正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ:学びに感謝 > 研修副作用関連

あの日


 小保方晴子さんの手記『あの日』(講談社、2016年1月)の読書日記 第5弾です。

 前々回、前回の2回で、小保方晴子さんは「発達障害」なのであろう、こだわりの強いASD、さらにその中でもIQの高いアスペルガー症候群の中の言語能力の極めて高い人であり、さらにミスが多くぼーっとしやすいADHDも組み合わさっているだろう、ということを書きました。
 そして残念ながら家庭環境、すなわちお母さんとお姉さんが心理学者であるという環境がそれを助長していたろう、とも。 

 今回の記事では、そうした小保方晴子さんが成人してから影響を受けた、ひょっとしたら現在も影響を受けている可能性のある、心理学セミナーやカウンセリングの害について取り上げたいと思います。
 えっ、職場の対応法を書くんじゃなかったのって?すいません、その前にちょっと寄り道です。

 そして例によってお忙しい現役ビジネスパーソンのために、この記事の骨子を最初に挙げておきます:

●「小保方手記」に登場するような感情表現を学べる場がある。一部の心理学セミナーでは、「身体が―」「内臓が―」といった身体表現を伴う感情表現が奨励される。
●身体表現を饒舌に駆使することを学んだ人々は、表現力を手に入れる代わり被害者意識が強まる。メンタルが弱くなり持続力がなくなる。言い訳が多くなる。
●視覚・聴覚・体感覚に訴える言葉を使うことで聴衆に訴える力を磨く心理学セミナーもある。そこでは同時に「目標達成」を奨励し、過去にも「目標のために手段を選ばない」人をつくっている
●心理学セミナーにかぶれた若い人について、職場運営実務における提言⇒本文参照
●小保方さんへの提言

     
 すごーく要らんお節介かもしれない記事なんですけど、なのでご興味のない方は読み飛ばしてくださればいいんですけど、わたしの過去アーカイブの中に、教育によって「小保方さん的症状」を呈した人は何人も出てきているんです。何がどう作用してそうなったのか。因果関係を知っていると、やっぱり大人として1つ階段を上がるかもですよ(うそうそ)

 そしてもちろん、われらが小保方晴子さん自身がが現実を受け入れ、社会で再び自分の道をみつけて地に足をつけて生きていかれるためにも、こうした一見よさげな心理学セミナーの害をご指摘しその影響をオフにすることは、大変重要なプロセスであろうと思います。多くの人はまだその害をご存知ありません。

 では、やっと記事の中身に入ります・・・。

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●感情表現は心理学セミナーでつくれる!


 この本、『あの日』の後半は希望にみちた前半と異なり、一気に暗転します。小保方晴子さんは、論文の共著者に裏切られマスコミのバッシングを浴び、残酷な運命に翻弄されます。みているこちらの胸が痛くなるほどです。
 そこの事実関係はここでは置いておいて。

 ここに出てくる「表現」について見てみたいと思います。多くの識者、コメンテーターの方が、小保方さんの「表現力」を絶賛されます。

 この後半のくだりでは、「苦しみ」を表す感情表現が大量に出てきます。
 少し引用してみましょう:

「驚きのあまり全身の温度が下がり、パニックになってしまった」(p.143)
「申し訳なさで胸が張り裂けそうだった」(p.144)
「鉛を呑み込んだように大きな不安を抱えた」(p.145)
「すべての内臓がすり潰されるような耐えがたい痛みを伴う凄まじいものだった」(p.148)
「体が凍りついた」(p.203)
「ただただ恐怖だった」(p.205)
「押し寄せる絶望的な孤独感が心の一部をえぐり取っていくようだった」
「小石を1つずつ呑み込まされるような喉のつかえと、みぞおちの痛みを感じ、息苦しさは日を追うごとに増していった。」(p.216)
「毎日、着せられるエプロンは、レントゲンを撮る時に着せられる鉛の防衣のように重く感じられ、体を自由に動かすことができなかった。」
「身動き一つ制限されることへの精神的な負担が、肉体的な痛みだけでなく、思考力や記憶力までも、少しずつ奪っていった。」
「熱く焼けた大きな石を呑み込み、内臓が焼け焦げているようだった。」(p.224)
「(検証実験中)体中が痛く耐えられない。皮膚が裂けるように痛い。内臓が焼けるように痛い。頭が割れるように痛い。何より魂が痛い。魂が弱り薄らいでいくようだった」(p.226)
「突然の質問がシャープに耳を通り抜け、脳に突き刺さった。」(p.230)
「ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。」「虚無感だけが、あふれでる水のように、体内から湧き出して体を包み込んだ。」(p.232)
「ギプスでカチカチに固めた心が研ぎ澄まされたカミソリでサクッと半分に分かたれるのを感じた。」(p.236)

 いかがでしょうか。
 1人の人が、生きたまま内臓をすり潰され小石を呑まされ脳に突き刺さり研ぎ澄まされたカミソリで半分に分かたれ…、
 なんて、ひどいんでしょう。むごいんでしょう。
 わたしも、もらい泣きしてしまいそうです。
 小保方さんの肉体は、これが本当なら既にこの世にないはずです。

(しかし「内臓をすり潰される」ってどんな感覚なんでしょう・・・実験では、マウスの内臓をすり潰すことはしょっちゅう小保方さん自身がなさっていたのではないかと思いますが・・・こういう主語の転倒、「投影」あるいはその逆のような現象が小保方さんやその擁護派の方々にはよくあります)


 この方、小保方晴子さんがもしASDだとすると、一般にASDの人は脳の中の恐怖を司る部位、扁桃体が普通より大きく、恐怖を感じやすいといわれます。人一倍怖がりさんなんです。トラウマも残りやすいです。そのことは特記しておきたいと思います。

 また、ASDだとすると、「知覚過敏」がひょっとしたらあるのかもしれません。小保方さんは視覚もかなり鋭敏ですがそれだけでなく、こうした内臓の感覚もとても鋭敏な方なのかもしれません。(だとしたら食べ物も刺激の少ないものだけを選んで食べなければならず、不自由なはず。とてもラーメンの替え玉なんて食べてる場合じゃないはず。大丈夫ですか小保方さん!!!)
 また、経験的にも、ASDの人は内臓が弱い人は多いようだ、ある程度以上負荷をかけると内臓の病気を起こしてしまいやすいようだ、というのも思います。

 そうした「ASD的恐怖心と知覚過敏要因」も可能性があるとして。

 実は、こうした「内臓がどうのこうの」という種類の感情表現が、奨励され、量産される場所があるのです。そういう表現をしなさいと指導する場所があるのです。と言ったら、読者の皆様は驚かれるでしょうか。いえ、作文教室ではありませんよ。

 それは、一部の心理学セミナーの場です。詳しくいうと、わたしが経験したのは某コーチング大手研修機関です。コーチングというよりカウンセリングの要素がかなり入っていて、わたしはその研修機関をこのブログで長年批判してきました。カウンセリングの中でもかなりディープな、その場でクライアントを傷つけてしまう危険性も長期的副作用もある手法をど素人にやらせている、と言って。はい、わたし自身もそこのワークショップの手法は一通り学んでいます。3日間連続のワークショップが基礎から応用まで5回、計15日間のプログラムです。

 そこでは、4回目に「感情」にどっぷり「浸かる」3日間のワークショップがあります。
 どんなかというと…、
 ちょっとその実例をご紹介しましょう。

 最初に、リーダー(インストラクター)がお手本をやってみせます。
「何かをしていて、『自分の心に引っ掛かりがある』」という意味のことをクライアント役のリーダーが言う。
もうひとりのコーチ役のリーダーが、
「ほう、その引っ掛かりとはどんなものですか?」
と、そこに着眼してきく。最初のリーダーが答える。
 すると、コーチ役は
「それを言っていて〇〇さんは、どんなお気持ちですか?」
と再度尋ねる。
「ちょっと嫌な感じです」
「ちょっと嫌な感じ。それは体の感じで言うとどんな感じですか?」
 最初のリーダー、沈黙。自分の身体感覚を探っているのでしょう。
「…こう、胃のあたりに小さなトゲが刺さっているような感じです」
 さあ、「身体感覚語」が出てきました。
「なるほど。では〇〇さん、そのトゲが刺さっている感覚を、ラジオの音量を最大にするような感じで、思い切り強く感じてみてください」
「・・・」
 しばしの沈黙のあと、最初のリーダーは、
「ああ、胃がかたい岩のようにこわばった感じです。おなか全体にずうん、ときます。抱えきれない、ような気持ちです」
 リーダーはそう言って、「抱えきれない」ということを表わすように、両手をおなかの前にまるく形づくります。
「もっと、もっと、それを強く感じてみてください。どうですか?」
「…おなかの中の岩が地球のように膨れ上がって私を圧倒しています」
「今どんな気持ちですか?」
「無力感です。泣きたい気持ちです」
「泣いていいですよ」
 リーダー(男)の頬に涙がつーっと流れます。
「ああ、少し気持ちが楽になってきました。
 あの仕事を一緒にしているパートナーにこの違和感を伝えてみようかな、と思います」
「いいですね。是非おやりになってください」
 ぱちぱちぱちぱち・・・。

 いかがでしょうか。
 リーダーはごく日常の些細な言葉の行き違い的なことから違和感を感じ、それをグワーッと拡大して身体に感じ、岩が地球の大きさまで拡大するところまで感じ、涙まで流し、それから「パートナーに何かを言う」ことを決断しました。

 その、何かを決断したということだけ見るとめでたしめでたし、なんですけれど。
 このブログを読まれている、有能なビジネスパーソンのあなたなら、
「そんな手間暇かける必要のあることかい!」
 って、つっこみたくなりませんか。

 些細なきっかけから始まってすべてがそのクライアント役の心の中だけで起こり、膨張し、収縮し、完結する。その徹頭徹尾主観の中のわけのわからないプロセスを経てさいごは「パートナーに何か言う」というアウトプットになるようですけれども、言われたパートナーも困ってしまうでしょう。妙にハレヤカな顔をして相方が何か言ってきても。新興宗教のお告げでももらったんか、と思うでしょう。
 涙を流すと、人はストレスホルモンが涙と一緒に外へ出ていくので、爽快な気分になるらしいですけどね。
 この、かなりカウンセリング的なやりとりが、ここの研修機関の「売り」です。感情の谷間を下り、上がる、それを「コーチ」がついていて質問して手助けしてやる、というのが。


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●身体感覚表現を学んだ人びとが被害者意識過剰になる


 わたしは2000年代の前半のある時期、怖いものみたさでしばらくこの流派のコーチングも受けていました。ただその結果、「この手法はその時はちょっとしたカタルシスになるけれど、あとあと情緒不安定になるだけで、またちょっとしたことも一々コーチのサポートを受けないと解決できない『ひよわ』な人になってしまいそうで、良くないな」と思い、早々にリタイアしてしまったのでした。

 また、その当時はマネジャー教育の団体を運営していたのですが、団体運営の中でこの研修機関の影響を受けた人たちが妙にイレギュラーな行動をとってくることにも気がつきました。彼・彼女らの行動も第三者的にみることもわたしによい示唆を与えてくれました。
 その人たちはやたら提案をしてくるのだが、その提案を採用してその人たち自身にやってもらおうとすると、妙につべこべ言い訳が多くなり、人の揚げ足をとり、「ちょっと違和感があった。胃に小さなトゲが刺さっている気がする」的なことを言い、それをもって、自分が言いだしたことをやらない(不履行)の言い訳にしようとするのでした。

 たしか、その過程では、
「正田さんから督促のメールがくると、胸がばくばくして苦しい」
みたいなことも、おっしゃった方もいらっしゃいます。そう、まるで『あの日』の中で小保方晴子さんが、毎日新聞の須田桃子記者から脅迫的なメールが来た、ただただ恐怖感でいっぱいだった、と書いているように。
 そのたぐいのことがあまりに多いので、私はこの研修機関の人を出入り禁止にしてしまいました。

 要は、「自分の身体感覚に敏感」というのは、「無用に被害者意識が強い」ということにつながるんです。傍迷惑な人なんです。
 でもその人たちは、それが「有害」だとは気がついてないんです。だって、とっても優しそうな人たちが集まる、優しそうなリーダーが主宰するワークショップで、
「身体感覚をじっくり感じ、表現するのはいいことだ」
って習ったんですから。
(困ったことにこのワークショップのリーダーをやる人たちはおしなべて高学歴でもあります。東大出、慶大出なんてゴロゴロいます)

 なので、お話を小保方晴子さんに戻しますと、
 小保方さんがこのワークショップの受講者だったかどうかは、わかりません。しかしこのワークショップに限らず、心理学には、自分の感情を微に入り細をうがち表現することを奨励する流派があります。そこでは、
「内臓が破れた」
「身体のどこそこが痛む」
と言うと、「マル」をもらえます。ひょっとしたら小保方さんが現在受けているカウンセリングがそういう流派かもわかりません。

 わたしなどは周りの人がやたらと「心臓が」とか「内臓が」とか自分の内臓を主語にして饒舌に言っているのをきいていると、人としてミットモナイと思ってその手の表現はしないことにしているのですが、まだ32歳、うら若き小保方さんは、そういうのがすばらしいことだ、と思っていらっしゃるかもしれません。「身体が」とか「内臓が」と言えば、褒めてもらえる世界なんです。

 このワークショップは最終的には「自己実現」「自己表現」を売りにしているので、自己実現ずき表現ずき小保方さんが受けていても不思議ではないんですよね。

 …えっ、小保方さんは本当に心を病むところまでいってしまったのに、苦痛の感情表現を冗談ごとにするのはけしからんって?
 どうなんでしょうねえ、本当の鬱というのは、そのさなかでは「失感情、失感覚」というのが普通だと思います。感情もないし感覚もないんです。こんなに強くものごとを感じたり表現力豊かに表現したりは、できないものですよ。

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●視覚・聴覚・体感覚に訴え、目標達成に駆り立てるセミナーもある


 もうひとつ、心理学ワークショップで小保方さんが影響を受けたのではないかな、と思われるのが、神経言語プログラミング(NLP)です。こちらもわたしは応用コースまで述べ18日間受講しました。 
 このセミナーには、プレゼンを上手になりたい人が通うことが多い。周囲の受講生には、わたしと同様研修講師業のかたもいました。営業マンもいました。
 そこでは、「優位感覚」を時間をかけて扱います。あの、視覚・聴覚・体感覚のうち何が優位か、というやつ。人前で話すときには、聴衆の視覚・聴覚・体感覚に訴える言葉で語りましょう。文章を書くときには、読み手の視覚・聴覚・体感覚に訴える言葉で書きましょう。
 ・・・小保方さんの『あの日』の文章には、NLPの影響があるだろう、と考えるのは考えすぎでしょうか。

 ひところはコーチングをやる人も猫も杓子も「NLPコーチング」と名刺に刷ったものですが、今はブームも下火になり、それほど見かけなくなりました。小保方さんが学会発表の寵児になった2007年はちょうどNLPブーム真っ盛りのころ。プレゼン能力を上げるために、小保方さんがNLPセミナーに通ったとしても不思議ではないのです。

 NLPにはまた、「目標達成セミナー」という性格もあり、もともと夢ずき自己実現好きの小保方さんとはこの点でも相性がいいのです。
 ところが、その「目標達成」に駆り立てる要素が、こんどは目標のためには手段をいとわない人をつくりだす性格となり・・・(後述)
 

 ここまでをまとめましょう。
小保方晴子さんはもともと発達障害の特性をもって生まれついているのに加え、ご家族が心理学者というご家庭環境、それに今どきの心理学ワークショップにより、もって生まれたその特性を助長・強化された可能性が高いのです。
 こうしたセミナーにはおそらく小保方さんと同様の、自覚していないASD、ADHDの方たくさん来られ、そしてその偏った認知特性を強化されていきます。わたしが「一応の勉強のために」そうしたセミナーに通っていた当時、発達障害の概念にまだ親しんでいませんでした。今振り返ると、あそこでご一緒した方々の半分ぐらいは、そうだったん違うかなーと思います。
 
 そしてまた、知性の高いアスペルガー症候群を含むASD(自閉症スペクトラム障害)の人のもつリジッドな特性、すなわち、一度思いこんだことはなかなか修正が利かない、「くっつきやすくはがれにくい」知性があるため、こうした心理学セミナーでの教えが現実と整合しないことになかなか気づかず、長期にわたってその教えを信奉してしまうということが考えられます。
 これは、ASDの中でも特に重症の自閉症の人にたいする療育を学んでみるとわかります。自閉症の人の「誤学習」というのはやっかいで、一度間違ったことをおぼえるとなかなか抜けません。たとえばスーパーに連れていって駄々をこねてお菓子を買ってもらった、という経験をすると、その経験から学習してしまい、スーパーに行けば必ずお菓子を買ってもらえる、買ってくれるべきだ、と考えます。ひいては、買ってもらえないとパニックを起こすようになります。これと同様なことが、アスペルガー・ASDの人たちでも日常的に起こっています。間違った思い込みの修正が利かないのです。

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●職場への提言


 こうした心理学セミナーは今もあります。あからさまに自己啓発セミナーでなくても、その内容や効果は自己啓発セミナーと同じようなものです。利己的で平気で他人を利用する人や、一見優しいけれど被害者的で言い訳の多い人をつくっていきます。
 そうして、正統的な心理学を装って若い人を吸引します。
 では、実際問題、現役マネジャーの読者の方向けの話題です。あなたの職場の若い人がこうしたセミナーにかぶれて仕事のできない、言い訳の多い人になったら、何をしたらよいのでしょうか?


 思想信条で人を差別したり解雇することは憲法をはじめ法律で禁じられています。だから、こうした心理学セミナーの教えにかぶれているというだけでは処分することはできません。
 しかし、その思想が原因で問題行動をとれば、その問題行動を解雇事由にすることはできます。いよいよ必要だと思ったら、問題行動や発言を日時とともに記録しておくことをお勧めします。
上述の感情表現を奨励するタイプの心理学セミナーでしたら、「不履行」という形の問題行動が起きやすいので、指示を出したこと、先方がその指示を確かに受け取ったこと、そして不履行が起こったことをそれぞれ日時とともに記録しておきましょう。
不履行とそれに伴う言い訳は、上司のあなたの感情を揺さぶり、ひょっとしたらカッとなってあなたのほうが不規則発言をしてしまうかもしれません。くれぐれも、感情的に動揺しないことをお勧めします。暴言を吐いてしまったりしたら、相手の思うツボです。「課長が酷い暴言を吐くので体が金縛りになったように硬直して動けなくなった」次の言い訳のタネを与えることになります。この記事を読んで、「こういう人の“被害”に遭ったのは自分だけではないんだ」と思って、気持ちを鎮めましょう。
解雇その他の処分のプロセスの中では、本人さんに対する「警告」の段階があります。このとき、できるだけ淡々と感情的にならないようにし、自分は本人さんの味方であること、できれば本人さんが職業生活を続けられるよう願っていることなどを伝えましょう。もし本人さんが失職を恐れて少し素直になってくれるようであれば、上記のような心理学セミナーに参加したことがないかどうか、それとなく訊いてみましょう。もし、それをカミングアウトしてくれれば、しめたものです。
あとは、時間をかけて、そうした心理学セミナーの中には間違った教えが入っていること、社会人にとっては「感情」ではなく「行動」が大事なのだということを教え諭してあげましょう。行動をとることを約束するのが雇用契約なのだと。

 めんどくさいですが、自社がSTAP騒動並みのスキャンダルに巻き込まれないためには、こうした企業理念に反するおそれのある人びとへの対応法をきめておいたほうがよいと思います。 



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●小保方さんへの提言


 この本、『あの日』の出版自体が小保方さんにとっての「癒し」なのではないかと言われた、医療関係者の方がいらっしゃいました。
 しかし、ノンフィクションの形をとりながら実名の人を登場させて事実関係のあやふやなことを書いて傷つける、ということは、すでにとても大きな加害行為です。
 小保方さん、ご自身の受けた被害をはるかに上回る加害を、人に与えてしまっていらっしゃいます。こんなことをしていても何も癒しにはなりませんよ。
 これからもこの本のようなオファーをしてくる出版社さんやTV局さんはあるかもしれませんが、是非、そうしたところとは手をきってください。
 それから、今回の記事で書いたような手法、「感情表現を思い切りしたら癒しになって次の前向きな行動がとれるんだ」というのを、心理学セミナーであれカウンセリングであれ、信じておられるとしたら、それは間違いです。もう、その手法とも手をきりましょう。それは、小保方さんがますます情緒不安定になって周囲の人への悪感情を増幅させるだけで、結局小保方さんにわるさをしてしまっています。ますます身心をむしばんでしまいます。また大切なご家族もますますダメージを受けてしまいます。

 この事件は小保方さんに大きなトラウマを作ってしまっていると思いますが、そのトラウマの処理方法としてわたしがお勧めしたいのは、「EMDR」という手法です。感情表現を多用することなく、スピーディーにトラウマを消してくれます。スピーディーといっても大体半年くらいはかかり、その間多少の副作用がありますが、やたらと感情表現をして人に相槌をうってもらうよりずっと効果がありますよ。



 このブログでは、定期的に「研修副作用」のお話をやっています。
 詳しくは「研修副作用関連」のカテゴリをクリックしてみてください。
 過去の記事で「小保方さん」に関係のありそうなものをピックアップしてみました

研修副作用の話(6)―「表現力」が大事か、「責任感」が大事か
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51905855.html  プレゼンセミナーやNLPセミナーでは「表現力」が上がるけれど「行動する力」は上がらないですよ。責任感は上がらないですよ。ひいては口先ばっかりの人をつくってしまうだけですよ。責任感は本人を日常目の前でみている指導者だけがつくってやることができるものですよ。ということを言っています

研修副作用の話(5)―目標設定セミナーについて
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51905839.html  「目標設定」「目標達成」を過度に重視するタイプのセミナーを受けると、目標のためには手段をいとわない人になっちゃう可能性がありますよ。NLPセミナーとか一部のコーチングセミナーなどがそうです。うちの団体で過去、その手のセミナーを受けた人から営業資料の盗用の被害に遭いました

ときどきコーチを返上してジャーナリストになるです
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51336521.html  「ワークショップ症候群」になってしまった人々の“症状”をリストアップした記事。仕事ぶりにむらが多く、言い訳が多く、自分を叱ってくる人を見下したり恨んだり。最後には会社を辞めてしまうことが多い。


自己実現の時代から責任の時代へ?
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51440997.html  アメリカでも「責任」を強調する子育てから「自尊感情」を強調する子育てに変わった。そして犯罪者や暴力的な傾向のある人は、「自尊感情」が高すぎるのではないか、とアメリカ心理学会会長・セリグマンが主張します

感情と自由の暴走がなにをもたらすか
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51339067.html 
 一部の心理学ワークショップに耽溺した人々の「感情の暴走」が起き、自律性を欠きだらしなくなる現象。また「自由」の観念も暴走し規律の観念がなくなる、というお話



これまでの記事:
●社会人のための「小保方手記」解読講座(1)―印象的な”ツカミ”のエピソードはこう読め!Vol.1
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51935543.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(2)―印象的な”ツカミ”のエピソードはこう読め!Vol.2
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51935599.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(3)―1位マネジャー製造講師・正田が読む・晴子さんのプロファイリングはVol.1
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51935610.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(4)―正田が読む・晴子さんのプロファイリングVol.2 小保方さんの生育環境は
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51935705.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(5)―プロファイリングVol.3 多彩な感情表現は人を被害者的にする!心理学セミナー、カウンセリングの副作用のお話
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51935878.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(6)―「私の会社でも」読者からのお便り
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51936058.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(7)―“惑わされる”理系男子:女性必見!もしもあなたの彼が「隠れ小保方ファン」だったら
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51936162.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(8)―「キラキラ女子」の栄光と転落、「朝ドラヒロイン」が裁かれる日
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51936340.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(9)―「STAP細胞はあります!」は本当か?Amazonレビュアーが読み解くプロジェクトの破綻
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51936570.html

●社会人のための『小保方手記』解読講座(10 )―再度「STAP細胞はありません」―「ウソ」と真実・ネット世界と現実世界のギャップ、社会人の分断リスク
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51936986.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(11)― 騙されないためのケーススタディー:小保方晴子さんが使った「ヒューリスティック(自動思考・錯覚)」の罠
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51937126.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(12)情けないぞおじさんたち!!「ええかっこしい上司」「放置プレイ上司」そして「欲得・不正系上司」(前編)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51937436.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(13)情けないぞおじさんたち!!「ええかっこしい上司」「放置プレイ上司」そして「欲得・不正系上司」(後編)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51937542.html

●社会人のための「小保方手記」解読講座(14)(最終) まとめ:あなたの会社から「モンスター」を出さないために―女性活躍、発達凸凹対応、そして改めて「行動承認」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51937655.html



●エイプリルフール特別企画・シリーズ番外編:社会人のための「小保方情報」解読講座
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51937719.html

 えと、謹厳なわたしとしては珍しく、ほとんどこのブログ始まって以来初めて、自筆イラストを披露してしまいます。

 インフルエンザ、ノロウィルス等感染症の季節ですが、人のこころにも怖い感染症というのがあります。ここ2年ほどわが国の職場や学校に増殖して、いま韓国にもいっている怖い病気が、これです。

アドラーかぶれ毛筆



 たまーに、研修でもWボードに絵を描いて説明することがあるんですが、謹厳で笑いの場面の少ないわたしの研修の中でそこだけは妙に笑いが出ます。

 それはどんな絵だったかというと、「ファーストペンギン」というのを説明しようとして足からボチャンと水に落ちるペンギンの絵を描いたりとか、脳幹の働きを説明していてヘビが攻撃するところと逃げるところを描いたりとか、です。

 
 このところお客様との対話の中でも「バカな自己啓発本にかぶれて勘違いする若手中堅」という話題が出ます。それは結局、上司がちゃんとした尊敬できる大人になって、そのうえで部下の勘違いを修正するという道筋しかない、という話になります。なので上司教育大事です。

 (ただ、色々きいてみると上司世代も結構アドラー心理学本にかぶれた人がいるみたいなんですナー。「褒めない、叱らない」という教義は、ふだん部下に興味もなくて碌にみていないタイプの上司にとっては、自分を甘やかせる魅力的なフレーズなんです。なのでこのイラストは中年男っぽく書きました)
 

 
 思うに人々の現実との接触の絶対量が少なくなるIT時代というのは、妄想とナルシシズムに対してどうマーケティングするかが勝負、という感じになって、出版業界なんかももろ「妄想ビジネス」「ナルシシズムビジネス」みたいになっています。学者さんとか評論家コメンテーターの人たちも、「妄想系」「リアル系」の色分けをしようと思えばできるんじゃないかと思います(大多数は前者なのかもしれない)

 でも妄想やナルシシズムで職場は運営できません。マンションの杭はちゃんと打たななりません、橋の部品はちゃんと溶接せななりません。じゃあどうするかというと、残っているまともな人が知恵を絞って感染症に対して賢い対策をとることでしょう。


 というわけで、妄想感染症リスク対策に社内ポスター、いかがでしょうか。


正田


追記:
今だから言うんですけどね、去年『行動承認』を出したときの担当編集者がこの病気だったみたいなんです。苦痛でしたねえ、こんな人に原稿見てもらうのは。宗教関係の本を異教徒がそれを隠して編集するようなものです。「承認」というものにも著者のわたしに対してもリスペクトがまったくなく、勝手に原稿の字句を変えてどんどん下品にするので(それは契約違反)何度も直し返しました。ついでに「あなたの直した原稿とわたしの書いた原稿どっちがいいか公開して皆さんに見ていただこうじゃないの!御社の恥になるんじゃないの?」って言ってやりました。いいんですよ、今からでも公開しても。
 

 お誕生日にいただいたメッセージのご紹介 第二弾です。
 佐賀県の研修業・Training Officeの宮崎照行さんより。先月、新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより の記事で登場していただきました。

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正田先生

お誕生日おめでとうございます。
いつも考えるキッカケを与えてくださるブログの投稿、ありがとうございます。

この1年もさまざまな視点でのご投稿を心より楽しみにしております。

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昨日のブロク『褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―「嫌われる勇気」著者講演会』を興味深く拝読いたしました。

私が疑問を感じたのは下記の点です。

>「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」
私は、自己認識をする上において、第三者からのフィードバックにより事実を意味づけることが可能になると考えています。特に、タブラ・ラサ状態の子供に対しては、そうなると「叱る」「褒める」などの行為を通してのフィードバックによって事実を客観視させていく必要があります。
何も相手を“下”だと思っているわけではありません。”希望”や”期待”からフィードバックをしています。”希望”や”期待”が相手に伝わるために必要なことは何か?私は、信頼関係だと思っています。だからこそ、普段の何気ない声がけやそれこそ「承認」が必要です。信頼関係が築けると”下”や”対等”などの階層的意味付けは自然消滅してしまうと思っています。


>「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」
私は、褒められたら素直に「嬉しい」です。それがエネルギーになることも多々有ります。別段、自分の能力が劣っているとも思っていません。この点は、岸見氏の表現は危険極まりません
「褒める」も肯定的なフィードバックの一つだとすると、行動を強化する強化因になるわけですから、別段、「褒めて欲しいから行動する」わけではなく、「その行動が正しいから行動する」だけであると思います。

私自身、「褒める」という表現は肯定的なメッセージの一部分しか表していないので「承認」という表現を好んでいます。今回、岸見氏の講演では、肯定的なメッセージを「褒める」ということだけに限定されていることに無理があるのではないかと思っています。
そして、私が危惧していることは、岸見氏のような大ベストセラー作家の講演に対して、、産業カウンセラーの方々が思考的盲目になられている点にあります。「売れている」=「正しい考え」のような図式が成り立っているようなきがしてなりません。専門職の方々に声を大にしていいたい。「もっと深く勉強をしてください」「自分の力でもがき苦しみ、解決の方略としていろいろと調べて下さい」と。

『嫌われる勇気』は読み物としては面白いかもしれませんが、わたしは参考になる点は、残念ながらあまりありませんでした。

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【私が正田先生を尊敬する理由】
|療好奇心が旺盛なこと
表面上の知識だけでなく、深いレベルで理解されようとすること
H稟修気譴襪箸は客観的なデータを用いたり、一過性の感情論ではなく、しっかりと論理的矛盾をつかれること
ご蕎陬譽戰襪範斥レベルがうまくバランスがとられていること

改めて、お誕生日おめでとうございます。
乾杯!!

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 いかがでしょうか。
 正田は、このメッセージをいただいたとき、ほっとしてしばらくダラーっとしてしまったのですが(情けない・・)本当はこういうのは、承認される側より承認する側が偉い、のかもしれないです。器が大きいのかもしれないです。あたしはどうみてもこんな賛辞には引き合わない。
 
 と思うんだけれども、万一ひょっとしてこの世のどこかにもうお1人ぐらい、正田のことを「いい」と思ってくださってる方がいて、そのことがその方が「承認実践者」であられるためのモチベーションになっているとしたら、その方にとっては自分と同じように思っている人が少なくとももう1人いる、と思えることは勇気づけになるわけじゃないですか。
 などという言い訳をして、ナルシスティックかもしれないんだけれどもおほめの言葉をいただいたのをUPしてしまうのでした。

 宮崎さんの岸見講演について言われた論点、「ふだん承認をしていればフィードバックに上下の感覚は入らない」、これはおっしゃる通りだとわたしも思います。わたしの記事ではそこが抜けていました。
 「褒めてほしいから行動する」のではなく「正しいから行動する」。大事なポイントですね。「自律」というとき、ある人が自律的に行動するに至るメカニズムとは何か。要はこういうことなのではないか。と、思ったりします。(これはまだ考え中の段階ですが)

 また、聴衆の方々がクリティカルシンキングが出来ていないようにみえること。ちょうどこのブログでも、某自己啓発本のWEB書店ページにならぶ賞賛のレビューの数々のことを言っていたところです。それはステマかと思っていたのですが、実際にこの講演レポートが紹介されたFBページでも、アドラー心理学への賞賛のコメントばかりが並び、わたしなどは「えっ?」と思いました。そこへわたしが「アドラー心理学を批判していいですか?」と記事引用のお願いのコメントを入れたので、すごい空気読まないことをやっていたわけです。

 皆さん、やっぱりもうちょっとちゃんと考えましょう。皆さんの現場での実感と食い違ったらそう言っていいんですよ。でないと皆さんの大切なお子さんを不幸にしてしまいますよ。
 

 あと、宮崎さんは、「自分の名前を出してもらって構わない」と言われたのですが、岸見氏のようなベストセラー作家を公開で批判するというのは、ほんとうはご自分が今後出版の世界で上手く泳ぐには不利になるかもしれないんです。このところ出版業界さんというのは、言うては悪いですが「石橋を叩いて渡る」、ベストセラー作家頼みの傾向が強まっています。そして売らんかなで「逆張り」をやり、反常識を通り越して非科学トンデモ、のこともお構いなしです。

 でもそういうドン・キホーテ的なことをあえてする人がもう一人いたというのは、ちょっと嬉しいですね。


 ドン・キホーテついでに、本日21時すぎ、わたしがフェイスブックに投稿した文章もご紹介します:

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お友達の皆様ありがとうございます❗昨日21時56分にUPしたこちらの記事(褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 )が、今まで約1日のうちに学校の先生を含む10人の方にシェアしていただき、654PV、110いいね!と、ささやかな私のブログとしては過去最高の数字となりました。
昨年来、このベストセラー書の影響を受けた方が残念な言動をとられ、職場の雰囲気が悪くなることを垣間見、憂慮してきました。子育てに深刻な影響をもたらすことも予想されました。どんな子育てを選ぶかは、どんな未来を選ぶかにもつながります。
このTLを読まれる方には出版界の方もいらっしゃり、きっとベストセラー書とその著者というのは大事な収入源でいらっしゃると思いますが、それでも食品添加物の問題などと同様、消費者に良質のものを届けることを大事に考えていただきたいのです。未来を担うお子さん方に関することなのです。
目の前で起こっていることについて真摯に考え、態度表明されることを厭わないお友達の皆様に感謝と畏敬の念を持ちます。私にとってまたとないお誕生日プレゼントでした。ありがとうございます❗️これからもよろしくお願いいたします。

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 では、宮崎さんの「乾杯!!」に少し遅れて、わたしもお猪口のワインで乾杯して寝まする。。


正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 薄気味の悪いこと。
 このブログで今秋以来3回ほど登場した某「自己啓発本」。用語用法のいい加減さ、論理の雑さが目に余り、各分野の専門の人が見たら失笑するレベル。この本のAmazonページのレビュー欄が紛糾している。
 低評価レビューが、コメント欄で執拗な攻撃に遭っている。Dgというハンドルネームの人物から、繰り返し「ああ言えばこう言う」式の揚げ足取りのコメントが入る。

 ―どのぐらい「ああ言えばこう言う」なのか、ご興味のある方は、たとえばこちらのAmazonページをご覧ください

 http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4906790208/ref=cm_cr_pr_btm_link_1?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending&pageNumber=1

 ある低評価レビュー(私が書いたのではないが、非常に妥当な常識的なレビュー)には総数41件ものコメントがついた。あるときひと晩に、Dg氏より3回もの揚げ足取りコメントが入っている。レビュワーも猛烈に応酬している。

 別の★1つのレビュー(これも、私が書いたのではないが「知ったかぶりはやめてほしい」というごく常識的な内容のレビュー)は、Dg氏からの執拗なコメント攻撃に根負けしてレビューを取り下げてしまった。★1つのレビューが1つ消えると、レビュー平均点としてはかなり向上したことであろう。

 私の書いたレビュー(友人が代理投稿)にも同じDg氏からの攻撃が来たので、こう反駁しておいた。

著者様ですか、ご苦労様です。この誤謬、破綻だらけの本をそこまでマジに擁護できるのは本人しかいないでしょうね。
私は他に関心事が沢山あるので正直言ってその後本書を読み返しておりません。いずれにしても、「組織論」と大見得を切った割には、言いたいことは(というか、知っていることは)「最適サイズ=150人」ということだけなわけでしょ?そういうのは組織論と呼べません。「組織論のごくわずかな一部」なのであって、普通の含羞を持った人は、そこまで部分的なものは組織論というチャンクの大きな言葉で代替できないとわかるものです。本書をリコールして、「組織論」の単語をすべて「組織論のごく一部」と変換したものと交換すべきでしょう。一般社会人はそういう厳密さで仕事をするんです。あなたのような言葉の使い方を若手社会人がしたら、上司に即叱りとばされますよ。あなたも社会人の基本からやり直したらどうですか。


 ―ちょっとおもしろかったでしょうか。どれぐらいレベルの低い議論をしていたか、わかります?

 
 おもしろいことにこの本についている全15件のレビューは大半が内容をよく読んだとも思えない礼賛一色のものなのだが、それに対する「参考になった」の評がきわめて低く、ある★5つのレビューには、「5人中1人が「参考になった」と投票しています」とある。つまり5人中4人はこのレビューに「参考にならなかった」に票を投じているのである。


 この著者のAmazonレビューのからくりはそういうことなのだ。低評価をつけると執拗にコメントで攻撃し、取り下げさせる。結果、著者本人か編集者あたりが書いた嘘くさい5つ星か4つ星のレビューであふれかえる。本自体の本来の価値とはかけ離れたバブル評価になる。

(もし、この状況に義憤を感じた方がいらっしゃったら、低評価レビューを書くと延々と絡まれて職業生活にも影響をきたしかねないので、高評価レビューに「参考にならなかった」票を投じて意思表示されるのがいいと思う。それらがハリボテですよ、と示すために。言論の自由からいうとおかしなことだが、そうなのだ)

 
 昨年、「哲人」が延々と説教するスタイルの「自己啓発本」がベストセラーになり、私などはその内容をみて目が点になったものだが、二匹目のドジョウを狙ってか、この手の「自己啓発本」は多い。誰も知らないような哲学者心理学者の名前や用語を出して大風呂敷を広げ、けむに巻き、著者自身も信じていないような屁理屈をこねる。ちょっと社会を知った大人がみると噴飯ものだ。そんなもので社会は回ってない、とすぐ断じることができるのだが、社会に出る前の若者にはそれはわからない。知名度の高い著者のほうが正しいことを言っているとやすやすと信じ込む。

 昔から若者は情報に振り回されやすい、と言われてきたが、今どきのスマホ育ちで実体験の極めて少ない若者はそういうものに過去以上に免疫がないだろう。また、このブログでは2つ前の記事に出て来た話題だが、現実世界で「生きづらさ」を抱え実体験が少ないことでは人後に落ちないASDの若者がそういうものに曝露したら―。
 (私は以前から、「自己啓発本」の中心読者はASDかそれ気味の人ではないか、と疑っているのだ。この人たちはもっと年を取ってからでも人を信じやすく、詐欺に遭いやすい)

 そうした若者が社会人になるとどうなるか。

 上司の言うことを話半分にきく若者になる。上司の話は、しみじみした人生訓になるか鬱陶しいお説教になるか、上司自身の力量にもよるし受け取る側の状況や心の構えにもよる。しかしちゃんとした力量のある、人格的にも正しい上司の言うことでも、自己啓発本にかぶれた若者にとっては耳に入らない、「鬱陶しいおじさんの説教」になる。本人の学習に結びつかない。本当は、本人を目の前でみてフィードバックしてくれる人の言うことをきちんと聴いたほうがとりわけ若い人には大事な学習になるのだが。

 著名人にかぶれるということは、こわい。これもストレングスファインダーで〇〇〇〇を持っている人にはありがちなのだが、「カリスマ好き」。この人たちにとっては、カリスマの言うことには信じられないほどの重みがあり、その裏をとるとか妥当性を検証するなど思いもよらない。一切のフィルターなしに無批判に頭の芯へ入っていく。一方で平凡なサラリーマンの上司の言うことにはまったく価値がない。要はこの人たちは「偉い人バイアス」が強いのだ。

 こういう傾向はこれまでは、思春期に強くみられその後だんだん直って正常化していくものだが、今どきの風潮だと、いつまでも直らない。ネットで、SNSでなまじ偉い人と直接コンタクトでき、フォロワーになったりお友達になれるからだ。偉い人が一言何か言うとワーッと「そうだそうだ」のコメントがつく。無批判に偉い人の取り巻き、金魚のフンをやってそれが楽しいのだ。そういう状態の人の耳には、周囲の普通のまともな人の言葉は入らない。

 嘆かわしいことだが、今どきの不況にあえぐ出版界では、「著名人著者」におんぶにだっこである。上記の「自己啓発本」の著者が典型だが、ハイペースで粗製乱造の本を書く。到底、書きながら自分で中身を丁寧に検証したと言えないような、誇大妄想をそのまま文章にしたような。
(しかし、それらの本のAmazonレビューは上記のような事情で、★5つだらけである。)


 この構造はいつになったら直るのだろう。
 わたしは、管理者の側に関わる立場なので、こうした著名人著者やいかがわしい自己啓発本にかぶれたとみられる若者に振り回される側の相談をよく受ける。

 イタチごっこだが、やはり上司教育の方からきちんとやり、若者が上司の指導を通じておかしな本を読まないでも人生を切り開く力をつけていくよう持っていくのが王道だと思う。
 このブログによく出てくる漢字2文字の単語は、若者の脳の「内側前頭前皮質」に働きかけ、外部の規範を取り込ませるには有効である。若者本人を目の前でみている上司はその点アドバンテージがある、「漢字2文字の単語」のなかでももっとも正しいやつをできるわけだから。
 自己啓発本にもまともな本といかがわしい本とあるのだが、いかがわしい系の自己啓発本が売れなくなるのが、幸せな社会の姿だといえるだろう。


正田佐与
 
 

 某デザイナーと東京五輪のエンブレムその他のデザイン盗用問題がこのところ話題でありまして、

 すごくこの問題に興味があるわけではありませんが自分の分野に照らして考えれば、「出典明記主義」を改めて確認するのは大事なことかと思います。

 このブログで何度もお話したとおり、当協会というか正田は「出典明記」にこだわるほうです。こういう人は業界でも珍しいと思います。他社様の研修で資料をもらうと、「おやおや、出典が書いてないのだなあ」と思うことはよくあります。心理学の知見でもなんでも、だれがどういう実験デザインでやった、とわからない書き方をしています。
 
(実は心理学の実験にはかなりいい加減なものもある、追試してみたところ3分の2は再現できなかったという記事がありまして

 http://www.afpbb.com/articles/-/3058654?act=all 

これも1つ前の記事でいう「業績至上主義」のもたらす弊害といえそうですね。信頼できる重要なものを選別できる目を持ちましょう)


 出典明記のお話に戻ると、これも何度も書きますように、人様に教えている自分は所詮先人の知識や思考の蓄積の「器」であります。オリジナルの部分などそんなに多いわけではありません。それを自覚したうえで、自分オリジナルの考えについてはそうと断ったうえで述べます。

 それは決してアカデミズムの世界に入りたいからとかの下心ではなく、自分的にほかのかたの仕事をリスペクトする形で文を書きたいからそうなりました。自分がそういうスタイルで文を書くので、書物を読んでいてもそういうスタイルで書かれている方の文章が好きであります。フェアプレイで誠実な仕事だと感じます。

 ちなみに「行動承認」を重視するのは一応オリジナルの考えであります。「例の表」を使用しだしたのは記憶に残っている範囲では2006年ごろから。当時から既に「行動承認」は「存在承認」に次ぐ位置にありました。それ以前から、学校や大学と違って会社組織という共通の目的のもとに集まった人々について最適化した承認とは何か、ということを延々と考えてきました。ただひょっとしたらわたしの知らないだけで先行の類似のものがどこかにあったかもしれません。

 ひとつ懺悔をしないといけないのは、目下「月刊人事マネジメント」誌に連載中の「行動承認マネジメント読本」では、あまり出典明記とか引用の形で書けていません。これは編集部様からの「あまり理屈っぽくなく、話しかける文体で書いてください」というリクエストに従った形で、そうなりました。(人のせいにしていますネ)本当は忸怩たるおもいです。これに限らず、引用とか出典明記にこだわると、文章の読みやすさをそこなう、という問題はたしかにあります。


 なおこういう盗用剽窃花盛りで、「やったもん勝ち」みたいな時代ですと、当協会コンテンツが盗用される側になる危険性は大いにあります。とりわけ「内製化論」に煽られた人事担当者の皆様は…、やめとこう。そしてわたしが「女性」であることは盗用リスクを増します。ワトソンとクリックはDNA螺旋構造に関する研究を…これもやめとこう。


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 「研修カクテル」という現象について、過去に何度か触れました。

 「研修カクテル」がもたらす副作用―傲慢、ナルシシズム、全能感、打たれ弱さ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51819638.html

 当協会方式の研修に触れてせっかく素晴らしくよい状態になった個人や企業様が、矢継ぎ早に類似の研修に触れることによって、急速にダメになってしまわれることがあります。

 事実なので、こうした指摘をするわたしのことを傲慢だと思わないでください。


 どういう現象なのだろうか、わたしの考えた今のところの答えは、

 昔の人だったら素直に一生の指針にするような思想にせっかく触れても、今の時代はどんどん他の類似品にアクセスできる。色々と見比べて天秤にかけて、そこで「消費者気分」が出てくる。
 さらに、自分が色んな思想群を俯瞰できる立場だ、という傲慢な感覚が出てくる。実はまだ何も自分は習得していないのであっても。
 最初の研修で味わった、自分の枠が大きく拡がったという感覚、自分の側の「修練」が問われるという感覚、それを「維持」するにも自分の努力が要る、という感覚、それがどこかへ行ってしまう。クルマの免許が取れてもいないのに大型バイクの免許もあるよねー、二種の免許もあるよねー、と屁理屈こねているようなものです。


 そうして伸びきったゴムのような感性の、とんでもなく傲慢なナルシシストができあがる。企業の人事とか研修担当者にそんな人は多いです。先日わたしが会った、「承認」について社内講師をやったという研修担当者も、「承認」にどういうカテゴリがあるか、かなり上のほうの代表的なカテゴリについても忘れていました。


 わたしが「例の表」にこだわるのはなぜかというと、あれは「承認」という難しいものをいつも脳のワーキングメモリに置いていただくためのいわば「圧縮フォルダ」なんです。

 最近の研究で、人のワーキングメモリは思われているほどキャパが大きくない、一度に4つぐらいのものしか処理できない、という知見が出てきまして

 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52199837.html

 
 ―お友達(それもあまり近い縁ではない)の投稿でこういう知見に出会えるからフェイスブックも捨てがたいのですが―

 拙著『行動承認』に書いた、

「『承認』『傾聴』『質問』その他で構成される『コーチング』ですら、マネジャーがワーキングメモリの上に置いておくには『メモリ過多』です。
 しかし、『承認』だけでいいですよ、と言われれば置いておけるのです」

 これも決してどこかからの盗用剽窃ではなくてわたしのオリジナルの考えであり言葉なんですが、

 こうした「ワーキングメモリの限界」の知見をみるにつけ、やはりそれで正しいのだ、と思います。


 「『承認』だけでいいんですよ」

 こういうフレーズは、一見「甘やかし」のようにも見えてバッシングを浴びてきましたが、著書をきちんと読んだり研修をきちんと受けた方なら、その世界にはきっちり「叱責」もあり、バランスを欠いたものではないことがお分かりになると思います。

 そして実際に強烈な成果に結びついています。

 不遜な言い方ですが、わたしは職場という「乱戦状態」のただなかにあるマネジャーの脳内活動にきちんと想像力をめぐらしたからこそこういう教育プログラムを作ることができた、と思います。


 ・・・そして、極限までシンプルにしたいわけですが、しかし「承認」が「ほめる」に矮小化されたり、「感謝」だけに偏ったり、という、困ったところまでメモリサイズがダウンしてしまうのは避けたい、のです。

 だから「あの表」があります。これだけのメモリサイズのものですよ、これをワーキングメモリに置いておいてくださいね、と繰り返し念押しするために。


 だから、過去記事の繰り返しになりますが、当協会方式と他社方式をまぜないでください。まぜるな危険。まぜたら、今あなたの手にしている成果は失われます。すみません一見エクストリームなことを言っていて。でも過去のさまざまな事実に照らして本当です。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 「内発的動機づけ」がまたリバイバルブームなのでしょうか。

 NPOリーダーのためのブログでエドワード・デシの「内発的動機づけ」が紹介されており

 http://npotips.seesaa.net/article/52577385.html

(正田は元NPOリーダーのくせにこの記事を知らなかった)

 きのう話をされたNPO関係の人はこれを金科玉条にしているのかな、と思いました。

 ググってみると有名な自己啓発セミナー会社のサイトにも「内発的動機づけ」は大きく載っております。ちなみに正田は自己啓発セミナーが差し違えたいぐらい嫌いであります。


 エドワード・デシの『人を伸ばす力』については、当ブログでは2011年暮れに読書日記を書いています。れいの『報酬主義をこえて』とのからみです。

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51781122.html


 要は、「外発・内発っていう分け方自体にあんまり意味ないよね」というのと、「内発的動機づけが一番好きな社会人は、大学の先生とかの一人作業で仕事する人なんじゃないの?」というものです。例によって、「大学の先生は自分たちのことを研究するのが好き」なのです。


 正田は、例えば子供や若者が新しく何かに習熟する時、初期には指導者からの励ましや褒めなどの「外発的動機づけ」の出番が多く、次第に習熟すると作業そのものの手ごたえが楽しくなり報酬系が活性化されるので、いわゆる「内発的動機づけ」の状態になるだろう、報酬系を回すガソリンが交代するだけの話だ、それでも外発的動機づけの仕事はなくなるわけではない、というようなことを過去に書いていますが、

 ちょうどこれと同じことを、1991年に国内の研究者が言っています。

 https://kaken.nii.ac.jp/d/p/03610044


 デシが『人を伸ばす力』を書いたのが1996年だったが、その5年も前に国内ではこういう研究がちゃんとなされていたのです。

 ほらね、正田ってあんまり間違わないでしょ?

 ・・・あと、デシのファンの方には申し訳ないですが英字のWikiでデシの扱いは小さいですね。行動理論家たちに比べてはるかに小さいです。行動理論は、初期のスキナーの頃には一部確かに同意できない主張もありますが例えば学習された無力感やポジティブ心理学のセリグマン、アサーションや系統的脱感作法のジョゼフ・ウォルピ、模倣学習理論のバンデューラなど、良心的ないい心理学者を輩出していますよ。


 身近な人の例としては、あるアーチスト(音楽家)の知人がいました。彼女は難病を抱えたアーチストとして学校関係にも講演兼演奏会をするのですが、子供たちに「夢はある?」と問いかけ、「今の子は夢がない」と嘆いていた。自分は小学校の時から「アーチストになる」という夢を持っていた、と言いました。

 それについてわたしは多少批判的に、「夢をもつとき、普通は身近な人からの褒めや励ましがあって自信をもったから夢をもったのではないだろうか。何もない状態で夢を持てただろうか」とぶちぶちブログに書きました。

 すると彼女は新しく思い出したようなのでした。

 その次の講演兼演奏会で、「私を褒めてくれた学校の先生がいた」と彼女は言いました。
 他に取り柄のなかった私のピアノの演奏を褒めてくれた。
 通信簿で彼女の音楽が4か5か微妙なとき、ほかの成績のいい子の5をつけかえて私を5にしてくれた。

 その後お母さんの勧めもあって、彼女は中学時代に「演奏家になりたい」と心に決めた、といいます。


 そういう、記憶の改ざんのような現象もあいまって、何しろ「内発」「自己決定」「目標を持つ」などは快楽物質のドーパミンの仕事なので、刺激がきついのです。いっぽう信頼する先生やお母さんにほめられ励まされたのは、たぶんオキシトシンやセロトニンのマイルドな喜びであり、ドーパミンに比べると記憶に残りにくいのです。でもたぶんオキシトシンが出たからドーパミンも出たのです。


 わたしがなんでこんなに「内発と自律」のモチベーション論に神経をとがらせるのかというと、それが主流になってしまうと、まず「権力者の怠慢」が起こるからです。モチベーションを喚起するような上司・先輩からの介入が不要だ、ということになってしまうからです。
 そして、権力者の側はちょっとほっとくといくらでも怠慢になれるのです、古今東西。

 かつ、地位の低い人たちに関しては、目標や夢を持つことができるのはとりわけ日本人では少数派なので、(平本あきお氏の「ビジョン型と価値観型」のフレームワークに割合わたしは同意するほうです。わたし自身は価値観型だと思います)目標を持つことができた人だけが「勝ち組」になり、残りの人は落ちこぼれる、ということになりかねない。

 たとえば貧困問題の解決のために何をすべきか。ごくまれに夢や目標をもって、アメリカンドリームみたいに貧困層から成りあがった人がいるとする。では、すべての貧困層の人が夢を持って立志伝中の人になることが解決になるのでしょうか?社会の構造的な問題を何とかしないといけないのではないですか?自己責任論にまでなっちゃいますよね。私リバタリアンじゃないので。

 また、社会福祉的には、昨日のパネルディスカッションでどなたかいみじくも言われたように、「寝たきりのおとしよりにどう夢を持たせられるのか。それを家族介護している人もどう夢を持てるのか」というのもあります。認知症の人では前頭葉が縮小する、実行機能がなくなるのですから夢とか計画どころではありません。でも自分の「尊厳」を感じる力は残っているのです。もちろん不幸にも災害に遭った人も同様で、夢を持つどころではない精神状態の時期が長いでしょう。
 


 色々ありますが、1つ前のブログ記事を借りてお客様のご協力をいいことに、「あんたら内発と自律方式でこれと同じことやってみろよ」と思います。現実に「効く」ほうを使ったほうがいいじゃないですか。


 で、「承認方式」では「内発と自律」は全然要らないのかというと、あります。ちゃんと組み込んでいます。

 相手の「内発と自律」が存在するならそれを尊重するのが「承認方式」です。

たとえばわたしの最初の子は誰に似たのか「じぶんで〜!」とか「やーだ」が口癖の我の強いおこさまでしたが、彼女の「内発と自律」を尊重して延々と自分でお着替えするのを手を貸さずに待ちました。その子は高校ぐらいからリーダーになりました。二人目の子はそんなに「じぶんで〜!」が強くなく手が止まることも多かったので、もう少し手伝ってやり、でもできるだけ最小限にして自分でやることを多くしていました。本人たちにとってはそれは「内発と自律」でしたがこちらからみると彼女らの「内発と自律」を「承認」していたわけであります。

 以前ヘーゲル承認論の中で「間主観性」という概念に触れましたが、人はその人の主観だけで生きていけるわけではないのです。主観に即していえば「内発と自律」、しかしそれを「承認」してくれる他者がいなければ「内発と自律」を発揮することはできないのです。

 内発的な動機というと、たとえば「価値観」というものがあります。人を思わず知らずある行動をとるようにプログラミングしているもの。(自閉症の人では、それは「常同行動」という形をとります。)


 「相手の価値観を尊重せよ」は、「承認マネジメント」にもちゃんと組み込んであります。

 ただ、企業活動ですから働き手の側もその企業の価値を尊重しないといけません。というか、本来はその企業の理念に共感して入ってくるのが筋です。

 ある程度仕事に習熟した働き手には仕事を任せ、相手の内発的自律的働きにゆだねることも承認。

 ちょうどきのうのお客様のところでは、2年目の若手クンが「〇〇をしましょうか?」という言い方から「〇〇をやります」という言い方に、「承認」後に変わった、というお話も出ました。「承認」によって「内発」「自律」も育つ、というのは以前から明らかだったことです。大学の先生ってこういうことを知らないんでしょうか。

 目標を持つ力がついてきたら目標を設定させることも承認。

 何か文句あります?


 なので、「承認マネジメント」と「内発と自律」は、「含む、含まれる」の関係なんです。ごめんなさいね。あたしの方が大きくて。「内発」は大事なことではあるけれど、指導者が「大事だ」と頭に入れておけばいいことで、「内発さえあれば外発は要らない」「アメとムチ」などという論の立て方は大変おかしなことなのです。



 自己決定感とか自己有能感とか、「モチベーション」に関わる用語は色々あります。でもどれもドーパミンがらみの概念です。いっぽう承認マネジメントの世界では、独特の「みていてくれるんだなあ」という感覚があります。拙著『行動承認』で初めて出てきましたが、その後の研修でも繰り返されています。まだ、学術的な名前はありません。

 この「みていてくれるんだなあ」の感覚に、どなたかかっこいい名前をつけていただけないものでしょうか―。
ひょっとしたら経営学史上に名前が残るかもしれないですよ?



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 以前に「傾聴研修」について「具体的にどんなやり方をしているかわからない」と書きましたが、「わかる」範囲でいうと、わたし自身が「承認マネジメント研修」の2回目に使う「傾聴」の教材があります。


 これもいい加減なものではなくて、ある大学の心理学の先生から了解をいただいて使用させていただいているものです。それもご夫妻でこのタイプの研修教材を多数作ってきている、アイデア夫妻。
 たぶん、その世界でもかなり精巧にPDCAを重ねてつくられているほうのものです。


 AさんBさんに分かれ、それぞれが8種類のカードを手に持つ。計16種類のカードを印刷する。
 そして「8通りの傾聴」をやってもらう。かなり反復練習の要素が入ったハードなもの。

 そのカードで指示しているのは、ネタバレ残念ですが、こういうものです。

 「悲しかったこと、情けなかったことを話してください」
 「腹が立ったことを話してください」
 「うれしかったことを話してください」
・・・

 「感情とそれにまつわるエピソード」を話してもらい、最終的に「傾聴における共感の大事さ」を体得する仕組みになっています。


 うーんと、それがいけないとはいいません。
 自分が実際に使っているものですから。

 でも、人間観からいうと「不完全」なものだといわざるをえません。「承認」の補助的なもの、「承認研修」で基本的人間観をつくったあとにそれを補うもの、という位置づけなら、やっぱりいいでしょう。わたし自身は、「傾聴」を教えることは教えるが(しかもかなり技能としては徹底して教えるが)、やはり「道具だ」と割り切っているところがあります。


 これ、おわかりになりますか?



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 わたしは友達の少ない人間なんですが、数少ない交友範囲の中に世間でいう「大経営者、名経営者」という人がいました。

 これも自慢したいわけではありません。文脈上、わたしがつくってきた人間観、というものに触れざるを得ないからです。

 今年で87歳になるその人は、「江田島の海軍兵学校」を経験した(ご本人が3年生のときに終戦)数少ない生き残りの人です。

 自伝なども出ていますが、そこで行っていた強烈な訓練の日々は、もちろん体力のない現代っ子のわたしなどには到底体験しえないもの。
 そしてもちろん現代に持ってきようのない教育ではありますが、「あの日々が自分をつくった」とその人は言われます。
 その人は終戦後には職を転々とする鬱屈した日々があり、きっかけがあって起業し、それからもとんでもない七転び八起きを繰り返し…。
 つい先年は、米ハゲタカファンドが自社の株主総会に送り込んだ人を怒鳴りつけて撃退する、という快挙をしました。


 現実に目の前にいるのはひょうひょうとした「素朴」な老人であります。普通の人と変わらない体のサイズの。

−「素朴」な顔つき、ということは伊丹敬之氏の経営者論の中に出てきますが、旺盛な外界への好奇心とナルシシズム抑制の態度として大事なことであろうと思います―

 そうした人との対話を繰り返す中、同じような体のサイズの中に詰まっている圧倒的な知性のキャパの存在に触れることが幸運にもできていました。「経験の質」の明らかに違う人がいるのです。おとしよりだからとか功成り名遂げた人だからそうなのではない、同じ80歳超の年齢の人でも「経験の質」の高い、巨大な知性の持ち主でいくら話しても飽きない人とそうでない人がいます。


 また、こうした人たちは「承認」が「大事なものだ」と「先験的に」知っている人たちでもありました。だからずっとお付き合いできたんです。ただそうした人たちでさえも、「承認か、傾聴か」というレベルの話になると「わしゃ、そんなことまで知らん」と「お手上げ」状態になるんですけどね。


 わたしにとっては一方でこうした人たちとの交友があったから、一方で明らかに心を病んだ人を援助する目的の「臨床心理講座」に通って傾聴を学ぶ、ということをしていても人間観の軸がブレなかったと思います。

 自分より圧倒的にサイズの大きい知性がある。その人の経験してきたことと到底同じ経験はできないけれど、畏敬の念をもって追体験し、学ぶ。

 これはだから普通の「傾聴研修」の枠の中ではおそらく学べないことです。
 そしてその人の経験知の大きさをはかり知る作業というのは、年齢が基準なのではなく、丁寧に分析すると「行動承認」に近いことをやってきたと思います。

 臨床心理講座でも「畏敬と尊重」を繰り返し言う武田建氏のもとで学びましたが、それはわたしにとっては、
自分をはるかに上回る知力体力をもつ人に対しても(想像力を働かせて)受け止め、またこころを病んだ人悩みを抱えた人も受け止め、と非常に広いレンジにこころを動かす作業を意味しました。
 

 そうしたわたしにとっての「暗黙の前提」が、しかし現代の「傾聴研修」ではほとんど共有されていない可能性があります。その人の奥行きを感じることなく、とても貧弱な人間観にたって傾聴をしている。

 ともすればその場の「悲しかった」「うれしかった」的なこと「だけ」が大事なことであるかのように。

 それらが大事ではないとはいいませんが、このところ会話の中で
「正田さんは12年1位を作ってきましたね」
という「行動承認(事実承認)」の部分がまったく不在のまま会話をすすめる人々をみたとき、

「なんだこれ!?」

と首をかしげたくなるのです。

 その場の感情についていう、

「それはお気の毒でしたね」
「それは残念でしたね」

とかの応答だけが大事なんでしょうか。

 もしそれだけが大事なことだと思っていたら、『行動承認』最終章にある親の看取りはできなかったでしょう。

「今痛い?」「つらい?」「苦しい?」
だけしか言えなかったでしょう。

「あなたはこんな風に人生を生きたね」
という形の看取りはできなかったでしょう。


 感情は確かに大事ではあるんですが、
 「感情が何よりも大事だ」と位置づけると、前にも書いたけれど行動しない「不作為」が増えてしまいます。

 詳しくいうと、人の感情の中でもっとも強力で影響力が大きいのは「不安感」「恐怖」なのです。生存のための根源的な感情ですから。良い感情はそれほど力をもつわけではないのです。

 もともと日本人は不安や恐怖の感情が強いけれど、何か新しいことをする前に必ず不安や恐怖の感情が頭をもたげる。そのとき、
「これは単なる気の迷いなんだ、あのとき決めて約束したんだから、やるんだ」
と思うか、それとも
「こわくなった。やりたくなくなった。感情は何よりも大事なものだと教わったから、この『やりたくない』という感情を大事にしよう」
と思うか。


 もし後者のほうを優先したら、仕事の世界の約束とか義務、責任の世界はガタガタになってしまいます。で正田の経験上も「感情が何より大事」と意識づけられた人はドタキャンが多かったのです。「理性」は感情に優先して大事なことなのです。


 財団になって「承認マネジメント協会」という名称になったのは、「マネジメント」という少し「統制」の匂いのする言葉を使わないと今の時代職場運営はできないな、という予感が働いたということがあります。


 だから、カウンセラーさんはメンタルヘルス時代なので自分の出番だと思って「感情が大事だ、共感が大事だ」と言うかもしれないが、わたし的にはNOです。
 そして、「行動と成長」という軸を大事にしたほうがいい。その中に人の幸福感もちゃんと入っています。

 2007年ごろのメンタルヘルス白書には、職場のメンヘル問題の解決策としてちゃんと「承認」が入っていて、あれは正しかったと思うんですけどね。今の人はあれを見てないんですね。


 また、武田建氏も1970年前後の論考で、自分自身カウンセラーであるにもかかわらず「青少年のキャンプリーダーには『傾聴』『共感』を教えないほうがいい」ということを言っていまして、あれも「先験的に正しい」のだと思います。
 これまでの経験で、「傾聴」を学んだ人が紛争解決の見立てを間違えやすいことを考えると、彼ら彼女らは共感しやすいほうに共感して、例えば自分と同じ属性であったり、多弁で自己主張の強いほうに共感してしまうので、ものを考える軸を誤ってしまうのだろうと思います。目先の感情に流される。そういう間違いをしてはいけない、という歯止めが「傾聴研修」にはないんではないでしょうか。


 「まさか」と思うことでも、教育を施すときに「暗黙の前提を共有していない」ことが今の時代、大いに起き得るのです。




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

 このところまた「傾聴教」の人たちと接して違和感を感じたことを備忘録として書いておくと、

 この人たちは「ものに驚く」ということがない。

 人の話を聴いて、「ええっ」と飛び上がったり、「大変だ」と感じたり、「大変勉強になります」ということがない。


 ほんとうは、わたしたちは人の話を聴くなかで、自分の細胞が全部入れ替わるぐらいすごい体験をすることがあり得るのだ。


 以前にも書いた、「特ダネをとるコツは?」のひとつの答えが「ものに驚くこと」だということ。従来自分の知っていた知識経験の中に収まりきらない、従来の序列をくつがえしてしまうものに出会うことがある。そのとき、驚きを驚きとしてきちっと知覚できるか。ひょっとしたら不快体験かもしれないその感情をちゃんと受け入れ、そして次の段階の思考をできるか。

 まあ、これがちゃんとできる人は記者さんでもほとんどいないんですけどね。みなさん自分の「想定内」のことしか聴こうとしません。


 でも、「傾聴教」が具体的にどんな研修の仕方をしているのか知らないのだが、みていると彼ら彼女らは、驚いたほうがいいところで驚かない。
 「それはすごいことですね」
と言うべきところでそう言わない。


 以前にもどこぞで「傾聴研修」を受けてきたらしい高校の養護教諭の先生を怒鳴りつけたことがあった、

「そのにやにや笑いをやめなさい!どこの『傾聴研修』でそれを習ってきたんですか!真剣な話のときは真剣な表情をしなさい!」

と怒鳴りつけたのだが


―その後結局この養護教諭の先生の見立てや筋読みは完全に誤りであったことがわかり、いじめ被害者の側であったわたしの子供は養護の先生の勧める自主退学を免れ卒業までこぎつけた。ほとんどの先生からみて「いい子」であり「守ってやるべき側」であった―

―「見立てる力」というものについては、すごく難しいが別の記事で触れたいと思う。全部で何が働いているのかわからない。わたし個人にとっては、記者経験、翻訳者経験や母親経験、あるいは幼少期からの読書経験いろんなものが役立っているが結果としては「12年1位」と、「業績向上の山」を築いている。このことはきちんと踏まえたうえで議論していただきたいものだと思う―


 いろんな体験を経て、「傾聴教」は、「他者への見下し」を教えているのではないか?と思う。

 カウンセラーさんから教わるばあい、実は先の養護教諭の先生のように援助職の人にも結構「邪悪」な心根の人がいるのだが、クライエントつまり話者を最初から見下しているばあいがある。

 とりわけカウンセラーでない一般社会人に「傾聴」をわざわざ教えにくる先生というのは、「傾聴」をできない一般人への見下しから入っているのではないだろうか。


 そしてとりわけ「クレーム対応のための傾聴テクニック」を教えたり学んだりするときそうなりやすい。表面的にほほえみ、表面的に共感しながら傾聴をすると、クレーマーは機嫌を直してこちらの言うことを聴いてくれる、みたいな。

 それは「人が人を『操作』することへの歪んだ期待」ともいえる。

 多いんだなあ、心理学を「いいものだ」という人の中に、その「操作したいという歪んだ期待」の人が。



 上記の高校の養護教諭の先生のように、そもそも「傾聴」をする側のスタンスが間違っている場合には、それはとんでもない「不敬」である。
 クレーマーがクレーマーでなく正義の側だったらどうするんだ、ということはそこではいつまでたっても考慮しない。(なのでわたしは緊急避難的に怒鳴りつけた)


―カウンセラーさんの仕事では、基本的に「内省を迫られる場面」というのはないのだ。
 ついでにいうと研修講師も内省のない人が多く、かれらの人格をかっこいいと思って真似すると内省のできない人ができてしまう―


 そして、「12年1位」のわたしは言ってしまうが、仕事というものは実績や事実に基づいて思考し、お客様のためを考え抜くのが仕事である。この基本から外れたら間違う。カウンセリングは、心を病んだときの緊急避難である。


 以前に「脳画像診断医との対話」の中での質疑、

「右脳だけを鍛えたらどうなりますか」
「簡単です。妄想的な人になります。何もやらない人になります」

というやりとりも、想起されたい。


 「行動に価値を置く」は、価値があるのである。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

 このところまた見聞きする、どうも「『傾聴』こそが経営者マネジャーの最も学ぶべきものだ」という流れというかプロモーションがあるらしいです。

 わたしが行く先々にいる、奇妙な「傾聴」をする人びと、はその産物なのだろうか、と思います。

 奇妙な「傾聴」というのは、例えば、聴くのはやたら時間をとって聴くけれど何も行動しない人。「あの会話はなんだったの!?」と口あんぐりになる。「傾聴」と「行動」がまったくリンクしていない、傾聴だけしたら自分はいい人だ、と思っているらしい人たち。

(決してみんながみんなそんな人ばっかりではなくて、先日ご紹介していただいた先では本当に真剣に聴いていただいた。ご紹介者の方が真剣に紹介してくださった、と思う)

 
 あるいは、傾聴するが目的がブレている、理念なき傾聴。具体的にはトラブルの仲裁者を買って出た人がいたんですが、加害者側に聞き取りをすると結局加害者の言い分に共感するばかりで何も「被害回復」や「再発防止」に役立たない。共感すべきはそっちちゃないでしょ、ちゃんと警察官をやってくれよ、という。いいとこの大学を出た社会的地位のある人でもそんなんです。


 歴史上、「傾聴」みたいなものが「救国の思想」になったことはないんですがねえ…、それはさておき。

 
 断っておくと、正田は以前は「傾聴」を連続セミナーの最初に置いていました。経験の浅いころ。その結果そのことの限界も見てきました。

 また、「12年1位」を成し遂げこの分野では特異な成果を挙げてきて、そこに働いた効果発現メカニズムもかなり丁寧に観察してきた人間であります。人一倍実地のPDCAを回してきたのです。


 決して傾聴全然ダメと言っているわけではないのです。現在も「承認マネジメント」の長いバージョンのシリーズ研修では、2回目に傾聴研修をやり、そこでは「地獄の傾聴8本ノック」という、世間に例のないどぎつい反復練習の傾聴研修をやります。(是非根性のある方は志願者できていただきたいです)


 長いバージョンの2回目にはやるけれど、それはあくまで1回目の「承認」の実現に資するもの、という位置づけでおこないます。「次の段階の話」であり「承認の手段」です。どうも、世間で「傾聴こそが大事」というのは、「『承認』の代用品」として言っているようにわたしには思えます。「聴いてもらいたい」の本当の中身は、「認めてもらいたい」。


要は、「完全にどちらかだけで」というのではなく、その先いろんなものを載せていく上でプラットフォームとしてどちらが優秀か、という話なのですけど。

 
 「傾聴研修」をどこかで受けて、その研修がすごく良かった良かったと思っている方にはたのしくないかもしれないですが、以下に「傾聴こそが一番大事」と言うことはなぜダメなのか、「12年1位」の先生としてご指摘をしたいと思います。もともと、心理学セミナーを受けて良かった良かったと思うのは、多くはそこに性欲に似た高揚感、陶酔感、恍惚感、それにナルシスティックな全能感が入っているからであり、それは実務の中では有害になることが多いです。思わぬセクハラ行為をしちゃうかもしれません。



■なぜ、「傾聴教」でなく「承認教」が有効なのか

1. 肯定する姿勢があるか

基本的な他者肯定、リスペクトのない傾聴は「拷問」ですらある。「暗黙の前提の不在」というタイプの詭弁。
経営者管理者の、攻撃性競争心高ナルシシズム高という基本人格を考えると、彼らに「他者肯定こそ最も大事」と意識づけるのは、手段でなくそれ自体目的としてなされなければならない。
偶発的要素や自己にとっての限定的な真実を排し、学生(経営者管理者)の現実を虚心にみなければならない。
カウンセラーさんであれば、単なるテクニックとしての「傾聴」以外にクライエントへの「畏敬と尊重」をみっちり学ぶ時間がある。そしてもともと他人を援助したいという人が多い。そして傾聴したあとその内容を何かに反映する義務は、カウンセラーさんにはない。純粋にコミュニケーションとしての傾聴をする。それを機械的に真似すると、見事にしゃべってばっかり、聴いてばっかりの行動しない人ができる。


2. 時間がなくても始められる「承認」
「忙しくても声かけぐらいできるから」(2011年兵庫工業会での正田講演)
「承認」は最初の一歩のハードルが低い。一歩を踏み出しやすい。


3.「承認」は「みる」「きく」両方にまたがる
そして、著書にも書いたように働く人にとっては、「みてもらいたい」「ああ、みてくれるんだ」というのは、最も根源的な欲求です。


4.「行動する責任感」をつくれるのは心理学ではない、「行動承認」だけ
これは長い読者の方ならおなじみの考え方ですね。そしてすごく大事なところです。
「言い訳が減った」という現象は最近でもありましたが、過去の宿題でも出ています。恐らく報告された以外にも多数例があるでしょう。
傾聴教なら、くどくどした言い訳に延々と耳を貸すところ、承認教では仕事の中で出会いがしらに「○×をやったな」と短く言ってあげればいいだけです。詳しくいうと、結局行動理論で「言い訳してるより行動したほうが、いいことがあるんだな、おもしろいんだな」と思うので、行動のほうが増える。そんなので言い訳が減って有能な人になるのだから、これほど効率のいいやり方はないではないですか。

実は「言い訳たれ」のケース以外に、「ウソつき」が相手の場合、というのも大真面目にあります。健常な範囲と病的なウソつきの場合があります。スマホ時代には「妄想的」な人が冗談抜きで増えるかもしれません。その場合も、相手の言うことと事実を虚心に照合するということをするので、「承認教」の事実認識のトレーニングは役にたちます。逆に下手に「共感的傾聴」をすると間違った解決になるでしょう。


5. 正義と法の精神、トラブル解決の思想
「承認」は単純明快な倫理のルールである一方で、意外かもしれないが、現代日本の法体系すべての基本精神です。就業規則のようなものにも適用される。そしてこのところ「仁義なき戦いの時代」のため、正田は「法」を利用してトラブル解決する場面もあります、読者の方はご存知のように。その場合も「承認」のちょっとした応用でやれてしまいます。
正田でなくても、法学や倫理学の素養のない人でも「承認」はすべてに適用できる基本原理。だれかがだれかを暴言で傷つけた、といった職場トラブルも「これ1本」で解決がついてしまいます。
逆に、素養のない人は冒頭にも述べたように「傾聴」だけ単独で与えても「何が実現すべき正義なのか、何のための傾聴なのか」でつまづくようです。結構な社会的地位のある人でさえも。


6. リーダーとしての「介入力」を育てる
「承認マネジメントの全体像」でいう
「アドバイス」
「教示」
「フィードバック/叱責」
「理念の提示」
を発信する力、受け取る力が「承認」実践につれて上司部下双方に育ちます。
これも仮説で言っているのではなく、リーダーたちの実践を通じてみられてきたことです。



7. 部下は「上司から絡んでほしい」と思っている
これも、もう何年も前から若手社員に詳しい人から指摘されていることです。部下は年上の上司に自分から話しかけてなんかこない。一方上司は「どう話しかけたらいいかわからない」と思っている。
だから、「存在承認」の「声かけ」大事です。また以前承認大賞に輝いた「わからないことを訊いてくれたね」(行動承認)も、大事です。
承認しないで傾聴だけしたって、部下はしゃべらないですよ。


 以上です。


「承認は勇気をもらえるんです。すごく大事なことですね」

と、「承認教」のある友人は言います。

 自分たちで「承認教」「承認カルト」と揶揄してはいますが、これは「12年1位」の自信の裏返しだと思ってください。
「傾聴」は、セミナーではいいかもしれない。あるいは実務でも、場面限定でいいかもしれない。しかし、企業の現場ではほとんどの場合「傾聴」 などしてられない、しかし「承認」はできるのです、普通の指揮命令系統の中で。そして有効、なのです。


 冒頭に書いたことの繰り返しになりますがわたしも「傾聴」をもっとも大事、とみなした時期はあります。それは駆け出しに近い頃、10数年にわたるPDCAプロセスのごく初期の頃の話です。

 その後効果発現メカニズムを吟味することを繰り返す中で、「傾聴」が単独で効果を発揮したと思えたことは他の因子も関与した偶発的な現象である、ということにも気がつきました。まあ、要は先生の正田がもともと「承認的」な人格なので、その人格に曝露した因子が「傾聴」そのものよりも強く働いた、ということなんですけどね。色々考えた結果、現場の忙しいリーダーにとって最優先で、「これ1つだけ心がけておけばいいですよ」と言って手渡すのに最もふさわしいものは「承認」である、という考えに行き着いています。もともと「例の表」の中によくみると傾聴も質問も含めてありますしね。


 その考え方になったあとで2011年から始まる「効果再続出」、そして統計を入れた後の13-14年の「効果爆発」になっているのです。結果は正直なのです。
現場の人がノドから手が出るほど求めているのは「承認」なんです。


 「傾聴教」が強いと、例えばある企業で「傾聴」を導入して、一向にいい結果につながらないなあ、というとき、次に「承認教」を導入しても、受講する側には既に悪い形で免疫ができていて、「また似たようなのがきたよ」と、もう受け付けない。そういう伸びきったゴムのような感性のところに研修をするのはおそろしく不毛です。だから、不毛な遠回りはしない方がいい、効かない薬を好奇心で入れるより効くとはっきりわかってる薬を最初からつかったほうがいい。

 またさらに、「傾聴教」がダメだとなると、こんどはこの手の心理学―コミュニケーション系の研修の類は全部ダメだ、と短絡的な思考に陥る可能性もあります。効く薬あるのに。

 だから、こういう分野って、「効かない薬」をのさばらせておくことは恐ろしい非効率なんです。


 そして最近出会った、なにか背景説明を隠したまま「承認だけが正しいわけじゃない」と、「12年1位」の実績を前にしても強弁する人たちは…、

 正直に言ってください。あなた、傾聴研修を受けて「うっとり恍惚」になったのでしょう。理性でなく本能を刺激されたでしょう。そのときの感覚を過去のものにしたくないのでしょう。それは思い切りあなたの主観ですよね。そして、あなた全然人格のいい人にも強い人にも責任感のある人にもなってないですよね。
 あなた自身が「傾聴教」にかぶれているという主観の問題を、「正田さんの想い」「正田さんの意見」なんていう、主観の言葉で実績豊富なわたしをよごすことに使ってすりかえないでくださいね。


 事実に即して言うなら、「正田さんの実績」そして「傾聴こそがもっとも大事だという一部の人の思いとか意見」こういう言い方をしたほうが妥当だと思います。正田、目の前に地元にいる素朴な女の人ですけど金メダル級の仕事をしてるんですよ。金メダリストは金メダリストとして扱いましょう。



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 このところこのブログの

「発達障害者は注意するのが好き?」

http://c-c-a.blog.jp/archives/51873335.html

という記事にアクセスが集中している。


 何かこれ関連の動きがあったんだろうか。


 わたしは10日(火)にも地元で「発達障害セミナー」に行った。100数十人だろうか、結構な人出だった。3人のスピーカーさんの情報量の多い講演、3時間半にわたって一方的に聴き続けるのは結構きつかったのだが、「双方向性」にするとややこしい問題が多いのだろう。チェックリストくらい入れてくれても良かったかなあ。(すみません広野さん文句言って;;)

 
 で相変わらずわたしは立ち回り先でも「発達障害」の語を連発していて、相変わらず「まさか」とか「そんなことないだろ」という反応が返ってくるけど、これがどれほど日常的な問題なのかマネジメント分野の方に早く認識してほしいものだと思う。大体元特ダネ記者の言うことに「まさか」で反応してはいけないのだ。


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 それとは別に、12月くらいからこのブログで「研修副作用」のシリーズをやっている。

 わたしから見ると世間で今流通している大人向けの研修商品のほとんどは「欠陥商品」である。


 細かいことでも、受講者の「問題行動/社会人としておかしな行動」を招いてしまうことがある。


 例えば、ア○○○○○。これを受講した後の人に、きわめて不適切な形で「NOを言う」症状が出ることが多い。任意団体―NPOとやってきて、そういうのの被害を散々受けてきて、「ア○○○○○要注意」という認識になっている。

 なんどもいうように趣旨としてはすごく共感する、ただし受講した人の問題行動が多い。わたし個人的には、結局親や先生、養育者や上司の側が「引き出す」関わりをしっかり学ぶと結果的にア○○○○○の目的は達せられるのではないかと思う。

 
 最近流行りのア○○○○○○○○○(字数あってるカナ)もそうで、「怒り」というマイナス感情に焦点を当てても何もプラスの効果は生まない、むしろ悪い方向への作用が多い。
 悪い方向への作用の代表的なものは、「問題軽視」の傾向を生むこと。「まずい!」「それはいかん」というマイナス感情をわるいものだと思うと、問題を「ない」ものだと認識しちゃう、「なんだそんなこと、ハハッ」という態度になる。
 リーダー層がそういう感情状態になったら、どれほど深刻な組織の害を生むことだろう。現に多くの組織でそうなっていないだろうか。



 うちの業界でだれもそういうこと言わないんだよね。

 教育会社さんなどは、年々変わる新しい研修商品をわるくいえば「ころがし」て、新規性で企業の人事の人の目をひきつけてマスコミの目もひきつけて、生き延びるのが正しいんだと思っている。


 そしてマスコミもそういう構造になっていることを気づくところは少なく、流行りもんのネタとして研修商品を紹介する。 

 だれも企業や地域や国の行く末を本気で案じてない。



 そうそう、「ワ○○○○○○○○○」も、今流通している研修商品としてのそれの大半は欠陥商品だとわたしは思う。


 わたしの親しい友人のひとりは、プロジェクトの大詰めで20代の優秀な部下数人が毎日終電帰りだというが、マネジャーであるこの友人は

「思い切り悔いのないようにやりなさい」
「今からの仕事で必ず役に立つよ」

と言って、黙認しているらしい。


 今、その当たり前が言いづらくなっている企業や組織が多くなっているのではないだろうか。

 ブラック企業の勧めなんか当然しないけれど、仕事には死に物狂いでやるような節目が必ずあるものだ。それを経験した人はひと皮むける。


 多くの人がはき違えを起こしやすい部分があるとき、そのはき違えに歯止めをかけるプログラムが組み込まれているだろうか。わたしにはそれを考えることは仕事なんだから当たり前に思える。





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一般財団法人承認マネジメント協会

 

 以前にも人の「瞳孔(ひとみ、黒目)」の大きさと脳の状態についての記事を書いたことがある。


 『ファスト&スロー(上)』についての読書日記

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51849252.html


 この記事では桁の大きい計算をしている人は瞳孔の大きさが1.5倍程度になるという実験が出てきて、それを評して正田が「真摯な人は黒目が大きいってことでしょうかね?」てなことを言っています。「脳を注意ぶかく使っている」ということだから当然「承認」との関連性も興味深いです。


 あっちなみにこのブログの過去の登場人物はどうしてこういう言動になるのか?という疑問にも上記の記事は結構答えてくれていて、お時間のあるときにはおすすめです


 一方で悪感情をもっている人が黒目が小さくなる、というのも現実生活でよく経験することで、これに関する記事がないかなあと探していたら、よそのブログで辛うじてこんな記事が出てきました


 「ネコ語のチェックポイント 耳・目編」

 http://blogs.yahoo.co.jp/miki1958jp/19882963.html

 
 ―とりあえずネット上で情報を探しましたが文献でも見つかるとよいですね―

 
 ニャンコちゃんの言語の「目」に関わる部分をちょっと引用させていただくと(ちなみに人間でも同様だそうです)

感情による変化は、恐怖を感じたりして興奮すると瞳孔が開いて円形に近づき、反面、攻撃モードへ突入すると瞳孔が閉じていき、最後は針のように細くなります。

★目の感情表現
普通・・・中ぐらいの瞳孔の大きさ
攻撃・・・瞳孔が針のように細くなる
恐怖・不安・・・目を見開き、瞳孔も広がって丸くなる
迷い・・・瞳孔は中ぐらいからやや開き気味で、左右の目がバラバラに相手を見つめる
満足・・・半ば目を閉じて半眼になる

私は上に、「好奇心・いたずらしている時・・・くりくりまん丸」を付け足したいですね。



 恐怖を感じると黒目は大きくなるのですって。

 先日アニメ映画『進撃の巨人前篇』を観に行って、違和感を感じたのはこの部分ですね。
 登場人物が明らかに「恐怖」を感じている場面で、黒目が逆に小さく描写されてましたからね。
 逆だろ、って1人でつっこんでました。

 今年夏にはアニメ版後編も公開されるそうですが…、
 今から修正するのは無理だろうなあ〜。全体としては好きな世界観でしたけど。


(はい、実写版も観たいと思っています。仕事しろよ)


 
 で、恐怖より「攻撃」のほうに興味をもって元々調べていました。

 「攻撃」モードのときは黒目が針のように細くなるそうです。

 人間のときはどうかな?細くはならないと思いますが「小さく」はなるでしょうね。


 「脳が照準を定めた」という感じでしょうかね。


 そういうことを知っていたとしてわたしが変な攻撃に遭うのを防ぐことができるのかというと…、
 できない、のかもしれませんけど。


 あと「S(攻撃)モードに入ったときは黒目が白っぽく濁る」という情報も最近入りまして、これも裏づけの知見がどこかにあるといいな〜、どういう現象やろな、と思います。どなたかご存知の方はご教示ください。

 (わたしも「ビー玉のような眼」が、「対話を打ち切った」ときに出現するのはみたことがあります。一緒カナ)
 


 まあそういう人に会わないで済めばそれに越したことはないですね。


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 「自分原因教」のバイブルを1冊買って読んでみましたが

 途中で「レディースコミックやな、これ」と放り投げました。いえそういうのの読者なわけじゃないんですけど。

 以前にも心理学のセミナー後の「信者」の方のこころの状態について感じた、「魚眼レンズから世界を見ているような状態」。自分中心に曖昧模糊とした世界が広がっていて、周囲の人もみな「点景」にすぎなくて。


 そして、「すべては自分の思考が引き起こしている」というお題目。わたしは近所のP&Gビルの壁で高所作業をしているおじさんをみながら、「あのおじさんが作業するのもわたしの思考が引き起こしているのかなぁ」とつっこみました。いや、「承認教」的には、おじさんにはおじさんのロジックがあって作業していると思います。


 実は「モンスター魔性の女性研究者」がつくられるロジックもここにないか?ということも勘ぐってしまいました。
 生命科学の世界の歪みについては、このところ出版が相次いでどれも興味深いものですが、わたしは「人分析」の人間なもので―。


 生息環境も大事ですが、本人自身の中にどういうロジックが流れているか?

 「女の子はみんなプリンセス、だって可愛いんだもん」という奇怪な実験ノートのフレーズ(注:ネット情報による)は何から生まれるか?

いみじくもこのバイブル本には、主人公の女の子が会社の上司と不倫をして相手の家庭を破壊しその後別の男性と幸せになるというハッピーエンドのエピソードが出てきます。いいんですかそれ。自分原因教って魔性の女のすすめですか?


 この本も、まっとうな知性の持ち主なら普通は放り投げる種類のものですが、年頃の女の子にとっては著者が「アメリカで学んできた」というだけで「お墨付き感」がある。

 (自己啓発の世界は大体どれもそうです、どんないい加減な内容のものでも)


 こういう「魚眼レンズ思考」の人は、過去の経験から言うと、非常に仕事とかやることにムラが多く、たまにすごくいいことをしたかと思うと後に続く日々はすごく「やる気のない」仕事ぶりで時間もルーズ、仕事の質も低かったりする。朦朧とした感じで日々を送っている。

 そしておそらく「本やセミナー」だけの影響でそうなったというより、もともとそういう傾向があって刺激を受けてますます強化された、のであろうと思います。

 本当はそういう傾向の持ち主の方の正しい問題解決方法はそうではない、ちゃんと診断を受けて適切な薬をのんで、というほうが社会適応がいいのだろうに。


 ココロヤジンノスケという人の本も読んだほうがいいのだろうか。

 仕事しろよー。これも仕事です。どうだか。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
 

このブログで「自己啓発セミナー」「自己啓発本」について、あまり深入りして論じたくない。去年暮れも1冊読んで、「自分の血が汚くなる」のを感じたから。テストステロン―ドーパミン連合、つまり「悪」の匂いを感じたから。

自己啓発セミナー等の源流についてご興味のあるかたは、

もしお時間が十分にある方はこちらの記事をご覧ください
(読書日記です。最近はこういうガッツリした本の読み方をしてないなあ):

エスリンでうまれたものと日本(2008年5月)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51344385.html


続・エスリン研究所―実験と成功と失敗の歴史 (同)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51344817.html


要は、アメリカ心理学というのは1960年代からバカな実験を繰り返してエクストリームな方へ行っていて、その中から今の自己啓発セミナー、自己啓発本につながる流派が生まれ、またそれのうちの1つがわが国の大手コーチング研修機関に「進化」したりしました(有名な話であります。えっ、しらなかったの?)
以前に取り上げたNLPもエリクソンの弟子と銘打っているがこの流れのようだ。


正田の私淑してる「行動理論」の武田建氏(関西学院大学名誉教授)はそうしたどぎついきわどい素人を惑わす心理学の一連の流派を、「ビジネスコーチング」も含め、徹底的に嫌った人でした。そういうのもあまり知られてないことですよね。


その武田氏が、今時のコーチングの徒だった正田を大学院の聴講に受け入れてくれたのは(2007年のこと)、不遜ながら多分正田がその当時から現代のビジネスコーチングに疑問を感じそれをこのブログでも発信していたのを信頼してくれた、のではないかなあと思っております。そこはご本人に訊いてないんですけど。

―あとから思い出しました、武田氏が2007年、当時のCLS(NPOの前身)主催の講演会に来て話してくれたのはさらに驚異的なことだったな、と思います。かれが講演の中のスキナーの説明でイヌの真似までしてみせたのは、「行動理論家」としての強固な誇りゆえだったと思います。おっさんまだ元気かなあ―



なんであんただけそんなこと知ってるんだ、と言われると、よくわからないですけど正田、記者時代から特ダネ記者でしたから。としか答えられないなあ。
「広島のハタケヤマ(旧姓)から、独自(特ダネのこと)!」
っていう東京のデスクの叫ぶ声を何度電話口できいたかしら。

あっ、その要素があるから新聞記者さんには嫌われるんです、たぶん。わかりますよねそういう気持ち。


なので、まあこのブログの長い読者のかたはみなさん正田のことを信頼して読んでくださってると思うんですけど、たぶんそのまま信頼してくださって大丈夫です。はい。


自己啓発セミナーの有名なフレーズに「すべては自分の選択である」というのがあり、一見間違ってないように見えますけど場面によって個体によってはおかしなことになるんです。まあいっこ前の記事にあるように、「ブラック企業をガマンしましょう、わるいのは自分教」になっちゃう可能性もあります。わざわざあえて言う価値のあることかな、と思います。今はやっている女性向け自己啓発本のフレーズにちょっと似てますね。その古いほうのフレーズは今コーチング研修機関に「化けた」自己啓発セミナー研修機関の教祖の人が言ってましたね。

あっ、よく見たらエスリンの一本目の記事にこの人物のセミナーの模様を紹介してますが、現代のミニスカ女子を集めた自己啓発セミナーもこんな感じ違いますか?結構な高額らしいですねえ。社長お持ち帰りし放題w


ああそれでね、正田が「行動理論ー承認論」っていう心理学のごく浅い分野をやってると、得意そうに「もっと高度なこと知ってますよ」って振り回してくる人がいますけど、前にも書いたけどそういうのは「ニンフォマニアック」に出てくるおばちゃんと一緒でただの悪趣味ですw ごめんね言い方えげつなくて。でもそういうおバカな人があまりにも多いからw



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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追記
たった今、パブラボ社菊池社長からメールPDFで、押印した「絶版等契約書」をいただきました。同様のものを郵送でもくれるそうです。
厳密には当方で「生」で押印した、レターパックで郵送した契約書を郵送で返送してもらうのが後々トラブルがないんだと思いますけどね。


 このブログでは去年の暮れに「某魔性の女性研究者」についての見解をいちどまとめておいた。その直後に年末の回顧番組やコーナーが花盛りで「あれはなんだったのか」とまた嬉しそうに彼女の容姿をなめるように映した映像が出て。は〜。

 このブログでの辛辣な記事をこころよく思わなかった読者のかたもいらっしゃったようで、そのせいで嫌われたカナという対応にも出会う。
 でも、人材コンサルタントの端くれ(笑)としては、やはりああいう見解をきっちりまとめて発表もしておいたほうがいいように思う。


 「女性活用」―近年は「女性活躍推進」とよりウソくさい言葉に言い換えられている―をまじめに考えれば考えるほど、「魔性の女タイプ」って現実にいるよね、という話になり、恐らく何十人に1人かで出現するそういうタイプの女性を職場でどう扱えばいいのか、という話になる。
過去に「何が何でも女性活用」をした先に何が起こるのか、みたいなことを書いたときイメージしたのはこういうことだったかもしれません。公正な基準がなかった場合には「実力より愛嬌」ってことにすぐなると思う。


 ―ちなみに先日化粧品売り場に行ったら「魔性の盛りまつげ」という商品があって笑いました―


 で具体的な研修企画の段階になると、必ず「女性パワーアップ研修」をしよう、という話が出る。女性たちは同性で寄り集まるとすごい勢いで話してフラストレーションを発散させるので、そういう企画をするとああいいことした、モチベーションアップした、みたいな気分になる。「無難な企画」というか。


 しかし、とわたしは思う。
 ―このブログでは去年秋、「女性意識改革研修」のオファーをお断りしてしまったお話も書いた―

 仮に「うちの隣の島の研究機関」で「女性パワーアップ研修」と称して女同士でおしゃべりする研修を企画したら、どんなことが起きただろう。
 「魔性の彼女」に対してそれ以外の女性研究者は非常に厳しい視線を向けていたという話だけれど。
 女性同士で、相互学習機能を発揮しただろうか。どう思いますか。


 わたしが予測するのは、

1)「彼女」がほかの女性からつるし上げられる(でも正義はほかの女性にあると思う)

2)「彼女」が1)の事態を予測して欠席し、ほかの女性同士でぶつくさぶつくさいう。「大体男たちがだらしないわよね」と。こちらのほうがありそうだな。


 どちらにしても、あまり建設的な図ではないと思う。

まあ「魔性の女性」がいなかったとしてもですね、これまで2回ぐらい女性コミュニティの講師をしてますが(少ないでしょ)思ったのは、今ひとつ「女子会」とのけじめがつかないということです。「ああおしゃべりするって楽しいわねえ」というレベルの満足で終わっちゃう、だったら講師あたしじゃなくてもいいじゃん、というのも正直思いました。
あたしはやっぱりごついおっさん集団に研修してるのが面白い。(変な趣味だ)

 ではどうしたらいいのか、というお話だけれど、

「結局、『一言居士』と言われてもそこは『承認』なんです」

とわたしは言う。

 著書の中でもいくつかのエピソードに女性活用の場面が出てきて、それぞれ業績向上にも大きく寄与する。


 「上司(多くの場合男性)が『行動承認』中心の『承認』をおこなうことによって、女性たちも『けれんみなく頑張る』ようになるんです。『けれんみなく』というところが大事です。

 魔性の女性研究者、あのひとがなんであんなモンスターになってしまったのか。わたしは上司の責任だと思います。芽が小さいうちに摘むべきだった」



 「承認」しか知らんのか、と石を投げられるかもしれないが、結果としては現実にそうなっている。「承認」を実践した上司のもとで、ややひねくれていた女性が変わった、素直に頑張るようになった。すごいパワーを出し業績を出した。

 それは人の働きを日々、「行動」という最小単位に還元して観察し隔てなく評価する上司の姿勢から、そうなる。


 「この教育」不在のところでは、上司がやっぱり微妙なスケベ心で女性たちを見、たぶん肌の白さとか小首を傾げて話す表情とかに見とれるのだろう。それは上司の心の隙でもあるし、「視線」を体育会的に鍛えるトレーニングを受けてないからでもある。


 「魔性の女性」の存在を許しておくと、やはり社内の気風、とりわけ女性たちのモチベーションには真剣に影響する。なのでこのブログでは「人材のプロ」として態度表明することを許していただきたい。



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 これはいまだ答えがない話ですが、

 大人向けの研修やセミナー、ワークショップで「責任感」をつくるのはほとんど無理、なのではないか、とわたしは思っています。


 よくある心理学系のセミナーで「表現力」は伸びます。人前で臆せず話し、高らかに謳いあげるように語ったり上手に話の辻褄を合わせたりします。


 それをもって、「セミナーで自己実現した」と思うむきもあるようです。
 しかし、ちょっと考えればわかるように、「表現力」とか「話す技術」は、「実行/行動」という、仕事の能力として最優先で大事なものとはまったく関係がありません。
 一見「自己実現」にみえても、それは「表現力」に偏った、つまりわたし流にいうと「キリギリス能力」だけに偏った成長/能力向上なのです。


 たとえば、何かのトラブルを目にしたとき

「今自分が行動しなければ何が起こってしまうか」
「お客様に、ひいては会社や同僚にひどいダメージを与えてしまうことになるのではないか」
「じゃあ、(疲れてるけど、めんどくさいけど)自分が行動しよう」

 そのように思う思考回路というのは、セミナーでつくれるわけではないのです。「苦痛だけど、でもやる」という思考回路。


 何がその原動力になるのでしょうね・・・、「愛」ともいえるし「体にズキンとくる感覚」ともいえるでしょうか、それはちょっと自分の感覚に頼りすぎてるかもしれないですが。


 また、

「自分が言ったことはやりとげる」

 それを、見栄つまりナルシシズムで動かされるのではなくそのとき言った相手への、あるいは自分自身への誠実さを原動力に行うか。


 あるいはまた、

「行為責任」

 ―これをやったのはあるいはやらなかったのは私だ、という感覚。

 まれな例として、アサーション/アサーティブネスのセミナーでは、「NOを言う技術」を教えるときに

「あのとき引き受けてしまったのは私の責任でもあるのですが」

ということに言及しなさいね、ということも言います。心理学のセミナーではほんとにまれに「責任」ということに言及します。
(ただ、実習の中で注意点としては与えますがそれほど重きを置いているともいえない)


 私見では心理学というのは、大筋こころを病んだ人を治す/癒すことを目的に発展してきた学問なので、「責任」というのはそこではそんなに重要ではなくて、むしろ「肩から責任を下ろして『らく』になりなさい」という文脈のほうが強いのではないかなあとわたしは思います。


 「責任」を教えるのは教育や倫理学の分野です。また、生まれつきの個体差もかなりあるようです。


 わたしの場合はなんだったのだろうか、目立ちたがりではなかったですが学級委員には、よくなりました。あとは高校までは、「社会人としての先生の立ち位置」というのはそんなに意識してなかったけれど、大学後半で師事した恩師は当時50前後でまだあっちこっちとよく「闘う」人でした。


 子供には、犬の散歩を輪番制でやらせて女の子2人は当然のようにやっていたが、男の子は比較的逃げ回ることが多かった。


 このブログでその過程をかなり詳しく書いていたのですが、男の子に関しては小学校5,6年のときの男の担任の先生が大変見込んでくださり彼に可能な範囲の仕事をどんどん与えてくださり、その当時は親からみてもかなり「責任感」が育っていた。ところが中学で心無い先生に遭い二度と責任ある役割を引き受けなくなってしまった―簡単に言うと「過剰期待」で潰された、ということです―


 たぶん男の子の思春期には先生との出会いがかなり大きくものを言うのではないかと思います。いいにつけ悪いにつけ。


 そのときの5−6年の担任の先生にはその後「教育者インタビュー」でも登場していただいていますが、その先生のノウハウというのは子供たちに仕事を与え、達成したら褒め、というのをこまめにされているのでした。「責任感」というのは、そういうふうにして子供時代を通じて育つもののようです。


 子供のころそういうプロセスを経ないで大人になった人に、とりわけ男子に、「責任感」を教えることはできるのだろうか―。

 少なくともセミナーでは無理だとわたしは思います。

 じゃあ「先生」の役割を果たせるのはだれなのかというと…。




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 気持ちとしては社員10人ぐらいの規模の会社に期待したいのだけれど―、

 そういう会社の1つで起こった話。


 自社主催で「目標設定」「未来の夢」に関するセミナーを開催した。
 数か月後。


 この会社は仕事量が増えすぎ、恐ろしく仕事が「雑」になり、既存顧客との約束が果たされず顧客からクレームが次々上がった。投資してもそれについて十分な施策をとらなかったため投資をドブに捨てる形になった。


 何が起こったのかというと、恐らくこうなのだ。

 「目標設定」ということに生まれつきワクワクしやすいドーパミン過剰なポジティブな体質の人がいる。また下手に体力があり長時間労働ができる体質の人がいる。
 そういう人がこの手のセミナーで「洗脳」というかそういう脳の配線を「強化」されると、例えば壮大な目標を掲げて、そのために昼夜をわかたず突っ走り、仕事量を増やし、その分「質」がおろそかになる、ということが起きてしまう。
 会社としては異常な状態である。


 過去にも、某心理学系のセミナー(目標設定プログラムを含む)で「洗脳」されたご同業の方が当団体の営業資料を「盗用」する、ということが起きた。
 「目的のために手段を選ばない」ということすら、起きてしまうのだ。目的のほうに目が釘付けになってしまい手段のもつ倫理的側面まで目を向けない、というか。



 そういうわけで「目標設定」を扱うのは当協会ではかなり慎重なやり方をしている。「質問研修」の一環だけど。もちろん第一段階で「承認」をみっちりやり込んで、周囲の人との人間関係をしっかり作ってもらう。

 手順も、多分受講された方はご存知と思うのだがあまり飛躍のない「目標」に落ち着くような手順で行う―それでも受講された方の「個体差」によってはやたら高い目標を掲げてしまう人もいるのだが講師のわたしがそういうのに気がつく限り「潰す」。


 「人生のビジョン」とかの壮大なものは、そこではあんまり扱えないのだが、いいのだ。
 わたしもビジョンを扱うセミナーを随分受けてきたが本当の自分のビジョンはそういうところでは出なかった。日常生活の中でフワッと「感じる」とか「見える」ときがあるのだ。自分の歴史とか大きな歴史観社会観とか、これまでの人間関係とかを総合したものだ。

 ―まあわたしの場合はその結果、「ビジョン」「夢」のような上向きのワクワクしたものより、「志―なにかをやり続ける―」とか「早くお墓に入りたいな」とかのくらい未来観になってしまうのだが。


 
 上記の目標設定セミナーの場合、詳しいやり方はきいてないのだがどうもプロを呼んだのでなく自前でファシリテーションをしたみたいである。どうぞご自由に。どのみちプロを呼んでも結果は一緒だったかもしれない。


※あとで思ったけれどひょっとしたら「目標や夢をみんなの前で宣言する」ようなやり方だったかもしれない。「ええかっこしい」の傾向のある人だとそういうとき見栄で大きな目標を言い、しかもそれに続く現実生活でも引っ込みがつかずそれに拘束されるかもしれない。


※あっ、宣伝臭いかもしれませんが当協会方式の目標設定・達成研修は、慎重な割にはめちゃくちゃ「効き」ます。質問にも「型」を教え徹底した反復練習を行い、質問される側も正しい手順で質問されるので、(なにせ「この通りやれば世界一のコーチングができますよ」という1枚ものの紙を渡してしまうので)非常に質の高い決断ができ、日常生活での決断スピードが速くなります



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 体調を崩しているのでやめた方がいいかもと思いながら引き続き「研修副作用」の話を。


 数年前に「NLP(神経言語プログラミング)」というのが、「コーチング」よりもっとディープな心理学として流行りました。

 
 当ブログでは何度かこれの問題点についても話題にしてきました。

 代表的なのはこちら


上から目線を喜ぶ人々―コーチングネガティブキャンペーンへの反論

http://c-c-a.blog.jp/archives/51859011.html


 要は、NLPはエリクソンという不世出のカウンセラーの行った技法を再現し習得可能にしたもの、という触れ込みでしたが、それは

「あなたもイチローになれる!」

というのが嘘くさいのと一緒なんです。

 心理学の基礎訓練を受けてない人に、心理学界のイチロー並みの人のやることを「短期集中講座」で習得できるかのように煽る。

 
 かつ、野球より心理学のほうが「たちが悪い」というのは、それが他人様の心をいじくる方法、とりわけ上司部下関係で使う場合には立場の弱い部下の心をいじくることになるからです。


 NLPもいくつか前のコーチングの某流派と同じで、よりどぎついもの、きわどいものが好き、という価値観の人たちに好まれるところがあります。

 とりわけ、「某流派」と類似しているのは、「恐怖症の治療」という、心理学の専門家にとっても最もディープなことをやらせることです。

 「某流派」が「恐怖症」を扱うやり方は、「エクスポージャー」とか「フラッディング」という手法で、オペラント条件づけも属する行動療法の中の最もディープなものです。当然、熟練したカウンセラーしかやってはいけません。でないとクライエントを傷つけてしまうおそれがあります。

(最近この件でカウンセラーさんとお話する機会があり、これらの手法は時間がかかるわりにあまり治療効果がない、またわたしが実感したとおり情緒不安定になりやすい、ということでした)


 NLPでは、恐怖症を「タイムライン」と呼ばれるやり方で取扱います。

 ある時期NLP流行りのせいであまりにも上から目線の人に出会って鬱陶しかったので、わたしは2008〜09年、不承不承NLPのセミナーに通い一通りのワークを体験しましたが(ので一応マスター・プラクティショナーの資格も持っていますが表示したことはない)、
 正直言って「タイムライン」というやり方で恐怖症が治るとは思えなかった。周りの人が「治った」と言っていたり「個人契約のNLPコーチングを受ける」と言っているのが不思議でした。

 どのみち治るにせよ治らないにせよ、素人が他人様のそこまで深い部分の心をいじくることは「危険」です。

 
 ―現在は「EMDR」という心理学の最新のトラウマ治療の手法は信頼できると思い、人に勧めたりしています。これも選ぶのは自己責任でお願いします。わたし自身は自分がこれの施術者になることはありません―


 ともあれわたしはNLPは素人が行ってはならない領域を犯しているものだ、と当初から認識していたし、一通りの訓練を経験したあとも資格を表示したりはしていません。


 「承認研修」の中では、「行動理論」の説明の中の「レスポンデント条件づけ」のところでこれは恐怖症の治療に使われる、職場のマネジャーさんが使うものではないから説明は割愛する、とお話します。


 2007年、武田建氏の大学院の講座を聴講して同氏がレスポンデント条件付けの「脱感作療法―恐怖症の治療法にもつながるもの―」をやるところにも立ち合いました。1人の院生さんが暗示にかかったようになって倒れてしまいました。


 わたしがセミナーでそこの部分をやらないからと言ってNLPの先生に比べて「劣る」先生だと思わないでくださいね。ああこんなことクギをささなきゃいけないなんて。

NLPが鬱陶しかったのはそれ以外にも、カタカナの心理学用語が頻出し、「ペダンディック」「スノッブ」と形容したくなる「上から」ぶりだったせいもあります。武田建氏の「コーチは選手にわかる言葉を使わなければならない」とは対局にあるものでした。

 
 思うのですが、良識ある研修機関が「それはやってはならないことだ」と、やるのを避けていることを、あえてやることで新規性や奇抜さを売り込もうとする研修業者は、絶えず出るのだろうと思います。

 そして購買側にはそうと見抜くほどの知識は、ないです。(「知識」と言うにとどめておこう。。ほんとは「見識」って言いたい)

 どうしたらいいんでしょね。
 被害者は現場のマネジャーや、部下たちです。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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お世話になっている皆様


 おはようございます。
 企業内コーチ育成協会の正田です。

 あっという間に「師走」になってしまいました。ここからが早いんですよねー。。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

※このメールは、NPO法人企業内コーチ育成協会のスタッフ及び代表理事・正田が、過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
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 本日の話題は:

■「女性が輝く社会」が絵に描いたモチにならないために。
 女性活躍推進カフェ 開催しました!

■あえて「研修副作用」を語る時代になりました
 アドラー心理学・怒りのマネジメント・コーチングの流派

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■「女性が輝く社会」が絵に描いたモチにならないために。
 女性活躍推進カフェ 開催しました!

 4日、三宮・カフェ「アロアロ」にて、第41回よのなかカフェ「『女性が輝く社会』には何が必要?」を開催させていただきました。
 大変、「深い」対話と議論になりました。

 ご興味のある方は、こちらに詳報を載せましたのでご覧ください:
GDPのためではなく、女性が自分の意志で人生を決められる社会を―よのなかカフェ「『女性が輝く社会』には何が必要?」開催しました
http://c-c-a.blog.jp/archives/51903578.html
 今回のカフェは、自治体勤務の恵理さん(仮名)が、「女性自身をパワーアップするって、何か違うんじゃないかしら」と、ポロッと漏らしたことが発端。
 その問題意識から発展して、記事タイトルにもある
「GDPのために女性活用を、というのは何か違うような」
「有形無形の障壁をとりのぞき、女性自身が自分の意志で人生を決められることが理想なのでは」

といった、参加者の気づきにつながりました。

 また「男性が女性の足を引っ張っていることに気づいた」という、ある男性参加者の気づきも「マネジメント」を専門とする当協会主催ならではの興味深いものでした。

 現状は、まだまだ後進国。息長く取り組んでいかなくてはならないでしょう。

 よのなかカフェでは、時事問題、社会問題について社会人が対話し、考え・気づきを深める場として2009年4月以来41回にわたり開催しています。
 その司会進行(ファシリテーション)の仕方も独特のものがあります。
 
 それについてこのたびまとめた記事を「続編」のような形で掲載しました:

後日談 よのなかカフェと女性とファシリとブログ文体と。。
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51903587.html 

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■あえて「研修副作用」を語る時代になりました
 アドラー心理学・怒りのマネジメント・コーチングの流派…

 「研修」と「副作用」。耳慣れない言葉の組み合わせです。

 心理学系のマネジメント研修は、気をつけないと色々な「副作用」を引き起こしてしまいます。
 ところが、そうしたことに無頓着に研修を売り、買いし実施されることが多く、当協会はこれまでにもブログで警鐘を鳴らしてきました。

 わたしの感覚がおかしいのかな?と思っていましたら、たまたまきのうフェイスブックのお友達から紹介いただきました、将棋名人・羽生善治氏の記事がありました:

若手に負けぬための秘密の習慣
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141207-00014033-president-bus_all 

 ここで羽生氏はこんなことを言っています:
「勝負の世界では、ベストだと思う手法が通じるかどうかは、常に皆目わからないものなんです。ただ、この場面でこのやり方は通じないとか、この手はあまりよくないだろう、という当たりはつきます。
 経験知が活きるのは、そういう場面での対処ではないでしょうか。つまり「こうすればうまくいく」というより「これをやったらうまくいかない」ということを、いかにたくさん知っているかが大切であるような気がします。
 いろいろある選択肢の中から、何を捨てていくか。取捨選択の捨てるほうを見極める目が、経験知で磨かれるのだと思うのです。」

 いかがでしょうか。「心理学」や「コミュニケーション」の研修や本が、こうした視点を持たないまま売り買いされることによって、どれほど人々の不幸を作り出しているか、あるいは「効果のない、意味のない研修」というものが行われているか。
 羽生氏の発言をみて、大変意を強くしたわたしです。

 わたしはこのところ意を決して、これまで以上に正面切って「副作用」についての記事を書くようになっています。
 もしご興味があれば、ご覧ください:

またまた研修副作用の話 できれば書きたくない。。
http://c-c-a.blog.jp/archives/51903264.html

研修副作用の話(2)―正しくないしめんどくさい人たち
http://c-c-a.blog.jp/archives/51903306.html

「勇気づけ」についての副作用情報。。
http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html 
 まだだれも言いだしたことのないことをあえて言うことは、わたしにとって勇気の要ることでした。
 励ましてくださいましたフェイスブックのお友達の皆様、本当にありがとうございます。

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★「『行動承認』の世界」はお休みいたします。

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「企業内コーチ育成のすすめ」
(株)帝国データバンク社『帝国ニュース兵庫県版』
2008年〜2012年 長期連載このほど完結
http://blog.livedoor.jp/officesherpa-column/

兵庫県中小企業団体中央会発行月刊「O!」連載コラム
「誌上コーチングセミナー」
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50054961.html


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 例によって「はしたない」話題ですが副作用情報を。

 ここ1−2年非常に流行った心理学の分野に「アドラー心理学」があります。
 特定の本の題名を挙げず「アドラー心理学」というにとどめておきたいと思います。

 アドラー心理学で勧める手法に、「勇気づけ」というのがあります。


 それだけきくと、何もわるいことはない、いいもののようにみえますが…、「勇気づけも『承認』の一部分としてあるから、わるいものじゃないよね」と当初は思っていました。

 こういうものでも「副作用」がちゃんとある、という体験を最近しました。これは、実際体験してみないとわからないですねえ。


 今年またベストセラーになったこの分野のある本では、文中で「承認欲求」を否定しながら、有効な手法として「勇気づけ」を勧めます。


 この結果―。

 わたしが実際体験したある会話。

 わたしの出してきたエビデンスや、出版や事例セミナーといったそれらのエビデンスを提示する誠実な手続きを完全否定し、何の価値もないように言う。そうしたエビデンス提示を何もしていない同業他社といまだに横一線、何の差別化も出来てないように言う。

 そのうえで、「あなただけではない、女性経営者はみんな大変な思いをしていると思いますよ」と訳知り顔で言う。50代の男性です。
 やれやれ、わたしがどんなレベルの辛酸をなめてきたかなんてあなた知らないでしょ。またそういう理不尽を繰り返していいなんてとんでもないことです。


 恐らく、この男性はアドラー心理学の本を読んだのだろうな、とわたしは睨んでいます。

 アドラー心理学では、当協会方式のような「承認」や「リスペクト」が不在なんです。「承認欲求」を否定しているわけですから、他人の承認欲求を満たす行動をとる必要もありません。リスペクトについては一切触れてないんじゃないかなあ。大体「哲人」なんていう上から目線の人が説教するわけですから…。

 承認とリスペクトが不在のまま「勇気づけ」だけを行ったのが、上記の男性の事例であります。


 「盗人猛々しい」ということわざは状況的に今ひとつ当てはまらないが、感覚的にはそれに近いものを抱きました。

 あなたごとき苦労の足りない人があたしに説教垂れるんじゃない。

 あたしがどんなレベルの苦労をしてきたかをしっかり推し測ったうえで、共感とリスペクトを示したうえで、そういうことを言うなら言いなさい。ていうか知ったらもう言えなくなると思うけど。


 この感覚、まっとうじゃないですか?
 わたしは少なくともこの同じことを他人様にはできません。してはいけないことだという感覚があります。


 あえてこれを言わなくてはならないと思うのは、今年そのベストセラー本のお蔭で、全国津津浦浦でそういう事態が起こっているだろうと思うからです。たぶん似たようなやり方で他人に不愉快な思いをさせる人がいっぱいいるだろうと思います。
 「上から目線」でしたり顔で「勇気づけ」を行う、「釈迦に説法」状態の人。相手にリスペクトも何もないまま。

 でも、その人たちは正しいことをしてると思ってるんです。ベストセラー本に書いてあることだから。


 このベストセラー本については、以前も少し言及しましたが

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51900284.html 

 要は、「オウム信者」になるような人たちとこの本にはまり込む人たちとは重なるだろう、という意味のことを書いています。

 ここで書いたことは今も全然間違ってない、と思うのと、いざ自分が被害に遭ったとき「ああこれはイヤだなあ」と心底思いました。ので、「副作用情報」を迷わず書こうと思いました。


 恐らく、今年何かのきっかけで「心理学」に興味をもった人が、ベストセラーだから読んどこうと手にとったのが「この本」。
 そしてまた恐らく、子供のころからの読書経験の少ない、教養レベルの低い人ほど「この本」にはまり込みます。
 かつ、恐らくASDの傾向のある人がはまりやすいだろう、というのは、意味もなくプライドを持ち他人を見下したがっている人が、見下すための「言い訳」を与えてくれる、というたちのわるい性質をもった本だからです。「見下し病」が強化されます。


 そして、どうも「研修担当者」の層の人たちにそういう人が多く分布しているだろう。
 こういう場合も決して「みんながみんな」と思っていないのは少し長い読者の方はご理解いただけると思います。

 「想像力の欠如」と「一面的な論理への傾倒」。

 わたしは1963年生まれで、学生運動などは一通り終息した時代に学生生活を送りましたが、恩師・中嶋嶺雄のもとで、「文革」のファナティシズムの愚かさはしっかり学んだと思います。だからそれにつながる可能性のあるものは敏感に嗅ぎ分けます。でも近い世代の人でも似た状態にはまりこんでしまう人がいます。



 
 もうひとつ、出版界のベストセラーの作られ方についても、今に始まったことではないですが思うこと。
 お金を出して本を沢山買うのは、基本20〜30代の独身者なんです。
 だから、その層をターゲットに本を作ったほうが「堅い」。自己啓発本の類い。前出のアドラー心理学の本もその類いです。
 わたしからみると、視野の狭い人向けにますます視野狭窄にさせるような文体や内容の本が好まれる傾向があります。

 また、「書店の店員さん」も基本、その層の人たち(中堅〜若手の中の本が好きな人たち)。

 前著『認めるミドルが会社を変える』も、ミドル層自身からは非常に評価の高かった本ですが、売れませんでした。
 わたしは近場の書店に営業に行き、比較的見る眼のあると思われる書店の店長さんにあって「管理職からすごく共感してもらえる本なんです」と言いました。
 「わかりました、ビジネス書担当に話してみましょう」
と店長さんは言い、数週間後、同じ書店に行ってみると、コーチングの近い分野の別の本が「推薦図書」になってPOPが立っていました。ああ中堅層以下の人はこういうトーンの本が好きだよね、と思う自己啓発がかった雰囲気の本でした。


 前出のアドラー心理学本が出版されたのは昨年12月。今年大変な売れ方になりました。
 今年11月に出版された『行動承認』が来年それ並みに売れるのかというと、ターゲット層(ミドル)から考えると難しいかもしれない、と思います。

 内容は恐らく圧倒的に『行動承認』が正しい。
 いつもそうですが「100年後に残る仕事」だと思います。

 1つ前の記事にもあるように人事の人向けの雑誌から早速お声がけいただいたり、最近もフェイスブックで大学の先生のお友達から「学生に勧めます」と言っていただいたり人事の人から「当社の管理職に良書として勧めました」と言っていただいたりしています。
(ちなみにこの人事の人からは「あの承認の一覧はよくできていますね」とおほめの言葉をいただきました^^)


 出版の経緯もいろいろありましたが、基本パブラボ社さんが『行動承認』の正しさにほれ込んだ、と言ってくださり、新人著者同然のわたしの構想通りに本を書かせてくださり、大きな知性による判断をしていただいた、それの連鎖が起こった、と思います。

 
 そして平易な文体で書かれた本としてミドルの手元に届いたときの、ミドルたちからの熱い支持が、今も「ああ真実を探りあて丁寧にエビデンスを積み重ねてきてそのうえで書いてよかった」と思わせてくれます。


 さあ、このあとはどんな展開になることでしょうか…。


 
 
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 「研修副作用」について書き始めてしまったので、もう一方の対極にいる「正しくないし、めんどくさい人たち」のことも書いておこうと思う。


 これはここ数日のうちに会った人たちとは何の関係もないことだけれど―、


 当協会のやっている「よのなかカフェ」では、何度となく「高齢者男性が正しくない発言をする」という現象があった。

 そのうちの1つの例は、去年の夏、「承認」をテーマにした回のもの。


 わたしが直前の製造業での「承認研修」前後の統計数字などをとりあげ一通り説明したあと、参加者には感銘の声もあれば、文脈に関係なくワークライフバランスについて語る人もいれば、反発して「お嬢ちゃんには現場に入れないよ(入りましたけど、直前の研修でも)」という声もあれば、


 そして終了まぎわ、ある70歳代の男性参加者が言ったこと。

「承認が作ったおかしな人格、その典型的な例が元首相のHYですよ」

 妙に確信をもって決めぜりふ風に。

 おやおや。
 HY氏は確かに変な人格だと思うが、わたしからみるとそれは「承認」とは別に関係がない。宇宙人のようなキャラと原色の変な色調の服、あれも「当事者の会」の人がみたらどうコメントするかなあと思うが…、
 たぶんに先天的なものだとわたしは思う。多少は甘やかされて強化されたところがあるかもしれない。そのことも、わたしたちの基準では「承認」とは言わない。


 でも、この根拠薄弱な変な発言が出たとき、その日の司会(これも70歳前後、男性)は「承認の権威、エキスパート」であるわたしにコメントを求めず、時間切れとしてよのなかカフェを終了してしまったのだ。

 結果的に、「HYのおかしな人格は承認が作った」という根拠薄弱発言が、その場全体の決めぜりふのように印象づけられてしまった。わたしからみると50歳女性のわたしの出すエビデンスに対する悔し紛れの捨てぜりふに過ぎないゴミ発言が。


 高齢者男性は往々にして間違ったことを言うし、言ってしまったら引っ込みがつかない。そのめんどくさいプライドを尊重すると、場全体が間違ってしまう可能性があるのだ。

 この回のよのなかカフェは「疲れた」ので、とうとう詳報を上げなかった。


 これはあくまで一例で、よのなかカフェはそれまでにも、団塊世代の男性の発言内容や発言マナーがあまりにひどいので、一時期「60歳以上お断り」にしてしまったことがある。

 ―彼らはバブル期の営業方法を身につけているので、権限をもった立場の人に媚びを売って楽しい会話をするのはやたらと上手いかもしれない―

 現在は「人を見て」門戸を開けている。



 さきほどの根拠薄弱発言の人は論語などを教えるその地域の「先生」だったが、それである程度見識のある人かと思って参加を許可したのだが、それでも「50歳女性の正しさ」の前には、そういう態度をとった。

 彼らは、正しいか正しくないかより、自分の優位を示したい一心で正しいことを言う人と違うことをあえて言うことがある。同意すべきものに同意せず、向こうを張る、大上段に。要はマウンティングが目的の発言、ナルシシズム発言なのだ。


 
 もちろん高齢者男性みんながそんな人間なわけではない。女性差別と高齢者差別、どちらも良くないことだ。
 ただし、世間にまかり通っている常識というか迷信というのは、「高齢者のほうが正しく、50歳女性の正田はそれに比べて正しくない」というものだ。


 わたしはこれまでの経験上思うけれど、「高齢者男性」と正田、もし意見対立が起こったら正しいのはおおむね正田のほうだろうと思う。正田はそもそも自分のよく知らないことについては「聴く」「学ぶ」「教えてください」というスタンスをとるので、対立自体が起こらない。

 逆に、正田が確信をもって「それは違います」と言ったら、かなりの確率で正しいのは正田のほうだ、自分の専門分野については誰よりも緻密に正確にみている人間だから。だからこそ「12年1位マネジャー」を作っているのだから。


 だから、恥をかかないでおこうと思ったら、高齢者男性も正田の専門分野に関しては素直に頭を垂れて学んだほうがいいと思う。自分の知らないこともあるのだ、と知ったほうがいいと思う。

 くれぐれも、正田のブログで読んだ知識を使って、当の正田先生に説教しよう、なんていう混乱した行動をとらないように。



****


 「真摯な人」は瞳孔(黒目)が大きくなる。

 カラコンなどでごまかせそうだが、1人の人の経時的変化をみる、というお話。
 
 難しい計算問題をしているときの人の瞳孔の面積は、ふだんの時より50%大きくなるという。

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51849252.html

 わたしがある人を「真摯だ」と判断しているとき、やはり黒目の大きさ(1人の人の中の変化)を無意識に参考にしていると思う。

 たとえば直前にわたしのやっている分野に関する面白おかしい新聞記事を読んだり話題にした人は、黒目の大きさがそれまで見慣れた大きさより小さくなる。それは、「知ってるつもり」になって、「ふん、この人のもってくる話題に関してはこの程度しか考えなくていいな」と、「認知的負荷」を無意識にケチるからだ。

 そして会話の質は低くなる。よく考えずに「反応的」に出て来た言葉が多くなる。話題への集中度合いが低くなる。


 申し訳ないがやはり貴重な時間を有効に使いたいので、目の前の人の「真摯さ」を、会話の推移と黒目の大きさを基準に判定したいと思う。


 なぜこの問題が致命的になりやすいかというと、正田のやってることというのが、恐ろしく大きな波及効果があり、それを意図して恐ろしく緻密な仕事のやりかたをし、要は認知能力をフル稼働しなければ行うことも理解することもできないことをしているからである。認知的負荷をケチった状態で理解できることではない、TV番組の「ネタ」レベルの話ではないのだ。




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 キヤノンの御手洗冨士夫・現名誉会長の有名な言葉で、「公正と平等」というのがある。

 同氏によれば、「アメリカは公正を重んじ、日本は平等を重んじる」。


 公正というのは、よりよいもの、大きいもの、優れたものが高く評価されること。オリンピックでより速い者、優れた演技をした者が表彰されるのと同じ理屈だ。
 それに対して平等というのは、中身に関わらず同じ扱いをすること。


****


 「研修の副作用」という言葉は、今よりも2008年ごろにこのブログでよく書いていて、いささか「はしたない」話題なのでできればあまり取り上げたくない。でも、繰り返しクギを刺さないと身内でも間違いが出るし、ましてその他の人は恐ろしくこの問題に無頓着だ。


 以前1−2回話題にしたことがあると思うエピソード。

 コーチングのある流派で、質問者が相手の「感情」をぐりぐりいじる、というのがある。「あなたはそれについてどう感じていますか?」「どんな気持ちですか?」という問いをたたみかけて繰り返して、さいご相手を泣かしてしまうところまでやる。泣くと多少カタルシスになり、今どきの研究によるとストレスホルモンを体外に出してすっきりした気分になる。

 そういうのは了解を得たうえで個人契約のコーチングでだけやるものと思っていたら、職場の上司部下間でそれをやれ、と勧めるその流派出身の講師がいらっしゃる。


 わたしは一番最初、旧CLS(任意団体コーチングリーダーズスクエア、現NPOの前身)に出入りしていた女性管理職からそれをきいた。彼女はラインマネジャーで、わたしをその会社の研修担当(女性、独身)に売り込んでくれたのだが担当者のお気に召さず、結局その会社の研修として採用されたのはその「泣かすコーチング」の講師だった。


「わたしたち、研修以外に個人コーチングを受けて泣かされるの、その人に」
 女性管理職は涙をためて言った。
「ああ、また、と思うんだけど、手の内はわかっているけど毎回泣かされてしまうの」


 うーんなんでそんなヨロメキ調のものをそもそも「コーチング」っていうかなあ。わが社は禿頭の武田建のおっさんの方式だから。


 そして、「当社方式」のもとで凛としたかっこいい女性だった彼女はわたしからみて情緒不安定になり、さいごは問題行動を起こして団体を去っていった。


 心理学的にディープなものであればあるほど良いと思う感性というのがあるようだ。ストレングスファインダーでいうと「○○○○」の一部の人かな。先日「ニンフォマニアック」という映画も観たけれど、人の個性オタクのわたしはこの映画も「○○○○」の人の物語として観てしまった。よりきつい刺激、きわどい刺激を求めてしまう感性。わたし、それはないんです。あ、あとこのタイプの人に「SM趣味」もよくあります。
 残念ながら研修の購買を決める立場の人と新聞記者にそのタイプの感性の人が多い。


 「承認」はドラスティックな効果が出る割には、心理学的にはごく「浅い」ことをやっている。だから心理学の基礎訓練を受けていない大方のマネジャーが実践しても害がほとんどない。



 その次にきいたのは、某公的機関が主催した介護職向けコーチングセミナーにその同じ系統のコーチングの別の講師が起用され、あれれ、と思った。ただわたしがどうこう言うことではないので静観していた。

 すると2年ほど後、ある介護職の人からきいたのが、その講師がそのセミナーをきっかけにある施設―わたしのすぐ近所のところだ―の施設長に気に入られどっぷりその施設に研修とコンサルティングで入り、例の「泣かすコーチング」をやりそこの管理職にも部下に対してそれをやるよう勧め、どうなったかというと離職者続出だというのだ。

 わるいことにご近所なので利用者側からも話を聴くことがある。やはり人の入れ替わりが激しく、若くて頼りない職員ばかりだという。


 そういう結果になるのはみる人がみれば火をみるより明らかなんだけど。素人には判別がつかない。そして公的機関の人にも。
 そこで働いていた人にとってはなんと晴天の霹靂の、研修副作用による被害だろう。自分の職場で感情のプライバシーが守られず泣かされ、離職せざるを得ないというのはなんと罪深いことをしているのだろう。


 そういう状況に憤りを感じるのはわたしが怒りっぽい性格だからだろうか。
 いや、わたしはこういうことに腹を立てる自分がそんなに嫌いじゃない。


 わたしは腹を立てたり「危機だ」と思うと、むしろ感情が無くなって、「対策」を考える癖がある。そういうとき人からみると結構凄味のある顔をしているのかもしれない。


 自分のできることでいえば、このところ「コーチング」という言葉を表向き言わなくなってきているし、こんどは団体名から「コーチ」という言葉を外すことも考えている。



 なまじ医薬翻訳者出身なので「副作用」「有害事象」「長期毒性(慢性毒性)」ということに神経をとがらすほうである。前にも書いたように当協会方式で「12年1位マネジャー」が出るのは、効果発現メカニズム自体も正しいが一方で慎重に副作用を見極めて潰す作業をしているお蔭もあると思う。「うちの業界」には、不思議とそういう感覚をもっている人が少ない。

 でも、医薬品に限らず「ものづくり」をしていたら普通に存在する思考法なのだ。

 研修業界には「思いつきの言い散らかし」もすごく多い、あとでちょっと考えると辻褄が合わない、というような。顔色ひとつ変えず自分でも信じていないことを断定口調で言えるのが「いい研修講師」の指標のようだ
 ―ただしラインマネジャーはそういう人の匂いはすぐ勘づくし忌避する、知らぬは担当者ばかりなり、である―



 先日このブログに悪口雑言書いていたさなか、東京でお会いしたある真摯なマネジャーさんに言われたこと。

「先生の(すみません、ブログで強要しているものだからこの人もつきあって「先生」と呼んでくれている)書かれていることは、実際にあるんだと思いますよ。だれかが言わないと気づかない。そういう勘違いをしてしまうものなんだと思う。本当のことを書くからかえって信頼されるのではないでしょうか」


 …わたしはちょっと天狗になって自分を甘やかすようになっているのかもしれない…



 ADHD的知性の人だと、ものごとの優劣の区別がつかずすべて同じレベルの情報記号として飛び込んでくる、という記述も一部の本にあるが、はて。

 今年は新聞記者等で「あなたとほかと同じでしょ?どこが違うんですか」という薄ら笑い交じりの言葉に何度も出会った。エビデンスを提示するたびに。どんなにエビデンスを提示しても、女性が提示するものは真実ではないと認識する。いわばわたしを嘘つき、法螺ふきと言っているようなものだ。立派な性差別である。

 行動承認で「あなたはずば抜けたエビデンスを作ってきた。圧倒的に質の高い仕事をする、力量のあるマネジメント教育者だ」と(エビデンスに基づいて)正しく言える人はいないなあ。


****


「アンガーマネジメント」という概念を、問題に対して「いいじゃないかそれぐらいハッハッハ」という形で使う人にも会う。問題を「あえて認識しない」というやり方、要はええかっこしい。たぶん営業では顧客の激怒に、ものづくりでは不良につながるだろう。顧客や製品に直接タッチしない部署ならそれでもいいだろうね、というしかない。そういう副作用があるだろうな。



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また、新聞に褒める叱る研修の特集記事が出た。
「ほめまくれ」とか「手が痛くなるまで拍手する」とかいう類いのやつ。

残念なのは、そういう記事を目にした人はわたしに対してはっきり態度が「ぞんざい」になってしまうのだ。
「おたくのやっていることなんて何も目新しいことじゃないよ」
と言いたげに。

やれやれ。
一目みて、こういうのはわたしのやっていることと天と地ほど品質の開きがあるって気づかないかなあ。
「わが社」が「承認」にはっきり舵を切り出したのは2005年からだった。
それ以前から、色んなコーチング研修機関の失敗などに鑑み、マネジャーがその後どうなるか、エネルギーの質がどうなるかに神経をとがらしてきた。そういう「副作用つぶし」の効用もあっての「1
位マネジャー輩出」だった。
ー「副作用つぶし」の必要性をいくら説いてもわからない人も多いのだー

そのあと、有名なほめる研修が出てきて、メディアを席巻した。
あれって長期的にどうなんでしょ。

そうして悪貨良貨を駆逐する。
わるい種類のエネルギーに暴露した人は、そういうものを丁寧に抜いてきた「わが社方式」の良さがわからなくなる。
それと、「当社方式は本当に成果が出るんです」と言ったとき、「本当の成果」とか「本当の変化」を嫌がる人も多い。むしろ極端なものを取り入れて「はい、長続きしませんでしたね、ちゃんちゃん」と、予定調和で元のところに着地するのが安心だったりする。教育研修にタッチする立場の人たちに多いなあ、そういうの。リンゴダイエットとかパナナダイエットの類い。


今日の記事なんかをみると、大新聞もお笑い芸人が裸になったり熱湯に浸かったりするような「ネタ」を求めてるんだなあ、と思う。まあ、従軍慰安婦などでひとしきり話題になったとこですけど。ヒマなのか。


そういうことをしているうちに、わたしが一番危惧するのは、「承認」がないがゆえに組織の中のもっとも良心的な人たちが壊れていく、潰される、そのことにまったく目が向けられない(それはあなたが今丁寧に育てているわが子かもしれないのだ)、また、地方のマネジャー教育の遅れた地域に若い人の足が向かない、若い人を引きとめられない、そうした現象にまったく処方箋を出せないということなのだ。

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ぼやきネタを書いてしまいましたが、今日は東京で『行動承認』をきっかけにフェイスブックでお友達になったマネジャーさんとお会いしました。

月50冊本を買うという読書家さんでしたが、『行動承認』のことはあちこちページを折って(古本で売れないじゃないか!)読んでくださっていて感激でした。


都営新宿線のドア横の広告(ブログトップのリンクから画像がみれます)と、八重洲プックセンターでの平積みの様子もみれて感激でした。今日はいい日だ。



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 いくつか去来する考え。

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 感情に溺れるということ。

 このブログでは数年前、繰り返し「感情」に重きを置く某コーチング研修機関のプログラムを批判した。

 その当時、その研修の「信者」の方々との間で、「約束をすっぽかす(ドタキャン)」「責任を放り出す」といった問題が多発した。たまりかねてある時期からその研修機関の人を出入り禁止にし、そこのプログラムを推奨しないことにしてしまった。


 その人たちというのは、自分の感情を大事にするあまり「お子ちゃま」なのである、わたしからみると。自分の感情をドロドロ表出する、「自分の都合」のかたまりになる、しかし他人の感情を同じように大事にしているか。人は誰にも同じように感情があって、都合があって、それらを調整して社会が成り立っている。調整してかつものごとを動かしていかなければならないから、ルールや責任という概念が出てくる。


 そのルールや責任に「感情」が優越する、と強調するような教育をすると、あまりに自分の都合ばかり振り回す人ができる。行動したがらない、ものごとが全然先にすすまない。

 当協会の「行動承認」+「Iメッセージ」の手法は、そうした過去の教育プログラムで起きた現象をつぶさにみて、それへの反省からできた。

 仕事の中では、仕事の全体像がわかっている上司から「行動承認」をすることで「何が称揚される行動か」を提示してやり、プラスアルファ「Iメッセージ」で感情の温かさを付け加える。「Iメッセージ」はプラスアルファ程度に使うとバランスがよい。


 「行動承認」をすることで「まず行動を尊ぶ」という姿勢を提示する。「行動」は本来痛みを伴うので、「感情」を強調すればするほど怠惰になり行動しなくなってしまう。(ある脳科学本では脳の「感情優位」な状態というのは仕事で疲れ切った深夜の脳の状態で、抑制が効かない状態だという)

 「行動」に重きを置く限り、人はおおむね「喜んで行動する」ので行動量が増え働きものになる。また脳の実行機能がフルに動き、自己抑制なども適切に行われる。「信頼関係のある上司からほめられれば責任感がアップする」というのは2008年ごろ有名になったJR西日本の安全レポートだけれど、責任感が増す現象もよくみられる。

 それでも「行動、行動」ばかりでは味気ないので「Iメッセージ」(助かっている、嬉しいなど)をプラスすると人間味や誠実さが加わる。

 「感情」を添付するのはそのぐらいのさじ加減でいいのだと思う。
 ただアスペルガーの傾向のある人にはその「感情を添付する」というのも大仕事なのだけど。

社会や仕事は、大半は「理性」でできている。「理性」は学校教育や社会人時代を通じて長い時間をかけて前頭葉を発達させるので、ゆめゆめ「理性」をおろそかにすべきではないのだ。

 当協会方式で人々が働きものになり業績が上がるのは、色々と過去の教育プログラムへの反省に基づいてプログラムを作っているので、おおむね問題が起きないのだと思う。

 逆にこれ以上あまり手を加えるとバランスを崩すし、ほかにも有効なプログラムがあるかもしれないと探していて当協会方式の「型」が崩れるとたちどころにおかしくなる。

 「行動」と「感情」のバランスを大事に。


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 「他の研修が80点なら承認研修の価値は1000点」

 これは今年8月にNPO理事会でわたしが言った言葉だけれどおおむね間違ってないと思うのだ。


 本来数値化しにくいことだけれどこれまでの「承認研修」での効果の出方をみると、それぐらいの点数の開きがある。要は、ほとんどの研修の類は効果があったとしても部分的なことにしか効かないが、「承認」は雪崩式にすべての問題に効いてしまい、そして人々が伸びて業績が上がってしまう。


「承認研修」の正しさに反発してほかの手法に乗り換えればたちどころに1000点から80点ひょっとしたら0点に墜ちる。

 その「1000点」のものを、従来人びとが「1000点」のものなんて想定もしていない見慣れていないのを、いかに安売りせず「1000点」の価値のまま売るか、普及させるか、というのがわたしたちのやってきたことだった。


 そしてもちろんそれは人びとが一気に幸せになるやり方だ。


 せっかく今目の前に「1000点」のものがあるのだから、利用可能なのだから、有効に使おうよ、という。

 
 そしてこれも不遜なことだけれど、その「1000点」のものの価値を十分にわかり、あますところなくリーダー研修で人々に伝え、人々に行動してもらうことのできる講師は今のところわたししかいないのだ。


 「承認研修」は要点をシンプルに絞ったものなので、学んだ人は「これを自分も教える側に回ることもできるかもしれない」と思いやすい。
社内講師の立場の人なんか、すぐそう思う。


 でも「1000点」のものを限られた時間でリーダーに伝えている、というとき、その伝え方にはたくさんの暗黙知があるのだ、ということを、よその色んな研修をみたりわたしのコピーを意図したらしい人をみながら思う。コピーしても大抵はごく一部しかコピーできず、コピーできなかった部分があることでリーダー層に説得力を持たなかったりする。


 1つその「暗黙知」の例を挙げると、わたしは「行動理論」の話をするときに必ずアメフトの常勝監督・武田建(関西学院大学名誉教授)の名を出す。この手もいつまで使えるだろうかと思うのだが。彼がアメフトを指導している風景をイメージしてもらいながら話す。そこで「ほめて伸ばす」という一見優しげな、お母さんがやることみたいな手法に、男のスポーツ・アメフトの骨太なイメージや「勝つ」という目的のために合理的な方法だということを伝える。いわば、行動理論をただの理論ではなく「属人的」な色をつける。そのほうが同じ理論でも頭に入りやすいのだ、ということを、やりながら学んだ。

 そして、単なる行動理論でなくアメフトや禿頭の武田建のイメージがあることで、リーダーたちに「自分たちが取り組むこと」だという身体感覚をもってもらえるのだ。


 かつ、その行動理論を紹介するときに、正田自身がちょっと身体を使ったアクションをする。

 そのことも受講生さんへの記憶に残りやすいようだ、というのはあるとき2年前に受講した上司が自分の部下を研修に派遣していただき、あとでその上司の方が「彼(部下)に感想をきくとあなたのアクションを使った教え方のところが記憶に残っていたようだ。『あそこが記憶に残っているなら合格だ』と話した」と言ってくださった。この上司さんは、「承認研修」のことを「過去の研修ベストスリー。他の2つは品質と安全」とも言ってくださり、コミュニケーション部門1位にしてくださったのは光栄なことだった。

 
 身体を使って印象づけながら教える、というのも武田建氏本人から学んだ。いちど同氏を講演に招いたとき、同氏がやったのは、「行動理論」の始祖スキナーのことを説明しながら、当時実験動物になったのはハトやラットやイヌである、と話し、イヌのところでいきなり四つん這いになってイヌのまねをやってみせたのだ。

 どぎもを抜かれたけれど、武田氏はアメフトの「武田コーチング」の人としてビジネスコーチングより前の時代からビジネスパーソン向けの講演に行っていて、そこで「ほめて伸ばす」という当時最先端のことを伝えるのにやはり腐心したようだ。そんな中で「大学の先生が意表を突くようなアクションをする」という奇抜な方法を編み出したようだ。


 そういうやり方を(イヌのまねではないけれど)わたしも有難く取り入れさせていただいた。やはりそうして記憶に残るフックをつくると、全体のことが芋づる式に思い出されるようである。


 その2つは最近思い出した暗黙知の1例である。こうやってときどき「自分は暗黙知としてこういうことをやってるな」と思い出す。そしてわたしをコピーしようとしている人たちがそこまで注目していないことを残念に思う。


****


 そしてわたしは素朴に(みる人によっては少女っぽい表情で)過ごす。これも外界にいつも好奇心を向けていたほうが見落としがないからだ。偉い人然とはみえないと思うがそういうあり方で過ごすことでほかの人が見落とすいろんなことが見えてきた。


 「承認」の世界の住人でなくなった人は残念ながら表情が変わる。

 攻撃性、嫉妬、卑しさ、いまいましさ、嘲り、そうした表情が入れ替わり立ち替わり現れる。


 まったく違う感情世界の住人になったのだ。

 男性はそうなるのはすぐだ。



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来週から新著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』のプロモーションが本格化します。

 このブログで最近「わるいこと」を連続して書いてるから出版社さんヤキモキされてるだろうな〜と思いつつ、プロモ本番前に「わるいこと」をまとめて書いちゃおうと思います。何かの役に立つかもしれないですからね。



1.担当者が『先生』と呼べない心理と契約違反行為

2.提案ひっくり返すわるい上司と部下のプレゼンにひそむ問題

3.謝罪のわるい文例

4.福祉組織のおねだり体質とその後の友人たちとのやりとり

5.今年の某ベストセラーについての感慨


****


1.担当者が『先生』と呼べない心理と契約違反行為


 これまで、わたしは人様がわたしに対して敬意のある言動をとるかとらないかに比較的無頓着だったほうでした。でも今年起きたいくつかの現象をみて、はっきり今月から態度表明することにしました。


 わたしに「研修・講演」を依頼される場合は、主催者様はトップから担当者まで、わたしのことを「正田先生」と呼んでください。

 でないと「研修失敗」にほぼ100%つながる、という結論になりました。エビデンス出てますから、研修成功したいなら成功させるための行動をとられたほうがいいです。


 「さんづけ」はやっぱり、講師に対する「不敬」なんです。とりわけ、リーダーの行動様式に関する重要な知見を教える仕事をしている人に対しては「先生」のほうが当然だと思います。

 わたしなどは20代のパーソナルトレーニングの先生のことも「E先生」と呼んでるので、わたしより四半世紀も若い担当者の人が、なんでわたしを「さんづけ」で呼べるのか、不思議です。自組織のわたしぐらいの年代の人には、「部長」とか「課長」と呼んでると思います。階級組織で生きてる人にとって、「さんづけ」は一般職の人に対する呼称で、わるくいうと「蔑称」になるだろう、と思います。


 担当者の「不敬」は、研修の場にも明らかなマイナス感情をもたらします。

 ただそれ以前の打ち合わせ段階で、「契約違反行為」に当たるだろう、という現象にもつながる、というのを、これも非常に高い確率、90%ぐらいの確率でみてきました。契約違反というのは要は「受講生数の水増し」です。


 わたしのように「宿題」に丁寧に返信する講師は、はっきり言って受講生数に応じて従量制で謝金も上がるのが正しいのではないか、と思いますが、今年に関しては打ち合わせ段階で「15~6人」と言ってたのが本番では「30人」とかそれ以上に膨れ上がる、という現象が続きました。呆れることに、競争入札で落札価格を確定したあとの某組織ですらそういうことをやり、「これ契約違反じゃないですか」と言うと「あっすみません」と謝っていたが、その担当者もチャラチャラ「さんづけ」で呼んでいました。だから、「さんづけ」ははっきり言って「甘え」であり、「だらしない態度」を招くんです。

 ―「受講生数の水増し」はほんと、冗談で済む問題ではなく、16人なら研修時間内にも1人1人としっかりアイコンタクトして言葉もやりとりして、心の絆をつくったことを実感して帰り、実践してもらい宿題、そしてコメントによってもう一度「承認の嬉しさ」を実感してもらう、といういいサイクルを作れるものが、30人だとそれを作りそこなう。
20人の受講生さんの向こうに200人の従業員さんがいるかもしれないのだけれど、その人たち全員が幸せになりそこなってしまうかもしれない。そして「承認研修は有効ではない」という間違った風評を残すかもしれない。良心の業者にとっては死活問題です。―


 で、「さんづけ」したい心理、というのはなんでかな、と思います。講師の方によって色々考え方があり、コーチングとかファシリテーション分野の人では「さんづけでいいです」という人もいますが、逆に担当者が勝手な思い込みで「さんづけ」で呼んだとき、「先生でお願いします」というのは結構な勇気が要る。だから「初期設定・先生」にしておいて、相手が「いやさんでお願いします」と言ったときに「さんづけ」にする、というのが波風立たないと思うのですが。


 そこであえて「さんづけ」したい心理を読み解くと、担当者としては「自分は購買側だ。恩を売ってやっているんだ。あなたは一介の業者だ」という立ち位置を「さんづけ」で繰り返し確認したい、いわば「マウンティング」をやっているのではないか、と思います。教育してもらう、指導してもらう、なんていう敬虔な気持ちははなからないんです。そんな気分が受講生にも伝染するってわからないのかな。

 
 プロの研修担当者なら、自分が「この人」と選んだ講師のことは「先生」と呼び、「私自身もこの先生からご指導を仰ぎたいと思っています」ということを受講生に態度で示すのが正しい、と思います。


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2.提案ひっくり返すわるい上司と部下のプレゼンにひそむ問題


 今年のパターンとして、「担当がわるい」ケースと、もうひとつ「担当が上司に提案上げてひっくり返される」というのが2例続きました。

 「ひっくり返される」っていうのは、研修の趣旨が変えられちゃうとか(でとうとう「降りた」ってなったとか)、おりこう研修とおバカ研修ふたつ提示したらこちらのお勧めするおりこう研修じゃなしにおバカ研修のほうを選んじゃったとか、研修時間数を値切り講師謝金も値切ってきたとか、そういうやつです。わざわざ時間をかけて打ち合わせたことが反故になり、ぐちゃぐちゃと言い訳の電話をかけてこられたいそうな時間のムダです。


 これは、底流にどういう心理が働いているか推測すると、まず恐らく上司が性差別男。部下を介してきく、女性の専門家の正田の言うことを、本来「日本に1人しかいない宮大工の言うことだからきくしかないよ」っていうような話なのに、天邪鬼の気分が働いて(たぶん毎日同じことを奥さんにやってるのだと思うけど)逆、逆を言いたくなるのです。

 かつ、部下のプレゼンも恐らくマズイのだろう、と思ったのは、その部下の担当者もやっぱりわたしを「正田さん」と馴れ馴れしく「さんづけ」で呼ぶ人間だからです。

 20代の人間が「さんづけ」で呼ぶ女性のことを上司が尊敬するわけがないではないですか。

「正田さんが言うにはこういうことで…」

「なにを生意気な、なんだその正田とかいうのはどこの馬の骨だ」

 大体こういう感じでしょう。
 

「正田先生が言われるにはこういうことで・・・」

 全然響き方が違いますよね。まあそれでも理解しないバカ上司はいると思いますが。


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3.謝罪のわるい文例


 これも、今年担当者とか仕事先の人から随分謝罪のメールをいただいたのです(まったく、何という年だろう)

 ところが、その文面がやっぱりまずい。「これこれ、犯人の書く謝罪文」って典型的な文面でした。

 去年『謝罪の王様』っていう映画をみて笑っていたけど、今年はあんまり笑いごとじゃなくなった。


 どういうのかというと、

「ご気分を害して、申し訳ありませんでした」

という文。これのどこがまずいのか、わかります?

 もともと事の経緯が、その人がある「まずいこと」をやり、それをわたしが指摘し、するとその人がふてくされたりしょもない弁解を延々としてそれをまたツッコまれたりして、その挙句が上記のような文面の謝罪文なのです。


 ここには、「自分がそもそもまずいことをした」という「自分が発端を作った行為責任」に一切言及していない。ただ「あなたが機嫌悪くなったようだから、一応あやまっときます」と言ってるんです。暗に「すぐ機嫌悪くなるあなた」を非難しているようにもとれます。


 仮に行為責任に言及するなら、

「私が軽率にも○○をしてしまい、その結果先生にご迷惑をおかけしました」

というような、前段が入るはずなのですが。最初の文は、責任の所在を相手になすりつけているわけです。


 こういうのは、やっぱり「自分の非を死んでも認めたくない」発達障害の傾向の強い人が書くメールです。そして、相手(この場合はわたし)を一層怒らせます。

 わたしの場合は、この人の人生に責任を負う立場ではないから、怒るというより「なんでこんなレベルの低い人間が仕事先で立ちふさがり、受講生を幸せにする仕事を邪魔するんだろう…」と情けなくなる、んですが。


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4.福祉組織のおねだり体質とその後の友人たちとのやりとり


 2つ前と4つ前の記事に書いた「福祉組織」の件では、尊敬する友人たちにご心配をお掛けしてしまったようで、何人かの方からメールをいただきました。


 福祉ではない分野で地域振興のお仕事をされている方から。


 「福祉の組織」とは私たちも過去にはもめたことがあります。
「なぜ我々の権利を特別扱いしないんだ」という論法ですね。
私は真っ向から戦います。そして「平等に戦いましょう」と教えてあげたいと思っています。
ま、それは今度。



 えへへ、なあんだ戦っていいんだ(^O^)vこらこら。

 最初すごく好意的にみてあげてたのに、一連の経緯ですうっと気持ちが冷めました。彼ら彼女らは、悩みとか問題解決のために妥当な額の対策費を予算計上するということを、普通の社会人と同様に学ばなければいけない。人のご厚意に甘えるべきではない。


 当協会会員の優秀な介護マネジャーから。


正田先生
介護の承認王子としては、このところのブログ記事、胸が痛いです。
ただ、そういう現実があるのもまた事実であると思います。


 わたしも結構「引きずった」ので、「福祉の人」という言い方で関係ない人の気持ちまで傷つけてしまったことのフォローが十分できていなかった。ごめんなさい。許してね。


 彼は、強い人だから業界のダメなほうの人たちをみて、「他山の石」としてくれる人なんです。


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5.今年の某ベストセラーについての感慨


 今のうちにこういうのも書いておこう。

 あえてタイトルは出さないけど今年ベストセラーになった、ある心理学本を最近やっとキンドル版で買いました。

 なんで今まで読まなかったかというと、この分野の心理学は去年学校の先生の友人の勧めでちょっと読んだことがあり、そのときの印象で「承認コーチングと似たことを言っていてある程度の役には立つけれど、承認コーチングの方が現場にとってはるかに優秀なツールだ」と思っていたから、それほど食指が動かなかったのです。

 で今になって読んだ感想は…、


 まあどうしても中盤の「承認欲求」を否定しているくだりに目がいくのですが、

 これは、2011年暮れにこのブログでケチョンケチョンにけなした『報酬主義をこえて』と同じ論法ですね。

 「承認欲求」は自立してない人のものだ、という論法は、アメリカ心理学の一部に脈々とあります。ただ、そちら側にはまったくエビデンスがありません。単なる「信仰」のレベルに過ぎない考え方です。その気になれば、大井玄氏の「アトム型自己観」と「つながりの自己観」の考え方とかいくらでも出せるけど。あとアスペルガーの人は自分の体内感覚を言語化できないので、「承認されて嬉しい」という感情が本当はあっても認識したり表現したりできません(本当は何度も書くようにすごく『認められたい』んです)かつ、学者やコンサルタントにアスペルガーは多いですから、彼らの言うモチベーション論はあんまり信じちゃいけません。



 このベストセラー本も、「哲人」という設定の人が延々と説教をしている構成なのですが、

(最初みたとき、「なんだこれツチヤケンジ氏のギャグか」と思いましたが)
 
まったくエビデンスが入ってない、妄想吹いてる域を出ない、というのは一目見るとわかります。下手するとアサハラショーコーの味わいに近いような。この本にはまる人は、ちょっと危ない人なんじゃないですかね。でも今の20代〜40歳ぐらいの人はもうオウムとか知らないんでしょう。

『報酬主義をこえて』もいかにもアスペルガーの人が書いたっぽい高慢で嫌な人格の匂いのする本だったが、こんどの本も(そもそも「哲人」を自称するところが笑)高慢、それに加えて妄想的な本です。これ本人の人格がもともとそうなんだろうかそれともマーケティングの産物だろうか。


 おわり。「報酬主義をこえて」みたいな目にあわなくて、まだ良かったですね。わたしも少し大人になったんです。でも亡くなった恩師は50ぐらいのころまだよく戦ってましたからね。



今年は、某「ほめる研修」とこの某「ベストセラー本」と、二つの「宗教戦争」を戦ってきたのだ。疲れたわけだ。頑張ったぞ、あたし。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 



 

 のろのろとたまった家事をした週末でした。

 講演とか研修がなんでそんなに疲れるのか、とお叱りを受けそうですが、基本的に「しゃべり」の才能が乏しいんです。元々「人の話を聴く」ほうが好きでこの道に入ったのに、ある時期から

「そうか、やり方をちゃんと教えてあげないとこの人達(経営者・管理者)はコーチングをできる人にはなれないんだな〜」

と気がつき、それで講師業に転換したのでした。今でも話すのは決して好きではありません。

 その転換の節目がちょうど10年前、初の事例セミナーをやったり任意団体「コーチング・リーダーズ・スクエア(CLS)」を設立したころです。正田は当時、コーチング開始して2年ほどたっており、2年間はパーソナルコーチングが中心で「教える」ことに気乗りがしませんでした。「自分は人を教えられるなんて器ではない、おこがましい」と思っていました。

 
 色々と他の先生の講演研修に行ってみて思うのは、「笑い」を入れるテクニックとか、聴衆を「いじる」テクとか、私などがいくら真似したくてもできないわざを使われる先生はたくさんいます。ただし、「笑い」の要素が多いと本筋の話の中身をあまりおぼえていない、ということが私の場合は往々にしてあります。


 また、「上から口調で」「一方的に、立て板に水と」話す先生の場合は、失礼ながらかなり先生自身の「緊張」とか「こわい」という気持ちが入っていそうです。
「聴衆に弱みを見せたくない」
「反駁されて見っともない姿をさらしたくない」
という。

 ―「こわい」感情を隠したいがあまり「上から口調」になるという気持ちはわからなくはありません。正田もこわいです、リーダーたちの視線にさらされることは。―

 質疑タイムを一切とらない講演とか、時間オーバー気味に先生がしゃべったあと最後にちょろっと質疑を司会から促す講演というのもいっぱいあります。それはまた、とりわけ人生経験や見識ある聴衆にとっては、一方通行で「腹ふくるる思い」になるものです。(ひいては、講演内容をあとでほとんど憶えていない、という結果にもつながります)

 
 正田は過去に質疑で「吊るし上げ」「火だるま」の目にはさんざん遭ったほうです。女のくせに「こんなに実績があるんです」って生意気な話をするからです。

 それでも「質疑」は重視します。「質問をしよう」と繰り返し促してあげると、やっぱりちゃんと聴かずにはいられない。能動的に「とりにいく」姿勢で聴いてくれます。自分の中に生まれる「引っかかり」「疑い」を大事にしてくれます。いわばクリティカルシンキングをしながら話を聴いてくれます。かつそれらをその場で丁寧に解消してあげれば、講演に対する悪感情を一切持たないで研修会場をあとにしてもらえるわけです。

 ―疑えばよいのだ、私が既存の研修機関の教えをつねに疑ったように。疑いつくし、そしてすべての疑いが解消されたなら、次の段階で信じればよいのだ、科学を信じるように。―
 
 ・・・でもそうして「対話重視」の姿勢で講演すると、実は私自身はあとでどっと疲れています。

 私のもっているストレングス・ファインダーは「個別化」「親密性」が昔から一貫して優勢で、これは大勢を相手に講演するよりも1人1人と個別に話すのに本来はむいている資質のようです。それを無理して講演とかするものだから(ちなみに「人前で話す」ことにかかわる資質は一貫して中程度のランク)、聴衆が35人いたら35人ひとりひとりと対話しているような「つもり」で話しているわけで、実は聴衆の顔をみながら
「あ、今この人には反感が生まれた」
なんてことも全部感じ取っています。

(以前は、そういうのを感じると途端に舌がもつれる気弱な講師でした。そのへんは大分腹がすわったと思います)

 自分が過去に(認められたかったのに)認められなかったことの不満。過去の上司への不満。失われた自分の青春時代への哀惜の念。そしてつるんとした顔の「今時の若い子」への羨望や嫉妬…。
 「承認」を伝えるのはときに寝た子を起こすようなもの、パンドラの箱を開けるようなもの。
 そして行き場を失った悪感情は往々にして講師へ向かいます。
(だから、講師は「教える」ことと同時に「癒し」と「至誠」の念も伝えなければなりません)


 そして、今でもある「悪意の質問」への恐怖。これが終盤に出ると、実は講演の印象がいきなり悪くなります。悪感情は伝播しやすいものです。
 だいぶ、「悪意の質問」のパターンを読んで事前に対処するようにはなりましたが。

 高槻の場合には、やはり部会長・副会長からのご挨拶が場の感情を真摯にそろえてくださったと思います。

 時代の感情を「負」から「正」へ、力わざで転換する「承認」の講師は危険作業をやっているのだ、ということをご理解くださる主催者の方だといいです。


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 先日の講演後の懇親会の席で御年80歳の間瀬誠先生と立ち話しました。

 『工場長心得ノート』(日刊工業新聞社)の著者である間瀬先生が言われたのが、

「ぼくは、旭化成時代自分の全然経験のない分野の工場長ばかり任されていた。
そこでぼくが工場長としてやっていたのは、ただニコニコしている姿を見せることだった」
 
 
 私流の遺伝子学による「日本人の不安感の高さ、信頼感の低さ」に大いに賛同してくださった間瀬先生は、「そうか、だから自分の動いていい範囲を自分で狭く限定してしまうんだな。だから日本人には一番『承認』が効くわけだ」ということも言われました。その間瀬先生が現役時代無意識にやっておられたことは、やはり「不安で自信のない日本人労働者対策」のようなことであったようです。


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 先日の「ほめる研修批判」の記事のあと、過去に同研修を受講し検定2級ももっているというお友達の1人から真摯なメッセージをいただいていました。

 そこには、非常に自分が精神的にきつかった時期に同研修を受講して救われたこと、現在はその団体と距離を置いていること、などが綴られていました。

 お恥ずかしいことに、まだお返事が書けていません。
 その人にとっては大切な思い出であったはずなのです。そして私にとっては尊敬するお友達です。

 過去なんども同様のことがありました。コーチングの他研修機関(ややスピリチュアル系)を受講してそちらのプログラムを良いと思ったひとは、最後は当協会や前身の任意団体のルールを破るなど問題行動を起こし、去っていきました。それは問題行動でありその教育プログラムに欠陥があるからだよ、という意味のことをどんなに説いてもむだでした。

 だから、他研修機関で受講された方のお気持ちは「尊重」して「敬して遠ざく」のが本来は一番良いのです。

 他の世界のひとからみると「コップの中の嵐」とみえることでしょうが、実はこうした宗教や思想がかったもの同士は激しい嫌悪や憎悪の感情を産みやすいのです。ということが、『あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか』(レイチェル・ハーツ)という本に書いてあります。

 この本についてはこちら
 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51838044.html

 に読書日記を掲載していますが、残念ながらこの記事ではこの(思想対立、宗派対立などのもたらす嫌悪感に関しての)箇所は引用していません。


 
 「ほめる研修」は、ギスギスした職場や自殺者の多い現状を変えたいという想いが根底にあるということがそのお友達のメッセージにありました。ただ本来の思いとはかけ離れたところにいっていると。


 この場を借りてひとつコメントをすると、

 以前も書いたことですが、これまで当協会の尊敬する受講生様が「以前の部下のお葬式に行ってきた」と言われたことが、2度ありました。

「私が育てた優秀な部下が、次の強引な上司に責め殺された」

というのです。
 どれほどの無念だったことか。想像するよりほかありません。

 だから、人をたいせつにしない職場の現状を変えたいというところの想いはおなじです。

 ただ、想いがどんなに正しくても、手法もまた正しくないといけません。

 研修を受講した人がはき違えを起こすことが多いなら、それは稚拙な伝え方なのです。起こり得る誤解を先回りして解消し、それが起こる確率を下げる取り組みを、プロならすべきです。

 起こりがちな誤りを戒めるのは、「1回だけ言いました」ではダメです。何回も何回も、嫌がられても言わなければなりません。エンタメとしての楽しさを犠牲にしてでも。

 ―そうした作業をすると、講師の役割は限りなく「マネージャー」に近いものになってきます―

「教育は間違っても人は死なない」

というフレーズをこのブログでよく言います。これはもちろん反語で、とくにリーダーにたいする間違った教育で人が死ぬことは大いにあり得る、ただ見えにくいだけだ、と思っています。平気で間違える教育のなんと多いことか。

 今、「ほめる研修」に関していうなら、「上司のほめ言葉を信頼できない」という事態のなんと恐ろしいことか。

 
 そして、研修機関の組織が大きくなったときにはき違える人が増えやすいことを考えると、正田は組織を大きくしたいのかどうか、正直わからなくなることがあります。

 わたしたちの教育がより力強く、この社会に説得力をもつ存在でありたいとは思いますが。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

※この記事は「他社批判」が入っています。自社の業務遂行上必要性を感じてのことですのでご理解いただくようお願いします。


 このところ悩まされるのが、承認研修を行ったとき受講生様に起こる、「ほめる研修」との混同である。

 「承認」と「ほめる」、私はふだん「含む、含まれるの関係」と説明しているが、それだけでもない。あえて「承認」あるいは「認める」という行為の名で伝えるのは理由がある。


 個人的には、「ほめる研修」をどこかで受けてきた人が「おきれいですね」などという言葉を発してくると、実際よくあるのだが―くれぐれも、自慢していると受け取らないでほしい、先方はお世辞半分という場合も大いにあるし―礼儀上「はあ、いえ、ありがとうございます」と頭を下げているけれど内心はらわた煮えくり返っている。極端な話、絞め殺したいぐらいに思っている。(あたしをお顔だけの人間だって言いたいのかよ)(仕事はできないって言いたいのかよ)とまで、本気で思っている。(「C」の人間はそれぐらい心に毒を持っているのだ、女も。)


 それはさておき、以前にもこのブログで書いたが「ほめる研修」の影響だろうか、今多くの職場で起きているようなのだ。「やたら褒めてくる上司」への嫌悪と不信の念が。


「会議でちょっと発言しただけで上司が『すばらしい』って褒めちぎる、もう手の内はわかっていて何も感じない」

 ―それ、もう発言するのが嫌になっちゃうんじゃないだろうか。

 
 私は巷で流行っている「ほめる研修」について受講した人からの又聞きしかないのだけれど、随分強引な言い回しをしているらしい。

「自分についてほめる言葉が30個見つからない人は人格がおかしい、問題がある」

みたいな。見つからないよ、そんなの。

 そして「3S」といって「すごい」「さすが」とあと何かを常に言うよう勧めるらしい。

 いやだ、そんな見えすいた上司。


 あと数年前にTVで断片的に研修風景をみたことがあって、

「随分『上から口調』でやる研修だなあ。講師によるモデリングは考えてないのだろうか」

とこのブログでコメントしたことがある。


 色々総合するに、「ほめる研修」は、「極論だからおもしろい」という類のものなのではないかと思う。

 例えば1960年代ごろにTVが普及し、吉本新喜劇の放映がはじまり、そこでは河内弁系統の汚い大阪弁で罵ったり、どついたりするのが受けた。それは現実にはあり得ない品のないやりとりだから、めずらしいから受けた。しかし知らず知らずのうちにそれが大阪の本来の会話方法であるかのように認知されてしまった。


 通常、リーダーは「上から口調」の研修を受けると、まともな神経の人ならむっとする。
(人事の人あたりはそのことがわからないらしく際限なく「上から口調」の研修をお買いものするが。上から口調で言う人はエライと刷り込まれているらしい)
 むっとするような口調で、「ほめる」ということを強要されたとき、どうなるか。それは言っている内容と言い方がねじれ状態である。結果的に「心の入らない、憎しみや嫌悪、侮蔑のまじった『ほめ』」が出来上がるのではないかと思う。


 だから、「ほめる研修」を受けてきた人は、私が「承認研修」をやっているのを知ると、

「えー、でも私が『すごーい』なんて言ったら不自然じゃないですか」

などと反応してくる。

 私は「すごーい」なんていう軽々しい言葉を承認だなんて思っていないし言っていない(余程文脈依存でそれがふさわしい場面なら構わないと思うが)のだが、それは「ほめる研修受講後」の人にはいくら言っても伝わらない。

 そういう人達にとっては、「ほめる研修」も「承認研修」も、「なんかよくわからない、いけ好かない『あっち側』のもの」なのである。


 申し訳ないが私が思うに、「ほめる研修」さんは当協会が昨年初めから警鐘を鳴らしている「ナルシシズム」の文脈のほうに位置づけられるように思う。

 アメリカ商業主義が、例えば60年代ごろからコカコーラ、マクドナルド、ナビスコその他大企業が糖と脂肪分の塊のようなものをじゃがいもやとうもろこしと組み合わせて大量生産しマーケティングした、その結果肥満を増やした。人の身体は飢餓状態に備えてあればあるほど食べるし、とりわけ糖と脂肪を含んだ食品は依存性がある。そうした身体にわるいことが目に見えているものを、商業主義でこれでもかと売った。

 それと同様「精神の肥満」がナルシシズムである。セレブ礼賛やファッション、「自分を愛しなさい」というメッセージ。「自分を愛さないと他人を愛せない」という脅し文句のようなものもある(良心的な心理学者はこのフレーズを否定する)。こうしたものも誰かが儲かるようで、人類の許容範囲を超えて売られ、その結果アメリカでは16人に1人が「自己愛性人格障害」となった(NIH調べ)。そうした「ナルシ量産」の商品の1つが、「ほめる研修」「ほめる教育」らしい。向こうのコンサルタントさんも盛んに企業に売りつけるらしい。

 だから、こちらが「承認」という言葉を慎重に使っているのに「ほめる」という言葉で返してくる人には、私はじりっ、と後ずさってしまう。
 しかし「ほめる研修」さんは繰り返しメディアに取り上げられ有名なので(あと「検定」なんかもやってるんだっけ)最近は地方支部もあるらしい。あーあ。


 
 当協会方式では「承認」そのなかでも「行動承認」を重んじてセミナー中にも実習するし宿題にも出す。これは、1つには「行動承認」に徹するかぎりナルシを誘発することはない、とわかっているからである。自分が行動したことを正確にみてもらい認めてもらう。行動しなければ認めてもらえない。そういう環境に置かれれば人はいやでも行動するようになり、また行動によって自己評価を高めることができるようになる。自分の行動量に応じて、実像通りに自信をもつことができるのである。

 ナルシシズムに関する名著『自己愛過剰社会』でも、ナルシシズムの解毒剤として「コーチの行うほめ方」を勧めている。
 「よくやった」「よく頑張ったな」失敗したときには「何が悪かったんだろう?」
 ―要は、シンプルに「行動に即して声がけする」ことを心がけるべきなのである。

 そして、このルールで場全体をそろえてしまうと、場の空気が見違えるようによくなる。それはやってみればわかる。

 職場でもし「おきれいですね」「そのお召し物素敵ですね」のたぐいのことを上司が言っていたらどうなるか。当然美人へのえこひいきになるし女性社員は競って華美な服を着るようになる。


 ああ面倒くさい。こういうことまで説明しないといけないのが。

 今のところ介護福祉職さんで研修していると、この「ほめる研修」の嫌な匂いを感じない。有難いことに、この業界にはまだ入っていないのでしょう。製造業にも入らないでほしいな〜。人事の人がバカだと、入ってしまうかもしれない。

 
 
 「承認」は、きちんとやり込めば伝統的なマネジメントの世界の「四字熟語」にも通じる。それは変な馴れ合いの会話ではない、武士道的なすがすがしいものである。もちろん人のこころが安定し、業績も飛躍的に伸びる。ただ、「ほめる研修」受講後の人には心に取り返しのつかない壁ができるようであり、いくら話しても沁みこまない。研修をしていてもその「嫌な匂い」を感じる。

 どうかこれから行う研修でバッティングしないように、と願っている。


 正田は「HS(hyper sensitive、神経過敏体質)」で損をしているのは間違いない。でも「これは違う」と敏感に嗅ぎ分け切り分けることを10年間繰り返してきたからこその、受講生様方のコンスタントな業績向上現象なのだろうと思う。


 このほか「毒正田」シリーズの記事は、例えばこちら

「『上から目線』を喜ぶ人々―コーチングネガティブキャンペーンへの反論」

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51859011.html



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 教育研修の「副作用」のような話を定期的にこのブログに書いている。


 よく出る話は、「自己主張訓練」のセミナーに行くと、「変な自己主張」をする。妥当性のない主張を、相手がのんでくれるまでしつこくやる。ロールプレイの中で相手が根負けしてくれるのに慣れているからだろうか。あるいは、引き受けた責任を放棄する。「NO」を言う技術、みたいな教えがあるからだ。自己主張訓練はもともと、有色人種、女性、障碍者など社会的弱者が自己主張するための技術を教えるもので本来は良い志のものなのだが、学んだ人の中には「はき違え」が随分出るようなのだ。自己主張訓練の祖、行動理論家のジョゼフ・ウォルピは、「自己主張をセミナーで学んだ人は実世界に戻ったあとイレギュラーな自己主張をし、『頭打ち』を経験してやっと程よいところにおさまる」といみじくも言っている。


 コーチングのある流派のセミナーを受けると、「間違っている人はいない」というフレーズを身に付けて帰る。それはワークショップを成り立たせるための方便だろう、と私は思っているが。たとえば共通の目的をもった集団の中にいればその恩恵も受けるかわり、理念の制約も受ける。理念に反したことはできない、のは道理である。あるいは、法に反したことをしてもいいのだろうか。


 また、やたらガラパゴス的に高度な心理学・コミュニケーションセミナーに行くと、高額なこともありナルシシストになりやすい。トラブルを何でも小手先のコミュニケーションテクニックで解決しようとするので、まっすぐものを言わない。真摯さがなくなる。「コミュニケーション」の中に「徳」の要素がない。


 私が最近出会った「変な人」は、どこぞで「叱り方セミナー」のたぐいを受講したようだった。どんな変な”症状”なのかというと、ひとしきり相手の人格否定、人格攻撃のようなことを言ったあと、自分で「あなたを否定していませんよ」という言葉を言い訳的にくっつけるのだった。まるで前半部分で何を言ってもあとからそれを言えば免罪符になると思っているかのように。

 そして、相手に感謝したりねぎらったりすべき場面でまったくそうした言葉が出ない。基本的な礼節まで忘れてしまったかのようだ。

 攻撃性が脳の大半を占めてしまい、平和友好的な活動ができなくなるのだ。


 「自己主張」も「叱る」もいわば広い意味の「攻撃行動」である。以前にも性欲がらみで書いたが、人の本能は煽られると不必要に燃え上がる。「攻撃性」も、どの人も本能の中にインプットされているものだから、セミナーがその部分を煽り拡大する。そして「セミナーで教わったことだから」と自己正当化し、不必要、不自然なまでに他人に攻撃をぶつける。

 だから「叱る研修」などというものは、それ単独で使用したら「パワハラのすすめ研修」みたいな危険なことになるのだ。

 もしそうした研修を採用してその企業でパワハラや鬱が広がったら、それは研修を採用した人が責任を問われるべきだろう。普通の神経の人は、私の受講生たちなどはそうだが、教育研修をぱっと見ただけで「あ、これはうまくいかないな」とわかるものだ。そうしたコモンセンスの働かない人が研修の購買について決定権をもっていることが問題なのだ。


 「ほめる研修」ブームが一巡したところなのでそろそろ「叱る研修」に目が行きやすくなるところだろうが、このブログでは警告しておきたい。上司の「理性力」が未熟なところに「叱り方」を教えてもダメなのだ。


 
 このブログの長い読者の方はもう耳にタコだと思うが、私の考えを再度まとめておきたいと思う。

 組織の上下の立場がある限り、上位者は下位者に対して攻撃的になりやすい。それを本能のはたらきとすると、理性の力でそれを抑え、思いやりや敬意をもつのが、孔子先生の説いた「仁」だったり、平成の「承認」である。「敬意」はとくに、人工的な理性による美しい感情である。それを維持するには意志を必要とする。

 古来、徳治の行きわたったところでは上位者下位者がうまくかみ合い、生産性高く回った。それは、申し訳ないが宗一郎幸之助の時代よりはるか前からあった名君の知恵である。

(もちろん優しいやりとりの場面ばかりではなく、シビアな叱責の場面もあるにはある。中には徳治の中で勘違いする人も出る。しかしそれは例外的なものだ。)
 
 

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「第3回承認大賞」募集ページはこちら!あなたのエピソードを教えてください

http://www.shounintaishou.jp


「承認大賞ハンドブック2013」ご紹介ページはこちらです

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51861106.html


 まだあまりまとまっていない考えかけのことを書く。2013年3月の時点の考え。


 このところある種の脳機能の障害について調べていて、目につきまた考えたのはコミュニケーショントレーニングの場でのその人たちの振る舞いである。

(『発達障害チェックシートできました』(生活書院)には、学校現場でのソーシャルスキルトレーニング(SST)やエンカウンターの授業の中で起きる問題について書いている。こうしたトレーニングの障害者側からみた偽善性をよく描いていて、考えさせられる。もちろんコーチングも同じだと思う。

 ただこのトレーニングによって「幸せな職場」を作ってきた、これしかないという隘路をやってきた、と自分に言い聞かせ気を取り直すのだが。)


 言語によるコミュニケーションは、「承認」であれ「傾聴」であれ、健常者でもある程度の努力を要する。


 それを、マネジメントに必須のものだからと、いわばなだめすかして教え練習してもらい身につけてもらう。相手は中高年の男性なので、そのプロセスだけでもそこそこ負荷をかけることになる。講師はそのために参加者との間の信頼関係を作るよう、心を砕く。通常は健常な人なら問題にならない、風邪を引いてない人に「さあウォーキングをしましょう」という程度の負荷である。


 ところで参加者の中に脳機能の障害のある人がいてコミュニケーションが上手くとれないとする。あるいは普段は普通に社会人らしくやりとりできるのだが、時々暴言が出る。こうした人が混じってくるのは実際によくあることである。「こいつだけは直らん。何とかしてやってくれ」というノリで研修に送り込まれる。


 こうした人が、研修で課される課題がストレスになり、研修や講師に対して反感むきだしの発言をする。あるいは「承認」プログラムに対して、「そんなことを言ってもわが社のマネジメントはその真逆じゃないですか」と鼻で笑うが、それはその人の主観的な思い込みで、その人自身が暴言失言が多いので上司から頻繁にお小言を食らい、また叱られた記憶だけを強く記憶しているという現象だったりする。


 それが、場全体の学ぶ空気を害するということは実際によくある。

 企業研修は1日こっきりのことが多いから、一度場全体の気分を害すると挽回できないまま研修を終了してしまうことになる。そして習得の歩留まりはわるくなる。


 建前としては人をへだてるべきではないのだが、やはりこの時代、非常に限られた研修予算、時間の枠内で教育をすることを考えると、マネジャー研修も極端にコミュニケーションの問題が多い人は参加してもらうべきではないと思う。健常な人が習得することを重視したほうがいいと思う。

 以前にも書いたがこうした人は元々の障害にプラスして鬱やアルコール依存なども合併していることが多い。たまにくるだけの研修講師が何とかできる相手ではないのだ。


 こうした人々の世界に即して考えると―、

 たとえば運動能力にも色々な種類があり、水泳が得意な人もいればサッカーが得意な人もいる。水泳で十分人に誇れるような成績を挙げているがサッカーは得意でない、そういう人にとってはサッカーは「何が面白いの?」という種類のものだろう。得てして、人は自分の不得意なものを見下す。私自身にもそういう部分がないとは言えない。


 コミュニケーションや共感能力に大きな障害のある人にとっては、それらのスキルは学習しても一向に上達しない自分の不得意科目なのだから、「何が面白いの?」なのである。

 ―以前医療機関で研修したときのコミュニケーション障害のあった、しかし受容していない女性の「何が面白いの?」という冷めた視線は忘れられない。実際にこの職種の人には多いようだ―

 こうした人々は、「コミュニケーションの重要性などは『すきずき』の問題だ。人の好みや考え方は『それぞれ』だ」と主張することがある。それも知的能力の高い人なら言葉巧みにそう言うが、それにも騙されてはならない。マネジャーには一定以上のコミュニケーション能力が必要だ。それはもう共通認識にすべきなのだ。


 またこうした社会的スキルや共感能力に大きな障害のある人は、往々にして「ワーキングメモリ」が小さいことが知られている。

 「ワーキングメモリ」は重要なキーワードだと最近思うようになった。これが小さいと、まず「承認」とりわけ当協会で重視する「行動承認」はできない。他人の良い行動を憶えておく記憶力などないのである。悪意がなくても
「あれっ?この手柄あなたのだった?違うでしょー僕んでしょー」
ということになる。恐らく、自分が知らず知らずのうちにそういう行動をとっていることなどまったく自覚がないと思う。


 また「ワーキングメモリ」が小さいと他人の話の内容を憶えておく容量がないから、「聞いたふりしてもあとで全然憶えていない」ということになる。また上司から指示されたことも憶えておけないから、「あれはやったか?」と突っ込まれて適当な言い訳をしたりする。


 −ある文献によればこうした人たちに対して薬物治療が功を奏したとき、患者が

「自分の評価が低いのが不満だったが、理由がよくわかった。同僚のAさんは自分よりはるかに良くやっているのがわかった」

と言ったそうである。―


 もちろん、こうした行動は邪悪なのでもない。向上心がないのでもない。しかしもしこの人たちが健常な人だという前提で考えると、普通の社会人の大人の努力義務をあざわらうような行為であり、周囲を不快にさせる、あるいはダメージを与えることは言うまでもない。とりわけ上司の立場になったときは害が大きい。


 だから障害を受容するということは大事なのだ。


 障害について書かれた本は、当然当事者が自発的に医療機関を受診し前向きに訓練を受け社会参加することをゴールにしているから、「当事者の生きづらさに寄り添う」ことを強調するが、読んでいて歯がゆさもある。


 その「受容」という入口に当事者がたどり着く前にどれぐらい周囲の人を傷つけるだろう。場合によっては一生残るような心の傷を負わせる場合もある。それについては障害についての文献は「あきらめるしかない」等と述べるにとどまっている。だがあきらめがつくのは障害を前提にする場合だけである。障害でなくモラハラについて書かれた本は、被害者に対して「逃げるしかない」と勧める。


 なるべくその受容までのプロセスを短縮したほうがいいと思うのだが。

 文献によれば、「受容」のプロセスとして望ましいのは、上司が

「なんか困っていることはない?」

という言葉で声をかけ、産業医に相談を勧める、ということである。上司は「障害」という言葉を口にしてはならない。

 つまり本人の自覚として「困っている」ことがないといけないのだが、それはそれまでに様々な場面でミスを犯して叱られ、暴言等で叱られ、周囲や会社からの評価が低くなり、本人はそれらの事実関係を認識している、ということである。


 だから失敗を容認してはいけない。中には恐らく過剰に養育的な上司が本人に負荷をかけず、叱られる機会をつくらないように先回りして配慮していた結果、長い間見過ごされてきたというケースもあると思う。


 
 なんというか、こうした障害について理解が広まったのはほんのここ10年くらいなのだが、まだこの世界には大きな認識の空白があるような気がする。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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河合薫『上司と部下の「最終決戦」―勝ち残るミドルの”鉄則”』(日経BP社、2012年6月)という本を読んだ。日経ビジネスオンラインの人気連載をまとめたもの。


 私と似た分野の人、河合さんのほうが週刊だし、WEBで数ページにもわたるから大変だ。真摯な考察だな、とうならされることも多い。

 ミドルマネジャーの窮状を訴え、出世競争から「下りた」ミドルの発見した生き方として、「承認」のようなことも取り上げる。


(この本の「はじめに」にある、「管理職の死亡率がここ5年で70%増」というショッキングな研究については、元連載がまだWEB上にあるので是非参照されたい。

 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120425/231382/?rt=nocnt



 影響されやすいので、ぱくりだと言われないように気をつけないと。


 ぱくりでなくまじめな引用ということでお許しいただいて、

 
 この本の中に「真面目賛歌」と呼べるような一節がある。


 私は工場(あるいは生産現場)に行くと、無性に感動する。取材の時だけでなく、講演会などに呼んでいただいた時も、可能な限り工場を見学させてもらうのだが、現場に足を踏み入れると決まって胸が熱くなるのだ。


 恐らく工場で働く人たちの実直なまでの真面目さに、心が揺さぶられるのだと思う。ひたすら頑固なまでに、彼らは決まった仕事を決まった時間に繰り返す。何事も起こらないように働くことが、彼らに課された最大の使命だ。だから、彼らは決められたことを、ミスのないように、徹底的に真面目にやる。彼らからは、「上司に評価してもらおう」とか、「いいところを見せよう」とか、「他人をおとしめてやろう」といった、卑しさや野心を微塵も感じることがない。「日本という国は、こういう人たちに支えられているんだよなあ」とつくづく感じる。(p.102)



人間は同じことを繰り返すと、飽きる。慣れて、手を抜くこともある。だが、真面目に働く人は、飽きることなく、手を抜くことなく、何度でも繰り返すことができる。

 本当は飽きることもあるだろうし、手を抜きたくなることだってあるだろう。だが、真面目に働く人は、その欲求を封じ込める努力をするのだ。

 しかもやっていることが昨日と同じようでも、実際には、昨日とは全く同じなんてことはない。天気も違えば、働いている人の精神状態だって、体調だって変わるだろう。毎日使う機械だって、100%同じなんてことはあり得ない。油も減れば、歯車だってすり減るだろうし、機械が置かれている室内の湿度だって変わるはずだ。同じことをやるためには、そのわずかな変化を感じ取って対応する能力が求められる。

 結局のところ、どれだけ毎日、真面目に真剣勝負で取り組んでいるかが決め手となるわけで。同じことを続けるとは、いわば、同じことを続けられる環境を作り出す日々の努力なくしてなし得ないことなのだ。(pp.108-109)



 どうでしょう、この「真面目愛」ともいえる文章。でもわたしも好きだ、真面目。


 その「真面目」に立脚しているはずの日本企業が洋風のマネジメント手法をとりいれた結果―、と、この文章は続くわけです。大いに共感。


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きょうはクリストファー先生の英会話教室。


正田は”Acknowledgement-based coaching"(承認中心コーチング) というものをやっている、というお話をしました。


 英語にするとちょっとかっこいいですね。 本当は"Fact-based-coaching" (事実ベースのコーチング)というふうにも言いたい。でもかっこつけすぎかな。


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 『脳には妙なクセがある』(池谷裕二、扶桑社、2012年8月)という本を読みました。


 気鋭の若手脳科学者(でもこの「脳科学の解説」という分野では重鎮)。新しい発見がいくつもありました。たとえば「催眠」という現象について解説があります。

 「催眠は、いわば人工認知症」

と、いいます。


 面白いことに、催眠状態ではスツループ効果が消えるのです。これを発見したのはコーネル大学のラズ博士らです。この時、前頭葉の「帯状回」という脳部位の活動も抑えられていることがわかりました。帯状回は「矛盾」を発見する部位として知られています。・・・つまり、催眠とは注意力が低下して「状況の不一致や不自然さに気づけない状態」とも解釈できます。(p.296)



 催眠にかかった人は想起力が低下しています。しかし、まったく思い出せないわけではありません。たとえば、催眠中に見た映画について、内容は思い出せないことはあっても、映画を見た状況については思い出せるといいます。

 なんとも不思議な精神状態ですが、神経生物学者のデュダイ博士らは「この解離的な健忘症は、老人に見られる認知症と似ている」と指摘しています。つまり、催眠は、いわば人工認知症なのです。(同)



 ・・・このブログをしばらくお読みになっている方は、ここで何が言いたいかおわかりでしょうか・・・


 多くのコーチングセミナーや類似の心理学セミナーで参加者が「酔った」ようになる状態というのは、どうも「催眠状態」に近いのです。そこでは、講師の言うことと現実の間の矛盾に気づかなくなったり、セミナー参加前に自分を律していた「社会人コード」やご家庭や学校での「躾」まで忘れたような状態になります。「幼児化か、老化か」という記事で観察したように、それは認知症に似ています。


 その手のセミナーでは、「講師の先生がすばらしい人だ」というのはしっかり刷り込まれるのですが、習ったことをできるようになる、という本来の意味の学習にはほとんど役立ちません。「コーチングって難しいですねえ」と言うばかりです。


 本書によれば、催眠にはかかりやすい人とかかりにくい人がいるということであり、わたしも某・高度な心理学セミナーで組み込まれている催眠のワークに参加しクライアント役になったこともありますが全然かかりませんでした。逆にセミナー、ワークショップで異様に「ノリの良い人」というのはいるもので、催眠と銘打ってなくてもスピリチュアル系のセミナーで、「ヨーコ、君は鳥になって飛んでいる!」と講師に言われると本当に飛んでいるしぐさをする人もいます・・・


 結局「催眠にかかりやすい層の人」を喜ばせるためにこういうワークショップ、セミナーはあるんじゃないだろうか・・・

 本書によれば、本当にかかりやすいのは全体の10%くらい、20%は全くかからない、残り70%は催眠術師の腕次第、なのだそうです。


 コーチングという、人の成長を意図したコミュニケーションの方法を教えたり学んだりするのになんで催眠状態とかつかわなきゃいけないんだろうか。「武田建のコーチング」でいいじゃないか目的が明確で、兵庫ローカルだけど、とわたしなどは思うのです。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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 「研修カクテル」は、今日わたしが急に発明した造語です。

 本当は「研修チャンポン」と言ったほうがいいのかもしれませんが、語感が今ひとつなので「カクテル」としました。

 ようは、コーチングやそれに近いモチベーションや心理学、意識変革の研修同士を「まぜて使う」あるいは「短期間のうちに連続して受講する」ことをしたときに、どんな副作用が起きてしまうか、というお話。


 このところの経験に基づく「古くて新しい問題」について、書いてみます。いささか気が重いですが、やっぱりこういう仕事をしているものの社会的責任のうちかな、と思います。


 
 以前より、この手のやや心理学がかった研修で起きる「副作用」には、当協会は神経をとがらせているほうです。


 「研修副作用」を扱った記事をざっと再掲してみます:



 「ときどきコーチを返上してジャーナリストになるです」(08年5月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51336521.html


 「続・ワークショップ症候群」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51336821.html


 「前向きなことだけ言ってればいいのに正田は」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51336962.html

 「感情と自由の暴走が何をもたらすか」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51339067.html


 「エスリンでうまれたものと日本」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51344385.html


 「続・エスリン研究所―実験と成功と失敗の歴史」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51344817.html


 「幼児化か、老化か」(10年3月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51564619.html


 「ワークショップとの付き合い方、マネージャー不在のマネジメント、男の嫉妬」(11年6月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51740369.html


 「自己愛、団塊、ワークショップ症候群、シュガー社員」(12年1月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51786028.html


 「断定・恫喝と意識変性の関係 続・人に教えるということ」(12年5月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51802510.html  



 まあ何とも、周期的に同じようなこと書いてるなあ、と思います。ようするに周期的に似たような現象に出くわしますからね。

 1回1回の記事のたびに、そこには「他社研修」にかぶれて去って行った人の心痛む記憶があります。
 これまでの経験では、「他社研修」にかぶれてわたしに対して見下しの態度をとってきた人とその後人間関係を維持できることはほぼありません。そしてわたしは「承認」に対して「見下し」の反則技を出してくる卑怯な人には、かなり手厳しい物言いをします。


 上記の記事を読んでいられない、ご多忙な大多数のこのブログの読者の方々のために、こうした研修の「副作用」とはどういうものか、ざっと抜書きをしますと―。

・ドラッグジャンキーのような状態。
・スピード狂。
・傲慢。ナルシシズム。
・現実感のない浮遊感。全能感。
・演劇的な身のこなし。
・現場への想像力の不足。
・自分の思いもよらない他者からのフィードバックの回避。打たれ弱さ。
・欲望全体の亢進、アルコール依存や性欲の亢進をふくむ。
・自分をほめてくれた先生に対する見下し。
・苦しい「他者承認トレーニング」や謙虚さへの見下し。


 上記で扱った対象の研修は、決して「コーチング」にとどまりません。コーチングよりもっとディープな心理学、専門用語満載の心理学の1分野(わかる人にはわかると思う)、それを取り入れたコーチング、プレゼンセミナー(自分を全面肯定せよ、という教えが入っている)、ワークライフバランスがらみの時間管理セミナー(自分中心に時間を組み立てよ、という教えが入っている)、「感情マネジメント」の研修、などなど。ひょっとしたら、「自分のやりたい仕事にこだわれ」というキャリアカウンセリングもそうかもしれない。


 それと心理学系に関するかぎり、どの分野の研修にしても、講師が「知識自慢」「専門用語自慢」をしているタイプのものは意味がない。実務にそんなガラパゴスなものは必要ないのです。

 技術関係で、その技能を絶対に身につけないといけない、という人対象のセミナーならまた別でしょうけれど。

 今年初めからは、「自己愛(性人格障害をふくむ)」という概念を得て、こうした研修が「自己愛を育てる」役割をしている可能性は大、と思っています。


 
 さて当協会の研修はではどうなのか、ということですが、

 当協会は設立以前の任意団体の時代から、いやもっとさかのぼり、任意団体設立前の2003年ごろから、こうした「他社研修」のもたらす鬱陶しい副作用をまのあたりにし、それで

「コーチングはマネジャーのマネジメント能力向上のため、と目的を絞って教えるべき。自己実現などは意味がない」

と、割り切ってしまったのでした。任意団体「コーチング・リーダーズ・スクエア」はそもそもそういう割り切りの産物であります。(国内では初めてだったと思います)

 2004~6年の、「1位マネジャー輩出」という現象もまた、こうした割り切った教育方針と無縁ではないと思います。


 そして「マネジャー育成」に絞った結果、マネジャーの「思索/熟慮」「自己との対話/内省」「共感」などを大切にする、独特の間合いをとる研修方法になっていったのでした。


 時々、「今時の人数を絞った忙しいマネジメントの中で、マネジャーさんはみんな早口でくるくる、くるくる会話している。それに合わせたテンポの研修にしたほうがいいのではないか」と思うこともわたし自身ないではないですが、

 経験的にそれはちがうのでした。

 現実のマネジメントが「早く、早く」「巻いて」となればなるほど、研修ではテンポを落とし、かれらに十分な思索をさせてやる必要があるのでした。


 それをしてやって、初めて「承認」という従来のマネジメントの常識の逆をいくものも、

「これは真実だ」

と、しみじみと受け容れられるようになるのでした。


 かつ、以前「人に教えるということ」という記事で書いたように、

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51754001.html 


 マネジャー育成の研修講師は、できればかれらに「教え方」の模範になれるような存在でありたい。行動理論でいうモデリングであります。

 ひとつの研修が忙しい職場の人々に何を残すか、というときに、実は内容よりも、研修講師の口吻、人に対するあり方、のようなものが印象に残るのです。

 であれば、講師はマネジャーたちが職場に戻った時こんなふうに周囲の人々を育成してほしい、というように、講師自身が振る舞わなければなりません。


 謙虚に、威圧的でなく、強引でなく、丁寧に説明を尽くして人々に納得させられるように。

 講師が威張る人であればマネジャーも威張る人になります。講師が一方的に早口でしゃべる人であればマネジャーも一方的に早口でしゃべる人になります。


 
 多くの場合、わたくし正田がつくる場というのはこれまで、

「清々しい場」

「さわやかな場」

と、評価していただいてきました。

 これは、「承認」を重んじ、「讃えるべきことを率直に讃える」ことを自らに課し、受講生にも課しますから、結果的にそうなるのだろうと思います。

 できれば、水のような澄んだ心持ちを職場に持ち帰り、曇りのない眼で周囲の人々や状況をみるようであってほしい。

 急激なエネルギー上昇などは当協会の研修では起こしません。それはリーダーの場合害になります。


 ただ中には「合コンノリ」みたいなものを持ち込む人もいますが。



 そう、そこで、「研修カクテル」のお話になります。


 当協会の研修としては、上記のようなことを心がけ、単独で使用していただければ高い効果を生むようにつくられています。
 
 ただそれは、あくまで単独で使用していただいた場合です。


 この時代、残念なことにこの手の研修を畳み掛けるように何種類も採用し実施してしまうことがよくあります。

 また、人材育成担当者のかたが、当協会の研修に興味をもたれてオープンセミナーを受講されたあと、すぐ続けて「他社研修」を受講されることもよくあります。


 
 わたくしは、それは良い結果を生まないでしょう、と申し上げるほかありません。

 この種の研修の場合、1+1=2ではありません。ゼロや、マイナス1、マイナス2になってしまう可能性すらあります。


 複数の研修をはしごすることによる、不必要な高揚感。謙虚をむねとする研修のほうがみすぼらしく見えてしまうこと。複数の業者をてんびんに掛けることによる全能感、「上から目線」、教育や講師への畏敬の念のなさ。


 これは、例えば「利き酒」をするときもそうでしょう。一度に多数の種類の酒を試飲したら、その中のとがった味のものが良く思えないか。添加物の入ったもののほうが良く思えないか。刺激が強いほうが良く思えないか。

 たべものの試食の場合も、なんでもそうだと思います。


 あえて強い刺激を抜いている丁寧な工芸品のようなものをきちんと評価しようと思うなら、ほかのものと混ぜないことが大事です。

 あるいは、ありとあらゆる研修をこれまで受けてきた人が、そのあとに受講してみることが大事です。


 
 この忙しい時代に、企業の人びとに新しい意識を植えつけるということがいかに困難であるか。でもそれが必須というとき、

「大事な研修をチャンポンにしない」。

 言葉にすると当たり前のようですが、あまりにも多くの場合不用意にそれが起こってしまうので、教育NPOとして警鐘を鳴らしたいと思います。

 教育を冗談ごとと思わないでほしい。大事な研修を大事にしないから、結局「研修は効果がない」という間違った結論になって、非人道的なマネジメントがはびこるのです。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
 


 

 ひとつ腑に落ちた。


 このところ出会う、妙に追い立てられるように早口の人々。


「ワークライフバランス教」の信者の方々なんだと思う。


 この感覚は、そういう人と出会ったことのある実体験をもった人でないとなかなかわかっていただきにくい。


 この分野の講師の先生は、独特の猛烈な早口でしゃべる。いかにも頭良さそうに、2時間か2時間半の間に、ありとあらゆることにささっと触れながらしゃべる。頭もそうだし身体能力もすごいと思う。


 この件には以前にもブログで触れたことがある:

「ワークライフバランスの人はみんな早口♪」(2010年12月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51537683.html


 
 これまでの私の観察によると、これらの早口の人々は会話を短時間で終わらすことを何よりも大切なことと考え、早口のあまりハイテンションで人を傷つけたり、「言ったつもり」「伝えたつもり」で仕事のロスができることにあまり頓着しない。

 ほんとうはもっと落ち着いてしゃべったほうが仕事のロスが少なくて、効率がいいんじゃないの、などという見方は受け付けない。だって講師の先生はあんなに早口なんだから。


 あと早口で自分の頭の良さに自信を持っていて、相手の反応にあまり関心をもたず自分の頭の中でストーリーを作ってしゃべる傾向があるので、「ひとりよがり」気味でもある。相手を黙らせてしまう。その場では、「勝った」ことになる。


 こういうのは本来のワークライフバランスのあり方ではなく、それの「布教方法」の問題なのだと思う。


 対話は大事、わかり合うことは大事。情報を正確に受け渡すことは大事。相手がちゃんと受け取ったか確認することは大事。複数の人で仕事してるんだから。受け渡しに失敗することが事故につながることだってある。

 「U理論」などでは2日も3日もかけて延々と対話することを推奨するから、WLBとは真正面からぶつかり合うといえる。

 よのなかカフェのような「対話(=リアル会議)」の形式を、WLBの分野の人が批判した文章をみたこともある。


 WLBの先生は早口なうえに結構「上から口調」でしゃべって「偉そう」でもあるので、コーチングの先生なんかより社会的地位が上っぽい。


 ひとつの新しい教えに出会ったとき、それにどの程度手放しで「かぶれる」かは、教養の問題だ。


 心痛む実話のエピソードをひとつ言うと、かつて一緒に仕事をしたある女性が、急に言動がおかしくなり、れいの「取り憑かれたような躁的な早口」をともなった。WLBの講師の方の話をききにいって「かぶれた」のと、もう1つアメリカ人の学者の話をきいてやはり影響を受けたという、これは話を総合すると「自己愛のすすめ」のようなものだったのではないかと思うが、私をさんざん罵って一緒にしていた仕事を辞めた。

 この人は起業家のはずだったが、その後数年経って検索してもほとんど名前が出てこない。同姓同名の人ばかりだ。おそらくあまり成功しなかったろう。

 「病的な早口」と「自己愛のこころの構え」は、仕事にいい影響をもたらすはずがない。

 だが、大企業の人事などにいると、現場・末端で仕事にどう影響を与えるか、想像が働かないと思う。



 WLBの本場アメリカでも、WLBは結構ナルシシスト社員の食い物になって、真面目な働き手がその割を食う現象があるらしいのだ。

 たしかにWLBがすきなひとって、本当の育児とか介護の必要がある人というよりは自己愛っぽい。

 「仕事も趣味も大事にする、人生欲張りな僕・わたし」が大好き。

 どうかすると、「趣味に生き、仕事は片手間な僕・わたし」に傾く。




 あと前のブログとも重なるけど「最上志向」「自我」あたりがあると、早口な人が偉いようにみえるみたいだ。

 彼ら・彼女らには、

「早口=賢い・優れている・偉い・地位が上」

「ゆっくりな話し方=愚か・劣っている・地位が低い」

という、誤った信念がある。

 以前にも言ったように、「人は、自分のもともとある好みを強化するような情報に暴露したがる」のであり、もともと早口傾向の人は、「そうか、早口は正しいことなんだ」と信じ込むと、際限なくそっち方向に行く、まるで不毛な競争をしているように。(こういう人達は、たまたま幸運にも「承認研修」を受けたとしても、そのあとまた「早口研修を受ければ、すぐまた見下しに満ちた人間に戻る)


 ほんとは、あらゆる可能性を考えながらしゃべる「戦略性」の人だと、話し方がゆっくりになったりするんだけどね。大人の経営者などはそうですね。

 不肖正田などは、「早口でぺらぺらしゃべれるのは、早口でならすべての可能性を想定しカバーできると信じているだけで、本当はあまり良く考えてない。考えが浅い」などとやっかみを込めて思う。

 いや、もっと正直なわたしの言葉をいうと、

「早口でしゃべる身体能力を競ってるだけで、頭悪い。バカらしい。見落としがいっぱいある。巻き込まれたくない」

のである。

 れいの「教育研修は間違っても人は死なない・・・(反語)」で言うと、

 「早口のすすめWLB研修」は、人を死なせる種類の研修かもしれない。「雑なコミュニケーション」や、「時間管理至上主義」(=重要な問題を見なかったふりをして処理しないで帰ってしまう。割とよくある)によって、人を死なせるぐらいなら、WLBなんかしないほうがいいのである。


 このブーム、いつか終わるのかなあ。「教」じゃなくて本当の意味のWLBはあっていいと思う。去年よのなかカフェにきた、スウェーデン流マネジメントのイケア神戸の女性たちは別にそんなに早口じゃなかった。わかりやすくしゃべってくれた。彼女たちはとても自立した人格をみせてくれていた。


 私がよく引き合いに出す、コーチングを使って「定時退社」をなしとげた人たちは、話好きではあるけど「病的な早口」ではない。普通に時間の区切りの感覚をもち、意見を引き出し、承認によって部門内の協力行動を引き出した結果時短になった。変な研修によって植え込まれた人工的なものでなかったので、彼らの体験談は好感が持てた。

 個人的に好きなWLB分野の方も、熱く語る方ではあるが早口ではない。
 「この人の人柄が好きだから、この人からWLBを語ってほしい」というファンが私の周囲にもいる。




 当協会の非リアル会議、臨時総会の開催事後報告のメールをお出ししたところ、何人かの会員さんから返信いただき、温かいものが流れた。
 リアル招集じゃない選択をしたとしても、人と人、尊重し合ったり思いやり合ったりすることは大事だと思う。

 それにしても、承認コーチングを身につけることがますます困難な世の中になりつつある・・・

 

神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


 

 このブログを長く読まれているかたや、古手の受講生さん方はもうご存知のことと思いますが、


 当協会方式の「承認」では、相手の才能や人格をほめることを「承認」の中に含めていません。


 たとえば受講生さんにお渡しする定番のシート「承認の種類」の中にも、人格をほめる言葉は入っていません。


 何故かというと、これも有名な心理実験で、


「あなたは賢いわね」

などと能力や性格をほめるほめ方をすると、その子どもは難しい問題にチャレンジしなくなることがわかっている。


 「賢い」と言われた自分のイメージを崩したくない、ゆえに失敗したくない、という気持ちが働いてしまう。


 そうなると、ほめたことが逆効果だったことになります。


 どういうほめ方を推奨したいかというと、「よく頑張ったね」と、相手の行動や努力をほめることであり、このようにほめられた子どもは繰り返し難しい課題にチャレンジすることがわかっています。




 当協会が「100年後に誇れる人材育成を」という言い方をするときは、やはり経済復興のために努力する「強い日本人」をつくりたい、という願いをこめて言っているので、

 ナルシシズムのために努力をやめてしまうような弱い人をつくりたいわけではありません。






 往々にして、ほめるプロ、商業教育のプロなどは、「人格をほめるほめ方」が得意です。


 (私はこういう仕事をしていますがそちらはあまり得意ではありません。なのでそういうお仕事の方々とご一緒すると居心地がわるくなり、あまりご一緒しないことが多いです)


 ほめられるとドーパミンが出る、という脳科学の有名な実験がありますが、これはよくみると人格をほめる言葉をMRIの中の人に表示して見せるということをしています。


 なので人格をほめるとドーパミンが出、嬉しい気持ちになるのだということはわかります。実感値としても人格をほめられるというのは嬉しいものです。ただし、それでパフォーマンスが上がることが証明できているわけではありません。


 「嬉しい」と「パフォーマンスが上がる」はイコールではないのです。


 パフォーマンスが上がるかどうかは、やはり今のところ行動理論、行動科学、行動分析学の実験でみます。


 そこでは行動に即した褒め方をします。


 私はマネージャーさん方が行う、美辞麗句でない武骨な承認がすきです。そうしたものが、実は一番部下のパフォーマンスを上げます。


 当協会の主催してきた「承認大賞」でも、結局そういう種類のもの=行動承認=が部下のパフォーマンスを上げ、会員のマネージャーたちからも得票し、賞をとってきました。



 ああ、今日もこれがらみの話題を書いてしまった。


 まあ、人格をほめられて嬉しくなったらそこの業者さんを採用してください。




神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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 「自己愛」「ナルシシズム」というキーワードのお蔭で色んなものが急速に結びつく。


●たとえば去年このブログで槍玉に挙げた「団塊」―その世代に属する人格の良い人には大変申し訳ないことをしていると思う―の典型的な人格の人々は、見事に「自己愛的」である。

 激しい競争を勝ち抜き、一部はバブルを演出して「○×プランナー」などのカタカナの名刺をもってアルマーニのスーツを着ていた、あの人々です。
 今は「自己愛の老後」を生きようとしています。


 企業内コーチングあるいは「承認」は、かれらが組織に残した負の遺産、すなわち組織では上が下を潰すのは当たり前、面白半分に傷つけるのは当たり前、おべっか使いの上手い人間が上に上がる、などを一掃して当たり前の倫理を復活する役割を担っているともいえる。



●以前このブログで「ワークショップ症候群」というものをまとめてみた。2008年の記事。
 (この年も「谷間の年」だったので、よくものを考えたのだ)

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51336521.html

 今見返すと、これはまんま「自己愛」の症状である。

 最近も繰り返し思う。ワークショップに行くと、プレゼン能力が上がることが多い。それを売りにするワークショップもある。多くは、

「上手なプレゼンをするためには、自分を受け容れましょう。自分を全面肯定しましょう」

という。これが危ない、ということは、このブログの読者の方はおわかりいただけるだろうか。


 普通の職位の人だったら急速に「打たれ弱い」人になっていく。
 自分の中に自分を疑い批判する回路がないのだから。
 周囲から打たれたときに免疫がない。

 怖いのは、こうしたワークショップ、あるいは「自分を全面肯定せよ」というメッセージのもつ「長期毒性」に、受講した側はほとんど気がつかないということである。ナルシシズムを喚起する恐ろしさは。

 多くはその過剰になったナルシシズムのために離婚や退職、左遷を経験するが、そういう結果になってさえも、「ワークショップ」の教えのせいだとは気がつかない。たぶん提供している側も気づいてないことも多いだろう。


 とくに「リーダー」の場合は、自分を半分か3分の1ぐらい疑いながら暮らしているのが正しいのだ、と正田は思う。リーダーは神経症や鬱すれすれのところで生きるのが正しい。

 リーダーは、自分の言葉を疑って、疑って、濾過したものを話してほしい。


●同じ2008年にCLS(うちのNPOの前身の任意団体)で「シュガー社員勉強会」というのをした。
 当時ベストセラーだった、田北由紀子さんという社労士の先生の著書をベースにして、若手の「甘い」社員を取り上げた。今だったら「ゆとり社員」というところだろう。コーチングの団体としては珍しい試みだと思う。
 この「シュガー社員」もやはり今みると「自己愛」である。



 日本の組織は「団塊と言う名の自己愛」と「シュガー・ゆとり社員という名の自己愛」に挟み撃ちされている、というべきか。
 そしてそれ以外の世代も、ワークショップで自己愛を増殖させられる。 「モチベーション」を論じる大学教授、コンサルタント、研修講師もほとんどは「自己愛」の塊だからその職業を選んだ人々である。またその人々の著書を読んだだけでも自己愛は感染するようである…



 
 よく私は考える。1匹のキリギリスを養うために何匹のアリが必要になるのだろうかと。今、働き盛り世代の中にキリギリスがどれくらい増殖しているのだろうかと。
(私自身も残念ながらキリギリスの1人だ)

 高齢化社会でただでさえ働き盛り世代の荷が重いのに。




 そしてこのところ繰り返される不毛な会話。

 なぜ、「会社のため」という軸で考える人が少ないのだろう。


 私は「人を幸せにする(経済的に、も含め)ため」という行動原理で動いているけれど。会社の中の人は、

「うちの会社が潤ったら、自分の生活もより保証されるな。みんなも幸せだな」

と考えればいいのに。

 相変わらず、「負けたくない」が表に出た口ごたえや、それでなければ個人的な愚痴ばかりきかされる。


 そういうのを聴いて聴いてラポールを築くのが営業スキルだ、と一般には思われている。逆に営業される側は、営業に来た人(特に女)にはいくらでも個人的な話をしていいのだ、と思い込む。


 会社のお蔭で自分は生活できているのだ、となぜ思わないのだろう。
 勤務時間中には精一杯「会社のため」を考えよう、となぜ思わないのだろう。


 大人になっていないのだ、自己愛だから。





 自己愛の人は、例えば

「正田さんの『思っている』承認というものは」

という言葉を使う。

 私、主観的に思っているわけじゃないんですけど。実践し、教え、その受講生さんがまた実践し、成果を挙げてきたんですけど。主観的にただ思っているだけなのはあなたのほうでしょう。


 例えば

「成果を挙げたら、もう少し広がるんじゃないですか」

 成果、とっくに挙げてるんですけど。何度も成果事例発表をやってきてるんですけど。
 うちの受講生さん方は、女の私のために人前で堂々と
「こういう成果が出ました。承認のお蔭、正田さんのお蔭です」
と、言う人達なんですけど。
 今私の目の前にPCがあるのと同じくらい、それは明らかなことで、
 それに基づいて次の段階の話をするために今日来ているんですけど。



 自己愛の人々はこういう風に、聴いたことが聴こえていない。彼らのところを通すと事実が事実でなく、ゆがんで伝わる。
 自分の個体を脅かすかもしれない情報は過小評価する。
 彼らは大きなバイアスの入ったフィルターなのだ。情報を正しくやりとりし判断考慮することができない。

 会社にとって有益な情報、あるいはリスクの情報、いずれも入手した人が会社の利益のためにそれを活用しないのは、背任行為といえないだろうか。


 
 そうしてまた「北欧」のことを思う。彼らは疫学的なデータが出たことについての行動は迅速だ。

 きのうきいた営業セミナーで出た、なかなかいいフレーズ―

「できることを先延ばししているうちに、どんどん自信を喪失する」

 本当は営業マンに向けて言われた言葉だけれど、私は「購買担当者」も知っておくべき言葉だと思うのだ。



 最近ちょっとだけ良かったこと。
 子どもを病院に連れていき、薬を処方してもらった。
 そこの病院の先生が最近ある別の医師のあるセミナーに行き、そこで「その薬をその年齢の子のその症状に出して全然問題はありません」と習ってきたのだそうだ。
 
 新しい薬の効果はまだわからないが、うちの行っているそこの病院の先生は老先生で、自分より若い先生のセミナーに行って習ってきたらしいので、そのことに頭が下がった。




神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


 このところ小著『認めるミドルが会社を変える』の話ばかりしていたのだけれど、今日は別の話題です。


 正田は、コーチングの他流派と「ご一緒」するのを嫌うので、「新興宗教みたい」と言われることもあります。


 ふだん社会の中の良識ある方々に支援していただいているにも関わらず、一方でこうした批判も浴びることに申し訳なく思ってきたのですが、


 他流派とご一緒することを嫌う背景には、こういうものがあります。


1)「エスリンでうまれたものと日本」
http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51344385.html


2)「続・エスリン研究所―実験と成功と失敗の歴史」
http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51344817.html


 正田が色々とコーチングの諸流派に足を運んで実際に学んでみた結果、
「たもとを分かちたい」と思った理由は、
1)にあるように、
それらの流派がこの「エスリン研究所」やそれに近い系統の心理学、
あるいは60年代的ヒッピー文化の中のワークショップ文化、
の流れを汲む匂いがしたからであります。


 著書には、そういったきなくさい話は書いておりません。

 ただ、私が「この人は正しい」と思った先達の方々について書いているだけであります。


 そして、じゃあ考え方が違っても「ご一緒」ぐらいしたっていいじゃないか、と思われるかと思いますが、


 それができない理由が2)であります。


 理性と感情の両方を重んじるマズローが自分のワークショップで話をすると、感情中心主義のフリッツ・パールズがマズローをあざけり、獣のように床を這いまわる。
 マズローは話を続けられなくなる。

・・・

 このエピソードは、端的に、「理性と感情」の流派の人と「感情中心」の流派の人が出会ったときに起こりがちなトラブルを表していまして、


 実は私自身も、これにちかい現象になんどか遭遇してきました。

 スマートで世間の規範を超越しているようにみえる「感情重視」の流派の方々は、些細なきっかけから不作法になり、「感情も理性も大事」「倫理も大事」という無骨な正田をあざけるようになります。


 …というのは、少し長くこのブログを読まれた方はお気づきでしょう。


 このエピソードに私自身をなぞらえることは、「私はマズローね」と言っているようなもので、面映ゆいのですが。


 これは、薬の飲み合わせ といいますか、異なる(とはいってもほんとうは差異はそれほど大きくなく、隣接するというか近親憎悪的なものです)流派が同席したときに起こりやすいトラブルです。


 実際にこれが起こり始めると、おさめるのはたやすいことではありません。


 …というのも、このブログを読まれた方はご覧になっていると思います。正田も、こういうライブの局面では何度もみっともなく「ヘタを打って」います。

 
 簡単に言えば、異種格闘技で禁じ手のないタイプの競技のほうが、禁じ手の多い競技より有利なのです。


 別に正田がみっともないのはそれほど問題ではないんですが、問題はそれが受講生様の不利益につながる、ということであります。


 「理性と感情の両方」を重んじる人をあざ笑う場に身を置き、そのマジョリティの空気に暴露すれば、当然その人たちはその後の人生において、にどと「理性と感情の両方」を重んじることなどできないでしょう。それは、大きな損失につながります。



 なので、事前にわかっていればできるだけ回避するのが一番。

 「ご一緒しない」のが一番なのであります。


私の考えでは、「頭だけでものを考える」ことに偏っている人に対しては「感情」の重要性を言うことは大事。
 MBA的な教育をどこかで受けてきて、論理一本やりの(そして周囲に対して説得力のない)話をする人には、とくに大事かもしれません。


 でも、「感情」が重要なのはあくまで「程度問題」であります。



 たとえば私たちの人間社会がいろいろ問題はありながらもそこそこきちんと運営されているのは、そこにルールがあり規範意識があり、また幼いころから「倫理」を教えられそれが「職業倫理」にもつながっているからで(マックス・ウェーバーですね)、

 それらは「感情」の側だけからロジックを組みあげていったのでは到底間に合わない深みのあるもので、「文化」そのものです。



 もし「感情」を過度に強調する教育をしてしまい、
 それが高学歴のもっともらしい(そして人格の良さそうな)インストラクターによって伝えられたために、
 受講生様が金科玉条としてしまい、
 それによって道を誤ってしまうなら、
 それは罪深い教育と言わねばならないでしょう。
 



 このブログでも何度も「感情だけを重視するのは危険」と警鐘を鳴らしていますし、そういった考え方の人がご覧になったら反発されるかもしれませんけれども、その方々は私のやる講座に参加することを断念していただいたら結構なのです。

 地域貢献のため料金設定を他より安くしているので、

「なんでもいいからコーチングの資格を手に入れたい」

という人が、本来「感情重視一辺倒」の考え方なのによく考えずに受講されるのを回避したい。


 また、基礎Aを受講されたあとの方々が、

 ―なにしろ「正田コーチング」は、わかりやすく実践しやすいのが売りなので―

 正田コーチングについて「わかった」つもりになり、勢いづいて他流派のコーチングにどんどん触れ、「感情重視一辺倒流派」にはまりこんでいくのも回避したい。


 残念ながら過去、そういうことが繰り返されてきました。

 どうやってそれをうまく回避できるのか、答えをご存知の方がいらしたらご教示いただきたいものです。


 とにかく、長く読まれている方は「またか」と思われるかもしれませんが、
「感情重視一辺倒流派」の方々は、ご遠慮願いたいものです。その方々はどのみち、「よい企業内コーチ」には、なれません。





 …関連で、これまで封印していたエピソード。


 数年前、あるキャリア論の大学の先生が、ある研修機関(仮に機関Aとしましょう)をしきりに推奨していました。


 私はその先生に手紙を書き、

「『機関A』を受講された方は私の知っている限り、高い確率で会社不適応を起こして会社を辞められています。

 そういう研修機関を推奨されることは、先生の社会的責任からみていかがなものでしょうか」


 決して「うちの団体」とお付き合いしてください、という趣旨ではなく、ただ「ご近所」だったので気になったのであります。


 その先生はそれ以降、「機関A」を推奨するのをやめられていました。


 そして昨年は「機関B」と提携し、年末に「機関C」の人と本を出し、そして今年度は「機関D」と提携されるようであります。


 なんとも忙しい。まあそれは本題ではないからいいんですけど、

(あと「機関D」は私も正しいと思いますけど、いつまでお付き合い続くんだか。。「機関D」の親玉がもし来日したら、セミナーに行こうっと^^v)

何が言いたかったのかというと、
 ある研修が「有益」か「有害」かは、素人の人には(たとえ大学の先生でも)わからないものだ、というお話であります。そうとう賢い人でないと。


 「賢い」というのは、「小利口」ぐらいではだめであります。



 (ちなみにうちの団体は、「さわやかで硬派」と言っていただいております。コップの中の嵐的な話ですね。はい)





神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp 



 ある研修機関に行って受講した時、人々がひどくエネルギッシュになり、自己表現ずき、アーチスト的になる半面、傷つきやすく、他人からの厳しい意見を受け入れられなくなることに気づいた。


 それは制約をうけずにのびのびとお絵かき粘土細工をする幼児に似ていた。
 40代や50代の大人なんだけれど。
 「自由」「表現」をこのんだ。



 「幼児化」とも呼べる一方で、
 その変化は「老化」の一形態とみることもできた。


 興味関心の幅が狭まり、他人の予想外の反応にひたすら怯え、予想外の反応をする人を避けるようになる。この人たちとよい関係を維持するには、こちらがひたすら共感的に、あるいは迎合的にふるまっておつきあいするしかないのだ。


 認知能力の衰えた人にも似ていた。


 この人たちは、興味のもてるごく狭い範囲のこと以外に対しては、学習能力が低下してしまったんじゃないだろうか。



 そうして、私はある研修機関をある時期から推奨しないことを決めた。



 しかし、そうした作用をもつ研修機関は、そこだけではないようなのだ。


 きりがない。あとから、あとから。


 暗澹たるおもい。「禁書」の長いリストを作らないといけないかもしれない。


 ある田んぼが1枚全滅になってしまった。




 よくみると、今回問題になった本は、「人は感情で動く」というフレーズを使っている点が、推奨しないことにした研修機関と似ていた。



 あくまで私の経験からいうと、
 「人は感情で動く」というフレーズに暴露すると、その人の脳は「感情系優位」になる。

 
 「感情系優位」という言葉は脳外科医・築山節氏の著書にみられる言葉で、どのくらい一般化されているものなのか知らない。しかし、この概念を使うことで確かに説明がつくことがある。
 


 「感情系優位」になった人は、疲れやすく、だらしなくなる。行動量が減り、うらみがましく愚痴っぽくなる。ちょうど、1日の終わりに疲れきって理性が弱ってきた状態が「感情系優位」だ。


 「感情系優位」になった人が、だから、興味関心の幅が狭まるのは自然なことだし、好きでないことは避けるようになる。


 
 この状態の人はまた、反発心や反感、ネガティブな感情が表に出やすいようだ。ちょうど、幼児が両親に甘えながら反抗している状態と同じである。とにかく理性のはたらきが低下しているのだから。


 残念ながら「感情系優位」になったとき、共感能力は高まらないようだ。人々はより利己的に非理性的になる。


この人たちには、礼節にもとる行動や非倫理的行動、他人の気持ちなどお構いなしの行動や他人をあざわらい見下す行動もよくみられる。


 「理性がなくなる」とは、そういうことなのだ。



 当然、仕事の遂行能力は低下する。上司に対して反発が出やすくなる。モチベーションが下がる。

「人は感情で動く」というフレーズが、部下のモチベーションアップを意図して使われているのだとしたら、とんでもない真逆の作用である。



 だから、当り前だが理性は大事なのだ。教育は大事、躾は大事。していいこと、悪いことを教え、集団の中で果たすべき義務はやること、最後まで遂行することを、本人が望もうと望むまいと「叩き込む」。


 それは幼稚園の年長〜小学校〜中学校の間にやらなければならない。 
 また、大人になってからもその教育の意義を否定してはならない。



 その「理性教育」、つまり躾の意義を否定するような人材育成の研修や本は多い。

 
 「人は感情で動く」―いいかえれば理性は重要でない、というフレーズは危険な呪いのようなものなのだ。


 いちどそのように洗脳されてしまった人は、にどと(脱洗脳をしない限り)理性の力で自分を奮い立たせることができない。


 「今日は雨が降っているから家を出たくないなあ」と思ったら、立派な引きこもりのできあがりである。



 くわばら、くわばら。


 世に「人は感情で動く」と自信たっぷりに書いてある本は何冊出ているのだろう。



 私はそういうのに「かぶれた」人をいちいち脱洗脳したり、躾けなおしてあげるほど暇ではない。

 一般に、厳しい言い方だが子どものいない人ほど「かぶれやすい」ようである。「感情系優位」が実は「幼児化」と同じ現象だということに気がつかない。


 また、子どもをもつ人や学校の先生がいかに大変な手間をかけて、幼児を社会化して―つまり躾けて―大人にしているかにも気がつかない。


 
 夕ご飯。

 子どもたちにまた、


「あんたたちがいてくれて良かった。母さん幸せ」


という。






神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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 13日(金)の19:30〜より、NHK総合「かんさい熱視線」という番組で、「不況で広がる『ほめる』ブーム」という特集。



 ほめる覆面調査、ほめる研修の紹介を経て、
ほめると脳の「線条体」−ドーパミンの分泌にかかわるところ―が活性化する研究の紹介、
そして森永卓郎さんから、アメリカ式経営と成果主義により、トップダウンと減点法の傾向が強まり、意識的にほめる必要があることなどを解説。
さいごに太田肇教授の「認める」論を紹介し、森永さんから「これは正しい」と好意的なコメントがあって終わり。


 30分の番組としては、よく目配りされていたと思います。
 あと一過性のブームとしてからかい目線で編集してなかったのでよかったです。



 そこで事前に「一抹の不安」を口にしていた正田は…、

 大筋いいことだと思いながら、やっぱりいくつかの「違和感」があり、整理してみようと思いました。



■ほめることばかりを強調し、ほめる会話ばかりが飛び交うと、相手が言ってることがほんとかどうかわからない。自分の実像がわからなくなる。

■自分の実像がわからない人というのは、実際に「ほめる大国」アメリカでは多いのだそう。客観的な能力に比べ本人の自己評価が高い。

■ほめることばかりを強調すると、「当たりさわりなく会話」しようとする姿勢にならないか。アサーション的なものがなおざりにならないか。


■以前にも書いたが、身内同士ほめあってる組織というのは外から見ていてそんなに気持ちいいものではない。「身内かばい」の傾向のある組織はそれが助長されるおそれがある。


■研修風景をみているとかなり講師が「上から口調」なのだがそれでも身につくのだからすごい。モデリングはあんまり考えてないみたい?



■関西、とくに大阪の人は極端から極端に動くところがある。これまでは関西的な会話とは、親しい仲ほど「おとし合う」会話だった。それに「ほめる」をやや高圧的に導入すると、一時的にはわっとブームになるかもしれないが、冷めた時の風当たりがこわい。

・・・


 ああなんてくらい女、正田。

 私は結局、「承認」をふくめ人が人を育てる総合技術としての「コーチング」がすきなのだ。でもこれって一種のセクショナリズムかも?


 
 きのうからコーチング基礎コースA。


 すごく意識の高い、セミナー上級者の受講生さん方です。
 正田はやや「受け」ができてなかったと反省。きょうは2日目、楽しみましょう。
 
 


 遅ればせながら、『経済は感情で動く―はじめての行動経済学―』(マッテオ・モッテルリーニ著、紀伊国屋書店)を読みました。


 「『心の法則』を知ると、毎日が10倍楽しくなる」と、オビにあります。


 たくさんの心理学テストの結果から人の行動を予測。

 
 とくに「錯覚」を生み出す図形や言葉やデータの並べ方などは、マーケティングをする上ではぜひ知っておきたい知識ばかりです。


 ただ、「知ると楽しくなる」かというと…、

 
 このところ正田はおもうのですが

「心理学的には、人はこういう時こう思うものだよ」


というのを教えたり、学んだりするうち、


わたしたちはどこか、それらの「法則」に暗示をかけられてしまう、自動的にそのように思考しやすい頭脳になってしまう、ところはないだろうか。


 人の心理を操作する側に回る(このこと自体もまた、いささか非倫理的な響きがあるのだけれど)という、学びの本来の目的を離れて。


 ほんとうは、わたしたちは訓練しだいで、より緻密により正しくものを考えることができるのではないか、「心理学」に抵抗することもできるのではないか…、などと考えているうち、続きを読む


 
 ここですこし考えをまとめて書くと、


 組織の外のオープンセミナーで、人々が心の中のことを安心して吐露できるのは、めずらしいことではないのです。



 どの職業を問わず、組織の外では人々は気さくになり、笑い声を上げ、周囲の人に対する自然な思いやりを示したり、めったに向き合わない心の奥底の自分に向き合うことをします。



 ただ、続きを読む


 ふたたび、「エスリン研究所(本によっては「エサレン」と表記)」の話題。


 ここには、「心理学」や「ワークショップ」をめぐるアメリカの成功と失敗の歴史がかなり広い範囲、カバーされています。


 たとえば今、「思考」と「感情」のふたつの軸について取り出してみるなら、


 「思考」と「感情」の両方を重んじるA・マズローが自分のワークショップで「B言語」について話していると、

 「感情」だけに意識を集中する主義のパールズが、

「学校の先生のようだ」


と批判し、子どものように這いまわるパフォーマンスをする。マズローはワークショップを続けられなくなってしまう。


 
「現実の世界からいきなりグループに入ってきた人は、まず合理化したり説明したりする。多少の反知性主義と少しばかりのナルシシズムは、こうしたことに対する健全な解毒剤だった。しかし1960年代には、中庸の道はビッグサー海岸では感じられなかった。そして振り子は一度振り始めると、急激に反知性主義の極限まで振られ、こころとからだが同等に尊重されるという賢明な点をはるかに越えてしまった。グループのなかで人びとは、いつも『頭で考える』ことを攻撃されるが、あまりに感情的だとか身体的だということでは非難を受けない」(エスリンとアメリカの覚醒―人間の可能性への挑戦 誠信書房)
続きを読む


 しばらく遠ざかっていた、「ワークショップ」についての考察であります。


 最近の読書やネットサーフィンの結果、私がみてきた有害な

(つまり、本来の意図とは反して大きな社会生活上の副作用のみられる)

「ワークショップ」は、


「自己啓発セミナー」

とよぶほうがより近いのではないかと思うようになってきました。たとえ、そのなかで勧誘活動を強要したりはしないにせよ。



 「自己啓発セミナー」の定義は、Wikipediaを参照されるとよいと思います。(ついでに「ニューエイジ」の項も示唆的です)


 そしてそこにみられる手法は、一部ではありますが「洗脳」の手法をつかっています。続きを読む

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