モデルだ。エーデルマンは低い水準の意識が、体から脳に遡上する価値感情と脳が外界から得てきた表象イメージの結合から成ると考える。この考えを自閉症に当てはめると、自己意識不全、ばらばらなモザイク的な体験世界、それらからもたらされる字義的な言語、他者理解の困難、反復的行動など、自閉症の謎が一挙に説明できるモデルが導かれる。感覚異常は、視床下部や扁桃体が担っている体内からの価値感情と表象イメージの結合の不全とみなせる。


―先日ご紹介した綾屋皐月氏の当事者研究に表れる独特の感覚は、上記2つのどちらにも当てはまりそうです。


●自閉症の地域差、民族差。英語圏に比べやや日本の方が高い。1万人あたりでみると、2006年に報告された名古屋市西部地域の調査では210人、2008年の豊田市地域についての報告では181人だ。これに対し、2011年のイギリスは全国的には98人、2006年の大ロンドンに属する大都市圏サウステムズ地域の報告では116人だった。アメリカでは、2008年連邦全体14か所調査では113人だった。


●世界最高の発現率を報告したのは韓国(246人)。大半が気づかれず、診断もされていないし、特別な教育も受けていなかった。これは勉強重視の韓国社会では社会性の問題は重視されないからだと調査者たちは考えている。一方台湾では34人と少ない。

―診断しないのは「障害者への差別、偏見」の問題もあるんでしょうか。わたしは、社会全体の嫌悪等のネガティブな感情の出現に発達障害は大いに関わっているのではないかと、韓国のこのデータに出会う以前から思っていましたが・・・。適切な療育を施せば、それは減らすことができるのではないでしょうか


●BRICSでは、ブラジルが2012年に27人、2004年から2005年の中国の天津市で10・9―13・9人と先進国よりはるかに少ない。しかも重症例がほとんどだ。先進国では知的な遅れのない事例が多数派であるのと大きく違っている。自閉症は行動観察で診断されるので、同じ生物的状態が社会文化の影響を受けて、異なる臨床的な判定になる可能性がある。


―ここからは発達障害の出現率増加の原因を追った章です。

―次の項は仮説とことわっていますが中々ショッキングなことを言っています。

●荒唐無稽に聞こえることを承知で次の仮説を書く。自閉症発現の急増は冷戦崩壊による資本のグローバル化にともなって生じた歴史的現象の可能性がある。経済活動のグローバル化が生み出す過剰な社会的ストレスが、母体もしくは養育初期の母親に影響を与える。それが、社交が苦手で論理優勢型の素質をもつ子どもの脳のあり方を変えてしまっている(例えば脳内オキシトシン放出の低下)。

―岡田尊司『発達障害と呼ばないで』も、母親との愛着関係の弱さを愛着障害―発達障害急増の原因としていましたね。うーむ男女共同参画に暗雲か?でも日本と韓国、女性は大して働いてないのに何で。

●2011年、カリフォルニアの研究チームが明らかにしたところでは、出産の時期または妊娠第三期に母親が、カリフォルニアのフリーウェイから309メートル以内に居住していることが自閉症発現を倍にしていた。この結果が衝撃的なのは、大気汚染がからんでいそうなことだ。

●大気汚染が引き起こすのは免疫疾患、つまりアレルギーの悪化だ。アレルギーは自閉症と関係している。幼児の鼻アレルギーとASQの得点に有意な関連が見つかった。アレルギーのみならず自己免疫疾患(多発性硬化症や強直性脊椎炎)が自閉症に関連しているとする研究報告もある。

●多剤耐性菌(MRSA)の感染も神経毒をもたらすことで自閉症になるリスクがある。


●都市生活は、農村や自然豊かな郊外に比べて、母体と胎児あるいは乳幼児の脳に好ましくない影響を与えることがわかっている。都市生活は、妊娠後期の母体のストレスに反応して放出されるコルチゾールを増やし、子どもが7歳になった時点で追跡すると、感情と記憶をつかさどる扁桃体および海馬の体積に影響している。また幼少期の都市生活は大脳辺縁系とネガティブな感情の調整をつかさどる前帯状回に影響を与えることもわかっている。

―一時期正田が傾倒していたデンマーク式教育のフリースクールの主宰者、これは某有名ビジネススクールの講師でしたがこの人が曰く、「事を成した人は子ども時代自然豊かな環境で育っている」。まあそれに当てはまらない人もようさんいると思いますけどね、その当時何の根拠もなかったけれど私は結構真実だと思っていました。


●自閉症の発現原因を調べるためアメリカでは自閉症の双生児研究やきょうだい研究が大規模に行われている。研究者たちの予測は、遺伝と環境の累積効果がある閾値に達した場合に自閉症が発現するというものだ。ホットトピックの一つは、アレルギー・炎症反応・自己免疫疾患など過剰免疫問題と自閉症の関連だ。脱工業化社会でのヒトの生物的環境(土壌菌・人体菌・寄生虫)の枯渇、ビタミンD不足、運動不足やストレス過剰が自閉症を含む一連の問題の根底にあるのではという仮説も立てられている。



―ここからは自閉症の療育のさまざまな技法について。


●自閉症に関する療育技術にほとんど効果は実証されていない。TEEACHは総体として効果を上げているが、TEACCHの技法の一つ視覚的構造化自体には本家ですら効果が検証されていない。

―あらそうですか。でも今度の合宿でTEACCHについてレクチャーしてもらうもんねー。

●ロバースに始まる応用行動分析(ABA)はアメリカ厚生省が唯一効果を公認している技法だが、長期予後は確認されていない。

●アメリカで効果が実証されつつあるのは、親子の相互作用を自然に充実する技法、社交を中心とする小集団活動だ。

―相互作用を自然に充実、って要するに「承認」でいいんじゃないのかな。それは早計か。


―このあとは自閉症治療にたいするオキシトシンの有用性の話題。鼻に噴霧するのですが、はっきりわかる程度に行動が変わるらしい。ただ噴霧している期間しか効果が持続しないようです。
またオキシトシン投与による人格変容が完全に望ましいものかどうかは慎重に見極めないといけないともいいます。自部署の人にはそれまでより打ち解けたが初対面の人に冷淡になった、いわばセクショナリズムがきつくなった、的な報告もあるのです。


●「自閉的文化」なる言い回し。英国よりも日本のほうが自閉症傾向が強そうだ、あるいはそう自己評価しているようだ。

―お叱りを受けそうだけれどわたしは以前から「日本は自閉症社会なのではないか」―つまり、英米より高い率で自閉症者を有していることで、その特徴をより大きく反映した文化社会のありかたになっており、「男尊女卑」や「飲酒文化」もその延長上にあるのではないか、と考えているのですね。
 2つ前の記事の『日本軍と日本兵』に関する記事も、登場する軍の上官とか自閉症っぽいじゃないですか。
 だんだん「自閉症」「発達障害」という言葉が人口に膾炙して、「私、AQいくついくつです」っていう自己紹介が普通になって、「そうですかそれじゃ承認研修の受講はムリっぽいですね〜」とか言って、自閉症が差別語でなく普通に語られる、ようになるとこの国は少しはましになりそうな気がします。
 で、マネージャーにはなるべく「心の理論」ができてる人がなってもらって、その人たちは「心の理論」をこれまでよりはるかに修練して高めてもらい、発達障害者も女性もその他マイノリティや「制約社員」も全部包含してマネジメントできるようになってもらい、優れた組織をつくってもらうといいと思うのです。日本人の強みは「勤勉性」による「修練」ですからね。



 本当はこの記事でもう一冊触れたかったのですが既に長くなってしまったので、次にゆずります・・・



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 『日本軍と日本兵―米軍報告書は語る』(一ノ瀬俊也、講談社現代新書、2014年1月)を読みました。

 「風立ちぬ」や「永遠の0」大人気、ともすればあの時代を美化しそうな風潮の時代にタイムリーな本なのではないかと思います。

 アメリカ兵や将校からみたわが日本軍は、悲惨ではあるが同時につっこみどころ満載の人達であります。

 わたしはここ数年「日本人の遺伝子的特性」など「日本人とは」に言及することが多いですが、日本人が嫌いなわけではありません。「世界で一番好きな民族は?」ときかれたら、やっぱり「日本人」と答えるでしょう。結婚以来住んでいる神戸・兵庫の風土が好きなようにそれは理屈ではないものです。


 ただわたしにはおそらく「面子」の感覚があまりないので、日本人の劣った部分を考えたり言及したりすることに抵抗がありません。興味は、そうしたもろもろの特性をもった日本人をいかに教育の力で向上させ優秀たらしめるか、にあります。そういう考え方が不遜なのか、しかしそういう考え方をする女のもとで受講生様が引き続き成果を挙げてくださるのだからしょうがないです。


 で、本書はある意味現代に通じる「日本人」をあぶり出す気がするので、ガダルカナルとかレイテとか硫黄島とか戦地の名前には相変わらず興味がもてないまま、本書の記述をなぞってみよう、と思うのであります。半藤一利さんの本とか頭に入らなくて投げ出しちゃったんだよね。


 ここでは交戦中に発行された、「IB」―Intelligence Bulletin―という、アメリカ軍の軍内報のようなものの記事から大量に引用しています。


●(日本軍の)訓練はたぶんどの国の陸軍よりも厳しいものだ。・・・体罰はひどいものだ。兵は上官に殴られ、蹴られている間直立していなくてはならない。もしビンタを受け損なえば立ち上がって直立し、再び罰を受けねばならない。…上級の者はそれがささいな怒りによるものでも、いつでも罰を加える権限を持っている。


●軍隊内から暴力がけっしてなくならないのは、殴られている者もやがて下級者が来たら彼らを殴れる立場になるからだ。


―去年の初めマスコミを賑わした「体罰」。漫画「柔道部物語」で、こうした先輩から後輩へ引き継がれる体罰を肯定的に描いてましたが・・・。



●日本軍は口頭、文書上の指示において「軍紀」「士気の改善」「軍の改革」「戦闘力の改善」「天皇のための死」「兄弟のごときチームワーク」を個人、集団、多様な部隊、軍に対し非常に強調しているものの、「軍指導者の望むような士気、戦闘能力の状態は達成されないことが多い。

●日本兵の個人的長所は、肉体的には頑健である。準備された防御では死ぬまで戦う。特に戦友が周囲にいたり、地の利を得ている時には大胆かつ勇敢である。規律(特に射撃規律)はおおむね良好である(すなわち上官の命令による一斉射撃は良好)


●日本兵の短所は、予想していなかったことに直面するとパニックに陥る、戦闘のあいだ常に決然としているわけではない、多くは射撃が下手である、時に自分で物を考えず『自分で』となると何も考えられなくなる。


●日本兵は銃剣戦において一対一の対決を避け、「直突」すなわち「突き」ばかりを用い、「剣術」ができなかったり銃床で殴るという技を知らなかったりで、そこを米兵に衝かれていたというのである。


●(敵の)火線へ飛び込む意志はあるものの、将校に続いて突撃するのをためらっている兵たちをみたことがある。あるときなどは、将校が突撃と絶叫して何百ヤードか進んだところで誰もついてこないことに気付いた。彼は舞い戻って兵たちを殴りつけ、そして突撃した。

―マンガチックだが今もこういう勇猛果敢な上司と臆病な部下の乖離はありそうだ…。


●日本の下級将校は下士官よりいいものは食べていない。食べ物は兵と同じもので、若干品数が違うだけだ。上級将校は王侯のような食生活をしている。日本陸軍の組織の擬似的平等性。同じ物を食べていたことが、将校と下士官、兵を心情的に結びつける効果を発揮していた。宴会では中隊長も兵も一緒に酒を飲んでいた。

●1943年に私が出会った日本兵は完全に戦争に飽いていた。彼らは熱帯を呪い、日本に帰りたいと願っていた。都会の日本兵は映画のおかげで親米(pro-American)である。対米戦争当初の日本にはアメリカ人に対する蔑称らしいものがなく「鬼畜米英」が盛んに叫ばれるのは44年に入ってから、つまり実際には対米戦意が高いとはけっしていえなかったという。


●日本人は決して天皇・ヤスクニ大事で戦っていたわけではなく、味方の暴力を怖れて戦っていた。思考能力は米兵からみて三流。

―わたしは今も「日本人ビビり」説をとっているが、恐怖心の強く働きやすい人を動かすのに暴力という、より身近な恐怖を与えることが有効と軍の上官は考えていたようだ。それはもちろん思考力の低下を招き、指示待ち人間をつくる。

ーついでにいうと日本人は元々あんまり頭が良くないかもしれない。最も高いIQと関連づけられる遺伝子スニッブの持ち主はごくわずかで、国際比較でみても低率だ。これは、社会全体の抽象的思考能力の弱さと恐らく関連しそうだ。それでも一部には「知能遺伝子」を持った人がいるわけで、こうした人々の存在が、全体像を正しく把握することを阻んでいるという意味のことを岡田尊司氏が言っている。


●日本兵同士は互いに愛情がなく、他隊の手伝いをしない。親分子分関係によるセクショナリズム。


●米軍は日本兵を捕虜にとらえると手厚く遇した。それは日本人がその特有の面子の感覚で、好意を受けたらお返しをしなければならないと思っており、厚遇のお返しに自国の機密を教えることもやぶさかでなかったからである。


ー米軍内の呼びかけとして、「あなた(米兵)が捕虜に対して嫌悪や侮蔑の感情を持ったらいい情報はえられない。正しく扱え」というのがあるが、現代のマネジメントにも大いに通じそうな思想。当協会方式の「承認」に「リスペクト」という要素を入れて割とうるさく言うのは、「見下しの感情を持つな」と言うことだけど、結構な修練を要する難しいこと。当時のアメリカ兵には容易だったのだろうか。謎


●一方で日本軍が連合国軍兵を捕虜に捉えたばあいは、「腕力」に頼り「上から目線」で尋問することをよしとしていた。ここでも工夫のない日本軍。


●日本兵は遺体の回収は熱心で死者に対しては丁重だが生きて苦しむ傷病者にはそうではない。撤退時には自決を勧める。


―井坂昭彦なんかによると昔から日本人は死者にたたられるのを異様に恐れてそれが行動原理になっているようですが・・・、
過去に臓器移植の議論で感じた不毛さにも通じそうな気がするし現代の若者や子育てに優しくない社会にも通じそう。過去になったものが好きで未来は重要じゃない。だから私も死にたくなるのカナー。


 このあとは戦場で「医療」を軽視する日本軍の話が続きます。


●医療が戦の勝敗を決めるとはどういうことか。例えばガダルカナル作戦での勝敗の差は、日本兵がマラリア、脚気、腸炎で弱って敗北が明らかになるまではわずかであった。ガダルカナルには4万2000人の日本軍がいたとされるが、その半分以上が病気や飢餓で死亡し、負傷者の80パーセント以上が不適切な治療、医療材料の不足、後送する意思と能力の欠如により死亡したとみられる。

●日本軍の短期決戦思想に基づく補給の軽視はよく指摘されるが、医療もまた当事者の言葉によれば「金がないから」という実に官僚的な理由で軽視されていたのであった。
 上から一方的に”滅私”と称して苦痛への我慢を要求する日本軍のやり方が、結果的に兵士たちの精神力・体力―軍の戦力ダウンとなって跳ね返っていた。


―このくだりはわたしなどはつい、「医療」を「教育」と置き換えて読んでしまいました。短期決戦思想に基づく教育の軽視、という言い方もできる。その結果が今のパワハラメンヘル現象だ。教育でストップをかけないからとことん病んでしまう。そして警鐘を鳴らすタイプの研修だけが横行する。

 もうひとつ著者のコメントの入ったくだりをご紹介しますと、

●「患者に対する日本人の典型的な態度は西洋人には理解しがたいものがある。敵は明らかに個人をまったく尊重していない。患者は軍事作戦の妨げとしかみなされないし、治療を施せばやがて再起し戦えるという事実にもかかわらず、何の考慮も払われない」 患者を役立たずと切り捨てる精神的態度が「日本人」なり「東洋人」特有のものとは思えないが、個人とその生命を安易に見捨てた過去の姿勢を現代の日本社会がどこまで脱却できているかは、常に自省されるべきだろう。

―そういえば年齢相応の病気したらくそみそに言われたなー、某プライベートな組織で。遠い眼。


 このあとは「夜間攻撃」と「穴掘り」を繰り返した日本兵、といった戦術面の記述になりますが割愛。


 
 この著者はこれまでも日本軍史研究の著書があったのだ。知りませんでした。大変おもしろいですね。



 もう、昭和に戻るのはやめよう。どんな集団なのかをクールに見極めれば、暴力暴言に頼らない動かし方伸ばし方というのはわかってくる。見極めをしないまま工夫もなくギャーギャー怒鳴ってボコボコ殴っていた世代から学ぶのは止めよう。


 最近は私はしゃべりの仕事の中で日本人の短所を声高に言うことはしなくなりましたが、教育の根底のところにはそういう考え方があります。日本人は決してかっこいい民族ではない。知覧とかで観光して騙されないように。


リアリズムに徹し敵を知り己を知れば百戦危うからず。「昭和的なるもの」に代わる決定版のようなリーダー教育をつくろう。


 
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『つながりの作法―同じでもなく違うでもなく―』(綾屋紗月+熊谷晋一郎、NHK生活人新書、2010年12月)より。

 ここでは、アスペルガー症候群の診断名をもつ著者(綾屋氏)が自分の体内感覚を語ります。
 

…世界の中でモノや人がてんでんバラバラに統一感なく発している情報を、いやそもそも自分の身体の内部において、体の各部分が一致することなく勝手気ままに発している情報も、自分にとって大事かどうか、必要かどうかという優先順位をつけにくく、等しく感じとってしまうのである。そのため電車の中ならば、人々の服装、におい、しぐさ、話し声、車内広告の内容、温度、湿度、電車の揺れ、走る音、ブレーキ音、加減速の圧力、車内の明るさ、車窓の風景、駅名、揺れる自らの身体感覚、立ち続けるための身体のバランスなど、バラバラで大量の情報を無視できずに感じ取ってしまいがちだ。



 それと同じように私は、「頭がかゆい」「鼻水が出そう」「おなかがへこむ感じがする」「のどが痛い」といった身体のあちこちからくる不一致な訴えを同等に聞いている。また、それらひとつひとつの訴えがお互いに関連性があるのかどうかがわかりにくいので、たとえば「おなかがすいた」という、体全体の変化としてなかなか捉えられない。時間を経るにつれて、「胃のあたりがへこむ」「ボーっとする」「倒れそう」「胸がわさわさして、無性にイライラする」「胸が締まる感じがして、悲しい」などのいくつかの身体・心理感覚だけが徐々に大きくなっていくことで、どうもこの状態が「おなかがすいた」と名づけてよい感覚なのかもしれない。




 いかがでしょうか。

 こうして「自分の体内感覚」を雄弁に語れるアスペルガーの人は非常に珍しいようです。
 これはあくまで綾屋氏個人のもので、アスペルガーの人一般がこういうわけではない。自閉症スペクトラムであれADHDであれ、発達障害の人は一くくりにできるわけではなく、その中に非常に多様な個別性があるということを念頭におかなければなりません。上記の記述も自閉症スペクトラムとADHDの診断基準、どちらも混ざっているような気がしますし実際にその両方の障害をもちあわせている人も多く、また外部からの診断と本人の体内感覚が食い違うケースも多々あるそうです。


 しかし、やはりこうした記述に触れると、これまで接してきた発達障害、あるいはそれらしい人達のふるまいが、これまでよりはるかに「理解可能」に思えます。

 ここまであらゆる情報が混乱した形で入ってくるんだ。
 それらをまとめあげることができないんだ。


 そうすると、たとえばこうした感覚の持ち主の人たちにとって「構造化―明確なルールを与える」ことがいかに重要か、支えになるか、ということがわかるような気がします。

 また、こうした人たちが「人」について奇妙に序列意識が強く、「偉い人は偉い」といった固定観念を強くもっていたり、「あの人は女だけどたくましい」「女だけどリーダーシップがある」といった、わかりやすい記号で理解できないものを忌避したくなる気持ちもわからなくはないのです。いわば、人についての理解が「ステレオタイプ」的にならざるを得ない。(でも困りますけどね)
 変化とか変革といったものも苦手でしょう。なぜなら混乱を極めるこの世界の情報の中で、自分が唯一安心してよりどころとなる、仕事の仕方とか方針とかが変わるということは、大きなストレスになるはずですから。


 「発達障害者の当事者研究」というこの分野は、現在のところ冒頭の綾屋氏ぐらいしか公に発言していないので、できればより多くの人の発信に触れたい、と思うところですが、「この1つ」がもちろん唯一無二のものではないことを念頭に置きつつも、当方にとってやはり大きなヒントになり助けになる、と思うところです。


 このブログで過去に『大人の発達障害ってそういうことだったんだ』という、こちらは徹底的に「あけすけ」な外部者目線、しかし職場で出会う「診断を受けていない発達障害者」に接触する管理者等にとっては大いに助けになる本―を紹介してしまった立場上、こちら側からの視点を今度は提示しなければ、と責任を感じてしまったのでした。

 発達障害者の人がよく使う「生きづらい」「生きづらさ」という言葉、その中身はこういう種類のものであり、それが「ああ、それは確かに生きづらいだろうな」と皮膚感覚で理解できれば、それまでよりはるかに寄り添える。

 このブログの読者の皆様がそうした「寄り添える」感覚を持てる知性の持ち主であることを願っております。



・・・実はこれに関連して語りたいことはいっぱいあって、

 例えば、以前から「発達障害本」に「ADHDの人はものごとに優先順位をつけられずすべて並列に等価値として受け止める」といった記述がありましたが、冒頭の記述にもそれを想像させる記述部分があります。
 重要なことについて、「これは重要だ」と、ぴんとくる感性、というのは、発達障害ではない定型発達の人の特権のようです。
 個人的には正田は、ふだん接触することの多い部署の人びとが「これは重要だ」と思う感性がないことにいらいらすることが多いのですが、、、
 こういうふうに、「ビジネス思考としてこういうことが必要」と思われている、言われていることが実際にできるか、できないかにも「発達障害」はすごく関わってくるので…、

 「ものごとの重要性とか優先順位がわかる」ほうの人たちは、自分は運よくそういう知性に産んでもらった、と思ったほうがいいかもしれないです…。

 このたぐいの話はほんとにいっぱいあります…。
 つづきは合宿で。かな?



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 このブログをフェイスブックに自動転送して、都度フェイスブックの読者(お友達)の方の評価にゆだねることにしていると、1つだけはっきりわかる傾向は、

「当協会の会員様受講生様が表彰されました」

という類のお知らせを書くと「いいね!」が減る、ということです。

 だから1つ前の記事に迷わず「いいね!」を押した方は、私から見て他人の幸福をねたまない、あるいは自分も励みにしよう、と思うことのできる、ナルシシストでない健康な公正な心の持ち主の方だと思います。その人たちは幸せになると思います。こらこら。


 ま、私はそんなことは関係なく、当協会の会員様受講生様方の景気づけのために、いただいたご報告をありがたくブログに載せるんですけど。

 
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 『「勇気」の科学―一歩踏み出すための集中講義』(ロバート・ビスワス=ディーナー、大和書房、2014年1月)を読みました。

 このブログでも最近「リスクテイキング」の話題に何度か触れ、1つ前の記事でも「勇気」という言葉を使ってしまいましたが、リスクをとる力とはすなわち「勇気」のことです。勇気は、正しいことをしようかどうしようか迷ったときに、「する」―実際の行動をとる―ことの助けになります。いわば、私たちが「正しくある」ことのための重要な部品が「勇気」です。またリーダー教育でも、簡単には伝えられませんが間違いなく大事な要素です。もうひとついうと「イノベーション」にも勇気は欠かせないもので、従来のイノベーション研究ではあまり言われてきませんでしたが組織の勇気の欠如がイノベーションの欠如に直結していることでしょう。


 余談ですがわたしは以前役人世界の不愉快なコミュニケーションを「IHKM」すなわち言い訳・屁理屈・口ごたえ・負け惜しみ、と分類したことがあります。本当は何が正しいかわかっている、しかしそれをする勇気はない、しかしプライドはやたらに高く、そしてなまじIQも高いので自己正当化のためのレトリックは豊富にもっている、そうした人達の特有のコミュニケーションです。
 こうしたコミュニケーションは一見まっとうなことを言ってそうなのですが時間をかけて咀嚼するとなんだ、要するに「弱虫」なんだよなこの人、とわかることがあります。年の功でそういうのを見抜くスピードは速くなったと思います。
 こういう言い訳がましい人達を相手に見栄を張って「ボトムアップコミュニケーション」をしていると、まあ大変ですね。ときには、「さっさとやれ」って頭ごなしに言ったほうがいい場合があることでしょう。

 えと、公務員のお友達もいてますが、「勇気」のある人はわたし的分類では「役人」ではないので・・・、大丈夫あなたのことではないんですよ。


 で、「勇気」というものを史上初めてさまざまな角度から検証しその身に着け方も指南した「本書は、現代の日本人にとって、とてもタイムリーなものです」(本書の解説・清水ハン栄治)は、わたしもそのとおり、と思います。

 今どきの「LINEでのべつつながってる中高大学生」や「二代目経営者コミュニティから抜け出せない二代目さん」などは是非読んでいただきたい。

 できれば本書は購入していただきたいので(1600円+税)内容紹介を最小限にとどめたいのですが、

 最重要ポイントだけ簡単にご紹介しましょう。


●勇気には、二つの主要な要素があります。「行動意志」と「恐怖のコントロール」です。恐怖を抑制すると、行動意志を高めることの二つの能力を向上させることで、あなたの人生の価値は高まり、より良く生きられるようになります。


−「恐怖」をどれだけ感じるか、ということと、その恐怖をも乗り越えて行動意志をはたらかせることができるか、というのが最終的にその人がどれだけ勇敢かを測る指標になるようです。

 本書の巻末に「不安(恐怖)スコア」と「勇気への傾向スコア」のページがあり、質問に答えることによってあなたのそれぞれのスコアが自己採点できます。
 
 ちなみにわたしがやってみると不安スコアは最高レベルで(だって、セロトニン値もオキシトシン値も低い平均的日本人だもん(-_-メ)) しかし「勇気への傾向スコア」は中級レベルでした。質問項目に「社会的な圧力が強くても、私は正しいことを行うのをためらわない」みたいなのがありますからね。ただ救急処置にはちょっと疎いですね。


●このほか「責任を感じる」「怒りを使う」「恐怖をシミュレートする」「あえて失敗する」などの方法で勇気を高めることができる。その他詳しくは本書参照。


●世界には尊厳の文化、名誉の文化、面子の文化があり、アメリカは尊厳の文化。日本や韓国は面子の文化で、「他者からの評価」を重んじる。

―日本は文化的に「恥」を恐れるので勇気が弱いといえそうです。まあ文化と遺伝子は相互作用するみたいで、基本、遺伝子的に日本人はビビリだと思いますけどね…。こういう社会である日本では、必要な教育とはこどものころから丁寧に「小さな勇気」を奨励して、遺伝子的な弱さを補うことだろう、と思います。それが重要な目的だということを理解している教育者でないとむずかしいだろうと思います。

また当協会方式の「行動承認」は、「行動する勇気を貴び、讃える」ということにつながりますので、「勇気」を高めるトレーニングの意味あいもあります。あ、嘘だと思うかもしれないけど割と最初からそういうことを意図してるんですよ。言うでしょ、「日本人の勇気と自信はここから生まれる」って。



 そしてこれも、あまりだれも言ってくれないのでわたしが自分で言うのですが、
 
 このブログの隠れた役割の1つとして、「勇気」を伝承する、というのがあると思います。1つ前の記事の有光毬子さんや柏原直樹さん、その他多くの顔出し・名前出しで当協会の教育の成果を語ってくれた登場人物たち、かれらも勇気を体現しています。

わたしもまた、時には「政治カフェ」を開催するなどして、あえてリスクを取る姿を見せています。

 また、有光さんのインタビューの中で、柏原(かいばら)出身の有光さんに「城下町の人は、どこか『武士道精神』的なものをもっていますね」と私がいうくだりがあるのですが、何をもって「武士道的」と感じているかというと、有光さんもそうなのですが「大義」的なものがあったときに、それに沿って行動することをためらわない、臆病風がそれの妨げにならない、ということがありそうです。もちろんそれは人によって濃淡があるでしょう。


 だから、現役マネージャーたちが「このブログを読んでいるだけでマネジメントができる」と言ってくれるとき、彼ら彼女らはたぶん、「承認」とその周辺知識、仲間たちの実践例を読み取っているだけでなく、「勇気」を読み取り、自分の中に「勇気」の「血中濃度」を上げているだろう、と思います。

 それは、「承認」にかぎらず、かれらが「正しいことを(多少の波紋を産むのを覚悟して)行う」ことの助けになり、彼ら彼女らの高業績の助けになっているだろう、と思います。なにせそれは、ほかの大半の人ができないことですからね。

 うん、最近どなたかが「私が正田さんをいいと思ったのは『潔さ』だと思います」という意味のことを言ってくださったんですが、としをとってくると、得るものと失うものの計算がさっとできるようになるんですよ。


 というわけで今回は講釈ばかり多い不親切読書日記でした。



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 『成功する子 失敗する子―何が「その後の人生」を決めるのか』(ポール・タフ、英治出版、2013年12月)を読みました。

 読んでいて何度も「重く」なりましたが子育てを終わった私にとっても価値ある心の旅でありました。

 大まかに、人生の成功のカギは粘り強さや自制心、好奇心、誠実さ(勤勉さ)、ものごとをやり抜く力、自信などの「性格の強み」である、ということを最新アメリカ教育理論を総合して言っています。

 とりわけ貧困家庭に育った子どもたちの「貧困の連鎖」を断ち切るために決定的に重要なものであることも。


 印象的だったところをご紹介しましょう。


●過去十年、とりわけここ数年、経済学者、教育者、心理学者、神経科学者は知能至上主義に疑問を投げかけ始めた。子どもの発達に最も重要なのは、最初の数年のうちにどれだけたくさんの知能をつめこめるかではない、と彼らはいう。ほんとうに重要なのはそれとはまったく異なる「気質」、つまり粘り強さや自制心、好奇心、誠実さ、ものごとをやり抜く力、自信などを伸ばすために手を貸せるかどうかであるという。これらは「非認知的スキル」あるいは「性格の強み」とよばれる。


●アメリカの高校修了同等資格(GED、高校中退者が高卒資格を得る日本の大検のようなもの)は、人生を改善する手段として長い目で見た時に役だっていなかった。22歳の時点で四年制の大学に在学中か、すでになんらかの高等教育を終えている若者は、GED取得者では3%しかいなかった。これに対し高校の卒業生では46%にのぼった。将来的に生じうるあらゆる重要な数字―年収や失業率、離婚率、違法ドラッグの使用率など―についてみると、GED取得者は平均して高校中退者よりかなり知能が高いにもかかわらず、中退者とそっくりな結果が出た。


(正田注:わたし個人的にもっとも「重い」と感じたのはこの部分。でもそれは個人的経験に密接に結びついていて、その経験の中身は長くなるので別の記事にゆずりたい。もし実際の大検取得者や、現在よんどころない事情で中退―大検受験を考えている方が読者の中におられたら、気分を害するかもしれないことをお許し願いたい)


●GED取得者に抜け落ちていたのは、高校の卒業生が最後まで学校に残るために必要だった心理上の特質だった。それは報われることの少ない退屈な作業にあたるときの粘り強さだったり、喜びや楽しみを先送りにできる能力だったり、計画に沿ってやりとげる傾向だったりする。それは大学でも、職場でも、人生全般においても価値のあるものだった。


●幼少時のストレスは大人になってからも健康を損なう。ストレスは飲酒、喫煙など自滅的な行動様式をももたらすが、仮にそうした行動がなくても健康が損なわれる。わたしたちの身体はHPA軸と呼ばれるシステムを使ってストレスに対応しているが、それは本来天敵から逃げるときのような急性のストレスに対応するものだった。しかし現代のわたしたちは生活上の慢性のストレスにそのシステムを使い続ける。HPA軸に、とくに幼少期に負荷をかけすぎると、長期にわたる深刻な悪影響が体にも、精神にも、神経にもさまざまに出てくるのである。

●ストレスを管理するプロセスは「アロスタシス」とよばれる。これこそが体を損なう要因であり、人体のストレス対応システムは、酷使すればやがては壊れてしまう。そうした徐々に進行する人体への負担をマキューエンはアロスタシスによる負荷と呼び、負荷による有害な影響は体を観察していればわかるという。


●アロスタティック負荷(ストレスを管理することで受けてきたダメージの総量)を数字に置き換えるこころみがある。これを正確に表そうとするなら、血圧や心拍数だけでなく、ストレスによって敏感に動くほかの数値も考慮する必要がある。コレステロールやC反応性タンパク(CRP)のレベル、尿中のコルチゾールその他のストレスホルモンの数値、血中の糖やインシュリンや脂質の数値などだ。これらすべてを含む複合的な値が、将来どんな病気にかかるかを判断する際に信頼のおける数値となる。


●子ども時代の逆境(ACE)の数値が高ければ高いほど、成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていた。ACEの数値が4以上の人は子ども時代に逆境になかった人々に比べて喫煙率は2倍、アルコール依存症である割合は7倍、15歳未満で最初の性行為を経験した割合も7倍。がんの診断を受けた率は2倍、心臓病は2倍、肝臓病も2倍、肺気腫や慢性気管支炎を患っている率は4倍だった。ACEの数値が6を超える成人は、ゼロの人びとに比べて自殺を試みたことのある割合が30倍にのぼった。そしてACEの数値が5を超える男性は、ゼロの男性に比べて46倍という高率でドラッグを注射したことがあった。


●ストレスの影響はおもに思考を制御する能力を弱めるかたちで出る。これは「実行機能」として知られる。実行機能は高次の精神活動の集積である。おおまかにいって、混乱していたり予測がつきづらかったりする状況や情報に対処する能力のことである。ストループ・テストでは緑色の文字で書かれた「赤」という単語を見せられ、単語は何色で書かれていましたかと尋ねられる。赤、と答えないためにはいくらか努力が必要で、とっさに赤といいそうになる衝動に抵抗するときに使っているのがこの実行機能なのだ。

(正田注:この記述を見る限り、「実行機能」という概念は『ファスト&スロー』でいう「システム2(遅い思考)」の機能に似ているように思われる。直観的・反射的な思考の誤りをチェックする機能である。ストレスの影響を受けない人のほうが「まじめ」にものを考えられるということだろうか)


●貧困はワーキングメモリを低下させる。10年を貧困のなかで過ごした子どもは5年の子どもよりもワーキングメモリ・テストのスコアが悪かった。ところが、統計学の手法を使ってアロスタティック負荷の影響を除外すると、貧困の影響も完全に消えてしまった。実行機能の能力を阻害しているのは貧困そのものではなく、貧困にともなうストレスだったのである。


●実行機能の高低は将来を見通すのに非常に役立つが、実行機能はほかの認知的スキルよりもはるかに柔軟である。前頭前皮質は脳のほかの部位よりも外からの刺激に敏感で、思春期や成人早期になっても柔軟性を保っている。だからもし環境を改善して実行機能を高めることができれば、その子どもの将来は劇的に改善される可能性がある。

(正田注:「成人早期」という言葉が出た時、想起されるのは、学校を出て就職して間もない若者は、まだ人生をやり直せる余地があるかもしれないということである。とりわけ、かつて流行ったフラット化ではなく、昔ながらの5−7人のユニットで仕事をし、リーダーが十分に1人1人に目が届く環境であれば、それはその子の人生にとって、かつてなく信頼のおける大人に「みてもらえる」「育ててもらえる」環境が整うことになるのである)


●思春期の脳には独特にバランスの欠けたところがあり、そのせいでよくない衝動の影響が出やすい。強い影響を与える神経系は2つあり、この2つの発達がきちんと連動していないところに問題がある。一方は刺激処理システムと呼ばれるもので、これによって人はより興奮を求め、感情的に反応し、周囲の情報に敏感になる。もう一方は認知制御システムと呼ばれるもので、あらゆる衝動を規制する。十代が危険な時期であるといわれてきたのは、刺激処理システムが思春期の早い段階で最大まで発達するのに対し、認知制御システムのほうは二十代になるまで成熟しきらないためだ、という。このため数年のあいだは行動を抑えてくれる制御システムが不備なままで狂ったように刺激を処理していくしかない。

(正田注:こうした思春期の脳の状態を考えれば考えるほど、この時期のネット依存は危険なことに思えるのだ)


●毛づくろいとアタッチメント、ストレス制御の関係の話題。母ラットになめられたり毛づくろいをされたりする頻度の高かった群の子ラットを「高LGグループ」、頻度が低かった群を「低LGグループ」としたとき、高LGグループは迷路を抜けるのもうまく、より社会性があり、好奇心が強く、攻撃性が低く、自制がきいた。より健康で長生きだった。高LGグループと低LGグループではストレス対応システムに著しい相違がみられた。ストレスに対処する脳の部位の大きさやかたちや複雑さが大きく異なった。


●母ラットがなめたり毛づくろいをしたりすることで与える影響は子ラットのホルモンや脳内化学物質の範囲にとどまらないことが立証された。もっとはるかに深い領域、遺伝発現の制御にまで影響が及ぶのである。生まれてまもないころの子ラットへの毛づくろいは、DNAの制御配列への化学物質の結合―「メチル化」として知られるプロセス―に影響する。毛づくろいによって子ラットのゲノムのどの部分に「スイッチが入る」のか突き止められた。それはまさに成体になってからストレスホルモンを処理する場所、つまり海馬をコントロールする分節(セグメントだった。

●1万2千人を超える幼児を生後まもないころから追跡し、ストレスのある状況に反応してコルチゾールのレベルがどれだけあがるかを計測したところ、家庭内の騒動や混乱、人の出入りといった環境上のリスクが子どものコルチゾールの値に大きな影響を及ぼすことがわかった。ただしそれは母親が無関心だったり無反応だったりした場合だけだった。母親の反応の感度が高ければ、環境上の要因が子どもに与える衝撃はほぼ消えてなくなるようだった。いいかえれば、質の高い育児は逆境による子どものストレス対応システムへのダメージをやわらげる、強力な緩衝材として働くのである。


(正田注:皮膚接触によるエピジェネティクスの議論。このあたりは女性活用の観点からすると不愉快なようだが、結局わたし自身はそのような選択をしていたと思う。3人の子どもたちの一番末っ子が3歳になるまでは専業主婦をやっていたので、仕事から離れていた期間が8年にわたった。それでも子どもが幼いうちは膝の上で育てることには疑いをいだかなかった。こうした毛づくろいの理論を発展させるとアベノミクスの「育休3年抱っこし放題」ということになると思うのだが、私は人間も生物の一種だと思う方なのであまりそれに抵抗を感じない。女性はとくに有能な人であれば、3年程度のブランクはすぐに追いつき追い越すものだと思っている。もちろん制度設計をする側になったことはないので、その困難を度外視して言っている)


●中学生を対象とした研究で、累積されたリスクの値、アロスタティック負荷の測定値、それからジェンガ(おもちゃ)を母子で一緒に遊んでもらっているところを研究者が観察した結果を総合すると、環境上のリスクの値が高いほどアロスタティック負荷の値も高い。しかし母親がジェンガのゲームのさいちゅうに子どもの感情に敏感で手助けをしたり気遣いを示したりした場合、劣悪な環境でもアロスタティック負荷には影響を与えなかった。ごくふつうの適切な親のかかわり方が、子どもの将来に大きく影響を与える。


●愛着(アタッチメント)理論。エインズワースの1960年代から1970年代までの研究で、生後1か月ほどのあいだ、泣いたときに親からすぐにしっかりとした反応を受けた乳児は、1歳になることには、泣いても無視された子どもよりも自立心が強く積極的になった。


(正田注:アタッチメント理論は当初ウーマンリブの風潮からは女性を家庭に縛り付けるものだとして批判的に迎えられたときく。わたし個人は親がそれの前の行動主義育児理論にかぶれたらしく、「抱き癖がつく」と抱っこされないで育ったらしい。そうしたハイカラな理論を学ばなかった親戚のおばちゃんが「赤ちゃんは抱っこして目を見ながらミルクをやるものよ!」と母親に意見したらしい。現代ではそちらのほうが正解になっている。今でも人に甘えられない孤独な性格はそれのせいだろうか、と思うことがある。自分の子に対しては反動でしょっちゅう抱き上げて育てた)


●彼らの発見によれば、アタッチメントの分類は決定的な運命ではない。子ども時代のうちに愛着関係が変わることもあれば、「不安定群」に分類された子どもが大人になってから成功する例もあった。しかし多くの子どものケースで、アタッチメントの安定した子どもたちは人生のどの段階でも社会生活を送るうえでより有能だった。就学まえも友達とうまく遊ぶことができ、児童期にも親密な友人関係を築くことができ、思春期の複雑な人間関係もより上手に切り抜けることができた。


●子どもたちの高校生活を追ったところ、どの生徒がきちんと卒業するかを予測する際に、知能検査や学力テストの得点よりも、幼少期の親のケアにかんするデータのほうが精度が高かった。幼少期の親のかかわり方のみを判断材料に、子どもたち自身の気質や能力をあえて無視して数字をはじきだしたところ、精度は77%だった。つまり、子どもたちが4歳にも満たないうちに、誰が高校を中退することになるかを8割近い確率で予測できたことになる。


●貧困家庭の母親の支援をすることによって愛着関係をよいものに変えることができる。リーバーマンは親子心理療法と呼ばれる治療法を開発した。親子心理療法では、幼児のセラピーと危機にある親のセラピーを同時におこなって親子関係を改善し、親と子の両方を心的外傷の影響から守ろうとする。週1回のセッションが1年つづくこともある。治療群では、1年の治療後2歳になった時点で、61%の子どもが安定した愛着関係を形成していた。対照群ではそれがたったの2%だった。


●フィッシャーは里親を対象にしたプログラムで、里親に6か月の訓練を施し、家庭内の対立や困難な状況をうまく処理するためのアドバイスを与えた。このプログラムを6か月受けたあとの子どもに「安定群」の徴候だけでなく、コルチゾール分泌のパターンの変化―機能不全から完全に正常へ―が見られた。


●ポジティブ心理学の登場。セリグマンは『性格の強みと美徳』(未邦訳)で、「好ましい気質の科学的な分析」をはじめようとするひとつの試みをおこなった。そこではどの時代のどんな社会でも評価される性質をつきとめようとし、古今東西の多くの場所で高く評価されると思われる24の性格の強みをリストにまとめた。このリストには、勇敢、市民性、公正、賢明、高潔といった従来高く評価されてきた特徴も含まれる。また、愛、ユーモア、熱意、美をめでる心といった情緒の領域に踏み込んだものもある。さらに、社会的知性(人間関係における力学を認識したり、異なった社会状況にすばやく適応したりする能力)、親切心、感謝の心といった日々の人間関係にかかわるものもある。セリグマンとピーターソンは「性格」を、変わる事のおおいにありうる―適応できる力を備えた―強みや能力の組み合わせであると定義した。性格とは習得でき、実際に仕える、そして何より人に教えることのできるスキルなのである。


●「読み替えスピードテスト」という退屈なテストの成績が、重要な資質の指標になった。NLSYの参加者のうち大学を卒業しなかった者だけを見ると、読み替えスピード・テストのスコアはあらゆる点で認知能力テストとおなじくらい正確な予測指標になっていた。スコアの高かった者の年収は、低かったものよりも何千ドルも多かった。
 このテストで測れるのは、見返りがなくてもテストに真剣に取り組むことができるような、内なるモチベーションだ。この「見返りの有無にかかわらず努力できる資質」を、パーソナリティ心理学の言葉で「勤勉性」とよぶ。


(正田注:一時期内発的動機づけか外発的動機づけか、の議論が流行ったが私はあの議論に乗れなかったし、「アルフィー・コーン」の著作に関しては強烈な論争のネタにしたが、その理由がこれでわかる。勤勉な人はほっといても勤勉なのである。コーン氏が批判した、小遣いで釣って勉強させる親子の図などは、もともと子どもが勉強好きでなく報酬が好きな性質、いわば勤勉性の低い性格のもちぬしだった、という程度の話である。
 また、じゃあ勤勉性の高い人にご褒美が必要でないのかというと、その人たちでも1か月とか1年という単位で、無給で働くのと有給で働くのとどっちがいいか?ときかれれば有給のほうがいいと答えるはずである。ただそういう実験デザインがないだけである。また、全然承認されないよりは適度に承認されたほうが彼らだって嬉しいはずである)


●パーソナリティ心理学の領域で勤勉性の研究の第一人者であるブレント・ロバーツによると、研究の世界では「勤勉性」は厄介者扱いされ、あまり研究されないできた。「研究者というのは自分が価値を置くものについて研究をしたがるものです」とロバーツはわたしにいった。「勤勉性を高く評価するのは知識人でも学者でもない。リベラルでもない。宗教色の濃い保守派で、社会はもっと管理されるべきだと思っている人びとです」(ロバーツによれば心理学者が好んで研究するのは「未知のものごとに対する開放性」だそうである。「開放性はクールですからね」と彼は少しばかり悲しそうにいっていた。「独創力についての研究だから。それに、リベラルのイデオロギーともいちばん強い結びつきがある。パーソナリティ心理学の世界にいる人間はほとんどがリベラルなんですよ。いってしまえばぼくもね。学者は自分たちのことを研究するのが好きなんです」)


(正田注:ここも示唆的で、少し笑えた。そうなのだ、学者、コンサルタント、新聞記者といった人々は社会人全般からみるとかなり特殊で、「自由」を標榜したがる。かれらは独創的なもの、新奇なもの、表現的なものが好きで好んで扱う。わたしはよくアリとキリギリスの比喩を使うが、承認コーチングなどはまるっきり「アリ」の世界の営みで、勤勉で愛社精神に富んだ良きサラリーマン、ビジネスマンのやることだ。そういうものは自由人の彼らにとって退屈で、取り上げる価値のないものなのだ。アリが働いてこそ彼らもお給料をもらえる立場だというのに)


(続き:なお、「ビッグ・ファイブ理論」はこのブログでは『パーソナリティを科学する』(2009年11月頃?)の読書日記でとりあげている。一時期、当協会プログラムでも性格分類の部分で「ソーシャルスタイル」をやめて「ビッグファイブ理論」に乗り換えようかと思ったが、「承認」との相性の良さで結局今でも「ソーシャルスタイル」を使っている。このときの読書日記に私は、「外向性の低い私は誠実性(勤勉性)を極限まで高めて辛うじて研修講師の仕事をしているのだと思う」という意味のことを書いた)


●産業・組織心理学の分野では、勤勉性は評価されてきた。企業には学究的で難解な議論とはかけ離れたニーズがあり、生産力が高く、信頼のおける、仕事熱心な働き手を雇いたいわけである。職場の成功のいちばんの指標となるのはビッグファイブのうちの勤勉性であるとわかった。
 勤勉性の高い人びとは、高校や大学での成績もよい。犯罪にかかわる率が低い。結婚生活も長く続く。そして長生きである。喫煙率や飲酒率が低いせいだけではない。血圧が低めで脳卒中にならず、アルツハイマー病を発症する確率も低い。


●勤勉性のわるい面。一部の心理学者は、過剰な自制心は過小な自制心と同様問題になりうると主張した。そういう人びとは「決断に困難を覚え、必要もないのに満足をあとまで我慢したり、喜ぶことをみずからに禁じたりする」。こうした研究者たちによれば、勤勉性の高い人々は古くさく堅苦しいし、神経症的で抑圧されているという。


●しかし全般的に、ものごとの良好な結果と自制心は相関する。2011年、1000人を超える若者を30年にわたって追跡した研究がまとまった。それによると子どものころの自制心が弱いほど、32歳の時点で喫煙率が高く、健康に問題を抱えている割合が高く、信用度が低く、法律上の問題を抱えている確率が高かった。影響が甚大なケースもいくつかあった。子どものころの自制心のスコアが最も低かった人々は、最も高かった人びとに比べて3倍の確率で犯罪にかかわっていた。アルコールやドラッグの依存症である確率も3倍。ひとりで子どもを育てている確率は2倍だった。


●やり抜く力(グリット)。ひとつの仕事に情熱を持ってかかわり、揺らぐことなく専念できる資質。グリット・スケールはやり抜く力を測定するテストで、12の短い文章が並んでおり、回答者がそれぞれについて5段階で自己評価する。自己申告だがおおいに成功を予測する指標になることがわかった。

(正田注:一昨年流行った「意志力」ですね)


●ピーターソン(セリグマンの共同研究者)は、24の性格の強みを実際の教育システムに取り入れるために絞りこみ、7項目のリストにした。

・やり抜く力
・自制心
・意欲
・社会的知性
・感謝の気持ち
・オプティミズム
・好奇心


●富裕層の子どもも中学あたりから精神面の問題を持ちはじめる率は高い。「ヘリコプター・ペアレンツ」―つねに上空をうろつき、何かあれば助けだす準備は万全―と呼ぶような親は大勢いるが、子どもとの気持ちの結びつきがない。豊かな子どもたちが抱える悩みのいちばんの原因は「成果をあげることへの過大なプレッシャーと、精神、感情の両面における孤立」だった。

●裕福な家の思春期の子どもに不安や鬱の値が突出して高い。親と子のあいだに感情面でのつながりがない場合、親は往々にして子どもの悪いおこないにひどく甘かった。


●裕福であることは、生徒の性格の発達に有害な影響を与えうる。リバーデールでは多くの親が子どもに抜きんでることを強要しながら、まさにそのために必要な気質の成長を知らず知らずのうちに妨げている。もともとリバーデールのような学校の目的は子どもたちの人生における可能性の「天井」を高くすることではなく、「床」を堅持すること、子どもが上流階級から転げ落ちることのないようなつながりや保証を与えることだ。リバーデールが親たちに提供するのはほかの何よりも、失敗のない人生への保険なのである。

●ここに問題がある。若者の気質を育てる最良の方法は、深刻に、ほんとうに失敗する可能性のある物事をやらせてみることなのだ。ビジネスの分野であれ、スポーツや芸術の分野であれ、リスクの高い場所で努力をすれば、リスクの低い場所にいるよりも大きな挫折を経験する可能性が高くなる。しかし独創的な本物の成功を達成する可能性もまた高くなる。


(正田注:このあたりは、丸々うちの近所のK南学園のようなお坊ちゃん学校のことを言っているようだ。まさしく、こうした学校の存在意義はセーフティネットであり、若者らしい挑戦の場ではない。幼稚園のころからこうした環境でぬるいおともだち関係を築いてきてJCやらS和塾やらその他お坊ちゃん御用達の団体にもそれを持ち込む、一生そこから抜け出せないで終わる。その「おともだちつながり」で人格の輪郭のぼやけた人と話しているとわたしも、いつまでも自立した大人と話しているような気になれないのだ。畢竟、こうしたその世界では平凡な育ち方をしてしまった二代目経営者がしっかりした独立自尊の経営者になろうと思ったら、子どものころからの自分の育ち方を一度解体するぐらいの覚悟が必要なのではないだろうか)


●KIPPでおこなわれる意志力を身につける手法。「実行意図をともなう精神的対照(MCII)」という。過度なオプティミストにもペシミストにもならない。ポジティブな結果に集中しながら、途中の障害についても考える。この両方を同時におこなうことで、「未来と現実に強いつながりができ、望ましい未来に到達するために乗り越えるべき障害が浮かびあがってくる」。

(正田注:コーチング研修でやる「望ましい未来を思い浮かべながら、『何が障害になりますか?』という質問もする」というのと同じではないだろうか)

●「習慣と性格は本質的にはおなじものです。よい子どもと悪い子どもがいるわけではなく、よい習慣を持った子どもと悪い習慣をもった子どもがいるのです。・・・わたしたちの神経系は一枚の紙のようなものである、繰り返し折れば、折り目がつく。」


●ステレオタイプの脅威にさらされている生徒たちに、「知能はさまざまな影響を受けやすいものである」と種あかしをすると、それを理解した生徒は自信を持ち、テストの得点やGPAがあがることもたびたびあるという。知能は影響を受けやすいものだと信じている生徒のほうが成績がはるかによい。


●ドゥエックは人々をふたつのタイプに分けた。「凝りかたまった心」の人びとと、「しなやかな心」の人びとである。前者は、知能やほかの能力は本質的に生まれつき変わらないものであると思っている。後者は、知能は改善できると信じている。正しい対策によって生徒の心のありようを凝りかたまったものからしなやかなものへ変えることはできるし、結果としてそのほうが成績もあがる。しなやかな心をつくるメッセージを聞いた生徒のほうがアンチ・ドラッグのメッセージをきいた生徒よりもはるかにいい成績をあげていた。最も顕著な効果は女子生徒の数学のスコアに見られた。


●1人の生徒が質問した。「強みとされる気質が裏目に出ることはないんですか?」
「もちろん、裏目に出ることもある」とウィッターは答えた。「やり抜く力が強すぎれば、他者に共感する能力を失うかもしれない。やり抜く力があまりにも強すぎて、つらいことなど何もないというミスター・グリットになってしまうと、ほかの人びとがつらいとこぼす気持ちも理解できず、人にやさしくできなくなる。愛することだって―、」


●チェスの強さを決めるのはどんな精神活動か。ある特定の精神作業をおこなう能力、認知的スキルと同程度に精神の強さも必要とする、「反証」として知られるタスクである。
 ある理論の妥当性を調べる唯一の方法は、それがまちがっていると証明することである。このプロセスをポパーは反証と呼んだ。科学理論だけでなく日常生活においても反証の下手な人は非常に多いことがわかった。ことの大小を問わず何かの理論を実証しようとするときに、人はその理論に反する証拠を探そうとはせずに、どうしても自分が正しいことを証明するデータを探してしまう。「確証バイアス」として知られる傾向である。これを乗りこえる能力がチェスの上達においてはきわめて重要な要素だった。


●チェスプレーヤーに盤を見せて次の最良の一手を考えてもらい、それに対して対戦相手はどう反応するか、またそれに対して自分はどんな手を打つかを考えてもらった。ベテランは初心者より正確に予測した。上級者のほうが悲観的だった。初級者は気に入った手を見つけると確証バイアスの罠に陥りやすい。勝利につながる可能性だけを見て、落とし穴は見過ごしてしまう。これに比べ、ベテランは隅にひそむ恐ろしい結果を見逃さない。上級者は自分の仮説を反証することができ、その結果、致命的な罠を避けることができる。


(正田注:わたしはいまだにしょっちゅう間違いを犯してばかりいる人間だけれど、この記述を見て過去に研修をべつの講師と組んでやろうと模索したことを思い出した。もう1人の講師と準備段階で研修アイデアを話し合うと、パートナーからは次々とこれまで試したことのないアイデアが上がってくるのだが、わたしは軒並み「それをやると、こうなる」「それをやると、ああなる」と、却下してしまうので、しまいにパートナーは「自由度がない」とへそを曲げてしまうのだった。でもわたしには見えるのだ、「研修とはいえ間違ったら人が死ぬ」というのが。なぜほかの講師にはそういう視点がないのか不思議だった。アイデアがクリエイティブに湧いてくるに任せてやれれば、それは幸せなことだと思うが。その後何年かたって、わたしが組もうとした元パートナー講師のひとりが転身して講談師になったことを知った。彼女は「教育」よりも「表現」の世界の人だったのだ、と思うと少し安堵した。「何手か先」を考えるほうの資質では、おそらくなかったのだ。そして「却下」ばかりしていた傲慢なわたしの思考プロセスが正しかったのかどうかは、この10年の受講生様方の出してきた成果を信じるしかない)


 


 引用は以上です。アメリカの良心的教育者たちが貧困家庭の母親への支援や、子どもたちの「性格の強み」を伸ばすことによって貧困の連鎖を断ち切ろうとする努力には本当に頭が下がりました。

 もう一度生き直すことができるなら、そんな仕事に就きたかったかもしれない。

 「承認の先生」には、お察しのとおりもう大分飽きています。だれか後を継いでくれたらな、と思います。

 でも一方で、現代日本の良心的な親御さんや良心的な先生方の願い、すなわち誠心誠意育てて責任感ある人間に育った子どもたちが社会に出て大きく羽ばたいてほしいとの願いが叶うのは、良いマネジメントを通じてだけなのだ、と気を取り直すのですけれど。

 「マネジメントになど頼るな、自分の力で思った通りに生きろ」などというのは、自分が組織の一番下っ端だったときにはどんなに無力で、上の人の導きが要ったか、を忘れてしまった不遜な議論なのです。


 なんて、それはこの本の主題とは全然別の話題でしたね。

 とまれ、
「何が子どもたちの人生を幸せにするのか」
30年にわたる追跡調査を含め、粘り強くしつこく追及した教育者や研究者たちの努力に脱帽であります・・・



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp





 今日は読書日記ばかり3本目をアップします。

 「人に教えるということ」の記事も最近シリーズ化しつつありますが、実はこれはルーツがあって、去年亡くなった実家の母は中学教師だったので、実家には中学の今でいうならカリスマ国語教師、大村はまの『教えるということ』があったのです。

 私が中学生ごろから、置いてあったと思います。

 中の文章は丸々忘れてしまいましたが、そこから受け取ったの大村氏の「教える覚悟」でした。


 それがどこか頭の中にあって、「人に教えるということ」のシリーズになっていると思います。
 自分は長いこと「教えるなんて嫌いだ、自分はそんな器じゃない」と言っていたくせにね。


 とりわけ大人に対するヒューマンスキル系の教育研修では、

「私は教えているんじゃありません、気づいてもらうことをしているんです」

という言辞はあちこちにみられます。

 ただ、それでは教える側学ぶ側どちらも責任を問われない、責任を引き受けていない、という趣旨のことも、わたしは著書やこのブログなどに書いてきたつもりです。

 そして、とりわけ「承認」という巨大な広がりと深さのあるコンテンツについては、「腰の引けた」伝え方では伝わらない、とも。


 その「私は教えていません」に対する、子どもの教育現場からの答えが、今回ご紹介する『教えることの復権』(大村はま/苅谷剛彦・夏子、ちくま新書、2003年3月)でした。

 時期的には、1998年から導入された「ゆとり教育」について、学力低下の警告サインが出始めたころです。

 ゆとりに対してつめこみが正しいのか、という議論はさて置いて、「教える」を再度標榜する大村氏の議論に耳を傾けてみましょう。


 れいによって印象的だったところの抜書きです:

大村:単元学習には非常に教師の力が要るわけ。この単元の目指すものはこれって決めて、そこへ向かって具体的に手を尽くさなければならない。これよさそうだ、これ楽しそうだなんてやっていたら学力低下になるのは決まっている。そんなやり方で、目標もはっきりしないのに、そのうえ子どもの希望に任せるなんてことをしたら、危ないですよ。まだ選ぶ目もない人に選ばせるわけだから。


 
 これは私が言ったら不遜にしか聞こえないでしょうが、中学教師の大村氏の立場でもこの言葉を言うのに当時は勇気が要ったことと思います。しかし真実です。より時代が下ると内田樹氏が『下流志向』で、教育の消費者になってしまった子どもたち、ということを言い出しました。

 そして、大人の世界でも残念ながら言える部分はあります。たとえば「承認教育」を行うか行わないかについて、多数決で決められることではありません。なぜならこの教育は従来の延長線上ではない成果を創りだしてしまうので、未経験者は誰もその未来を予測したりイメージしたりできないからです。それは多数決では選べない問題です。


大村:教師から問いを出して真実を聞きだすなんて無理なこと。子どもを知るというのはとにかく大変なことですよ。教育の仕事で最大のものではないかしら。その力を持たずにいろんなことをやっても、うまくいかないというくらい。
 私は、自分から問いを出して「このごろどんなふうですか」などと聞いて返ってくる答えのなかには、真実はないと決めていました。そうでなくて、私がいろんな話をしていて子どもも面白く聞いているうちに、思わず自分から自然に出てくる話、そのなかにピンピンと感じるものがある、それを感じとるのが教師の力じゃないの。

 

 これも深く頷く箇所です。私がこのブログを延々と8年間も書き続けることの理由の1つは、これです。身近なエピソードでも読書日記でも映画評でもあるいは自分自身の方針説明でも、とにかく私から大量の情報発信をしておくのです。すると、それを見ていた人は何かを感じてくれる。そして次回あったとき、関連でその人の心に浮かんだ思いをこちらから問われるのも待たずに話し出す。私は、その人の話題が最近の自分の記事のどれかとシンクロしてるな、と漠然と思いながら、でもその人から出てきた大量の思いを受けとめるのです。

 気持ちとしては、最近のどの記事の関連でこういうことを自分は思った、と前置きをつけてくださると本当は嬉しいんですけどね。でないとときどき相手の話が「見えない」ことがありますので。

 そして、「その力を持たずにいろんなことをやっても、うまくいかないというくらい」というのは、恐らくそうした相手(大村氏の場合は、子ども)から出てくる思いをすくいあげることなしに「教える」作業をしてもダメでしょうと、そういう「一方的に教えるとか押しつける作業はダメ」と、ただ教えることの限界も言っているのだと思います。短絡的に、「教える」ことを復権させる、じゃあ一方的に立て板に水と教師がしゃべってていいか、と大村氏はそんな極端なことは主張していません。もちろん私もであります。


 
大村:戦後の一番の失敗は、先生方が教えることをやめたことにあります。教えることは押しつけることで、本人の個性を失わせると、そういう話がたくさん出たでしょ。そういうのがちょっとしゃれて聞こえた。(正田注:大人の研修の世界ではその流行は今も続いています)戦後の教育の大失敗ですよ。先生とは教える人でしょう。教え方が悪かったので詰め込みになったかもしれない、だけど詰め込みになってしまったことがまずいだけだったのに、教えることを手控えてしまって、あの頃から教師が教師とはなにをする人かというのを忘れたのではないかと思う。
 

夏子:サッカーでも野球でもいいですが、そういうスポーツをやるときには基本的な技術がとても大切だから、まずは、こつこつ走るとか基本動作を確実に覚えるとかいうような地味な練習を積むしかないですよね。一番いいフォームがすっかり身につくまで、素振りを黙々と繰り返すような部分です。コーチは、それこそ手取り足取りで、理想的なフォームを教えることに迷ったりしないでしょう。
 ところが、学校の先生方が勉強については、そういう基本的なことを教えるのに、スポーツのコーチほどには手取り足取りしていないような感じがありますね。
 


 はい、私は大いに同意します。「自分は教えない」というのは単なる逃げ、責任回避、だと思っています。教えるというのはそれ自体なかなか難しいことで、それが出来ないから「教えない」のではないか、と勘繰りたくもなります。でも大人のヒューマンスキル研修の世界でこんなこと言うのは少数派です。

 「おこがましい」のは、承知のうえです。そのおこがましさの重圧に耐えた人だけが本当に教える人として人前に立つことができるのだろう、と思っています。
(だから、私は1日研修が終わると翌日はほとんど倒れているのですが、普通の「教えない」先生とか「好き勝手な事歌ってる」先生と比べてなぜそんなに「疲れる」のか、多くの研修事務局の人にはわかっていただけないみたいです)

 
 
 ・・・と、本書についてはほとんど無批判に「そうだそうだ」と心の中で叫びます・・・


 もうひとつ、本書の主題ともこの記事の主題とも少し離れているのですが、私が「引っかかった」くだりがありました。

 
夏子:どんな職業でも、仕事のしはじめの頃には、上の人にコテンパンに叱られてギャフンということってあるじゃないですか。私も、おまえは根性が曲がってるから仕事がうまくできないんだ、と言われたことがあって、次の日仕事に行きたくないと思ったことがあります。そんなこと言われる筋合いはないっ、て腹が立ってね。もう打ちのめされるぐらいにきびしくされて、それでもなんとか奮起してやり直すと、一歩成長したり1つコツをおぼえるというのがある。だから上の人は、自信をもって駄目出しをするのでしょう。こんなので給料もらえると思うな、なんて言われながら歯をくいしばって仕事しているのだけれど、先生にはそういう場があまりないんじゃないでしょうか。まわりは子どもばかりだし。



 これも、今日では「パワハラ」の観点から語られそうなことを言っていますが大事なことのような気がします。
 大学まで22年間で学んだとはまったく異質な種類の学びの世界に入る、そのときにそれまで身に着けていた(と思っている)ことを一度解体してゼロから泥まみれになって、初めて習得できることってあります。 

 自分で自分にダメ出しをできる人はそう多くない。しかしそういう時自信をもって駄目出しをできる上司は今どれくらいいるだろうか。また、「ブラック企業」の影響か、最近では大学生に対してパワハラ・メンヘルの講義をするようになっているそうだけど、極端に「自衛」の感覚をもった若い人が、そうしたダメ出しに出あって初めて学習できることに対しても心を閉ざしてしまわないだろうか。

 ふう、考え過ぎでなければいいのですが。


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NPO法人企業内コーチ育成協会
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 続いて、伊丹敬之『日本企業は何で食っていくのか』(日本経済新聞出版社、2013年5月)を読みました。

 タイトルの答えとして伊丹氏は「6つのキーワード」を挙げます。

 すなわち、

・日本企業は電力生産性で食っていく
・日本企業はピザ型グローバリゼーションで食っていく
・日本企業は複雑性産業で食っていく
・日本企業はインフラで食っていく
・日本企業は中国とともに食っていく
・日本企業は化学で食っていく

の6つです。これらは詳述しませんので知りたい方は本書を購入してお読みください。

 正田は、このへんはななめ読みして、これら各産業に共通して横たわる「組織」についての章を中心に読むのでした。

「第9章 日本の内なる病」

 東日本大震災への対応で浮かび上がった日本の組織内の弱さを伊丹氏は「平時対応、利害調整、中央志向という病」だと述べます。べつに組織間力学の病として「産業組織編制の病」があるといいます。

 ちょうどきのう、NHKスペシャルで「日本インフラ」をアジアに売り込むにあたって1つのプロジェクトに18の企業の連合体で入札に参加しようとし、タイ政府から「本気度はあるのか」と呆れられ価格面も折り合わず受注できなかった、という話をやっていましたっけ。

 
 それらの本質原因は3つ、すなわち

・経営者の器量
・組織の防衛本能
・人々のエネルギー水準

と著者は言います。

最初の「経営者の器量」について。
 伊丹氏の名著『よき経営者の姿』では、経営者のいい顔つきの条件を次のように挙げました。

・深い素朴さ
・柔らかい強さ
・大きな透明感

(余談ですがここまでの要約文をご覧になってもおわかりになるように、伊丹氏の文章は非常に要約し易い。箇条書きにしやすいです。たぶんですがこういうのは日頃の頭の中の抽象化、練り込みの度合いを示すのだと思います)

(「素朴さ」は、大事です。マネジャーの行動観察をやった経営学者ミンツバーグについて、だれか日本人学者が「子どもの眼」と言っていましたが、同じことではないかと思います。「事実」を誤らず見定めるバイアスをかけない眼というものは子どものような飾らぬ輝きを持っていることでしょう)

 このあたりは少し長く引用しましょう。

 
 
器量の小さな経営者は、危機の際にも平時からの頭の切り替えができそうにない。つい、問題を矮小化して考えそうである。また、自分で方向を示して引っ張っていく器量もないから、つい関係者の利害調整でその場を凌ごうとする。そのくせ、ついつい現場のディテールが気になり、チェックをする。そうなると、現場は『社長に分かりやすい』解答を出すようになる危険が増す。あるいは、あらかじめ社長の意向を先読みしようとして、ムダなエネルギーを使う。ましてや、産業組織の再編成のような大技は考えられない。経営者の器量の小ささは、内なる病の大きな原因なのである。
 


 もし現役経営者がこの文章を読んだら、「われわれに期待しすぎだ。買い被りすぎだ」とカンカンになって怒るかもしれない。
 わたしはエグゼクティブ・コーチもするが、戦略については残念ながら教えられない(引き出すぐらいはできる)と思っています。不透明な未知の未来への果敢な跳躍は、自社の不変の理念を一心不乱に考え、かつ今ある内外の手持ちのカードとの掛け合わせでしかないと思っています。しかしすべての材料をにらみ合わせながら「大きな絵を描ける」のはやはり経営者しかいません。

 
 このあと伊丹氏は「失われた四半世紀」―もはや20年ではない、四半世紀なのだ―の病の本質を逆手にとり、病のドツボにはまっている論理を逆回転させよう、と提起します。

「病を癒すのは、ポテンシャルを活かす実行をすることによって癒す。癒してから実行ではない。実行するから癒される」

 
 ―情報収集もいい。しかしなまじ際限なく収集できる環境に身を置くと、「実行」することが忘れられる危険性もある。収集が目的になってしまってはいけない。―

 
 さて、「病を反転させる」手段はどんなものがあるでしょうか。


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 『Harvard Business Review』(ダイヤモンド社)2014年1月号は「人を動かす力」を特集しています。

 同誌は周期的にこういう特集を組み、わたしも周期的に買って紹介している気がします。

 その中から二篇の論文をご紹介しましょう。

 「温かいリーダーか強いリーダーか」(原題' Connected, Then Lead')では、「リーダーはまず温かさを示せ」ということを言います。

 ここではマキャベリの「愛されるよりも恐れられるほうが、はるかに安全である」の言葉を引きながらも、それとは別にこう言います。


 
今日のリーダーは、職場における自身の強さ、能力、資質を強調する傾向がある。だが、これは完全に間違ったアプローチだ。信頼関係ができる前にリーダーが強さを誇示すれば、相手は恐怖に陥り、組織の機能を損なう行動が多発するおそれがある。恐怖心は認知面のポテンシャルや創造力、問題解決能力を蝕むため、社員は身動きがとれなくなり、場合によっては職務から脱落してしまうかもしれない。恐怖と歯「激しい」感情であり、その影響はなかなか消え去らない。「穏やか」な感情とは違って我々の記憶に焼きつくのである。
 (中略)
 影響力を発揮して人を統率するためには、まずは温かさを示すことから始めるべきだと示唆する研究が増えている。温かさのある態度は、信頼の構築やコミュニケーションを円滑にし、アイデアを引き出しやすくするという意味で、影響力を発揮する通路となるのである。
(太字正田、以下同じ)

 温かさを示すにはどうしたらよいか。著者によれば、言葉以外のちょっとしたシグナル―たとえばうなずいたり、ほほえんだり、オープンな姿勢を見せたりするのがよい。口調はトーンとボリュームを控えめに、率直に、ごまかしや大げさな感情移入をせずに、大事なことを共有してくれていると感じさせる口調で。そうすることで、物事を適切に処理するために腹を割って話しているというシグナルが伝わる。また、オープンな態度を示すために、自分の個人的な話を、打ち明け話をするような調子で話してみてもよいかもしれない。ある有能だが人間関係の問題を抱えたマネージャーは、ミーティングの冒頭やプレゼンテーションに自分の子ども時代のエピソードを加えることで、温かさや親しみやすさの面を同僚に示すことができるようになった。

 このほか、部下たちの感情やものの見方を共有する(共感)、というのも効果的なやり方だと著者は言います。

 
たとえばあなたの会社で大規模な組織改革が実施されていて、グループのメンバーが、クオリティ、イノベーション、雇用保障の面の影響に不安を募らせているとする。メンバーと話す時には、彼らの恐れや懸念を受けとめるようにしよう。これは正式な会議の場でも休憩中の雑談でも同じである。みんなと目を合わせながら、「君たちがいま、大きな不安を感じていることはわかっている。とても落ち着かない状況だ」と話せば、グループが共有する問題にあなたが立ち向かおうとしていることにメンバーたちは敬意を示し、より心を開いてあなたの話を聞くようになるだろう。

 
 ここには触れられていませんが当然、「承認」(口先のお世辞ではなく本心からの誠実なもの)は何よりも強い「温かさ」の提示方法であり、「承認」は強力なリーダーシップの手法である、という当協会の従来からの主張を補強することにもなります。「温かさ」を示すことに成功したリーダーは、次の段階で「強さ」をも効果的に提示できるのです。


 続いてわたしたち自身はなぜ「強さ」の方を提示しようと躍起になるのか、について。
 私たちはみずからが職務に適任であることを証明しなければならないという強迫観念にかられ、会議で最も斬新なアイデアを出し、先陣を切って困難に立ち向かい、だれよりも遅くまで仕事をしようと躍起になっている。しかし実際に人が他者を評価する時に最初に注目するのは、その人が信頼できるかどうかという点なのだ、と本稿の筆者はいいます。

 「しかし、能力を最初に押し出してしまうと、リーダーシップの面ではマイナスになる」と筆者。「信頼関係のない職場では『自分の身は自分で守る』ことが原則となり、各自が自分の利益の保護に神経をとがらせることになりがちだ。また、他者に手を貸しても見返りや評価につながる保証がないため、そうした行為に消極的になる可能性もある」

 信頼のない職場では協力関係もない。逆に「承認」を導入してしばらくした(といってもほんの1−2か月のことです)職場で協力行動の増加がみられたことはこのブログには何度もでてきました。

 
 「温かさ」は最初に評価される。社会心理学の研究では、実験参加者に顔だけで他者を評価させたところ、一貫して能力の高さよりも温かさが先に指摘された、といいます。さらに実験参加者にワード・パズルを解かせたところ、能力に関する単語(「熟練」など)よりも温かさに関連する単語(「友好」など)のほうが有意に早く回答されたとのことです。
 行動経済学の分野では、パートナー候補の顔をぱっと見た印象に基づいて、より信頼できそうだと判断した相手により多くの資金を割り当てた。この論文ではありませんが2人の人が会話している様子を観察して、どの人が信頼できるか、一緒にビジネスをしたいか、と尋ねるとオキシトシン受容体遺伝子の最も高オキシトシンになるスニッブの持ち主が最も会話の中で共感を示し、かつビジネスパートナーにしたい相手だと評価された、といいます。

 ・・・と、それくらい「ぱっと見の温かさに基づく信頼感」は大事だ、というお話。恐いですねえ。


 次のフレーズは「承認」にお詳しい方であれば年来のこのブログの主張と重ねあわせながらお読みください。


 
 信頼関係があると社員が他者のメッセージに耳を傾けるようになるため、アイデアの交換や受容もスムーズになる。その結果、組織のなかで量・質ともに豊かなアイデアが生み出されるようになる。

 しかし何より重要なのは、信頼を確立することによって、社員の表面的な行動だけでなく態度や考え方まで変えるチャンスが生まれるということだ。これこそリーダーが社員に影響力を及ぼすための最適なアプローチであり、メッセージを完全に受け入れさせる秘訣なのである。
 


 えと、しつこいようですがこれ正田が「承認の効用」について書いた文章じゃないんですよ。HBRに寄稿された、ハーバードビジネススクールの准教授がパートナーコンサルタントらとともに書いた論文です。

 この論文は残念ながら「承認」には触れず、ただあとのほうの文章で「人間には聞いてもらいたい、見てもらいたいという心の奥底からの願望がある」と、「承認欲求」に通じることを述べています。

 ひょっとして「承認リーダーシップ」「承認マネジメント」は、リーダーシップの一番入口で重要な部分を科学的に学習可能にした、世界最先端の画期的な手法だったりするかもしれません。
 仮説レベルでなく、「承認」に本気で取り組んだリーダーたちがいかに多くの奇跡を巻き起こすか、こうした海外の論文にもまだ登場したためしがないのです。

 というわけでいつもの伝で会員様、受講生様、分からない人たちのことはほっておいて、引き続き胸を張ってお取り組みくださいね。反対のための反対をする人たちはいずれ絶滅しますから。

 
 さて、「温かさ」だけがあって「強さ」がない人も当然リーダーには向きません。この論文によると、最も有能なリーダーは男女を問わず、ある独特な生理学的特徴を持っていて、それは相対的にテストステロン値(リスク・テイクに関連する)が高く、コルチゾール値(ストレス反応に関連する)が低いということだそうです。「相対的に」という言葉を使っているのは恐らく、テストステロン値は高すぎると粗暴な犯罪者、ルールを守らない人、他人を平気で傷つけたり奪ったりしてしまう人になってしまう、だから平均よりやや高めぐらいがよい、ということでしょう。

 
 
このような特徴を持つリーダーは、トラブルが起きてもそれに呑み込まれず対処できる。言動に緊張感があっても心のなかは落ち着いている。彼らの姿は周りにはしばしば「幸福な戦士」と映り、その振る舞いは人々の心を惹きつける。

 

 強さをボディランゲージで伝える方法というのもあり、最大のものは「良い姿勢で立つこと」。身長が最も高くなるように立つ。また、

体を動かすときはだらだらとせず、意識的かつ緻密な動きで意図した姿勢に収まるように心がける。そして動き終わったらしっかりと静止する。そわそわしたり何かをいじったりするなど、視覚的に無駄な動きがあると、自分をコントロールできていないという印象を与えてしまう。静止した状態は冷静さの表れである。
 


 モタモタした研修講師の代表、正田はこのあたりをよーくお勉強しなければいけないと思う・・・(苦笑)。


 さて、一篇目の論文の紹介で既に大分長くなってしまいましたが引き続き二篇目をご紹介したいと思います。

 『権力と影響力―有能なマネジャーと無能なマネジャーは何が違うのか』原題'Powwer, Dependence, and Effective Management' 、ジョン・P・コッター、1977年)

 優れたマネジャーはどのように権力を身につけ、これをどのように行使して影響力を発揮しているのかを26組織250人の管理職へのインタビュー調査から明らかにしたものだそうで、この分野の古典です。


 ここでも、スタッフ部門のマネジャーとライン部門のマネジャー間で「権力」についての必要性が違い、この論文ではライン部門のマネジャーはより権力を行使せざるを得ない、と言います。スタッフ部門のとりわけリーダー教育をふくむ教育研修に携わる人は、自分自身に実感が湧かなくてもそのことを学習して知っておいてもらいたいものです。

 筆者のコッターは、「有能なマネジャーは、管理職という仕事ゆえに派生する依存関係にうまく対応するため、四種類の方法によって権力をまとい、これを強化する」と述べます。ここでいう権力とは、権限とは違うものです。

 コッターの言うその四種類の方法とは・・・。

1.感謝や恩義を感じてもらう(恩を売る)
2.豊富な経験や知識の持ち主として信頼される
3.「このマネジャーとは波長が合う」と思わせる
4.「このマネジャーに依存している」と自覚させる


 上記のそれぞれの方法には長所と短所があり、状況に応じて上手く組み合わせて使うことが大事だ、とコッターは言います。このほか第三者を動かす(いわゆる「外堀を埋める」?)ことや、環境を変える(職務職掌、業績評価制度、各種インセンティブ、仕事に必要な手段や協力者などの経営資源、グループの構成、行動規範や価値観などを変える)といった間接的な方法もあります。


 結びにコッターは、「大きな権力を身につけ、これを行使し、他者との依存関係にうまく対応できるマネジャーには、いくつか共通する特徴が見られる」として、「権力を賢く使うための七か条」を挙げます。

1.権力を身に着け、行使するうえで、どのような行動ならば、周囲の目に「妥当である」と映るのかに敏感である

2.周囲に好影響を及ぼすには、権力や方法を使い分ける必要があり、そのことを直観的に理解している

3.四種類の方法すべてをある程度行使し、図表に挙げた方法すべてを用いる

4.キャリアの目標を定め、権力によって成果を上げられる地位を求める

5.持てる資源、公式・非公式の権力を総動員して、自分の権力をさらに強化する

6.熟慮し、自制しながら、権力志向の行動を取る

7.こうした方法を使って、他人の行動やワークライフに、目に見える形で影響を及ぼすことは、けっして不条理なことだと思わない


 以上であります。

 二篇の論文は同じようなことを言っているようですが大まかにいうと今世紀に執筆された前者はハト派、前世紀の後者(コッター)はややコワモテのタカ派かな、と思います。コッター論文には着任早々部下のマネジャー4名を解雇してしまったマネジャーも「権力行使の例」として登場します。前者の「温かさ」論文によればそれは組織を恐怖心で震え上がらせ、創造力を発揮させなくする行動と言われるでしょう。ひょっとしたら「権力」という表現とか括り自体、タカ派的かもしれない。前者論文では「温かさの影響力」と呼びたいかもしれない。

 21世紀、IT世代の人が組織の過半数を占めるようになると好むと好まざるとにかかわらず、「タカ派」的手法はどんどん通用しにくくなるでしょう、というのがわたし個人の予測であります。それは決してわたしが優しい人だからゆえの発言ではなくて・・・、

 あくまで会員様、受講生様方の成功と幸福を祈るのみです。



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 新年最初の読書日記です。


 『歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか』(堺屋太一、日本経済新聞社、2010年8月)を読みました。

 堺屋太一は、めったに読まないけれどおおむね正しいことを言っている人、と認識しております。

 お正月だからちょっと毛色の変わったものを、と思って手に取ると思わぬ収穫がありました。


 このブログにいつも私の「天敵」として登場する人びとについて。またトップとその人びととの関係について。

 
 本書では戦国時代の「名女房役」として羽柴小一郎秀長(秀吉の実弟)を挙げたあと、女房役に続いて「スタッフ」の役割について言及します。


 組織には実にいろいろな形があるが、組織という以上は、まずトップがいて、次にナンバー2(補佐役)がいる、そしてその次にスタッフ(参謀)とライン(司令官)がある。ごく単純化していえば、現代組織の基本形はこうなっている。大きな組織は、この基本形に様々な付加物がつき、重層化が見られる。全組織で見れば一部門のラインの長が、その部門ではトップとなり、縦横のラインが重層してくる。だが、基本形はさして変わらない。

 そして、このナンバー2(補佐役)、スタッフ(参謀)、ライン(現業)のうち、トップ、ライン(現業)の立場は比較的単純明快だが、ナンバー2(補佐役)、スタッフ(参謀)の立場はきわめてデリケートである。


 
 ようするに、わたしにとっていつも壁になる「研修担当者」あるいは「総務部長」的な人がここでいう「スタッフ」であります。堺屋氏はこのあと、「スタッフ」と「トップ」の立ち位置についてひとしきり述べます。


 一方、スタッフ(参謀)の立場は、このナンバー2(補佐役)にも増してデリケートである。(中略)

 スタッフ(参謀)には、ナンバー2(補佐役)と同様に強い”忠誠心”が必要である。つまり、私のいうナンバー2(補佐役)がナンバー1(トップ)になろうとはしないように、スタッフ(参謀)は何をするか(=what)を決めてはならず、いかにやるか(=how to)だけを考えるべきである。

 whatを決めるのはあくまでトップの仕事であり、スタッフ(参謀)の仕事は、トップから与えられたwhatをいかにうまくやるか(how to)考えることである。このような意味でのスタッフ(参謀)にとって、”忠誠心”は不可欠であり、天下盗りの”野心”は禁物、である。

 もちろんスタッフ(参謀)がwhatを全く決めないというのではない。たとえばAという大目的があり、それを達成するためにA'という中間目的をつくる…というようなことが高級スタッフ(参謀)の仕事になる場合は多い。しかし、大目的Aは、あくまでトップから与えられたものでなければならず、そのAから見れば、A'というwhatもhow toでしかないのである。(後略)

 

 さらに、スタッフとライン(司令官)の違いについて。私がここ10年ご指導もし、親しく交流してきたミドルマネジャーとは、このライン(司令官)のことであります。
 

 スタッフ(参謀)の仕事は、whatの決定ではなくhow toの決定にあるという言葉のもう1つの意味は、スタッフ(参謀)はhow toについてなら、つまり与えられた条件のもとでなら、冷徹に最良の結論を出しさえすればいいということである。そしてスタッフ(参謀)とライン(司令官)の最大の違いはここにある。

 司令官(ライン)が、将棋指しが将棋を指すような冷徹な作戦をそのまま実行すれば、それに従う者はいわば”捨て駒”にされる可能性に常にさらされているのだから、たまったものではない。それ故に最終的にはいい結果を生まない。したがって司令官(ライン)には、義理人情、政治的配慮、そして何よりも人格的信頼が不可欠である。(略)

 しかし、参謀(スタッフ)には、極論すれば、そのようなものは必要でない。少なくとも将棋指しが将棋を指すように、最良の結果を追求する頭脳集団とでもいうべき冷徹さをどこかに持っていなければならない。

(中略)

 したがって、またスタッフ(参謀)はあまり評判のよくないのが普通で、日本では特にそうである。・・・したがって、トップは常にスタッフ(参謀)をかばってやる必要がある。しかし、これはなかなか難しい。トップがかばえば、なぜあんなやつをかばうのか・・・ということになって、トップの不人気につながるからである。しかし、それがなければ、スタッフ(参謀)は逃げ腰になってその役割である冷徹な思考をしなくなってしまう。スタッフ(参謀)を比較的うまく使ったトップは強力な権力を持ったワンマンである場合が多いのも、スタッフ(参謀)が身の処し方を問われるのはトップが代わったときだといわれるのも、理由はそのあたりにあるといえよう。



 そうだよねえラインリーダーの人って人情もわからなきゃいけないし信頼されてなきゃいけないし、人格の要求水準がはるかに高いのであります。かつ、ラインとスタッフで要求される人格が違うというのは、その通り、と思います。ラインの水準のほうが高いのです。スタッフ部門の人にそれが想像がつくかどうか。

 スタッフ部門の人に往々にしてある誤解は、若手のほうに研修を施せば、ミドルマネジャーがどんなでも部門が回るだろう、というものです。あなたの部門はそうでもラインは違うんです。

 そして、現代において世襲制でない企業では、次世代トップは普通、ラインの方から育ってきます。わたしが接していて「トップ」と「ミドル」では人格が似ている、と思うゆえんです。

 また、「トップがwhatを決める」という規定は、わたし的には年来の疑問が氷解して大変すっきりします。たとえば教育研修の体系なんかも、スタッフ任せにしておくべきではないんです。ミドル、中堅、若手、それぞれこういう人格づくりをしてくれ、そして組織がこういうふうに回るようにしてくれ、とトップがそこまでの指示を出し(what)、それを実現するためにスタッフが知恵を絞って考える(how to)のが正しいんです。それをしないで「教育のことは担当に任せている」と平気で言うトップがなんと多いことでしょう。


 ただまた、この文章にちょっと但し書きしたいのは、そんなにベスト&ブライテストなスタッフっているか?ということです。彼らはコンサル会社にいわれる通りカタログから無難そうなのを選んでるだけなようにみえるんですが。いつもこのブログに書くように、彼らは「賢いから」「能吏だから」そのポジションにいるわけではなく、単に他の部門では務まらなかった人材なのではないだろうか?また、堺屋氏の期待するような、「忠誠心」は彼らにはあんまり感じません。むしろその部署に置かれていることへの怨嗟の念とかのほうを感じるし、実際に言っています。


 堺屋氏の文章からもう少し引用します。


 一般的に組織改革というものは、どうしても内部の抵抗が非常に強いものだから、切羽詰まった危機に迫られて、きわめて意識的に、反対を押し切ってやらなければ、なかなかできるものではない。しかし、日本の組織改革はそういうものではなかったから、本質的には非常に不徹底で曖昧なものに終わってしまったという面がある。
(中略)

 おっしゃる通り。だれも反対しない組織改革なんて存在しない。

 組織を改革したかったら、反対者をいかに説得するか、二重三重に考えておかなければならない。外部講師を招く場合、一業者である講師の先生だけにそれを任せておいていいのか。

 ―去年の例では組織改革さなかの企業で、私は男尊女卑的な役員から「人格が可愛げがなくて気にいらん」的なことを言われ研修中断の憂き目にあったのだった。これも「調和性」の強そうな人だったから、およそ変化と名のつくものは嫌い、どんなことでも言いがかりのタネにしたい、というのが濃厚だった。脅迫状の主との接触も大いに疑われた。また研修採用を決めたときこの役員は当該部署の責任者であり稟議にハンコもついたのだが、リーダー研修の講師が「女」だ、ということをハンコをついた後で知り、よほど意外だったのか「女!?」と絶句したのだそうだ。「調和性」の人だと、そういうことも「騙し討ち」だ、と受け取るものだ。―


 こういうのは本来、「トップ」自身が改革の旗振り役になり、些末なことで言いがかりをつけようとする抵抗勢力を黙らせる、というのが正しいのだと思う。

 トップの仕事の中に、そういうのもあるんですよ。

 
 ああ年来の疑問が氷解した。ここ10年、

「なんで私は、現場の空気とかミドルマネージャーの人格についてよく知りもしない役人的な人から面接とか審査みたいのを受けなきゃいけないのかしら」

って、ずっと思ってた。
 それは、「トップ」から役人氏に指示するべきなのだ。

「君のミッションは組織をこういう状態にして会社を繁栄させることだ。ひいてはそのために最適な能力ある研修業者を選定することだ」

と。ごめんなさいねトップトップ、って。トップ忙しいわね。


 と、れいによって「犬(正田)も歩けば棒に当たる」なのでした。正月から幸先のよい。具体的にこれで何かが変わると期待するわけではないけれど、私の中ですっきりしたことは収穫なのでした。堺屋先生ありがとう。



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 岡田尊司『発達障害と呼ばないで』(幻冬舎新書、2012年7月)を読みました。

 出版当時物議をかもしていたような気もする。近年の発達障害有病率の上昇を、「愛着障害」に大きく帰した本です。

 細かいところは割愛して、残念ながらこれも「本人と家族が読むタイプの発達障害本」なので、職場に対する要望には、「それ現実的なん?」と首を傾げるところは大いにあります。

 しかし、本書の提唱する「オキシトシン・システム」は、当協会方式の「承認」でつくる活性化された組織図モデルにも通じるものです。

 「承認」は、いわば「愛のマネジメント」です。しかし空理空論ではなく、発達障害/愛着障害の当今の増加を踏まえるなら、またこのほかのパワハラ、メンヘル、女性・外国人・障害者活用等の要請をまともに受け止めるなら、これしかない、という今世紀の究極のマネジメントです。

(「愛」という言葉に「ひく」という感性の方は、どうぞ「業績向上」という「ごほうび」のほうに注目しておいてください)

 本書は当協会が主張するのと同様、日本人の遺伝的不安感、過敏さと派生してオキシトシンの弱さにもきちんと目配りし、マネジメントには言及していないもののやはりやるべきことは一つ、との思いを強くするのでした。

これほど大きなものを伝える役割を担う巡り合わせになるとは予想していませんでしたが、感謝しています。たとえ生涯報われること少なかったとしても、価値あるものを担うことができました。


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 3つ前の記事「ハンナ・アーレントと『彼は役人よ!』・・・」にみるナチの高官アイヒマンの態度は、障害なのか健常者の中の組織への過剰適応の態度なのかは不明ですが、役人的「思考不能」に終始したために「悪の凡庸」と呼ばれることになりました。

 では、わたしたちにそれ以外の態度をとることは可能なのか?と思われるでしょう。

 ちょうど、それに相当する記述に出会いました。

 『道徳を問いなおす―リベラリズムと教育のゆくえ』(河野哲也、ちくま新書、2011年3月)です。

 少し長いですが引用させていただきましょう。


 
私が思い描く真に道徳的な人物とは、こういうものだ。

 もうずいぶん前になるが、海外に滞在したときに、アルチュールというアフリカ人のキリスト教神父と友人になった。あるとき、彼の知り合い夫婦の自宅に一緒にお邪魔して、四人でコーヒーなどを飲みながら談笑していたときのことだ(中略)

 アルチュールとその夫婦は、当時、その国の警察が行っていた就労ヴィザ切れのアフリカ人に対する、かなり過酷な摘発について話を始めた。その知り合いは、次の摘発がいつごろ行われるかについての情報を神父に教えた。警察内部の者しか知り得ない情報だ。今でも、結構、はっきり覚えているが、知り合いの男は私にこう言った。

「そうです、私は警察官です。しかし今の警察の摘発のやり方は、アフリカ人だけを標的としていて、人種差別的で不当だ。だから、この情報を神父さんからアフリカ人たちに伝えてほしいのです。」

「おっしゃることは正しいと思いますが、そんな情報を伝えたことが表ざたになったらご自身の職業上の立場が危うくなりはしないですか」

「そうかもしれません。でも、法の精神を犯しているのは当局の方です」

「それに、―彼の妻が口を挟んだ―私たちヨーロッパ人が植民地時代にアフリカで行ったことを考えれば、それくらいのことをするのは当たり前なのです。私たちは、取り返しのつかないような酷いことをしてきました」

「しかし、そんな話を初対面の私の前でしてよいのですか」

「あなたは信用できる人ですよ。」夫婦は顔を見合わせて笑った。



 いかがでしょう。

 ここには「役人的態度」とは対極の態度があるのでした。キリスト教世界の出来事であるとはいえ、もちろん私たちにも不可能ではありません。私の周囲にも個人の良心に基づいて決断している人たちがいます。

 
 この本の著者、立教大学文学部教育学科教授の河野哲也先生とはフェイスブックのお友達で今年春には「鎌倉哲学カフェ」で見事なファシリテーションぶりをみせていただきました。

 河野先生には来年のしかるべき時期にインタビューできそう。先日フェイスブックメッセージでお申し入れをすると、1時間もしないうちにOKのお返事をいただきました。発達障害者を含む障害者雇用、男女平等など、ごく近い未来のあるべきマネジメントについて、話題は盛りだくさんにあります。

 
 ネット依存を危惧したりはしますが、程よくネットを使いこなしている人たちはコミュニケーションが柔軟で、こだわりが少ない、「開かれた知性」のもちぬしだなあと思うしだいです。


 もう1人、フェイスブックのお友達Kさんは東京在住の「団塊世代」の会社経営者さんです。今年私のフィードに63回コメントを下さり、最多賞になられました。

 私がかなり不遜なことをブログに書いてフェイスブックに転送するときも、ときには「団塊世代」への攻撃めいたことを書くときも、まっすぐ受けとめ謙虚にコメントをくださいます。

 
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 80歳代の知人は風邪が治りました。先日この知人のところにフリースを届けに行きました。

私「フリース着てる?」

知人「いや、暑いもん。柄がはずかしいし」

私「無地のは分厚くて重ね着にむかないんだよ」

知人「ちゃんと置いてあるよ。もっと寒くなったら着るよ」

私「ねえ、私のこと『頑張ってる』じゃなくて『いい仕事してる』って言ってくれる?」

 この知人も10年の付き合いですが、「あんたは頑張ってる」とか「あんたは一生懸命やってる」とかの、若い人向きのほめ言葉しか言わない人でした。
 ときに口論してでもそれを直そうとしてきました。あるときは当協会方式の「承認の種類」をラミネートして叩きつけました。
 ただ後継社長には納得の人材を選び、人を見る眼は非常にまともです。

知人「ああ、あんたはいい仕事してるよ。前からずっと『いい仕事してる』と思ってきたよ。ただわしらの世代は『頑張ってるね』としか言えないんだけど」

私「私、もう家族がいないから、仕事しかないから仕事で認められたいんだよ」

知人「ああ、わしはあんたの仕事のこと認めてるよ。あんたはいい仕事してる。だから頑張れ」


 ・・・と、強引に自分が言われたいことを言わせて2013年は暮れようとしているのでした。

 10年間、この人から教えてもらったことは数限りなくありますが、最大のものは、「経営者の思考にとってもっとも重要なのは難しいカタカナの思考法ではない。正しい事実認識、これに尽きるのではないか」と、あくまで私が受け取ったことですが、思ったことでした。

 一時期ビジネススクールに通って「クリティカルシンキング」もお勉強した私ですが「こんなものは重要ではない」と感じて1か月半でやめてしまったのでした。それは身近にいる優れた経営者の思考法はこれよりはるかにシンプルで普遍性がある、と思ったことと無縁ではないでしょう。

 そして近年では、「事実認識を誤らせる要素を排除することが大事」と、「判断を歪めるものとの闘い」シリーズに凝っています。

 「難しい言葉を使うな!」と叱られたのもこの人からでした。出会ったころ、10年前の私はまだ、(医薬翻訳者上がりだったこともあって)小難しい専門用語を使う人間だったと思います。

 この人は、だれから教わるでもなく、「小学生にでもわかる語彙」を使い、それを組み合わせてものを考えるのでした。私も自然それをまねるようになりました。

 こうしたものもひょっとしたら、「1位マネージャー育成」に役立っているかも、と思います。

(ただまた、女の私が「小学生でもわかる語彙を使い、考える」というのをやっていると、それは私が「女子大生扱い」されることに一役買ったかもしれない、とも思います)


 紅白がはじまりました。

 読者の皆様、今年も1年ご愛読ありがとうございました。来年があなたにとって素晴らしい年でありますように。良いお年をお迎えください。


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 大晦日の今日はまじめに労働をしている日なのだけれど、合間に思いついた、「判断を歪めるものとの闘い」
シリーズに付け加えたい1章を、メモ書き的に書きたいと思います。

 これはわたしがこの10年間独自に見聞きした「ナルシシズム」が組織中の人びとのものごとの認識を歪める現象について。ですのでタネ本はありません。オリジナルコンテンツです。

ナルシシズムは、別名自己愛性人格障害、そこまでいかなくても高い自己愛、高すぎる承認欲求、傲慢、ストレングス・ファインダーの⚪⚪、などと言い換えられます。

 これまで「ヒューリスティック」「認知科学」「無意識」とシリーズでみてきましたが、それらのより根底に「ナルシシズム」(これとは別に発達障害も)があるのではないかと思いました。ナルシシズムが視野を曇らせ捻じ曲げる強力なバイアスになるのです。

 全部でどんなナルシシズムがあるかというと―。

 過去の「ヒューリスティック本」が「〇〇ヒューリスティック」と名前をつけて分類していた例にならって命名していきたいと思います。


■高い地位ナルシシズム(役員ナルシシズム)。

 社長、役員、部長、なんでもいいのですが偉い肩書がつくと人は尊大になる。経営者に近づけば近づくほど「共感能力」が低下するという現象がみられるそうです。
 とりわけ、私がみてきた範囲では「役員になると人は変になる」という現象は顕著にみられました。
 
 うちのNPOの前任者の経理の女性が、実は地域でも錚々たる大企業の社長の奥さんだったのですが(そのことは採用したあとでわかった。採用面接のときには「うちの主人も管理職です」なんていっていた。お金には困っていないがNPOではたらいて社会貢献したかったのだそうだ。偉いでしょうちのNPOの人たちって)

 彼女のご主人が「役員って変な人間が多いなあ」と言ったので、彼女が「あなたもそうでしょ」と言い返した、という話があります。

 たぶん、変な人間が役員になったんじゃなく役員になったから変になったのだと思います。というわけで当協会の受講生様、会員様で「役員」の肩書がついている人はくれぐれも気をつけてくださいね。


■権限ナルシシズム

 権限にも色々ありますが、「自分は決定権をもっているのだ」と思うと、人は他人に意地悪になり、頼まれたことをやろうとしない。他人が望んでいることをわざと遅延させるなど不快な行為を無意識にするのは、心理学で「ゲーム」という名前がついています。うちの親もよくこれをやったんだ。

 これも言いつくされたことで、「ゲーム」を行うのは承認欲求の高い人物、承認欲求の表れが「ゲーム」なのです。じゃあ、ほめてやればいいのか、というと、そうでもない。この人物の望みは自分の優位をみせつけることにありますから、ほめてやる/承認してやる、というのはほめる側の人格的な高さをみせつける行為ですから、かえってコンプレックスを感じてねじくれる場合もある。
 とにかく望みはあなたの時間を浪費し、あなたを消耗させ、自分が優位だと確認することにあります。要は「めんどくさい人」です。スルーできるならスルーしましょう。

 決定権は、大事なことを決断するためにあるんで、人に意地悪するためにあるわけじゃありません。


■大企業ナルシシズム

 これもわかりきったことで、たまに大企業の人とお話ししてきちんとお話をしてくださる人に会うと「偉いなあ、よく躾が行き届いてるなあ」と思いますが、決して多くの場合そうではない。「野武士」を自認するタイプの大企業にも傲慢な人は多い。(私の接した経験のある範囲では、消滅した「S電機」の人なんかはそうでした)

 このブログに頻出する「大企業から中小企業とかに天下った人」にも高い確率でこれがみられます。わたしがみてきた中ではそうした役員がパワハラの担い手にも高頻度でなっていました。
 
 また、女性で大企業勤務の人の言葉の端々に現れる傲慢さ、というのも、男性より感じる頻度が高いかもしれないです。やはり「女の敵は女」なのでしょうか。


■国家公務員ナルシシズム

 これも上のと同じようなものですが、ちょっとわけときたいと思います。国家公務員のナルシシズムと「省庁の壁」、省庁エゴのようなものも組み合わさっていてめんどくさい人たちです。


■採用担当ナルシシズム

 私の出会った範囲では圧迫面接のように睨みつけて「まっすぐ見返し続けた人間を採用した」と言った人がいます。私は「何?この人気持ち悪い」と思ってすぐ目をそらしましたけど。

 まっすぐ見返すのは、事前にそういう予備知識をもっていてトレーニングしたか、あるいは「凝視傾向のある」テストステロン値の高さの現れです。「頭の中筋肉」の人にもそういう人がいますし、当然発達障害にもそういう人がいます。


■研修担当ナルシシズム

 もう1種類「人事」の人に関連するナルシシズム。色々な種類の研修に大量に曝露し、今どきの研修は受講者のナルシシズムを煽る、講師も絵に描いたようなナルシスト、というものが多いのですが、それに完全に感染してしまっていて、自分も社内講師としてやれる、あるいは独立して研修講師をやれる、と大いなる勘違いをしているものです。
 下手をするとこの人たちは、大手コンサル会社に再就職を夢みているかもしれませんから注意が必要です。私の知っている範囲では地方の一大企業の研修担当で、中央の大手コンサル会社の理事をつとめている例がありました。それでなくても結構中小〜中堅企業なのに大手コンサル会社とおつきあいする例も多いのですが、それはこの担当者の方々の「大手とおつきあいしている」というナルシシズムを満足させるためです。

 基本この人たちは、「当社の研修は業績が向上し、パワハラもメンヘルも女性活用もそのたもろもろの問題が治ります」なんていう能力の高い研修機関は採用しません。だって、そんなものが存在するということを認めた時点で、自分の今までの選択は間違いだった、ということになりますもの。問題が解決しないほうがかれらは嬉しいんです。


■ひらひら服ナルシシズム

 以前にこのブログで取り上げたことがあります(同時多発的に日本で起こっていた現象のようで、同時期に日経新聞でもだれかがコラムに書いていました)

 節電の夏、熱がこもらないようにとファッション誌が胸元のあいた服を推奨し、それを主に大企業の内勤の女性たちが着る。ひょっとしたら公務員の世界にも以前からあった現象かもしれないけど。

 私などは「内勤の女性」ではないので、そういう服は着れないし訪問先で来客対応にそういう女性が出てくるとイラッとしたほうですが。男性に話をきくと、「いや、やっぱり目のやり場に困るよ(嬉しいけど)」とのことでした。


■お勉強ナルシシズム

 立派なお勉強をしているからってあなた自身が偉い人なわけではない。自戒を込めていいます。

 とりわけ多く観察する現象は、高額な心理学セミナーを受講した人が傲慢になり、当協会の中でルールを破ったりおかしな振る舞いをすることでした。「現実から学べ!!」と正田はこのブログで絶叫したことがあります。
 その人たちがイヤガラセ的に当協会の講座に入ってきて、実習の指示などに従わず指示してないことをやっちゃったりそれを平然とほかの人の前でしゃべったりする、で講座運営ができなくなる現象というのもあり、そういうのを防止するためにもただ同然だった受講料を見直し値上げせざるを得ませんでした。私の優しさからすると、安くしたいのに。

 ビジネススクールで学んだとか、有名大学卒、というのもナルシシズムのもとになりますね。

 これは儒教とか武士道のお勉強でも一緒です。いくら先人の立派な言葉を頭の中に詰め込んでいても、それがために目の前の現実を謙虚にみる姿勢を忘れてはいけません(実はよくあるんです)


◼専門用語ナルシシズム

一つ上のナルシシズムの亜種のようなものです。難しい言葉を習ったりどこかで知ったりすると、ことさらそればかり使ってさも高級なことを話しているように装います。

セミナーから帰って来た人がそのセミナーで習った言葉をやたら使うようになり、理解しない周囲の人にいら立つという現象もあります。

カタカナ過剰の上滑りな言葉遣いとか漢字過剰のかちんかちんの言葉遣いもよくあります。お役所語とも似ています。

当協会ではテキスト、教材、このブログとも、極力使用する専門用語を厳選しています。とりわけカタカナ語を徹底して減らしているのですがお気づきになったでしょうか。


■過去の栄光ナルシシズム

 過去に社長を歴任していたとか華やかな経歴があるために、今うまくいってないことを虚心にみれない現象。


■団塊ナルシシズム

 このブログでは何度となく槍玉にあげてきた。こどものころから激しい競争にさらされ勝ち抜いてきた、日本史上まれにみる悪い人格の人びと。もちろんその世代でも例外の人もいるから、すべてがそうなわけではないが。

 下手に日本がかつてなく好景気だった時代を知っていて、イケイケドンドンで世界に物を売り込んだので、自負がすごい。今の時代にそのノウハウは通用しないよ、ということにいつまでも気がつかない。

 しかしまたこの世代の人はコンサルになる人も多く、いつまでも過去の価値観を企業に吹き込むのだ。通用しないっちゅうのに。ちなみに今年の夏、私のもとに脅迫状を送りつけ「研修中断」のもとになった人物も団塊です。


■大学の先生ナルシシズム

 私は仲良くしている大学の先生もいるしその方々が気をわるくされないことを願うが、「大学の先生」の肩書とか活動もナルシシズムのもとになります。
 客観性のないぼやきレベルの言葉も、「大学の先生」がいうと事件事故のとき新聞をにぎわせたりする。自分の言葉の影響力を過信してしまうことになる。「ははあ、そうですか」とか、新聞記者がかしこまってきいてくれる。
 (でもよく見るとつっこみどころ満載だったりするのだ)

 私が近年迷惑しているのは、現・元「大学の先生」が、よく私を「女子大生」と間違えているふしがあることです。光栄ですがそういう人びととは距離を置いています。

 言ってはわるいですが大学生さんに教えるというのは、企業でマネジャーさん方を指導するよりははるかに簡単な作業だと思います。たまに若い人に教えるしごとをすると、正直「赤子の手をひねるようだ」と思うもの。


■新聞記者ナルシシズム

 まあ、新聞にかぎらずマスコミ全般にあると思います。名刺をみせると、こちらがどんなぺーぺーでも海千山千の社長さんがチヤホヤしてくれる、こんな職業はほかにないのだから。


■男ナルシシズム

 少し前、10月だったか、藻谷浩介氏の講演をとりあげましたが藻谷氏も同様のことを述べています。「自分は男だ」という貧弱なアイデンティティを当てにしている日本の男性たちが女性の社会進出の壁になっている。もちろん、当協会の会員さん方はそうではありません。
 これが「人事ナルシシズム」と結びつくと、「彼は『男』だ」というすごい曖昧な根拠で、採用したり昇進を決めたりしてしまう。いいけど、その人発達障害だけど、っていう。
(だから、根本の「悪」をなしているのはこの人たちかもしれないのだ)

 日本の男性は子育てから逃げる人が国際比較でも多いのだが、そういう人はよくこの「男ナルシシズム」カードを出す。「男がおむつ替えなんかできるか!」って。(若い人ではだいぶ減ったらしいのだが)

 いや、できないのはあなたの能力が低いだけだから。



 本当はまだまだあったと思いますがこのへんで手仕事のほうに戻ります。あとで気がついたら補足します。

 かなりバカバカしくて笑えましたが、これが平成日本の現実ですからね。
 こういうことも「100年後」のために記録しておきましょう。
 いつもの伝で会員様、クライアント様、受講生様、こんな人にならないでください。当協会理念で「謙虚」という言葉もうたっていますが、ものごとを正しくみるために「謙虚」であることは欠かせないのです。



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 『しらずしらず―あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』(レナード・ムロディナウ、ダイヤモンド社、2013年12月)を読みました。


 「無意識/潜在意識」(サブリミナル)という言葉は、心理学系の研修機関によっては好んで使われ、「錦の御旗」のようにもなっています。

 当協会では、あまりスピリチュアルの匂いのするもの、恣意的に読者・受講生様を惑わすおそれのあるものは極力避ける主義なのですが、本書は無意識を「科学する」として、最新のfMRIなど神経科学の知見をこれでもかと畳み掛けながら展開します。

 当ブログで「ヒューリスティック」として紹介してきた認知科学と同系統の、秩序だった思考法の本としてご紹介したいと思います。


 いつもの伝で印象に残ったところを抜書きしますと―。

****

●人間の行動は、意識と無意識両方のレベルで途切れることなく連なる、知覚、感情、思考の産物であり、私たちは自分の大半の行動の原因に気づいていない。「無意識」の研究はフロイトに始まったが、その後の心理学では超自然的なものとして避けられてきた。現代心理学の見方によれば、無意識の精神プロセスは、防御機構や病的な症状ではなく、脳の構造のせいで意識ではうかがい知ることのできない心の部分が存在するからであり正常なことである。

●無意識がなぜ存在するか。自然は、わたしたちが物理世界と社会的世界の両方で滞りなく行動できるよう、知覚、記憶、注意、学習、判断のプロセスの多くを、意識的な認識の外側にある脳の構造に肩代わりさせているのだ。

●スミスさんはスミスさんと結婚する。アメリカ南東部の3つの州でどういう名前の人がどういう名前の人と結婚したかを調べたところ、スミスさんの結婚相手は、ジョンソンさん、ウィリアムさん、ジョーンズさん、ブラウンさんよりも、スミスさんのほうが3から5倍多い。人は自分自身に満足したいという基本的欲求を持っており、そのため、たとえ名字のような無意味そうな特性であっても、自分に似た特性を無意識に好む傾向があるということだ。さらにその好みを仲立ちしているのは「背側線条体」という脳の一領域である。

●ポップコーンを食べる量により大きな影響を与えるのは、ポップコーンの味とサイズのどちらだろうか。実験の結果は、味と同程度に容器の大きさに基づいて「決めた」ようだ。

●レストランのメニューに「しゃきしゃきのキュウリ」「滑らかなマッシュポテト」といった華やかな修飾語がついていると、その料理を注文しようという気が起こる。またその料理を、一般的な説明しかくわえられていないまったく同じ料理よりもおいしいと評価するようになる。

●フォントの読みやすさが好感度を左右する(流暢さ効果)。料理のレシピを書体を変えて渡すと、読みにくい書体で書かれたレシピを渡されたほうが、つくるのが難しいと評価し、つくりたいと答える割合も低かった。

●人は無関係な要素から強い影響を受け、それらの要素は、従来の経済学者が無視している無意識の欲求や動機に訴えかける。青と黄色の箱に入っている洗剤のほうを無地の箱の洗剤より高く評価し、好きな匂いのするシルクのストッキングの品質を高く評価する。被験者に意思決定の理由を聞いてみると、それらの要素が自分に影響を与えたことにはまったく気づいていなかった。

●ペプシパラドックス。ブラインドテストではつねにペプシが勝つが、何を飲んでいるかわかっている場合にはコカ・コーラのほうが好まれる。脳スキャンにより、「腹内側前頭葉皮質(VMPC)」と呼ばれる脳の一領域が、なじみのブランドの商品をじっと見たときに経験する、漠然とした好意的な感情の場であるとわかった。

(あとでも出てきますがこのVMPCという部位は性的偏見にも関係する部位のようです)


●流暢さ効果の続き。投資の世界でも、投資家は確かに、複雑な名前や略称の企業よりも、名前や銘柄の略称を発音しやすい企業の新規公開株のほうに投資しやすいことが明らかとなった。

●天気がチップに影響を与える。客は、外が天気のときには明らかに気前がよかった。

●天気と株式市場。統計によれば、年間を通じて快晴だと仮定すると、ニューヨーク証券取引所の市価利益は平均24.8%となり、完全な曇天だと仮定すると平均わずか8.7%となる。


●無意識の研究のはしり。イギリス人生理学者で心理学者のウィリアム・カーペンターは1874年の著書『精神生理学の諸原理』で書いている。「精神活動においては、一つは意識的、もう一つは無意識的という二本の別々の列車が同時に走っている」

●意識と無意識の二層のシステムのなかでより基本的なのは無意識の層のほうであることが、十分に明らかになっている。それは進化の早い時点で発達したもので、基本的に必要な機能や生存に関係しており、外界を関知して安全に反応する。無意識の層はすべての脊椎動物の脳が持つ標準的な基本構造だが、それに対して意識は、必ずしも不可欠ではない特徴とみなすことができる。人間以外のほとんどの動物種は、意識による象徴的な思考の能力を、ほとんど、あるいはまったく持っていなくても生き延びることができるし、実際に生き延びているが、それに対して無意識を持たない動物は存在しえない。

●人間生理学の教科書によれば、人間の感覚系は脳に毎秒およそ1100万ビットの情報を伝えているという。しかし人間が扱うことのできる実際の情報量は、毎秒16から50ビットと見積もられている。したがって、入ってくる情報をすべて意識的な心に処理させようとしたら、あなたの脳はフリーズしてしまうだろう。

●「盲視」。盲目になった人に怒った顔と喜んだ顔をみせてどちらか言い当ててもらうと3回中2回近い割合で言い当てた。また同じ人に障害物のある廊下を歩いてもらったところ障害物をよけながらジグザグに転ばずに歩いた。

●視覚の無意識。盲点、サッカード、弱い周辺視力。視覚の欠陥を補うために、目は1秒当たり何回かごくわずかに向きを変えている。その小刻みな運動を「マイクロサッカード」という。

●聴覚も聴こえなかった音を補う。「音素修復」という。

●記憶の歪曲。犯罪被害者や目撃者は面通しの場で、ともかく犯罪の記憶にもっともよく合致する人物を選ぶ。ウォーターゲート事件ではニクソンの法律顧問ディーンが記憶を歪曲した。

●人間の記憶は再構成されてゆがめられやすい。ミュンスターバーグによると、第一に、人間は出来事の一般的な要点はよく記憶できるが、詳細はうまく記憶できない。第二に、正確に話そうと誠実に対応する善意的な人間でさえ、憶えていない細部を問い詰められると、うっかりでっち上げて記憶の欠落を埋め合わせてしまう。そして第三に、人間は自分がでっち上げた記憶を信じてしまう。

●記憶をふるい分けられない人物は、ロシアのソロモン・シェレシェヴスキー。完璧な記憶をもつ一方細かな事柄が理解の妨げとなった。顔を総合して覚えることができなかった。また話しかけると正確に復唱することはできたが、要点を理解するのは容易でなかった。

●言語学者によれば、言語構造には「表層構造」と「深層構造」の2種類がある。表層構造は、考えたことを表現する具体的な方法、たとえば使う単語やその順序などを指し、深層構造は、考えた事柄の要点を指す。ほとんどの人は、入り乱れる言葉に翻弄されるという問題を避けるために、要点は保持したまま、細部は進んで破棄する。その結果、深層構造、つまり言われたことの意味は長期間保持できるが、表層構造、つまり発せられた単語は、わずか8から10秒のあいだしか正確には記憶できない。

●記憶は失われていくとともに、同時に付け加えられていく。もともと効かされた物語が薄れていくとともに、新たな記憶のデータがでっち上げられ、その「でっち上げ」はある一般原理に従って進められていく。全体的な枠組みは維持されるが、細部は脱落したり変化したりする。そして、物語は短く単純なものに変わっていく。いわば「なめらかになる」。

●「変化盲」。キャンパスの地図を持った調査員が通行人に近くの建物への生き方を尋ねる。10-15秒会話したところで、別の2人の男が大きな扉のそれぞれ端をかつぎながら彼らのあいだを横切る。扉が横切る1秒の間にまったく同じ地図をもった新たな調査員が入ってきて道を尋ねる会話を続ける。最初の調査員は扉に隠れたまま立ち去る。通行人にとっては会話の相手が突如として別の人物に変身してしまったことになるが、ほとんどの通行人は気づかず、すり替わったことを聞かされると驚く。

●過誤記憶。起こっていない出来事の記憶を植えつけることができる。はるか昔に起こったとする出来事の記憶は、とくに簡単に植えつけられる。子どもの頃、熱気球に乗ることを夢見ていた人には、何の代償も払わずに、また実際に経験させることもなしに、実際にその記憶を植えつけられる。ディズニーランドに行ったことがある被験者にバッグス・バニーに関する偽広告を読ませると、それを体験したと思い込んだ。

●常日頃から子どもをたくさん抱きしめてキスをしても、そうした場面のほとんどが子どもの心に残らない。子どもは忘れてしまうものだ。しかし私に抱きしめられてキスされた記憶は、跡形もなく消えてしまうわけではない。優しい気持ちや感情的な絆として、少なくとも一体となって残るのだ。

(これは、上司から承認されてもその記憶が残らない部下、ということにも当てはまりますね)

●電気ショックで苦痛を与えると予告された人は、不安のために63%がほかの人と一緒に待ちたがった。くすぐったいピリピリする刺激を予告された人でそうしたのはわずか33%だった。

●心の痛みを鎮痛剤が抑制する。強力なタイレノール(アセトアミノフェン)を服用した被験者は、チームメートに無視されている最中に脳をスキャンすると、社会的疎外に関連した脳の領域の活性が抑えられていた。

●社会的ネットワーク指数は、親密な社会的交流を定期的に持っていると高い値になる。9年間にわたり、指数が低かった人たちの死亡率は、ほかの要因に関しては同様だが社会的ネットワーク指数が高かった人たちの2倍にもなった。

●人間をほかの動物と分け隔てている一番の特性は「社会的なIQ」―すなわち、「心の理論」(Theory of Mind)。この能力は、他人の過去の行動を理解し、現在または未来の状況に基づいてその人が今後どのような行動を取るかを予測するという、驚くべき力を与えている。


(正田注:当協会方式の「行動承認」は、いわば「心の理論」の能力を極限まで高めるトレーニングであるかもしれない)


●人間の子どもはほぼすべて、4歳までに、他人の精神状態を見極める能力を獲得するが、自閉症などでToMが損なわれると、社会のなかでうまく役割を果たせなくなる。

●人間以外のほとんどの哺乳類に関してもっとも興味深い点の1つが「脳が小さい」ということだ。人間では意識的思考を担っている脳の部位が、人間以外の哺乳類では、無意識のプロセスに関わる脳の部位に比べて相対的に小さい。

●「作り笑い」はバレる。たとえ笑顔を分析する訓練を受けていない人でも、同じ人がつくる本当の笑顔と偽の笑顔を区別できるような、優れた直感を持っている。

●霊長類における上位の個体は、胸を打ち鳴らしたり声などのシグナルを使ったりして、自分が高い階級にあることを示す。

●人間社会でも、視線方向と凝視は優越性を示す重要なシグナルである。

●ステレオタイプ(固定観念)(これは過去のヒューリスティックの記事によく出てくる)

●「潜在的連合テスト(IAT)」。指示した二通りの分類方法における反応速度の違いを調べることで、その人がある社会的カテゴリーとさまざまな特性をどの程度強く関連付けているかを探ることができる。ほとんどの人は、女性と芸術、男性と科学を強く関連づける。また黒人でさえ多くの人が、このIATテストで、無意識に白をよいものとみなす傾向を示した。

●他人に対して下す評価は「腹内側前頭葉皮質(VMPC)」のなかで進められる一種の感情統制プロセスに大きく左右されている。ここが損傷を受けると、性差に関する無意識の固定観念が失われることがわかっている。

(1つ前の記事の「出向組氏」などは、この部位が普通より大きいタイプの人なのかもしれない。一方で承認トレーニングをきちんとやった人だと性差に関する固定観念はかなり薄まるのだが、この部位自体はどうなっているのだろうか)

(気持ちとしては、すべての管理職にこのIATテストを受けて、その反応速度の違いを数値で表し、自分の性的偏見を自覚してもらいたい。自覚してない人だと話していてもほんと迷惑)

●分類自体はわるいものではなく、そのおかげでわたしたちは、バスの運転手と乗客、店員と買い物客、受付係と医者、給仕長とウエイターなど初対面の人をすべて区別することができる。重要なのは、分類という行為をどうやってやめるかではなく、分類をすることで一人ひとりの本当の姿をとらえられなくなっていることにいかに気づけるかだ。

●意識的な目的を持つことで、他人を分類しがちな傾向を抑えられることが証明されている。そのため誰であれ、自分のなかの無意識の偏見と闘うことができる。自分の偏見に気づき、それを克服しようという気があれば、実際に克服できるのだ。

(へー、克服していただきたいですねぇ。わたしの住む兵庫は全国でも指折りの性差別県、また神戸は政令指定都市で最も専業主婦の多い、女性がはたらかないまちです。自分では気づかないがどぎついステレオタイプを持っているのです)

●無意識の偏見を克服したいなら努力が必要だ。判断しようとしている相手についてより詳しく知ることだ。あるカテゴリーに属している具体的な人物の個人的な事柄を知れば、カテゴリーによる偏見を簡単に克服できる。だがさらに重要なこととして、その相手と時間をかけて何度も接すれば、社会がそのカテゴリーの人たちに当てはめている否定的な特性を打ち消すための手段になる。

(差別をやめようと思えば差別している相手と頻繁に接触することですね。でも差別されるこちら側としては、自分を差別する相手はストレスフルなので接触したくないですね)


●内集団と外集団。人間は自分が属しているグループのメンバーと、属していないグループのメンバーを違うふうに考え、しかもグループに基づいて差別しようと意識的に思っているかどうかにかかわらず、機械的にそのような行動を取ってしまう。


●集団規範。ひとたび自分があるグループに属していると考えると、そのグループに属する他の人のものの見方が自分の考え方にも染み込んで、世のなかに対する認識のしかたに影響を与える。

●わたしたちのサブリミナルな自己には、内集団のメンバーのほうをより好きになる傾向がある。多くの職業の被験者は、自分と違う職業の人を好感度50前後の平均値で評価したのに対し、自分と同じ職業の人は70前後ときわめて高く評価した。

●自分がどの内集団に属すると考えるかは、自分自身に対する感じ方、自分の振る舞い方、そして自分の能力にさえも影響を与える。女性に数学のテストをしたとき、自分のことをアジア系アメリカ人として考えるよう仕向けられた女性は、対照群よりも成績がよく、逆に自分が女性という内集団に属していることを気づかされた女性は、対照群よりも成績が悪かった。

●対立する2グループがあるとき、両グループに共通の目的を与え、グループどうしで協力して行動しなければならない状況になると、グループ間の衝突が突如として減る。人種、民族、階級、性別、宗教といった昔ながらの内集団に関して、それぞれ異なる人たちでも、一緒に取り組めば好都合であることに気づきさえすれば、互いの差別は減る。

●ウィリアム・ジェームズは感情の生理学的根拠を提唱した。人間は怒るから身震いしたり悲しいから泣いたりするのではなく、身震いするから怒っていることに気づき、泣くから悲しいと感じる。

●わたしたちのサブリミナルな脳は、自分の身体的状態に関する情報と、社会的および感情的状況に基づくそれ以外のデータを組み合わせることで、自分が何を感じているかを判断する。薬で脈拍を上げた被験者は一緒にいる人の感情を経験し、幸福だと感じたり怒りを感じた。


●決断の理由はいつも後づけ。パーティーで素敵なひとときを過ごしたあなたは、何がよかったのですかと問われ、「居合わせた人たちがよかった」と答える。しかし本当のところ、あなたのその至福の気分は、ある女性との楽しい会話から出てきたものではないのか?あるいはもっと微妙な、ハープの素晴らしい演奏、部屋に漂う薔薇の匂い、高価なシャンパンだったのではないか?自分の感情や行動に対する説明を考え出すとき、脳は心のなかにある文化的規範を収めたデータベースを検索してもっともらしいものを選ぶ。

(このくだりは私もよく思い当たる。どんなに自分として最善を尽くしたセミナーの類をしても、良かったと感想を述べる人は「参加者が良かった」という(苦笑))


●人の採用の判断の根拠は何か。ひょっとしたらあなたはその人を選り好みし、無意識の心が後づけで社会的規範を使い説明を加えたのかもしれない。

(まあ、ふつうの人材育成担当者は女性でリーダー教育をする人を選ばないですね残念ながら)


●人は、自分自身に対して抱くよい感情が脅かされればされるほど、歪んだレンズを通して現実を見る傾向が強くなる。犯罪者が自分を「社会に貢献する者」だと語り、アル・カポネは「私は不当な扱いを受けている」と語った。


●人の自我は自分の面目を保つために激しく戦っている。自分はキリストだと信じている3人の患者を一緒に生活させたところ、1人は信念を捨て、2人目はほかの2人は精神を病んでいるが自分はそうではないと考え、3人目は問題を完全にはぐらかした。つまり3人中2人は、現実と矛盾する自己像に何とかしがみついた。

(なんか身につまされるなあ。やだやだ)


●自己像を描くやり方には2つある。科学者の方法と弁護士の方法だ。科学者は証拠を集め、規則性を探し、観察結果を説明できる理論をつくって、それを検証する。弁護士は、ほかの人たちに納得させたい結論からスタートし、それを裏付ける証拠を探すとともに、それに反する証拠を斥けようとする。これら2つの方法論が競い合うことによって、わたしたちの世界観は形づくられているのだ。

●結局のところ脳は、科学者としてはそこそこだが、弁護士としてはとてつもなく秀でている。

●科学の分野でも人々は信じたいものを信じる。ビッグバン理論をどうしても受け入れない科学者たちがいた。アメリカでは半数以上の人が、地球温暖化の科学にはいまだ結論が出ていないと思い込んでいる。偽の研究報告書をみた学生たちは、自分の事前の意見を裏付けるデータのほうを、方法論的に理にかなっていて提示のしかたも明快であると評価した。

●多くの医師は企業からもてなしや贈り物を受けると、明らかに患者の治療方針にサブリミナルな影響がある。製薬業界と金銭的なつながりのある医学研究者は、利害関係のない検査官に比べ、スポンサーの医薬品に有利となる知見を報告し、不利となる知見を報告しない傾向がある。

●人間の無意識がもっとも本領を発揮するのは、自己に対する前向きで好ましい感覚、つまり、権力がはびこる世界のなかで、自分はただの人間よりもはるかに大きな能力と統制力を持っているのだという感覚を抱かせてくれたときだ。

(ポジティブ心理学でいう「ポジティビティ」でしょうか・・・、わたしを取り巻く状況にかんがみても、好きなフレーズであります。わたしは極力まっとうであり続けます、受講生様方や支援者の方とともに。)

●動機づけられた推論のおかげで、わたしたちの心は不幸から自分の身を守ることができ、それとともに、本来なら圧倒されかねない、人生で直面するいくつもの障害を克服する力を手にする。研究によれば、きわめて正確な自己像をもっている人は、軽度の鬱に陥っているか、自己評価の低さに悩んでいるか、またはその両方であることが多い。それに対して、過度に前向きな自己評価をしている人は、正常で健康であるという。

(やれやれ、ある程度「ナルシ」なほうが健康ということですね。このところ悩んでいるのが、リーダー教育という仕事の性質上、ある程度ナルシにならざるを得ないのだろうか、ということです。謙虚で正確な自己像をもっていたいとは思いますが、いっぽうで仕事では情熱の塊のようになる場面もあり。そういうときは、非常にみずから「しょって」いるときでもあります。普通の仕事をしている人からみたらクレージーだろうと思います)


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 本書の著者は「800編以上の学術研究論文」を読んだとのことで、内容はこれまでの「ヒューリスティック」本との重複も多いですがこれまでで一番網羅的な本といえるでしょう。

 サブリミナルという語はわたしの世代だと映画「エクソシスト」の途中で悪魔の映像を挟んでホラー効果を狙ったとかジュースだかポップコーンの映像を挟んだら休憩時間にそれを買いたくなったとか、割とマーケティングの操作のような分野で馴染んだのでした。

 その分、いかがわしいというか悪意の匂いがするというか、あまり好きになれなかった分野ですがこれだけこれでもかと研究の歴史から最新の知見を詰め込んでくれると、ちゃんと科学として認めてあげたくなります。

 
 今、この記事執筆と並行して研修効果をみるアンケートを回収しています。

 おおむね上司は効果あったと評価し部下は一部を除きなかったと評価しています。

 これをどうとらえるか、ですが、私はこういう場合上司の言い分のほうを信じるほうです。

 というのは、「承認」をちゃんと気持ちだけでなく行動ベースで行っている、という前提のもとでは、部下は「無意識に」モチベーションが上がり、それは仕事のスピード感のような形で反映されるのですが本人は気づきにくいからです。本書でも自分の決定の本当の理由がわからなかった、という話がありますが、「承認」は決して怪しげなものではないですがこれを行うと相手の行動が増える。行動が増えた側はなぜ増えたかわからない、上司が行った承認との関連がわからない、ということは大いにあり得ます。

 部下の行動変化は上司の観察によるほうがあてになる。これは一応10年教えてきたわたしの確信です。これが本書でいう「信じたいものを信じる」でないことを信じたいものです。

 ミドルたち自身の言葉としては、以前(2011年4月)当協会元会員の永井博之さん(柏原さんの元上司)が、事例セミナーの質疑応答の中で、
「部長の私から見て明らかに育成上手の課長のもとで成長したと思える営業マンも、本人は『仕事が私を作った』と答える」
と述べていました。

 かつ、今回できなかったいつもの「統計調査」ですが、あれでやると承認をした上司のもとでは部下の指数がちゃんと上がります。(しなかった上司のもとでは上がりません)それは恐らく部下自身には自覚のないものであっても、自然と「前回と比べてスピードが上がった」「ミスが減った」などの設問につける丸の位置が、ポイントアップのほうに動いていて、こういうのは記述式のアンケートではみられない無意識の変動です。
 (だから、研修効果をちゃんと測りたいときにはやっぱり統計調査が一番ですネ)

 わたしはこういうアンケートに答える側の部下の立場になったことはないのですが、「上司が承認してくれたから自分が仕事でよい行動をするようになったとか成長した」と意識レベルで認めるのは、自分の自尊心にかかわることだろうな、とおもいます。

 まあ、それはこちらの話題です。


 1つ前の記事もサブリミナルが話題でした。

 やっぱり今回の読書日記にもあるように、自分は区別をしているということを自覚し、かつ個々の人について男か女か、みたいな大枠の区分ではなくより良く知ろうと努力することによって差別を減らすことが、やはりこれからの大人のたしなみでしょう。グローバル経営でも結局一緒のことで、だからどっちが大事だなんて言うだけあほらしいのです。

 ・・・ていうか、この記事の主題と全然関係ないけどあたし東京外大の出身だし恩師は国際教養大の創始者だし、「グローバル」っていうのそういえばDNAレベルで持ってた。ごめん。だから威張られてもぴんとこないの、「グローバル」とかって。バカなおじさんって、すぐ下らないことで威張るから、いや。正田が中国語ペラッペラだってことも、しらないでしょ。

 こういうことも書いておかないと今後もよそで不毛な会話が繰り返されるからな。


 「判断をゆがめるものとの闘い」シリーズを読んでくださっている会員様、受講生様は、ぜひ自分の脳を誤らせるものの知識に親しみ、ブレの少ない正しい判断をする人になってくださいね。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
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 『君に友だちはいらない』(瀧本哲史、講談社、2013年11月)を読みました。『僕は君たちに武器を配りたい』『武器としての決断思考』の著者で、今勢いのある若者向け自己啓発本の著者。わりあい正田も信頼しております。


 キーワードは「仲間づくり」。ただ、今どきのLINEでのべつつながっている友達的なものを「仲間」と言っているわけではありません。

 
 著者は天動説と地動説の例を引きながら、「大きな世の中のパラダイム・シフトは『世代交代が引き起こす』」といいます。

 古いパラダイムを信じている前の世代を説得して意見を変えさせるのは、不可能であるし、それに労力を注ぐのは時間の無駄だ。
 自分たちの信じる新しいパラダイム、必要とされるパラダイムの信奉者を、少しずつ増やしていくこと。そうやって「仲間」をつくっていくうちに、いずれ旧世代は死に絶えて、新たなパラダイムの時代となる。


 ・・・「分からないヤツは早く死ね」っていうことかしら。ひっどーい。あんたもそう思ってるくせに。いえ思ってません。


 やりたい仕事、属したい組織がなければ自分でつくるしかない。自分の成長に資する仲間とともに働くか。それとも、「社内調整能力に長けている」だけの、尊敬できない上司や、夢は語れどそれを実現しようとする志はない同僚とともに過ごしていくのか。

 「人間は合理的に動いていない組織に長期間属していると、物事をロジカルに考える能力が確実に低下していく。そういう組織に順応すればするほど頭が悪くなり、組織に順応することができなければ精神を病むことになる。順応しきってしまった人は自覚症状を持つことができないまま、言い訳能力と、自己欺瞞力だけが向上していくのである」

 なんていうフレーズは言い得て妙、ここまで言っていると現役マネージャーを会員にもつ当協会などではいささか煽りすぎの感もあるけど、言いたいことは根底では同じです。はい。


 ワンピース流行りではあるけれど、ワンピース型の仲間は決してここでいう仲間ではない、と著者。仲間というのは当初の目的を達成し、互いに必要とする時期が終われば、離れるのが自然だと思っている。いつまでもずるずると仲間意識を引きずり、「仲良しごっこ」を続ける関係には、意味がないのだ。


 著者が挙げる「よいチーム」の条件とは次のようなものです。

1.少人数である
2.メンバーが互いに補完的なスキルを有する
3.共通の目的とその達成に責任を持つ
4.問題解決のためのアプローチの方法を共有している
5.メンバーの相互責任がある

 「チームアプローチ」と「チームワーク」は似て非なるものだ、と著者。チームアプローチとは、前例がまったくない、解決の方法が分からない不確実性の高い問題に挑む、少数の組織横断的なチームが、互いのスキルを有効活用して課題解決するときの方法論だと。チームワークとは、所属するメンバーが互いに協力し合って行動する、というぐらいの意味だと。


 「ダメなチーム」とは、本書によれば

 
職場や学校、町内会や趣味のサークルなど、人が集まるところではどこでも見られる「仲良しグループ」の多くは、自分に自信のない”迷える子羊”たちが、似たもの同士でツルんでシマを作る防衛的な集団である。メンバーはみな、自分がどんな人間かよくわかってない。わかってるのは、自分たちが優秀じゃないことだけ。だからいつも不安でたまらない。



 フェイスブック、LINEといったSNSの「つながり」にも著者は大胆に疑問を投げかけ、「人脈のインフレ化」であるという。

 どんな友だちがいるかがその人を規定する、という例として挙げるのは「肥満」。食生活や遺伝という因子より、友だちの因子の相関が高い。「肥満の友人がいる人は57%の確率で太る」そうです。

 そしてよい仲間をつくるには「教養をもち、異なる分野の人と話す力を持て」「学歴ではなく、地頭のいい人に声をかけよ」という。


 成功するチームにはストーリーがある。「指輪物語」のようなファンタジー小説、またアーサー王伝説、古代ギリシア神話のペルセウスの冒険などあらゆる神話は8つの構成要素に分解できるそうです。

1Calling(天命)
2Commitment(旅の始まり)
3Threshold(境界線)
4Guardians(メンター)
5Demon(悪魔)
6Transformation(変容)
7Complete the task(課題完了)
8Return home(故郷へ帰る)


 別なところでは、「自分をラベリングするためのストーリー」とも言いかえられるそうです。

1 間違ったことをしている過去
2 イベントがおこる
3 心境の変化
4 行動
5 結果

 ビジョンをぶちあげるリーダーこと勇者が「冒険」で出会うべき人々には、以下のようなものがあります:

・「魔法使い」
・「エルフ」
・「ドワーフ」
・「トリックスター」

 チームは目的が達せられたら解散します。またチームの目的にコミットできなくなったら、そのメンバーはチームから外れたほうが良い、とします。成果が上がらないメンバーはその仕事と相性がわるいことがあります。

 このほかに絶対的な判断材料とすべき基準があり、それは「倫理性」だとします。
「善悪の判断基準の緩い人がいて、本人が「これはグレーゾーンなんですよ」と強弁しているケースでも、客観的には黒も黒、即アウトであることが少なくない」というフレーズには膝をうちます。


 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト。地縁や血縁など、人間が生活していくなかで自然発生的に生まれる社会集団をゲマインシャフトという。これに対してゲゼルシャフトとは、「ある目的を持った人々が、その目的を達成するために集まった社会集団」なので、本書でいうチームアプローチの「チーム」に近い。

 「いじめ」はゲマインシャフト的組織で起こる典型的な問題だ、と著者はいい、日本がゲゼルシャフト的な社会にシフトしていくことを望むといいます。

 「ヘイトスピーチ」を繰り返すナショナリストは貧しい人が多い。学校にも職場にも満足できない、「日本人だ」ということにしかアイデンティティを持てない。

 世界から人がやってくる国になろう、かつてはアジア各国からリスクをとってわたってきた人でつくられた国なのだから、と結びで著者は呼びかけます。


 さて、本書の主張が唯一無二の解なのかどうかはわかりません。著者が「人脈づくり本」や「セルフブランディング本」「ノマド本」に疑義を呈するのと同じように、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトに転換できるのは一部の有能な人だけかもしれないのです。

 ただ不思議と最近身の回りで起きたイベントとリンクしていました。私というのではなく、会員さん、受講生さんたちが自分の周囲によい「チーム」をもつ、ひとりひとりが勇者でヒーローである、場面によっては魔法使いをやったりエルフ、ドワーフをやったりする、そんなゆるやかな集合体であったらいいな、とちょっと夢想します。

 しかし若者向けの自己啓発本の言うことをいつの間にかやっていた、というのもちょっと悔しいなあ。


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 31日、某所にて「メンタルヘルス」の1時間半のセミナーに行きました。

 はい、暇なんです。9-10月が珍しく割合いそがしかったので、「インプット期間」のつもりでもあります。

 メンヘルセミナー受講は何度めかで重複することも多かったですが、今回も得るところは、多少はありました。

 ここにご紹介すると、

●規模の大きい事業所が必ずしも良いメンヘル対策をしているとはいえない。制度、体制はよく整っているが。むしろ小さい規模のところの方が、家庭的な温かい対応をしている。それはトップの理解による。

●仕事にやりがいを持って認められている人では月300時間も平気で残業している人もいる。しかしそういう人でも、知らず知らずのうちに不調になっていることがあり、その境目は月100時間ぐらいである。上司は気がついたらこまめに「たくさん残業しているけど体調は大丈夫?」と声がけすること。

●「下からのパワハラ」がある。新任の、部署を転任してきた課長に係長が細かく口を出し、嫌がらせをし、課長が「もう辞めたい」と口にするなど。

●辞めたあとの人からパワハラの訴えがあったときに、対応しないわけではない。

・・・など。


 学びになった部分とは別に、クレームを言うわけではないですが「自分自身の今後のために」、不満点も挙げておきたいと思います。

 メンヘル対策の1つとして講師の先生(女性・カウンセラー)が「コーチング」に言及されているのですが、他分野に言及するにしては認識があさすぎる。プロがきいたら怒るよ(きいてるけど)。


 この先生は「保健師さんのためのコーチング」という種類の学びをされているらしい。「コーチングは、相手の達成目標や到達点が明らかな場合に有効な手法となる」と言われています。
 近年メタボの人、糖尿病予備軍の人などへの栄養指導で、一方的にアドバイスしたり教えたりすることが効果を産まないことから、保健師さん看護師さんの新しい手法として「コーチング」が注目されています。そこでは、コーチングの中でも
「相手の目標―体重何kgとか健康を取り戻した状態とか―をビジュアライズさせ、現状とのギャップを認識させ、行動アイデアを相手自身から引き出す」
という、いわゆるコーチング・フローとかGROWモデルとかよばれるものを活用します。

 しかし、われわれマネジャーへの総合教育として「コーチング」をやっている者の目からすると、それは「コーチング」のごく一部にしかすぎません。

 「承認中心コーチング」を標榜する当協会の現役マネジャーとの間では、つねづね
「目標達成って、先に『承認』ありきですよねえ。それがすべてのベースで、それなしには『目標』なんて、出てきませんよ」
と、言い合っています。

 承認中心コーチングを受講された方はよくご存知のように、「承認」は挨拶、声かけ、相手の名前をよぶ、相手の健康状態を気にかけるなどのメンヘル上の重要な行動もカバーしていますから、「業績向上」の片手間にメンヘルの向上もやってしまうものなのです。
 それは直近の経験だけでもなく、これまでのすべての「1位マネジャー」のもとで起きてきたことです。

 
 どの分野の人も、自分の分野のカバーする範囲を広くとらえ、他人の分野を狭くとらえようとするものです。にしても、メンヘルの先生はコーチングを少し過小評価しすぎていないだろうか。よく知らないのに言及しちゃってないだろうか。

(これは、コンサルの先生にもよくあるのだ。中小企業診断士の養成講座になまじ「コーチング」がごく短時間で入っているせいか、診断士の資格を持っている人は聞きかじりの知識を口にすることが多い)

 私だったら、もし自分のセミナー中に他分野について言及するとしたら、例えばNLPもアサーション・アサーティブネスも、「コーチのための」といった狭いくくりのでない本式のセミナーを受講してから言及しますね。受講しましたけど。また心理学については、自分の扱っている行動理論が心理学のすべてだ、と思わせるような物言いはしていません。ほかに膨大なコンテンツがあることは知っていますから。

 あとこの先生がセミナー中に何度か会話例を自分で言ってみせて、「ほらこういうのがコーチングなんですよ」って言われるのだが、プロからみると、「すみません、恐らくうまくいきません、その会話は」というものです。そんなに自分の都合のいい方に引っ張っていけるものじゃありません。虫がよすぎです。


 こうしたメンヘルセミナーが盛んであると、メンヘルについての関心の高まりが逆にコーチングについての誤った理解を招く、結果的にコーチングの普及が遅れる、ということにつながりかねません。ということを危惧するので、主催者に抗議まではしないにしてもブログには記録するわけです。

 
 このところ「育てないで部下が育つセミナー」やら「NLPの営業コンサルの先生」やら、あっちこっちの人が「コーチング」について誤解を招くような物言いをし、本当にマジ迷惑している。なんでみんな自分のよく知らないことについて平気で言えるんだろう。よほどコーチングが怖いんだろうか。


 関連で思い出すのは、先日某所で講演をしたあとの懇親会で、メンタルヘルスを専門でやられているという女性の方から、

「コーチングが普及すると、メンタルヘルスは要らなくなってしまいますね」

と話しかけられた。私のスライドの「成果事例」の中で、「鬱休職者全員職場復帰」の事例が入っていたことなどに目をとめられたのだろうと思う。

 私は

「はあ…そうかもしれません」

とお答えするにとどめた。実は内心薄々そう思っているのだが正直に言ってはあまりに相手に失礼だろう、と思われた。しかしこの方は、

「私、本当にそう思います。一刻も早くいいコーチングが普及するといいですね」

と言われたのだった。


****


 
 『パラレルな知性』(鷲田清一、晶文社、2013年10月)を読みました。

 タイトルにつられて買った本ですが新聞雑誌に掲載された時事問題に関する雑文をまとめた本でそんなに読むところは多くないです。

 ただ部分的に、例えばこんなフレーズ、

「要するに、専門家も非専門家もいずれも科学技術全体のあり方を見渡せないというところに、つまりは科学技術の自己制御がうまくきかないというところに、高度化した現代の科学や技術の問題がある。」

「ここに求められているのは、広範な知識をもって社会を、そして時代を、上空から眺める高踏的な『教養』ではなく、むしろ何が人の生の真の目的かをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げていく営みとしての『哲学』である。ヨーロッパではこれが社会人としての必須のトレーニングとして位置づけられてきた。それをわたしたちはここで、『教養』と名づけたいと思うのである」

「1つのことしかできないのは、プロフェッショナルでなく、スペシャリストであるにすぎないのである。
 このことが意味しているのは、ある分野の専門研究者が真のプロフェッショナルでありうるためには、つねに同時に『教養人』でなければいけないということである。『教養』とは、1つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てることができるということである。いいかえると問題を複眼でみること、いくつもの異なる視点から問題を照射できるということである。」


 こういうフレーズを、わかってるつもりだけど改めて読みたかった、のでしょう。

 ちなみに一番好きなフレーズは:

「・・・もっとも重要なことは、わかることよりわからないことを知ること、わからないけれどこれは大事ということを知ること、そしてわからないものにわからないままに的確に対処できるということである。複雑性がますます堆積するなかで、この無呼吸の潜水のような過程をどこまで先に行けるかという、思考の耐性こそが今求められている。それこそ逆説的な物言いではあるが、人が学ぶのは、わからないという事態に耐え抜くことのできるような知性の体力、知性の耐性を身につけるためでないのかと言いたいぐらいである。」


 わからないことに耐える。わからないままに前に進む。


 よのなかカフェもまた、異質の分野の人がぶつかりあいながら「わからないことに耐える」強靭な知性をはぐくむものでありたいと思っている。

 (だから、知らないことを知ったかぶり発言する見栄っぱりの人は来ないでいいのだ)

 
 よのなかカフェいつ再開できるかなあ。


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 阪急阪神ホテルズの社長が辞任しました。

 これだけ「謝罪」ということがエンタメの世界でも大流行りのときに、間のわるい。

 前日のTVドキュメンタリーでも、出入り業者の「誤表示なんかじゃない、偽装ですよ」という声を拾っていました。
 「偽装」と認めるかどうかは、社長辞任までの問題かどうか、という社内人事にまつわる問題だったかもしれません。

 そんなとき「企業倫理」に関する本をよみました。『倫理の死角―なぜ人と企業は判断を誤るのか』(マックス・H・ベイザーマン、アン・E・テンブランセル、NTT出版、2013年9月)。

 
 例によって個人的におもしろいと感じた箇所をご紹介しましょう:


●倫理学者の行動はちっとも道徳的でない。アメリカとイギリスの31の有力大学図書館の蔵書の紛失率を調べたところ、倫理学の蔵書の紛失率のほうが他の分野の哲学関連の本より高かった。さらに、教員や上級レベルの学生しか借り出さないような文献に限定して調べると、倫理学の蔵書の紛失率はほかの哲学分野の1.5〜2倍に達していた。


●人間の認識は「限定された倫理性」の制約下にある。認識の視野が限定されてしまい、自分の意思決定が道徳上の意味合いをもつことに気づかない場合があるのだ。


●外的な要因によって意思決定の倫理的側面が見えなくなる場合もある。目標、報酬、指揮命令システム、目に見えないプレッシャーなどにより、問題の倫理的側面が薄らぐ―すなわち、倫理の後退が起きるのだ。倫理の後退が起きると、自分がおこなおうとしている意思決定を倫理上のものではなく、たとえば「ビジネス上の意思決定」と位置づけてしまう。

(正田注:今回の有名ホテルの偽装表示はこれかなー)


●よい意図の持ち主がよい決定をする場合もあれば、悪い決定をする場合もあるし、悪い意図の持ち主が悪い決定をする場合もあれば、よい決定をする場合もある。悪い意図なしに倫理に反する行動を取るケースを無視している既存の倫理学は、非倫理的意思決定のかなりの部分に光を当てられない。

(正田注:私は時々既存の研修機関を批判するが、それはおおむねこういうケースだと思う。担い手の人々は多くの場合善意の人々だ、しかし自分の言っていることの負の側面に気がつかない)


●速い思考と遅い思考(システム1とシステム2、このブログでは去年「ファスト&スロー」の読書日記でとりあげました。ほら、このブログをずっと読んでいると役に立つでしょ)。人は倫理上の問題を前にしたとき、感情的なシステム1の思考モードで反応することが多い。重要な意思決定をおこなうときでも、人はこの落とし穴にはまりかねない。あわただしい現代社会では、システム2が好ましいときにシステム1に頼ってしまうことがしばしばある。ある実験によれば、頭を忙しくはたらかせている人はそうでない人に比べて、課題を処理する際に「ズル」をする確率が高いという。またある研究によれば、倫理上の選択がさまざまな外的要因にどのくらい影響を受けるかは、意思決定にどれだけ時間を費やすかに左右されるという。

(正田注:だからだ、私はあんまり早口の人を信用しないのだ。すくなくとも「早口じまん」とか「忙しいじまん」の人はどこかに大きな見落としがある)

●人は概して、自分の倫理上の判断がバイアスの影響を受けていても気がつかない。しかも、そういうバイアスの存在を指摘されても、選択の質はおそらく改善しない。多くの人は、ほかの人がバイアスの落とし穴にはまる場合があることには納得しても、自分だけは大丈夫だと思い込んでいるからだ。


●「内集団びいき」の現象。母校や宗教、人種、性別が同じ人を優遇する傾向が人間にはある。自分と共通点のある人たちを優遇すれば、結果としてそれ以外の人たちを差別することになる。自分と同じ人種を優遇するのは、異人種に不利益を与えることにほかならない。

●自己中心主義による自分の貢献度の過大評価。カップルに「あなたはどの程度家事をしていますか?」と尋ねると、両方が50%以上と答える。

●自己中心主義は、資源に対する権利を過大に主張する姿勢も生む。その典型が種の絶滅や気候変動などの環境危機だ。

●意思決定の事前予測の誤り。採用面接でセクハラ的な質問をされたらどうするかとの問いに、女子学生の62%は質問の意図を問いただすか、その質問は不適切だと指摘すると答え、68%は回答を拒否すると答えた。しかし実際の面接で同様のセクハラ的質問をしたところ、回答を拒んだ女子学生女子学生は1人もいなかった。なぜそんなことを聞くのかと尋ねた学生は半数にも満たなかった。人は多くの場合、自分の将来の行動を正確に予測できない。

●実際に意思決定をおこなうとき、人々の頭の中は、どのように行動したいかという思いに支配される。どのように行動するべきかという考えは、どこかに消し飛んでしまう。オンラインDVDレンタル会社からレンタルされたDVDが返却されるまでの期間は、見るべき映画より、見たい映画のほうが格段に短かった。つまり利用者は、見たい映画のほうを早く返却するのだ。見るべき映画のDVDはどこかに置きっぱなしにされて、いつまでも見られないままなのだろう。

●将来の行動を予測する時点と実際に行動する時点とでは、その選択についてどう考えるかがまったく異なる。そのくいちがいは、二つの時点でいだく動機の違いと倫理の後退(意思決定で倫理が意識されなくなる現象)によって生み出される。

●自己イメージを守るために、責任転嫁がなされる場合も多い。成功の要因を自分の知性と直感と人柄のおかげだと思いたがり、失敗の責任を自分以外に押しつけたがるのは、人間の性だ。

●「みんながやっている」というのも定番の言い訳だ。「脱税なんて、誰だってやっているじゃないか?」という発想である。この「みんながやっている」という認識そのものがバイアスの産物という場合もある。著者の研究によると、非倫理的行動を取りたいという誘惑が強いほど、人はその行為が広くまかり通っていると考える傾向が強い。

●いったん倫理基準を変えると、その人の道徳的理念は力を失い、越えてはならない一線はなくなってしまう。このプロセスは段階を追ってゆっくり進むので、本人も自分の変化に気づきにくい。

(正田注:このくだりは、目下の有名ホテルの偽装表示問題にも大いに当てはまると思うのだが、個人的には企業研修のときの事務局や主催者の講師に対する「失礼行為」がいったん始まってしまうと、後々エスカレートしてしまうことも想起してしまった。ああ恐ろし。社長挨拶にも、「講師を貶す挨拶」という種類のものがあるのだ)

●宣誓文やコンプライアンス制度がむしろ非倫理的行動を助長する場合もある。この種の制度はたいてい、倫理的行動にご褒美を与え、非倫理的行動に制裁を科す仕組みを盛り込んでいるが、そういうご褒美と制裁のシステムに対して人間が一般にどういう反応を示すかという点がしばしば見落とされているからだ。

●正式な倫理プログラムは、その組織の倫理の基盤のごく一部を構成しているにすぎない。企業などの組織では、正式なシステムとは別に目に見えない規範や圧力が作用しており、そうした暗黙の要素がメンバーの行動に及ぼす影響のほうがはるかに大きい。

●人は1つの目標を強く意識すると、ほかの側面で倫理をおろそかにしやすい。1990年代前半、小売り大手のシアーズは自動車整備サービス部門の整備工たちに、1時間当たり147ドルという売上目標を言い渡した。すると、整備工たちはノルマを達成しようとして、顧客に過剰請求をしたり、不要な修理を売り込んだりするようになった。


●文法上の誤りと事実関係の誤りを入れた文章を大学生たちに校正させた。一部の学生にはただ「最善を尽くせ」とだけ言い、別の一部の学生には、文法ミスを洗い出すように最善を尽くせと指示する。すると、単に「最善を尽くせ」とだけ言われた学生のほうが文法ミスと事実関係のミスの両方を多く見つけた。文法ミスを洗い出すという限定的な目標を言い渡された学生は、簡単な事実関係のミスを見落とすケースが多かった。


●ある研究によると、四半期ごとに財務成績を公表している企業はもっと間隔を置いて公表している企業に比べて、株式アナリストの業績予測を上回る成績を残せている場合が多い。しかしそういう企業は、研究開発(R&D)という、さしあたりの恩恵が少なく、脚光も浴びにくい目標につぎ込む資源が比較的少ないことがわかっている。四半期ごとの目標やウォール街の業績予測を達成するためにデータを操作する企業も珍しくない。

●報酬システムがしばしば悪い結果を招く原因は、一つの目標だけを強調することにある。その目標を達成するために社員がどういう行動を取る可能性が高いかを考えていないから、想定外の好ましくない行動を引き出したり、ご褒美をもらえない行動をないがしろにさせたりしてしまうのだ。


●罰則が好ましくない行動を助長してしまうことがある。ある保育園では、子どものお迎えの時間に遅れる親が多いことに頭を悩ませた結果、お迎えの遅れに罰金を科すことにした。しかしむしろ、お迎え時間に遅れる親が増えた。罰金制度が導入されたことで、親たちの意識のなかで問題の倫理的側面が取り除かれてしまった。罰金という形の料金を払って「時間延長サービス」を利用するかどうかという選択の問題として位置づけられたのだ。

●道徳上の埋め合わせ行為、もしくは道徳的な釣りあいの維持とでも呼ぶべき現象により、倫理を推進するはずの取り組みが非倫理的行動を助長してしまうケースがあることは、行動倫理学の研究によって裏付けられている。人は自分の道徳上の「収支」を一定に保とうとする性質があり、そのためにささやかな道徳的行動や非道徳的行動を取って微調整をおこなっている。

(正田注:浮気しただんなさんが奥さんに花とかプレゼントを買ってくる、みたいなものだろうか。これの前には、世界をよくするために真剣に努力する非営利組織がデータ操作などで世間を欺く行動をとることがある、とも書かれていて耳が痛かった。いえ、データ操作はしていません・・・)

●p.185には「組織における倫理の障害と解決策」と題した表があって要注目です。(1)報酬システム、(2)制裁システム、(3)道徳上の埋め合わせ、(4)非公式な文化 を4つの障害としています。

●人はバイアスの影響によって以下の4つの落とし穴にはまり込む。(1)楽観的な幻想を抱き、気候変動のような遠い未来の問題を切実に考えない。(2)自己中心主義的な発想に陥り、自分以外の誰かが対策を講じるべきだと考える。(3)現状維持にかまけて、いかなるコストも拒否しようとする。(4)気候変動のように、自分で直接経験したり、現実感のあるデータの形で見たりする機会の乏しい問題を回避するためには、投資しようとしない。

●行動する前にじっくり分析的に考える習慣を身につければ、理想の自己イメージどおりに倫理的に行動できる可能性が高まる。具体的には、倫理上のジレンマと向き合う「事前」と「最中」と「事後」に自分がいだく心理を予測しておくとよい。

(正田注:本書の「キモ」のところだと思うが、言うほどそれは簡単ではない。例えばあるプロジェクトがスタートしたら、自分があるプロジェクト関係者に対する嫉妬心に悩まされ、制御できなくなるなんてことが事前に想像できるだろうか)

●「したい」の自己の猛威に備える方法の一つは、意思決定の際に自分がどのような動機の影響を受けそうかを予測するというものだ。先のセクハラ質問に答える女子学生の例では、あるグループには自分がどのような動機の影響を受けそうか考えさせた(おそらく、「採用されたい」という動機をいだくはずだ)このグループは、自分が毅然とした態度を取るとする人の割合が少なかった、すなわり自分の行動を正確に予測できた。

●倫理上のジレンマに直面したときも、抽象的価値観を意識することで「すべき」の自己の影響力を強められる。非倫理的行動で得られる当座の恩恵より、意思決定の基準となるべき理念や原則のことを考えれば、「すべき」の自己に勝機を与えられるかもしれない。抽象的な価値観を強く意識するためには、自分の死亡記事にどのように書かれたいかを考えるのも有効な方法だ。死後、どういう理念に従って生きた人だったと言われたいかを考えてみるのだ。

(正田注:結局理念経営は大事だ、ということですね。この「死亡記事」のワークは有効そうだが、イマジネーションの障害のある人には多分無理だ・・・ときどき、本当に「未来」について考えることが不得手なのだろうか、と思える人がいる)

●意思決定者に複数の選択肢を同時に検討する機会を与えると、「すべき」の自己が優勢になるケースが多い。



 以上です。

 さあ、某有名ホテルグループさんには参考になるでしょうか・・・


 ところで正田と当協会は大丈夫か、ということですが、

 従来「出典明記主義」で、文献名などを必ず出すことは心がけています。それは駆け出しのころから受講生様に評価されてきました。「ここの講座で教わったことは第3者にも堂々と話せる」と。
 
 とはいえ1人でやっていること、気のつかないことは多々あると思いますので、気がつかれた方はご指摘いただければ幸いです。

 この秋は、ちょっと「チョンボ」が多かった私です。関係者の皆様、大変申し訳ありませんでした。


 気になっているのは、先日の「発達障害者は注意するのが好き?」の読書日記の記事に今アクセスが集中し、今日は1500を超えています。誰かがツイッターで拡散したみたい。

 注目されることは、思わぬことで足を引っ張られる可能性が増えるということでもあり。
 何か悪い事が起こらなければいいのですが。



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『大人の発達障害ってそういうことだったのか』(宮岡等×内山登紀夫、医学書院、2013年6月)を読みました。


 去年から今年にかけて発達障害関連の本が多数出版されています。従来の本と比べてそれらの方が、日常的に出会う実感に近づき、微妙な疑問が「そういうことだったのか」と氷解することも多いです。

 本書は臨床医2人による対談本で、とくに診断に関して専門用語が多出しそれらをあえて一般用語に直さないまま掲載しています。全体には平易で一般人にも読みやすい本です。


 臨床現場からみた非常に多数のポイントが出てきますのでご紹介させていただきましょう。(従来本と比べてやや「あけすけ」な口調でもあります)当事者の方にはあまり断片的にご紹介すると気になられるかもしれません。その場合はぜひ本書をお買い求めください。


●子どもの発達障害は確かに患者数が増えている可能性がある。出生時低体重や父親の高齢化が原因の1つ。虐待と関係しているとの説もある(内山)


●自治体の発達障害の施設で親の相談を担当しているが、発達障害の子どもを叩いている親はけっこういる。面接のときに「叩いている」という話が出たら、「どのくらいの強さで叩いてるんですか。机を叩いてみてください」ときくと、かなり強く叩いているお母さんもいる。母親の側にも不器用で力加減がうまくできないなどの発達障害にみられるような問題があるのかもしれない。(内山)

(正田注:女子柔道の暴力指導が問題になった時、知人で発達障害に詳しいある先生は「あの指導者は発達障害の目をしている。力の加減がわからず、相手の痛みがわからないのではないか」と言われた)

●疫学的には、患者数は非常に多い。発達障害全体については2012年12月に文部科学省が公立中学校通常学級で発達障害の可能性がある子どもの割合が6.5%と公表し、話題になった。
 自閉症スペクトラム障害(ASD)に関しては、最近の複数の疫学調査で1-2%の数字が出ている。ADHDは5-10%。学習障害(LD)も5%。(内山)


●病因には環境要因のほか、遺伝的要因が大きな役割を果たすのは確か。一卵性双生児の一致率は50-80%なので躁うつ病や統合失調症よりもはるかに遺伝性は高い。(内山)

●臨床で一番困るのは高機能ASD(アスペルガー障害)。高機能の意味は「知的障害ではない」ということ。IQ70やIQ85など定義には研究者、自治体によってもばらつきがある。(内山)

●「アヴェロンの野生児」(1797年頃フランスで保護された野生の少年)は明らかに自閉症の特徴をもっている。森の中で捨てられたが、実際にはおそらく自閉症で育てにくいので、親が殺そうとしたのではないか。(内山)


●自閉症の用語の定義。自閉症スペクトラム障害(ASD)という概念がいちばんシンプルだと思う。この言葉は、ウィングの1979年の疫学研究から生まれた。「社会性とコミュニケーションとイマジネーションの障害」を「ウィングの三つ組」といい、ASD診断の有効な根拠。(内山)


●ASDの人のスクリーニングツール。
 異性との付き合いは下手な人が多い。互いに満足のいく性的パートナーがいないというのがスクリーニングの1つ。
 エキセントリックな独特の感じがする。
 実行機能や社会性の問題があるため、着脱や身だしなみに問題があることも多い。流行遅れの服やサイズの合わない服を着る。
 特定のことに強い関心があり、いわゆるオタク。特定の領域のオタク的な知識があったりする。
 言葉づかいがペダンティックというか、奇妙で文語的な話し方をする。
 非言語性のコミュニケーションが明らかに異常で、視線の使い方が奇妙だとか、表情が硬い。あるいは逆に、非常に演技的な過度なジェスチャーをしたりする。
 ある意味で非常識な行動を悪気なくしてしまうことが多く、結果的に他人を巻き込んで迷惑をかける。
 能力のデコボコがけっこう多い。
 話している最中に話題とはまったく関係ないことを言ったりする。それが思考障害に見えたり、社会性がないので自分の考えにパタッと浸ってしまうこともあって、それが思考途絶に見えることもある。それで統合失調的にみられやすい。(内山)


●「自閉症スペクトラム障害の症状は健常な状態から連続性があり、程度の問題と考えてもいいですよね。では、どこからを病気と考えればよいのでしょうか」(宮岡)
 「それが、線がないんですよ。ASDは線がないのが特徴です」(内山)
 「そうすると普通に生活している人のなかにも、軽い人はいくらでもいるということになりますか」(宮岡)
 「いっぱいいます」(内山)

●子どもの社会性の障害でわかりやすいのは、人よりも物に関心がある。お母さんと遊ぶよりも、物を並べるほうが好きだとか。
 なかでもこだわり行動はいちばんわかりやすく、物を並べる、特定の物を集める。
 変化を嫌ってたとえばお母さんの髪型が違うと嫌がるという変化抵抗性。
 「注意共有の指さし(ジョイントアテンションの指さし)」がASDではかなり遅れる(内山)

●コミュニケーションの障害では、皮肉がわからない、言葉の裏の意味が読み取れないとか(内山)

(正田注:この特徴はひょっとしたら、「オレはすごい」と思い込む「ナルシシズム」にもつながるかもしれない。他人がほめてくれた言葉を全部言葉どおりに信じ込むとしたら。またASDの人には内省力が弱い、という特徴もある)


●イマジネーションの障害は大人では、「こうしたらこうなる」という結果が読めているかどうかがポイント。「こんなことを言ったら相手が傷つくんじゃないか」「相手が怒るんじゃないか」を想像できるかどうか。相手の立場に立って想像して行動できるかどうか。(内山)

●社会性の問題は聞き取りが一番難しい。普通の人が本能でやっていることも、発達障害の患者さんはラーニング、学習が必要。典型的なシチュエーションへの対処のしかたは教えることができるが、シチュエーションはそのときどきで違う。そのすべてを教えるのは不可能。


●「三つ組の障害」+「感覚過敏」の4つで大体診断がつく。感覚過敏は、聴覚がいちばん多く、ほかに視覚過敏、味覚過敏。母親の作ったおにぎりは食べられない、コンビニのおにぎりは塩分が一定だから食べられる。


●「薬は絶対に飲まない」と言い張る患者さんがいて、統合失調症の妄想でもなく副作用でひどく苦しんだのでもない。しかし発達障害にはそういうこだわりや非常に強い執着が出る人がいると知りしっくりきた(内山)

●アスペルガーは常識の欠如が診断基準の一つ。「これくらいはわかるだろう」ということが、相当知能レベルの高い子でもわかっていない。IQが100以上ある大学生でもゴミ出しができないこともある。歯ブラシを箪笥の中のタオルや下着の上にポンと置く。ものごとの優先順位をつけられず、大学の試験もこちらがびっくりするような理由で休む。(内山)


●統合失調症と発達障害の診断の見分け。「幻聴がありました」と紹介されてくる患者さんのなかには、よく聞くと幻聴ではなく、錯聴か聴覚過敏のような人がけっこういる。精神科医の問診が雑になっている、下手になっていると感じる(宮岡)

●発達障害の人はどんな場面で他人や家族に暴力をふるうか。多いのはやはりこだわり関係。ある青年が母親を殴ったときは、自分はこの順番にご飯を食べたかったのに、お母さんが別の順番で持ってきたから殴ったとか、7時に食べたかったの7時5分だったのが許せなかったとか。
 いわゆるイマジネーションの障害が関係しているのだと思うが、彼らはそういう状況で手加減ができない。だから高齢の母親を本気で殴って骨折させて、警察沙汰になってしまう(内山)


(正田注:「加減ができない人」という設定の落語の登場人物がいたな〜。思い出せない…あれを寄席できいたときすぐ障害を思い浮かべました)


●高機能の人に自殺企図はけっこうある。うつ病がからんでいるし、社会的にうまくいっていない。しかも考え方がわりとオール・オア・ナッシングなのである瞬間に絶望してしまう。(内山)

(正田注:なんかひとごとと思えない・・・)


●精神医学では内因性があって、その次が心因性(性格環境因性)とこれまで教えてきたが、性格環境因性の前に発達障害関連性が入ったほうがいいのかもしれないですね。(宮岡)


●「自閉症でも一見躁に見える人がいますね」(宮岡)
 「反応性にはしゃぐということはありますね。異様にはしゃいでしまうのは、情報処理がうまくできないからなのです。要求水準が高まって自分の能力以上のことをさせられると、急にはしゃぐ。それが躁に見えることがあるのです」(内山)

●強迫性障害の一部の症例はASDなのだと思う。ASD寄りの強迫の基本は構造化、つまり環境調整。本人にとってすっきりした環境をつくってあげること、環境をわかりやすくすること。本人の不安レベルを下げる。見通しをつける。CBT(認知行動療法)はASDの人にはうまくいったことがない。言語能力も要るし注意力も要るし内省力も要る。アスペルガーは基本的に内省は不得手ですから(内山)


●拒食症との合併の話。昔「ボーダー(境界性人格障害)+拒食」という診断をつけた子の中には「ASD+拒食」の子もいたかなと思う。非常にリジッドで、対人関係も乏しくて、ひたすら体重を減らすことやカロリーを制限することだけにこだわる(内山)


●身体表現性障害の心気的な症状は非常に多い。子どもの場合では頭痛や腹痛など不登校の子がよく口にするような普通の身体症状。成人でも頭痛、腹痛は多い。なかには特に所見がないのにずっと筋肉が痛いとか肩が痛いとか、いわゆる不定愁訴もある。
 アスペルガーは言語表現が下手ですから的確な訴えができない。自分の体内感覚もたぶん偏っているから回答も適切ではない。そのまま聞くと不適切な薬を処方してしまう(内山)

●典型的なうつ病の場合は一定期間経ったら治療しなくても症状がよくなってくることが多い。本当の典型的なうつ病なら自然寛解するはずなのに3-4年もうつが続く。こういう人が多剤大量処方になる(宮岡)


●高齢者の発達障害。70歳代ですごくこだわりが強くていろいろなトラブルの原因になっている患者さんがいた。治療法は特にないのでこだわりを認めるのがいちばん。アダルトボーダーと言われた患者さんの中に明らかなアスペルガーだという人がたくさんいる。難治という視点でみると難治だけど、治そうとするから難治になってしまうので、認めてしまえばいい。患者さんが困らないように環境設定を変えればいい(内山)


●発達障害では現在の問題は必ず過去の問題とつながっている。(内山)
 成育歴の聞き取りができない場合はどうしたらいいか。横断面の症状をできるだけきちんと聞くことか(宮岡)
 そうです、横断面の症状をしっかり聞く。いろいろなテストをやってみるのもよい。たとえば公園でいろいろな人がいろいろな状況にあるという絵を見せてみる。絵のある一部分にしか反応しない人は自閉症の確率が高い。映画を見せてどこを見ているかをアイトラックを使って調べる方法もおもしろい。普通の人が見るところとぜんぜん違うところを見ている。(内山)


●女性の発達障害はクリニックの受診者が増えている。診断基準を男女で同じにしてしまうと男性が多くなってしまうと思う。女性は行動がそれほど衝動的ではないので気づかれにくい。でも実際には、たとえば授業中にイマジネーション、白昼夢に浸っている子が多い。
 子どもを自閉症と診断したときに、母親が「私もそうじゃないかしら」と言い始めるというケースが最近、増えてきた。特に抑うつを合併している人が多い。女性の多くは潜在例で、そんなにペダンティックでもなく普通に話す。でもよく診るとノンバーバル・コミュニケーションに乏しいとか、打てば響く感じがないといった自閉症の特性はもちあわせている。男性のようにガチッとしたコレクションではないけれどもいつも同じ色の服を着ている。家を同じ色でコーディネートしているといった抽象的なこだわりはけっこうある。(内山)

(正田注:やっぱりひとごとではない・・・)


●職場で見つかった例としては、やはり場をわきまえない行動がいちばん多い。上司にタメ口で話しかけたり、スーツを着用すべきときにジーパンをはいて出社したり、お客さんをどなりつけたり。思ったことを何でも言っちゃう。「お待たせしました」とあいさつしたら、「本当に待たされました」と言った患者さんがいた。周囲に対して非常に怒る人も多い。彼らは被害妄想的になることが多いので、上司が親切心から丁寧に注意したことも「自分を否定された」と解釈してしまいがち。それで上司に食ってかかったり、極端な例では労働基準局に訴えたという人もいた。無理に治そうとせず、その人を上手に使う方法を考えればよいと思う。社交性を期待しなければ、仕事そのものはできる人がけっこう多い。何か注意して食ってかかってきたら、「ああ、これがこの人のクセなんだな」程度に受けとめてやり過ごす。あるいは仕事以外のことは要求しない。社員旅行や飲み会に無理に誘わない
 IT企業には多いですよ。逆に、営業が得意な人もいます。ある意味では非常に一方的なので、押しは強いし、本当に上手に説得します。お客さんから体よく断られたりクレームが来てもぜんぜんこたえないし、ある意味、しつこいですから(笑)。営業成績が抜群の人もいます。(内山)

(正田注:注目の職場関連のこと。だからね河合薫さんその人はこれを疑ったほうがいいって、今どきの「人間関係が希薄」っていう話にするより。叱られて逆ギレする人の中にも結構まざっていそうだ。「今どきの非常識な若いヤツ」として話題になるのは実は圧倒的にこれなのではないか。一方でこの人たちの行動パターンが職場のスタンダードになってしまうことは厳に避けたい。やはり、診断を受けてもらったうえで「別枠扱い」するのが理想だとおもう。個人的な経験としては、この人達には「偉い人ずき」「一番上の上司の方を向いて仕事する」「見下しや嫌悪の感情が多い」「男尊女卑」など、不愉快な行動・意識のパターンも大いにあるのだ。そんなものを許容して「清濁あわせのむ」とか「大人の態度」などと言わないほうがいいと思う。一番怖いのは、この人たちの「想像力のなさ」「ワーキングメモリの小ささ=忘れっぽさ」「時間管理能力の低さ」からくる仕事のレベルの低さにあわせて、職場全体にプロ意識がなくなってしまうことである)


(もうひとつ正田注:私はよく企業の人事の人と仲良くできないとお叱りを受けるが、私がみたところ人事とか研修に関わる業務をしている人にこの傾向をもった人は多い。そして彼らの特有の思考法、「全体目線がない=恐ろしく偏った議論のほうに共感する」とか「見下し」「男尊女卑」とかの被害を私はもろに受けるのだ。だから、リーダー研修のような大事なことは正直言ってトップと話したい。「司、司に任せる」「責任と権限」などと恰好をつけるトップは、自社の人事がいかなる資質の人びとで構成されているかよく知らないで言っているのだ)


●スクールカウンセラーは発達障害者に対して、普通の内省を求める精神療法はしないこと。やるべきことを具体的に指示する。その子のアセスメントをして、できることを指示する。そして、同じ内容を担任の先生や学科の先生方にも伝える。(内山)


●ASDに対して「少しゆっくりしなさい」といった曖昧な表現を用いるのはよくない。かなり知的に高い人でも「少しゆっくり」というのが「どの程度ゆっくり」なのかわからないようだ。うつ状態になって少し休ませたほうがいいというとき、「一日に休憩時間を何時間とりましょう」など、具体的に話す。
 「視覚で提示」のほうがよい。僕は字も絵も下手だが、それでも書いたほうがいいという患者さんはいっぱいいる。(内山)


●会社でうまくいかない場面を具体的に想像させるという手法はASDには難しい。想像はできるが、偏っている。発達障害の患者さんはメタ認知が悪いので、現場で起きていることとは違う方向に想像がいってしまう。同僚や上司から聞いた話と本人の話がすごくずれている。


●お客さんが喫煙不可のところで喫煙しているからと怒鳴りつけたASDの人がいる。もともと自閉症者は注意するのが好きな人が多い。「注意は上司がするので、君は注意しないように」というルールにしていっさい注意をさせないようにするのがよい(内山)

(正田注:ここの「自閉症者は注意するのが好き」のフレーズにはがんとなった。色々と身近な人も連想し…、マネジメントでいえば、私の直接の知り合いにはいないが「マイクロマネジメント」的に異様に注意したり報告を上げさせたりするマネジャーがいるが、それにも発達障害はかかわっているのかもしれない。賢い上司は何か起きてからではなく、起きる前に注意喚起する。この後に「視覚駆動」という話も出るが、想像力が不足で事前予防ができず、かつ視覚駆動で何か起きたときにカッとなる、というメカニズムなのかもしれない)


●物事の善し悪しの判断がなかなかできない人には、損得勘定で説明することがある。太っている人に「デブですね」と言って傷つけてしまうアスペルガーの人には、「そんなこと言うとあなたにとって損ですよ」「あなたが生活しづらくなりますよ」と説明すると、「じゃあ、やめようか」となる患者さんもいる。「何が悪いのかはわからないけど、損するのは嫌だからやめよう」となる人はいる。すべての人ではないが。(内山)

●反省しているのにちっとも反省しているように見えないところもある。裁判員制度が採用されてからどんどん重罰、重罪化するようになってきたように感じる。素人裁判官は「反省していない」言動にものすごく反応する(内山)

●ASDの強迫性障害には曝露反応妨害法はたいてい悪くなる。わざと汚すと、その段階でパニックになる。曝露反応妨害法は一定水準以上の内省能力や動機づけ、情動をコントロールする能力を想定した治療法。ASDはそういう能力が基本的に乏しい。そういう意味では精神分析療法も同じで、傾聴療法の場合はただずっと傾聴しているだけで終わってしまうことも多いので、あまり意味がない。(内山)

(正田注:私見ではパーソナルコーチングのお客さんにも、ASDやADHDの人は多いと思う。特有の「生きづらさ」を解決するために、半ばカウンセリングの代用物として使う。ただとくにASDの人は内省能力の弱さのため、「オートクライン」という、コーチングが効果発現する重要なメカニズムが起こりにくく、ただただ一方的にしゃべり散らかし、何の気づきも起きないことも多いようだ。正田はもちろんその手のお客さんは敬遠している。でもこの人たちは一方的にしゃべることは好きなので正田が普通に生活していても寄ってきて4時間でも5時間でも、都合のよい無報酬の聴き手にしようとするのは、このブログの少し長い読者の方はご存知のとおりだ)




 
●ASDはこだわりが強いが、こだわりというのは結局「切れない」障害で、時間を区切ることがdけいないから、注意の移行が難しい。注意の移行がしやすいようにするには、やはり視覚的スケジュールが必要。
 終わりの概念はすごく抽象的なのでシフトできない。それで、終わりの概念をこちらでつくってあげる。タイマーかもしれない、スケジュールかもしれない。あるいは誰か大人の声かけかもしえない。(内山)


●俗に言う「新型うつ」みたいな患者さんのなかにも発達障害合併うつ状態の人がいるはず。(宮岡)


●抗うつ薬のリフレックス、レメロン以降はプラセボとの比較がされている。どの試験でもプラセボでハミルトン得点が10点ぐらい下がっている。実薬のほうは12~13点。抗うつ薬は臨床的にどれくらいの意味があるんだろうか、もっと精神科医は検討すべきだと思う(宮岡)


●発達障害者が親を殴るなどの問題行動が出たら、叱ってもだいたいうまくいかないし、本人がますます混乱する。僕は、患者の混乱が激しい場合には家族に逃げるように言っている。視覚駆動なので、その場にいると刺激になる。お母さんがいるとイライラして叩いちゃう。だから母親が本人の視界に入らないようにする。それしかないです。(内山)

●アスペルガーの患者は内省が苦手だから告知が難しい。内省が乏しいだけに、診断に納得しないこともある。なかには「自分はアスペルガーじゃない」と診断してもらいたくて受診している人もいる。(内山)


●うまく使えば会社の役に立つ人たちが多い。能力にデコボコがあるから平均したら低いのかもしれないけれど、ピークをうまく使ってあげれば会社にとってもメリットがある(内山)

●告知の問題もからんできますよね。合理的配慮を得るためには、本人が診断を知っている必要があるし、診断をカミングアウトする必要がある。たとえば現在検討されている差別禁止法にしても、何か障害があれば配慮しなさいと言っていますが、障害を知らされていなければいっさい配慮しなくてもよいことになる。(内山)



引用は以上です。
ふーふー。

考えてみると「従来本」は発達障害の当事者に向けて書かれたものが多く、そのため当事者が受け取りやすいように手加減して書かれていたかもしれない。本書は「当事者」を読者としてあまり想定していないのか、結構シビアな内容が書かれています。ただ職場などで「当事者」の傍にいる人には非常に有用とおもいます。

マネジメント上の問題の気づきもありますがそれ以上に
色々と身につまされるところの多い本でございます・・・



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


 





 そういえば、「ママ友」5人でノートの回覧なんてことをしていたな〜。ふと思い出しました。すごい遠い記憶。確か正田がコーチングに出会う前、上の子どもが年中さんになったころから2年ほどの間だったと思います。


 幼稚園の子どものクラスとは関係ない、クラスや学年が1つずつずれた位のあまり密着しないお母さん同士の少し距離を置いたおつきあい。それは多分、クラスのお母さん同士のおつきあいの息苦しさを散々体験した人同士だからの、賢いおつきあいの方法でした。

 ノートだから気兼ねなく色んなことが書けて、お料理自慢の人は得意料理のレシピを披露したり、遊びスポットに強い人は行った先のお店や行楽地を紹介したり、正田はやっぱりオピニオン的なことを当時も書いていたと思いますがその仲間ではそういうキャラだと認知されてましたから、割とレス書いてくれたり、してました。クラスのお母さん同士だと「女の園」で「女」方向にどんどん走ることを強要されるふしがあるので、そのノートは気楽に自分を出せる空間でした。

 今はこのブログやフェイスブックにオピニオン書く場が変わってしまっているし、お料理だったらクックパッドとかネット上に代行してくれるところがあるけど、ご近所同士でそんなことをしてる人まだいるのカナー。


 そういえばその前はお母さん情報誌のようなこともちょっとやってたんだ・・・。なんで急にこんなことを思い出すんでしょう。当時の管理会社RICオペレーションから声を掛けられ、六甲アイランドのFAX情報BOXを使って手書きで島内の子連れスポットとかお店を紹介するようなことをしていました。子どもが3歳、2歳、0歳のときの辛うじてできる社会貢献でした。ただそれも2年ほどで終わりました。それをしていることをマンションの隣の奥さんに知られてから子どもが幼稚園で「いじめ」を受けたんでした。ああ恐ろし。


 そんなこともあって同世代のお母さんに広く発信することをあきらめてしまった。気のおけない一部の友人とだけ意見交換するようになった。そして翻訳者になってお母さんづきあいから遠ざかり、コーチングに出会ってますます遠ざかり。

 
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 鷲田清一や内田樹の本をまた何冊か読みましたが、どうも感興が薄い。この人達の著書盛んに点数が出てますが。この世代の人たちに何かを教えてほしいとあまり思わなくなってきたのかもしれない。


 でやっぱり同世代から学ぼうかと、『里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷浩介・NHK広島取材班、角川ONEテーマ21、2013年7月)を手にとりました。


 まったく知らなかった林業の再発見、耕作放棄地の再利用の話。NHK広島が制作して中国地方5県のみで放映されたドキュメンタリーの文字化。木質バイオマス発電、ペレットボイラー・・・、
 この分野の先進国としてオーストリアの例を引き、例えば人口4000人の町ギュッシングでは、木材エネルギー利用でエネルギー自給率72%に達したという。
 「木造高層建築」を可能にする集成材のCLTの話。CLTは地震にも火災にも鋼材より強いという。耕作放棄地の田んぼで高級魚のホンモロコを養殖、京都の高級料亭に卸すほか地元の小学校の給食にも出す。デイサービスのお年寄りが作って余らせている野菜を地域通貨で買い上げ施設の給食に使う。

 そこには「手間返し」「ありがとう」「かけがえのない人」といった、人間性尊重のキーワードも入り、人口問題の専門家でもある藻谷氏は2060年の里山資本主義を楽観しながら

「マッチョな解決策は副作用が出る」
「里山資本主義への違和感―かつての高度成長期のようにバリバリ海外に打って出ろ―はつくられた論調」

という。

 さあ、マッチョおじさんたちはどう反論するんでしょうか。

 私の立場は依然同じで、里山資本主義へ転換するにしてもそこでは人ひとりひとりが貴重な労働力なのだ、潰しているひまはない。
 
 そして地方都市に依然多い、頭の固い「変えるのが嫌い」な人びとが、必要な転換への決断をどうするか、というところにも興味があります。


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 今週はいよいよ水曜に高槻商工会議所でのお話、そして木曜に三宮での講座があります。高槻商工会議所では10年来のお付き合いである間瀬誠先生(マセヒューマンテクノ代表、元旭化成の工場長)から講師紹介挨拶をしていただけることになりました。
 10年来嘘もはったりもなく地道にこつこつとマネジャー教育をして実績を積み上げてきた正直な人だということ、紹介する成果事例が極端に凄いがいずれも事実であること、言っていただけるといいな〜。変な反発とか来ないといいな〜。

 ほんとうは週に2日もしゃべる仕事が入ると息切れしてしまいこの週末も1日寝て1日ほそぼそと書類仕事をしたひ弱な私であります。



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 『人はなぜ「いじめ」るのか』(山折哲雄、柳美里他、シービーアール、2013年9月)を読みました。いじめられた当事者をみる立場の3人の臨床医と山折、柳の座談会をまとめた本。


 対談や座談会形式の本をこのところよく見ます。普通の文章として書いたものより、現場感覚あふれる言葉がぽろぽろっと出てきて面白いです。


 「ストレスといわれるものの半分くらいはいじめ」といい、「ひとり」の効用をいう、この本の印象的なフレーズをご紹介しましょう。


「・・・人間というのは、放っておくといつのまにか限りなく「野生化・野獣化」するという問題です。・・・じゃあ人間の「野生化」をどう喰いとめるのかあるいは飼い慣らすのかという、どうもその大前提についての議論、考え方が今日の日本の社会には欠けている」(山折)


「人間が本来持っている攻撃性には、大きく分けて2つあると思っています。自分を生かすために他人を排除しようとする競争的侵略的な攻撃性と、よりよく生きようとするために挑戦的になる前進的な攻撃性。前者はいま問題になっている「いじめ」で、まずは他人をやっつけようとする。後者は攻撃性を失くしたら気力まで無くなってくるというもので、まずは自分の生き方へと視線が向かう。たとえば修行者なんかは非常にアグレッシブで、他者の説を受け入れようとしないけれども、自分でつぎつぎと難関を目指していく。両者の違いを区別するほうがよいように思います」(生野照子、浪速生野病院心身医療科部長、ストレス疾患研究所長)


「ひとつはスポーツ、オリンピックですね。二番目は軍隊組織です。三番目は宗教、四番目が学校かなと思います。この四つの文化装置というものが、放っておくと限りなく「野生化」する人間を飼い慣らすための文化装置だったのではないかと私は思っているのです」(山折)

「非常に厳しい環境の中でも、周囲の大人に支えられて育ってきた子どもは、ケンカはしても「いじめ」のような常在的迫害関係は逆に少ないのです。・・・苦しい環境であっても、周囲から温かく守られているという確信さえあれば、わざわざ他人を排除しなくても素直に繋がっていけばよいと思えるようになるのですね。」(生野)


「私が大学で心理学を教えていた時に実験したのですが、攻撃的なゲームをしている最中のGSR(注:galvanic skin response、刺激によって引き起こされる手拳部の発汗を測定するもの、皮膚電気反射と訳されている)とか、心電図とか脈拍、皮膚温とか、脳波とかを測定しましたが、いずれもが強い刺激を受け、強度な興奮状態に陥っていました。身体は動いていないのに、脳だけの刺激で全身が戦闘状態のようになっているのです。それが子どもの未熟な心身で、毎日のように続けば、悪い影響を受ける可能性も当然考えられます。パイロットが飛行をモニターで練習するように、戦闘場面を子ども達に練習させているのですから」(生野)


「子どもには本来、強い衝動性や攻撃性が備わっていますが、これは子どもが勢いをもって発達していくには大切な要因だからです。ただし、それらが健全に作用していくためには、発達の他の部分、とくに自制力などとのバランスを図りながら伸びていくことが、非常に大事なんですね。ところが、ゲームなんかでは、そのバランスがまったく考慮されていない。ただ、熱中させるために、一方だけを刺激するようになっている。これって、本当に怖いことなんです」(生野)


「「ひとり」と「個」という問題でありますが、近代のヨーロッパ社会が生み出した個人とか個人の尊重という思想、観念をわれわれは明治以降受け入れてきたわけですね。その西洋社会が生み出した「個」にあたる大和言葉が「ひとり」という言葉だったのではないかと私は思っているのです。その2つを重ねあわせて考えたり、それを次世代に教えていくことをわれわれは怠ってきた・・・「ひとり」というのは、それは集団の中の「ひとり」なんです。たんに孤立した「ひとり」ではない。その「ひとり」という言葉の歴史はとても古いんですね。すでに万葉集に出てきますから千年の歴史がある。しかもその「ひとり」になることが、すなわちその人間を本当に生かす道であるという意味をもった表現がたくさんあります」(山折)


「西欧社会における「個」は超越的存在との関係における「個」です。「個」と「個」同士は互いに独立しているけれども、「神」の前ではそれぞれの「個」が垂直の関係で、その神と繋がっている。ところがそういう超越的な価値観をもたないわれわれの社会では、集団の中でその繋がりの関係を支えていくわけです」(同)


「「ひとり」ということを置き去りにしてきたことが、「いじめ」を生んできた。山折さんが先に仰った、「いじめ」は差別だということに戻って行くのでしょうね。」(生野)
「多様な「ひとりひとり」を認めない。」(鈴木眞理、政策研究大学院大学教授)


「日本の社会というのは高齢化社会です。社会保障のほとんどは高齢者のために使われています。・・・これからの社会は高齢者が身を削ってそのコストを子ども達のために回すという時代が来ている。それができないという状況というのは、子ども世代を大人世代、高齢者世代が「いじめ」ているということになると、私は見ているのです。その価値の大転換の時期がいま来ている」(山折)


「年少児がああいうゲームによって、いったん「野生化」されてしまうと染みつくんですよ。だからいまの子どもたちが使っている「死ね」とかいう言葉、あれは私たちの感覚とはぜんぜん違いますよ。染みつくということは、怖れや違和感なしに日常生活に言葉や観念が入り込むということで、その分、現実の実態からどんどん解離していくのです。閉じこもってゲームだけしていると、現実の感情や感覚が分からなくなるくらい遠のいている場合もあります」(生野)


「教師というのは、いつでも、やはり正直で、無防備のままで立っていなければならないのですね」(山折)
「私も教えることがあるのですけれど、教師のプライドや威厳にとらわれず正直にバカになるほうが良いのではと思っています」(鈴木)
「そうです。前だけでなく背中を見せることも覚悟していなくてはいけない」(山折)


「いまの日本人はなかなか本当の意味での「ひとり」になれない。つまり、周囲との関係を内在化して「内なる繋がり」を確信できるようになると、周囲から支えられているということも実感できるようになり、はじめて安心して「ひとり」という構えをとることができるのだけれど、日本の国というのは繋がりをすごく重んずる風土だから、しばしば繋がりが強制されたりする。だから、内的な意味での「ひとり」を確立する以前に、まずは外見的な繋がりをたくさん作らねばいけないような焦りが生まれたりしますよね。その時点で、「ひとり」という意味が変わってしまって、「ひとりぼっち」というネガティブな意味になってしまう」(生野)


「(小学校の参観で)「それは間違いです」とは言わないんですね。「う〜ん、違う答えの人、手を挙げて」って、正解は別にあるということを匂わせるんです。間違っている、と言ったら、生徒や参観に来ている保護者が傷つくという配慮からなんでしょうけれど、見当違いの配慮としか言いようがありません」(同)


「人の欠点を言ってはいけないという教え方に偏ると、相手の悪いところをキチッと批判できないという、知らず知らずにそういうところに追い込んでいしまっている面もありますね。日本人がディスカッション下手あるいはディスカッションを避けたがることの一因でもあるでしょう」(同)


「嫉妬や憎悪や怒りなどの感情は人の心に在るものです。現実世界では出口を塞がれているから抑圧するしかないわけですが、抑圧すればするほど心の内で膨れ上がり、暴発します。
 日本社会では「感情的」というのが貶し言葉として使われますよね。学校でも、感情を排して冷静に話をすることが求められる。でも、実は、感情と無縁な思考などというものは存在しないし、感情と理性、感情と知性は対立するものではないと思うんです。マイナスの感情を含めて、自分の感情をはっきりと言葉にして伝えることは極めて重要です」(柳)


「児童期の「いじめ」っぽい行為は、攻撃性の発達過程の一環として子どもに出てくるわけですから、そこの認識が非常に大切ですよね。その機を逃さず、周囲の大人がしっかり教えたり寄り添ったりすること。そして、発達の曲がり角をうまく通過させること。それが、後々の「常軌から逸脱したいじめ行為」を予防する一番の方法なんですね」(生野)


「「ひとり」という概念は、「いじめ」を考えるうえで、大変重要なキーワードだと思います。「ひとり」という足場を固めた生き方がきわめて大事なことなのに、いま置き忘れられている。表面的な繋がりで一時的に身を処そうとしている。若者から大人まで、大半がそうなってしまっている。その反省って大事ですよね。自分自身の核心を見つめ、育てる」(生野)


「私は「基本的肯定感」や自尊心をはぐくめるのは実の親だけとは思いません。家族に近い気持ちを持った誰かに愛されている、大切にされている存在なんだという感覚が自尊心になって自分を支えると思います」(鈴木)


「はっきり言って、ストレスといわれているものの半分くらいは、本人にとっては「いじめ」である可能性がありますよね。学校だけでなく、職場、家庭の嫁姑、居住地区、ママ友といわれる母親のグループ、趣味の会、老人介護施設に至るまで、一定の関係のある人の集まりのなかのもめ事は「いじめ」の要素があります。驚くことに、範となってほしい人も「いじめ」行為を行うこと、さらに、「いじめ」行為は第三者から見えない形で巧妙に行われることも私たちは知っています」(鈴木)


 引用は以上です。

 この本の企画が始まったのは2012年の春から、と終章にありました。
 その後LINE殺人などがあり、ネットが増幅する攻撃性の問題はますます深刻になっています。本書の中にもそれを予知したような言葉がありました。

 さあ、私たちは新しい知恵を生み出せるのでしょうか。


****


 攻撃性、野生化というものについてのコメントにうなずく。残念ながら、リーダー教育の中にもマッチョイズム、攻撃性を煽るようなものが多い。それが何を誘発するだろうか。


 私が山に登るのも攻撃性の表れのようです。「この秋はたくさん山に登ろうっと」と、楽しみにしてるのですけど。


 そして「ひとり」ということ。50目前にして、突然「ひとり」になった身の上を思います。
(この場合の「ひとり」は本書でいうところの「ひとり」と少し違うかもしれないけど。一方で業界ではずっと、「ひとり」でした。)
 それでも不思議と心の支えになるものがあり、「ひとり」で生きていられるのは幸せなことです。


 
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 NPOの会員さん何人かと久しぶりにお話ししました。

 「よのなかカフェ」について、年長の会員さんに構想を話していたところ、この方が言われたのが、

「正田さんが傷つけられることになるかもしれないのが、心配です」


 実はたくさんの人に心配をかけてしまっているのかもしれない。でも有難いことだなあ。

 少し自分を大事にしようかなあ。

 でもまた「教師は正直に、無防備に、背中を見せて」という言葉もヒットしました。たぶん無意識にそうしてきたと思います。
 

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NPO法人企業内コーチ育成協会
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 病気していたので読書三昧(TV三昧も)でありました。


 『内向型人間の時代―社会を変える静かな人の力―』(スーザン・ケイン、講談社、2013年5月)をよみました。


 外向型人間ぞろいの社会と思われがちなアメリカにも、半分から3分の1は「内向型」の人がいるといいます。恐らくこの比率は日本ではもっと多いでしょう。なぜならそれらを分けるものはこのブログによく出てくる「セロトニントランスポーター遺伝子」とか「ドーパミンD4遺伝子」ですから。


 内向型の人は消極的で実際より能力が低いとみられがち。しかし中には驚くべきインスピレーション、独創性、イマジネーション、洞察力、思索の力、道徳性、指導力をもった人々がいる。オバマ、ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェット、ガンジー、エレノア・ルーズベルト、アインシュタイン・・・といった人々がそうらしい。


 もし自分が内向型・外向型のどちらに属しているのかよくわからないのなら、つぎの質問に答えてみよう。

1 グループよりも1対1の会話を好む。

2 文章のほうが自分を表現しやすいことが多い。

3 ひとりでいる時間を楽しめる。

4 周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないようだ。

5 内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話し合うのは好きだ。

6 聞き上手だと言われる。

7 大きなリスクは冒さない。

8 邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ。

9 誕生日はごく親しい友人ひとりか2人で、あるいは家族だけで祝いたい。

10 「物静かだ」「落ち着いている」と言われる。

11 仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めたりしない。

12 他人と衝突するのは嫌いだ。

13 独力での作業で最大限に実力を発揮する。

14 考えてから話す傾向がある。

15 外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても、消耗したと感じる。

16 かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。

17 もしどちらか選べというなら、忙しすぎる週末よりなにもすることがない週末を選ぶ。

18 一度に複数のことをするのは楽しめない。

19 集中するのは簡単だ。

20 授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式が好きだ。

*これは科学的に立証された性格テストではありません。質問はすべて、現代の研究者が内向型の特性と認めた要素をもとにつくられています。


 〇の数が多いほど、あなたが内向型である確率は高い。もし〇と×の数がほぼ同数ならば、あなたは両向型かもしれない―両向型というのも本当に存在するのだ。



 いかがでしょうか。私などはこの20問全部が当てはまるような気がしました。

 ―病気で数日まったく外出できずだれにも会えなかったというのも、多少苦痛ではありましたが外向的な人が感じるであろう苦痛に比べるとずっとましだったのではないかと思います。―


 現代アメリカは勿論、外向型礼賛オンリーに傾いています。そうした傾向は20世紀初頭のデル・カーネギーあたりが転機のようです。19世紀までのアメリカはより質朴な美徳が礼賛されていたのでした。

 現代の自己啓発セミナー、それにハーバード・ビジネススクールも、外向型の人格を礼賛し、そうでなければ成功できないかのように言います。

 しかし。

 どんなリーダーが現実に高い業績を上げているかというと、例えば『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』に登場するリーダーたちは軒並み内向型だった、といいます。


 外向型・内向型とリーダーシップに関する調査では、外向型性格とリーダーシップの相関関係は大きくないことがわかった。

 どちらのリーダーの方が成績が良いかは、メンバーの性格によって変わるようだ。外向型のリーダーの場合、従業員が自分でイニシアチブをとらない受動的なタイプのときに集団のパフォーマンスを向上させる。内向型リーダーの場合は逆に、部下がイニシアチブをとる能動的なタイプのときにより業績が良い。

 つまり、従来的なイメージでの「リーダーシップのある人」が勝てるのはメンバーが受け身のとき、ということになる。
 内向型リーダーが多様で能動的な部下を率いる、というのは例えば、「三国志」の劉備玄徳とか、「水滸伝」の宋江のようなイメージでしょうか。

 さらに組織に「学習」の要素を導入した実験では、内向型リーダーは自ら他人に教えを乞うてやり方を学習し、外向型リーダーよりチームの成績が良かった。そうした要素が入らず、チームの全員が何も主張せずリーダーの指示通りに作業を進めた場合は外向型リーダーの方が作業効率が良かった。


 これなどは日本にもまだ多くある迷信「リーダーとは、自分の思う方向に盛んに指示命令を出して引っ張る人である」を、見直さざるを得なくなることでしょう。

 外向的、活発な性格のリーダーが、その人間的魅力で顧客を引き付ける代わり、従業員を受け身にさせてしまっている、という風景もよくみるところです。

「何をもってリーダーシップというか」、

 リーダーシップ=外向性、という誤解は解いておかなければなりません。



 このほか、「一人作業を好む内向型」「一人でものを考えたがる内向型」という側面にも触れ、この人達には「チーム作業」「集団思考」は不向きだ、ということも言っています。ブレスト法より個人個人が考えたアイデアの方が質量ともに優れていること、集団思考が有効なのは個人個人が熟成した考えをネット上に持ち寄る場合であること、などを指摘しています。去年の今頃集団思考の本を読みふけっていた私ですが、確かにその内容にはクエスチョンでした。うちの理事会や総会でほかの人の考えをきいても役に立ったためしがなかったからです。こらこら。

(注:こういうことを言うとだれの言うこともきかない傲慢不羈な人間みたいだけれど、統計調査の導入など「本気の提案」が出たときにはちゃんと採用している。要は本気の提案は集団思考の場では出にくい、ということ)


 
 さて、「日本人不安説」を打ち出してきた当協会ですが「内向型」という切り口が登場したため、「日本人内向型説」に宗旨替えしてもいいのだけど、どうしましょ。そんなに不具合はないようにも思います。


 内向型であるがゆえに、あからさまなほめ言葉よりも「承認」という、抑制的で根拠のある肯定の言葉を好むと、結局言うことは大筋かわっていません。


 「日本人」との関連ではさらに、内向型の人は羞恥心や罪悪感を外向型の人より強く感じやすく、これが道徳心のもとになっている、ともいいます。現代の日本人が道徳心が高いのかどうかよくわかりませんが、適切な道徳教育を施した場合には、教育への反応は良いかもしれません。教育の不在が問題なのかもしれません。



 もう1冊、『内向型を強みにする―おとなしい人が活躍するためのガイド―』(マーティー・O・レイニー、パンローリング、2013年8月)という本も読みましたがこちらは2006年に邦訳された『小心者が世界を変える』という本の改訂版のようです。表題の本のヒットをみて再版したのかもしれません。こちらは大筋、「内向型ゆえに周囲から認められず悩んでいるあなたに」といった、やや後ろ向きなトーンのもので、その限りにおいては役立つのでしょうが正田は自分のネガティブがよりひどくなってしまいそうであんまり楽しめませんでした。


 とまれ、私は内向型なりに自分の得意な領域のことを得意な方法をつかってやっているようだな、ということはわかりました。また自分の子どものうち特に幼いころ内向的だった子には友達と遊ぶことを押しつけず、1人の時間を作ってやっていたがあれで良かったのだな、とも思いました。


 日本人男性が家事を手伝わないのは、仕事で無理に人中にいるので家に帰ると疲れて1人になりたがるからかもしれないなあ。こらこらまた関係ないことを。



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『おとなが育つ条件―発達心理学から考える―』(柏木恵子、岩波新書、2013年7月)を読みました。


 「中年期の発達」という概念については、正田は著書『認めるミドルが会社を変える』の中でもレビンソンの知見などを引用しながら触れています。

 とりわけ男性がある年齢、段階のとき「承認教育」に触れて大きく人間的成長を遂げるようにみえるのはなぜか?と考えるとき、この「中年期の発達」という概念が欠かせません。


 本書『おとなが育つ条件』では、大人の発達を促す環境として「仕事」「家庭(配偶者との関係・育児)」を挙げています。

 とりわけ本書は日本の大人に不足している面に焦点を当てるため、

「育児にタッチする環境にない日本のビジネスマンは家庭においてケアされる側になるばかりであり、『ケアする側になる』という体験を欠く。そのことが、人に柔軟に対応する、共感的にかかわる、幼い者弱い者に配慮するなどの大人として必須の能力を育てそこなっている」

と、指摘します。


 ―私などにはこれはごく常識的な議論にみえますが一部のビジネスパーソンの方には極論暴論に思えるかもしれません―

 ―「弱者への配慮」などというと、ある世代の人々は「あんた『左翼』か」と、ステレオタイプな二者択一の反応をしがちであります。ところがどっこい「武士道」には、「弱者への仁慈(思いやり)」という徳目があるのであり、右か左か、という以前に日本人が本来もっていた高貴な心のはたらきなのです―


 一方で一部にはイクメン、カジメンといった従来的でない家事育児を担う男子も確かに出てきているわけであります。

 イクメンが一時期ブームになったとき支持層は主に30代男子だったように思いますが体感的に、この世代の人は「承認教育」に対しても反応のよい人が多い。『認めるミドル』(2010年)のころは「40代半ば以降が承認教育適齢期」と思っていた私も、このところの会員様受講生様の中の30代男子の活躍ぶりに持論を取り下げざるを得なくなりました。

 要は、従来の「男はこうあるべき」という呪縛が強かった世代とそうでない世代があり、後者の世代はより柔軟に快適なあり方を選び、必要性を感じれば「承認」のような女性的なものを取り込んで役立てることにも抵抗が少ない、ということでしょう。


 「女性的」という言葉を使ってしまいましたが、本書はまた、高齢期には男女とも両性具有的になることを述べています。60歳以降の高齢者では男性女性ともに、男性性、女性性ともに高い「アンドロジニー型」が最多数を占め、しかもアンドロジニー型の人びとが一番自尊感情が高いのです。

 メンズで女性性が発達するというのはつまり、寛容性や共感性が育つということで、これらは定年退職後の生活に適応しやすくなる変化とも考えられますが、定年より前の現役の仕事生活の中でも、より若く未熟な人々と協働して、自分自身は実務に携わらず指示命令したり教え導いたりする立場になるとき必要な要素なので発達した、とも考えられます。

 ―おそらくそうした発達を遂げそこなった男性はパワハラ親父になることでしょう―


 ちょうどきょうのNHK「ルソンの壺」では、ある金型メーカーでの技能伝承の話をオンエアしておりました。社内に「スーパー職人」が2割ほど、この人達は手当がつく。そしてスーパー職人は次の人を指導して一人前にする責務を負うのです。1年間で一人前にしたかしないかが、スーパー職人自身の評価や給与にも関わってきます。

 
 あるスーパー職人の指導ぶりを取材したレポーターは、いみじくも

「この人は寡黙なタイプだから、教えるときは本来のこの人の外の資質も引っ張り出して教えているかんじですね」

と言っておりました。

 そう、いみじくも。
 つまりこれは、従来「男性的」な職人の世界では無理だと思われがちだった、「女性的」指導法を職人たちに課して成功した例なのでした。

 かつては「師匠と口をきいてもらえるまで1年」「機械に触らせてもらうまで3年」と言われた悠長かつ理不尽な職人育成の世界は、今や「女性的」指導によって数年に短縮され、現代っ子の成長したいスピード感にマッチしているのでした。

 指導する側の職人たちは恐らくは就職したときそんなことまで求められるとは思っていなかったことでしょう。でも、男性たちは「やればできる」のでした。


 では、従来の日本社会では何故男性たちはそうした発達を遂げなかったか?

 桑田真澄流に言うと、「軍国主義」の名残ではないか、と正田は思います。

 本来内向的で暴力を振うことを好まない日本人(中国大陸で行った残虐行為はどうか、というと集団の狂気のなせるわざで、一応今も粗暴犯は極めて少ない)を勇猛な兵士に変えるためには、軍隊を暴力に対して肯定的な集団に性格づける必要があった。なのでこれでもかというぐらい「新兵いじめ」などの暴力指導をやった。もちろん上役の不当なストレス発散の性格もあったでしょう。

 それが諸般の事情でスポーツ界にも入り、現代の体罰指導のもとになった。

 「武士道」の時代の日本人はそんなに粗暴な指導法はしていなかったのではないか、というのは私の買い被りすぎでしょうか。

 もちろん倫理的に許されないことをやって打擲とか手討ちにされるとかはあったとしても、例えば剣術や馬術の稽古でミスをしたらいきなり殴られるとかいうのはあったんでしょうか。


 ・・・と、話があっちこっち脱線してきたのでこの記事はこのへんで・・・。


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 周期的に人の嫌な性質についての本を読みます。

 
 こうしたことをブログにUPするのは、私自身が知識として蓄えておかなければならないのと、もうひとつは読んで蓄えたことにとらわれ過ぎてもいけないから、です。


 『図解・決定版 パーソナリティ障害を乗りこえる!正しい理解と最新知識』(市橋秀夫、日東書院、2011年3月)。

 おもに「自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)」の項目を読みました。

 「自己愛」については去年から多数の本を読んでいますが、それでも新しい資料から新しい切り口が見つかることがあります。


 「自己愛性パーソナリティ障害」とは、本書によれば、

「いつでも自分のことばかりを考えて、周囲の人たちとうまくやっていけない人がいます。自尊心が強く、すぐに結果を求め、注意されたりけなされたりすると、激しく怒り出します。

 彼らは愛の対象が他人に向かわず、自己に留まり常に自分が他人より優越していることを確認したがります。

 (中略)

 つまり、思い描いている理想が大きく、自分の手柄を強調する傾向があります。他人からの評価に敏感で称賛されることを常に求めます。他人は自分を賞賛するために存在していると考え、誉めてくれる人とは機嫌よくつき合うことができます。

 自慢話が多く、自分の間違いやミスを認めようとしません。一方、他人に共感したり譲歩したりすることが苦手です。注意されたり、否定されることは大嫌いです。

 そして、コツコツと努力することをせず、一足飛びの成功を求めます。試験勉強などしなくてもいい点を取れるはずだと信じています。地道な作業を要求されると、言い訳をして投げ出します。」(pp.98-100)


 「自慢話が多い」は、最近のこのブログの傾向もそうなんじゃないの?とみられる向きがあるかもしれません。「承認研修良かった」というご意見を中心に掲載してますから。一応このブログは商用ブログなので、宣伝もしないといけないんです。はい。(でもアンケート類を紹介するとき必ず「今いち」的なご意見も漏らさず同時に載せるようにはしてるんですよ)


 こうした「自己愛クン」がどうして出来上がるのか、本書は子育ての過程に原因があるといいます。


「王様のような万能感が手応えのある大人に出会って修正される」

 子どもは1歳半〜3歳の間に周囲の大人は自分の言うことを何でもきいてくれる存在だという「万能感」を形成するが、もう少しすると大人や社会と出会い、ほどよい挫折を味わい、誇大した自己を修正するのだといいます。このとき「手応えのある大人」として父親の存在が重要になりますが、日本の父親は存在感が薄いといいます。

 
 子育て以外の要因としては、現代社会の「評価志向」が背景にあるといいます。

 学校の成績、偏差値、受験・進学、会社では一流企業への就職、収入・昇給、昇進・役職、社会的地位…。数字で優劣を競うムードであふれ、努力しても結果が出ないと認められない。内的価値は重視されない。その結果として、防衛本能が働き、自己愛が健全に育たなくなっているとします。そのため自己愛性パーソナリティ障害は、欧米や日本、先進国で急増しているそうです。


 治療としては、精神療法で、医師との対話を通じて病理的な対応を解きほぐし「等身大の自分」をつくっていきます。自己愛性パーソナリティ障害の人は結果を早急に求める傾向があるので、一歩一歩、地道に努力して少しずつよくなっていく、ということを理解してもらう必要があります。

 やれやれ。

 「すぐに結果を求める」
 これは私が組織や人材のことを扱っているときにとても困る症状です。すぐ結果が出るわけはない、地道に相当期間、最善と思うことをやっていくしかない。この原則をいくら話してもわからない人、というのは確かにいて、そのタイプの人が意思決定のポストにいると話がかみあいません。


 
「自己愛性人格障害」について気がつくとWEB上に包括的なページができていました。

 自己愛性人格障害ガイド

 http://jikoai.uijin.com/


 こちらによると、モラハラやパワハラの加害者も自己愛性人格障害の可能性大いにあり、だそうです。


  
 もう1冊、『サディスティックな人格』(矢幡洋、春秋社、2004年11月)こちらも、モラハラやパワハラとの関連で興味をもって読みました。


 自分の優越を確認するために、さまざまな手段で他人を痛めつけ萎縮させずにはいられない底意地の悪い人たち。

 正田は「サディズム」はナルシシズムの一形態だろうと思っていたのですが、本書の著者は、自己愛とは別個の人格障害のカテゴリーとすべきだとします。そのへんは専門家によって考えの分かれるところだろうと思います。


 本書によれば、他人を痛めつける攻撃的なタイプのサディズムもあれば、サボタージュをする人格、指示に対して「ちっ」とかふくれっ面をして従わない人たちも受動性サディスティックパーソナリティだとします。


 読めば読むほど救いがなくなってきました。




****


 ところで、最近の正田はなぜ孤独なのか?というところの事情も、あまりたのしくない話ですが書いておこうと思います。
 簡単に言えば最後の子ども(息子)については、物理的に「追い出す」ということをしました。息子はその父親の許に行き、その結果現在1人暮らしになりました。

  
 恐らく人生の季節が変わったのです。子どもたちは私の保護の下を離れる時期になったのです。


 鬱の娘を5年間ケアし、その最後の1年は本人の「高校卒業」という高いハードルが存在し、かつ社会的地位の高い、自分自身は何の責任ある行動をとらない父親からの罵詈雑言を浴びながらのケアだったので、私自身こころのリハビリが必要です。


 私が無責任な人間かどうかは、神様はご存知と思います。



 そういえば「夫婦の関係が終わることを予期させるパートナーの典型的な表情」というのがあって、それはもう1方のパートナーの発言に対して目をぐるぐる回す表情だそうです。明らさまな見下し、侮蔑の表情です。見下しの感情が夫婦の関係を終わらせるのでした。恐らくなんの関係であっても傷つける役割を果たすでしょう。

 例えば両手を両脇の外側に開いて無責任な軽々しい言葉、揶揄の言葉とともに手のひらをぺろり、と外に広げる仕草などもそうだろうと思います。

 ある種のサディズムの持ち主にとって、「承認」を提唱することを仕事にしている女性を口をきわめて悪しざまに嘲り罵る、あるいは慇懃無礼なメールで痛めつけるというのは、それが相手に与えるダメージを想像するにつけ、ぞくぞくするような快感だろうと思います。そういうサディズムに目覚めてしまった人とは接触しないのが一番でしょう。

 残念ながら社会的地位の上昇したときの男性にそういう種類のこころの病はみられるようです。


 ・・・ここまで書いてこの記事の前半部を読み返すと私自身も他者からのいっさいの批判を受け付けないナルシシストなのでしょうか・・・死後の評価をまちます・・・

『脳に刻まれたモラルの起源』(金井良太、岩波科学ライブラリー、2013年6月)を読みました。


 倫理道徳というものがこれまで長いこと哲学の側から語られてきましたが、人が倫理的判断をしているとき純粋に理性的判断だけしているわけではない。主張対主張で言い合っているとどこかで行き詰まります。

 かといって、「心理学の世紀」であった20世紀のように、心理学がすべてに優先して人が「快」の情動だけを基準に行動を決めることが正しいかというと、そのことの限界もみえたはずです。

 
 倫理の復権に当たり、実証科学の手段として浮かび上がったのが脳科学なのでした。

 この本は、そうした脳科学と哲学、というより倫理の合流地点を現時点で手際よく説明してくれている本です。


「倫理観というのは、人間の脳の中にある根本的な道徳感情に由来する。人類が誕生し集団生活を行うなかで、倫理的な感覚をもつ集団が生存に有利であったがために、倫理観をもつ脳が自然選択によって選ばれてきた。現代の人間社会の倫理に根拠があるとすれば、それは進化の結果としての人間の脳の仕組みにある。脳という人類共通の基盤があるということは、実は人類に共通の倫理観というものが想定できる可能性を示している。」(p.6)


 
 また「倫理」と「道徳」という言葉がどのような意味で使われ、区別されているかも触れています。日頃この区別はあまり意識されず、よく私なども混同してつかっている気がしますが押さえておくために引用しておきましょう。

「倫理(ethics)というのは外的に規定された社会的ルールのことで、職業上の義務などは倫理の範疇である。道徳(morals)というのは個人的な信条(プリンシプル)に基づく行動規範のことである。「倫理」は社会的なもので、「道徳」はより個人的なものだともいえる。」

「しかし、日常的な使用において、倫理と道徳という言葉の区別が曖昧になってしまうのは、個人のもつ道徳感情が社会で共有されることで、倫理という社会的な規範が成立しているからだろう。」


 具体的に脳科学はどう道徳的判断にかかわるか。

 たとえば道徳感情についてよく出てくる「トロッコのジレンマ」や「歩道橋のジレンマ」では、前者では感情的なかかわりの少ない功利主義的な判断をするのに対し、後者では(多数を救うために1人の人を突き落すかどうか、という)感情的な関与の強い状況であるため、理屈で割り切れない「ダメなものはダメ」という義務論主義的な道徳判断が優先される。


 ―たぶん経営の中では「リストラ」などの判断の場面がそれにあたるでしょう。


 「歩道橋のジレンマ」では、fMRIでみると社会性の感情と関わる部位でより高い活動が起き、人を突き落とすことがためらわれるという直感的・感情的機能は、おもに内側前頭回という部分の機能だといいます。

 もう1つの脳内のシステムは、このような感情的な直感を抑えて、合理主義的に「最大多数の最大幸福」を目指して行動するための認知的制御機能で、脳の中ではおもに背外側前頭前野と呼ばれる部分の機能だと考えられるそうです。

 このように脳の中ではつねに複数の相反する機能が共存していて、状況ごとに脳のいずれかの側面が強調され、それが結果として行為に現れるのです。


 脳の中に複数存在するこうした倫理規範。

 社会心理学では5つの道徳感情が倫理観の根幹にあるとしています。すなわち:

(1)「傷つけないこと」(harm reduction / care)
(2)「公平性」(fairness / justice)
(3)「内集団への忠誠」(loyalty to one's in-group)
(4)「権威への敬意」(deference to authority)
(5)「神聖さ・純粋さ」(purity / sanctity)


 いかがでしょう。こうした分類を目にするとわたし的には非常に「すっきり」します。すなわち、「あの人はいい人だ」「やさしい」あるいは「信頼できる(義務を履行する人だ)」といった好意的な判断の裏に何が動いているのか。
 それらは連動しているわけではなく、独立の因子だ、と考えたほうが、「やさしい人だから義務を履行するだろう」といった、「いい人」の意味を混同した考え方をしないで済むわけであります。


 あるいは、(3)内集団への忠誠、(4)権威への敬意を過度に強調する人が一方では(1)(2)でいうような個人の尊厳に当たる価値をあまり認めないあまり専制的、圧政的なリーダーになったり、逆にその両方をバランスよく尊重することで信頼できるリーダーになったりするようなことであります。


 そしてまた、これまでの心理学的アプローチに不満を感じるのは、それらは(3)(4)の過度の強調に対してつかれてダメージを受けてしまった人を救済するために個人の尊厳アプローチ、なかでもおもに(1)傷つけないこと、ケア のアプローチをすることでしたが、全き社会人としてはバランスを失している感をまぬがれなかったからでしょう。

 そこで当協会に過去に合流した他流派の方々の「理念やルールに従えなんて自由がない!」という不満につながり、葛藤や離反につながったであろう。この業界の人々は残念ながら「個人の尊厳アプローチ」が好きだからこの仕事をし、それが何よりも優先すべきであると考える傾向がある。

 しかしこの問題は私も死ぬほど繰り返し考えた、結論としては統一した理念をもたなければある集団はひとつのことを成しえないのだ、と。

 だから(1)〜(5)のバランスを目指してやってきた、と思う。

 当協会の教育を受けた人びとがおおむね非常にうまくやってこられたのは、そのバランスがうまくいっていたのではないか、と不遜にも考えるしだいです。
 私自身がどういう性向をもつ人間なのかは、よくわからないんですが。


 これらの道徳感情は質問紙で定量的に測ることができます。
 
 本書にはこのあと、上記の5つのモラルファンデーションが個人の脳内のどの部位の大きさと関連するか、またアメリカのリベラリアン、リバタリアン、宗教的左翼、保守といった政治的傾向をもつ人々が5つのモラルファンデーションをどのようなバランスで持っているか、など興味深い記述が続きます。

 どの倫理規範に重きを置くかは、結局その個人の遺伝形質によるところが多そうです。


 わたしの予想では日本人は比較的(3)内集団への忠誠 が強い人が多いんじゃないかな?という気がしますが・・・、もちろん個人差はあるでしょう。


 
 オキシトシンとそれの受容遺伝子と信頼の関係なども既に知られている情報ですが、それの副作用とともに知っておきたいものです。
 
 わずか100数十ページのコンパクトな本ですが、買って読んでも損はないかもしれません。1200円です。

 
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 久しぶりに内田樹本を読みました。『呪いの時代』(新潮社、2011年11月)。


 このところ1つのテーマであった「嫉妬」「やっかみ」について答えを探していたところ出会ったもの。

 相変わらず晦渋を極めた文体で、この人の文体の困ったところは、下手にうんうんと同意すると思考をのみこまれてしまい、距離がとりづらくなるところです。

 気をつけながら一部の章から抜書きをさせていただきましょう。結局言わんとすることは私らのやっていることなんでないの、という気がしますが。誓って、この本を読んだのは1年半前の出版当時ではなく今日のことです。このブログが日頃自らに禁じている「上から文体」を他人に代行してもらう回でございます。


●身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、それよりは何かを破壊する生き方を選択します。…新しいものを創造するというのは、個人的であり、具体的なことです。それは固有名のタグのついた「現物」を人々の目の前に差し出して、その視線にさらし、評価の下るのを待つということです。・・・創造の怖さというのは、そのことです。逃げも隠れもできないということです。自分が作りだしたものが、そこにあって、自分がどの程度の人間であるかをまるごと示してしまう。・・・だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。・・・だから、全能感を優先的に求めるものは、何も「作品」を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。

―ナルシシストは、というか能力がそれほどでもなく自尊感情だけが高い人は創造をせず批評だけをする、という意味でしょうか。本書の出版はナルシシズムに関する名著『自己愛過剰社会』とほぼ同時期なので、ナルシシズムが作る負の感情、「やっかみ(=呪い)」を扱ったとみていいのかもしれません。


●「呪い」がこれほどまでに瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。・・・若者にかぎらず、現代日本人の多くは自己評価と外部評価の落差がしだいに拡大しつつあります。「ほんとうの自分はこんなところで、こんな連中と、こんな仕事をしているようなレベルの人間ではないのだ」という妄想的な自己評価を平然と公言する人が増えました。


●現在の教育現場では「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても、「身の程を知れ」「分をわきまえろ」というアナウンスに対してはつよい抵抗を覚悟しなければなりません。・・・教育の場では、「君には無限の可能性がある:」という言明と、「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は同時に告げられなければならない。

―「分をわきまえろ」は、むずかしい。でもやらないといけないのだろうな、とも思います。年功序列が一部で崩れ、「年上部下問題」「元上司の部下問題」というのが顕在化してきました。自分より若い人の後塵を拝し指揮下に置かれることを現実としてどう受け入れるか。「分を知り、分を尽くす」という、過去の身分制のような考え方に意味があるのではないか、と以前ある席で言ったことがあります。


●決定先送りの論理もまた「自尊感情」にあると内田氏はいいます。妄想的に肥大化した「ほんとうの私」が「今の私」の犯しているすべての過ちを補正し、「今の私」では達成することのできないすべての目標をクリアーし、「今の私」では充足することのできないすべての欲望を満たす。そのような幻想が、これらすべての無責任の心性には共通しています。・・・そんなふうにして、日本人たちは市民的成熟のための努力を止めてしまったのです。

―先日の「政治カフェ」への人の集まりづらさを思い出してちょっと納得しています。


●「秋葉原無差別殺人」もまた、「ほんとうの私」妄想がつくった呪いの仕業だとしたうえで。・・・だから、僕たちにとっての喫緊の課題は、妄想的に構築された「ほんとうの私」に主体の座を明け渡さず、生身の、具体的な生活のうちに深く捉えられた、あまりぱっとしない「正味の自分」をこそ主体としてあくまで維持し続けることなのです。しかし、そのぱっとしない「正味の自分」を現代日本のメディアは全力を挙げて拒否し、それを幻想的な「ほんとうの自分」と置き換えよと僕たちに促し続けている。

―これに似たことを地下鉄サリン等オウム真理教事件のときに宮台真司が言ったのでしたか、「面白くもないありふれた現実を受け入れよ」と。


●階層社会は努力することに対するインセンティヴの有無に基づいて二極化します。属人的な能力や資質の問題ではないんです。どれほど能力があろうとも、素質に恵まれていようとも、自分の能力や資質は決して適切には評価されないだろう」と確信している人は努力しない。努力することができない。
 ・・・ですから、努力することへのインセンティヴを傷つけるというのが社会的差別のもっとも邪悪かつ効果的な部分なのです(太字部分原文傍点)。

―階層社会について述べていますが私は自然と「男尊女卑社会」―現代日本がまだ紛れもなくそうであるもの―と読み替えて読んでいました。努力しても決して適切には評価されないだろうと確信している多くの女性労働者は仕事の手を抜き、婚活に励む。一部のはねっかえりはそれでも全力で仕事をし、評価されるどころか白眼視されたり秩序の敵扱いされる。前者の層がもし全員本気を出したらどれほど日本社会全体の有能度が引きあがるだろうか。


●僕たちの時代は「呪い」がかつてなく活発に活動しています。・・・現に羨望や嫉妬や憎悪はさまざまなメディアにおいて、生身の個人を離れて、言葉として独り歩きを始めています。誰にも効果的に抑制されぬまま、それらの言葉は人を傷つけ、人々がたいせつにしているものに唾を吐きかけ、人々が美しいと信じているものに泥を塗りつけ、叩き壊すことを通じておのれの全能感と自尊感情を満たそうとしています。


●呪いを解除する方法は祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。


●現代人が自我の中心に置いている「自分らしさ」というのは、実はある種の欠如感、承認欲求なのです。「私はこんな所にいる人間ではない」「私に対する評価はこんな低いものであってよいはずがない」「私の横にいるべきパートナーはこんなレベルのものであるはずがない」というような、自分の正味の現実に対する身もだえするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です。

―でた、承認欲求。内田氏がここで見ているのは若者の中のどのあたりの層なのだろう、ネット社会のとげとげしい言葉を発する住人だろうか、秋葉原でダガーナイフを振う犯罪者だろうか、内田氏が教鞭をとっていた神戸女学院大の学生だろうか。
 以前にもブログに書いたが「承認欲求」の側から語る「承認」はひどく貧しくみっともなく厄介なものだ。ところが当協会の教育の世界における「与える承認」は限りなく豊かで美しい。このイメージの乖離もすごい。
 私は「承認」を教えるとき必ず「皆さんは与える側になる覚悟がありますか?」と問いかけるようにしている。


●例外中の例外のような「反証事例」を持ち出して、それが勘定に入っていないから理論としてダメだという切り捨て方が社会学の周辺で発生したのは80年代のことですが、これが今やあらゆる領域に広がっています。(例えば、「育児は男性にとっても女性にとっても自己発見の貴重な機会だ」と言ったら「性同一性障害者にも当てはまるのか」と反論されてしまう、というように)

―私が人前で何かを語るときにも以前はその手の「例外を持ち出す反論」が多かったのだ。明らかにそれは局所的な重要度の低い話でしょ、というのでも、「賢そうな生意気な女」「に対してその手の反論を持ち出すことで場全体の反感を煽るには十分だった。私に折角の話す場を与えてくれた人に迷惑を掛けることになった。最近はそういうのも随分少なくなったと思う。そして私は今も懲りずに「質疑の時間」を設け、場をめちゃくちゃにしかねないリスクを犯しながら受講生と対話しようとする―


●コミュニケーション感度のよい人というのは、シグナルになる以前のノイズ、前記号的なものを感知して、それを情報に繰り上げてゆく能力が非常に高い。「人を見る眼」というのがまさしくこのことです。対面する人間の不安や欲望を見通し、その才能や器量を考量し、適切に対処することはこのような観察力なしには成り立ちません。
 かつてはこの「人を見る眼」を涵養することはかなり優先順位の高い教育的課題でした。けれども、現代ではもうこのような能力を組織的に開発するプログラムも存在しませんし、そのようなプログラムが必要だと考える人もいません。

―えー、存在しないんですかー。必要だと考えないんですかー。


●祝福とはどんなものか。白川静先生は…「賦」という詩形を論じて、それが祝福の原型であるとしています。「賦」とは目の前の風景を歌うことです。山が高い、森が深い、波浪が高い、緑が濃い、清流が澄んでいる、鳥の声が聞こえる・・・ それは「国誉め」と同じことです。それは「我が国は美しい」と主張することではありません。そうではなくて、現に目前の山や野がどのようであり、森がどのようであり、川がどう流れており、人々はどのように日々の営みをなしているかを、とにかく価値判断抜きで列挙してゆくことです。「国誉め」は写生です。
 ・・・だから、写生に終わりはない。人間的現実に記述しきったということは起こらない。生は汲みつくすことができない。それゆえ、僕たちは記述すること、写生すること、列挙することを終わりなく続けるしかない。それが祝福ということの本義だろうと僕は思います。

―たぶん会員様であれば気がつかれると思う。ここでいう「祝福」と当協会方式の「承認」との類似を。
記述すること。それは「あなたはすばらしいですね」「おきれいですね」という価値判断を言うことでは、基本的にはない。目の前でみたものに逆らわずに言語化すること。(とはいえ、私もできてないんですけどね)




●言葉が届くというのはどういうことか。それは「わかりやすく書く」ということではありません。論理的に書くということでも、修辞を凝らすということでも、韻律が美しいということでもありません。そんなことはリーダビリティにとって二次的なものにすぎません。いちばんたいせつなのは「私には言いたいことがある」という強い思いだと僕は思います。
 ・・・どうしても言いたいことがある、どうしても伝えたいことがあるというときの人間の構えを特徴づけるもの、それは「読者の知性に対する敬意」だと僕は思います。
 ・・・受信者に対する敬意を含んでいるメッセージがいちばん遠くまで届く。僕たちは自分に「深い敬意を含むメッセージ」に対しては驚くほど敏感に反応します。そのコンテンツがたとえ理解不能であろうとも、僕たちは「自分に向けられた敬意」を決して見落とさない。


●人はどれほどわかりにくいメッセージであっても、そこに自分に対する敬意が含まれているならば、最大限の注意をそこに向け、聴き取り、理解しようと努める。そういうものなのです。だから、もしあなたが呑み込むことのむずかしいメッセージを誰かに届けようと思うなら、深い敬意を込めてそれを発信しなさい。

―「敬意」がキーワードになっていますが、ここも会員さんは多分、このブログで繰り返し出てくるメッセージと重なるものとしてご理解いただけるでしょう。決してぱくってませんよ。
 ですから、私たちはやっています。「呪い」に対抗する「祝福」を。しかしまだ非力です。


 というわけで、数節を読んでは「やってるよーだ」と口をとがらせてしまうウチダ本なのでした。いつからこんな風になったんでしょうか。おおむね間違ったことはやってないように思います。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 さて、イベント参加の後、菊池省三先生の最新刊『学級崩壊立て直し請負人』(聞き書き・構成吉崎エイジーニョ、新潮社、2013年6月)を購入し帰りの新幹線の中で一気読みしました。


 去年春以来、「小学校の先生」というジャンルに凝っている私。

 何人目かの優れた先生との出会いですが、なかでも菊池先生にはどこか共感するところが多い。

 それは「怒り」なのかもしれない、と思いました。


 本書は北九州という、菊池先生の本拠地の描写にもかなり筆を割いていますが、暴力団とその子弟の多い、先生方にとっては鬼門の土地柄だという。

 だからこそ1つ前の記事にあるような、「1学年に担任が6人交代」「『ちっ』とか『なによ?!』と受け答えしていればいいと思っている」といった、学校をリスペクトしない、公を公と思わない状況が如実にみえるのです。

 しかしこれは北九州だけでなく、堕ちていく日本、劣化していく日本のシンボルのようにも思えるのです。同様の兆しを内田樹が『下流志向』で指摘しベストセラーになったのは、2007年でしたか。

 
 吉崎エイジーニョがそこで「戦い」という言葉を繰り返し使うように、菊池先生の教育とはその状況への「怒り」がベースにあるように、この本にはみえるのでした。

 そこが、これまで多数読んだ、あまたある先生のノウハウ本と少し異質にみえました。


 
 失礼して、この本からいくつか抜書きをさせていただきましょう。(でもうちのNPOでは、この本課題図書にしたいな。大事なことをいくつも提起している本だから。1100円です)


●関東から結婚を機に北九州に移住してきた、20代の体育会系のガタイのいい先生が5月にはもう音をあげた。普通の先生では、北九州の荒れた学校では持たない。私の周囲には、決して口にしないものの「タイムアップ」を待っている先生が多くいます。その学年が終わることを待っているな、という。


●子どもがふだん、日中の約8時間を過ごす学級の場を立て直さなくてはいけない。誰が悪いと悪口を言うことが目的ではない。状況を変えることにあります。現実を認識し、変えること。


●親に情報が足りないせいで、子どもに「公(おおやけ)」という大事なものが教えられない状況にある。かつての日本社会で、おじいさんおばあさん、地域社会のつながりの中から、時代の移り変わりの中でも変わらずに守りつづけなければならない大切なこと(私はこれを「不易」と呼んでいます)、つまり人としてのあり方であったり、考え方などが受け継がれなくなった。そのため親が「バカ」「ダメ」といったネガティブな言葉を多用し、その結果、子どもも教室でそういう言葉で仲間を罵る。親が余裕がないから、言葉の力がない、褒めることをしない。


●二大実践は、「褒め言葉のシャワー」と「成長ノート」。親が上記のような状態なので褒められた子が「褒められたことがない」と泣き出す。(このあたりは、私の住んでいる地域の子どもなどは多少違うかも、と思います)


●情報不足は一方で「褒めすぎ」も生む。異常なまでの母子一体化。


●学校をリスペクトしない。習い事で何かが上手いと、「それで食える」と親が信じてしまい、学校をないがしろにする。


●新しいクラスの子どもは驚くほど意識がバラバラ。クラス統一目標を立てられる時期がどんどん遅くなり最近は6月にやっと、ということも。早い時期に立ててしまうと逆に崩壊してしまう。


●ひとりが美しい。群れではなく、集団。
(金魚のフンみたいではなく自立した意識をもって行動しよう、という意)


●厳しいだけの先生は持たない(続かない)


●「公」の喪失。「不易」、変わらないものの喪失。「教える―教わる」も不易。


●「自由」の勘違い。「公」「不易」などの一般性を身につけたうえでにじみ出るものが「個性」。ないものはただの野性。自由気ままにやってきた人が個性を発揮したなどはマスコミが植えつけた誤った認識。


(この「ただの野性」という言葉は私にヒットした。以前にも書いたが(2010年)、アメリカの最新心理学的コーチングのワークショップで「すべての役割や社会的関係を抜いた自分自身になりなさい」と言われた私は「母親でもない仕事上の人間関係も持ってない『私』って誰?幼児的な本能、遺伝的初期設定としての『私』ではないのか?」と理屈っぽく考え込んだのでした)

(大体、マスコミ人って正しい意味の社会人と言えないし。自由度は非常に高い、その分人間的に鍛えられていない。自由はすばらしいという幻想を振りまくには適任の人たちだ)

(アメリカ式「自由」は本来、「責任」を伴う非常に厳しいもの。日本では自由の楽しい面だけを強調し理解する傾向がある。私は誤解を招きやすいので、「自由」という言葉をテキスト等にもこのブログにもめったに使っていないが、お気づきだろうか。アメリカ帰りの心理学系の先生が「自由」という言葉を使うと日本でもわーっと盛り上がるので、極力その手の人々との接触を避けているぐらいだ。)


●「公」が失われたのは、「父性の喪失」が原因。「MFC」、母性Mother, 父性Father、子ども性Childのすべての要素を、1人1人の親や先生が備えていないといけない時代。


●学校の先生も、師範学校出身の先生が引退し職員室のタテの関係が失われた。そして教室での先生と子どもの関係も横並びになりぐしゃぐしゃになってしまった。


●コミュニケーションは、うわべだけのテクニックとしてとらえられていた。本当はコミュニケーション能力とは、人間形成に重要な領域であり、人間が人間らしく人間とつながっていくための手段。置き換えるなら「言葉の力」を持つということ。それはいじめと戦う武器ともなる。コミュニケーション、という横文字を使っているが、これは「意志」と「徳」を教え込み、駆使するための教育でもある。


●体罰は当然良くないが、一方で学校は”善意の押しつけ”をする場でもある。
”日本式の厳しく、負荷をかける教育を実践しつつ、一般性を身につけたうえでの個性を育てる”ことができないか。日本の良さをなくしてはならない。


(ここも誤解されかねないが勇気ある提言かもしれない。厳しさを提示するのに勇気の要る時代。あれもダメ、これもダメ式の教育は成り立たないと言いつつ、MFCのF(父性)も時に使いながら子どもを「公」に導け、ということを言っている。1人の親、先生としては非常にむずかしいかじ取りを迫られる時代。とはいえ正田も研修ではちょっと厳しいめのキャラで通している、そのほうが生徒さんがよく習得するとわかっているから。たまに吊るし上げ、火だるまみたいな目にも遭うけれど。
”日本式の厳しく、負荷をかける教育”は確かにやればできる。それは教育研修界のここ10年来のトレンド”教えない教育””気づかせる教育”よりはるかに勇気が要る)



****


 主に本書の前半部分から抜書きをしまして、後半は”実践編”のおもむきがありますがその部分は是非買ってお読みください。

 
 最もむずかしい状況の学校、むずかしいクラスをしっかり見続けた先生の観察と提言。

 当然、学校で起きることは仕事の現場でも起こります。既に起きているかもしれません。

 それは、

「バカ野郎!何やってるんだ」
「そんな奴やめさせちまえ」

みたいな雑な思考、雑な観察ではみえてきません。

 上に立つ人は、ものを見、考えることをさぼってはいけません。


 
 本書でいう「母性」「父性」そして「公」「不易」という概念についてもしばし考えました。

 ―私が書評をかくと最後はおおむね自分の仕事に引きつけて考えることになります―


 武田建氏も

「父性的リーダーシップと母性的リーダーシップ」
「リーダーシップの受容機能と切断機能」

ということに触れており、

「褒める」「承認」はその「母性」「受容」というほうの行為なのは間違いありません。

 ところがこの「承認」を強く受講生に義務づける当協会の教育が結果的に柔剛相半ばした優れたマネジャー、リーダーを産んできたことの意味を考えます。

 「母性」を鍛えることによって、実は1人の人の中に「父性」もまた回復するのだろうか?

 あるいはもともとある「父性」が有効に機能するために、いわば賦活化させるために「母性」の学習が必要だったのだろうか?

 
 マネジャーたちが「1位」のような実績を挙げるプロセスには、たとえばスタッフ1人1人が対お客様に有効に働きかけるよう促すような、「公」に導くプロセスが当然入っています。中だけ向いてぬるま湯をやっているわけではないのです。ですから「父性」も大いに使ってきたはずなのです。


 父性母性両方揃った強力なリーダーシップを生み出すには、「母性の学習」が突破口になる、のでしょうか。



 そして「不易」という言葉が出、こうした本書のコンセプトの世界に私は大いに安心感をもちます。

 というのは、菊池先生の言われるように「コミュニケーション」の教育を「徳」の教育として行うとき、ここからは私個人の考えですがそこではコミュニケーションが結びつきやすい心理学的なものとの意識的な切り分けが必要になります。

 心理学はもともとこころを病んだ人のための治療の技術として発達しましたから(ポジティブ心理学は別として)、そこでは「来談者中心療法」というように「相手本位」であることが重視され、何が正しいかが「相手依存」あるいは「状況依存」で考えられるあまり、「不易」というような動かないものは忘れられがちでした。軸を動かさないことではなく、動かすことのほうが心理学では重要だった、ともいえるのです。


 ・・・そこで正田は業界でも珍しい「頑固ばばあ」を意識的にやってきたのでした。


 先週は某所で「要するに『承認』ていうのはあれでしょ、武士道に代わる支配階級の倫理をつくりたいわけでしょ」というお言葉をいただいて少しほっとし、

 「これで『頑固ばばあ』をやってきたことも少しは意味のあることになるかなあ」

と思うのでした。


 先週、忙しい中で次々に「承認大賞」へエピソード応募してくださった会員様、元会員様方を思うにつけ、私たちの教育の方式が正しく認知され評価されることを願わずにはいられないのでした。



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 このところこのブログに出てくる「習得」という現象について考える手がかりとして。

 『才能を伸ばすシンプルな本』(ダニエル・コイル、サンマーク出版、2013年6月)を読みました。

(実はこれと真っ向から対立しそうな本も読みましたがそれは記事の後半で)

 著者は、取材で世界各地の多種多様な「才能開発所」―ジャンルはテニス、音楽、貧困地区の生徒の学力を伸ばした公立学校、ボーカルスタジオ、スキーアカデミー等―を取材したジャーナリスト。

 本書では、「才能の開発とは脳を成長させることにほかならない」といいます。

 才能を開発したいなら、深い練習を通じて脳を鍛える必要がある。遺伝ではない、と。このあたりは論議を呼びそうですが。

 というわけで本文部分は才能を伸ばす52の「秘訣」から成っています。


 私的に気に入った「秘訣」は、

秘訣8「ハードスキルを身につけるには、注意深い大工のように作業をする」
秘訣9「ソフトスキルを身につけるには、スケートボーダーのように遊ぶ」
秘訣10「ハードスキルを重視する」

 であります。特に秘訣8で言っていることは、何か月か前にこのブログで武術経験者の方が言われた

「武術は型にこだわる、寸分違わず」

というのに通じますね。


 また手前味噌ではありますが、

秘訣12「質の高い教師やコーチを選ぶ」

も、ご興味のある方はご覧になってください。



 さて、本書は「練習次第で人は何者にでもなれる」という意味のことを言っているのですが、これはややアメリカ的ポジティブシンキングのきらいがあるかもしれません。

 スタンフォードの意志力の本をご紹介したときも、遺伝子学の側から

「意志の強い弱いはかなり生まれつきのものが左右する。固執性の高い人は、同じことをやり続けるという意味では生まれつき意志が強いかもしれない。逆に何をやっても長続きしない人というのも確かにいる」
 
という反論が出ました。

 
 正田も「承認コーチング」の受講生選定について割合条件をつけていて、極端に見込みのなさそうな人は受講させないでください、と言っています。車の運転の習得程度の学習負荷だ、といってもある程度は人をえらぶのです。




 
 さてその次に読んだのが『キャリアポルノは人生の無駄だ』(谷本真由美、朝日新書、2013年6月)です。

 「ポルノ」という語が入っているだけで引いてしまいますが著者のいう「キャリアポルノ」というのは、若い人向けの「自己啓発書」のこと。なんでも「フードポルノ」という語は以前からあって、TVやSNSで綺麗に盛り付けた高級食材の料理の映像をただ見るだけで満足すること、という意味だそう。そこからの造語のようです。「ただ見るだけで何の効果もないキャリア本」というほどの意味。

 自己啓発本、自己啓発セミナーに浸る若い人に警鐘を鳴らす本はこのところ『「意識高い系」という病』(常見陽平、ベスト新書)『僕たちはガンダムのジムである』(同、ヴィレッジブックス)と出ていて、本書もその系統といえます。

 正田も以前より若い人向け自己啓発書のことは胡散臭がってこのブログでもほとんどご紹介していないと思いますが、本書によれば上記のスタンフォードの意志力の本もその「キャリアポルノ」のカテゴリーに入るのだそうでちょっとお詫びしたくなってしまいます。このほか松下幸之助、稲盛和夫、本田宗一郎ら名経営者の説教本やスティーブ・ジョブズの伝記、「年収1億円」とかのタイトルの本もそうです。意外なところでは「もしドラ」―『もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーを読んだら』も、この中に入るようです。


 この本の表紙の折り返しのところには「マネジメントの不在を社員の精神主義でカバーする日本の労働環境と自己啓発書ブームの深い関係」とあります。

 この主張は非常に私的には膝をうちたくなるもので、「上」が「上」としての行動規範を学ぼうとせずに若い人にばかり社員としての行動規範やスピリッツを押しつけようとするのは日本的な奇妙な現象のようです。日本企業の平均の約10倍の1人当たり教育研修費を投じるGEは、それを社員に均等配分しているわけではなく、リーダー研修にかなりのウェートを置くのです。

 とにかく、「承認コーチング」のもとでは理屈抜きでトップマネジャーができてしまいますから・・・、
 本の世界だけでなく教育研修の世界でも延々と続く不毛な論争、「リーダー研修か下の人の研修か」という議論は、組織の力関係で言うと下の人の研修のほうが圧倒的にやりやすいのですが、予後つまり結果はというと、リーダー研修の質の高いものを選定してじっくりやったほうがはるかにいいのです。


 逆に当協会方式できっちり学ばれて「承認リーダー」として力をつけてきたマネジャーが次に直面するのは、ホワイトカラーだけの現象かもしれませんがこの手の「若い人向き自己啓発書―キャリアポルノ―」で頭でっかちになった若い人との間の、奇妙な話のかみ合わなさです。ひょっとしたら「不順守」もそういうことが原因で起きるかもしれません。

 キャリアポルノは恐らく読者の若い人にとってナルシシズム醸成装置です。どうも以前からそれは思ってきた、自己啓発本の著者もその手のセミナーの講師もナルシストの匂いをぷんぷんさせていて、その資質のある人を同じノリで巻き込むのが上手いようです。「どう?オレってあたしってすごいでしょ?オレあたしみたいになりたいでしょ?」っていう…。

 これも脱線ですが当協会の会員さん方はそのあたり大丈夫と思いますが、ナルシストの近くにあんまり行かないほうがいいです。これらのナルシストたちは仕事で成功したのだからそれなりに有能な人だとは思いますが、接触していると人格の悪い部分までうつってしまいますから。とくに一般人の他者への見下しとか。


 本書で主張するように、仕事と自分の自己実現がきれいに一致する例などそんなにあるわけはないのです。若い人一般職の人に対する私のスタンスは、「目の前のこと、上の人やまわりの人に言われたことを雑用でもいいから一生懸命やれ。どんなことでもそこに学びがあるから」というものです。・・・というのは、ブログではたまにしか言いませんが著書を読まれたかたはご存知とおもいます。
 できれば若い人がそういう姿勢のときに「承認リーダー」の側は、「君が今やってることは雑用で歯車の1つの歯ではあるけれど、全体のためにはこういうふうに役だってるんだよ。君は価値ある仕事をしているよ」と説明してあげてほしいものです。


 なお本書ではヨーロッパの人々の労働観を引き合いに出しますが、そのヨーロッパが今やEU危機で瀕死の状況になっており、むしろ労働観の転換を迫られているかもしれない状況を考えますと、その部分はあまり参考にならないかもしれません。と正田は思います。私が今念頭に置いているのは主に新興国との競争、製造業の国内回帰と、環境が少々変わっても揺るがない強靭な体質をどうつくるか、であります。(あと福祉業の強化も)




 そして本書は「人はそんなに変わらない(変化しない)」と主張し、「変われる」と主張する自己啓発本に懐疑的なのでした。自己啓発本で主張するようにポジティブな言葉を唱えるのは、もともとポジティブな気質の人にだけ効果があり、根がネガティブな人はかえって自己肯定感を損なうという研究もあるそうな。確かに大抵のノウハウは、もともとそれに向いている人にだけ効果があるのかもしれません。


 私もそれに一理あり、と思いつつ、ある一定の条件をクリアした人に丁寧な教育を施した場合、学習で習得できることはある、と過去の経験から楽観してもいるのでした。超ネガティブ人間の私がそう言うんだからあんまり疑わないでください。




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 『会社の老化は止められない―未来を開くための組織不可逆論』(細谷功、亜紀書房、2013年4月)を読みました。


 本書では、会社にも人間と同様、老化のプロセスがあるといいます。老化は「後戻りのできない『不可逆プロセス』の進行」であり、若返ることはない。

 「会社の老化」では、具体的には以下のことが起きるといいます。


●ルールや規則の増加
●部門と階層の増殖
●外注化による空洞化
●過剰品質化
●手段の目的化
●顧客意識の希薄化と社内志向化
●「社内政治家」の増殖
●人材の均質化・凡庸化
・・・


 本書が提言する老化への対処法は、

]群修魃震燭箸靴銅け入れる
∀群修鬟螢札奪箸垢襦柔ぢ絽鯊紊垢
「眠れるイノベーター」を活用する

であります。

こののところで、第4章「会社の老化がイノベーターを殺す」では「イノベーター」と「アンチイノベーター」の行動特性を詳しく述べていて、沢山読みどころのある本書でも一番おもしろかった部分です。


 イノベーターとアンチイノベーターは180度違う人種である。この描写が具体的でわかりやすい。

 起業家精神と官僚主義。いままで誰もやっていないことに燃えるか、前例や他者の横並びが大事か。やり方が決まっていない曖昧な仕事に燃えるイノベーター、境界が明確に定義された仕事を好むアンチイノベーター。

 視点の相違からも対立する。イノベーターは「理想」から入った「現実」を語り、アンチイノベーターは「現実」しか眼中にない。

 イノベーターは形式にこだわらないので、重要なのは「誰が信頼できるか」であり、この価値観で仕事のパートナーを選ぶ。これに対して、形式や組織を重視するアンチイノベーターは「誰が担当か」を重視する。・・・イノベーターにすれば「信頼できないが組織上では担当になっている人」は「付き合うだけ時間の無駄」であり、その人物とのコミュニケーションをないがしろにする。

(良くわかるなぁ。。逆におつきあいできるパートナーの方というのは、多かれ少なかれその人自身「イノベーター」なんだと思います)

 イノベーター同士の会議では自由に意見交換がされるのに対して、アンチイノベーター同士では自由な意見交換というのは事実上ありえない。

 イノベーターとアンチイノベーターの思考回路は異なる。決定的なのは、イノベーターはつねに将来とリスクに目を向け、先に進むことを考えているということである。アンチイノベーターが見えやすい「かたいもの(金、数字)」しか見えていないのに対して、イノベーターは普通の人には見えない「やわらかいもの」まで見ている。したがって、思考回路は決して交わることがない。

 アンチイノベーターにとってのイノベーターは、一言でいえば「宇宙人」である。まったく理解できない夢物語を語り、ルールを無視し、それが正義であるかのように振る舞って正論を吐く。はなはだ扱いにくい迷惑な人間、というのが正直なところだろう。
 これに対して、イノベーターから見たアンチイノベーターは、一言でいえば「常識の囚人」である。ルールや規則が目的となって、上位目的がなく「志が低い」存在として映る。上位概念から考えるイノベーターにとっては、アンチイノベーターが歯がゆくて仕方ない。
(pp.140-156)


 
 イノベーターは少数派で孤独であるのは避けられない。アンチイノベーターのほうがつねに圧倒的に多い。少数派対多数派のたたかいを経験します。

 ・・・でここではアインシュタインの「偉大な人間は常に、凡人たちの激しい反発に遭遇してきている」とココ・シャネルの「創造する人は少ない。創造できない人は山ほどいる。それゆえ、後者が強いのである」という言葉を引用して、世間の「イノベーター」の紅涙を絞るようになっています。

(でもねぇ自分を「偉大な人間」って表現する感性もなんだかねぇ。。今まさにたたかいのさなかにある人は「偉大」とまで言い切れる自信に到達してないと思う。五里霧中だと思う、ふつうは)


 

 このほか「ブランド力を高めれば社員の依存心は増す」というところは、当社ももしあと10年もやりつづければ突き当たる問題かなと思いました。現在は知名度も低いので非常にしっかりした、自覚ある会員さんが集まってくれています。つまり、「世間的に知名度はないけれど正田さんの教育は本物だ」と思って実践し、自分自身成果を挙げている人。(考えてみるとありがたいことです)
 
 これが下手に知名度が出てしまうと、単に「有名だから」というだけで門戸を叩く人が増え、受講生さん会員さんの質が下がってしまうでしょう。講座をしても質の低い場になるかもしれない。たのしくないだろうなあ。

 ということも繰り返し考えるんです、はい。10年生きるつもりだったのか。


 
 会社の老化を防ぐうえで、本書は「M&Aのデメリット」に触れるいっぽう「子会社」の可能性にも言及しています。がんばれ子会社。かな?



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「早い話、男はひとりよがりなのだ。ひとりよがりがひとりよがりを競るように社会をつくってきたからいつまでも問題が解決しない。
 だから日本は埒が明かないのだ。
 全部、男が悪いのだ」(p.13)


 ごめんなさいこれ私が書いたんじゃありません。高橋秀実という男性ノンフィクション作家の本、『男は邪魔!―「性差」をめぐる探究』(光文社新書、2013年4月)からの引用です。

 「男子校の女先生」みたいな仕事をしてる私がこんな恐ろしいこと書けません。
(でもしょっちゅうこれに近いことを書いてる気もする)


 このあと

「男は邪魔」
「男はゴミ、埃」
「男は役に立たない」

と、著者の妻の罵り言葉に仮託した著者自身の自虐の言葉が続きます。

 
 男性による自虐の書の体裁をとった「性差」の本。ちょっと新しいかもしれない。

 女の私が「男のプライド」とか言って小馬鹿にしてるより、男自身が「男はバカ」「男はみんなADHD」(だって本書に書いてあるんだもん)と言ったほうが可愛くてほほえましい。(ちなみに著者は東京外大のモンゴル語科卒だった。関係ないか)

 日本は世界に冠たる(恥ずかしい)男尊女卑国という笑えない現実があるのですが、それは明らかに「劣った性」である男性が、「優れた性」である女性に対するコンプレックスゆえに、何とかしてハンディをつけようと画策した結果そうなっていて、国を富ませるうえではきわめて不合理なことをやっているのかもしれない。いやこんな怨念ぽい文章はこの軽妙洒脱な本の紹介には似合いませんねきっと。


 本書では、意外な「価値の逆転」として、例えばマッチョイズムの権化のようにおもわれている宮本武蔵の『五輪書』の中に、性差別への戒めのような言葉を見出します。

「大形(おほかた)武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬるといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。死する道におゐては、武士斗(ばかり)にかぎらず、出家にても、女にても、百性已下に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其差別なきもの也。

 武士は日頃から、潔く死ぬという道を嗜んでいるようではあるが、それは武士に限った話ではなく、僧侶も女性も百姓に至るまでみんなそれを考えて生きていると指摘している。武士の専売特許などではなく、それを何か特別なことをしていると思うのは勘違いだと武蔵は戒めていたのである」(p.37)


 宮本武蔵いいこと言うなあ。だって女の私だっていつも死ぬことを考えてるもん。


 一方で新渡戸稲造の『武士道』についての本書の評はからい。


「女性が『内助』として男に尽くすのは、男が主君に尽くすため。主君は天に尽くすのだから、結果として女は天に尽くすために男に尽くしているというのである。途中の男は尽くすとともに尽くされているが、末端の女は尽くすのみ。明らかに男に都合のよい倫理で、彼(新渡戸)は『この教訓の欠陥を知っている』としたり顔をしながら、そこにキリスト教の『高い目的への奉仕』を重ねてごまかそうとしており、言い訳としても見苦しい。」(p.42)


 世紀の名著のことを「言い訳としても見苦しい」と断罪してしまった。しかし確かにそうだ。『武士道』は敬愛する恩師の推薦書でもあるがそのあたりはシビアにいこう。私も日頃から思う、明治の偉人が女性や男女関係について書いたものはどれもちょっとずつ筋が通ってない。要するにそういう時代、文明開化といいながら奇妙な儒教的男尊女卑が支配した時代だった。本物の武士の宮本武蔵のほうが一貫した透徹した目で男性女性を眺めていたようです。


 その点明治人の例外は福澤諭吉で・・・というお話は、

「 「ロージー」、『福澤諭吉と女性』、『女大学』、気高き男性のすすめ」

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51790697.html

という記事でご紹介しています。


 このあと本書には心療内科医の海原純子氏、巷のお母さん方、小学生の男の子女の子(明らかに女の子のほうが成熟度が高い)、スクールカウンセラー、フェミニストの上野千鶴子氏、感性アナリストの黒川伊保子氏といった有名無名の人が登場して男女の「性差」をそれぞれの言葉で語る。


 最後は「日本の人口を維持するためには1000人の男性で足りる」それ以外の男性は淘汰されてもしょうがない、みたいなことまで言われる。うわ〜。


 うちのNPOの会員さん方はその1000人の中に入ってますよね、きっと。日本男性のためのノアの方舟。

 
 あと、本書の後半で語られる女性による「ボーイズラブ妄想」系のお話は正田は疎かった世界なので新鮮でした。私自身は、「女の中のAS傾向の女、女のできそこない」であろうと自分のことを思っています。


 
 本書にはなかった視点で私なりの解釈を付け加えると、以前にも書きましたが日本人の場合オキシトシン受容体遺伝子のスニッブは「オキシトシン分泌の少ないタイプ」が多数を占める。このスニップは自閉症リスクも高い、ということで、「超男性脳」的な人が比較的多い。

 かつ、この遺伝子スニップよりも男性女性の性差のほうが人の親しみやすさへの影響は大きいという研究があり、これは前述の「性差はない」という知見に反するようですが、日本人の場合「男性は自閉症的だが女性は対人能力が比較的高い」という図式が明確にあり、これが男女差別とか男性の女性に対する見下し、上野千鶴子氏のいう「女性嫌悪」につながっているのかもしれない、という気がします。愛想のわるい人は愛想のいい人を見下しがちなものです。そして甘えるのです、愛想のいい人は譲ってくれますから。



 ・・・なおたまたま出張先にもってきた2冊について読書日記をかきましたが記事内容と現在進行中の業務は一切関係ありません・・・




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 久しぶりに読書日記でございます。


 3つ前の記事

 「承認と生産性向上」宿題まとめファイルへの添え書き

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51860119.html


 で引用した、「拡張―形成理論」というのは、「ポジティブ心理学」の中の理論でした。


 ポジティブ心理学は、考え方はとても共感するところが多いし大規模な疫学調査等で立証されていることも多い、有益な考え方です。

 でも何せ「ポジティブ」という言葉の響きで誤解を招きそうなので、あまり強く打ち出せないでいます。


 今回ご紹介する『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』(日本実業出版社、2010年)は、その「拡張―形成理論」の提唱者であるバーバラ・フレドリクソンの著書。原題は'Positivity'。

 フレドリクソンは、「学習された無力感」で有名な元アメリカ心理学会会長、マーティン・セリグマンのお弟子さん。セリグマンが1999年、ポジティブ心理学という概念を打ち出したとき、弟子の提唱した「拡張―形成理論」を拠りどころにしたのでした。


 ああ前置きが長い。


 本書『3:1の法則』では、「ポジティビティ」という言葉が繰り返し出てきますが、これをそのまま使用していいものかどうか、迷います。「自己肯定感情」みたいな訳語ではだめなんだろうか。

 迷いはありますが、この記事では「ポジティビティ」をそのまま使わせていただきます。


 本書によれば、


「ネガティブ感情は、『何ができるか?』と考えることのできる範囲を狭くしてしまいますが、ポジティブ感情は、それを広げる働きをする。さまざまな考え方や行動に目を開かせるのです」(p.46)


「ポジティブ感情とネガティブ感情は、異なる時間尺度の上で意味をもつということです。危機に臨んだときにネガティブ感情が思考を狭めることは、ある意味その瞬間を生き延びるために有効でした。

 一方、ポジティブ感情によって広げられた思考は、もっと長い時間尺度において、別の形で有効に作用したのでしょう」(p.47)


「明るい気分で興味を持ち、好奇心に突き動かされて行動しているときには、多くを学ぶことができる」(p.49)


「ポジティビティを多く示す人は、そうでない人よりも長生きします。寿命の違いは長いと10年になります」(pp.53-54)
 ―最近身近に起きた事例から妙に納得している私であります―


「何かつらいネガティブな感情を経験したときには、そこから自分を引き上げるために、心から感じるポジティブな感情を少なくとも3回経験する必要があります。この『3:1』という比率がティッピングポイント(転換点)であることが、研究の結果わかっています。ここが下降と上昇の分かれ目だということです」(p.62)


「ポジティブ感情の代表的なものは、次の10の感情です。ヾ遒(Joy) 感謝(Gratitude) 0造蕕(Serenity) ざ縮(Interest) ゴ望(Hope) Ω悗(Pride) 愉快(Amusement) ┯殄(Inspiration) 畏敬(Awe) そして 愛 (Love) 。(p.72)


「大きな概念(略)でものをとらえるかどうかは、その人の感情の状態による。・・・ポジティブ感情を持たせることにより、人の関心範囲を拡張できる」(p.102)


 マネジャーがポジティブだと判断力も高い。

「ポジティビティの高いマネジャーは、より正確で注意深い判断ができ、効果的に人間関係がつくれる。・・・また別の研究では、『ポジティビティが高いマネジャーの場合、部下たちも高いポジティビティを持つようになる」という結果が出ています」(p.106)



 ポジティブな人は交渉にも強い。

「込み入った交渉に臨む場合、ポジティビティが結果を分ける。・・・協調性と人なつこさ(ポジティビティ)をもって交渉に臨む人が、最もよい形で交渉をまとめることができる」(pp.106-107)


 ポジティブな人は逆境にも強い。

「より多くポジティビティを持っている人は、逆境にあっても解決策を複数考えつく」(p.108)
「ポジティブ感情を増やすことによって、レジリエンスを上げることが可能だというわけです」(p.164)


 ポジティブな感情は差別をなくす。

「ポジティビティによって心が温まっている人は、他人種の人も同じ人種の人の顔も。同程度によく認識できる」(p.117)



「ネガティビティにも『生産的なもの』と『破壊的なもの』がある」(略)
「怒り」や「対立」は健全で生産的なネガティビティであり、「嫌悪」や「侮蔑」は破壊的なネガティビティだといいます。(p.196)

★だから、議論で対立したとか、少々否定的な質問をしたとかは、別に人間関係を壊すようなことではないのです。そんなことで人間関係が壊れたら相手は大した器ではありません。正田は「反論することも(相手を信頼する、という意味での)承認だと思え!」てなことをいいます。


「ポジティビティ比に持続的な変化を生じさせるには、体重を減らしたり、コレステロール値を下げたりするのと同じように、意志と努力によるライフスタイルの転換が必要であることがわかりました」(p.218)


 質の良い人間関係を作るための4つの方法。
〜蠎蠅鯊砂鼎垢襦
∩蠎蠅鮖抉腓垢襦
A蠎蠅鮨頼する。
ご愀犬魍擇靴燹
(pp.277-278)


 本書からの引用以上。

このブログを長くお読みになっている方は、つねづね「ポジティブ」に懐疑的な私のスタンスと今回の記事は相いれない、と言われるかもしれません。

 どうも、私が嫌うポジティブは「空元気ポジティブ」とか「現実逃避/現実軽視ポジティブ」といわれるものであり、本書のいうポジティビティとは違うもののようです。


 本書の言うとおりであれば、ポジティビティとは、例えば視野が広がり逆境にあっても解決策を複数思いつくので、問題からあえて目をそらす必要がなく、むしろ問題に真っ向から立ち向かう勇気をもたらすものであります。
問題から逃げたり先送りしたりするのと対決するのでは随分違います。


もうひとつ言えば「ナルシシズム」とポジティビティもすろすれ近いところにありそうな気がして気になります。


 それらの違いをもっとはっきり説明してくれるといいんですが。


 あと、ポジティビティを増やすこころみとして本書では「メディテーション(瞑想)」をとりあげていますが、私としては当然「承認」を挙げたいです。他人を意識的に肯定することによって、初期設定ネガティブである日本人の自己肯定感情は間違いなく増えます。



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 『昨日までの世界』(上)(下)(ジャレド・ダイアモンド、日本経済新聞出版社、2013年2月12日)をやっと読みました。


 上下巻の本は積読にしがちで、この本もそうなっていましたが、いざ手にとると面白いこと、面白いこと。


 いつもの伝で書評もとい「公開読書ノート」にするとポイントが多すぎあまりにも長文になってしまうので、私的におもしろかったごく一部のポイントのみご紹介します。


・子どもに体罰をする社会、しない社会。大まかな傾向としては、狩猟採集民の小規模血縁集団は、最小限の体罰しかおこなわない集団が多い。農耕民の社会は、ある程度の体罰をおこなうところが多く、牧畜民の集団は、体罰をおこなう傾向が強い。

 狩猟採集民は所有物をあまり持たないので子どものいたずらの影響は本人のところでとどまり、他人の所有物まで悪影響をおよぼさない。農耕民は所有物を多く持っており、牧畜民にいたっては、家畜のような財産価値の高い所有物を持っている。たとえば、子どもが牛や羊の囲いの扉を閉め忘れたら、貴重な財産である牛や羊が逃げてしまう危険性がある。(上巻pp.332-333)

 ―自律性をおもんじる狩猟社会と集団の規律規範を重視する農耕社会、と考えると現代にも通じそうですね、。


・高齢者の役割とは何か。狩猟採集社会では、働き者の高齢女性たちが一日中根菜類やべりー類、ハチミツ、果物を採集して歩く。祖父祖母が生きている孫のほうが体重増加が多く、生き延びる割合が高かった。
 根菜掘りができなくなった高齢者は子守りをする。祖父母が孫の子守りをすれば、子ども夫婦は育児の心配をすることなく、食料探しに専心できる。(同pp.370-371)

 ―先日の「高齢化社会よのなかカフェ」であまり出なかった視点ですが正田はこれは重要、と思っていました。高齢者さん自身の何をしたいというニーズはさておき、社会の持続可能性という視点でいうとお年寄りはまずは子守りや子育て支援をしていただきたい、例えば保育所の送り迎えとかでもいいんですけれど。


・サービス分野のなかには齢を重ねた人のほうが、よりよいサービスを提供できる分野もある。それは、医療サービス、宗教サービス、娯楽サービス、人間関係の相談、政治的貢献といった分野のサービスである。伝統的社会では、助産婦や呪医が高齢であることが多い。呪術師や司祭、預言者、魔法使いも、たいてい高齢である。また、歌や遊びや踊りや通過儀礼といったものの教え手や率先者もまた、高齢であることが多い。(同pp.372-373)


・文字のない伝統的社会で生きる高齢者がはたせるもっとも重要な役割は、「生き字引」である。(同p.373)


・バイリンガルの利点。最近の認知科学の研究で、二言語以上の人は「実行機能」の制御をする能力が優れていることがわかった。実行機能とは選択的に注意を振り向けたり、注意力散漫になることを避けたり、問題解決に集中したり、取り組む課題を変えたり、言葉や情報を必要な瞬間に脳の記憶中枢から引き出したりするもので、人が的確に機能し、行動するには不可欠なものである。(下巻pp.244-245)


 ―同時に2言語の単語を想起してしまうのを、あえて1つを抑制して1つに集中することを絶えずやっていることが脳にいい、という話。興味深いですね。母校東外大の歴代の学長が毎年大阪のOB会に来て講演されるのですが、経営的にもなかなかうまいことやっている。(彼ら彼女らの話を信じるとすれば)、「語学を学ぶことは論理的になれる」ということをおっしゃっていました。


 
 この記事でご紹介するのはここまでにとどめ、あとはどうか本書をお買い求めください。面白いです。

 2年ほど前、「動物行動学」から人間社会のいとなみを説明するアプローチが流行りました。「伝統社会」からみるアプローチも大変エキサイティングですね。



『脳科学がビジネスを変える―ニューロイノベーションへの挑戦』(萩原一平、日本経済新聞社、2013年2月18日)。

 この本も2つ前の記事でご紹介した「『認知科学』最強の仕事力」と同様、このブログとリンクするところの多く、またカーネマンからの引用の多い本でした。カーネマンの本の下巻ちゃんと読書日記かかなきゃなあ。学術的に本書のほうがはるかに詳しいので、どちらか1つをと言えば本書のほうがお勧めです。
 本書にもまた、「日本人は不安だから経営もそれを前提として・・・」というフレーズが何度も出てきます。2013年、このコンセプトはやっと市民権を得つつあります。

 うちのNPOの会員さん方は「行動承認」ちゃんと習得してくれてるだろうか。私が死んだら、だれか追悼文で「日本人の遺伝子学的な不安感の高さに基づき『承認中心コーチング』『承認リーダーシップ』の重要性を初めて提起するとともに、その教育メソッドを確立した」ってちゃんと「行動承認」の形で書いてね。



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追記:
きのう5月2日から、フェイスブックの私のフィードを「友達だけに公開」の設定にしました。それまではすべて公開の設定だったので、友達以外や、フェイスブックをしていない人でも私のフィードを見ることができました。
フェイスブックでは、ブログよりもやや日常的な、どこに行ったとか何を食べたとかの話題と、プラスその時々の思いや考えでブログに書くほどのボリュームがないものを書いています。
ブログ読者の方でもしフェイスブックの方も読みたいという方がおられましたら、お手数ですがフェイスブックにご登録の上お友達申請されてください。フェイスブックは実名登録が原則ですが、顔写真を公開していない方も多いですしROM(読むだけ)中心の方もいっぱいおられます。

 ブログ読者の皆様、大型連休はいかがお過ごしですか。
 連休前半は、いいお天気なのに山にもお花畑にも行きたいのに今日までコーラス練習です。

 仕方ないので読書日記を、それもあまり重要でない手近なところから片づけます。


『「認知科学」最強の仕事力』(匠英一、高橋書店、2013年4月)

 承認もヒューリスティックもその他カーネマンからの引用の多い、このブログの内容と大いにリンクするところの多い本です。


「日本人は不安感が強くてつながりを求める、だから承認がマネジメントに有効」

なんてことも当たり前に文中にあります。

 その他「成功イメージを描くのは意味がない、目の前のことを一生懸命やること」このあたりも数年前ブログでご紹介してますね、『その科学が成功を決める』あたりでしたかね。


 こうして正田が長年言い続けてきた(そして理解されなかった)ことを偉い男の人が「そんなのもう常識でしょ」って口調でさらっと言っちゃうんだよね〜、いつか。

 ありがちありがち。

 ということを確認した本でした。


 ただ、「お得感」のある本ではありますが、この本読んだからといって何一つできるようにはならない。これは当協会の会員さんを含めどなたにも言っておきます。これは、「できてる」人が確認するための本ですね。

 「日経ビジネスアソシエ」とか「プレジデント」読んでる人が結局何もできるようにならないのと同じ。

 何かを「できるようになる」というのはかならず「修練」のプロセスが要ります。1つのことにいつも集中力を向け、トライしたり、できたかできなかったか内省したり、ということを繰り返して初めて内面化していきます。

 この手の網羅的な本や上記の雑誌は、「できてもいないくせにできるようになった気だけしているナルシスト」をつくるという意味では有害かもしれない。

 万一対面での会話でその手のシチュエーションが起きると非常に気まずいことになるので、ブログで言っておきますね。


 
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追記:
正田が「承認」だけをとりわけうるさく言うのは、「不安感の強い日本人」にとって「認められたい」はすごく強いが、「認める側になる」というのはすごくハードルが高いこと。でもそれを乗り越えて使い手になると、想像を超える凄い変化が職場に起こることも自明の理で、ここを乗り越えるとリーダーの「できること」は格段に増える、そういうポイントだから言っている。たぶん当協会の会員さんならそれはわかってくれると思ってるんだけど・・・。

「バブル世代は学ばない」。


 先日、ある勉強会の幕切れで講師の先生からこの言葉が出て、衝撃のあまりそれまで2時間半の学びが「まっしろ」になってしまうという経験をしました。


 この勉強会とは、関根雅泰さん(株式会社ラーンウェル代表取締役。祝・東大修士課程修了)の主宰された「新人教育をアカデミックに語ろう!」(3月27日)。


 正田はしらなかったのですが、2000年の直前、1998年とか1999年ごろ「日経ビジネス」などビジネス誌でも盛んにその手の特集(「バブル世代はバカだ」)が組まれていたらしい。正田この人材育成業界に入ったのは2001年なので迂闊にも知りませんでした。

(でも実感とは非常に合致してましたね。「歩留まり悪かったのはあいつらのせいか!」と正田はパスタ食べながらシャウトしてしまいましたからね)


 というわけで関根さんにご教示いただいたこの分野のスタンダードな研究書が『組織学習と組織内地図』(安藤史江、南山大学学術叢書、白桃書房、2001年)。


 本書では第5章「組織内地図を用いたバブル世代の分析」で、バブル世代がいかに「学ばない」世代で組織のお荷物であるか、なぜそうなったかの背景としめくくりにはある企業でのバブル世代リストラ策の顛末が紹介されます。

 救いがないよバブル世代。
 なお本書で言うバブル世代とは1990年から1992年入社組のことです。88年入社の正田はそのいっこ前の世代ということになります。(実際は状況はそんなに変わらなかったと思います、ハイ)
 
 
 本書によればバブル世代は「学習活発度」が低く「組織内地図形成度」が極端に低い。(組織内地図の概念については後述)それを示すグラフでバブル世代のところが見事に他の上下の世代と比べてV字カーブを描いて落ち込んでいます。

 なお一般に組織内地図形成度は職位によってもことなり、部長クラスを左、課長、係長、一般社員をその右に順に配置したグラフでは形成度は右肩下がりとなります。職位が高いほうが地図形成度は高い。いいかえれば「会社のために自分は何ができるか」を考えてる度合いが高い。これは正田がやってる統計調査でも、職位が高いほうが一般にモチベーションやコミットメントは高いです。


 でここから情報通信会社「A社」におけるバブル世代問題。

 「A社において、バブル世代がリストラ対象の中心となってしまった主な理由は、やはりバブル世代の示していた学習水準の低さにあった」。

 たとえば、A社では1カ月に書きあげる標準的なプログラム量は3〜5本、1年では50〜100本とされていたが、バブル世代の社員の中には、1年間でたった5本しか書けない者がざらにいるという状態だった。もちろん中には非常に優秀な者もいたが、一方で惨憺たる結果を示すのはもっぱらバブル世代だった。

 もう少し詳しくみてみると、バブル世代の社員たちは仕事に対する認識が甘い傾向があったといわれている。大量採用時代、学生にとってみれば売り手市場だったので、仕事に対する自覚や明確な意識が欠如していても入社できた。そのように入社当初から甘かったので、業務遂行に必要な知識や技能を得ようと自主的な努力をしないできた。

 このほか、
・決まった仕事はできても、未経験あるいは予想もしていなかった問題に直面した途端、全く対応不能になる。
・業務の進捗状況や結果についての報告を確実に行うといった仕事の基本中の基本すらできない者がいる
・「習っていないからできません」という発言をする
など、バブル世代への評価はもうケチョンケチョンであります。今のゆとり社員よりもっとひどいかも。

 というわけで、A社ではこの世代を対象にリストラが断行され、仕事の基本ができない者や「習っていないからできません」の人は一掃されました。
 残った人たちは会社と自分との関係を見直し、頑張っていくことを選択したと思われますが、それでもまだバブル世代特有の問題が残っている。最も不足している点として挙げられるのは、自分に必要な知識が何かを判断し、それを経験豊富な他者から「盗み取っていく」という積極的な学習姿勢でした。教えてもらうまで待っている「待ち」の姿勢や習っていないことに手を出さない「守り」の姿勢。既存のやり方に問題意識をもって仕事に取り組むことが少ないバブル世代。

 ここでA社の「トップのリーダーシップ」が登場します。リストラはトップ自身の旗振りによって行われました。トップはバブル期の大量採用や育成システムの崩壊の後遺症をよく理解しており、リストラの断行にあたって「全員が幸せになるためのリストラ」、あるいは「辞めてもらうにもそれなりのコストをかけなければならない」というモットーを掲げました。
「全員が幸せになるためのリストラ」とは、現在の仕事に向いていない社員は、より適性のある仕事に早めに切り替えたほうが幸せ、という意味があります。同時に、たとえ現在はうまくいっていなくても、この機会に今後頑張ることを社員が改めて決意できれば、それもまた幸せとう意味も含まれています。

「全員が幸せになるためのリストラ」を実現するために、A社では全社員を対象に技術力やプログラム作成能力のテストを実施し、その結果と各々の過去の実績をフィードバックした。組織における自分の順位・評価が客観的になれば、自分の適性が明らかになったり、自分の選択すべき方向が明確になるはずだと考えたのである。…結果として、自分の適性に限界を感じた多くの者は、組織に残って全力を尽くすことになった。A社の育成の仕組みが比較的早く、円滑に回復できた背景には、トップによるこうした信念・配慮が一役買っていたのである。(p.150)
  


 ふー、リストラしかないのかバブル世代。本書出版時には入社9〜11年目であったバブル世代は2013年の今年、同21〜23年目になっています。ストレートで四大卒なら43〜45歳、高卒なら39〜41歳であります。それなりに家庭をもったりもされてるでしょう。

 なんとかこの方々の自主的な奮起に期待したいものです。貴重なご教示をいただいた関根さんに感謝。


※※
 加えて、研修講師の目からいいますと、この「学ばない世代」に合わせてコーチング研修を含めたミドル向けにただ面白いだけ、笑えるだけの研修プログラムなど組んでも意味がない。組織にとって毒にも薬にもならない研修費と時間のムダづかいです。ある時期そういう研修が席巻しましたが。普通に学習能力のある人だったら、ちゃんと教えてあげればちゃんと学びます。正田はそれをインディーズでやってきました。



※組織内地図とは

|韻冒反テ發貿然と存在する組織価値や組織特性としての組織文化と
∩反ゥ瓮鵐弌爾砲茲辰討い辰燭麭鰉陲気譟各自が利用しやすいように加工された組織文化、つまり各組織メンバーの主体性が深くからむ組織文化。
組織の共有価値や組織特性を咀嚼し、利用可能な形に加工し直せるかどうかは、組織文化の中身よりは、物事の受け止め方といった各組織メンバーの主体性に大きく依存していると考えられる。
個々人で加工の仕方や程度が異なるため、組織文化と組織内地図とは連動するものでない、むしろ別物である。

本書では、高次学習にとって重要なのは,茲蠅皚△陵彖任世塙佑┐襦

「企業にとって必要なのは、組織の中で自分なりの地図が描ける人」
「組織と自分との関係を把握できるような地図をもつことが大切」

組織内地図とは、こうした企業の人々の言葉から生み出された表現である。

地図をもつという表現は、単に組織に共通したものの見方、解釈ができる状態を表しているわけではない。組織目標実現のために、それぞれの従業員がそれぞれの立場から、自分が果たすべき役割を認識できるようになることを意味しているのである。それに加えて、具体的にどう行動すればよいかを、自主的に推測できるようになることも指している。
(pp.90-92)

そして、組織内地図とビジネス・レベルの高次学習には、かなり強い正の相関がある。(第4章)



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追記:正田は色々と本とかセミナーでも学びますが、「だれに教えてもらった」「どの本から学んだ」ということをなるべく付記するようにしています。それはよくある「自分は所詮先人の教えの器である」というのでもあるし、感謝の意もこめているし、またあとからそれが正しいかどうか検証可能にしておく、という意味あいもあります。偉大な思想家で自分の知識の出所を明示しない人もいますが私は偉大でも思想家でもないので明示する派です。でないとちゃんと議論できないじゃないですか。
(あっ、事の性質によってはちゃんと「情報源の秘匿」もしますから大丈夫ですよ)

 人の強み理解のスタンダード、ギャラップ社の「ストレングス・ファインダー」のシリーズ最新刊が先月出ていました。


 『ストレングスリーダーシップ〜さあ、リーダーの才能に目覚めよう』(トム・ラス&バリー・コンチー、日本経済新聞出版社、2013年3月)。


 ギャラップ社のこのシリーズは、2001年に『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう』(マーカス・バッキンガム、ドナルド・O・クリフトン、同)が出て以来10年以上のロングセラー。アメリカ最大の調査会社ギャラップが人の34の「強み(ストレングス)」を抽出したもの。

 人材育成の性格分析でこうしたアセスメント、ツールは多数ありますが正田が自腹でいくつか受けた中ではこれが(1680円〜と安価なわりに)一番優秀でした。さすがに調査のプロ・ギャラップ、受検していて自己評価バイアスが入らないよううまく考えてあります。それでも何度か受検するとパターンがわかってくるきらいはあるのですが…、
 あと正田の予感ですが今どきの(?)遺伝子解析や脳画像診断とも、このツールは相性がいい。人の生得的能力のバリエーションと環境との相互作用で獲得する後天的能力のバリエーションを上手く押さえている気がします。例えば「能力A」と「能力B」はそれぞれ独立の因子だから両方備えていることはあり得る、みたいなこと。


 今回はそれのリーダーシップ版ということで、それぞれの強みをもつリーダーがチームをどう率いるべきか、を説いています。

 ここで特筆すべきは、「フォロワーの4つの基本欲求」を明らかにしたうえで(これも膨大なサンプル数からの抽出。欲求の内容は本書をお読みください)、リーダーはこの基本欲求を満たす必要があることを前提とし、それぞれの強みをもったリーダーが具体的にどう満たすか、を述べていること。

 ようするに、わたしの言葉でいうなら、リーダーがどんな強みの持ち主であれ、「フォロワーの基本欲求」からの制約を受けること、自分の強みの命じる通りにのびのび自由に振る舞ってよいわけではないこと、を言っているという点で、従来の「強み本」の弱点であった過剰にポジティブな説明より地に足のついた説明となっています。


 ・・・困りますよね。リーダーが「オレの強みはこうだからこう振る舞っていいんだ!」と居直ってしまったら。


 本書は1800円と従来本よりやや高いですがちゃんとアクセスコード付きで、そのアクセスコードは巻末にシールの形でついており、これも従来本で表紙カバーの裏に印刷してあったところ本屋の店頭で盗撮され使われていた、などということのないよう配慮されています。


 リーダーとして「強み」に親しんでみたい、という方はこちらの本がお勧めかもしれません。

(「学校の先生」にも良いかと思いますがこのブログを読まれるレベルの学校の先生だと、今更かも?)


 あと正田も10年以上このツールには親しみ、ここ数年は師匠について「裏ストレングス・ファインダー情報」みたいなものも仕入れているのでもしご興味のある方はお声がけください。



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余談:個人的に正田はどうなのか、というと2001年に初めて受検して以来「親密性」「個別化」がずっと上位で安定しています。4つの資質群でいうと「人間関係資質」で仕事している人間らしいです。「競争性(勝ち負け)」は極端に低いです。これはギャラップ社が最近34の強み全部の順位がわかる商品を出してくれたのでわかりました。また「ぶつかりまくる人生」はどうやら「調和性」が低いところに起因するようです。はい、文句たれだと思います。思考系の資質は数年単位でめまぐるしく入れ替わり、どれもそこそこ持っていて必要に応じて入れ替えているようです。


 『ファスト&スロー(上)』(ダニエル・カーネマン、早川書房、2012年11月)を読みました。


 題名の「ファスト&スロー」は、本文のことばで言い換えると「システム1」「システム2」となります。


 わたしたちの脳の中の、高速で考える「システム1」と時間をかけて丁寧に考える「システム2」。この2つのシステムを組み合わせてわたしたちは考えています。多くの場合は「システム1」に頼ります。本書では、2つのシステムをそれぞれに個性や能力や欠点を備えた脳の中の行動主体として考えるよう提案しています。


 要は、このブログでも何度か登場している「ヒューリスティック」(経験知に基づく思考法)のお話。それにプラス、今流行りの「意志力」の要素も入ってる感じです。旬な分野ということですね。


 帯の文句は「人間の『意思決定』の『不合理』な真実を解き明かす!よりよい『決断』のための必読書」とうたっており、何が「良い決断」なのかに関心のある方にはお勧めです。


 認知的錯覚は克服できるのだろうか、という問いに著者は、「あまり期待はできない」と答える。「システム1は自動運転していてスイッチを切ることはできないため、直感的思考のエラーを防ぐのは難しいからだ」


 「のべつ自分の直観にけちをつけるのは、うんざりしてやっていられない。そもそもシステム2はのろくて効率が悪いので、システム1が定型的に行っている決定を肩代わりすることはできないのである。私たちにできる最善のことは妥協にすぎない。失敗しやすい状況を見分ける方法を学習し、懸かっているものが大きいときに、せめて重大な失敗を防ぐべく努力することだ」(p.44)

 たとえば「バットとボールは合計1ドル10セントで、バットはボールより1ドル高いです。ではボールはいくらでしょう?」という問題に対して、「10セント」と答えたとしたら、あなたはよく言えば直感的な人すなわちシステム1だけを使う人だ。この問題に有名大学の学生の50%が「直感的な」答えを出したという。

 軽薄なシステム1とマジメなシステム2、というべきか。この本の言い回しでは、

「知的怠惰の罪を犯さない人たちは、より『まじめ』だと言える。」(p.70)


 ドラッカーが「真摯でない者はマネジャーになるべきでない」みたいなことを言っているが、この「真摯」ということを、脳科学的にはどう解釈したらいいのか悩んでいました。ひょっとしたら「システム1」を野放しにせず、「システム2」をこまめに使う、使うことを厭わない人のことを言っているのかもしれません。


 そして過日正田がブログである種の人を「早口病」と揶揄したり、ぱっぱ決断する人が偉いとされるようにデザインされた研修に疑義を呈したりするのは、この「システム1」だけでものを考えると非常に問題があるからです。
(もちろん、何事も時間をかければいいというものではありません。ある程度スピード感をもって仕事をすることは大切です)


 ところでおもしろいことに、本書によれば「システム2」を使っていることは「瞳孔」つまり黒目をみればわかるようなのです。二けたのかけ算をやっているとき、瞳孔がかなり拡がる。もっと難しい問題になると、さらに拡がる。「プラス3問題」という著者らが考案した脳に持続的努力を要求する足し算問題がもっとも難しく、瞳孔はもとの面積より約50%も大きくなり、心拍数は1分間で約7回増えるのだそうです。黒目の大きいひとはまじめで思慮ぶかいんでしょうか。


 その他ヒューリスティックについて、おさらいの内容もありますが面白いものを拾っておきましょう。


●「認知的に忙しい状態では、利己的な選択をしやすく、挑発的な言葉遣いをしやすく、社会的な状況について表面的な判断をしやすいことも確かめられている」(p.62)


●「何かを無理矢理がんばってこなした後で、次の難題が降りかかってきたとき、あなたはセルフコントロールをしたくなくなるか、うまくできなくなる。この現象は、『自我消耗』(ego depletion)と名づけられている」(p.63)


●セルフコントロールを消耗させる状況やタスクとは:

・考えたくないのに無理に考える。
・感動的な映画を観て感情的な反応を抑える。
・相反する一連の選択を行う。
・他人に強い印象を与えようとする。(心の声:正田がセミナーや研修のあと疲れているのはきっとそれだと思う)
・妻(または夫)や恋人の失礼なふるまいに寛容に応じる。(同上:なるほど)
・人種の異なる人と付き合う(差別的偏見を持っている人の場合)。(同上:差別的偏見をもつ人と一定時間以上接触するとこちらも非常に消耗する)

 そして消耗を示す兆候とは:

・ダイエットをやめてしまう。
・衝動買いに走る。
・挑発に過剰反応する。
・力のいる仕事をすぐに投げ出す。
・認知的タスクや論理的な意思決定でお粗末な判断を下す。(pp.63-64)


 消耗は判断力に悪影響をおよぼす。イスラエルの仮釈放判定人の申請書類の審査の仕事ぶりをみると、休憩直後の許可率が最も高く、次の休憩直前にはゼロ近くになった。疲れて空腹になった判定人は、申請を却下するという安易な「初期設定」に回帰しがちだった。

・・・ある人事課長は雨の日は不機嫌であり、何を提案してもネガティブな返事をした。雨音と低気圧で人はそんなにも消耗するものだろうか、もともと小さい彼のキャパシティを低下させていて非常にわかりやすかった。彼の部署は承認どころではなかったろうと思う・・・


●「もしあなたが大統領の政治手法を好ましく思っているとしたら、大統領の容姿や声も好きである可能性が高い。このように、ある人のすべてを、自分の目で確かめてもいないことまで含めて好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向は、ハロー効果(Halo effect)として知られる。後光効果とも言う」(p.122)

 ・・・「あばたもえくぼ」ですかね。去年は正田も自分の人物眼に自信を無くすような出来事が2,3あった。播州ハロー効果とでも言おうか・・・

●見たものがすべて効果。「限られた手元情報に基づいて結論に飛びつく傾向は、直感思考を理解するうえで非常に重要であり、・・・この傾向は、自分の見たものがすべてだと決めてかかり、見えないものは存在しないとばかり、探そうともしないことに由来する。・・・システム1は、印象や直感のもとになっている情報の質にも量にもひどく無頓着なのである」(p.129)

 ・・・教育も、とりわけ正田がやっているような教育は、膨大な情報群の中から自分の主張に都合のよいものを選んで提示しているようなところがある。しかしせめてもの良心で受講生さんに情報を批判的に吟味する習慣をつけていただきたいので、出典を明示することは必ずやっている。正田は受講生さんにシステム1オンリーの軽薄な人にはなってほしくないのだ…


●システム1の日常モニタリングにより、敵と味方を見分ける能力。脳の中には、顔の形から支配力を評価する回路があるらしい。政治家の顔写真を学生に見せたところ、当選した候補者の70%が「能力が高い」と評価されていた。能力の評価結果のほうが好感度の評価結果よりも、当落予想としてはるかに当てになった。具体的には、「能力が高い」という評価は、がっしりした顎と自信あふれる微笑の組み合わせが「できる男」という雰囲気を醸し出す。このシステム1の自動的な選好にとくに左右されやすい有権者とは、政治に疎くてテレビをよく見る人たちだった。この人たちは政治にくわしくテレビをあまり見ない有権者の3倍も「顔の印象に基づく能力」に影響されやすい。(pp.135-136)


●感情ヒューリスティック(affect heuristic)。好き嫌いによって判断が決まってしまう。感情的な要素がからんでくると、システム2は自己批判をする番人ではなくなる。システム1の感情を批判するよりも、擁護に回る傾向が強まる。(pp.153-154)

 感情は意思決定の質に影響を与える。脳の損傷などが原因で意思決定前にしかるべき感情が湧いてこない人たちは、感情による重みづけができないため、よい決定を下す能力が乏しい。悪い結果を見越して「健全な恐れ」を抱くことができないのは、我が身を危うくする欠陥といえる。(pp.204-205)


 ・・・当協会の講座では、リーダーの意思決定の質に重大な影響を与える因子として、「感情」を感じるトレーニングを行います。感情コントロールという意義と、正しい意思決定のために正しく自分の感情を感じる訓練と両方の側面があります。・・・


●利用可能性ヒューリスティック(availability heuristic)。記憶に残っていて呼び出しやすいことを過大評価する。飛行機事故は大々的に報道されるので、あなたはしばらくの間飛行機の安全性を過小評価しがちになる。

 ・・・これもよくありますね。「凶悪な少年犯罪は近年増えているか?」との問いに大抵の人はYESと答える。しかし統計を参照すると逆に減っていることがわかる。凶悪事件は話題性があり大きく報道されるので、強く印象に残っているのだ。・・・

 個人的に直接経験したことも記憶に残りやすく、利用可能性が高まる。自分自身のバイアスを意識することで、さまざまな共同プロジェクトがうまくいく。チームで仕事をする場合、自分のほうが他のメンバーより頑張っており、他のメンバーの貢献度は自分より小さいと考えがちである。システム1にうかうかと従う人は、システム1を厳しく監視している人よりも、利用可能性バイアスがかかりやすいことがわかっている。(pp.193-200)


 利用可能性ヒューリスティックは、リスクの評価に大きく影響する。たとえば脳卒中による死亡数は事故(あらゆる事故の合計)の死者の2倍に達するにもかかわらず、被験者の80%は事故死のほうが多いと答えた。被験者の判断は報道によってゆがめられている。(p.203)


●利用可能性カスケード。報道などによりバイアスが政策に入り込むメカニズム。ある観念の重要性は思い浮かぶたやすさ(および感情の強さ)によって判断される。利用可能性カスケードは自己増殖的な連鎖で、多くの場合、些細な出来事をメディアが報道することから始まり、一般市民のパニックや大規模な政府介入に発展するという過程をたどる。わたしたちはリスクを完全に無視するかむやみに重大視するかの両極端になり、中間がない。(pp.209-211)


●代表性ヒューリスティック。トム・W問題(これをあまり詳述すると申し訳ないので割愛)確率を問われた質問に類似性で答え、基準率を無視する。「彼女は今度の選挙で当選するだろう。成功する政治家のタイプだ」とか「あんなにタトゥーを入れていたら、彼は学界では出世しないよ」といった発言には代表性ヒューリスティックが絡んでいる。映画『マネー・ボール』では、「彼は成功する。ケツが大きいから』などと言っているスカウトたちを尻目にブラッド・ピット扮するGMが過去の実績データだけに基づいて選手を選び、チームは少ない予算ですばらしい成績を上げた。

 きちんとベイズ推定を行う基本原則は以下の2つ。
 ・結果の確率を見積もるときは、妥当な基準率をアンカーにする。
 ・証拠の診断結果をつねに疑う。


●「もっともらしさ」による錯誤。これも詳述しないが「リンダは銀行員である」より「リンダは銀行員で、フェミニスト運動の活動家でもある」のほうがもっともらしく見える。そのもっともらしさを確率(もっとも起こりやすさ)と混同する。本来はこの2つは「含む、含まれる」の関係であり、前者のほうが確率は高いのだが。2つの事象が同時に起きる連言事象のほうが「もっともらしく」見え、それだけでシステム2はゴーサインを出してしまった。


●平均への回帰(regresshon to the mean)。叱ることが好きな人には注目の項目。失敗を大きな声で叱るとその次回はうまくなる。ただしそれは叱られて学習したからではなく、平均に回帰しただけである。たまたま平均を大きく下回る下手なミスをしたのは偶然であり、その次はもっと平均に近いパフォーマンスをする確率が高い。ゴルフトーナメントでは、初日にいいスコアを出した選手がだいたいは2日目にスコアを悪くする現象が認められた。2つの変数の相関が不完全なときは、必ず平均への回帰が起きる。

 

●後知恵バイアスは以前にも取り上げた。
「私は『2008年の金融危機は避けられないことを事前に知っていた』とのたまう御仁をたくさん知っている。」
 後講釈をする脳は、意味づけをしたがる器官だといえる。予想外の事象が起きると、私たちはただちにそれに合わせて自分の世界観を修正する。
「人間の脳の一般的な限界として、過去における自分の理解の状態や過去に持っていた自分の意見を正確に再構築できないことが挙げられる」(p.294)
「過去の自分の意見を忠実に再現できないとなれば、あなたは必然的に、過去の事象に対して感じた驚きを後になって過小評価することになる」(p.295)

 ・・・たぶんこのせいなのだろう、「承認研修」を1回ならっただけで自分は人に承認を教える資格があると思ってしまうのは・・・


●結果バイアスが入り込むと、意思決定を適切に評価することがほとんど不可能になってしまう。わたしたちは、決定自体はよかったのに実行がまずかった場合でも、意思決定者を非難しがちである。また、すぐれた決定が後から見れば当たり前のように見える場合には、意思決定者をほとんど賞賛しない。

 ・・・なんど見たことだろう、私から見て尊敬できない人々が「承認研修」を受けた後、(できもしないくせに)「これって、要するに当たり前のことですよね」と言うのは。後日結果を出す人々は決してその手のことを言わない。彼らは承認に近いものを知らなかったわけではないが、しかし承認を新たなものとして「発見」する。・・・


●結果が重大であればあるほど、後知恵バイアスは大きくなる。たとえば9・11同時テロのように悲劇的な事件では、事前に予測できなかった政府高官を、怠慢か、でなければ無能だと決めつけやすい。後知恵バイアスや結果バイアスは、全体としてリスク回避を助長する。


●成功例の分析からリーダーシップや経営手法のクオリティを推定しても、信頼性が高いとはいえない。『ビジョナリー・カンパニー』の卓越起業とぱっとしない企業との収益性と株式リターンの格差は、調査期間後には縮小し、ほとんどゼロに近づいている。(心の声:この本がその後の巻で「凋落」について書いたのは著者らがいかにがっかりしたかということだろう。ちょっと笑えた)企業の成功あるいは失敗の物語が読者の心を捉えて離さないのは、脳が欲しているものを与えてくれるからだ。それは勝利にも敗北にも明らかな原因がありますよ、運だの必然的な平均回帰だのは無視してかまいませんよ、というメッセージである。そして読者の方は、みなそれを信じたがっているのである。

 ・・・日経ビジネスやルソンの壺をみる目がかわりそうだ。結局わたしの仕事としては業績に高い確率で結びつく「モチベーション」を上げる、というところをしっかりやるだけだ・・・


●妥当性の錯覚。本書によれば新人採用やリーダー昇格の資料にするためのちょっとしたゲームやテストの成績などはまったくあてにならない。採用や昇格にあたる人は心したほうがよいようだ。

「人工的に設定された状況で1時間ばかり兵士の行動を観察しただけで、幹部養成訓練や実戦の場で困難に直面したときどんなふるまいをするか、すっかりわかった気になっていたのだ。私たちの予測は平均回帰をまったく見込んでいなかったし、「自分の見たものがすべて」効果だった」(p.308)


●金融業界の「スキルの錯覚」。ある証券会社の個人客1万人が7年間に行った取引16万3000件について、
売った株とその代わりに買った株のリターンを売買時点から1年にわたって追跡調査した。結果は、打った銘柄は買った銘柄より値上がりしていた。大半の個人投資家にとっては、シャワーでも浴びてのんびりしているほうが、へたな思いつきを実行するよりもよい投資方針と言える。

 この研究者らは「投資は富を脅かす」というタイトルの論文にまとめ、平均的には最も活発な投資家が最も損をすること、取引回数の少ない投資家ほど儲けが大きいことを示した。

 また「男は度し難い」と題する論文では、男は無益な考えに取り憑かれる回数が女よりはるかに多く、その結果、女の投資実績は男を上回ることを示した。


 ・・・投資にはうといわたしですがさいごのほうの知見はよくわかる。男はやたら酒飲んで情報交換するが、結局は無益な考えに取り憑かれて失敗しているのをみると、「その情報むだちゃう?」と思うことが多い・・・


●専門家の予測は当たらない、というお話。ミールの「嫌われ者の小さな本」では、訓練を積んだ専門家の主観的な印象に基づく臨床的予測と、ルールに基づく数項目の評価・数値化による統計的予測とを比較し、どちらがすぐれているか分析したところ、専門家の予測はルールに基づくアルゴリズムを下回った。よくて同等だった。

 その後のドーズの研究によれば、アルゴリズムは封筒の裏に走り書きするようなアルゴリズムで十分だ。最適な重みづけをした複雑な計算式に十分対抗できる。新生児の系統的な評価、「アプガー・スコア」はその例。


●この知見を踏まえて、かつ人間の直感をも加味して行ったおもしろい試み。軍の面接では、いくつかの標準化された事実確認質問を用意し面接官に質問させた。意図としては第一印象によるハロー効果を排除した。しかし面接官が自分の直感を遮断して退屈な事実確認質問だけをするのに抗議したので、著者らは譲歩し、「面接は指示通りに確実に実行してください。そして最後に、あなた方の希望通りにしましょう。目を閉じて、兵士になった新兵を想像してください。そして五段階でスコアを付けてください」数か月後、この新しい面接方式が従来の方式よりはるかに正確に兵士の適性を予測していることがわかった。

直感が価値をもたらすこともある。ただしそれは、客観的な情報を厳密な方法で収集し、ルールを守って個別に評価した後に限られる、ということである。(pp.333-335)


 ・・・直感は正しいのか間違っているのか。ようは、裏付けのない直感には意味がなく、必要十分な情報に裏付けされた直感には意味がある。これを高齢者の直感に当てはめていえば、豊富な経験に基づいて意味があるばあいもあるし、そのひとがたまたまある1つの情報に必要以上に釘付けになってしまった場合には間違うこともある。・・・


 
●たとえば、あなたの会社でセールスマンを採用するとしよう。あなたが真剣に最高の人材を採用したいと考えているなら、やるべきことはこうだ。まず、この仕事で必須の適性(技術的な理解力、社交性、信頼性など)をいくつか決める。欲張ってはいけない。6項目がちょうどよい。・・・この準備にかかる時間はせいぜい30分かそこらだろう。このわずかな投資で、採用する人材のクオリティは大幅に向上するはずだ。(pp.335-336)


 ・・・採用を考えている人には非常に重要な示唆だと思うけれど上記のパラグラフは途中を抜いてあります。読みたいかたは本書をお買い求めください。・・・


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 「よい意思決定」にはなんと多くの因子がかかわっていることでしょう。しかし、意思決定をしごとにする人であれば、こうした知見から逃げてはいけません。重要な業務知識です。

 往々にして高い地位についた人は自分の判断力を過信するようになります。一瞥した印象にもとづいて判断する資格があると思うようになります。私ともども気をつけましょう。「システム2」がさぼらないように、引き続き鍛え続けましょう。


 本書の下巻にはこの著者カーネマンのもっとも重要な発見である「プロスペクト理論」が出てきますが上巻について書いたところで息切れしてしまったので、それはまた日を改めて。


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp










 
 
 

 『現世療法』(千田要一、クラブハウス、2013年1月)という本を読みました。


 スピリチュアル系の本と思って手にとったけれどスピリチュアルは一部で、大半は「ポジティブ心理学」の本。


 なんだか出会いだなあ、と思うのは、このところ「コーチングでは救えない人」―問題が深くて、やや「病的」が入っている人―に悩まされていて、そうした「救えない人」にはいくつかパターンがあるのだけれど、本書はちょうどそうした「救えない人」を救済する内容だから。


 それは上司がするのではない、セルフケアとしてすることですが。本人さんが周囲に迷惑を掛けている自分、それはだれのせいにできることではなくて、自分の中に原因があることにまず気づき、こうしたセルフケアの門戸を叩くことが必要です。


 そして、考えてみるとこうした「上司やコーチにとって救済不能」な人は結構な比率になるのではないかなあ、と思います。わたしは管理職の皆さんに深追いはすすめないほうです。

 
 例えばその中の1つは、「完璧主義」でがんじがらめになり、行動がとれず生産性の極端に低い人。

 こうした人々の特徴は、

〔槁犬泙任瞭擦楼貭樟と考える
⊆最圓魘欧譴
L槁犬世韻大事(たとえば、2つ3つ仕事を抱えているとき一番偉い上司から言われたことだけが大事で、2つ目3つ目の仕事はまったくやらないか雑にやったりする)
ぁ崛瓦無か」思考(恐らくこれがあるので、いちどでも叱られるとその仕事は失敗であり、力を注ぐ価値のないものであり、その仕事に集中力を欠き信じられないようなミスを繰り返すようなことになる)
ゼ己防衛が強い
Δ△蘆気群
Ч田勝静的(「ねばならない」思考で柔軟性に欠ける)

 こうした人に対して、本書が勧めるのは

1)快楽を「味わう」
2)マインドフルネス瞑想
3)認知行動療法の6カラム法
4)森田療法

などです。
 こうして要約だけ読んでいるとどうしてそこにつながるかわからないと思うので詳しくは本書をご参照ください。

 とまれこのようにひとつの手法に偏らずかなり網羅的に各症状別の治療法を取り上げているので、押し付けがましい感がなく、納得感が高いとおもいます。

 
 ただあくまで本人さんのセルフケア、もちろん家族が本人さんを引っ張っていくのもありですが、本人さんが「自分には問題がある。治そう」と思うことが前提となります。


 これは受け売りですが、最新の職場のメンタルヘルスケアの指針では.札襯侫吋↓▲薀ぅ鵐吋◆淵泪優献磧爾砲茲襯吋◆豊2饉劼了唆醗紊覆匹離吋↓こ杏専門家によるケア の順になるということで、本人さんはメンタルになりやすさの自覚をもち、セルフケアすることが必要となります。

 たしかに日本人の生まれつきのネガティブ性格もあって、マネジャーの手に負えない、セルフケアが必要な人というのは多いでしょう。

 ただ、自分の性格の偏りを自覚し、それは治さなければならない性質のものだ、と真摯にとらえることも、「勇気」が必要になります。自分の弱さを認めることは勇気のある行為です。本当に「弱い」人がそこに行きつくのは至難のわざで、やはり直属のマネジャーが医療機関やセラピーの受診を勧めるトークの腕が問われそうです。


(そしてまた、病的な人に「あんた病気や」と言うことが許されるのは、恐らく「承認するリーダー」だけであろう。そういう意味もわかっていただけるだろうか。上司自身がバイアスだらけ、問題が発生したときに上司に原因がある場合もかなりある、とういとき、他人に「あんた病気や」と言うことはできないのだ。ここでも結局「承認」の重要性は減らない)


 とまれ、スピリチュアルな装いの本なのは困ったことですが、中身に関していえばそうしたトークが必要な場面で役立ちそうな本です。


 なお本書の著者の他の著書や本書中で引用している文献の出版元が某宗教団体なのはいささか気になるところですが―、ポジティブ心理学自体はちゃんとした学問で、大筋いいものです。本書p.20-21の「ポジティビティ比 自己診断テスト」などはどなたもやってみる価値ありです。かつ正田がそっち系の人ではないのはNPO会員さん方はご存知でいらっしゃると思います。


 もひとつ補足すると―、

 本書の中のもっか最も役立ちそうな部分を上記でとりあげましたが、こうしたセルフケア本、ないしは自己啓発本に特有の、独善につながりそうな箇所も一部にあります。後半の「なりたい自分になる」などは、その人の文脈によっては有効なのでしょうけれども、場合によっては大変はた迷惑なはき違えを起こして周囲との摩擦の原因になる場合もあり、注意が必要でしょう。自己啓発本を読む若い人の層と話してもかみ合わない、というのを正田はよく感じます。(こうした若い人たちは「自己啓発本の著者のほうが上司や正田さんより偉い」と思い込んでいるふしがあります)


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 『野球を学問する』(桑田真澄+平田竹男、新潮社、2010年3月)。

 品切れ状態でしたが思ったより早く届きました。


 ここでは元ジャイアンツの桑田真澄投手と、その現役引退後の恩師である平田竹男氏(早稲田大学大学院スポーツ科学研究科教授)が対談。


 桑田氏の発言は「体罰」問題でよく取り上げられたが、メディアに載るのは「ぼくも小学校のとき体罰を受けたが当時は大した選手ではなかった」という断片的なもので、誤解を招くきらいがありました。


 桑田氏は大学院で「野球道」を研究しようと志しました。なぜ野球界には、後輩いじめ、体罰、長時間練習といった悪しき伝統が引き継がれているのか?

 そこで読み込んだのが飛田穂洲(とびたすいしゅう)という人。1886年生まれ、早大野球部、野球監督から朝日新聞に入り野球記者として活躍、西洋伝来のベースボールを「野球道」と日本的に解釈して、のちの野球界にきわめて大きな影響を与えることになった人物です。

 「一球入魂」「根性野球」「千本ノック」もこの飛田穂洲がつくった。水島新司漫画のファンだった正田にも結構なつかしい言葉です。

 桑田氏が要約した飛田の野球道の柱は3つ。「練習量の重視」「精神の鍛練」「絶対服従」です。1936年にはじまった日本のプロ野球(職業野球)は第二次大戦中には、一時休止声明も出されましたが、飛田はこうした時代背景にあって軍部の圧力から野球を擁護するために、「野球は兵士養成に役立つ」という論理を組み立て、野球を守ったのでした。


 「戦時下であったからこそ生まれた飛田の野球道が、現在の平和な日本でも生き続けていることが問題なんですね。世界は変わったのに、野球は戦時中のまま変わらないでいる。そういう意味では、野球には、まだ戦後民主主義が訪れていないということですね。」(平田)


 ちなみに1968年生まれ、正田より5歳下の桑田氏が小学校時代に受けていた体罰がどんなものだったか。


「ミスは連帯責任なんですよね。で、ひと通り2〜3発ずつ殴られると、全員、顔に手の型が赤くつくわけですよ。そうすると、監督も「これ以上殴ったらまずいかな」と思うんでしょうね。それから誰かがエラーをしたりミスをすると、「キャプテン、来い!」と。ぼくはキャプテンをやってましたから、あとは全部ぼくがやられるわけです。ただぼくは、チームメイトに対して「おまえら、しっかりやれよ!」とは決して言いませんでした。ピーピー泣いている選手もいましたからね、かわいそう、というか…。キャプテンだからしょうがないなと、だまって我慢していました。」


 これが、小学校2年以前に受けていた体罰。3年になってからは6年生のチームに編入され、そこでは先輩からのいじめがあったという。
 高校で強豪のPL学園に進学した桑田氏は、休日で9時間にもなるという長時間練習の見直しを1年生のときに提言、3時間練習しあとは自主練で効率よく練習するという形にした。それがPLの黄金時代をつくる。


 そうした桑田氏は、現代の時代背景に合わせて「新たな野球道」を提言します。

「練習量の重視」⇒「練習の質の重視」

「絶対服従」⇒「尊重(リスペクト)」

「精神の鍛練」⇒「心の調和」


 これら3つの言葉の中心に「野球道」に代わる言葉として「スポーツマンシップ」を置くことを提言したのです。


 「スポーツマンシップ」という、いささか手あかがついたような言葉が、そこでは過去の痛みの記憶の上に成り立つ、血を洗いおとしたあとの清らかで強靭なものとして提示されるのです。

(ひょっとしたら、「コーチング」にも似た意味合いがあるのかもしれません)


 一方の平田氏は、「逆台形モデル」を提示、子どもの頃に例えば野球に親しんだ子が、トップアスリートにならなかったあとも挫折感を持ったり野球を嫌いになったりせず生涯野球に親しみ続け、それを通じてスポーツビジネスや地域とのかかわりなどの広がりを産むことを提言しています。

 
 「体罰」だけにとどまらない、いじめとかしごきとかそれらに耐えてきたプライドとか、日本の変な「体育会体質」そのものを、いまや見直さなければならないときかもしれません。


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 年初からまたパーソナルトレーニング(筋トレ)に通っています。

 以前にも登場した遠藤先生は生徒さんがいっぱいつき、整体院の午前診と午後診のあいだお昼をとる間もなくレッスンをしてはります。


 優れた方々に支えられています。もういちど感謝の念をもちなおさないと。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
企業内コーチ育成協会
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 さて、空気を読むことによる閉塞感、前項でみたようにそれはわたしたち1人ひとりの気質と行動様式によって支えられているわけですが、これを打破するために先人が編み出したきわめて有効な方法があります。


 「会読(かいどく)」。

 江戸時代の多数の学問所や私塾に広がっていた、フラットな関係性の中でのディスカッションによる学習方法です。

 ご存知のように幕末には、この手法を取り入れた吉田松陰の「松下村塾」などが志士たちの育つ揺籃となりました。


 以前にも『江戸後期の思想空間』(前田勉、ぺりかん社)のなかでご紹介しましたが、

 江戸時代、日本人は討論していた―『江戸後期の思想空間』をよむ  #yononakacafe

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51677640.html


 この本の続編『江戸の読書会―会読の思想史』(前田勉、平凡社、2012年10月)が出ていましたので再度ご紹介したいと思います。


 「会読」という手法を最初に取り入れたのは本書によれば、一般に言われている荻生徂徠より伊藤仁斎(1627-1705)がやや早かった。

 伊藤仁斎という人は一旦人嫌いになったあと(今でいうひきこもりでしょうか)再度世俗に戻ってきて私塾を開きました。そういう人らしく、「会読」をはじめても、「同志会」という名で、君臣、師弟というタテの関係でなく「同志」「朋友」というヨコの関係を重視しました。

 そのやりかたは、「講師」がどんどん入れ替わりながら経書をよみ、一同はそれに対して「疑う所」を質問する。荻生徂徠も「疑う」ということを重視していたそうですが、今でいう「クリティカルシンキング」を奨励していたということになります。

 仁斎はやはりこれも一度人嫌いになった人らしく、ディスカッションの中で多弁になること、勝ちたい一心でものを言うこと、ナルシシズムに走ることを戒める言葉を残しています。


 荻生徂徠はまた、会読のディスカッションの効用について、「東を言われて、西について納得する」ということを言っていますが、これは異質の議論に触れることで初めて自分自身を知ることにつながる、という意味のようです。なんとも現代的な含意ではありませんか。

 徂徠は先生の一方的な講釈を批判し、一方的な講釈をきく人は「疑」を持つことがなくなってしまう。そのように教えられた「理屈」は、所詮、役に立たない「ツケヤキバ」だと言っていたともいいます。


 やや時代を下ると、「会読」は、藩校で採用されたり全国各地の私塾でも採用されるようになってきます。中には藩主自らが会読に出席した水戸弘道館、佐賀弘道館などがあり、水戸藩の徳川斉昭のもとでは経書の字句にとどまらず政治的な議論も君臣の序列を超えて行われました。蘭学でも大阪の緒方洪庵の「適塾」などは有名です。

 そこでは議論を通じた熾烈な競争があったため、ややもすると「これは学問の本来の姿ではないのではないか」という考えも出てきました。


 なお会読と「村の寄り合い」はまったく別の種類のものです。

「村の寄り合い」では、1つの案件について、自分たちが見聞して知っている限りの事例が話題に出され、途中、他の話題をはさみながら、出席者らが延々と述べ合い、最後にまとめ役が結論を出して、参加者全員が賛同して決まった。狭い村のなか、参加者それぞれの思惑や利害が複雑に絡み合っているだけに、こうした参加者全員が、いくつかの話題を転がしながら、納得するまで話し合う形式がとられた、それは村の成員すべての疎外感を抱かせないためのゆきとどいた配慮だった、ようです。

 だからそれはディスカッションではなくて、「対話」のほうに近かったかもしれません。アメリカ先住民でもこうした形の話し合いが行われる、「トーキング・スティック」をもった人が延々としゃべり、自分の言わんとしたことが全員に受け入れられたと感じるまで話し続ける、というお話は『七つの習慣』でしたっけ。


 ともあれ会読は主観的な偏見を去って、「虚心」を求める人格修養の場でした。主観的な偏見の独善性を自覚化して、寛容の精神を培うことができるがゆえに、会読は有益な教育方法であるとされました。

 
 ここでやはり、吉田松陰の「会読観」をみてみましょう。


 安政5年(1858)6月に書かれた「諸生に示す」では、


 
松陰は、生徒たちを縛りつける規則を設けず、先に紹介したような…「諧謔滑稽」の自由闊達な雰囲気のなかで、「会講連業」=会読を行うのは、「自得」したことを語りやすくするためだと説いている。松陰によれば、書物(知識)と行動の間、「古」と「今」の間には隔たりがあるので、疑いも生まれる。その疑いのなかで「自得」するところがあったならば、それを自分だけのものにしないで、他者に語るべきである。友人はもちろんのこと、「牛夫馬卒」にも語るべきである。この「諸生に示す」の一文は、少なくとも3つの創見を含んでいる。

 第一は、書物を読む時の疑いが、「書」と「為」、書物と行動との間で生まれるとした点である。中国古代の書物に書かれていることなので、今ここで、行動を起こす時に、本当にそれでよいのだろうかという疑いも生まれるだろう。そこから、主体的・能動的な読みがはじまるというのである。(略)こうした考えが生まれる前提には、書物をたんなる過去の出来事の知識とするのではなく、それを現在の直接行動に結びつける発想があることに注意せねばならない。(略)


 第二の創見は、自分なりに疑いを解決して「自得」するところがあったならば、「沈黙」せずに、それを他者に語ることを積極的に勧めている点である。松陰にとって、会読はまさにそうした各々の「自得」を語り合う場であった。(略)つまり、個々人の道徳に収束されない、他者への働きかけがここから生まれてくる。

 第三は、その「語る」他者が朋友や同志に限られていないことにある。(略)この「牛夫馬卒」にも語る態度は、読書方法における会読と講釈の間にあった間隙を埋めるものとして注目すべきである。

 その間隙とは、会読の討論が原理的には対等・平等であるのにたいして、講釈では講釈者と聴衆との間に上下関係、知者と愚者という上下関係があったことに起因する。・・・(pp.289-292)
 


 行動に結びつけること、他者に語ること、貴賤の別を設けないこと。松陰は会読に一段階進んだ思想を賦与したのでした。


さて、こうした江戸期の「会読」は、それまでの古来の日本文化とも違う、また経書の出所である中国とも異なる、さりとて西洋の真似でもない、鎖国時代の国内のとびきり聡明な人びとが意識的に編み出した手法でした。ほぼ時を同じうして18世紀に、啓蒙時代のフランスでも「カフェ文化」「サロン文化」が生まれたことを思うとシンクロニシティを感じますね。日本では、先生が生徒に「疑い」を言うように勧めること、また議論に火がつくとオレがオレがになるのでそれにも釘をさしていること、などが印象的です。

 こうしたわが国の誇る手法が、現代には、大学のゼミを除いてあまり伝統として残っていないのは残念なことです。

 実務面でいうと、現代では、偉い先生をたとえば東京から招いて講演してもらうと比較的人が集まるけれど、
偉い人がだれもこない「カフェ」をやると非常に集客に苦労する。「講師=智者」と「聴衆=愚者」という色分けのはっきりしたイベントよりも、対等な関係性で討論したほうが学習の質として高く、優秀な人をつくれるのですが、それと集客力とは比例しないのであります。


 というわけで正田は今年も「食えない教育」をやることになるのでしょうか・・・




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 さて、当ブログでこのところみてきた「空気を読む」、これについてつける薬はあるのか?というお話。

 「空気を読む」のは、恐らく山岸氏いうところの「プリベンション(予防)志向」が関連します。

 (決して「人の気持ちがわかる=共感能力」と同じではないことにご注意ください。本当に人の気持ちがわかるなら、「自分自身は個人主義だがほかの人はそうではない」などと他人の気持ちを読み間違えることはないはずです。この点、一部の遺伝子学の本は共感ホルモンのオキシトシンと「空気を読む」「顔色をうかがう」を関連づけていますが、これは誤りです)


 そして、プリベンション志向は遺伝子学でいう「損害回避」とおそらく同じ概念であり、ゲノム的にも日本人には損害回避に関連付けられる「セロトニントランスポーター遺伝子S型」の人が圧倒的多数を占めることなどもみてきました。(そして共感能力や社会的スキルと関連づけられるオキシトシン受容体のスニップは日本人を含めたアジア人には少数派です)


 『遺伝子があなたをそうさせる』(ディーン・ヘイマー他、草思社、2002年、原題'Living with Our Genes'1998)は、比較的初期の遺伝子学の集大成ともよべる本です。


 初期だからといって重要でないということはない。心理学でも、1950〜70年代に確立された行動理論から今も学ぶことは多いです。その学問分野の骨格をつくるものが初期にできることは多い。そこから細分化されていくと、素人がフォローしきれない分野になったりする。

 ちなみに今流行の「エピジェネティクス」は、遺伝子学の中の一過性の流行といっては失礼ですが、その知見をどうやって一般人の世界に有効に適用するか、しばらく見守る必要がありそうです。胎教の重要性など、強調しすぎるとまた日本女性の職場進出を阻む社会的圧力になりかねない。かつ、エピジェネティクス論者の人は「決定論」に異を唱えたいのはわかるのだが、ふたご研究などで行動に遺伝が大きく影響されることは立証されており、エピジェネティクスで動くのはごく一部と考えられます。


 閑話休題、本書は「不安―世界を暗く見る傾向」という章で、「損害回避」という気質について大きな紙幅を割いています。

(「気質」はここではクロニンジャーの考え方にしたがい、生まれてすぐに表れる形質で生涯変わらないものです)

 その記述を引用すると:


 
損害回避という言葉は誤解を招きやすい。この気質の人は損害を回避しようとするだけではないからだ。むしろ、つねに不安で苛立ち、悲観的な世界観ですべてを暗く考え、人生そのものを恐れている。損害回避のレベルがきわめて高い人にとって、人生は暗く、将来には暗雲がたちこめ、毎日は灰色なのだ。

 こんなふうに感じるからといって、必ずしも、その人の人生が難題続きであったり、不幸な育ち方をしたり、虐待されているとはかぎらないし、当人が弱いとか怠け者だというわけでもない。損害回避は遺伝子に深く根ざし、生涯続く感情的な傾向なのである。強い損害回避の気質をもっているのは、自分自身も周囲もすべて暗く見えるサングラスをかけて生まれたようなものだ。

(中略)

 損害回避は不安や恐怖、抑制、内気、うつ、疲労、敵意などを含む総合的な概念である。このような損害回避のさまざまな側面は、ある程度までは独立している。たとえば神経質でも暗くはない場合もあるし、敵意を抱いていても慢性的疲労感はないこともあるだろう。しかし多くの研究によれば、否定的な気分の一つがある人は、ほかのものも経験していることが多い。

 損害回避の一般的な兆候は感情的な過敏さである。感情がいつも日焼けで赤くひりひりしていて、すぐに炎症を起こすようなものだ。損害回避のスコアが高い人は些細なことに落ち込み、明るい気分を押しのけてしまう。罰に対してきわめて敏感で、いつもびくびくしている。食べ物やタバコ、ものの所有への欲求や衝動を抑えられないことが多い。(pp.61-63)



 なんとも気の毒なことですが、損害回避の人は怒りや敵意などを含むネガティブ感情のオンパレードだというのです。また幼児を対象にした実験では臆病な子の唾液からストレスホルモンのコルチゾールが大胆な子の2倍含まれていたそうで、これも山岸氏の「決めたくない人」の知見と一致します。本書などによればこれが気質のなせるわざであり、環境要因はさほど大きくないということで、山岸氏に反論した部分をご理解いただけるでしょうか。おそらく制度をどう変えたとしてもそれをかいくぐる形でプリベンション志向は生き残り制度を形骸化させるはずです。


 こうした人々によって構成されているのが日本人だとすると、なんだか救いがないようです。(たぶん、こうした社会の気風を嫌になった人は海外で就職したりするだろうなあ、と思います。)本書はこの「不安」の章の最後に、「一定範囲までは努力すれば変えられる」と福音のような記述があります。

 
双子を対象にして損害回避の遺伝について研究している心理学者のデヴィッド・リッケンは、こう助言している。「体験の美食家になることです。小さな喜びをせっせと味わえば、セットされている気分のポイントは上がっていきます。おいしい食事、庭仕事、友だちとのつきあいなど、気分をよくする小さなことを見つけて、暮らしにちりばめるのです。長いあいだには、このほうが、大きな成果を達成して一時的に気分を高揚させるよりも、ずっとあなたを幸福にしてくれます」(p.91)
 


 日本人の大部分―これまでのデータではセロトニントランスポーター遺伝子のSを1つでも持っている人は90%以上にのぼります―は、「小さな喜び主義」を励行したほうがいいということでしょうか。

 本書では「承認」に触れていませんが、

(もともとアメリカ人は「承認」という概念をあんまり理解してくれません。うちの英会話の先生のクリストファーに"acknowledgement" というと、"praise?"とききかえされました)


 わたしどもの経験では「指導者やリーダーによる承認」も重要です。たぶんそれはアメリカではあまりにも常識だからさほど言われないのでしょう。日本人リーダーは自分自身も損害回避傾向をもっているはずですから、自然に任せておくと「承認」を出し惜しみしますし、怒りなどのネガティブ感情を多く表出します。


 損害回避の人はリスクを避ける、いわば「義をみてせざるは勇なきなり」を絵に描いたような人です。これも本書にはありませんが行動理論のモデリングを当てはめると、勇敢でかつ蛮勇ではなく総合的に信頼のおける魅力的な人を身近に持っておき自然にその人からの影響を受けることも、損害回避克服のひとつの処方箋になるでしょう。


 「損害回避の日本人」にたいする、もうひとつの処方箋と考えられるものがあります。

 それは次項でご紹介したいと思います。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
 
 

 前項に引き続き「山岸俊男本」を読んでいます。

『リスクに背を向ける日本人』(山岸俊男、メアリー・C・ブリントン、講談社現代新書、2010年10月)。


 これも非常に「日本人」というものを緻密な実験で検証してみせてくれ、面白いです。


 「世界価値観調査」によれば、「自分はリスクや冒険を求めるほうの人ではない」と思っている人は、日本では70%を超え、調査対象国中で最多。(p.22)


 「コミュニケーションがたいせつだと日本人はよく言いますが、日本人のいうコミュニケーションは、『感情』に重きをおきすぎているんじゃないでしょうか。いわゆる『心を通わせる』ことがコミュニケーションなんだ、と」(メアリー、p.33)


 最近の心理学でいう 「プロモーション志向」と「プリベンション志向」。加点法的な考え方と減点法的な考え方という違い。プロモーション志向の強い人は、何かを得ることに向かって行動する。プリベンション志向の強い人は、何かを失うことを避けるように行動する。(p.46)

 ―プリベンション(予防)志向とは、遺伝子学や性格心理学の世界でいう「損害回避」に該当するでしょうか。漢学でいう「小人」もこういう人をいうのかもしれません。(でも日本人では実際に大多数です)


日本の「自分探し」は世間のしがらみから離れた「ほんとうの私」がいるはずだ、「ほんとうの私」に向かって進んでいきたい、という形。それは日本社会のしがらみの強さからくる。世間のしがらみから自由になった生活こそが、「ほんとうの自分」に正直な自分なのだという思い。(p.75)

 ―自分探しは若者にも多いですが中年でもみられます。よく心理学系のワークショップなどで「自分に目覚めた」結果、家族とか仕事の責任を放棄しちゃう人をみかけますが、古来西行法師の例もありますがそれホンマに自己実現かい、とつっこんでしまいます。(なので当NPOのセミナー、研修は極力そういうことにつながりそうな要素を排除して行っています。リーダー研修なのでどちらかというと「すすんで責任を引き受けろ!」という方向性です)


自己決定したくない日本人。「独裁者ゲーム」でお金を分配する側分けてもらう側どちらになりたいか?の問いに、日本人は35%もの人が「分けてもらう方になりたい」と答える。分けてもらう場合は、不公正な分配で取り分が少なくなる可能性もあるのだが。分けるほうには責任が伴う。自分で責任をとらないといけない行動は、どんな場合でもしたくない人たちがいる。できることなら何も決めたくないという人たち。(pp.87-88)

 ここで、「35%」という数字が多いのか少ないのか、残念ながら国際比較した研究はないそうです。ただここでは、メアリーの「アメリカなら大多数が分配する側を希望すると思う」というコメントが挿入されています。

 上記の研究で「分けてもらう方がいい」と答えた人たちは、自律性が低い人たちだということがわかっている。へりくだる傾向が強く、用心深く、リスクを避ける生き方が賢明だと思っている人たち。また、個性を持つことが世の中での成功の邪魔になると考えていた。さらに、唾液に含まれるホルモンをみると、分けてもらう方がいいと答えた人はストレスホルモンの分泌が高かった。(p.88)


 日本人にとって無難な行動は、まわりの人から非難されたり嫌われない行動。よく事情が分からない時には、とりあえずそういう行動をとっておく。そういう行動をとっていると、ほんとうに欲しいものを手に入れることができないというコストがあるけれど、まわりの人から爪弾きにされてしまうという、もっと大きなコストを避けることができるから。(p.100)


日本の江戸時代の「株仲間」は集団主義的秩序形成。法や制度が追いつかないので、自然発生的に集団の中で相互監視した。江戸時代には何回か談合組織だとして株仲間禁止令を出しているが、そのたびに物流が止まってしまった。株仲間なしではだまし放題の社会になってしまうので商売できない。老中水野忠邦が再度株仲間禁止令を出したので経済が混乱し、幕末の騒乱にもつながった(p.114)


「まわりの目を気にする程度」を質問したうえで「囚人のジレンマ」ゲームに参加してもらったところ、「自分はまわりの人の目を気にするほうだ」と答えた人のほうが利己的にふるまった。独立的な傾向の強い人のほうがほかの人と協力することのたいせつさを理解していた。(pp.130-132)


 これは、わたし個人の経験ともよく合致します。まわりの目を気にする人は決して有徳の人とはいえない。とりわけおもしろいことに(全然おもしろくないけど)わたしのような女性の働き手との間の約束を守るかどうか、遅延なく高いレベルで履行するかどうかに、「まわりの目を気にする」度合い、いわば見栄ともいえますが、は関わってきます。「まわりの目を気にするらしき人」は、わたしからみて「信頼するに値しない人」です。




日本の学生はほんとうに質問をしない。おもしろいことに一度、「日本語でも英語でもいいですよ」と言うと、1人の学生が英語で質問をしてきた。自分の質問が他人の迷惑になることを嫌う。英語だと多少気が楽でアメリカ的にふるまえる。
 アメリカでも引っ込み思案な学生は周囲に気兼ねして発言できないので、研究室に来るように言い、クラスで発言できるにはどうしたらいいか話し合う。ちょっとだけ手を挙げてくれたらすぐ気づくから、と言い、プリベンション志向の学生がちょっとしたリスクをとることを励ます。(メアリー、pp.148-150)


 ひじょうに実務的な示唆。プリベンション志向の人にはこうして、懇切丁寧に、「自分の思ったとおり振る舞っていいんだよ」と、その行動1つ1つについて教えてあげないといけない。日本では大多数の人にこれをやってあげないといけません。



「貧困の文化」をどうするか。社会の底辺に置かれた人がやる気を失ってしまう。そういう文化では、親もひどい親だったりするし、そういうふうに育ってきているから自分の子どもにも同じようにしてしまう。
 そこでぼく(山岸)は二宮尊徳のことを考える。大名や旗本の領地に貧困の文化が蔓延して領地が荒れ果てた状態になっているのを、二宮尊徳は努力と工夫次第で結果がちゃんと出るんだというのを実地で納得させ、農民たちのやる気を引き出した。(pp.224-225)

 ここにも「二宮尊徳」が出てきました。貧困の時代のカリスマ?二宮尊徳。以前にも書きましたが森信三先生は、「日本の凋落は2033年まで続くだろう、そして二宮尊徳が復活のときの思想となるだろう」と述べたそうです。



日本の女性は2つの道を選ぶことによって「静かな抵抗」をしている。1つは結婚しないか、結婚しても子どもを産まない。もう1つは結婚して子どもを産んで仕事を辞める。あまりにも多くの女性がこうした選択をしているので、社会の変化が生まれにくくなっている。
 背後には、制度と社会規範が柔軟さに欠けていることがある。良い働き手のイメージが固定していて、良い母親のイメージも固定していれば、2つを組み合わせるのは最初から無理だということになる。(メアリー、pp.241-242)

 上記について、規範が存在するのは幻想ではないかと思う。多くの日本人は固定した父親像や母親像など持っていない。しかし固定したイメージを自分は受け入れていなくてもほかの人たちがそうしたイメージを持っていると思い込んでしまっていると思う。(山岸、pp.242-243)




 統治の倫理は実は統治者に求められている倫理であって、誰もが守ることのできる倫理ではない。統治者がその気になれば利益を独り占めすることができる。だから自分の利益を考えてはいけない。しかし、すべての人に無私の精神を求めるのは無理な話。それよりは、正直に商売をすると結局は自分のためになるんだよという市場の倫理なら、誰にでも受け入れることができるはず。(pp.248-249)

 ここにやはり、「統治の倫理」がリーダー層にはいまも求められるという話がでてきました。対外的には「市場の倫理」ではたらけばよい。

 ・・・そして最後に山岸氏の呼びかけ。


 「社会だとか文化だとか、自分を外から縛りつけているように見えるものは、すべてみんなで寄ってたかって作り出している幻想なんだ。だけど、幻想はみんなが信じているかぎり現実を生み出し続ける。だから、みんなで『王様は裸だ!』と叫ぼうじゃないか」(p.268)


****


 ここから先は、私個人の読後感で、


 「自分では何も決めたくない」人が35%もいる。

 こういう人は管理職になってはいけないだろうなあ〜・・・

 しかし、現実にはそれらしい人をよく見る。自分では何も決めたくない。でも年功序列として管理職になると、それはそれで名誉職としてうれしい。同期や下の代の人が先に管理職になるのはうれしくない。

 でも、部下や関係者は災難だ。こういう人は、

 「だって上から言われたことですから」

 と、何の疑いもない口ぶりで言う。あるいは部下からの聞き取りで上司にもの申さねばならない局面が出てきても、はなから「無理」と一蹴する、提案を聞いたふりして聞き流す。

 
 (なお、関連してあとから思ったことだが、ここでいう「決めたくない」は、独裁者ゲームで分配する側になりたくないということだが、これは細かくいうと「決めたくない」と「他人の喜怒哀楽に関わることをしたくない―他人から文句を言われたくない」ということに分割されるのかもしれない。なぜそんな分割に意味があるかというと、マネジメント上の意思決定を促す思考トレーニングのようなツールとか研修方法もあるのだが、それはあくまで仮想空間の中のことであり、現実に課長などになって部下その他から文句を言われるストレスと同じではない。仮想空間の中の意思決定は、受験勉強のようなノリでもできてしまうのだ。)


 また、こうした層が無視しえない相当数存在する日本では、本来の意味でのリーダーが共感を得にくく足を引っ張られるのもわかる気がする。「決めたくない」人にとって「決める」人は異質分子、異常な人なのだ。こうした人からみる世界は、「自分で決める」人が猛獣のようにうろつきまわっているのだろうと思う。

 こういう国で「リーダー」をやるのは本当に大変だ。


 「空気を読む」
 「決めたくない」
 「変えたくない」


 これらは、本来独立の因子なのだろうと思う。しかし、すべての因子を一身にもちあわせた人も存在するし、「空気を読む」がすべてについて右へならえの要素になるから、これさえ持っていればほかの因子も持っているようにふるまう可能性がある。


 困った人たちだなあ。


****


 大阪・市立桜宮高校での体罰事件だが、今日ぐらいになって、自殺した高校生のお母さんが自殺の数日前の12月19日、問題の顧問に体罰をやめるよう働きかけていたことがわかった。顧問教師はやめることを母親に約束した。
 その結果、その日は体罰はなかったがすぐに再開した。そしてわずか数日後の22日には問題の練習試合での体罰があり、だけでなく「B(チーム。二軍)に行くか」などの恫喝もされた。


 これは、報復、身代わり体罰ではないのか。自分に正論で抗議してきて、体罰をやめると約束させた生徒の母親に対するうっぷんをこの少年相手に発散したとは考えられないだろうか。
 もちろん許されることではない。

 こうしたことが明るみに出ると、起こり得るのは今後、全国のわが子が体罰に遭っているお母さんお父さんが報復を恐れて口をつぐんでしまうことだ。(たぶん、もうとっくにそうなっているのだろうが)




 ―わたしも自分の子どもに対する体罰で学校に抗議したことがあるが、その後の該当の教師たちの子どもに対する態度はかんばしいものではなかった。(体罰は事の性質による、という考えもあるかもしれないが、体育祭の練習のときに砂にいたずら書きをしていた、というどう考えても「微罪」である。ただ当時、その子は体育委員で、体育祭に関する「リーダー」を任されていた)―


 話をバスケ部の顧問に戻して、この教師が教委の調査に対して語ったところでは、

「体罰は強くなるために必須だ。これまで殴ったことで強くなった子もいた。亡くなった子にもそうなってもらいたかった」

 という。


 ここにも指導者にありがちなバイアスがある。体罰までいかなくても言葉の暴力で傷つけるというような、暴力的にネガティブなかかわりをすることが指導に役立つと考える。たしかにそうした刺激に対して強い反発がはたらき、その後伸びるという現象はごく一部の人にはみられる。しかしそれはごく一部で、おそらくストレングス・ファインダーでいうと〇〇をもっている人だろう、と予測はつく。だれにでも起こることではない。

 そして、恐らくこういうことを言う指導者は自分もかつてそのような指導を受けたことがある。快楽物質と言われるドーパミンは、実は決して楽しいときだけに出るわけではなく、痛い、怖い、悔しい、腹が立つといった強いネガティブ感情を経験したときにも出るらしい。〇〇をもっている人たちというのは、そうした経験を成長のエネルギーにする稀有の人びとだが、これは言い換えるとSM趣味と言ってもいい。

 練習試合中、他校の目もある中で少なくとも10〜11発殴るというのはあきらかに常軌を逸しているが、こうした行動は「異常性欲」と同等だ、と考えてもいいのである。おそらく自分でコントロールが利かなくなっているはずである。


 こうした事例をみるたび、やはり「厳しい指導」はあまり表だって標榜するものではない、と思う。厳しさは、何かの拍子にたがが外れて暴走しやすい。また、まれに徳の高い指導者が愛ある厳しさを示し、そのために多くの人が成長した、ということはあると思うが、その指導者の厳しさの部分だけを外形的にコピーした勘違い指導者が代を下るにつれ出てくる可能性がある。


 

 そしてもちろん、この高校の校長や教委は異常なまでに「空気を読む」そして「決められない」あまり、この少年を見殺しにしてしまったのだ、と言っていいと思う。
 体罰の情報に接して、顧問に対する聞き取りだけで調査を済ませた。バレー部の顧問がこれ以上処分されては大変だからと情報を握りつぶした。
 校長や教委の人々の会見をみていても、こちらの見方が結果ありきからかもしれないが、共感能力というものがあまり感じられない。責任よりも結果への想像力よりも、自分の業界内の空気を読むことを大事だと考えるイージーな生き方が表情にかいまみえてしまう。


 この問題についてはまともに考えるとつらくなるばかりなので避けていたのだが、今日は「報復体罰」らしき情報にいたたまれずつい書いてしまいました。


 少年を強豪バスケ部のキャプテンになるようなしっかりしたお子さんに育てたすえ、失ったご両親はどんなお気持ちだろう。心から少年のご冥福を祈ります。

 気丈にも謝罪に訪れた橋下市長に「体罰撲滅の旗振り役になってください」と言ったというお母さん、あなたの心の強さに応える社会でありますように。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 



追記:この記事は2ちゃんねるの「体罰教師」のスレで引用されているみたいです。こういうとき2ちゃんねるは「母親の方が異常」みたいに騒ぐほうが多いのではないかと思うが、今回はさすがに「教師が異常」の大合唱になっている。大津のいじめでもそうですが、「空気を読む」日本社会のほうが異常なので、問題が明るみに出たケースはかなりまともな考え方のご家庭だったのでは、と思います。


 

 年の初めから凄い本に出会ってしまいました。

『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(山岸俊男、集英社インターナショナル、2008年2月)。


 定説を覆す、しかし説得力ある社会心理学の本。著者、山岸俊男氏は北大名誉教授。去年の7月、大津の事件で「いじめ」がクローズアップされたとき、このブログでも同氏の『心でっかちな日本人』から、教室の力関係について、すなわち傍観者の数とそれを変えるダイナミクスについて―最終的には「熱血先生」の存在がカギになる―の考察を引用しました。


 本書は5年前の本ですが、このところの正田の「日本人とは」の論法にもゲノム学以上にベースになり得る本。もっと早く知っていれば良かったです。


 ただ迷いもあって、というのは本書の分析とりわけ現状分析にはおおむねうなずけるのだが結論部分はわたしと違ってしまうこと。そのあたりは後述しましょう。


 著者は、「日本人らしさ」とは生き抜くための戦略(適応戦略)だった、といいます。

 例えば、忠誠心とか愛社精神というものも、決してそういう美徳を備えた国民だからというのではありません。


 
日本のサラリーマンが会社に忠誠心を示すのは、そうやって振る舞うことが日本の社会において最も適応した行動であるからに他ならない―分かりやすく言うならば、会社に対して忠誠心を示したほうが何かとトクをするから、そうしているだけにすぎない。

 (中略)

 江戸時代の武士たちが滅私奉公であったというのも、結局は同じ理由です。「転職」がいくらでもできた戦国時代とは違って、江戸時代では主君を替えるわけにはいきません。子どもや孫の代までも同じ殿様に仕えることになるのですから、常日頃から忠義ぶりを示していたほうが得策だった。だからこそ、江戸時代の武士たちはお家大事、殿様大事で働いていたというわけです。(p.49)


 
 さらに、自己卑下、謙譲の美徳というものも疑わしいといいます。

 日本人が自己卑下傾向を示すのは、そういう態度を取ったほうが日本社会ではメリットが大きいから謙虚にしているだけのことであって、「日本人独特の心の性質」が産みだしたものでも何でもない。要するに「タテマエ」と「ホンネ」を使い分けているだけのこと、もっとはっきり言ってしまえば、日本人の心が欧米人に比べて本当に謙虚であるという保証はどこにもない、というわけです。(p.56)


  この「自己卑下傾向」は単なる「適応戦略」だ、ということを実証する著者の実験が非常におもしろい。日本人の大学生に、普通のやりかたでセルフイメージを問うと「平均より下」と自己卑下的に回答するのですが、質問の仕方を工夫し、「あなたの自己評価が正しければインセンティブを出します」という文を付け加えると、多くの者が自分を平均より上に回答し、こういうやり方でホンネを表出してもらうと、日本人学生の自己評価は海外の学生と変わりなくなってしまうというのです。ただ、普通のやり方で問うと、たとえ匿名であっても、自分を平均より下だと回答したほうが「無難」だと考える、「デフォルト戦略」がはたらきます。


 日本人は、集団主義か、個人主義か。

 『世界の経営学者はなにを考えているのか』にも出てきた有名な問い。山岸氏は果敢にこの問題に切り込み世界で大いに引用されているとのことです。

 著者の実験の細かいところは省きますが、これも興味深い結果として


「日本人は自分たち日本人のことを集団主義的な傾向があると考えているが、ただし『自分だけは例外』と考えている集団である」(p.79)

という結論がみちびかれます。


「個人主義でもいいじゃないか」とみんなが内心思っていても、現実にはいつまでも集団主義が維持されてしまう。その理由は2つあり、

1つは「帰属の基本エラー」。他人が集団主義的に振る舞うのをみると、本当はその人は内心嫌がっていてもそうせざるを得ない事情があるためにそうしているのだが、それをみている人はその人がそうしたい心の持ち主だからそうしているのだ、外的な事情のためではないのだ、と思ってしまう。接客業の人が親切なのはそれが仕事だからなのに、その人が本当に親切な人なのだと信じてしまう。

もう1つは「予言の自己実現」。みんなが内心、「個人主義的に行動したら、周りの人たちに嫌われてしまうのではないか」と思い込んでいると、その思いこみが本当になってしまうという現象。銀行倒産のときなどにも同様の現象がみられる。


 「日本人は本当は個人主義者である」

 このことを証明する実験もあり、・・・1つひとつの実験のデザインは大変おもしろいものなのですが、紹介していると長くなってしまうので、ご興味のある方は是非本書をお読みください。・・・


 「日本人はアメリカ人と比べて、他人を信頼する度合いが低い。」(統計数理研究所)(pp.94-95)
 これについてはおやっと思われる方もいると思うので、設問と数字を挙げておきましょう。

・たいていの人は信頼できると思いますか、それとも用心するに越したことはないと思いますか?
  アメリカ人「たいていの人は信頼できる」が47%
  日本人「同上」26%

・他人は、隙があればあなたを利用していると思いますか、それともそんなことはないと思いますか
  アメリカ人「そんなことはない」が62%
  日本人「同上」53%

・たいていの人は他人の役に立とうとしていると思いますか、それとも、自分のことだけに気を配っていると思いますか
  アメリカ人「他人の役に立とうとしている」47%
  日本人「同上」19%

 ―すなわち、日本人は一見「和の社会」に暮らしているが、内心では「人を見たら泥棒と思え」と思っている。


 アメリカと日本の犯罪発生率の差をみるとかえって不思議な気がする調査結果です。山岸氏によるとそれは「信頼」というものの質の違い。「アメリカは信頼社会、日本は『安心社会』」といいます。

 安心社会とは、言い換えると「相互監視社会」。農村を典型とする集団主義社会では、人々がおたがいに協力しあうのも、また、裏切りや犯罪が起きないのも、「心がきれいだから」という理由などではなく、「そう生きることがトクだから」という理由に他ならないというわけです。


 開放型社会、都市型社会と信頼社会。
 閉鎖社会、農村型・集団主義社会と安心社会。

 以下、この2つの対比がのべられますが、

「この契約書の話がいみじくも象徴しているように、戦後の日本経済はケイレツ、株の持ち合い、元請け=下請け関係、さらには護送船団方式といった、さまざまな集団主義的ネットワークを活用することによって「奇跡の経済成長」を実現させたのでした」(pp.113-114)

 
 日本的なるもの、日本人らしさがもっともうまくいったのは高度経済成長期ではないか。当時の成功体験を今に当てはめるのはもう無理なのではないか。これはこのところのわたしの問いとも合致します。


 では今からどうするか?日本人はどうしたら再生できるのか?というときに、やはりこうしたリアリスティックな現状把握は役に立ちます。とはいえ、これまでの山岸氏の論法の中にも、既に一部に反論したい箇所はあるのですが・・・、


 このあとさらに、「信頼」というものについてのわたしたちの常識に山岸氏は揺さぶりをかけてきて、小気味いいほどです。

 「囚人のジレンマ」などの実験の結果、他人を信頼する傾向の高い(一般的信頼の高い)人ほど、「相手は自分から巻き上げるだろう」など、他人に対する予測を正確に行えることがわかりました。

 「人を信頼する人はだまされやすい」という思いこみがわたしたちにはありますが、それとは真逆の結果になったのです。

 
 一方、一般的信頼の低い人は、相手の振る舞いに関係なく悲観的であり、相手が良さそうな人か悪そうな人かを見極めることなくだれに対しても裏切りを予測したのでした。

 つまり、「信頼度の高い人」のほうが柔軟に人を信頼するかしないかを決めており、しかもその予測が正確なのです。
 「高信頼者」は他人と協力することが生きていくうえで必要不可欠だと考えており、他人とのあいだに協力関係を築こうと積極的に行動します。そこでときには騙されることもありますが、その失敗を教訓にしてまた他者との協力関係を築こうとするので、高信頼者たちは他人の信頼性をだんだん的確にチェックできるようになっていくというわけです。
 

 こうした知見は、「オレオレ詐欺」のようなプロの詐欺行為にはつかえるかどうかわかりませんが、もう少し一般的なビジネスの現場では大いに参考になるでしょう。


 (ちなみにWEBでダウンロードできる山岸氏のべつの論文「他者の協力行動の推測の正確さを規定する要因―魅力度と表情豊かさ―」(心理学研究2010年第81巻第2号)では、人が人を信頼する決め手となるのは「魅力度」と「表情の豊かさ」であり、とくに「表情の豊かさ」を手がかりとしたほうが予測の確度は高いという結果が出たそうです。男性については魅力度を手がかりにすると間違えやすい。これは以前「テストステロン」のところで見た、魅力的で雄弁な弁護士の話にも通じます。また表情の豊かさは詳しくいうと、ポジティブ感情だけでなくネガティブ感情も表出したほうが、「信頼できる人」と判定されたそうです。これはゲームの流れで裏切られたり信頼されなかったりと、がっかりする場面も含まれるときに、詐欺師はつねにポジ感情だけを表出するが、信頼できる人はそこでネガ感情も見せるからだそうです。面白いですネ)


 こうした、他人の信頼性を検知できる能力が信頼社会での適応に不可欠であるとすると、いっぽう集団主義社会では「関係性検知能力」が必要になると本書は言います。いわば「空気を読む能力」ということです。


 若者の間に「空気を読む」傾向が過去にまして蔓延している。グローバル化を迫られ、過去のやりかたで社会適応していては世界から取り残されるというときに。このことは、日本人の「心の道具箱」の再配置が正しく行われていないからではないか、と本書はみます。

 
 もちろん、人間関係の機微を読み取る関係性の検知能力は信頼社会での「サバイバル」には役に立ちません。それはまるで山を登るのにボートのオールを持っていくようなものです。
 しかし、とりあえずそのツールを手につかんでしまった以上、それで何とか問題を解決できないかとしてしまうために、ますます問題がこじれているのが今の日本の状況と言えるのかもしれません。(p.172)
 


 たとえば社の命運をかけて新規事業に、あるいは新興国に進出しないといけない。欧米、中韓が早々に進出し現地と太いパイプを作っている中、自社の意思決定メカニズムそれも「社内の誰それさんがいやな顔をするんじゃないか」レベルのことに神経を使っていたら永遠に意思決定できない。というような話でしょうか。
 あるいは、職場改善のために話し合っている。小手先の「カイゼン」の項目は活発にみんなから提案が出るが、表面的な原因ではない「根本原因」「真の原因」が存在することは一部の人にはわかっている、あるいは下手すると全員がわかっている。でもそれを互いの顔色をうかがいあうあまり言い出せない。そんな風景でしょうか。

 そう、ここにはどの企業も直面するであろう価値観の転換があります。そのことにどれだけ気づけるか、またそれを転換するのはどれほどの労力が必要か、丁寧なプログラム変更が必要かということにも気づけるでしょうか。だめですよ、承認研修1日研修で済まそうとか、1年やったからいいだろうとかいうのは。


 さて、本書の最後に「武士道精神が日本のモラルを破壊する」という、刺激的な章があります。

 ここも本来じっくりご紹介したいところですが長くなりすぎてしまいました。

 かいつまんでいうと、ここではカナダ人研究者ジェイン・ジェイコブスの説をとりあげ、「市場の倫理」と「統治の倫理」、言葉をかえると「商人道」と「武士道」の対比をみせてくれます。本書では前者は信頼社会の倫理、後者は安心社会のそれであるとします。また、この2つはまぜてはいけない、ともいいます。


 
えてして人間は、当地の倫理と市場の倫理という二大モラル体系を合体させれば、最高にして最良のモラルができあがると考えてしまうのだが、実はそれこそが大間違いである。それどころか、この二つのモラルを混ぜて使ってしまったとき、「救いがたい腐敗」が始まってしまうのである(p.245)


 
まぜるな危険。このことも、従来米国型のコーチングを日本に持ち込んだとき、決してすべてではないが一部に奇妙な退廃が起こる。またやや硬質な当協会の価値体系の中に他研修機関の考え方の人が入った時に強烈な反発作用が起こる。そうした経験から、わたしにはわかる気がするのです。


 ではどちらか一方だけを選ばなければならないのなら、本書の論法でいうとグローバル化対応のために「市場の倫理」(日本でいえば心学)だけを選ばなければならないのか?

 リーダー教育からみると、現代でもリーダーには武士道的倫理が求められる部分があるので、話がややこしくなります。このあたりは山岸氏も明確には述べていません。またわたしの属する「教育」という分野も、医療などと同様市場原理だけで動かしてはいけない分野なので困ってしまうことになります。(たとえばの話、だれも分数の計算をできるようになりたくないと思っているときに「分数の計算法」を営業して売り込めるかというと難しいはずです。それは営業して売れるか売れないかではなく、「できなかったら死ぬぞ」という問題なのです)


 ひょっとしたら「承認教育」というのは商人道と武士道、ふたつの価値体系の交差点に位置し、うまく接合点になるものなのかもしれない。買い被りすぎかもしれないが。


 ともあれ学ぶところの非常に多い本で、NPO会員の皆様にはぜひご一読をお勧めしたいです。(そこまで言うことそんなに多くないでしょ?)


 さて、ただ本書の結論や提案部分には今ひとつ賛同できない、というのは、

「空気を読む日本人」
「他人を信頼しない日本人」
「リスクを回避したがる日本人」

をそうさせているのは、社会制度である、として、制度の欧米並みの変更を迫っている点です。

 
 これはタブラ・ラサ論(人は白紙の状態で生まれてくる、生まれたあとの教育で「らしさ」が生まれるのである、とする論)ではないのか?制度さえ変えれば人を変えられるというのは。
 
 制度は、やはりそれを支える「人」に応じて発達したのではないのか?

 というのがわたしの疑問です。

 
 ここで論拠となるのがゲノム学になります。つまり、わたし的に言えば、日本人はそもそも生物学的にさまざまな点で「違う」のであり、日本人がリスクを避けたり他人を信頼しなかったりするのは、生物学的にそのようにつくられているからであり、制度だけがその心理や振る舞いをつくっているのではない、むしろ制度は生物としての日本人に適応する形で発達した、という考え方です。

 ただまた、生物学的な「違い」を言っていると、過去の鎖国パターンや高度経済成長パターンをいつまでも卒業できず、現代のグローバル化に永遠に適応できないではないか、ということになるでしょう。

 ・・・でわたしの結論は「徹底した教育」になってきます。

 ある人に生まれついての「偏り」があるとき。だれにも大抵なんらかの「偏り」があるのですが、それについての教育の対処法は二通りになります。

 1つは、「強みを活かす」ということ。「偏り」を「強み」として見、尊重して心ゆくまで伸ばしてあげることにより本人の自信になり、最終的には全人的成長につながる。

 もう1つは「弱み」のうち、放置していては生存にマイナスとなる部分については教育を通じて克服する。苦手なことも手とり足とり教え込む。時間にルーズな人には、時間にルーズではほとんどのビジネスで生きていかれないということを教え込む。―ただし、イチローの振り子打法を矯正しようとした土井監督と放任し伸ばした仰木監督、のように、なにが「生存にマイナスになる弱み」なのかは慎重な見極めが要ります。―


 このばあい日本人について言うと、他者を信頼する、必要以上に空気を読まず必要な自己主張をする、自己決定をする、ということを、苦手だからこそ懇切丁寧に教え込む、ということになります。それはたとえば「信頼した個人を奨励する」「自己主張した個人を奨励する」「自己決定した個人を奨励する」といった道筋をたどります。
 

 
「徹底した教育」というとファシズムのようでもあり、過去の愛国教育を想起するかたもいらっしゃるでしょう。
本書の著者山岸氏もそうしたやり方に懐疑的です。


 あとは、当協会が「信頼」してもらえるかにかかっていそうです。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 『世界の経営学者はいま何を考えているのか―知られざるビジネスの知のフロンティア』(入山章栄著、英治出版、2012年11月)を読みました。


 「アメリカの経営学者はドラッカーを読まない」「世界の経営学は科学を目指している」「ハーバード・ビジネス・レビューは学術誌ではない」―などなど、冒頭にわたしたちの「思い込み」を正してくれます。


 著者は現役のニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールのアシスタント・プロフェッサー。こういう本、必要だった。


 経営学には3つの理論ディシプリン(流派のようなもの)があると、本書は言います。〃从儚悒妊シプリン認知心理学ディシプリン社会学ディシプリンです。わたしの分野は△鉢にまたがるようなものなんだろな。


 また、「企業とは何か」という問いについても、4つの視点を持っているとします。
 第一に「効率性」―経済学ディシプリン、つまり人の経済合理性を重視する立場ではこの視点が中心です。ここでは、企業とは「市場取引ではコストがかかりすぎる部分を組織内部に取り込んだもの」となります。

 第二に企業の「パワー(力)」を重視する視点。ここでは「企業とはパワーの集合体である」と考えられます。社会学ディシプリンの資源依存理論ではこうなります。

 第三に企業の持つ「経営資源」を重視する視点。(「企業は経営資源の集合体である」)社会学あるいは認知心理学ディシプリンからきます。

 最後に、従業員の「アイデンティティ」を重視する視点。主に認知心理学ディシプリンの研究者が主張しています。「この会社は何をする会社なのか」「この会社が目指しているものは何か」といった企業のアイデンティティやビジョンを社員が共有することが重要である、と考えます。すなわち「企業とは経営者や社員がアイデンティティやビジョンを共有できる範囲のことである」。


 正田はちょいと第三や第四に偏ってるかもしれないな。でも無意識に一や二もやってるのかもしれないな。四は、私にはあまりにも当たり前のことすぎてわざわざこんなふうに列挙してもらうと新鮮な気すらするのだが、ときどきこうして整理してもらうといいのかもしれないな。


 以下、たくさんの興味深い論点が出てきます。

 いくつかをご紹介すると、


◆ポーターの競争戦略論(SCPパラダイム)とはライバルとの競争を避けるための戦略、いわば守りの戦略のことである

◆ウィギンズとルエフリの分析によると、近年では競争優位は持続的でなくなってきている。すなわちハイパー・コンペティションが進展している。

◆ハイパー・コンペティション下では攻めの競争行動が有効になる可能性がある。(p.81)

◆企業のラーニング・カーブ。組織が同じ作業の経験を積むほどその作業効率が高まる。例えば、病院のある執刀チームが同じメンバー同士で繰り返し手術を経験するほど、手術にかかる時間は短くなる。(p.86)

◆企業では、アメリカで学習効果のもっとも高い産業の上位3つは、コンピュータ産業、医薬品業、石油精製業であり、逆にもっとも学習効果が低い産業は、革なめし業、製糸業、製紙業。(p.88)

◆トランザクティブ・メモリー(組織内のだれが、何を知っているかを知っていること)が組織の記憶力を高めるうえで重要である可能性。組織全員が同じ知識を共有することは効率的ではない。重要なのは、従業員の多くが「他の人が何を知っているか」を自然に日頃から意識できる組織づくりを目指すこと。(pp.101-102)


◆ある戦略の効果はその戦略以外の要因が働いていることがあり(内生性)、他企業で成功した戦略をそのままあてはめられない。多くの経営効果は過大評価されている可能性がある。(p.112)

◆モデレーティング効果。企業が多角化から高い業績を得られるのは、その企業が多様な知的資産を有しているときに限る。(p.116)

◆オープン・イノベーションの効果。アライアンスによって知識の幅が広がることが企業のイノベーション効果に与える影響を分析したところ、「ほどほどの知の広がり」が最適であるという結果が出た。幅が広がりすぎるのもよくない。(p.132)

◆アメリカで1つのコミックを出版するとき、通常複数のクリエーターによるチームがあたる。チームのクリエーターが過去に携わったコミックのジャンルが多様であるほど、そのチームは大ヒットか大外れのコミックを生み出す可能性が高い。(p.133)

◆知の探索と知の深化(両利きの経営)。企業組織は中長期的に「知の深化」に偏りがちで、「知の探索」をなおざりにしがち。当面の事業が成功すればするほど、知の探索をおこたりがちになり、結果として中長期的なイノベーションが停滞する(「コンピテンシー・トラップ」、マーチによる、pp.136-137)
(日本企業の得意な「カイゼン」は知の深化にあたるかもしれない)

◆上記に関連して、クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」は成功している企業の経営者・企業幹部ほど破壊的なイノベーションが発生した時それに対応できない現象を述べたもので、経営者や企業幹部の認知の問題としてとらえる。一方でコンピテンシー・トラップはその本質を組織の問題に求める。(p.138)


◆イノベーションの停滞を避けるために、企業は組織として知の探索と深化のバランスを保ち、コンピテンシー・トラップを避ける戦略・体制・ルール作りを進めることが重要である(「両利きの経営」、p.141)

◆ソーシャル・キャピタル。ゞ技佞龍軌薹亳海篷富であったり、算数を教えるのが得意であるほど、受け持った生徒のテストの結果もよくなることがわかった。すなわち教師個人の能力(ヒューマン・キャピタル)は生徒の成績に影響を与えた。△海涼楼茲任篭技佞同僚とグループを作って情報交換を行うのが慣例になっていたが、グループ内での教員の人間関係が親密であるほど、その教師が受け持つ生徒のテストの結果がよくなる。すなわち教師のあいだのソーシャル・キャピタルは生徒の成績を押し上げる効果がある(こういう知見は、マネジャーズ・カフェの効果をうたうにも使えそうですね)6技佞好調と親密な人間関係を築いているほど、その教師が担当している生徒のテストの結果がよくなることもわかった。すなわち、教師と好調のあいだのソーシャル・キャピタルにも生徒の成績を押し上げる効果がある。(p.157)


◆弱い結びつきの強さ。就活を口コミに頼っていた時代、就活に有用な情報は遠い人間関係から得られた。強い結びつきは非効率。(p.159)

◆弱い結びつきの人間関係を多く持っている研究員のほうがクリエイティブな成果を多く残している。(p.166)

◆アライアンスの性質と産業の関係。半導体産業では弱い結びつきのアライアンスを多く持つ企業の利益率が向上し、鉄鋼産業では強い結びつきのアライアンスを多く持ったほうが利益率が向上する。(pp.172-173)

◆日本人は集団主義か。国民性に関するホフステッド指数とGLOBE指数。


◆山岸俊男・北大名誉教授の集団主義と排外主義に関する指摘。集団主義はグループ内の利益を重視するしグループ内のメンバーの結束も強くなる。逆にいえば、グループ内の結束が強ければ、それだけグループの外の人たちとの協力関係を築くのが心理的に困難になる可能性がある。(p.200)

◆自分の所属するグループの外部の人達を一番信用しやすいのは、個人主義であるはずのアメリカ人。逆にアジアの人々はアメリカ人よりも外部者をなかなか信用しない。中でも外部者を信頼する傾向が低かったのは、韓国人、中国人、そして日本人。(pp.200-201) 信頼を築く妨げになっているのは欧米人よりむしろ日本人かもしれない。


◆経営計画(戦略)の立て方として、近年注目されているのが「リアル・オプション」。例えば進出先で段階的に設備投資をするなど、経営資源を小出しにすると、進出先の市場規模の拡大見通しなど不確実性に対応することができる。不確実性が高くなるほど「上ぶれ」のチャンスが大きくなる。(pp.230-237)
(このブログの1つ前の記事のHONDAのバイクから入る海外戦略などは、無意識のリアル・オプションと言えるかもしれない)

◆事業計画を立てるとき役立ちそうな、著者の提言(pp.246-247)。読みたい方は本書をお買い求めください。


◆企業買収額が決まるメカニズム。経営者の「思い上がり」「あせり」「プライド」。(pp.251-262) 

思い上がりプレミアム。過去に買収で高い成果を収めたことのあるCEOが率いる企業は、その後の買収で高いプレミアムを払う傾向がある。メディアが賞賛しているCEO、報酬が高いCEOも高いプレミアムを払う可能性がある。
買収企業のCEOが取締役会の議長を兼ねている場合、社外取締役が少ない場合も買収プレミアムを高める。

あせりプレミアム。買収企業の過去3年間の成長率が業界の平均成長率を下回っていればいるほど、買収プレミアムは高くなる。また過去の成長率、とくに直近の成長率が低いほど、その企業は高いプレミアムを払う傾向がある。

「国家のプライド」プレミアム。中国、インド、ブラジルなどのいわゆる新興国がアメリカ、欧州、日本などの先進国の企業を買収するときには、他のクロス・ボーダーM&Aと比べて平均16%も高いプレミアムを払っている。「自分の母国を代表している」というプライドが高いプレミアムを払わせる?

(本書の中でももっとも人間臭い分析。おもしろい)


◆コーポレート・ベンチャーキャピタル(CVC)。金融機関系でなく、メーカーなど事業会社が社内にもつベンチャー投資活動。イノベーションの探索行動としてメリットがある。しかしベンチャー側にとっては技術を盗まれるリスクがあり、CVCには信頼を得られる行動が求められる。


◆リソース・ベースト・ビュー(資源ベース理論、RBV)。
バーニーの有名な命題は、
・ある企業の経営資源(リソース)に価値があり(valuable)、それが希少なとき(rare)、その企業は競争優位を獲得する。
・そのリソースが、他社には模倣不可能で(inimitable)、またそれを代替するようなものがないとき(not-substituable)、その企業は持続的な競争優位を獲得する。(著者訳、p.291)

上記の命題についてはトートロジー(類語反復)ではないかとの反論が出されている。それに対する反証としての実証研究もあるが、まだこの議論には決着がついていない。


◆現代の経営学の課題。
〃弍蝶惻圓陵論への偏重が理論の乱立化を引き起こしている。
△もしろい理論への偏重が、重要な経営の事実・法則を分析することを妨げている。
J振僂砲發箸鼎統計手法では、独創的な経営手法で成功している企業―たとえばサウスウエスト航空など―を分析できない可能性が残る。
(pp.325-326)

このうち△実務ではよく行きあたる問題で、ある理論がどんなに妥当性があっても、それを普及したり現実の企業に当てはめてもらうには数年〜数十年かかり、かつその間にその理論はみかけ上どんどん陳腐化されていくということが悩みの尽きないところです。
説明して回る中にも、「おや、それは新しい理論だねえ。はじめて聞いた」という人と、「いや、そんなのもう古いでしょう。最近の旬なトピックは〇×でしょう」という人とが混在します。前者はともかく、後者の人に会うとその場での説得はほぼ諦めです。「本当に有用な理論」と、「新しい、おもしろい理論」は違うのだということを理解していただくには時間が必要で、冷静になることが必要です。

そこで次のがあるかもしれない―

◆エビデンス・ベースト・マネジメント。多くの実証研究で確認された経営法則、すなわち「定型化された事実法則」を企業経営の実践にそのまま応用しようという考え。例えば「高い目標を設定したチームのほうが、そうでないチームよりも優れたパフォーマンスをあげる」などがその定型化された法則。これを実際の企業の経営計画や組織デザインに適用することを通じて、その法則の効果を検証したり、その法則の導入プロセスで発生する問題を検証し、そこで得た知見を研究やビジネススクール教育にフィードバックしよう、といこと。(pp.329-330)

うん、多分これをやろうとしているんだと思う。


◆メタ・アナリシス。これまで蓄積されてきた研究結果そのものをデータとして統計解析を行い、その法則が正しいかどうかを検証すること。



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 アメリカのビジネススクールで教鞭をとった後日本の大学で活躍し文筆活動をする学者も沢山いらっしゃいますが、あえて1つの視点に偏ることなく俯瞰した本書のような本はあると大変助かります。

 本書は多くの視点、論点を扱うだけに著者の姿勢が問われます。いわば情報編集者の誠実さが透けてみえるとき、こうした「情報集」のような本は気持ちよく読めます。


 
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『思い違いの法則―じぶんの脳にだまされない20の法則』(レイ・ハーバート著、インターシフト、2012年4月20日)を読みました。


 このブログにもたびたび出てくる「バイアス」というもの、わたしたちの錯覚をもたらすその代表的なものをまとめた本です。

 ここでは、わたしたち自身が日常的におこなっている「ヒューリスティック」という思考法をその「バイアス」をもたらすものとして挙げます。なのでここでは、バイアスの種類を「〇×ヒューリスティック」と呼びます。

 「ヒューリスティック」は、『医者は現場でどう考えるか』という本を紹介したとき出てきました。

 「判断をゆがめるものとの闘い―『医者は現場でどう考えるか』

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51778972.html


 医者だけでなくマネジャーにとっても、「ヒューリスティック」は日々の業務をこなしていくうえで欠かせない思考法、いわば「必要悪」ともいえるもの。とはいえ、それがなす害についても知っておかなければなりません。


 本書には大量の興味深い心理実験が紹介されます(1つ前の記事の『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』と重複しているものも少なからずありました)が、そのうちのとくにわたしにとって興味深かったものをメモ書きでご紹介させていただきます。


●ヒューリスティックは、認知における経験則である。それは頭の中に思考の近道として組み込まれ、直感的ですばやい意思決定や判断をするときに用いられる。・・・ヒューリスティックは、一般的にはとても役立つものだ。私たちは毎日、何百という意思決定をおこなっているが、ひとつひとつを深く考えないですませられるのも、ヒューリスティックのおかげだ。けれどもそれも完璧ではなく、理屈に合わないことも多い。(pp,.12-13)


(大原則ですね。ヒューリスティック、いわば経験則に毎日頼らざるを得ない。でもその落とし穴を知っておいたほうがいい)


●仲間はずれにされた経験をした被験者グループに部屋の室温を予想してもらったところ、常に温度を低く予想し、その経験をしなかったグループとの差は3℃近かった。仲間はずれにされた胸の痛みを思い出すことで、本当に寒く感じた。


●清められた人は嘘をつきやすい。手を洗った被験者のほうがより多く嘘をついた。『あなたはなぜ「嫌悪」するのか』にもあったエピソード。


●大打者ミッキー・マントルは「ボールがグレープフルーツのように大きく見えた」と言ったが、調子の良い(パットがよく入る)ゴルファーは実際よりカップが大きく見えていた。

●あと知恵バイアス(「僕にはわかっていた」シンドロームともいう)。いったん起こってしまったことについて、それは避けられなかったと考えようとする性向。私たちの過去の記憶は、起きたばかりの、より新しく強烈な記憶にかき消されてしまうらしく、そのため私たちは心理学的に、以前どう考えていたのか、自分に正直になることができない。これがあると、失敗から学ぶことが難しくなり、自分の行動について責任を持たなくなる可能性がある。

(この知見はべつの意味で大変おもしろい。研修をしていても、「私は以前から承認を行っていた」と主張する受講生さんによく出会うが、状況証拠がそれと反するばあいがある。研修で学習したり体験したりした結果、それは初めての経験であるにもかかわらず過去の記憶のほうをそれに一致させて「僕にはわかっていた」となった可能性がある。)


●なじみのあるものの方が価値があると感じる(流暢さヒューリスティック)。同じ1ドルでも見慣れた1ドル札のほうがあまり流通しておらず見慣れない1ドル硬貨より価値がある(沢山のものが買える)と感じる。また読みにくい字体で書かれたものは価値が低いと感じる。



●ものまね(協調)ヒューリスティック。2人以上で協同作業を行うときにはたらく。

 「被験者たちは1人のときより、誰かと組んだときのほうが一生懸命で、ハンドルを握る力も強かった。しかし意外なのはここからだ。被験者たちは、1人のときより苦労したのはパートナーがいたからだと感じていた。つまり相棒はまったく役に立たなかったと思い込んでいたようなのだ。実験が終わってから、パートナーは助けになったどころかむしろ邪魔だったと、不満を口にする被験者もいた。しかしその感覚は間違っている。実際に時間を記録したところ、どの被験者も1人より2人で作業したときのほうが成績はよかった。もう1人の力が加わるため、物理的な抵抗を感じるのは事実だが、それでも互いの役に立って、結果的に良い成績をおさめているのだ。」(p.87)
  

(非常におもしろい実験。本書の「ものまねヒューリスティック」という解釈はべつにして、私たちは一緒に仕事をする仲間を「邪魔くさい」と感じるようにできている。客観的には仲間のお蔭で自分もより力を発揮できているというのに)


●自制心は刺激されて増大したり、使いすぎて消耗したりする。空腹なウェイターの気持ちになろうとしていた被験者は、認知能力が枯渇してその後のテストの成績はほかの人に比べてよくなかった。しかしウェイターの自制心を見ていただけの被験者のほうが、満腹なウェイターを見ていた被験者よりも成績がよかった。

(この同じエピソードは意志力の本にも載っていたかも。とまれ、意志の強い人をそばで見ていられるのはいいことだ。)


●近接した点でプライミングされた(頭の中で狭苦しさを感じた)被験者のほうが、さまざまな強い刺激に対する拒否感情が強くなる。心に距離的ゆったり感をもったほうがものごとに寛容になれるようだ。両親、兄弟、生まれ育った町との感情的な結びつきに、心理的な隔たりをプライミングされた被験者はあまり執着を示さなかった。隔絶と孤立は自由の裏返しなのだ。


(アメリカでも小さい町に住んでいる人は一般に保守的で道徳的に不寛容だ。また昔、「大きい家に引っ越したほうがダイナミックにものが考えられる」という「水槽理論」なるものがあったがそれに似ている?一方で自由が本当に幸せなのかという問いもある)


●ある作業を心理的に遠く感じると、すぐに取り組まずに、いつかわからない将来に持ち越してしまう。あいまいでばくぜんとした作業は、具体的な作業に比べて先送りしやすい。

(コーチングの「スモール・プロミスを大切に」というのと同じですね)


●「視点取得」は、「説明能力」にかかわるおもしろい知見。私たちは他人も自分と同じ視点で考えると思ってしまう。クイーンの某曲を逆回しすると「マリワナを吸うのは楽しい」と言っているという噂がある。都市伝説のようなもので、実際に逆回ししても普通はそのように聞こえない。大学生に逆再生した曲を聴かせたところ、ドラッグ礼賛メッセージについて事前に聴いていた学生はほぼ全員が「メッセージが聴こえた」と言い、事前に聴かされなかった学生はそのメッセージが聞き取れなかった。
 さらに、このメッセージについて事前に聴いている学生に対し、事前に聴かされなかった学生が曲を聴いてメッセージが聴こえたと答えるかどうか予測させたところ、「事前に聴かされなかった学生」の視点を取得できず、彼らはメッセージが聴こえたと答えるだろうと予測した。

(研修屋からみた、世間の人々の「説明不足」が起こるプロセスをよく説明している。たとえば、プロの研修講師から受けた研修内容を「社内講師」が次の学生に教えようとする。しかし、プロが学生にわからせるために限られた時間内で慎重に配置したエピソードや理論説明が抜け落ちているために、独りよがりの説明になって「伝わらない」ケースも多い。自分がなぜ、どの説明によって「わかった」と思ったのか、自分が「わかっていなかった」状態から「わかった」プロセスをきちんとコピーしないからそうなる。一般に例えば自分が丸1日とか2日かけて初めて「わかった」ものを、他人に説明してわかってもらおうとするとき、1時間や2時間でわかってもらえると思うのは間違い。)


●幸福を「取り消してみる」と、満足度が上がる。カップルに2人が出会っていないと仮定し、お互いの存在なしに人生を歩む状況を思い描いてもらうと、満足度が上がった。


●アルツハイマー病の患者に自然現象の理由を尋ねたところ、世界は何かの目的のためにつくられていると考えていた。雨が降る主な目的は飲み水を提供するためであり、木が存在するのは影をつくるためであり、太陽は人間を暖めるためだけに存在すると考えていた。これは未熟な子どもたちの思考と同じで、人間の脳はものごとは存在目的があると考える衝動に動かされている。

(上司が「部下はオレを喜ばせるためにいる」とか「部下はオレの出世のために存在する」とか考えるようになったら、自分の認知能力を疑ったほうがいいかもしれない?)


●ポジティブな感情の意義とは。何かを好きになるという行為が思考を形づくり、多面的な思考をし、他人にはわからない違いもわかるようになる。”拡張・形成”理論によれば、前向きの感情は、さまざまな新しい経験に対して心を開く。好奇心や喜びを感じた人はより大きな可能性を見出し、視野が遠く、幅広くなり豊かなメンタルマップをもつ。そして時間がたつにつれて、こうした前向きでオープンな経験が積み重なって、心理的、感情的な回復力が生まれる。恐怖や嫌悪のようなネガティブな感情は捕食者から逃げたり毒を避けたりするのに役立つが、前向きな感情は創造性を高め、知的な活動に従事し、自分のことばかり考えなくなる。そのため複雑なこの社会をうまく泳ぎ、生き延びるのに有利になる。


●ステレオタイプは認知のエネルギー節約のためのツールである。これを遣えば限られた脳の力をもっと有益で重要なことに使える。ステレオタイプに頼れば、他のこまごましたことについて学習能力が上がる。

(「決めつけ」をする人は、その事物や相手を重要だと考えておらず、限られたエネルギーをほかのことに使いたいと考えているのかもしれない。でもそもそも体調が悪くてものを考えるのに使えるエネルギーの総量が少ないのかもしれない。次の項目参照)


●朝に生産性が高い朝型人間と夜にピークが来る夜型人間の2種類の人間がいる。頭の働きがピークでないとき、体調が万全でないときのほうが、ステレオタイプ思考に流されやすい。

(裁判員の人などは要注意。あと当然管理職は二日酔い状態でのステレオタイプ思考にも。)


●ステレオタイプを抑えるときには自制心の領域が活性化する。(つまり、筋肉と同じで使いすぎると疲れてしまうということ?)


●老人に対する失礼なステレオタイプを持っていた人は、まさにそのイメージに合った老人になる。老人は無力であると考えていた人はその後の40年の間に何らかの心臓疾患を経験する可能性が高い。


●制服を着ている人のほうが、病気やけがによる欠勤、通院や入院での回数も少なく、慢性病を抱える人も少なかった。これはおそらく制服で仕事をする人は、服を選ぶという、年齢を意識させる行為をせずにすむから。


●汚れは伝染ると感じられる(黴菌ヒューリスティック)。ヒトラーが来たセーターを着るかとの問いに多くの人はノーと答える。不道徳も伝染すると感じている。マザー・テレサが着たセーターなら多くの人が着ると答えるので、よい本質も伝染ると思っている。しかしヒトラーのセーターをマザー・テレサが着たとしても、汚れは帳消しにならない。

(ネガティブな感情とはそれぐらい根源的で強力なものだ。この部分は『あなたはなぜ「嫌悪」するのか』と重なる)


●死について考えた被験者は明るく前向きな連想をする傾向があった。歳をとって死に近づいていくとき、脳はより明るい情報をさがし求める。さまざまな顔の写真を見せたところ、老人の被験者は明らかに楽しげな表情を好み、怒った顔を見るのを避けた。

(年配の人は優れた直観をもつこともあるが、老害があるとしたら過剰にポジティブで、不愉快な情報から目をそむけてしまうこと。もし問題を正しく認識して対処できなくなったら、意思決定の場から退場するしかないだろう)


●ノスタルジアは孤独感をやわらげる作用がある。ダメージから立ち直る力を意味する回復力(レジリエンス)は、侮辱を跳ね返し、非難や攻撃をかわす能力だが、その回復力を備えた人は、困難への対処法としてノスタルジアを使っていると考えられる。


●死を意識した人は、贅沢な消費をこのみ、欲深くなる。彼らは競争相手を負かし、多くの木を切って、お金を稼ごうとする。自らの不安や恐怖があまりにも強く、生態系や他人をかえりみる余裕がなくなる。


●思想上の脅威は死を思いださせる。大量殺人や大量虐殺の裏には、思想上の脅威による死の恐怖がある。ナザレ(キリスト教の聖地)のイスラム化についての記事を読んだキリスト教徒は、だんだんイスラム教徒ばかりでなく、仏教徒、ヒンズー教徒、無神論者についても否定的になった。

(コーチングや類似の心理学、コミュニケーションの研修機関もそれぞれ一種の思想空間なので、時には相手を滅ぼさんばかりの勢いで攻撃を仕掛けることがある。私は他人のテリトリーに入るときは他人を「尊重」するけれど。自分のテリトリーで散々いやな思いをしているから)



●ウディ・アレンの有名な言葉で、仕事の80パーセントは姿を見せることだ、というのがある(既定値思考)。



これらは本書で紹介されている膨大な心理実験のあくまで一例です。
さて、これらを知っていると私たちは少しは判断ミスをしない人になれるでしょうか・・・


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 『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』(レイチェル・ハーツ著、原書房、2012年10月15日)という本を読みました。

 
 「嫌い」という感情は、なぜ起こるのか。

 って、考えたことはありませんか。何かを強烈に「嫌い」「受け付けない」と感じるとき。何が作用しているんでしょう。

「異国の発酵食品、昆虫食」
「死を想起させる現象、病気」
「ホラー映画、スプラッター映画」
「他人が汚した痕跡」

・・・

「嫌悪の感情は、人間の中枢神経システムを支配し、血圧を下げる。そのせいで発汗量が減り、失神、悪心、吐き気などが引き起こされる。外見上、手足や身体が震え、萎縮し、口からは「うぅ・・・」とか、「うわっ」という声が洩れることもある。嫌悪感情からは、やんわりとした反感から抑えきれない憎悪まで、さまざまな精神状態が引き出されるが、これらにはすべて、その嫌悪感情の原因に対して、そこから逃れようとしたり、排除しようとしたり、そして多くの場合、避けようとする衝動が中核にある。」(p.43)


 私が「嫌悪」という感情に興味をもったのは、たとえば2ちゃんねるのような場で何かに対して(対象は犯罪者でも、時の政治家でも、あるいはリアルのより身近な誰かや同じ掲示板に書き込む誰かに対して)むきだしの嫌悪を表出する人がいる、するとそれを見ているだけで嫌悪の感情は自分にも何となく伝染ってくるのがわかる、からです。


 過去にネット上のコミュニティに参加したり運営したりしても「嫌悪(憎悪や反感をふくむ)」の感染しやすさは特筆もので、またネット上に関するかぎり感染すると不治の病のようなもので、それは一度蔓延すると感染者に全員「お引き取りいただく」しか手がありませんでした。ポジティブな感情で浄化しようとしても、非常に時間も手間もかかりました。
 
 
 本書によると、「嫌悪」の感じやすさ敏感さには個人差があるそうで、「嫌悪に対する感度(disgust sensitivity)」を測る質問紙も載っています。これで高得点の人はまあ神経質というか、いろんなことに「嫌い」という感情をもつことが多いといえそうです。(ネットにだれかの悪口をわざわざ書き込むような人はその傾向がある人なのかもしれません。ただ多くの人の目に触れることによりそれは普通の感性のもちぬしにも感染する可能性はあります)

 
 最も原始的な嫌悪感は、身体にまつわる嫌悪感だ、と本書はいいます。食べ物や飲み物、排泄された尿、おう吐物、痰、唾液、汗、血液、膿や便、身体の変形に関するものです。これらは直接的には「病気」を連想するからですが、より深層心理的に究極には、「死」を連想するからだ、とも。

 また道徳的な堕落や獣性にかかわることも嫌悪をよびおこします。本書ではホモセクシュアルや外国人に対する嫌悪にみるアメリカの保守とリベラルの態度の違い(保守はこれらに不寛容でありリベラルは寛容)をとりあげていますが、わたしはつい「アメリカにおけるホモセクシュアル嫌い」を、「わが国における働く女性嫌い」をくらべてしまいました。―「日本人は『女性嫌い』だ」と言ったのは上野千鶴子だったとおもいますがあんまりフェミニズム寄りにならないようにしているのですがこの意見にはちょっと賛同したくなりました―日本ではそれぐらい、「働く女性」というのはまだ「異形の人」「異端」「不道徳な人」です。


 ある種の病的に「嫌悪感」が強い人は、「強迫神経症(OCD」といい、人口の2〜3%がかかる病気です。レオナルド・ディカプリオもその一人。OCDの人は何にでも嫌悪感を抱き、とくに不潔を嫌う人は1日中でも手を洗い続ける不潔恐怖症になります。嫌悪感は脳の「島皮質」という部位がかかわっていますがOCDの患者は、嫌悪を催すもの(たとえば不潔なもの)を見せられたときに健常者と比べて島皮質の活性化が大きいようです。一方、自分は何にでも嫌悪感を抱くわりに他人の抱く嫌悪感には鈍感、という傾向があります(すべてのOCDではなく、重症の人)。
 また病的な犯罪者傾向のある人、いわゆる「サイコパス」は、他人の恐れと嫌悪の表情がうまく見分けられない。さらに、おもしろいことに、というか困ったことに、東アジア人(中国人と日本人)は、嫌悪と恐れを分類する際にヨーロッパ人より間違えることが多いという実験結果もあるそうで、「思いやりの日本人」のはずが実は他人の不快感に対して鈍感かもしれません。

(これに似ているかもしれない調査結果が共感ホルモンの「オキシトシン」についてもあります)

 
 いずれにしても、「嫌悪」は最終的には「死」を連想させるものに対してはたらきます。

 さきほどの嫌悪感受性の調査で、嫌悪感受性の高い人ほど死を恐れているといえます。

 色々な実験が紹介されますが、ある実験では、「死を想起した後では身内びいきになる」傾向が顕著になったのでした。

「・・・そこでわかったのは、白人の学生が、誰もがやがては死ぬ運命であることを考えるように前もっていわれた場合、まず人種による顔の分類をすることで脳の活動が強まり、白人男性の怒った顔に対してはやや恐ろしいと感じる程度が減少した。言い換えると、死を想起した後には、身内であるか(白人)または身内でないのか(黒人)による識別がより顕著になり、身内の一員からの脅威(怒れる白人)はあまり重要視されなかったのである。人間は死の脅威にさらされたら、自分の殻から出ようとせず、同じ仲間に囲まれ、多くの安全を得ようとするのである。」(p.182)


 (正田注:このあたり「社会」や「組織」を考えるうえでおもしろいと思うのは、例えば「倒産の危機」「国家存亡の危機」といった、自分たちの生存が脅かされる局面になったとき、外国人や女性、障害者といった「異形の者」への違和感が拡大し、差別がエスカレートする可能性がある、ということです。

  また、この実験はアメリカですが、不安感の強い日本人のばあい死への恐怖も強いはずなので、差別的によりなりやすいといえるかもしれません)


 「人類は、肉体的にも心理的にも死の問題から我が身を守るために、何かを苦手に思う感情を生み出したのである。そのせいで私たちは、かさぶたに覆われた傷やブタに似た食べ方や自分の生活を脅かす人々を避けようとする。誰かに嫌悪感を催すとその人を蔑んだ態度をとる。こうした人々によって免れられない死を思い起こさせられたり、いつか死ぬという真理を寄せつけずにいてくれる社会構造や幻想が脅かされると、反発心が生じる。嫌悪感は死に対する拒絶反応だといわれてきた。嫌悪感こそが「今、目の前にあるこれを拒絶する」。あるいは「あなたを拒絶する」と訴える。そうすることによって、拒絶された「これ」が象徴的にも実際にも予感させる、破滅の道に向かう可能性から私たちは守られる。拒絶とは、すべての嫌悪感の裏に隠れている原則的な姿勢なのである。」(p,.184)


 この文章のいう、「拒絶される」という現象もよく経験してきました。「嫌女性」と「嫌コーチング」の両方をみてきたわたしであります。

 後者の「嫌コーチング」に関しては、どこか「近づきたいのに近づけない」アンビバレンツな感情を経営者コミュニティなどで感じてきました。
 それは、「やらないと死にますよ」(私自身はそういう言葉を言ってないけれどそういう匂いを発散しているかもしれない)というメッセージが「死」を連想させているのか、それはもちろん不合理きわまる感情なのだけど、あり得ないことはない。それとも「やっていないリーダーは怪しからん」というメッセージ(これも言ってないけど)が会社というより自分個人の「死」を連想させているのか―。
 それにしても「コーチング」はともかく「承認」を嫌いになってしまうというのは、一生ものの気の毒なことです。


 身体的なことに関する「嫌悪感」は政治的に利用されることもあります。ナチスは、ユダヤ人を病原菌のように表現してドイツ国民の嫌悪をあおりました。こうした手法は大量虐殺のときによく見られるようです。


 最後に、「嫌悪感をコントロールしよう」と呼びかける本書は次のようにしめくくります。

 「人間の嫌悪感情体験は一種の贅沢であることが明らかになった。・・・嫌悪感を催せる特権があるのは、恵まれていることを示すサインだ。・・・生と死の分かれ目が眼前にあったら、嫌悪感にひるんで手をこまねいて滅亡を迎えるよりも、生存のチャンスに賭けるだろう」(pp.328-329)



わたしは上記のフレーズ、好きです。「やらなければ死ぬ」と思ったら、なりふり構わず、汚いものでも食べるでしょう(カニバリズムまで行くかどうかは別として)。わたしは1980年代に1年半ほど、まだ途上国だった中国で貧乏留学生として暮らしたことは自分に役に立ったと思っています。お蔭で(阪神大)震災後に水の入ったポリタンクを運ぶ作業もとくに被害者になることなく淡々とやっていました。女性という「異形」にうまれたことも、きっと何かの役に立っているでしょう。


 本書の読後感としては、当然、今年クローズアップされた「いじめ」の問題も想起します。「キモイ」「汚い」「臭い」と、いじめには嫌悪感を煽るようなフレーズが使われます。嫌悪感が共感をよぶ、それは有害なものを食べたり触れたりすることは死につながるから、と生存本能にもとづいたものではありますが、ナチスと同じ手法を子どもたちが無意識に使用するということを思います。


 なお、本書の中にある有名な実験で、「歯ブラシを共有したくない人」の筆頭は、例示された中では「1位郵便配達夫、2位上司」でした。上司は嫌われる。以前「おいでよ動物の森」の例を引いて「上司は特に悪いことをしなくても嫌われる運命にある」というお話をしましたが、気の毒なことです。そのことがストレスで当り散らす人も中にはいるかもしれません。昇進にともなうお給料のアップはそのことの慰謝料かもしれません。




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 「意志力」をこのところブログで”ネタ”にしていたところ、

 なんと「意志力」をテーマにした翻訳書が立て続けに2冊出版されました。

 アメリカでも「意志力」に悩む(正確には、それの不足に悩む)人は多いようです。


 その2冊とは、

『スタンフォードの自分を変える教室(原題'The Willpower Instinct')』(ケリー・マクゴニガル著、大和書房、2012年10月)

『ヤル気の科学(原題'Carrots and Sticks')』(イアン・エアーズ著、文芸春秋、同)


 スタンフォード対イエール、大学対決でかつ「女性教授の奇跡の授業」と「(男性)天才教授」の対決のようにもみえます。

 個人的には、前者のほうが現代特有の「意志を保てなくなる状況」を丁寧に描きながら処方箋を出しているようで、好みです。
 後者は、意志力のメカニズムを言うのにアメとムチ(とりわけムチ)の効用を強調し過ぎ、著者自身が開設した約束を守るためのサイト'StickK'の宣伝が鼻につくような気がします。あくまで比較すると。


 というわけで前者(『スタンフォードの〜』)の方を主にご紹介したいと思います。


 意志力というものが初めて必要になったのは集団をつくり社会の中で暮らすようになったからだ、と著者は言います。

 自己コントロール力というものはわたしたちの額と目の後ろに位置する脳の前頭前皮質の働きなのだそうです。人類が進化するにつれて前頭前皮質は大きくなり、この部分が脳に占める割合が他の生物に比べて大きくなっています。

 前頭前皮質は3つの領域に分かれ、それぞれ「やる」「やらない」「望む」の各働きを受け持っています。

 
 衝動する脳と衝動を抑えて欲求の充足を先に延ばし長期的な目標に従って行動する脳。

 わたしたちには2つの自己があると著者はいいます。このうち後者の「理性的な脳=自己コントロール力」の自己をどれだけ大きくできるか。これが意志力です。そして、著者は意志力は筋力のように鍛えられる、ともいいます。


「この10年のあいだに神経科学者たちが発見したところによれば、脳はまるで熱心な学生のように、経験したことを見事に学んで身につけるのです。たとえば、毎日数学をやれば、数学に強い脳になります。心配ごとばかりしていれば、心配しやすい脳になります。繰り返し集中を行えば、集中しやすい脳になるというわけです。

 繰り返し行うことは脳にとって容易になるだけでなく、それに合わせて脳じたいが変化していきます。まるで筋肉がトレーニングによって逞しくなるように、脳の一部の灰白質が増強されるのです。」(p.49)



 ―このあたりは「氏より育ち」「脳の可塑性」のことを言っています。「承認研修」のあと「宿題」を課すのも、受講生様に「承認脳」が実践によってつくられることを期待しておこなっています。ただそのタイミングでの受講生様の方向性にどうしても合わなかったら、あるいは遺伝的形質にあまりにも合わなかったら仕方ありません―

 
 そして、「意志力」のトレーニング方法として具体的には「瞑想」を挙げます。1日5分から、自分の呼吸に意識を集中することをすると前頭前皮質への血流を促進し、自己認識をつかさどる部分の灰白質の量が増え意志力が向上していたそうです。


 ダイエット中なのに甘いものを食べてしまいたい衝動を抑えること、つまり「やらない力」を発揮するのは、脳の「休止・計画反応」を起こさせるということを意味します。これは、生きのびるためのもっと根源的な反応、ストレスにさらされたときにすぐに行動に出る「闘争・逃走反応」とはまったくべつのもの、より高次なものといえます。

 甘いものにとっさに手が出てしまう衝動に弱い人かどうかは、「心拍変動」でわかるといいます。つまり、衝動を起こさせるもの―この場合は甘いもの―を見て心拍数がいったん高まったあと、減少するという、この「増」から「減」への変動が高い人ほど衝動を抑える力が強い。高まりっぱなしの人は衝動に弱い人といえます。

 そして、この心拍変動を大きくするためには、「呼吸をゆっくりにする」とよいのだそうです。

 また、軽い運動や「グリーン・エクササイズ」―屋外の自然にふれられることなら何でもかまわない―も意志力を高めるはたらきがあります。自制心を発揮するには多くのエネルギーが必要なので、6時間以上睡眠をとることも重要だそうです。

 リラクゼーションも大事です。ストレスを高めて自分を奮い立たせるようなやり方、例えば締切ぎりぎりまで物事に着手しないとか自分や他人を責めるとかカミナリを落とすとか、は短期的には効果があっても長期的には意志力を弱らせると著者は言います。

「ストレス状態になると、人は目先の短期的な目標と結果しか目に入らなくなってしまいますが、自制心が発揮されれば、大局的に物事を考えることができます。」(p.90)




 本書はわたしたちの意志力を妨げるさまざまなものにも目を向けます。

 「ライセンシング効果」は、非常にうまくできた言い訳のメカニズムです。わたしたちは目標達成に向けて何かの進歩を遂げたあと、それを理由にして(ライセンシング)わるいことをして後退してしまう習性があるのです。「一歩進んで、二歩下がる」です。
 しかもそれは実際に進歩したあとだけでなく、単に良いことをしようと思っただけでも同じ効果が置きます。それでは「一歩も進まず、二歩下がる」です。


 また死を予感させるものに触れると高額商品の買い物をする傾向があるとも。自分をパワーアップさせたいようなのです。


 また現代はテクノロジーによるドーパミン効果が溢れ、スイッチを押せば、画面をスクロールすれば、様々なものが現れます。友人と交流するソーシャルメディア、仮想空間の中で武器を手に入れたり敵を倒したりして得点を稼ぐことのできるゲーム、とドーパミンは出まくりです。こうしたドーパミン装置の前にわたしたちの決心はもろくも崩れます。


 意外なことですが、「ドーパミンは幸福感をもたらすわけではない」という知見も紹介されました。幸福感そのものではなく、単に「快感への期待」をもたらしてくれるだけだ、というのです。報酬系を刺激すると欲望が刺激され、快感が得られそうな予感がして、そのためなら何でもしようという気になります。しかし報酬系を刺激された人々は、決して満足はしません。むしろ何かに駆り立てられたように不安混じりで居てもたってもいられなくなるだけです。依存症の人々はそうですね。

 そうして、報酬系を刺激するものはわたしたちの意志力の障害物になり得ますが、これを味方につけることもできます。著者の授業の受講生たちの中には、面倒な書類をお気に入りのカフェに持っていき、ホットチョコレートを飲みながら片づけた人や、スクラッチ式の宝くじを何枚も買って、片づけるべき場所に点々と置いた人がいたそうです。

 
 ―ちなみに、モチベーション喚起にあたって「目標設定、達成」が重要なのか、それとも「承認」が重要なのか。当NPOの関係者では、「目標も大事だが、その前に承認はすべての基礎になる」という考え方が優勢です。遠大な目標をありありとビジュアライズする実習をすると、人によってはドーパミンが出るかもしれません。しかし、遠大な未来の目標に対して期待が高まってドーパミンが出るのは、やはり身近な行動を1つずつ積み重ね、それを周囲の信頼できる人に「承認」してもらった経験のある人であろうと。

 関連で1つエピソード。過去、よのなかカフェに来られたあるアーティストの方が「今の小学生には夢がない。私は夢があったからこそ頑張れたのに」と話されました。しかし、その人のライフヒストリーを丁寧にきくと、そのアーティストさんは子どもの頃は「他にとりえがなかったが音楽だけはできたので」先生やお母さんにほめられながら音楽をやっていた。ある日小学校の先生が音楽に「5」を、それもほかの成績のよい子から「5」を1つもらう形でつけてくれた。それを励みに一層努力を続け、中学高校になるとお母さんが「この子はほかにとりえがないから音楽だけは頑張らそう」と音大を志願させ、ご本人もその路線で頑張った。「音楽家になろう」と本格的な「夢」をもったのは、どうやらその後のことだった、ということです。―


 そして、意志力の最大かつ恐ろしい敵があります。
「どうにでもなれ効果」。
1つ失敗したら、坂道を転げ落ちるように転落していく、どんどんやってはいけないことをやってダイエットや禁酒禁煙をふいにしてしまう。
 これを防ぐには、「失敗した自分を許すこと」だと著者はいいます。責めても効果はない。


 「いつわりの希望シンドローム」というのもあります。これは、身近な若い人をみていて、あるある、という感じです。失敗して落ち込んだとき、変わろうと決心する。変わろうと決心すると、今度は希望に満たされます。ダイエットを始めようと決心しただけで元気が出たり、エクササイズの計画を立てただけで気分が高揚したりするといいます。まだ何ひとつなしとげていなくても、いい気分になれるのです。

 このところよくある自己啓発本のタイトル「自分を変える」―本書の題だってそうじゃないか、と突っ込みたくなりますが―この言葉を言っている人に自分を変えられる人はいない、というのがわたしの実感です。

 この「いつわりの希望シンドローム」を回避するコツは、自分が失敗することをあらかじめ予測してシミュレーションすることだそうです。

 
 意志力をだめにしてしまうものシリーズでは、最後に、「余計なもののことを考えまいとすればするほど考える」という落とし穴が出てきます。シロクマのことを考えるなと言われると考えてしまう。甘い物のことを考えまいとすればするほど・・・。
 これの対処法は「考えまいとすることを手放す」のだそうな。瞑想の実践にも役立ちそうな考え方ですね。


 意志力の弱さは、伝染る。また、意志力の強さも伝染る。何かをやろうと決心したら良い友達を選びましょう。



 個人的には、やはり否応なくドーパミン装置の溢れている現代にどうより幸福に生きるか、その1つとして「意志力」があるように思いました。

 また、これはやや自慢めきますが、わたしはマネジメントに関する原稿をかくとき「締切に迫られてから慌てて着手する」ことはほとんどしたことがありません。というのは、あまり忙しくないから(涙)という悲しい現実もあるのですが、締め切りが迫りストレスフルな状況では、「書きなぐり」の原稿のかきかたになり、多面的に検証しながら書く態度を忘れてしまいそうだから。一面的な乱暴な表現になってしまうことが怖いからです。でも世間では「マネジメント」について発言される方で結構そういうのをみる気がします。




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「ビジョナリー」ということに関して、不肖私が人生で初めて会った、またこれまで最大の「ビジョナリー」はこの人だろうと思う。


 中嶋嶺雄著『学歴革命―秋田発国際教養大学の挑戦』(KKベストセラーズ、2012年3月)を再読する。


 1990年の大学改革で設置基準が緩くなり、「教養教育」が姿を消した。「大学院重視」の流れで「学部教育の空洞化」が起こった。


 その流れにたったひとり反旗を翻したのが、この人だった。東京外国語大学学長時代に教授会の保身装置化に悩み、改革をしたくてもできなかった、その体験をバネに、「国際教養」を掲げた全英語の大学を秋田につくってしまう。

 今、「大学教育に教養を」とこぞって言いだしているのはそれが「就職率100%、超難関大学」ととんでもない成功を収めたからである。


 東大の「秋入学」が話題だが、それも先鞭をつけたのも国際教養大学だった。セメスター制をとり入学式も卒業式も春、秋の2回する。



 中嶋氏の「先見性」は、「ダメになった日本」の現実をいち早く直視し、だれもその必要性に気づかないうちに最も先進的な大学をひとつ作ってしまったところにある。


 「・・・アジア諸国は相当早くからグローバル時代の到来を意識していました。韓国や台湾などはもともと国内需要のボリュームは決して大きくありませんし、中国はその時点ではまだ国内の経済格差がひどくて全体では貧しかったですが、いずれの国もいわば自国だけで賄える経済にはとうに見切りをつけていました。

 しかし、経済大国であった日本は、アメリカに次ぐGDP世界第2位であることに驕っていました。この間に日本は内部的な格闘というか、自己超克的なプロセスを見過ごしてしまったのです。特にこの20年間はまさに失われた20年、それどころか落ち続ける20年だったと言えるでしょう。いまになって、戦後の高度成長期の成功体験にとらわれてきたことへの反省が語られるようになりましたが、遅きに失しました。そのことでもたらされた社会の歪みが現在、いろんな局面で大きく噴出しているのです。」(p.27)


「しかしそれだけの経済破綻を経験しても、それ以降、次の社会に向けて目指すべき政策や事業の目的、目標が立てられなかったのです。来たるべき次の時代に向けての創造的な試みはなく、まさになんの理念も生まれなかった20年でもあったのです。」(p.28)


「ともかく新卒は大学さえ出てればいい、大学で下手に勉強なんぞしてくれていないほうが助かる、というように社会全体がある種、大学での教育を軽んずるような風潮がありました。これは大学に対する企業のアプローチが間違っていたのだと思いますし、やはり驕りだったと思います。そのことによって日本は、知的蓄積へのたいへんな痛手を受けて、今日に至ってしまっています。」(同)


「グローバルな企業間競争の時代に入った今日では、企業の実情は、当時とは正反対になりました。明日をも知れぬビジネス環境の変化に対応するのに必死で、企業に余力がなくなり、新卒の新入社員を一人前に育成することがなかなかできない環境に置かれています。景気の退行が止まらず、多くの企業がむしろ人減らしをするなかで、ようやく新陳代謝のために人を採るというのが雇用の厳しい現実です。そのため、すぐにでも戦力となる人材が必要なのです。」(pp.28-29)


 中嶋氏の過去の中国政治学の本(晦渋をきわめた)にくらべると平易な日本語で書いてありますが、これらは同時代への真摯な反省であり、憤りであり。何より単なる評論ではなく、これらの思考に立脚してひとつの大学、ひとつの教育プログラムをつくりだしてしまったのですから。

 文章のなかに何度か「驕り」という言葉が出てきます。そして「謙虚」「真摯」。これは「驕り」と対極にあるもの、と考えてよいのでしょうか。このところ「真摯」とはどんな脳のはたらきなのだろう、としきりと考えるわたしです。とにかく、もうバブルの夢に酔ってる時期じゃありません。その時代にいい思いをした人も目を覚ましてください。


 そして「リベラルアーツ」の重要性。


 中嶋氏の最近講演したレジュメには、『フロム・マックス・ウェーバー・トゥ・スティーブ・ジョブズ(From Max Wever to Steve Jobs)』とあるそうです。うわ〜、スティーブジョブズ出しますか。


 リベラルアーツこそはインスピレーションの源だ、と述べ、

「情熱はいわゆる『霊感』を生み出す地盤であり、そして『霊感』は学者にとって決定的なものである。」(マックス・ウェーバー「職業としての学問」)

「われわれは科学技術とリベラルアーツ、つねにその交差点にあろうとしたからだ」
「私たちは技術的に最高のものをつくりたい。でもそれは直観的でなければならない」(スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツとの論争より)

と引用します。

 いくつか前の記事での「イノベーションを産む思考法を教えるには」というテーマ、「企画力研修」といった生易しいものではなさそうです。リベラルアーツという何年もかかる深いものが源になる、と言っているのですから。



 「サンデー毎日」2012年9月12号の特集「進路指導教諭が勧める大学」のランキングでは、開学8年のAIUは
「面倒見が良い大学」3位、
「就職に力を入れている大学」7位、
「教育力が高い大学」4位、
「改革力が高い大学」6位、
「入学後に生徒を伸ばしてくれる大学」2位、
「小規模だが評価できる大学」1位、
「偏差値や地理的、親の資力などの制約がない場合、生徒に勧めたい大学」国公立6位。

そして
「国際化教育に力を入れている大学」では堂々の1位。


 全寮制、オール英語教育、大量の宿題、そして留年率も高いという環境は―、

 いささか身もふたもない言い方だけれど、今どきのやれネットだゲームだと寄り道する先の多い若者にとって、これは事実上ITひまつぶしをする時間を取り上げられているようなものである。もちろん、学生たちはPCもケータイも持つのは自由だ。しかし事実上それで遊ぶひまはない。


 現代でこれだけストイックな環境に置かれ、ピュアに努力することを求められるというのは、ある意味幸せなことではないだろうか。


 「浪人してでもAIUに行きたい」などと、合意の上でその環境に身を投じた若者たちは、その20歳前後の若い脳を、知的刺激に、また異質の体験にとフル回転させる。それは日本で他所にないエリート養成の場である。


 それは、この「内向き」で「依存的」で「前例踏襲的」で・・・という日本社会に懐疑の念をもち、自分は強くありたいと志向する一部の若者にとっては格好の受け皿だったはずでもある。


 ・・・などと思いながら、あすその恩師・中嶋嶺雄学長に半年ぶりにお会いすることになりました。

 

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NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」に、この人発達障害?という人が出てくる。


 主人公の梅ちゃんの元同僚で、梅ちゃんと過去には結婚寸前まで行った、「松岡先生」。


 イケメンなんだけど研究熱心なあまり言動が頓珍漢で微妙に可笑しい。このタイプの人が重要人物として出てくるのは珍しく、発達障害かそのボーダーラインの人が今の時代増えていて、付き合い方を模索せざるを得ないからだろう、と思ってみている。


 一部の発達障害、あまり差別的な言い方をしたくないのでここでは「超男性脳」とよぼうと思う。(これも差別的だろうか)


 このタイプの人は、松岡先生のように中には非常に仕事で有能な人もいる。一方で「感情」を感じるのが苦手。

 自分の感情のはたらきがわからない。「見合いに失敗して、ショックだから仕事のほうを頑張りすぎて暴走したのではないか」と周囲が推測しても、「いえ、そんなことはありません」とかぶりを振る。そして他人の感情のはたらきもわからない。「○×先生は、信頼する部下に裏切られてショックだったと思うわよ」と梅ちゃんに解説してもらって初めて「そうだったのか」とわかる。


 松岡先生のように、他人に説明されて「そうですか」「そうだったのか」と納得したり、少なくとも怒り出さないのはまだ非常に筋のよいほうである。多くの自覚のない「超男性脳」の人は、「感情」というものを小馬鹿にする。それは、自分の苦手科目だからである。本人に感情が「ない」わけではなく、客観的には非常に感情的に振る舞うことも多々あるのだが、そこに自分の感情が介在していることを認めたがらない。手前勝手な論理を振り回し論理の問題にすり替える。(「言ってること、めちゃくちゃ」っていうのもよくある)また「他人が悪い」と他責になる。


 多くのパワハラリーダーにはこの問題がある。超男性脳ゆえにフォロワー時代は有能なのだが、リーダーになって他人の感情に配慮しながらチームを引っ張ることができない。こういう人をコーチングで治せるかというと、非常に困難。もしどうしても治したい場合には、発達障害の治療法というか援助法のようなやり方での介入が必要になるだろう。つまり、診断を受けてもらい周囲にどんな問題が起きているか詳細な現状認識をしてもらい、そのうえで援助を受けてもらいTPOに応じた適切な行動を学んでもらう、というような。
 パワハラリーダーには酒や鬱の問題、高血圧、若年性認知症、ご家庭の問題なども複合していることが多いが、その根っこをたどるとご本人のこうした先天的な能力の偏りがからんでいる。


 かつ、恐らくIT時代には、中年期以降にITにはまり込んで後天的に「超男性脳」的になった人も少なくないだろう。
とこれはわたしのくらい予感。


 
 先日は医療機関で研修をさせていただいたが、医療機関というより悪い意味での公務員さんの集団に近かった。女性でも「超男性脳」的な人が相当数混在し、コミュニケーションについて障害に近い能力の低さがある。共感能力が低いので人の話を聴いて理解することが決定的に苦手。しかし自分のその方面の能力の低さを自覚しておらず、他責にすり替える。そうして組織全体に疲弊と悪感情が蔓延する。一部の優秀な人に負荷がかかる。


 そしてリーダーはよくあるように「ポジティブ」で、職員のそうしたソーシャルスキルの低さを障害と関連づけて考えることができておらず、コーチング研修で治ると単純に考えていた。
「いや、彼女は能力と責任感の高い人ですよ」と、ある「聴く能力」の決定的に弱い人について言った。恐らく数字の計算や書類仕事はコンピュータ並みによくできるのだろうが、何ができて何ができないのか、こうした人々には細分化した理解が要るのだ。
 (そうした他人の能力に関する細分化した理解、というのをコーチングや「承認」の応用形と考えることもできる。ただそれにはかなりの訓練期間が要り、遊び半分の2時間や3時間の研修でできることではない)


 そしてポジティブなリーダーは、よくあるように、研修の事前説明をろくにしておらず、

「組織の現状がこういうふうだからそれを直すために研修をする。このことの成否は皆さんの学習に依存する。しっかり学んでほしい」

という説明をしていなかった。そしてポジティブな人がよくやるように、冒頭あいさつで私を「先生」ではなく「さん」と呼び、「皆さん、まあ軽い気持ちで学んでください」と言ったのであった・・・


 見事に「だらっ」とした、椅子の背もたれによっかかって、よだれを垂らしかねない弛緩した表情の受講生が出来上がったのは言うまでもない。

 ―人が人を見下す表情というのは、観察していると見っともない、美しくないものなのだ―


 つい2か月ほど前にもブログに書いたが、ダメな主催者あいさつ、ダメな講師紹介をしてくれるぐらいだったら、一切その手のものなしで、私自身から話しはじめ、自己紹介もしたほうがよいのだ、オープンセミナーのように。


******


 『光圀伝』(冲方丁、角川書店)。大部でしたが一晩で読めました。

 ちょうど姫路師友会でも、「大日本史」の編纂について話題になったところ。


 非常にさわやかな読後感。


 このなかには心からの賞賛がある。認める言葉がある。感謝がある。試すための問いかけがあり、認める表現としての相談がある。

 これまでの歴史小説のように、言葉をけちったりはしょったりはしない。


 そして多くの「師」や「コーチ」が出てくる。


 そして聡明な女性たちが出てくる。女性も学問をし、高度な詩や歌をつくる。男性の相談相手になり、対等に議論する。詩会は男女同席で行う。


 司馬遼らの世代の歴史小説にはなかったことなのではないか。作者は1977年生まれ。


 
 多くの中高年男性は歴史小説をモデリングする。維新の英雄や戦国武将たちの立ち居振る舞いを無意識に真似る。

 (ある、「決断依存的」で「変化が大好き」で「説明不足」のポジティブリーダーは、『竜馬がゆく』が愛読書だった)


 こうした歴史小説の登場を契機に日本の中高年男性の行動様式が変わってほしい、と願わずにはいられない。
 
 
*****


 ものづくり現場のかたがたから宿題が返ってきている。微笑ましい事例のかずかず。

 出来る限りすぐにコメントをしてお返事する。

 研修後1週間の今の段階では、まだ1つ1つ「微笑ましいエピソード」にとどまる。でもその集積が大ホームランになっていく。


 ある受講生さんは、宿題以外に会社に提出した「研修報告書」を参考に送ってくださった。

「今回の研修を通してコーチングの重要性、コーチングにより人材を上手活用し、企業の業績向上へとなる
よう進めて行きたいと思います。」

 という嬉しい言葉があった。


 振り返って、受講生さんたちのコミットメントの高さは、もちろんご本人様たちが元から持ち合わせていたものでもあるが、それ以外に主催者の冒頭あいさつのインパクトも大いに作用しただろうと改めて思う。

 世の中には受講生や講師をガクッとさせる冒頭あいさつもあるし、反対に奮い立たせる、追い風になる冒頭あいさつがあるのだ。
 変に「自分は賢い」と思っている人が、人をガクッとさせる冒頭あいさつをすることがある、それは言葉の中にどうしても「講師より賢い自分を見せたい」という裏の感情が入り込むからである。
 一方でそれ以上に賢い人は、自分が講師より優位かどうかなどは脇に置いて、講師に良い仕事をさせるよう場全体の空気づくりに努め、「場の目的は何か」ということから外れない。それができる人は、私がみてきた中にそうたくさんはいない。



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