正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ: 教授法へのこだわり(人に教えるということ)

 このブログの友人、佐賀県の研修業Training Office代表、宮崎照行さんから、「教育困難校における承認の重要性について」という原稿をいただきました!

 もともとは、わたしがKindleで『行動承認』の続編、『行動承認第二章』を書くにあたって宮崎さんに寄稿をお願いしていたのに対しこたえて送ってくださったもの。

 宮崎さんはこうした「教育困難校」でのマナー講師で既に8年のキャリアを持ち、その5年目にして心境の変化で「承認」のマナー教育に転換されたそうです。すると起こったことは…。

 図々しいお願いで、Kindle掲載前にブログでの掲載もお許しいただきました。宮崎さん、感謝!

 かつてわたしは宮崎さんのご経験を伺い、「この手法は、社会を建て直す力のあるものだと思っているんです」などと、大言壮語を吐いたのでした。それにしてもこうして新たな担い手の方が出てくるのは嬉しいことです。論理的で内省的な宮崎さんの言葉で、新たな「承認ワールド」を体験していただきましょう。

 若い人が伸びる風景を想像するだけでワクワクするという読者の方にお勧め!「教育困難校」もそうですがすべての教育関係者のかたに届くことを願って、お送りします。

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教育困難校における承認の重要性について

宮 照行


 教育困難校(高校)におけるキャリア教育やマナー指導で大切なものは何かと問われたら、真っ先に答えるとするならば「承認」だといえます。
 教育困難校とは、はっきりした定義はありませんがさまざまな背景や問題を抱えた子どもが集まり、教育活動が成立しない高校のことです。私は高校生の職業意識を育てる「キャリアガイダンス」のマナー講師をしてもう8年になります。そのなかで教育困難校にも数多く足を運びました。
 こうした高校の生徒の特長として挙げられるのが、低い自己効力感です。
「就職するために、最低限のビジネスマナーを身につけておかないと面接を乗り越えることもできないし、就職しても苦労するよ」
などと言って動機づけをねらうのですが、生徒からは
「なんでこんな面倒くさいことをやらなければいけないんだよ。うざいな。やっても無理だよ」
というような、半ば投げやりの言葉が返ってきます。限られた時間の中で指導しなければならないので、この状態の生徒に指導することは困難を伴います。

 そこで通常ならば、『相手を承認する』という概念がなかった私や多くの講師は次のような指導方略をとります。

「屁理屈言わずにやってみる。私に合わせてやる! ダメダメ!何でできないかな?真剣にやっている?真剣にやってないからできないんだよ。ほら、真剣じゃないという証明が服装や髪型にでもでている 。」

 いわば喧嘩腰ですね。情熱と力でねじ伏せようとします。講師初心者や講義を形式的なテクニックで乗り越えようとする講師が陥りやすい罠です。

 しかし、このようなやりとりが続くと自己効力感の低い生徒は、ますます自信をなくししやる気がそがれてしまいます。最悪の場合、低い自己効力感が更に強化されるという状況に陥りました。本来、教育や研修では、知識や技能を習得するだけでなく自己効力感も高めるという目的もあるにも関わらず、全く持って逆効果の状況に陥ります。私自身、過去の指導方法では相手のことを思いやらずに形式だけを重んじていましたが、一向に思うように指導ができませんでした。

 そもそも、講義もコミュニケーションの一環だとすると相手の気持ちを考えずに一方的に押し付けてしまうことはコミュニケーション同様、うまく機能することができるのだろうか?ふとそうという疑問が生じ、思い切って『相手を承認する』という前提を取り入れた指導を目指すようになりました。

 『相手を承認する』という方法はいろいろと考えられますが、私にとって『相手を承認する』とは、一つには教える内容の質を徹底的に高めたり、相手のことをしっかり把握したりすることが必要ではないかと思っています。講師として教える内容の質を高めたり、相手のことをしっかり把握したりすることは、それこそ相手を承認している結果です。形式的な指導は相手を軽んじているような気がします。このように指導に承認の概念を取り入れることによって、下記のような変化が起こりました。

「なんでこんな面倒くさいことをやらなければいけないんだよ。うざいな。やっても無理だよ」(生徒)
「そうだよね。面倒くさいよね。でもさ、面倒くさいというのは、ただ慣れていないからそう思うんだよ。スポーツやゲームなどもそうだけどさ、最初はうまくやれないよね。全部を完璧にやる必要はないんだよ。少しずつチャレンジしてみようか!」(講師:私 )

 ここで大事なのは、相手の思いを講師側が素直に受け取ることです。逆に相手の思いを否定したり遮断したりすると、特に自己効力感が低い生徒はそっぽを向いてしまいます。

 次に実際に実演をさせます(例えば、挨拶)。しかし、1回目の実演で大きな声ではっきりと出せません。もう1回やってもらいます。間違いなく1回目より2回目のほうがしっかりできています。ここでこのようにフィードバックを行います。

「気持ちいい挨拶だね。やっぱり大きな声ではっきりとした挨拶をしてもらうといいよ。やればできるじゃん。姿勢も1回目よりも綺麗に伸びているよ。だから挨拶をされたほうは ものすごく気持ちいいんだ。もっと、僕を気持ちよくさせてみて」

 1回目でダメ出しをするのではなく、必ず2回目に何かしらのプラスの変化があるので、そこを具体的に指摘することで更にチャレンジしようとする気持ちが生徒側に芽生えてきます。慣れていないことを行うので、当然、修正点もでてきます。ここですぐにダメ出しを行ってしまうと元の木阿弥です。修正点を矯正するために私は

「もっと相手をの喜ばせてみようか。背筋をしっかり伸ばして、喉の奥から声を出すイメージで声をだしてみると、クリアな挨拶になって相手はもっと喜ぶよ 」(私:講師)
(生徒の実行後)
「ああ、いいね〜。やればできるじゃん。」としっかり私の感想を述べます。

 「相手を喜ばせる」これも、私が発見した生徒の中の「承認を求める気持ち」でした。相手を喜ばせることで相手に受け入れられたい。つまり承認されたいという本質的な欲求が生徒の中にあるのです。

 このようなやりとりが続いていくと、私と生徒には信頼関係が生まれてきて、指示に素直に従うようになります。ここまでくると伸びしろの大きい彼(彼女)らは、こちらがビックリするほどうまくできるようになります。そして、研修終了後、

「大きな声で挨拶するなんて、面倒くさくてはずかしかっただけで、やってみたら何ともなかったです。相手も喜ぶことなんで自分からチャレンジしてみます」(生徒)

という言葉をいただきます。こういう言葉を貰うと実に講師冥利につきます。

 私のような外部講師は彼(彼女)らにとっては異文化の人間だと思われています。彼(彼女)らの特徴としてもう一つ挙げられることは、牋枴顕修紡个靴討侶找感がすごく強い“ことです。だから、話を聞いていない素振りをしたり、あえて茶々を入れることでふざけてみたり することで、異文化の私たちの反応を試そうとします。私自身、これらの反応は警戒感の表象であると考えています。

 では、警戒感の強い生徒さんに対して異文化を理解してもらうためには、何が必要なのか?私は文化間の橋渡し役になる信念や行為は「承認」だと強く認識しています。ここで注意していただきたいのは、「承認」が行為レベルにとどまらせずに哲学・信念レベルまで達していることです。行為レベルに留めてしまうと、「承認」は人を動かすためのアルゴリズム的で薄っぺらな方略だと誤解されかねません。生徒とのやりとりの会話をご覧いただくと簡単にやっているように思われますが、形式的に相手を褒めたり、フィードバックを行ったりすると、特に教育困難校の生徒は異文化に対して警戒感が強いために、相手が真剣なのか表面的なのかということを簡単に見破られてしまいます。だから、哲学・信念レベルまで「承認」の必要性や重要性を認識しておかなければなりません。

 そして、抽象的なフレーズではなく具体的に。抽象的フレーズでは解釈が必要となるため、生徒たちにとっては間があきます。具体的かつシンプルに伝えることで、講師と生徒とのやりとりのリズムが中断されることがないことが効果を発揮しているのだと思います。
 そのため、講師自身素直な気持ちになって、少しの変化も見逃さないように真剣に相手を見なければなりません。

 「承認」は、低い自己効力感によって異文化に対する警戒感が強い人たちにとって、安心感をあたえる効果があるのではないかと考えています。それは、承認されることで、異文化における彼(彼女)ら自身の犁鐓貊蝓箸鮓つけることができます。居場所が見つかれば、チャレンジ精神も生まれ、フィードバックによる強化も効果を示しパフォーマンスが驚くほど向上していきます。根底に相手を承認するという信念をもって指導すれば、負のフィードバックも素直に受け入れてくれます。
 彼(彼女)たちにとって異文化の人間である私たちが承認を与えることで、将来の芽目を摘まないようにすることが私たちの責務ではないのだろうかということを念頭におきながらキャリア教育にあたっております 。(了)

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 「承認は人間の行動・文化・発展の『胚細胞』ではないか」という宮崎さん。

 というのは、きっといかようにも成長し、変容し、つながりあっていく驚くべき生命力をなぞらえて言われたのでしょうか… 現にそうした現象を眺めてきたわたしには、自然と受け取れる言葉でした。

 宮崎さん、ありがとうございました!

 このブログの「友人」である佐賀県のTraining Office代表、宮崎照行さんから、嬉しいメッセージをいただきました。
 いつか、宮崎さんと対談しよう、とお約束して、延び延びになっていました。今回のメッセージはちょうどわたしが「講師としてのありかた」について書いた記事について宮崎さんが応答してくださったので、ブログとメッセージで宮崎さんと正田が対話させていただいたものとしてみていただけると嬉しいです。

 長いメッセージです。


 以下、わかりにくいかもしれませんが地の文が宮崎さんで、引用形式になっているところは正田の去年8月のブログ記事です

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4月29日付のブログ拝見しました。
私のことを書いていただきありがとうございます。

さて、29日付のブログで「教授法のこだわり―人に教えるということ」カテゴリーを推奨されていましたので、改めて再読いたしました。

その中で2015年8月4日付ブログでは大変考えさせれる点がございました。

(注:「反転学習と『正田のキャラ決め』と『経験から学ぶ』ということ」)


「管理職に教える」という仕事の要請上、過剰に「情熱的」なあり方ではなくニュートラルでなければならない


 まさしく同意です。白状いたしますと、私も講師業初心者の時期は「情熱的」でした。それは私の表層的な知識しか持ち合わせていないことを隠すための方略でした。断言することはできませんが、自信のなさを取り繕っている姿ではないかと感じるようになりました。


正田は淡々とニュートラルなあり方をたもちます。それが「自信のなさ」と受け取られるリスクがあっても。


原理原則を大事にされ、お伝えされる構造がしっかりしていれば(論理の飛躍がなければ)、自信がないように解釈されることは少ないと思います。


私も「変にテンションが高い」人を見ると引いてしまうタイプです。往々にして
「変にテンションが高い人」は論理の飛躍が見受けられる。その要因は、
”汁愿な知識しか持ち合わせていない
⇒諭垢雰亳海魍鞠芦修掘概念同士をうまく構造化できていない
テンションをあげる代償として講師としての自分を客観視することができていない
などが挙げられると考えています。
私の性格が悪いかもしれませんが、「変にテンションが高い人」に対してはツッコミを入れたくなる性分です(笑)

これまでの膨大な管理職たちの実践経験をアーカイブとして引っ張りだしたり、神経化学物質や遺伝子学、脳科学の知識まで援用しながら伝える、ということもします。
そして膨大な情報を取捨選択したすえに「この教育」「この方式」の妥当性がゆるがない、というわたしの確信を伝えていきます。


この箇所はものすごく大事です。(ブログを拝読した際、何度頷きましたことか!)
私が原理原則を大事にされているとご指摘したのは、まさにこの点です。


研修で用いられる手法は数多ありますが、多くの講師は摘み食い状態です。だから、研修に深みがなく行動変容もままならず、研修自体がイベント事で終わってしまう。また、高いテンション一辺倒の講師が生まれる土壌を育む。


コンサル業界には数年前の一時期「OJE(On the Job Experience)」という言葉が流行ったことがありました。これは「OJT(On the Job Training、昔ながらの「技能伝承」に近い、上司部下、先輩後輩間の「教える―教えられる」の関係)などもう古い、上司先輩の持っている知識は陳腐化し現代には通用しなくなった、これからは人から教わるのではなく経験から学ぶことだ」という考えからきていました。


2000年代に入り経験学習が持て囃されました。これ自体は何ら新しい学習手法ではありません(ジョン・デューイが1930年代に提唱した教育哲学)。

「教える」という従来のインストラクションの効果に疑問を持っていた方々にすれば、OJE・経験学習は斬新な手法に映ったこと思います。二元論的な問題解決方法に落とし穴があるように「こっちがだめだったから、あっち」的な考えではうまくいくことはできないでしょう。

もし、OJE・経験学習を導入するならば、「これらの学習手法は自身のパラダイムを確認したり、変更したりする際に多くな力を発揮する手法です」という基本概念をおさえておかなければなりません。だから、ものすごく高度な学習手法なんですよね(安易に近寄ると火傷をします)
そのためにも、何が必要か?それが次の文章です

「承認研修」のなかではしつこいぐらい「自己理解、他者理解」

まさしく自分や相手のパラダイムを確認する作業です。

そして最後の部分ですが、

「傾聴研修」の中では、「話を聴けないのはどんなときか」のくだりで、「先入観の罪」の話をします。「学びの場も『聴かない態度』をつくってしまうことがあります。こういう研修で教わったことがすべてだ、と思って現実に起きていることを軽視するようなことはしないでください。わたしもじゅうじゅう気をつけて慎重にお伝えするようにしていますが、みなさんももしこの研修でお伝えしたことと現実が一致しないことがありましたら、とりあえず現実のほうを信じるようにしてください」というお話をかならずします。


「傾聴」もテクニカルな部分だけに照準を合わせた研修が多かったもので、変な方向にいってしまいました。傾聴は自分や相手のパラダイムを確認するための行うものです。だからこそ、真剣に耳を傾けなければパラダイムは浮かび上がってはきません。「先入観の罪」はまさしく「推論の梯子」の概念だと思います。このことを理解していないとOJEや経験学習が上手く機能しません。もし、OJEや経験学習を効果的なものにするためには、

「‐鞠Б傾聴→3鞠芦就ぅ僖薀瀬ぅ爐旅渋げ就タ靴靴さい鼎や変容」のシステム構築が必要になってくると思います。メッセージでは図式ができないのですが、この流れは、ピラミッド型を想像して頂けるといいかと思います。つまり、いくらテクニカルな手法で「新しい気づきや変容」を喧騒しても、,ないと何も始まらないということです。

だから、OJEや経験学習がちょっと下火になってきたのは、この流れを理解できなかった(理解しようとしなかった)からではないかと思います。このことから安易に手を出すと火傷をすると指摘した要因です。


長々と思いを述べてきましたが、本当に学ばさせていただきました。
このブログより、私の考えが整理できたことは幸甚です。数多ある講師養成本と比較するまでもなく素晴らしいものです。

ただ、残念なことですが、ご指摘されているように出版業界の質が下がっています。骨のある内容よりも「チョチョイのチョイ」的な内容が出版されるという悪しき流れがあります。

それに影響され「チョチョイのチョイ講師」が蔓延っているという残念な状況です。
この悪しき流れを食い止めるためにも、一人でも多くの「本当の講師」が誕生できるように私も研鑽を積んで、いろんなところで発信していきたいと思います。

―感謝―


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・・・という、宮崎さんからの身に余る承認のお言葉でございました。

 この「教授法のこだわり」カテゴリの記事は、だれが読んでくれるという当てもなく、ただ書き残していれば死後にでもだれかが読んでくれるだろう、ぐらいのつもりで書いていた文章なので、生きている間にこんなに真剣に読んでくださる方が出てきて感無量でございます。

 白状すると、わざとハードルを上げるつもりで書いております。去年ぐらいまで、「承認を教える講師になりたい」と言ってくる人に多数お会いしましたが、残念ながら合格点を差し上げられる方がいらっしゃいませんでした。せめて、わたしが読んできた本の5分の1ぐらいは読んでよ。そして、自分が「承認を教えたい」という動機はなんなのか内省してみてよ(ナルシシズムではないのか自問してみてよ)いやこんな言葉は不遜にきこえるでしょうが、そういう方々なんです、ほんとに。
 そういう軽い気持ちで「講師になりたい」という方に断念していただくための記事です。もちろん書いていることは本当です。

 宮崎さんも、たぶん同じようなことで悩まれたことがあるのでしょう。


 宮崎さんは、たぶん概念化ということについてわたしより優れている人だと思うのですが、そういう宮崎さんに「承認」が見込んでいただいたということは、わたしの思いもよらないような理論的意義づけを今からどんどんしてくださるでしょう。

 見る人がみたら、例えば経営学・組織論にはリーダーシップ論・組織行動学・組織学習論など、何十ものカテゴリがあるわけですが、それらのカテゴリ1つ1つから視点を変えて新たな理論的意義づけが出てくるかもしれません。そして宮崎さんの言われるように、すべての基礎に「承認」があります。どんな高度なかっこいいことを言っても、そこがなければ絵に描いたモチになります。逆に「承認」がすべての基礎だ、ということを押さえている研修プロジェクトなら成功します。「承認」の上にどんどん高度なことを載せていけます。


 わたし以外のかたがどんどん理論化してくれる。
 わたしはどこからそれをみることになるかなあ。


 なんか、もう「安心して目を閉じられる」というモードになっているかんじですね。。。


 ともあれ、宮崎さん、ありがとうございました!!
 成人に対してほんとうに指導力のある優れた講師が宮崎さんのもとからどんどん輩出されることを祈ります。


 宮崎さんが最近開設されたブログ

Training-Office’s blog

http://training-office.hatenablog.com/

第1回記事は
「成人研修講師に突きつけられた課題」
http://training-office.hatenablog.com/entry/2016/04/22/160204

『講座スピリチュアル学第5巻 スピリチュアリティと教育』(鎌田東二企画・編、ビイング・ネット・プレス、2015年12月)を読みました。
 西平直、上田紀行、中野民夫ら豪華執筆陣。「『スピリチュアル学』とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう」と「はじめに」(鎌田東二)にあります。

 正田はこの本の第二部「教育と贈与的他者性とわざ」の伝統芸能の中のわざの伝承の項に興味をもって読み始めたのですが、ほかのパートにもわたしの仕事的に重要そうな記述がたくさんありました。―あまり期待しないで読みはじめた本に多くの発見があるというのは、この歳になって心楽しいことであります―

 また、従来「スピリチュアル大嫌い」の方針で来ていますが、この本で扱う範囲の「スピリチュアリティ」は許容範囲だ、ということにいたしましょう。

 当初のお目当てだったパートを最初に、続いて他のパートからも順に抜き書きをさせていただきます。(引用部分太字)

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◆わざの臨床教育学に向けて―「できる」と「できない」をつなぐ身体(奥井遼)

淡路島を本拠とする人形浄瑠璃の一座、淡路人形座を舞台に、わざの伝承における教え手と学び手の身体の変容を考察しています。3人の人形遣いが一体の人形を動かす、新人は「足遣い」から始め20年以上かけて「頭遣い」になっていく世界。

伝統芸能におけるわざの稽古の現場は、「阿吽の呼吸」や「名人芸」など、とかく神秘的な色合いとともに語られることが多い。しかしながら本稿が光を当てるのは、むしろ華々しく表象化された言説の中でかき消されてしまうような、現場において生じている名もない試行錯誤のやり取りである。彼らの経験は、(略)型の習得に挑んで失敗したり、人形の振りを忘れてしまったり、身ぶり手ぶりを駆使してかろうじて会話し合うような、ままならなさに満ちている。こうした等身大のやり取りに着目することで、習慣的な動作を脱してわざを身につけ、一人の人形遣いになっていくという困難で奇跡的な出来事が見えてくる。(p.205)

 ベテランの人形遣いたちはすでにわざを身につけ、舞台に立っています。身につけたわざを自明のうちに駆使し、わざを同じ程度身につけている人形遣い同士の会話は極めて円滑です。
 だが稽古の時間は違う。とくに、新人がはじめての動きを習得するときや、ベテランが未知の振りに挑戦するようなときがそうである。それまでにやったことのない振りに出くわし、当人の身体がついていかないという事態が起こるからである。このとき稽古の場に居合わせた人たちは、「できる」身体に立つか「できない」身体に立つか、乗り越え不可能な差異に直面することになる。(p.207)

―「できる」人と「できない」人の差異。これは当然、研修講師としての正田と初めて受講する受講生様との間にも横たわっています。また受講後の人とそうでない人との間にも。不思議なもので、「承認研修」は恐ろしく単純なものなのにその前後で大きな段差をつくりだします。そのことは過去に本を書く時にも事例セミナーをやる時にも、つねに課題となってきたところです。とにかく「できる」人たちに見える世界がそうでない人のそれとは違いすぎ、話せば話すほどリアリティがなくなってくるのです。それは余談です。


 すでにその振りが身についている人は、身についていない身体には戻れないし、振りが身についていない人は逆に同様である。ここに教え手と学び手とが誕生し、両者が協力しあって「できる」身体を導く共同作業に挑んでいくわけである。ここで彼らの身体は、身ぶり手ぶりを尽くして、もがく。…この、もがいたり手さぐりしたりするような動きこそ、「概念化される以前の生」の躍動のひとつである。(同)

―もがいたり手さぐりしたり。実は、「承認研修」はこのプロセスをある程度自動化してしまっていますが、つまり「こういう論理展開でこれぐらいの体験をしてもらって、講師の話し方はこんな感じで」というさじ加減をレシピのように決めてしまっていますが、際限なく「これで本当にいいんだろうか」と迷いがわきます。
 今後あるかどうかわかりませんが、「承認」講師志望の方が徒弟制で真摯に学びたい、と言ってこられたとき、こうした「もがいたり手さぐりしたり」の場面があるかどうかはわかりません。上記のレシピを何も考えずにコピーしようとする人も出てくるかもしれないが、ちゃんと考えてほしいものだが…。

―たとえば、‘遣い(教え手)は足遣い(学び手)に自分の動作をゆっくり行って合わせてもらおうとしたときに、不意に自分の動作を忘れてしまう。(「分からへんようになってもうた」。)そして(自分の動作でなく)人形自身の動作をやってみることで、自分の動作を取り戻そうとする。
△△襪い蓮言葉での指示に限界があることがわかると、頭遣いは人形の足をつかみ、動作を分節しながらやってみせる(直接的な介入)。
あるいは、足遣い(学び手)の誤った動作を先輩(教え手)がやってみせたうえで、「こうでなく、こう」と正しい動作を教える。足遣いは、それでも自分のどこが失敗した動作なのかわからない。「こうですか」と自分でもやってみせ、それはやはり違うことを指摘されてはじめて教示されていたことの意味がわかる。(いわば「できる」教え手たちと「できない」学び手とのやり取りは、足遣いCによる積極的な探求によって、足遣いCの「できない」を共同的に析出することによって成立した。pp.223-224)

 手本とは、教え手たちの連携のみによって呈示されるものではなく、それを受け取る学び手からの働きかけを得ることによって、すなわち、送り手と受け手が共同的に探り合う中で、はじめて手本として成立されるといえよう。(p.219)

 総じて教え手たちは、正しい振りについて熟知していたとしても、それだけで学び手を導けるわけではない。反対に、学び手にとっても、いかなる仕方で自分の身体を動かせばよいのかを、動かす前から知る術はない。稽古とは、あらかじめ行く先の見えている道をひた走るような活動ではなく、互いの身体を少しずつ変容させ合うような、教えることも学ぶこともそこから「引き出される」ような、「どちらが創始者だというわけでもない共同作業」であって、道を切り開きながら進むような歩みなのである。(p.224)


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 ここで正田の感慨。
 こうした「徒弟制」が、これまで「承認研修講師」の世界では成立しませんでした。学び手の側にそこまでの学ぶモチベーションの持ち主がいませんでした。
 過去に「承認の講師になりたい」と言ってきた人も、「わたしは講師になる人には厳しいですよ。スパナで殴りますよ」「徒弟制ですよ」と言われると、次に会った時からは「いえ、講師にはなりたくありません」とトーンダウンするのでした。彼(女)らは、講師育成の世界も「承認で優しく」教えてもらえる、と思っていたようでした。
 その人たちにとって、「講師になる」というのはクリエイティブな楽しいだけの作業であり、過去に自分が受講して楽しかった研修の中から切り貼りコラージュしてつくるもので、主眼は
「女子力高いチャーミングな私」
「みんなから注目を浴びる中で大事な人生訓のような『決めゼリフ』を言う私」
をやることでした。「私」が大事なのでした。
 そうじゃないでしょ。マネジャーという人生経験もあり責任もあり、また人一倍、傷つけられ経験も裏切られ経験もある人たちに対して自分の言葉を「しみこませる」というのはどれほど大変なことかわかってるの。薄っぺらな研修講師の言葉なんてすぐ見透かされるよ。ロジカルにつながってない話も見抜かれるよ。(心の声)
 ―まあお客様でも、特に直接の購買担当者の人たちは往々にしてそのへんのことわからないで、底の浅い商品ばかりお買い物するのですけどねー。
 そういうレベルの品質の話をできる人にこれまでお会いしたことがなかった。これからは、できるのかもしれない。少数の人と。
 NPOから財団、そして個人事務所へ。「仲間」の数をどんどん減らしてきたのは、精製したい、ということでもあります。随分読書日記と離れたところへきてしまいました。

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 それ以外の本書『スピリチュアリティと教育』で心に残った箇所を抜き書きします。

 学び始めると、これが、奥が深い。「教育」というのは「底なし」だと思わされた。どこまでいっても窮まりというものがない世界。「納得」もない。常に「反省」と「創意工夫」と「練磨」と「試行錯誤」しかない。一種の「修行」のようなものであるとも思った。それは、「真剣勝負」であるには違いない。(「はじめに」鎌田東二、p.4)

「スピリチュアル学」とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう。また大変重要なことであるが、この世界における人間存在の位置と意味についても真剣に問いかける姿勢も保持している。そのような意図や方向性を持ちつつ、心については心理学、体に関しては生理学や神経科学(脳科学)、魂については宗教学や神学といったような、従来の細分化された専門分野に限定されてきた学術研究の枠を取っ払って、こころとからだとたましいと呼ばれてきた領域や現象をホリスティック(全体的)に捉えようとしたのが本シリーズである。(同、p.7)


―次のパートは、いきなりわたしの仕事的に大事なことが出てきました。

 「自我」は大切なのか、それとも「自我」は危険なのか。自我を形成してゆくべきなのか、それとも自我から離れてゆくべきなのか。(略)
 後年、この二つのメッセージが、実は異なる「読み手」に向けられていたことを知った一方は「自我を確立する以前」の人たちに向けて語られたもの、他方は「自我を確立した後の悩みを抱えた」人たちに向けて語られたもの。(「教育とスピリチュアリティ―その関係をいかに語るか」西平直、p.19)

 ここで話を簡単にするために、教育を「自我形成ベクトル」と重ねる。むろん教育の定義としてはこれではまったく不十分なのだが、それでも一般的な意味において、子どもの「自我形成」を援助するベクトルを教育と理解することは許されてもよいだろう。「自我形成・主体形成」の支援としての教育。
 他方、それとは逆方向の「自我から離れてゆく」ベクトルをスピリチュアリティと理解する。むろんこの場合もたくさんの議論が必要なのだが、スピリチュアリティの一側面として「自我から離れる」という要素が含まれていると理解する。(略)
 ところで、この対比に、ライフサイクル(人生)の区分を重ねてみれば、人生前半においては「教育=自我形成」が大切であり、人生後半においては「スピリチュアリティ=自我からの解放」が大切であるという、分かりやすい図が出来上がる。(同、p.23)

教育とスピリチュアリティ


 さて、こうした図式的な理解において、スピリチュアリティとは、いわば、自我や主体の確立がもたらす「弊害」を警告し、その問題を解決しようとする方向性である。自我や主体は大切なのだが、しかし同時に自我は自己中心的になる。自我に縛られる時、人は、自分を中心に他人を利用し、自然を利用し、のみならず、それを当然と考えるようになる。
 そこでスピリチュアリティは「離れてゆく」ことを勧める。自分(自我・主体)を中心にすることから離れる(手放す・中心を明け渡す・letting go)。そして「関係性」を中心とする。自分一人の利益ではなく、自分を含んだ関係性の利益を中心にする。(同、p.25)

―このあたり、長い読者のかたはおわかりになりますね。「例の漢字2文字」の教育が担う領域というものが。それは上の図でいえば右側、「自我から離れてゆく」スピリチュアリティの教育に該当することをします。人生後半に行われることが望ましい教育です。
 たとえば「若手に承認研修を」というご要望に対しては(よくあるんですが)基本、お断りをしています。それはやるとすれば、組織開発で言えば最終段階です。その年代はまだ「主体確立」の教育をやる段階なのです。中年以上の人にこそ必要です。
 逆に、せっかくの機会なのであえてこういうことも書いておきますが、中年以上の人に教育をする場合、実はわが国では特に、若い頃までの「主体確立」ができてないまま中年になっている人も多いので、「承認教育」をやっても混乱が起こる場合があります。なかなか困った課題です。
 わたしが取りあえずそこでやってきたことは、まずは「承認教育」をする際に「もらう側ではなく与える側になりましょう」と念を押すこと。「承認欠乏症」でその歳まできた人が多いわけですから、ともすれば「オレだってもらう側になりたい(欲しい)」が強く出てしまいます。そこをあえて我慢して「与える」側になっていただく。ちょっと気の毒な要求ですが、第一段階ではそうします。
 思い切って「与え手」になると、意外にそれである程度充足が得られます。若手中堅がよい反応をしてくれたことで「自己効力感」が高まります。
 その段階になっていただいてから、徐々に「強み」「価値観」といった、「主体再確立」に向けたプログラムにも馴染んでいただきます。同時並行といいたいですが時間的にはそちらが「後」になりますね。
(なぜ「主体再確立」が「後」になるかというと、簡単に言うとリーダーが「ワガママ」になってもらったら困るからです。自我がぶわーっと拡張した状態の上司を部下は止められないからです。こんな簡単なこともわからずに無造作に「主体確立」系の研修を最初からリーダー研修としてすすめてしまう業者さんが多すぎます。そっちのほうが高揚感があって楽しいんです)
 ともあれ、「承認される前に承認せよ」と、リーダーに対して最初にする要求がかなり「過大」なので、「承認研修」では、「最適条件」というのをかなりうるさく事務局様にお願いします。ほんとは、毎回「決死の覚悟」でお伝えしているので、もっと評価していただきたいなあ、と思うところです。あとになると「簡単なことじゃん」みたいに見えると思いますけれど。
 ああまた読書日記から離れたところへきてしまった。

―このあとの文章では「スピリチュアリティが教育を『包み込む』」という表現も出てきます。それは、わたしがやっているような「関係構築研修」の中に「主体確立研修」を包含するような作業も言うのか、よくわかりません。

―大教室での講義がもたらす心理的作用。

 従来の大教室の講義は、その内容が最初から決まっている。そして教員はその講義内容を以前であれば黒板に板書しながら、現在の理工系の講義の多くではあらかじめ用意されたパワーポイントスライドを映写しながら説明する。大学の講義といえばこういった風景が思い返されるだろう。
 この講義で伝達されている講義内容はその科目ごとの学ぶべき内容なのだが、それがどの科目であるにせよ、ひとつの大きなメタメッセージを学生たちに伝えている。それは「自分がここにいてもいなくても、世界はまったく変化せず、同じように進んでいく」というメタメッセージだ。
 私がここにいる以前に講義の内容は決定されていて、それが粛々と進行していく。自分がこの教室にいても、家で寝ていても、同じように講義は進行していくだろう。自分自身は世界のあり方に何の変化ももたらさない。そういった世界との切断感をこうした講義は知らぬうちに潜在意識に埋め込んでいく。「あなたなんかいてもいなくても同じだ」、こういったメッセージほど魂を傷つけるものはない。(略)しかし私はここにいてもいなくても世界が同じように進行していくのならば、なぜ私はここにいなければならないのかという、存在に対する不安と無力感、疎外感は、私の青年時代よりも現代のほうがむしろ昂進しているとも言え、その中でのこの講義形態はかなり暴力的なものであるとも言える。
 もっともそこで自身の無力感と世界との切断感に気づかせ、そこからの再起を促すというのであれば、非常に教育的な講義形態だとも言えるが、しかし多くの学生はそこまで至らず、単に「自分がいてもいなくても世界は変わらない」という世界からの切断と自身の無力感にとどまってしまうのではないか。さらにそれは後述する「物事には決まった正解があり、それを学ぶのが学問であり、その正解を求めるのが評価される道である」という、極めて非創造的な学問観に容易につながっていく。(「大学全体の教養劇場化を目指して」上田紀行、pp.45-46)


―いかがでしょ。「大教室方式」がつくりだす「いてもいなくても同じ」感。筆者はすごい雄弁に叙述しますがその通りと思います。これも「例の漢字2文字のやつ」とつなげて考えると良さそうですね。
 いらっしゃるんですよね、50人とか100人とかの大人数集めて盛大なかんじの研修をやるのがいいことだ、と思っている方が。しかし「承認研修」はそれは馴染みません。「承認されてない」感覚満載のなかで「承認」を学ぶという、ねじれ現象になります。結果、大多数の人の「学び逃し」を作り、貴重な機会を逸してしまうもとになります。こういうのはもう技術の世界のセオリーなどと一緒で、厳密に決まっているものです。

―上田氏によるリベラルアーツ教育の「4つのC」。
1.コミュニケーション:伝える力。
2.クリエーション:哲学書(それ以外の書も?)を読んで「自分はどのように成長していくのか」「自分を深めていくのか」「未来をどういうふうに切り開いていくのか」「どのように世の中をよりよきものにしていくのか」を考える創造性をもつこと。
3.コミットメント:「関わる力」。評論家のようにただ言っているだけではダメ。
4.ケア:学生自身が、自分の周囲にいる人がよりよく生きていくことをサポートする能力。(同、pp.52-54)


―気づきの教育について。
 ここは過去にマインドフルネスについて書いた記事とかなり重なりますが、大事なことなので引用しておきましょう。

 ホリスティック教育のなかでは、スピリチュアリティにかかわる取り組みとして観想的実践に大きな比重が置かれている。しかし、それは観想教育でしばしば強調されるような、身心の健康増進のためのスキル学習というものに留まらず、むしろ人間のホリスティックなあり方を実現するための主要な実践として位置づけられる。
 日常生活において人間の行動は、そのほとんどが習慣的なものであり、とくに注意や気づきを要することなく自動的に生じる。そのさい意識はいわば半覚醒状態にあり、ほとんどたえず思考活動に同一化しており、ときおり感情や目立った身体感覚が生じたときには、それらに同一化しやすい。そのような状態では、思考や感情や感覚への無自覚的同一化と、それらに対するパターン化された反応としての断片的行動が継起している。これに対し、観想的な気づきの実践は、非難や評価をまじえず、自分のなかに生じる感覚、感情、思考に注意を向け、それらを細かく観察していく訓練である。このような自己観察は、自己を構成するものを明晰に識別して詳しく知ることに役立つ。そして気づきのなかでは、感覚、感情、思考の個別現象から脱同一化することができ、それらに無自覚に支配されることが少なくなる。観想的実践で重要なのは、気づきの意識を十分に確立し、気づきへのセンタリングが起こるということである。
 クリシュナムルティやオルダス・ハクスレーは、このような意味での気づきの教育を提唱していた。クリシュナムルティは、人間の精神が社会や伝統や宗教によって条件づけられることによって、恐怖、葛藤、苦しみ、悲しみ、暴力などが生じることを分析し、既知のものによる条件づけから抜けだす道として「無選択の気づき」や「全的な注意」を強調した。気づきを高めることによって、人間は自分の条件づけを知りそこから脱同一化し、自由で創造的で、真に英知のある存在になることができる。気づきのなかで精神の思考活動が静まると、現にそこにあるものの直接経験が生まれる。言語的思考による分節化が静まるため、境界意識は消え去り、周囲の世界に直接ふれてひとつになることができる。クリシュナムルティが「教育とは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿を眺め、それらとともに感じ、本当にじかに、それらにふれることでもある」と述べたとき意味していたのは、そのような高められた気づきのことである。(「ホリスティック教育とスピリチュアリティ」中川吉晴、pp.113-114)


―最近は「グーグルの社内教育」としてマインドフルネス研修が隆盛のようですね。これはけっして批判ではないのですが、わたし自身は過去何回か「瞑想」にチャレンジして挫折しました。研修の中ではできますが日常ではなかなか…。(ADHD気味なのだとおもいます)そういうドロップアウト群がかなり出ると思う、ひょっとしたら過半数ぐらい。「承認研修」だと、丁寧にやればそんなにドロップアウトが出ない。かつ、日常動作であるだけに、上記のような「気づき」の効用が得られる。まだだれもそうした効果を検証してくれないんですけどね。

―ベルクソンによる「閉じた道徳」と「開いた道徳」。
(ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』1932年による。「愛と自由の道徳教育」矢野智治、pp.155-157)

 うーん、感動的な文章だけど引用するのをやめよう。「閉じた道徳」よりも「開いた道徳」というもののほうが、素晴らしい模範的人物への熱中により、喜びに満ちていて超個体的な自由への欲望、絶対的な正義への欲望、…などありとあらゆる良いものを希求すると述べています。カリスマ志向というのはないんですね。あたしも家元だけど平凡な人間ですし。
 ここだけ引用しよう。「愛」について言っているところです。

 …このとき「開いた道徳」を特徴づける情動とは「愛」である。この愛は私たちが通常使用している男女の性愛の愛とも、また家族の愛や、祖国への愛とも異なる。このような愛は結局のところ、他の人々とのあいだに境界線を生みだしてしまう閉じた愛であるのに対して、「開いた道徳」を特徴づける愛は、反対にその境界線自体を溶かしてしまうものである。だからこそ先の引用に見られたように、「愛の人」の行いに私たちは引き込まれ共鳴し感動することになる。(同、p.158)


 「愛」の概念。「ホネットの承認3定義」(1)愛(2)人権尊重(3)業績評価―に関して、この定義自体はすごく良いものですが、ここでいう「愛」とすこしちがう「愛」もあるよなあ、と思ったりします。それは「承認」がカバーする範囲ではない、と言われそうですが、ホネットが、「愛」を異性愛と家族愛というところにかなり限定して使っているのにたいして、マネジャー教育をしているともうすこし範囲の広い「愛」がたしかにある気がするのです。
 実際に「承認教育」を受けて使い手になった人たちは、PTAの役員になったり地域や業界団体の仕事を引き受けたり、自分の家族や会社部署の枠組みを超えて責任を引き受けるようになるというのもよく見ます。

―ブーバーの実践。「対話」の奥にあるものは。

 まず、生徒と結ぶべき関係を一言で言えば、「対話的関係」に他ならない。ブーバーにおいて対話的関係とは、独特の深い意味で、呼びかけや問いかけに、応答することであった。子どもが呼びかけるとき、たえず十分に心を集中して耳を傾け、そのときの自分に応えうるかぎり精一杯に応答すること。それが大人の応答的な責任であり、そういった応答の交換が、「対話」の本質である。
 呼びかけに応答する対話が大切なのは、その言葉で伝えられる内容もさることながら、それが他者の存在を肯定し、かけがえのない存在として、ありのままの存在として、存在することを承認するからである。人は自分を、自分自身によってのみでは、自分が存在することの意味を確かめ証すことができない。なんらかの自己を越えるものからの「確証(承認)」によってのみ、自己を肯定することができる。(「教育的日常の中のスピリチュアリティ」吉田敦彦、p.192)


―「対話」というものも「傾聴」というものも根底は「例の漢字2文字」ですね。対話ブームというのも数年来ありましたし、昨年から今年初め、妙に「傾聴研修」がトレンドでした。メンタルヘルスチェック義務化にともなって「メンヘル対策の決定打!」とされたのかもしれません。本来こういうことは「あれか、これか」と選ぶことでもないんですが、そこでは「承認なき傾聴」というものが往々にして行われ、それは「仏作って魂入れず」のきわめて不完全で気持ち悪いものだったのです。わたしなどの感性からすれば。

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 ふー、なんとか今回はワード9ページで終わりました。
 やっぱりあたしの仕事の本筋ですからね、ええ。といっても「承認研修」の構成は別に変らないと思いますが、「なんで、こういうことをこういう形でやってるのか」をつねに新しい言葉で説明することは必要ですね。自分でもすぐ忘れちゃいますからね。


正田佐与

 ブログ開設10年、いろんな場面がありました。

 個人的に非常に苦しかった体験の1つが、「某ビジネススクールに入学してわずか1か月半で退学」したときのことです。2006年春のことです。

 途中から、「これはどうも一種異様な体験をしているぞ」と思って、その顛末をブログに書き始めました。

 カテゴリ:ビジネススクール観察記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html

 
 長い間読み返しませんでしたが、今読み返すと、
「三つ子の魂百まで」
といいますか、

 今わたしが教育上のこだわりとして持っていることの原型がこのときできたんだな、と思います。

 例えば、

「恣意的に振り回さない。勝手なルールで運ばない。後出しジャンケンをしない」

とか、

「言葉の語義を良く知らないでものを言わない。印象論でものを言わない」

とか。

(このときも、講師が出したお題の言葉の意味をちゃんと調べてそれに基づいてものを言ったのがわたし1人だったので、腐ったのでした)

 また、

「論理的思考うんぬんより前に正確な事実認識が大事。そこがきちんとできていれば、あとは職場で普通に使う『こうなれば、こうなる』というロジックのつながりでほとんどは十分思考できる。事実認識の方法を教えないまま論理的思考を教えるのは本末転倒」

ということも言っていて、これは初めてきかれる方には「???」なお話かもしれませんけれども、逆に「事実認識抜き」で架空のロジックを振り回している図を想像していただくと、それが変なのはちょっとご理解いただけるでしょうか。

 例えばハーバード大MBAで使われる「ケーススタディ」という手法。
 ある(実在の)企業の成功のプロセスが「物語風」に出され、それを元に議論するというものです。先生は正解を用意していて、このケースはこのマーケティング戦略を使ったから成功したんだ、というところに着地させるようになっている。
 ところが、実在の企業なのでそのケースについてちょっとネットで調べると、「ケーススタディで紹介されているのは『神話』で、実際にはそれとは別に『〇×』が功を奏した」なんていう話がゴロゴロ出てきます。
 なんじゃらほい。
 でも、そういうネットだけでも調べたことは使ってはいけないことになっています。
 普通は、そういうルールだと納得して従うんですが、正田は「おかしいんちゃうの?」と思いました。
 だって、あらゆる手を講じてサイド情報を仕入れようとするじゃないですか、現実のビジネスでは。

 で事実はどうだったか、というと、マーケティング戦略よりは組織論的なことが功を奏したりしてね。ありがちなことです。


 ビジネススクールを辞めて数年後、わたしは認知科学の分野の「ヒューリスティック」にはまりはじめ、その手の本を収集したり読書日記を書いたりするようになりますが、この時の体験は大きかったと思います。

 人は、どれほど願望、妄想、希望的観測で事実認識を誤ってしまう生きものか。
 その事実認識の部分をきちっと押さえないまま論理とか思考法を使用しても意味のないものか。


 また、教育を担う人の「口調」の問題。
 講師の言葉の端々ににじむ「見下し」等の悪意が、いかにその場の空気を悪くするか、学生たちの人格を悪くするか、攻撃的にするか、ということも、このときうんざりするほど体感したことでした。なので「正田研修」で「リスペクト」は絶対死守しなければならないものなのです。

 これは現在でも、「嫌悪」というのは非常に感染力の高いやっかいな感情なので、たとえば研修講師や講演業の人、経営者等人前で話す立場の人は、相当気をつけていただきたいことであります。年配の講演業の人などによく見るのは、お爺さんらしい底意地の悪さや「女性嫌悪(ミソジニ―)」の気分をまき散らしながら話す人。そういう人とは正田は決してご一緒いたしません。



 ・・・そしてその当時は家族とも同居していたので、学校を辞めるかどうか真剣に悩んで当時の家族に相談したりしているのが、ほほえましいというか笑えるというか、でした。



 というわけで、もし余程お時間のある方でご興味があれば読んでみてください:
 
  カテゴリ:ビジネススクール観察記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html

 

(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 以前の拙著『認めるミドルが会社を変える』(2010年)では、「大人に教える16か条」として、マネジャー教育のためにこれまで研修機関、講師として心がけてきたこと、取り組んできたことをまとめてみました。
 今見ると章のタイトルにもとっていないし、目立たない書き方しちゃったなあと思います。

 このところの「研修内製化の波」それも『行動承認』出版後に「オレも承認の講師になれるかも?」と思われたかたのご参考用に、再掲しておきたいと思いました。

 その16か条とは・・・

^貭螳幣紊慮修時間数、継続性、期間を確保する
△罎辰りした丁寧な講義。質疑を奨励する間合い
9峙粗睛討砲弔い突論的根拠を示す。できるだけ本物の講師にも触れさせる
ぜ講生への承認
ゥ侫ローアップ。宿題を出し、コメントをして返す。相互に共有するほか
Ε瓮襯泪、パネルディスカッションなどで情報共有。先輩の姿を示す
Д泪優献磧柴瓜里離灰潺絅縫謄を作り、交流を促す
┯開講座もできるだけマネジャー同士で受講できるようにする
「宿題を太田教授にみてもらおう」「承認大賞に応募しよう」などのキャンペーン
私自身の姿勢がぶれない、一貫したメッセージを発する
つねにマネジャーの人格を尊重する。手段として見ない。仕事の忙しさ、大変さに共感を示す
断言口調でものを言わない。絶対不変の真理であるように言わない
「上から口調」でものを言わない
私自身が常に学んでいること、それを発信すること
マネジメントはつねにネガティブなことと対面することを迫られる。それに鑑み、セミナーをあまり楽しくエンタテインメント風に演出しない。ブログでも時折ネガティブなことも書く
阿△襭嫁越しの研修では、1年目に成果を挙げた受講生6名を「内部講師」に仕立て、2年目の研修(6回連続)に順番に来て体験談を話してもらった


 以上であります。

 まあざっとみてリーダーシップの行為に似ている、という感想もありえるでしょう。

 これはあくまでわたしが「承認」という、一般的にはむずかしいものをマネジャーさん方に教えて習得していただく場合のものです。業界ではむしろ特殊なほうの心得だと思います。講師の先生によって、力点の置き方は違うでしょう。びっしりデータを書き込んだ、特殊なグラフを使ったスライドとか、すごい早口でしゃべりまくるとか、そういうところにアイデンティティを置かれる先生もいらっしゃるかもしれません。

 今はわたし自身もこの16か条を全部はやれていないところもあるなあと思います。40代前半に比べるとかなり疲れてしまいましたね。イベント業とかできないですもんね。

 逆に最近ある方に評価していただいたような、「シンプルでわかりやすい」一方で「哲学的な思考が土台にある」ことを感じていただく、というのも、16 か条には含まれなかった、でも大事な要素なのだと思います。めったに指摘していただけないがわたし的には大事にしてきたところだけにありがたいお言葉でした。また学びやすさに配慮するためできるだけ易しい言葉を使って語るのでともすればその背後の哲学的思考というのは、なんとなく感じはするのだけれど知覚されず、言葉の易しさだけが「利用可能性」として印象づけられて内製化を招いてしまうところがあるので、ありがたいお言葉でした。その評言をくださった方は学生さんの論文にも細やかなコメントをされる方のようです。

 またの後半、「できるだけ本物の講師に触れさせる」のところは、最近はやれていませんが、任意団体〜NPO時代の前半には、東京や神奈川からわたしが「これは」と思う講師の方をお招きして、「本物の先生」に登壇していただく、ということをしていました。「強み」の森川里美さん、「部下力」「ビジョンマッピング」の吉田典生さん、システム思考の小田理一郎さん、それに「行動理論アメフトコーチング」の武田建氏にも。そう、システム思考さんとは仲良かったナー。

 やっぱり「本物」は違うんです、教えてきた迫力とか奥行きが。質疑をしても対応が全然違うんです。
 (だから、訓練不足の人が講師をやったら受講生さんが可哀想なんですよ。)

 システム思考に関しては、わたしは確か東京で基礎〜応用と2つか3つのコースを受講しましたが、それで自分が人に教えられるようになるとは全然思わなくて、チェンジエージェント社の社長の小田氏に1回来ていただいたのと、その後もう1回、同社の女性の方で長年スタッフをされていた方に来ていただきました。やっぱり、何かのコンテンツを教えられるようになるのは、「徒弟制」のような学びが必要だと思います。コンテンツを学ぶ側に少々なったぐらいでは、また少々の「講師育成セミナー」を受けたぐらいでは教える資格にならないと思います。教えるからにはそのコンテンツに没入しないと。またそのコンテンツを一から作ったり認知されるために道を切り拓いてきた先生に畏敬の念をもたないと。




 「哲学的思考」とはまたすこし別の話題ですが、

 マネジャーとかリーダー向けの教育は、「猛獣つかい」の仕事でもあります。厳しい質問が出るときも出ないときもありますが、どんな質問にでも備えはできているといえるだけの引き出しが必要です。また、質問に答えられる答えられないの問題ではなくて、彼ら彼女らの中にある「攻撃性」をはるかに上回り包み込むぐらいの大きさの「愛」が必要です。 大学生とか若手・中堅だけ教えてきた人には分かりにくい感覚かもしれません。

 ―「猛獣つかい」とは、たとえば今夏公開中の映画「ジュラシック・ワールド」で主人公の訓練士がヴェロキラプトルの顔に手を出して頬をなでるシーンを思い出していただけますでしょうか―

 わたし的には、そういうことが「ノウハウ」です。

 前にも書きましたがそういうことが横でみていてわかる方とそうでない方とがいる、と思います。わかる方は少数派ですね。

 そして正田の風貌をみて、「この人は若手か中堅向きの講師だろう」と思われる方も多いんですが、どっこい理論上も組織のトップに近い方々、社長さんや役員さん、部長さんぐらいから課長さんあたりまでの人に学んでいただくのが組織への浸透はいいです。中堅さんあたりにだけ教えても立ち消えになります、1つの組織の中で。また正田自身もそのクラスの上層部の「獰猛な」方々と相性がいいです。子供子供した見かけ上そう見えないかもしれませんが。

 「見かけ問題」最近もフェイスブックにぶちぶち書きましたが困ったものです―。
 ちょっと「16か条」から話がそれてしまいました。


そういえば去年、わたしの講師ぶりをみて「話す口調に一切ナルシシズムが入っていない」と言われた方もいました。
色々総合して「16か条」作り直さないといけないかもしれないです。











(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 成功を約束する資質とは何か。あるいは「儲かる」に直結する資質は何か。

 この問いに『成功する子 失敗する子』(ポール・タフ、英治出版、2013年12月)という本ではこう答えます:


●パーソナリティ心理学の領域で勤勉性の研究の第一人者であるブレント・ロバーツによると、研究の世界では「勤勉性」は厄介者扱いされ、あまり研究されないできた。「研究者というのは自分が価値を置くものについて研究をしたがるものです」とロバーツはわたしにいった。「勤勉性を高く評価するのは知識人でも学者でもない。リベラルでもない。宗教色の濃い保守派で、社会はもっと管理されるべきだと思っている人びとです」(ロバーツによれば心理学者が好んで研究するのは「未知のものごとに対する開放性」だそうである。「開放性はクールですからね」と彼は少しばかり悲しそうにいっていた。「独創力についての研究だから。それに、リベラルのイデオロギーともいちばん強い結びつきがある。パーソナリティ心理学の世界にいる人間はほとんどがリベラルなんですよ。いってしまえばぼくもね。学者は自分たちのことを研究するのが好きなんです」)


●産業・組織心理学の分野では、勤勉性は評価されてきた。企業には学究的で難解な議論とはかけ離れたニーズがあり、生産力が高く、信頼のおける、仕事熱心な働き手を雇いたいわけである。職場の成功のいちばんの指標となるのはビッグファイブのうちの勤勉性であるとわかった。
 勤勉性の高い人びとは、高校や大学での成績もよい。犯罪にかかわる率が低い。結婚生活も長く続く。そして長生きである。喫煙率や飲酒率が低いせいだけではない。血圧が低めで脳卒中にならず、アルツハイマー病を発症する確率も低い。


 詳しくはこちらの読書日記参照
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51879835.html


 えーと要約しますと、企業の業績向上のためには何を伸ばすべきかというと、「独創性」と「勤勉性」では、「勤勉性」を伸ばすことが業績向上にはもっとも近道、という結論になります。「独創性」がダメだ、と言っているわけではないんです。順序としてどちらが先にくるのが冷静な判断か、というお話です。

 学問的には、あまりおもしろくない結論ですよね―。


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 もうひとつきのうフェイスブックでお友達がシェアされた記事を、こちらにも引用しておきたいと思います。

 【調査結果】上司の部下対応に改善が必要な職場は、高ストレス者比率が約10倍高い 〜 約4万人のストレスチェック結果のデータ分析より 〜

 http://www.peacemind-jeap.co.jp/news/release/9004.html

 
 これもまあ、「やっぱり」という感の記事ではあります。ストレスチェック義務化の中で当然注目しなければならない視点です。
 上司がリーダーシップがない、不公正、ほめない、失敗を認めない、という人であると部下のストレスが高い。またその影響を受けやすいのは、若い人ほど受けやすい。

 若い人時代が遠い昔になっちゃうと、実感しにくくなりますね。

 でもまた、「そんなの上司にちゃんと教育すればいいじゃないか」と思われるかもしれませんけど、著書にもかきましたが管理職教育の質が恐ろしく下がっています。

 高ストレスぐらいで済めばいいですけど、鬱になってしまうと、1年とか1年半は軽く棒に振ります。再発も多い、一生しょいこむ病気ですから、職場復帰しても再発を繰り返し生活保護のお世話になる可能性も高い。

 社会設計上も、ほんとは管理職教育、ちゃんとすべきなんです。

あと、この資料は今流行りの「カウンセリングマインド」よりも、むしろ「承認」とほぼ重なる指標を重視していることも興味深いです。


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 「大人の学び」とか「内製化」は当然そのラインマネジャーの質低下に寄与しているでしょうね…、

 これは初めて書くと思いますが、拙著『行動承認』出版以来、実は企業の人事担当者の方からちょこちょこご連絡をいただきます。内容は、「コンテンツを自分がやる研修に利用してよいか」という打診が多いです。

 たぶん打診してくるのは「まし」なほうなんでしょうけれど…、

 で、わたしは「いいですよ」とは言わないことにしています。

 何故って、「承認研修」を現実の管理職を前にしてやることの重みがわかってないだろう、人事の人あたりだと、と思ってしまうからです。
 
 「ラインマネジャー」は自社の「人事の人」が付け焼刃の知識でおこなう研修をはいそうですか、とすなおに受講するほどお人よしではないです。



 「承認」は本来ラインマネジャーが背負っている「責任」からすると、非常に難しいことを彼ら彼女らに課します。
 端的に言うと、責任のない人のほうが、ほめられる。お母さんよりジジババのほうが孫をほめられる、甘やかせられる。責任を担う人が「よいところとか行動に目を向ける」となるのは結構大変なんです。

 
 だから、ミドル以外の人に学ばせたらという意見もあります。「承認」はたとえばメンタリングにも使えるからミドルではなく、メンターになるような中堅に学ばせたらどうか、という意見もあります。
 どうしてもの要請があれば仕方なくそうすることもありますが、わたし個人の意見は「いや、ミドルマネジャー(課長級ぐらい)が学ぶべきだ」というものです。

 なんでかというと、中堅が優しくてミドルが「承認」が出来ない怖いばかりのおじさん、という状態ですと、ミドルが職場で孤立しかねないからです。ミドルによる職場運営が難しくなるからです。そしてスキル習得が「下から上」に波及することは、まずありません。
 そのぐらいの想像力は働かさないといけない。

 逆にミドルが担い手になった場合は、同じスキルが下まで波及し、驚くほど職場運営がスムーズになり、人々の心がミドルの下にまとまります。
 だから、できるだけその線を狙いたい。


 でも現実にミドルにこういう研修をするのは難しい。生半可な人が講師で前に立ったら、野武士のようなミドルは猛反発します。社内の関係上露骨に反発を顔に出さなくても、できるだけ聞き流そう、スルーしようとします。
 彼らの職場運営の中で味わう人としての苦しみ、痛みがわからないで「承認」なんていうきれいごと的なことを教えにくる人間のいうことなんかきくものか、と思っています。


 だからでしょう、

 先日「株式会社牧」様で研修をさせていただいたとき、牧田社長が講師紹介で打合わせなしに言われたのが、

「正田先生は皆さん(店長さん)の苦しみ、痛みをすべてわかってくれる方ですよ」

ということでした。
 わたしには「ない」発想でしたが、そうかなるほど、と(自分のことながら)膝をうつ思いでした。


 それはちょっと脱線でしたけれど、

 わたしは「承認」というコンテンツをミドルマネジャーに教えるための免罪符がいくつかあると思っています。

 それは例えば「この分野に特化して啓発活動をしながらやり続けている専門ベンダーであること」であったり、「任意団体―NPO―財団法人と、非営利教育でいわばインディーズ出身で、生身のマネジャーたちに寄り添い研修の『予後』を丁寧にみながらプログラムを作ってきた講師」であること。

 それがあるから、わたしは彼ら彼女らに「これをやってください」と、慎重な中に「きっぱり」した口調で言うことができる。行動をリクエストすることまでできる。

 その結果、「承認っていうものがあるんですよ〜。大事なことですよね〜」と、腰の引けたトーンでコンセプトだけ提示するのとは研修の「予後」がまったく異なってきます。


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 本『行動承認』もまた、このところお客様が「反転学習」で使われているように、「学ぶ」「習得する」ための装置です。

 「あの本」は、「アソシエイトとディソシエイト」という概念の中の「アソシエイト(共感する、没入する)」を意図的につかっています。

 つまり、実在の何人かのミドルマネジャーたちが、「承認前」と「承認後」、地獄から天国へ移行するプロセスを、「習得」を経ることをまじえながら「彼ら目線」で語っています。
 その彼ら彼女らに「アソシエイト」できた読者は、「自分もこういうことができるようになりたい」と思う。その意欲が、小さな「習得」という壁を乗り越えさせる。彼ら彼女らの中に元々あった克己心が目覚める。

 もともとラインマネジャーになる人たちは、(正田とはちがい)スポーツ経験者が多く、若い頃からスポーツその他での色んな「乗り越え体験」をもっているのです。そして学習能力もあるのです。それらを正しく向ければ、「承認の習得」はそんなにむずかしいことではないのです。

 だから、「あの本」はマネジャーたちの学習に必要な「克己心」を引き出す装置、といいますか。

オープンセミナーより企業研修の比重が大きくなった時、学習意欲の低くなりやすい企業研修の中でマネジャーたちに「克己心」のレベルの学習意欲を持ってもらうにはどうしたらいいか?というのは一時期、かなり真剣に悩んだ課題でした。
「克己心」は殴ったり虐めたりして、怒らせたり泣かせたりすれば出てくる、と思ってる人も一部にいらっしゃいますがー、わたしSM趣味ないし。そんな負の感情を持って承認を学べるわけじゃないですし。


(また余談ですが、「アソシエイト」の能力が生得的に低いのだろうとみられる方がAmazonのあの本に低評価レビューを書いておられますが・・・、「ディソシエイト(引き目線)」の話法しか受け付けたくないという人は、どのみち「担い手」にはなれない層の人ですから、ほっときたいと思います)


 こうして書いているとまた、実名で「あの本」への登場を快諾してくれた現役マネジャーたちへの感謝の念が湧いてきますが。


 こうして、種明かしをすれば一切「ずる」のないプロセスで、正田流の「承認研修」はマネジャーたちに奇跡を起こさせます。



 わたしは「学問のための学問」には興味はありません。

 ただ、本音のところは「業績向上」も実はどうでもよくて、もうちょっと人道主義的なところに本当は興味があるのだけれど、それもたぶん聡明なマネジャーたちは薄々気づいていながら、でも「業績向上」のこともきちんと報告してわたしを安心させてくれます。


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 「株式会社牧」の店長さんがたの宿題が返ってきました。

 「反転学習」の甲斐あって、皆さんすごい実践でした。1つ1つの事例から、パンの職人さんやパートさんの「成長物語」が伝わってきました。平均点で過去最高だったのではないだろうか。

 総務のかたから宿題の取りまとめとメールでのご送付と同時に、なんと同社から小包も。

 中は、素朴な焼き菓子でした。

 写真は「チュイル」「ごまチュイル」「グラノーラ」

牧 焼き菓子20150806


 これも各店舗で皆さんが焼いていらっしゃるそうでした。

 ひと袋の量がたっぷりあって、驚くほどサクサクの生地でした。

 先日の「株式会社牧」様に続き、9月から3回の公開セミナーを行う加東市商工会様でも、拙著『行動承認』を事前にお配りいただいたうえでセミナーをすることになりました。

 このセミナーでコンビを組ませていただく松本茂樹先生(関西国際大学准教授、経営学科長)によると、こういう「あらかじめ予習をしてから授業に臨む」やりかたを「反転学習」といい、今大学でも取り入れるところが増えているそうです。

 うれしいことに、今回のセミナーに社員さんを参加させることを決めたある企業の社長さんが、商工会の会長さん(別の企業の社長さん)に拙著『行動承認』を渡して「読め!」と言われたのですって。でもともとの発信元である商工会の会長さんが、本を貰って帰ってきたのですって。


 ところで、『行動承認』を読まれたあとで著者のわたしに会われたかたは、こういう印象をもたれるのだそうです:

「あれ、本を読んだ印象ではすごくエネルギッシュな強い人のように思えたのに、実物はむしろ弱弱しく大人しくて無口な、『おどおど』しているとすら言える感じの人なんだな」

 これも、今後お出会いする方々にも起こる可能性のあることなので…。


 自分なりにどうしてこういうあり方になっているのだろう、と改めて考えてみた結果、出てきた結論は大きく次の2点でした。
 これまでも形を変えてこのブログに繰り返し出て来たことと重なるかもしれませんが…、

1.「管理職に教える」という仕事の要請上、過剰に「情熱的」なあり方ではなくニュートラルでなければならない

2.元々の正田の生物としての能力の凸凹。とりわけ「動作スピードは平均よりやや遅い」ということがわかっているので、それが印象の大半を決めている可能性がある


 1.は、繰り返し出ていることです。
 管理職の抱える現場は多種多様です。そして管理職自身の人格も多様です。これまでの成功体験がどんなにあろうとも、虚心に新しい受講生さんに向き合わないといけないとつねに自分に言い聞かせるわたしです。むしろこれまでの成功体験がなまじあればあるほど、その態度は必要なのだと思います。

 かつ、「管理職の人格」は独特で、若手や中堅よりも「疑心暗鬼」が強いことが多い。それはその人の人生のそれまでの「裏切られ体験」にもよるのだろうと思いますが、
 研修講師という人種に厚顔無恥、臆面のない人格の持ち主が結構いて、本来断言することのできないことを自信たっぷりに断言する人がいて、うっかり研修講師の言うことなど信じるととんでもない下手をうつ。
 
 変にテンションの高い人格など見せようものなら逆に「ひく」のが普通の管理職です。

 だから、正田は淡々とニュートラルなあり方をたもちます。それが「自信のなさ」と受け取られるリスクがあっても。
 ―実際に「自信」など今でも「ない」ですが―

 これまでの蓄積がいくらあっても、それが目の前の受講生さんのもとで再現される保証はない。
 わたしがそのスタンスを保っているから、受講生さんは逆に成果を出される。


 また、これまでの膨大な管理職たちの実践経験をアーカイブとして引っ張りだしたり、神経化学物質や遺伝子学、脳科学の知識まで援用しながら伝える、ということもします。
 そして膨大な情報を取捨選択したすえに「この教育」「この方式」の妥当性がゆるがない、というわたしの確信を伝えていきます。
 「個人のオピニオンのレベルの話ではない」
という確信が持てれば、普通に聡明な管理職の方だと納得して取り組んでいただけます。

 それもこれも、目の前の受講生さんの先に人びとの大きな幸せの可能性が開けているのだと思えばこそ、わたしは自分個人の魅力や自己実現より大切な、慎重かつニュートラルなありかたを選びます。



 2.の「生物としての凸凹」の問題は、さまざまな人材育成分野のツールに加えて、最近WAIS-IIIという知能検査の詳しいのも受けました。
 こういうお話も、「ひく」人は少なからずいるのでしょうけれど。
 その結果わかったのは、おおむね高いレベルの中でところどころ「抜け」があるのがわたしの知能で、
 今回は

「動作スピードが平均よりやや遅い」
「視覚的情報をとっさに判断する力が平均なみ」(こちらは平均をやや上回る程度だがほかの指標に比べると大きく落ち込んでいる)

ということがわかりました。


 たぶん、「動作スピードの遅さ」は、仕事内容によっては有能・無能の決定的な分かれ目になるところかもしれないし、「視覚的情報―」うんぬんは、多分初めていく場所や初対面の人をやや苦手とする、これもこどものころから傾向としてありましたが、そういう特性につながっているでしょう。
 初めてあう人に対しては、自分のあまりよく働かない神経細胞をフル稼働させるために「まじまじとみる」傾向もあるかもしれません。それが「おどおどしている」という印象につながるかもしれません。

 そしてその2つを印象として強くインプットする人は、わたしのことを「能力が低い人」と評価するでしょう。

 いいんですけれどね、別に。

 
 優れた成果を出した受講生さんは、もともと優れた能力の持ち主だったのです、わたしなどより、はるかに。


 遺伝と「相対優位」の関係を扱った議論は、『遺伝子の不都合な真実』という本の中に出てきます。
 こちらの読書日記などをご参照ください

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51822753.html

 この記事の、かなり後半のほうですけれど、「相対優位」を使った「利他的互恵関係」という言葉。
 なんかいい言葉でしょ?
 だからイチローは野球をし、球場のお掃除の人は掃除をして、それぞれ社会に貢献するのです。

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 「信念」や「情熱」をもつことの功罪。

 それらがわるさをする場合もあります。
 ただし、「信念」も「情熱」も本来リーダーには不可欠のものです。
 これまで成果を出されたリーダーには、必ず「このままではいけない」「こうでなければならない」という、やむにやまれぬもの
 ―ひとことで言えば「信念」「情熱」―
がありました。

 それらが科学的で正しいものであるとき、「承認」はその人にとってきわめて大きな武器となります、というお話を過日しました。
 
 世の中まれには「邪悪な信念」や「はきちがえた情熱」というものもあるでしょう。刑事事件に発展しそうなそれもあるでしょう。わるい目的のために「承認」を使うことまでは想定していません。それはお医者さんが医療用医薬品や医療用具をわるい目的に使うことまでは想定できないのと同じです。


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 そして「教えられること」に反発することの功罪。

 コンサル業界には数年前の一時期「OJE(On the Job Experience)」という言葉が流行ったことがありました。これは「OJT(On the Job Training、昔ながらの「技能伝承」に近い、上司部下、先輩後輩間の「教える―教えられる」の関係)などもう古い、上司先輩の持っている知識は陳腐化し現代には通用しなくなった、これからは人から教わるのではなく経験から学ぶことだ」という考えからきていました。最近は幸いあまりきかなくなりました。

 極端から極端に振れる議論というのはあるもので、時代がどんなに移り変わっても上司先輩から部下後輩に「教える」部分はなくなりません。そしてその「教える」作業を信念をもって行えなくなった上司先輩が増えたことを見聞きすると、こうした「OJTよりOJE」といった議論は、罪深いことをしたなあ、と思います。ああそういうのにくみしないで良かった、とも。

 往々にして今どきの若手は上司先輩に質問せずにネットのQAサイトなどで質問し全然よその人から回答をもらう、しかしそれがその企業・組織の方法論とは合致せず困った事態を引き起こすというのをききます。
 また最近のNHK「クローズアップ現代」では、登山ブームの中で経験豊富なリーダーの言うことをきかなかったりそもそも経験のある人をパーティに入れないで出発して遭難する人が後を絶たない、という話を取り上げていました。「自分の経験にこだわる」態度は、「他人の経験をリスペクトしない」態度をも生みます。
 これも「承認の不在」というカテゴリに分類できるのかもしれないですが。

 一般的には「教えられる」ことへの反発(リアクタンスといいます)が強く働きやすいのはナルシシストがそうなりやすいです。また認知特性としては…、このブログでよく出てくる「ある認知特性」の人たちも反発が強く働きやすいです。「自分の経験」に固執しやすいです。―


 誤解されかねないのでわたしのスタンスはどうなのかというと、上司や先輩からの伝承と自分の独自の経験とどちらも大切で学ぶ価値のあるもの、どちらかに偏重するといいことはない、というものです。そして「教える」というのは今の時代、結構な信念と勇気を要することなのでその営みを否定すべきではない、とも。


 もしわたしが「上司や先輩の言うことを盲目的に信じるのではなく、経験からも学べ」という趣旨のことをどこかで論じるとしても、もっと「功罪」にきちんと触れながら語るでしょう。
 また、上司先輩の側が自分の信念に妥当性がないのに押しつけてくる、という場合には、その人はセルフモニタリング能力に難がある可能性がありますね。往々にして「自己理解の欠如―すなわち、自分独自の特性がその経験につながっているという要素をみないで他人が同じことをできるように思う―」がそれにつながりやすいので「承認研修」のなかではしつこいぐらい「自己理解、他者理解」をとりあげます。


 ちなみに「傾聴研修」の中では、「話を聴けないのはどんなときか」のくだりで、「先入観の罪」の話をします。「学びの場も『聴かない態度』をつくってしまうことがあります。こういう研修で教わったことがすべてだ、と思って現実に起きていることを軽視するようなことはしないでください。わたしもじゅうじゅう気をつけて慎重にお伝えするようにしていますが、みなさんももしこの研修でお伝えしたことと現実が一致しないことがありましたら、とりあえず現実のほうを信じるようにしてください」というお話をかならずします。
 
 まあ、どれだけ良心的につくりこんでも、「わかる人にはわかる」でしかないのですが…、


 ああ、こまかく論争するとつかれる。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


訪問先で「当社の人材育成」の話になる。

「12年1位輩出」の当社は今までわたしに次ぐNO.2の講師を作れていない。

今日、初めて言ったセリフとして

「免許をとるのと教官になることは違う」

というのがある。

クルマの免許を持っていても、それは即教習所の教官になれるわけではないですよね。教官になるには、学んだ人のもとで何が起こる可能性があるか、全部知ってなければなりません。自分が言った一言のせいで事故が起きる可能性もあることを知っとかななりません。

これまで教育研修業界にはなかった考え方だと思う。そもそもお客様(受講生さん)が本当に行動することを想定して研修してなんかいないのだから。


今年、「承認」を教える立場になりたいと言ってきた二人の人にダメ出しをした。

一人は女性だった。当初、わたしの友人として親しげに振る舞い、わたしの生き方に共感するふりをした。
でも1対1でなく、大勢でご一緒する場で馬脚を現した。彼女は体にぴったりしたワンピを着てきて、自分の自慢話を延々として他の人の時間を奪った。そして無口なわたしを嘲り明るくて魅力的な自分のほうが「上」だという態度をとった。

要は、このひとは恐ろしく「承認欲求」の強い人であり、「承認」を教える人になりたいというのは、ちょっと知的で尊敬される仕事がしたいという、職場でややとうがたってかわい子ちゃんではいられなくなった自分のポジショニングの変更が目的であり、かつ日頃はお年寄りを相手の仕事をしているので、当社の交流の場で30-40代の働き盛りの男性たちにチヤホヤしてもらえることは体のいい性欲のはけ口なのだった。

もう一人は男性だった。「コミュニケーション」が上位にある、わたしよりはるかに座持ちのいい、アドリブの利く人だった。
わたしにない良さのある人だからと、彼が職場で教えることにもOKを出していたのだけれど、その寛容気取りが良くなかった。わたしにない良さのある代わり、わたしが神経を尖らせる副作用やナルシシズムについて、この人は無頓着だった。


結局、この問題について「ええかっこしい」をするべきではないのだ、以前からそのつもりだったけれど今年の失敗を経て、一層そう心に刻まざるを得なかった。「教える人」の質について妥協してはならない。わたしの周りに群がる人が減ったとしても、寂しさと引き換えにしてはならない。

「承認」を教えたいなら、徒弟制を受け入れて欲しい。1年ぐらいわたしのかばん持ちをし、わたしが質疑にどう応じるか見て学んで欲しい。教習所の教官の立場なのだ、それぐらい安全配慮義務のある責任の重い仕事なのだと自覚して欲しい。到底、自分の承認欲求を満たすためになどできる仕事ではない。

いつも引用する「人に教えるということ」という記事では、「この教育を『教える人』のことは、スパナで頭殴りますよ」ということも言っている。

お客様には、「日頃は承認って言ってるのに自社の人材育成はそうちゃうんですか」と驚かれた。正直な反応だと思う。

とにかく「教える」ということについて、当社の基準は業界標準と違うのだもの。

以前デンマークの教育に一時期凝っていた、かの地では教師は小学校の先生でも修士でないとなれないのだという。自由で人格教育に重きを置く教育というのは、教育する側の厳しい修練によって担保される。

正田自分は修士なんて持っていないくせにね。


寂しいのは我慢しよう。


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会

 プレゼンのときの心のあり方について。


 正田の話し方というのは、1つ前の記事でみるような、研修により見込まれる大きなリターンを念頭に、
「この研修で学ぶことを学び逃したら受講生様は一生の損」
という考え方からできています。


 つまり、生身の人間が話し、それを耳で聴く作業を通じてもっとも効率よく学ぶには話し手はどう話せばいいのか?という発想で成り立っています。


 それは、以前にも書いたように、究極の「伝達」の作業です。自分が話したいように話せばいいものではありません。頭に思い浮かんだことをしゃべり散らかしていいものではないし、相手が段階を追ってロジックを吸収してくれるよう、あらかじめ設計したロジックに沿って話すことが必要です。


 また、「反発を買わない話し方」というのも大事です。とりわけ女性の正田の場合、「あたしえらいのよ」という態度はたちどころに反発を招きます
(スピーカーが男性コンサルタントの場合、「自分はこんなにえらい、あんなにえらい」というマウンティングのようなフレーズもよく入りますが)
 人は、自分が反発している人の言葉は耳に入らない。先日のプレゼン大会のような場で、1人、極端に攻撃的な態度で話し話題にする人を次々貶めるような人がいましたが、その人には質疑の時間、とうとう質疑の手が上がりませんでした。また、会場参加者にインタビューしたところ、その人の話の内容は印象に残っていませんでした。


 人に何かを教えるときどんな心のあり方で話せばいいのか、を以前、「人に教えるということ」という記事にまとめました。

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51754001.html


 この記事を引用するのはもう何回目になるでしょう・・・、

 
 要点としては、

(1)人に教えるのは自分を大きく見せるためではない。虚勢を張らず、かといって自己卑下することなく、等身大の自分を引き受けて話せ
(2)「相手のために」という気持ちを濾過して絞り込んだものを話せ

ということを言っています。
 これは話す内容が正しいかどうか、とは別の話であります。正しい内容を話すことは大前提であります。


 わたしのみたところ、ほとんどのコンサルタントの先生は(1)がだめです(だから偉そうにはみえるけれど内容は頭に残らない)
 また、ほとんどの大学の先生は認知能力の偏りがあるせいか、(2)の「相手のために絞り込んだものを話す」ということができません。知識をひけらかしあれもこれもとしゃべり散らかして要点がわからなくなり、忙しい現場のマネジャーがどう行動したらいいのか、一貫した指針を与える、ということに気持ちが向きません。


 人が生身の人から真摯に「学ぼう」と思うときは、(1)の「偉そうにみえるマーキング」は要らない、むしろ邪魔なのだと思います。(これは情報として全然要らないというのではなく、指導実績がサイド情報としてよそから耳に入っている、というのが望ましい。錦織圭選手がチャンコーチの言うことを「指導実績のある人だから」と素直に取り入れたように。なので事前告知や講師紹介は大事なのです)


 ただ少し脱線しますと、恐らく人事の人は「自分が内容を無心に学べるか」よりも、「偉そうにみえる人を会社に連れてくるか」を気にかけるので、「偉そうなマーキング」があったほうが嬉しいのだと思います。それは肝心の最終ユーザーであるラインマネジャーが喜んで学ぶかどうか、とは全然別のロジックであります。


 スピーカーとしてのわたしの性格上、いくら「人事の人」が「偉そう印」が好きで必要だ、と頭ではわかっていても、自分の行動として「自分は偉いんだ」ということが言えるかというと、うーん。
 「この教育プログラムで12年、1位マネジャーを作ってきました」
ぐらいは事実として言えますけれどそのへんが精一杯ですね。

 


 さて、脱線から戻ります。

 上記の記事「人に教えるということ」は、読んだ人にオキシトシン―セロトニン的な心の平穏をもたらすようです。それで、プレゼン前の緊張している人に読むよう勧める、ということもします。その助言に従った人はいいプレゼンをするし、従わなかった人は、何のために話しているのかわからないようなプレゼンをしました。ということで効果てきめんなわけですが、、


 
 人前で話をすることが、ドーパミン的な、つまり承認欲求過剰的な、「ボクを見て、ボクを」という心の状態をもたらすことがあります。
 そうした神経化学作用はたぶん個人差があるのですが、人によってその傾向がとても強い人がいます。
 たとえばその1つの症状で、話すスピードがどんどんゆっくりになってきます。
 推測すると、内容は一緒でもスピードを落とすことで、話す時間を長引かせることができ、その分人が自分に注目してくれる時間を引き伸ばすことができるんです。
 しかしそれは内容のなさが一目瞭然ですし、スピードがある程度以上ゆっくりになってしまうと、聴き手は内容を聴き取るのに困難を生じます。
 結果的に何を聴いたのかよくわからないプレゼンになってしまいます。情感豊かなのは伝わったかもしれないですけどね。演歌みたいなものですね。理屈はまったくない、感情だけの世界になります。


 もう一方には、テストステロン―ドーパミン的な、攻撃的で底意地のわるい、オレがオレがの悪質なナルシシズムに陥る人がいます。これは先ほど言った、あの人もこの人もこき下ろすような話の仕方になります。まあ政治家とか政治評論家にもいますしお笑い芸人にもいます。TVには最初からそういう人があふれているかもしれませんが。TVがそうだからといって普通の社会人がそのまねをしていいわけではありません。そういうものに影響されるのは若者が2ちゃんねるに影響されてとげとげしい攻撃的な物言いになるのと同じようなものです。いずれにせよそのタイプのプレゼンは人々が聴く耳を持ちません。そういうのは自然の摂理で上手くできている、と思います。


 いずれにしても、良い心の状態で話すということは絶対条件です。たとえ直前に嫌なことがあってもそれと目の前のプレゼンを切り分ける。話している最中に自分の中にナルシシズムが湧いてくるのを意識して抑制する。心のありかたはスピーカーが発散するエネルギーの質になって、いいにつけ悪いにつけ会場に影響を与えます。


 「承認研修」の場合は当然、会場に美しい感情が流れるよう努力します。人びとをリスペクトし、幸福を願い、仕事が効率よく回り上手く循環することを願う態度で臨みます。自分より他人に意識を集中します。


 その発露として、また次の段階、論理的に組み立てたり頭に残るようなフックを作ったり、会場の人々とオープンな態度で対話して、ということをするのですが。


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 NPO法人企業内コーチ育成協会の団体理念。

 もう、これを書くのも最後になるでしょう。


ミッション

■承認中心コーチングを応用したリーダー育成により、活き活きした人の創出と経済活性化に努めます。
■上記の目的に資するため、承認中心コーチングの活用事例や成果を社会へ向けて発信します。
■自主・尊重・友愛の精神に基づき、人と人とのよりよい関わりを模索します。


 行動規範

○私たちは、組織の上下、内外にかかわらず、互いに尊重し、承認しあいます。私たちは、   人としての基本の敬意、礼節、思いやり、誠実と正義を大切にします。
○私たちは、約束を守り、行動する勇気を重んじます。私たちは、つねに自己責任の感覚をもち、社会、顧客、仲間、自己それぞれに対して力の限り責任を果たします。
○私たちは、理性と感情の両方を重んじます。私たちは、よき社会人として節度をもち、法令を重んじ、倫理と規範ある行動をとります。私たちは、他者の感情を思いやり、自己の感情を認識し制御し、適切な形で伝えます。
○私たちは、つねに謙虚に、あらゆる場面で学び続けます。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp




 


 


 


 
 
  


 


 

 いくつか去来する考え。

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 感情に溺れるということ。

 このブログでは数年前、繰り返し「感情」に重きを置く某コーチング研修機関のプログラムを批判した。

 その当時、その研修の「信者」の方々との間で、「約束をすっぽかす(ドタキャン)」「責任を放り出す」といった問題が多発した。たまりかねてある時期からその研修機関の人を出入り禁止にし、そこのプログラムを推奨しないことにしてしまった。


 その人たちというのは、自分の感情を大事にするあまり「お子ちゃま」なのである、わたしからみると。自分の感情をドロドロ表出する、「自分の都合」のかたまりになる、しかし他人の感情を同じように大事にしているか。人は誰にも同じように感情があって、都合があって、それらを調整して社会が成り立っている。調整してかつものごとを動かしていかなければならないから、ルールや責任という概念が出てくる。


 そのルールや責任に「感情」が優越する、と強調するような教育をすると、あまりに自分の都合ばかり振り回す人ができる。行動したがらない、ものごとが全然先にすすまない。

 当協会の「行動承認」+「Iメッセージ」の手法は、そうした過去の教育プログラムで起きた現象をつぶさにみて、それへの反省からできた。

 仕事の中では、仕事の全体像がわかっている上司から「行動承認」をすることで「何が称揚される行動か」を提示してやり、プラスアルファ「Iメッセージ」で感情の温かさを付け加える。「Iメッセージ」はプラスアルファ程度に使うとバランスがよい。


 「行動承認」をすることで「まず行動を尊ぶ」という姿勢を提示する。「行動」は本来痛みを伴うので、「感情」を強調すればするほど怠惰になり行動しなくなってしまう。(ある脳科学本では脳の「感情優位」な状態というのは仕事で疲れ切った深夜の脳の状態で、抑制が効かない状態だという)

 「行動」に重きを置く限り、人はおおむね「喜んで行動する」ので行動量が増え働きものになる。また脳の実行機能がフルに動き、自己抑制なども適切に行われる。「信頼関係のある上司からほめられれば責任感がアップする」というのは2008年ごろ有名になったJR西日本の安全レポートだけれど、責任感が増す現象もよくみられる。

 それでも「行動、行動」ばかりでは味気ないので「Iメッセージ」(助かっている、嬉しいなど)をプラスすると人間味や誠実さが加わる。

 「感情」を添付するのはそのぐらいのさじ加減でいいのだと思う。
 ただアスペルガーの傾向のある人にはその「感情を添付する」というのも大仕事なのだけど。

社会や仕事は、大半は「理性」でできている。「理性」は学校教育や社会人時代を通じて長い時間をかけて前頭葉を発達させるので、ゆめゆめ「理性」をおろそかにすべきではないのだ。

 当協会方式で人々が働きものになり業績が上がるのは、色々と過去の教育プログラムへの反省に基づいてプログラムを作っているので、おおむね問題が起きないのだと思う。

 逆にこれ以上あまり手を加えるとバランスを崩すし、ほかにも有効なプログラムがあるかもしれないと探していて当協会方式の「型」が崩れるとたちどころにおかしくなる。

 「行動」と「感情」のバランスを大事に。


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 「他の研修が80点なら承認研修の価値は1000点」

 これは今年8月にNPO理事会でわたしが言った言葉だけれどおおむね間違ってないと思うのだ。


 本来数値化しにくいことだけれどこれまでの「承認研修」での効果の出方をみると、それぐらいの点数の開きがある。要は、ほとんどの研修の類は効果があったとしても部分的なことにしか効かないが、「承認」は雪崩式にすべての問題に効いてしまい、そして人々が伸びて業績が上がってしまう。


「承認研修」の正しさに反発してほかの手法に乗り換えればたちどころに1000点から80点ひょっとしたら0点に墜ちる。

 その「1000点」のものを、従来人びとが「1000点」のものなんて想定もしていない見慣れていないのを、いかに安売りせず「1000点」の価値のまま売るか、普及させるか、というのがわたしたちのやってきたことだった。


 そしてもちろんそれは人びとが一気に幸せになるやり方だ。


 せっかく今目の前に「1000点」のものがあるのだから、利用可能なのだから、有効に使おうよ、という。

 
 そしてこれも不遜なことだけれど、その「1000点」のものの価値を十分にわかり、あますところなくリーダー研修で人々に伝え、人々に行動してもらうことのできる講師は今のところわたししかいないのだ。


 「承認研修」は要点をシンプルに絞ったものなので、学んだ人は「これを自分も教える側に回ることもできるかもしれない」と思いやすい。
社内講師の立場の人なんか、すぐそう思う。


 でも「1000点」のものを限られた時間でリーダーに伝えている、というとき、その伝え方にはたくさんの暗黙知があるのだ、ということを、よその色んな研修をみたりわたしのコピーを意図したらしい人をみながら思う。コピーしても大抵はごく一部しかコピーできず、コピーできなかった部分があることでリーダー層に説得力を持たなかったりする。


 1つその「暗黙知」の例を挙げると、わたしは「行動理論」の話をするときに必ずアメフトの常勝監督・武田建(関西学院大学名誉教授)の名を出す。この手もいつまで使えるだろうかと思うのだが。彼がアメフトを指導している風景をイメージしてもらいながら話す。そこで「ほめて伸ばす」という一見優しげな、お母さんがやることみたいな手法に、男のスポーツ・アメフトの骨太なイメージや「勝つ」という目的のために合理的な方法だということを伝える。いわば、行動理論をただの理論ではなく「属人的」な色をつける。そのほうが同じ理論でも頭に入りやすいのだ、ということを、やりながら学んだ。

 そして、単なる行動理論でなくアメフトや禿頭の武田建のイメージがあることで、リーダーたちに「自分たちが取り組むこと」だという身体感覚をもってもらえるのだ。


 かつ、その行動理論を紹介するときに、正田自身がちょっと身体を使ったアクションをする。

 そのことも受講生さんへの記憶に残りやすいようだ、というのはあるとき2年前に受講した上司が自分の部下を研修に派遣していただき、あとでその上司の方が「彼(部下)に感想をきくとあなたのアクションを使った教え方のところが記憶に残っていたようだ。『あそこが記憶に残っているなら合格だ』と話した」と言ってくださった。この上司さんは、「承認研修」のことを「過去の研修ベストスリー。他の2つは品質と安全」とも言ってくださり、コミュニケーション部門1位にしてくださったのは光栄なことだった。

 
 身体を使って印象づけながら教える、というのも武田建氏本人から学んだ。いちど同氏を講演に招いたとき、同氏がやったのは、「行動理論」の始祖スキナーのことを説明しながら、当時実験動物になったのはハトやラットやイヌである、と話し、イヌのところでいきなり四つん這いになってイヌのまねをやってみせたのだ。

 どぎもを抜かれたけれど、武田氏はアメフトの「武田コーチング」の人としてビジネスコーチングより前の時代からビジネスパーソン向けの講演に行っていて、そこで「ほめて伸ばす」という当時最先端のことを伝えるのにやはり腐心したようだ。そんな中で「大学の先生が意表を突くようなアクションをする」という奇抜な方法を編み出したようだ。


 そういうやり方を(イヌのまねではないけれど)わたしも有難く取り入れさせていただいた。やはりそうして記憶に残るフックをつくると、全体のことが芋づる式に思い出されるようである。


 その2つは最近思い出した暗黙知の1例である。こうやってときどき「自分は暗黙知としてこういうことをやってるな」と思い出す。そしてわたしをコピーしようとしている人たちがそこまで注目していないことを残念に思う。


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 そしてわたしは素朴に(みる人によっては少女っぽい表情で)過ごす。これも外界にいつも好奇心を向けていたほうが見落としがないからだ。偉い人然とはみえないと思うがそういうあり方で過ごすことでほかの人が見落とすいろんなことが見えてきた。


 「承認」の世界の住人でなくなった人は残念ながら表情が変わる。

 攻撃性、嫉妬、卑しさ、いまいましさ、嘲り、そうした表情が入れ替わり立ち替わり現れる。


 まったく違う感情世界の住人になったのだ。

 男性はそうなるのはすぐだ。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



 
 


 

「軍艦の艦長も、『情』があって初めて慕われたんだ。『この人のためなら死ねる』と思われたんだ。『情』のない人間は嫌われる」

 江田島の海軍兵学校出身の知人が急にこんな話をしだしました。


「えー、軍人なんて全部『上から』で命令してたんとちゃうんですか」

「いや、結局は人対人だからな。人は『情』で動くのよ」


 そのあと色々教えてくれました。戦艦大和の艦長は出撃命令が出たあと、艦員を上陸させて呉の街に繰り出させたのだと。多くは花街に行って芸者をあげてどんちゃん騒ぎをした。翌朝出撃というときに点呼すると2人足りない。「寝坊したな」というとき、その2人を置いてはいかなかった。時間になっても戦艦大和は出撃しない、おや?と見ていると艦員が上陸してトラックに乗って街へ向けて走り出した。呉の街では寝坊した2人がぼけーっと立っていた。それをトラックに載せて艦に戻り、やっと出撃。
 何故かというと、寝坊して置いてけぼりを食ったらその2人は逃亡罪で銃殺されるとわかっていたからという。

 このほか、ある駆逐艦では敵の攻撃を受けたが、まだ戦えるという状況で艦員が次々海に飛び込んで逃げ出した。その人々は敵の機銃掃射に遭いほとんどが死んだ。生き残りの者に「なぜまだ戦えるのに逃げ出したのか?」ときくと、「あの艦長のために死にたくなかった。戦う気がしなかった」と答えた、という。

 別の駆逐艦では船の艦首部分が大破しても、艦員が総出で鉄板を押さえて穴をふさぎ水が入り込まないようにし、その状態でバックして港へ戻ってきたという。それは艦長が慕われる人柄だったからだという。


 この話をしてくれたこの人はこのブログに年に1−2度登場する人です。もう10年以上のおつきあいになります。

 10年まえにきいたこの人の一代記の講演は、私にとっては

「自分の惚れ込んだ商品が、人を幸せにすると信じられたら、怖れず営業に行け」

というメッセージとして強く印象に残りました。それは営業経験がなく今でも営業が苦手な私にも、自分にムチ打って営業に行く原動力となりました。


 ところでこのメッセージも「オキシトシン」で解釈できなくはないのです。
 つまり、「惚れ込む、愛する、信じる」ことによりオキシトシンが産生し、次いでセロトニンが産生して、怖れを取り除き勇気を産むのだと。


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 2年半ほど前の2012年1月、「説法行脚づかれのぼやき」という記事を書いていました。

 説法行脚づかれのぼやき

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51877352.html

 行脚づかれのぼやきで”Cの人間”考

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51785577.html 

 続・説法行脚づかれのぼやき 本当は早く終わりにしたい

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51788074.html 


 これらを書いた当時よりは今は状況は随分ましになっていると思いたいです―。

 これらの記事の中にある、

「対案が言いたいならエビデンス出してから言ってください」

 今読んでも決して傲慢ではないと思います。

 モチベーションや人材や組織に関する不毛な議論をしている間にどれだけ多くの人を幸せにし損なったことでしょう。

 なんと、よく考えないでいい加減な議論をする人が多いことでしょう。

 
 わたしの経験では、「モチベーション」に関する議論は、功成り名遂げた人、たとえば経営者や大学教授、コンサルタントのような人たちだと、「ドーパミン」に偏った議論をすることが多いです。

 成功体験の多い人ほど、「自分は1人作業で成功した」と思うことが多い。そして「達成」に関わる物質、ドーパミンを重んじる。だれかのまなざしがそこに関わった、と思ったりはしない。


 従来品のコーチングやその他のモチベーションに関わる研修も、「ドーパミン」に偏ったモチベーション論を言う。そうしたセミナーの場の雰囲気もドーパミン的(わるくいうと「躁的」)だったりする。


 ところがわたしがこの世界で12年みてきた印象では、「ドーパミン」中心に動機づけられたひとは「自己中」な人格になりやすいのです。ハイテンションで一見モチベーションが高そうですが、長続きしなかったり自己愛的だったり極端な怒りっぽさをみせたりします。
 それはいくつか前の記事でドーパミンとエンドルフィンを「自己中化学物質」と呼んだのと呼応しました。

 いわば、ドーパミンはそればかりだとナルシシスト製造物質、みたいになってしまうのです。


 そしてこれは自慢めいていますがあくまで当協会の会員さん、受講生さんに読んで理解していただくために書くと、最近つくらせていただいた資料、「NPO法人企業内コーチ育成協会と講師・正田について」で言っている、当協会流の研修のやり方というのは、徹底的に「オキシトシン的」な場づくりをすることを意図しているのでした。

 論理性、愛、共感、誇張しないしゃべり方、これらは矛盾するようでいて、論理性は信頼性をつくるための手段と考えれば、すべてオキシトシン的なのでした。たぶん無意識に「承認を教えるためにはそうすることが必要」と考えていたのでした。
(論理性というと「戦闘的」という連想がはたらきがちですが、あくまで信頼をつくるために供するもの、と意図してつかえば戦闘的にはならないのです)


 わたし自身も従来やや日本人の不安感を和らげる物質として「セロトニン」を重視していたきらいはあるのですが、「オキシトシン―セロトニン連合」がすべての基本、そして「プラスアルファドーパミン」のような比率で考えるとちょうどいいモチベーションづくりになるのだろうと思います。


 こういうのも、最近よく「後継者どうするんだ」的なことを言われますので、後継のかたのためにも書いておく必要があるだろうと思います。「承認」を教える立場になりたいというひとは、わたしのつくる独特の「場」が、何を意図してつくられているか知っていていただきたいのです。


 マズローの「五段階欲求説」から「承認」を考えるのも見直しが必要だろうか―。
 現実の「承認」は「承認欲求」も満たすのですが、より根源的な「愛や帰属の欲求」や「安全欲求」をも満たすのです。


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 先日メルマガで「オキシトシン」についての記事をご紹介したところ思いのほか反響が大きく、ラジオ収録でご一緒したくまはちさんから「経営者必読」とフェイスブックで絶賛いただいたり、旧知のかたから急にご連絡いただいたり、しました。ありがとうございます。


 本当はこの時代、だれでも「人間性への信頼を取り戻したい」と願っているのではないでしょうか―。


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 NPOの新理事に就任される(正式には7月20日より)柏原直樹さんと林義記さんと三宮で顔合わせしました。

 
 「承認王子」の林義記さんは、今思うと初期からものすごく「正鵠を射て」いました。

 「承認」に出会って1か月後でしょうか、初めてメールの中で承認を「徳」という言葉で表現されたのが林さんです。

「ご回向する―徳を巡り巡らすということが、『承認』によってできるのではないかと思います」


 いやはや。

 また、昨年12月のインタビューでは、「『承認』と引きかえに私がみんなから受け取っているのは、『信頼』です」という、これもまた「その通り!」という言葉を言っています。


 
 一方の常勝マネージャー・柏原さんは、日頃上司の方からは非常に厳しく当たられるそうですが、


 非常に学習能力・吸収力が高く、ハードな場面においてもそれを失わない。いいかえると「叱られても吸収する」強いかたなのですね。だから上司からすれば可愛いだろうし、つい期待が高じて叱りたくもなってしまうでしょう。
あたしもその気持ちわからなくない。そうならないように気をつけよう。


 そういうかたが、また「承認」のことも高く評価してくださり既に3年にもなっています。

 
 2011年8月の記事「人に教えるということ」を、「みんながこの通りすれば、みんな教え上手になれますね」と、職場で回覧してくださったという柏原さんです。


 この方々に、最近わたしから書いたメールです:

「年来、『人材育成で業績が伸びる。だからこういう教育を』
と声をからして言っていたのですが離職問題が大きくなったためにクローズアップされるというのもなんだか歯がゆいです
それでも、くじけず主張しつづけてこれたのはみなさまのおかげです」


 まだ「承認」の効果発現メカニズムがはっきりしていなかったころから「これは決定的なものだ!」と、わたしと同様に確信してくださり、実践され成果を報告してくださった勇気あるみなさま―、


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 そうしているうちに各方面からまた「離職」の情報が入り、
 いずれも原因はパワハラとか管理職の人格の未熟さによるものです。


 職場いじめ相談件数史上最多。

 相談するだけではなく、嫌気がさして離職という形で出ることも多々あるのです、恐らく。

 いえるのは、管理職が決定的にトレーニング不足、それに尽きるのです。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
 

以前朝ドラの「ちりとてちん」愛でこのブログにも記事を書きました


「徒然亭若狭のそだて方」

http://c-c-a.blog.jp/archives/51307775.html#more


(でもこのドラマの脚本はすごく良かったんだけど、この藤本有紀さんという人そのあと「平清盛」の脚本も担当したんですよねー。何だったんでしょうねあれ。それは余談)



ここにあるように、噺家さんの「年季奉公」では3年間、無給で師匠の家の家事をこなしながら人の心を学ぶのだそうです。

でもなんでそんなことが必要なんだろ?って思いませんか?

最近になってわたしが思うことがあります。それは、

人前で話をして食っていきたい、なんていうことを考える人というのは、大抵傲慢不遜な性格なんです。私もその例にもれないでしょう。

それは、過去12年この業界の人と一緒に仕事をして、あるいは堅気の人だけど人に教える仕事をしたいと言ってきた人をみてきて思います。

あくまでうちにくる人は、ですけど、一生懸命背伸びをして師匠(この場合はわたし)よりすごいんだということを見せようとして、やっぱり馬脚をあらわす。というパターンが多い。
40代ぐらいになった人がメンツが潰れると、ダメージが大きいですね。メンツは、低めに維持したほうがいいと思います。
あなたはあなたで価値ある人生をこれまで送って来たと思うけど、でも「1位マネージャー」を作ったことはないでしょ。少し黙って師匠がどうやってるのかみといたらどうですか。と、思う。


で、「年季奉公」という発想が出てきます。その業界で食っていきたい以上は絶対通らないといけない。師匠との間の縦の師弟関係。


実際にやろうとまでは正直思いませんけれど、

「他人のために徹した存在になる」

ということを教え込みたいな、と思うことはあります。

あなたがしゃべるのは、あなたの素晴らしさをひけらかすためではなくて、100%相手のための存在になりきるんだよ。

結局いつも「人に教えるということ」で言ってるのと一緒ですね。


そしていつも困るのが、「マネージャー育成」という仕事のリアリティのなさであります。目の前の彼らを喜ばせるというよりは、彼ら彼女らが職場に帰ったあとうまくいく、というところに想像力を働かせないといけないので。その想像力こそが当協会の強みであり、そして伝えるのが難しいものであります。
多くの場面で人様とは意見が別れるのですが、なぜそうでないといけないのか語るのは難しいのです。


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「代表的日本人」の中の二宮尊徳のエピソードだったと思いますが、

尊徳翁が名声高くなり門前に人が溢れるようになったころ、遠方から汚いなりで来て弟子入りしたいと何日も座り込みをした若者がおりました。

あまりしつこいので尊徳が家の中に招じ入れ、「では台所番をせよ」と言いました。


若者が師匠にお膳を運んでくると、尊徳翁はお膳をじろりと見て

みると沢庵がちゃんと下まで切れておらず、端を持つと全部つながって持ち上がってしまう。

それを青年の手に載せて


「これを持って帰りなさい」

やっとのことで入門できた青年はあっさり破門になってしまったという。


これなどわたしも耳が痛い話で、しょっちゅうそれに近いチョンボをしていそうですが、

このエピソードを引いて尊徳は傲慢で芝居がかってていけすかん、という人もいるそうです。


わたしが思うに、尊徳はコンサル会社の社長として、そこに就職したがる人と欲しい人材のミスマッチをよく知っていたんじゃないかと思います。

よその藩の財政に関わって良くするという仕事は、ひとたび名声がたつと、

「オレも天下に関わりリスペクトされる仕事がしたい」

という不遜な若者を惹きつける。

でもそういう志を持った人が、「人様のため」に徹して報われない地味な仕事を何年もやり続けることができるとは限りません。
むしろ地味な仕事が嫌いなナルシシストかもしれないというのが大いにあり得ます。自分の地元の野良仕事を放り出してくるというのは。


ナルシシストに対する「叱り方」としてみると、この話は割合おもしろいです。



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今日、一つささやかな仕事を終えました。

福島の原発事故でも、大津波を予見した人はいたのです。

予見できることに警鐘を鳴らすこと。ささやかにできること。


いつか自分に「あなたは力の限りできることをやった」と、行動承認の形で言ってあげたいと思います。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会


長いことマネージャーさんに「承認」を教えることをしておりますと、

一人のマネージャーさんでもその時々で、承認についての理解が偏ることがある、というのは見ていて思います。

ある程度は許容範囲だし、ある程度逸脱してくると業績にも影響してきます。


あるマネージャーさんは、

「結局『ありがとう』と言うことが大事ですよね」

と言いました。正しいようでもあり、でも「その人のくせが出た」とも言えます。

このかたは回復志向さんなのです。そして「人を助けて、『ありがとう』と言われたい」という気持ちが人一倍強い。

そういう人が「ありがとうが一番大事ですよね」というときは、少し気持ちが弱っていて、そしてありがとうに飢えているときかもしれない。
また、回復志向が支配的になっているときは、回復志向は問題点をみがちな資質ですから、人の美点より欠点に目が向きやすくなっているかもしれない。それで重要な承認どころを見逃してしまっているかもしれません。


一方、「承認=ほめる」と理解しやすい人もいます。「すごーい」「さすがあ」みたいな言葉を使いやすい。それは、多分ご本人が「ポジティブ」が強いかたなのだと思います。
「ポジティブ」が強いと、見通しが甘いとか同じミスを繰り返すとか、そういう問題があるかもしれない。また、人によってはポジティブな人のいう「すごーい」「さすがあ」系の褒め言葉はかえってバカにされた、と感じて不愉快になるかもしれません。

去年の7月東京で、「上司が見えすいた褒め言葉を言ってきて不愉快」という話が出ましたが、すごーいさすがあ系の言葉はある程度誇りを持って仕事している人に使うのは気をつけたほうがいい、と思います。

こういう、人によって理解にくせが出る、というのは、最近でこそパターンを帰納して「あなたの場合はそういうことなんですね」と言えるようになったけれど。


ではどうすればいいのか?というと、当協会方式で研修のあと「宿題」をお出ししますが、そのとき指示した「型」を守っていただくのが一番で、業績にもいい影響を与えます。

一応あの「型」を守っていただくと一番汎用性が高く、(定型発達の人なら)相手が誰でもほぼ伸ばすことができ、また以前「瞑想」との関連で述べた「変化に気づく」というところにもつながる、いわば「拡張性が高い」のです。

そんな風に単純なものでも考え抜いて作られてるものなんですが、なかなかわかっていただけなくてねえ。。


従来のコミュ力研修では考えられないぐらい、当協会は「型」を重視します。そしてそうむずかしいものでもありませんが武術経験者は、習得がいいです。

「型」による指導をするためには、先生に一定以上の「権威」がなければなりません。
あんまり皆さんそう思ってくれませんが、わたしは「家元」のような立場です。


※※※※



去年の秋、高槻商工会議所というところで講演し、そこでは年配の経営者中心の聴衆で「過去の研修の中で一番良かった」と、嬉しいご感想をいただきましたが、

そこで使ったのは今時のプレゼン術とは真逆の話し方でした。

関西だからと言って笑いの要素を一切入れない。身振り手振りも、自然に出る範囲以上のものは入れない。

そしていつもの芸のない淡々とした口調で、ひたすら自分の「やってきたこと」に徹してしゃべりました。
決して愛想のないのがいいことだと思っているわけではないので、聴衆と高槻の土地に対するありったけのリスペクトを込めて話しました。

ちょっと上手さを自慢する講師の先生のような「いなす」「いじる」というのは、一切やりませんでした。


でも、わたしが思うに関西の聴衆だってそういう講師の先生に飢えてたんじゃないかと思うんです。


「過去の研修で一番良かった」とまで言っていただけるというのは。


※※※※


わたしは記者出身ですが、もう12年、マネージャーたちと接してきたお蔭で彼らの堅実な思考回路というのは身についてきたと思います。

わたしの仕事は女性としては「重い」種類の仕事だとおもいます。組織の底辺の部分に変化を起こして組織を良くしてしまう、というのは。


この「重い」仕事を理解するのは、「重い」思考力のある人でなければなりません。
「重い」思考力を持てるかどうかは、かなり「才能」だな、と思います。


※※※※


いつものことながら、

「正田さんの思い」
「正田さんのご主張」

という言葉は大嫌いであります。

わたしが女だから矮小化している。

「正田さんの実績」

という言葉がふさわしいでしょう、これだけ実績があれば。
「思い」「主張」はだれでも語ることができます。
「実績」は、その都度起きていることと誠心誠意向き合い、考え抜きやり抜く態度から生まれます。
自分自身何かをやり遂げてきたビジネスパーソンなら、その違いはわかるはずです。


これも繰り返されている問題で、こちらに初出記事があります。

「想い」についての違和感


http://c-c-a.blog.jp/archives/51788949.html

ああ、また嫌な人間になりそうだ、わたしは。



 「話す」という行為は何なのだろう。

 人は何のために話すのだろう。


 こどものころ「話す能力」が決定的に欠けていたところから出発して研修講師になったわたしはよくそんなことを考えます。

 で答えをほかの記事にゆだねるのは人が悪いような気もしますが、
このブログに折りにふれ再掲する記事があります。

 「人に教えるということ」

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51754001.html


 やっぱり、周期的に「これ」がらみの問題が出てくるので、登場回数が多くなります。

 おなじだなあ、と思います。



 わたしは口頭で口数のすくない人間だけれどどういうことをアカンと考え自分自身にも戒めているか、ということはネット上にしょっちゅう書いているので、受講生さんはおおむねわかってくださっているのではないかと思うんですが―、

 ナルシシズムの高い人だと、一応目を通すけれど「へっ」という気持ちで読んでいる、ことがあるだろう、と思います。基本だれのこともリスペクトしないし、「教えてもらった」と思うことがありません。



 ナルシシストは男性女性の区別なく存在していますが、多少男性のほうが多いようにも思います。女性にもいてます。

 以前にも「インタビューが人を狂わせる」という意味のことを書きましたが、これまでインタビューさせていただいた中で一番楽しく爽やかだったのは、有光毬子さん。
 徹頭徹尾ご自分の「やってきたこと」を実務家の語りで話されましたし、1時間を超えるインタビューでも後半ダレたり舞い上がったりすることがない。自分を見失って言ってはいけないことまで言ってしまう、ということがない。インタビュアーの私に対しても最後までリスペクトを忘れないでくださいました。そうした人柄全体に触れるのが楽しかったのです。
 「話すこと」によって狂っていく、ということがありません。

 それでいうと先日の太田はるよさんも、これは講演でしたが、同じ感触をもちました。どうしてこの人の立場でこういう知性を維持できるのだろう、と不思議な気すらしました。

 そして、みているとわかるのです。太田さんの話が聴衆のこころに「すうっ」と入っていくのが。

 
 さて、正田は?今回反省点ばかりなので・・・



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 今日は読書日記ばかり3本目をアップします。

 「人に教えるということ」の記事も最近シリーズ化しつつありますが、実はこれはルーツがあって、去年亡くなった実家の母は中学教師だったので、実家には中学の今でいうならカリスマ国語教師、大村はまの『教えるということ』があったのです。

 私が中学生ごろから、置いてあったと思います。

 中の文章は丸々忘れてしまいましたが、そこから受け取ったの大村氏の「教える覚悟」でした。


 それがどこか頭の中にあって、「人に教えるということ」のシリーズになっていると思います。
 自分は長いこと「教えるなんて嫌いだ、自分はそんな器じゃない」と言っていたくせにね。


 とりわけ大人に対するヒューマンスキル系の教育研修では、

「私は教えているんじゃありません、気づいてもらうことをしているんです」

という言辞はあちこちにみられます。

 ただ、それでは教える側学ぶ側どちらも責任を問われない、責任を引き受けていない、という趣旨のことも、わたしは著書やこのブログなどに書いてきたつもりです。

 そして、とりわけ「承認」という巨大な広がりと深さのあるコンテンツについては、「腰の引けた」伝え方では伝わらない、とも。


 その「私は教えていません」に対する、子どもの教育現場からの答えが、今回ご紹介する『教えることの復権』(大村はま/苅谷剛彦・夏子、ちくま新書、2003年3月)でした。

 時期的には、1998年から導入された「ゆとり教育」について、学力低下の警告サインが出始めたころです。

 ゆとりに対してつめこみが正しいのか、という議論はさて置いて、「教える」を再度標榜する大村氏の議論に耳を傾けてみましょう。


 れいによって印象的だったところの抜書きです:

大村:単元学習には非常に教師の力が要るわけ。この単元の目指すものはこれって決めて、そこへ向かって具体的に手を尽くさなければならない。これよさそうだ、これ楽しそうだなんてやっていたら学力低下になるのは決まっている。そんなやり方で、目標もはっきりしないのに、そのうえ子どもの希望に任せるなんてことをしたら、危ないですよ。まだ選ぶ目もない人に選ばせるわけだから。


 
 これは私が言ったら不遜にしか聞こえないでしょうが、中学教師の大村氏の立場でもこの言葉を言うのに当時は勇気が要ったことと思います。しかし真実です。より時代が下ると内田樹氏が『下流志向』で、教育の消費者になってしまった子どもたち、ということを言い出しました。

 そして、大人の世界でも残念ながら言える部分はあります。たとえば「承認教育」を行うか行わないかについて、多数決で決められることではありません。なぜならこの教育は従来の延長線上ではない成果を創りだしてしまうので、未経験者は誰もその未来を予測したりイメージしたりできないからです。それは多数決では選べない問題です。


大村:教師から問いを出して真実を聞きだすなんて無理なこと。子どもを知るというのはとにかく大変なことですよ。教育の仕事で最大のものではないかしら。その力を持たずにいろんなことをやっても、うまくいかないというくらい。
 私は、自分から問いを出して「このごろどんなふうですか」などと聞いて返ってくる答えのなかには、真実はないと決めていました。そうでなくて、私がいろんな話をしていて子どもも面白く聞いているうちに、思わず自分から自然に出てくる話、そのなかにピンピンと感じるものがある、それを感じとるのが教師の力じゃないの。

 

 これも深く頷く箇所です。私がこのブログを延々と8年間も書き続けることの理由の1つは、これです。身近なエピソードでも読書日記でも映画評でもあるいは自分自身の方針説明でも、とにかく私から大量の情報発信をしておくのです。すると、それを見ていた人は何かを感じてくれる。そして次回あったとき、関連でその人の心に浮かんだ思いをこちらから問われるのも待たずに話し出す。私は、その人の話題が最近の自分の記事のどれかとシンクロしてるな、と漠然と思いながら、でもその人から出てきた大量の思いを受けとめるのです。

 気持ちとしては、最近のどの記事の関連でこういうことを自分は思った、と前置きをつけてくださると本当は嬉しいんですけどね。でないとときどき相手の話が「見えない」ことがありますので。

 そして、「その力を持たずにいろんなことをやっても、うまくいかないというくらい」というのは、恐らくそうした相手(大村氏の場合は、子ども)から出てくる思いをすくいあげることなしに「教える」作業をしてもダメでしょうと、そういう「一方的に教えるとか押しつける作業はダメ」と、ただ教えることの限界も言っているのだと思います。短絡的に、「教える」ことを復権させる、じゃあ一方的に立て板に水と教師がしゃべってていいか、と大村氏はそんな極端なことは主張していません。もちろん私もであります。


 
大村:戦後の一番の失敗は、先生方が教えることをやめたことにあります。教えることは押しつけることで、本人の個性を失わせると、そういう話がたくさん出たでしょ。そういうのがちょっとしゃれて聞こえた。(正田注:大人の研修の世界ではその流行は今も続いています)戦後の教育の大失敗ですよ。先生とは教える人でしょう。教え方が悪かったので詰め込みになったかもしれない、だけど詰め込みになってしまったことがまずいだけだったのに、教えることを手控えてしまって、あの頃から教師が教師とはなにをする人かというのを忘れたのではないかと思う。
 

夏子:サッカーでも野球でもいいですが、そういうスポーツをやるときには基本的な技術がとても大切だから、まずは、こつこつ走るとか基本動作を確実に覚えるとかいうような地味な練習を積むしかないですよね。一番いいフォームがすっかり身につくまで、素振りを黙々と繰り返すような部分です。コーチは、それこそ手取り足取りで、理想的なフォームを教えることに迷ったりしないでしょう。
 ところが、学校の先生方が勉強については、そういう基本的なことを教えるのに、スポーツのコーチほどには手取り足取りしていないような感じがありますね。
 


 はい、私は大いに同意します。「自分は教えない」というのは単なる逃げ、責任回避、だと思っています。教えるというのはそれ自体なかなか難しいことで、それが出来ないから「教えない」のではないか、と勘繰りたくもなります。でも大人のヒューマンスキル研修の世界でこんなこと言うのは少数派です。

 「おこがましい」のは、承知のうえです。そのおこがましさの重圧に耐えた人だけが本当に教える人として人前に立つことができるのだろう、と思っています。
(だから、私は1日研修が終わると翌日はほとんど倒れているのですが、普通の「教えない」先生とか「好き勝手な事歌ってる」先生と比べてなぜそんなに「疲れる」のか、多くの研修事務局の人にはわかっていただけないみたいです)

 
 
 ・・・と、本書についてはほとんど無批判に「そうだそうだ」と心の中で叫びます・・・


 もうひとつ、本書の主題ともこの記事の主題とも少し離れているのですが、私が「引っかかった」くだりがありました。

 
夏子:どんな職業でも、仕事のしはじめの頃には、上の人にコテンパンに叱られてギャフンということってあるじゃないですか。私も、おまえは根性が曲がってるから仕事がうまくできないんだ、と言われたことがあって、次の日仕事に行きたくないと思ったことがあります。そんなこと言われる筋合いはないっ、て腹が立ってね。もう打ちのめされるぐらいにきびしくされて、それでもなんとか奮起してやり直すと、一歩成長したり1つコツをおぼえるというのがある。だから上の人は、自信をもって駄目出しをするのでしょう。こんなので給料もらえると思うな、なんて言われながら歯をくいしばって仕事しているのだけれど、先生にはそういう場があまりないんじゃないでしょうか。まわりは子どもばかりだし。



 これも、今日では「パワハラ」の観点から語られそうなことを言っていますが大事なことのような気がします。
 大学まで22年間で学んだとはまったく異質な種類の学びの世界に入る、そのときにそれまで身に着けていた(と思っている)ことを一度解体してゼロから泥まみれになって、初めて習得できることってあります。 

 自分で自分にダメ出しをできる人はそう多くない。しかしそういう時自信をもって駄目出しをできる上司は今どれくらいいるだろうか。また、「ブラック企業」の影響か、最近では大学生に対してパワハラ・メンヘルの講義をするようになっているそうだけど、極端に「自衛」の感覚をもった若い人が、そうしたダメ出しに出あって初めて学習できることに対しても心を閉ざしてしまわないだろうか。

 ふう、考え過ぎでなければいいのですが。


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 以前、「人に教えるということ」という記事の末尾で、

 
「今日だけではすべてをまとめきれませんが、そういったもろもろの、私自身の講師としての戒めをお伝えするだけで、おそらく1年から1年半は、優にかかってしまうだろうと思います。」

と、また不遜なことを書きました。

(余談ですが上記の記事は会員の柏原さんが以前、「これコピーしてうちの部署で配りました。これができていたら、みんな職場のOJTってできますよね」と言ってくださったのでした。ああ自慢。)


 でも私はしょっちゅう「100年後」のことを考えるし、そのころは私は当然生きていないし「私自身の講師としての戒め」とかいうのを人様にお伝えすることもできません。


 なので今日、ふいに1つ思い出したことを書いておきます。「講師としての戒め」というほど重々しいものではなく、「気がついたら私はこうやってるな」というものです。


 承認中心コーチングも当然、参加型のワークショップ形式でやります。

 であるとき気がついたのですが、ワークショップというのは、「指示命令」のかたまりなのですね。

 「参加型」というのは、一方的な講演お話ではなく参加者も何かをやらされる、ということ。参加者に紙を渡して「はい、ここに何か絵を描いて」というのもあるし、粘土を渡して造形をしてもらうのもあるし、生きものと触れ合ってもらうというのもあるし、

 コーチングみたいなコミュニケーション研修だったら、「はい、2人1組になってパートナーの人に〇〇を言ってみて」などというのがお約束で入ります。

 
 その、「はい、2人1組」というのは、すなわち指示命令。コーチング研修だったら冒頭からエンドまで何度となくそれが入ります。

 そういう時の声のかけ方が、講師の「カリスマ性」を決定するようなところがある。

 どちらかというと、思い切りよく「はい〇〇して!」と、言い切りの命令形で、それも早口で、言えるとあなたは「カリスマ性のある研修講師」と、なると思います。

「はいでは2人1組!!」

「2分間で〇〇を言い合って!」

 大声で、早口で思い切りよく、「ですます」をつけない言い切りの形で。

 さあ、できますか?


 ところで、私はこれが長いことできませんでした。(今でもできません)

 ワークショップリーダーというのは、これもまた強みの師匠の森川さんによると、ストレングス・ファインダーで「指令性」それから「活発性」をもっている人が有利らしい。しゃきしゃきっと仕切れるほうがいいらしい。


 私はもともとどちらもないし人前で話すのもきらいなので、自分は研修講師になど向いていない、と思っていたほうでした。話を聴くのが好きだからとコーチングに出あってから「教える」業に転向するまで2年を要しました。2年たって嫌々始めたころ、旧CLS設立前の自主勉強会から初の「1位マネージャー」が出て、それでまた渋々「講師である自分」を引き受けざるを得なかった、と後ろ向きのスタートでした。


 そういう私なので著書にも言い訳がましく書いているとおり、今でも話はヘタです。もっと上手な人は一杯いらっしゃいます。また、ワークショップで指示命令を出すのも昔も今も苦手です。

 
 ところが、そこからノウハウとも言えないノウハウが生まれました。

 「指示命令」を下手くそな自分でも言えるようにと考えると、自然と「丁寧語」になりました。

 「・・・してください」

と、語尾まで言うようになりました。

 ただ丁寧とはいっても、きく相手の気持ちを考えると、指示命令の言い方はあまりモタモタしてはいけません。きびきびして、短めのセンテンスでかつ要領よく必要な要素を入れて、そしてしてほしいことは「してください」と、きちっと言い切る。そういうときは「してくれたらいいな〜と思います」なんて、虫のいい曖昧な語尾で言ってはいけません。

 ただ、「してください」まで言うんだけど、その「してください」に、愛というかリスペクトがあると感じられるように言う。特に「ください」のあたりでしょうか。上手くわかってくださるかどうかわかりませんが。

 
 こういうのは、正田駆け出しのころは30代おわりか40ちょうどごろで、受講生のマネージャーの大半は自分より年上だった、そのことを人一倍意識するほうの私だった、というのも関係します。

「相手は人生経験もビジネス経験も自分より『上』なんだ、たまたま今日のコンテンツについて私のほうが詳しいから教えているだけだ」

というのを意識していると、独特のそういう「ください」の言い方になった。

 これは今でも続いていまして、受講生様の大半が私より年下になっても同じです。

 そんなのがノウハウなのか?っていうと・・・。


 去年ぐらい、学校の先生のセミナーにしばらく行って思ったのが、先生のセミナーってやっぱり「参加型」が多くて「はい2人1組!」が速いテンポで沢山入るんです。で、「やらされる側」になって、思ったのは、

「この口調で指示命令されてワーッと動くときというのは、自分が子ども返りした心の状態ダナー」

と。(ちなみにコーチング、ファシリテーション、その他コミュニケーション研修に行った人が少し子供っぽくなるのはよくみる現象です)たぶん、話されているのも小学校の先生だし小学生さんに「はい2人1組になって!」というのと同じ口調で、大人にも言ってるんだなと思います。

 
 で、それが悪いのかというと・・・。

 正田、自分が純粋にただの参加者だったら、特に全然困りません。

 しかし、いつもの癖でそのノウハウを自分が管理職向けにやるセミナーで行ったら何が起こるのかと考えてしまうと・・・、

 正田みたいに10年選手になると、許されるかもしれません、「はい2人1組!!」っていうのが。

 
 でも私は自分のやる管理職研修の空間を「モデリング」ととらえ、提示しているのであります。

 ここでモデリングというのはつまり、私指示する側あなた従う側。その役割分担があるのはしょうがない。でも私の役割は職場での管理職と同じ、では私がどんな口調で指示をすれば、受講生の彼ら彼女らは目の前の課題を気持ちよくこなし、さらによい心理的状態で職場に戻り、部下に指示出しをするだろうか?と考える。

 まず、受講生さんの自尊心を傷つけてはいけない。奴隷のように一兵卒のように扱われてはいけない。指示ひとつとっても、相手を大人とみなしたぬくもりのある指示の出し方をしなければならない。ぬくもりというか、リスペクトというか。心が傷つけられた人は、その傷に気づかないままほかのだれかの心を傷つけようとします。これはハラスメント連鎖の記事の中で書きました。

 そうして、できれば受講生のマネージャーが部下にこんなふうに指示出しする人であってほしい、というように、私からも受講生に指示出しするのです。


 正田の「ください」には、そんなこだわりがあるのです。

 ああ自分で書いていてくだらないこだわりだ、コップの中の嵐だ、と思います。

 でも私あす死ぬかもしれないですもんね。

それと、「何が1位マネージャを作るのか」って結局ミステリーなままじゃないですか。



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こちらもお勧め

「情報が沁みるスピード―続・人に教えるということ 」
 

 研修先の製造業の受講生様のもとでの効果を計測する統計調査紙(アンケート、n=約200)が返ってきました。


 リーダーである受講生様自身ではなく、その部下のモチベーションと仕事能力の向上をみるもの。リーダーからの「承認」の有無がそれらにどれだけ影響を与えるかをみるデータです。


 全体の約半数にあたる87名分を入力・集計したところ、・全項目および・承認・媒介変数・成果変数 のすべての大項目で、平均0.2ポイント(満点は7点)上昇していました。

 
 たかが0.2ポイントというなかれ。受講生様の中でも外気温に触れる部署ではガクンとポイントを落としており、この暑さがモチベーションに相当影響したことは想像にかたくない。そんな中での0.2ポイントは大変に貴重です。「承認」は暑さに勝ったのです。


 リーダーたち自身も暑かったでしょう、寝苦しかったでしょう、イラッときたでしょう。よく頑張ってくれました、ありがとう。

 ・・・おっと、まだ半数のデータが残っているので最終結論はまだ先なのですが。


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 さて、嬉しいお話のあとでひとつ嫌〜な話も書いておこうと思う。読みたくない人は飛ばしてください。

 
 当NPOの事務所に妙な脅迫状まがいのものが届いた。

 筆跡を隠したカクカクした字体で、


「ゴテイゲン

ジュコウセイカラ コトノホカ ヒョウバンガ ワルイ

・オシツケガマシイ

・イッポウテキ

・・・」


 これを、「すわ、品質問題」ととらえなかったのは、ひとえに、これまで当協会はセミナー・研修の場で何度も匿名アンケートをとってきており(主催元の公的機関が配布回収したものを含む)、その中で「押しつけがましい」「一方的」という文言は出たことがないからです。

 もし出てきていたのなら「やっぱり・・・」と、多少しゅんとし、反省したかと思いますが。


 もともと当協会は「型で教える」と明言しているとおり、ヒューマンスキル系の研修としてはかなり明確にきっちり「やりかた」をお教えするスタイルです。

 それに対して「押しつけがましい」という反応がこれまで出なかったのは、恐らくは、受講生様方も「承認」を学んで実際に職場で「やる」ことの意義をよく理解してくださり、また実際に「やる」からには、機械の操作手順をおぼえるのと同じように丁寧に伝え、きっちり理解するプロセスが必要だとわかってくださっているからでしょう。


 「型で教える」スタイルは、もとより「押しつけがましい」と言われるリスクを負います。だからこそ、必要性を丁寧に説明するし、丁寧に受講生様と対話し、一方的に押し切られたと感じさせず自ら選んで受け取ったと感じてもらうようにしているのです。そこに日頃からどれほど細心の注意を払っていることか。

 
 基本耳にするのは、「正田さんの押しつけがましくない教え方だから気持ちよく学べた」というものです。「型で学ぶ・型で教える」という、やや自由度のない堅苦しい教育を伝えるとき、講師の実績や信頼性、それに受講生様にフェアに発言機会を与える誠実な態度はきわめて大事です。


 自らリスクをとりつつ、そのことの危険性をふまえて細心の注意を払いながらやっている以上、今更受講生でもない人(恐らく嫉妬と反発で凝り固まったご同業の方。心当たりの人はいる)に「押しつけがましい」と言われてもぴんとこないのです。


 この脅迫状は、最近も何度もブログでとりあげているナルシシズムの裏返しの嫉妬やっかみの感情が具体的な形をとって出てきたものでした。この業界にはナルシシズムの権化のような人がいっぱいいます。ナルシシズムを喚起するタイプのリーダー研修、コミュニケーション研修のたぐいもいっぱいあり、そういう研修やセミナーに行ってナルシシズムに巻き込まれた人は酩酊状態のようになったり、ぎらぎら凶暴な光を放ったりします。当ブログに登場する尊敬する友人たちにはそうした匂いはないのは幸いです。

 
 私は極力水のような澄んだこころで、自分をよく見せようとも大きく見せようともせず、受講生様と相対します。受講生様が十分な批判能力をもち、十分に咀嚼したすえに私が教えたことを取り込んでくださるよう、熱狂的な空気などはつくらず、静かな対話と思考の場をつくります。


脅迫状の後半には私の立ち回り先の総務責任者ともコンタクトした等と書かれてありますが、真に受けるそそっかしい人が出ないことを祈ります。



 一方で、自ら「やる」ことを選択してくれた、立派な大人のラインリーダーの受講生様方には、しみじみと敬意と愛情を感じます。そこに本物の心のつながりが「ある」のだ、ということを信じられます。


 どうか彼らに幸ありますように。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
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「第3回承認大賞」募集ページはこちら!あなたのエピソードを教えてください

http://www.shounintaishou.jp


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 「研修カクテル」は、今日わたしが急に発明した造語です。

 本当は「研修チャンポン」と言ったほうがいいのかもしれませんが、語感が今ひとつなので「カクテル」としました。

 ようは、コーチングやそれに近いモチベーションや心理学、意識変革の研修同士を「まぜて使う」あるいは「短期間のうちに連続して受講する」ことをしたときに、どんな副作用が起きてしまうか、というお話。


 このところの経験に基づく「古くて新しい問題」について、書いてみます。いささか気が重いですが、やっぱりこういう仕事をしているものの社会的責任のうちかな、と思います。


 
 以前より、この手のやや心理学がかった研修で起きる「副作用」には、当協会は神経をとがらせているほうです。


 「研修副作用」を扱った記事をざっと再掲してみます:



 「ときどきコーチを返上してジャーナリストになるです」(08年5月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51336521.html


 「続・ワークショップ症候群」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51336821.html


 「前向きなことだけ言ってればいいのに正田は」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51336962.html

 「感情と自由の暴走が何をもたらすか」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51339067.html


 「エスリンでうまれたものと日本」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51344385.html


 「続・エスリン研究所―実験と成功と失敗の歴史」(同上)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51344817.html


 「幼児化か、老化か」(10年3月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51564619.html


 「ワークショップとの付き合い方、マネージャー不在のマネジメント、男の嫉妬」(11年6月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51740369.html


 「自己愛、団塊、ワークショップ症候群、シュガー社員」(12年1月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51786028.html


 「断定・恫喝と意識変性の関係 続・人に教えるということ」(12年5月)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51802510.html  



 まあ何とも、周期的に同じようなこと書いてるなあ、と思います。ようするに周期的に似たような現象に出くわしますからね。

 1回1回の記事のたびに、そこには「他社研修」にかぶれて去って行った人の心痛む記憶があります。
 これまでの経験では、「他社研修」にかぶれてわたしに対して見下しの態度をとってきた人とその後人間関係を維持できることはほぼありません。そしてわたしは「承認」に対して「見下し」の反則技を出してくる卑怯な人には、かなり手厳しい物言いをします。


 上記の記事を読んでいられない、ご多忙な大多数のこのブログの読者の方々のために、こうした研修の「副作用」とはどういうものか、ざっと抜書きをしますと―。

・ドラッグジャンキーのような状態。
・スピード狂。
・傲慢。ナルシシズム。
・現実感のない浮遊感。全能感。
・演劇的な身のこなし。
・現場への想像力の不足。
・自分の思いもよらない他者からのフィードバックの回避。打たれ弱さ。
・欲望全体の亢進、アルコール依存や性欲の亢進をふくむ。
・自分をほめてくれた先生に対する見下し。
・苦しい「他者承認トレーニング」や謙虚さへの見下し。


 上記で扱った対象の研修は、決して「コーチング」にとどまりません。コーチングよりもっとディープな心理学、専門用語満載の心理学の1分野(わかる人にはわかると思う)、それを取り入れたコーチング、プレゼンセミナー(自分を全面肯定せよ、という教えが入っている)、ワークライフバランスがらみの時間管理セミナー(自分中心に時間を組み立てよ、という教えが入っている)、「感情マネジメント」の研修、などなど。ひょっとしたら、「自分のやりたい仕事にこだわれ」というキャリアカウンセリングもそうかもしれない。


 それと心理学系に関するかぎり、どの分野の研修にしても、講師が「知識自慢」「専門用語自慢」をしているタイプのものは意味がない。実務にそんなガラパゴスなものは必要ないのです。

 技術関係で、その技能を絶対に身につけないといけない、という人対象のセミナーならまた別でしょうけれど。

 今年初めからは、「自己愛(性人格障害をふくむ)」という概念を得て、こうした研修が「自己愛を育てる」役割をしている可能性は大、と思っています。


 
 さて当協会の研修はではどうなのか、ということですが、

 当協会は設立以前の任意団体の時代から、いやもっとさかのぼり、任意団体設立前の2003年ごろから、こうした「他社研修」のもたらす鬱陶しい副作用をまのあたりにし、それで

「コーチングはマネジャーのマネジメント能力向上のため、と目的を絞って教えるべき。自己実現などは意味がない」

と、割り切ってしまったのでした。任意団体「コーチング・リーダーズ・スクエア」はそもそもそういう割り切りの産物であります。(国内では初めてだったと思います)

 2004~6年の、「1位マネジャー輩出」という現象もまた、こうした割り切った教育方針と無縁ではないと思います。


 そして「マネジャー育成」に絞った結果、マネジャーの「思索/熟慮」「自己との対話/内省」「共感」などを大切にする、独特の間合いをとる研修方法になっていったのでした。


 時々、「今時の人数を絞った忙しいマネジメントの中で、マネジャーさんはみんな早口でくるくる、くるくる会話している。それに合わせたテンポの研修にしたほうがいいのではないか」と思うこともわたし自身ないではないですが、

 経験的にそれはちがうのでした。

 現実のマネジメントが「早く、早く」「巻いて」となればなるほど、研修ではテンポを落とし、かれらに十分な思索をさせてやる必要があるのでした。


 それをしてやって、初めて「承認」という従来のマネジメントの常識の逆をいくものも、

「これは真実だ」

と、しみじみと受け容れられるようになるのでした。


 かつ、以前「人に教えるということ」という記事で書いたように、

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51754001.html 


 マネジャー育成の研修講師は、できればかれらに「教え方」の模範になれるような存在でありたい。行動理論でいうモデリングであります。

 ひとつの研修が忙しい職場の人々に何を残すか、というときに、実は内容よりも、研修講師の口吻、人に対するあり方、のようなものが印象に残るのです。

 であれば、講師はマネジャーたちが職場に戻った時こんなふうに周囲の人々を育成してほしい、というように、講師自身が振る舞わなければなりません。


 謙虚に、威圧的でなく、強引でなく、丁寧に説明を尽くして人々に納得させられるように。

 講師が威張る人であればマネジャーも威張る人になります。講師が一方的に早口でしゃべる人であればマネジャーも一方的に早口でしゃべる人になります。


 
 多くの場合、わたくし正田がつくる場というのはこれまで、

「清々しい場」

「さわやかな場」

と、評価していただいてきました。

 これは、「承認」を重んじ、「讃えるべきことを率直に讃える」ことを自らに課し、受講生にも課しますから、結果的にそうなるのだろうと思います。

 できれば、水のような澄んだ心持ちを職場に持ち帰り、曇りのない眼で周囲の人々や状況をみるようであってほしい。

 急激なエネルギー上昇などは当協会の研修では起こしません。それはリーダーの場合害になります。


 ただ中には「合コンノリ」みたいなものを持ち込む人もいますが。



 そう、そこで、「研修カクテル」のお話になります。


 当協会の研修としては、上記のようなことを心がけ、単独で使用していただければ高い効果を生むようにつくられています。
 
 ただそれは、あくまで単独で使用していただいた場合です。


 この時代、残念なことにこの手の研修を畳み掛けるように何種類も採用し実施してしまうことがよくあります。

 また、人材育成担当者のかたが、当協会の研修に興味をもたれてオープンセミナーを受講されたあと、すぐ続けて「他社研修」を受講されることもよくあります。


 
 わたくしは、それは良い結果を生まないでしょう、と申し上げるほかありません。

 この種の研修の場合、1+1=2ではありません。ゼロや、マイナス1、マイナス2になってしまう可能性すらあります。


 複数の研修をはしごすることによる、不必要な高揚感。謙虚をむねとする研修のほうがみすぼらしく見えてしまうこと。複数の業者をてんびんに掛けることによる全能感、「上から目線」、教育や講師への畏敬の念のなさ。


 これは、例えば「利き酒」をするときもそうでしょう。一度に多数の種類の酒を試飲したら、その中のとがった味のものが良く思えないか。添加物の入ったもののほうが良く思えないか。刺激が強いほうが良く思えないか。

 たべものの試食の場合も、なんでもそうだと思います。


 あえて強い刺激を抜いている丁寧な工芸品のようなものをきちんと評価しようと思うなら、ほかのものと混ぜないことが大事です。

 あるいは、ありとあらゆる研修をこれまで受けてきた人が、そのあとに受講してみることが大事です。


 
 この忙しい時代に、企業の人びとに新しい意識を植えつけるということがいかに困難であるか。でもそれが必須というとき、

「大事な研修をチャンポンにしない」。

 言葉にすると当たり前のようですが、あまりにも多くの場合不用意にそれが起こってしまうので、教育NPOとして警鐘を鳴らしたいと思います。

 教育を冗談ごとと思わないでほしい。大事な研修を大事にしないから、結局「研修は効果がない」という間違った結論になって、非人道的なマネジメントがはびこるのです。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
 


 

「教え方」について、なぜ正田の「教え方」はこうなのか。


 このブログでは何度も出ている話題で、

「人に教えるということ」という記事も一度書いて職場で回覧してくださった方もいるし、

北中教授との対談本『最高のプロの2日間の授業』にも出ている話題ですが、少しずつ違う表現方法で何度も出さないといけないようなので。


 「男は『地位』『優位性』が好き、女は『和合』『手助けしてあげる』のが好き」


 これが、『わかりあえる理由(わけ) わかりあえない理由(わけ)』(デボラ・タネン著、講談社+α文庫、2003年)の主題です。

 コミュニケーションの世界ではよく引用される本であります。


 この観点からみると―。


 「たとえば、女は〈和合〉を重視するから、自分のもっている情報をできるだけわかりやすい形で相手にも提供し、それを共有することで、お互いの格差を少しでも早く縮めようと努めるだろう。そのときの話し方には、相手を見下したようなところはなく、『私はあなたを手助けしているのよ』というメタメッセージが読み取れる。


 一方、〈地位〉を重視する男性の場合は、相手のもっていない情報や知識や技術をもっている者のほうが一段上だという意識があるので、そんな姿勢が言葉の端々に出ることもある。しかも、わざと説明を難しくしている場合すらあるようだ。相手が理解できないことで、自分の優位性がそれだけ高められるような快感を楽しんでいるのかとも思える。何しろ、相手がひとつ理解するたびに、自分との格差はそれだけ縮まっていくのだから。


 同僚の男性からは、こんな話を聞かせてもらった。某学会で研究発表をしたひとりの女性学者は、ときどき話を中断しては、聞いている人たちに向かって「ここまでの話はおわかりになりましたでしょうか」と尋ねていたそうだ。

 
 つまり、彼女の一番の関心は、聞いている人たちが自分の話を理解してくれているかどうかにあったといえる。しかし同僚が言うには、自分が発表をする段になって、いったい何をいちばん気にかけたかといえば、聞いている人たちからバカにされたり、見下されたりすることがないかという点だったそうだ(そしてほかの男性研究者たちも、この点はたぶん同じだっただろうという)。


 こうした視点に立ってみると、もし自分の説明をわざとわかりにくくするのが、人からの攻撃を避けるためだとすれば、それも男性が自分を守るための一手段だといえるのかもしれない。」(pp.88-89、太字・下線正田)




 「男性」「女性」というくくりを使っているので抵抗を感じるかもしれないが、私の知っている優秀なマネージャーたちは、男性でも、ここでいう「女性」のやるような親切な説明の仕方を身につけていた。そのほうが部下が伸びるのだ。


 
 それでいえば実は正田も、脳科学者から「すごく男性的な脳」と言われた人なので、自分のことを女性的だとはあまり思っていない。

 でも10年ほど教えてくるうちにこのスタイルが身についた。もとは素でモタモタしたしゃべり方だったのだろうし、やっているうちに「受講生さんの『習得』のためにはこういう説明の仕方がいい。と体得した。

 つまり、ゆっくりめに、間をとって、途中で「ここまでわかりますか?」と問いを発したり、わざわざ付箋を配って「このロジックは正しいかどうかわかりませんよ。すこしでも疑問に思ったら質問してくださいね〜」といったりする。


 中年期の受講生さんにとって、「承認」のようなこれまでの常識と逆のものが「沁みる」のは、大変な”事件”であり、時間がかかる。それは一定質量の物体に化学実験を行うように、正確に時間を見切らねばならない。



 大量の知識を早口で与える必要などない。(必要だと思う受講生さんは、ちゃんとこのブログを探してみてくれる)


 受講生さんの「習得」は、もっともだいじなものなので、そのためには自分が少々バカだと思われるぐらい大したことではないのである。

 そこは、未熟な男性陣のまねをして自分は賢いとひけらかす必要などない。


「コーチは選手にわかる言葉で話せ」と言ったのは、禿頭の武田建氏。関学アメフトの10数人いるコーチ陣にそれを徹底させていた。


 ただ、そうした「正田研修」の価値をほんとにわかってくれるのは、やはり自分自身マネジャーで、チームを率いる大変さを背負い、また情報が自分の心に沁みるスピードもよくわかっている中高年のラインマネジャーたちだ。

 
 若い人、部下をもった経験がすくない人には、残念ながらわからない。往々にして、

「早口で大量の知識を注入してくれるのが良い研修」

と思っておられる。そういう人が教育担当者だったら、(往々にしてそうなのだが)残念ながらお別れである。


(まあ、「最上志向」や「自我」あたりが強い人だとそうなりやすいと思う。無駄にレベル高いものを見栄で欲しがる)




 最近、研修によんでくれた友人との打ち合わせで正田がいったこと:


「この研修で変わらなかったらこの人は一生変われない、という思いでやっている」


 なんと傲慢な言葉のようだが、

「承認研修」を行ったあとでその人の部下にメンタル疾患が出たら、どんなに悔いを残すことだろう。そして一度いい加減にやってしまったら、わるい形で免疫がついて、にどとその人は「承認」を真摯に学ばないのも確かなのだ。

 しかし世間にはそんな研修はごまんとある。私はそういうのの片棒担ぎはしないつもりだ。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


 

 中小企業の経営者さんに関するご相談で、よく出るのが

「説明不足」

というお悩み。


 ごく短い言葉だけしか言わない、結論だけしか言わない、それだけで自分の意図が相手(部下)に伝わったと思っている。部下は戸惑い、どこまでやっていいのか手足が縮こまり、期待される仕事の何割かしかやらない。あとでわかってどやされる。あるいはお客様からクレームになる。


 どういう資質がそこに関わっているかというと、恐らく「ポジティブ」だと思う。


「ここまで言わないでも、わかってもらえるだろう」


という、無根拠の期待感。それで、「言ったつもり」「伝えたつもり」の事故が起きる。


(このほか「男は言葉が短いほうがかっこいい」と思っているとしたら、「ナルシシズム」も関係しているかもしれない)


 ポジティブという資質は、このブログにも何度か出てきているが、高い地位の人だとトップ5にはそんなに出てこない。

 「回復志向」がトップのある事業部長さんは、「昔は私もポジティブでしたよ。経験を重ねるうちにそれが下がってきて」と言われた。

 
 気を付けないと自分を含めて人はミスをするものだし、部下を持つようになれば部下全員がミスをしないように気を配らなければならない。でないとものづくり企業で言えば、重大事故になりお客様を死なせてしまうかもしれない。

 元々ポジティブが強かったとすれば、「気をつける人」に転換するのは難行、苦行であったろう。

 でも普通は拠点の長などを務めるうちにポジティブが下がり、責任感とか、リスクマネジメント系の資質が上がる。

 その転換ができていない人は、あまり高い地位に上がらないほうがいいと思う。


「分かりやすさは送り手側の責任範囲のとらえ方にある」(2008年3月、藤沢晃治さん講演)

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51309688.html


 という記事なども参照していただけるといいです。

 ・・・なんだか、過去記事の引用が多くなってるなあ。



 
 このブログの少し前の「決める人とそうでない人―聡明なリーダーの陥る『決断依存』のワナ」

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51814400.html


 という記事。
 
 今日もメールニュースの中でご紹介させてもらった。


 この記事の最後は、「さて、あなたの会社・組織で、「改革」をやり遂げるには、何が必要なのでしょうか…?」で終わっているけれど、

 この問いの答えは、なんだと思いますか。


 色々ある。
 この記事は決して「トップダウン」が即悪い、と言っているわけではなくて、トップダウンで決めなければならないことも多々ある。「臣下」の者が既得権益を手放したがらないときなど多いだろう。

 ただ、「説明」を尽くさねばならない。「説明」しないまま、「こういう風に変えたら良くなると、みんなはわかってくれるだろう」と期待するのは、虫がいい、甘い。

 さらに、ものの性質によっては込み入った説明が必要になるが、一方的に長々と説明するときいてもらえないので、飽きさせないように色々な表現方法、媒体、それに「参加型」「ワークショップ」形式の中で、あるいはディスカッションを挟みながら説明するとか、テクニックが必要になる。


 それとやはり「ぶれない」のも大事です。


 正田は著書『認めるミドルが会社を変える』の中で、「大人に教える16か条」というのを書いていて、受講生様方が高いレベルで学習してもらうために何をしてあげたらいいか、という話を書いている。もしご興味があればご覧ください。「ぶれない」のもその中の1つです。


 ところで「学習」には、残念ながら先日ならった「敬」というのも大事です。
 
 それは私自身がモルモットになってみて、自分の中に「敬」という心をもっていた方が、よりよく学べるのがわかる。


 目に見えるもの何もかもを見下しているような反抗期の子どもなどは、可哀想に非常に学習能力が低い人だといえます。


 受講生さん方に「私を尊敬しなさい」ということは、残念ながらできない。それは、あくまで出会いのもの、受講生さんの中に自発的に芽生えるものです。


 ただ、「敬」を損なう環境条件というのはやはりあるので、今後出会う受講生さんに関してなるべくそういうものが排除されているといい、と願うばかりです。


 心穏やかな時が戻ってきた。

 良い感情に満たされて日々を送りたい。




神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

さて、「言い切り/断定」「恫喝」の教育手法と受講生の意識変性にまつわるお話です。



以前、ある講師の先生(お名前と分野は秘す)をNPOの例会にお招きしたところ、

かなりきつい「断定口調」でものを言われ、
「逆らう者は悪」という口吻で語られ、
かつ論法の中にいささか強引なところが目についたわけです。

その当時、社会正義と思われていた(今ももちろんそうではある)分野の方でしたが。


その結果、参加者はどのような状態になったかというと、

威勢のいい、そして美しい女性の先生でしたが、
若い女性参加者ほど、
うっとり見上げる。

「社会正義」を代表して、「勝ち組」になっている先生、
にあこがれの念を抱く。
「この先生についていけば、私も勝ち組になれる」
と思うのかもしれない。


その状態になると、ロジックの中の強引さはあまり気にならないみたい。

むしろ少々強引なロジックを言ったほうが、
その先生の優越性を証明することになるかもしれない。
・・・しかし、おうちや職場に帰って自分が習ったことをうまく他の人に伝えられるんだろうか。


でも、多分いいんです。
その状態になった人たちは、
リアルの世界で出会った人々に首を傾げられると、
「パンピーはだから困るのよ。わからなくて」
っていうふうに思います。

カリスマの強引なロジックに巻き込まれた人は、
一般社会で出会う人とコミュニケーションがとれなくなります。
見下すようになります。


正田が、セミナー・研修の中でも普通の人っぽく語っているのは、
こういう理由があるというのを、
受講生さん方はわかっていただけるでしょうか。

(いえ、単に体力がないだけ、というのもあるんですけどね。
あと自己陶酔するのはヘタですね)



正田は、「語りの力/雄弁術」で納得していただくことは
しないようにしています。
できるだけ聴き手のかたが、「内容」に神経を集中して聴いてもらえるように。

時々、いかにもボイストレーニングを受けた美しい声のスピーカーもみますが、
実はあまりに美しい声、美しい語り口は、
聴き手の脳を「音楽鑑賞モード」にしてしまい、
内容を注意ぶかく吟味・咀嚼することはしない状態にしてしまいます。

「正田の語り口」は、
受講生様方が、穏やかな理性的な心の状態で、
聴いた話を何度でも咀嚼し、批判思考をし、
そのうえでとことん納得して受容してもらうことを意図しています。

研修のあとで何度思い返しても、
そのときのロジックを正確に再現することができ、
第三者にも話すことができ、
他で得た情報と照合しても矛盾がなく、
自分の行動指針にすることも抵抗なくできる、というもの。

有能なリーダー・マネジャーには、
そのレベルの品質のものが必要です。



しかし、「人前で話す」とか、「大人相手にものを教える」という立場になって、
強引なロジックでねじ伏せてしまいたい、
その場の思いつきで人々を引っ張り回したい、
という欲(煩悩)をもたないでいるのは、むずかしいことです。

「子どもは生まれたときにはみんな一緒なのよ!!」

そう言い切って、
聴き手が「ほ〜」となってくれるなら、
言い切ったほうがたのしいじゃないですか。
そして自分のことをすごい人だ、この人についていこう、
と思ってもらえるなら。



正田がこの仕事に入って11年、
これまで何度か他の研修講師の方と一緒にお仕事させていただく機会が
ありましたが、
残念ながら私のそんな基準をクリアしてくれた方は少数でした。
非常に高いレベルのごく一部の方々でした。
なので、最近は他の先生とご一緒にお仕事することは少なくなっています。


もし、正田とご一緒に「企業内コーチ育成講座」の講師をしたい、という方がいらしたら、
その場合人前で話をされる内容について厳密な管理をさせていただきますことを
ご了解いただきたいと思います。
私は、事務的なもろもろのことはそんなにうるさくないのですが、
こと「講師としての心のもちようや発言」については異様に厳しく、スパナで頭を殴るタイプの人になります。


去年、「人に教えるということ」という題の記事をこのブログに書きました:

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51754001.html


この記事はその後、キヤノンの柏原さんが職場で配った、と言われていました。
職場でのOJT、ティーチング、に大いに役立つ考え方だ、なかなかここまでまとめて書いたものはない、と言っていただきました。「この通りすれば、みんな教え上手になるでしょうね」と柏原さんは言われました。



勝ち組になりさえすればいい、という人も沢山みるけれど。
それは、中長期の幸せは生みませんから。


数か月に1度、これに類することを言っている気がします。


あれです、
「ボールを見てボールを見てボールを見て、ナイスキャッチ!!」
というやつ。
受講生様方は、おわかりになりますね。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 アメリカは「自己愛病」にかかっている。ナルシシズムは肥満と同様に、ここ数十年で急増した。

 『自己愛過剰社会』(ジーン・M・トウェンギ、W・キース・キャンベル著、河出書房新社、2011年)によれは、全米3万5千人あまりを対象に行った調査で、アメリカ人の6.2%、つまり16人に1人は自己愛性人格障害にり患した経験があることがわかった、といいます。

 さらに驚いたことに、65歳以上の人では3.2%だったのに対し、20代は9.4%(若い男性はなんと11.5%)が自己愛性人格障害を経験していた。つまり20代は約10人に1人、65歳以上では30人に1人ということになる。(p.47)



 自己愛性人格障害が16人に1人。こういうデータをちゃんと出すところがある意味アメリカの凄いところです(上の調査は米国立衛生研究所のもの)。別の文献では、「反社会性人格障害が25人に1人」という数字が紹介されています。


ナルシシズムがどんな様相を呈するかというと、傲慢、うぬぼれ、虚栄、誇大癖、利己主義。自己顕示欲が強く、自慢屋で、独りよがりで、驕り高ぶっている。自分のステータスを見せつけられるモノへの執着も強い。身ぶりが派手で、自分の話ばかりしたがり、人を騙して出し抜く。ちやほやしてくれる人を(「側近」や取り巻きとして)引き連れ、ハンサムや美人のパートナーを持ちたがり、注目されたり有名になったりするチャンスに飛びつく。人を操ったり利用したりするのもなんとも思わない。ナルシシストにとって、他人は自分を引き立て、いい気にさせてくれる道具なのだ。

 人あたりがよくて魅力的なので人気者のナルシシストもいる(ただし、こういう人も最後には馬脚を露わして、自己中心的で不誠実な人だとわかってしまう)。


 現代のアメリカでは子育ての段階で「あなたは特別」と教え込まれる。そして心理学者も自己啓発セミナーも普通の教育者も、「自分を愛しなさい、でなければあなたは他人も愛せない」という。

 こうした風潮が子どもの頃からのナルシシズムを育てる、と2人の心理学者の著者らはいいます。

 日本のわたしたちでも当たり前に受け入れている、「自尊心」「自尊感情」はいいものだ、という思い込みを著者らは否定します。

 いわく、自分を愛さなければ他人を愛せないというのはまやかしだ。高すぎる自尊心は他人を傷つける結果になる。自尊感情の低いパートナーがあなたを愛している時「私を愛している?」と頻繁に問うが、あなたに対しては献身的なパートナーとなるだろう。

 (この論法は私にもちょっと新鮮でした)


 ナルシシズムがもたらす病理として、

・注目を浴びたいあまりインターネットで肌を露出したり級友を殴って暴力ビデオを投稿する高校生たち、
・同じ理由から大学で頻発する銃乱射事件、
「物質主義」の行き着く先として本来なら買えないはずの家を高いローンを組んで買う人々(ご存知、サブプライムローンですね)
「個性重視」ゆえに子どもに珍しい名前をつけたり(日本でも「キラキラネーム」全盛ですね)、自分のメールアドレスに"star"や"king"などのナルシシズム的な名前をつける人々、
恋人や伴侶を見栄えのよいアクセサリーや性のはけ口としか考えず深い愛情関係を築けない人々、
特権意識の高さゆえに学ばない、働かない、怠惰。そこで若手社員が定着しない傾向に拍車がかかる。同僚を踏みつけにして出世しようとする。


 などを挙げます。


 こうしたナルシシズム病をどう治療すべきか。

 著者らはナルシシズム拡大の原因を5つ挙げます:自己賛美、子育て、セレブリティの称賛/有名人崇拝、インターネット、放漫融資。

 
 解決策として著者らが挙げるのは:

 隔離。ナルシシストを雇わない、同僚にいたら接触しない。有名人のゴシップをみない。ステータスの高いナルシシストと接触しない。ネットは大切な友人との関係を維持するために使う。

 エゴを抑え、ナルシシズムを追い出す心のもちようとして、
 謙虚
 自分をいつくしむ心(自慈心。self-compassion、自己賛美ではなく、ありのままの自分を共感をもって受け入れる)
 念(マインドフルネス) 
 人のつながり、自分を支えてくれる人のことを考える。 
(3・11後の日本人はひょっとしたら一日の長があるかも?)

 子育てでは、
 子どもを褒めすぎない。失敗から学ばせる。「おまえは賢い」ではなく「よくがんばったね」と言おう。スポーツのコーチの励まし方から学ぼう。
 「おまえは特別だ」と言わない。
 

 なお、日本のわたしたちにとってはナルシシズムの侵入も気になるところです。周囲を見渡すと既に入っているような気もします。

 本書によれば、アメリカ式ナルシシズムは世界各国にも急速な広がりをみせています。一方でその国・地域の特有の文化が解毒剤になる場合もあります。

 儒教文化は人間関係のあり方と徳を具体的に示し、責任と勤勉と協調を重んじる。しかし中国では「ミー・ジェネレーション(我一代)」という、政治よりエステに興味がある世代が生まれている。この世代はモノに価値を見出し、生家を離れて暮らしたがり、夜が明けるまで友人とクラブで騒ぐ。

 
集団としてはアジア人はナルシシズムの診断テストで比較的点数が低い。アメリカ国内でも、アジア系アメリカ人はほかのどの民族グループよりもナルシシズムの点数が低い。だが、東西の「ナルシシズム格差」が縮まっている兆候がある。(p.312)
 

 
 北欧諸国にはナルシシズムに対して独自の免疫力がある、と本書は言います。

 これらの諸国は非常に独立心が強い一方、ひじょうに集団主義的でもある。スウェーデンやデンマークなどはその平等主義の哲学により、高いレベルの個人のやる気と成功を促進しながらも、充実した社会福祉政策を整備している。…この種の社会体制は、個人が自分を大人物だと思い込むことができないので、ナルシシズムの緩衝剤になる。


(正田も「北欧」関係の文献を集め研究者の話をきいたりしていますが、これらの国で何か必要な変革をするとき、「面子」(一種のナルシシズム)にこだわって妨害する人が登場しないのがいつも不思議な気がしています。日本となんという違いでしょう)


 しかしその北欧諸国にもナルシシズムはネットなどに乗って進出を果たし、フィンランドでは2007年、高校生がアメリカ式の銃乱射事件を起こし8人を殺害したあと自殺しました。そしてノルウェーで昨年、政治集会の場で痛ましい銃乱射事件が起こったのはご存知の通りです。いずれの犯人もネット上で犯行声明的なものを出していました。

 
 中国以外のアジア諸国では、仏教文化がナルシシズムの緩衝剤になっている、と本書ではいい、タイとブータンの例を挙げます。




 さて、「日本」は残念ながら本書の題材になりませんでした。

 読者の皆様の周囲について注意喚起したいとともに、私自身のスタンスについても記しておきたいと思います。

 このブログでは去年8月に「人に教えるということ」という記事で、「自己顕示欲から発して言葉を発してはいけません」ということを書きました。

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51754001.html 

 ここでほぼ、ナルシシズムについて警戒する必要性をいいつくしているような気がします。


 そもそも「コーチング」が、本来の意義とは異なり個人のナルシシズムを刺激し肥大化させる結果になりやすい。他の多くの心理学セミナーもそうです。(「アサーション」のセミナーですらも、創始者の思いをよそに、「自分は人生の被害者だ」と考えるナルシシストで占められる)

 そのことに私自身は神経をとがらせてきたつもりです。そのため「承認」については、「自分が『承認』を受け取ることを考えるな。『与える』側であれ」ということをしつこくうるさく言ってきたつもりです。「つもり」ばかり言っていますが、さあ、どこまでそれは功を奏したでしょうか。

 「受け取る/もらう」のと「与える」のでは、「承認」がもたらす効果は180度異なります。「与える」ことに専念した人びとは、発散するエネルギーの種類が静かな穏やかなものになります。やわらかな聡明な光をはなつようになります。(やや宗教的な表現になり恐縮です)

 一方、「もらう承認」にばかり気持ちがいってしまった人々は、ナルシシズムのぎらぎらした光をはなちます。それは、見た目にもまったく異なる種類の光なのです。

 嫌がられても、「与えよ」と言い続けなければなりません。それは、大衆的人気を得て初めて経営が安定する商業教育ではできにくいことです。


 
 これとは別に、「自己宣伝」の問題があります。

 大人に対する教育研修は、「宣伝」や「営業」をしなければなりません。私たちの教育もその伝にもれませんが、「宣伝」はどうしてもナルシシズムがましくなるものです。

 残念ながら、この世界のマーケティングというのはナルシシズムの塊になってとんでもない誇大広告、あるいは目新しい広告を打つほうが人々を「おっ」と思わせ、成功するようです。また研修講師の人格というものも、ナルシシズムの塊になって
「どう?私ってすてきでしょ。あなたがたも私のようになれるのよ」
という匂いをぷんぷんさせているほうが、参加者を魅了し、講師として成功するようです。


 そんななか、2010年に出版した『認めるミドルが会社を変える』という本は、年末年始、断食をしながら執筆しました。どうしても、受講生さんがこんなよいことをしてこんなよい結果が得られた、という内容を書いて伝えなければなりませんから宣伝は宣伝なのですが、自分の「我欲」「ナルシシズム」的なものが文章に嫌味な形で出ることが極力ないように、とあえてそうしました。

 
 そういいながらこのところイベントにカメラマンを入れて(うちのスタッフさんですが)写真を撮ってもらうようになり、私の写真をブログに載せることも増えています。現・元お客様がそのほうが喜んでくださるからとそうしているのですが、自分がナルシシストになり始めていないかな?と迷いながらやっています。


 さらに最近は「最高のプロの2日間の授業」なる、これも人様から褒めていただいたのを文章化した自画自賛オンパレードの小冊子を作ってしまい、恥の上塗りをやっていますが、以前からよく存じ上げているお客様に方針をわかっていただくため、と言い訳しながらやっています。


 本書のいう、「ナルシシズムは攻撃性を誘う」などの記述は大いに同意できるとともに、自分への戒めとしたいところです。
 教えるという商売が担い手のナルシシズムを喚起しやすい、という意味の耳の痛い記述もあります。


 なお昨年末このブログでしばらく扱ったアルフィー・コーンの『報酬主義をこえて』(1993年)の論旨は、本書とは似ているようで非なるものでした。コーンは、過剰な競争を生む要因として「行動主義」と「褒める」を槍玉に挙げてしまった結果、期せずしてアメリカのナルシシズムに合流し、「人は他人のお世話にならずとも成長できる」という傲慢な考えに帰着したのでした。(この流れをくんだ日本人の手によるモチベーションに関する書籍が近年もありましたが・・・、題名は忘れた)それはコーン氏自身の性向であったかもしれません。



 さて、リーダーのナルシシズムは…。

 ナルシシストのリーダーを育ててしまうぐらいなら、コーチングなどしない方がまし、なのです。過去にはホリエモンが成功哲学のコーチをつけていたという事実があり、恐らく本人のもともと持っていた偏りを助長したのでしょうが、似たような例は他にもきっとあるでしょう。


 とはいえ過剰にペシミズムに陥らず、サポートできる人をサポートしたいものです。


 この『自己愛過剰社会』とともに、『デブの帝国―いかにしてアメリカは肥満大国となったのか』(グレッグ・クライツァー著、バジリコ、2003年)をあわせて読むのもおもしろい。おそらくは進化の過程で残った食糧不足に対応するための遺伝形質、あればあるだけ食べて欲望をとことん満たすようにできているわたしたちの体の誘惑、またそれを当て込んで形成される市場からの誘惑に打ち勝つのがいかに難しいことか。「自己愛過剰社会」は、それの「精神版」ともいえます。




神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
 

 「御社でコーチングを学ぶと、コーチングの指導者になれますか。講師になれますか」

 という電話がかかってきた。東北地方に住む女性会社員の方。


 残念ながら、当初の2日間講座を受講されただけで即指導する側に回ることはできない、当協会的には、指導するということは大量の質疑に応じられるようになることが必要なので、最低でも1年半から数年の修業期間が要る、という意味のことをお伝えすると、がっかりした様子で電話を切られた。


 これはあくまで「指導する人」になるためのことを言っているので、「職場でコーチングを行う人」―企業内コーチ―になるための学習期間とはちょっと別なのです。初歩的なコーチングを使うことは、最初の2日間講座で充分にできます。


 もっと極端な例でいうと、以前ある定年退職後嘱託の男性に
「三宮で定期的にコーチング講座をしている」
という話をしたところ、

「日程教えてよ。オレが教えに行くから」

と言われて苦笑したこともあり。そんなに簡単なものではありません。


 いい機会なので、私の考える「教える人の要件」について、一度まとめてみたいと思います。


 人に何かを教えるということについて、「怖い」―「恐れ」「畏れ」の気持ちや、「おこがましい」という気持ちを持てるだろうか。


 「自分には人にものを教える資格などあるのか」と、自分に繰り返し問い、わが身を切り刻むような内省をしたりするだろうか。


 往々にしてそこにあるのは、

「人より優位に立ちたい」
「上から口調でかっこよくしゃべりたい」
「タレントのように人前で流暢に話し、注目を集めたい」
「尊敬されたい」
「虚勢を張りたい」
「人に影響を与えたい」
「言葉1つで人を動かしたい」

という気持ち。


 これらはすべて、当協会的には「煩悩」「欲」として、人を教えるという行為には邪魔なものと考えています。


 自己顕示欲から発して言葉を発してはいけません。それは、実際の自分より自分を大きく見せたいあまりに、「言葉が滑る」現象につながります。言っていいこと、悪いことの区別がつかなくなり、事実と異なることを言ったり、根拠のないことを言ったりします。


 意外なようですが、「人前でじょうずにしゃべる」ことは、女性の得意分野のようにみられがちですが、実は男性的な作業です。俳優、タレント、法廷弁護士、などの職業は、テストステロンの高い人が成功します。人前で流暢に魅力的にしゃべることにテストステロンが大きくかかわってきます。


 ただしテストステロンはウソをつくホルモンでもあり、流暢に魅力的に話すからといって話の内容が真実だとは限りません。受けを狙うために誇張して言っているかもしれないのです。


 アメリカの法廷弁護士は陪審員に好感を持たれるために話すスキルを発達させていますが、そこで成功している、タレント的人気を集める弁護士は非常な高テストステロンだったということで、
陪審員受けのするプレゼン術が、ウソをつくのと同じ資質から生まれるというのは興味深いことです。


 
 また一時期、「コーチングの研修講師」は、流れるように美しく楽しく魅力的に、ジョークを交えながら話すタイプの人が主流でした。そこで当時、

「コーチングって上手に話すこと?」
「面白おかしく話すこと?」

という誤解を招いたきらいもありました。

(もちろん、すくなくとも「企業内コーチング」は、そうではありません)


 当協会はそことは一線を画します。

 訥々とでいいので、丁寧に誠実に相手にわかるように話しましょう。

 面白おかしく話すと、謙虚に事実や論理に忠実に話す姿勢から離れてしまう。


「自分はここまでの人間だ。決してそれ以上ではない」
「しかし、ここまでは確かにやってきた」

等身大の自分を引き受けながら話しましょう。
「自信」と「傲慢」は、紙一重です。正しい自信をもちましょう。


人になにかを教えるのは、

素晴らしい優秀な自分を表現したいためではない、他人に優位に立ち上から目線で話したいからではない。

ただ純粋に相手の役に立ちたい、そのためにこの知識情報を伝えたい、

そういう思いをとことん突き詰めて濾過して言葉に出す。

相手の上からではなく横から、知識情報を手渡す。


それができると、教えたことを相手が取り入れてくれる確率は高まる。

・・・というようなことを、このブログでも繰り返しお伝えしています。


よく観察する現象は、学ぶのがすきな人が色々なセミナーに参加するうち、学ぶ内容そのものへの興味から離れ、それらのセミナーの講師の立場になりたい、という気持ちが強くなってくることがあるのです。

今目の前で話している先生になりかわり、自分自身が先生になりたい。人々から注目を集めながら、大事な人生訓のようなものを重々しく伝え、お説教をしたい。

そういう動機に動かされて講師になりたい、と思う方は、残念ながら当協会で講師をしていただくことはありません。



もう1つ言うと、あくまで当協会でコーチングやその他マネージャーに必要なものを教えるしごとをする場合、

モデリング(模倣学習)の対象になる、ということを意識することも必要です。

話し方だけでなく、すべての場面が。

あなたが部下として、

「この上司は世間的に有名な人というわけではないけれど、この人の言うことはきく」

と思う上司は、どんな人格だったでしょう。どんな立ち居振る舞いをしていたでしょう。


ひょっとしたら、誠実さ。ひょっとしたら、一貫性。ひょっとしたら、謙虚に人の意見を取り入れる態度。

高揚感を与えるような種類のものではない。日常の中に埋没していて、でも一貫したゆるぎない良いものを提示していることの方がそこでは大事ではなかったでしょうか。


スター性、タレント性ではなく、そういう平凡なものに重きを置いてほしい。

あるレベル以上の演出、ドラマチックな声のトーン、あるレベル以上の愛想の良さ、には、
ある程度人生経験を積んだ人であれば、「裏表」を感じとってしまうものです。

「この人、ものすごく愛想が良いけれど、上手に話を合わせてくれるけれど、これと同じことを毎日24時間、部下や家族にやっているわけではないだろうな」

と、思ってしまうものです。


愛想をわるくしなさい、ということではありません。24時間愛想良さのレベルを変えないことが大事なのです。



それから、「人をわざと傷つけて発奮させる」という手法を、当協会ではとっていません。

過去に私の通ったMBAスクールには、確かにそういう手法をとっていた講師がいました。そのスクールの古株の講師でした。

そのおかげで伸びた人も中にはいたのかもしれません。しかし、それよりももっと目立った変化は、そこにいた受講生がどんどん人格がわるくなったことでした。人を傷つけ、つっかかり、あらさがしをし、揚げ足をとるようになりました。

傷つけられた心は、だれかを傷つけたいと思ってしまうものなのです。
そういうことを観察できただけでも、そこに行った価値があったというものです。(私は耐えきれず1カ月半で自主退学しましたが)




今日だけではすべてをまとめきれませんが、そういったもろもろの、私自身の講師としての戒めをお伝えするだけで、おそらく1年から1年半は、優にかかってしまうだろうと思います。
ただ口で言ってお伝えしただけではおそらくわからない、実地で場数を踏む中で実感していただくことも含め。


当協会で人に何かを教える仕事をしていただくのは、充分にトレーニングを積んだうえで、私自身が認めた人にご依頼することになります。




神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

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