14日、姫路の田中昭夫先生の「切琢書院」で孔子伝の勉強会。
中国で作られた「孔子伝」DVDの視聴、『孔子の一生』(三戸岡道夫)などを読み解きながら。
春秋戦国時代のもともとの国「周」は、諸侯の上にふわりと載っている少し大きな国というイメージで、もともとあまり統率力はなかった。その建国のころの君主で武王と成王を補佐した周公旦という人を、孔子は生涯敬愛した。孔子の600年ほど前の人、
「周公旦はすぐれた哲学者であり、すぐれた軍人、政治家であったが、よく兄の武王を援け、武王が死んだ後は若い成王を補佐して、周王朝の基礎を固めた。殷の神政を脱却して、礼を社会の基調としたのは、この周公旦によってなされたとされている」(『孔子の一生』)
礼。
このところ「遺伝子陰謀説」(笑)のようなものを唱えている正田はまた考える。
日本人をはじめアジア人には「共感ホルモン」「信頼ホルモン」とよばれるオキシトシンの分泌が少ない遺伝子タイプをもっている人が多いといわれる。
一番オキシトシンの分泌が少ないタイプをもつ人は、自閉症リスクが高いとも。
こうした人々がつくる社会というのは、放っておくと人と人が共感しあわない、信頼しあわない、ギスギスした社会になるはずである。容易に争いも起こるだろう。
またこうした人々の初期設定の感情は「見下し」だろう、と思う。基本、自分の個体を超えて他人をたいせつに思ったりはしない。どちらかというと自分の個体を守るためには相手を「下」にみたほうが楽だ、と考える(それが合理的かどうかはさておき)。
「礼」を最初に唱えた人というのは、この「初期設定:見下し」の人たちが上手くかみ合って暮らすためには、教育によってリスペクトの感情を教えなければならない、と考えたのではないだろうか。
そこで、「承認」と「仁」との関係にもつながる。
「仁」は"Compassion"(思いやり)と訳される。
ただ、「思いやり」だけでは、見下しと同居しているかもしれない。相手を自分より弱い存在とみなすことに立脚して思いやっているかもしれないのである。
だから、「思いやり」に「敬(リスペクト)」をプラスしてやる必要がある。それで初めて「対等」になれる。
「敬」は決して相手の方が自分より「上」だということだけを意味するわけではなく、相手は自分と同じように尊厳をもった存在だ、と考えることにもつかえるのである。
「初期設定:見下し」なのだから、「敬」を意識的にもって初めて人と人とは対等になれる。
これも安岡正篤先生のどこかの文章の受け売りだが、昔の日本人は「敬」を表す言葉を今よりもっと頻繁につかっていたのだという。語尾につける「さぶらふ」とか。
それを行うことで初めて対等な良好な人間関係を保てる、と昔の日本人は知っていたのではなかろうか。
しょもないことを考えてしまった。すきま時間に。
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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