正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ:学びに感謝 > ヘーゲル・ホネット承認論

 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授よりいただいた、「ホネット承認論」最終講義の講義原稿(1月25日分)です。


 前回に引き続きホネットの新しい著作『社会主義の理念』をひもときながら、ホネットが社会主義をどうみているかを解説していただきます。

 ここでは「社会的自由」とはどういうものか、が問われます。
 また、ハーバーマスも論じた「コミュニケーション」というものの意義も…。(わたし的には非常に自らの生き方を勇気づけられたフレーズでした)


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「承認論」講義(13)                                             25.1.2016

ホネット『社会主義の理念』を読む (2)

Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015, S.11-166.

【1】 本書でホネットは、社会主義を、フランス革命 ― ロシア革命ではなく ― このかたの歴史過程の中に位置づける。「自由・平等・博愛」というフランス革命が掲げた理念が議論の出発点に置かれるのだ。これは、理念である。(事実ではない。)これから実現されるべき理念であって、「絵に画いた餅」と言えなくもないが、しかし、1789年に人々によって受け入れられ、人々を動かした、という点で、経験内容をなす。経験的事実の中に食い込んだ、と言ってもよいだろう。(ここで、人々とは誰のことか、という問いは残る。フランス革命を今日まで認めていない人々だっているだろう。しかし、フランスという国(共和国)は、この革命の上に建てられているのであり、これを建国の理念としているのだ。)そして、これは、フランスに限られた話ではなく、この理念の実現をめざすことが、ヨーロッパ近代全体の傾向となっている、と言って誤りでないのではないか。規範は、人々によって受け入れられたとき、事実となる。「規範的事実」とでも呼ぼうか。

 何が言いたいのか。社会主義は、フランス革命の理念の実現のプロジェクトと受け止めるなら、単なる空想ではなく、言うなれば、事実によって下支えされている、ということだ。


【2】 この「自由・平等・博愛」という三つの理念は、横並びにして一気に口にされるのを常とする。つまり、この三つは、どの一つをとっても、ないがしろにされてはならない、ということだが、しかし、そこに問題がないわけではない。この三つは、必ずしも、互いに友好関係にあるわけではない、という問題だ。ほおっておいても、三者が手に手を取り合って仲良く実現されてゆく、というような関係にはない。互いに矛盾し、対立関係にはいる、ということだって少しも珍しくない。

 現実には、どう進展したか。結局、このうちの自由だけが追求の対象になってきたのではないか。その際、自由とは、自由競争の自由であって、個人が競争に参加する自由だった。(社会主義者からは、そういう自由は、従来、「ブルジョア個人主義」とか呼ばれ、否定的扱いを受けてきたのだろう。)そして、平等という点が考慮されずに自由競争が繰り広がられると、必然的に、自由は、一部の人間だけの自由となる。つまり、競争で負けた大部分の人々の不自由が帰結する。もちろん、そこで「不自由」と言われる場合の「自由」とは、「競争に参加する自由」という ― 狭い意味での ― 自由ではもはやないかもしれない。もう少し中身の詰まった「積極的な自由」だ。例えば、自己実現の自由、とか。

 もし、ヘーゲルが、「人間の歴史とは自由の実現のプロセスだ」と発言した際に、単に、自由競争に参加する自由を考えていたのであれば、そこでは、フランス革命の理念のうち、平等・博愛は閑却していたことになり、ヘーゲルは、革命の理念に対する裏切り者である、という話になるだろう。しかし、実際には、ヘーゲルの自由理念はもっとふくらみのあるものだったのだろう。つまりは、あとの二つの理念とも両立するような、それらをも含意するような自由だったのだろう。一言でいえば、「社会的自由」。そういう自由の実現をめざすという仕方で、ヘーゲルに続く、「左派」と呼ばれる人たちも、社会主義というものを思想・信条としていったのに違いない。

「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。


【3】 「社会的」とはどういうことか、という問いに対する回答案は、本書に示されている。三つの理念のうちでもとりわけ「博愛」と密接に関係する言葉として解釈するという仕方で。つまり、互いに助け合い、補い合う、というような姿勢だ。「社会的」とは、ただ単に、複数の人々によって構成されている、という(事実確認的な)意味では、もちろんない。その複数の人々が互いに競争しあっている、というだけでなく、他者を自らの目標達成のための手段として利用しようと虎視眈々と狙っているという、(カントが目の敵としたような)関係でもない。本書もおしまいに近づくと、自由・平等・連帯と三つ並べる言い方が連発されるのだが、そのように人々が連帯関係にあるような社会の実現こそがめざされている。その意味でこそ、「sozialな社会」とか、「社会をより sozial にする」というような一見奇妙な表現も、十分成り立ちうることになる。

(「社会を社会的にする」というのは、いかにも奇妙な言葉遣いだ。なにしろ、社会は事実として社会なのだから、それをことさら社会的にする必要などあろうはずがないではないか。しかし、世の中はこの種の言葉遣いで溢れかえっている。子供は子供らしく、女は女らしく、日本人は日本人らしく、家族は家族らしく、国家は国家らしく(あるべし)、という具合だ。りんごはりんごらしく、という話になっても、少しもおかしくない。映画は映画的であるべきだ、という話もあった。ことほど左様に、名詞が一つあれば、その名詞らしくあるべし、名詞「的」であるべし、という要請が立てられる。これは、本質主義的な考え方である、と言うことができる。つまり、何かあるものがあると、その本質が想定され、本質からの逸脱との区別がなされ、本質があるべき姿として要請され、本質からの逸脱は叱りつけられるのだ。その際、本質なるものが、常に、「作り出される」ものであることは、ほとんど自明だろう。この区別は、恣意的だ、ということだ。つまり、本質とは、本質と「される」ものなのだ。本質主義とは構成主義だ、と言ってもよい。「社会/社会的」の例からも見てとれるように、この本質主義的思考なるものは、われわれが言葉を使って考えコミュニケーションする限り、避けられないものなのではないか。人間の思考は、本質主義的となることを免れることはできないのだ、と言ってもよい。それを避けたければ、言葉を使うことをやめて、数字だけで考えコミュニケーションするしかあるまい。実際、2について「2らしくあれ(2的であれ)」という規範的要請を立てることは、ナンセンスだろう。)

 ネオリベラリズムが批判される際に光があてられるのは、通例、一面的な自由の追求は不平等を、格差を生み出す、という論点だろう。しかし、ホネットは、自由追求の一面的暴走が ― 平等よりもむしろ ― 博愛(連帯)を不可能にしている、という点をこそ撃つ。ホネットは、人々が平等に生きられる社会、というよりは、連帯の関係の中で自由を実現していくような社会をこそ希求している。彼のリベラリズム批判は、そういう、博愛主義・社会主義からなされるリベラリズム批判であるわけだ。


【4】 本書は、大きくいって、三部構成になっている。まず、もともとの社会主義の理念がいかなるものであったのか、それが、フランス革命の理念にいかに深く結びつくものであったのか、が明らかにされ、次に、その理念実現の試みが、しかし、19世紀の社会状況によっていかに歪められていったのか、が跡づけられ(従って、これは、歴史の再構成の作業となる)、そして第三に、ではどうやって、再度やり直せるのか、の提案がなされる。
ここまで1−4に書いてきたことは、主に、第一の論点だったわけだが、その上で、第二の論点、つまり批判的な議論が展開されずにはすまない。そして、その批判は、当然、主要にはマルクス主義を標的として展開されることになる。


【5】 マルクス主義が犯した過ちは、三点に要約される。第一に、経済還元主義であり、第二に、単一的な革命主体(プロレタリア階級)の想定であり、第三に、歴史の客観的進歩という科学主義(あるいは、形而上学)的信仰である。もちろん、この三者は、互いに関連し合っている。生産力の発展と労働者階級の階級意識の高まりが歴史の進歩の原動力となる、それを担保する、という風に。そして、とりわけ、このうちの第一の生産力主義が、マルクス主義に「科学」の装いを与え、これは科学だ、との僭称を引き起こす。『空想より科学へ』というエンゲルスの宣言は、大惨事だった、と言わねばならない。本当は、「空想でもなく、科学でもなく」とこそ宣せられねばならなかったのではないか。(そして、現在の経済学は、科学としての経済学というこの信仰を、エンゲルスと共有しているのではないか。)


【6】 その上で、マルクス主義が犯した過ちを一点に集約するならば、解放へのポテンシャルを、経済の領域にのみ見出そうとする経済還元主義に陥っていた点にある、と言うべきなのだろう。それに対して、ホネットがぶつける代案は、「個々の社会領域の機能分化」という考えに基くものだ。近代においては社会の諸領域が ― もちろん、互いに関連し合いながらではあるのだが ― 政治/家族/経済というそれぞれの領域へと独立し、独自の発展を遂げる。(宗教が困るのは、この機能分化の傾向に真っ向から対立する点だ。)そして、そのいずれの内にあっても、解放のポテンシャルは ― 民主主義であれ、女性解放であれ、フェアな業績評価であれ ― 現実化の方向を取っている、と見なされるのである。(マルクス主義は、とにかく、経済の、生産の、労働の領域に世の中を根本的に変えるための可能性を限定せずには気がすまなかった ― 「下部構造」というのが、その際のおまじない言葉だった ― ために、それ以外の領域での変化・変革・発展・進歩には怖ろしく鈍感だったのだ。あるいは、あえて、目をつむっていたのか。)


【7】 ここで、政治・家族・経済(民主主義・女性解放・フェアな業績評価)と並べられることと、ホネットの承認論の間に対応関係があることは、一目瞭然だろう。それは当然であって、ホネットは「社会的なもの」をコミュニケーション関係として、ただし、それを ― 単に、合意形成の骨折り、としてではなく ― 「承認をめぐる闘争」として、考えているのだから、「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられるのは、論理的必然なのだ。


【8】 今まで社会主義者であった人たちは、この本の中に自らの社会主義などほとんど再発見できないだろう、とホネットは皮肉っぽく語っている(163)。自分を社会主義者だと思ったことなどこれまで一度もない私には、この本はとても面白かった。この本を読んで、私は、社会主義の「シンパ(Sympathisant)」になった。



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 いかがでしょうか。

 わたしはこれまでも「自由」という言葉のつかいかたにナーバスで、めったにこのブログでも使っていません。昨年2月頃から「ヘーゲル・ホネット承認論」のはじまりにおいてヘーゲルによる「自由」という言葉が独特の使われ方をしていることにも大分くるしんだほうです。

 「自由」は主に「博愛」との間の葛藤を生むのだ。
 また、

 「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。


 こうした言葉は、わたしには素直に心に響きます。


 ところで、ドイツ語では「博愛」と「連帯」は同じ単語なのでしょうか…個人的には、あまり同じもののようなイメージが持てないのは「連帯」が旧ポーランドの自主管理労働組合の名前と結びついているせいか!?(別に悪いイメージではないのですが;;)そういうイメージの紐づけがない世代の方は、割合「連帯」って抵抗なく使われるかもしれないですね。


【7】の、
「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域(政治・家族・経済=民主主義・女性解放・業績評価)におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられる


 このフレーズもいいですね。だからわたしは「コミュニケーションの研修講師」をやっているのだな、と確認できました(*^-^*)



 藤野先生、ありがとうございました!


 一橋大学での講義としては終了、しかし「ホネット承認論」自体はまだまだ続きます。。
 藤野教授は今年新たに「ホネット承認論」についての論考集を刊行されると伺っていますので、そちらを楽しみにいたしましょう。


正田佐与続きを読む


 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の最終講義まで2回分の講義原稿(1月18・25日分)をいただきました。

 「承認論」においてヘーゲルの正統的な継承者とみられる現代ドイツの思想家、ホネットが「社会主義」をどう捉えているか。マルクスがヘーゲルから継承したものは何か、を含め、大きな思想史の流れの中で注目したいところです。

 わたしの理解能力を超えているかもしれませんが、こうして最新の論考をこのブログに掲載させていただけるのは、とても光栄なことです。

 いよいよ、あと2回となりました、藤野教授のご厚意に感謝し、掲載させていただきます。



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「承認論」講義(12)                                            18.1.2016
ホネット『社会主義の理念』を読む
Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015,S.11-119.

【1】 この年末年始、私は、ホネットの『社会主義の理念』と、ウエルベックの『服従』(と『地図と領土』)を読んで過ごした。結果として、フランスのことを考えながら過ごすことになった。かたや、1789年のフランスが掲げた理念を考察の起点に据えており、他方は、もちろん、2022年のフランスが舞台になっている。一方が、フランス近代の始まりに関わるとすれば、後者はその「崩壊」に関わる。そして、どちらも面白かった。

 自由・平等・博愛という理念についても、再考する余地はいっぱいあるわけだ。まず、博愛という概念の意味をもう少し、限定し、確定する必要があるだろう。ドイツ語では bruderlich と訳されるようだが、これでは、わかったようで少しもわからない。連帯の同義なのか。

 最大の問題は、この三つを並べたのはよいが、三者が容易には両立(三立?)しないだろう、という点だ。特に、自由が自由競争のそれとしてのみ捉えられるなら、それは結果として巨大な格差=不平等を生み出さずにはすまないだろう。(世界でもっとも自由な国USA(?)は、世界でもっとも巨大な格差のある国だろう。)そして、実際、昨今のネオリベラリズム批判は、もっぱら、自由が格差を生み出すという論点を突いて行われているのではないか。

 この批判は、しかし、偏っていることがホネットを読むとわかる。つまり、彼は、むしろ「博愛」にこそ注目し、ネオリベラリズムは博愛を ― 平等ではなく ― 不可能にしている、という点をこそ、批判するのだ。社会性とは博愛である、として、それは、助け合い、協力(協同)の精神とでも呼ぶべきものなのだろうが、ホネットは、平等な社会、というよりは、博愛を実現する社会をこそ、実現しようとするのだ。

 人間の社会生活について考える場合、「競争」をきちんと主題化することは不可欠だ。ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正しているしかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。

「われわれは資本主義社会に生きている、だから、そこでは、最大の社会問題とは、労働者の貧困だ」 ― これは、とてもシンプルな主張だ。しかし、その後、環境問題や、資源問題も出てきた。加えて、社会=資本主義社会、という等式は成り立たない。従って、社会的な問題といっても、労働者の貧困という問題に還元しつくされはしないのだ。

 ネオリベラリズム、ということを強く意識した仕事を、ホネットもやっている、ということなのだろう。そのためのコンセプトが、「社会的自由」という概念だ。これをぶつけることで、ネオリベラリズムの自由概念が、いかに狭められた自由概念 ― 自由競争の意味での個人主義的自由概念 ― でしかないかを明らかにしようとしているわけだ。その際、アイザイア・バーリンの提出した論点は素通りされてはなるまい。「消極的自由」だけでは、狭すぎる。かといって、しかし、「積極的自由」は、やばい。「消極的自由」と「積極的自由」は、どちらを選ぶか、という風に論じることのできる二項対立ではないのだ。

「自由」というのは、個人主義的な価値であって、「博愛」というのは、社会(主義)的な価値だ。社会主義は、その意味で、はなから自由の制限、という志向を含んでいる。そう考えると、ホネットの仕事は、一貫している。前著で「自由」という理念を吟味検討し、その上で、今回、社会主義の再検討に取り掛かったのだろう。前著を読んでいないので、推測にとどまるのではあるが。


【2】 この本では、「社会的」ということがテーマになっており、その際、連帯とか友愛という姿勢が問題になっている。しかし、そこでは一面識もない人でも、境遇がもっとも悲惨な人のことを心にかけるというような姿勢が問題になっているのだから、それは「承認」の問題とは言いがたい。相互承認ということと、社会的思いやり(Anteilnahme)とは同じではない。つまり、「社会的」という問題の全体が承認論でカヴァーされるわけではないということだ。自分の面識のある人にしか関わらない連帯というのは、本当のことろで「社会的」とは形容されえないということか。

「社会的」とは、どういうことか。これを、博愛ということとただちに等置することは、すでに、意味の一元化を招来してしまうだろう。エゴイズムということだって、人間の社会性の一面をなす、とは言えるはずだから。つまり、ショーペンハウアーの「ヤマアラシの比喩」が表現する両面性の全体が、「社会性」ということの内実をなす、と理解すべきではないか。(もちろん、つながろうとする面だけを、社会性と考えるなら、それも「あり」ではあろうが。)

 さて、社会主義思想の全体的傾向として、人間のエゴイズムを私的所有の問題と結びつけ、その制限というか、克服というか、そのことで「社会性」の実現が果たされる、というような傾向があったのだろう。しかし、人間の「社会性」というのは、貧困に直面しての助け合い(相互扶助)というようなことに限られる問題ではないはずなのだ。例えば、他者の他性、というような問題。これは、食べるものにもこと欠いて困っている人に直面すれば助けの手を差し伸べずにはいられない、というような問題とは次元を異にするが、しかし、それはそれで「社会性」の問題である、と考えねばならないのではないか。

 ちなみに、そう思って考えてみると、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』における四つの義務の例、そこに、他者の他性の承認、というような問題意識が少しでも含まれているか。

1. 自己に対する完全義務:自殺すべからず
2. 自己に対する不完全義務:自己の能力を伸ばすべし
3. 他者に対する完全義務:守るつもりのない約束をすべからず(嘘をつくべからず)
4. 他者に対する不完全義務:困っている人を見たら助けるべし

 この中で、「自己に対する義務」が他者の他性の尊重というようなこととそもそも何の関係もないことは、言うまでもない。「他者に対する義務」の中には、もちろん、「他者」は出てくるが、しかし、それは、同じ人間同士の倫理である、と言わざるをえない。社会主義が問題になるとすれば、それは、4の例だけか。

 そう思って考えるとき、カントの尊重は、人として尊重することであるわけだから、他者の他性の尊重、ということとは別問題なのではないか、という気すらしてくる。(レヴィナスが他者について語るとき、カントの尊重の倫理に対しては、どういうスタンスを取っていたのか。そこには、そもそも他者は不在だ、とか言って、切り捨てているのか。しかし、絶対の他者、とか言ってしまうと、まるで、宇宙人のような存在になってしまわないか。それでも人間である、と言えなくなってしまわないか。絶対の他者でありつつ同じ人間、という風に考えるのでなければならないはずだ。)

 とにかく、人が人と共に生きてゆく、ということを可能にするためには、私有財産さえ否定されれば一件落着、というような単純な話ではおよそないのだ。政治的=民主的な合意形成、という問題も出てくるし、さらに、社会的な問題(承認の問題)だって、出てくるのだ。


【3】 なるほど、ホネットは、ホルクハイマー/アドルノを、その社会理論が経済主義に陥り、その名前に反して「社会的なもの」を軽視・排除している、と批判したわけだが、その批判は、実は、近代の社会主義の全体にあてはまるのだ。それというのも、近代の社会主義は、その総体において、資本主義批判の理論として練り上げられた、という出生の事情があるからだ。そして、経済理論であろうとしたからこそ、社会主義は「空想より科学へ」などと自称することもできたのである。社会理論を経済理論に還元しようとする傾向は根強い。「承認か、再分配か」という問題提起における「再分配派」も、この例に漏れない。


【4】 デューイの歴史理論において注目されるのは、生産力でもなく、労働者の階級意識(とそれに発する闘争)でもない。コミュニケーションを妨げる障害の撤去だ。その意味でも、ホネットの歴史理論は、コミュニケーション理論である、ということができる。ただし、その際に、コミュニケーションということの意味を、まさに「承認をめぐる闘争」と捉えるのである。単に、合意形成の骨折り、というように、ではなく。


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 いかがでしょうか。

 以下は、正田流我田引水的解説です。


【1】ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正している。しかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。


 このフレーズ好きですね。年頭からこのブログで批判している某「学力本」は、結局アメリカのネオリベラリズム(リバタリアン?)思想を計量経済学の手法を「つぎはぎに」使って肯定し教育に持ち込むことを政策化しようとする本だと考えてよいわけですが、それは相対的なものだ、とホネットは言うようです。

 簡単に言うと、社会主義的悪平等だと優秀な生産性の高い人はやる気を失ってしまう。だから優秀な人に「あなたは優秀だね」「生産性が高いね」と言い、賃金でも相応に報いる、というのは「その人の承認欲求を正当に満たす」という点で正しい。
 ただし、そのロジック一本槍でどこまでもそれを推し進めるのは間違いだ。ほかの軸、「愛」「人権尊重」も等分にみなければならない。
 



【2】 「人として尊重」VS「他者の他性の尊重」という言葉が出てきます。

 このブログを読み慣れている方であれば、後者の言葉を「個体差・個別性の尊重」と読み替えていただけるかもしれないですね。

 実は、ここはわたしは藤野教授に同意し、某経済学の大家に異を唱えるところになるかもしれないのですけれども、(お前どっちやねん)カントが最終解だとは、わたしには思えないのです。どうも、わたし的には、カントは人間というものを一律のものとみなしていたように思えるのです。個体差を捨象した人間というものを前提としてルールを設定していた気がするのです。

 ―それは通用する人としない人がいますよ。

 と、某心理学セミナーで「吠えた」ときのような言葉が出てきてしまいます。


 これはホネットの承認の3定義でいうと、(2)人権尊重と(3)業績評価 のあいだの葛藤、というところになるかもしれないですけれども。最近読んだ漫画『ヘルプマン』でやはり、介護の現場での「高齢者を一律に運転から排除してよいか」というエピソードが出て来たので個人的に琴線に触れました、はい。

 「承認社会」とは、(2)人権尊重を前提としつついかに(3)業績評価=個体差の尊重 に寄り添い軸を動かせるか、その微妙なバランスをつねに模索し続けて思考停止を許されない、というものかもしれないです。


 
 藤野先生、このたびもありがとうございました!

 ホネットがみた社会主義、『社会主義の理念』についての論考は次回(次の記事)に続き、そこでホネット承認論講義シリーズは終了となります。



正田佐与
 

 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の昨12月21日分の講義原稿をいただきました。
 
 引き続き「寛容」がテーマ。「みんなでじっくり読みたくなる記事」(フェイスブックのお友達)と賞賛をいただいた1つ前の記事に続き、今、もういちど捉え直したい「寛容」、読者の皆様にとって考えるヒントになっていただければ嬉しく思います。


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承認論講義(11)「差異について」

Axel Honneth: Das Andere der Gerechtigkeit, in: ders., Das Andere der Gerechtigkeit, Frankfurt am Main 2000, S.133-170 (アクセル・ホネット『正義の他者』、法政大学出版局、2005年、145-185頁)

【1】 これまで、あまり深く考えもせずに、ホネットの承認論では、愛と(人権)尊重と業績評価に分類されている、などと解説してきたわけだが、一人の人間に他者として向き合う場合には、この三つを使い分ける、というような話ではすまないはずなのだ。つまり、同一性は等しく尊重し、差異はそれぞれに対して細やかに承認する、ということが求められるのだとして、しかし、両者は両立しないのではないか、という問いが立ってしまう。差別しない人、というのは、差異には鈍感な人なのではないか ― 例えば、そういうことだ。

 出発点には、テイラーの発言がある。尊重しようとすると、承認できなくなる、承認すると、尊重できなくなる、そういう、排中律的関係が成り立ってしまうのではないか。ケアは正義を補うのか、それとも、ケアは正義にとっての「他者」なのではないか。(例えば品川哲彦の本は『正義と境を接するもの』と題されている。)


 尊重・承認・寛容と分類するのはよいとして、テイラーも言うように、尊重が等しく共有されている性質に対する反応であるのに対して ― だから、普遍主義的な行為であると言えるのに対して ― 承認や反応は、異なるものに対する反応であって、方向性が逆である。その上で、承認・寛容という姿勢には、繊細な注意深さというものが前提されるのだ。ただし、異なるものに細やかに、注意深く反応する、というだけでは、その異なるものを肯定的に評価する、ことには直結しない。注意深く観察した上で、否と言い、退ける、ということは十分にありうる。村上春樹の「僕」は、相手の話に辛抱強く耳を傾ける姿勢を備えているが、それに対してどう応じるか、肯定するのか、否定するのかは概して曖昧であり、その曖昧さ、優柔不断さが、結果として肯定と同じことになり、それが「優しさ」と受け止められる、という風であるようにも読めるように感じられる。


 「正義の他者」論文は、何を問うているのか。人を人として等しく尊重するという姿勢と、異なる人をその異なりに応じて異なった仕方で認め遇する姿勢とは、対立するものなのか(従って、両立しないものなのか)、そうではなく、前者に「繊細さ」という能力がつけ加わるならば、後者が前者を補完するという仕方で、後者を包含するような仕方で前者を拡張することが可能になって、両者はめでたく両立するのか、ということが問われているのだ。

 大雑把に言えば、リオタール、ホワイトは、カント、ハーバーマスの普遍主義的倫理によって包含されうる提案をしていると評価されるのに対して、デリダ、レヴィナスは、方向を逆にする倫理を呈示していると解釈される。その場合、ホネットの承認理論は、尊重と愛(ケア)を横並びにするのだから、もはや、カント・ハーバーマスですべてが片づくとは考えていないことにはなるわけだが、しかし、この理論の全体の中で、カント・ハーバーマスとデリダ・レヴィナスはどう両立するのか。後者による前者の微修正という話ではすまないはずなのだが。


【2】 ポストモダニズムは、理性批判として始まった。それは、当初、理論理性に向けられる批判だった。その際、理性とは、統一化・普遍化を志向する能力であると考えられるので、それに対して、美的・感性的(asthetisch)な能力が ― なにしろ、この能力は、カントも言うように、多様性(Mannigfaltigkeit, diversity)に反応することを得意とする能力であるものだから ― ぶつけられる、という議論が繰り広げられもしたのだ。芸術に依拠する科学批判である。そこでは「asthetische Sensibilitat(美的・感性的繊細さ)」ということが、キーワードともなった。

 ところが、ある時点から、批判の矛先が、理性は理性でも、道徳的理性(実践理性)に向けられるように、風向きが変わってきたのだという。その結果、この批判は、政治とも接点を持たずにはすまなくなり、政治的帰結を伴う議論ともなるにいたったのだ。「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」 ― 呼び方がどうであれ、そこで考えられているものが、経験の対象というような抽象的・一般的なものであるよりは、具体的に、人として考えられるようになったのだ、と言ってもよい。それに対応して、求められるものも「moralische Sensibilitat(道徳的繊細さ)」に変わる。

 しかし、この「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」を、そのように、人に関わるもの/人に関わらないもの、と区別することは、それほど容易ではあるまい。異文化、ということを考えるだけでも、その点は明らかだ。異文化とは、道徳や宗教や言語として立ち現れるだろうが、人を通して現れるものでもあろうからだ。そう考えると、アドルノの理性批判も、まずは、前者(美的次元)に発するように思われるものなのだが、もちろん、後者(倫理的次元)への目配りも含まずにはすまなかったはずなのだ。


 形而上学批判、というわけだが、形而上学の何が、どこが具合悪いのか。形而上学は、避けがたく、排除・抑圧の思考にならずにはすまないからだ。ニーチェによる二世界説批判は、もっとも分かりやすい例だ。「あの世」の価値が持ち上げられることを通して、「この世」「いま、ここ」の価値はおとしめ(貶め・落としめ)られずにはすまない。プラトンのイデア論、また然り。「りんごそのもの」の完璧さが称揚されることで、現実に存在するりんごは不良品視されずにはすまなくなる。人間性の称揚についても、同じことが言えるだろう。すると、一人一人が異なる点、特殊性、差異は軽視されずにはすまなくなる。ところが、その差異こそが、「私が私である所以」である、ということがありうるのだ。

 アドルノの「同一性思考」批判は、そのような「普遍主義」批判だった。同じである点を持ち上げ、同じでない点は軽視するような思考への批判。その意味で、アドルノの思考も、形而上学批判の系列に連らなるものである。
しかし、問題は、ここから始まる。その批判は、より包含性の高い、いかなるものも排除も抑圧もしないような普遍主義を追求し続けるのか、それとも、普遍主義と訣別することを求めるのか。「理性的・論理的思考」は、「美的・感性的繊細さ」によって補完されるべきなのか、それとも、両者は、対立関係にあって両立は不可能なのか。アドルノは、(抑圧なき)コミュニケーションについて語ることもあるので、その限りでは、前者の立場を採っていたようにも読めるのだが。

 この問題は、単に認識の問題、経験の問題、芸術経験の問題にはとどまらない。具体的な人としての他者にどう向き合うか、どう関わるか、という倫理的・道徳的な問題とも、関わってくるのだ。美的・感性的細やかさの要請は、倫理的細やかさの要請ともなりうるのだ。


【3】 カントが、『道徳の形而上学の基礎』の中で、定言命法として「人を目的として尊重する」よう要請した時、彼は、ヒューマニズムの基礎づけを試みていたのであって、つまり、そこでは、人を人として処遇すること、もののようには扱わないことこそが眼目であったのだ。そこに、自分とは異なる価値観の持ち主にどう向かい合うか、という問題意識があったとは思えない。

 「異なる価値観」という場合、しかし、その「異なり」とはどのような「異なり」なのか、という問題が直ちに出てこずにはすまない。「ただ違う」だけなのか。それとも、「相手は間違っている」と言わざるをえない、そのような「異なり」なのか。例えば、男と女は違う。しかし、だからといって、男か女が間違っているわけではない。(日本語が、「違う」「間違う」という言葉を持っているのは、なんだか素晴らしい。)肌の色が、黒い・赤い・黄色い・白いことは違いだ。しかし、どの肌の色も間違っているわけではない。(でも、そう感じない感受性があったからこそ、あえてblack is beautiful と言われねばならなかったのだろう。)

 では、地球は丸い、と考えて生きる人と、地球は平たい、と考えて生きる人の違いはどうか。両者は違う考えに基いて生きているわけだが、のみならず、後者は間違った考えに基いて生きていることになる。では、神が存在すると考えて生きる人と、神など存在しないと考えて生きる人ではどうか。両者は違う考えに基いて生きており、のみならず ― 私に言わせれば ― 前者は間違った考えに基いて生きている。

 人間は、各自が、自由に、自らの人生観・価値観を抱き、それを表現する権利を有する存在として、互いに尊重しあうべきである。これが、尊重ということの意味だ。そこでは、ただし、その人生観・価値観の内容は問題にされていない。価値観の内容に立ち入ることなく、その手前で、各自が尊重されるべきだ、というのである。


 さて、そこで、相手の考えやものの見方を面白い、と思えるとする。そこでは、(互いに)相手を認め合うということ、つまりは(相互)承認が起こっていることになる。例えば、安藤広重が好きな人とモンドリアンが好きな人がいて、互いに相手の趣味を面白いと感じ、認め合う、ということは、大いにありうる。ジャズとクラシック、能とオペラ、納豆とエスカルゴ、いずれの場合も同様だ。

 しかし、地球が丸い/平たい、神が存在する/しない、ではどうか。互いに相手を面白いと認め合うことは難しいのではないか。なにしろ、一方は他方を間違っていると考えているのだから。加えて、そこに「啓蒙の歴史」とか「解放の歴史」といった歴史的観点、進歩という見方が入ってくると、両者が互いを面白いと感じることはますます難しくなる。一方にとっては、他方の考えを受け入れることは、「退歩(退行)」を意味することになるからだ。歴史の逆戻り、である。

 では、「男と女は理性・感性の両能力に関して対等である」という考えと、「男は理性に優れ、女は感性に優れている」という考えでは、どうか。両者は、互いに相手を間違っていると考えるだろうから、両立・共存は不可能なのではないか。


 その時、「寛容」という可能性が浮上する。相手は間違っている、と思うのではあるけれども、それを寛い心で受け入れる、大目に見る、という姿勢だ。例えば、地球は丸い/平たい、の違いであれば、外国旅行に出でもしない限り、それは、知識の問題にとどまり、実践的な違いにはつながらないだろうから、寛い心で受け入れ合うことも可能だろう。神が存在する/しない、だって、信仰が、心の内の問題にとどまっている限り、せいぜい祈りという形でしか表現されないのである限り、依然、寛容に対応することが可能だろう。

 しかし、上記の「男と女」の能力に関する見解の違いの場合はどうか。これは、実践的帰結を伴わずにはすまない「違い」だ。すると、もはや「寛容」という(なぁなぁの)姿勢で対処することは不可能だろう。そこでは、何とかして「合意形成」しようとする努力が発動せずにはすまなくなるだろう。


 「差異」というのは、現代社会について考える上でのキーワードの一つである。かつては、「弁証法」という考え方が有力で(50年ほど前のことだ)、そのころは、「差異」とは言われず、「矛盾」と言われた。(毛沢東の『矛盾論』は必読文献だった。)二つのものが対立関係にあるにもかかわらず場を共有している(かに見える)とき、それが「矛盾」であり、矛盾は解消への運動を発動せずにはすまない、というのだ。しかも、その運動は、より高いあり方への運動でありえ、それは「総合」と呼ばれ、そこでは矛盾・対立はより高いレベルでの総合・統一である、と見なされたのだ。(「止揚」とか「揚棄」とかいう奇妙な言葉がひねり出された。)昨今では、「弁証法」は、さっぱり流行らなくなり、「矛盾」という言葉も、論理学はともかく、社会理論の場からは、ほぼ姿を消したといってよい。替わって、キーワードの地位を占めているのが、「差異」である。「矛盾・対立を総合・統一にもたらす」ことではなく、「多様な差異が共存すること」こそが、目標として設定されている。

 しかし、そうすることで、対立は、人畜無害化されている、と言わざるをえないのではないか。差異の中には、面白いと認め合うことはもちろんのこと、間違っているとは思いつつも寛い心で大目に見ることも不可能、というような「差異」が、なんといっても存在するのだ。例えば、イスラム原理主義者にとっては、西洋文明とは、そういう「異なるもの」だろう。西洋文明の側でも、テロを許容するイスラム原理主義は、もはや寛容の対象ではありえまい。寛容の限界を超えてしまっているだろう。かくして、「多様な差異の共存」の理念は、たちまちかき消され、今や「われわれは戦争状態にある」と宣言されるのだ。

 ここでは、「差異に関するロマン主義的な夢想」が罰せられているのだ、と言えるだろう。思い出されるのは、「小さな差異のナルシシズム」という、フロイトの指摘だ。われわれは「小さな差異」によってこそ、ナルシシズムを刺激され、(小さく)異なるものに対して、ライヴァル心や敵愾心をくすぐられる、というのだ。われわれ日本人から見れば、カトリックとプロテスタントの違いなんて、この上なく「小さな差異」にしか見えないではないか。にもかかわらず、この小さな差異は、長く続く「大きな戦争」の引き金になったのだ。キリスト教とユダヤ教の違い、また然り。それどころか、キリスト教とイスラム教だって、私には、兄弟関係のようなものに感じられる。それほどにも「小さな差異」に対してすら、「寛容」の理念は無力さを露呈することがしばしばなのだ。

 もちろん、日本と中国の差異や日本と韓国の差異だって、「小さな差異」の例外ではないはずだ。


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 いかがでしょうか。

 「寛容」が世界的に要請されていることは、現在のISとわが国を含む西側諸国の対立、そしてイスラム教徒全般への排斥、わが国にもあるヘイト・スピーチ等、多次元にわたって認められるところです。

 一昨日20日のTVの日曜討論では、アメリカで否応なく進行する多様化の現実と、同時に進行する不寛容の風潮に複数の識者が言及されていました。
 このブログで先週とりあげた「ダイバーシティー経営は損」という知見も、その「アメリカの不寛容」の文脈で考えたほうがよいような気が、わたしはします。
 
 しかし今回の藤野教授の結論は「寛容の無力」を言っているようにもみえますね…。
 わたしは不謹慎ながら、「愛」と「戦闘状態」の対比を描いたイーストウッド監督の映画「アメリカン・スナイパー」を連想してしまいました。

 藤野先生、このたびもありがとうございました!


 読者の皆様、大切な方と素敵なクリスマスをお過ごしくださいますように。


正田佐与

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての5本目の講義原稿をいただきました。
 今回は「寛容」がテーマ。わたくしにも”耳が痛い”ことになりそうですが…。藤野教授の結論はどんなことになったでしょうか。

※この記事は公開後、フェイスブックのあるお友達から「みんなでじっくり読みたいような内容ですね」という賛辞をいただきました。


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承認と寛容 ― あるいは、倫理学の中の「寛容」概念の位置


【1】  広く「道徳」について考える

【1】 倫理学というのは、「よい」という性質をめぐる議論である。「よい」という形容詞は、ただし、ずいぶん多様なものを形容する。「よい行い」や「よい人」だけでなく、「よい人生」「よい成績」「よい天気」「よい気分」「よい男」「よい女」といった具合だ。(最後の二例では「よい」と言わずに「イイ」と言う。)
この中で、「よい行い」をめぐる議論に限って、道徳論と呼ぶ、という語用がありうる。(というか、倫理と道徳という言葉を、私はそのように使い分けることにしている。)ある行為が「よい行為」である場合、その行為は「することの望ましい行為」である、と言えるだろう。そして、「することの望ましい行為」は、これをもうひと押しすれば、「すべき行為」である。「すべき行為」とは、「義務」の言い換えであり、従って、道徳論とは義務をめぐる議論である、と言うことができる。(「義務」に似た言葉に「当為」というのもある。)
「よい行為」をする人は「よい人」である、と言って異論はあるまい。このタイプの「よさ」(道徳的な「よさ」)には、日本語では、概して、「善」という漢字があてられる。「善行」「善人」「善意」という具合だ。(「善戦」もあるのだけれども。)

 では、同じ調子で、「よい天気」や「よい気分」「よい人生」を「善い天気」「善い気分」「善い人生」と書いても違和感がないだろうか。「善い人生」は微妙だが、前二者については、「否」と言いたい。どうして、そういうことになるのか。善さ=よさ、ではないからだ。
「よい人生」とは、どんな人生か。道徳的に正しい人の人生だろうか。必ずしも、そうは言えまい。むしろ、自分の願いがすべてかなったような人生が、「よい人生」と見なされるのではないか。そう考えると、「よい人生」というのは「幸せな人生」に近い。(フロイト(1856-1939)は、幸福を、「願望充足(あるいは欲望成就)」と説明した。)

 つまり、道徳的に善い行いをする人の人生と、よい人生とは、ぴったり重なるものではない、という可能性があるのではないか。それどころか、両者は対立することさえあるのではないか。

 道徳(すべきこと)と幸福(願いがかなうこと)の関係については、古来、多くの哲学者が大いに頭を悩まし、様々な提案をしてきた。カント(1720-1802)は道徳重視派の代表格で、ニーチェ(1844-1900)は幸福の側に肩入れした、と大雑把には言えるだろう。
 
【2】 どうして、こんな辛気臭い話をするのか。

 「道徳的であること」が、「よい人生」や「幸せな人生」に直結するものではない、という事情があるからだ。大体、道徳的な人、というのは、感じの悪い人であることが多くないか。他人に「〇〇すべし」とか「〇〇すべからず」というようなことを言いまくる人が、感じがよいはずがない。それだけではない。自分自身に対して「〇〇すべし」「〇〇すべからず」と目を光らせている人も、つまり「自分に厳しい人」も、なんだか窮屈で、面白みに欠ける、というケースが少なくないのではないか。ニーチェなら、「道徳は生に対して抑圧的だ」と言うところだろう。
道徳は「すべし/すべからず」をめぐる議論だ、と上に確認したが、そういうわけで、そもそも道徳的であるべきなのか、なぜ道徳的であるべきなのか、と問う余地がある。(道徳的でなどない方が、人生、のびやかになり、楽しくもなるのではないか、ということだ。)

 人生における悩みというのは、概して、「したい (will)」と「すべき (should)」と「できる (can)」という三つの助動詞の関係(欲求と義務と能力の関係、と言ってもよい)をめぐるものだ、と言えるのではないか、と常々私は考えている。「したいことは、できるのであれば、してよろしい」、という風であれば、人生、ややこしくなくて具合がよろしいのだが、そうは問屋が卸ろさない。大体、自分が何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのかなんて、どれもよくわからない、としたものではないか。そして、仮にわかったとしても、この三つが互いに良好な関係にあるとは限らない。しばしば対立する。その時、「すべし」(道徳)の言い分だけを通す、という風に事が運ばないのは、当然ではないだろうか。

 道徳とは、「すべし」(義務)に関する議論、あるいは主張であるとすると、そんなもの、そもそもない方がよい ― 窮屈だし、面倒くさいし ― という考え方がありうるということだ。大いにありうる、とすら言ってよいだろう。
そういうわけで、倫理学などをやっていると、道徳に対しては、かえって警戒的にならずにすまなくなる。すぐ説教したがる倫理学者というのは贋物だ、と常々私は思っている。すぐ説教したがる政治家も、政治的ではあっても、道徳について悩んだことなどほぼない人たちだ、と思ってまず間違いない。(道徳教育の必要性を説く政治家に対して抱かれる疑念や反発というのは、この点にも関わるもので、真っ当な反応であると言ってよい。)

【3】 そうは言っても、やはり、道徳は必要だ、人は道徳的であるべきだ、と私は考える。(ニーチェや永井均に賛同することはできない。)人間の「欲求(したい)」を無造作に認めることはできない、人間の「欲求(したい)」の底知れなさには私などの想像を絶するものでありうる ― 病みうるし、狂いうる ― と想像されるからだ。エゴイズム(利己主義)というのは、そういう症状の一例 ― しかも、人畜無害な一例 ― であるに過ぎない。人間の「欲求(したい)」には、やはり、縛りをかけることが必要になると ― 感じの悪い提案であることは重々承知の上で ― 思う。義務という縛り、道徳という縛りである。

 そこから、どういう縛り、どういう義務が必要なのか、という問いが出てくる。道徳の内容への問い、である。代表的道徳哲学者であるカントは、義務を、「自己に対する完全義務」「自己に対する不完全義務」「他者に対する完全義務」「他者に対する不完全義務」に四分類し、それぞれ「自殺すべからず」「自己の能力を伸ばすべし(例えば「やる気なんか起きなくても、勉強すべし」、だ)」「守る気のない約束をすべからず」「困っている人を見たら助けるべし」という具体的例に沿って議論している。

 すると、これらの具体的義務については、なぜそれらが義務なのか、なぜそうすべし(あるいは、すべからず)と言えるのか、という正当化、あるいは根拠づけの問いが立たずにはすまない。私は例えば、「自殺すべからず」も「自己の能力を伸ばすべし」も、結構な提案だとは思うが、義務だとは思わないので、その理由づけをめぐっては、カントに同意できないから彼と議論しなければならないことになる。

【4】 「自殺すべからず」だの、「嘘をつくべからず」だの、「能力を伸ばすべし」だの、「困っている人を見たら助けるべし」だのといった個々具体的な道徳内容の正当化とは別に、そもそも「なぜ道徳的であるべきなのか」という問い、道徳性そのものの正当化への問いが立つ。【3】で、私は、人間の「欲求(したい)」の底知れなさ、ということを理由として挙げたわけだが、より頻繁にお目にかかる議論は、道徳なしでは、つまり、みんながエゴイストとして振る舞ったのでは、社会生活、共同生活が成り立つまい、という論法がある。ホッブズに「自然状態(文化状態の反対で、道徳などない状態だ)とは、万人の万人に対する闘争状態だ」というよく知られた指摘があるが、そうなったのでは、人はかた時も気の休まることのない人生に陥らずにはすまなくなるだろう。そこで、契約が結ばれ、闘争が回避されるのだが、道徳も、そういう契約の一種だ、というのである。これは、エゴイズムを前提する道徳であり、すべてのエゴイストが「お互いさまの論理」とでもいうべきものに従って、互いに妥協し合って形成するものである。

 これと似ているものに、道徳的に行為した方が、結局(めぐりめぐって)自分の得になるのだから、という風に道徳を正当化する議論がある。こう考える人は、本心では自分さえよければよいのだが、道徳的に行為する方が結局、自分にとっての得も最大になる、と計算していることになる。

 計算(打算)に基いて道徳を守る、というのは、十分ありうる選択肢だろう。世にこのタイプの人は無数にいる。ただ、こういう人を「善い人」と呼ぶか、となると、然りと答えるのは躊躇されるのではないか。「善い人」からは、計算高さにとどまらない、もう少し多めの道徳性をわれわれは期待するのではないか。では、それは、どんな道徳性か。

【5】 カントは「他者に対する不完全義務」の具体例として、「困っている人を見たら助けるべし」を挙げていた。「不完全」というのは、仮にその義務を守らなくても、ただちに罰せられることはない、ぐらいの意味で理解してよい形容だ。確かに、困っている人を見て素通りしたからといって、罰せられることはない。それでも助ける人であって初めて、「善い人」と呼ばれるに値するように思われる。

 この義務を具体的に説明する上でよく持ち出される議論に、「溺れている子供を見たら誰もが助けずにはいられまい」というのがある。人間が道徳的であることの証拠として挙げられる話だ。ただし、この議論は問題含みだ。「助けずにはいられない」のであれば、わざわざ「助けるべし」と言う必要などないだろうから。それでは、「義務」とは呼べないのではないか。困っている人を見たら助けたくなるというのは、「自然の欲求」になってしまう。
ここには、人間が道徳的であるべきだとして、その道徳性はどういう能力・資質に基くものなのか、という問いがからんでいる。なにしろ、「〜すべし」と言われたって、できないこと ― 例えば、物乞いする人を見たら必ず10万円与えるべし、とか ― はできないのであり、道徳なんて、そもそも「無理な注文」なのではないか、という突っ込みが可能になるだろう。

 溺れる子供の例を挙げる場合、通常、「共感能力」が想定されている。共に苦しみ、共に喜ぶという資質が人間にはある、と考えるのである。だから、苦しんでいる人(溺れている人)を目撃したら、自分も苦しくなり、見ないふりをすることはできなくなり、助けずにはいられなくなる、というのだ。同様に、自分の喜びは、人と分かち合いたくなる。そういう、プラス/マイナスの共感がもとになって、エゴイズムは克服されると考える。この「共感道徳」の代表論者としては、アダム・スミス(1723-1790)やショーペンハウアー(1788-1860)の名が挙がるのを通例とする。

 もっとも、「共感」というこの資質(あるいは能力)は、それはそれで問題含みである。(「共感」というのは、「同情」とも訳されうる言葉だ。)これは相手を選ぶ資質(能力)なのではないか。濃淡に差があり、ここから先にいる人にはもう抱かれなくなる、という地平線みたいなものがあるのではないか。友人が苦しんでいれば一緒に苦しくなるが、地球の裏側で人が苦しんでいても、何も感じないとか。(かつてサルトル(1905-1980)は、「アフリカで餓えに苦しむ人に文学は何ができるか」と問うたが、文学に限った話ではない。)それどころか、お隣りさんが苦しんでいると、嬉しくなったりしないか。(「他人の不幸は蜜の味」と言うではないか。)これは依怙贔屓の避け難い資質(能力)なのだ。

【6】 道徳の「べし/べからず」は、いつでもどこでも誰にも当てはまるものであるべきだ、そうであって初めて、道徳の名に値するのではないか。例えばカントは「道徳法則」という言い方をするのだが、法則はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだから ― 「例外のないルールはない」と言いもするのではあるけれども ― 道徳はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだ(普遍性とか普遍妥当性と呼ばれる)、と見なしていたことがわかる。そう考えると、「共感」は、道徳の土台となる資質(能力)としては失格だ、ということになる。

 では、カントは、道徳の土台となる資質(能力)として、何を考えたのか。「尊重の感情」である。人を目的それ自体として尊重する、という思い。人を物のようには ― 例えば、手段として ― 処遇しない、ということだ。人が人である限りにおいて(分け隔てなく)尊重する、というのであり、すべての人に差別することなく接する態度、と言うこともできる。これは、人でないもの(例えば人間以外の動物)には当てはまらないので、その意味では差別的だ。ヒューマニズムというのは、人間を特別扱いする ― 強く言えば ― 差別思想であるわけだが、人間内部では特別扱い(依怙贔屓)を許さないのだ。

 トゥーゲントハット(1930‐ )の解説に従って、カントのこの「尊重の道徳」を具体的に説明してみよう。死の床にいる人が願いを口にする。それを聞いた人は、願いをかなえると約束する。そして約束を守る。なぜか。死につつある人の苦しみを共有するから、ではない。自分も嘘をつかれたくないから、でもない(死の床にある人から嘘をつき返される心配はない)。そうではなく、その人を人として尊重する思いからだ、とカントは考える。その「尊重の思い」が、嘘をつくことを許さないのだ、と。

 そして、この「尊重」の思いは、「共感」とは違って、誰もが誰に対してもいつでもどこでも抱くものだ ― その意味で、過大な要求ではない ― とカントは考える。確かに、尊重の念というのは淡白だ。人を人として尊重することなら、相手にそれほど深く関わらなくてもできそうだ。逆に言うと、すべての人と差別なく深く関わることなど不可能だろう。(「神の愛」というのは、結構淡白なのではないか。)

【7】 カントのこの普遍主義的で人間主義的な「尊重の道徳」は、久しく大きな影響力をもってきた。それは、裏から見れば、さまざまな批判にさらされてきた、ということでもある。その批判の一つに、承認論がある。他者との関わりとして、尊重だけでは足りない、承認という姿勢もまた必要なのではないか、というのである。その際、「承認」という言葉は、通常よりも広く理解する必要がある。日本語で「承認」と聞くと、会議で議長が「この堤案をご承認ください」と言うような用例が思い浮かぶところだろうが、承認論で「承認」の語のもとに考えられているのは、むしろ、「先輩に認められる」とか「先生に褒められる」とか「親に愛される」とか、そういった事態である。

 相手に肯定的な資質を認め、そういう肯定的な資質の持ち主として向かい合う、という姿勢、それが承認するという姿勢である。

 「尊重」も、相手を、人であるというその限りで、肯定的な存在として認める姿勢だった。しかし、承認は、人であれば誰もが備える「人という資質」を認めるのではない。ある人が、そしてその人こそが備える資質を ― 「個性」と言ってもいい ― 認めるのだ。だから、承認は、すでに特別扱いである。「わが子を愛する」というケースを考えるとよい。「愛する」行為とは、究極の依怙贔屓であるが、だからといって「差別だ」と咎められるいわれはない。それどころか、私は他の女性も平等に愛します、などと言えば、浮気あるいは不倫として、ひと騒動になる。

 他者に向き合う態度として、「尊重」だけではなお一面的だ、ということだろう。「承認」という向き合い方も共に要請される。私は、教師として、すべての学生に分け隔てなく接するという「尊重」の姿勢を求められ、一人の学生(だけ)を愛するということはあってはならない ― ただし、学生の努力や能力は、それぞれに個別的に評価しなければならないのであって、全員に「優」をつける、とかいうのは職務放棄なのだ ― が、私の家族に対しては、愛するという特別扱いの姿勢が許されるし、それどころか、求められると思う。

 そして、こう考えるとき、「愛」という言葉を道徳の議論に持ち込むことには、慎重であらねばならないことが見えてくる。「愛」とは特別扱いする、排他性を本質とする感情だ。「私だけを愛して」と求めるのだから。その点に無自覚な「愛国心」論議は ― 「人類はみな兄弟」という言葉と同じぐらい ― 抽象的であり、無神経だ。「愛は盲目」という名言をこそ、むしろ、思い起こすべきだろう。(かつて、ドイツ大統領、テオドール・ホイスは、「あなたはドイツを愛していますか」という問いに、「私は妻を愛しています」という答えで応じた。)

【2】  「寛容」について考える
【1】 さて、「寛容」である。これは、尊重や承認とは、根本的に異なる姿勢・態度である。どういうことか。
「尊重」も「承認」も、相手を、あるいは相手が備える何らかの資質・能力を「肯定的に受け止める」態度なのだった。これに対して、「寛容」は、そうではない。ヴォルテールに帰せられる有名な言葉を思い出そう。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言われたのだった。相手の立場は間違っていると考えるのだが、でも、相手がそういう立場を採ることを否定はしない、ということ。「大目に見ること」、「寛い心で許すこと」、それが「寛容」だ。

 例えば、私は無宗教の人間で、神や仏の存在を信じない。そう信じている人は間違っている、と考える。信仰心を立派だとも偉いとも思わない。でも、人がそれを持つことは「大目に見る」。(実際、私の妻はクリスチャンである(らしい)。篤い信仰心ではないから、ということもあるが、それをやめさせようとする気は私にはない。)
その際、寛容という姿勢が成り立つためには、相手もまた、その姿勢を採ってくれなければなるまい。私が神を信じないことを、相手側でも、大目に見てくれなければならない。自らは神を信じている人にとっては、神など存在しないと考えている私は間違っていることになる。でも、だからといって私を改宗させようとは、ましてや、火あぶりの刑に処したりはしないでもらいたいものだ。

 こう考えると、「寛容」という徳の危うさが浮かび上がってくるのではないか。結局、そこでは対立を引き起こしている問題そのものへの一定の無関心(関心の希薄さ)というものを前提するように思われる。切実で熱烈な関心事については、なかなか寛容にはなりにくい。相手を洗脳せずにはおれなくなる。(家族の幸せには無関心ではいられないから、家族に対して ― その誤りに対して ― 寛容であることは、なかなか難しい。それに対して、どうでもよい人の誤りには、いくらでも寛容になることができる。)

 そもそも、寛容というのは、どこか上から目線の姿勢であり、偉そうなのだ。あなたは誤りの中に迷い込んでいるのだけれど、私は寛い心で大目に見てあげますよ、と言われて、感謝する人がいるだろうか。むしろ、屈辱感を抱くのではないか。

 私は、「寛」という名前を掲げて生きているのだが、「寛容」という徳の旗振り役にはなれそうにない。それは、過渡期の、暫定的な、必要悪のような徳だ、と考えざるをえない。宗教が力を持たない世界になればよいと ― マルクスやニーチェと共に ― 考えている。違いは間違いであるのだが、寛い心で大目に見なければならない、という風ではなく、違いは違いであり、それが面白いと認める、という風な世界になってほしい。しかし、そうなれば、もう寛容ではない。なにしろ、違いを面白いと感じ、つまりは肯定的に評価しているのだから。

【2】 ただし、今のこの時代、この世界で、「寛容」に注目することは、炯眼だと思う。かつて、宗教と宗教がぶつかり合う時には、繰り返し、この(美)徳(=道徳性)が呼び出されたのだった。ヨーロッパでは、ヴォルテールによって、あるいはエラスムスによって。そして、日本では、渡辺一夫によって。その背景には、常に、宗教対立があった。例えば、カトリックとプロテスタントの対立。あるいは、国家神道。

 その際、「対立」とは言っても、個人と個人の対立ではない。集団と集団の対立である。だからこそ、寛容になることは容易でないのであり、それに対して、誤っている個人に対して寛容であることは、さほど難しくはない。(「違いのせいで孤立している風変わりな個人を寛容に取り扱うことは易しい」とマイケル・ウォルツァー(1935- )も言っている。)

 見落としてはならないのは、そこで対立しあう集団の力は、通例、拮抗関係にはない、ということだ。一方が優勢で他方が劣勢、あるいは、一方が多数で他方が少数、言い換えれば、マジョリティとマイノリティの関係だ。つまり、寛容とは、優勢の側や多数の側に期待される徳性なのだ。結局のところ、寛容は、マジョリティの側の「上から目線」ということに帰してしまう。それでは、マイノリティの側に、卑屈さが前提されることになり、受け入れられない、ということになるのは避けられまい。少なくとも、感謝の思いと共に受け入れられる、という風にはならないだろう。

 寛容は、相互性を属性とする道徳理念ではないということであり、その点で尊重と ― 承認とも ― 決定的に異なる。

【3】 寛容について語らずにはすまされない土壌は、ヨーロッパでは、この200年、着実に崩れてきたと思われてきた。世俗化、と呼ばれる趨勢だ。ところが、昨今、「寛容」について語らずにはすまされない状況が生まれてきている。それは、イスラム文化との共存、ということが社会的課題となる、という新たな状況が出来してきているからだ。宗教的人間に対しては、私もまた、寛容であることしかできない。私は相手の立場(信仰)を誤りだと思うけれども、だから、その考えを放棄することこそ正しい、と思うのではあるが、だからといって、その考えを奉じる人など殺してしまえ、とは考えない。許容するのであり、それが、寛容だ。

 その際、客観的に考えればどちらが正しいか、と問い、判断を下すことは、不可能だ。なぜなら、私は、客観的視点(神の視点)には立てないのだから。神の存在を信じない、とは、自分もまた神の視点、客観的視点、絶対に正しい視点には立てない、と諦念することだ。つまりは、相対主義をさしあたり受け入れる、ということだ。主観的視点からして、私は、宗教はなくなるべきだ、と思うのだが、その立場の主観性は自覚した上でのことであり、そのことも、寛容であるべき理由となる。寛容は、普遍主義を前提せず、多元主義・相対主義を受け入れるところに要請される徳性だ、と言ってよいだろう。

 その問題は、だからと言って、無制限に寛容であるべし、とか、寛容であればあるほどよい、という話にはならない、という論点と関係する。寛容という徳には、限界がある。寛容が、一種の妥協の産物という特質を有する道徳性であることの一つの現れである。それが、例えば「正義」という徳とは異なるところだ。(自由や平等にも、限界はあると思うが、正義や幸福にはそれはないだろう。自由であればあるほど、平等であればあるほどよい、とは言えまいが、正義であればあるほど、幸福であればあるほどよい、とは言えるだろう。)

 寛容でありうるのは、あるべきなのは、ここまで、という限界(境界)がある。例えば、テロに対しては、寛容であるべきではないと思うが、信仰に対しては、そうだろう。こうして、寛容論は、常に、線引き問題を抱え込む。イスラム原理主義のテロリズムには寛容であるべきではないが、イスラム教(そのもの)には寛容であってよい、例えば、そういう線引きだ。「狂信」という言葉があるのは、線引きのためなのだ。それに対して寛容であることはできないし、あるべきでもない。

【3】 自分でも意外な、暫定的結論
【1】 さて、こんな風に考えてきて、自分でも意外な結論にたどり着いた。私は、昨今の日本における道徳教育必修化に関する議論を重要な課題だと考え、同時にその一方で、寛容論を現代世界にあって必要な論点だと思う者だ。しかし、両者は、結びつかないのではないか。というのも、上述したように、寛容が道徳性として要請されるのは、複数の宗教が対峙するような状況、そして、普遍主義を掲げることができないような状況においてであると考えられるからだ。しかし、目下の日本の状況はそうではない。世俗化された社会と捉えるのが適切な目下の日本で、必要な道徳性とは、相手の立場は誤っていると思うけれども寛い心で受け入れるという姿勢、つまりは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える。そこで必要な他者に対する姿勢とは、合意形成をめざすプロセスを共にしうるパートナーとして他者を尊重する、という姿勢だと思う。容易にヴォルテールまで引き下がらないこと、あくまでも、カント、ハーバーマスの路線を堅持すること、と言ってもよい。

【2】 より具体的に考えてみよう。道徳教育の名のもとにもっぱら愛国心教育を考えている人々の念頭にある「他者」とは、中国や韓国の人々であり、そこから日本にやって来た、そしてやって来る人々だろう。その人々と日本人の関係の中に、宗教の問題は存在しない。それでも、むりやり、絶対的価値同士の衝突の問題に仕立て上げたい、というのであれば、話は別だが、そんなのは妄想だ。

 それとは別に、イスラム文化圏から日本を訪れ、日本に住む人々が、これから増えていくだろうという問題はある。「問題」などというと、まるで「困ったこと」ででもあるかのように響きかねないが、私は、日本に魅かれ、日本を訪れ、日本に住みたいと思う外国人が増えることを嬉しく思う者であり ― その気持ちが、私の愛国心だ ― その際、どの国の人であるか、は問題ではない。そこでは、それぞれの人の信仰に対して ― イスラム教であれ、キリスト教であれ、ヒンズー教であれ、仏教であれ ― その教えは誤っていると思うけれども、しかし寛い心で受け入れるという姿勢、つまり「寛容」でありたいとは思う。

 そう考えると、愛国心と歓待と寛容とは、結構、両立・共存可能であるように思えてくるのだけれども、どうだろうか。

《付記》  私が寛容について考えるようになったのは、マイケル・ウォルツァーを読んで以来だ。この1935年生まれのユダヤ系アメリカ人政治(哲)学者は、地球上のマイノリティの歴史について驚くべく該博の人で、とりわけ、ユダヤ民族の歴史に詳しいのだが、そこでは、オーストリア帝国の存在感が大きい。帝国には寛容という徳がゆき渡っていた、というウォルツァーの指摘は、私にとって強烈な「メウロコ」の経験だった。例えば、オーストリア帝国の東の端に、チェルノヴィッツという街があったのだが(今は、ウクライナに属する)、そこには、ユダヤ人、ルーマニア人、ウクライナ人、ドイツ人、、、、、と様々な民族が共生し、寛容な文化が花開いていた。
そういうことも含め、寛容、多文化主義、道徳について、私は、以下のような文章の中であれこれ考えてきた。この文章は、それを再構成してひねり出されたものである。

・書評:マイケル・ウォルツァー『寛容について』(みすず書房、2003年)、高崎経済大学論集第47巻第3号、2004年
・『高校生と大学一年生のための倫理学講義』、ナカニシヤ出版、2011年
・「「チェルノヴィッツ」考 - 歴史と文化」、『思想』2013年3月号、岩波書店

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 藤野教授の上掲書『高校生と大学一年生のための倫理学講義』は、わたしも今年秋、藤野教授の文章に親しんですぐ、読ませていただきました。そして問題のわかりやすい整理の仕方に感銘を受けたものです。

「共感」は、道徳の普遍的土台とはなりにくい。「尊重」はそれに比べると(それでも多少困難ではあるけれども)共通ルールにしやすい。

 おおむねそういう論旨です。ご興味のある方はぜひ、『高校生と大学一年生のための―』をお読みになってみてください。

 今回は、「寛容」という徳をテーマにして、
・「寛容」は無関心ということも含む徳であること、
・マジョリティからマイノリティへの、やや「上から目線」の徳であること、
・複数宗教が対峙し、普遍主義を掲げることができないときは「寛容」が要請される、
・日本国内のような状況では、必要な道徳性とは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える
ということを述べています。

 藤野教授から12月14日、この原稿を添付していただいたメールによれば、

 
 正田さん、
 アクセル・ホネットが
 資本主義に対してどういうスタンスをとっているのか、
 ということが知りたくて
 いくつかの論考を読んでいるのですが、
 最近出た『社会主義の理念』という本
 面白いのですが、まだ読んでいる最中で、
 授業で取り上げられるのは正月明けになりそう、
 ということで、
 今日の講義は、「承認と寛容」をテーマにすることにしました。
 少し前に書いた文章を引っ張り出してきました。
 それを添付させていただきます。
 【1】の7と【2】を主要に解説することになります。


とのことでした。

 ということは、前回ちらっと出た「資本主義は利益至上主義だけではなく承認の原則によっても成り立っている」これは年明け以降にその続きが読めそうだ、ということですね。


 藤野先生、このたびもありがとうございました!


正田佐与

 

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿をいただきました。
 有難く、掲載させていただきます。このブログとしては「第四弾」です。

 今回は、「自己実現」ということについて、藤野教授からの「答え」が書いてあります。

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「ホネット承認論」講義(10)                              7.12.2015

Axel Honneth: Organisierte Selbsverwirklichung. Paradoxien der Individualisierung, in: Das Wir im Ich, Frankfurt am Main 2010, S. 202 – 221.(アクセル ホネット「組織化された自己実現−個人主義化の逆説」、『私の中の私たち』所収)
Axel Honneth: Arbeit und Anerkennung, in: Das Wir im Ich, S. 78 – 102.(アクセル ホネット「労働と承認」、『私の中の私たち』所収)

  嵜誉犬箸蓮個人が自己を実現する、一回限りのチャンスである」 ― この考えを否定することは難しいだろう。それほどには、われわれは個人主義を自明の前提として受け入れて生きている。
問題は、しかし、ここから始まる。「自己を実現する」って、どういうことか。ここには、植物の成長のイメージがはたらいているのではないか。つまり、一人ひとりの人間の中には、種子のようなものがセットされており、それが発芽し、成長し、開花する、というようなイメージだ。ポテンシャル(潜在する能力)が各人に備わっていて、それが顕在化されることを待ち受けている、という風にも描き出せるか。悪くないイメージだと思う。
しかし、問題がないわけではない。みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。みんながサッカー選手として自己を実現してしまう? みんなが芸術家として自己を実現してしまう? (そういう想像が許されるほどには、サッカー選手や芸術家は、憧れの職業なのではないか。)もちろん、これでは社会は立ち行かない。誰が食事を作るのか? 誰がレフェリーを務めるのか? 誰がマネッジメントするのか? つまり、自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。
それでも、仕事があるだけましだ、というのが現実ではないか。失業という事態は、経済生活を破壊するだけでなく、自尊心を破壊する。失業手当が支給されればよい、という話ではすむまい。

そもそも、「自己実現」を、「ポテンシャル(潜在能力)の実現」と考えることが不適切なのではないか。例えば、私は、自分のやりたいことをやってお金がもらえる、という、恵まれた人生を送っている、と感じるが、それは「自己のポテンシャルの現実化」という風に描き出せることではおよそない。哲学するための何らかの能力が私にあるとは、これっぽっちも感じない。(哲学科に進んだのは、迷走の末、右往左往の中でのことでしかなかった。そもそも、哲学したかったのかどうかすら、怪しい。むしろ、消去法による選択だった。)
「自己実現」と言うのであれば、むしろ、「自己の欲望、欲求の実現」という風に考えるべきなのではないか。そう考えると、能力の実現と考える場合とは、根本的な変更を余儀なくされることになろう。能力であれば、あらかじめセットされていた(種子のような)ものとして考えることも不可能ではない。しかし、願望・欲求は、あらかじめ個人の内にセットされていたものではありえない。それは、社会的に ― 外部との関係の中で、外部から ― 受け入れられ、育て(上げ)られるもの以外ではありえまい。そう考えると、これは「自己実現」とはもはや呼ばれえないものだ。

◆]働を、自らの潜在能力の実現(現実化、具体化)として捉えること ― 自己実現としての労働、という考え方 ― は、個人主義的だ。ところが、労働は、今や、大きなシステムの中での活動でしかありえない。分業システムだ。そして、そのことで ― 歯車の一つになることで ― 全体の幸福に貢献する活動であること以外ではありえない。(ホネットに言われるまでもなく、労働の問題は、幸福について考える上で、一つのキーポイントをなす。喜びややり甲斐を感じてできることが仕事になることこそ、「幸福」の内実をなすのだ。だから、学者や芸術家は、幸せな人生を送っている(ように見える)ので、人々に人気の職種にもなりうるのだ。もちろん、「喜びややり甲斐」というのは曖昧な言葉であって、お金や承認だって、「やり甲斐」を生み出しうる。ただ「好きなことができているか否か」だけが、すべてを決するわけではない。)
(前衛)芸術家の創造だって、全く何の役にも立っていないと主張することは難しかろう。どういう仕方でか、それは「お役に立っている」のであり、お金が支払われるのであって、それは、彼(女)の活動の社会的価値(意味)が認められた、ということなのだ。つまり、労働は、社会という大きな単位への貢献なのであり、だからこそ、社会の側から正当に承認されねばならないのだ。
つまり、自己実現と承認という二つの理念の間には、一定の緊張関係が存在している、ということだ。役に立つ、というのは、どうしても、社会の側から測られることであるわけだが、自己実現は、個人の能力や欲求に基いて考えられざるをえないからだ。けれども、その際、個人の欲求とは、それはそれで社会的に媒介されているものなので、ただ自分の内側を凝視していたら見つかる、というものではない。
「社会への貢献」と言うのはよいが、その「社会」自体が、そもそも一枚岩ではない。3Kと言われたりもする仕事(例えば、トイレの掃除)が社会的貢献であるのと同様に、ほとんど誰も聞きたがらない現代音楽の作曲という社会的貢献がある。両者の間に価値の上下はない、と言うべきだろう。それをしたいと思う人が多くはない、という点も共通している。一方が、そのための職業教育を必要とせず、他方が幼児期からの大々的なそれを必要とする、という違いはあるわけだが。

資本主義という経済システムが成立するためには、規範的な前提がある、とホネットは言う。それは

  労働とは社会全体の幸福のための寄与・貢献である
 労働は、そのようなものとして公正に評価されねばならない

と分節される。労働者は、この前提に同意し、これを受け入れるからこそまじめに働こうとするのであり、仕事を提供する側も、また、この観点を共有していることになる。
(社会的な共属の意識が社会の構成員によって共有されていないような社会は内部崩壊する。税金を納める気持ちになるか否かもこの点に関わってくる。こんな社会、くそったれで、そのために頑張る気持ちになんて全くならない、というのでは、社会は成り立たない。外国に行ば必ず、自国に対して批判の視点を手に入れる、ということでも必ずしもない。上野千鶴子も言うように、外国に行って屈辱の経験を重ねたものだからナショナリストになって帰ってくる、という(自国では甘い汁を吸うことに慣れている)日本人男性は、ゴマンといるのだ。)
現実には、この前提を踏みにじる人はいる。しかし、それは規範からの逸脱なのであり、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるわけではない。もし、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるのだとすれば、この社会は犯罪者たちによって支配されていることになりかねず、まじめに働く労働者は、その哀れな犠牲者だ、という話になろう。
(能力・機能性(Effizienz)ということが唯一の評価基準であるのなら、例えば女性が労働市場においてハンディキャップを背負わされているという現実は、資本主義自体の原理・原則に反することになる。聞いた話だが、就活に際して、筆記試験の点数だけで順位づけをしたら、上位にはずらっと女性が並んでしまうのだという。だから、この結果に、点数以外の観点も加味されて調整がはかられ、男性有利の結果が生み出されることになる。(そもそも、今日、会社の人事部門のスタッフに、どれほどの女性が食い込んでいるのか。)
しかし、われわれの社会は、曲がりなりにも民主主義社会なのであってみれば、そのような少数者が支配する社会は成り立つはずがあるまい。そのような「少数派支配」説 ― 悪辣な資本家という少数派による、まじめで無垢な労働者という多数派の支配、という考え ― を奉じている人は、選挙の度ごとに、失望させられ、途方に暮れることになるだろう。
「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている、だから、後者は、資本主義に固有の、それに内在する原理・原則でもあるのであって、だからこそ、もし現実の資本主義がその原理・原則に反しているのであれば、内在的批判が可能になる、とホネットは考える。
これは、別の言い方をすれば、よい資本主義、正しい資本主義 ― 原理・原則を充たす資本主義 ― というものがありうる、とする考え方であり、資本主義をはなから悪者に仕立て上げる考えではない、ということだ。(ホネットは、システムと生活世界を対比するハーバーマスの考えを斥けるわけだ。ハーバーマスの区別には、経済と道徳の対比が対応するわけだが、ホネットは、経済そのものの中に道徳的要請が埋め込まれており、それなしには立ち行かない、と主張するのだから。実際、経済(学)をはなから蔑視するような倫理学(者)というのは、概して安易であり、傲慢だ。)
この問題は、内在的批判の可能性、という問題と関わる。あるシステムについて、それ自身が掲げる道徳的要請を充たすことができるか、という基準にもとづいて吟味することが可能であり、必要でもあると考えるのだ。そこでは、批判は、その要請が充たされていないこと ― 事実だ ― の指摘、という形をとることになる。こういう批判ではなく、外在的批判、超越的批判では、その社会の中で生きている人々の支持・賛同を得ることができない、という問題が出てくるわけだ。(ただし、アドルノは、必ずしも、内在批判一辺倒ではない。ミュンヒハウゼンのジレンマを言うのだから。)


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 いかがでしょうか。
 また、いくつかポイントがあるようにおもいます。

〇「自己実現」ということについて。
 前から正田はこのことでぶちぶち言っていましたが、それへの藤野教授の答えが書いてあって嬉しゅうございました。

「みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。」
「自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。」

 そうなんですよね。個人の自己実現の総和が幸せな社会になるわけじゃないんですよね。
 メジャーリーガーやオリンピック選手や研究者になれる人はごく一部です。もっと普通のめだたない仕事に就く人が圧倒的多数を占めます。で「承認教育」もその人たちのための仕事をしたい。

 藤野教授も書いておられますが、「マネジャー」なんかも思い切り「自己実現」から遠い仕事です。他人のことばかり関心を向け、自分で自分の仕事をデザインできることは少なく、プレイングマネジャーでもしょっちゅう自分の仕事を中断し、「いまいましい問題解決」に忙殺されています。

 わたしの最初の著書『認めるミドルが会社を変える』の中で、このことに触れて
「マネジャーは(承認教育を経て)自己実現より尊い成長をする」
という意味のことを書いたところ、コーチング業界の人から「ショックだ」という感想をいただきました。「最上志向」のある人だったので、自分の能力を最高に開花させることが人としての最高の幸せだ、と心から思ってはったみたいなんですね、その人は。

 ―ただ、「3K仕事」に職業教育が必要ないわけではないと思いますが―


〇ホネットは「よい資本主義」というのは「承認」がある資本主義だ、と言っているわけですね。(そういう理解でいいんでしょうか?)

「「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている」

 
 わたしなどは、このホネットのフレーズにすごく大きく頷いてしまいました。であれば、利益最大化だけを目指し人間性を踏みにじって成り立っているブラック企業などは糾弾されてしかるべきですね(既にそういう流れにはなっている)

 で、「承認の原則」が「道徳的な原則」とイコールのように文中でなっていますが、実はこれもわたしの実践の中での実感に近いので、いいのではないかと思いました。
 「承認教育」を施すと、それはほぼそのまま「道徳的/倫理的に振る舞うとは、どういうことか」について教育をしたのと同じことになってしまう。
 むずかしい倫理学をアリストテレスのころから体系的に学ばなくても、いいんです。
「何がこの場でこの相手にとって『承認』なのか」
「だれにとっての『承認』をこの場合、優先すべきか」
とっさに、こうしたことを考えるだけで、結論としては道徳的/倫理的な決断と行動ができます。過去、「業績一位」を作ってきたマネジャーたちは、普通にやってきたことのはずです。
 たぶん、マネジャーたちの日常行動だけでなく、経営者さんが「再配分」を考えるうえでも、役に立つ考え方でしょう。


 経済学の中に倫理を。ということに取り組まれている方も一部にいはるようですが、さてどうなるやら…。


 藤野先生、このたびもありがとうございました!


正田佐与



 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿 第三弾です。


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「ホネット承認論」講義(9)                                       30.11.2015
                                     
Axel Honneth: Kampf um Anerkennung, S. 212‐234、256‐287.

【1‐1】 ホネットは、その承認論を、自己自身との関係の毀損の問題として(も)論じている。他者との(承認)関係が失調することは、自己自身との関係の毀損ということと切り離せない。その意味で、「自己自身との関係」論でもあり、キルケゴール『死に至る病』に直接する。ただし、『死に至る病』における「自己自身との関係」の分析よりも、さらに具体的であり、より細やかだ。自己自身との関係の失調は、つまり、自己自身を信頼できない、尊重できない、(正当に)評価できない、という風な異なる現れ方をするのだ。(「自信の喪失」という問題は、第三の承認の毀損の問題として解釈できる。つまり、(自己自身に対する)不当な過小評価だ。劣等感という問題も、ここに関わる。)

【1‐2】 キルケゴールは、父から「お前は罪深い人間だ」という言葉を間断なく聞かされて育ったに違いない。しかし、「罪深い」というこの抽象的な言葉は、どのような経験的裏づけを見出したのだろうか。「そうだ、確かに自分は罪深い」ということを、キルケゴール少年は、どのようにして確認していったのか。
「自分はダメだ」と感じるということは、われわれの生において頻繁に起こることだ。しかし、それは、なすべきことができなかったりする自分の「弱さ」の確認なのではないか。意志が弱いとか、能力に欠けるとか。あるいは、してはいけないとわかっていることをしてしまう「悪い」自分の確認。しかし、「罪深い」という確認は、そのいずれとも異なるだろう。弱い自分でも、悪い自分でもなく、罪深い自分。『死に至る病』に従えば、神の観念が抱かれている、ということが、絶望の強度を罪へと高める。だからこそ、神に逆らう、という事態が起こりうるのであり、それが罪なのだ。

【1‐3】 自分を(他者を)信頼することだって、自分を(他者を)尊重することだって、自分を(他者を)評価することだって、(人間関係の中で)社会的に、骨を折り折り学習されていくしかないことなのだ。
そして、自己実現ということだって、個人が一人孤独に自己自身との関係の中に引きこもって成し遂げられる何ごとかなのではない。これもまた、社会的(評価)承認の網の目の中で行われる。

【1‐4】 「認める」という行為を、ホネットは三通りに言い換えている、と考えることが可能だろう。信頼する、尊重する、評価する、という風に。(Selbstvertrauen, Selbstachtung, Selbstschatzung をあえて訳そうとするなら、自信、自尊、自負ぐらいか。ただし、「自信」という日本語はむしろ第三の承認に深く関わり、「信頼」という意味は後景に退くように感じられる。あるいは、「自己自身との肯定的な関係」を全体としてカヴァーする言葉だ、と見るべきか。)
そして、それらの承認は、相互に(双方向的に)起こることだ、というのである。(評価については、一方通行にも感じられるが、評価される側でも、評価する側に評価能力を認めていなければ、評価という行為は成り立たない。評価基準は共有されているのであり、その意味では、一方通行ではない。だからこそ、ホネットは、この社会的(業績)評価という行為を、「連帯」の語で理解しようともするのでもあろう。)
その際、相手へのコミットメントの度合としては、愛における信頼が最も高い(深い)と見てよいだろう。尊重という行為には、どこか、「手出ししない」という、否定的(消極的)な語感がつきまとう ― あなたの権利は尊重します、あなたの自由は尊重します、という言い回しにおいて感じ取られうるように。(その点で、尊重は、寛容に近づく。)それに対して、性愛においては、われわれは、自分のもっとも弱い部分、傷つけられやすい部分までも相手にさらす、あるいは開くのだし、相手のもっとも弱い部分にまで踏み込むのだ。それは、相手への深い信頼なしには成り立たない出来事だ。逆に、強姦というような経験によって、女性は、他者(男性)に対して信頼して心と体をゆだねることができなくなるだけでなく、自分自身の身体への信頼をもまた失い、安心してそれが感じるに任せることもできなくなるのだという。(快原理のみで性愛を説明しようとするならば、それは生物学主義的に一面的だ、と言わざるをえない。)
だからこそ、われわれは ― すべての人を人として尊重しなければならないし、また、そうすることができるのに対して ― すべての人を愛することができないのでもある。稀有のことだとは思うが、一人の人しか愛さない、一人の人にしか愛されたくない、ということが起こりうるのだ。

【1‐5】 他者を信頼し、他者から信頼される経験を通してこそ、人は、自らを信頼することができるようになる。他者を尊重し、他者から尊重される経験を通してこそ、人は、自らを尊重することができるようになる。他者を(公正に)評価し、他者から(公正に)評価される経験を通してこそ、人は、自らを(公正に)評価することができるようになる。
自分を公正に評価する、というのは至難の業だ。自己を知る、とは、自己の事実(昨夜どんな夢を見たか、とか、とか、マスターベーションの際に何を想像したか、とか)を知っている、ということだけでなく、自己を評価できる、ということをも含むだろう。前者はともかくとして、後者は、一人でできるようになることではないだろう。他者に評価され、他者を評価するという経験の積み重ねをも必要とするだろう。それなしの自己評価は、概して、過大評価になったり、過小評価になったりせずにはすまないのではないか。

【1‐6】 自己実現なんて、どうでもよい、とカントやハーバーマスが言っているのではない。とても大切な話題(課題)ではあるのだが、倫理学が引き受けるべきテーマではない、と彼らは考えるのだろう。公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとするわけだ。
 もちろん、ホネットも、自己実現に、内容的に口出ししようとするのではない ― 自己実現の可能性の条件(文法、と呼んでもよいか)を確定することを、課題とみなすのだ。そして、その作業を、承認に注目することで、やろうとする。社会的(業績)評価、人権尊重、愛、この三種類の承認が、歪められることなくフェアに実践される可能条件が整っているとき、ようやく、自己実現も可能になる、とそう考えるのだ。

【2】 「承認依存」ということを、鬼の首を取りでもしたかのように叱りつける人々がいる。それに対してホネットは、「人間は、本質構成的に、他者による承認の経験に依存している」(220,224)とさらっと言ってのける。もちろん、そう言うホネットの方が優しい。
もっとも、そこから、人間に本質構成的に伴う「依存」と、病理的「依存」を区別する、という課題が出てこずにはすむまい。
それは、ホネットが、他方で、「自律」の理念を手放さない、という事実とも関わっている。人間は、自律と依存の間できわどくバランスを取りながら生きているときにこそ、もっとも人間的なのだ、と言うべきなのかもしれない。(依存を叱りつける人に対しては、スーパーマンのように自律している(と思い込んでいる)人こそ、病理的なのだ、切り返せばよいだろう。)

【3】 「コミュニケーションとは承認をめぐる闘争だ」と言ってしまった手前、コミュニケーションとは何か、という問いを避けて通ることはできない。それは複数の主体が合意形成をめざしてなす間主体的な実践、という風に描き出せるものか、そうではなくて、「承認をめぐる闘争」なのではないか ― そうホネットは問題提起しているわけだ。コミュニケーションに臨む態度としては、前者こそ、正しい態度なのであって、後者はあるべき姿からの逸脱だと、そう言えるか。そうではなく、人間として生きることとは、闘いの中に身を投じることだ、などと言ってしまうと、それは野蛮なヒロイズムか。なにしろ、闘いは必ず敗者を生むのであり、そうでない闘いなんて八百長なのだから。そうではなく、人生とは(他者と)つながろうとするいじらしい努力こそ、それなのか。
後者の答えは、やはり、人生を一面化していると思う。それも、ロマン主義的に。その際、「人生=つながりの追及」という解釈に強力な支持を与える経験が、「愛」であるわけだが、まさにそうであるからこそ、ホネットは、愛の経験をすら、いやそれをこそ、「闘争(承認をめぐる)」と特徴づけるのだ。愛の伝道者には、お引き取り願おう。愛するとは、認められよう(愛されよう)とするいじらしい悪戦苦闘なのであって、それがかなわない苦しみは「片思い」と呼ばれる。(この文脈で、コミュニケーションの理論家であるルーマンが愛について何を語っているかという問いには、とても興味をそそられる。)

【4】 承認の三つのタイプのうち、資本主義ということに最も深く関わるのが業績評価であることは、一目瞭然だろう。資本主義社会では、フェアな業績評価が、なぜ構造的に歪められ、妨げられてしまうのか ― これは大問題だ。
 それに対して、「愛」という承認は、近代化において一定の解放をみた、と言えるだろう。イエとイエの契約としての結婚から、個人と個人の恋愛へ。しかし、そこでも、現代の資本主義は、核家族・専業主婦という関係を行き渡らせることで、承認を歪める力を行使しているのだ。
その点、人権の尊重は、近代社会と最も親和的だ。近代の理念は、この型の承認とは問題なく両立するだろう。


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 今回も沢山の「論点」が出てきました。
 以下、思いついた順にわたしの感想を…。

【1-5、1-6】 「自己実現」の用語がもう一度出てきました。
 この語についてWikiを参照すると、
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE
「もともとは心理学の用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で脳病理学者でもあったクルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein) が初めて使った言葉。(略)ゴルトシュタインがナチの迫害を逃れてアメリカへ渡った後、「彼の教え子の一人カール・ロジャーズが、これを、人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きることとして概念化し、これをもとに「健全な人間は、人生に究極の目標を定め、その実現のために努力する存在である」としたことで、この言葉が世に知られるようになった。」(太字正田)
 とあります。ゴルトシュタイン―ロジャーズのリレーで形成されたそうです。その後マズロー先生が使用されたそうです。ふーん。
 この文章に限っていうと、「健全な人間は、人生に究極の目標を定め」ってそんな高級な人はどれほどいるんでしょうね?やっぱり先生方、自分自身のことを言ってないでしょうか。いやこれは藤野教授のことじゃなくゴルトシュタイン、ロジャーズ、マズロー先生のことですけど。あたしが低レベルすぎるんですか。
 そこまでは言わなくて、「成長する喜びを知覚しながら仕事をする幸福感」というのなら、「あり」だと思うんです。「脳は貪欲なまでに成長を求める臓器」といいますから。そこでは、上司やお客様、周囲の人の反応がやはり自己の成長の指標となります。

【1-6】自己実現は、倫理学が引き受けるべきテーマではないとカントやハーバーマスは考えた。彼らは、公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとした。
 いいんじゃないですかね。わたしは心理学(自己啓発セミナー関係を含む)の世界の、セミナー行って自我がブワーッと膨れあがったようになった異様な人をここ10数年、見続けてきました。一度そのような人工的なナルシシズムのような状態になった人にたいする解毒剤はないのです。往々にして富裕層がそういうセミナー行くんですけどね。だから自己実現なんて、煽らんでよろし。「公正な社会」のほうがはるかにすきです。
 

【3】コミュニケーションが合意形成をめざしてなす間主体的な実践なのか、それとも承認をめぐる闘争なのか。あとのほうだと考えると、TVの討論番組などをみている時におもしろいです(あんまり見ませんが)

 しかしこのブログで2010-11年に取り上げたU理論のように、延々と対話をすることによって合意形成をしましょう、という一派の人がいらっしゃり(ハーバーマスはそれの親玉のようだ)、「闘争」と言い切ってしまうと身も蓋もないではないか、という反論もあり得るでしょう。
 そこは、ホネットとハーバーマス不一致点なんでしょうか。


【1-4】認めることの定義の1つとしての「愛」。
 確かに藤野原稿の中にもあるように、性愛は、「認めて欲しい」という感情のもっとも強烈なものだ、と思います。はい。
 たぶんそれがそこまで強烈なのは、種の保存の必要上そういうふうに本能がプログラミングされてるんだと思うんですけどね。性的マイノリティの方々つっこまないでくださいね。近年ではスマホやゲーム、ITのツールのほうがそれを上回るドーパミンを分泌させてくれるので、困っていますね。
 ただやっぱり「愛」ってそれ以外のものもあるでしょう、と妙にそこに拘ってしまうわたしです。
 例えば現役マネジャーから、「部下をあえて『叱る』とき、そこに『愛』がなかったら、やれないですよね」という言葉が出るとき、それを否定できないわけです。
 でやはり、マネジメントの世界では、ひょっとしたらホネットも想定しなかったような、家族よりはやや薄い「親密圏」が「承認」によってつくられるのであり、それは外集団と比べれば依怙贔屓と言えるかもしれない。よその部署の部下はうちの部下ほど可愛くない、なんてことは普通にあるかもしれない。ただ「内集団」の中では公正さを重んじないと運営できないでしょう。それを欠くと深刻なダメージが起きる、これは一度経験してみると身に沁みてわかることだろうと思います。
 
【3】「『愛の伝道者』には、お引き取り願おう」だって。えーんえーん。


 わたしが「愛」にこだわるもう1つの理由として、今日フェイスブックでみたアインシュタインの「愛」に関する言葉があります。
 アインシュタインが娘に宛てた1400通の手紙のうちの1通が「愛」に関するものだそうです。
 http://ameblo.jp/deguchng/entry-12100122049.html
 (出口弘オフィシャルブログ 2015年11月27日)

 ここでアインシュタインは上記のブログからの孫引きで恐縮ですが、

 「愛」のもつチカラを述べるとともに、

 「恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。」


 この言葉、21世紀を生きるわたしたちはちょっとロマンを感じませんか?


正田佐与
 


 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)より、「ホネット承認論」についての新しい講義原稿をいただきました。
 昨23日、祝日にも関わらず授業があったとか。ご苦労様です。


 講義原稿は、出版された本に比べると完成度の低い粗削りなものかもしれません。しかしカント・ヘーゲルの時代の哲学者というのは1日5〜6時間講義をしていて、思想の大半は講義の中にあって、出版されたものはそのほんの一部だったそうです。

 というわけで「承認論」の「いま」を映す貴重な資料として、このたびも掲載させていただきます(引用を太字表示):


「ホネット承認論」講義(8)                                     23.11.2015

Axel Honneth: Kampf um Anerkennung, S. 173 – 210.

今回のテーマは、承認の第二のタイプ「人権尊重」と、第三のタイプ「社会的業績評価」である。

【1】 基本的人権とは、どういうことか。それは、どの程度、「基本的」なのか。たとえば、江戸時代の日本には、「切り捨て御免」などという言葉があった。武士が百姓を切り捨てても(殺しても)、罪を免じられたのだ。これでは、平等もへったくれもない。「殺されてはならない」とする権利は、間違いなく基本的人権だ。しかし、そこからさらに「政治参加の権利」 ― これまた「基本的権利」だろう ― までは、なお道遥かだ。

 ホネットは言う、「個人が、理性的洞察に基づいて自律的に行為することを可能にするもろもろの特性には、(そうこうするうちに)今や、最低限の文化的陶冶と経済的安定ということが付け加わったのである」(190)。人を人として認める、ということには、人にこの最低限を保証するということが含まれる。それなしには、「人を人として認める」と言ったって、それは「絵に画いた餅」にとどまるのである。「人を人として認める」ことの実質化、と言ってもよい。だから、ホネットの承認論には、再分配問題は、もちろん、含まれているのである。
 人を人として認める、という場合、その形式を整えるだけではダメなのであって、そこに実質を伴わせなければならない。法の整備で一件落着、ではないのである。

近代になりさえすれば、人権尊重をめぐる「闘争」は終結した、ということではない。誰を人として認めるか、をめぐる闘争は継続されたのであり、今も継続中である。「近代」について語るとき、まるで「士農工商」が一夜にして「四民平等」に変わったかのように考えるのは、安易だ。確かに、「平等」は、近代の原理ではある。しかし、原理に過ぎないのではあって、一夜にしてすべての人が人として認められるように変わったわけではない。平等への歩みは、ものすごく「徐々に」進んだものであったに違いない。それは、選挙権を考えるだけでも、明らかだ。最初は、多くの税金を払うほんの一部の男にしか、選挙権は認められなかった。近代が16世紀に始まった、と言われることと、女性に参政権が認められるには20世紀を待たねばならなかった、という事実の間には、大きな隔たりが口を開いている。それに加えて、人を人として認める、という場合には、生物学的にヒト科に属していさえすれば、誰もが「人格」として認められるのか、という問いも、絡んでくるわけだ。

人を人として認めることは、厄介な問題をはらむ。殺人ということとも関わってくる。人間がどういうあり方をしているとき、その人間の命を奪うことは殺人になり、殺人にならないのか。この問題を論じる際に投入される概念が「人格」だ。(人格という言葉は、物 ― 物格だ ― との違いを際立たせるために用いられる。)具体的には、胎児の命を奪うこと、妊娠中絶は、いつから殺人になるのか、という問いとして、現れる。逆に言うと、胎児はいつから人になるのか、という問いだ。
これは、どこかに正解のある問いではあるまい。社会的に合意形成がなされる問いだろう。(これは、自然科学の問いではない、と言ってもよい。)人を人として認める、とはどういうことか、ということに関する合意が社会的に形成されるのだ。そして、これに関する見解は時代によって変化する。(ライヒ・ラニツキが紹介するエピソードからわかることは、かつて、ユダヤ人は人間と動物の間に位置づけられていた、ということだ。ユダヤ人は、十全には人間として認められていなかった、平等な人間とは認められていなかった、ということだ。この第二のタイプの承認は、平等の理念と深く関わっている、ということだ。)

人を人として認める、という問題は、差別の問題と密接に関わっている。というのも、とりあえず、人と認めるが、しかし、一級市民、二級市民という差はつける、ということはあるからだ。そもそも、人として認めない、というのは、とても極端な例だ。胎児や重度障害者を人として認めないというのは、それらの存在を殺すことを正当化するための論理だ。しかし、そこまで極端でなくても、人を二級市民としてしか認めない、ということは、ごく日常的になされている。そして、それは、第三の型の承認とも地続きである。例えば、私が職業(身分)とか明かさずに人前に立てば、ただの「冴えないオヤジ」だが、職業を明かすと途端に、微妙にではあるけれども、相手の態度が変わる、ということはある。そして、それと同じ経験を、18〜22歳の日本の若者は、大学名を明かすことで普段に繰り返しているのに違いない。この事情を、日本語では、「勝ち組」「負け組」という言葉で表現する。私は、自分が大学受験における勝ち組に属することで傲慢になることだけはなんとしても避けたいと念じて生きてきたが、しかし、その事実が私に精神的安定をもたらしてくれてきたことは、否めない。その点では、私は、お気楽に生きられたのだ。
日本は、入学した大学が何大学であるかということが、社会的評価基準としてとてつもなく大きな意味を持つ、いびつな社会だ。(日本は、学歴社会というよりは、大学名社会なのだ。)なぜ、いびつか。所詮、18歳時点での一事実にすぎないものが、それ以降の人生にわたってまるで挽回することがもはや不可能に感じられるほどに、決定的な意味合いを持つからだ。
それは、18歳までの勝負が不当に重い意味を持つ、ということであり ― だから、日本の子供は不幸だ、と言ってよい ― 逆に言うと、18歳以降、とりわけ、18−22歳の時間が、ほとんど勝負の時間にならない、ということでもある。モラトリアム、とはそういうことだ。本当は、18−22歳の4年間というのは ― 就活だけでなく ― とても重要な勝負所ではないのか。

「社会的価値評価」というのは、社会的に、時代的に相対的な事柄だ。評価基準は、時と所で異なり、変化する。(だからこそ、「イデオロギーとしての承認」という問題が、ここに露わになってくるのだ。)
「(入学した)大学名重視」社会ということも、一つの例だが(高田珠樹論文、参照)、もう一つ、具体例が考えられる。かつて、私は、時代が進歩すれば、外見(美醜)ということは重要性を減じていくだろう、と予想していたのだが、現実は、逆に進んでいる。むしろ、物質的に豊かな社会になればなるほど、外見、装飾の意味は大きくなる。心をみがくことは容易でないが、体をみがくことならすぐにできる、お金さえあれば、とでも言わんばかりだ。
かつて、われわれは、能力主義社会というものを批判しようとしたのだった。今は、この言葉はほぼ死語と化しているのではないか。それほどにも、能力主義は当たり前のこととして受け入れられてしまっているのであり、問題の焦点は、どのような能力が伸ばされるべきか、という、能力主義内部での差異化に移ってしまっている。われわれは、能力主義に変わる代案を提出することに失敗してきたのだ、と言わねばならない。

【2】 承認、という理念と、現代が個人主義の時代である、という事実は、どう両立するのか、という問いが立つだろう。というのも、承認という行為は、他者の存在を前提とする(必要とする)のであって、少なくとも(承認する人、される人という)二人の人間が価値観を共有していなければ承認は成り立たないからだ。そして、現実には、承認とは、やはり、広く社会的に承認される、ということであるので、そこでは、広く社会的に価値観が共有されているということが前提されているのだ。(ホネットが、社会的評価という第三のタイプの承認を、「連帯」という言葉でも捉えようとするのは、つまりは、「価値観の社会的共有」というこの側面に注目するからだろう。)
さて、しかし、現代は、個人主義の時代である。一人ひとりの人間が自己実現をめざすわけだが、そこで実現されること、達成されること ―実現されるべき自己 ― は、常に、社会によって、人々によって、他者によって評価・承認されねばならないのだろうか。誇張して言えば、反社会的行為によって自己実現する、ということだって、十分ありうるのではないのか。その際、反社会的行為といっても、必ずしも、犯罪行為であるとは限らない。社会によって共有される価値観をはみ出したり、超え出たりするような行為という意味で、反社会的行為ということが、十分に考えられるはずなのだ。
つまり、社会への貢献、ということでないと社会的には評価されないわけだが、しかし、今現に存在する社会に貢献することなどまっぴら御免、ということでありながら、しかし、意味ある行為、というものはあるはずではないか。
誰からも認められない自己実現、それは苦しいものだろう。ニーチェ、ゴッホ、、、そういう例は、私が知らないだけで、歴史には無数に存在するに違いない。
承認論に、(私も含め)多くの人が抱く Unbehagen(違和感、居心地悪さ)というのは、この点に関わってのことであり、つまりは、第三の型の承認に関わってのことであり、そこに体制への迎合の気配、現存する社会の価値観へのすり寄りの気配が嗅ぎつけられるからなのだろう。

問題は、人間が社会的存在である、とはどういうことか、という点にある。一人では、個人ではサバイバルできないから、他者との協力関係に入らざるをえない、ということが、人間の社会性ということの意味なのか。
社会理論を労働に注目して推し進める、とは、つまりは、協働と分業に注目して社会理論を展開する、ということだ。(ホルクハイマーが「哲学は社会哲学であらねばならない」と主張したときに考えていたことは、経験の可能性の条件を問う「超越論的」というカテゴリーを「社会的」と読み替える、という提案であったわけだが、これは、「言語」の問題とも関わるとても大きな構想だった。)けれども、上に「協力関係に入らざるをえない」とも書いたように、この意味での社会性というのは、否定的な色調を帯びずにはすまないものだ。できることなら、そうせずにすましたいものだが、という気味を伴う。個人の自由をこそ第一の価値とみなす個人主義者・自由主義者にとっては、社会性というのは、できれば「なしですましたいもの」、最小限化したい性質だろう。ということは、労働に定位する社会哲学は、ある意味で、社会性を否定する社会哲学になりかねない、ということであり、戦後のホルクハイマーにはその傾向が顕著なのだ。
そこにハ−バーマスが現れて、修正をはかる。社会性を、相互行為、コミュニケーション行為に定位して解釈しようとするのだ。(社会性、ということのメディアは、やはり、コミュニケーションなのではないか。経済のメディアがお金であり、政治のメディアが権力であるのに対して。その点では、ハーバーマスもルーマンも、そしてホネットも見解を一にしているのではないか。)
コミュニケーションというのは、肯定的な響きを持つ言葉だ。労働とは違って、「嫌々そうする」という風には考えにくい。(ただし、労働だって、本当は、価値の生産・創造という意味で、肯定的な実践であったはずなのだが。現実には、嫌々なされていることが多いとしても。)だから、コミュニケーションに定位する社会哲学には、どうしても「肯定」的な気配が漂う。そこには、闘争という含意は弱い。だからこそ、ホネットは、人間が社会的存在である、とは、承認をめぐって闘う存在であることに他ならない、という点を強調し、そこから社会理論を展開しようとするのである。(でも、考えてみればコミュニケーションだって、「承認をめぐる闘争」ではあるわけだ。ホネットは、コミュニケーションが「承認をめぐる闘争」に他ならないことを明らかにしているのだ、とも言えるだろう。)



 いかがでしょうか。

 第2パラグラフは、「承認」に以下のような切り口があることを想像させます。

1)法的承認(基本的人権)
2)経済的承認(再分配)
3)精神的承認―正田が研修でやっているのは主にこれです

―ホネットとナンシー・フレイザーの論争本のタイトルにもなっている「承認か再分配か?」というフレーズは、「3)か2)か?」と言っているわけで、ほんとはナンセンスなのです。―

 ここでは、「自己実現」という語も出てきますが、「自己実現」ってそもそもどういうことを意味するのでしょうか…これまでの講義の中にあったでしょうか…この問題は、マズロー先生も全然当てにならない。よくいうように、「自己実現」を称揚するマズローの代表的著作『人間性の心理学』で例示するのはリンカーンとかエジソンとか、特殊な人たちだから。ここで言っているのはちょっと違うニュアンスのようです。どなたが最初に言った言葉なんでしょ。

 ハーバーマスの位置づけも出てきますが、スケールの大きい思惟ですがやはり技術屋にはあんまり縁のない人かな…。(いやいや、もっとちゃんと読みなさい。)ホネットとハーバーマスは、双子のようにお互いの言ったことはほぼ是認しあっていて、それを踏まえて重ならない分野を論じているようにみえます。

 最後の一文、

コミュニケーションが「承認をめぐる闘争」に他ならない

 このフレーズは秀逸ですね。(ほんとにホネット自身にこういうフレーズがあるんですか?)

 ここで言う「コミュニケーション」は宣伝広告活動とか、政府広報とか、もそうでしょうし、何かを言うこと書くこと描くことSNSで発信すること、すべてが入るでしょう。
 たとえば格差問題や、社会的弱者の人が声を上げる行為もそうです。

 少し極端な例で言えば、確かにわたしがよく出会う「マシンガンスピーカー」の方々は、「オレを認めろ!」という強い承認欲求に動機づけられているようにみえます。そんなに闘わないでくれよー。またネットのどこかのスレで「ああ言えばこう言う」の下らない揚げ足取り議論をしている人も、高齢者でさえも、強い承認欲求の塊のようにみえますよ。(あ、承認欲求の悪口言っちゃった。^^;)



 藤野先生、このたびもありがとうございました!

尚東京方面の読者の方に朗報です!
朝日カルチャーセンター新宿教室で来年1-3月、藤野教授による講座「キルケゴールからホネットへー自己自身との関係と他者による承認」(3回)が開講します。
詳細は
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/8cb98e00-f391-698b-1d36-562e1257ad9f
にて。


正田佐与


 気がつくと今日は勤労感謝の日。
 読者の皆様、いい骨休めをされていますか。

 正田は先週末、お客様にお電話したところ色々収穫がありました。今年前半に「承認研修」を受けてくださったお客様3社。

 3社様とも、「フォローアップお願いします」というお話になり日程やプログラムのお話をさせていただきました。このブログやメルマガはこのところ「思想」づいていますが、それはマイナス点にならなかったよう。

 このほか、研修後の受講生様方と組織のご様子を伺うことができました。

「人に任せるという点で難のあったリーダーが、今は任せることができ、上手く組織が回っている」
というお客様。
 
「新装オープンのお店が大賑わいのほか、新しく人が3人入った」
というお客様。このお客様のところでは人材の供給源である専門学校と上手く連携ができ、専門学校からは「あそこに行った子は学校時代よりもいい顔で働いている」と評価されているそうです。

 またもう一社様では、
「概ね良好なのだがスタッフの妊娠が続けて3人わかり、人繰りでバタバタしている」。

 それは大変…。
 前にも触れたと思いますが以前から、「承認」のお客様のもとでは社員さんの結婚、出産、といったイベントは多いです。それがもとで優秀な女性スタッフが残念ながら「寿退社」という事態になることも、珍しくありませんでした。

 (そこは辞めずに残ってくれよ、と思いますが、もちろん慰留はしているわけですが、女性の「責任感が高い」という資質は、「両立はムリ」「中途半端はイヤ」という決断にもつながってしまいやすいようです。男性の育児参加が望まれるところです)


 まあ、「承認」の定義の1つの大きな要素として「愛」が入っているので、そういう現象も今はわからなくないのです。職場が愛や信頼という気恥しくなるようなものに満ちたところであると、プライベートで異性(同性?)を愛したりパートナーを愛したり、ということにも自然とつながります。映画「マイ・インターン」にもそれを匂わせるシーンがありました。

 先日の藤野教授との対話の中で、

「これまでは研修の仕事の中で『愛』という言葉を表立って使ったことがないんです」

「それは使わないほうがいいでしょう」

という話になったのですが、
 一方でこのブログのタイトルは10年前から「愛するこの世界」です。何を企んでいるかバレバレ、であります。

 たしか10年前、突然「降りてきた」ように、このタイトルが頭に浮かんだのです。大丈夫かなあたし、と思いながら、それまでのタイトルから変更してしまいました。

 (一方で最近、気がつかれたかもしれませんが、「コーチ」の単語をとり「正田佐与の愛するこの世界」としました。) 


 先日は、加東市商工会様での3回研修の中で、1回目に「承認の定義」を掲げたときにはまだ、「愛」を含む「ホネット承認論」を入れてませんでした。
 そこに触れずにマネジャーたちに「承認」を実践してもらい、3回目になってから「ホネット承認論」の講義を入れました。


 経営者様方、社員様が「人を愛する主体」であったほうがいいですか、ないほうがいいですか。

 ホネットや藤野教授は、家族以外のところに「愛」を適用するのに反対の立場です。
 しかし、わたしが思うにここが学者さんと企業のマネジャーの立場の違いで、部門を束ねるマネジャーは研究の世界よりはるかに部下との「一体感」が必要になります。疑似家族のような磁場をつくります。

 そこに「濃淡」が出ないように、また「不適切な関係」にならないように、クギをささないといけませんね。藤野教授ともそういう話になったのでした。

 録音起こししなくちゃ・・・。




正田佐与

 このところ嬉しいお出会いが続きやりとりをさせていただいています。


1)ヘーゲル研究書の『承認と自由』の著者である札幌大学の高田純(まこと)教授(西洋哲学、環境倫理学、教育哲学)からいただいたメールへの正田からのご返信。

高田先生、思いがけず、ご丁寧な温かいメールを頂戴し、感激しております。社会思想史学会でお出会いさせていただいただけの素人学習者に嬉しいお言葉を有難うございます。

私は今年に入ってヘーゲルを起源とする思想としての「承認」を理解したいと学びはじめ、
幸いにも先生の御本『承認と自由』に出会わせていただきました。
ヘーゲルの年譜とともに思想の変遷、発展がわかり、大変助けになる本でした。
高田先生が徹底した原典の読み込みとヘーゲルの懐に入った理解に基づいて初学者への親切なガイダンスを書かれたことも、素人には伝わってくる御本でした。

(ご献本させていただいた)拙著は昨年時点のものなので、まだヘーゲルの学びは入っておりません。
それでも、無意識のうちに、先達の方々の「承認」に込めた思いを汲み取ってすすんで来させていただいたのではないかとひそかに自負しております。
私の段階での課題は、どうやってこの大きな思想を、特別哲学倫理学の素養があるわけではない企業のマネジャーたちに、無理なく実践レベルで共有してもらえるか?にあります。
「行動承認」は、その試行錯誤の中で生まれてきたものです。

先生が見事に看破されたように、「行動」を承認するということは相手の意志、気持ち、アイデア、意見等を承認するということとイコールです。実践の中では自然にそのようにつながってまいります。また、ホネットが危惧したような、「属性の承認」によって差別を固定化させるというような負の現象も、「行動承認」ですと無理なく回避することができます。
多分これは思想のスケールの大きさに比べれば現場での「小技」のようなものなのですが。


―高田教授は、北海道哲学学会会長を務めるなど斯界の重鎮のお1人です。風貌や空気感は、それこそ「市井の素朴な哲学者」というもの。痩身で、ひょうひょうとした雰囲気の方です。


2)1つ前の記事にある、講義原稿を送ってくださった一橋大学の藤野寛教授に宛てたメール。

大変お世話になっております。
正田です。
藤野先生、あれから、録音起こしがなかなか進まず
先生に申し訳ない気持ちでおりましたところ、
メール有難うございます。救われた気分です。
講義原稿、拝見させていただきました。貴重なものを有難うございます。
こういう風に先生は講義原稿をお作りになるんですね…。
(大学の先生の講義録も、初めて拝見しました。)

終わりまで読ませていただきましたら、
経営学の中の承認法という現世の垢にまみれたものを、

「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。

このように位置づけてくださったようで、
とても光栄です。

先生の講義原稿の中にもありましたように、
ハーバーマスについては、私もいささか不満に思うところがあります。
「コミュニケイション行為」「討議倫理」をいくら読んでも
(まだまだ浅い読解とは思いますが)
私どもが現場でジタバタしているような、
「こうすれば問題が起きなくなる(最小にできる)」
という、ああでもないこうでもないという思考と重なってこないので、
歯がゆいのです。
そんなに現実問題の解決と遠いところに身を置いていていいのか?
と思います。
それに比べると、ホネットのほうがもう少し現実界に近く、
親近感が持てるように思います。
(子供レベルの感想と聞き流してくださいね。)


「承認依存」にまつわる議論についても、
今まだこの件についてギャーギャー言っているのが
ほとんど私一人(ともうお一人)のようなものなので、
こうして位置づけていただけることを心から有難く思います。



それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

 ここもなるほど!と思いました。
 そうです、「愛」が位置づけられていないのです、というのは、経営学全体もそうですし、最近も某有名大学の「フィードバック研究会」において、私は出席していませんでしたがそこで取り上げられた論文を紹介されたところによると、「フィードバックによって人は改善される、あるいは場合によってされない」の議論の中に「愛着関係」の要素が全然入ってこなかったので、こういうことをわざわざ取り上げる必要があると思う研究者さんがいないんだな、と思っていたところです。
 藤野先生の言葉でこのように概観していただくと、腑に落ちますね。なぜ「承認論」を私も10年も取り組んでこれたかわかる気がします。


 実際の講義にはこの原稿にもっと枝葉がついていたのでしょうか。聴講できた方々が羨ましいです。

 手前味噌ですがわたくしのしている「行動承認」は、「承認論」に心理学の「行動理論」をドッキングした改良品のようなものです。単純なものなので世界には同じようなことを考えた方がいるのではないかと思います。この方法だと「属性の承認」が差別につながるというような、予想される弊害をほぼ回避でき、非常に安定して実践してもらうことができます。
 ホネット自身がそこまで考えなかったというのはちょっと意外な気すらしますが、そこまで懇切丁寧に現実にコミットする必要はない、と考えていたのでしょうか。


批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。

 このフレーズもいいですね。ホネット自身が何と言うか、きいてみたい気もします。



 藤野教授のお会いしてみた人となりというのは、文章から想像する雰囲気よりは「かたい」感じ。批判、懐疑、など人を寄せつけない感情の働きを外側に感じさせるけれども懐に入ると温かい感じ。そしてそもそものお出会いがジェンダー論のリレー講義の論考集であったように、女性に対して特別馬鹿丁寧ではないけれども配慮があり、一切の「不敬」が入りこまない方であります。



 拙著『行動承認』は、あまりやたらと色々な先にご献本していません。内容が愛する教え子さんたちの汗と努力の結晶なので、「実践」「成果」の価値のわからないタイプの人に手渡したくないのです。

 「承認研究」の先生方には、わかっていただけたみたいです。

  たぶんわたしの「承認研修プログラム」も影響し影響されることによって、少しずつ変わっていきます。


 きのうで、一般財団法人承認マネジメント協会は解散しました。
 今日からは個人ということになります。


正田佐与

 一橋大学の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、今年度開講している「ホネット承認論」の講義原稿をいただきました。今週月曜(11月16日)の講義で使用されたものです。

 大学の先生の講義原稿というもの不肖正田はみさせていただくのは初めてです。
 同教授によると、

「私は書くことが好きで、
 また、書きながらでないと考えられない、
 ということもあり、
 講義では、常に、長短いろいろですが
 原稿を用意して、それにコメントしながら話す、
 というスタイルを採っています。」

とのことでした。なので実際の講義はこれにもう少し枝葉をつけた形で行われるようです。

 ISの台頭など今まさに激動する世界を視野に入れた「新・ホネット承認論」であり、また一部は
「正田さんと成田さん(先日の社会思想史学会での発表者)からの刺激に対するリアクション」(藤野教授)
と言われるように、当方が経営学・マネジメントの分野でしている”技術屋仕事”についても触れてくださっているくだりもあります。光栄なことであります。
 本当は全文こちらでご紹介したかったのですが、同教授が固辞されたので、全文ではなく例によって「大幅引用」の形でご紹介させていただきます。
 今回の原稿は全体が3つのパートに分かれていまして、パートごとにご紹介していきたいと思います。

※なおこの記事では、引用部分を太字で表示します


「ホネット承認論」講義(7)                               16.11.2015

《承認論の中間整理》
 なぜ、今、承認か。この問いへの答えは、Ch.テイラーが与えてくれている、と考えるのがわかりやすい。つまり、集合的属性の承認ということが、まさに、この「国境を越える移動(空間的にも、情報的にも)の時代」に、とても重要になってきている、ということと密接に関連している。
(イスラム国に、ヨーロッパで生まれ育った若者が大量に馳せ参じている、という現実は、再分配の問題としては説明できまい。彼(女)ら自身は、結構、学歴もあり、豊かな生活を送ろうと思えば送れる人たちなのではないか。そうではなく、自分たちがふさわしい承認を受けていない、ふさわしい処遇を受けていないという、屈辱の思いこそが、彼(女)らをイスラム国へと追いやっているのではないか。)
 そこには、「個人主義と普遍主義がセットになった尊重(というカント的な承認)」では、人々の承認欲求が満たされない、という事情があるのではないか。
 もし、カントの原理が、近代の原理である、と言えるならそこでは、「ポスト近代(モダン)」とでも呼ぶべき状況が出来していることになる。近代の原理(個人主義と普遍主義の合金)が批判にさらされているのである。
ちなみに、この問題は、アイデンティティをめぐる問題として考えることも可能だ。というのも、近代の個人は、普遍的な一つの価値の体現者として、安定したアイデンティティを享受できていたからだ。もちろん、社会の中に個人は常に複数いるわけだが、一人ひとりの個人は、その個性には目をつぶる仕方で、一個の個として尊重される。個性を重視することは、差別にならずにはすまないのだが、そのことはごまかされえたのである。ところが、それとは違って、特殊という属性に注目し始めると、それは必ず複数存在するので、分裂が生じずにはすまなくなる。中世において共同体に属することは、一つの安定したアイデンティティの確保を意味したわけだが、現代においては、それはアイデンティティの分裂を意味することになる。複数性の出現だ。
個人の尊重、だけではなく、集合的属性の承認を ― これが、新たな状況を一言で言い表わすキャッチフレーズだ。
 そこから振り返って考えるに、これまでだって、「2.普遍的人権の尊重」は謳われていたわけだし(模範的には、カントの尊重の倫理)、「3.フェアな業績評価」も、それこそ資本主義の中核をなす原理だ。(家柄の否定、男女差別の否定 etc.)
だから、テイラーがあぶりだした承認には、2と3の承認だけでは、問題は片づかない、ということを明らかにした点にこそ、貢献があるわけだ。さらにそこから、特殊性の意義を取り出し(共同体主義)、普遍主義を相対化することを通して、1の承認、つまり、愛ということをも承認の問題として捉えることを可能にした。これは、普遍的承認の対極にあるものだ。しかし、家族論を考えればすぐわかるように、共同性という集合的属性の承認と、それは地続きになっている。そう考えると、承認のタイプは、三つではなく、四つに分類することこそ正しいのではないか、という気がしてくる。
1.愛
2.集合的属性の承認
3.人権尊重
4.業績評価
だ。1と2は地続きではあるのだが、しかし、フェミニズムや「聾文化宣言」をいきなり愛の問題と等置するのは、やはり強引すぎると言うべきだろう。
この内、3と4は、近代や資本主義とも相性が良い、と言える。特に、4がそうだ。経営学の内部でも、これまで、承認についてはいろいろ語られてきたようだ(マズローとか)。承認論の(左翼にとっての)胡散臭さというのは、とりわけこの点に関わってのことなのだ。
それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。


―イスラム国(IS)への先進国の若者の流入。それは恐らく先進諸国での「承認欠如」の問題なのだろう。それはこのブログの読者の方なら、既にご想像いただいていたことと思います。「承認欠如」は再分配すなわち経済格差の問題でもありますし、藤野教授が言われるような精神面における問題でもあります。

―最近お話したある聡明な女性の友人は、「女性同士では、最近よく、『やさしさが足りないのよね』という話になる」ということでした。これを男性語に翻訳すれば、「承認欠如」「承認の不在」ということになるのでしょう。
 いずれにせよ、今この状況を軍事力以外でどうにかできる思想は、「承認」以外にはないのです。

―「承認欠如」は、多くの場合「屈辱の経験」となります。それは、激しい悪感情の源となります。いま世界を覆う悪感情を拭い去るのは、生易しいことではありません。しかし、こうしてメカニズムを特定する地道な作業がそれに通じる道なのです。


―ここでは、承認の定義の再整理が出てきます。
 新しく出てきた「2.集合的属性の承認」これは、カナダ・ケベック州の独立問題を通じて明らかになった「多文化主義(マルチカルチュラリズム) 」という承認の一側面の応用といえます。テイラーはマルチカルチュラリズムの論客でした。それは民族的アイデンティティにとどまらず、性別、障害の有無、などすべてにわたって、「差別される側」から「(集合として)尊重される存在」への引き上げという作業になります。
 わたしなどはすぐ、性差別を「個人尊重」と「業績評価」の理念で解決しようとしますがそうでもない。女性という性そのものへの尊重が必要だ、ということですね。
 
―こうした再定義の作業が繰り返し必要になる、というのは、例えば企業様の問題解決においても、「人」の問題の多くは「承認」の問題なのですが、承認のどの定義を適用するかはその場によって違い、例えば2.+3.の組み合わせであったり3.+4.の組み合わせであったりするからです。


それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

―この概観。
 「愛」と「集合的属性の承認」という論点が、カント以降の近代にはなかった。たしかに「承認論」では、「愛」という気恥しくなるものが堂々と組み込まれています。「そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ている」というフレーズに、「承認論」のもつ、軍事力に比肩しえるほどの巨大な能力が表現されています(実際にわたしが現場で体験してきたように)。だからこそ、わたしも10年もこればかりやってこれたのだと思います。



《差別されるとは、どういう経験か》
 「スクール・カースト」などで問題になっているのは、カテゴリー化と序列化だ。カテゴリー化であるかぎりで、それは差別である。引き出しに入れること、分類すること。例えば、男と女に。これは広い意味での差別であって(差異化と言った方がよいのかもしれない)、社会の病理とみなされる狭い意味での「差別」とは区別して考えるべきだろう。人種差別、男女差別(性差別)、障害者差別、部落差別、、、 これら狭い意味での差別について考えたい。
 一つには、それらが、集合的属性に関わるものであるからだ。(序列化は、個人に対しても行われうる。)
個人を差別する、ということはそもそもあるのだろうか。この言い方は適切ではないのではないか。それは、集合的属性が差別されているのであるが、その集合的属性を備える(帰せられる)個人の身の上でそれが起こる、ということなのではないか。個人が備える集合的属性のゆえに差別されるのだ。ユダヤ人を差別する、外国人を差別する、女性を差別する、障害者を差別する、部落民を差別する、、、、 それは具体的には、生の一定の領域からの締め出し、とか、権利の剥奪とかいう形をとるだろう。ただし、それは、懲罰としての排除や権利剥奪とは異なり、人間としての価値の低い評価、を伴うものなのだ。だから、「反差別」というのであれば、人間としての価値の貶め徒言うことを、集合単位でも、個人単位でも、絶対にしない、ということでなければなるまい。「人間としての価値の評価」という点がポイントであって、そこれを拒むことは、集合単位でも、個人単位でも、あってはならない。それに対して、能力や業績については negative な評価ということは、なされるし、なされねばならないのだ。さもないと、フェアな評価、とは言えなくなる。
 承認が価値評価であるということこそ、決定的なのだ。そうであるからこそ、人は傷つく。それに対して、ハーバーマスのいうコミュニケーションの歪み、というのは、否定性の経験ではあるのだが、それほどには深くヒトを傷つけないのではないか。人を深く傷つけるということがないと、人々にとって、それと闘うという動機づけになりにくい。参政権だけではダメだろうし、家事分担だけでもダメだろう。屈辱の経験として、弱くないか。
 女性の価値が容貌、外見においてしか評価されない、というのでは、人間としての価値が認められている、とは言い難いだろう。つまり、その場合は、人間としての価値の承認が、言うなれば第三の承認にすりかえられているのだ。能力や業績の評価である。その際、容貌・外見は能力ではないし、業績でもない。個人の努力によって伸ばせるものではないのだから。(女性に対する、美しさを「磨く」ことへの社会的圧力には、とてつもないものがあるだろう。)
 人間として認められる、とは、個人として認められる、ということと、集合的属性のゆえに認められる、ということの、その両方が含まれていなければならないのだ。
 ハーバーマスのコミュニケーション行為の理論では、あるレベルまでしか、差別と闘う理論となりえない、と言わねばならないのではないか。個人を普遍的価値の担い手として承認することは求めるので、コミュニケーションからの締め出しには断固として闘うが、集合的属性の肯定的評価(という承認)を求めるところにまでは行かないのではないか。差をつけない、という承認だけでは十分ではない。特殊な属性の肯定的評価が求められているのであって、否定的価値評価をやめるだけでは、十分ではない。
 ハーバーマスがやっているのは、結局、民主主義の理論化、ということなのではないか。「人(他者)を軽んじる」という経験は、それではカヴァーできないのではないか。「差別してはいけない」ということが、同等の権利を言うだけでは実現されないように。そのことを、ユダヤ人は肌身にしみて感じていたのではないか。




―承認は反差別の理念でもあります。そのことは以前にもこのブログで言いましたね。
 だからでしょうか、承認研究の世界の先生方はわたしのような人間にもオープンマインドでいらっしゃると思います。
 「みくださない」。ここを強調するのは大事なことです。
 以前、姫路で儒教の学びに凝っていたわたしは、「承認」は「仁(おもいやり)」と「敬」「礼」の合体したものだ、てなことを言いました。仁Compassionだけでは充分ではない、オキシトシンの作用だけでは充分ではないのと一緒で。なぜなら「思いやり」は往々にして、「かわいそう(同情)」というような、「上から下」に流れる感情となるからです。そのままでは対等、尊重、にならないのです。
 「敬」の状態を維持するのは努力が要ります。理性の作業です。「みくださない」というもう一歩踏み込んだ言葉で意識するのも必要なことです。

―ここで藤野教授はハーバーマスに言及されています。もともとあまりハーバーマスお好きではない由。なんでもフランクフルト大学では哲学科でサッカーをする、そのときカントチームとヘーゲルチームに分かれる、ハーバーマスはカント派だとのこと。(ホネットはもちろんヘーゲル派)
 わたしも実は、今はまだ「ハーバーマス本」を収集して拾い読みしている段階ですが、どうも技術屋のわたしに必要なことが書いてある本ではないのではないかという予感があります。まあそれはこれからです。



《ホネットの承認論は批判的社会理論である、ということ》
ホネットは、承認の拒絶という現象に注目することで、社会を批判するのだから、当然のことながら、承認は ― 正当な承認は ― なされるべきこと、と考えられている。
ところが、「承認依存」ということを批判する人々は、まるで「承認欲求」それ自体を「弱さ」ででもあるかのように論じる。もちろん、病理的な承認欲求というものはあるだろう。しかし、承認欲求そのものは、社会的存在としての人間にあって当然の何ものか、と受け止められるべきではないか。「依存」ということからして、ただちに「弱さ」として叱りつけるのではなく、社会的存在としての人間に本性的についてまわる属性と見なされるべきだろう。社会的存在としての人間に、承認欲求は抱かれて当然である。
ただ、その病理的な現れということはあるので、適切な承認、あるべき承認と、そうでない承認とを区別する基準が提示され、根拠づけられねばならない、ということはあるわけだ。そこから、承認論は、正しい承認のノウハウの教えみたいな性格をも帯びることになる。 しかし、そのことは、アドルノのトータルな否定主義(「全体は非真である」「誤れる全体の中で正しい人生はありえない」)を理論上の欠陥と捉えるホネットとしては、甘受するしかない傾向ではあるわけだ。
例えば、経営学において、上司が部下を正しく承認するための指針、みたいなものとして承認論が使われるとしても、それは避け難く、また間違ったこととも言えまい。
 トータルな否定か、改良主義(修正主義)か、という二者択一を採用しないのであれば、「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。



―へへへ。
 ここでは、「承認依存」の議論(=「承認欲求バッシング」とそれへの批判)への言及と「経営学における承認」への言及、2つの点で言及していただいてしまいました。
 「承認依存」の議論は、目下のところこの問題でギャーギャー言っているのがわたしともうお一人ぐらいしかいらっしゃらないので、(もうお一人はわたしほど血の気多くギャーギャー言ってないと思う;;)
 非常にタイムリーに、取り上げていただいたと思います。これも、講義対象が大学生さんであり、今どきのネットスラング、罵倒語としての「承認欲求」に触れている可能性も高いことを考えると、押さえていただくのは大事なことなのではないかと思いました。

―アドルノのトータルな否定主義。どうも、「資本主義は全体として間違っているから、その中でちょっといいことがあって喜ぶのは本当の喜びとは言えない」というようなことをアドルノは言っているらしいのです。このひととはお友達になれないかもわたし(苦笑) ホネットはそれを理論上の欠陥と捉えているのだそうで、ああ良かった。

―でも、例えば拙著『行動承認』にみるような、企業の中での「承認」で人々が躍動するさまが現実にあるとき、どう位置づけるか。「それは避け難く、また間違ったこととも言えまい」と、講義原稿では位置づけてくださっています。てへへ。
 
「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。


―このくだりは、ホネット自身はどう思うか、きいてみたいものですね。



 講義原稿のご紹介は以上であります。あれ、藤野先生、結局全文紹介しちゃいました。(^o^)

 
 藤野教授の『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト)―同一性批判の哲学』(2000年、勁草書房)には、「哲学することへの反省」という章があります。

 何をしていれば、私たちは哲学していると言えるのか。西洋の難解な哲学書を読み、解釈していれば哲学していると言えるのか。

「(とりわけ日本では)西洋哲学の、とりわけその最新の産物を材料にして、人々が学習能力の高さと知識量を競い合っているというのが、もっとも目につく光景ではないか。輸入業務と解釈業務に没頭する日本の哲学の世界のこの状況は、シュネーデルバッハにしたがえば、一つの病いであると言わねばならないだろう。この病いは、自らが病んでいる事実への自覚の欠如をその症状の一つとする。」


 いやーすばらしい。「輸入業務と解釈業務に没頭する」、正田も以前経営学についてこれと同じようなことを言いました。うちの近所の国立大学法人にもその路線でそこそこ有名な方がいらっしゃいます。

 目線を低く、素朴な疑問に立ち返り、正直に投げ出すのが藤野教授の持ち味であるように思います。

 「いや、私は自分がわかったと言えることしか書きませんから」先日のインタビューの中で、藤野教授はそんな風に言われています。正田が哲学書とその翻訳の文章の難解さを嘆き、「それに比べて藤野先生はわからせよう、という書き方をされていますね」と水を向けたときです。


「(ドイツ語の文献を読めない私ですが)こうして藤野先生というフィルターを通して見させていただくことは
日本に住んでいてならではの体験と思います。」

 このたびの講義原稿を送っていただいたお礼のメールにそんなことを書きました。


 藤野教授は今後の講義原稿も送っていただけるそうですので、またその都度ご紹介させていただこうと思います。どうぞお楽しみに。


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 最近、フェイスブックでぽろっと口をついで出たこと。

「私には夢というものはない。ただ作り続ける。サグラダ・ファミリアのように」。

 たぶん、「承認論」という巨大なサグラダ・ファミリアを今まさに世界各国で作り続けている人びとがいるのです。




正田佐与


 

 
 
 

 さて、「藤野寛論文シリーズ」を終えてマネジャー教育の「行動承認」の教師である正田がおもうこと。

 ここでは、

●わたしが経験した「承認をめぐる闘争」
●実践者たちの強さと脆弱さ

という話題を書こうと思います。


 「承認教育」にも、「闘争(葛藤)」の側面があります。52歳女の正田はそれの当事者となり続け、実はそのことにもうかなりくたびれてもいます。

 その「疲れた」という自分の中の正直な感覚も含め、これまでに経験した「闘争」について、この機会に書いておこうと思います。
 たぶんそれは歴史の一コマで、記録するに値することだと思うのです。


 もともとホネットが「承認をめぐる闘争」というとき、正田のやるようなマネジャー教育が「与える承認」を社会に供給するという事態を想定しているのかどうか―。
 藤野論文にも「承認は「認められる」という受動態であるところに独特の意味がある」ということを言っていて、「与える承認(=能動態の承認)」が、そこで想定されているのかどうかわかりません。
 
 でも、「与える承認」をマネジャー向け教育プログラムとしてご提供し続けてきて、10数年来強烈な成果を出し続けてきたのは厳然たる事実です。

(ちなみに、「学術的に検証」してもらうのはもう、諦めています。だって少々の学者さんが想定するような業績向上のレベルではありませんもの。論文書いてどこかに出しても「捏造?」って言われるだけで、学者さんにとってもメリットないと思います。
 学者さんたちがやるような業績1.05倍とか1.1倍とかの程度の、「学術的に検証された」教育プログラムより、民間療法の当方のほうが「はるかに上」だ、ということです)

 さて、「与える承認」を社会に供給するには、社会の上のほうの階層に働きかけないといけません。経営者、マネジャー…あたりに担い手になってもらわないといけません。
 そこで経営者教育、あるいはマネジャー教育、という選択肢になるわけですが、その市場には独特の流通のルールがあり、購買担当者は独特の人格、独特の利害関係をもった人たちであり、一介の主婦から出発した正田の参入は容易ではありませんでした。

 以前にも書いたと思いますが正田が初めて勇気を奮い起こして「法人営業」にいった先の購買担当者は、営業資料を投げ返したものです。「主婦」の正田が、「でもわたしの生徒さんは業績1位なんです!」てなことを言うからです。その件はいまだにトラウマになっています(苦笑)

 正田が経験してきた「闘争」というのは、そうした「社会の上層部」に働きかけようとする際の参入障壁のようなものであったり(「無視」「軽視」にカテゴライズされるでしょう)、いざ参入したあとも起こる妨害であったり、またその参入の困難をいくら訴えても理解しない周囲の人の鈍感さとの間の葛藤であったり、します。
 参入障壁を詳しく言うと、そこには関西の風土特有の、「お爺さんコンサルタントをありがたがる」気風も影響していたと思います。より特定すると、「団塊コンサルタント」ですけれど。その方々が今の時代到底通用しないような、イケイケドンドンの論調のリーダー研修を行い、それは受講生がまじめに取り組めば取り組むほど死屍累々になるようなものでした。そういう類のものがメンヘル疾患や自殺、パワハラ訴訟をつくりだしていないか、わたしなどは本気で危惧しますが、まあそういう因果関係に思い当たる人はいませんナ。
 また下手にわたしのために動いてくれた人びとが動いた先で「憤死」するのもみてきました。中にはこころを病んだ人もいました、まじめな話。

 ちょうど1年ほど前、通算7回目の事例セミナーを神戸で行った際(7回もやらなければならなかったことが、既に「無視、軽視」を象徴しているのだが)、あろうことかパネリストの1人がイベントの席上で反旗を翻し、この教育プログラムに何も価値がなかったかのように言い、自分の部下が優秀だっただけだと強弁し、かつわたし個人のことも侮辱した、という事件もありました。
 そういうのも「承認をめぐる闘争」の一部でしょう。歴史の一コマですから、担い手の名前とともに記録しておきたいものです。

 また、ブログの長い読者の方はお読みになっているかと思いますが、他社批判の作業の忙しいこと。
 このブログの右側に最近表示させた記事カテゴリに「研修副作用関連」というのがありますが、そこをみていただくと、主に心理学系の教育研修や自己啓発本を軒並み批判してきました。「内発と自律論」や「離職者続出」にするコーチングの某流派やNLP、アドラー心理学の「勇気づけ」、自己啓発本、さては「傾聴教」も批判しました。中には善意の担い手の方もいらっしゃるかと思いますが、多くは専門家の間では常識である「暗黙の前提」を欠いたプログラムであるために、素人である受講生の中に落ちるとおかしなことが起きてしまう。そこまでの想像力をもたずに提供しているなら、それは「わるい研修」です。クルマのリコールをわらえません。

 そうして、「他社批判」という汚れ仕事は、「承認」のもつあたたかく受容的な雰囲気にそぐわないものでした。それで味方のロイヤリティが下がる場合もありました。「承認」は「内集団」のなかでは限りなく温かいのです。しかし、「外集団」が攻撃してくるときには無防備ではいられません。また「外集団」との間になぜきっちり線をひく必要があるのか、なぜぼやけてはいけないのか、ということもきっちり言わないといけません。とはいえ批判の仕事はあまりにも多すぎ、自分の人格がおかしくなったのだろうか、と思えるほどでした。

 残念ながらその汚れ仕事を担うのはずうっとわたし一人で、その孤独感は半端ありませんでした。

 最近懺悔したのですが、「他社批判」「他理論批判」をやる中で、「承認欲求バッシング」に対する批判は、後手に回りました。そこまで手が回らなかった、と言ってもいいです。現象としては2013年ぐらいから、どうも出版界のこの傾向はおかしい、と気づいていましたが、ほかに批判しないといけないものがあまりにも多すぎて、そこに手をつけられないできました。

 もっと早く
「そこに照準を合わせないといけない」
と気づいていれば、また
「なぜそれがおかしいか」
をきっちり言っておけば、そこに連座しないですんだ人もいたかもしれない。

 わたしを「他社批判ばかりする」と批判する立場もあるでしょうけれど、自分の責任を全うするために批判をしなければならない場面もあるわけです。批判が遅れて悲劇を生むかもしれないわけです。
 

 
 ともあれ、正田は失うものもない身ですので、売られた喧嘩は喜んで買います。今社会で下の階層に沈められ苦しんでいる人々のためであれば、「えせ知識人」の1人や2人、にどと表舞台に立てなくするぐらい全然平気です、たとえ相打ちになっても。
 そして喧嘩慣れしているので、たぶん喧嘩になったらわたしのほうが強いです。このあいだも某ダンジョンで自称武術家の人を投げとばしました、言葉で。喧嘩売りたければどうぞ売ってきてください。52歳女性のわたしを怒らせたかったら怒らせてみなさい。


****


 さて、「承認教育」は、極めて優れたマネジャーをつくり、高い業績向上を起こします。

 その担い手となるマネジャーは、決断力に富み、配慮に富み、行動力があり、人々を上手にモチベートし、人々を公正に評価し、人の痛みがわかり、柔軟で過去にとらわれず、また責任感高く、真摯で考え深い人々です。
 それはもともとそうした才能があった人々が担い手として定着しやすいのだと思いますが、トレーニングと実践により、それらがますます高まります。ワーキングメモリが増え思考や感性の密度が上がり、恐怖を感じる扁桃体の細胞密度が減り、ものごとを前向きに考え決断します。

 いいことずくめのようですが。
 ところが、この人々にも弱点があります。
 どうも、「悪意に無関心でいられない、傷つきやすく落ち込みやすい」という脆弱さがあるようなのです。

 これは過去の複数の事例をみて言っているので、「どういう実体験に基づいて?」という探りはおやめください。

 たぶん彼(女)らの鍛え抜かれたミラーニューロンは、他人の悪意ある言動をもフォローしてしまい、その意味・意図を理解してしまうのでしょう。また共感ホルモンのオキシトシンには、沢山のよい作用がある一方で、「おちこみやすい」という副作用があります。

 だから、実践者を傷つけるのはやめてほしい。

  また、傷つけ(harm)を誘いこみやすい、というんでしょうか―
 正田もクソマジメなたちなのでよくわかるのですが、真摯でない人は、真摯な人をばかにしたくなる。真摯な人というのは、からかい甲斐がある。
 なので、真摯な人々に向けた「からかい」というのは、よく出やすい。

 大きなワーキングメモリをもった人というのは、ものごとを通常より一段階深く考えることを厭いません。
 その姿勢は部下からは絶大な信頼を生むものですが、(ドラッカーの「マネジャーは真摯であれ」というフレーズも想起されたい)そこまで真摯ではない同輩や上司からみると、鬱陶しくみえます。それが、こころを傷つける揶揄につながりやすいものです。

 そして、昨今のクルクル変わる研修採用の問題。
 「承認教育」が有効なのは既に自明のことですから、彼(女)らから取り上げないでほしい。1年やそこらで取り上げて次の類似の研修を採用してしまったら、恐らく真摯な人ほど深く傷つきます。

 そこで起こる「傷つき、落ち込み」は、真摯でない人からは恐らく想像がつかないものです。



正田佐与
 

 

 


 

 

 さて、「毒食わば皿」で、藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授)からいただいた最後の論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>」(『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』岩波書店、2010年)を軸に、

「暴力と承認」
「自由と承認」

あるいは

「(ホネット承認論において)承認がその定義の範囲として引き受けているもの」

を、まとめてみたいと思います。


藤野寛氏論文-2


 
 ここに出てくるのは、フランクフルト学派のアドルノ、イギリスの政治哲学者バーリン、そしておなじみ現代ドイツのホネットです。そろそろこのブログ的にホネットにシンパシーが出来つつありますね。

 アドルノ(テオドール・W・アドルノ、1903−1969)は、ユダヤ系ドイツ人の哲学者で、ナチズムの「暴力の経験」を生涯身に帯び多様な現象に暴力を感じ取りながら生きていました。「暴力の遍在する(偏在ではなく)世界」というのがアドルノの指摘でした。
 

「アウシュヴィッツ以降に生きるとは、アドルノのような人にとって、日常生活に見出される様々な暴力現象が、その都度、アウシュヴィッツとの連想の下に経験されねばならなかった、ということを意味したのだろう。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というよく知られた言葉も、そのように受け止められるべきものである。」(「自由と暴力…」p.60)

「アドルノ/ホルクハイマーが暴き出したのは、文明化という出来事の内に、「野蛮」がそれだけを切除することが不可能な仕方でセットされている、という消息だった。人間を暴力や野蛮から着実に遠ざけ、洗練させると無邪気に信じられていた「文化=啓蒙」が、それ自体「野蛮」であるということ、文化人とは野蛮人の別名であるということ、それが『啓蒙の弁証法』という著作が暴き出した事態に他ならない」(p.62)

 
―ここで「アドルノのような人にとって」という言葉がちょっと意味深に、わたしには映りました。「暴力性」に対する感受性の高さ、というのは、このブログの過去記事では、「傷つけないこと」(harm reduction / care)という種類の道徳感情に当たりそうです。
脳科学から見た5つの道徳感情が人を動かす―『脳に刻まれたモラルの起源』をよむ参照)

 そのような資質をもってアウシュヴィッツの時代を生きたとしたら、そこではひりひりするむきだしの感受性を思想に反映させずにはいられなかったろう、と思うのです。

 
 さて、アドルノは啓蒙という語の内にある理性や主体、自由といった近代の諸理念はいずれも外部の自然、および内部の自然に対して支配する地位に立とうとする、自由の獲得をめざす営みだ、と言い、そこで「自由とは支配の別名である」という指摘があります。自分が主体になるということは、他のものや他人を支配することだと。だから野蛮なのだと。


 これ自体大きな指摘です。しかし、これに異論を挟んだのがフランクフルト学派第三世代のホネットでした。ホネットは、社会理論を「自由を求めての闘争」のみをモデルに考えることが、社会理論としては一面的であり、不十分だと主張しました。


「ホネットは、近代の社会哲学が、社会関係を基本的に「自己保存をめぐる闘争」として理解してきた、と指摘する」(p.62)

 1つ前の記事でもみたルソーが『社会契約論』でいうように、片時も休まず命がけの闘いをしないで済むように、人々は契約を結び、「社会」を形成した。そして関係の中で生きることを余儀なくされますが、そこで人々が目指すのは、支配者の地位を確保すること。少なくとも、支配されないという消極的な意味で、自由であること。

「自然に対する関係に定位して自由を考えようとすることで、「自然支配の能力としての理性の獲得=自由(自律)」と立論され、身体も含め、物との関係においては、自由とは支配の能力である、という等式が成り立つ」(p.63)

―自由とは支配の能力である(物との関係において)。読者の皆様おわかりになりますか。わたしは既にあたまが痛くなっておりますが、例えば原始時代、人間が火のおこし方を発明し、石や枝を変形させて武器の作り方をおぼえ、そうして非力な人間が自分より大きく牙をもった獣を狩るようになる、そういうプロセスを思い起こすといいでしょうか。

 (ルソーらの)社会哲学は、この等式モデルを社会関係の構想にも当てはめ、他者支配を通しての自己決定(自由)の確保ということが、この社会理論の理念でもあるとみている、とホネットはいいます。

 それ、ちゃうやろー。と、いう声がここで、読者の皆様の脳裏にも起こりましたでしょうか。だって、他人は獣でも石器でもないですもの。
(でも確かに、「万人の万人に対する闘争状態」、たしかホッブズがそんなこと言ってたしルソーもそれ的なこと言ってた気がするな。)

 と、ホネットも同様に考えたようです。

「社会関係が「自己保存・支配をめぐる闘争」に一面化され、還元されて論じられてしまっていると(ホネットは)指摘する」
「そして、この批判を可能ならしめているものこそ、ホネットがその社会理論として精力的に展開している承認論である。社会性とは「自己保存をめぐる闘争」に尽きるものではなく、それと同等に「承認をめぐる闘争」が考慮されねばならず、それをこそ「社会的なもの」の本質構成要素として捉えなければならないとする主張である」(p.64)

―ふーやれやれ。結局ここがほっとする着地点ですね。
 自分と同様に主体であり、尊厳をもった他人の中で生きるということ。だから承認論。ここでいう「承認」は「支配する―されるのではない、対等な尊重し合う人間関係」ということを言っているようにみえます。

 人間は人の間と書くんだよ。なんて、実は当たり前のことを言っていそうな気もしますが、先行するほかの理論との対比の中でやっとそれは明らかになります。なので面倒でも先行する理論をおさえながらすすまないといけないゆえんです。

 この手続きのめんどうなこと。次以降の記事で少し詳しく書こうと思っていますが、正田はこのブログの誕生以来、いろんな「よそさま」の理論を批判しまくって今に至っていますが、やっぱりそれは「承認教育」が生き延び人々を幸せにするために必要な手続きでした。

 閑話休題。

 自由とは支配である。
 だから、自由であるだけではその人は幸福とは言えない。
 このことを言うためにもう一つの視点がバーリンの自由論だ、と本論文はいいます。
 
 アイザイア・バーリンはその『自由論』の中で「消極的な自由」と「積極的な自由」の区別を規定しました。
 前者「消極的な自由」とはすなわち、自己の活動が他者による干渉を免れていること。
 しかし、それはうれしいか?
 例えば引きこもりも他人からの干渉を一切受けていないのかもしれないけれども、それを「自由」だ、と呼べるかどうか。自分の中に何らかの欲求がありそれを実現するために行動する人のことを「自由」だ、とわたしたちはイメージするのではないか。

 そこでバーリンの「積極的自由」も「欲求」を問題にします。

「「自由」という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人でありたいという個人の側の願望からくるものだ。」(バーリン)(藤野論文p.65)

「自分自身の主人、という言い方をする時、より正確には何に対する主人(主体)が考えられているのか、と問えば、「欲求」を措いてあるまい。」(同)

 自分の欲求の主人になる。しかし、「欲求」というのは100%自分の内発的な欲求などはないので、(正田注:これも「内発と自律論」のきわめてあっさりとした否定です)

「現実には、人は、自らの欲求を、周囲(他者、社会)との関係の中においてこそ見出してゆくのではないか。私の欲望とは、他者の欲望であるとは言わずとも、他者の欲望との同一性と差異性の認識を通してこそ自覚されてゆくものなのではないか」(p.67)


―これは、親御さんが望むからいい高校や大学を受験するとか、いい会社に就職するとかいうことかな?あるいはその社会や文化が規定する「まっとうな人」として社会人になろう、と思うことだったり、「偉大な人」「尊敬されるべき人」を目指して努力する、ということも入るかもしれません。会社の理念や学校の校訓にしたがって生きるようなことも入るかも。
 わたし的には例えば論文を書いてもそれを査読で認められなければ世に出ない、というところから「人に認められる」が不可欠だ、というロジックを期待していたのがそこを言っているわけではないようです。「欲求の形成される前段階の他者の影響」を言っているようです。いずれにしても、ひょっとしたらマズローの「自己実現」へのアンチテーゼかな、という風にもとれます、時代的に。


「消極的自由を100%実現しようと思うなら、人は、全くもって他者との関係なしに生きるか(テレビやパソコンの前に座り続けるか)、さもなくば、関係するすべての他者を客体(奴隷)の位置に追い込むかするしかない。そういう孤独な、そして内容を欠く自由に飽き足らず、そこに実質的な内容を与えようとすると、他者との関係に支援を求めるしかなくなり、つまりは、自由が他者によって侵害されることを意味せずにはすまなくなる。
 私は、無造作に「充実」という言葉を用いている。「幸福」という言葉で置き換えても差し支えないものだ。バーリンの自由論が教えてくれることは、「積極的自由」の理念の孕みうる危険に警鐘を鳴らすことである以上に、むしろ、自由の理念一本槍では、「充実した自己」「幸福な自己」について構想するための道具立てとしては不十分だ、という点にある。」(p.68)

―自由だけでは幸福であるために不十分だ。
 そこで、バーリンは「承認(欲求)」を出してきます。必要なのは、人から認められる/褒められる、愛される経験なのだと。

「注目すべきは、承認が、自由に対する1つのオルターナティヴとして呈示されている点だ。人間は自由だけでなく、同時に、承認への欲求をも抱く存在であるという論点が、いささか唐突に、しかし力強く表明されている。」(p.69)

―唐突、そう、いつも唐突なんだよなー承認の登場って。ルソーにおいてもヘーゲルにおいてもそう。前触れなくグイと突き出される。だから仕事ですごく説明しにくい。
 ともあれバーリンは自由への欲求と承認への欲求のふたつを呈示しました。ただしその関係、両者は両立可能なのか否かは呈示しませんでした。

 
 そしてやっと「承認をめぐる闘争」が出てきます。

「人間がその理性を拠り所にして自然支配の能力を高めてゆくプロセスとしての文明化が、自由の拡大と考えられているのだが、そのように「支配をめぐる闘争」「自由をめぐる闘争」に着目するだけでは、人間が生きる上での「社会」性というものの一面しか捉えていない。それどころか、「社会的なもの」の最も本質的な側面を取り逃がしてしまっている、と。
 では、その時、社会的なものとして何を考えればよいのか。「自由をめぐる闘争」と並んで、「承認をめぐる闘争」こそそれである―これがホネットの回答である。」(p.71)


―「承認をめぐる闘争」と「自由を求めての闘争」が異なる点は、どこか。

「相手も主体であることは、こちら側にとっては、自由の制限を意味せずにはすまない。」(p.72)

 「自由の制限」の表現が出てきました。フィヒテ先生だったかな、以前このブログでそれを言ったのは。わたし賛同してたんですよね、それに。

「自由とは、自律であり、自己決定であるが、相手を主体として認めることは、相手の意思を尊重することであり、その限りで、こちら側の意思が制限される事態を伴わずにはすまない。言いかえれば、自由を求めての闘いは、相手を客体たらしめることによってこそ完成する。強く言えば、相手を奴隷たらしめることだ。」(pp.72-73)

 ―「主人と奴隷の弁証法」ですね。なんども出てきたのでそろそろ奇異には感じないでしょう。でも時々おさらいが必要ですね。

 それに対して、「承認をめぐる闘争」とは。

「それに対して、「承認をめぐる闘争」においては、相手が客体(奴隷)になってしまったのでは、闘いに勝利したことにはならない。一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。(略)相手も主体でなければそもそも意味をなさない闘いなのだ。「承認をめぐる闘争」においては、主体/客体という概念セットは機能しない。主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす、と表現するしかない。」(p.73)


―おもしろい。
 (わたし的には)ここは2つのポイントがあります。
「一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。」
 「イエスマン」から認められても嬉しくない。あるなあ。(時々、それでも嬉しい人はいますけれどね)
 で、少々手ごわい、利害関係のない人から認められると嬉しい。尊敬する人、雲の上の人から認められると最高に嬉しい(後者の代表的なものが「園遊会」であるとわたしは思っています)
 だからこそ、ある時期から子は親の元を離れる。自分を無条件で愛してくれる人では飽き足らなくなり、友人や異性や先生、コーチからの評価、あるいは試合に勝つこと、などを求めるようになる。
 そして最後の文、
「主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす」
 これもおさらい。
 前にも書きましたが正田は「間主観性」という言葉が好きなんです。ウエットな「共感」という言葉よりも。(もちろん、「共感」もTPOに応じてつかいます。)
 「間主観性」には、「共感」以上に、他人の主体性、他人の尊厳を認める、という語感があります。そして、感情のレベルで共感できようができまいが、理性のレベルで維持する、という語感があります。
 「共感」一本槍だと、例えばすごい努力して成功した人には「共感できない」という事態もすぐうまれてしまいます。映画「マイ・インターン」に出てくる「ママ友」たちのレベルの低い感情状態もうまれてしまいます。(この映画については、いずれ稿を改めて書きたいと思います。「承認映画」です。)

 
―では、社会生活というものを「自己保存/支配/自由をめぐる闘争」と「承認をめぐる闘争」という2つの観点からとらえることは何を意味するでしょうか。これが次のパラグラフです。

「第一に、両者が共に「闘争」として捉えられることで、社会生活を調和や平和の相のもとに見る視点が斥けられる。われわれは、個人主義が支配し、その弊害が強く意識される環境の中に生きているため、関係や間柄について語ることは、既にそれだけでもう友好的で肯定的な何ごとかについて語ることでありうるかのように感じかねないのだが、それは一面的だ。間柄とは、闘争(葛藤)の別名である。そして、闘争であれ葛藤であれ、そこに勝者だけでなく敗者もまた生まれることは避け難い。それは、社会生活という競技のルール、あるいは文法とでも呼ぶべきものだ。「共同」や「連帯」の理念一本槍で押し、一人の敗者も生み出さないことを標榜する「社会」主義は、社会性への誤解に基づく社会的ロマン主義として、破綻を約束されたプロジェクトなのではないか。社会的なものの社会的なものたる所以は、そこで必然的に生み出されることになる敗者を、どのようにケアするか、という点にこそあるだろう」(p.76)


―社会生活とは、「闘争(葛藤)」だ。
 1つ前の記事の繰り返しにもなりそうですが、その視点をもたらすときの苦渋と諦念の語感をも写しとりたかったので、あえてパラグラフごと引用しました。
 「社会で生きることは闘いなんや!当たり前だ、どや!」と突きつけているのとも、違うのです。というために。
 ここは、今「一億総活躍社会」が言われ、その中で「ソーシャル・インクルージョン」(@菊池桃子)が提唱され、という時代に、どういう役割を果たすか分からないままに引用しております。
 
 「闘争(葛藤)」ということでいえば、実は正田も「与える承認」の教育をしてきた立場として、それの繰り返しをこのブログでも実生活でも演じてきた、という自覚があり、次の記事あたりでそれをまとめて書かせていただこうかと思います。

 このあと「暴力」についての考察がありますが、それは1つ前の記事と重なります。すなわち、ホネットのいう「承認の不在」がもたらす「暴力」とは、(1)無視(2)軽視(3)物象化―であると。

(ここは、IS(イスラム国)でのような、あるいはシリア難民を生み出したような物理的な「暴力」とは違うものですが、そちらは「自由(支配)を求める闘争」がもたらすものとして理解してよいのかもしれません。いや、「物象化」の中に入るのかな。)

 そこで「承認をめぐる闘争」は、上記のような「暴力」に対抗しようとするものになります。合法的には社会運動、訴訟、問題特化型政党、投票行動、のような形をとりうるでしょう。

 「難民」はまた、受け入れ先の国家で「承認をめぐる闘争」の当事者になることが予想され、それは「闘争」の連鎖であります。そこから目を背けてはならない、タイムリーな話題で言えばそうなるでしょう。
 え?FBのヘイトスピーチイラストレーターのページ削除を求める署名は、しましたよ。


―まとめると、「ホネット‐藤野論文」で「承認」が引き受けている意味あいというのは、

大定義:肯定的な見方、関心をもった見方

小定義:
(1)愛(限られた範囲での無条件の濃密な感情)
(2)人権尊重(無視しない、みくださない、包摂する)
(3)公正な評価(努力したものが報われること)

 そしてそれは、「それを得るために闘争(葛藤)する価値があるもの」ということになります。
 また、「幸福の不可欠の要素の1つ」だ、ということも読みとれるでしょう。
 「自由を求める闘争」というエゴイスティックなものだけでは人は幸福になれないのだ、というメッセージも。

 そこからリベラリズム・リバタリアニズムとの分岐、コミュニタリアニズムとの合流、という文脈も読みとれるのかな、と思います。
 「ポストモダン」からはまた一歩先に進んだ思想、ともいえるかと思います。

 やはりこのへんは藤野教授にお伺いしたいところです。

 「ベルリンの壁」が崩壊したとき(1989年)、「今からは冷戦ではない、民族対立の時代だ」という言い方がなされました。
 より時代が下って格差社会が鮮明になるこんにち、浮かび上がっているのが「承認」だ、ということに早く気づいた人ほど先に幸せになれそうです。とこれはわたしの勝手な物言い。



 以上までが「藤野論文3部作」(最初の一橋大学連続講義本からの引用を含めれば4部作)ということになります。
 インデックスとしては

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)

となります。


 「引用過多」の読書日記になっていることについてお詫びしたところ、(1)の本の出版社からの喜びの声を伝えて温かくお許しくださった藤野教授に感謝です。行動理論的に図に乗って(2)以下の記事もアップしてしまいました。

 時節柄、「承認論」を正しく皆様に知っていただきたい、と思うのです。
 またいつものことながら研修受講生である実践者の皆様も、教師・正田の知的探検(それは六甲山に登ってイノシシに引きずられて、というレベルの他愛のないものではありますが;;)を温かく見守ってくださり、ありがとうございました。
 そしてフェイスブックの心優しいお友達の皆様、長文記事ばかりのブログにいつも「いいね!」を押してくださり、コメント・シェアしてくださり、ほんとうに感謝しております。


正田佐与




 
 

 

 

 ふたたび藤野寛(一橋大学大学院言語社会研究科教授)論文。

 ◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)


 藤野教授を「愛を語る哲学者」と一面的なレッテルをはってもいけません。

 社会哲学である「承認論」を、さまざまな分野で「社会の側から経済を再構築する哲学が必要だ」という主張が出始めている今、藤野教授の論文に沿ってご紹介したいと思います。

 ここでは思想の系譜としてルソー-ヘーゲル-アドルノ-ホルクハイマー-ホネットが登場します。途中で「村上春樹」も登場したのにはびっくり。ホネットはこのブログ読者の方はもうおなじみ、現代ドイツを代表する思想家で、ヘーゲル研究者であり「承認論」の継承者ですね。


「アクセル・ホネットと社会的なもの」

 フランス革命期の啓蒙思想家、ルソーを、ホネットは社会哲学の祖と位置づけます。ルソーは「人間不平等起源論」で、自然状態/社会状態の二項対立を描き、そこで自立した孤立生活/他者志向の社会生活を対比させたのでした。
 しかし、ルソーは自然状態のほうを肯定し、社会生活を、またそこで発生する「認められたい」というダイナミズムをとことん否定したのでした。
 「社会化というこの段階にたどり着くや、たちまち、社会的ダイナミズムが発生し、その行き着く先は、認められたいという欲求と威信を誇示することとのきりのない堂々めぐりなのだ」(p.241)

「他者から認められたいという欲求が、往々にして、とても見苦しい振舞いを引き起こすことは否めない。それは、人にチヤホヤされたいという願望であり、実際の自分以上のポジティヴな像を流布させようとする思惑なのだから。また、他人の評価は人から謙虚さを奪うだろう。承認をめぐる闘争とは、常に、虚栄・虚飾・虚勢の闘争に転落しうる素性のものだ。ルソーを承認論の―ただし、否定的な―始祖と見なすことで、ホネットは、その消息にも十分に自覚的であることを示している」(p.242)

 ―うーん、そうですね。「承認欲求バッシングを批判する」立場のわたしもこの点は同意します。「承認欲求」って、亢進してみっともない有様になることがあります。
 願わくは、受講生様方は「虚栄・虚飾・虚勢」と距離を置く人々であってほしい。
 そのためには、まずは「承認欲求」という自分の内にも他人の内にも存在する、善にも魔にもなり得る巨大なものの存在を「認め」、ときにはそれに呑みこまれる経験も経て受容し、時間をかけてコントロールするすべを身につける、しか結局手はないのだと思うのです。リーダーの方々には苦しい試練です。
 あ、正田はね、時々このブログも書けなくなるときがあるんですが、それはよっぽど忙しいときを除いては、「ブログを書く自分」への懐疑が湧いて自分もまた承認欲求の徒ではないのか?という自問の声が強くなるときです。


 ホネットはそれに対し、「承認」を肯定的な方向に捉えます。
「自分自身に満足し他者を必要としない、というあり方が可能になるためにも、いささかの不安の思いもなく他者による承認を享受したという経験が経られていなければならない」(承認の経験、pp.242-243)

 加えて、「承認の不在」という事態。これは「無視あるいは軽視(Missachtung)」と「物象化」という二つの現象に分けられます。
 「無視あるいは軽視」は、「不可視性」ということ。例えば黒人の奴隷(奉公人)の前で貴族は平気で服を脱ぐ。それは奉公人たちはそこに居合わせないものとされていたから。見えていないのではなく、その「存在を認めない」のです。

 そして、半月前の論文にも出て来た、「承認が認識に先んじる(承認の優先性)」というテーゼ。
 わたしも読み違えていたかもしれませんが、ホネットはこれを、対人に限定して言っていたのではないのです。世界全体に対する姿勢について言っていたのです。

「関心を寄せるという態度が、現実を中立的に認識する態度に先立つ。承認が認識に先立つのである」(p.244)

 先立つ・優先性という言い方は、時間的な先行だけではなく、承認という経験は、認識のそれが成り立つための基盤の役割を果たすものだ、とホネットは言います。


「 「承認」と「認識」の対比をめぐって、もう1点、基本的なことを押さえておこう。
 遠くから歩いてくる人を見て、あれは恋人だ、と認知する。あるいは、敵だ、でもよい。その場合、視界に入ってきたものはただ無関心に確認されているのではない。ある種の焦点化のような操作が働いている。ある対象だけを浮き彫りにする、際立たせるという操作だ。(略)自らの関心によって中心化/周縁化された画面の中で、世界は、対象は認識されていくのに違いない。ホネットが引用する「知識は最終的に承認の上に基礎を置く」というヴィトゲンシュタインの言葉が言わんとするのも、そういうことだろう。
 ということは、そこでは、自分にとって重要な何かとそうでない何かとの差別化が行われているということだ。それは一種の価値評価である」(p.246)

―あ、そこまで言っちゃうんだ。ここで言われていることは、価値評価ではあるけれどもマネジメントの承認の世界でいう業績の評価や、行動の評価とは異なり、「何にフォーカスするかを無意識に決める」という、きわめて消極的なレベルの原始的な価値評価であるようです。うーんたしかにその段階のことも依怙贔屓とも言えるな。昔、マイナーな球団のファンだったわたしは「ジャイアンツが好きな人は結局最初にジャイアンツが目に入ったから「偏愛」してるんじゃないだろうか?」とおもっていましたが。
 また、ホネットは純粋客観的な認識をダメだと言っているわけでもなく、二項対立ではなくそれをも肯定するので、正田は「承認の徒」でありながら一方で「ヒューリスティック論」みたいなものをやるのですが実はそれでいいみたいなんです。

 ここで筆者藤野氏は「子供の音楽発表会での親の態度」というものを例示します。

「…しかし、私は、1〜2時間の発表会の間、ほぼわが子しか見ていない。大勢の他の親も、同様に、ほぼ自分の子供しか見ていないのではないか。この事態に気づいて、私は奇妙な気分にとらわれる。舞台の上では、1つの合同発表会が行われているのに、聴衆・観客である親たちにとっては、実態としては、複数の独演会が同時並行的に行われているに等しい。そして、子供の側でも、会場の中で自分の親しか意識していない。彼(女)にとっての聴衆・観客はただ一人、という事情にあるのかもしれないのだ。
 ここで起こっているのが承認ではないか。(こう言うことで、「承認」という日本語がおよそ事象内容にそぐわないものであることも明らかになろう。)」(pp.248-249)

―最後の一文は、anerkennenというドイツ語は「承認」よりは「認める」という日本語に対応する、という半月前の論文を思い出したらいいのでしょうね。

 藤野氏によれば、幼稚園では親がカメラを構えるのを防ぐためプロのカメラマンに撮影を委託するが、そのカメラマンは無味乾燥なロングショットを撮っていればいいわけではなく、可能な限り一人ひとりのクローズアップをおりこむ。それはあくまで公平な神の視点と、究極のえこ贔屓である親の視点を両方あわせ備えるようなアクロバット的カメラワークである(これを、ケアの視点とフェアネスの視点の両立、と捉えることも可能だろう)と言います。おもしろい。

 そして村上春樹が登場。
 『風の歌を聴け』における、「僕」の「わかった」という表現は、正確な理解を意味しているのではなく、
「君(の心の状態)は、僕にとって、どうでもよい何ごとかなのではない」という関心の念を表明しているのだ。加えて、こちらの解釈を押しつけるつもりもないよ、という思いも。まさしく「承認」であろう。」(p.250)

 筆者藤野氏の言葉として、「村上春樹は「承認」の姿勢を定着することで、1969年の世界に対するアンチテーゼを差し出した。」(p.256 注18)

 否定ばかりしていた全共闘の時代へのアンチテーゼ。考えてみれば先行した村上龍も強烈な「否定」の人だったかも。そういう時代感覚は、なるほどでした。

 
 最後の「よい(病んでいない)社会について」の文章が、みものです。

「承認の優先性についての超越論的な議論と、承認をめぐる闘争についての社会学的な議論との間の関係は、次のように考えることができるだろう。たしかに、承認の経験が先行するのだが、それが中心化の方向をとるとすれば、その後の子供の成長のプロセスにおいては、脱中心化が起こるのであり、そこでは、承認の世界から認識の世界へと―比喩的に語るなら―離陸していく、という方向性が見出される。しかし、完全に離陸してしまうわけではない。人間は、承認の世界にのみ生きることはできないが、承認の世界を離れても、経験の基層において常に承認を必要とし続ける。だからこそ、承認をめぐる闘争は、やむことなく戦われ続けるわけだ。
 乳・幼児期の承認の経験は、それ以降、承認をめぐる闘争がきちんと闘われるための地盤を用意する、と言うべきだろう。
 だから、よい社会とは、承認をめぐる闘争が闘われない社会、その意味で、平和な社会なのではない。平和とは、むしろ、社会の「社会」性の否定だろう。この観点からすれば、平和な社会こそ病んでいることになる。そうではない。承認をめぐる闘争が、その文法に従ってフェアに闘われる条件が整っている社会こそ、そして、実際にも闘いがきちんと闘われ、そして、敗者には過不足ないケアが保障されている社会こそ、病んでいない社会である、ということなのだ。
 闘争は、よい社会においても継続される。Der Kampf geht weiter!」(pp.254-255)


―いかがでしょうか。「承認をめぐる闘争」はヘーゲルがはじめに言い、ホネットが継承しホネットの代名詞のような言葉ですが、それは、闘争が原始状態の野蛮なものだからそこから人類は抜け出さなければならないと言っているわけではないのです。
 この社会を構築する営みがすなわち永遠に「承認をめぐる闘争」そのものなのであり、その残酷な側面を含めて直視し分析しよう、ということを言っているようにみえます。
 「階級闘争」という19〜20世紀の用語が死語になったかにみえても、わたしたちの社会は闘争を内包していることに変わりはなく、それはフェミニズムであれインクルージョンであれ他の何であれ、「承認をめぐる闘争」に還元される、というふうに理解できそうですがいかがでしょう。


 もう一つの論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」にもこれに近い記述があり、並べてみることで見えてくるものがあるかもしれません:

「社会性ということが、協力や連帯といった、一義的に肯定的な関係としてのみ成り立つものではなく、その本質成分として「闘争」ということを含み、敗者を生み出さずにはすまないという側面を持つのだとすれば、求められるのは、社会生活の残酷な側面をもきちんと直視する理論構築こそそれであろう。
 (中略)
 「承認をめぐる闘争」に注目することで、われわれは、暴力のない世界の住人になろうとするわけではない。しかし、それは、「自由をめぐる闘争」において現象する暴力とは異なる特徴を示す暴力として現象せずにはすむまい。暴力概念のインフレーション現象に対極されるべきものとは、暴力を人畜無害化することではなく―暴力のない世界を描き出すことも、すべては暴力だと言ってしまうことも、いずれも暴力を人畜無害化することだ―暴力現象に対する差異化された、分析的な視点を獲得することを措いて他にはないはずである。」(「自由と暴力…」p.81)



 また蛇足:

 ホネットのいう「自己自身の物象化」という概念を記した文章も抜き書きしておきます:

「ホネットが、「自己自身の物象化」という捉え方で具体的に視野に収めているのは、「臓器売買」、「代理母」や「売春」といった現象である。日本では、所有論の文脈で論じられることの多いこれらの問題を、ホネットは、物象化論の枠内で取り上げる。自己自身の身体の物象化が起こる前提に、承認の忘却、つまり、人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失っているという事態を突き止めるのである。自らの感情や欲求、感覚を、まるで他人事のように距離を置いて眺めるという事態が生じていて初めて、上記のような「病理」も起こりうる、と考えるのだろう」(「アクセル・ホネットと…」p.256 注15)

―ここでいう「人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失う、まるで他人事のように距離を置いて眺める」という現象を、私は「承認欲求バッシング」の行き着く先の事態として予感するのです。あ、なんだか哲学者みたいな文の書き方になっちゃったよ。
 ここでは臓器売買、代理母、売春がそれに該当するのかどうかは、ちょっと保留です。


 ともあれ、21世紀の世界が直面する格差と暴力にたいして、まともに対峙する社会哲学として「承認論」は位置づけられるのではないか、と思うのです。


※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)



正田佐与

 半月ほど前の読書日記

  温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html

に登場される、第一章の執筆者・藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授、現代ドイツ思想)より、
 「愛」「承認」について同教授が書かれた過去の論文3篇の抜き刷り・コピーをいただきました


藤野寛氏論文-2



 執筆年代順に、

◆「家族と所有」 『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版、2000年)所収
◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)

です。

 藤野教授のご了解をいただいて、ふたたび「愛」についての印象的な記述のある「家族と所有」から、ご紹介させていただこうと思います。

****

 「家族」には「所有」の問題がからむ。

 「私の夫」「私の娘」には、「他の女の、ではない」「あなたの、ではない」という排除・独占の意味が色濃くにじみ出てきている。所有、さらには専有の意味まで匂わせるものとなる。

 そして「所有」は自由と平等をおびやかす性質がある、と筆者はいいます。
 「極限的には、親が子を道連れにして心中する、というような酷たらしい現れ方をしかねないものである。「殺人」行為が、「我が子」の場合には、道連れ心中」などと表現してすまされてしまう」(pp.104-105)
 さらに「平等」がゆらぐ。自分の息子さえ幸せになってくれればよい。家族の外部の人たちとの間に差別が設けられる。

 これを避けるため、
1)家族メンバー間で互いに自由を尊重しあおう、という努力がなされる。
2)特別扱いの問題を回避するため、家族を外に向かって開いてゆこうとする努力がなされる。

「そして、家族のメンバーそれぞれに自律を認めるということは、メンバー相互の間に対等の関係を確立しようと試みることと不可分にして一体である。自由は、平等と結びついていないとき、必ず、誰かの不自由を帰結せずにはすまないからだ。」(p.106、太字正田)

―ここ、わかりますね。以前のブログで「風船プール」のたとえを使いましたけど、だれか1人が自由を際限なく追及し、それ以外の人がそれを志向しなかったり志向したくてもそこまでの能力がなかったりしたとき、最初の1人の自由が際限なく拡大し、ほかの人の自由をひしゃげさせる。特にリーダーの方は重々気をつけていただきたいことです。


 しかし、家族を自由と平等の原理一本槍で押し通そうとすることは、家族を家族たらしめる当のものの否定に、つまりは結局、家族そのものの否定につながってしまうのではないか。と筆者は問題提起します。

 ここで「愛」というキーワードが出てきます。

「家族を家族たらしめる当のもの、として私が考えているのは、「愛」という言葉によって表現されるような、強度をもった濃厚な情緒的関係である。」(p.108)

 しかし「愛」を神話化してはならない、とすぐに別の視点がもたらされます。「愛」には、「差別」と「闘い」という、美しくない側面があります。

「愛」の脱神話化(その1)愛は差別する。

 「愛」は普遍性志向ではありえない。

家族形成につながるような「愛」とは、究極の特別扱い、究極の依怙贔屓とよぶべきものである。ただ一人の人が好きになり、ほかの人のことは目に入らなくなる。そして、逆に、その相手からも、自分一人の方だけを向いてくれるように求める」(pp.109-110)

「要するに、愛は差異を前提とし、構成成分とする。差異を認める。強く言えば、差別する。正義感が分け隔てをせず、依怙贔屓をゆるさないのに対して、愛の方は、その強度にあからさまな差異を、あるいは、濃淡の差を示す。」(p.110)

「愛」の脱神話化(その2)愛は苦しめる

 この部分の記述が例によって「イイ」ので少し長く引用させていただきます―

「第二に、この「愛」とは、決して、甘く・優しく・調和のとれた・喜びと幸福感をもたらしてくれるばかりの結構づくめの感情なのではない。「愛する」とは、いってみれば、闘いに身を投じることだ」(p.111)

「そもそも「愛」というものは調和や均衡などとはおよそ両立し難いどろどろした何事かなのだ。(略)逆にしかし、「愛」という言葉を前にして照れたり恥ずかしがったりする必要もないのである」(同)

「「ロマンチックな愛」という言葉にまといつく人畜無害なイメージが、感情の危険な激越さをオブラートにつつむことに成功し続けている光景は、奇異だ、と言うほかない。にもかかわらず、どうして人は「愛」について語り始めるや、自分を理想主義者、あるいはロマンチストと錯覚してしまうのか。どうして「愛」のお手本が「神の愛」ででもあるかのような語り方をし始めるのか。「人間の愛」が、そのように無償であったり分け隔てがなかったりする、うるわしくも気高いものであるわけではないこと、少なくとも、それだけではないことは、われわれは骨身にしみて知っているはずではないか。愛しているときほど苦しむことは、人は滅多にないのであり、それを「甘酸っぱい苦しみ」と言うことさえ、すでに、人畜無害化である。「愛の説教者」には眉に唾してかかるのが相応しい。彼(女)らは、たとえば聖書など開きながら言うかもしれない。「あなたのいう愛は真実の愛ではありません」と。それには「真実の愛でないかもしれないが、人間の愛ではあります」と涼しい顔で応じてすましておけばよい。」(pp.111-112、太字正田)
 
 また、激しさを帯びつつ妙に説得力のある記述が出てきました。
 つい、どういう実体験からこういう言葉が出てくるのか、と邪推したくなりますが恐らくそのへんは哲学者藤野氏の「手」なのでありましょう。

 前回の読書日記のあと、正田は藤野教授にメールを書き引用だらけの読書日記となったことをお詫びしたあと、
「咀嚼され抜いた思考と文章に出会えたことを嬉しく思っております」
とお伝えしたのでしたが、同教授の「愛」についての思索は少なくとも2000年以前からのものだったようです。また、このへんよくわかりませんが藤野教授の研究対象であるフランクフルト学派のアドルノ、ホルクハイマーにもそういう独特の言葉の性質があるらしいです。

 
 そして、愛はアイデンティティを揺るがす。

 テイラーによれば、(ぼやき:テイラーも読まなきゃなあ)私たちは、自分が自分にとって特別に価値があるとみなす物事が、私にとって重要な他者/私が愛する人間との関係の中でしかもたらされない。その人間は、私のアイデンティティの一部分をなす。
 いいかえれば、「重要な他者がわれわれのアイデンティティの内部にまで食い込んできており、われわれ自身の一部をなしている」(藤野)ということなのです。

―「食い込んできている」っていう言い回し、良くないですか?
 このブログでも正田は時折ぼそぼそ「中嶋先生」とか、言ってますけどね。はい、食い込んでるんです。

 それは、「自律」を揺るがすことであるかもしれない。
「自分自身の判断にしたがって行動しているつもりでいても、実は、私は、自分の一部分と化してしまっている内なる他者によって動かされているのかもしれないのである。」(p.113)

―うん、否定しませんね。
 逆に、以前にも書いたような気もしますが、わたしにとっての「自律」は恩師がつくってくれた、という感覚があるんです、わたしの場合。
(ちなみに恩師は、「片付け」については、お手本にならなかったみたいです)


 閑話休題、 
 愛のもたらす幸福感。
 自由でなくても平等でなくても愛し合っていれば幸福、という特殊な状態があります。
 「藤野節」が冴えるところです。

「つまり、われわれは、自由と平等が揺らいでいるにもかかわらず、幸せに感じる、いや、まさに揺らいでいるからこそ、幸せに感じる、ということがあるのではないか。ある特定の人からかけがえのない存在として特別の処遇をうけることの内にこそ、また逆に、ただ一人の特別な存在んために特別の尽くし方で接することの内にこそ、我々は生きることの充実・喜びを見い出すということがあるのではないか。また、自己と他者の境界がぼやけるほどに二人の存在が互いに食い込みあい、そのようにして自分で動いているのか相手に動かされているのかすら定かでなくなってしまうような状態の中でこそ、そのような一体感の中でこそ、最も強烈な幸福感が経験される、という可能性がありうるのではないか。とりこになることの幸福。しかも、それを、宗教的帰依=自己否定というような特殊な事件においてでなく、たとえば、家族への愛というようなごく日常的なありふれた出来事の中で、人はリアルに経験しているのではないか。」(p.115)

「だから、相手を独り占めにしたい、と欲するとしても、それは、他者を自分の思いのままに動かしたい、操作したい、と欲することと同じではない。例えば、政治的支配のような一方的操作への欲求ではない。アイデンティティの相互嵌入を前提とする独り占めなのだ。だから、「私はあなたのものよ(僕は君のものだ)」という―あからさまに所有関係を表わす―言葉は、にもかかわらず、真正のものだ。そこからうまれる幸福感は、自由な人間同士の対等の交渉を通して得られる充実とはまた別種の幸福感だ、と言うことができるだろう」(p.116)

「「恋は盲目」という言葉がある。恋愛における感情の激しさが、理性の冷静さと対比して考えられている。しかし、愛はただ激しいだけのものではない。恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」(pp.116-117)

―というわけで。
 家族の話に戻ると、利害や目的合理性を根拠としてではなしに成り立つ家族というものは結局こういった情動、愛に基づくものであるしかないだろう、と筆者。それは「自由」や「平等」一本槍では仕切れない空間となります。

 しかしそれは当然、感情というものの不安定さに家族をゆだねることになります。

 そこで、現代ドイツの思想家アクセル・ホネットが出てきます。
 ホネットは、
「現代の家族が置かれている状況は、むしろ、家族の中で「正義・自由の原理」を強化することが要請される、そのような状況である、と指摘する」(p.117)

 たとえば、子供は両親の関係が動揺し感情が安定を失ったとき、その不安定さから守ってくれるものがない。夫婦関係の中でのDVも同様で、感情だけをよりどころとする家族は暴力からも無防備である。

「親の気まぐれな暴力から子供を守るための権利条約を制定するよう求める運動や、夫婦関係内部での女性に対する身体的暴行を刑罰の対象としようとする動きは、こういう状況に直面して、家族を、社会的公正の領域に再度つなぎとめなおそうとする試みであるとみなすことができるとホネットは指摘する。」(p.118)


 結論として。

「家族を「愛」一辺倒で仕切るべきだ、などと性急な結論を出してはならない。そうではなくて、「正義・自由の原理」と「愛の原理」とが拮抗し葛藤しつつも辛うじてきわどいバランスが保たれている危うい緊張の場として、家族を位置づけることだ。」(p.120)

「「私だけのあなた」「自分の命よりも大切なわが子」といった表現は、それがどれほど「押しつけがましさや「大きなお世話」として受け止められかねない危険をはらむものであろうとも、だからといって決して無碍に退けてはすまされない、家族の実質を言いあてている。「私だけのあなた」と「みんなの一人としてのあなた」という論理的には衝突するはずの二つのありかたを、にもかかわらずなんとか両立させようとして骨折られるアクロバット的綱渡りの場―それが「家族」なのだ、と言えば、私は再び、愛や家族を冒険としてロマン主義化する誘惑に屈してしまっていることになるのだろうか」(p.121)

 
****


 「家族と所有」は以上です。

 なぜこの一篇を特にとりあげたか、というと、やはり現代を覆う「愛の危機」というもの、そして私の立ち回り先だけなのかもしれませんが一部での「愛」への関心の高まり、が背景にあります。

 この問題については当ブログの読者の大半を占める今家庭持ちの人ならだれでも一家言ありそうなものですが、ここで藤野教授が言うように「愛」は、強烈な幸福感を産み出す一方で差別や闘い、憎しみも産む、アンビバレントなものであります。それでも特に近代以降、人類は「愛」に魅入られてきました。
 しかし現代、ある世代以降はそれに伴う多大なエネルギーを負担することを避けているようにみえます。

 この事態をどう捉えたらいいんでしょうか―、実は今読んでいる別の本に昨今の子育て事情の変化と、新しい子育て法二世が育ってきていること、そして育ってくる子供たちの変容、が扱われていて大変興味深いです。いえ、暗澹となる、と言ったほうがいいかもしれません。

 ひょっとしたら、藤野教授は今年59歳の方ですが、ここにみるような「愛」観は今50代のおじさんおばさんだけが共有できるものかもしれません。いや、下の世代に伝承していけるのでしょうか。それができるとしたらどんな隘路を通じてでしょうか―。
 以前にこのブログにそのへんを自分の感慨としてぼそぼそ書きましたが読者の方はご記憶でしょうか?

 また、「上司部下関係に『愛』の感情はないのか?」
 これは特に受講生様やこのブログ読者の皆様にはご関心の高いところで、先日さるところで早速そのご質問をいただきました。
 「承認は上司から部下へ「愛」と「力」を伝えられるものですね」
 過去にはそんな印象的なコメントをくださった現役マネジャー(男性)もいらっしゃいました。
わたしの周囲の人は現代日本でもかなり特殊かもしれません。
 
 この辺は藤野教授にご質問を投げさせていただきたいところです。


 もうひとつ蛇足的に、、

「恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」

 ここで言われているような認識の世界は、実は、これほどまでに細やかではないかもしれませんが、「承認教育後」の上司部下関係(上司から部下へ)では、実現できるものです。
 ただひとりのパートナーや家族に対するほど濃密でなく、また視野狭窄でなく、しかしそれまでの段階よりははるかに緻密にきめ細かく、そして視野は広く。
 
 なので「愛」の、家族愛よりは一段階薄まった形、のようにも思えるのです。

 


 他の二篇はまた、私個人的に勉強したいものなので、今後の記事でご紹介したいと思います。

 この論文を「ヘーゲル承認論」カテゴリに入れるのが適切なのかどうか。暫定的に入れておきます―

※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)


正田佐与
 

ジェンダーにおける「承認」と「再分配」

 『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」―格差、文化、イスラーム』(越智博美+河野真太郎編著、彩流社、2015年3月)という本を読みました。


 アメリカでは承認論と公民権運動、とりわけフェミニズムや性的マイノリティが市民権を得るための運動とが分かちがたく結びついて独特の政治空間を作っているもよう。

 正田はフェミニズムと従来やや距離をとってきたつもりだったのですが、最近の格差社会ぶりとそれに連動した女性の貧困という現状をみるに、そうも言っていられなくなってきた感があります。
 そもそもフェミニズムに対して良い感情を持てなくさせられていたのは、最近このブログに登場したようなわが国の反動的男性知識人(=ミソジニーお爺さん)たちの陰謀だったのかもしれない。


 そして、こういうヘーゲルをはじめドイツ観念論を源流とした「承認論」と、まったく次元の違う無根拠なネットスラング、罵倒語としての「アンチ承認欲求論(=承認欲求叩き)」、それに正田のやっているような実践の世界の「行動承認」、これらが同時並行に存在しているのがわが国の状況。

 正田は当然前者の「承認論」にシンパシーを感じています。従来は「アンチ承認欲求論」のほうはめんどくさいから、無視してきました。ただどうも無視しえない勢力になってきて本業の教育のほうにも影響が出てきたから、今年本格的に「承認欲求叩き批判」を開始した、というかんじです。床をあけてみたら想像以上にゴキブリの巣窟になっていたぜ、みたいな。
 新しく「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリを作りました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056406.html

 それはちょっと脱線でした。
 本書『ジェンダーにおける…』は、十三章からなる本ですが実は第一章「承認論とジェンダー論が交叉するところ」に目が釘付けになってしまい、その他の章はちょっとお留守です。
 それぐらい、インパクトのある第一章です。「承認」について、「愛」について、わずかなページ数で多くを語っています。

「はじめに」(越智博美、河野真太郎)より。


「本書は、一橋大学のリレー講義「ジェンダーから世界を読む」をもとに構想されたものである」
と編著者らは言います。

「そう、経済格差は自己責任という個人のレベルでのみ語れるものではないのだ。そしてこのことに今、世界じゅうが気づきつつある」(p.5)

「2014年の12月には、ついにOECDが『トリクルダウン』はしないどころか、格差があることが経済成長を妨げると述べ、従来のネオリベラリズム路線に修正の必要があることをみずから認めるに至った。この制度はおかしいのではないか、限界なのではないか。そのような感情が、おそらくトマ・ピケティの「21世紀の資本」(2013年)が爆発的に受容される裏にはある」(pp.5-6)

「フェミニズムにおける承認は実のところ再分配と切り離せないものではないか。現在の苦境はなにより、承認と再分配を並び立たない問題、ジレンマとして捉える発想にはまり込んでいることにも一因があるのではないか」(p.7)


 そしていよいよ
「第一章 承認論とジェンダー論が交叉するところ」(藤野寛)

 ここでは「承認」の語義の検討から入ります。大事なところです。

 「承認」はドイツ語ではanerkennen 。
 辞書的には、
「正当と認める、承認(是認)する、認可(認知)する、(他人の功労・業績などを)認める、賞賛する、高く評価する」。

 というわけで、日本語に移すときほんとうは「承認」よりは「認める」のほうが適切なのだ、と筆者。
 「承認」というのも名詞化する必要上、しょうがないんでしょうけどね。
 そうそう、わたしドイツ語わからないから困ってたんですよ、このへんのこと。

 では、日本語の「認める」にはどんな意味、どんな用法があるか。

,海亮更塢提案をお認めください。
∋愼涯鬼韻貿Г瓩蕕譟△箸討盍鬚靴ぁ
上空に何らかの飛行物体を認めた。
こ慊垢呂茲Δ笋自らの非を認めた。



 このうち、ドイツ語のanerkennenが表すのは´↓い澄△班者。

 ただの認識と「承認」を分かつものは「肯定的な価値評価」だと筆者は言います。「正当と認める」「是認する」「賞賛する」「高く評価する」というように、対象や相手に対して肯定的に向き合う姿勢が意味されている。

 それは、自然科学で使うような冷静・客観的な認識とは異なる性格のものだ、と筆者。


「その際、この観点がはらむ破壊力の深刻さは、ささやかなものではない。その点は、「事実と価値」に関する学問論的理念を思い浮かべるだけでも、容易に明らかになるだろう。いやしくも学問に携わる者は、(客観的)真理認識のために、まずは、価値判断に関わる自らの先入見を括弧にくくり、価値中立的な姿勢で事実そのものに向き合わねばならない、とする理念である。ところが、承認とは、そもそも対象や相手に肯定的価値評価をもって向き合う姿勢なのだ。」(同)

「そして―承認を認識から区別した上で―ホネットは、承認が価値中立の理念を裏切るにもかかわらず、承認を斥け認識に就くことを要請するのではなく、「認識に対する承認の優先性=先行性」テーゼを掲げる。つまり、承認こそ、人間の態度としてより基底的・先行的であり、認識という姿勢は、そこから派生ないし逸脱し、頽落し、むしろ、疎外されたあり方である、と主張するのである。われわれの世界に対する態度は、はなから、価値評価含みである。価値評価抜きに、中立公正に、客観的に世界と向き合っているのではない。関心によって駆動されており、魅かれ(angezogen)、あるいは反発する(abgestoBen)。」(pp.21-22)


―ここでは、現代ドイツを代表するヘーゲル研究者、アクセル・ホネットが繰り返し引用されているので、引用文中に「ホネット」が多出することをお許しください―

 「認識に対する承認の優先性=先行性」。すごいこと言いますねホネット。認識論については、正田のヒューリスティック趣味も認識論みたいなものですが、それとは別に、たしかにそうなんです。「承認」をやってると、いわば「温かい見方×冷たい(純粋客観的な)見方」の対立というか乖離がうまれます。ところが「承認」的な温かい見方がポジティブバイアスで間違った見方かというとそうでもない。対象者が人間の場合には、温かい見方をされることがむしろ自然の摂理にかなっていて、「生物学的に」成長することにつながり、ひいては多少贔屓目にみた見方が現実のものになってしまう、というのはよく経験するところです。あんまりバカ高い期待をしてもいけませんけれど。

 逆にこの後の記述で言う、「客観的とはいわば疎外されているのだ」、詳しく言うと、

「世界を冷静、客観的に認識することは、それはそれでとても大切なことだが、ただしその時、世界はわれわれにとってすでに「疎遠な」ものになっている。単なるモノの世界、死せるモノの世界、物象化された世界、その意味で、疎外状態にある世界である。こう考えるとき、「価値自由」という理念に拠る学問という営みは、すでに疎外の内にある世界との関わりであることになる。」(p.22)


 そういう「認識論のコペルニクス的転回」のようなことを、現代の承認論者ホネットは言っているというわけです。
 受講生様方おわかりになりますかしら。でも実践してみると、感覚的にわかるでしょ。

 よく、「承認」に関する拙著を読まれた方で「こういう体の構えが大事なんですね」ということを言っていただく、それは要はここでいうような、「純粋客観に先んじる肯定的な見方」ということを仰っているのかもしれません。


 そして承認概念には3つの型がある、と藤野はいいます。
 
 すなわち


⊃邑尊重
6叛喇床


 順番にみてまいりましょう。
 このあたり重要な記述ばかりで引用が続きますが大丈夫かなこんなに引用して。



「愛とは、相手を自分にとって大切な存在として認める、ということであり、その意味で、承認の一つの形である、と言うことができる。(略)その上で、そこにさらに、相手に対する情動上の強い結びつき(Bindung)がつけ加わるのである。
 結びつきとは、拘束とも表現されうる事態である。愛する相手に、私は―強く言えば―縛りつけられている。相手の一挙手一投足に一喜一憂するのだから。その意味で、愛とは、不自由の別名である。そして、にもかかわらずその拘束が、それほどにも大切な人が存在すること自体において、愛する当人に最強度の幸福をもたらしてくれるのである(もちろん、相手を憎みつつ縛りつけられているというケースもあるわけだが、それは、愛の形としてはすでに一種の倒錯であると言うべきだろう)」(p.23)

 ―ここは後で出てくるような母子関係を言っているともとれるし異性愛について言っているようにもとれますね。この藤野寛氏は1956年生まれの一橋大学教授、哲学者ですがまあ愛というものをビビッドな言葉で語るひとですね

「こう考えるとき、われわれが自由の語の下に考えているものの両義性もまた露わになってくるのではなかろうか。「他者=異なるもの」との結びつきを否定し、それから解放され、それなしに自足・自存し、さればこそ他者を自在にコントロールしうるポジションにも立ちうる、ということが、「自由」の語の下に考えられているのだとすれば、それはある意味で、疎外の一形態だとこそ言わねばならないのではないか」(pp.23-24)

「ホネットは、愛の説明において、「異なるものの内にあって自己自身であること(Selbstsein in einem Fremden)というヘーゲルの規定を援用する。この逆説的な規定を、ホネットは、さらに「愛という第一次的な関係は、自立性と拘束との間できわどくバランスをとることにかかっている」という風にほぐして解説する。「共生における自己犠牲と個人としての自己主張との間の緊張関係」とも言いかえられる消息である。愛とは、相手に対する感情面での「依存」を不可欠の要素として含む経験であるけれども、それは否定的に表現すれば「依存」ということになるだけであって―ヘーゲルに倣って―積極的に「異なるものの内にあって自己自身であること」と表現することも十分に可能な事態なのである。」(p.24)

「愛の経験の基底には―拘束と捉えることも可能な―相互依存的な結びつきがある。そして、この結びつきこそが相手に対する細やかでありながら熱い関心と働きかけを可能にする土台となるのだ、と言ってよいだろう。それは「助ける」ということの土台をなすものであり、「ケアの倫理」において浮き彫りにされてきた事態である。自由というあり方が、関係からの解放、その上で、関係のコントロールを志向するのに対し、愛の経験は、関係への沈潜、没入を下支えする。」(p.24)

「愛における共生に関する論述を、ホネットはしばしば、母子関係をモデルに展開してゆく。それは「すべての形態のより成熟した愛の基本的雛形として捉えられうるものだ」とも言う。その際、「成熟」とは何をすることか。その内容の一面は、乳児が、母親の内にも自らのそれと同じ「意図をもった行為者」を認めることにあるという。つまり、母親が、自らの欲求に無条件に応えてくれる、ある意味で、奴隷のような存在であるわけではなく、彼女にも彼女の人生があることを認め始める、ということだ(フロイトなら「欲動断念」というところか)。子の母に対する承認という場合、まずは、相手に対する全面的な信頼が前提にあり、自らの欲求に必ず応えてくれる存在、そのような大切な存在、ということが出発点にあるわけだが、その上に、相手を自律した存在として認める、という異なる方向性の承認(=尊重)が積み重なってゆく。親離れとも表現可能な事態であるが、生後九ヵ月あたりにそれが起こり始めるというのが、近年の実証研究の明らかにするところであるという(「九ヵ月革命」という表現すらあるのだという)」(pp.24-25)

「愛というこのタイプの承認にあって特徴的なことは、それが、特定の個人と個人の間で成立する承認であって、言うなれば、人を選ぶという点にある。われわれは、誰彼かまわず―その意味で、平等に―人を愛するのではない。ある特定の人と―その人とだけ―強く、深く結びつく。分け隔てを特徴とする承認であって、それは、普遍主義的基準を立てれば、欠点ともみなされうる特性である。(略)愛や介護(ケア)を女性の十八番として称揚する場合でも、その視野の狭さを確認して否定性をほのめかすということはしばしばなされてきたのであり、それに対して、男は人類社会に正義を実現しようとする志において偉い、というような話にもなる。だからこそ、愛さえも普遍化しようとする試みが「人類愛」や「隣人愛」の名のもとに繰り返されてきたわけだが、これは「究極の依怙贔屓」としての愛の本質を見誤り、それを薄めて解釈する振舞いだ、と言わざるをえない。」(p.25)

「ただし、ホネットは、愛の経験の重要性を倦むことなく強調しつつも、それを女性という一方の性に割り振る、という理論構築上の誘惑には一切屈しない。愛という形の承認は、言わば、人間的経験として重要なのであり、女性の占有物ではない。ホネットは、これまで女性の十八番に祭り上げられ、そのようにして女性に独占的に押しつけられてきたものを、人間全体に、ということはつまり男性にも奪い返そうとしているのだ、と言ってよい。
 考えてもみよう。仮に、ホネットが母子関係の内に愛という相互承認の形のいわば原型のごときものを見出すとしても、そこから、愛が、母(となりうる存在)にのみ帰する、との結論は決して出てはこないのだ。なぜなら、すべての子供が―女の子も、男の子も―母子関係における愛の経験を経由して大人になるのだから、その意味すべての大人はかつての子供として愛の経験のエキスパートなのであり、だからこそ、逆に、この時期に愛の経験を拒まれた幼児は、その後の成長過程において、しばしば深刻な心理的負荷を抱え込むことになるという点を、ホネットは繰り返し強調することにもなるのである。」(pp.25-26)



⊃邑尊重としての承認

 「基本的人権」の概念って、基本的にドイツ観念論の「承認」をよりどころにしているんですよ、ご存知でしたか。「すべての人が人格として承認される、尊厳を剥奪されない」ということを言ってるんです。

 
「承認論は、避け難い仕方で倫理学的問題に関わる。なぜなら、承認には肯定的評価が含まれるから。ただし、肯定の仕方には様々なタイプがありうる。例えば、人間として認める、という語用。これは、人間にカテゴライズする(人間という範疇に入れる)ということであって、プラスの点数をつける、という意味での肯定的評価ではない。「ある範疇に認め入れる」ということである。人権尊重とは、何か肯定的な資質・能力の故をもってプラスの点数をつけることとは関わらない。あえて言えば、その範疇に認め入れること、そのこと自体が、肯定なのだ。」(pp.26-27)

―重要な箇所。「あるカテゴリーに認め入れる」という作業を「承認者」の側からするとき、これは「被承認者」の「所属欲求」という名の「承認欲求」を満たしてやっている、と言いかえることもできる。
 一方でこれらはきれいに1対1の対応関係にはならないであろう、というのは、「あるカテゴリーにに認め入れられる」というのが、「被承認者」にとってはかなり大きな背伸びである場合があるからだ。
 よくTVで流れる「認められたい」という語には、このパターンが多い。
 例えば:
・芸人として認められたい。
 これは、その世界のプロとして認められるということは膨大な数の志願者の中から氷山の一角のようなきわめて低い確率で、人並み外れた努力をし才能を発揮することのできた者のみが「認め入れられる」わけであるから、単なる就職をするような「カテゴリーに認め入れられる」ことを意味しない。極めて高いレベルの集団に「認め入れられる」、いわば、第三のタイプの「公正な業績評価としての承認」によって、「最高ランクの集団に振り分けられる」ことを意味する。
・外国人嫁が日本人の姑に嫁として認められたい。
 これも、姑の「差別意識」というか「外国人への違和感」があるところから出発して、自分の努力によってそれらを取り除きたい、そこで初めて家族の一員として「認め入れられ」たい、ということ。極めて高い障壁を乗り越えたい、という願望を言う。
 そこでは、「認められる」ことに対して自分の側が努力を惜しまない、という姿勢がある。数年がかりの努力をするだけのファイト、ガッツがある。

 こういうことをNHKなどで「承認欲求」の言葉として「認められたい」と繰り返し流していることに、わたしなどは違和感をもってきた。
 もっとハードルの低い日常的なところに「所属し、認められたい」はゴロゴロ転がっているのではないか?ということ。
 お砂場の遊びともだちでも、学校の友達グループでも、あるいはボランティアグループでももちろんアルバイトから始まって正社員まで、ともに労働をする仲間としても。
 もちろんそうした場で「承認を剥奪」することはそれだけで残酷なことである。

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「残る問題が、承認の第三のタイプ、即ち業績評価である。このタイプの承認は、公正な再分配が行われるための前提をなすものであり、したがって、「再分配か、承認か」という「あれか/これか」は、公正な業績評価(としての承認)に基づく再分配か、文化的アイデンティティの承認かと、二つの承認のタイプ間の「あれか/これか」という風にもパラフレーズ可能であると思われる。」(p.27)




●三つの承認の型の相違と相互関係

「愛は、限られた相手・対象に向けられる承認である。すでに確認したように、すべての人を愛する、ということはありえない。ある特定の人だけに向けられる承認、それが愛である。普遍・特殊・個別というカテゴリー・セットで言えば、(略)愛は一人の個人のみを対象とし、つまりは、個別に関わる。もちろん、子の親に対する、あるいは逆に親の子に対する愛のように、相手が複数となり、そのように愛の対象が拡張されることは大いにありうるのだが、だからといって、その拡張が融通無碍、無際限ということはない。とにかく、愛は人を選ぶ(差別する)のである。」(pp.27-28)

「それに対して、第二の承認の型である人権尊重は、普遍性志向を特徴とする。人を人として尊重(承認)するのは、人であるという点以外の特質は無視する、ということであり、愛が究極の依怙贔屓であるのとは対照的に、こちらは、一切の差別を峻拒する。」(p.28)

「普遍性へのこの関係は、第三の承認の型である業績評価にも認められるものだ。それは、評価基準の普遍性を前提する。つまり、公平で偏りのない基準に則る評価でなければならない、ということだ。ただし、この承認は、その結果においては差をつける。立派な業績は高く評価し、見劣りする業績はそれ相応に厳しく評価するのでなければ、公正な業績評価は成り立たない。誰にも同じ点数をつけることで差別を回避していては、評価(という承認)をしたことにならない。この点で、愛という承認との違いは歴然としている。親は、我が子が優れた能力・資質を備えるから愛するのではない。その意味で、親の偏愛は許されると思うが、教師が愛をもってクラスの生徒に接することは認められまい。」(同)

「これを、同一性/差異性というカテゴリー・セットに即して言えば、第一の承認が徹底して差異性の承認である(「あなただけを一途に愛す」)のに対して、第二の承認は同一性の承認であり(「あなたも私も同じ人間」)、第三の承認は、同一性を基準としつつ結果として差異を志向するものだ、と整理できようか。」(p.29)


●承認か再分配か

「しかし、ホネットにとっては、問題は「再分配か、承認か」という二者択一の形をとらない。承認か/認識か、承認か/再分配か、ケアか/正義か―これらの定式化は、いずれも二者択一を迫る点で、問題を捉えそこなっている。承認の経験の上にこそ、正義も成り立つ。後者を成り立たせる、いわば可能性の条件として、前者の意義を浮き彫りにすること、それがホネットの戦略である。(略)ホネットからすれば、批判的社会理論の改訂版にとって、承認こそより基底的な概念となるのであり、フェアな再分配のためにこそ、適切な承認がそれに先行しなければならない、と考えるのだ。」(p.31)

「承認を欠落させた再分配の試みは、適正な承認を伴うことは決してない」(p.32)
例:女性が担い手となる労働は低く評価される。労働の実際の内容にかかわらず。
⇒このようなバイアスが厳然としてあるからこそ、労働の価値は承認によって公正に評価されなければならない、と解される


●イデオロギーとしての「承認」?

 承認が差別や役割の固定化をもたらすという懸念はある。

「イデオロギーとは、虚偽意識の算出のメカニズム、という意味であり、承認はそれではないか、と自問される。ホネットは「承認という実践は、主体の強化ではなく、逆に主体の屈従という結果を生み出す」というテーゼを立て、自律ではなく、全く逆に自発的な屈従を生み出す巧妙な社会的装置としての承認、というこの論点を、さらに次のように解説する。」(p.36)

―例えば「良妻賢母」やアンクル・トムの卑屈な美徳に対して繰り返される賞賛。

―そういう承認はしないでくださいね受講生様。おおむね、「行動承認」に特化していれば、そういう間違いに陥らないですむ、と考えるわけですが油断は禁物。反動男性知識人なんかは容貌を褒めることで女性を自分の都合のいいように仕立て上げようとしますからね、要注意です。


「しかしホネットは、単純な価値の多元主義・相対主義を採らない。複数存在する価値評価基準をさらに比較しうる、いうなればメタレベルの価値を想定するのである。自律である。より高度の自律性を人に可能にする承認こそ、より適切な承認だ、とする論法である。そもそもなぜ、承認されるという経験が決定的に重要視されることになったのか、という着眼点は、それが人間の自律性を強化する、という点にこそ見出されたのだった。

 肯定的に評価するという態度は、明白に、積極的な性格を有している。というのも、そういう態度は、賞賛の向けられる人に、自己自身の資質と同一化し、従って、より大きな自律性に至ることを可能にするからである。」(p.37)

―不思議というべきか、「承認」によって「自律性」が育つという現象は確かにあります。いずれだれかが証明してくれるでしょうけれど。行動承認はそのためにやはり大事です。


「〔承認論の〕試みの全体は、そもそも、承認の欠如ないし不十分さという社会現象を起点として批判的に推進されてきたもの以外ではない。視野に収められるべきは、屈辱を味わわされたり尊厳を傷つけられたりするという現実の経験である。その経験によって、主体は、正当な理由ある社会的承認を与えられず、それに伴い、自律性を育てるうえで決定的に重要な条件を差し控えられてしまうのである。」(p.38)

―そうですね、残念ながらわたしにとってもやはり「承認欠如」の状態をみることが「承認教育の必要性」を繰り返し提唱する動機づけになっていると思います。「承認欠如」は自分にとっての、じゃないですよ。世間の、とりわけわが国では評価されることの少ない良心的な女性の働き手たちについて、思います。
 

 第一章からの抜き書きは以上です。
 このあとの章はわが国におけるフェミニズムの現状や性的マイノリティについての言及が続きます。それなりに興味深いんですが―、


「第十三章 表象=代表(representation)、知識人、教育」(中井亜佐子)から、マララ・ユスフザイに関する記述を抜き書きして、終わりたいと思います。

「彼女(マララ・ユスフザイ)はここ(国連スピーチ)で、みずからrepresentationという困難な任務―表象でありつつ、代表でもあるということ―を引き受けている。それはまさに、スピヴァクが定義する意味での「知識人」の任務でもある」(p.303)

「しかし、マララ・ユスフザイの教育への熱意に接するとき、わたしたちはみずからの教育に対するシニシズムを、いったん学び棄てる必要がある。彼女の言葉はわたしたちに、教育とはなんであったか、あるいは未来においてどのようなものでありうるかをあらためて思い出させてくれる。」(p.308)


「ここでユスフザイが使う一人称複数代名詞「わたしたち」は、「教育という大義のために」団結する人びとを指しているが、「わたしたち」はまた、教育を通じていっしょになり、団結する。知識は「武器」であり、団結は「盾」となる。(略)そして、この「わたしたち」の立ち上げそのものが、彼女にとっての教育の目的でもある。この瞬間、わたしたちが目撃しているのは、representationという任務をみずから引き受ける女性知識人の誕生である。」(p.310)


※藤野寛(第一章の著者)論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)


 


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 さて、今日の記事は正田のアホみたいに真面目な性格が書かせる、1つ前の記事についての補足です。


 1つ前の記事「ある少女の転落と『承認』、それに学校の役割―『人間形成と承認』をよむ(下)」では、ヤニカというドイツ人の少女の非行に至った過程に「承認欲求」と「承認の不在」がどうかかわったか、というお話を書きました。


 こういうお話は世間にごまんとあるはずで、ひょっとしたら承認欲求の極端に強い性格が犯罪とか非行に関連づけられる、なんていう結論がいずれ出るかもしれません。

 いっぽう。

 当ブログでは従来あまりご紹介しなかったタイプの話なのでそこそこインパクトはあったかもしれませんが、やはりこのタイプの話を紹介することは誤解を招くおそれもあり、今後はちょっと控えようかと思います。


 といいますのは、何度も書きますように、2011-13年ごろに出た世間の「承認欲求本」で「承認欲求」と「若者の非行」を関連づける言説というのは既に出尽くしたぐらい出ているからであります。そうした書籍に出てくる「承認欲求」はグロテスクであります。

 そちら側からばかり「承認欲求」を語っていると、まるで「承認欲求」が非行に走る少年少女にだけ特有の危険な性質のもの、というふうに見えかねません。

 恐らくその文脈の上に、昨年の有名な心理学本の「承認欲求は満たされると思うな」という、悪者扱いしているかのような記述があり、それを読んだらしい人の「僕には承認欲求はありません(注:正田の観察では本当はありあり)」という言葉や態度になったのだと思われます。

 しかし、それは非常に偏った見方です。

 3つほど前の記事に書きましたように、「承認欲求」は「食欲」と似ていて、適切に満たしている限りよいものです。まれに極端に強い「承認欲求」の持ち主がいて、問題行動につながる、そういう時にだけ意識されやすいですが、本来そんな極端なものではありません。だれしも程度の差こそあれ「承認欲求」はもっていて、普通は常識的な範囲に収まっています。そしてだれにとっても、「承認欲求」は「良い仕事をしよう」というモチベーションになります。むしろ、「自分には『ない』」などと自分に言い聞かせやせ我慢をしていることのほうが、問題が多いです。それこそ問題行動につながったり、こころを病んでしまうかもしれません。

 
 ですので、「問題行動に走ったとき初めて『承認欲求』に注目する」という態度自体をやめたほうがいいのです。
 それは、まかない係の怠惰ゆえに飢餓状態に追い込んでいるようなものです。

 普通に「与える」ことを習慣化してしまえば、ほとんどの人は良い方向に行き、学業成績が上がったり有能になります。少数の例外として、ますます欲求がこうじてエスカレートしてしまうタイプの人がいるだけです。

 「承認欲求」は、決して、虞犯少年少女だけが持ち合わせているものではありません。
 この記事を読んでいるあなたにも必ずありますから、安心してください。
 

 なので今日の記事はほとんど、3つ前の記事「長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について」の焼き直しのようなものですが、

 「ヤニカ」の事例のインパクトのために、このブログが慎重に避けてきた「承認欲求」に関する誤解を招いてしまうと非常にもったいないことになるので、あえて再度この記事を書きました。


 「承認」は、「普通に」与えましょう。「与える承認」は非常に大人の行為で、美しいものです。

 欠乏状態は異常なので、つくらないよう努力しましょう。また、常識的な範囲の「承認欲求」をやせがまんすることもやめましょう。
 



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与



 追記:
 でもまた思いました、
 正田は時々立ち回り先で人様からひどいことを言われることがあるんだけどあれはどういう心理なのだろう?と考えたとき、その人は「ヤニカ」の状態なのだなあ、と思いました。自分を承認してくれない学校を全否定しているのだなあと。
 正田が象徴する「承認」の「学校」のような世界では、「承認」の実践者のマネジャーたちが奇跡のような成果を手に入れ、かつ正田から心からの賞賛を受けます。
 「承認」の実践者でない人はそのような賞賛は得られません。実践者がもらう賞賛の甘美さを知っている傍観者の人たちは、そこで「承認されない」気持ちを味わいます。学校で「ダメ生徒」のレッテルを貼られたような。あるいは「その他色々」に分類されたような。
 そこで、その人たちは自己イメージを守るために、「学校」や正田を全否定することで仕返しをするのです。
 正田なんにも悪いことしてないのに。
 そういうことが続いてきたから正田は疲れちゃったんだなあ。
 
 こういう読み解きのツールになるから、「ヤニカ」のエピソードがあったことはわるくないですね。


 『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)の読書日記の後半です。


 ここでは、ある少女「ヤニカ」のインタビューが出てきます。ヤニカは実科学校8年生を落第し、暴力行為のため退学となり、数日間の少年拘禁に処せられたあと生活支援グループホームないしは保護施設へ移される、というタイミングでインタビューに応じました。

 少女が非行に突き進む痛ましい事例の中に「承認欲求」「承認」はどう関わっているでしょうか…。


 「承認欲求」「承認」の問題行為への契機の側面について、当ブログではこれまであまり触れないできました。どちらかというと、世間の「承認欲求本」のほうにそれらの情報はあふれているから、という判断でした。

 しかし、この「ヤニカ」のインタビューは平凡ではあるが痛ましいものであるだけに、あえてご紹介したくなった次第です。

 当協会の教育に触れ、承認を「与える」能力を既にもった大人の方々は、無数の「ヤニカ」をそれと知らずに救っているかもしれない。そしてこれからも救えるかもしれないとの希望のもとに。


 以下、かいつまんで「ヤニカ」の事例をご紹介しますと、
 
 ヤニカは当初「基幹学校」(ドイツの中学生年齢の子が通う職業訓練校のようなもの)に通っていましたが、「通訳になりたい」と希望し、基幹学校には英語のクラスしかなくフランス語やイタリア語も習いたかった、レベルも低いなどの理由で、基幹学校で良い成績をとって実科学校に転学しました。

 ところが、実科学校に行くと、ヤニカの知識不足が明らかになりました。実科学校の教師たちは彼女が遅れを取り戻すことに積極的には手を貸しませんでした。ヤニカは7年生に編入しましたが実科学校5年生6年生の教科書をもらってしばらく独学で頑張りました。しかしその努力は実を結ばず、ヤニカの成績は8年生でさらに下がりました。

「ヤニカは授業への興味を失い、8年生を繰り返すことになった。そのクラスで3人の女子生徒と知り合い、彼女らといっしょに授業をサボり、挑発的な態度をとり、他の女子生徒を殴ったりした。」(p.114)

「実科学校は「それまでの家庭環境を超えた、将来のよりよい人生へのチャンス」を約束してくれる。そのため、抵抗にあってもヤニカは転校を言い出し、実行する。けれども、実科学校での成功とそれにかかわる承認は達成されないままである。基幹学校では優秀な生徒の一人であったが、実科学校では求められる知識や能力の面で遅れを取り戻せないため、その立場に再び立つことができない。彼女は軽蔑的に「天使」や「ガリベン」と呼ぶ他の生徒の成功を知っている。そして、授業の課題や校則にあからさまに背を向け、要求されることに取り組むのではなく、やりたいことだけをするようになる。」(p.115)

「コンフリクトのダイナミクス、すなわち学校での問題やコンフリクトの激化、家庭内の立場をめぐる闘争の激化、そして学校外での暴力の激化は、次のジレンマから生じている。すなわち一方では、職歴や社会的地位に決定的な意味をもつ場所、つまり学校での成功や承認を得るための努力がうまくいかなくなり(または、思い描いていた職業上の目標が結果的に実現できなくなり)、他方でヤニカは(学校や家庭や祖父母のもとで)ますます排除され、根本的な承認の拒否を経験しなければならないにもかかわらず、優越した人物という自己像や成功への要求に固執する、というジレンマである。」(p.116)


 ヤニカは、学校が彼女に与えたダメというレッテルが彼女の自己像と矛盾したため、学校そのものを否定しました。
 ヤニカは、判決後に送られた施設でも若者グループ内でイニシアチブをとり続け、インタビューの中でさえもインタビュアーとの間で優位性をかちとろうとします。彼女のすべての行為は「優位性を効果的に自己主張し自己描写するという課題」のためになされるのでした。すなわち、ヘーゲルの見出した「承認をめぐる闘争」でした。


 こうした「ヤニカ」の事例について、本書では続いて学校の役割について考察し、その中心的な観点は以下の4つであるとします:

ヽ惺擦砲ける公的、法的な関係の基礎。そこから発生する関係者にとっての権利と義務

学校が備える制裁力。もし生徒が義務を怠る場合、教育的な介入または規制措置を行う権限をもつ。

3惺擦人間形成(ビルドゥングス)ないしは教育という課題をもつ。生徒の個別の条件を考慮しつつ、必要な知識、能力、技術、価値観を伝達しなければならない。

こ惺擦備える選別機能。生徒の成績評価をし、異なる教育の進路に割り振る。

 
 著者の見解では、中核的な矛盾はとぁ△垢覆錣舛垢戮討了劼匹發紡个垢訖祐峽狙ないしは教育という課題と、学校のもつ選別機能との間の矛盾だといいます。


 ヤニカをめぐるここまでのお話、いかがでしょうか?

 わたしなりの理解は―、

 ヤニカは、「承認」を人並み以上に求めるタイプの少女だったかもしれません。彼女にとっての「承認」は、「突出して優れていると認められること、優位に立つこと」を意味しました。それは彼女独自の「価値観」あるいは「ニーズ」の世界であったかもしれません。
 
 こういう性向の人が望むような「承認」を得られるのは、それに見合うような突出した「能力」「才能」を幸いにももちあわせている場合だけです。
 残念ながらその均衡がとれていない場合、極端な場合にはヤニカがそうしたように暴力に頼って周囲を支配し、「承認」を得ようとする、ということが起こり得ます。
 また自分の望むように自分を評価してくれない周囲を完全否定することによって自己評価を守ろうとするかもしれません。

 こういうタイプの人がもし身近にいたら何がしてやれるのだろうか?

 賢明な読者のみなさまのご判断をあおぎたいと思います。



 本書ではこのあと「ドイツの教員養成」についてのお話が続きます。2000年のPISAにおいてドイツは読解(総合能力)で21位、「数学」と「科学」でそれぞれ20位という不名誉な結果となり、それに伴って教員養成の在り方が議論されたのでした。
 
 ここには教育の達成をみる指標として学業成績だけではなく人間形成を、という著者の主張も読み取れますが果たしてそれは可能なのですかどうか。

 とはいえわが国でも、過去にこのブログに登場された何人かの優れた先生方は既に取り組んでおられ不可能ではないのでした。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)という本を読みました。


 だいぶながいこと「ヘーゲル承認論」をお休みしてしまいましたが、「承認論」が現代ヨーロッパを中心に、「格差是正」「フェミニズム」など社会問題解決の文脈で語られるようになっているようで、ほんとはそれをフォローしたい(でもドイツ語は読めないし、訳文も言葉がむずかしいのでしょっちゅう投げ出している)


 本書は、教育学で「人間形成(ビルドゥングの訳語)」と「承認」の関係を扱います。

 ややこしいのは、現代ドイツにホネット(『承認をめぐる闘争』の著者)というヘーゲル研究の大家がいて、そのホネットの承認論をヴィガーという本書の著者が研究している、という「入れ子構造」になっていることです。

 かつ、やっぱり文がひとつひとつ難しくて、「この一文がきれいに全体の要約になっている」という書き方をしていないので、このブログでよくやるような抜き書きがむずかしい。正確に文意がとれているかどうかも自信がもてない。

 そのなかで比較的わかりやすい文では、たとえば:


「誤解のないように付言すれば、ヴィガー氏が『承認』を教育目的とするような議論を展開していないということは、彼が人間形成にとっての『承認』の意義を軽視しているということを意味しているわけではない。他者からの『承認』によって自らの人生の意味が変容してしまうほどに、私たちの生は『承認』によってあきらかに左右されている。ヴィガー氏による議論の根底にあるのは、そのような『承認』の意義に対する揺るぎない確信である。だからこそ、ヴィガー氏は、他者による「承認」と社会に適応していく側面がどのようにかかわっているのかをつぶさに読み解こうとするのである」(p.12)



 うんうん。まあ「承認は大事なものだ」ということは言っていますね。

 「ヘーゲル承認論」を読んでいて困るところは、そこでは「承認の有効性」が最初から所与のものとして語られてしまうので、いきなり「がん」と地平が上がっていて、普通の「承認」という言葉すら知らない人とかもっと他のものがモチベーションを左右するだろうと思っている人と対話するのに苦労するということです。本書もやっぱりその例にもれません。ぶちぶちぶち。まあ現代ドイツの教育学者が大真面目に議論しているから有効なんだ、と思うしかないのでしょうか。

 従来、「例示がない」のが難でしたが、本書のあとの方では、「少年へのナラティブ・インタビュー」などがでてきます。
 ヴィガー氏はナラティブ・インタビューを人間形成研究における手法と位置づけますが、そこでは「承認」がよりよい方向に作用したと思われるようなエピソードばかりではありません。

「「承認」を得ようとして非行と呼ばれる行為に接近したり、人生が暗転したと感じられたりするような事例も取り上げられている。「承認」というテーマが織り込まれた過程としての人間形成は、けっして肯定に捉えられることばかりではない。挫折や悩みなども人間形成の一側面であり、「承認」と深くかかわるできごととみなされる。」(p.12)
 

 よい方向への変化ばかりではなく、わるい方向への変化も「承認」の影響とみなせる、というのでした。あまりこの視点はなかった。しかし考えてみるとわが国では、「承認欲求」の暗黒面を描く文献が一時期溢れ、承認欲しさに「いじめ」「非行」に走る若者を取り上げてきたと思います。そしてそちらが先行してしまったので、「承認」そのものにダークイメージがついてしまっていました。本当は、いつもいいますけれど大人の人格の人が「与える」承認は、とてもいいものです。


ヘーゲルは一番はじめ、『精神現象学』において「承認」を提起しました。
 本書によれば、


「…『精神現象学』では、個人と共同体の関係が初めて前景に現れてくるのは、「理性」章においてである。そこでは、生命という全体の一部であるという自覚を得ながらも、欲望の対立のなかで強者と弱者へ階層分化しつつ相互に存在を承認しあう「自己意識」の段階を越えて、各構成員の単純な「我あり」の確信に立脚した不平等な相互承認から、客観的真理である「われわれである私と、私であるわれわれ」としての相互承認(共同体の設立)へと意識は高まっていく。」(pp.37-38)



 これもわかりにくいですねえ…(わかります?)

 思い切り我田引水的な解釈をしますと、
 不平等な相互承認、ということでいうと、先の記事でもとりあげた、「地位の高い人は既に地位からくる『承認』を受けている」。一方、部下たちにはそれは「ない」ものなので、そのままだと「不平等な承認」ということになってしまう。地位の高い人が意識的に「承認」の「与え手」となれば、地位の有無をこえて組織の一体感が出てくる、ということになります。いいのかなこの解釈。


 このあと本書にはナラティブな語りによる「事例解釈」が出てきます。17歳の少年、家庭的に恵まれず学業成績も振るわず暴力的傾向もあった、そういう少年に対するインタビュー。そこで恋人の死や尊敬する武術の師匠の死などの出来事を経て、彼が「人間形成」していくプロセスが語られます。彼のばあいの「人間形成」は、「自己規律化」という変化になります。(pp.57-67)


 本書には「行動承認」に関連するような記述もあります。後学のためにそこもちょっと抜き書きしておきましょう。


「総じて、差異の承認あるいは承認の教育学的要求(vgl.Rosenbusch 2009; Prengel/Heinzel 2004)は、理解しやすいが、あまりにも十把一絡の状態にある。それらの規範は明確ではなく、その根底にある対立はあきらかにされていない。一方で、他の人格の自立に対する尊敬の要求は、追体験でき、近代の法的関係において基礎づけられている。他方で、それは、あらゆる教育的行為とすべての人間形成過程が、まさに、知識や熟練した技能、態度や確信や行動にみいだされた状態の受容と承認を目標とするのではなく(vgl.Ricken 2009: 88f.)、それらの変容を目標とする限り、先の要求は、一面的であり誤解を招きやすい。むしろ、承認されるべきことの事実に関する説明と根拠づけ(そして場合によっては、十分に吟味すること)が求められる。その際、考えなければならないことは、行動動機と相互行為状況に関する、歴史的な可変性、社会的な制度設立、個々人の決定可能性である。」(pp.81-82、黄色は正田)



 …わかりますか?わたしは正直、黄色にした最後の2センテンス以外はよくわかりません。しかし自分にわかる都合のよいところだけ抜き書きするのはアンフェアかなと思って前のほうの文も抜き書きしたわけですが…、

 最後の2センテンスは、「承認するには根拠が大事だよ(行動承認)」ということと、「ビジネスプランなんかを承認する(GOサインを出す)ときは周辺状況もよく勘案しようね」といっているように読めます。


 その後にくる文章。

「承認が成果のともなう行動やうまくいったコミュニケーションを含意する限り、承認の願望や承認を目指す明確な努力は、失敗の経験や壊れたコミュニケーション関係を問題にする。そして、コミュニケーションの目的あるいは対象へ向けた承認が生じたかどうか、実際的な失敗や失敗したコミュニケーションの問題とともに失われた承認の問いもまた取り扱われるかどうかが、あきらかになる。」(p.82)



 これもわかったような、わからないような。原文のせいかなあ訳文のせいかなあ。ヘーゲルの時代の哲学者の文章がなぜ難解だったかというと、哲学書を読むことは当時の知識人や貴族の子弟の高級な楽しみであり、「高級感」をかもし出すためにあえて難解に書いてあった、とどこかで読んだことがあります。現代もそういう伝統に縛られなければいけないのかどうか。


 さて、ホネットの承認論です。

「ホネットは、承認の三形態―愛、法、社会的価値評価―において、一方では「さまたげられていない自己関係の可能性」(Honneth 1994: 8)に対する構成的な条件をみている。だが、他方で、『承認をめぐる闘争』の焦点として、軽んじられた経験を発生させる「社会的コンフリクトという道徳的倫理」(Honneth 1994: 8)もおいている。」(p.83)


 これをもう少し詳しくみていくと、

「私は、ホネットの理論的努力を、次に述べる根本思想の基礎づけの試みであると理解している。承認は、人間のコミュニケーションの基本的な道徳的内容であり、その意味において、社会構造や相互行為のさらなる発展の動因でもある。(中略)承認の動機は、「うまく切り結ばれた自己関係に到達するために」(Honneth 1994: 220)、自己実現に対する人間の関心、主体の「アイデンティティ要求」(Honneth 1994: 106)、相互主観的な承認への依存に、人間学的な根をおろしている。(中略)ホネットにとって、承認は、「社会的実存の基礎メカニズム」(Basaure u.a. 2009: 154)であり、総じて、社会に対して構成的である。「社会的統合の相互承認の型への依存は、変化しない。このことは、私にとって、まさに形式人間学的テーゼである。先鋭化していえば、私たちは、相互承認のメカニズムやある特定の型を越えて規範的統合が作用しないような、生存や生き残りに長けた社会の形をまったく想定することはできない」(Basure u.a.2009: 154)」(p.84、黄色正田)



 承認の三つの異なる形態である、愛、法、社会的価値評価。
 「軽んじられること(ミスアハトゥンク)の三つの形態は、この三つの承認形態に対応している」と本書はいいます。

「軽んじられることの三つの形態とは、暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪である。暴力的抑圧とは、身体的な虐待において、「自己の固有の身体を自律的に自由に用いること」(Honneth 1994: 214)に対する尊重が奪われることである。権利の剥奪とは、規定的な法の所有からの排除において、「道徳的な責任能力における認知的な尊重」(Honneth 1994: 216)が奪われることである。そして、尊厳の剥奪とは、文化的な格下げにおいて、社会のなかに織り込まれた自己実現の形態に対する「社会的同意」(Honneth 1994: 217)が奪われることである。ホネットは、「肯定的な自己理解のなかでの人格が傷つけられること」(Honneth 1994: 212)を通して、軽んじられる経験のなかに、「社会的抵抗やコンフリクト、すなわち承認をめぐる闘争へ向かう動機」(honneth 1994: 213f.)をみている。その意味において、ホネットの承認論は、「道徳的経験のダイナミズムに基づいて、社会闘争を説明すること」(Honneth 1994: 225)を要求する。」(pp.84-85)


 
 このあたりの文章は、むしろわかりやすいのではないかと思います。「軽んじられる」は、「承認欲求」という言葉や概念を知らなくても、だれにとっても不愉快な経験です。
 1つ目の「暴力的抑圧」は、戦争や、よくある虐待やいじめや、介護の現場での「拘束」の問題なども連想しました。
 3つ目の「尊厳の剥奪」は、1つ前の記事に出てくる「開会あいさつを頼まれなかったからとふくれてねじ込んだ」大学教授氏などもそうですが、もっと共感しやすい例としては、職場のLINEいじめなどもそうでしょう。

 このような社会的コンフリクトはすべて「承認の不在」として説明することができ、またそこで失われた「承認」を回復しようとしてさまざまな対立や闘争が起こります。被害者が回復しようとするのは自己への「承認」なのです。

 こちら側からの「承認」についての説明は、すごくわかりやすい。
 ただ、そうした悲劇的な文脈でばかり「承認」を語ると、やはりイヤなものとして意識されやすいですね。わたしは「承認」が「ある」風景の、活気ある躍動的な風景のほうをなるべく多く語りたいとおもいます。それがいわば人の性(さが)というものに逆らわない状態です。


 さて、このような「わかりやすい」承認不在の状態から「承認」や「人間形成」を説明ことにそれほど大きな意味はない、という見方もあるわけです。
 
 
 ジープという別のヘーゲル研究者は、この点でホネットとは違う立場をとります。

「ホネットは、軽んじられることの形態―暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪―を、承認の回復へむかう闘争の動機として説明している。それに対して、ジープは、次のように問う。軽んじられることの形態は、自己生成にとって、必要不可欠なのかどうか。「愛の確認、自律という法の承認、ある共通文化の維持への寄与や成果に対する価値評価への依存は、個人を抵抗力のない傷つきやすいものにする―だが、この傷つきやすさとその克服は、固定した自己尊重の人間形成にとって、必要不可欠なのだろうか?」(Siep 2009a: 195)


 前半の問いはある意味もっともかと思います。
 現代の「承認」されてたちどころにイキイキ働き出す若い子たちは、もともと「ほめる教育」の下で育ってきて、軽んじられた体験などないのかもしれない。それは幸せなことだ、と思います。
 一方、差別でも戦争でも、過去のイヤな記憶が残っている間のほうが良い状態を維持しようという努力も続けやすいわけで、最近のアメリカの黒人差別の事件などをみていると、差別を憎む力が弱ってきているのかな?と思ったりします。

 そして後半の問い、例えば若者は「承認依存」になってしまっていいのか?

 こういう問いを発してしまいたくなるのはすごくわかるんですが、わたしは、過去の「承認マネジメント」の世界で起きたことの経験からこのように答えたいです。

「子供や若者はもともと生物として『承認欲求』の強い存在である。仕事に入った若者に関しては、上司が初期には『承認』によって導き、次第に本人が仕事そのものと格闘するようになる。若者の目的は自然と仕事の完成度や、『お客様の喜び』といった、『上司の承認』とは別のものに移っていく。それも『承認』の供給元が交代しただけに過ぎないともいえる。」

「いずれにしても他者からの評価をまったく度外視した仕事というものは存在しない」




 次の文は、依然わたしは理解できているかどうかわかりませんが、前半の「まとめ」的なものです。


「ヘーゲルは、自我と他我の相互行為の関係の問題を、個人と共同体の関係とつなぎあわせ、自我と他我のパースペクティヴを自己―他者―我々の関係の理論パースペクティヴへずらしている。したがって、承認は、三つの極の関係である。承認の相互関係と地平的関係は、常に、直線的で垂直的な承認関係に埋め込まれている(vgl.Mesch 2005: 355)。制度の秩序と課題、および、規範体系の調節と要求は、承認関係の境界と形態、内容を規定する。すなわち、それらは、承認のコンフリクトと承認の闘争に対する基盤である。したがって、承認は、実践的関係とコミュニケーションの構成的要素として理解される。それゆえ、承認は、ある内容と目的ではなく、むしろ、多様な内容と目的をもちうるのである。第一に、失敗や軽んじられること、期待やコミュニケーションの失敗は、まず、承認それ自体が、実践的な目的に関することであり、場合によっては、抵抗に対して闘争しなければならない条件である。したがって、「承認をめぐる闘争」は、正常な事態ではなく、社会的な相互作用の境界事例なのである(vgl.Siep 2009a: 197f; vgl. Wigger/Equit 2010; Equit 2011)。」(p.94、黄色正田)


「すなわち、人間形成論に対していえることは、承認論の体系を取り出すことでもなく、承認論の目的規定を読み取ることでもない。経験的に内容豊かな人間形成論は、制度的要求、社会的規範、個人の野心や戦略の克服との連関の具体的な分析とかかわりあうべきである。人間形成論は、また、承認論が内容的にではなく構造的に内包している相互関係の規範を志向しているだけではない。その意味で、教育学的に提案された人間形成過程は、権力と依存によって特徴づけられ、そのなかで承認は常に、アンビヴァレントでありうるような非対称的な相互行為と関係において遂行される。最終的に、人間形成は、自己自身、他者、世界と人間の関係として、把握される。それゆえ、自己意識の構成は、他者の承認を通して、人間形成のある(重要な)側面だけを把握する。したがって、人間どうしの関連は、道徳的、社会的、自然的世界において発生し、自分自身との関係は、道徳、社会的なもの、自然の世界と互いにかかわりあって形成された成果でもある。」(同)


 ふーふー、やっぱり文章がむずかしいから少し長めに引用してしまいました。私がもう少し賢くなったときに正しく理解できるように。

 まあおおむね、「人間は他者との相互作用で成長する」という意味のことを言っているのでほっとしますね。アメリカですかね、一時期「外発と内発」とかめんどくさいことを言ったのは。あのフレームワークを使う人と話すのは疲れるんだ。


 ここまでが本書のほぼ前半部分です。後半は、承認論をもうちょっと進めるのに加え、ドイツにおける教員養成の問題なども取り上げています。

 少しつかれたので本記事を(上)として読書日記を二部構成にしたいと思います。(下)はまた今度。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


 
 
 


 本業(のお勉強)に戻ります。


 このところ思うのは、

「承認欲求―承認―ナルシシズム」の関係は、「食欲―食事/栄養―肥満」に限りなく似ています。

 適切に与えている限り、いいもの。不足すれば栄養失調になってしまいます。
 まれに食欲のコントロールができない人がいて、むやみに摂取して肥満や成人病になってしまうこともあります。

 でもそういう個体の人がいるからといって、食事/栄養が大事なものだということを否定できるわけではない。それは極論です。不足することのデメリットのほうがはるかに大きい。


 そんなことを考えるのは、このところ「承認研修」でも新しい試みとして、宿題を出すときに「部下の行動変化までみてください」ということを言っていて、
 するとわずか1週間の期限の中でも

「よりすすんで他の人のフォローをしてくれるようになった」
「仕事の問題点について意見を言ってくれるようになった」

などの部下のプラスの「行動変化」を観察して、報告してくださるのです、受講生さんが。

 なので、「ご飯を食べたりサプリを飲んだらより健康的になって活動的になった」というぐらいか、それ以上のはっきりした変化が短時間でうまれている。ご報告がウソじゃないとすると。


 そうすると、なんでこんなにはっきり有効なものが今まで発見されなかったか?という話になりますが、

 やっぱり「モチベーション」を学問とか理論として語る、学者さんやコンサルタントさんと、組織の末端の人たちの人格や立場の違い、ということを思います。


 「人格の違い」ということでいうと、学者さんやコンサルタントさんでそこそこ有名になった人たちは、「自らを恃む」気質が強い。いわば「外発、内発」の分け方でいうと、「内発的動機づけ」の力が強く、「自分の功名心」とか「克己心」のためにがんばる。相対的に、他者との人間関係で一喜一憂する傾向は弱い。「ない」のではなく「相対的に弱い」だけなのですが。

 ほんとうはこの人たちも、親ごさんに喜んでもらったり尊敬する師匠に「OK」をもらったり、と嬉しい「承認」の場面はあるにはあるのですが、この人たちのプライドが、「自分の原動力はそれなのだ」と思うことをゆるさない。

 また立場の違いでいうと、そこそこ有名になった学者さんやコンサルさん、という立場ですと、「〇×先生」と人から呼ばれ、すでに「社会的地位からくる承認」を受けているのです。 

 「承認」は決して「ほめる」といった、「狭義の承認」だけを意味していない。会社勤めの人なら、朝来て「おはよう」と言ってもらったりちょっと話しかけてもらうだけでも広義の「薄い」承認は受けています。また地位役職からくる「名誉欲」を刺激するタイプの「承認」もあります。

 学者さんは、「自分はほめられなくてもいい」と思っているかもしれないけれど、実は「先生」と呼ばれたり相応の扱いを受けることにはものすごくご執心だったりする。うちの近所の大学にも、学内で他の人がイベントをするのに招待されないと、あるいは開会あいさつの役割を振られないと、すごくふくれる「めんどくさい」ので有名な先生がいます。それも要は「承認欲求」なんです。そうした大人げない振る舞いをみる限り、むしろその人たちにとって「根源的」なことだ、と思います。


 ともあれ、感情認識能力の弱い学者さんコンサルタントさんがどう思うかに関わりなく、「承認欲求」は根源的なものです。
 適切なやり方で満たしてあげる限りいいもので、元気になれます。また、有能になります。(当協会で「行動承認」という言い方をこのところよくするのは、その「適切に満たす」ということを意図しているからです) 逆に不足するとこころを病んでしまったりもします。
 また性格的に「過剰摂取」になりやすい一部の人については―、確かに「めんどくさい」です。ただそれは全体のメリットからいうと副次的な問題です。

 そして、一般に組織の末端のほうにいる人たち、何の地位もない若い人や、またわが国においては「承認されない」傾向の強い女性たちにとって、「承認」が供給されることはどれほどの恵みの雨か、こころの栄養になるか、は社会的地位の高い人たちにとっては想像を超えているでしょう。


 「承認中心コーチング」(近年では「承認マネジメント」ということが多い)が過去10数年にわたってコンスタントに成果を挙げ続け、今も宿題ではっきりした「行動変化」を作り続けるのは、要はそういうことだと思います。


 そして、これほどに本来「根源的」であるものが、一般にはまだそうと位置づけられないし適切に供給されないということが、わたしの心には繰り返し悲しみのもととなります。


 今も「ほめない子育て」「ほめない教えない部下育て」のような文言が大手新聞社のメルマガで入って来て、ほめるはあくまで狭義の承認だけど「承認欲求」自体をを否定すると弱い立場の人が可哀想だ、とそれをみてわたしなどはおもっています。ほめるはダメで勇気づけだけはいい、ということの根拠が全然わからない。(勇気づけもご存知のように「承認」の一形態です。わるいものではないがそればかり単独で使うとちょっと危ない)こういう「食事/栄養」のような大事な問題であれもこれも言って振り回すのは正直やめればいいのに、と思う。

 栄養学みたいに、はっきりとスタンダードなところがあるのが、こういう問題は正しいのではないか、それと「バナナダイエット」「納豆ダイエット」みたいなことは切り分けたほうがよいのではないか、と思います。


 さて、この記事は久しぶりに「ヘーゲル承認論」を書こうと思ってそれの前振りのつもりで書いていたのですが、ここまでで既に長くなってしまいました。


 現代ドイツの教育学で「承認論」を使ったアプローチが隆盛のようです。次回はそれの読書日記を書こうと思います。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を今年3月、読みました。以下、当時の読書メモです(引用部分太字)。
 ここでは、「承認」を「認知」という言葉で言っています。「認知」には「優越願望」と「対等願望」がある、とフクヤマは言っています。


 人は、自分が他人より優越していることを認めさせようとしがちだし、それはほんとうの精神的価値にもとづいている場合もあるが、多くは思い上がった自己評価から生まれてくる。

 このように、自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megulothymia,メガロサミア)と新たに命名したい。(略)一方、「対等願望」(isothymia, アイソサイミア)はその反意語であり、他人と対等なものとして認められたいという欲望を意味する。「優越願望」と「対等願望」は、認知への欲望の2つのあらわれであり、近代への歴史の移行もこの両者とのからみで理解することができる。(下巻pp-31-32)


 この「優越願望」を体現した人物としてフクヤマはシーザー、ヒトラー、スターリンを挙げます。




 アメリカの自由、リベラリズムとヘーゲル流の自由と。・・・どうでしょう、わたしたちはどちらに近いでしょうか。


 ヘーゲルはわれわれに、ホッブズやロックに端を発するアングロ・サクソン的な自由主義の伝統とは異なった視点からリベラルな近代民主主義を改めて解釈する機会を与えてくれている。自由主義に対するこのヘーゲル流の理解は、同時に、自由主義が何をあらわしているかについてのいっそう気高いビジョンであり、世界じゅうの人々が民主主義社会に住みたいという願いを口にするときそれが何を意味しているかについてのいっそう正確な解釈でもある。

 ホッブズやロック、そして合衆国憲法や独立宣言を起草した後継者たちにとってリベラルな社会とは、特定の自然権、なかんずく生命の権利―つまり自己保存の権利―や財産獲得の権利として一般に理解されている幸福追求の権利を有する個人のあいだの一つの社会契約だった。つまり、互いに生活や財産に干渉しないという、市民館の相互的かつ対等な合意であった。これに対してヘーゲルにとってのリベラルな社会とは、市民が互いに認め合うという相互的かつ対等な合意のことであった。ホッブズやロックのいう自由主義が理にかなった私利私欲の追求であるなら、ヘーゲル流の「自由主義(リベラリズム)」は理にかなった認知、つまり、各人が自由で自律的な人間として万人から認められるという普遍的な基盤の上に成り立つ認知の追求と解釈できる。(同、p.57)


 また現代のアメリカ人が自分たちの社会や政府のことを話題にするときには、ロック流の用語よりもヘーゲル的な用語のほうを頻繁に使う。さらに公民権運動の高揚期にはごく当然のことのように、公民権の法制化は黒人の尊厳を認めるためであり、すべてのアメリカ人に尊厳と自由の生活を保証した独立宣言および憲法の公約を実現させるためである、と主張されていた。当時の人は、こういう論議の要点を理解するのにヘーゲル学者になる必要などなかったし、ほとんど教育のない人間や底辺の市民でさえこういう言葉を使ったのである。
(中略)
 アメリカ建国の父たちが「認知」とか「尊厳」とかいう言葉を使わなかったにせよ、それは、権利についてのロックの用語が知らず知らずのうちに認知についてのヘーゲルの用語にすんなり移行していくことを妨げるものではなかった。(同p.63)



 労働は、ヘーゲルによれば人間の本質である。自然の世界を人間の暮らしやすい世界に変えることによって人類史を作り上げるのは働く奴隷である。少数の怠惰な主君をのぞいて、すべての人間は労働をする。(同p.92)


 言い換えれば、リベラルな民主主義国家はそれだけでは完全なものとはいえないのである。そのような国家の土台となる共同体生活は、究極のところでは、自由主義そのものとは異なったルーツをもっている。合衆国建国当時、アメリカ社会を作り上げた男たちや女たちは、孤立して私益ばかりを計算する合理主義的な個人ではなかった。むしろ彼らのほとんどは、道徳観念や信仰をともにする宗教的共同体の一員だった。彼らが最後にはようやく受け入れた自由主義は、それ以前からあった文化の投影ではなく、そうした既存文化とのある種の緊張関係をもって存在していたのである。
(中略)
 長い目で見るとこのような自由主義的な原理は、強固な共同体を維持するのに欠かせない自由主義以前の諸価値を侵食し、ひいては自由主義社会の自己を維持する能力をも蝕んでいくことになったのである。(同p.245)



 アリストテレスによれば、歴史は永続的に進むのではなく、むしろ循環するものだとされた。なぜなら、いかなる政権もどこか不完全であり、そのために人々はいつも自分の暮らしている政府を何か違った形に変えたいと願うようになるからだ。そのあたりを考え合わせると、現代の民主主義にも同じことが当てはまるとはいえないだろうか?
 アリストテレスにならって、われわれはこう仮定してもよいかもしれない。欲望と理性だけでできている「最後の人間」の社会はやがて、認知のみを追い求める獣のような「最初の人間」の社会に道を譲り、ついでその逆が繰り返され、そしてこの歴史の横揺れがはてしなく続いていく、と。(同p.257)





『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』(竹田青嗣、ちくま新書、Kindle版、2009年)より


 ミルトン・フリードマンの主張の中心点は2つある。第一に、先進資本主義国家の新しい傾向である長期不況については、これまで効果があると信じられていた政府介入型、ケインズ的処方は間違いであり、通貨量調整型にし、基本的に市場原理に任せるのがよい、という考え。第二に、社会にとってもっとも大事なのは、政府の諸権力に対して個々人の自由と権利が守られることであり、もっとも合理的かつ効率的な経済理論と、個人の自由に対する政府の介入の最小化の原理とは両立するという主張である。
 第一の点については、ケインズ理論に一定の不備のあることは現在、多くの経済学者の認めるところだし、少なくともアメリカの80年代不況についてはフリードマンの理論が一定の実績を上げたこと(ボルカー、グリーンスパンFRB議長時代にそれが採用された)は認めねばならない。しかし、一つの経済理論が、経済現象をうまく捉えていたかが実証されるにはふつう50年以上のスパンを必要とするから、現状で、マネタリズム理論がケインズ理論を超えるより正しい理論かどうかはまったく確定できない(この文章を書いた直後世界金融危機が現れ、じっさいに、フリードマン理論は大きく相対化されることになった)。
 さらに、フリードマン理論が帰結する市場原理主義の世界化が、総じて、マネーゲーム的性格をもつ金融資本主義について、共存と調整のルール整備ではなく、その競争の激化をもたらすものであることはかなり明らかになりつつある。とくに金融市場の競争の自由化と世界化が、持てるものに有利に働き、持たざるものに不利に働く傾向をもつことはいまや否定しがたい。市場原理主義は競争原理の最大化によって経済効率の最大化をめがけるのだが、それが、世界経済全体における、金融経済と実体経済の適切な均衡をとる保証は存在せず、実証されてもいない。
 もう一つの問題は、フリードマンの理論がいわば「純粋自由主義」の理念に裏打ちされている点である。

 (中略)

 フリードマンの主張には、完全平等主義の考えの不合理性、それが全体主義を招く危険性をもつこと、国家権力集中の危険性、人間の自由の権利の重要性、経済システムとしての自由市場原理の優位性、生の価値の多様性(自由)の強調など、多くの観念が混在している。そしてこの混在の全体が、ちょうど、フロイトの「ハンスの言い訳」のようにからみあった矛盾をはらんでいる。
 しかしもっとも根本的な弱点は、その「自由」理論が、人間はだれも自分の諸権利を侵されない「自由」をもつ、という純粋化された「理想理念」だという点にある。
 この「理想理念」の性格については、ちょうどその対極にあるアマルティア・センの主張と対照するとよく理解できる。センの主張のポイントは、社会思想の根本を、いわば人間の理想的な平等化の理念、どんな人間も、人間であるかぎり、最低限の尊厳ある生活を営むことができるのでなくてはならない、という観念にある。そこで、一般市民(とくに先進国の一般市民)にとって、弱者(貧しい立場にある人々)に救済の手をさしのべることは一つの「義務」(「完全義務」ではないとしても「不完全義務」だとされる)である。

(中略)

 先験的自由論は一つの「理想理念」であり、その祖型はロックの天賦人権論(神が人を自由な存在として創った)である。これは、当時の王権イデオロギー(王権神授説)に対するいわばカウンター・イデオロギーとして強い力をもち、アメリカ革命における人権憲章、フランス革命における人権宣言に強い影響を及ぼし、近代国家の基礎理論となった。しかし哲学的には、ルソーやヘーゲルの理論がその弱点を超え出ている。

 ヘーゲルは「自由」を人間精神の本質と考えたが、「自由」(諸権利)が本来人間に属するとは考えなかった。彼は、ロックやカントの人権と自由の生得説を転倒する形で、人間は生来自由ではないし、かつて一度たりとも自由であったことはないが、各人が「自由の相互承認」の意志をもち、これを”社会化”する場合にのみ人間の自由(人権)は可能となる、と説いた。(No.3121-3181)

 


 ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」にもとづく普遍ルール社会へと成熟させる道をとる以外には、人間的「自由」の本質を擁護する道は存在しないこと。

(中略)

 現代社会は、さまざまな困難と矛盾を抱えこんではいるが、人間の本質的な「自由」が生きのびる可能性の原理はまだ死に尽くしてはいない。これがわたしの第一の主張である。この「可能性の原理」を現実化できるか否かは、われわれ自身の一つの根本的な決断にかかっている。つまり、恣意的な理想理念の「物語」からではなく、これ以外にはあり得ないといういくつかの原理的選択肢から一つを明瞭に選びとる、多くの人間の「われ欲す」を、現代社会は必要としているのである。(No. 3353-3376)



 すいません、この記事は完全にメモ書きだけの記事でした(汗)


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与



 さて、「ヘーゲル承認論」の「承認の原型は『愛』だった」というお話からすこし間があいてしまいました。

 あのお話で止めておくと簡単でわかりやすかったかもしれないですね。

 でも「ヘーゲル承認論」のもっとも有名なところは「その先」にあります。
 
 「承認をめぐる生命を賭けた闘争」そして「主人と奴隷の弁証法」です。


 もし「承認研修」をきっかけにこのブログの読者になってくださった方ですと、ヘーゲルのこのあたりの議論をブログでご紹介していると、「なんだこれ!?」と「引いて」しまわれるかもしれません。

 研修でしたお話とは似ても似つかぬお話ですし、「主人と奴隷」などは現代の何のメタファーなんだろう?と思われるかもしれません。


 当協会の「承認研修」では、ヘーゲルの考えた「承認」からはだいぶ趣がことなっていて、行為としての「承認」を扱います。そこでは現役マネジャーが実践に落とし込みやすいように「行動理論」の要素が入っていたり、「ミンツバーグのマネジャー論」の考え方も入っています。でお蔭様で「これは実際にできるようになるなあ!」と言っていただけます。ヘーゲルは「承認」が「ない」状態からどうやって「ある」状態にするか、という教育プロセスのところは考えなかったですからね。


 とりあえず今回の記事では、現実との橋渡しをあきらめてできるだけヘーゲルが考えた通りにたどってみたいと思います。

 ここでは、とうとう入門書の『はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(竹田青嗣+西研、講談社現代新書、2014年3月)をテキストに使います。


****


 わたしたちは「自己意識」を持って世界と向かいあっています。しかし自己意識は他者関係のなかでは絶対的な自己であることができないのです。

 

「自己意識が本気で『自己自身』たろうとすれば、『相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る』という態度をとることになる」(前掲書p.63)

そこで「承認のせめぎあい」という状態が起きます。


「他者がいる場面では、自己意識は、自分こそ世界の『主人公』であるという意識を保てない。そこで、自己の『主人公性』、つまり絶対的独自性を保とうとすれば、自己こそ世界の中心であることを、自分だけでなく他者にもまた認めさせることが必要となる。

 この試みは、これを極端にまで追いつめるなら、他者との命を懸けた戦いへの意志として現れる。」(同、p.64)


 
 と、「承認をめぐる生命を賭けた闘争」となります。


 「ところが、もし実際に戦いの結果相手を殺してしまえば、はじめに意図されていた自己の自由の承認という欲望は、達せられない。死を賭して戦いあうことは、双方が自己の絶対的『自由』を守ろうとする意思の証しではあるが、相手が死んでしまえば、勝利者の『自由』を”承認”する他者はいなくなるからだ。」(同、p.65)

 と、戦って勝った人は負けた人に「承認される」ことをめざすのです。相手を死なせてしまうと、「承認」してくれる相手がいなくなります。そこで敗者を隷従させつづける奴隷制度のはじまりが起こります。あくまでヘーゲルがそう言っている、というお話です。

 ―ここは、「承認研修」がめざすところの「上司による部下への承認、そこから展開する認め合う組織」とは逆の、「上司はつねに部下に承認されている」という構図ですね。自然の重力にしたがうとそうなってしまいますね。

 そしていよいよ、「主(Herr)と奴(Knecht)」(主人と奴隷)の弁証法が出てきます。


 「承認をめぐる死を賭した戦いの結果、人間は主と奴に分かれる。両者の関係はつぎのようだ。

 まず戦いに勝利した主は、奴に対して絶対的な『自立存在』を保つ。つまり奴に対して絶対的な威力、『死によって脅かす威力』を振るい、このことで奴は主のために労働することを余儀なくされる。これが主の奴に対する関係の第一面だ。」(同、p.66)


 死を怖れた側が自分の自立性を放棄し服従し、奴隷になるのだと。

 すごく極端な話のようですが、べつのテキストによればこれは現代というより古代諸大国の始まりを言っていると考えればわかる、と述べています。古代ギリシャ、古代ローマ、あるいは秦漢・・・などを考えればいいのでしょうか。



 ここで、「労働」というものの重要さもヘーゲルは言っています。


「じつはこの関係において、潜在的には、かえって主のほうが非自立的であり、労働によって物(自然)に働きかける力を育てる奴のほうに、本来の自立性の契機が存在していることが、やがて明らかになる。

(中略)

 奴は自然(物)に労働を加えてこれを有用な財に形成し、生産する。この行為はまた、自分の欲望を抑制し、代わりに技能を鍛えることで可能となる。またそれは、人の生産と能力の持続的向上につながるものだ。

 この労働の能力こそ人間の自然に対する支配の本質力であり、奴は労働を通して力を身につけ、そして自分がこの本質力をもつことを直観してゆくのだ。」(同、pp,67-68)



 労働を通じて聡明になれる、というのは、数年前に流行った「意志力」や「ワーキングメモリ」の知見でこれらの能力は後天的に鍛えることができる、と言っていることを思えば多少はわかる気がします…


 さまざまなテキストをみるとヘーゲルやはりフランス革命(19歳の時)の影響は大きかったようです。当時大学内で「自由の樹」を植えてお祝いしたとか、ナポレオンのイエナ大学侵攻では「世界精神の勝利」と言ったとか、ラディカルな世界観のもちぬしです。

 ところが、1770-1831年の間生きたヘーゲルが構想したものは近代自由主義社会そのもので、階級社会の従属関係から法によって所有権を保障される(=法による承認)平等な社会への移行をいちはやく構想した人なのです。

 フランシス・フクヤマは1992年に書かれた『歴史の終わり』の中で、近代自由主義社会こそが人類史の終着点だ、人類史は最終的にもっとも矛盾の少ないほうが生き残るとヘーゲルは予見したと述べています。
 それはベルリンの壁崩壊直後の本だということを考えて多少割り引いて読まないといけないかもしれませんが。

 フクヤマによると、

「ヘーゲルにとって人類史の原動力とは、近代自然科学ではなく、また近代自然科学の発展をうながした無限に膨らみ続ける欲望の体系でもなく、むしろ完全に経済とは無関係な要因、すなわち認知(=承認)を求める闘争(他者から認められようとする人間の努力)にあった」。(『歴史の終わり』(上)、三笠書房、p.228)
 
と、ヘーゲルの「承認をめぐる生命を賭けた闘争」「主と奴」の歴史観を全面肯定したのでした。

**** 


 「承認をめぐる闘争」のところは、現実世界のあれこれを考えると正直、書くのがしんどかった部分です。
 そして本来はもっと原文(訳文)を引用しないといけないのですがやはり難解で…。


 現代はたとえば「自由主義社会」からはじき出された若者がISに取り込まれ、そこで自爆テロに従事させられるという、悲惨な現実があります。その「自由主義社会」はヘーゲルの構想したものと比べてどうなのだろうか、とも思います。
 

 現代のヘーゲル研究者ではA・ホネットという人が有名で、この人は「承認論」を「再配分」や「フェミニズム」の問題とも関連づけているようです。


 この人の文章も結構難解なのです。さあご紹介できますかどうか…。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp


※今年3月に書いて「下書き」にしておいた記事です。ヘーゲル承認論シリーズ、始めてはみたものの右往左往しています。


 さて、3回ほど「ヘーゲル承認論」を追ってきましたが、ここで「ヘーゲル」が哲学史上どう位置づけられているか、ということも、新しく出版された入門書をみておさらいしてみたいと思います。


『闘うための哲学書』(講談社現代新書)より。

「よく哲学史では『ヘーゲル以前』と『ヘーゲル以降』という言い方をします。ヘーゲルの哲学がヨーロッパの哲学の歩みの1つの到達点であり、それ以降はそれを踏まえて現代の哲学が展開されていく、という意味ですね。

 その区分が正しいかどうかは別としても、ヘーゲルの哲学がそれまでのヨーロッパの哲学の一つの完成体であり、ヘーゲル自身もそれを目指して自らの哲学体系をつくっていったということはありますね。」(萱野稔人)



 本書では対談者の小川仁志氏と萱野稔人氏がいずれも「私はヘーゲル主義者」と言っています。へ〜。このひとたちほかのスピノザとかカントのところでは「理性か、エゴか」で思い切り対立していたのに。

(ちなみにこの論争に関してはわたしは小川氏の「理性」派です。「理性」は個体差はあってもかなりの程度まで教育訓練可能であるからで、その適切な教育訓練が「ない」とか「破壊される」ことがむしろすごい問題だからです)


「ポストモダン思想ではヘーゲル哲学はとても評判が悪かった。まさに批判すべき対象、乗り越えるべき対象としてのみヘーゲルは言及されていました。

 たしかにヘーゲルは、先ほども触れたように、道徳的な押しつけに見えるところがなくはない。だからヘーゲル哲学の権力性を批判する人もかなりいました」(萱野)


 このあと小川、萱野両氏とも「でもヘーゲルをよく知らないで批判するのは、ばかばかしい」で一致します。


 「道徳的な押しつけ」は、ちょっと同意しますね…、
 ヘーゲルは「人格的相互承認」のある共同体を構想しますが、現実にそういうものが「ない」ときはどうやって「ある」状態にするの?という問いには全然答えていません。正田はそれを教育であくせくやっているわけですが、「押しつけ」られるわけではないので、「業績向上」とか「マネジメントが『らく』になる」という名目でお誘いするわけです(それ自体は誓って、うそじゃないんです)。そういう誘因がなかったら人を動かせないですよね。


 本書『闘うための哲学書』は、ヘーゲルは現実の観察に基づいて言っている部分と理想形を言っている部分と両方ある人だ、ということも言っています。さあ、何を観察したのでしょうか…。


 別の本『1日で学び直す哲学〜常識を打ち破る思考力を身につける〜』(甲田純生、光文社新書、2013年)では「フランス革命こそはヘーゲルが生涯かけて思索的に取り組まなければならなかった巨大な『現実』の代表的な一面であった」という中埜肇氏の言葉を引用しています。

 たしかに有名な「主と奴(主人と奴隷)の闘争」という論は、専制君主―労働者の対比で古代国家群の成り立ちを言っているようにもとれますが専制君主はあんまり頭を使わない、労働者は理性を働かせ労働を通じた自己実現をしているので賢い、ということも言っています。それは最終的にフランス革命のようなところに行き着くのだ、と暗示しているようにもとれます。

 ヘーゲルは19歳のフランス革命のときに学生同士快哉を叫び、37歳のナポレオンのイエナ大学入城のときも歓迎したのだそうで、当時としては結構ラディカルです。自分自身は身分制の中にいながらその先の近代国家を夢みていたかのようでした。

 それがマルクスにまで行ってまうやんけ、と言う人もいるでしょうがおそらくわたしたちの今住んでいる日本もヘーゲルの構想した国家像の延長線上だと思います。


 さあこのシリーズ、どういう落としどころになるんでしょうね〜。


 
(一財)承認マネジメント協会 
 正田佐与

 
 久しぶりに「ヘーゲル承認論」です。

 再度『承認と自由―ヘーゲル実践哲学の再構成』(高田純、未来社、1994年)より。

 ヘーゲル研究者の人は、「承認」に注目する人とそうでない人とはっきり分かれるんですね。20世紀初めの有名なヘーゲル研究者コジェーブという人は、文中で重要な語を太字にしてるんですが、「自己意識」という言葉は太字ですが「承認」は太字ではなかったりします。それはコジェーブ先生の趣味のようです。


 で1980年代から「承認」に注目した研究が出てきて、比較的新しい流れです。その中でやはり本書『承認と自由』が読みやすいです。


 若い頃のヘーゲルは「愛」をテーマとし、これがのちの「承認論」につながったようです。それもかなり若く、チュービンゲン神学校に在籍した頃(1788-93年、ヘーゲル18-23歳)。

「当時のヘーゲルは古代ギリシアのポリスを模範として、全体と個人、理性と感性とが調和した民族共同体の実現をめざした。」(前掲書p.31)

 それは当時のシラーら新人文主義の影響もあったようです。

「ヘーゲルは、諸個人を調和的に統合するうえでの愛の役割に注目する。…ヘーゲルは、愛のなかに、『他人における自己直観』という承認の原型構造を見出す」(同)

と、「承認の原型は愛だった」というお話です。これ、あんまり認めたくないですね。しかし現代の神経化学物質の知見から言っても多分ほんとうです。以前どなたかに「正田さんは『理性的な愛』というのをやっているんですね」と言われました。

 
 さらに、ベルン期(1793-96年、同23-26歳)には次の段階の思索。

「ヘーゲルは、いかに愛が少数者のあいだでの私的、閉鎖的なものにとどまることなく、多数者のあいだの公共的、開放的なものへ高まることができるかを問題とする。」

 その気持ちはよくわかりますね。
 やがて、ヘーゲルは「愛の限界」に気づきます。フランクフルト期(1797-1801年、同27-31歳)。

「愛はそれ自身では、社会的に開かれた共同体の原理となることはできないことに気づくようになる。…真の共同体が実現されるのは、多数の人々のあいだに平等、協力、連帯などが存在するときであるが、このような社会的、客観的条件は愛自身によって生み出されるのではない
(中略)
愛の承認は身近な人間の直接的コミュニケーションにもとづくものである。ヘーゲルは当初は、このような相互人格的承認にもとづいて社会的承認を理解しようとした。だがやがて、ヘーゲルは愛による相互人格的承認の限界に気づき、これから区別される社会的承認の独自のあり方への探究に向かっていく。」(
同p.42)


 なんで愛ではダメかというと、愛は自己献身、自己否定を求めるものなので、「闘争において示される自己主張、自己肯定が欠けている」からなのだそうです。

 愛だけだと「毅然」とできない、というお話でしょうか、またこのブログでよく出る「依存」を招いてしまうというお話でしょうか。

 1802年に書かれた『自然法』では、「共同体有機体論」というものが登場します。

「民族共同体は『人倫的有機体』であり、諸個人はその『器官』『分枝』であることが明確にされる。」(同p.47)

 ヘーゲルは全体主義者だと言われることもありますが、基本的に全体あっての個、という立場をとった人です。ヘーゲルの使う「自由」という言葉は本書によれば「自由自在」の「自在」にあたるといいます。普通に言われるところの「自由」が他人から制約を受けないという「消極的自由」だとしたら、ヘーゲルのいう「自由」は他人あっての自分であり他人の中に生きる自由なのだと。個人と他人は協働しあって生きるのが前提なのだと。

 なので、わたしたちがイメージするアメリカ的自由とヘーゲルのいう自由はかなり違います。

 以前大井玄氏の言う「アトム型自己観」と「つながりの自己観」を長々と考察しましたが、あれを一般には欧米と東洋の対比でとらえましたがヘーゲルも相当「つながりの自己観」の人でした。生物学者によると、こちらのほうが東洋西洋いずれでも正解なのだそうです。生物としての人間は他者のまなざしの中に自己を見出すものなのだそうです。


 ただ全体がすべてかというと、近代の共同体にとって個人の自覚や自立(「自己知」「対自存在」)が不可欠であり、個人のあいだの相互承認のいっぽうで個人の自覚によって支えられる、ということもヘーゲルは言っています。

 
 『イエナ精神哲学II』(1805-06年)では、愛の弁証法的構造が出てきて、愛が承認の関係であることが明言されます。

「人間は承認されることを必要とする。この必要性は人間自身の必要性である」

 
 さて、こんなにヘーゲル世界に入っていると、こうして「承認」を「所与」のものとして明言する彼の論法に巻き込まれてしまいそうです。イエナ大学時代、結局ヘーゲルは承認論のご同業フィヒテともシェリングとも同僚だったんです。どんな日々だったのでしょうね―、

 ただここで言っていることは現代のさまざまな知見から言っても決して間違ってません。非常な先見性だったといえます。


 このあとは「承認をめぐる闘争」や「法、国家による承認」にも触れたいと思います。


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 「ヘーゲル承認論」のシリーズをやっと2回書いたところですが、ここでわたし個人のここ14年間の思索の歩みを書いておきたいと思います。


 年譜的にいうと、

2001年 コーチングの学びに入る。パーソナルコーチングも仕事として開始
2002年 マネジャー教育開始。100人ほどのマネジャーのMLの主宰者になる
2003年 「業績1位」輩出開始。任意団体CLSを立ち上げる。
      (組織と理念についての思索を開始する)
      この年から、やっと研修講師としての自覚をもち「教える」ことを始める
2003~06年 4年連続で事例セミナー開催。
      「業績1位」多数
      マネジャー教育の傍ら、「エグゼクティブ・コーチング」でも高い効果が出、「正田マジック」の異名。
2005年 太田肇教授の「承認論」に出会う
2006年 某ビジネススクールに通うも、1か月半で退学。
      「感情認識なきロジカルシンキング」の限界をみる
      「マネジャー論」のミンツバーグに親しむ
2007年 武田建氏の授業(@関西福祉科学大学)に3か月通う
      心理学史を解体・再構築
2008年 このころNLP、アサーティブネスを並行して受講。
      「研修副作用」に関するブログ記事多数。
      脳画像診断医との対話
      リーマンショック。
      NPOを設立。
      哲学カフェに通い、翌年からの「よのなかカフェ」につながる
2009〜10年 低迷期。NPOとして神戸で講座を行うも、集客で苦しみ続ける
      「つながりの自己観」と「アトム型自己観」(@大井玄)について思索
      英国の倫理学の先生から「正田の講師ぶり」が高く評価される
2010年 『認めるミドルが会社を変える』発刊
      第一回承認大賞
2011年 東日本大震災
      久しぶりの事例セミナー開催、業績向上例回復
      ナルシシズムについて、アンチ行動理論について思索
2012年 統計調査開始(まだテスト段階、試行錯誤を重ねる)
2013〜14年 業績向上例8例。奇跡と呼べるような事例がゴロゴロ出る
2013年ごろから 「発達障害」についての思索
2013年秋から 「スマホ・ネット依存」についての思索
2014年 『行動承認』発刊
     「柔道有段・凄腕担当者がみた承認研修」をブログ掲載。



 まあ山あり谷ありなんですが、「業績1位」を生み続けました。そしてPDCAを重ねてきました。受講生さんとの長年の対話を通じて、また読書と思索を通じて。というのを、読み取っていただけるでしょうか。      


 そのなかで昨2014年は、やや不作年だったといえましょう。「某商工会」の事例はありましたが(しかしその後某トップが公開の席でとんでもない裏切り。恥ずかしいことですね)、お客様のもとで「1回研修」「2時間研修」のご要望が増え、お答えせざるを得なかった。せっかく業績が向上するプログラムなのに、早回しの1回こっきりで、というのは効果を発揮するどころか「机上の空論、きれいごと」に響いてしまうおそれがあり、忸怩たる思い。途中から「短時間1回こっきりのご依頼お断り」をブログに書いた時期がありました。


 
 さて、こういう14年の中で、心理学系のセミナーは大量に受けているわけです。コーチング研修機関大手2社(それぞれ100時間超のもの)、アサーション(日精研、26時間)、アサーティブネス(アサーティブジャパン40時間)、NLP(約100時間)、武田建氏の臨床心理講座3ヵ月毎週(行動理論・ロジャーズの傾聴を含む)、自治体主催の心理学コミュニケーションセミナー連続もの、強みセミナー、そのほか自団体主催の各種セミナーや、自分自身では受けていないけれどCLS〜NPOの講座を開催する中で、他研修機関で受講した人にどんな行動傾向が出る、というのを観察してきました。

(なので、このブログの読者の方々は、くれぐれも「承認」以外の心理学セミナーを新しくいっこ受けたから「自分はえらい」と思わないでください。某トップもそのケースだった可能性があるんですが…、お出会いする方がそんなふうに思っているのをみると、何百時間も受けてきているわたしはつらいです。心理学セミナーって勘違いをさせやすいし免疫のない人はすぐそうなるんです。手の内を隠さず、「この研修を受けましたが先生がご覧になってどうですか?」ときいていただけるといいんですけどね)

 
 そしてあるころから、わたしなりに到達した結論があります。
 それは、「コーチング研修機関がいうコーチング」ではない、会社の上司部下関係というのをしみじみ観察して考察したから生まれた結論ですけれども、


「部下は上司にコーチングされたいのではない。

『肯定』されたいのだ。

そして『道徳的、人道的』に扱われたいのだ。

そのなかで指示命令、指導を仰ぎたいのだ」


と、いうことです。

 こういう言い方は、「自立した人格」を前提とする「自己啓発」の考え方の人には、

「けしからん!依存的だ」

となるかもしれませんけれども、でも現実としてそうなんです。


 ぜひ、このブログを読まれている経営者管理者の方は、現在の功成り名遂げた時点の自分を基準にせず、学校を出たばかりの若い人の身になってみてください。20代の人と30代ぐらいの人とではまた微妙に違うかもしれませんけれどね。


(あとジャーナリストとか大学教授研究者、コンサルタント、といったお仕事の方は、もし上記のことがご自分に当てはまらなくても、「自分のほうが働く人全体の中では特殊なんだ」と自覚なさってください)


(そしてまた、「肯定されたい」という言葉を使うと、「じゃあこんな部下どうやって肯定しろというんだ!」という「悪意の部下」の例を出される人がいますけれど、あなたの会社ほんとにそういう部下ばっかりなんですか?それ「例外例」じゃないですか、ちゃんとやってる普通の部下のことちゃんとみてますか、という話になります。また「承認不在」のためにひねくれる部下も多いし、「承認」実践後もやっぱり悪意で仕事したら「じゃあその人は個体差でこういう人かもしれませんね」という話になります)


 そこで上司側に必要なのは、主に倫理学です。それも知識が大量に必要なわけではなく、日常行動にできる指針があればよい。あともう少し心理学をテクニックとして身につけ、また若い人の現状認識や個体差についての知識を持てばよい、というかんじです。
 「心理学」は現実世界にふだん「ない」ものなので、現実がうまくいかないと「心理学」はすっごい答えをもっているように錯覚してしまいます。でもそれは幻想で、実際に現実に働きかける力があるのは倫理学とそれを行動化することのほうです。
 

 「承認本」でなんども書くように、「質問」(「君はどうしたい?」)は、よほど会社の理念ミッション戦略を共有している相手でないとよい効果を生みません。また経験値の低い人ではよい効果を生みません。それらの条件をクリアした後でなら、ときどき有効かもしれません。あくまでときどき、であります。


 会社には理念があり、それに沿って大量の仕事があり、学校を出たばかりの若手社員はその仕事に合流するよう求められます。
 多くの若手社会人にとっては、上司は「仕事の配分者」として存在するのであり、まず明確に指示をしてほしい。かつ、それに加えて行動したことへの承認があれば、さらに良い仕事をするモチベーションになります。そして会社の理念への共感も上がっていきます。
 これも仮説ではなく統計で裏付けをとりながら言っていることなので…。


 少し前の記事で出たような、上司や会社というものに心を閉ざしている感じの若い人。そういう人たちはいきなり「傾聴」で、「話を聴いてやるから、しゃべれ」と言ってもしゃべらないのが普通です。「行動承認」で前向きの行動が増えた段階でなら、少しずつ「傾聴」でこれまでの生育歴を話してもらったり、あるいは「アドバイス」「叱責」などの「介入」をしたり、「仕事とは、生きるとは」といった、上司の哲学的なものを話してやることができます。

 だから、「ほかのもの」は、「承認」が根づいたあとで少しずつつけたしてあげればいいのです。

 こういうことは、農業や製造業、実際に手を動かして物や自然にはたらきかけて仕事している人だと、むしろすぐわかっていただけるんだけどなあ。間に入る人たちに色んな考えが入りすぎている。


 
「必要なのはコーチングではない、心理学でもない、むしろ倫理学だ」


という考えに行きついたのはいつごろからだろう―。かなり早かったです。「1位続出開始」の直後くらいではなかったかと思います。

 そこに太田肇氏の「承認論」に出会って「これだ!」と思ったのは、それが「肯定されたい」を「肯定する」に行動様式として落とし込む、誰にもわかりやすい共通ルールにしやすい倫理学の可能性を感じた、のではないでしょうか。


 「共通ルール」ということに反発を感じるようだと、例えば武田建氏の「行動理論コーチング」も、100数十人いる選手たちを指導する10数人のコーチたちに共通の指導ルールにするために、だれにもわかりやすい言葉で書いてあるわけですが、そういう「7連覇、5連覇」の勝利のための営みがじゃあわるいものなのか、ということになってしまいます。実は組織で、指導者側にこういうことを共有するのは全然わるくないのです。そして、1つの組織のなかにいろんな考え方が混在するのは、おそろしく非効率なのです。



 また、「誰にもわかりやすい共通ルール」ということにからめて、つい一昨年までわたしが身を置いた「陽明学」の学びの場に苦言を呈すると、

 「人間学」が大事だ、と定年後や会長職に退いた段階の男性たちが気づき、熱心に学ぶのはご立派ではありますが、
 じゃあ江戸期の日本の儒者たちの事績を延々と学び続けよ、歴史学なくして人間学なし、みたいな袋小路に入り込むと、今どきの若い人とか現役経営者だれがそこまで学ぶんですか、ということになります。
 「歴史がすき」というのはつきつめると「過去がすき」「未来に興味がない」というところまでいくなあ、とその姿を観察していて思います。(ほんとは、恩師も言っていたけれど未来を考えるための歴史です。)

 現実にみんなが担い手になって世の中をよくするためには、倫理学として一番大事なことだけを教え、行動指針にできればそれで足ります。現実に膨大な量の問題解決がありますから。

 そして「承認」はその役を担うに足る思想というか概念なんです。最後は法体系にまでいきますから。

 せっかくこんな使い勝手のいい現実に効果のあるものが現代に出てきたのに、自分たちの若い頃にはなかったというだけでキーッと切れてしまい悪口を言うみたいな、大人げのない対応をするようでは、立派なお勉強が身になってない、というほかないです。



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「先生の指導が入らなくなった」。

「中1いじめ殺人事件」でNHKの番組に出ていた教育評論家の尾木直樹氏が興味深いことを言われていました。
 

 何かというと、スマホとくにLINEの影響。先生があらかじめ「こういうテーマで」と指示したことでも、先生のいないところで勝手にLINEで議論し、とんでもないテーマを決めている、先生が「あ、それは去年の先輩が大失敗したやつなのに」というのに決めている。これも大変な非効率です。


 そこで尾木氏がやったのは、「LINEでは連絡しかしない、議論はしない」と決めることでした。「お蔭で今はゼミは活発に動いていますよ」。


 大人の教育の世界で起きていることを考えてみても、大変示唆的なことでございます。経験の少ない人の「自由」に任せることは、正しくないのです。どうも、一部のADHD傾向の人ばかりでなく普通の若い人も、「上の人の言うことをきかないで勝手なことやっちゃう」という傾向があるようです、見識ある大人がみていて手綱を引かなければなりません。また、ほっておくと「横」のつながりで間違った考え方をしてしまう今の人、という風に読み解くこともできます。


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それからですね、、
一回「承認」を習っただけで「社内で自分が教えたい」という人に、わたしは厳しいんですが、そういうのをみて「正田って性格わるい」と思われたかもしれませんが、
その理由はいくつもあるんです。

今日の話題とのからみで理由の一つを挙げると、
元々他者否定の強い経営者管理者に、「承認」という他者肯定の方法を教えて、実際にやってもらって「できる」という感覚をつかんでもらい、「部下って反応してくれますねえ!」と言ってもらうのは、実はすっごい力技をやっているんです。そのために論法とか実習の組み方とかを考え抜いています。「例の表」もイノベーションの一つです。それにわたしの話し方とか、過去の事例の蓄積の見せ方とか、もノウハウのかたまりなんです。

どれだけ渾身の「力技」をしているか、は、参加者の中の比較的「他者肯定」が高くて穏やかな気質のほうの人には見えづらいのではないかと思います。その人たちのご気性とは、闘ってないので。
 ひょっとしたら、わたしがリーダー教育の先生の中では穏やかな口調で話をするほうなので、「自分と同様穏やかな人だ」「自分も穏やかに話すればいいんだ」と思うかもしれません。

もしその人たちが気性の激しいほうのリーダーと直接対決したら、先生がどれだけとんでもない相手をニコニコしながらねじ伏せていたか、わかるんではないかと思います。
ただまた、社内で一度でも失敗すると「後がない」ので…。
「きかなかったことにします。ご健闘をお祈りいたします」
の意味、わかっていただけますでしょうか?


100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp


 


 
 

 ひきつづき、「ヘーゲル承認論」について入門書、解説書研究書、と読んでいます。

 とにかく言葉がむずかしいです。ヘーゲル自身言葉の定義を厳密にする人ではなかったようで、あたしそういう勝手なルールで引っ張る人すきじゃないんです、公明正大なのがすきなんですが。
 なので「超訳本」のようなものにも頼らざるを得ないです。


 いきなりお詫びしないといけないのは、承認はヘーゲルのオリジナルだったわけではないらしい、ということです。この当時の「ドイツ観念論」の中で流行りのような概念だったようです。

 だから、「世界初」と持ち上げると間違ったことになっちゃう。すみません。

 なお、「ドイツ観念論」は「観念」とついてると妄想的に抽象的なことばかり考えてる人たちなんだろうか、というとこの人たちが今の日本の法体系の基礎をつくったと思っていいでしょう。ドイツ法ですもんね、日本は。
 あとヘーゲルの左寄りの解釈をしたのがマルクスなので、ヘーゲルとマルクスは一味だ、ヘーゲルは共産主義者だ、と思うとそれは間違いです。ヘーゲルは左寄りにも右寄りにも解釈できる余地があり、ヘーゲル承認論を「資産分配」の問題として曲解したのがマルクスなようです。たぶんマルクスはストレングスファインダー「公平性」か「規律性」の人だったんだろうなあ。



 ドイツ観念論においてヘーゲルに先立って承認の問題を扱ったのはフィヒテである。ところで、フィヒテが他者の問題や相互人格性の問題に着目するようになったのは、カントにおける人格の共同の思想によって啓発されたためである。また、シェリングも一時期フィヒテの影響のもとに承認について論じており、ヘーゲルはこれを念頭においていたとも考えられる。このようにして承認の問題は、ドイツ観念論全体に伏在しこれを貫流する基本テーマである。ヘーゲルはこのテーマを明るみに出し、展開させたといえよう。(『承認と自由―ヘーゲル実践哲学の再構成』高田純、未来社、1994年、p.304)

 
 だそうです。ああこの人の文読みやすくて助かる。あ、これは超訳本じゃなくて研究書です。

 ドイツ観念論って何?というと、もうWikiでみてください、というかんじですが、

 要は、「承認論」に何人かの「お兄さん格」がいて、お互い切磋琢磨してというかカイゼンをしていたらしい。ヘーゲルはその中で後世に最も有名になった存在みたいです。

 上の文の中に出てくる人の生没年を挙げると

カント(1724-1804)
シェリング(1775-1854)
フィヒテ(1762-1814)
ヘーゲル(1770-1831)

 そうですか、シェリングのほうがヘーゲルより5歳年下だったりしますね。親しかったかどうか知らないけれどシェリングが何か発表するとヘーゲルが「なにを!」と思っていた可能性はありますね。

 なので「承認論」が出てきたのはヘーゲル30代のときでありますが個人史的に何かあったというよりは、同時代の人との切磋琢磨でもまれてきた、結構対抗意識マンマンだったかもね、というかんじです。

 そして主な先輩格としてフィヒテがいたと思っていいようです。


 本書の記述にしたがい、それぞれの人の主張を短く言うなら…。

カント:道徳的共同体
フィヒテ:自由の相互制限
シェリング:自己の自由を制限するのは自我
ヘーゲル:部分的自己否定による他者肯定。家族から経済、国家へ承認の及ぶ範囲を広げる


 これだけでは当然わからないので、もう少し詳しくみてみましょう。
 
 フィヒテは『学者の使命』で、自我と他我との関係を「概念にしたがった相互作用」「合目的的共同(相互性)(ゲマインシャフト)」ととらえているが、これはカントの道徳的共同体(「目的の国」)を念頭においたものである。したがって、フィヒテの承認論はカントに連なる面をもつ。カントがいう道徳的共同体は、もろもろの人格が共同の道徳法則にしたがって結合することによって設立され、そこでは、もろもろの人格は相互に「目的自体」として尊重しあう。カントは人格としての相互承認を道徳関係の基本においているといえる。(同上 p.306)

 フィヒテは、カントが人格的共同の問題を正面から扱っていないことには不満であった。
(中略)
 (フィヒテにおいては)他我が自我を承認するのは、自我もまた他我を承認するばあいである。このように、承認は自我と他我とのあいだで相互的におこなわれる。(同上 pp.306-309)



 ・・・と、フィヒテは「自我と他我の承認関係」を「自由の相互制限」とし、その関係を「法」だと言った、ようです。


 ここでわたしは、はるか以前、2007年に自分が「人と人との関係は風船プールのようなものだ」と書いたことを思い出しました。
http://c-c-a.blog.jp/archives/51071914.html#more

 意外とわたしって、ドイツ観念論的な人だったかも。こらこらうぬぼれるな

「自由の相互制限」についてはヘーゲルはフィヒテにあとで盾ついているようですが、個人的には共感するものがあります。
 この「風船プール」の文章も、どういう背景があって書かれたか考えてみると、心理学系のセミナーに行ってそこの論法により自我がブワーっと拡張した感じの人をみたときに、「これじゃ自分個人は満足でもはた迷惑だわ、社会はこれの集積じゃうまくいかんわ」と思って書いた記憶があります。

 心理学系セミナーはそのように、人々を甘やかしおかしくさせる要素があり、だから「承認研修」以外の心理学系セミナーを受けたことありますよ、なんてのは何の自慢にもならないんです。


 うーん、あたしも何百時間もそういうセミナー受けてきてますから既に相当おかしな人間ではありますけどね(もし「心理学系セミナーを受けたから、自分はえらい」という論法の人がいたとしたら、その人より100倍あたしの方がえらくなっちゃうんですけどね、だからそういう論法はやめときましょうね)。小学生の頃から論語荘子唐詩漢詩史記といった漢籍、それに啓蒙思想やら(これは漫画の影響かも)読む宙二病な小学生でしたから、心理学に対してかなり免疫ができていた可能性はあるんですね。「その論法おかしいやろ」とつねに批判思考が起こりましたね。

 そういうほうの貯金が子どものころから「ない」人は、大人になって心理学に出会うと「かぶれる」かもしれません。甘やかしてくれますからね、心理学は。「きもちいい」ですからね、はしたないけれどドーパミンが出ますから性欲が亢進した状態と一緒ですからね。その代わり倫理的におかしくなっても知りませんよ。


 フィヒテにおいては、まず他我がその自由の自己制限によって自我を承認するといわれたが(正田注:それはフィヒテ先生ちょっと「虫のいい」考え方じゃございません?)シェリングにおいては、まず自分の活動を制限するのは他我ではなく自我である。(同上 p.311)


 だそうです。ここはちょっとシェリング先生に共感しますね。「与える側になれますか?」のあたしとしては。


 さて、いよいよ、じゃあそれに対してヘーゲル先生ははどう考えていたか、というお話です。


 ヘーゲルにおいては、自己の否定はその自由の部分的制限と同一ではない。自己の否定は自己の肯定に転化される。ヘーゲルによれば、承認の弁証法的構造は、「個人が他人のなかで自分を自立的なものとして直観する」ことにあるが、これが実現されるためには、個人はその利己的、排他的あり方を克服しなければならない。個人は他人のなかで自分の個別的あり方を否定することによって、普遍的なものとして肯定される。また、個人が利己的であるかぎり、他人と対立しており、他人の否定によって自分を肯定しようとするが、個人が普遍的なものに高まるときには、他人を肯定する。このように、他人における個人の自己否定をつうじて他人における自己肯定がえられるのである。このように、承認は自分にたいする肯定的かつ否定的な二重の関係を含むと同時に、他人にたいする二重の関係を含む。


 めっちゃ抽象的な文章で、なんか例示してよ、という気分になりますが。
 「個人はその利己的、排他的あり方を克服しなければならない」
 これは、思春期〜青年期から中年期にかけての個人のこころの成熟の推移を思うと、なんとなく理解できる気がします。
 わたしたちは他人を否定することによって自分を肯定する心理、って残念ながらあります。わたし個人についていうと思春期、青年期はもとより30代ぐらいまでそういうのが残っていた気がします。倫理的に悪い他人を考えることによって善であろうとする自分を肯定する、みたいな。
 でも今、メディアで誰かの「悪」を好んでほじくり返すのをみていると、わたしだけじゃないんだなと思いますが、むしろ生涯長きにわたって他人を軽蔑することでやっと自分を肯定できる、ゼロサムの人が多いんじゃないかと思いますが。
 そういう相対関係の中で自分を肯定する、という段階を脱して「他人を肯定する」ことと「自分を肯定する」ということが無理なく両立するようになったのは30代後半以降だった気がします。

 そして、リーダーたちは「承認」実践者になることを通じて、自分のナルシシズムを程よく抑制できるようになる、ということはこのブログで繰り返し言っています。「他人はすごい」と感じたり言ったりすることは「オレ1人がすごい」という唯我独尊を抑制することになるんです。もともと攻撃的でナルシスティックなリーダーたちへの教育として大事な要素であろうと思います。




 ヘーゲルでは「家族愛」と「承認」をリンクしてとらえているのが大きな特徴のようです。そこから、経済、国家に「承認」の範囲を広げていきます。法思想の中核に「承認」の概念があります。


 フィヒテにおいては自我と他我が対立的なものと理解されるために、自我と他我との相互承認も、自由の相互制限という消極的なものとみなされる。
(中略)
 フィヒテにおいては法が承認関係と特徴づけられているが、その妥当範囲は限定されている。
(中略)
 これに対して、ヘーゲルはより広く承認の実現を家族、経済社会(市民社会)、国家に求める。法的承認が形式的、外的であるのに対して、家族、経済、国家においては実質的承認が実現されることをヘーゲルは重視する。ヘーゲルにおいては、承認は、たんに自他が自由を妨害せず、これを許容するという消極的なものにつきるのではなく、承認の根本は、自他が協力して生活を保障しあうことにある。
 後期ヘーゲルにおいては、法は、狭義の法、道徳、人倫(家族、市民社会、国家)を包括している。法のこれらの段階は形式的承認から実質的承認の高まりを含意している。
 


 いかがでしょうか。
 「家族」、わたしには過去のものとなりましたが、やはり大事でした。「承認」という概念とお付き合いして10数年、途中に迷いがなかったわけではないのですがそういう時、やはり「家族」という最小単位はわたしにとって「承認」で運営できる、実体のあるコミュニティであり、そこで生まれるダイナミズムは次の段階、企業体にも当てはめたくなるものでした(そしておおむねうまくいってきました)

 ほかの記事で触れたいと思いますが、ヘーゲルがいう「承認をめぐる闘争」、あるいは何かの事件があり被害と加害が存在するとき、被害とはなんぞや、と考えた時、それは個人(たとえば家族のメンバーのだれか)の「承認」がほかのだれかによって損なわれたときであり、それを回復することが正義、という道筋で単純に考えられました。子ども同士の喧嘩の仲裁も基本、その考え方でしていました。


 そういう実体験による検証がなかったら、わたしはこんなに長くひとつの概念に固執していられなかったでしょう。とりわけ実務での成功体験が少なかった時期には。


(繰り返しますが実績としては「12年1位」です)



 本書『承認と自由』は、この部分だけでなくやはり「家族と承認」「愛と承認」の記述も大変興味ぶかいので、もう何度か引用させていただきたいと思います。


100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
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 突然「ヘーゲル」を読みだしました。本来「承認」を語るのにヘーゲル避けて通れない、はずですがこれまでちょっと食わず嫌いしてきました。

 
 アカデミズム界にも静かなヘーゲルブーム、またそちら側からの「承認」ブームというのがあるようです。資本主義の再構築、という観点からも意義のあることでしょう。


 というわけで原典(邦訳書)と入門書解説書、とりまぜて少しずつ読んでいきたいと思います。

 まずは『法の哲学II』(中公クラシックス、Kindle版)。ヘーゲル51歳のほぼ完成期の著作。「承認論」はこれより前、30代のイエナ大講師のときに出て来たもので、この著作では比較的「さらっ」と触れられています。


 やっぱり言葉がむずかしいんですが(よくこんなに抽象に次ぐ抽象でものを考えられるものだ;;)、重要と思われるところを抜き書きしながら、例によって自分の感慨(ぼやき)を挿入していきます。


※なおこのブログの「引用」機能を使うとバックがグレーで読みにくくなるので、引用部分を太字表示にするという形式にしたいと思います


****


 §185

 〔社会の緊急状態の調節者としての国家〕特殊性はそれだけでは、放埓で限度のないものであり、この放埓な享楽の諸形式そのものに限度がない。人間の欲望は動物の本能のように閉ざされた範囲のものではないから、人間はおのれの欲望を表象と反省によって拡大し、これを悪無限的に追いつづける。ところが他方、欠乏や窮乏も同じく限度のないものである。この放埓な享楽と窮乏との紛糾状態は、この状態を制御する国家によってはじめて調和に達することができる。


 いきなり、きたきた、という感じです。
 緊急状態の調節者としての国家。(実はヘーゲル時代のドイツは統一ドイツなどというサイズのものはなく、零細国家に細分化されていたので、ヘーゲルがイメージした国家とは今の日本でいうとどのぐらいの単位のものかというと…、)

 要は、ほっておくと際限なく「弱肉強食」になり「格差社会」になりそうなとき、あるいは「悪貨良貨を駆逐する」になりそうなとき、行政が調節者になることは正しいわけです。


 えっ、我田引水すぎますって?でも教育において「弱肉強食」「悪貨良貨」という事態が起きることは、常識人になら想像がつくことじゃないですか。四字熟語多すぎますか。
 もう少しここを詳しくいうと、大人向けの教育について「ネタ」として取り上げる傾向が強まった、と感じています。極端なもの、「えっそんなものが」と目を引くようなものがメディアに載る、スタンダード/王道は顧みられない。しかし、実際の効果を上げるのはスタンダード/王道のほうなんですけどね、「ネタ」的加工をすればするほど、現実世界を幸せにする力は失われますね。どんどん平気で脇道にそれている。それを本筋に戻すのはもう見識あるところが英断でやるしかないでしょう。

 

 これに続く文章ではこんなことも言います。


 プラトンの国家は特殊性を排除しようとしたが、それはなんの役にも立たない。というのはこうした救助策は、特殊性を解き放って自由にするという理念の無限の権利と矛盾するであろうからである。
 キリスト教においては、とりわけ主体性の権利が対自存在の無限性と同じように芽を出した。しかし主体性の権利が芽を出した場合には、全体性はそれと同時に、特殊性を倫理的一体性と調和させる強さを手に入れなくてはならない。



 ここ1−2週間のうちにわたしは「公正(fairness)」と「平等(equality)」の違い、ということも女だてらに言ったのですが、ひょっとしてそれに近いことを言ってくれてるでしょうか。


****

「欲求」について。のちのマズロー「五段階欲求説」に発展するような欲求の多様性についての視点があります。

§190


 動物の欲求は制限されており、それを満足させる手段および方法の範囲も、同様に制限されている。人間もまたこうした依存状態にあるが、それと同時に人間はこの依存状態を越えて行くことを実証し、そしておのれの普遍性を実証する。

・・・

 人間には、住居と衣服に対する欲求があり、また食物をもはや生のままにしておかないで、適当に調理し、その自然的直接性をこわさなければならない必然性がある。こうした欲求と必然性からして、人間は動物のように安閑と暮らすわけにはゆかず、精神としても安閑とかまえていることはyるされない。

・・・

 こうしてついに、満たされなければならないものは、もはや必要ではなくて意見ということになる。そして具体的なものをもろもろの特殊的な面に分割することこそ、まさに文化の一面なのである。欲求が多様化されると、とりもなおさず、むきな欲望は抑えられる。というのは、人間が多くの物を使用するときは、これだけはどうしても必要だというような何か一つのものに対する切望はさほど強くないからである。そしてこのことは、窮乏の度が総じてそれほど激しくないという証拠である。


****

 そしていよいよ「承認」が出てきます。

§192

 欲求と手段とは、実在的現存在としては他人に対する存在となる。欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており、この制約は自他において相互的であるからである。欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた、諸個人の間の相互的関係の一規定にもなる。承認されているという意味でのこの普遍性が、個別化され抽象化された欲求と手段と満足の方法を、社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである。

 いかがでしょうか。

 個人と個人は欲求を満たしあうことで社会的関係をつくる。「承認する」ということの相互性。

 「当たり前のことを言っている」と思われますか?

 もしあなたが、拙著『行動承認』を読んだ方でいらっしゃるなら、第2章の

「わたしたちは『承認されないと満たされない』心に少しずつ穴の空いた存在です。満たす側になれますか?」

というくだりも想起していただけるかもしれません。

 あれはたぶんヘーゲル的世界では思考として当たり前のこと、しかし「コーチング」をはじめとする心理学の世界では当たり前ではありませんでした。

 というのは、心理学業界というのは、「コーチング」を含め、基本的に個人契約で専門家と個人が契約し、専門家がプロの仕事で個人の思いを受け止めることでご商売が成立してきました。

 また、リーダー研修にもある心理学系のセミナーというものも、現実社会のアンチテーゼ的に個人の自由自発性ということに奇妙に力点が置かれ、そこでは個人が戻った先の現実社会での相互関係ということは捨象した形で個人がねんごろに扱われました。「ご商売だから」とわたしなどはみていましたが、そこではとんでもないロジックの不備が入りこむすきがありました。


 そうした場や利害関係のもとでは、個人が教育を通じて進化して「与える側」になることで理想的な組織をつくる、なんてことは想定されていなかったんです。それができてしまうと専門家の仕事がなくなってしまうんです。だから教育のやり方が雑だった。

 だから、正田は特別高度なことをやっているわけではない。ただちょっと「コーチング」はじめ心理学業界の枠からはみだした思考をしただけです。それを生意気だ、なんて言わないでくださいね。

 ちなみに、某国際同業者団体を含むコーチングの世界では、「クライアントをいかに多数確保するか」がコーチ資格の基準となるので、「承認屋の正田」はある時期からその世界での資格ホルダーになることから降りてしまっています。「承認」習得によって、リーダーたちは多くの悩みから解放されてしまうので、わざわざパーソナルコーチングを受ける必要がないんです。儲からない仕事の仕方ですよね。


 これに続く『法の哲学』の文


 私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり、したがって他人の意見に従わざるをえない。しかし同時に私は、他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない。だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり、他人と繋がり合っているのであって、そのかぎりにおいて、すべて個人的に特殊的なものが社会的なものになるのである。


 これも当たり前のこと言ってますねー。心理学業界にどっぷり浸かっていると、すごく利他的なことを言っているようにみえると思います。あと某高齢者世代の方にとっても常識ではないかもしれません…


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 ほんとは、もっと引用したいんですが今日はこのへんで。

 この後はヘーゲル30代のイエナ大学時代の「承認をめぐる闘争」のあたりの思考をフォローしたいと思います。
 ちなみにヘーゲルが結婚したのは41歳だったそうですが、その前の30代はどんな青春だったんでしょうね…恋愛関係と「承認」に関する思索は関連しそうな気がしますけれど、そういう個人的なことは書きたがらないですね。
 あとヘーゲルってジャーナリストだった時期があるんですね。正田もときどき「罪刑法定主義」なんてことを書きますけれど、「罪と罰」についての思考トレーニングに役立ったことでしょう。

 
****

 さて、正田が急にヘーゲル読みになったのは、なにも衒学趣味にはしって大所高所から語る偉そうな研修講師をやりたいわけではないんです。

 ただ自分でも以前から「修正資本主義」的なことをやっている、という自覚は薄々ありました。それは最終的に経営者、管理者にとって容易に行動できる教育プログラムでなければならないことに変わりはないのですけれど、あまりにも急激な(過激な、ではない)変化を起こす教育をやっているだけに、そのことの歴史的意味を知っておきたくなった、という感じです。

 なにも、研修や某高齢者世代との論争のなかで「ヘーゲルカード」を持ち出したからといって相手がひれ伏してくれるなんてことはないと思います。ただ自分が知っておきたいのです。


拙著『行動承認』を読まれた方で、もしそこに載っている参考文献を辿ってくださった方なら、それら1つ1つについて膨大な冗長な読書日記がアップされていることに気づいていただけるでしょう。本文中で「さらっ」と言っていることも、実はそれぞれの文献との大真面目な対話を通じて自分の血肉化した(と思っている)思索なのです。いずれ今の読書がそのように結実してお客様のお役にも立てることを願います。
ーただわたしの性格上、「まず文献と思索ありき」から今のリーダー教育というおこがましい仕事に入ることは恐らくなかっただろう。今のタイミングだということも恐らく必然なのだろうー


 2012年から13年ぐらいまで陽明学の学びの場に通いましたので、今度はヘーゲルもいいんじゃないでしょうか。


****

 モーゼを扱った映画「エクソダス―神と王」をみました。
 これも格差社会を描いた映画、のように見えてしまいます。
 スペクタクルだったけれどそれ以上の感想は湧きません。カエルやらイナゴやら、CGなら出来るんだと思いますがリドリー・スコット監督ご苦労さま、という感じです。



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きのうのブログ記事「『けしからん!』では済まない現実」は、フェイスブックの数年来の信頼できるビジネスパーソンのお友達が「シェア」してくださいました。またきのうの記事にも登場されたお友達「池永さん」から、真摯なコメントをいただきました。


池永さんのご了解をいただき、コメントのやりとりをここに転載させていただきます。
悪意のひとは、「ほめてもらったのを得意げに載せやがって」と、思うかもしれません。(まあそのタイプの人は読まないでください)できればNPOの会員さんは、読んでいただきたいな。

----------------------------------

池永さん:おはようございます。
「論語読みの論語知らず」の私には過分なお言葉を頂き恐縮です。
本日のブログもヘーゲルの「承認をめぐる闘争」を想起させる示唆に富んだ興味深いものでした。
いつもありがとうございます。


正田:ありがとうございます。引用させていただきました。
ヘーゲルそんなこと言ってたんですか?恥ずかし…
(あわててアマゾンにとんでいきました)


池永さん:初期ヘーゲルの思考モデルで、ジョン・ロックの思想にも通じるもので、
人間は(承認を求めての命懸けの闘争)を行うと述べています。

小林秀雄も「人は社会に正しく負けなければならない。つまり承認を得なければならないので有る」との主旨の事を彼一流の表現で述べています。
ヘーゲルのそれに纏わるものとしてテイラーの「承認の政治」の解説の一部を引用すれば、
承認の政治・概要「集団やそのなかに生きる個人が自らの文化やアイデンティティの適切な承認を求めて行う主張・運動や、それをめぐる論争・交渉のこと。」
あくまでこれはヘーゲルの主張のごく一片の解説で有って、彼の哲学は断章取義できるものでは有りませんが。

それよりも私が感心させられたのは、正田さんがヘーゲルのこの思考モデルを意識せず、つまり巧まずして相通じる主張をされた事です。
それは正田さんの問題意識の高さ、見識の確かさを証明して余りある事と感銘を受けました。


正田:池永さん、ありがとうございます!
今年は、ひょっとして頂いたこのテーマを中心に学んでいくことになるかもしれません
お恥ずかしいことに、承認の概念の起源はマズローまでしかたどれていませんでした。しかし以前より承認は心理学より哲学・倫理学の世界のもののように感じていました。そう思って先日は哲学者と対談をしたのですが、先方からはそういう話は出ませんでした。
21世紀日本のマネジメント思想・社会思想として完成度の高いものにしていきたいというのが今のわたしのささやかな願望です。
池永さんからのご示唆、大変ありがたかったです。自分がまだ全然未熟だと気付かされました。


池永さん:私の拙いコメントが何らかのお役に立ったとすれば幸いです。
正田さんの「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を実践される相手を立てる謙虚な御姿勢には敬服するばかりです。
日本のマネジメント思想に対する理解度の低さは先進国の中でも際立っておりますので、正田さんのお取り組みはこれからの日本に欠くべからざるものと愚虜致します。

蛇足ながら概読されていたらご容赦頂きたいのですが、そのお取り組みに資するものとして「同感」という言葉の語源となったアダム・スミスの「道徳感情論」もお薦めです。


正田:池永さん、ご紹介ありがとうございます!
今、「道徳感情論」も注文してみました。つい昨年文庫版が新しく出ているのですね。
池永さんを信頼して、少し大風呂敷を広げたいと思います。
先人たちの思考の跡に敬意を表したどることも十分に行いたいのですが、わたしたちは成人が「承認」に習熟し確信ある担い手となったときに、実際にどれほど大きな好ましい変化が起こるかについて、統計や業績上昇の記録を積み重ねてきています。その作業は、恐らく人類史上でも前人未到のものであると思います。リアルタイムに目の前でそれが起きている、ということも、信じていただきたいのです。これは、わたしたち自身が信じてやり続けなければならないことなので―。


池永さん:勿論です。「温故知新」物事の足腰、土台となる先人の教えは徒や疎かにはできませんが、リアルタイムでそれが役立つ事、未来に資する現在の取り組みが何よりも大切で有ることは言を俟ちません。
だからこそ正田さんのお取り組みが我が国に欠くべからざるものと確信しております。


正田:池永さん、身に余るお言葉をありがとうございます。
自分を見失わないよう、精進したいと存じます。
また、このたびのやりとりをブログでご紹介させていただいても
構いませんでしょうか?


池永さん:以前も申しました様に私は思った事しか申し上げません。
もしかしたら気分を害される事も有るかも知れませんが、必ずや意の有るところを汲んで頂けると信じております。
それが君子の交わりで有り、美辞麗句を並べるよりは遥かに有意義な人間関係を構築できるものと愚虜しております。

元よりメッセージと違いコメントはオフィシャルなものですから拙コメントで宜しければ如何様にもお使い下さい。
ただ、時間的制約や文字数の関係上、言葉足らずな部分や意を尽くしきれていない部分も有り、他の方々の鑑賞に耐えるかどうかは疑問ですが、普段は正田さんの読解力に信倚して投稿している事も予めご理解を頂いた上で、拙コメントがお役に立つ様でしたら喜んで。


以上


****

 池永さん、ありがとうございます!2日続けて引用させていただきました(^^)/


 ・・・なお正田の教養不足で池永さんコメント部分の「裏取り」は完全にはできておりません なので「自己責任」でお読みください。


 アマゾンをみるとヘーゲルのほか、哲学者の片山善博氏(すいません、このひとは元鳥取県知事とは別の人でした)も『差異と承認―共生理念の構築を目指して』を書いていますし政治哲学、法思想としても「承認」があるようだ。うわーうっかりしてた。こっちがおるすになっていた。

 一方には『承認をめぐる病』のような、心理学者が病的に描きだす「承認」「承認欲求」もあるが(確かにそういう世界もあるのだろうが)もっと高次の文脈の「承認」があるのです。そしてわたしたちがやってきたことも、そちらのほうだったろう、と思います。


 ただ、わたしたちほど徹底的に「実践者」のスタンスをとり、そのスタンスで何が起こるか?をみてきたひとはいないだろうと思います。


 実践の世界の人正田はふだん平易な言葉でしか話さないので、このたびは池永さんがわたしの言葉を「思想」の言葉に翻訳してくださったようです。ありがたいことです。


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 去年、わたしたちの主催事業に地域の公的経営支援機関さんが一斉に「後援名義」をつけてくれたのに、メディアは頑として反応しなかった。おかげで大コケして面目まるつぶれになったし、あまりにも「書かない」と、うちが反社会勢力と関わりがあるんじゃないか?特定政治、宗教団体と関わりがあるんじゃないか?と邪推されるんじゃないかと心配にもなった。先日は見かねて財界の大御所も動いてくださるみたいなことになった。


 今の心境は、むしろ書いてもらわんでいいよ、大人の仕事の値打ちが下がる、という心境です。

(どうせ大人の仕事のことなんて社会の仕組みなんてわからないんだから。いや、ほんとにそういう問題なんだなって今回わかりました。ただもうオボちゃん報道終わって、大人の女の人に迷惑かけないで、っていうのは思います。「混同」が引き続きものすごいダメージです。)


 書かれる書かれないにかかわらず、昨年うちは金メダル級のお仕事を8こもやりました。それは12年前からそれ級のお仕事をしてきたのが、蓄積が実って去年開花したものです。真っ当に正直にやり続け、この社会に今でも残る(希少価値になりつつある)真っ当な感覚の人たちの心に響いてきました。

 さあ、今からはそれはどう変わるでしょうか・・・。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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