正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ:学びに感謝 > 承認欲求バッシングを批判する

 NHK今期の朝ドラ「とと姉ちゃん」。5月31日は視聴率23.1%を記録し、今世紀の朝ドラで「あさが来た」を抜いて最高記録を更新しているそうです。

 今週は、ヒロインのとと姉ちゃんこと常子が女学校を出て就職しました。そこで、妙に「承認」が絡みそうな展開になってきます。


 就職先は文具会社で、職種はタイピストです。このタイピストの女性集団は会社の中でちょっと特殊な立場にあり、「タイピスト部屋」のようなところで仕事しています。

 昨日今日のあらすじを簡単に言うと…。

 未熟練でタイプの仕事をなかなか貰えない常子(高畑充希)。社内の他部署の男性に仕事を頼まれて引き受け、徹夜で机の整理整頓、書類整理、書類清書をこなす。真夜中まで残ってやっていた常子に、用務員のおじさん?がキャラメルを手に乗せてくれる。しかし時間内にやりあげた仕事に対し、依頼した男性は「もう帰っていいよ。邪魔」というのみ。

 タイピストの元締めのような先輩女性には、「男性は私たちを便利な雑用係としか思っていないから、仕事を引き受けてはダメ」と言われる。

 その先輩女性は、タイプでの清書を「原文通り打たなかった」と依頼元の男性になじられて切れ、
「文法がおかしいものを直してはいけないんですか!」
「私たちのことも男性と同様、ちゃんと苗字で呼んでください!オイや君じゃなくて」

 
…というような話です。

 はい、「承認研修」の受講生様方、ここには何と何の「承認欠如」が出てきましたか。

 なーんて、ね。

 答えは、「行動承認」「感謝」「ねぎらい」「ほめる(結果承認?)」「名前を呼ぶ」でした。基本中の基本です。皆さま、できてますね?(逆に、用務員のおじさんのキャラメルは、ささやかな無言の「承認」でしたね)

 ドラマでは、こうした「承認欠如感」を抱えてモヤモヤした常子が、家に帰って居候中の仕出し屋のおばさんに相談する、さあ何を相談するか、というところで今日は終わりました。

 もちろん戦時中の話ですから、「承認」なんて言葉はここに直接出てこないと思いますが…。


 ついでに、上記の話に常子の「義理のおじさん」(青柳家の養子。母の義理の兄弟)がサイドストーリーでちょっと絡んでいます。

 道で常子が自慢の多いおじさんとすれ違い、「ああまたいつもの自慢話をきかされるか?」と常子が身構える。しかし、おじさんは上機嫌の顔のまま、自慢せずに通り過ぎる。
 
 番頭の隈井(片岡鶴太郎)によると、おじさんはこのところ仕事で成功が続き、祖母(大地真央)からの信頼も厚いため、自慢しないでも良くなったのだという。ふうんと納得する常子。

 この話も、仕事自体によって十分な自信を得、また上司からの承認(信頼も承認のうち)も貰っていれば、自己承認をする必要がなくなった、というふうに解釈することができます。


 まあなんで「承認屋」の解説を必要とするドラマでしょうか。





 このところ「承認欲求バッシングの批判」という、批判の批判、ねじくれたことをやっていますので、「承認」のたいせつさがストレートに伝わりにくくなっていたのではないかと思います。

 しかし、「承認欲求」はわたしたち人間の基本欲求です。


 去年の10月、『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月)という本について、読書日記を書いて考察しました。

 この本では、「五段階欲求説のマズローは間違っている」といいます。マズローは所属と愛の欲求、承認欲求を五段階の上のほうに置き、生理的欲求のところに置かなかった。しかし、現実には人間の赤ん坊は片時も愛されなければ、そして注目され世話をやかれなければ死んでしまう存在だ。たえず愛、注目、ケアを求める。だからヒトにとって、愛され注目されるということは生死のかかった基本欲求で、それを一生涯引きずるのだと。



●『21世紀の脳科学』をよむ(1)読書日記編―「自立した個人」の幻想、マズローとジョブズの犯した間違い
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51923413.html


●『21世紀の脳科学』をよむ(2)考察編―新しい欲求段階説、作っちゃいました
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51923415.html

 
 上記の「欲求」についての考察を、わたしがこの本に基づいて、またこれまでの人間観察に基づいて、勝手に図にしてみたものがあります。


スライド1

 
 
 
 ちょっと字が細かいのでまた手直しが必要ですけれど…

 この図では、「つながり欲求」を大きく赤色で分類して、その中の原始的な乳幼児〜思春期ぐらいまでのものを「生理的・利己的なつながり欲求」、もう少し成熟した、社会人以降のより高次な関係欲求を「社会的思考の欲求(承認欲求)」としてみました。

 でもざくっと言うと、赤い色のところは全部「承認欲求」とよべるのです。

 また、大人の年代になってからの「承認欲求」は、倫理的に高いレベルの人でありたい、ということも含みます。そのことを通じて他者に良い影響を与えたい、自分についても良いイメージを保ちたい、と思っているからです。決して自己完結的に成熟するわけではないのです。


 また、青い色のところはこれまでモチベーション論の中で高級なものとみられていたところでした。「能力をフルに発揮したい」「夢中になり集中したい(フロー体験だ)」、「挑戦・冒険したい」。

 これらは、重要なものではあるけれど、これだけでは自己完結的なモチベーションです。他人目線を欠いていて、ひとりよがりになる危険性もあるものです。赤いところとセットになって、初めて周囲の人に役立つことができるのです。

 ・・・という、わたしの解釈であります。


 脳科学者もいろいろな考え方があると思います。上記の『21世紀の脳科学』原題'SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’の著者リーバーマンは40代の少壮学者ですが、人と人の心の結びつきを重視するスタンスの脳科学者さんだったようです。ソーシャル・ブレイン(社会脳)系の人ですネ。いくらMRIのような文明の利器があっても、その学者さんがそういう仮説を立てなければそういう知見は生まれてきません。


 でもわたしはこの考え方に賛同するのです。


 
 また上記の読書日記では、その後繰り返し使うことになる「内側前頭前皮質」についての知見が出てきています。
 すなわち、「わたしたちが自己を認識する部位」と、「外部からの規範を取り入れる部位」は同じものだ、と。ひとつの部位がふたつの働きをしているのだと。


 だから、相手に規範を教え込みたいときには、相手が「たしかに自分のことだ」と思うような「承認」の言葉をかけながら教えてやるのがよい。

 「行動承認プログラム」の中では、この知見をこのように使います。

 はい、みなさん。「相手がたしかに自分のことだと思うような承認の言葉」って、どんなものでしょう?

 大丈夫ですね。「行動承認」でほぼOKです。「名前を呼ぶ」などもいいかもしれません。




 今日は、フェイスブックのお友達に「正田さんは承認のことを書かなければダメだよー」と言われてしまいました。

 最近たしかに寄り道ばかりしています。
 「承認」のすばらしさをもっと書かなくちゃね。

 とと姉ちゃん、明日からどうなるんだろう。



 ふたつの道筋があり得るんですが、
 ヒロインの常子自身には、「人に認められたいと思わず貢献しようと思って働け」というアドバイスがあり得ます。
 しかしタイピストの元締め、早乙女という女性の言い分ももっともです。この人の言動やスタンスには、「性差別と承認欠如が合体した状態」に対する抵抗が感じられます。こういうときに「人に認められようと思うな」ということは、「性差別を容認せよ」ということになってしまいます。
 
 さあ承認欲求バッシングか、それとも承認欲求肯定にいくか。目がはなせません。

 「アドラー心理学批判」のまとめとして、現在アドラーの言葉として出回っている「有害フレーズ」を一覧にしてみました。


アドラー心理学批判:発言の捏造ver2


※2017年1月31日、「トラウマ」の項を更新しました。
 
 いかがでしょうか。

 今のところわたしはアドラーの著作を全部読んだわけではなく、『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』それに『子どものライフスタイル』『子どもの教育』しか読んでないので、「中間報告」のようなものです。上記のフレーズが他のアドラーの著書のどこかに絶対ないとは言えないです。それは「STAP細胞が絶対にない」ということが難しいのと一緒です。ただし、代表的な著作には出ていないし、それらの文章のトーンから考えてもほかの著書に出てくるとは考えにくい。仮に出たとしても偶発的な、文脈依存のもので、アドラーの主たる主張とはいいがたいものだろう、ということですね。

 (まあもし、「いや、アドラーは言っている」というのであれば、何という著作の何頁にあるかまできちんと言ってください)


 それで、こういう捏造は果たして許されるか?ということを考えてみたいと思います。


 わたしたちは日頃、孔子の言葉、アリストテレスの言葉、マザー・テレサの言葉…に触れることがありますが、ここまで極端に捏造された言葉をきかされているだろうか?

 まさか、中間の人がここまで勝手なアレンジを加えた言葉を「アドラーの言葉」としてきかされるとは、思っていないんじゃないでしょうか。しかも有害なことを。

 原著を読んだ限りではアドラーは、ところどころ見立ての間違いがあるとはいえ良心的な常識的なカウンセラーです。「逆張り」などはしていません。時々「過剰」を憂慮していたにすぎません。しかも彼自身は、誰かの言葉を借りて言うということもほとんどしていません。けっして「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」などではありません。そこまで悪ノリして暴走するタイプの人ではありません。


 「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」は、主に、岸見一郎氏です。

 岸見一郎氏のWikiはこちらですが――

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E8%A6%8B%E4%B8%80%E9%83%8E

 まあ大学の非常勤講師を務めながら売れない頃からずっとアドラーの著作を訳してきたわけですね。わが国のアドラーの翻訳書はほとんど岸見氏の手になると思っていいぐらいです。

 しかもアドラー以外の心理学書はほとんど読んでない、というのも変わった方ですねえ、というかんじですが。そこまでアドラーがすきだったんですね。そのコダワリの強さは、あれっぽいですね。

 たしかにアドラーは同時代のフロイトやユングに比べてもまっとうな気がしますが、それでも現代のちょっと知識のある人からみれば間違いがたくさんあります。「トラウマを乗り越えよう」というのも、良心的な言葉ではありますが、重度のトラウマを負った人からみれば有害フレーズです。

 だから過去の遺物としてみるぶんにはいいんですけれどね。
 どういうわけか近年スポットライトが当たってしまい、そしておそらく、ヘーゲルの時代の哲学者よろしく、人生のあらゆる局面について発言していますから、「偉人」あつかいして「語録」あつかいするには都合がよかったんですね。
 しかし、過去のどの偉人と比べても発言を捏造されていますよ。


 よくわかりませんが『嫌われる勇気』のときに、なんでもダイヤモンド社の敏腕編集者がついていろんな提案をしたそうですが、そのときに今どきの「承認欲求バッシング」を入れこもうとか、「ほめない叱らない」を強いトーンで入れようとか、が入ってきた可能性があります。
 そのとき、売れたい一心の岸見氏がそれに乗っかったのかなと。

 ほんとうに良心的な専門家なら、「いや、アドラー自身はそこまでのことは言っていません。アドラーの言葉として言うのはやめてください」と言うと思います。でも「今が売れるチャンス!」と思ったら、乗っかるかもしれません。


 そのあたりはわたしは事実関係を良く知らないんですけどね。

 それにしても一連の「承認欲求バッシング」の書籍の中でも、「承認欲求を否定せよ」は、もっとも過激な、そして有害なフレーズです。他の本はおおむね、承認欲求ゆえに問題行動をとる人の例を挙げて嘆いてみせているだけなのです。承認欲求は人間の基本欲求なので、否定すれば簡単に鬱になってしまいます。もう既に鬱になりかけの人も多いかもしれません。

 「承認欲求バッシング」自体が、気に食わない優等生を袋叩きにする「いじめ」のような現象だったのですが、その中でも「承認欲求を否定せよ」とは、いじめグループの中の一番ヘタレの弱虫君が一番悪質なことをやってしまうというようなおもむきがあります。


 一般人のわれわれが知っておくべきことは、アドラーの言葉として出回っているものにはかなり「捏造」でかつ「有害」なものがあるので、聞き流しておくのが賢明だ、ということです。





 岸見氏の暴走ぶりというのは、例えば過去に講演で

「反抗期などというものはない」

と発言。

 詳細はこちらの記事参照

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html


 このあとすぐ某週刊誌で、思春期の子どもの脳についての特集があり、ちゃんと「反抗期はある」と実証されているわけですが。
 またアドラーも、思春期の子ども特有の逸脱行為について書いており、決して「反抗期はない」などと思っていたようにはとれません。


 またその後わたし自身が聴講した講演では、「自分の息子」をしきりに例として挙げながら「ほめない叱らない」論をぶっていたので、私が切れて反対質問をしたのでした。

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

 岸見氏の息子さんは、のちに京大に入って哲学者になられたのだそうで、自慢の息子なのだろうと思います。講演では、この息子さんがプラレールか何かを上手に組みあげたので、ほめたところ嬉しそうな顔をせず、「お父さん僕は当然できることをしただけだよ」と言ったという。その例を挙げて、「ほめることは対等の関係ではないんだ。上から目線だ。ありがとうと言わなければならない」と、いうのでした。

 これは「行動承認」の側から当然、反論があります。息子さんはIQの高い、言語能力の高いお子さんだったのであろう。また「ツンデレ」だったのであろう。あくまで息子さんの個体差の問題で、一般的にはお子さんは大人からほめられれば喜びます。また、「ツンデレ」を回避したければ、「行動承認―Iメッセージ」を使っておけば問題はありません。

 この講演では、3時間の講演と質疑の間に「うちの息子」の例が10回ぐらい出てきたのではないだろうか。息子自慢に終始した講演だったのでした。

 べつの例としては、お母さんのカウンセリングの50分間、一緒に入って静かに過ごした4歳か5歳の子供に、お母さんが「静かにしていてえらかったね」と言った。それが良くないと、岸見氏は言います。
「えらかったね。これを大人相手には言いますか?対等な関係だったら言えないことを子供に言ってはいけません。『静かにしてくれてありがとう』と言うのが正しいのです」
 しかし、岸見氏はそれを直接このお母さんに伝えたわけではないようでした。講演でカゲ口として言うのでした。
 わたしがきいていて、このケースでえらかったね」と言うのは、何も間違っていません。だって、4-5歳の子どもさんですよ?

 
 しかし、岸見氏の講演はこんな話が満載なのでした。300人ぐらいの善男善女ふうの人たちがこういう話をかしこまってきいているのでした。

 今から日本には「ほめられない子供」があふれることになります。やれやれ。この責任、どうとるのでしょう。製造物責任じゃないですか。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

●アドラー心理学批判 まとめの補足:正確な言葉は「人生のすべては認められたいという努力によって支配されている」、「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941508.html

 さて、わたしはここまでアドラーの原著『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』を読んでみて、アドラーという人にわるい印象はもちませんでした。良心的な、一生懸命なカウンセラーさんだったのだろうなと思いました。

 また、同時代のフロイトが捏造だらけだったことが明らかになったり、ユングはポエムだったと言われることなど考えると、意外とアドラーが一番「まっとう」な人だったかもしれない、とも。


 しかし。
 ここでは、アドラー心理学全体の解説を試みるつもりはありませんが、現代人の目からみると、どうみても明らかにおかしいところがあります。見立てもおかしいから治療アプローチも間違っている。

 そして、それがどうも思想全体に影響を与えているのではなかろうか?と。部分的な間違いではなく、全体に及んでいるのではないか?と。


 非常に「ざっくり」とした整理ですが、アドラーの考える「いい人」「わるい人」とはどんなものか、みてみます。


スライド2



 よろしいでしょうか。

 
 アドラーのいう、「共同体感覚をもとう」「他人に関心をもとう」「協力しよう」「貢献しよう」どれも、間違いではないんです。むしろ、常識的なことです。わたしも小学校の先生にさんざん言われました。

 しかし、カウンセラーであるアドラーが、こうした言葉を口酸っぱくして言わなければならなかった相手とは、どんな人だったか?

 実は、アドラー自身が描写する、「他者に関心のない人」「協力しない人」「貢献しない人」、ひとことで言うと「共同体感覚のない人」とは、よくよくみると、現代でいうところの発達障害者、なかでもアスペルガー症候群の人に当てはまりそうなのです。

 なんども言いますように、アドラーはカウンセラーとして、「人生がうまく行ってない人」に関わってきました。その中で、不幸な事例をたくさん見てきました。

 そして、人生の不幸を作り出すのはこういう人だ、と彼なりのモデルをつくりだした、それが「共同体感覚のない人」だったようです。

 
 ところが、彼がカウンセリング場面で手を焼いたような、「共同体感覚のない人」とは。

 おそらく、知能程度は普通かそれ以上で、なのに他者への共感や思いやりに奇妙に欠けた人物だったろうと思います。そしてアドラーはそうした人びとは先天的にそうなのだろうとは考えませんでした。後天的な育て方のせいでそうなった、と考えました。だから、教育者向けに「こういうことを徹底して教え込みなさい」とクギをさすことになったのです。

 アドラーが自閉症スペクトラムと定型発達の区別がついていなかっただろうと思われる記述――。


 もっぱら自分自身の利害を追求し、個人的な優越性を追求する人がいる。彼〔女〕らは人生に私的な意味づけをする。彼〔女〕らの見方では、人生はただ自分自身の利益のために存在するべきである。しかし、これは共有された理解ではない。それは全世界の他の誰もが共有しそうにない考えである。それゆえ、われわれはこのような人が他の仲間と関わることができないのを見る。しばしば、自己中心的であるように育てられてきた子どもを見ると、そのような子どもが顔にしょんぼりした、あるいは、うつろな表情を浮かべているのを見る。そして、犯罪者や精神病の人の顔に見られるのと同じような何かを見ることができる。彼〔女〕らは他の人と関わるために目を使わないのである。彼〔女〕らは他の人と同じ仕方で世界を見ない。時にはこのような子どもたちや大人は、仲間の人間を見ようとはしない。目を逸らし、別の方を見るのである
(『人生の意味の心理学』下巻第十一章個人と社会、「共同体感覚の欠如と関連付けの失敗」、pp.129-130)


 このパラグラフの前半は自己中な大人のことを言っています。自分の損得勘定ばかりを考える大人のことです。そして後半は自己中に育てられた(とアドラーが考えている)子供のことを言っています。そうした子供の特徴として、アドラーは「視線を合わせない」ということを言っているのです。

 
 このブログの長い読者の方々だと、「損得勘定にばかり関心」そして「視線を合わせない」どちらも、アスペルガーの人の特徴だということがおわかりになるでしょうか。


 アスペルガーに限らず発達障害の人は共感能力が低いので、自分の言動が他人にダメージを与えているということがわかりません。またワーキングメモリが小さいので、「情けは人のためならず」というような話はわからないんです。まわりまわって自分にもいいことが起きるというお話は長すぎるんです。勢い、てっとりばやく自分の手元にお金がいくら残るか、いくら節約できるかという話がすきです。
(これも、例外として高機能の人だとお勉強するとちゃんと慈善事業ができるようになることがあります。ビル・ゲイツ氏などはたぶんそうなのでしょう)

 だから、現代のお医者さんによるとアスペルガーの人に問題行動をやめさせようとするとき、倫理道徳の話では理解してくれないので、「そんなことをするとあなたが損するよ」というと、きいてくれることがあるそうです。

 また、自閉症スペクトラムの人は視線は合わさないですね。これも、他人の視線は情報量が多すぎるからしんどくなるのだ、という説があります。


 でも、アドラー先生にとってはこれらは自己中でけしからんことのサインなんです。

 それは仕方ないんです。アドラー先生の時代に発達障害概念はなかったのですから。

 ここでちょっと年表的なものをお出しすると、


スライド1



 自閉症やアスペルガーについての報告が出てきたのはアドラーが亡くなったより後です(表左)。アドラーは、精神遅滞、今でいう重度の知的障害の人のことはみたことがあったようです。しかしIQは高いが認知能力の一部を欠損しているアスペルガーの概念などは全然知りませんでした。

 われわれにとっても、今でこそ徐々に知識が普及しつつありますが、知識がなければアスペルガーの人というのはやはり理解しがたい存在です。そして、この人たちが知的能力は高いのに人間的なことにはやたらと感度が低いのをみたとき、往々にして「親の躾が悪いんだろうか」と思ってしまいます。

 アドラー先生がカウンセリングでクライエントに良くなってほしくて焦れば焦るほど、この人たち相手には空回りしたはずです。

 その結果が、恐らく「共同体感覚をもて」「協力せよ」「貢献せよ」といったテーゼになったであろう。
 それでカウンセリングが成功したかどうかは、疑問です。

 
 決して、定型発達者にとっても悪いフレーズではないんですけれどね。

 
 
 また、上記の表について補足なんですが、「ほめない叱らない」をアドラーが言ったはずがない。

 というのは、行動理論がヒトに応用されて「ほめ育て」が出てきたのは、これもアドラー先生が亡くなった後だからなんです(表右)。だからそれについて批判するはずもない。


 行動理論に対する批判の声が高まったのは(言いがかり的なものですが)1990年代です。このころに、恐らく後世のアドラー心理学の人たちが反応して、「操作することはいけない」「賞罰主義はいけない」と言い出したと思われます。アドラーが言い出したことではないはずです。ただ「アドラー心理学では賞罰主義を否定する」このフレーズは、岸見氏にかぎらずアドラー心理学を標榜する人は言っていますね。


 追記:ひとつの資料

 一人にされた三歳か四歳の女の子がいる、と仮定してみよう。彼女は人形のために帽子を縫い始める。彼女が仕事をしているのを見ると、われわれは何てすてきな帽子だろう、といい、どうすればもっとすてきにできるか提案する。少女は勇気づけられ、励まされる。彼女はさらに努力し、技能を向上させる。(『人生の意味の心理学』下巻第十章「仕事の問題」、p.115)


 ここでは、「われわれ」という主語ですが、最初に「何てすてきな帽子だろう」と、言っています。これは、「ほめている」のではないでしょうか?そして続けて「どうすればもっとすてきにできるか提案する」とします。この2つの働きかけを、アドラーは「勇気づけ」と言っています。わかりますか?「ほめて、提案する」なんです。
 この相手は3-4歳の女の子ですが、ここで「提案」単独では勇気づけになりません。女の子がつくっていたものに、いきなり「こうすればもっとよくなるよ」と言ったら。それは失礼というものです。頭に「素敵だね」をくっつけて、少女の仕事を肯定していることを示したうえでなら、提案は勇気づけの役割を果たすでしょう。

 このエピソードのすぐあとにこう続きます。


 
しかし、少女に次のようにいうと仮定しよう。「針を置きなさい。怪我をするから。あなたが帽子を縫う必要なんかないのよ。これから出かけて、もっとすてきなのを買ってあげよう」と。少女は努力を断念するだろう。このような二人の少女を後の人生において比較すれば、最初の少女は芸術的な趣味を発達させ、仕事をすることに関心を持つことを見るだろう。しかし、後の少女は自分でどうしていいかわからず、自分で作るよりも、いいものが買えると思うだろう。(同、pp.115-116)


 ごく常識的なことを言っていて、わたしなども何も異論をはさむ余地はありません。「行動承認」のスタンスとも矛盾しないでしょう。ここでのポイントは、アドラーは「勇気づける」ことを「勇気をへし折る(奪う)」ことと対比させたのでした。決して、「勇気づけることは良くてほめることは悪い」などとは言っていないのでした。
 また、著書のすべてを読んで言っているわけではないのですが、アドラーの考える「勇気づけ」の全体像は、「承認」とよく似たものだったと思われます。細かくカテゴリ分けすれば、当社の「承認の種類」と同様に、そこには「ほめる」も含むし「励ます」も含む。人が人を力づける行為全体を包含していたと思われるのです。


 …ただ、細かいことを言いますとアドラーが「勇気づける」対象としたのは、こうした幼い少女であったりカウンセリングで出会う、社会から排除されたクライエントであったりし、やはりいささか「上から目線」が入っていないとはいえません。相手に行動力が「ない」「低い」とわかっているときに言うぶんには、いいものです。わたしのような年をくった人間に「勇気づけ」を使うのは「おこがましい」と言われても仕方がないのです。


 
 

 もうひとつアドラー心理学の大きな問題点は、

「批判はいけない」
「対立はいけない」

と言っている点です。これは原著の中にあります。

 以前から言っていますように、「批判はいけない」は心理学、カウンセリング独特の話法です。哲学の中にはちゃんと批判はあります。わたしがひそかに名乗っているドイツ・フランクフルト学派は別名「批判理論」ですし、その中の重鎮ハーバーマスはあっちこっちを批判しまくっています。


 で、とりわけわが国のように「波風立てない」ことを尊ぶ気風の中では、「批判はいけない」は、非常に有害な思想です。薬が効きすぎてしまうんです。

 端的に、このところわが国で連続して起きている不正問題などは、内部で適切な批判が起きないから起きるんです。

 岸見一郎氏なども、アドラー先生が言ってもいないことを捏造して触れまわっていますが、これはアドラー心理学業界さんの中で批判は起きないのでしょうか?
「アドラー先生はそんなことは言っていない!アドラー先生が誤解されるようなことを言うな!」
と血相を変えて言う人はいないのでしょうか?

 アドラー心理学陣営のご同業のみなさんは、岸見氏が有名になってくれれば自分のところにも食い扶持が回ってくるからと、黙認状態なんでしょうか?


 「批判」を封じると、自浄作用がありません。向上がありません。不良品を出してしまいます。

 
 アドラー自身が良心的な人であっても、後世のアドラー心理学が有害なものになったことに、責任の一端がないとはいえませんね。「批判はいけない」を彼自身が言ってしまっていますから。




<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 引き続きアドラーの原著を読みます。『人生の意味の心理学』(上)(下)(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2010年。原題'What Life Should Mean to You'1931年。

 この本は、NHK「100分de名著」に今年2月に取り上げられています。

>>http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html
 

 で、この本にどうやら「承認欲求否定」と「トラウマ否定」につながりそうなフレーズが見つかりました。

 しかし、「つながりそうな」というだけです。アドラーは決して「承認欲求を否定せよ」「トラウマなど存在しない」などという言葉は言っていません。では、何と言っているのでしょうか。

 上記番組でも上記のフレーズを使っていますが、番組プロデューサーさん、この本をちゃんと自分の目で読みましたか。


 まずは、「トラウマなど存在しない」(の起源)のほうから。


 
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(前掲書上巻第一章「人生の意味」、p.21)


 トラウマに苦しむのではなく、経験に意味を与えなおすことで自らを決定せよ。そういう意味のことを言っています。

 この一節の前には、子供時代の不幸な経験について、不幸な経験があってもその経験にとらわれず今後は回避できると考える人もいるし、同じような経験をした人が人生は不公平だと考えたり、自ら犯罪に手を染めて不幸な経験をその言い訳にする人もいる、という意味のことを言っています。

 なんども言うように、アドラーは心理学者・カウンセラーさんです。トラウマに苦しむ人を膨大な数、みてきました。この本にも他の本にも、アドラーがみてきたトラウマのために社会不適応を起こす人、問題行動をとる人、が多数登場します。

 だから、「トラウマなど存在しない」という言い方は誤り。

 ただし、そうとれることを言っている、というのは、アドラーは恐らく過去の経験に囚われている人を何とか治したかったのだろうと思います。実際に治せたかどうかはわかりません。治したい一心で言った言葉が、上記で引用した一節であろうと思います。すなわち簡単に言えば、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

と。

 読者の皆様、どう思われますか?

 「トラウマ」については、現代では色々な形で反論できるんです。

 例えば、

1.動物でもトラウマと似た反応はある。セリグマンの「学習された無力感」の実験などはそう。

2.地震大国の日本では阪神淡路、東日本大震災などで家を失い、近親者を失ったことなどによるPTSD患者が多数出たことを知っている。その人たちに「トラウマなど存在しない」と言えるだろうか?

3.発達障害の一種、自閉症スペクトラム(ASD)の人ではトラウマが残りやすいことが知られている。彼らは恐れをつかさどる偏桃体が普通の人より大きい。

・・・などなど。

 アドラーは身体の障害には言及していますが、こころの個体差にはかなりむとんちゃくでした。知能にも限界はないと言ったように、個体差を否定したがる傾向がありました。
 それもまた度を過ぎたポジティブさとも言えるし、優生思想を回避したいがための「べき論」とも言えるし。現代のわれわれは、人間は「タブラ・ラサ」ではなく、生まれつき脳の個体差があることを知っています。また遺伝形質の影響が大きいことも知っています。


 ただ上記のような、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

こういうフレーズを、現代でも認知行動療法のカウンセラーさんなどは言っているような気がします。不遜な言葉ですけどね。わたしならそのカウンセリング、やめますね。

 こころの痛みを負った人には、まず十分な傾聴、共感、慰め、いたわりが必要です。そののちに、もしトラウマとして残っているようであれば、以前にも書きましたがEMDRは、クライエントに治りたいという意志が強いならいい選択だと思います。

 
 ともあれ、まとめますと、アドラーは「トラウマは存在しない」などということは言っていない。ただ「トラウマを乗り越えよう」という意味のことを言っている。ということです。




 もうひとつ、「承認欲求否定」につながりそうな一節をご紹介しましょう。「第八章 思春期」に出てきます。

 
 
以前は貶められ無視されていたと感じた子どもたちは、おそらく今や、仲間の人間とのよりよい関係を築いたときに、ついに承認されるだろう、と期待し始める。彼〔女〕らの多くは、このような賞賛の渇望にとらわれる。少年が賞賛を求めることにあまりに集中することは危険だが、他方、多くの少女はいっそう自信を欠いており、他者に認められ賞賛されることに、自分の価値を証明する唯一の手段を見る。このような少女たちは、容易に彼女たちをおだてる方法を知っている男の餌食になる。私は家では賞賛されていないと感じ、セックスをし始める多くの少女に会ってきた。それは自分が大人であることを証明するだけではなく、ついに、自分が賞賛され、注目の中心になるという状況を達成できるという空しい希望からである。(下巻第八章思春期、pp.47-48))



 思春期は、たしかに承認欲求が亢進する時期なんですね。また承認欲求ゆえに性的逸脱行動も出ます。そういう現象にこの時代に目をとめたのはアドラー、えらかったですね。ここで使っている「承認」「賞賛」は英語で言うとなんなんだろう、と気になりますが。
 そしてこの次に、承認欲求が家庭でも学校でも適切に満たされず問題行動に走る少女の例が出てきます。


 …絶え間なく勇気をくじかれた。すぐにほめられることをあまりに強く願っていた。学校でも家でもほめられないことがわかった時、一体何が残されていただろうか。

 彼女は、彼女をほめるであろう男性を探し求めた。何回かの経験の後、彼女は家から出て、2週間男性と一緒に住んだ。(同p.49)


 このあと、この少女は家出先から家に「毒を飲んで死ぬ」と予告したが、実際には自殺せず家族が迎えにくるのを待っていた。…


 このエピソードは、どう解釈したものでしょうねえ。確かにこの女の子は承認欲求、それに自己顕示欲の強い子だったのだと思います。
 もちろんアドラー、慧眼です。21世紀になると、こうした承認欲求ゆえに問題行動をとる子、とりわけ売春のような性的逸脱行動をとる子の事例はうんざりするほど報告されるようになります。


 ただまあ、上で言いましたように思春期は性ホルモン値が男女ともに生涯最高に上昇する時期で、それとともに承認欲求も性欲も両方亢進します。両者は連動するといっていいです。なので中には承認欲求の亢進にともなって性産業にいく子、逸脱行動をする子がいてもそんなに不思議ではない。もちろん、ご家庭や学校で承認欲求の正しい満たされ方ができればそれは何よりですが。

 あと、上のエピソードを読むかぎりほめることが悪いことだというふうには読めないですね。ほめられることを渇望するヒロインの姿に多少のグロテスクさはありますが、ご家庭や学校の周囲の人はほめてやったほうが良かった、というふうにとれますね。

 まあ、私はほめるという言葉もあまり好きではなくて使いたくないんですけれど、少女は「かけがえのない存在」だと誰かに言ってほしかったんだと思います。それは一義的には、親が与えてやるべきだったのです。


 で、この本『人生の意味の心理学』が承認欲求に触れたのはこのあたりです。「承認欲求を否定せよ」という言葉はどこにも書いてありません。それは、岸見一郎氏の「誤読」ないしは「捏造」です。


 ただ、承認や賞賛を求めるあまりに問題行動をとる思春期の少年少女たちを描写していると、まあ滑稽ともいえるのですけれども読者はそこにグロテスクさを感じ嫌悪の念をもよおすかもしれません。わたしの想像ですが、岸見一郎氏はこのエピソードを嫌悪したのではないかと思います。それが昂じて、「承認欲求を否定せよ」という彼オリジナルのテーゼを作ったのではないかと思います。


 しかし、アドラーはそれを望んだでしょうか?
 わたしの目には、アドラーはクライエントを治したい一心の良心的なカウンセラーだったと思います。ただし現代人なら持っているはずの新しいツールは持っていませんでしたが。そこで教条主義的なテーゼなどは言っていなかったと思います。上記のエピソードをみていても、アドラーはむしろ、ご家庭で適切な承認は与えてしかるべき、と考えていたようにとれます。


 アドラーの名を騙って勝手なテーゼを触れ回るということが許されるのだろうか――。
 先日、週刊誌の記者さんにわたしは

「アドラーの教えとして『ほめない叱らない』『承認欲求を否定せよ』なんてことを信じているのは世界中で日本人だけかもしれませんよ」

と言ったのでした。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
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●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 「アドラー心理学」について、友人の40代女性からメールをいただきました。実務経験の長い聡明な方です。
 わたしが書くよりコンパクトでわかりやすいアドラー心理学批判になっているかと思います。 「幼稚―成熟」という切り口も新鮮です。

 ご了承をいただいて、ご紹介させていただきます。


*********************************************


ブログで話題のアドラー心理学、私、お恥ずかしいことに
正田先生の最近の批判記事を読んで、やっと手に取ってみようかと思い始めました。

ベストセラーの『嫌われる勇気』は、文体が好みではなくて食指が動かず、
近寄らなかったのですが
最近になって、読んでみたいと言う家人のリクエストで、
続編の『幸せになる勇気』とあわせて手元にあります。

文体や語彙が好みでない(を通り過ぎてなんだか気持ちが悪い)、
読み進めるのは苦痛なのですが、
せめて大きな論旨とキーワードだけでも拾いたいと、ぱらぱらめくっています。

いくつか気がついたことです。

時代背景や社会状況に依存する事象を、
普遍的な価値として提起していて、
つながりや関係のもつ価値や意味が、
Gemeinschaftを前提にしたものに偏っているのではないかという疑問がわきます。
(この本は設定では、それでいいのかもしれませんが)
Gesellschaftを前提とした一般社会人には当てはまらないと思えます。

子育てに関わる部分は私には経験もないのであくまで第三者的な考えですが、

褒めず叱らずで、子供に規律や倫理や秩序をどうやって教えるのか、
人は永遠にGemeinschaftに留まれるわけではなく、
Gesellschaftのなかで生き抜いていくために必要な知識や知恵としての信賞必罰や他者との関係性は、
どこで学ぶのか?といった疑問がわいてきます。

そして、『嫌われる勇気』という受動表現に端的だと感じたのですが、
周囲に干渉される存在であることが暗黙のうちに前提となっている読者のために書かれた本で、
(正田先生の表現をおかりすればナルシシズムが亢進気味の人)
成熟した内面をもつ大人を対象に書かれた本ではないような印象です。


そして、家人とこんな話をしました

家人「今の若手は(若手と言ってもそれは40代の教授だったりするんですけども)、
何がやりたいのかわかってない人が多い、自分のテーマをもっていないんだよ。
結局、医学部に入って医者になって、海外にも留学して、博士もとって、論文を書いて、
で運良く教授になっても、自分のテーマを持っていないから、結局、ポストだけにこだわって、
学内や学会のポスト漁りに躍起になってみたりするんだよなあ。
そういうところを、彼らの部下はしっかり見ていて、自分の教室は迷走してるって言ってるよ」

私「結局、教授になるまで競争に勝つことだけをやってきて、自分が本当にやりたいことに向き合ってこなかったってことかしら。
大企業にいる高学歴な幹部社員にもそういう人はいて、都度都度の競争に勝つことが目的になってしまってて、それしかできない人もいるよ。
競争ではなくて、ゼロからの創造が必要なシーンになるとそういうタイプは全然機能しないんだけど、
最近は、競争に勝つためにゼロからの創造が必要なこともあるから、その辺りに気づき始めている企業もあるにはあるけども、まだ少ないかなあ」

家人「例えば、●●先生(若手教授)には嫌われる勇気が必要だということなんじゃないかなあ。若いやつを見てるとそういう気もしなくもないよ。」

という意見でした。
私はそこまで短絡的には思えないのですが、
話題になった教授がそうであるように、ナルシシズムが亢進気味で迷路にはまった人には、
嫌われる勇気は響くのかもしれないようです。
ただ、多数の一般社会全体には適用できない話だと思います。


そして、ナルシシズム亢進で思い出しましたが、
小保方氏と瀬戸内寂聴氏の雑誌での対談、たまたま見ました。
小保方さん、かなり「幼稚」な人なのですね。
寂聴さんが、小説としての「あの日」の文章を褒めて、もっと文章をかきなさいとすすめると
その返答に「私に小説の書き方を教えてください。」と言い出す。
んー、たぶん、これまでもそうやって年長者と関わってきたんだろうなと思えるやりとりでした。

しかし、幼い。発言が1つ1つが幼い。
うつ病の治療を続けているそうなので、
そのせいかもしれませんし、もともとそうなのかもしれないですが、
いずれにしても人格の幼稚さが透けて見え、
その点がもしかしたら、彼女を擁護する人々があれだけいる理由かと思ったり。

彼女を擁護する人々の側にある教条主義は、
彼女のもつ独特の幼稚さによって刺激され活性化するように見えます。
その幼稚さの正体が何なのか、そして相手の何を刺激しているのかを分析できれば、
現代の大衆病理を読み解けるのでしょうか。
私がそれがわかったところで、正しい治療法がわかるとは思えないですが、
正田先生のあの日の解説を読ませていただいたことも手伝って、そのような興味が深まっています。


先日、違和感の正体という新潮新書を読んだのですが、
そのなかで、著者(先崎彰容氏)は現代日本社会を「ものさし不在」で「処方箋を焦る」社会と形容していました。
言い得て妙だと思いました。
そういう社会になっている要因には、何かしらの「幼稚さ」が関係するのではないかという気もします。
成熟を拒否しているのかあるいは成熟できないのか、
その精神性や風潮が、我が物顔で世の中を跋扈しているような状況にも思えます。

本来であれば、未成熟なことは恥ずかしいことで、自分を成熟させていく努力をすべきなのに、
幼稚さを純粋さとを同一視してそれを美徳として煽り、
成熟に向かわせようとしない風潮があるような気もします。

未成熟な人材を管理職に登用することで経営者に都合のいい独裁的な体制を強化している企業もあり、
私のいたIT業界でも、新卒を大量に採用し、ある種の洗脳をしていくような経営がもてはやされています。

極端な考えと思いますが、そういう経営者を見ていると、
知識人を追いやり虐殺し、
文字の読めない人や子供を煽動して独裁を進めたポルポト派のことがなぜか思い出されて、
ぞっとします。

正田先生の発信を読ませていただいているうちに、
行動承認に対する態度は、成熟した内面を持つ大人であるかどうかの試金石のように思えてきました。
行動承認の効果やあるいはその大きな意味を、自分ごととしてとらえることの出来る方は、
「幼稚さ」とは縁遠く、内面の成熟に向かわれているような印象です。

内面の成熟とは、自分の努力でしかなし得ないものであり、
挫折に向き合い、葛藤をかかえ、矛盾にさいなまれておきる心境の深まりなのかと思います。
暗くて深い地下トンネルの中で孤独の空気に囲まれて眠るワインのようです。

(注:2通のメールをドッキングさせていただきました)

*********************************************

 いかがでしょうか。

 最後のほうに「行動承認」について、またその世界の人びとについて、過分なお褒めをいただいてしまいましたが、わたしも内心、そう思っています。
 「行動承認」は人を成熟に導きます。また、成熟度の高い人びとに響きます。
 トレーニングの易しさ続けやすさのお陰もあって、「行動承認」の人びとは、一般社会とは段違いの成熟度と思考能力の高さを獲得していきます。

 
 逆に、このところの出版業界のベストセラーの作られ方をみていると、
 
 まず年齢層が、20−30代の独身者層をターゲットにするのですが、その中でも、この友人のメールの中にもあったナルシシズム亢進気味の人をターゲットにします。『嫌われる勇気』などを読むと、社会人の中のいわゆる「中二病」で社会不適応気味の人が、これを読むとかぶれそうだなと思います。

 「中二病」の人は、現実世界で出会う人をリスペクトなどしません。叱られてもききません。そうして浮き気味のときに、ベストセラーで「哲人」が上からお説教をしてくれる『嫌われる勇気』は、ウレシイのです。

 うーん、ストレングスファインダーで言うと何?というと、大体答えは出ているのですけどね。

 今のベストセラーの作られ方をみていると、「中二病」が中二のときだけでなく社会人になっても延々と続くように、ベストセラーが仕向けているような気すらします。

 それは、友人の言うように思考能力の低下にもつながるし、カルト形成にもつながりますね。はたからみるとすごく変な教祖様を尊師とあがめていて、つじつまの合わないおかしな考え方にかぶれている集団。
 
 その集団のコアには戦略的に大衆を騙そうという仕掛け人がいます。そして当初は思考能力の偏りのひどい人、判断力のない若い人が取り込まれ、コア集団を形成し、そして一定の勢力を形成すると、周囲のそれほど偏りのない人も取り込まれていきます。普通の善男善女が入信していきます。

 
 アドラー心理学も小保方擁護派も結局そうです。

 さあ、こうやって社会を幼稚化させるたくらみに対抗するすべはないのでしょうか――


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
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●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
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●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
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●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
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●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
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●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
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●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
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●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 アドラーの原著の1つ『個人心理学講義―生きることの科学』(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2012年。原題'The Science of Living'1928年)を手にとりました。

 興味としては、わたしが批判する(岸見)アドラー心理学の非常に問題の多い幾つかのポイント

1.人に認められなくてもいい
2.ほめない、叱らない
3.トラウマはない


などは、どこからくるのか。アドラーの原著ではそれは、どういう文脈で出てくるのか、あるいは根本的に原著にないものか、ということです。


 で、結論から言うと予想どおり、この本にはそれにあたるフレーズは出てきませんでした。


 もちろんこの本1冊で判断するのは早計です。でもこの本の奥付には

「アドラー心理学入門の決定版!
ウィーンからニューヨークへと活動の拠点を移したアドラーが初めて英語で出版した、アドラー心理学全体を俯瞰できる重要著作。

過去と自己への執着から離れ、仲間である他者に貢献することを目指す共同体感覚をいかに育成するべきかを人生の諸像の考察を通じて明らかにする」

とあります。いちおう「アドラー心理学全体を俯瞰できる」とありますので、この本をじっくり読んでみるのもわるくないと思ったわけであります。

 で、ぼんやり思うのはアドラーの考える「共同体感覚」なるものは何か、ということです。どうもここが上記の”変な思想”のすべての起源になっていそうです。


 ただ、最近の読者の方は文字をびっしり書いてあるのを読むのは「たるい」とお感じになると思います。なので、
スライドで図をつくってみました。


スライド1


 おそらく、この本が構想しているのはこういうものであろう、ということです。ひとりひとりが向上し、共同体感覚をもって貢献しあいましょう。
 学校の教室の目標に貼ってありそうです。


 わるいけど、わたしはこの図を作りながら「革命家の青い思想だなあ」と思ってしまいました。ひとりひとりが誰の助けも借りずにここまで立派に向上して、というのは絵空事です。マルクス主義がすごく自立した立派な人が構成する社会を念頭に置いてできていてすぐポシャッたのと同じ。もし組織の成員のだれか1人がこういうことをお勉強してやりはじめたとしても、線香花火で終わるでしょう。

 もちろん、理想は理想として結構です。ただ、これは組織が非常に大きく「リーダー」に依存しているという現実をみていません。泣いても笑ってもそれが現実です。その部分を無理やりスルーして、フォロワー側の努力で良くしようと思っているようですが、それは現実逃避です。

 現に、いまどきの学校ではしょっちゅう学級崩壊が起きるのですが、そこでは生徒をリスペクトしていない、褒めない先生のもとで容易に起きます(学級崩壊の原因をたどると大抵はそういうところにたどりつきます)。そういう先生が「ひとりひとりが向上して貢献しあいましょう」と声をからして言ったところで無意味なのです。


 で、手前味噌で恐縮ですがわたしが数年来研修で使っている「承認モデル」の図というのをお出しします。


スライド2
スライド3
スライド4


 これは法螺を吹いているわけではなく、実際に働きかけをすることでこうなってきました。
 こちらのほうが、学習機会を与えるのはリーダーに対してだけで良いのです。あとはリーダーからフォロワーへ、日々のやりとりの中で自然に良いものが流れていくのです。

 おそらく過去10数年にわたる再現性からみて、こちらのほうが人間社会の真実です。



 この「共同体感覚」というものについて、この本の末尾の訳者・岸見一郎氏の「解説」から引用します。


 
アドラーがこの共同体感覚という考えを友人たちの前で初めて披露したのは、アドラーが軍医として参戦した第一次世界大戦の兵役期間中、休暇で帰ってきた時、なじみのカフェにおいてであった。

 このことで、アドラーは多くの友人を失うことになった。価値観にもとづくような考えは科学ではないというわけである。しかし、アドラーにとって個人心理学は価値の心理学、価値の科学である。(前掲書p.182)


 おいおいー。

 ここは、アドラーにも書いている岸見氏にも両方ツッコミを入れたくなります。「価値の心理学」そして「価値の科学」ってなんだよ!?主観に科学ってつけないでくれよ。

 要は、アドラーさんは自分の価値観を一般論みたいに書いているだけのようです。「貢献することが好き」これは、ソーシャルスタイルのFタイプさん、4つのタイプ分けでいうサポーターさんが当てはまります。みんなが私みたいだったらいいね!ということを言ってるんです。


 「私は貢献することこそ自分をそして全体を幸福にすることだと発見した。」

 別に、間違ってはいないんですが。

 問題はそれに「承認欲求否定」「ほめない叱らない」がどうしてひっつくのか、ということです。この本にはそうした言葉そのものでは出てきません。では、文脈上そう読み取れるところがあるのでしょうか。

 あくまで、この本単体から読み取れることで言いますと――。


 この本をパラパラめくると、「甘やかされた子ども」「憎まれた子ども」という言葉が多数出てきます。父親や母親が過度に罰して虐待したことによってもたらされる、抑圧された感情という言葉が出てきます。それから、「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」という言葉も出てきます。

 それに関連したいくつかの症例も出てきますが――、

 要は、カウンセリングの世界の話なんです。

 以前から言っていることと同じです。アドラーは、心理学者・カウンセラーとして、社会不適応を起こした大人や子供さんをみてきました。その背景に、さまざまな「過剰」の現象をみてきました。すなわち、甘やかしすぎ。叱りすぎ。他者に優りたいという気持ちが強すぎ。劣っているという気持ちが強すぎ。


 そこから、どうも、「過剰」がなければ、「共同体感覚」のある、アドラーの考える「いい人」をつくれると考えたようです。

 引き算の発想ですね。岸見アドラー心理学の「ほめない叱らない」の起源は、どうも、ここにあるようです。

「この主題を扱う時、罰することや、諭すこと、説教することでは何も得ることはできないということは、いくら強調してもしすぎることはない。」(p.20)

 さあ、「叱らない」に通じそうな言葉が出てきました。
 しかし、この言葉はその前段に出てくる問題行動をする子供たちの例との絡みで理解する必要がありそうです。
 いわく、怒りっぽい父親をもった女の子が男性を排除する。厳格な母親によって抑圧された男の子が女性を排除する。あるいは内気ではにかむ、性的に倒錯する。
 こういう子たちを罰しても意味はない、ということを言っているのであって、一般論としていついかなる時も罰することがいけないと言っているわけではありません。


 そして、理想的な状態をどうやってつくるか。


 一番最初から共同体感覚を理解することが必要である。なぜなら、共同体感覚は、われわれの教育や治療の中のもっとも重要な部分だからである。勇気があり、自信があり、リラックスしている人だけが、人生の有利な面からだけでなく、困難からも益を受けることができる。そのような人は、決して恐れたりしない。(p.16)



 その理想は大変結構なんですけど。じゃあどうやってそういう人をつくるの?「過剰」さえなければつくれるの?

 これが結局、カウンセリングの側から教育を語ることの限界を物語っているのだろうと思います。「治療」と「教育」は違うものです。「治療」は、「過剰」を是正することが大きな仕事になります。しかし「教育」は、なにかを加算することです。


 「行動承認」の世界にいるわたしは、そこで「訓練」の存在をみます。訓練は、人為的に指導者が負荷をかけたのかもしれないし、人生のあるいは不幸な巡り合わせで困難な課題を与えられ克服する経験を通じてもたらされたのかもしれない。「過剰」を控える以外何もしないでつくれるわけではありません。また、困難な負荷であれば、それを乗り越えたときには「承認」が必要でしょう。




 アドラーも「訓練」の重要性を、実は言っています。
劣等感と社会的な訓練の問題は、したがって、本質的に連関している。劣等感が社会的な不適応から起こるように、社会的な訓練は、それを用いることで、われわれ誰もが劣等感を克服することができる基本的な方法である。(p.31)


 ほかにも、甘やかされて行動しない子どもには訓練が必要だ、というフレーズが出てきます。


 これは後世のアドラー心理学の人が「操作」を罪悪視するのとはちょっと矛盾するのですが。訓練っていわば操作じゃないんですか。 「・・・をしなさい」って言って、できたらほめたりするのを訓練って言わないですか?


 この「操作」が悪玉になった流れというのは、アドラーの時代からずっと下った1990年代ぐらいに、「内発と自律論」がもてはやされました。どうもそのころ行動理論があまりにもメジャーになったので、反発を買った。また、部分的には弊害も出てきた。『報酬主義をこえて』でアルフィー・コーン氏が批判したような、子供をお金で釣って勉強させるような。(2015年日本では某美人学者さんが「お金で子供を釣ってよい」と本に書いているが、コーン氏はそれにはどう言うのだろう…)

 その当時は、「ほめたり叱ったり」というのを、「アメとムチ」と、汚い言葉でくさすのが主流になりました。それとの絡みで、アドラー心理学陣営も、「操作はいけない」ということを言うようになったのではないかと思われます。いかにも、「過剰」には「過剰」に反応するアドラー心理学らしいです。
 
 アドラーが、普通のご家庭の躾としての「ほめたり叱ったり」までを否定していたのかというと、この本でみるかぎりクエスチョンですね。


 
 そういうわけで、この『個人心理学講義』からは、「認められなくてもいい」「ほめない叱らない」「トラウマ否定」は、読み取れませんでした。

 これらのフレーズは、岸見一郎氏の誤読、牽強付会あるいは創作の可能性が高いです。もともと、『嫌われる勇気』をはじめとする岸見氏の一連の著作、ならびに他の著者によるアドラー心理学本は、アドラーに依拠したというより、「二次創作」のようなものが多いのです。コミケで売っている同人誌のようなものが多いのです。





 「承認欲求否定」に関しては、アドラーからとったというより、わが国の出版業界の流行りである「承認欲求バッシング」の尻馬に乗ったのではないか、というのが、わたしの見立てです。

 このブログでかねてから批判していますように、出版業界の流行りで、わが国では2008年ごろから「承認欲求」をやたらに非難する書籍が続々と出てきました。
 その「はしり」のような本が、『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)。
 この本についてのブログ記事
●奇妙で不快な論理構築:承認欲求バッシングはこんなに変!―『友だち地獄』『希望難民ご一行様』
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927340.html

 その後2011年には『「認められたい」の正体』『人に認められなくてもいい』といったタイトルの新書本が相次いで出、ちょっとした「承認欲求バッシングブーム」の感がありました。

 岸見氏の「承認欲求否定」は、どうも、このバッシングブームの尻馬に乗って言っているだけ、という感があります。前にも書きましたようにアドラー自身は「承認欲求」という言葉を使っていません。

 「甘やかされた子ども」「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」これらは、「承認欲求」が絡んでいないとはいえないですが、どれも異常に暴走して正常範囲から逸脱したものです。


 岸見氏の言う「認められたいと思わないで、貢献しようと思えばいい」このフレーズは、個別のクライエントに対するカウンセラーのアドバイスとしては、「あり」だろう、と思います。
 例えば、「認められたい」がやたら強すぎる人。「自分が人に10やってあげたら、20も30も50も認められたい」と思っている人。
 あるいは昇進し損ねて、同期より昇進が遅れてしまい、それがコンプレックスになって鬱になってしまっている人(実際、男性はそういうきっかけで鬱になることがよくあります)。

 そういう人を目の前にして言う場合には、「認められたいと思わなくていい。貢献しようとだけ考えればいい」これは、「あり」です。わたしでもそういう人に対してはそう言うかもしれない、と思います。
 しかしあくまでそういう個別の人に対してだけ有効なテーゼなのであって、一般化して教育の教義にまで格上げするようなものではありません。




 これはあくまでわたしの想像ですが、岸見氏はこの出版界の流行りである「承認欲求否定」と、アドラーのいう「共同体感覚」「貢献する」を合体させて、これならうまくいく、と思ったのかもしれません。つまり、各自が「共同体感覚」をもち、「貢献さえすればいいんだ」と強く思っていれば、「承認欲求」は必要なくなる(これも幻想なのですが)。

 それプラス、アドラーの「甘やかされた子ども」の概念も使って、つまり親がほめるから子供が甘やかされるんだ、承認欲求をもった人に育つんだ、と。親がほめないで育てれば、承認欲求のない、「人から認められたい」という願望のない人ができるんだ、と。
 
 それはサイボーグづくりのような、ものすごい人間性に反した考え方ですけどねえ。




 
 なんどもいいますように「承認欲求」はたまに逸脱も起こしますが、圧倒的に多くの場合は人びとが規範的に振る舞うことを促します。わたしたちの規範意識はそもそも承認欲求によってつくられていると言ってもいいのです。そして承認欲求は精神における食欲のようなもの、根源的に大事なものです。

 「角を矯めて牛を殺す」という言葉がありますが、一部の問題行動をとる人にばかり注目して原因を過剰に摘み取ろうとするのは、癌細胞は細胞だから細胞が全部わるい、と言っているようなものです。ターゲット以外のものを叩いてしまう副作用の強い薬のようなものです。






 それから、アドラー自身について思うのは、この人はやっぱり発達障害が全然わかっていないですね。時代的に仕方ないですけれどね。『個人心理学講義』の中にも、「その子はADHD」と思うような症状の子が、「甘やかされた子ども」と解釈されている例があります。岸見氏も全然わかっていないです。またLGBTもわかっていないです。性的倒錯を育て方のせいにしている記述がこの本にはあります。

 今からはもう少し、今年2月にNHKが名著として取り上げた『人生の意味の心理学』も、読んでみようと思います。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 本日、NHKおはよう日本(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集し、それに対して私が批判の書き込みを即、フェイスブックにUPしたものだから、お友達がコメントをくださいました。

 
 お名前を伏せて、貴重なコメントを紹介させていただきます。

「ほめること、承認することは必要です。また、勇気づけることも大切です。仮説に過ぎないアドラーの考えを、無批判に振り回すのはやめませんか。」(学校教員)


「情けは人のためならず、とか、無私、とかが好きな日本人には「承認されること」「褒められること」にたいする含羞というか、拒否感があって、しかもその拒否が建て前で、実はとても認められたい欲求が強いくて、それを外に出せないし、他人の欲求も否定する。
お礼は言らないよ、といいつつ、好きでやってるのだからと、無理に努力をして、結局それを評価されないと落ち込む自分がいて、しかも、そういう自分を汚いと思い。内心を人から見透かされないよう気をつけつつ気づいてほしいというねじくれた状況に陥りやすいですね。」(
料理研究家)


 お二方、それぞれおっしゃる通りです。まず、人が育つ現場において「承認欲求」は根源的な欲求だということ、それは目の前の存在のもつ性(さが)を素直に観る力のある方なら見てとれることでしょう。
 また、日本人特有の「承認欲求」に対する含羞の気持ち、これもマネジメント分野で「承認論」を唱えた太田肇氏が当初から言われていたことで、「『認められたい』は人の心に眠る巨大なマグマ」であると、かなり深層のインタビューをしないとそれは見えてこないと。


 お次はご同業の友人、宮崎照行さんより。

「私もNHKのニュースを拝見しました。

大手メディアが取り上げるということは、まさに「権威に訴える論証」。
「権威に訴える論証」は、アドラー心理学の表面的な部分、アドラー心理学が流行っているからということで盲目的に信じている人たちにとっては、まさしく無批判に考え方を正しいと強化するものです。

特にアドラー心理学を信奉し一般化している人は批判的思考能力が高いとは言えないのでその傾向は強いと思います。多分、原著を読まれている人は殆どいないでしょう。多くが岸見本の受け売りです。(アドラーの原著は抽象的すぎるので読破することは難しいでしょう)

最近、私が危惧しているのは、キャリコンをされている方に岸見本で解釈されているアドラー心理学を盲目的に信じている人が多いということです。キャリコンやカウンセラー・、コーチの方々のクライアントに対して影響力を及ぼしている方が無批判に浅い理論や考え方を使用すると大いに「毒」となります。


例えば、荒れている高校生に対してアドラー心理学の考え方を講演等で押し付けてしまうと、却って素直なので彼(女)からそっぽを向かれます。

彼(女)らは様々な環境で傷ついています。不器用で且つ限られた中でしか生きていないので、自分の存在を反抗という形で表しています。

こういう人たちに対して、例えば、岸見本にあるように「学歴が低いことで卑屈になるのは自分の見方がおかしい」といえるでしょうか。多分、猛反発を食らうでしょう。

比較するほどではありませんが、相手の存在を承認し、話をする・聞くという「場」をつくり、建設的に構成していくほうがよっぽど効果的です。


私はアドラー心理学が存在すること自体は否定しませんが、専門的職業と名乗っている方々で岸見本レベルで仕入れた表層的な知識だけで、すべてが解決するということに対して猛烈に批判します。

私自身、「嫌われる勇気」があるので「嫌われる勇気」のような本を全く必要としないというのは皮肉でしょうか(笑)
..


 そうなのだ、(岸見)アドラー心理学は、「承認欲求批判」「期待に応えなくてもいい」以外にも、非常に気になるところがいっぱいある。

 弱者目線を欠いている、というのは、上記の「学歴が低いことで卑屈になるのはおかしい」もそうだし、発達障害などの障碍者目線がまったく入っていないこともそう。

 (これは『個人心理学』のAmazonレビューにもそういう批判があった。今からその本を読んでみるが)

 以前にも、わたしとは別の方による「岸見講演」講演録をUPしたが、それによると講演には産業カウンセラーの方々がわんさか来ていたという。キャリコンや産業カウンセラーの先生方が、弱者であるクライアントに

「承認欲求を持たないほうがいいんだよ」

と、説教している図を想像したら…、

 ゾッとする。弱者を痛めつける、悪用されやすい思想だと思う。

(アドラーが影響を受けたニーチェ思想は実際にナチに悪用されたそうだ)


 アドラー心理学がまき散らす害について語りつくせる日はくるのだろうか。

 これ、アメリカでは今どういう位置づけになっているんだろうか。ご存知の方はご教示ください。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 「メディアの劣化」という話題についていよいよこのブログにカテゴリを立てなければならなくなったかもしれません。
 わたしのいや〜な予感が当たってしまいました。表舞台に出てはいけないものが出てしまいました。


 今朝、NHKの「おはよう日本」(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集していました。

 全然予期していなかったので録画などはしておりません。しかし非常に問題のある内容で、わたしは9時になるのを待ちかねたように「NHKふれあいセンター」(Tel.0570-066-066 )に抗議してしまいました。

 
 

追記: こちらに特集内容がUPされています
http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2016/05/0524.html

途中からみたのかもしれないのでもし違っていたら訂正していただきたいのですが、

 「アドラー心理学で心の安寧を得た(番組ではそういう表現ではなかったが)人」として、2人の人物が登場します。
 1人は、男性のビジネスマン。「承認欲求批判」がモチーフです。
 「認められたいと思っていて苦しかった。アドラー心理学に出会い、『人に認められなくていいんだ』と思えるようになって、楽になった。『人を信頼し、貢献せよ』という教えに従って、貢献しようという気持ちでいると楽になった。今では自分から人に貢献することだけを考えている」

 もう1人は子育て中のお母さん。「期待に応えなくていい」がモチーフ。
 「子供たちをひどく叱ってばかりいた。アドラー心理学で、『他人は自分の期待に応えるためにいるのではない』と習い、気持ちが楽になった。(叱らなくなった?)」

 これを取材してきたディレクターと男女のアナウンサー2人が少し会話して終了。
 
 女性アナウンサーが、「これまでにも普通に言われてきたことではないですか?」と怪訝そうにいうが、それ以上の追及はなし。


 さて、上記のどこに問題があるでしょうか。
 このブログの長い読者の方だと、お分かりいただけるのではないでしょうか。

 簡単に言うと、「人に認められなくていい」「期待に応えなくていい」
 これらが正解なのは、「過剰」な場合だけなんです。 
 多くの場合は、「認められたい」と思うことも「期待に応える」ことも正常なことで、否定するのはおかしいことなんです。否定して鬱を作ったり人間関係の問題を作ることのほうがはるかに怖いんです。


 「人に認められなくていい」
 このフレーズは、ごく限定された場面でだけ正解です。
 すなわち、承認欲求が極端に強いナルシシストの場合。リーダーには、昇進などが原因でナルシシズムが亢進することがあります。TVに映っていた人はこのタイプのようにみえました。
 また往々にして、能力の低い人ほどセルフモニタリング能力が低く、自分の能力には見合わない評価を求めることがあります。
 あるいは、自ら選んだボランティアのような仕事をしていて、時折「誰も認めてくれない…」という無力感にさいなまれるようなケース。その場合は、自分が選んだ道そのものの意義と認められない苦痛と天秤にかけて、どちらをとるか決めないといけません。選んだ道そのものの意義を重視するなら、とりあえず「認められたい」は封印したらいいでしょう。

 人は誰でも認められたいと思っています。だから効果的に認められれば、絶大なる力を発揮します。こちらのほうが、パフォーマンスを上げるには正解です。もちろん精神衛生上も正解です。「行動承認」を導入してくれたマネジャーの下では、何年もにわたって大きな問題が起こらず成長を続けています。
 (ごくたまに、その中で伸びすぎて問題行動を起こす人が出て退社してもらうケースも出るようです。それはむしろ例外的な例です)

 「承認欲求」は食欲と同じで、人間の基本欲求。精神における食欲と同じようなものです。
 もし「承認欲求はわるいものだから、押さえこみなさい」というなら、それは「食欲はわるさをするものだから、抑えなさい」というのと一緒。よほど食欲が亢進しておデブになっている人には必要なことかもしれませんが、必要な食欲まで抑えたら摂食障害になってしまいます。ガリガリにやせて低栄養になってしまいます。

 
 たとえば、「認められたいと思わないで、相手に貢献することだけを考える」という方針で、みんなが仕事をしたらどうなるか?
 これは、独りよがりな仕事の仕方にすぐ、なるでしょうね。相手が喜んでくれようがくれまいがどうでもいい、ということになりますから。会社の中が独りよがりな仕事だらけ不協和音だらけになるでしょうね。

 また、万一マネジャーが「承認欲求は否定してよい」と思っていたらどうなるか?
 自分の承認欲求だけを否定していればよいですが、それだけにはとどまらないでしょう。部下が承認欲求を持って働くことにも否定的な目を向けるでしょう。「認められたい」と思っている人を、自分と違ってレベルの低い人だとみなして見下すでしょう。

 そう、「承認欲求」を見下す人は、最終的には人間性全般を見下すようになりますね。

 いみじくも、TVに映っていたビジネスマン氏は、職場で人と話しているときも相手の目を見ないで会話していました。「相手の目をきちんと見て話す」これも広い意味での承認を与えていることですが、それを重視していないことが仕草に出ているのでした。

 だから、「承認欲求」を否定することで、自分が高級な人になったなどと思ったら大間違いなんです。人間性全般を見下した不遜な人間になってるんです。独りよがりな人間になっているんです。

 

 もう一人の「期待に応えない」を習ったことで子供さんを叱らなくなったお母さん。
 これも、それまで何のためにガーガー怒っていたのかわかりませんが、「ゆきすぎ」のケースであったのかもしれません。例えば、「最上思考」の人が、子供さんにやたら塾習い事の早期教育をさせて、それが思い通りにならないで怒っているケース。あるいは、「活発性」や「指令性」の高い人が、やはりあっち、こっちと自分の思い通りに連れまわして、子供がどこかで引っかかって動かなくなると怒っているケース。

 そのタイプの人が、ガーガー叱っていたのを多少和らげることができたのなら、それは喜ばしいことなのかもしれませんが――、
 一面、怖いことでもあります。
 「人の期待に応えなくていい」
 では、子供に道徳の躾はしなくていいのでしょうか?
 お兄ちゃんが弟の頭をガンと殴りました、それを叱るのも「期待に沿わせる」ことになるのでしょうか?

 この「倫理道徳の躾」というものが、わたしの子育て時代にも既に周囲のお母さんの間ではナアナアになっていて、唖然としました。

 わが家では歳の近い3人きょうだいだったので、きょうだい喧嘩とそれを仲裁する機会には事欠きませんでした。
 そのたびに「どっちが先に悪いことをした」と認定し、バシッと叱り、謝らせました。まず端緒を作ったほうに謝らせ、そして最終的に両方が謝るようにさせました。

 「いじめ」的になる場面も時折あったので、「いじめは許しません」を伝える機会にも事欠きませんでした。
 「ちょっと待って。今の『●×におやつやらない』っていうのは何か?それはいじめやで。いじめは許さへんで」

 しかし、こうして親が子に自分の道徳観を伝える作業も、「他人を自分の期待に応えさせる」ことにはならないでしょうか?
 「他人を自分の期待に応えさせる」ことのすべてを否定すると、倫理道徳の躾というのはすべて不可能になってしまうのではないでしょうか?

 もちろんこれは会社組織にも言えることで、例えば「会社の理念」というのも、ある意味押しつけです。ある行動規範に社員を従わせる作業です。もしも社員が「他人の期待に応える必要はない」と信じていたら、会社の理念にも従う必要はありません。
 それで会社、回りますか?


 実は、この件であるアドラー心理学者(大学の心理学の教授。特に名は秘す)に伺ったところ、
「アドラーの著書に承認欲求(needs for esteem)という言葉はない」
ということがわかりました。

 具体的には、アドラーの主著でバイブル的な'The Individual Psychology of Alfred Adler' (邦題『個人心理学』)には、esteemという語はない。self-esteemという語はある。といいます。

 もともと、承認欲求(needs for esteem)は、五段階欲求説のマズローの造語のようなもので、時代が後になります。だからアドラーが「承認欲求」という語を言うのはおかしいのです。(マズローはアドラーから影響を受けたそうです)

 アドラーは「承認欲求」という語そのものを使っていないとしたら、どういう文脈で言ったのだろうか…。

 アドラー(1870-1937)の時代ですと、ヘーゲル哲学の「承認」は、既にあったものです。またそれのアンチテーゼとしてのニーチェ(1844-1900)は既にあり、アドラーはニーチェからは影響を受けたといいます。

 ニーチェ。。。
 わたしはニーチェ哲学には疎いです。はっきり言ってどうでもいいと思ってるんですが、
 Wikiからニーチェ思想を引用しましょう。

「ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。」

 わかります?まあ、ぱっと浮かぶイメージは「ニヒリズム」なんです。隠遁者の夜郎自大の思想、というイメージをわたしは持っています。勝手にやっててください、という感じ。

 たぶんすごく頭のいい人だったのでしょうが、自己完結的な世界で生きる人。強い人だけに可能な、他人に期待しないで生きる生き方。(内心ではぶっちゃけ、「その人アスペだったんじゃないの?」とも思っています)
 
 それから影響を受けたのがアドラーらしいんです。

 だから、そういうアドラー思想を子育てなんかに応用するのは大変におかしなこと。隠遁したひきこもりの人や、すごい実力のある個人事業者の人が信じていればいい思想なんです。だから承認や承認欲求、期待を否定する。


 これを会社に応用して部下育成などに応用するのも、大変におかしなことです。

 (なお、学者さんによればアドラー心理学を子育てに応用したのはアドラー自身ではなく、その弟子の代からだそうです)


 ああもう言っているのもたるくなった。

 NHKふれあいセンターのオペレーターの人には、

「職場に鬱を作ったらどうするんですか?アドラー心理学はブームとはいえカルトのようなものです。それをNHKさんが全国ニュースの特集で流すというのはものすごく影響力が大きいです。過剰なダイエットブームを取り上げるのと一緒で、専門家からの批判的なコメントを入れるのが正しいのです。視聴者に対して何らかの訂正をしてください」

 オペレーターは「よくわかりました、担当者に伝えます」と言いましたが、のれんに腕押しの気配あり。

 これ、どういう落としどころになるんでしょうか…

 オペレーターさん、モンスタークレーマーに怒鳴られても、上司がねぎらってくれると期待しちゃダメですからね…


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 本日は、新しいネタではなくて以前の記事の焼き直しで恐縮です。

 「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリをこのブログに立てているんですが、このカテゴリの「はしり」となった記事が、

幸せな行動承認セミナー第一弾、情けないJ-POPとの決別ー加東市商工会様(2015年9月13日)  http://c-c-a.blog.jp/archives/51922286.html

 です。

 多分、年来の心労が祟って今年初め健康を害したわたしが、その後いいことが色々あってエネルギー回復して、じゃあその心労の原因の1つを作っていたとみられる「承認欲求バッシング」の風潮と正面対決しよう、という節目になったのがこのときであった、と思います。いいことも色々でしたが直接のきっかけは加東市商工会様セミナー1回目の成功だったわけであります。

 ところがこの記事を今みると、タイトルから中身が想像できないようになっていて、「承認欲求バッシング批判」の色がはっきり出ていなくて、題材にした本のタイトルも出ていない、というものなので、この際この記事の後半だけを独立した記事にして改題してUPさせていただこうと思った次第です。長い前置きですみませんでした。

 それでは、「承認欲求バッシング批判」記念すべき第一回であります…:


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 さて、幸せな気持ちになったので、少しイヤなことにも目を向けようと思います。

 今回の読書は『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)と『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』(古市憲寿+本田由紀、光文社新書、2010年8月)。

 いわば「負の承認欲求本」の「はしり」のような文献群であります。けっしてこのあたりの論者の方々を敵視したいわけではないんですが、きっと良心的な方々なのだと思いますが、このあたりの書物がつくるイメージが、「承認」という本来すごくいいものをわるいもののように見せてしまっているということは指摘しなければならない。

 わたしは大人の世界に「承認教育」をして、サクサク問題解決をしようというほうの人なんです。そう、本当にサクサク解決できるんですもん。


 このあたりの「若者論」の文献に、「承認」「承認欲求」は、どういう形で現れるでしょうか。なんだか、大学生さんの卒論みたいな論の立て方ですが。


 たとえば前者、『友だち地獄』では―。

「他者のまなざしを自己の内にもたない人間が自らを物語ろうとする場合には、自分の外部にその聞き手をもたざるをえない。しかし、自己の物語が赤裸々なものであればあるほど、自分と利害関係のある人びとにその役割を求めるのは危険が大きすぎる。そこで彼らは、具体的な利害関係のないバーチャル空間の他者にその役割を求め、ネット上に日記を公開する」(p.69)

 ―ここでは「承認欲求」という言葉こそ使っていませんが、ブログを書く人は承認欲求を満たしたいから公開で書くのだ、という意味のことを言っています。そうですかすみませんねえ。


「献血によって彼女(南条)が得たいのは、自分という存在の確認とともに、他者からの絶対的な承認である」(p.82)

 ―まあね、ボランティアをする人も寄付をする人もみんなそうだと思いますよ。善をなすにも必ず承認欲求は根底にありますよ。


「(南条の自殺願望の記述を受けて)ここには、なんと切ない自己承認への欲求があることだろう。死亡後に発見される自分の刺激的な身体が、さらには自殺という衝撃的な事件によって自分の欠けたダンスのステージの光景が、かえって自分という存在の強力なアピールになることを敏感に感じとっている」(p.83)

 ―いやですね〜、自殺によるドタキャン願望。傍迷惑このうえない自己顕示欲。まじめ義理人情タイプの正田はそれは絶対ないな。でも時々、例えば職務怠慢な新聞記者があまりにも「承認」のことを書かないものだから、「あなたたち私が死んだら書いてくれるんですか?」なんて言うことは本当にあります。ギャグですから、あのひとたちは。まあ「思想」なんて高級なことはわからない、ミニコミ紙ですからどこも。
 ともあれ、その人はビョーキなんだと思いますよ。


「一般的な他者の視線が自分のなかに取り込まれないとき、自らの身体感覚のみに依拠した自分は、まさに世界の中心点となる。しかしそれは、社会という確固たる根拠をもたない空虚な中心点である。それゆえに、自己の安定のためには具体的な他者からの絶えざる承認が必要となる。その承認欲求の強さは、南条の日記に書きつらねられた内容ばかりでなく、ネット上でそれを公開するという形態にも表れている」(pp.83-84)

 ―ここは、「人は自律的なのが正しい」という暗黙の前提があるんだと思いますね、この著者の中に。でも実際は違います。人はいくつになっても、「他者からの絶えざる承認」を必要とします。それは出社して「おはよう」と言ってもらうのでも、SNSでだれかとつながるのも。
 本書は、現代の若者の病理を解剖する時に、どうしても表現力豊かなエクストリームな人すなわち南条の例を挙げざるを得ないんでしょうかね。どうやってもブログを書くことをわるものにしたいみたいですね。迷惑だなあ。
 最近も自分がブログを書いていることに関してナルシシストだとか言われて、「私は碌に発表場所もないから受講生様のために自分が思考した軌跡を書き残しているんです、なんか悪いですか?」ってある人に言ったんでしたっけ。なんでこんな説明しなきゃいけないのよ、疲れるなあ。相手はベストセラー作家さんでしたけどね。あいつら一味だな。回し者だな。


「彼女(南条)は、甘美なものとして仕事を捉える。そこに、自己承認への活路を見出しているからである。彼女にとって仕事とは、確固たる承認を得るために非常に有効な手段だった」(p.85)

 ―あの〜、「仕事が承認を得る手段」だ、というのは、いたって「まとも」ですよ。ビョーキの人だからそうなんじゃないですよ。そういう認識は全然ないみたいですね。なんか読むのイヤになってきたこの本。あなた自身は、仕事は承認を得るための手段じゃないんですか?この人本当はいい人じゃないんじゃないのかな。


 ―さて、「昔の若者はそれほど承認を必要としなかった」という言説も登場します。

「…かつての若者たちが人間関係の強い絆にからめとられているように見えながら、その一方で孤独にも強く、むしろ孤高にふるまうことすら可能だったのは、自分の判断に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を自己の内面に取り込んでいたからである。その根拠が、つねに一定方向を示しつづける羅針盤の役割を果たして、彼らの自律性を支えてくれていたからである。だから、たとえ周囲の人びとから自分だけが浮いてしまおうとも、『我が道を突き進んでいく』と宣言することができた。いわば一般的・抽象的な他者による承認を感じとることができていたので、具体的な他者からの承認を現在ほどには強く必要としなかったのである」(p.122)

 ―昔の若者は自律的だった説。異議あり。昔がどのへんの時代なのかわかりませんが、たとえば安保闘争とか学生運動、紅衛兵、など若者がモブ化したことは何度もあり、それは自立していない若者が集団行動すると安心したからで、要は承認欲求です。紅衛兵なんかは、毛主席から承認されたかったんです。だから団塊はその過去を恥じて右翼反動になってるんです。中には本当に自分の信念と一致していた人もいたでしょうけど、大多数は自分なんてありませんでした。もちろん普通の働く風景でも、高度経済成長の長時間労働のサラリーマンは当然、会社や周囲から承認されたくてそうしていたわけであります、もっとさかのぼれば軍国主義にしても。正田は会社員時代も一匹オオカミで上司とか周囲の(「弱くあれ」という)期待には従わないほうの女の子でしたが、それは大学で強い恩師の影響を受け承認も受けたからで、良い親御さんや師に承認された経験のあるひとは周囲に流されず強く振る舞えるかもしれません。自分1人でそれができるわけではない(できるのは恐らく病的に空気を読まない人)、それは昔も今も同じと思います。漱石とか鴎外とか、文豪と言われるクラスの文献を残している人は例外でしょうけどね。あと太宰治は自己愛性人格障害だった説もどこかにありましたね。あー、どんどんきらいになってきたこの人。言ってること変。学者のくせに間違ったこと言ったら、アウトでしょ。かなり妄想的な頭脳の人、学者というよりアーチストなんじゃないだろうか。


 ―いじめ自殺も「承認欲求」の産物説。別に否定はしませんが…。

「2006年の後半に引き続いたいじめ自殺の背後にも、この「私を見つめて」という強い承認欲求が潜んでいるように思われる。自殺を企てたいじめの被害者たちは、…「優しい関係」に孕まれた対立点の表面化が巧みに回避されることで、いじめの傍観者たちが自己肯定感の基盤を補強していくのと引き換えに、自らの肯定感をとことん剥奪されてしまった存在である。「私を肯定的に見つめてほしい」という想いは、ふつうの若者たち以上に強かったに違いない。」(pp.135-136)

 ―そうだろうと思いますよ。ホネットも言ってるでしょ、いやヘーゲルだったかな、人間同士の葛藤とは、要はどれも「承認の剥奪」の問題なんです。戦争も犯罪もいじめも。だから、奪われた側は必死でなんらかの形で奪い返そうとする、承認を。それは自然なことです、といっても自殺などしてほしくないが、彼らには奪い返す権利は当然あるんです。それはそこまで追い詰められた被害者が悪いんですか?自殺した被害者をナルシスティックだといえますか?承認を奪った加害者が悪いんじゃないですか?あるいは放置した大人たちが悪いんじゃないですか?
例えばこの文章を、「食欲と栄養」に置き換えてみるとこういう文です。
「餓死した人の表情からは強い食欲が窺われる」。
 それ、言っていい言葉でしょうか、常識的に。人として。


 「ケータイは…、つながりたい、承認されたいという欲求を、とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている」(p.172)

 ―きたきた。本書は2008年の出版なので、まだスマホ登場前で「ケータイ」を話題にしています。ここでいう「承認」は、当協会的には「やすっぽい承認」なのやけどなあ。本書では「優しい関係」という言い換えバージョンも度々出てくる。「さみしい」に対しての「さみしくない」、「ないよりまし」というレベルの不安定なもの。だから、仕事の場での「行動承認」に出会うと、それはいまだかつてない大人同士の骨太な強固な信頼できるものなので、今どきの若い子もコロっと変節(いい方へ)してしまう。


 『友だち地獄』、「おわりに」で著者は、「本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない」(p.231)と述べたところには、ちょっとだけ救いがありました。

 しかし全体としては、若者の現状の暗黒面を取り上げ嘆いてみせ(慨嘆調)、そして「承認」「承認欲求」をスケープゴートにしている本なのでした。まるで、人間ではない架空の概念だから悪玉にしてよいのだとばかりに。
 いや向かうべきはそっちじゃないでしょう。大人社会をどうつくりかえるか、でしょう。

 問われるべきは大人社会なのだ、という視点がこの本には見事に抜け落ちている。「若者の病的な承認欲求」のおぞましさだけが読後感として残る。

 あれですよね、問題発見とか慨嘆調がお上手な著者の方っていらっしゃるんですよね。それだけで本が何冊も書けちゃう。ネガティブ日本人は嘆き節には「そうだそうだー」って反応するんです。イヤだわ男のくせに慨嘆調ヨロメキ調。定年後の読者層の方なんかには受けますね。

 でも社会問題は何も解決しない。有効な問題解決をしているこちらが足引っ張られる。

 このブログでは、最近も「承認と栄養の関係」を取り上げているが、

 長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html
承認欲求は誰にも普通にあるもので、正常な範囲のものは与えられて然るべきもの。


 ごめんね、教育技術の進化によって、また地道な社会変革によって(それはお気楽な大学の先生ではない正田の長年の心身をすり減らす「営業活動」で成り立ってきたのだが。正田はもう歳でかなり疲れてきているので、大学の先生とかの知識人にはとりわけ厳しいです)、大人のほうに「承認教育」を施し、「承認の与え手」の大人の数を増やすことができるようになると、ここにみるような「承認観」はむしろ退場していただかざるを得なくなる。

 美しいものなんです、大人の「与える承認」は。この教育に関与できることも美しいんです。汚いものみたいに言ってご商売してきた無責任なひとは、関与しなくて結構です。


 
 
 もう1冊の『希望難民ご一行様』(光文社新書、2010年)は、気鋭の若手社会学者・古市憲寿氏のデビュー作らしい。綾野剛みたいな今どきのイケメンの人ですね。


 ピースボートに同乗し、その限界を見、返す刀で「承認の共同体」を切っている感じの本。「承認」はもちろん本書の本筋の話ではないが、承認屋なので一応、どう扱われたかフォローしておきたいです。


「そう、「承認の共同体」は再分配の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである」(p.264)


―政治運動には、このところ「反原発」や「反安保」に発展しているようにみえますけどね…。
 再分配の問題と承認を切り離して論じているところが曲者で、ヘーゲルの構想した承認は、ちゃんと再分配にまでつながっていた。ヘーゲルは承認を当初公共の愛として構想し、次に法や社会制度として構想したのだ。承認を、非力な若者同士で歌うJ-POPみたいなものに矮小化しちゃったのは著者の勝手な解釈である。

 
「要するに、ピースボートは特に「セカイ型」と「文化祭型」の人に対して、ムラのようなコミュニティを作った。それは一部の人が期待したような世の中に反抗するような集団ではないし、社会運動につながるようなものでもない。なぜなら、「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。
 
 つまり、「承認の共同体」は、労働市場から体制側から見れば「良い駒に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか」(p.265)
 
―だからねー、さっきも言いましたけどね。ぽりぽり。
 たぶん、現代の非正規労働化、ブラック企業化というのは、「社会全体で、いわば大人世代が若者に与える承認のパイが縮小した」という現象なのだ。生身の若者たちにとって取り分が少なすぎるから、自分らの世代の中でなけなしの承認を回さざるを得ない。それが、ここに現れるような負け犬の遠吠えのようなゴールデンボンバーの歌のような「情けない承認イメージ」になってしまう。
 それは承認の責任ではないっつーの。イケメンさんだけどおばさんは厳しいよ。

 著者にしてみれば、「決して承認そのものの悪口を言っているわけではない」と言い訳をしたいところなのだろうが、どうみてもそうみえる。社会学周辺に、とにかく問題行動の契機としての「承認欲求」に注目する、という流れがあり、本書に解説を書いている本田由紀氏などもその一派の人たちであり、若くて売り出し中の著者はそこにおもねっているように感じられる。

 どうも見てると、土井隆義氏が「承認悪玉説」「昔の人はもっと自律的だった説」の先鞭をつけ、それに便乗して、本来の承認の意味をよく調べもせずに悪者扱いして使う人が学者さんでも増えた、という系譜のようにみえます。土井隆義氏元凶説。土井氏って本当は内発と自律論者なんじゃないの。いや本当はどうなんでしょうね。あまりこの問題に深入りしたい気もしないんですが、もしお詳しい方がいらしたら、ご教示ください。




正田佐与

 久々に「批判記事」でございます。

 このブログの少し長い読者のかたは、「正田の批判ずき」にもうだいぶ慣れてくださったかと思いますが、中には「たたかう正田は苦手」というかたもいらっしゃるようです。このところのエントリが「愛」づいていて「愛の化身」みたいに振る舞っていたのに(爆)ゴメンナサイ!!そういう方は、この記事はスルーなさってくださいね。

 2015年現時点でいまだに非常に影響力があるとみられる、『嫌われる勇気』の著者、「アドラー心理学」の岸見一郎氏について。
 影響力がどういうところにあるかというと、これからご紹介する講演記事によれば、産業カウンセラーさんらしき人多数が出席されていたということです。

 さあ、産業カウンセラーさんがこういう講演の内容を鵜呑みにしたら、どういうことが起こるんだろうか…。

 講演会に参加された、記事の筆者の田中淳子氏(グローバルナレッジネットワーク株式会社 人材教育コンサルタント&産業カウンセラー)のこころよいご了解に感謝し、引用させていただきます。


(1)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート前編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128.html

(2)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート後編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128_1.html 

 
 この中にはもちろん一般的で正しいと思える部分も大いにあるのですが、記事を短くしたい都合上、批判点だけを抽出させていただくことになります。全体像をお知りになりたい方は、どうぞ上記の記事のほうをご参照されてください。

 まずは、(1)の記事から。(今回は、正田の批判を青字にさせていただきます)

■「子どもに"反抗期"はないん。反抗させる大人がいるだけ。反抗したくなるような言動をする大人がいるだけ、とアドラー心理学は言っています」

 これ、大真面目に言ってるんでしょうか。産業カウンセラーさんで「おかしい」と思った人はいなかったんでしょうか。
 反抗期はあります。思春期の反抗期では、男女とも性ホルモン値が上昇し、攻撃的になります。大人にやたらとつっかかるのはそのせいです。非行・犯罪リスクも増します。男の子では、テストステロン値はそれまでの14倍にも上昇します。そういう生理学的な知識が少しでもあれば、このフレーズは「間違い」あるいは「冗談」だと思えるはずです。しかし大真面目な言葉として発せられ、聴衆も大真面目に受け取っている感じなんです。



■「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」

 これも困ったものですねえ。こういう言辞を鵜呑みにする人が、今度は叱れなくて困るんです。子供さん相手の場合、褒めることも叱ることも必要です。子供は褒められたり叱られたりすることによってその社会の規範を学び、いわば文化を身につけていきます。叱られることなしに自分で頭打ちを経験できるかというと、その状況になっても頭打ちを自覚できないことが多いでしょう。
 例えばの話、自分より弱い子を殴って泣かせた、あるいはひどい言葉で罵って泣かせたとします。相手が反撃する力がない時、どうやって「自分は悪いことをした」と知ることができるでしょう?その場合、身近な大人が本気で叱って、「自分は決定的に悪いことをしたんだ」とわからせなければなりません。
 そうすることが、岸見氏の言うように「顔色を見る」「叱られないならやる」子供を作ってしまうか?
 わたしが3人の子供をみてきた経験では、3人のうち1人は確かにそうなりやすい資質をもった子供だった。それは、彼の担任の先生も同意見でした。「彼は賢いから、こちらの顔色を見ますね」と。その子に関しては残念ながら叱る回数が多くなった。どのみち、叱らなくてはそれぞれの問題行動にストップをかけられませんでしたし、わたしの尊敬するベテラン先生もそこを見切って叱っていました。
 残る2人は、回数としては数少ない「叱られ体験」が自分の規範として残るタイプの子たちでした。いわば、そういう子では、「叱られ体験」がのちのちの自律の材料になっていったのです。要は、子供の資質による、ということです。
  ここは現場の先生方におききしたいところですが、上記のような、「叱っても顔色をうかがって性懲りもなく同じことをやる子」と、「叱られたことで学習して同じことをしなくなる子、自律できるようになる子」とどちらが比率として多いんでしょうか。岸見氏の言い分だと子供は前者の子ばかりだ、というようにきこえますね。

 なお、「褒める」という言葉を使うと、どうしても「君は賢い子だね」という、NG褒め言葉もOK、というニュアンスになってしまうので、それを避けるため、正田は「承認」と言っています。ところが「褒めてはダメ」と言ってしまうと、今度は「君はよく頑張ったね」という望ましい言い方までNG、ということになってしまうので、それはダメでしょう、ということです。




■「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」

 褒めることの否定。
 確かに、対等な立場での「承認」を重んじる当方の流儀では、「褒める」にたいする評価はやや低くなります。しかし、肯定的評価はだれでも嬉しいものです。それを伝えそこなうよりは、伝えたほうがよっぽどよい。
 いわば、誰かが良いことをしたとき、どう反応してあげるか。
  承認 > 褒める > 何も言わない
という図式が成り立つと思えばいいです。とっさにそんなに選べるわけではないので、言うことに迷ったら、「えらいね」でもいいんです、別に。相手が子供さんなのでしたら。
 「承認」という言葉が何を指すか。これは相手に肯定的なメッセージを送る、意外と幅の大きいパッケージなので、そこには存在承認、行動承認のほか、岸見氏が推奨する「感謝」もその1つに含んでしまっています。褒めるも含んでいまして、別に排除するわけではありません(ちょっと評価は低いですけど)。宣伝になりますが拙著『行動承認』で、受講生様にお配りしている「承認の種類」の表を掲載していますので、よろしければご覧くださいね。


「褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」
 語尾を「しれない」で逃げていますけれど、これは褒められて喜ぶ性格のPromotingやFacilitatingの人に対して失礼なんじゃないですか?よくある、「偉い先生は自分のことを研究することが好き」というやつで、岸見先生はご自分が「ツンデレ」なだけじゃないですか?(いや、本当はわたしもそうなんですけど;;)


「褒めて欲しいから行動する、というような振舞いになっていく」
 これも古くから言われてきた「都市伝説」のようなことです。あちこちの立ち回り先でききました。実際にそうなるかどうか、やってみればいいこと。往々にしてやっていない人がこういうことを言うことが多いです。
 正田流では「褒める」でなく「承認」あるいは「行動承認」と言っていますが、それをきちんとやってあげると、ほとんどの子供はより自律的になり、言われなくても良いことをするようになります。それは大人が見ていないときでも、です。例外的に、上の「叱る」の例でみたように、大人の顔色を窺いみていないところでは良いことをしない、というタイプの子が確かにいます。しかし大勢はそうではないのです。というのは、過去に「承認研修」を受講されたマネジャーたちの自宅での子育てについての聞き取りをした結果、そうです。


(2)の記事について。ここでは、講演後の質疑が記録されています。詳細な記録に、田中さん、改めて感謝です。

■(祖父母だが4歳の孫をつい褒めてしまう、という質問に対して)
A1:お孫さんと同居ですか。それはそれは。「孫」「小さい子」と思うと、つい褒めてしまうのですが、「大切な友だち」と思ったらどう言いますかね。そう考えてみてはどうでしょう?何かをしたとき、大切な友だちだったら、「いい子だね」「よくできたね」なんて言わないですよね。たぶん、「ありがとう」と言うんじゃないかと思います。

 4歳のお孫さんは、おじいちゃんおばあちゃんから、「いい子だね」「よくできたね」って言われて嬉しいと思いますよ(なんと、「よくできたね」もダメ扱いなんですか!?)。このブログで11月9日のエントリ(ケア労働、ジェンダー…市民社会の新しい主要モチーフ―社会思想史学会聴講記) にあるように、「私たちは依存関係がデフォルト」なんです。今、ケア社会が現実に目の前にあるとき、それを前提としないと人類はやってられないところに来ているんです。私たちは周囲にどうしようもなく依存していた乳幼児時代を経て、学齢期〜青年期に長い時間をかけて自律を獲得し、そして高齢者になってまた依存的な存在に戻っていくんです。人は生まれながらに自律的だなどと考えるのは、自分が依存的だった時代を忘れてしまった傲慢な人だけですよ。
 少なくとも4歳であれば、おじいちゃんおばあちゃんから言ってもらう「いい子だね」「よくできたね」を栄養にし、材料にして、社会で生きていく規範を獲得していきます。そういう時代はまだまだ続くと思っていいです。大事な栄養を上げてるんですよ。

 
■(職場で相談業務をしているが承認欲求っていけないものなのですか?という問いに)
A2:職場では、上司の顔色をうかがう、誰かの評価を気にしなければ、出世できない、などいろいろあるでしょうけれど、でも、なんでも「その通りです」というものでもないですよね。誰かが言っていることが間違っていると思ったら、「それは違うのではないか」と言う勇気も持たなければならない。
つい「誰がそれを言っているか」を考えてしまいますが、一度でいいから、「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」に注目してみるといいのです。

 この岸見一郎先生にとっては、「承認欲求」というのは、「顔色をうかがう」とか「なんでもその通りです」というのとイコールなわけですね。変なところと等号で結ばれていますなあ。よく「チャンクが大きい」「小さい」という言い方をこのブログでしますが、概念と概念の位置関係とか「含む、含まれる」の関係を正しく捉えていません。
 「承認」と「承認欲求」の関係は、「栄養」と「食欲」の関係とイコール、と思えばいいのです。身体にとって栄養が必須のものであり、それを取り込んで生存するために食欲があるように、人のこころにとって承認は必須のもので、それを取り込むために承認欲求があるんです。承認欲求があるから、人は少しでも良い仕事をしようと頑張ります。よく「内発」「外発」なんて混乱させるような言い方をしますが、お客様に喜ばれるのも上司に喜ばれるのも、働き手にとっては同じ「承認」なんです。産業カウンセラーさんに「承認欲求はいけない」なんて、間違ったことを教えちゃいけません。
 また、「違うことを『違う』という勇気」も、「承認」によって生まれるんです。わたしは、「承認」がある程度浸透した職場では、今度は「反論しよう」という課題を課します。少々反論したからって相手との人間関係が壊れるわけではない、人格批判をしたことにはならない、という信頼があれば、そこで初めて「反論」ができるようになります。迂遠なようですが、実際に「違うことは違うと言える人」をつくるには、談論風発な職場をつくるには、それが一番現実的な道筋なんです。

 
 「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」。
 この言葉は、そっくり岸見先生の言葉に当てはまりますね。偉い岸見先生の言うことが正しいわけではない、ということです。むしろ批判的に吟味したほうがいい、ということです。



■アドラーはこうも言っています。
「患者を無責任と依存の地位に置いてはいけない」と。
「無責任」にするというのは、「あなたの症状、病気は、あなたのせいではないよ」と言ってしまうことです。
一方でカウンセラーや友人が「依存」されたら、力になってあげることができません。課題を抱えた自分自身の力でよくなっていかないといけないのです。

 うーん。
 部分的に同意したい部分もないではないが、基本的にそれ、ダメでしょ。
 「責任」の問題。メンタルを病んだ人に、多少そうなりやすい器質的な問題があるかもしれないが、状況的に本人にどうしようもないことがある。職場の上司部下関係では、部下側に出来ることは少ないです。むしろ大うつ病になる人なんかはまじめで責任感が強い人が多いので、「本人の責任問題」なんかを問い詰めたらかえって打ちのめすことになります。そういうのは、アドラーがどう言おうとシカトしていいんじゃないかと思います。
 どうも、色々アドラーの言葉を引用してるのをきいてると、アドラーって今の時代の精神疾患分類とか発達障害のような個体差の問題まで知らないし考えないで言ってる人なんじゃないの?と思います。はい、無視していいです。
 そして「依存」の問題は、1つ前の項目で言っています。私たちはデフォルトで依存しているんです。壮年期の人でも、こころを病めば、すぐ「依存状態」に逆戻りします。友人関係だと背負いきれないからほどほどにお付き合いするのは「あり」だと思いますが、わたしは家族に鬱患者がいましたから、鬱の勢いが強いときは思い切り「依存」させてあげてました。その時期はそうすることが栄養になるからです。その代り、治ってきた段階でわがままが出たら叱り飛ばしてました。
 カウンセラーさんの場合は、約束の日時を守るとかセッション時間の制限を守るという部分での「依存を防ぐ」は必要だと思いますが、セッション内では状況に応じて甘えさせてあげていいと思います。泣きたいクライエントには泣かせてあげる、ぐらいでいいんです。このあとご紹介する別の記事にありますが、親から十分に愛されなかったクライエントが「カウンセラーのカウチの横で子供のように丸くなりたかった」ということを言います。そのぐらいの引き出しを持ってないカウンセラーがするカウンセリングは、拷問です。
 「課題を抱えた人が自分の力で」っていうのは、なんか心が健康な人を前提とした、コーチングのようなセリフだなあ。「病んでる状態」っていうのを本当には想像できてないんと違います?




■(成育歴によって、「存在しているだけで貢献だ」と思えない人には?)
親子関係のあり方によってこれは変わってくるはずです。「生きている」という時間を味わう、そういう体験をしてこなかった人がいたら、つまり、父も母も自分の「仲間」だと思えないような育ち方をしてしまったとしたら、そうだとしても、彼ら・彼女らに「過去がない」と言う風に考えるのではなく、「過去のことを、今、問題にしても仕方がない」と考えたらよいのです。

 これも程度問題ですねえ・・本当に深刻な、例えば虐待を受けて育ったなどのケースを想定できているでしょうか?被虐待児では脳の報酬を感じる部分の働きが弱い、という研究結果が最近出ていましたが…。岸見氏は、さまざまな場合の「ワーストケース」についてあまり想像できていないのではないでしょうか。現代にはその想像力は必要です。
 成育歴が本当に問題になるようなケースの場合、産業カウンセラーの手には余るということでもっとディープな分野のカウンセラーに紹介する、というのが良心的なやり方ではないでしょうか。



■Q6:企業内で看護師をしています。自信過剰で、上司に立ち向かっては叱られている若い人がいます。「自分には能力があるのに、だから、もっと能力にあった仕事をさせてください」という社員がいるのですが。

A6:「優越コンプレックス」と言いまして、現実が伴っていないのに、過剰に自分を誇示する人というのがいます。これは、劣等感の裏返しなんですね。
「支戦場(しせんじょう)」・・・本来の仕事の場で戦わず、上司は部下に理不尽に叱るのも、上司側の「承認欲求」の表われです。上司も劣等感がある。
部下は部下で、そのやり方にのっかって、はむかっていく。こちらも劣等感の表われ。
子どもの例ですけれど、問題行動を起こす子どもというのは、「責めて叱られたい」と思うという屈折した欲求があります。

 また「承認欲求」をわるものにしている。岸見氏はよほど「承認欲求」がお嫌いなんだなあ。
 わたしだったら、このQに対してはもう少し詳しい聴き取りをします。これだけの情報量で即回答することはしません。本人の自己評価は本当に正しいのか。「立ち向かっている」というのはどういう言動か。上司はどんな言葉で叱責しているのか。もし、本人が能力が伴わないのに、身の程知らずに高度な仕事をしたがるのであれば、それを叱ることは上司の承認欲求とはいえません。看護の仕事などでは、安全上の問題でスキル不足の人にはさせられないことがあります。
 この回答が質問者の状況に本当にフィットするものなのかどうか、フィットしてなかった場合、質問者はどんな気持ちを職場に持ち帰るのだろうか、どんな眼でこれからの職場をみるのだろうか。


■Q7:家庭の問題で、問題行動を起こす子ども。どうしたらよい?

A7:「不適切な行動」を無視するのがよくないです。アドラー心理学で言っているのは、「注目しない」であって、「無視する」ではありません。・・・(後略)

 これも上記と同じ。問題行動の種類によるので、そこを聴き取りします。
 行動理論では、軽微な問題行動は無視することを教えます。
 それ以外のところで良い行動を認めてやることで、軽微な問題行動は自然と消失することがあるのです。
 もちろん重篤な問題行動の場合はそれにとどまらないので、とりあえずこの質問が出た段階で聴き取りです。アルゴリズムがあるのです。
 多分アドラー心理学の人は行動理論はお嫌いなんだろうな。



■(大学に10日で通わなくなったお子さんがアスペルガーの症状に当てはまる、という相談について)
A9:まず最初に言えることは、「病名」をすぐつけるのはよしたほうがよいです。それと、アドラーは「原因」を探すのは止めよう」とも言っています。
原因、理由・・・何かあるはずだ!と周囲は考えたくなりますが、理由は後付けになります。

 すいません。わたしなら、そのアスペルガーの線を重視して聴き取りをします。だって、「出現率4%」ですよ。25人に1人は可能性があるわけです。それが、高校までは顕在化しなかったのが大学で顕在化した、大いにあり得ることです。アスペルガーの人は構造化されていない環境が苦手なので、カリキュラムを自分で選んでどの教室に行っても違う人がいて、という環境はストレスになり得るだろうからです。
 もしアスペルガーだと特定できると、恐らくそのほうがそのケースではハッピーになります。若いうちに診断を受けられたほうがいいんです。大学1年なら、就職に備えて社会人になったとき困らないような立居振舞を今からおぼえることもできます。周囲に対して環境調整をお願いすることもできます。障害識をもったほうが幸せなんです。とりわけ、高校までは顕在化しなかったような軽症のアスペルガーのほうが、自覚していないと職場では問題が多いんですよ。
 岸見氏は、要はアスペルガーについて良く知らないだけなんじゃないですか?



 ツッコミもとい批判は以上であります。ああ疲れた。
 しかし改めて、ここまで詳細なメモを残してくださった田中氏に感謝です。講演では岸見氏はささやくような小声で話すということだったので、なおさら。(実はそれをきくと、「岸見氏ってナルシなんじゃないの!?」というツッコミも、わたしの心に湧きます。本記事をシェアしてくださったある学校の先生が言われましたが、褒めるアプローチを否定する人って自分の承認欲求が強い人が多いんですよね)

 1つ1つは些細なことかもしれませんが、聴衆が産業カウンセラーさんだときくと、やっぱりこれは聞き捨てならないなあ、と思います。カウンセラーさんや精神科医さんのところでの「見立て間違い」は、患者さんを一生の不幸につきおとしてしまうことがあります。治るものをダラダラ治さないことがあります。そして鬱は、一度本格的になってしまうと再発も多い、一生ついて回る、自殺もあり得る、怖い病気です。

 正しい(というか普通の)部分も多いとはいえ、1回の講演でこれだけ「明らかな間違い」というところがあったら、クルマならリコール、マンションなら建て替え賠償、のレベルです。最近、知識人のこういう「仕事」に向ける眼が厳しくなったわたしです。

 あえて、厳しいことを言います。
 『嫌われる勇気』を読んだときも思ったことですが、こういう論理構築って、基本的に子供との問題やクライエントとの問題で疲れ果てている人を対象に、あえて「褒めてはいけない、叱ってもいけない」とか「反抗期はない」とか「常識の逆張り」みたいなことを言ってやることで、
「あ、それは私が今やっていることだわ。今までのやり方が間違っていたんだわ」
と、虚をついてこころを思考不能にし、空白をつくり、そこへいい加減な頭の中だけでつくったロジックを畳みかけて注入してるんじゃないでしょうか。悪質な詐欺と同じテクニックなんじゃないでしょうか。


 そして、「承認欲求」というものの日米の扱いの違い。わが国でのような、底意地の悪い使われ方は、アメリカではしません。
 最近見つけた、アメリカの女性臨床心理士によるこんな記事をご紹介します。自己愛の強い母親に育てられた娘の悲劇、という題材です:


「母親が乳児のあらゆる動きや言葉、欲求に応えるとき、そこに信頼と愛情の堅いきずなが結ばれる。子どもは安心して母親に面倒を見てもらい、温かい愛情と承認を受けとる。それが娘に自信をもたらす。

ところが、深い感情をもたない母親は、娘とのあいだにきずなが結べない。母親が子どもに愛情を与えるのは、自分の利益にかなうときだけだ。娘は母親に頼れないことを学ぶ。そして、いつも落ち着かず、見棄てられる不安を感じ、なにかにつけて母親に裏切られるのではないかと思ってしまう。」(太字正田)

「自己愛の強い母親が、ムスメを不幸にする! その「束縛」から逃れる方法放置すると自分の恋愛にまで悪影響が…」(3)

 いかがでしょうか。ここでは、「承認」が「愛」と同等の、「与えられてしかるべきもの」として、いわば「心を潤す栄養」のようなものとして、描写されています。
 これが、「正しい使い方」なんです。

 このところ当ブログでご紹介してきた、フランクフルト学派による「承認論」も、「民族差別」や「フェミニズム」の問題に注目するように、当然与えられて然るべきものが与えられないことについての、弱者の側にたった憤りが出発点にあります。
 「承認」は弱者の側にたつための論理であり、わが国のように弱者を嘲笑することに使われるのは、また「与えない」ことを指南するのは、大きな間違い、恥ずべき間違いなのです。これは、日米欧の「知識人」のレベルの違いなんでしょうか。


 そういうわけでわたしは、岸見氏の講演が全国各地で行われ、患者さんに接する最前線にたつはずの産業カウンセラーの方々がそれを拝聴している、という図を大いに憂えます。

 どうかこれからの講演会では、「それはおかしい」と声を上げる勇気ある人が出てきますように。

 改めて、引用をお許しくださった田中淳子氏、またそもそものきっかけを作ってくださったお友達に感謝し、筆を置きます。



正田佐与
 

<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 「新潮45」2015年8月号を読みました。
 創刊400号記念特大号―といってもふだんこの雑誌の読者ではないので実感しにくいのですが、

 「地に足のついた話をしよう」
と題して、藻谷浩介×内田樹の対談があります。

 辛いですが、今日の記事ではこの対談を批判的に吟味してみたいと思います。
 「承認欲求」という言葉が、多くの犯罪心理学者や社会学者と同じ、逸脱行為を理解するための言葉として使われています。


 3月に起きたドイツのジャーマンウィングス機の墜落事故を話題にして、

 ―この事故はスペインからドイツに向かった旅客機の副操縦士が、百五十人の乗客乗員を乗せたままフランスの山中に自ら墜落させたというもの。副操縦士はうつだったとの報道があった。このほか新幹線の中で焼身自殺を図り、1人が巻き添えになって無くなるという痛ましい事件が起きた―

 
内田 平凡な言い方になってしまいますが、いずれも背景にあるのは社会的承認欲求でしょうね。

藻谷 承認欲求…。ただ自殺したのでは記事にもならない。大勢を道連れにすれば、みんな自分の名前を知るだろうと。

内田 名前を知って欲しいというより、「彼はなぜこんなことをしたのか」という問いを立てて欲しいんじゃないですか。「彼はなぜこんなことをしたのか」という問いの対象になるのが、現代人が求めている社会的承認欲求の標準になっているような気がします。

藻谷 なるほど、皆に考えて欲しいと。(p.61)



 読者の皆様は、お気づきでしょうか。
 「(社会的)承認欲求」という言葉が、ここでも”負の文脈”で使われ、なんども言うように「自己顕示欲」とほぼ同義で使われていることに。

 かつ、「(社会的)承認欲求」という言葉と「自己顕示欲」という言葉、どちらを使うのがここでは適切か。
 「自己顕示欲」を使うほうがはるかに適切なのです。

 コーチングを含めたコミュニケーションの世界には、「チャンクダウン」「チャンクアップ」という言葉があります。それぞれ、「具体化」と「抽象化」とほぼ同じ意味。チャンクというのは塊という意味で、チャンクダウンは塊を小さく崩すこと、チャンクアップは大きな塊にまとめあげること、をいいます。

 それでいうと、「(社会的)承認欲求」という言葉は、ここで使うには「チャンクが大きすぎる」のです。より細分化・特定した、「自己顕示欲」を使うほうがよほど親切、適切。

 「(社会的)承認欲求」では、著書や芸術作品を世に問う行為も、会社に就職することもそこで頑張って働いて仕事のできる人と認められたい、ということもすべて入ってしまいます。そういうことまで悪いのか、と誤解させかねません。

 というか、「社会的」をここにつけるのは何か学術的な意味があるのか?マズローの言う第三階層の「社会的欲求(所属欲求)」と第四階層の「承認欲求」を合体させた造語なのか?社会学のほうにでも、こういう合体させた用語があるのでしょうか?正田は寡聞にして知りません。


 先月のこのブログにも書いたように、内田氏は実に恣意的な言葉の使い方をする人物であり、さまざまな分野について碌に知識のないまま聞きかじり、ネット読みかじり程度の知識で大上段にものを言ってしまう癖があります。
 詳しくは
 ウチダ本ついに学ぶものなし(悲)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922494.html
 無知と知ったかぶり、恣意的な用語と思考、ファンタジーのオンパレード(★)―再度『困難な成熟』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922668.html
(ちなみにあとのほうの記事は、フェイスブックでお友達の法政大学の組織論の先生から「いいね!」をいただきました)

かつ、「言葉の両義性」というものもお好きなようで、「両義性」が好きであると「承認欲求」のようなチャンクの大きい言葉を使って何かあれば「両義性」で言い抜けようとするのもわかる気もします。いずれにしても、まともな学者なら自分の学生には禁じるはずの、非常に不誠実な態度です。

 また藻谷氏は―、以前の同氏の著作『しなやかな日本列島のつくりかた』でも、序文中の「私は本を読まない」というフレーズに「???」とわたしはなったのですが、本を読まなければ必然的に情報源はネットか聞きかじりか、ということになります。
 ―この本も、今読み返すと男性ばかり8人で「日本」を語り、女性が話題に登場するのは点景としてのみ、という、非常に偏った本なのだ―

 残念ながら、「承認欲求」という言葉はこういう種類の、そこそこ有名な、しかし不勉強な、大学教授、コンサルタント、売文業の人びとが遊び半分に(対岸の火事として)もてあそぶための言葉になってしまっていたのでした。

 もう1つ藻谷氏の言葉を挙げておきましょう。

藻谷 最近、私が違和感を覚えるのは、「藻谷さんはいろいろ発信できて、社会に影響を与えることができて、いいですね」と言われることです。要するに、藻谷は私を拡張できて、公にいろいろ口出しできて羨ましいということなんです。
 こう言われると、二つの意味でげんなりします。
(中略)
 傲慢に聞こえてしまうかもしれませんが、私は他人に認めてもらいたいわけではないし、そういう意味での欠落感はないんです。(p.65)
 

 ここでは、「認めてもらいたい=欠落感」という使われ方をしています。
 さて、「認めてもらいたい」はイコール欠落感なんだろうか?
 読者の皆様は、どう思われますか?

 先にも言いましたように、承認欲求というのは著書や芸術作品を世に問う行為も、会社に就職することもそこで頑張って働いてそこそこ仕事のできる人と認められたい、ということもすべて入ってしまいます。たとえば感情労働といわれる仕事の人がお客様に「ありがとう」と言ってもらうとほっとこころがなごむ、身体の疲れが癒されたように感じる、そんなささやかなことも承認欲求です。あるいは無理解な上司から問答無用で叱りとばされ、こころが傷つくことも承認欲求の一形態です。
 また恋愛をしたり家庭を営んだりする私的な行為も―。

 藻谷発言には、それらすべてをひっくるめた、人びとが関係性の中で喜びや悲しみを感じる「承認欲求」に対する見下しがあります。
 そうしたものすべてから自由でいられる立場だ、とはある意味羨ましいことです。

 
 ここで藻谷氏の名前を出さざるを得ないのはわたし的に非常に残念なのですが、同氏は昨年12月21日の毎日新聞書評で拙著『行動承認』を取り上げてくれたのでした。「今年の3冊」のうちの1冊として。当時わたしも非常に感謝しました。
 しかしそのときの文面をここに出すのは控えましょう。同氏も後悔しているでしょうから。

 同氏のように、わたしのしてきた教育事業とそれによる幸福な業績向上事例、そして拙著『行動承認』をはじめとする事例提供、それらに当初感銘を受け、シンパになってくれ、そのすぐあとネットの「承認欲求叩き」に触れたのか内田氏のような「良く知らないで承認欲求叩きの尻馬に乗るえせ知識人」に流されたのか、自らも「承認欲求」を揶揄・嘲笑する側に回ったという例は、このところ後を絶たなかったのです。

 去年から今年、何度そういう人々の手のひらを返したような仕打ちに遭ったことだろう。

 そして今年春、わたしは一時期体調を崩していました。

 だから、ブログ読者の皆様、わたしが「承認欲求叩き」とそれに便乗するえせ知識人に対して厳しいことに、驚かないでください。そしてどうかご理解ください。にどと藻谷氏のような人物に出会いたくないのです。もちろん内田氏のような人物にも。

 神様、どうかお守りください。

 この記事が、おぞましい「承認欲求叩き」の最後の1つになりますように。

 
****


 7月、8月と研修をさせていただいたベーカリーチェーン「株式会社牧」様から、クール宅急便が届きました。

牧様のパン20151006-2


 冷凍状態でもぷうんと香ばしい香りのたちのぼる、パンの数々。

 「柴又店が今月末に新装開店します。それに向けて開発しているパンをお送りしました」

 電話に出られた牧田社長のお元気な声。
 そういえばこの人も「ヘーゲル読み」でいらしたんだ。
 9月末にはまたヨーロッパ研修旅行に行かれたとのことで、皆様新しい”ネタ”をたっぷり仕入れてこられたことでしょう。
「私は承認によって救われました」
と言った飯田GMは、まだ1人ヨーロッパにとどまって旅しているそうです。

 わたしは、手を動かしてお仕事をする方々が本当にすきです。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 


 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 好天に恵まれたシルバーウィークでした。本日からご出勤の方もまだ9連休中という方もいらっしゃるでしょう。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■素敵な論考がありました。「承認欲求」を否定してしまうと、何が起こるか
 ―決定版・アンチ承認欲求についての論考・熊代亨氏ブログ「シロクマの屑籠」

■「労働」はいかに強力なものか、幸福をつくりだす力の強いものか
 ―読者様のおたよりから

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■素敵な論考がありました。「承認欲求」を否定してしまうと、何が起こるか
 ―決定版・アンチ承認欲求についての論考・熊代亨氏ブログ「シロクマの屑籠」


 前号の本メルマガで、「承認」「承認欲求」という言葉がまるで悪いもののように使われていることに疑問を呈しました。

 犯罪心理学者や社会学者らが、例えば寝屋川の中学生殺人事件で「子供が深夜徘徊するのは『承認の質的劣化』」と言い(正田注:家庭環境の要因もあったかもしれないが、なまじLINEがあったがゆえに連絡をとりあって子供らしい冒険心を発揮した、その結果痛ましいことになった、と解釈してもいいのではないだろうか)、JR連続放火事件の劇場型犯罪については「自己承認欲求(=「自己顕示欲」とほとんど同じ意味で使っている。自己顕示欲でよいのでは)」であるといいます。

 どうも、言葉の本来の意味をまったく参照することなく、この言葉を使うと何かがわかったつもりになる、そういう「お約束ワード」と化していたきらいがありました。

 「それはヘンだよ」とわたしは思っていたわけですが、同じことを昨年、もっと深く考察されたブログがありました。

 シロクマ先生こと精神科医・熊代亨氏のブログ「シロクマの屑籠」です。

 同ブログで2014年1月発表された「承認欲求四部作」。非常に完成度の高い考察です。

 例えば同四部作でのこのフレーズ:
 「『承認欲求や自己愛は人間の基本的な心理的欲求』であり、それそのものをバッシングするのは人間の基本的性質をバッシングするに等しい。」

 このフレーズは本メルマガ前号の

「わたしたちのあらゆる社会的活動、学校へ行くことも仕事をすることも恋愛したり家庭を営むことも、すべて『承認欲求』が行動原理だ、ということです。」

というフレーズと非常に通じます。

 わたしはこういう、複雑な現代で起きていることを真摯に思考する同時代人には敬意を表します。

 熊代氏のご了解により、同四部作を拙ブログに引用させていただきました。

 お子さんをお持ちの方、学校関係者の方。そして本メルマガの読者の大半を占める経営者管理者の方も、今会社に入ってくる若い人たちのこころがどうなっているのか?なぜ、成長不全が起こってしまうのか?よろしければ、ご覧ください。

◆決定版・アンチ承認欲求についての論考―ネットスラング、罵倒語からの市民権回復へ―熊代亨氏ブログ『シロクマの屑籠』より
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922715.html 

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■「労働」はいかに強力なものか、幸福をつくりだす力の強いものか
 ―読者様のおたよりから


 わたしのブログを過去5−6年にわたり読んでくださったという、読者の方からおたよりをいただきました。「行動承認」の価値を非常に高く評価してくださっています。ありがたいことです…。

 その方はマネジャーとして、「行動承認」を発達障害と思われる部下の方に対して使い、その結果部下は「仕事のできる人」になっただけでなく、人生に大きな展開がありました…。

 その顛末を書き綴った詳細な手記。その中には「労働」についての素敵な言葉がありました:

◆働くことの重さと貴さ、幸せ連鎖の頂点、そして自信のない正田
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922570.html 

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★本日から雨や曇り空が続きます。突発的な大雨に見舞われるおそれも。ご出勤の方もそうでない方も、くれぐれもお気をつけください。

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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
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(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
http://abma.or.jp
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
理事長 正田 佐与
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ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 このところ「アンチ承認欲求論」―つまり、承認欲求が高じて犯罪や非行やいじめなどの逸脱行為が起こるので承認欲求とはわるいものだというような言説―のようなものの存在が気になり、その系列の本を読んで批判したりしていましたが、

 「承認欲求叩き」というタームを使って昨2014年、この風潮に疑義を呈したブログがあるのを知りました。
シロクマ先生こと精神科医・熊代亨氏のブログ「シロクマの屑籠」です。


 昨年1月、「承認欲求四部作」と題して発表された記事は、今月突然この現象をまじめに調べ始めた正田と違い、非常に完成度の高い論考。

 幸運にも筆者熊代氏のお許しをいただき、本ブログに転載させていただきます。


 四部作の全体像は:

 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について

 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか


 では、1つ1つご紹介していきたいと思います―


 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 「承認欲求や自己愛は人間の基本的な心理的欲求」であり、それそのものをバッシングするのは人間の基本的性質をバッシングするに等しい。


 この記述はまったくわたしの感慨とおなじもので、出会えて非常にスッキリしました。

 (たとえば拙ブログの当たり前の日常から発して、リーダー教育を語る参照)

 あまりにも基本的な欲求である「承認欲求」だからこそ、「承認欲求(笑)」などと叩く人々、風潮の危うさ。

 だから私は、承認欲求という言葉を、考えもなしに罵倒語として用いる人というのは、若いなら若いなりに、年を取っているなら年を取っているなりに「残念」と感じる。人間を飛躍させる原動力になり得るモチベーションを、リスクばかりにとらわれて否定すること、現代という時代に即して評価できないこと、どちらも建設的なことではあるまい。承認欲求の存在*3や今日的意義を認めたうえで、いかにそのモチベーションを運用するのか、どのような目標に向かってモチベーションを転がしていくのかを考えたほうが良いだろう。


 非常にうなずける、私的には常識的な、安心できる見解です。



 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 「承認欲求には社会化レベルがある」と筆者。

 幼児期から学齢期へ、それは褒められたい・認められたい欲求をモチベーション源にして発達していく。この時期に適切に褒め・認められなかった子は、「自分がやりたい事をやって承認欲求を充たす、という心理的営為のノウハウ蓄積が欠落してしまう」と筆者。

 そして思春期になると、子供時代とは違う新たなアイデンティティの構築に承認欲求が大きな役割を果たすが、ここで子供時代の承認欲求の満たされ方がそこに影響する。その人によって特有の躓きを経験するかもしれない。

“褒められたくてもバカにされるかもしれない”……という範疇的な不安だけでなく、自分が褒められてしまう事態にうろたえてしまう人や、自分自身の心のなかにせり上がってくる(思春期特有の)衝き上げてくるような承認欲求が怖くなってしまう人もいる。


 そこで「トライアンドエラー」の重要性を筆者は説きます。

 幸い、思春期前半は誰であれ承認欲求のブレ幅が大きくなりやすい季節なので、それまで承認欲求の社会化レベルが低めだった人でも、トライアンドエラーについてまわるミスや過ちが許容されやすく目立ちにくい――つまり遅れを取り戻すための修練がやりやすい――とは思われる。自分自身のこなれていない承認欲求を否認することなく、認め、乗りこなしていくための意志や能力は必要かもしれないが。



 こうした、逸脱しているわけではない普通の思春期の子供(若者?)についての特定個人の個体を超えた「メタ」な議論には、これまで「承認欲求叩き」の中では中々巡り合えなかっただけに、ほっとしますね。

 
 そして「社会化」の結論部分:

承認欲求がほとんどの人に生得的に存在する以上、それを超克しようとか、無くしてしまおうとか
考えるのは、かなり難しい。それよりも、承認欲求の熟練度を少しでも高め、より社会化された、より穏当なかたちへと洗練させていくほうが、やりやすく、実りも大きかろう。自分自身のなかに眠る承認欲求を弾圧するのでもなく、檻の中で飼い殺しにするでもなく、放し飼いにしても大丈夫なように手懐けていくこと――それが肝心のように思われる*4。


 超克するのではなく「洗練させる」「手なずける」というキーワードが出てきます。


 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について


「昨今、思春期前半の承認欲求が馬鹿にされたり、批判に曝されたりする機会が増えたように思う。」と筆者は書きます。

 その背景には、若者特有の逸脱を許さないいわば狭量な社会がある、と筆者。

そうした逸脱を包摂する共同体的雰囲気はなくなり、きわめて契約社会的な、個人的文脈を忖度しない社会がやってきた。


 こうした社会になれば、若者ははみ出さなくなる。犯罪発生率も下がる。そして若者にとっての”生きづらい”社会が到来する。

中二病が嘲笑され、承認欲求が罵倒語として機能し、若者の逸脱が厳しい制約を受けるようになったため、現代思春期において、承認欲求の社会化レベルをあげる難易度は高くなった、ともいえる。


逸脱の振幅が大きすぎる個人は嘲笑され、叩かれ、排除される。承認欲求絡みのトライアンドエラーの安全マージンが狭くなったということでもあり、ネット炎上に象徴されるような新しいタイプのブラックホールと隣り合わせになった、ということでもある。



 そして幼児期〜学齢期に「承認欲求の社会化」があまりうまくいかなかった人は、その影響をもろに受ける、という。

承認欲求の社会化プロセスのハードルが高くなり、安全マージンが狭くなってしまうと、もともと承認欲求の社会化レベルを稼げている人にはさほど影響は無いかもしれないとしても、承認欲求の社会化レベルの遅れを取り戻したいと思っている人にこそ、そのしわ寄せは大きく響くと推測される。

 こうした社会のなかで、一体どれぐらいの若者が承認欲求を適切に社会化し、モチベーションとして上手に生かしていけるだろうか?



承認欲求の重要性が高まったにも関わらず、その社会化プロセスが難しくなったせいで、おそらく、現代思春期の心理的な成長過程は険しくなっていると思われる。



 わぁあたしが面倒くさがってちゃんとみてこなかったところを静かな目で「まじまじ」と見続けた人がいはんねんなあ。
 ついいつもの癖で、解決編「私の教育の下では…」というフレーズが頭に渦巻きそうになるのを抑え、最終章にまいります。



 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか

 
 
承認欲求全般の否定は、おそらく自分自身の心理的性向の一部を否定することにも直結する。そうやって承認欲求に“臭いものに蓋”を続ければ、さしあたり承認欲求周辺の問題から自由になれるかもしれないが、承認欲求の年齢相応な社会化はいつまでも遅れ、承認欲求をモチベーションとした技能習得やアイデンティティ確立が成立しなくなってしまうため、社会適応に大きな偏りを免れないと思われる。
 

 はいはい。ここはもう一度押さえましょう。
 ではそうならないためにどうするか。

 「だから、よほど特殊事情を持っている人でない限り、自分自身の承認欲求は、なるべく年齢相応に使ってあげて、モチベーションの源としての熟練度をあげていったほうが望ましい。それも、できれば年齢が若いうちのほうがいい」と筆者。
 セルフケアとしては、そうですね。

 ラインケア(メンタルヘルス用語)としては―。

 
 また、もしも承認欲求を不器用に充たしている年下の人を見かけたら、本当にそれを笑って構わないのか、本当に炎上させて良いのか、立ち止まって考えたほうが良いと思う。笑って構わないと判断された場合も、どのように笑うのが適当か検討が必要だ。ちなみに、私自身はそうやって立ち止まって考える習慣がこれまで足りなかった。これは私自身の課題でもある――年少者の成長を願い、喜べるような成人になっていくための。


 うんうん。

 ここでやっと「当協会方式の承認教育」も出番になってくるかな。


 しめくくりに、筆者は「承認欲求の社会化」が困難な現代社会について、こう言う。

承認欲求が個人のモチベーション源として重要な社会ができあがっているにも関わらず、幼児期〜思春期にかけて、承認欲求の社会化プロセスを適切に踏んでいくのは簡単でも当然でもないのは、随分ひどいことだ。


さしあたって今、承認欲求の社会化プロセスが難しくなっていて、それが次世代の精神性に影響を与えているであろう点には留意が必要だとは思うし、今後、どのような社会が理想的な社会なのかを考えていくにあたって、勘定に入れていただきたいとも思う。
 


 いかがでしょうか。

 「解決編」にすぐいきたい正田がふだん思考をサボっている部分をこうして激するでもなく陰陰滅滅とでもなく、描写し分析し建設的に処方箋を出す人がいた。

 こういう品質の思考にこの分野でこれまで出会えなったのだ。

 (欲をいえば正田はマズローだけでなくヘーゲル承認論まで遡りたいが…こらこら。)


 このブログへの引用を快くお許しくださった熊代亨先生、ありがとうございました!


 もう1つ、「承認欲求という言葉の使われ方が変」と感じたわたしの疑問に親切に答えてくださった番外編の記事

 番外編その1 ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史

 本来の語義を離れ(参照することなく)ネットスラング、罵倒語として「承認欲求」が使われるようになった、残念な経緯がまとめられています。
 正田ほんとうにこういうこと知らなくて良かったのか(苦笑)

 ありがたいことに、これまで受講生さん方はあまりネット世界の住人でなかったせいか、こうしたネットでの残念な使われ方の影響をそれほど受けてきませんでした。

 受講生様方、大人は「満たす」ことに集中しましょうね。


****


 先の加東市商工会での「行動承認セミナー」を受講された経営者、管理者の皆様の宿題が続々返ってきています。
 皆様一様にいい感触のよう。宿題をみると、つい「にっこり」してしまうわたしです。

 「承認研修」は、シロクマ先生の論考のような、若者の側の「承認の社会化プロセス」の分析を経てうまれたものではありません。

 たんに上司側からこう働きかけるといい結果になるよ、という大人社会側での知恵を集積したもの。

 「行動」承認であるのは、「承認の最適化」「質の高い承認」という、これまで承認不全で育って来たきらいのある若者たちの側のニーズにそれがジャストフィットするからなのでした。

 宿題でも、型どおり「行動承認」の形でやってくださった方が最もよい結果を出され、長く続くモチベーションになるであろう、という予感があります。


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 こうして引用、出典明記にこだわるのはわたしのスタイルです。できればオリジナルの方に仁義を切りたいと思うのもわたしのスタイルです。
 自分以外の聡明な方のお知恵をお借りして少しでもいい仕事をしたいのです。またオリジナルの方がイヤな気持ちにならないやり方でしたいのです。

 そして複雑極まる現代のために真摯に思考したり行動する同時代の人に対しては、敬意をもちます。


 ありがたいことに他所にもそういう方がいらっしゃるようで、8月にこのブログに書いた記事を最近別の人材育成業の方が、

「自分が感じていたことと同じだったので引用させてもらいました」

と事後承諾でしたが、ご連絡をいただきました。

 そういう、認め合って引用しあうようなコミュニティってひそやかにあるのかもしれません。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 また引き続き「負の承認欲求本」を読んでみる。

 このブログでは2011年7月にもとりあげた『「認められたい」の正体―承認不安の時代』(山竹伸二、講談社現代新書)。

 再読してみますと、この本自体は最終結論部分では「社会の『承認』の総量を増やそう」的なことを言っていてわたしとそんなにスタンス変わらないじゃないの、と思います。だがわたしのやってるみたいなコミュニケーショントレーニングは有効な道筋と認めてなくて、もっと何となくやりたい、自分の身の回りからほそぼそと、というスタンスみたいですが。向こう三軒両隣。

 甘いね。それじゃ1000年かかっても無理、と実際家でコミュニケーショントレーニング屋のわたしは思う。「コミュニケーション」は見下されがちだが、菊池省三先生も著書の中で言われたように、「徳」の手段なのだ。コミュ力を鍛えることが、徳に至る道筋。そう意識して使っている指導者のもとでは、そうだし、そういう志のない空虚で受講料ばかりバカ高いコミュニケーショントレーニングも一部にある。そこと一緒にしないでいただきたい。また現実の手応えとして、何となくやってるつもりでいるのと、きちんとやり方を学び宿題もこなして型を身につけるのとでは、天と地ほどの開きがある。

 
 そして結論部分はそうなのだが、本書『「認められたい」の正体』の導入部分ではやっぱり「犯罪」「いじめ」と「承認欲求」との関連を延々と描き、「承認欲望」という明らかに善悪の「悪」の価値判断を含む言葉づかいをし、陰陰滅滅と、「承認欲求」のきもちわるさを訴える。そんなんで社会に承認が増える結果に結びつくとは思えないのだが。

 もう1冊、『人に認められなくてもいい』(勢古浩爾、PHP新書、2011年12月)は、この年に先行で出た『「認められたい」の正体』を長めに引用し、引用文献としてはそれが唯一と言ってもよく、あとは「認められたい心理(承認欲求)」をひたすら品位の低い言葉で貶しまくっている本。いわば便乗本、尻馬乗り本という感じ。たぶん「内発と自律論」にかぶれて憧れてるほうの人だと思う。

 「内発と自律論」についての最近の記事はこちらです

 ふたたび「内発と自律」をモグラ叩きする
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921314.html


 このへんの論者の方々にわたしが言いたいのは、たとえば大前提として、承認欲求がボルテージ上がってるから犯罪が増えてるんだろうか?そもそも、犯罪発生率が上がってるという事実もあるんだろうか?

 すっごく犯罪が増えていて、アキバ通り魔事件のようなのの発生率が過去に比べて右肩上がりで上がっていて、それの原因が承認欲求の亢進だ、という図式が成り立つんだったらいいですよ。現実には、犯罪は減ってるんでしょ。ちょぼ、ちょぼ、と起きていて、たまに起きるがゆえに目立つそれの原因をみると承認欲求由来のものがある、という話でしょ。

 そのへんのデータ的なところは詳しい方にゆずるとして、、、


 昔から、犯罪の動機が承認欲求だった、というのは実はよくあった。「永山則夫」とかもそうなんじゃないですか、たぶんほかにも枚挙にいとまがない、めんどくさいから一々挙げない。三島由紀夫とかインテリがやるのもそうだし粗暴犯もそうだったろうし、明治の人も江戸時代の人も戦国時代の人ももっと前の人もやってた。だってギリシャローマ秦漢の時代から承認欲求ゆえに戦争をし、主と奴に分かれた、っていうんだから。

 承認欲求ゆえに人は恋愛もする。源氏物語だってそれを言えば承認欲求の産物だと思う。思い返すと近代ヨーロッパの恋愛小説とかビルドゥングスロマンとかも全部、今読み直せば延々と承認欲求のことを書いている。漱石のこころだって言ってみればそうじゃないですか。「近代的自我」なんて今の言葉で言えば全部承認欲求じゃないですか。

 だから、ふつうのことなんです。承認欲求を持っているのって。
 昔から若い人はそれで悶々としてたんです。
 単に今の大人が成熟度が低いから、出し惜しみして与えないから、社会に足りなくて窒息感が起きてるんです。それと、昔は文章を書くなんて一部のエリートの行為だったのが、彼らは社会的地位が高かったので割合承認的に満たされていたのが、今はもっと普通の社会的地位の低い人も書いて公開できるようになったから目立つということはあるでしょう。
 去年はまたナルシシストのスキャンダルが連続して起きたが、あれは「承認欲求」も度を越すと一種の才能だ、という話なんだと思う。別にすきじゃないですよ、あのひとたちのこと。
 (あと多少、顔出しできるツールの出現が自己顕示欲という形の承認欲求を高めたというところはあるでしょうね。拡張させるツールは溢れていますね、それは1960年代からアメリカ人を肥満にさせるスナックが溢れたのと同じです。そういう社会を作っちゃったのは大人です)

 でもこの著者たちは、「アンチ承認欲求」で論陣を張ると、それだけで新書が何冊も書けちゃったのだ。「まるで承認欲求の亢進ゆえに不条理犯罪が増えた」みたいに見せかける文章を書いて、日本的なケガレみたいな味つけをして。そういう、イージーな論客たちの「おまんまのたね」だったのだ、承認とか承認欲求は2008年ごろから最近まで。牧歌的な時代でしたねえ。

 『承認をめぐる病』(斎藤環、日本評論社、2013年12月)は、病気の人のことなので、こころの栄養である承認が極端に不足すれば病気になるのはわかりきっているので、省きます。あと病的に承認欲求の強い一部の人も病気になりやすいです。専門家の方はそういうものだと思って粛々と対処なさってください。


 そしてもうひとつ意地悪なことを言いましょう。

 承認や承認欲求のことを何と表現するか。それは、その人自身の内面の投影だ、とわたしはみています。

 たとえば、求めても得られないもの。ここにはないどこか。幸せの青い鳥のようなもの。J-POPで歌う夢とか幸せのような現実味のないもの。地獄の餓鬼の絵のような嫌悪の情をもよおすもの。際限のない闘争をもたらすもの。羨望と見下し。

 全部それは、その人自身の内面の物語なのです。
 きっと本人さんが「ほしい〜、ほしいのに〜、もらえない〜」と悶々としている人なのです。ノドから手が出ているのです。イソップ童話のキツネのように、手に入らないから、悪口を言うのです。そして「与える側になる」なんて夢にも思わないのです。はいクイズです、そういう人格の人のことを何と呼ぶでしょう。


 わたしなどは、
「そうか、足りないのか、じゃあ与えよう、そのためにトレーニングをしよう。そのために人びとを説得して動かそう」
という脳の回路をしているので、そうした陰陰滅滅としたイメージはあまり持ちません。供給したあとの現実の美しいイメージのほうを沢山蓄積で持っています。しかし根暗イメージを持つ人は持つので、ふうんそう見えるんだなあ、と不思議な思いでみています。
(もちろん不足のために問題が起きていることには人一倍心を痛めます、だから迅速に行動を起こします。わたしの受講生たちが1位続出しはじめたのは、わるいけれどこの論者たちが「承認欲求」の悪口垂れはじめるより5年も早かったのです)


 適切に与えさえすればこんないいものはないものについて悪口雑言たれる人とはお友達になれません。

 彼らは、「承認」「承認欲求」を遠巻きにしてみて悪口言う仲間をつくり、その仲間同士の承認を期待しているナルシシストなのです。


 
 もうひとつ追加しましょう。

 拙著『行動承認』は「はじめに」の一章を除けば、全編が「解決編」でできている、と言ってもいい本です。

 わたしは恨み節嘆き節がすきではないのであまり気乗りがしなかったのですが、打ち合わせでそういう章が必要だ、という話になったので、仕方なく「承認不在の職場でどんなイヤなことが起きているか」を取材して書いたのでした。

 残りは全部、解決編。
 世間には、データだけ出して解決編提言編は書きたくなかったとか言われる御仁もいらっしゃるけど、

「こういう問題が起きています」「さあ、あなたはどうしますか」

という本の書き方より、解決編に徹して書くほうが責任が重いのです。

 とりわけリーダーの行動規範に関する本なので、リーダーが間違ったことをやったらものすごく影響が大きい。それは、あらゆる取り違えや行き過ぎや色々な事態を考えて、丁寧に副作用の芽を摘み取って書いているつもりです。

 わたしは「変える」という言葉もあまりすきではなくて、「変えるより『つくる』ほうがはるかに難しい」と思っています。現状に問題があるから変えたい。でも変えた先の形でまた別の問題が起きない保証はない。

 そして受講生さんや読者さんは素人なので、ほっとくと色んな失敗をされる。本当はリーダーの行動では失敗は許されません。経験値のある当方が、できるだけ失敗しないように丁寧に指導してあげる必要があります。「失敗してもいいですよ」は若いうちだけのことです。


 そういう、「この形に変えたあかつきに何が起こるか」を丁寧に予測して問題の芽を摘み取る作業をしている本なのですが、そういう配慮を読み取ってくれる読者さんはすくないですね。世間の本でそういうの中々ないですよ。いいんだけど。


 わたしは、嘆き節の本何冊も書いているよりも自分の生きている時代に責任持った仕事の仕方してます。超マジメタイプですから。
 
 
 
(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 

 加東市商工会で11日、3回シリーズの「行動承認セミナー」初日が開幕しました。


 会員企業様から22名の経営者〜リーダー層の方(うち女性6名)が参加されました。

 県下きっての経営支援通、篠原靖尚経営支援課長(拙著『行動承認』に登場したK島さんの以前のお師匠さんです)が冒頭挨拶を読み上げられ、

「コーチングの研修も受けました。ほめる研修も受けました。どれも違う、と思った時に私が去年出会ったのが『承認研修』でした・・・」

 荘重な、教会のパイプオルガンの前奏のような冒頭挨拶。

 照れ屋のわたしはつい、「篠原さん、話長いです」とつっこんでしまいましたが…、本当は内心は感謝でいっぱいでございました。


 ご一緒に講師を務められた元銀行支店長の松本茂樹先生(関西国際大学経営学科長)は、

「この研修はその通り『素直に、愚直に』やり続ければいい、というものです」

「私も銀行支店長時代、個別面談をやりながら部下が目の前でみるみる変わっていくのを経験しました。みなさんも経験してください」

と、嬉しい援護射撃をくださいました。


 商工会から事前に本を配布するという「反転学習」の効果か、皆様最初の実習から大変コミットメント高く参加していただき、笑顔がこぼれました。

 その瞬間は何度立ち会ってもいいものですネ(*^_^*)


 3時間、最後の実習で、ちょっと難しかったカナ?と当方が気をもんでいた最後のお1人も破顔一笑。

 あとは、このまま順調に職場で実施してくださいますように。と祈るばかりです。


 非常に沢山の課題を事前アンケートで出していただいていましたが、わたしがみる限りすべて「承認」の先に解決策があります。それはみなさまの実践に依存します。




 「幸せな初回の終了」のかげには、加東市商工会K島様の周到なご準備もありました。チラシレイアウト、配布、FAXDMなど事前告知の労、それに当日作ってくださった感動的な席次表。いまやこの方しかご存知ないセミナー開催ノウハウの塊ではないかと。

 この場をお借りして、ありがとうございました。「承認研修」、こんなに盛り立てていただいて幸せ者です。


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 さて、幸せな気持ちになったので、少しイヤなことにも目を向けようと思います。

 今回の読書は『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)と『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』(古市憲寿+本田由紀、光文社新書、2010年8月)。

 いわば「負の承認欲求本」の「はしり」のような文献群であります。けっしてこのあたりの論者の方々を敵視したいわけではないんですが、きっと良心的な方々なのだと思いますが、このあたりの書物がつくるイメージが、「承認」という本来すごくいいものをわるいもののように見せてしまっているということは指摘しなければならない。

 わたしは大人の世界に「承認教育」をして、サクサク問題解決をしようというほうの人なんです。そう、本当にサクサク解決できるんですもん。


 このあたりの「若者論」の文献に、「承認」「承認欲求」は、どういう形で現れるでしょうか。なんだか、大学生さんの卒論みたいな論の立て方ですが。


 たとえば前者、『友だち地獄』では―。

「他者のまなざしを自己の内にもたない人間が自らを物語ろうとする場合には、自分の外部にその聞き手をもたざるをえない。しかし、自己の物語が赤裸々なものであればあるほど、自分と利害関係のある人びとにその役割を求めるのは危険が大きすぎる。そこで彼らは、具体的な利害関係のないバーチャル空間の他者にその役割を求め、ネット上に日記を公開する」(p.69)

 ―ここでは「承認欲求」という言葉こそ使っていませんが、ブログを書く人は承認欲求を満たしたいから公開で書くのだ、という意味のことを言っています。そうですかすみませんねえ。


「献血によって彼女(南条)が得たいのは、自分という存在の確認とともに、他者からの絶対的な承認である」(p.82)

「(南条の自殺願望の記述を受けて)ここには、なんと切ない自己承認への欲求があることだろう。死亡後に発見される自分の刺激的な身体が、さらには自殺という衝撃的な事件によって自分の欠けたダンスのステージの光景が、かえって自分という存在の強力なアピールになることを敏感に感じとっている」(p.83)

 ―いやですね〜、自殺によるドタキャン願望。傍迷惑このうえない自己顕示欲。まじめ義理人情タイプの正田はそれは絶対ないな。でも時々、例えば職務怠慢な新聞記者があまりにも「承認」のことを書かないものだから、「あなたたち私が死んだら書いてくれるんですか?」なんて言うことは本当にあります。ギャグですから、あのひとたちは。まあ「思想」なんて高級なことはわからない、ミニコミ紙ですからどこも。
 ともあれ、その人はビョーキなんだと思いますよ。


「一般的な他者の視線が自分のなかに取り込まれないとき、自らの身体感覚のみに依拠した自分は、まさに世界の中心点となる。しかしそれは、社会という確固たる根拠をもたない空虚な中心点である。それゆえに、自己の安定のためには具体的な他者からの絶えざる承認が必要となる。その承認欲求の強さは、南条の日記に書きつらねられた内容ばかりでなく、ネット上でそれを公開するという形態にも表れている」(pp.83-84)

 ―はいはい。現代の若者の病理を解剖する時に、どうしても表現力豊かなエクストリームな人の例を挙げざるを得ないんでしょうかね。
 最近も自分がブログを書いていることに関してナルシシストだとか言われて、「私は碌に発表場所もないから受講生様のために自分が思考した軌跡を書き残しているんです、なんか悪いですか?」ってある人に言ったんでしたっけ。なんでこんな説明しなきゃいけないのよ、疲れるなあ。相手はベストセラー作家さんでしたけどね。あいつら一味だな。回し者だな。


「彼女(南条)は、甘美なものとして仕事を捉える。そこに、自己承認への活路を見出しているからである。彼女にとって仕事とは、確固たる承認を得るために非常に有効な手段だった」(p.85)

 ―あの〜、「仕事が承認を得る手段」だ、というのは、いたって「まとも」ですよ。ビョーキの人だからそうなんじゃないですよ。そういう認識は全然ないみたいですね。なんか読むのイヤになってきたこの本。あなた自身は、仕事は承認を得るための手段じゃないんですか?この人本当はいい人じゃないんじゃないのかな。


 ―さて、「昔の若者はそれほど承認を必要としなかった」という言説も登場します。

「…かつての若者たちが人間関係の強い絆にからめとられているように見えながら、その一方で孤独にも強く、むしろ孤高にふるまうことすら可能だったのは、自分の判断に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を自己の内面に取り込んでいたからである。その根拠が、つねに一定方向を示しつづける羅針盤の役割を果たして、彼らの自律性を支えてくれていたからである。だから、たとえ周囲の人びとから自分だけが浮いてしまおうとも、『我が道を突き進んでいく』と宣言することができた。いわば一般的・抽象的な他者による承認を感じとることができていたので、具体的な他者からの承認を現在ほどには強く必要としなかったのである」(p.122)

 ―昔の若者は自律的だった説。異議あり。昔がどのへんの時代なのかわかりませんが、たとえば安保闘争とか学生運動、紅衛兵、など若者がモブ化したことは何度もあり、それは自立していない若者が集団行動すると安心したからで、要は承認欲求です。紅衛兵なんかは、毛主席から承認されたかったんです。だから団塊はその過去を恥じて右翼反動になってるんです。中には本当に自分の信念と一致していた人もいたでしょうけど、大多数は自分なんてありませんでした。もちろん普通の働く風景でも、高度経済成長の長時間労働のサラリーマンは当然、会社や周囲から承認されたくてそうしていたわけであります、もっとさかのぼれば軍国主義にしても。正田は会社員時代も一匹オオカミで上司とか周囲の(「弱くあれ」という)期待には従わないほうの女の子でしたが、それは大学で強い恩師の影響を受け承認も受けたからで、良い親御さんや師に承認された経験のあるひとは周囲に流されず強く振る舞えるかもしれません。自分1人でそれができるわけではない(できるのは恐らく病的に空気を読まない人)、それは昔も今も同じと思います。漱石とか鴎外とか、文豪と言われるクラスの文献を残している人は例外でしょうけどね。あと太宰治は自己愛性人格障害だった説もどこかにありましたね。あー、どんどんきらいになってきたこの人。言ってること変。学者のくせに間違ったこと言ったら、アウトでしょ。かなり妄想的な頭脳の人、学者というよりアーチストなんじゃないだろうか。


 ―いじめ自殺も「承認欲求」の産物説。別に否定はしませんが…。

「2006年の後半に引き続いたいじめ自殺の背後にも、この「私を見つめて」という強い承認欲求が潜んでいるように思われる。自殺を企てたいじめの被害者たちは、…「優しい関係」に孕まれた対立点の表面化が巧みに回避されることで、いじめの傍観者たちが自己肯定感の基盤を補強していくのと引き換えに、自らの肯定感をとことん剥奪されてしまった存在である。「私を肯定的に見つめてほしい」という想いは、ふつうの若者たち以上に強かったに違いない。」(pp.135-136)

 ―そうだろうと思いますよ。ホネットも言ってるでしょ、いやヘーゲルだったかな、人間同士の葛藤とは、要はどれも「承認の剥奪」の問題なんです。戦争も犯罪もいじめも。だから、奪われた側は必死でなんらかの形で奪い返そうとする、承認を。それは自然なことです、といっても自殺などしてほしくないが、彼らには奪い返す権利は当然あるんです。それはそこまで追い詰められた被害者が悪いんですか?自殺した被害者をナルシスティックだといえますか?承認を奪った加害者が悪いんじゃないですか?あるいは放置した大人たちが悪いんじゃないですか?
例えばこの文章を、「餓死した人の表情からは強い食欲が窺われる」という文と比べてみてください。


 「ケータイは…、つながりたい、承認されたいという欲求を、とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている」(p.172)

 ―きたきた。本書は2008年の出版なので、まだスマホ登場前で「ケータイ」を話題にしています。ここでいう「承認」は、当協会的には「やすっぽい承認」なのやけどなあ。本書では「優しい関係」という言い換えバージョンも度々出てくる。「さみしい」に対しての「さみしくない」、「ないよりまし」というレベルの不安定なもの。だから、仕事の場での「行動承認」に出会うと、それはいまだかつてない大人同士の骨太な強固な信頼できるものなので、今どきの若い子もコロっと変節(いい方へ)してしまう。


 『友だち地獄』、「おわりに」で著者は、「本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない」(p.231)と述べたところには、ちょっとだけ救いがありました。

 しかし全体としては、若者の現状の暗黒面を取り上げ嘆いてみせ(慨嘆調)、そして「承認」「承認欲求」をスケープゴートにしている本なのでした。まるで、人間ではない架空の概念だから悪玉にしてよいのだとばかりに。
 いや向かうべきはそっちじゃないでしょう。大人社会をどうつくりかえるか、でしょう。

 問われるべきは大人社会なのだ、という視点がこの本には見事に抜け落ちている。「若者の病的な承認欲求」のおぞましさだけが読後感として残る。

 あれですよね、問題発見とか慨嘆調がお上手な著者の方っていらっしゃるんですよね。それだけで本が何冊も書けちゃう。ネガティブ日本人は嘆き節には「そうだそうだー」って反応するんです。イヤだわ男のくせに慨嘆調ヨロメキ調。定年後の読者層の方なんかには受けますね。

 でも社会問題は何も解決しない。有効な問題解決をしているこちらが足引っ張られる。

 このブログでは、最近も「承認と栄養の関係」を取り上げているが、

 長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html

承認欲求は誰にも普通にあるもので、正常な範囲のものは与えられて然るべきもの。


 ごめんね、教育技術の進化によって、また地道な社会変革によって(それはお気楽な大学の先生ではない正田の長年の心身をすり減らす「営業活動」で成り立ってきたのだが。正田はもう歳でかなり疲れてきているので、大学の先生にはとりわけ厳しいです)、大人のほうに「承認教育」を施し、「承認の与え手」の大人の数を増やすことができるようになると、ここにみるような「承認観」はむしろ退場していただかざるを得なくなる。

 美しいものなんです、大人の「与える承認」は。この教育に関与できることも美しいんです。汚いものみたいに言ってご商売してきた無責任なひとは、関与しなくて結構です。


 
 
 もう1冊の『希望難民ご一行様』(光文社新書、2010年)は、気鋭の若手社会学者・古市憲寿氏のデビュー作らしい。綾野剛みたいな今どきのイケメンの人ですね。


 ピースボートに同乗し、その限界を見、返す刀で「承認の共同体」を切っている感じの本。「承認」はもちろん本書の本筋の話ではないが、承認屋なので一応、どう扱われたかフォローしておきたいです。


「そう、「承認の共同体」は再分配の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである」(p.264)


―政治運動には、このところ「反原発」や「反安保」に発展しているようにみえますけどね…。
 再分配の問題と承認を切り離して論じているところが曲者で、ヘーゲルの構想した承認は、ちゃんと再分配にまでつながっていた。ヘーゲルは承認を当初公共の愛として構想し、次に法や社会制度として構想したのだ。承認を、非力な若者同士で歌うJ-POPみたいなものに矮小化しちゃったのは著者の勝手な解釈である。

 
「要するに、ピースボートは特に「セカイ型」と「文化祭型」の人に対して、ムラのようなコミュニティを作った。それは一部の人が期待したような世の中に反抗するような集団ではないし、社会運動につながるようなものでもない。なぜなら、「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。
 
 つまり、「承認の共同体」は、労働市場から体制側から見れば「良い駒に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか」(p.265)
 
―だからねー、さっきも言いましたけどね。ぽりぽり。
 たぶん、現代の非正規労働化、ブラック企業化というのは、「社会全体で、いわば大人世代が若者に与える承認のパイが縮小した」という現象なのだ。生身の若者たちにとって取り分が少なすぎるから、自分らの世代の中でなけなしの承認を回さざるを得ない。それが、ここに現れるような負け犬の遠吠えのようなゴールデンボンバーの歌のような「情けない承認イメージ」になってしまう。
 それは承認の責任ではないっつーの。イケメンさんだけどおばさんは厳しいよ。

 どうも見てると、土井隆義氏が「承認悪玉説」「昔の人はもっと自律的だった説」の先鞭をつけ、それに便乗して、本来の承認の意味をよく調べもせずに悪者扱いして使う人が学者さんでも増えた、という系譜のようにみえます。土井隆義氏元凶説。土井氏って本当は内発と自律論者なんじゃないの。いや本当はどうなんでしょうね。あまりこの問題に深入りしたい気もしないんですが、もしお詳しい方がいらしたら、ご教示ください。


 ああ鬱陶しい、このひとたちに触ることもわたしにとっては「汚れ仕事」だわ。



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 えー、せっかく加東市商工会様で幸せなセミナーをさせていただいたのにね。返す刀で憎まれ口叩くわたしは罰当たりな女です。

あ、こんなにブログでは毒舌吐く女でどんな恐ろしいセミナーするんだろうと思われるかもしれませんがセミナーではすごく優しい先生キャラです。(^_^)v

 でもね、論破すべきは論破しないといけない。3時間のセミナーではごくわずかしか伝えられないのだが、受講された方がこのあたりの文献に触れてしまうととたんにそのネガティブなトーンに「かぶれる」可能性がある。「あのセミナーは、こういうのを読んだことのない人のきれいごとなんだわ」と思っちゃう可能性がある。

 それくらい、田植えをしてから害虫駆除を念入りにやらないといけない時代です。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 

 
 


 さて、今日の記事は正田のアホみたいに真面目な性格が書かせる、1つ前の記事についての補足です。


 1つ前の記事「ある少女の転落と『承認』、それに学校の役割―『人間形成と承認』をよむ(下)」では、ヤニカというドイツ人の少女の非行に至った過程に「承認欲求」と「承認の不在」がどうかかわったか、というお話を書きました。


 こういうお話は世間にごまんとあるはずで、ひょっとしたら承認欲求の極端に強い性格が犯罪とか非行に関連づけられる、なんていう結論がいずれ出るかもしれません。

 いっぽう。

 当ブログでは従来あまりご紹介しなかったタイプの話なのでそこそこインパクトはあったかもしれませんが、やはりこのタイプの話を紹介することは誤解を招くおそれもあり、今後はちょっと控えようかと思います。


 といいますのは、何度も書きますように、2011-13年ごろに出た世間の「承認欲求本」で「承認欲求」と「若者の非行」を関連づける言説というのは既に出尽くしたぐらい出ているからであります。そうした書籍に出てくる「承認欲求」はグロテスクであります。

 そちら側からばかり「承認欲求」を語っていると、まるで「承認欲求」が非行に走る少年少女にだけ特有の危険な性質のもの、というふうに見えかねません。

 恐らくその文脈の上に、昨年の有名な心理学本の「承認欲求は満たされると思うな」という、悪者扱いしているかのような記述があり、それを読んだらしい人の「僕には承認欲求はありません(注:正田の観察では本当はありあり)」という言葉や態度になったのだと思われます。

 しかし、それは非常に偏った見方です。

 3つほど前の記事に書きましたように、「承認欲求」は「食欲」と似ていて、適切に満たしている限りよいものです。まれに極端に強い「承認欲求」の持ち主がいて、問題行動につながる、そういう時にだけ意識されやすいですが、本来そんな極端なものではありません。だれしも程度の差こそあれ「承認欲求」はもっていて、普通は常識的な範囲に収まっています。そしてだれにとっても、「承認欲求」は「良い仕事をしよう」というモチベーションになります。むしろ、「自分には『ない』」などと自分に言い聞かせやせ我慢をしていることのほうが、問題が多いです。それこそ問題行動につながったり、こころを病んでしまうかもしれません。

 
 ですので、「問題行動に走ったとき初めて『承認欲求』に注目する」という態度自体をやめたほうがいいのです。
 それは、まかない係の怠惰ゆえに飢餓状態に追い込んでいるようなものです。

 普通に「与える」ことを習慣化してしまえば、ほとんどの人は良い方向に行き、学業成績が上がったり有能になります。少数の例外として、ますます欲求がこうじてエスカレートしてしまうタイプの人がいるだけです。

 「承認欲求」は、決して、虞犯少年少女だけが持ち合わせているものではありません。
 この記事を読んでいるあなたにも必ずありますから、安心してください。
 

 なので今日の記事はほとんど、3つ前の記事「長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について」の焼き直しのようなものですが、

 「ヤニカ」の事例のインパクトのために、このブログが慎重に避けてきた「承認欲求」に関する誤解を招いてしまうと非常にもったいないことになるので、あえて再度この記事を書きました。


 「承認」は、「普通に」与えましょう。「与える承認」は非常に大人の行為で、美しいものです。

 欠乏状態は異常なので、つくらないよう努力しましょう。また、常識的な範囲の「承認欲求」をやせがまんすることもやめましょう。
 



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与



 追記:
 でもまた思いました、
 正田は時々立ち回り先で人様からひどいことを言われることがあるんだけどあれはどういう心理なのだろう?と考えたとき、その人は「ヤニカ」の状態なのだなあ、と思いました。自分を承認してくれない学校を全否定しているのだなあと。
 正田が象徴する「承認」の「学校」のような世界では、「承認」の実践者のマネジャーたちが奇跡のような成果を手に入れ、かつ正田から心からの賞賛を受けます。
 「承認」の実践者でない人はそのような賞賛は得られません。実践者がもらう賞賛の甘美さを知っている傍観者の人たちは、そこで「承認されない」気持ちを味わいます。学校で「ダメ生徒」のレッテルを貼られたような。あるいは「その他色々」に分類されたような。
 そこで、その人たちは自己イメージを守るために、「学校」や正田を全否定することで仕返しをするのです。
 正田なんにも悪いことしてないのに。
 そういうことが続いてきたから正田は疲れちゃったんだなあ。
 
 こういう読み解きのツールになるから、「ヤニカ」のエピソードがあったことはわるくないですね。


 本業(のお勉強)に戻ります。


 このところ思うのは、

「承認欲求―承認―ナルシシズム」の関係は、「食欲―食事/栄養―肥満」に限りなく似ています。

 適切に与えている限り、いいもの。不足すれば栄養失調になってしまいます。
 まれに食欲のコントロールができない人がいて、むやみに摂取して肥満や成人病になってしまうこともあります。

 でもそういう個体の人がいるからといって、食事/栄養が大事なものだということを否定できるわけではない。それは極論です。不足することのデメリットのほうがはるかに大きい。


 そんなことを考えるのは、このところ「承認研修」でも新しい試みとして、宿題を出すときに「部下の行動変化までみてください」ということを言っていて、
 するとわずか1週間の期限の中でも

「よりすすんで他の人のフォローをしてくれるようになった」
「仕事の問題点について意見を言ってくれるようになった」

などの部下のプラスの「行動変化」を観察して、報告してくださるのです、受講生さんが。

 なので、「ご飯を食べたりサプリを飲んだらより健康的になって活動的になった」というぐらいか、それ以上のはっきりした変化が短時間でうまれている。ご報告がウソじゃないとすると。


 そうすると、なんでこんなにはっきり有効なものが今まで発見されなかったか?という話になりますが、

 やっぱり「モチベーション」を学問とか理論として語る、学者さんやコンサルタントさんと、組織の末端の人たちの人格や立場の違い、ということを思います。


 「人格の違い」ということでいうと、学者さんやコンサルタントさんでそこそこ有名になった人たちは、「自らを恃む」気質が強い。いわば「外発、内発」の分け方でいうと、「内発的動機づけ」の力が強く、「自分の功名心」とか「克己心」のためにがんばる。相対的に、他者との人間関係で一喜一憂する傾向は弱い。「ない」のではなく「相対的に弱い」だけなのですが。

 ほんとうはこの人たちも、親ごさんに喜んでもらったり尊敬する師匠に「OK」をもらったり、と嬉しい「承認」の場面はあるにはあるのですが、この人たちのプライドが、「自分の原動力はそれなのだ」と思うことをゆるさない。

 また立場の違いでいうと、そこそこ有名になった学者さんやコンサルさん、という立場ですと、「〇×先生」と人から呼ばれ、すでに「社会的地位からくる承認」を受けているのです。 

 「承認」は決して「ほめる」といった、「狭義の承認」だけを意味していない。会社勤めの人なら、朝来て「おはよう」と言ってもらったりちょっと話しかけてもらうだけでも広義の「薄い」承認は受けています。また地位役職からくる「名誉欲」を刺激するタイプの「承認」もあります。

 学者さんは、「自分はほめられなくてもいい」と思っているかもしれないけれど、実は「先生」と呼ばれたり相応の扱いを受けることにはものすごくご執心だったりする。うちの近所の大学にも、学内で他の人がイベントをするのに招待されないと、あるいは開会あいさつの役割を振られないと、すごくふくれる「めんどくさい」ので有名な先生がいます。それも要は「承認欲求」なんです。そうした大人げない振る舞いをみる限り、むしろその人たちにとって「根源的」なことだ、と思います。


 ともあれ、感情認識能力の弱い学者さんコンサルタントさんがどう思うかに関わりなく、「承認欲求」は根源的なものです。
 適切なやり方で満たしてあげる限りいいもので、元気になれます。また、有能になります。(当協会で「行動承認」という言い方をこのところよくするのは、その「適切に満たす」ということを意図しているからです) 逆に不足するとこころを病んでしまったりもします。
 また性格的に「過剰摂取」になりやすい一部の人については―、確かに「めんどくさい」です。ただそれは全体のメリットからいうと副次的な問題です。

 そして、一般に組織の末端のほうにいる人たち、何の地位もない若い人や、またわが国においては「承認されない」傾向の強い女性たちにとって、「承認」が供給されることはどれほどの恵みの雨か、こころの栄養になるか、は社会的地位の高い人たちにとっては想像を超えているでしょう。


 「承認中心コーチング」(近年では「承認マネジメント」ということが多い)が過去10数年にわたってコンスタントに成果を挙げ続け、今も宿題ではっきりした「行動変化」を作り続けるのは、要はそういうことだと思います。


 そして、これほどに本来「根源的」であるものが、一般にはまだそうと位置づけられないし適切に供給されないということが、わたしの心には繰り返し悲しみのもととなります。


 今も「ほめない子育て」「ほめない教えない部下育て」のような文言が大手新聞社のメルマガで入って来て、ほめるはあくまで狭義の承認だけど「承認欲求」自体をを否定すると弱い立場の人が可哀想だ、とそれをみてわたしなどはおもっています。ほめるはダメで勇気づけだけはいい、ということの根拠が全然わからない。(勇気づけもご存知のように「承認」の一形態です。わるいものではないがそればかり単独で使うとちょっと危ない)こういう「食事/栄養」のような大事な問題であれもこれも言って振り回すのは正直やめればいいのに、と思う。

 栄養学みたいに、はっきりとスタンダードなところがあるのが、こういう問題は正しいのではないか、それと「バナナダイエット」「納豆ダイエット」みたいなことは切り分けたほうがよいのではないか、と思います。


 さて、この記事は久しぶりに「ヘーゲル承認論」を書こうと思ってそれの前振りのつもりで書いていたのですが、ここまでで既に長くなってしまいました。


 現代ドイツの教育学で「承認論」を使ったアプローチが隆盛のようです。次回はそれの読書日記を書こうと思います。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

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