正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ: 「承認」をめぐる考察

 「ダークトライアド」という概念に出会って考え込んでいます。

 「ダークトライアド」とは人の邪悪な性質を表す3つのパーソナリティー。ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパシーを総称して言います。

 このブログでは過去にナルシシズムに凝っていたりサディズムについても少し調べたりしました。
 「承認」という、明らかに善人の武器であるものを掲げて売るなかで、否応なしにそれにはまりきらない人格の人びとにも出会いました。

 「悪」が少しずつ現代心理学の力で明らかになっていきます。研究によればこうした邪悪な性質の持ち主は前世紀後半から今世紀初めにかけて少しずつ増えているそうです。若い人たちに増え、とりわけ女性の伸び率が高いそうです。
 (でも、犯罪発生率は減っているんですけどね。)
 「悪」は否応なくあります。またわたしたちの中にも「悪」を賛美し、魅力的だと感じる感性がたしかにあります。
 
 わたし自身は正直、「悪」については苦手意識をもっていました。できればお近づきになりたくないほうです。
ですが今は、「悪の性質」についてもっと知りたいと願います。
「悪」について理解することは、ひょっとしたら究極の「赦し」につながるのかも?と思いました。もちろん自分自身の欲得も希望も度外視することができれば、ですけれど。

 「ダークトライアド」については和文Wiki はいささか情報不足なので、英文Wikiを全訳してみました。(「続き」参照)
 元の記事が印刷して本文だけで10Pになる長文ですので、訳文も長文になります。誤訳等ありましたらご指摘いただければ嬉しく思います。
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 昨日の記事に登場されたFacebookのお友達にご挨拶したところ、また改めてお礼を言ってくださった。

「実は2011年(震災の年)前後から気に成って『咽喉に刺さった棘』の様な物が幾つかあったのですが、正田さんのブログでかなりの『棘』が洗い流された思いです。気持ちの上だけでなく、実際の普段の行動で、それが物凄く活きています。」

「お陰様で、集客数も増え、売り上げも上がり、従業員との関係も更に向上しています(笑)」


 ふと、ほっこり。


 世間でベストセラーがどんなことを言おうと「行動承認」の効果は揺るがない。人の性(さが)はそうそう変わらない。担い手の方々が信念をもっていればよいだけである。

 ただ、「承認欲求を否定せよ」のせいで、「私がやっているのは『承認』です」とは、言いづらくなっているかもしれないとは思う。それは、やはり普及を遅らせる。


 この手法が広まるのはまことに難しい。

 もう一昨年のことだが、公的経営支援機関主催の3回のセミナーに足を運んでくださった、40歳前後の地域の女性の獣医さんがいた。

 獣医さんが途中で質問された:

「ここできくお話はよそでまったくきいたことがないと思うんですけれど、私がおかしいのでしょうか」

「おかしくはないですよ。よそではあまり言っていないと思います、こういうことは」

 ちょうど共同で講師を務めた松本茂樹さん(関西国際大学経営学科長)が、銀行支店長を辞められた後、大学教員として「行動承認」をベースとしたさまざまな取り組みをされた結果、ゼミは大活況でその大学では考えられないような有名企業に多数合格し、成績優秀で学費ゼロの特待生も輩出した、という、夢のようなお話をしていたときである。

 法螺話のようなことが本当に起こってしまうのが「行動承認」の世界。

 それでも、その世界を外に広げるのはまことに難しい。
 この女性獣医さんは

「獣医のあいだではまったく知られていないお話です。獣医業界は、人手不足でスタッフ募集にどこも苦しんでいます。離職率も高いです。ほかの獣医に知ってほしい」

と言われた。きいてみると今時そんなところがあるの?というような、誠に非人道的な、スタッフに対して人を人とも思わないようなところが多いらしい。だから定着しない。

 女性獣医さんはその方の参加している獣医同士の勉強会に私を講師として招くことを提案してくださったのだが、他の獣医から賛同が得られず、実現しなかった。

 これほどまでに凄い変化を起こす手法がある、ということはむしろ信じてもらいにくいのだ。

「私が若輩者だからみなさんを説得できなくて。ごめんなさい」

 獣医さんはしきりに謝ってくださった。それもそうだろう。

「あんた、騙されてるんちゃうか」

一蹴されるのが目に見えるようだった。1つ前の記事のように「わかっている人」の言い分が通るのはむしろ珍しいことなのだ。


 そんな風にして良いことが広まるのは遅い。昨今の風潮で新聞や雑誌も良いことはおもしろくないから取り上げない。仮説の段階なら「おもしろい」と思ってもらっても、完成された手法というのはおもしろくない。


 『行動承認』は今もAmazonレビュー欄で嫌がらせをされているが、心底思う、嫌がらせなどやめてほしい。気の遠くなるような長いこと誠実な努力をしてきて、ずばぬけて聡明な受講生さんや読者の方々の日々のご努力があってやっと1冊の本が作れたのに、くだらない悪意で足を引っ張られるのは本当にやりきれない。
 

 やはり、わたしの”生前”はこの手法が広まるのをみるのは無理なのかな。


 Facebookのお友達の1人が、最近「正田さんのお蔭ですよ。」と言ってくださった。

 何のことかと思ったら、お友達は以前から自身が役員を務める同業者団体の中のある”造反”のことで悩んでいた。最近、その同業者団体の総会があった。”造反分子”の不規則発言が予測された。

 お友達は執行部に策を授け、

「相手が何を言ってきても『承認』しなさい」。

 執行部はその通りした。果たして、”造反分子”は総会で執行部への不満を言ってきたのだけれど、執行部がそれを全部「承認」してあげると――具体的に何と言って「承認」したのかは知らない――発言者は肩透かしをくったのか、それ以上の追及をしなかった。結果、総会は事なきを得たのだそうだ。


 「いやあ、正田さんのお蔭ですよ」

 お友達は繰り返してくれるが、はっきり言ってこのケース、お友達のほうが偉い。だって執行部に自分の意見を通すだけの説得力があり、危機一髪のときに「承認」を使わせたのだから。

 わたしの受講生さんがこれまでやってきたことはそうだった。わたし自身は何の力もないただの女性なのだが、受講生さんたちがやることは本当に凄い。彼らは40-50代になってその世界できちんと地歩を固め、信用を築き、それに「承認」が付随するととてつもなく大きなことをやる。法螺を吹いているわけではなく、そうなのだ。この世代の人達は。

 だから、『行動承認』がエピソード中心の本になった理由もおわかりいただけるだろうか。「承認」の理論などくどくど説明している暇も惜しい。一見小さなものが、ふさわしい担い手と出会うととんでもなく大きなものになるのだ。その現実世界を動かす凄さといったら。

 おもしろいことにこのお友達は『行動承認』をまだ読んでいなかった。研修の受講生さんでもない。それでも、Facebook上のお付き合いを通じて、自然と「承認」を理解してくださっていた。


 また、こういう(これもほんの一例である)奇跡があちこちで起きるから、私は「承認」を「ほめる」とは言い換えたくない。「ほめる」と言っていてはできない、とんでもない大きなことが、「承認/認める」ではできるから。

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 「アドラー心理学批判」では、ある有名人の精神科医の先生のインタビューが延期になった。「『嫌われる勇気』をまだ読み終わっていないから」というのが理由だった。「数日中には読み終わり、インタビューを再セッティングする」とのこと。

 わたしなどは『嫌われる勇気』を最初Kindle本で買って少し読んだ後放り投げてしまって、最後まで読み通したのはごく最近のことだ。

 この有名人の先生がインタビューを引き受けると言った時、「その本をまだ読んでいないから、読む。自分で取り寄せる」と言われた。もう1か月前のこと。
 しかし、「本を読んでからインタビューを受ける」「最後まで読む」という姿勢は、潔い。


認められたい表紙


 ネット時代の「承認欲求」について語らせたら第一人者、Dr.シロクマこと精神科医・熊代亨氏の新著『認められたい』(ヴィレッジブックス、2017年2月28日)が出た。
 表紙の可愛らしい男の子と女の子のイラストの目がまっすぐにこちらを見てくる。(本を読まない時代、「イラスト」の存在は大きいですね。)

 「私は精神科医として、一人のインターネットマニアとして、私自身と他の大勢の人々の『認められたい』気持ちと、その気持ちに引っ張られた人生模様を観察し続けてきました。」
と、熊代氏は書く。
 きわめて大きな切り口だ。ネットで否応なく肥大した承認欲求の観察というのは。
 (アメリカではそれを「ナルシシズム」という文脈で考えているようにみえる)

 わたしはちなみに、承認を長くやっていますがここまで丁寧に「承認欲求」を観察していない。多くの人がそうであるように「承認欲求」の観察というのは気恥ずかしいものだ。自分の奥のほうがくすぐったい感じがする。熊代氏はそれを本書で入念にやっている。自身、精神科の患者さん、そしてネットユーザーと3つの視点で。

 では心に残ったところを抜き書きします。

●承認欲求を持っていない、例外はいるものでしょうか。
 …たとえば統合失調症で長期入院している患者さんのなかには、仙人のような心持で過ごしている人がいなくもないのです。しかし、精神医療の世界でさえそういった人は例外中の例外で、褒められたがりな人にはたくさん遭遇しますが、褒められることに興味の無い人は非常に少ないのです。

●何かを学びたい・身に付けたいと思った時、承認欲求を充たせるか否かはとても重要です。

●承認欲求の時代がやってきた。企業の雇用も流動化する現代には、滅私奉公を良しとする所属欲求の強い心理よりは、他人から褒められたり評価されたりしてモチベーションを獲得するような、承認欲求の強い心理のほうが都合がよかったとは言えるでしょう。

●ネットでいかにも承認欲求を充たしたくて頑張っている人。なにか気の利いた事を書いて「いいね」や「リツイート」を集めたがっているツイッターアカウント、グルメや観光地の写真をせっせとアップロードして「いいね」をもらいたがているFacebookアカウント。ユーザーの褒められたい欲求を充たしやすく、刺激しやすいようなシステム上の工夫。

●変化は2000年代の中ごろから。ネットコミュニケーションは匿名アカウントから個人のアカウントへ。

●情報の真偽には注意を払わない。大半の人は自分がどれだけ褒められ、他人にどんな風に評価されるのかに心を奪われながら使っているのではないでしょうか。


――「承認欲求」の「レベルが高い人」と「レベルの低い人」がいる、と熊代氏。

●レベルの低い人の事例1。始終認められたい、評価されたい。「認められなければならない」があらゆる人間関係に付きまとっていて、身も心も休まる時間がありません。

●レベルの低い人の事例2。大学で演劇部にのめりこみ、次いでオンラインゲームにのめりこんで、そこで目立てるからやめられなくなり、留年確定。

●「承認欲求は貯められない」。この点でお金より食欲に似ている。いっぺんに沢山充たしても定期的に充たさなければ、じきに飢えてしまう。また注目や承認を繰り返していると、充足感を実感するためのハードルが高くなってしまいがち。

――食欲の比喩はまた出てきましたね

●承認欲求が低レベルな人の類型。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)承認欲求が強すぎる人 3)褒められ慣れていない人 4)褒められどころの“目利き”が下手な人 5)承認欲求が承認義務になってしまっている人。

――こうした類型を知っておくと、実際にそうした人に遭遇したときに役に立つ。本書では熊代氏独自の類型が多数でてくるが、その思考の緻密さに驚く。

●承認欲求を充たすにはどうしたらいいか。オンラインゲームに時間をつぎこむ、Youtube等で肌をさらす、ホストクラブやキャバクラに行く。そうした充たし方は代償が大きすぎ、お勧めしない。

●承認欲求の充たし方が上手な人は、「褒めたり評価してくれる人にきちんと“お返し”をする」能力に長けている。40代〜50代の人たちにはこういう人がゴロゴロいる。

――うちの受講生さん方などはこういう人たちだろうな。

●承認欲求を抱えているのは自分ひとりではない以上、自分だけではなく、周りにいる人達も承認欲求が充たされるような、いわば認め合いのエコサイクルを成立させるほうが、結果として幸福な状態を維持しやすいはずです。

――「認め合いのエコサイクル」いい言葉だ。
 わたしが本を書くばあいは、出発点がここから始まる。対象者はいつも大体40代以上の管理職だ。その人たちにここまで「承認欲求」について話してあげることはしない。
 なぜかというと、やや言い訳めくが、「認め合う」ことを実現するためには「認める」という行為をしなければならなくて、その行為にもそれなりに練習が必要なのだ。40代以上の男女は、仮に会社で言われたから、マネジメントを上手くいかせたいからといった即物的な動機でもいい。まずは「認める」ということにスポーツトレーニング的に取り組んで欲しいのだ。細かいことはそのあとで「つかんで」もらえるだろう、と思っている。ただしそうやって彼(女)ら自身の学習能力に期待ばかりしているので、わたしはここまで丁寧に言語化する作業をおこたってきた。

●私は、承認欲求を“独り勝ち”的に充たせる状況を夢見るのは、危なっかしいと思っています。…私には、街でまずまず幸せそうに暮らしている人達の大半は、自分ばかりが褒められたがる人ではなく、周囲の人達と認め合える関係をつくりあげている人にみえるのです。


●昔の日本人は所属欲求で回っていた。承認欲求のレベルの高い人の例、家ではマイホームパパであり会社の付き合いも上手にこなす。所属欲求と承認欲求を両方うまく使っている。

●社会のすべての人が自分自身が褒められること・評価されることでしか心理的に充たされなくなったら、どうなってしまうだろうか。部分的にはそうした世界がある。お受験にわが子を駆り立てる親などもそう。

――『嫌われる勇気』の中心読者層が30-40代男女だ、というのも思い浮かべた。恐らく「自己啓発本のヘビーユーザー」と「お受験親」がまじりあっているであろう。お受験も、みんながみんな勝者になれるわけではなく、国立小を目指しても倍率は5倍だから5人に4人は敗者になる。そんな負け気分のとき、「人生の悩みは対人関係の悩みである」「他人の評価を気にする必要はない。承認欲求を否定せよ」の教えには、ほっとするであろう。
 熊代氏はそうしたベストセラーのことを挙げつらってはいないが、部分部分で「ベストセラーの謎」にうまく“回答”してくれている。

●所属欲求には、「自分自身が褒められたり評価されたりしなくても、心を寄せている家族や仲間や集団が望ましい状態なら、それだけでも自分自身の気持ちが充たされ、心強くなる」という性質があります。ほとんどの人間関係が承認欲求だけで成り立っているのではなく、こうした所属欲求も含んでいるからこそ、人間は家族や集団をつくり、お互いを信頼したり敬意を払ったりしながら、長く付き合っていられるのではないでしょうか。

●所属欲求にも、「低レベルな人」がいる。それは「承認欲求が低レベルな人」とも重なるという。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)「ひとりが一番」な人 3)「我々はかくあるべし」と思い込む人 4)完璧な人間を追いかけている人 5)いつも減点法の人

●承認欲求や所属欲求をうまく活かせる人と、そうでない人は、人生の難易度も幸福感も断然違ってくる。人間関係は私たちが思っている以上に、承認欲求や所属欲求のレベルに左右される。

●「認められたい」はレベルアップできる。

●子どもや若者は承認欲求や所属欲求のレベルが低い。たとえば保育園や幼稚園に通っているぐらいの子どもは、自己中心的に出しゃばり、褒められたがるもの。思春期の男女も、“中二病”や“意識高い系”のように安易に自分自身を特別だと思いたがる。

●「認められたい」のレベルアップが進んでいる人は、日常の挨拶などからも、承認欲求や所属欲求を充たすことができる。

●コフートの主張「自己愛は生涯にわたって成長し続ける」

●コフートの考えたレベルアップ―「変容性内在化(transmuting internalization)」、雨降って地固まるの経験。他人に期待した「認められたい」が充たされなくて失望しかけても、その辛さがあとで理解してもらえたり、仲直りして次の機会にはまた気持ちが通じ合えたりするなら、自己愛は成長していく。

●コフートによると、“適度な欲求不満”があるくらいの関係が良い。いつもいつも承認欲求を充たしてくれるとは限らない。

●「認められたい」のレベルアップをしたいなら、“雨降って地固まる”が成立し得る人間関係を大切にし、そのような人間関係に発展する目をつまないこと。多少の摩擦を含んでいても、お互いに「認められたい」をまずまず充たし合えるような人間関係を長続きさせること。

●ネットコミュニケーションを通じてのレベルアップは可能だが、時々会う機会ももつこと。

●認められたいあまり四六時中LINEやSNSにはりついているのは考え物。LINE疲れやSNS疲れに陥りやすく、疲れの蓄積はメンタルヘルスにもよくない。

●思春期の子どもの「認められたい」を親が充たしてやるのは役不足になる。外の関係を築くのが望ましいが、外の関係で傷ついて帰ってくる場合もある。躓いた子供に手を差し伸べられるのはやはり親。この時期の子の親は「裏方」として重要。

●「認められたい」のレベルアップを男女間の関係で行うのは難しい。多くは、「認められたい」のレベルが低い同士がくっついてそれぞれ異なるかたちで「認められたい」を充たそうとする。

●選択の自由が与えられた人間は、意外なほど似た者同士でつるみあう。

●「認められたい」のレベル差を挽回するのに重要なもの。コミュニケーション能力。

●コミュニケーション能力を高めていくときの重要な基礎。
1.挨拶と礼儀作法
2.「ありがとう」
3.「ごめんなさい」
4.「できません」
5.コピペ
6.外に出よう
7.体調を管理しよう
 そして時間をかける。

●友人・家族・会社の同僚との日常的な人間関係で満足している人。コミュニケーション能力は、有名人からではなく、そういう人からコピペすべき。

●ほとんどの人間にとっての幸福は、際限のない承認欲求や、カルト的な所属欲求に支えられるのではありません。もっと身近で、もっと少ない人数で、人間関係の持続期間が数年〜数十年単位の、そういう人間関係が、人間に幸福をもたらします。そのような「認められたい」の繋がりを、世間では「愛」や「友情」と呼ぶのでしょう。

●ヤマアラシのジレンマ。人間関係は近ければ近いほど傷つけあってしまう。

●親子関係のヤマアラシのジレンマ。子育ては核家族単位で行われるため、小学校以上の子どもの面倒まで、親がみる。親子間の距離が近い。「毒親」もそうした背景から生まれやすい。

●親は、子育て一本槍の生活や人間関係を改めて、他の人間関係に「認められたい」の供給源を見出していくこと。

●新しい人間関係ができるたびに相手に急接近してしまい、「ヤマアラシのジレンマ」を繰り返してしまうパターンの人が気を付けたほうがいいのは、「むやみに仲良くならないこと」「新しい関係をむやみに理想視しないこと」。

●あらゆる人との心理的距離を遠くする処世術には、以下のような欠点があってお勧めしない。
1.人と心理的距離の遠い生活をしてきて何かの拍子に近い人間関係を経験すると、距離感がわからなくて心理的距離を詰めすぎてしまい、しんどくなる。
2.スキルを磨きにくくなってしまう。
3.「認められたい」そのもののレベルを上げることも難しくなってしまう。


 抜き書きはおおむね以上。

 本書の中で熊代氏自身言っているように、本書に書かれていることは統計でエビデンスをとったものではなく、精神分析的でもあり、わるくいえば「印象論」である。ただそれが説得力があるのは、氏がきわめて膨大なネット世界の見聞やサブカルチャーの知識を持って発言しているからであろう。

 そこここに独自のパターン帰納がみられ、その観察と分析のきめの細かさに驚く。間違いなく、この分野で後々まで残る1冊となるだろう。

 若者だけでなく、若者を監督したり育成する立場の人、自分自身も承認欲求の使い方が今ひとつわかっていないという自覚のある人には、ぜひお勧めしたい。




 このブログの友人、佐賀県の研修業Training Office代表、宮崎照行さんから、「教育困難校における承認の重要性について」という原稿をいただきました!

 もともとは、わたしがKindleで『行動承認』の続編、『行動承認第二章』を書くにあたって宮崎さんに寄稿をお願いしていたのに対しこたえて送ってくださったもの。

 宮崎さんはこうした「教育困難校」でのマナー講師で既に8年のキャリアを持ち、その5年目にして心境の変化で「承認」のマナー教育に転換されたそうです。すると起こったことは…。

 図々しいお願いで、Kindle掲載前にブログでの掲載もお許しいただきました。宮崎さん、感謝!

 かつてわたしは宮崎さんのご経験を伺い、「この手法は、社会を建て直す力のあるものだと思っているんです」などと、大言壮語を吐いたのでした。それにしてもこうして新たな担い手の方が出てくるのは嬉しいことです。論理的で内省的な宮崎さんの言葉で、新たな「承認ワールド」を体験していただきましょう。

 若い人が伸びる風景を想像するだけでワクワクするという読者の方にお勧め!「教育困難校」もそうですがすべての教育関係者のかたに届くことを願って、お送りします。

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教育困難校における承認の重要性について

宮 照行


 教育困難校(高校)におけるキャリア教育やマナー指導で大切なものは何かと問われたら、真っ先に答えるとするならば「承認」だといえます。
 教育困難校とは、はっきりした定義はありませんがさまざまな背景や問題を抱えた子どもが集まり、教育活動が成立しない高校のことです。私は高校生の職業意識を育てる「キャリアガイダンス」のマナー講師をしてもう8年になります。そのなかで教育困難校にも数多く足を運びました。
 こうした高校の生徒の特長として挙げられるのが、低い自己効力感です。
「就職するために、最低限のビジネスマナーを身につけておかないと面接を乗り越えることもできないし、就職しても苦労するよ」
などと言って動機づけをねらうのですが、生徒からは
「なんでこんな面倒くさいことをやらなければいけないんだよ。うざいな。やっても無理だよ」
というような、半ば投げやりの言葉が返ってきます。限られた時間の中で指導しなければならないので、この状態の生徒に指導することは困難を伴います。

 そこで通常ならば、『相手を承認する』という概念がなかった私や多くの講師は次のような指導方略をとります。

「屁理屈言わずにやってみる。私に合わせてやる! ダメダメ!何でできないかな?真剣にやっている?真剣にやってないからできないんだよ。ほら、真剣じゃないという証明が服装や髪型にでもでている 。」

 いわば喧嘩腰ですね。情熱と力でねじ伏せようとします。講師初心者や講義を形式的なテクニックで乗り越えようとする講師が陥りやすい罠です。

 しかし、このようなやりとりが続くと自己効力感の低い生徒は、ますます自信をなくししやる気がそがれてしまいます。最悪の場合、低い自己効力感が更に強化されるという状況に陥りました。本来、教育や研修では、知識や技能を習得するだけでなく自己効力感も高めるという目的もあるにも関わらず、全く持って逆効果の状況に陥ります。私自身、過去の指導方法では相手のことを思いやらずに形式だけを重んじていましたが、一向に思うように指導ができませんでした。

 そもそも、講義もコミュニケーションの一環だとすると相手の気持ちを考えずに一方的に押し付けてしまうことはコミュニケーション同様、うまく機能することができるのだろうか?ふとそうという疑問が生じ、思い切って『相手を承認する』という前提を取り入れた指導を目指すようになりました。

 『相手を承認する』という方法はいろいろと考えられますが、私にとって『相手を承認する』とは、一つには教える内容の質を徹底的に高めたり、相手のことをしっかり把握したりすることが必要ではないかと思っています。講師として教える内容の質を高めたり、相手のことをしっかり把握したりすることは、それこそ相手を承認している結果です。形式的な指導は相手を軽んじているような気がします。このように指導に承認の概念を取り入れることによって、下記のような変化が起こりました。

「なんでこんな面倒くさいことをやらなければいけないんだよ。うざいな。やっても無理だよ」(生徒)
「そうだよね。面倒くさいよね。でもさ、面倒くさいというのは、ただ慣れていないからそう思うんだよ。スポーツやゲームなどもそうだけどさ、最初はうまくやれないよね。全部を完璧にやる必要はないんだよ。少しずつチャレンジしてみようか!」(講師:私 )

 ここで大事なのは、相手の思いを講師側が素直に受け取ることです。逆に相手の思いを否定したり遮断したりすると、特に自己効力感が低い生徒はそっぽを向いてしまいます。

 次に実際に実演をさせます(例えば、挨拶)。しかし、1回目の実演で大きな声ではっきりと出せません。もう1回やってもらいます。間違いなく1回目より2回目のほうがしっかりできています。ここでこのようにフィードバックを行います。

「気持ちいい挨拶だね。やっぱり大きな声ではっきりとした挨拶をしてもらうといいよ。やればできるじゃん。姿勢も1回目よりも綺麗に伸びているよ。だから挨拶をされたほうは ものすごく気持ちいいんだ。もっと、僕を気持ちよくさせてみて」

 1回目でダメ出しをするのではなく、必ず2回目に何かしらのプラスの変化があるので、そこを具体的に指摘することで更にチャレンジしようとする気持ちが生徒側に芽生えてきます。慣れていないことを行うので、当然、修正点もでてきます。ここですぐにダメ出しを行ってしまうと元の木阿弥です。修正点を矯正するために私は

「もっと相手をの喜ばせてみようか。背筋をしっかり伸ばして、喉の奥から声を出すイメージで声をだしてみると、クリアな挨拶になって相手はもっと喜ぶよ 」(私:講師)
(生徒の実行後)
「ああ、いいね〜。やればできるじゃん。」としっかり私の感想を述べます。

 「相手を喜ばせる」これも、私が発見した生徒の中の「承認を求める気持ち」でした。相手を喜ばせることで相手に受け入れられたい。つまり承認されたいという本質的な欲求が生徒の中にあるのです。

 このようなやりとりが続いていくと、私と生徒には信頼関係が生まれてきて、指示に素直に従うようになります。ここまでくると伸びしろの大きい彼(彼女)らは、こちらがビックリするほどうまくできるようになります。そして、研修終了後、

「大きな声で挨拶するなんて、面倒くさくてはずかしかっただけで、やってみたら何ともなかったです。相手も喜ぶことなんで自分からチャレンジしてみます」(生徒)

という言葉をいただきます。こういう言葉を貰うと実に講師冥利につきます。

 私のような外部講師は彼(彼女)らにとっては異文化の人間だと思われています。彼(彼女)らの特徴としてもう一つ挙げられることは、牋枴顕修紡个靴討侶找感がすごく強い“ことです。だから、話を聞いていない素振りをしたり、あえて茶々を入れることでふざけてみたり することで、異文化の私たちの反応を試そうとします。私自身、これらの反応は警戒感の表象であると考えています。

 では、警戒感の強い生徒さんに対して異文化を理解してもらうためには、何が必要なのか?私は文化間の橋渡し役になる信念や行為は「承認」だと強く認識しています。ここで注意していただきたいのは、「承認」が行為レベルにとどまらせずに哲学・信念レベルまで達していることです。行為レベルに留めてしまうと、「承認」は人を動かすためのアルゴリズム的で薄っぺらな方略だと誤解されかねません。生徒とのやりとりの会話をご覧いただくと簡単にやっているように思われますが、形式的に相手を褒めたり、フィードバックを行ったりすると、特に教育困難校の生徒は異文化に対して警戒感が強いために、相手が真剣なのか表面的なのかということを簡単に見破られてしまいます。だから、哲学・信念レベルまで「承認」の必要性や重要性を認識しておかなければなりません。

 そして、抽象的なフレーズではなく具体的に。抽象的フレーズでは解釈が必要となるため、生徒たちにとっては間があきます。具体的かつシンプルに伝えることで、講師と生徒とのやりとりのリズムが中断されることがないことが効果を発揮しているのだと思います。
 そのため、講師自身素直な気持ちになって、少しの変化も見逃さないように真剣に相手を見なければなりません。

 「承認」は、低い自己効力感によって異文化に対する警戒感が強い人たちにとって、安心感をあたえる効果があるのではないかと考えています。それは、承認されることで、異文化における彼(彼女)ら自身の犁鐓貊蝓箸鮓つけることができます。居場所が見つかれば、チャレンジ精神も生まれ、フィードバックによる強化も効果を示しパフォーマンスが驚くほど向上していきます。根底に相手を承認するという信念をもって指導すれば、負のフィードバックも素直に受け入れてくれます。
 彼(彼女)たちにとって異文化の人間である私たちが承認を与えることで、将来の芽目を摘まないようにすることが私たちの責務ではないのだろうかということを念頭におきながらキャリア教育にあたっております 。(了)

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 「承認は人間の行動・文化・発展の『胚細胞』ではないか」という宮崎さん。

 というのは、きっといかようにも成長し、変容し、つながりあっていく驚くべき生命力をなぞらえて言われたのでしょうか… 現にそうした現象を眺めてきたわたしには、自然と受け取れる言葉でした。

 宮崎さん、ありがとうございました!

マネジャーの最も大切な仕事表紙画像


 『マネジャーの最も大切な仕事』(テレサ・アマビール、スティーブン・クレイマー著、英治出版、2017年1月25日、原題’THE PROGRESS PRINCIPLE: Using Small Wins to Ignite Joy, Engagement, and Creativity at Work’)。

 ハーバード・ビジネススクール教授の著者らが3業界、7企業、238人に対する1万2000の日誌調査を中心として創造性と生産性に関する35年間にわたる研究をまとめた。結論としては従来の常識と異なり、「進捗」こそが創造性と生産性の源であり、マネジャーの最も大切な仕事は、やりがいのある仕事が進捗するよう支援することだという。元早稲田ラグビー部監督、現日本ラグビーフットボール協会コーチング・ディレクターの中竹竜二氏が監訳。

 「行動承認」は、相変わらず正しい。この「進捗の支援」という新たな真実もそのなかに包含している。素直に喜びたい。(マネジャーに「やってほしいこと」を告げるうえで、その内容はシンプルであればあるほどいいのだ)
 とはいえ、あまり短絡的に結びつける前に、やはりこの労作の内容をじっくりみておきたい。中には、以前からある「外発」「内発」という用語の混乱について独特の解釈を施しているおもむきもある。(わたし的には賛同する)




 以下、恒例の抜き書きです:


どうすればビジネスの成功と社員の幸せを両立できるのだろうか?私たちの研究によれば、その秘訣は豊かなインナーワークライフ(個人的職務体験)を生み出す環境を作り上げること。すなわち、ポジティブな感情、強い内発的なモチベーション、仕事仲間や仕事そのものへの好意的な認識を育める状況をつくり出すことだ。


――「インナーワークライフ」。この本全体を通じて登場する言葉だ。押さえておきたい

●豊かなインナーワークライフとは仕事そのものから得られるものであり、仕事に付随する特典から生じるものではない。

●30年以上の研究を活用しながら、本書では7つの企業の内部に深く潜り込み、社員のインナーワークライフ――認識と感情とモチベーションの相互作用――に影響を与える日々の出来事を追跡した近年の調査に重点を置いた。
 
●驚くべき結果が判明した。彼らの95%が、最も重要なモチベーションの源泉について根本的に誤解していたのだ。各企業の内部をつぶさに追跡した私たちの調査が解き明かしていたのは、進捗をサポートすることが日々社員のモチベーションを高める最善の方法であるということだった。…しかしマネジャーたちは「進捗をサポートすること」をモチベーションを高める要素として最下位にランクづけしていた。

●従来の常識は優れたマネジメントにおける根本的な要素である進捗に向けたマネジメントを見落としている。私たちの研究によれば、マネジャーが進捗に着目したときに決定的なマネジメントの影響が現れる。


●インナーワークライフとは豊かで多面的な現象である。

●インナーワークライフは「創造性」、「生産性」、「コミットメント」、そして「同僚性(collegiality)」というパフォーマンスの4要素に影響を与える。私たちはこれをインナーワークライフ効果と呼ぶ。

●インナーワークライフが会社にとって大きな意味を持つのは、会社の戦略がどれほど素晴らしいものであっても、その戦略の実行は組織内の社員の優れたパフォーマンスに依存するものであるからだ。

――大いに同意。戦略が大事でないとは言わないが、戦略を実行するのはつねに「社員のパフォーマンス」という問題が横たわっている。だから戦略が横並びであれば、「行動承認」のマネジャーたちはつねに「1位」をとる…

●インナーワークライフは職場で起こる日々の出来事に深く影響を受けている。

●インナーワークライフは社員にとって大きな意味を持つ。

●3つのタイプの出来事が、インナーワークライフをサポートし得る要素として次の順序で際立っていた。,笋蠅いのある仕事における進捗触媒ファクター(仕事を直接支援する出来事)、そして栄養ファクター(その仕事を行う人の心を奮い立たせる対人関係上の出来事)だ。

●インナーワークライフに影響を与える戦術の3つの出来事群のなかで進捗が最も大きな要素であることを指して進捗の法則と呼ぶ。インナーワークライフに影響を与えるすべてのポジティブな出来事のうち、最も強力なのが「やりがいのある仕事が進捗すること」である。

●この3つの出来事群がネガティブな形をとると(あるいは欠如すると)インナーワークライフは大きく暗転する。その3つの出来事群を、順に仕事における障害阻害ファクター(仕事を直接妨げる出来事)、毒素ファクター(その仕事を行う人の心を蝕む対人関係上の出来事)と呼ぶ。

――3番目は「ハラスメント」の問題とつながりそうですね

●他の条件がすべて同じである場合、ネガティブな出来事はポジティブな出来事よりも強い影響力を発揮する。

――だから「5:1の法則(ポジティブなフィードバックとネガティブなフィードバックの比は5:1であれ、という法則)」なんですね

●たとえ一見ありふれた出来事であっても――たとえば小さな成功や小さな障害であっても――インナーワークライフに大きな影響を及ぼし得る。




●インナーワークライフとはインナー(個人的・内的)なものだ。各人の心のなかに宿るものである。インナーワークライフは個人の職場での経験にとって重要なものだが、普通周囲からは認識できないし、それを経験している本人さえ自覚できないこともある。

●インナーワークライフとはワーク(職務)である。基本的に仕事上の出来事に対する職場での反応のことを指す。インナーワークライフは私生活での出来事によって影響を受けることもあるが、それはその出来事が仕事に対する認識、感情、モチベーションに影響を与える限りにおいてのことだ。

●インナーワークライフとはライフ(人生・体験)だ。自分の仕事はかけがえのないもので、自分は成功していると感じると、個人としての成功という人生にとって重要な要素に対する認識も向上する。仕事に価値がないだとか、自分は失敗していると感じると、人生から大きく勢いが失われるのである。

●インナーワークライフとは認識のことだ――マネジャー、組織、チーム、仕事、ひいては自分自身に対する好意的あるいは敵対的な(そしてときに漠然とした)印象のことである

インナーワークライフとは感情のことだ――ポジティブであれネガティブであれ、職場でのあらゆる出来事から生じる気分のことである。


●インナーワークライフとはモチベーションのことだ――何かをする際の、あるいはしない際の原動力のことである。


●日誌の分析を通じて、出来事に対する即時の感情的反応は、本人が思うその出来事の客観的重要度とは無関係に大きくなることがあると分かった。小さな出来事の28%が大きな反応を引き出していた。つまり、人が重要ではないと感じる出来事でさえ、しばしばインナーワークライフへ大きな影響を与えていた。


●内発的モチベーションが下がるか、外発的モチベーションが上がると、結果として創造性が低下する。

――ここで「内発的モチベーション」として著者が挙げるのは、関心、喜び、満足感、仕事へのチャレンジ
また「外発的モチベーション」として挙げるのは、報酬、低評価への恐怖、勝つか負けるかの競争のプレッシャー、厳しすぎる締め切り、など。
 よく「賞罰主義を否定する」と言ったり、「内発、外発」の意味が混乱しているのだが、マネジャーの賞賛や励ましの言葉は、わるいものとして言われることの多い「外発的モチベーション喚起策」には入っていない。この本全体では、それらはどちらかというと「内発的モチベーション」を強めるものとして扱われていることに注意したい。
 要は、お金、昇進、(賃金や昇進を決める考課としての)評価、競争での勝ち負け などが外発的報酬(外発的モチベーションを喚起する報酬)。
 また、外からであれ内からであれ、精神的な喜びや満足をもたらすものが内発的報酬。

 ちょっとわかりにくい。
 ここでは、行動理論でいう「強化子」の概念とは、少しズレた意味合いで使われている。
 「強化子」は、むしろ大きな概念なのだ。上司からのほめ言葉も、賃金も、お客様からの喜びの声も、仕事そのものからくる手ごたえも、たとえば本書で重視する仕事の「進捗」も、すべて仕事を促進する「強化子」である。

 ところで、「外発・内発」の定義の分け方は、決して本書のようなものばかりではない。「上司や親や先生からのほめ言葉」も、「アメとムチ」と呼んで、「外発的報酬」に入れるものもある。
 当ブログの『報酬主義をこえて』にたいする批判のシリーズなど参照。

 なので、ここの定義は結構混乱している。比較的最近では、『ビジネススクールでは教えない世界最先端の経営学』でも出てきた話題。


 実務のなかでの対処法としては、
 「行動承認プログラム」を教える人が、もし今後「マネジャーからの承認の言葉は『外発的報酬』に当たるので、良くないものではないか」という反論に遭ったときには、本書を参照し、「マネジャーからの承認は『内発的モチベーション』を強化する役割を果たすので、『内発的報酬』に分類すべきだ」と反論すればよい。

 …正直、書いていてわたし自身あまり信じていない。あやふやな定義だ、と思う。「内発・外発」というくくりそのものが。
 しかし、次へ進もう。

●ある実験で72名の作家を集め、1つのグループには「ベストセラーを書けば経済的に保証される」などの外発的動機付けについて考えてもらったあと詩を書いてもらうと、その詩は「自己表現の機会を享受できる」などの内発的動機付けについて考えたグループのものより創造性が低かった。

●内発的モチベーションは組織内の創造性にも重要な役割を果たす。内発的なモチベーションが高いときのほうが個人としての仕事の創造性は高かった。

●心理学者のバーバラ・フレデリックソンあ、ポジティブな感情が人間の思考や行動の幅を広げるのに対し、ネガティブな気分には正反対の効果があることを理論的に解き明かした。

――このブログでは『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』という本の読書日記の中で触れています。いろいろと接点があるなあ。やっぱり「これは」と思う本はチェックしておくものですね

●仕事が実際に進捗すると、たとえば満足や嬉しさ、さらには喜びといったポジティブな感情が引き出される。進捗は達成感や自尊心、そして仕事やときには組織へのポジティブな認識につながる。

――「承認企業」では「企業理念への共感」が上がるという統計結果があるんですが、最後の一文はそのことを言っていそうですね

●ツイッターの共同創設者ジャック・ドーシーは、自分のアイデアで立ち上げた会社のCEOの地位を追われたことについて「腹を殴られたような」気分だったと表現している。…同じことが組織の上から下の人びとにまで言えることがわかった。仕事における進捗と障害がこれほど大きな意味を持つのは、仕事そのものが大きな意味を持つものだからだ。仕事とは人間の一部なのである。

――仕事が大きな障害に遭ったとき、自分が根本的に否定されたような感情にさいなまれる。自分も経験したこの感じ、わかるなぁ。

●人間の最も基本的な原動力のひとつは自己効力感――自分には望む目標を達成するために求められる作業をプランニングし実行する能力があるのだという信念だ。…仕事を通じて、人は進捗し、成功し、問題や作業を乗り越えるたびに自己効力感をますます強く育てていく。

●やりがいを失くす4つの道。
1.自分の仕事やアイデアがリーダーや仕事仲間から相手にされないこと。
2.自分の仕事から当事者意識が失われること。
3.自分たちが従事している仕事は日の目を見ないのではないかと社員に疑念を抱かせること。
4.頼まれた数多くの具体的な作業に対して、自分にはもっと能力があるのにと感じてしまうとき。

●進捗が人間のモチベーションにとっていかに重要か。マネジャーたちは気づいていないが、すべての優れたゲームデザイナーたちは、その秘密の事実を知っている。真に優れたゲームデザイナーは、ゲームのすべてのステージでプレーヤーに進捗の感覚を与える方法を知っているのである。

●感情に対する障害の効果は進捗の効果よりも強い。障害は、進捗が幸福感を増幅させる力の二倍以上の力で幸福感を低下させる。
 インナーワークライフへの影響力が相対的に弱いがゆえに、職場ではネガティブな出来事よりもポジティブな出来事が数で勝るように努力しなければならない。

●明確な目標は、触媒ファクターの主要な要素の1つだ。触媒ファクターはインナーワークライフに影響を与える3大カテゴリーのうち、進捗の法則に次ぐ効果を持つ。

●驚くべきことに、触媒ファクターと阻害ファクターは、まだそれらが仕事自体に影響を与えるまでに至っていなくても、インナーワークライフへ瞬時に影響を与え得る。

栄養ファクターの効果。ヘレンの休暇の申請に対して、「プロジェクト・マネジャーのルースからこれまでの働きに対する感謝と、この『自由な1日』はこれまでの懸命な働きぶりに対する報酬なのだと念押しが書かれたメモを受け取った。そのメモは私の気分を良くしてくれたし、このプロジェクト・マネジャーとチームを成功させるために、もっと頑張りたいと思わせてくれた。」ルースは栄養ファクターを行かしたのだ。

●栄養ファクターにまつわる4つの出来事。
1.尊重
2.励まし
3.感情的サポート
4.友好関係

●毒素ファクター。栄養ファクターの対をなすもので、正反対の効果を持っている。
4つの毒素ファクター:
1.尊重の欠如
2.励ましの欠如
3.感情無視
4.敵対

――「尊重」が一番上にきている。このことは大きな意味をもっている。人は、「下」にみられたくないのだ。できれば「対等か上」にみられたい。
 だからこそ職場の人にとってマネジャーとの関係はつねに悩みのタネだ。最近よく思うのは、「勇気づけ」を行うときにこの「尊重」の要素を欠いていると、いかに「勇気づけ」をしたつもりでも相手には「尊重欠如」になる、ということ。だから、「勇気づけ」にけっして反対はしないけれど、「勇気づけ」という言葉で意識するより他の言葉で意識したほうがいい結果につながりやすい、とひそかに思っている。やはり、「勇気づけ」はカウンセラーからクライエントへ、大人から子供へ、の目線が根底にあるのではないだろうか。

●多くのマネジャーは人間関係上のサポートが部下たちをやる気にさせ感情を上向かせるのに重要であることを知っているように見える。しかしこの栄養ファクターで難しいのは、このファクターが優れた仕事を讃えたり、長い1週間の終わりに激励の言葉をかけるだけにとどまらない点だ。人間関係のサポートはマネジャーが直接部下とやり取りするときだけに生じるとは限らない。それは部下同士が互いに栄養を与え合う基礎を築くことでもある。

――実はポジティブな職場風土を築くというとき、部下同士のよい関係にばかり着目して部下側に研修を施そうという考え方が根強いのだ。実際は、ポジティブな職場風土はマネジャーから発信される。このことはいくら言っても言い過ぎではないと思う。幸い、本書の著者はそのことがよくわかっている。(←えらそう)




 おおむね抜き書きは以上。

 有り難いことに「行動承認」は揺るがない。

 ハーバード大ビジネススクールという本書の著者の「環境」にも思いを馳せる。「論理的」であることを尊ぶ風土のところで、「感情」の重要性を言うむずかしさを、膨大なエビデンス群で跳ね返してきたであろう。その労を多としたい。

 そのうえで、現代はまた、「感情」のさらに高次のもの、「理性」についても言わなくてはならない。従業員の「感情」を尊ぶが、その主体であるマネジャーは「理性」の人でないと、という、入れ子状態。

 だが、恐れることはない。

 「承認欲求」についての世間の不当なバッシング、それにもっと前からあった「内発と自律論」による「行動理論叩き」は、あきらかに成果の上がる手法にたいして机上の空論で貶める、非常にもったいない時間の浪費である。わざわざわたしたちが有能に幸福になる道筋を閉ざしてしまっているのだから。

 ここで、現時点での脳科学からみた「承認欲求」とはどういうものか、というお話をしようと思う。「承認欲求」というモノについて恣意的にホラーめいた妄想をするより、生産的な議論ができるのではないだろうか。

 

 出典は『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(原題’SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’、マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月20日)。

 こちらの記事で2015年秋に詳しい読書日記を書いているが、例によって長大な記事で印刷すると10Pにもなった。今回はそのなかから、「承認欲求」に直接関係しそうなところだけ抜き出してご紹介しよう。


 ここでは、「内側前頭前皮質(MPFC)」という部位が問題になる。人類を他の哺乳類から区別して特徴づけている脳の一番外側、大脳新皮質のうち、理性にもっとも関わる前頭葉の内側の一部位。ちょうど額の真ん中の”第三の眼”のあたりを指で指すと、その奥が内側前頭前皮質だ。ここが”自己”という感覚をつくり出している。


 人間以外の霊長類では、脳全体に占める内側前頭前皮質の割合が0.2〜0.7%だったのに対して、人間の場合は1.2%だった。他の霊長類の脳と比べてこれほど大きな割合を占める人間の脳の領域は、内側前頭前皮質を除いてあまり見当たらないという。

 「礼儀正しい」「話好き」といった形容詞を見せ、「形容詞が自分自身に当てはまる」と判断した人の脳では、内側前頭前皮質が活性化していた。わたしたちが自己を概念的に捉えるとき、内側前頭前皮質を使っている。

 とりわけ、思春期の子供でみると、自分が自分をどう思っているか、他人が自分をどう思っているか、どちらを考える場合でも、内側前頭前皮質とメンタライジング系の両方が活性化していた。この時期の子供は「自分とは誰なのか」という問いに答えるのにさえ、自己の内面を探るよりも他人の心に焦点を当てて考えるようだ。人生で最も承認欲求が亢進する時期の子供の頭のなかは、そうなのだ。

 内側前頭前皮質は自分自身について教えてくれる、いろいろな情報を反映する領域だ。その中には、個人的で内省的な情報もあれば、周囲が自分をどう思っているかという反映的評価から生まれる情報も含まれる。つまり「自分とは誰なのか」という自己感は社会的に作り上げられたものであり、そのプロセスに関わっているのが内側前頭前皮質なのだ。

 内側前頭前皮質にはもうひとつ重要な働きがある。「説得に従う」ということである。暗示にかかりやすい人の脳では、内側前頭前皮質が活発に反応していた。日焼け止めの効用についての説明を聞いていた人たちのなかでは、内側前頭前皮質が活発に反応していた人ほど、そのあと日焼け止めを使っていた。わたしたちが態度や行動を変えるかどうかは、内側前頭前皮質が広告や説得にどう反応するかによって決まる。


 「これらの実験は、自己とは他者と自分とを明確に区別し、私たちを特別な存在にしてくれるものだという考えにとどめを刺したと言えるだろう」とリーバーマンはいう。「なぜなら、私たちの概念的な自己感をつくり出す内側前頭前皮質は、『私たちの考えや行動に影響を与える情報を、外部から取り入れるルートでもある』からだ」

 他人の目から隔てられまったく独自の価値観、独自の動機づけで生きる自分というのは、そもそも「ない」のだ。

 もう少し平たくいうとこんな風に言えるだろう。
 わたしたちは、生まれてからこのかた、親をはじめ周囲の人に自分がどう思われているかという情報を取り入れる。同時に周囲が提供してくれる、どう振る舞うべきかの規範の情報も取り入れ、内面化する。そのふたつの役割を、内側前頭前皮質が担っている。「どう振る舞うべきかの規範の学習」と「どう思われているかの情報を気にすること(=承認欲求)」はだから、一体にして不可分のものなのだ。

 


 わたしたちは現在、1日か2日に一度入浴し、きちんと洗濯した服を着て人前に出る。赤ん坊時代であれば入浴していなくても汚い服を着ていても気にならなかったかもしれない。
 しかし、「きちんとした人として見られたい(=承認欲求)」ことが規範を学ぶエンジンになり、そこそこ社会的な立ち居振る舞いをするようになる。幼いころからこのかた、わたしたちが承認欲求のお蔭をもってに身に着けてきた規範的・社会的な行動はどれほどたくさんあるだろうか。
 
 
 某アドラーの弟子ドライカースの著書では、人が悪いことをする契機の第一は「称賛の欲求」なのだという。それだけを見るといかにも承認欲求はわるいもので、アンインストールしたほうがいいもののように思えるかもしれない。

しかし、ドライカースはわたしたちが良いことをする契機については書いてくれなかった。わたしたちが人生の中で規範に従った「よい行動」をする回数と悪いことをする回数のどちらが多いか考えてみよう。ときどき悪いことをさせるのも承認欲求かもしれないが、日常的にそれをはるかに上回る数の規範的な行動をわたしたちにさせてくれるのも承認欲求だ。それは「操られている」「囚われている」といった被害者的なタームで表現する必要はなくて、そもそもそういう風につくられているのだ。


 この「承認欲求が規範の学習の原動力となる」という知見は、当然マネジメントにも応用できる。
 「行動承認研修」のなかではこのリーバーマン説との出会い以来、こんな風に教える:

 あなたがマネジメントの中で部下に順守してほしい行動を教えたり指示したりするときには、同時に部下を承認しなさい。できれば部下が「たしかに自分自身のことだ」と思えるような承認をしなさい(たぶん行動承認をしておけば間違いないでしょう)

 もっと以前から、「行動承認」の世界では、「部下がぼくの言うことを信頼して聞いてくれ、その通り行動してくれる」という報告がされていた。だから「信頼の問題」であるともいえるし、「承認欲求の問題」だともいえるだろう。いずれにせよ「行動承認」をしていればよいことなのだ。
 
 
 そういうわけで、承認欲求はわたしたちが生涯にわたってアンインストールできないOSのようなものだ。よく、前頭前皮質の一部を損傷した患者さんが抑制がなくなり、不道徳な言葉を言ったり約束を守らなかったりする事例が取り上げられるが、そういう逸脱した人になりたいと思うのでなければ、これまで通り承認欲求とともに生きればよいのだ。


 
 

※この項目は書きかけ項目です


 1つ前の記事「ブログ読者の皆様にお年玉 あなたがたはなぜこんなに聡明なのか 」に関連して新たに2つの話題。

 「OSとアプリ」、それから「無罪判決と寛容、ダイバーシティーの思考力」について。

 きのう友人から示唆していただいた。
 「行動承認」とそれ以外の多数の研修コンテンツは、「OS」と「アプリ」の関係なのだ、と。

 たまたま、友人は企業の人の「マネジャーが部下に仕事を任せられない」というお悩みを持ってこられていた。私からは、
「それは行動承認というOSをその人の中に作ることができればすぐ解決できるでしょう。OSさえあればすぐ載せられます。人に任せられるようになります。経験的にはそうです。ただ企業の人にはそこの因果関係はなかなかわかっていただきにくい」
ということをお話しした。それに対して友人が言ってくださったのが、これ。

「行動承認とそれ以外の多数のコンテンツは、OSとアプリの関係ですよね。そういう関係だということが理解できない方が多いですが」。


 こういうことは無数にある。今ここで数え上げられないぐらい。「行動承認」というOSに載せられるアプリを挙げ出したら巻紙のような長い長いリストになるだろう。企業の方に、「あなたの抱えておられる課題にもちゃんとお役に立てますよ」ということを言うのにも、長いリストの中から探していただくことになる。「ダイバーシティー」「ワークライフバランス」「パワハラ」「メンタルヘルス」「安全衛生」などもその中に入る。

 企業の方は往々にして(私の存じ上げている少数の聡明な方々はべつとして)課題にピンポイントで効き目があると謳う商品を選ぶ。宣伝上、また研修を受けているさなかにもそれは有効そうにみえる。でも「OS不在」では、現場に帰って実際には動かないものだ。(あるいは、強すぎるトーンで研修をやり薬が効きすぎてまるでそのアプリがOSのように見えてしまうので、「全然叱れないマネジャー」ひいては「規律規範のない職場」ができてしまったりする)

 こちらからみると、「いや、それよりOSをじっくり作ってあげたほうがいいんですよ」というのが見えてしまい何とももどかしいのだが、それは非常に伝わりにくい。



 似たようなお話は過去のブログにも何度も出てきていると思う。10数年間そのもどかしさを抱えてきた。

昨年はかつてなく「働き方」に注目が集まった年だった。だがそこでも、「過労死に対する時短」がOSになりうるのかどうか、また「パワハラ対策」がOSになりうるのかどうか、立ち止まって考えてみたいものだ。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 もう1つの話題は、表題にある「無罪判決とマネジャーの寛容、ダイバーシティーの思考力」について。


 1つ前の記事では、「行動承認」に大いに関わっていそうな脳の部位に「側頭頭頂接合部」があり、この部位は次の3つの役割を担っている、ということを書いた。

1. 自分の体位と他人の行動を察知する能力
2. 他人の気持ちをわかる「メンタライジング能力」
3. 他人の問題行動の動機が故意かそれとも不測の事故なのかに照らして、有罪か無罪かを決める判断力

 このうち3.について少し展開して考えてみた。

 「有罪か無罪かを決める」というと大仰な表現だが、これはこの知見を導き出した実験で被験者に裁判官になってもらい「この犯人は有罪か無罪か?」を判定してもらうことをしたからだ。だが裁判官になってみるまでもなく、わたしたちは日常的に「有罪か無罪か?」という思考はしている。そしてその相手を「責める」かどうか決めている。

 例えば、職場や学校で障害のある人がその障害のために、ほかの人と同様の条件下で同様の作業ができなかった。
 いつも機転が利きサクサク仕事をしてくれるA子さんが今日は効率が悪く、ミスが多い。よくきくとA子さんは風邪で熱があった(あるいは、家族の介護に追われ仕事に集中できなかった)
 職場にきた外国人のB君があることで職場の慣行を守らなかった。よくきくとB君の母国にはそのような慣行はないとのことだった。
 C子さんとD子さんはワーキングマザーで同じぐらいの歳の小さな子供さんがいるが、C子さんのほうが子供さんの病気が理由での急な休みや早退が多い。よくきくとC子さんは実家が遠く、またお子さんが病弱だそうだ。
 ・・・

 障害のある人が健常者とまったく同じ条件で同じ仕事ができないのは、その人に責任のあることではない。好きで障害をもって生まれてきたわけではないのだから。だからその人は「無罪」である。だからできるだけその人に必要なサポートをし、できるだけ適材適所で、その人のできることをやってもらう。
 

 マネジャーは日常的に上記のような情報を集め、機械ならぬ人間の適材適所を図ったり好不調の波を理解している。
  普通のマネジャーはどうか知らないが「行動承認」の世界のマネジャーたちは、そうである。

 おおむね、「行動承認」のマネジャーたちはダイバーシティー(人の多様性)を苦もなく理解し、実践する。彼(女)らは性差別も障害者差別も外国人差別もしない。

 このブログでしつこく取り上げている「発達障害」の知識も持ち、そうした障害をもった人びとの行動特性も理解しているので、「行動承認」のマネジャーたちは普通の企業では問題になるかもしれない発達障害をもった働き手についても、不思議なくらいうまく落としどころをみつけて働いてもらっている。そうした働き手が必要とするちょっとしたサポートを面倒がらずに行い、周囲への啓発もする。

 
 恐らく彼(女)らは日常的に「無罪判決」をその脳の中で下しているのだ。
 
 それは、外形的には世間でいう「寛容」というものにみえる。(いや、過去から現在にいたるまで、「寛容」というのはそうした脳の働きによるのかもしれない)

 あるいは、「ダイバーシティーの思考法」とでも呼べるものが、「行動承認」のOSとともにインストールされるのかもしれない。
 経験的にはこれまで起きてきたことはそうだったし、今手元にある知見から仮説として言えるのも、そうだ。


 こうしたことがいつか科学的に実証されるといいのだが。
 

 

 ブログ読者の皆様、明けましておめでとうございます。
 皆様にとって素晴らしい1年であることをお祈りいたします。
 今年も、私はここでやっております。どうぞよろしくお願いいたします。


 1つ前の日記で「承認についてあまり新奇なことが言えない」と書いたが、大枠は変わらなくても毎年、少しずつは新しい発見があるものだ。
 このブログでは近年は「発達障害」と承認の関係、ドイツ・フランクフルト学派の承認論、それに幸福ホルモン・オキシトシンとの関連などが新しいトピックだった。
 一昨年の新しい話題は人の脳の「内側前頭前皮質」に「行動承認」で働きかけることによって規律規範を教え込むことができる、これは「行動承認」によって部下側に起きる画期的な変化の説明になる。職場でのOJTやリスクマネジメントの指示などに応用できるだろう。
(そう変わったことをする必要はない、単にできる限り「承認」、それも相手にピンポイントで働きかけるタイプの「承認」をまじえながら必要な指示を出してあげましょう、ということ。要するに「行動承認」をしていればよいのだ)

 昨2016年もそれに当たるちょっとした発見があった。「行動承認」を行う上司側の画期的な脳変化についてのひとつの仮説だ。
 「行動承認」の世界の上司たちはなぜ聡明で人の心がよくわかり判断力が高いのか?彼(女)らは「行動承認」ひとつに習熟したら、それ以上何も学ぶ必要がないかのようだ。

 実際には他の研修も色々と受けているだろうし本も読んでいるだろうが、彼(女)らはそれらの知識を易々と自在に組み合わせて動かしてしまう、まるで「行動承認」が万能のOSであるかのように。


 だから、「先生」としては結構寂しいのだがあまり多くの介入を必要としない。
 そして「先生」は十年一日のごとく「行動承認」のことばかり言い続けるのだ。


 さて、前置きが長かったが彼(女)らのこの聡明さの正体はなんなのだろう?

 それへの答えになるかもしれないのが、最近入手した、脳の「側頭頭頂接合部」に関する知見である。

 側頭葉と頭頂葉の繋ぎ目である側頭頭頂接合部は、きわめて多くの情報の通り道だ。2000年代に入って、この部位がいくつかの重要な思考能力と関わっていることがわかってきた。

 少なくとも3つの役割。
 すなわち、
1. 自分の体位と他人の行動を察知する能力
2. 他人の気持ちをわかる「メンタライジング能力」
3. 他人の問題行動の動機が故意かそれとも不測の事故なのかに照らして、有罪か無罪かを決める判断力

に、関わっているらしいことがわかっている。そしてこれら1.〜3.の組み合わせを見ていると、おぼろげながら一つの仮説が生まれてくる。

 つまり、「行動承認」を行うマネジャーたちは、日常的に1.の人の行動を察知することをやっているので、自然と「側頭頭頂接合部」全体の能力を筋肉のように鍛えており、従って2.のメンタライジング能力も3.の人の心に対する洞察に基づく判断力も高いのではないか?という仮説である。

 経験的にはこれは、非常に「ありそう」なことである。そうでもなければ「行動承認」の世界のマネジャーたちの聡明さの説明がつかない。
 残念なのは実際にアカデミックな実験をやったわけではないのであくまで仮説にすぎないのだが。


 また最近ではこの部位が「格差」を感じ取り格差を減らそうとする思考に関わっているらしい、という知見もあった。

>>http://www.asahi.com/articles/ASJB231TZJB2UBQU00B.html

 朝日新聞の有料会員でない人のためにこの記事の後半を補足すると、

 多数の人で調べたところ「お金の分け方」を考えるとき最大の関心が払われるのは「最低賃金はいくらか」つまり最も取り分の少ない人の取り分はいくらか、である。そして最低金額の状況をチェックする時に脳のどの部位が反応したかを血流で調べたところ、立場を置き換えて思考する際に使われる「右側(うそく)側頭頭頂接合部」が関係することも判明した、という。


 哲学の世界の「承認」は実際に「同一労働同一賃金」の思想的ベースとなり格差解消のための思想なのだが、脳の中で実際にそういう「格差解消」の思考が行われており、それは「行動承認」を行うのと同じ部位らしいのだ。
 いいですねいいですね。

 そこの格差の部分はちょっと余談でした。
 だがこの「側頭頭頂接合部」に関しては、今後も「こんな役割を担っていることが新たにわかりました」という知見が出てくるかもしれない。
 そのたびに「行動承認」が大人の人の総合的な思考力に関わっており、努力して維持し続けるだけの価値があるものだ、という話になるかもしれない。



 なので今日のお話は「行動承認」を行うマネジャーたちへの「お年玉」のようなものである。
 あなたたちは、聡明なのだ。おとなたちの中でも、ずば抜けて。

 「行動理論」などは昔からあったものの「部下や選手が伸びる」という相手方のご利益はわかっていた一方、こういう「行為者」つまりマネジャーやコーチの側のご利益はその当時言われていなかったのだ。



 そして、少しドヤ顔で、以前から小声で言っていたフレーズも言ってみる。
 あなたたちの今の聡明さは、「行動承認」を行うのをやめたら失われるよ。だから、絶対に「行動承認」は、やめないで。



 過去に一時期「行動承認」の人となったがその後様々な要因で離れて、急速に墜ちてしまった多数の人々を思うと心が痛む。一度こちら側に振れてから離れた人は、二度と戻ってこれない。

 一方で銀行のトップ支店長から大学の先生へ転身し、大学のゼミでも超有名企業に学生を送り込み成績優秀で学費免除の学生を輩出している松本茂樹氏のように、10数年も一つの手法の幸せな担い手でいることも可能なのだ。

 今日の記事は単なるデータ整理、ノートのようなものです。
 
 時々、出版社のかたがこのブログを訪問してこられて、「むずかしすぎる」と言って帰られるそうです。

 でも、「オキシトシン」についての記事もそうですけど、あんなに長々と読書日記を書いて、本に書くのはそのうちのほんの1−2行ですよ。自分があいまいな記憶に基づいていい加減な「捏造」をするのが嫌なので、覚え書きとして長々とブログ記事を書くんです。


 さて、以前から日本人における「承認」の有効性を言うときに「セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT遺伝子)」のスニッブのことを書いていました。

 「日本人は不安遺伝子を持っている人が多い」

 これ自体にもいろいろ注釈をつけないといけないのですが、最近では脳科学者の中野信子氏があちこちで同じことを言われているようです。

 
 で、気になりだしたのがこれの「分布」のこと。

 こうした研究は1990年代後半から盛んに出だしたのですが、それのもともとの論文に当たれていません。二次資料、二次情報ばかりです。

 で、ずうずうしく研究者の先生にお願いして「サイエンス」の論文を取り寄せていただきました。


 'Association of Anxiety-Related Traits with a Polymorphism in the Serotonin Transporter Gene Regulatory Region'
 筆頭著者はKlaus-Peter Lesch,* となっています。独ワルツブルグ大学の人。

 
 ここでは、2つの実験の被験者計505人のうち、

SS  95人 18.8%
LS 247人 48.9%
LL 163人 32.2%

となっています。
ちなみにSSとSL、Sが1つでもある人は不安感の高い「損害回避気質(harm-avoidance)」に関連づけられるとされています。SSの人は「とても不安」と言われます。

2つの実験の被験者とは、いずれもNIHが募集したものでアメリカ在住の人です。詳しくいうと、
(1)221人。男性93%女性7%。非ヒスパニック系白人79.1%、アジア/太平洋諸島出身者10.0%、ヒスパニック/ラテン4.1%、アフリカ系アメリカ人4.1%、その他2.7%。

(2)284人。男性92%女性8%。非ヒスパニック系白人93.6%、ヒスパニック/ラテン5.3%、アフリカ系アメリカ人0.7%、ネイティブアメリカン/アラスカン0.4%、その他0.4%。

 ・・・てなことをずらずら書くのは、以前「アメリカ人と日本人の分布の違いが云々」という話をしていたときに、「アメリカ人というのは人種は何か。アングロサクソンのことではないか」というご質問を受けたからです。答えは、アメリカ全人口の人種分布に近づけたような母集団だったということです。


 これに対して日本人に関してこのセロトニントランスポーター遺伝子多型をみた実験とは。
 アメリカ人の場合ほど母集団が大きくありません。

 中村敏昭らによる「アメリカン・ジャーナル・オブ・メディカル・ジェネティクス」に1997年掲載された論文の被験者数は女子学生ばかり173人で、

SS 118人 68.2%
LS  52人 30.1%
LL   3人 1.7%


でした。ネット上に流布している分布の数字は、ほとんどは出典が付されていませんが、この中村論文です。

だからよくこの種の知見を紹介するときに「日本人とアメリカ人500人ずつで調査」などというのは間違いだと思います。




 この当時(2000年前後くらい)は人種による遺伝子スニッブの分布の違いがホットな話題だったんですね。
 今もこれらの説は立ち消えになったわけではなく、例えばこちらの論文などに続いています。


「遺伝子と社会・文化環境との相互作用:最近の知見とそのインプリケーション」

>>http://www2.kobe-u.ac.jp/~ishiik/gxc.pdf

 これなどを読むと、「セロトニントランスポーター遺伝子」の多型と「オキシトシン受容体遺伝子」の多型(後者はオキシトシンの活性に関わる)が、それぞれ集団主義と、サポートの求めやすさに関わると言っています。

 ちなみにわが日本人をはじめとするアジア人は、セロトニンもオキシトシンも低く調節される多型の人が多いので、不安感が高く集団主義的になり、また信頼感が低くて相互サポートを求めにくい文化だ、といえます。

 欧米の個人主義というのは、実は高オキシトシンで相互信頼、相互サポートが期待できる基盤に支えられてるんですね。日本人は下手に個人主義をまねしないほうがいいと思います。


 今日はオチのないトリビアばかりの記事でした。


(23:15頃数字の間違いに気づいて修正させていただきました)

 NHK今期の朝ドラ「とと姉ちゃん」。5月31日は視聴率23.1%を記録し、今世紀の朝ドラで「あさが来た」を抜いて最高記録を更新しているそうです。

 今週は、ヒロインのとと姉ちゃんこと常子が女学校を出て就職しました。そこで、妙に「承認」が絡みそうな展開になってきます。


 就職先は文具会社で、職種はタイピストです。このタイピストの女性集団は会社の中でちょっと特殊な立場にあり、「タイピスト部屋」のようなところで仕事しています。

 昨日今日のあらすじを簡単に言うと…。

 未熟練でタイプの仕事をなかなか貰えない常子(高畑充希)。社内の他部署の男性に仕事を頼まれて引き受け、徹夜で机の整理整頓、書類整理、書類清書をこなす。真夜中まで残ってやっていた常子に、用務員のおじさん?がキャラメルを手に乗せてくれる。しかし時間内にやりあげた仕事に対し、依頼した男性は「もう帰っていいよ。邪魔」というのみ。

 タイピストの元締めのような先輩女性には、「男性は私たちを便利な雑用係としか思っていないから、仕事を引き受けてはダメ」と言われる。

 その先輩女性は、タイプでの清書を「原文通り打たなかった」と依頼元の男性になじられて切れ、
「文法がおかしいものを直してはいけないんですか!」
「私たちのことも男性と同様、ちゃんと苗字で呼んでください!オイや君じゃなくて」

 
…というような話です。

 はい、「承認研修」の受講生様方、ここには何と何の「承認欠如」が出てきましたか。

 なーんて、ね。

 答えは、「行動承認」「感謝」「ねぎらい」「ほめる(結果承認?)」「名前を呼ぶ」でした。基本中の基本です。皆さま、できてますね?(逆に、用務員のおじさんのキャラメルは、ささやかな無言の「承認」でしたね)

 ドラマでは、こうした「承認欠如感」を抱えてモヤモヤした常子が、家に帰って居候中の仕出し屋のおばさんに相談する、さあ何を相談するか、というところで今日は終わりました。

 もちろん戦時中の話ですから、「承認」なんて言葉はここに直接出てこないと思いますが…。


 ついでに、上記の話に常子の「義理のおじさん」(青柳家の養子。母の義理の兄弟)がサイドストーリーでちょっと絡んでいます。

 道で常子が自慢の多いおじさんとすれ違い、「ああまたいつもの自慢話をきかされるか?」と常子が身構える。しかし、おじさんは上機嫌の顔のまま、自慢せずに通り過ぎる。
 
 番頭の隈井(片岡鶴太郎)によると、おじさんはこのところ仕事で成功が続き、祖母(大地真央)からの信頼も厚いため、自慢しないでも良くなったのだという。ふうんと納得する常子。

 この話も、仕事自体によって十分な自信を得、また上司からの承認(信頼も承認のうち)も貰っていれば、自己承認をする必要がなくなった、というふうに解釈することができます。


 まあなんで「承認屋」の解説を必要とするドラマでしょうか。





 このところ「承認欲求バッシングの批判」という、批判の批判、ねじくれたことをやっていますので、「承認」のたいせつさがストレートに伝わりにくくなっていたのではないかと思います。

 しかし、「承認欲求」はわたしたち人間の基本欲求です。


 去年の10月、『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月)という本について、読書日記を書いて考察しました。

 この本では、「五段階欲求説のマズローは間違っている」といいます。マズローは所属と愛の欲求、承認欲求を五段階の上のほうに置き、生理的欲求のところに置かなかった。しかし、現実には人間の赤ん坊は片時も愛されなければ、そして注目され世話をやかれなければ死んでしまう存在だ。たえず愛、注目、ケアを求める。だからヒトにとって、愛され注目されるということは生死のかかった基本欲求で、それを一生涯引きずるのだと。



●『21世紀の脳科学』をよむ(1)読書日記編―「自立した個人」の幻想、マズローとジョブズの犯した間違い
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51923413.html


●『21世紀の脳科学』をよむ(2)考察編―新しい欲求段階説、作っちゃいました
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51923415.html

 
 上記の「欲求」についての考察を、わたしがこの本に基づいて、またこれまでの人間観察に基づいて、勝手に図にしてみたものがあります。


スライド1

 
 
 
 ちょっと字が細かいのでまた手直しが必要ですけれど…

 この図では、「つながり欲求」を大きく赤色で分類して、その中の原始的な乳幼児〜思春期ぐらいまでのものを「生理的・利己的なつながり欲求」、もう少し成熟した、社会人以降のより高次な関係欲求を「社会的思考の欲求(承認欲求)」としてみました。

 でもざくっと言うと、赤い色のところは全部「承認欲求」とよべるのです。

 また、大人の年代になってからの「承認欲求」は、倫理的に高いレベルの人でありたい、ということも含みます。そのことを通じて他者に良い影響を与えたい、自分についても良いイメージを保ちたい、と思っているからです。決して自己完結的に成熟するわけではないのです。


 また、青い色のところはこれまでモチベーション論の中で高級なものとみられていたところでした。「能力をフルに発揮したい」「夢中になり集中したい(フロー体験だ)」、「挑戦・冒険したい」。

 これらは、重要なものではあるけれど、これだけでは自己完結的なモチベーションです。他人目線を欠いていて、ひとりよがりになる危険性もあるものです。赤いところとセットになって、初めて周囲の人に役立つことができるのです。

 ・・・という、わたしの解釈であります。


 脳科学者もいろいろな考え方があると思います。上記の『21世紀の脳科学』原題'SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’の著者リーバーマンは40代の少壮学者ですが、人と人の心の結びつきを重視するスタンスの脳科学者さんだったようです。ソーシャル・ブレイン(社会脳)系の人ですネ。いくらMRIのような文明の利器があっても、その学者さんがそういう仮説を立てなければそういう知見は生まれてきません。


 でもわたしはこの考え方に賛同するのです。


 
 また上記の読書日記では、その後繰り返し使うことになる「内側前頭前皮質」についての知見が出てきています。
 すなわち、「わたしたちが自己を認識する部位」と、「外部からの規範を取り入れる部位」は同じものだ、と。ひとつの部位がふたつの働きをしているのだと。


 だから、相手に規範を教え込みたいときには、相手が「たしかに自分のことだ」と思うような「承認」の言葉をかけながら教えてやるのがよい。

 「行動承認プログラム」の中では、この知見をこのように使います。

 はい、みなさん。「相手がたしかに自分のことだと思うような承認の言葉」って、どんなものでしょう?

 大丈夫ですね。「行動承認」でほぼOKです。「名前を呼ぶ」などもいいかもしれません。




 今日は、フェイスブックのお友達に「正田さんは承認のことを書かなければダメだよー」と言われてしまいました。

 最近たしかに寄り道ばかりしています。
 「承認」のすばらしさをもっと書かなくちゃね。

 とと姉ちゃん、明日からどうなるんだろう。



 ふたつの道筋があり得るんですが、
 ヒロインの常子自身には、「人に認められたいと思わず貢献しようと思って働け」というアドバイスがあり得ます。
 しかしタイピストの元締め、早乙女という女性の言い分ももっともです。この人の言動やスタンスには、「性差別と承認欠如が合体した状態」に対する抵抗が感じられます。こういうときに「人に認められようと思うな」ということは、「性差別を容認せよ」ということになってしまいます。
 
 さあ承認欲求バッシングか、それとも承認欲求肯定にいくか。目がはなせません。

 下り坂でおかしなことばかり起こる時代だが、ちょっといいこともありました。
 このところ別件でお世話になっている山口大学医学部講師の林田直樹先生とフェイスブックメッセージでやりとりさせていただきました。

 林田先生は、先ごろ拙著『行動承認』を読んでくださり、非常に好意的に受け取ってくださった方です。


 どんなやりとりだったかというと…。

私:「手前味噌ですが行動承認をやり始めた人は細胞レベルで変わる感じなんです。脳発達も起きていそうです。いつか、理系の研究者さんがこの現象に興味を持って研究してくださらないかなと思ってるんです。」


林田先生:「『行動承認をやり始めた人は細胞レベルで変わる感じ。脳発達も起きていそう』とのことですが、僕はそれは十分あると思います。すごくざっくり言うと前頭葉で起きる変化がメインだと思いますが、シナプスが新しくできる、組み変わる、ということは間違いなく起きていると思います。

脳の活性化部位を調べる機器は、安くても1億円くらいするので、やはり先生の著書が改めて売れてくれれば、興味を持つ人はいるんじゃないかと思います。

 細胞における遺伝子発現も変化が起きていると思いますが、ヒトが対象だとサンプルが取れないのでそれが残念ですけど (^^;、血中を流れる多くの因子の中で、数個は優位に変動しているのではないかな、と想像します。」


 このあと、林田先生は医療系の研究室におけるマネジメント(主に教授の資質による)についても話してくださいましたが、ここでは省略。正義感高く教育者気質で、かつ科学者でもある林田先生に、『行動承認』は思いのほかヒットしていただけたようです。

 林田先生は分子生物学・アンチエイジングの専門家です。
 もちろんまだちゃんと実験してエビデンスをとって、という段階の話ではありませんけれども、専門家の方からこういうコメントをいただけた、というのは、わたしには大きかったのでした。

 年来、理系の研究機関に共同研究のお願いをして、断られてきました。今年初めも、実はある研究機関にちょっと期待をもって真剣にお願いして、ある程度の段階まで検討していただいたらしいのですが、断られました。そのときは結構落ち込みました。

 理系の研究機関に何を調べてほしかったのかというと、「行動承認」で受け手の側、すなわち上司部下で言えば部下側、親子関係で言えば子供さんの側が伸びるというのは、もうわかっているのです。火をみるより明らかなのです。

 そうではなくて、行為者の側、すなわち上司や親御さんの側が、
・頭が良くなって思考能力が高まり、
・幸福感が高まり、
・また若返りとか、細胞レベルの変化が起きているのではないか?
というのが、わたしが年来感じていることです。そちらを検証してほしかったのです。

 なぜそちらを検証してほしいかというと、そちらは「研修を受けて、行為者になる」側です。従来は行為者のメリットではなく、部下側のメリットが語られてきました。

「こうしてあげると、部下は喜びますよね」
「部下は伸びますよね」

「…すると、業績が伸びてあなたの評価も高くなりますね」

 「あなた」にメリットが返ってくるのが随分先の話です。
 その時までは、通常の仕事だけでシンドイのに「承認」という、新たなタスクが課せられてよけい忙しくなるだけです。

 まあ、そこまで損得勘定一本やりでものを考える人ばかりでもないだろうと思うけれども。当面のメリットが少ないかのようだったのです。

 実は、そうではない。上司にもとても大きなご利益があるのだ。

 それが、自身の幸福感であったり、脳発達であったり、アンチエイジングであったりします。

 これらは、勝手な妄想で言っているわけではなくて、数年前から

「承認の世界の上司たちは非常に『あたまがいい』。現実的に物事を考え、さっと整理し、決断する。それはもともとそういう人だから承認を習得するのか、それとも承認の習得と実践であたまのはたらきが良くなるのか」という意味のことをブログに書いてきております。

 どうもこの人たちにはあまりパーソナルコーチングをやってあげる必要もなくなる。だからわたしは儲からないけれど、彼らがどんどん決断して問題解決をしていくのを折にふれきかせてもらうのは喜ばしいことでした。


 「あたまがいい」のは、脳発達の関連として、脳の白質の体積(特に林田先生のおっしゃるように前頭葉付近)が前後でどうなったかをみることもできるでしょう。他人の自分にはない強みを認めるということは、その強みを追体験するということでもあります。自然と、自分に本来なかった強みを不完全ながらも取り込むようになっている可能性があり、脳の可動域がそれだけ広がります。

(これは世間でいう「度量の広い人」になる、と言い換えられるかもしれません。しかしだからと言って、小保方氏の不正行為を許すわけではありませんヨ)

 また、海馬や扁桃体の変化もあるかもしれないです。海馬は、細胞の増加が起こることがわかっている領域でワーキングメモリに関連しますが、「行動承認」を日常的に行うことは、その人のワーキングメモリを鍛える働きがあるだろうと推測されます。そのことがその人の決断の速さにもつながっている可能性があります。

 扁桃体は恐れに関連する領域ですが、過去に瞑想に関する報告で、瞑想を一定期間行った人は扁桃体の密度が減っている、すなわち恐れが減っているというのをみたことがあります。わたしは、承認の世界の人にもそのような、むだな不安感の軽減が起きているのではないかと思っていて、それもまた決断スピードの速さにつながっているように思えます。


(「瞑想」についてはひところ流行りで盛んに研究ネタにされ、エビデンスが出ましたが、そういう「ノリ」というのが研究の世界にもあるらしいんですよね。私は瞑想のエビデンスをみるたびに「これと同じことが承認でも起きているのではないか?しかも承認のほうがドロップアウトが少ないし部下も伸びるというメリットがいっぱいある」と思っていました)

 
 「幸福感」については、このブログでおなじみの「オキシトシン」の値を「行動承認」前後で測ればわりあい簡単にできるでしょう。


 もし、林田先生が言われるように「細胞における遺伝子発現」というものがみられるとしたら、大変におもしろいのですが、ヒトではとることが不可能なんでしょうか…。残念。


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 きのう批判した「アドラー心理学」とのからみで言いますと、

 「アドラー心理学」で、「人に認められなくてもいい」とか「期待に応える必要はない」と言ってもらった人は、「心がらくになる」んだそうです。それがご利益なんだそうです。

 で、どういう現象かなあ?と思っていたのですが、そういう人はもともと強迫観念傾向のようなものがあって、

「認められなければならない」
「期待に応えなければならない」

という観念でがんじがらめになっていた。
 それがうまいこと解消された。
 ということではないかと思います。

 TVに映ったサンプルの人たちをみると、「自我」「最上思考」らしい人たちです。

 しかし、そういう人がそんなに多いんでしょうか?

 
 なんどもいうようにアドラーの生没年は1870〜1937。フロイトと同世代。

 この当時の精神分析とか心理学というのは、病的な人をいかに治すか、というのがテーマでした。

 
 だから、ゴールがすごく低いところにあるんです。
 「悩みがあった→悩みがなくなった(プラマイゼロの地点に戻った)」
というのがゴールなんです。

 「行動承認」のように、

「部下がすごい勢いで成長し、有能・優秀な人になり、
自分も部下も幸福感が高く、
問題解決能力が高くなり、
部門全体の業績もがんと上がる」

というようなことは、想定していません。

(あるいは最悪、「同業者はバタバタ倒産しているが、わが社だけは生き残りご同業の分を取り込んでいる」とかね)


 わるくいうと、「志が低い」といいますか。

 やれることのレベルが全然違うんです。たぶん、脳発達などは全然起こらないと思います。


「人に認められなくてもいい」

 これは、上司いわば強者の側が努力しないことがわかっている場合の、部下いわば弱者の側の「あきらめの思想」のようにもきこえます。
 そういう立場の人にとっては、アドラー心理学の源流であるニーチェ思想の「ニヒリズム」が耳に快く響くんです。



 そこでまた余談ですが、

 わたしは、上司側が変わらない限り、というか努力しない限り状況はよい方にはいかないことが分かっているので、「上司を教育する」ことが何よりも大事と考え、それだけをやってきました。

 そのぶん、お仕事をさせていただける機会は少なかったといえます。

 教育研修市場というのは、部下すなわち弱者の側を教育するほうの商品で溢れ、そちらの売り買いがメインです。

 わたしも、営業して回っているとよくきかれます。「若手のほうの教育はされないんですか?」と。

「いえ、しません。上司のかたの教育をしたほうが、効果がはるかに長持ちし、御社にとってメリットが大きいですから」

 質問者をがっかりさせることは承知で、わたしはそう言います。



 「アドラー心理学」のように、諦めてる部下を対象に本を売ったり教育したりしていれば、どんなにか楽でしょうね。儲けやすいでしょうね。

 でもそれは、事態を悪化させるだけなのです。
 「気が楽になった」は、単なる気休めです。過食になっている人に「食べなくても死なないんだよ」と言っているようなものです。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 引き続き、『承認と包摂へ―労働と生活の保障』(大沢真理編、岩波書店ジェンダー社会科学の可能性第2巻、2011年8月、以下「本書」)の読書日記です。貧困、社会的排除、雇用の非正規化―といった、今世紀に入って急速に進んだ経済格差の事態を理解し、それへの処方箋を考えるのにお役立てください。

 今回はワード22pになってしまいました。長文、ご容赦ください。



「後編」では、本書の後半4章、すなわち
II 課題と可能性:再編成と共生
第5章 貧困と社会的排除―ジェンダーの視点からみた実態(阿部彩)
第6章 雇用の非正規化と労働市場規制(遠藤公嗣)
第7章 社会的経済が示す未来―イタリアの協同組合の事例から(田中夏子)
第8章 レジーム転換の福祉政治―包摂と承認の政治学(宮本太郎)
をとりあげます。

 このうちとくに第5章は、・独身非正規女性・求職中の人 の蒙っている不利益、また第6章は、非正規雇用の歴史と、今の労働政策で議論されていることを理解するのに大いに役立つと思います。
 


第5章 貧困と社会的排除―ジェンダーの視点からみた実態(阿部彩)

 貧困という社会的不利が女性に偏って顕著であることは、先進諸国においても途上国においても同様である。日本については、他の先進諸国のような「貧困の女性化(feminization of poverty)」が起こっていないという指摘もあったが、これは主に、この指摘の分析が母子世帯の貧困世帯に占める割合を中心に行われていたことによる。しかし、その後の文献において、例えば、高齢者をも分析に含めると、「貧困の女性化」の現象は日本においても顕著であることが指摘され、日本では貧困の女性化が起こっていないという説は否定されている。女性の貧困リスクを示す統計データも次々と発表され、中でも、女性を世帯主とする世帯の貧困率が際立って高いことが指摘されている。例えば、高齢女性の単身世帯の相対的貧困率は50%を超えており、母子世帯の貧困率も60%近い。(p.113)

働く女性の貧困は、「派遣村」よりずっと以前から起こっていた問題であるにもかかわらず、ワーキング・プア問題は勤労世代の男性にも広がるようになって初めて、社会問題として認知されるようになったのである。社会的排除/包摂の観点からも、女性の問題は「みえにくい」。(p.114)

 
 世帯所得をベースとする所得指標は、世帯内のすべての構成員が同じ等価所得をもっており、そしてその所得から得られる生活水準が同じであると仮定する。しかしながら、これは特に女性にとっては大きなバイアスである。…世帯内の世帯員が同じ生活水準と等価所得を得ているという仮説のもとに算出される貧困率は、女性の場合、過小に計算されていると考えることができる。(p.116)

 図1は、年齢層別、性別に貧困率(低所得率)を示したものである(厚生労働省「平成19年国民生活基礎調査」から推計)。すると、貧困率(低所得率)は、20歳代後半から40歳代にかけてはほとんど男女差がないものの、年齢の上昇とともに拡大し、70歳代・80歳代では6-7ポイントもの違いが生じる。ちなみに20歳代前半のみ、男性の貧困率の方が女性のそれよりも高くなっているが、これは1990年代後半から男性の20歳代前半の貧困率が急増していることに起因している。(p.117)

 図2は、1995年から2007年にかけての男女別貧困率の推移である。図1でみたように、日本においては高齢になるほど貧困率が高くなる傾向にあるので、人口の高齢化の影響を除くため、年齢は20-64歳の勤労世代と、65歳以上の高齢者に分けて示してある。これをみると、1990年代後半から2000年代後半にかけて、高齢者においては女性は横ばい、男性は若干の下降、勤労世代は男女ともに上昇していることがわかる。勤労世代の男女差は、ほぼ均等に2ポイントであり、この間、男女格差は拡大していないものの、縮小傾向もみられない。高齢者においては、そもそも男女格差5ポイントと大きいが、2004年、2007年においてそれが6ポイント以上となっている。しかし高齢者においては、人口のさらなる高齢化が男女の格差拡大に影響している可能性もある。(同)

 次に、配偶関係別・男女別の貧困率をみると(図3、厚生労働省「国民生活基礎調査」各年より計算)、勤労世代においては、男女ともに有配偶が最も貧困率が低く、また1995年と2007年の差がほとんどない。男女差がないのは、先に述べたように同一の世帯内では男性も女性も同じ生活水準のレベルであると仮定しているからである。次に貧困率が低いのが未婚の男女であり、ここでも男女差は大きくない。2007年においては、未婚男性の貧困率が上昇し、未婚女性のそれより高くなっていることが特徴的である。男女差が大きいのは、死別、離別である。死別では、特に女性の貧困率が高いが、2007年には若干下降し、男性の貧困率が若干上昇したことにより、男女格差が縮小している。離別では、男女ともに貧困率が最も高く、男女格差も大きい。離別女性の貧困率は40%近くとなっており、1995年から2007年にかけて離別女性の人数も増えていると考えられるが、この間、貧困率は変化していない。離別男性の貧困率も、男性の中では特に高く、しかも1995年から2007年にかけて約5ポイント増加しており、25%となっている。その結果、男女格差は縮小している。(pp.118-119)

 次に、家族タイプ別の貧困率をみたものが図4である。女性の貧困率が突出して高いのは、高齢単身世帯の女性、母子世帯(勤労世代、子ども)であることがわかる。この2つの世帯タイプの女性は貧困率が50%を超えており、約2人に1人が貧困である。母子世帯の貧困率の高さは比較的よく知られているものの、高齢単身女性も同様に困窮していることを特記したい。また、単身の勤労世代の女性の貧困率も30%を超えており、見逃せない。単身の男性の貧困率も高いが、単身世帯は、高齢者、勤労世代ともに男女格差が大きい。(p.119)

 最後に、主な活動別に貧困率を計算したものが図5である。まず勤労世代の女性について述べると、「主に仕事」「主に家事で仕事あり」「家事専業」がほぼ同一で12-13%の貧困率となる。すなわち、仕事をしていることは、必ずしも、女性の貧困リスクを低めることとはならない。しかし、この数値は20-64歳のすべての女性の平均であるので、年齢層によっては仕事をしている女性と専業主婦との間に差が出てくる可能性はある。通学を主な活動としている者(学生)は、男女ともに貧困率が高くなっている。男性の家事専業は最も貧困率が高く、女性の家事専業と大きな差があるが、これは、男性が家事専業である場合、収入源は配偶者(女性)の勤労のみとなり、貧困線を上回る所得を得られない割合が高いことを表していよう。ただし、このようなケースは非常に少ない。この逆のパターン(女性が家事専業)は、男性が稼ぎ主なので、貧困率場比較的低い。(pp.119-120)

 高齢者をみると、どの活動においても女性の貧困率の方が男性のそれよりも高い。特に仕事をもっている高齢女性の貧困率が男性よりも高いことは特記するべきである。近年、ワーキング・プアの問題がクローズアップされているが、1日の主な活動が仕事であるとした層においても、貧困、すなわちワーキング・プアである率は女性の方が、男性よりも高い。また、高齢者のワーキング・プアは男女ともに多いが、特に主に仕事をしているとする高齢女性のワーキング・プア率が高い。ワーキング・プア問題は、女性にとってより深刻なのである。(pp.120-121)

 次に、日本の貧困率の男女格差を他の先進諸国のそれと比較してみよう。
 …ゴーニックとジャンティの分類によると、アングロサクソン諸国(オーストラリア、カナダ、アイルランド、イギリス、アメリカ)は概ね貧困率の男女格差が大きく、平均で女性の貧困率が男性の貧困率より2.4ポイント高い。大陸西欧諸国(オーストリア、ベルギー、フランス、ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ)では、男女格差は1ポイントから2ポイント程度であり、平均では1.6ポイントの差がある。驚くのは、北欧諸国(デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン)と東欧諸国(ハンガリー、スロヴェニア)である。これらの国々では、男性の貧困率の方が女性よりも高く、さらに詳しく見ると、北欧諸国では再分配前の貧困率(税引き前、手当・年金等給付前の所得で計算した貧困率)においては女性の方が男性より高い。それにもかかわらず、再分配後(可処分所得)の貧困率は女性の方が低い。つまり、政府の再分配機能が、貧困率の男女格差を縮小するだけではなく、反転させているのである。東欧諸国は、再分配前にも女性の貧困率が高いので、このような現象はみられない。
女性の貧困リスクが男性のそれより高いというのは、すべての国の常識ではないのである。(p.121)

 男女格差は、南欧諸国(ギリシャ、イタリア、スペイン)では大陸西欧諸国より若干少なく、ラテン・アメリカ諸国(ブラジル、コロンビア、グアテマラ、メキシコ、ペルー、ウルグアイ)では、コロンビアを除くとすべて男女差は1ポイント以下であり、南欧よりもさらに小さい格差となっている。しかし、ラテン・アメリカ諸国はそもそもの貧困率が男女ともに高いため、男女格差の影響はその貧困率の高さに比べると小さい。(pp.121-123)

日本は、1995年から2007年の5時点における貧困率の差をみると、その大きさでは大陸西欧諸国と同じ程度であり、平均では1.68ポイントの差となっている。しかし、そもそもの貧困率の高さは、男女ともに大陸西欧諸国よりも高く、アングロサクソン諸国並みである。すなわち、貧困リスクの高さから言えば、日本の女性のリスクの高さはアングロサクソン諸国並みであるが、男女格差の観点からすればその差は大陸西欧諸国並みに抑えられている。これは、勤労世代に限って言えば、日本においては、社会における女性の貧困のリスクがアングロサクソン諸国と同等に高いものの、これらの国々よりも離婚率が低いことなどから、所得データからみる貧困率の男女差は比較的に低く抑えられているということであろう。(p.123)

 ピアースが指摘した「貧困の女性化」の概念は、貧困者(または貧困世帯)のうち、どれほどが女性であるかというものである。どのような属性をもつ人々の貧困率が高いのかという視点ではなく、貧困者がどのような属性をもつのかという視点は、貧困に対する政策を講じる際に重要である。(p.123)

貧困者に占める女性の割合は、1995年から2007年にかけて55.8%から57.0%へと増加している。すなわち「貧困の女性化」が、若干ではあるが確認されたこととなる。しかし、増加の傾向を年齢別にみると、その傾向は均一ではない。貧困者に占める子どもの割合と勤労世代の割合は、1995年から2007年にかけて、それぞれ5%程度減少している。代わりに、高齢者は約10%増加している。この変化は、少子高齢化による人口構造の変化より大きいため、この間、人口の高齢化の変化に加えて、「貧困の高齢化」が起こっていることが確認できる。
 では「貧困の女性化」はどうであろう。各年齢層の貧困者に占める女性の割合と、各年齢層の人口における女性比率を比較することにより、高齢化によるバイアスを取り除いた上でも、各年齢層において「貧困の女性化」が起こっているかどうかを確認することができる。…少なくとも1995年から2007年にかけて、年齢層を区分して分析すると、「貧困の女性化」が起こっているという結果は得ることができない。全年齢層を通じてみると、「貧困の女性化」は起こっているものの、それは、そもそも女性が人口的にも多く、貧困者に占める割合が大きい高齢者が、人口に占める割合も大きくなってきているからである。換言すると、「貧困の女性化」は「貧困の高齢化」によってもたらされていると言える。…公的扶助をはじめとする貧困対策を考える際には、日本の貧困の「高齢化、女性化」の事実をしっかりと認識する必要がある(pp.124-125)
 
 勤労世帯では今後も貧困の女性化が起こらないのだろうか。気になるデータがある。年齢別の人口に占める離別者の割合(再婚者を除く)をみると、女性が離別者となる割合は男性を大幅に上回る。離婚率の上昇を考慮すると、人口に占める離別者の割合が今後増加することは必至であり、配偶関係別の貧困率の男女格差に牽引されて、勤労世代の貧困率の男女格差が拡大する可能性がある。一方で、生涯未婚率の男女差をみると、男性の生涯未婚率の上昇は著しいものがあり、今後もその傾向は続くとみられている。未婚者の貧困率も有配偶者に比べて高く、特に未婚男性の貧困率が上昇していることを踏まえると、今後、男性の貧困率が上昇することにより、貧困率の男女格差が縮小する方向に働くことも考えられる。(pp.126-127)

 社会的排除の概念。
 貧困と社会的排除の大きな違いは、まず第1に、社会的排除は、社会的交流や社会参加といった「関係性」の欠乏を従来の貧困概念よりも明示的に問題視する点である。人間関係や社会参加の側面は、従来の貧困概念の中でも取り上げられていたが、そこでは関係性の欠如の要因が資源の欠如によると解釈されることが多かった。社会的排除は、関係性の欠如を資源の欠如と独立した貧困の側面として捉えている点が新しい。(p.128)

 貧困が「状態」を表わすものであるのに対し、社会的排除は、排除されていくメカニズムまたはプロセスに着目する。すなわち、どうやってその個人が排除されていくに至ったか、そのように個人を排除する社会の仕組みは何であるのか、など、「排除する側」を問題視するのである。そのため、社会的排除の概念においては、社会保障やその他の社会の制度から個々人が脱落していくことに大きく重きをおく。(同)

 最後に、社会的排除は、貧困と異なって、個人と社会の関係性に着目する。個人が社会のどのような組織に帰属し、メンバーであり、そして、最終的にはその社会のシティズンとして承認されているのか、それが、社会的排除の関心事項なのである。(同)

 社会的排除の最たるケースが労働市場からの排除である。(p.129)

 女性が家庭内、コミュニティ内の無償労働に従事する場合はどうか。
 イギリスでは、社会的排除における「参加」と「排除」を以下のように定義し直している。
 個人は、その個人の生きる社会において重要とされる活動(key activities)に参加していない時に社会的に排除されている。
 そして、「重要とされる活動」として「消費(consumption)」「生産(production)」「政治的活動(politica engagement)」「社会交流(social interaction)」の4つの分野を設定して、それぞれの女性の状況を分析している。労働が含まれるのは「生産」の分野であり、ここでの重要な活動は「社会的に価値が認められている活動(socially valued activity)」として家庭内労働も含むとしている。しかし、のちにヒューストンは、実際に21世紀のイギリスにおいて家庭内労働に対して付加される「価値」は少ないとし、これらを「重要な活動」として認めていない。そして、ヒューストンは、「価値が認められている」労働市場での優勝労働に女性が従事する割合が男性よりも少ないこと、有償労働に従事していても労働の価値の代償として支払われる賃金率が男性よりも低いこと、労働市場における地位が男性よりも低いこと、女性が従事する労働市場の範囲(職種)が男性よりも狭いこと、を理由に、「生産」の分野においての女性の社会的排除が深刻であることを訴える。
日本においても、どのような活動が「社会的に価値が認められている活動」であるのか、その判定は一筋縄にはいかない。(pp.129-130)

―昨年8月の某次世代の党参議院での発言を念頭に、少し長く引用しました。女性活躍推進法案の審議の中で、「家事労働は価値がないとお考えか?」と女性参考人を問い詰め、さらに「ご主人から褒められたいんですか」と嘲りのような言葉を浴びせた江口克彦議員です。はい、名前出しちゃいます。落としてください。
 のうのうと豊かに暮らす専業主婦がいる一方で、家事労働には価値があるなんて幻想にすがっていると男に捨てられるか死別するかしたときに労働市場からも排除され、一気に貧困に落ち込む女性がいるわけです。「家事労働には価値がある」これには女性にとっての落とし穴があるといっていいでしょう。


 女性の社会的排除の分析の対象が個人としてなのかグループとしてなのか。例えば、大多数の男性が「青年会」ないし「町内会」に参加し、大多数の女性は「婦人会」に参加するとしよう。もし町内におけるあらゆる重要事項は男性の出席する会にて決定され、女性がその決定の場にいないとすれば、これは、その社会の女性すべてが、グループとして社会参加から排除されていることにならないだろうか。これは、外国人やその他のマイノリティ(社会的少数グループ)にも当てはまる問題である。(p.130)

―個人的におもしろかった箇所。経済団体にかならず「女性会」のようなものはあるが、どうもガス抜きと「女部屋」として隔離するために使われているような気がしてならない。全体の交流会なんかやっても、女性会メンバーは隅の一角にかたまって他の(大多数の男性)メンバーとはまざらない。


 社会的排除の男女格差。
 筆者が行った「2008年社会生活調査」。2009年2月に実施し、全国の無作為抽出した地区の成人男女1320人を対象とした。回収された有効サンプル数は1021、有効回答率は77%。この調査では、1.経済的困窮のみならず、社会的困窮も把握することを目指した。2.社会におけるさまざまな公的な制度や仕組みから排除されているさまを把握することを目指した。3.公的のみならず、私的な領域からの排除も把握するために、友人や知人とのコミュニケーションの頻度や、家族・親戚などの私的なネットワークへの参加(冠婚葬祭への出席など)もみている。4.個人の社会における活動度も把握するために投票行動やボランティア活動、地域活動(PTA、町内会など)への参加といった社会参加の項目が含められた。
重要なのは、各項目の「欠如」は非自発的なものであることを確認している点である(p.131)

結果。
男女別にみると、女性の方が男性よりも排除率が高い分野は、低所得、ヾ靄椒法璽困侶臟 ↓∧質的剥奪、制度からの排除、ι埆淑な社会参加の5分野。
逆に男性の方が女性より高いのは、ド堙切な住居、Х从囘ストレス、ぜ匆餞愀犬侶臟,裡格野。統計的に優位なのは、低所得と社会参加のみであり、
他の分野の男女差は有意ではない。(同)

女性・男性をさらに詳しい属性で区切ると、排除リスクのパターンは男女で大きく異なることがわかる。
20歳代については、男性、女性ともに、低所得や∧質的剥奪、ソ撒錣覆鼻金銭的分野での排除率が高く、制度からの排除、社会参加、ぜ匆餞愀犬覆匹糧鷆眩的分野においては排除率は高くはない。この年代では、すべての分野において統計的に有意な男女差は認められない。
30歳代になると、男性の低所得のリスクが下がり、男女格差が生じる。この傾向は40歳代、50歳代と続き、60歳代以降は統計的に有意な差はなくなる。その他の分野においても、30歳代の男性はおおまかに排除率が低く、30歳代の女性に比べても社会参加では低い排除率となっている。(同)

40歳代になると、低所得、ヾ靄椒法璽困侶臟,箸い辰振眩的分野では、男性の優位が明らかになってくる。しかし他の分野においては、男女差は認められない。制度からの排除については、40歳代は他の年齢層に比べても男女ともに低く、この年齢期は、社会的排除リスクが男女ともに比較的に低い時期であるといえよう。
 50歳代も40歳代と同様に、男性が女性に比べて低所得のリスクの低さが続く一方で、他の分野においても有意な男女格差は認められない。筆者の以前の調査を使った分析においては、50歳代男性の社会的排除率が高いことが指摘されたが、本調査では同様の傾向は認められない。しかしながら、統計的に有意ではないものの、ぜ匆餞愀犬侶臟,50歳代男性において高い排除率であるのは興味深い。
60歳代では、男性の制度からの排除率が高いことが特記できる。60歳代女性もこの指標は高く男女差では統計的に有意ではないが、60歳代男性とその他の人々の間では統計的に有意な差が認められる。
70歳代以上になると、いくつかの分野において、女性の排除率が高くなっているのが特徴的である。Х从囘ストレスや、社会参加においては、有意な男女差が認められる上に、制度からの排除においても、社会全体に比べて高い排除率となっている。(p.138)

性別と世帯タイプによる違い。
特にリスクが高いグループは単身の高齢者世帯および勤労世代世帯。
単身の高齢者世帯では、制度からの排除率が高くなっており、これは男性高齢者でも女性高齢者でも認められる(男女差は有意ではない)。
しかし、リスクが高いのは単身の勤労世代世帯である。特に、ド堙切な住居については、男女ともに高い率となっているが、男性は女性に比べても統計的に有意に高い。また、ぜ匆餞愀犬侶臟,砲いても勤労世代の男性の単身世帯はリスクが高い傾向にあり、これは同年代の女性の単身世帯にはみられない。逆に勤労世代の女性の単身世帯は、制度からの排除が顕著であり、男性の単身世帯にはみられない傾向を示している。(同)

性別と活動状況による違い。
活動状況別でみると、正規雇用の排除のリスクの低さがまず目につく。この傾向は特に女性の正規雇用者にみられ、非金銭的指標においても、統計的に有意に低い率となっている。非正規雇用は、低所得、ヾ靄椒法璽此↓Х从囘ストレスの排除のリスクが高い。非正規雇用の男性と女性を比べると、特に統計的に有意ではないものの、排除率は男性の方が高いことが多い。特に、Х从囘ストレスや、ぜ匆餞愀犬侶臟,蓮非正規雇用の男性において高いリスクとなっている。
しかし、最もリスクが高いのが「求職活動中・無職(その他)」の層であり、中でも、女性の排除のリスクは、ぜ匆餞愀犬鮟く7つの分野で、その他の人々より高い。男性のこの属性の人々には、この傾向は認められず、長期失業や就業意欲喪失者(discouraged worker)などに代表される労働市場からの脱落は、むしろ女性に大きな負の影響を及ぼすことが確認される。
専業主婦はサンプル数が少ないので分析が難しいものの、概ね社会的排除のリスクは低い。所得でみた貧困率と同様に、専業主婦であること、すなわち夫という保障を得た上での労働市場からの自主的な退場は、社会的排除には繋がらない。(p.139)

性別と配偶状況による違い。
配偶状況別でみると、まず、離別女性の排除のリスクが非常に高く、また多分野に広がっているのが確認できる。8次元のうち、社会参加とぜ匆餞愀犬鮟く6つの次元で排除率が有意に高くなっており、統計的に有意でない2つの次元においても、その率は高く、いかに離別女性が複合的な社会的排除のリスクにさらされているのかがわかる。有配偶の場合は、男性も女性もリスクが低く、特に、女性の方がよりリスクが低いと言えよう。男性の中で最もリスクが高いのは、未婚者である。未婚男性は、離別男性に比べても排除率が高い項目が多く、特に、ぜ匆餞愀犬侶臟,砲弔い討蓮他のカテゴリーよりも突出して離別男性よりリスクが高く、心配されるところである。
なお、学歴による社会的排除への影響は、低所得以外の次元において、男女差が確認される属性はほとんどなく、学歴によって社会的排除率が大きく異なるということも確認されなかった。(pp.139-140)

政策的インプリケーション。
1.「貧困の女性化」をより明示的に意識する必要。現在の貧困に対する政策議論からは「貧困の女性化」という観点が抜け落ちている。貧困対策の対象となるべき人々の6割近くが女性であるということに留意せずに、貧困政策を講じるなら、それは到底有効ではありえない。同時に、「貧困の高齢化」にも注目すべきである。日本の貧困者に占める女性の割合は徐々に増加しているが、その増加は、高齢女性の占める割合が急増していることによる。その変化は少子高齢化による人口構造の変化より大きい。65歳以上の女性が貧困者に占める割合は、1995年の17.3%から2007年の23.9%にまで増加している。すなわち、貧困の問題を解決するには、公的年金をはじめとする高齢者の所得保障をどうするかという政策論議を避けて通るわけにはいかないのである。(p.140)

 第2に、社会的排除のリスクが高い層を指摘すると、まず、男女ともに若年層、さらには、単身の若年層の社会的排除が今後はさらなる社会問題となる可能性があることである。勤労世代の男性の未婚・単身世帯は、社会関係においても社会的排除のリスクが高いことは特記しておきたい。次に、「求職活動中・無職(専業主婦、学生、退職者を除く)」の層の社会的排除が極めて高いこと、さらには、特に女性においてこの傾向が顕著であることに注意を喚起したい。属性別の分析において、このカテゴリーの女性は最も社会的排除のリスクが高く、複合的なリスクを抱えている。(同)


 


第6章 雇用の非正規化と労働市場規制(遠藤公嗣)

 日本的雇用慣行=終身雇用、年功序列、属性基準賃金
 これにより日本では雇用と賃金のあり方が職務のあり方から切断される。経営者は職務を明示しないまま労働者を雇い入れることができ、労働者の職務を容易に一方的に変更できる。(p.143)

 属性基準賃金の1つである職能給は1960年代から1970年代にかけて普及したが、その建前は、労働者が身につけた職務遂行能力を基準に賃金額を決定するということである。(略)職能給の建前は、OJTによる労働者の能力開発に、年功給よりはるかに適合的である。(p.144)

個々の労働者は、「終身雇用」期間全体の恵まれた処遇を考慮して、ときには課せられる長時間の過重な労働などの恵まれない労働条件を許容する。
こうした日本的雇用慣行ないし恵まれた処遇を享受する労働者は誰なのか。それは、事実上、男性の正規労働者である。この男性正規労働者はどこから供給されるのか。それは、男性労働者が稼ぐ賃金によって主に家計が維持される家族、即ち男性稼ぎ主型家族からである。(同)

正規労働者は日本的雇用慣行のもとで恵まれた処遇を享受するが、その享受は、非正規労働者の存在を前提としてはじめて可能であるといってよい。にもかかわらず日本社会では、非正規労働者の処遇が著しく劣ることを、当然の社会慣行とする。非正規労働者と正規労働者は、日本社会にかなり独特の、差別的な雇用身分というべきものである。(pp.144-145)

さて、非正規労働者とは誰であり、どこから供給されるのか。それは第1に、主婦パート労働者であって、第2に、学生アルバイトである。そして両者もまた男性稼ぎ主型家族から供給される。(p.145)

確認すべきは、主婦パート労働者も学生アルバイトも、家計の主な維持者でないことである。そのため、一方では、その賃金水準は低くてかまわないとされる。他方では、離職しても夫ないし父である男性正規労働者の扶養内に完全に復帰することになるので統計上の「失業」に該当せず、失業率を上昇させない。まさに、雇用量を調整する労働者として最適である。(同)

 さて、男性労働者の長期勤続の傾向、あるいは、相対的にであれ雇用を保障される男性労働者の登場、これが重工業でみられるようになったのは1920年代であり、これを日本的雇用慣行の源流と理解するのは、労働史研究の通説である。これにくわえて私が重視したいことは、第二次世界大戦後の1950年代後半に、経営者が男性労働者の雇用を保障すべきことを自覚したことである。(略)その教訓とは、企業の目先の業績回復を目的に男性労働者を解雇しようとすれば争議が起こり、それは企業の閉鎖や倒産という結果をもたらすかもしれず、逆に、男性労働者にできるかぎり雇用を保障することが経営にとって究極的には有益である(略)なお、経営者がこの教訓をまもることができた歴史的条件として、1955年から高度経済成長がはじまり、解雇の必要のない時期がながく続いたということに留意すべきである。(p.146)

その後、高度経済成長の結果として、1960年代に臨時工は著しく減少し、臨時工問題は注目されなくなる。この臨時工に代わって、雇用量を調整される労働者ないし非正規労働者として、主婦パート労働者と学生アルバイトが登場した。この変化が1960年代型日本システムの確立である。(p.148)

多数の主婦パート労働者の登場は、共働きである自営業主と家族従業者がさらに減少し、代わって雇用労働者が増加したこと、そして、その家族が男性稼ぎ主型家族を志向したことを示唆すると考えられる。また、臨時工から主婦パート労働者と学生アルバイトへの変化が、小売業やサービス業の発展と共に進んだことに留意すべきである。一般的にいって、これらの産業は季節や時間帯による繁忙の差が重工業よりも激しく、それだけ、短時間に細分化された雇用量の調整を必要とするが、これに主婦パート労働者と学生アルバイトは適合的であった。(同)

1960年代型日本システムは、女性労働者を雇用差別するシステムでもある。このシステムのもとでは、女性は学校卒業直後の若年時に正規労働者となっても、その多数はやがて結婚・出産・育児をきっかけに退職して主婦になる。そのため経営者は、彼女ら全体の早期離職を予測して、昇進や職務の配置転換を停滞させ、彼女ら全体に能力開発の機会を与えない。これは「統計的差別」と呼ばれる雇用差別である。女性が再び労働者となるのは主婦パート労働者としてであるが、その賃金水準は低い。低くてかまわないとされるのはこのシステムのためであるけれども、その職務遂行が適切に評価されないという意味で、これは雇用差別である。また、女性のこうした働き方を前提として、女性労働者が正規であれ非正規であれ、職場内における性別役割分業が家庭内におけるそれと同様に成立する。(pp.148-189)

経営者の多数はもちろんのこと、男性正規労働者中心の企業内組合もまた、日本企業の成功を賛美していたから、この社会規範を受け入れていたといってよい。そのため企業内組合は、非正規労働者の処遇改善にも、企業内組合員である女性正規労働者の処遇改善にも、それほど熱心でなかった。後者については、彼女らは早期に離職するはずだから雇用中の処遇改善は意義が薄いうえ、性別役割分業を職場内でも家庭内でも維持したいと、企業内組合が考えていたからでもあったといってよい。(p.149)

政策ないし公的制度もまた、基本的には、1960年代日本システムの社会規範化を補強していた。例をあげよう。1961年に創設された所得税の「配偶者控除」は、主婦パート労働者が夫の扶養内にとどまるように就労調整することをうながし(現在のいわゆる「103万円の壁」である)、結果として、主婦パート労働者の低賃金を助長した。1970年代なかば以降に形成された判例法である「整理解雇の四要件」の1つは、正規労働者の雇用保障を優先するために、非正規労働者の解雇を当然とした。1985年の国民年金改正により「第三号被保険者」が創設され、男性正規労働者の妻に保険料の納入なしで年金を受給できる権利を与えて主婦になることをうながし(現在のいわゆる「130万円の壁」である)、つまりは男性稼ぎ主型家族を奨励した。(同)

1980年代から90年代はじめにかけて、日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムの前提をゆるがす事態が進行していた。
1. 日本的雇用慣行の経済的合理性の減少
情報技術の発展とビジネスにおける情報技術の重要化は、こうした仕事能力の重要性を低下させていた。
2. 女性労働者が、日本的雇用慣行から排除されていたにもかかわらず、絶え間なく増加した。その結果として、職場内でも家庭内でも、性別役割分業が弱まる可能性を潜在的に増すことになった。

 1985年に労働者派遣法が制定された。労働者派遣事業は1960年代から一部の企業によって実態としておこなわれていたが、同法はこれを明白に合法化した。その合法化は、非正規雇用についての労働市場の規制緩和であったといえる。(p.151)

 日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムが社会規範であった時期の真っ只中である1985年に労働者派遣法は制定された。従って同法は、企業内の職務を切り出すということに馴染まない日本型雇用慣行に配慮した法として制定された。具体的には、同法が派遣事業にくわえた多数の規制であった。
例:制定時、派遣が許される業務は13に限定されていた。さらに13業務は「秘書」「ファイリング」など女性職が多かった。
 その後、86年の改正で13から16に、96年の改正で26に拡大した。99年には原則として全部の業務で派遣が許されるという規制緩和に大転換し、例外として、なお派遣を禁止する5業務をネガティブ・リストとして挙げた。さらに2004年改正では、製造業務を派遣禁止5業務からはずした。(同)

 法改正による派遣業務の拡大は、派遣業務が女性職であることを薄めることでもあった。このことは、派遣労働者の増加率の性別比に反映した。1997年までの各5年間では、女性の増加率が男性の増加率より高かったけれども、2002年までと2007年までの各5年間では、男性の増加率が女性の増加率よりはるかに高かった。1999年と2004年の法改正の影響をみてとることができよう。(p.152)

 小泉構造改革。小泉政権のもとでの多方面にわたる規制緩和は、非正規労働者の増加と、そのワーキング・プア化を加速させ、日本社会における所得格差を拡大した。労働市場の規制緩和もすすめられ、その法政策に具体化された重要な結果が、労働者派遣法の2004年改正であった。(同)

 この時期に、少なくない経営者の価値観は、企業収益の増大による企業価値の引き上げを重視する企業経営こそが望ましいと変化したと思われる。彼らにとっては、これが日本企業の「構造改革」であった。そして、そのためには、非正規労働者の賃金を低く抑えるのはもちろんのこと、正規労働者についても低賃金で過重な労働を求めることは問題でなく、むしろ望ましいことと考えるようになってしまった。(同)

 とくに、一部の企業が「ブラック企業」化して「周辺的正社員」を雇用しはじめたことに注目したい。その人事労務管理は、労働者を正規の名目で雇用しながら、そして正規雇用に「ふさわしい」長時間の過重な労働を要求しながら、実際には正規雇用にふさわしい恵まれた処遇や将来展望を与える意思がまったくなく、労働者を短期雇用で使い捨てるものである。これは日本的雇用慣行に反するばかりでなく、それを悪用するという、経営者のモラルハザードの結果である。(pp.152-153)

 また、経営者の価値観をこのように変化させるうえで、市場原理主義を信奉する経済学者が果たした役割の大きさを指摘しておきたい。その総論的な位置にあったのは八代尚宏著『雇用改革の時代』(1999)であって、広く読まれて大きな影響をもったと思われる。また、彼らの主張のなかでもっとも先鋭的だったのは、解雇をおこないやすくせよとの解雇規制緩和の主張であろうが、そうした主張の1つの集大成が福井秀夫・大竹文雄著『脱格差社会と雇用法制』(2006)であった。(p.153)

 2005年ころに経営者団体が提案した「ホワイトカラー・エグゼンプション」は、労働時間についての法規制―つまり残業手当支払いの法的義務―を、ホワイトカラーの正規労働者には適用しないように法改正するという提案であった。(同)

 規制緩和による実害は、なによりも、非正規労働者の無視しがたい低賃金として顕在化した。NHK2006年7月23日放送の「ワーキングプア―働いても働いても豊かになれない」の反響はすさまじく大きな役割を果たした。(同)

 非正規労働者の所得分布は、女性であれ男性であれ、正規労働者のそれより低額であることを確認しよう。女性においては、正規の所得分布は低額寄りに位置し、非正規の所得分布にかなり重複しているが、男性はそうではない。所得分布がこのようになる理由は、女性の正規労働者の所得水準が男性のそれより相当に低いからである。他方、非正規では、所得水準における女性と男性の間の差は小さいものの、労働者数に大きな差がある。すなわち、正規であろうと非正規であろうと女性労働者の賃金が低いことをも示している。(pp.153-154)

 正社員以外の労働者(すなわち非正規労働者)の45.4%は、低賃金であるにもかかわらず、自分自身の生計を維持しなければならない。正社員以外の労働者が女性であっても26.7%が、あるいはパートタイム労働者であっても28.6%が、そうである。これらのなかには、子どもなど家族を扶養する労働者―たとえばシングルマザー労働者―が含まれる。1960年代型日本システムにおける非正規労働者は家計の主な維持者でなかったが、現在はもはやそうではない。自分自身や家族の生計を維持しなければならない多数の非正規労働者の登場は、1960年代型システムが破綻しつつあることを端的に示すであろう。(pp.154-155)


1985年に男女雇用機会均等法が制定された理由
1. 男女雇用平等という価値規範の促進が明白な国際基準となっていたこと。その象徴は、1979年国連女性差別撤廃条約である。
2. 日本社会において、女性労働者の絶え間のない増加を底流として、男女雇用平等という国際標準への希求が強まっていたことである。この希求が、日本政府をして、国連女性差別撤廃条約に署名させた。同条約を批准するためには国内法の整備が必要であり、その整備の1つが1985年均等法の制定である。国際標準という「外圧」によると考えてもよかろう。(p.157)

このような経緯で制定されたため、同法が企業の人事労務管理にくわえる規制は非常にゆるやかなものにとどまった。法の名称が、いわば国際標準である「差別禁止」でなかったことはもちろん、たとえば募集・採用・配置・昇進における男女差別は禁止されず、その解消は単に企業経営者の努力義務とされるにとどまったことなどである。なお、退職年齢や解雇についての男女差別を同法は禁止したが、日本的雇用慣行のもとでは女性正規労働者の多数が若年退職することを前提すれば、これらの禁止はそもそも企業への影響が少ない。同法の規制がゆるやかであったため、国際標準への強い希求を持っていた女性団体などは同法に失望し批判が起こった。(同)

日本的雇用慣行はもともと男女平等ではなかった。これをあらためて形式的には性中立的な人事労務管理に改正し、しかし男女平等でない日本的雇用慣行を温存する工夫をしなければならなかった。それが同法制定前後に大企業に急速に普及した「総合職」と「一般職」のコース別人事管理だった。「総合職」を男性が「一般職」を女性が選択するように誘導し、実質的には男女雇用差別の人事労務管理を温存した。(pp.157-158)

同法に触発されて、自分が雇用差別の被害者であることを知った女性正規労働者がその是正を企業経営者に要求し、認められなかったうちの幾人かが裁判所に提訴した。代表例は、大阪の住友系三社の女性正規労働者による3つの提訴。
 この裁判の特徴:
1. 原告となった労働者全員が企業内組合の組合員であったが、企業内組合は原告への支援を完全に拒否したこと。
2. 原告とWWN(ワーキング・ウィメンズ・ネットワーク)が重視した活動は、国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW、女性差別撤廃条約締結国における条約実効化を促進する委員会)へ裁判関連の情報を提供して、CEDAWが出す日本政府へのコメントを原告に有利な内容とさせる活動であり、そのコメントを裁判で活用して有利な和解に導く活動だった。いわば「外圧」を自己に有利になるように日本から創出する活動であって、労働分野ではおそらく初めての国際活動であり、この意味で画期的であった。(p.158)

 1997年と2006年に均等法が改正され、とくに2006年改正によって、同法に間接差別の概念が導入された。しかしコース別人事管理が間接差別に該当するかどうかの決定は、5年後の法の見直しにいわば先送りされている。(p.159)

1999年男女共同参画社会基本法もまた、このような認識の広まりを背景にして制定されたと考えるべきである。(同)

「同一価値労働同一賃金」原則。日本企業の男女間賃金格差を是正し、職務基準の雇用慣行への志向を意味した。この原則への志向は、日本的雇用慣行ないしは属性基準賃金とは対立する。(p.159-160)

 2010年、連合の古賀伸明会長発言(雑誌『経済界』)で「貧困対策と格差是正のためには“同一価値労働同一賃金”の確立が急務です」と2度も強調。厚労省は同年春、職務分析・職務評価の実施マニュアル冊子を刊行。(pp.160-161)

むすび:
 労働市場を規制しなくてよいのか、それとも規制すべきなのか。
 これについて男性中心の労働研究における2つの見解:
1. 労働市場をふくめて、全般的な規制緩和をなお進めるべきである。その結果として、経済成長が達成でき、ワーキング・プアの賃金が引き上げられる(これは市場原理主義の見解である)
2. 日本的雇用慣行に復帰すべきである。非正規労働者を正規化すべきである(これは男性の労働者と労働研究者に強い見解である)(pp.161-162)

1については、規制緩和によるワーキング・プアの増加という実害が日本社会にすでに現れている。留意すべきは、この実害は将来の経済成長で埋め合わせられないということ。
1. 規制緩和が将来の経済成長を確実にもたらすとはかぎらない
2. 将来の経済成長が仮にあるとしても現在のワーキング・プアの人生は有限時間であるから、彼ら彼女らに将来の経済成長の果実が還元される保証はない。
3. 時間の経過のうちに別の新たな実害が発生し、また経済状況が変化して、現在のワーキング・プアへの還元はできなくなる・忘れられるかもしれない。(p.162)

 2については、日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムが女性雇用差別のシステムであることについて、どう考えるのかが問われよう。(同)

 ではどうすればよいのか。
 日本的雇用慣行から排除された女性労働運動の中で、男女雇用平等ないしは男女雇用差別禁止という価値規範、および、これを実現する道具としての「同一価値労働同一賃金」原則と職務給ないし職務基準の雇用慣行、これらが普及し発展してきたことである。この価値規範は、理論的にも実践的にも、あらゆる点における雇用平等ないし雇用差別禁止に容易に発展する価値規範である。日本では、正規・非正規という雇用身分の間の平等ないし差別禁止がもっとも重要であろう。(pp.162-163)

 第3の途。
 雇用平等ないし雇用差別禁止、「同一価値労働同一賃金」原則と職務給ないし職務基準の雇用慣行、これらが労働市場を規制すべき新たな価値規範であり道具である。これらは日本的雇用慣行とも1960年代型日本システムとも相容れない労働市場の規制である。また、これらは労働供給からみた日本経済の成長戦略でもある(p.163)

 日本の労働研究は、日本的雇用慣行ないし1960年代型日本システムの肯定を担った男性中心の労働研究から脱却すべき時期に至っている。(同)


第7章 社会的経済が示す未来―イタリアの協同組合の事例から(田中夏子)
 すみません、省略。


第8章 レジーム転換と福祉政治―包摂と承認の政治学(宮本太郎)

 新しい福祉政治においては、まず、人々がいかに就労し生活の資を得ていくかという、経済的な「包摂」の達成が求められている。同時に、人々がどのようにむすびつき、認め認められる関係に入るかという、「承認」の実現も問われている。すなわち、新しい福士誠治においては、「包摂の政治」および「承認の政治」として展開されている。(p.191)

 包摂の政治は、就労支援、雇用創出、家族内の扶養関係を含めた社会保障の再設計、雇用と社会保障の連携構築、などを課題とする。それは、経済的な分配と再分配にかかわる政治である。(同)

 これに対して承認の政治という言葉は、ジェンダーや民族集団など、劣位に置かれてきた集団の同権化をめぐる政治を指すことが多かった。だが、様々な社会的帰属を得て認められて生きる条件を確保するという点では、承認という問題は大多数の人々にかかわる普遍的主題である。ここで承認の政治とは、マイノリティをめぐる政治だけではなく、家族と社会における人々のつながりや相互承認のあり方、すなわち、家族・ジェンダー関係、職場コミュニティ、市民権などに関する政治をさす。(同)

 経済的基盤にかかわる包摂と、相互の主観的な認知関係にかかわる承認は、このように別々の事柄であるが一体不可分でもある。人々が働き家族をつくり生活を続ける営みのほとんどは、経済的な包摂の関係と、より情緒的な側面もある承認の関係をともに含んでいる。(同)

 20世紀型レジームの転換に伴い、これまでレジームに組み込まれてきた包摂と承認のかたちが一挙に揺らぎ始め、国民国家、企業、家族という、従来の包摂と承認の枠組みそのものが流動化し、包摂と承認をそれぞれいかなる場で、どこまで実現するべきか、そこで政治が果たすべき役割は何かが争点となりつつある。(pp.191-192)

20世紀型レジームにおける包摂と承認:
包摂:
大量生産・大量消費を旨とするフォード主義的生産体制=20世紀型福祉国家の前提
男性稼ぎ主の安定雇用に役立ったもの
=20世紀型福祉国家・労使交渉による賃金決定システム・ケインズ主義の名で呼ばれた積極的需要喚起政策
そのうえで、社会保障は、平均的なライフサイクルに典型的なリスクに対して、社会保険制度を軸に対応=ベヴァリッジ型の社会保障(pp.192-193)

こうして、ケインズ・ベヴァリッジ型の福祉・雇用レジームによって実現された男性稼ぎ主の経済的な包摂は、多くの国で機能していた家族主義の規範と制度によって、妻や子どもの包摂に連動していった。(p.193)

承認:
 20世紀型レジームにおいて、まず法的な権利関係については、国民国家が承認の大きな枠組みを提供した。
 次に、社会的業績関係については、雇用と労働の現場が、包摂の場であると同時に重要な承認の場となった。
 雇用と承認
1.20世紀型レジームにおいては、男性稼ぎ主の有償労働が承認の対象となり、有償労働の評価のあり方は、労使を中心とした対立と闘争を常に惹起することになる。これに対して、家事労働などの無償労働は、一部のレジームを除き基本的には社会的業績としては認知されることなく、せいぜいのところ私的な関係による承認、ホネットの言う愛の関係に吸収された。
2.フォード主義的生産体制のもとでは働く者がその能力を発揮し、周囲からの承認を得て自己肯定感を強める条件が失われていった。20世紀半ばから生産体制が変容するなかで、労働における承認関係が、激しい競争関係へ転換した。労働の現場は、相互承認による連帯を離れ、下位あるいは同格の人々に対して優位性を確保し、上位の人々に認められるという、承認欲求を駆り立てる場へと転化していく。日本の経営は、こうした男性稼ぎ主の承認欲求を巧みに組織化したものであった。(pp.194-195)

 20世紀型レジームの情緒的な承認関係において、決定的な役割が期待されたのが家族であった。成員間の強い情緒的なむすびつきを特徴とする近代家族の考え方が、フォード主義的生産体制と連携して、より純化されていく。…主婦と軸とした消費モデルが形成され、家族の情緒的なむすびつきと、耐久消費財の大量消費という機能的関係が連動していくのである。(p.195)

 20世紀の制度は、実体としては、国民国家、重要院に忠誠心を求める企業経営、そして家族という様々な共同体的関係を取り込んで制度を安定させ、承認の関係を成立させてきた。しかし20世紀の終わりから、こうした共同体的関係の弛緩が相互に連動しながら進行し、包摂と承認のあり方の抜本的な再設計が求められるに至る。(同)

 個々の福祉国家のあり方やそこでの包摂と承認の仕組みは、福祉レジームと雇用レジームの連携から説明される必要がある。その組み合わせのパターンについて、あらゆる問題に適用可能な単一の類型モデルを構築するのは困難である。(p.197)

 日本は若年層を中心に失業率が高かった大陸ヨーロッパ諸国と異なる。…日本の場合、雇用保護は、公共事業や中小企業への保護・規制をとおして周辺部労働市場の男性労働者にまで及んだ。建設業などの周辺部労働市場にガストアルバイター(外国人労働者)を導入したドイツに対して、日本では公共事業によって建設業を周辺部労働力を吸収する場として肥大化させていった。他方で日本では、コルピのいう「一般家族支援」型の家族手当支出や社会サービスが弱かった。日本の家族主義は、政府の給付やサービスによってというより、男性稼ぎ主の家族賃金や日本的経営の提供する福利厚生に支えられて強化されたのである。そして、教育や住宅についての公的支出が抑制されていたために、主婦は男性稼ぎ主の所得を補完するパートタイム労働を迫られた。
すなわち、小さな福祉国家であることから家計を補う就労の必要が高まったが、男性稼ぎ主型の税制や社会保険制度がその所得を一定以下に誘導した。ここから主にサービス業を中心として、賃金水準の低いパートタイム労働市場が現れた。(p.199)

 児童手当や公教育支出、住宅関連支出などが大きかった大陸ヨーロッパ諸国、たとえばかつてのドイツでは、女性の年齢別雇用力率曲線が「への字」型を描いていた。つまり、育児や介護の時期に退職した女性労働力は労働市場に戻らない場合が多かった。これに対して、日本ではいったん労働市場から離脱した女性労働力がやがて家計補完型の就労を迫られるために、M字型の曲線を示したのである。(同)

 福祉レジーム、雇用レジーム両方の特性に着目した二次元モデルによってとらえる。

スウェーデン:両性支援型。この二次元モデルの第二象限には、個人を対象としてその労働市場参加の条件を福祉レジームが整え、他方で雇用レジームが積極的労働市場政策をとおして両性の雇用を促進したスウェーデン(両性支援型)が位置づけられる。
アメリカ:市場志向型。アメリカの場合は、1946年に完全雇用法が議会で否決されたことに象徴されるように、政府が完全雇用に責任をもつという立場をとることはなかった。他方で、福祉レジームは家族主義的な性格を有するが、男女の賃金格差や管理職に占める女性の割合などで見ると、女性の就労の機会は相対的に開かれていた。したがって、第三象限と第四象限の間に位置づけられよう。
ドイツ:一般家族支援型。ドイツは家族主義的な福祉レジームを有するが、他方で完全雇用への制度的コミットメントは小さかった。ゆえに第四象限に位置づけられる(一般家族支援型)。
日本:男性雇用志向型レジーム。男性稼ぎ主型の制度を前提にその雇用を政府の積極的関与で支えたという点で、第一象限に位置づけることができるであろう。(pp.199-200)

 フォード主義的生産体制においては、労働の場の相互承認関係が、職場の地位の上昇圧力へ誘導されていった。この傾向は、日本の大企業においてはとくに顕著であったのである。とりわけ、日本的経営に「能力主義管理」が導入され確立していった1960年代をとおして、労働者の承認欲求を、昇進をめぐる承認競争につないでいく仕組みが確立していった。
新卒一括採用で同期入社の社員のあいだで競争が始まり、一般に感謝幹部として絞り込まれる時期はかなり遅く設定され、その間は同期入社の同僚に比べて昇進が遅れてもその後の努力で挽回可能な、いわばリターンマッチ付きのトーナメントがおこなわれた。(p.201)

 こうした仕組みは、男性稼ぎ主が企業の承認競争を途中で離脱して別の承認の場を求めていくことを難しくするものであった。さらに、家族が直接に彼の勤労所得に依拠することになったため、承認レースを降りることはなおのこと難しくなった。(同)

 全体として抑制された日本の社会保障給付のうち、とくに児童手当などの家族手当は、GDP比でOECD平均の3分の1程度に留まった。ここに、大陸ヨーロッパのように福祉国家に支えられた家族主義とは異なり、企業に直接にぶら下がるかたちをとった日本の家族主義が形成された。(同)

 図2が示すように、1960年代の初めまでは日本とスウェーデンの女性労働力率はほぼ同じ水準であったが、その後スウェーデンは急上昇し、日本は1970年代の後半まで、先進国のなかでは例外的に女性労働力率が低下する。(p.202)

 日本型福祉の家族主義は、このような時期にとくに強く打ち出されることになる。1978年度の『厚生白書』は、家族依存の子育て・介護の体制を、日本型福祉の「含み資産」とした(厚生省1978)。また、自営業者の税控除とバランスをとるという名目もあって、1987年には配偶者特別控除が導入されるなど、男性稼ぎ主型の制度が強化された。家族は、男性稼ぎ主の扶養と連動した経済的包摂の場として造形されていくと同時に、主婦の無償労働への承認を強める動きが前面に出た、ということができる。(同)

 このように男性雇用志向型レジームでは、包摂と承認の枠が企業と家族に集中することで、それを超えたつながりが弱まることになった。たとえば山岸俊男は、日本社会で起業などの機能集団を超えた信頼関係が低いことを、社会心理学の立場から実証的に示した(山岸1999)。山岸によれば、集団内部では拘束が強く相互の排他性も顕著である反面、集団の拘束が及ばない外部では、人々の関係での不確実性が増し、信頼が醸成されないのである。(pp.202-203)

 つまり、日本では、「ミウチ」「セケン」「ソト」というように、親密な関係からの距離で信頼や人間関係のあり方が原理的に異なる傾向が強い。社会的信頼関係の強度、すなわち社会関係資本という視点から言えば、ミウチ的集団のなかでの「結束型」の社会関係資本は強いが、そのような集団を超えた「橋渡し型」の社会関係資本は弱いことになる(パットナム2006)。日本の承認関係についてのこうした特質は、社会全体を包括する宗教的規範が弱いこととの関連で説明される場合が多い。しかし、男性雇用志向型レジームにおける包摂と承認の仕組みがこうした特質を強化してきた、という事情もまた見て取れるのである。(p.203)

 21世紀。世界大の競争環境の変化が、金融規制の緩和と資本の国際移動の増大とともに進行することで、先進国における安定雇用は浸食される。資本は個別企業との安定的な関係から離れ、国境を越えて新たな投資先を求め続ける。投資対象として優先されるのは、消費者により安い商品やサービスを、次々と意匠換えをしながら、迅速に提供できる企業である。金融と産業の関係は逆転し、金融優位の資本主義体制への転換がすすむ。
 産業界は、男性稼ぎ主の安定した雇用を縮小することで事態に対応しようとしている。男性稼ぎ主の安定した雇用に代わって、非正規労働が投入され、海外生産比率の拡大がすすめられる。多くの事務管理の仕事が失われ、少数精鋭の専門管理的業務と、大多数のルーティン的で不安定(プレカリアス)な仕事へと両極化がすすむ。サービス経済化と労働力の女性化がすすみ、雇用環境はさらに大きく変化する。(p.204)

 男性稼ぎ主の安定雇用が崩れた後に、雇用と社会保障をいかに繋ぎなおし経済的な包摂を実現していくかということについては、大きく3つのオプションがある:
1. 雇用の質を問わず人々に就労を義務づけ、就労に向けた活動について協力が得られないといった場合には社会保障の給付を打ち止めにするという、いわゆるワークフェアのアプローチ。
2. 就労を義務づけることよりも就労を妨げている問題の解決を重視するアプローチもある。これはアクティベーションと呼ばれる方法であり、保育サービスや公的職業訓練の不足を重視し、支援型サービスの給付によって人々を就労に導こうとする。
3. ベーシックインカムのアプローチ。これまでの社会保険、公的扶助などの社会保障制度全体を見直し、すべての市民を対象とした均一の現金給付に置き換える考え方。広義のベーシックインカムとして、人々の勤労所得が明らかに減じている実態から、低下した勤労所得を、公的扶助に依存せずに補完的な現金給付で補うと考えるなら、このアプローチは決して非現実的ではない。(pp.204-205)

 男性雇用型レジームの解体が本格化するのは、1990年代の半ばであり、あえて特定すれば、1995年が転換点となる。この年、日本経営者団体連盟(日経連)のレポート『新時代の「日本的経営」』がすべての従業員を対象とした長期的雇用慣行の終焉を宣言し、またGDPに占める公共事業予算が急速に減額に転じた。(p.208)

 近年の幸福研究は、人々の幸福感の向上のためには、経済的包摂による所得の保障に加えて、社会的承認関係の強化が求められることを示している。(Frey 2008)(p.211)

 包摂と承認の単位として、かつてのようなかたちで企業と家族を再建することはおそらく可能ではないし、望ましいことでもない。流動性を増す労働市場や家族の揺らぎに対して、就労支援の公共サービスや社会的手当を給付することで、人々が経済的包摂の場を変更したり、所得の源泉を多元的に確保できることが必要になる。(p.212)

 承認関係に対しても、男性稼ぎ主が企業に、主婦が家族に「生きる場」を見出すというかたちに代えて、人々にとっての承認の場が多元化していくことが必要になってくる。両性がともに雇用と家族にかかわることが求められているし、雇用と家族の外部に経済的包摂の仕組みを構築する以上、地域や社会のなかに新たな足場をもつことも不可避となる。このことは、人々が豊かな承認関係を享受するためにも望ましいと言えよう。人々が複数の物語を生きて、また自ら物語を乗り換えることができるならば、それは人々の幸福の基盤を拡げると同時に、個々人が人生の主導性を高めることにもつながる。(同)
 



 


 今回はあんまりツッコミが入れられませんでした―。


 
 

正田佐与






 

『承認と包摂へ―労働と生活の保障』(大沢真理編、岩波書店ジェンダー社会科学の可能性第2巻、2011年8月、以下「本書」)を読みました。

「骨折りや苦心が適度に分担され、同僚や他者に認められ、順当に報われること、また労働の場を確保するか、生活の糧を確保すること、これらが本巻の副題にかかげる「労働と生活の保障」の課題であり、それを「承認と包摂」という概念で把握している。」
と、「はじめに」(大沢真理)にあります。この一文の前半は、すべてのはたらく人、その中には女性労働者もその他のマイノリティの人も、また無償のケア労働を担う専業主婦の人も、すべての人がうなずくところ、共通の願いでしょう。
 
 先日の読者「NYさん」との対話の中でもお約束しました、障害者、高齢者、幼児ほか弱者への眼差しを強化していきたいと。
 それはコミュニケーションとしての「承認」ではなく、「承認」を法制度等に反映させる取り組みということになるかもしれません。
 それは本来わたしの手には余る、別の種類の力の必要なことですが。
 で「承認」とインクルージョン、法制度を扱っている本書はそのやりとり以前から積ん読してあったものですが、後学のためにも丁寧に読み込みたいと思います。ちゃんと、こういう学問的アプローチが日本でなされてたんですね。

(全然余談なのですが暮れにこのブログで批判的に取り上げた『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』について、先日日経新聞で識者の方が書評していらっしゃいましたが、一目で「あ、これちゃんと読んでないな」という表面的なものでした。Amazonの1つ星レビューのほうがよっぽど当てになります。)
(またまた余談で、わたしの本も以前新聞の書評で取り上げていただいたことがあるけど、あの時の書評子さんはどこまでちゃんと読んでたのかな…謎…)
 
 ちょうど、本書で触れている「ペイ・エクイティ(同一労働同一賃金)」は、今朝のNHKニュースの特集で取り上げていました。本書出版後5年を経過、旬な話題になってきていると言えそうです。

 本書は8人の著者による8本の論文、全8章からなります。どの章にも記録しておきたい知見や提言があり、今回は読書日記を前後編2部として、前編で第I部1〜4章、後編で第II部5〜8章をとりあげます。
 まずは全体の章構成をご紹介してから、第I部の読書日記に入りたいと思います。

序論 経験知から学の射程の広がり(大沢真理)
I ジェンダー分析の学的インパクト:社会的排除/包摂を見据える
第1章 経済学・社会政策の再構築―生活保障システム論」(大沢真理)
第2章 労働法の再検討―女性中心アプローチ(浅倉むつ子)
第3章 「価値の承認」・「資源の配分」の実証研究―ペイ・エクイティ研究の意義(森ます美)
第4章 承認と連帯へ―ジェンダー社会科学と福祉国家(武川正吾)
II 課題と可能性:再編成と共生
第5章 貧困と社会的排除―ジェンダーの視点からみた実態(阿部彩)
第6章 雇用の非正規化と労働市場規制(遠藤公嗣)
第7章 社会的経済が示す未来―イタリアの協同組合の事例から(田中夏子)
第8章 レジーム転換の福祉政治―包摂と承認の政治学(宮本太郎)
 
 それでは、前置きが長くなりましたが前編・第I部のご紹介をはじめます:

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第1章 経済学・社会政策の再構築―生活保障システム論(大沢真理)

 本書ではリーマン・ショックと東日本大震災直後の時代を背景に、
「社会・経済の再構築=復興は日本にとってまさに焦眉の急の課題であり、社会科学の再構築も欠かせない。そうした再構築において、ジェンダーの視点が基軸となる」(p.22)
といいます。
 そして、
「従来、工業化がる程度進んだ諸国での生活保障は『福祉国家』ないし『福祉レジーム』という枠組みで比較分析されてきた。それにたいして本章では、生活保障システムと言うアプローチを打ち出す」(同)
としています。
 なぜなら、
「20世紀第3四半期に整備された福祉国家は、実際には、『男性稼ぎ主』にたいする所得移転を中心としていた。その際の想定は、世帯のおもな稼ぎ手である男性が安定的に雇用され、稀なはずの失業の場合や老齢退職後に現金給付をおこなえば、家族の生活も保障される、というものだった(大沢2007)。逆にいえば、壮年男性が稼得力を一時的(失業、傷病)または恒久的(老齢退職)に喪失することが、主要な社会的ニーズと想定された。」(同)
 しかしその構図は1990年代には崩れた、といいます。新しい社会的ニーズが顕在化し、福祉国家の機能不全が覆いがたくなった。
「それに伴い、後述するようにヨーロッパでは『社会的排除/包摂』という課題が浮上した」(p.23)

 「潜在能力」「ニーズ」という用語が出てきます。経済学者アマルティア・センの提唱した用語。のちに言うように新古典派経済学の「効用」アプローチへの批判を含む概念となります。

「私(大沢)は、人として生活が成り立ち社会に参加できるという「潜在能力」を考え、その潜在能力の欠損を「ニーズ(必要)」と定義している。「ニーズ」は「需要(ディマンド)」と区別されなければならない」(同)
 ニーズは本来、個別的で多様なもの。そして、
「これまで、その社会で優勢な立場をもつ人、たとえば中以上の教育や稼得力をもつ健常な壮年の男性で、優勢なエスニック・グループや宗派に属する人が、「並」とされがちだった。ジェンダー・バイアスをはじめさまざまなバイアスがあるため、「並」でない人の追加的な財・サービスや機会へのニーズは、ニーズというより「甘え」や「贅沢」とみなされてしまう。」(p.24)

「見逃してはならないのは、潜在能力アプローチが、主流経済学の「効用」アプローチにたいする根底的な批判を含むことである。「効用」は、現在なお主流である新古典派経済学の最も基本的な概念の1つである。効用は「幸福」や「福祉」といいかえられることもあるが、主観的満足と理解してよい。新古典派経済学では、個人(実際には家計)は、あらゆる財・サービスについて明確な一貫した効用(感じる満足度)の順位づけをもっていることが前提され、本人が認知しないニーズなど存在しないことになる。また、異なる個人のあいだで効用を比較することはできず、他人の効用が本人の効用に影響することもないという。
 これにたいしてセンは、不利な状況にある人は自分の手が届きそうなものしか欲さず、第三者から見てきわめて不十分な分配にも「満足」を表明する場合が少なくないと指摘する。…とくに「階級、ジェンダー、カースト、コミュニティーに基づく持続的な差別がある場合」に、効用アプローチは「誤った方向に導く」と批判した」(p.25)

 次に、「福祉国家」「福祉レジーム」の定義とその限界のお話になります。
 エスピン⁼アンデルセンの福祉国家三類型。
「自由主義的」(アングロサクソン)、「保守主義的」(大陸西欧)、「社会民主主義的」(スカンジナヴィア)
 「アンデルセンによれば、社会民主主義体制の理想は、女性の経済的自立を含めて、個人が家族に依存せずに独立できる諸能力を最大化することにあり、その意味で「自由主義と社会主義の独特の融合」である。」(p.26)類型分けの指標となったのは、「脱商品化(decommodification)」。社会保険制度のカバレッジや給付水準をおもな要素とする。(p.26)

 これにたいしてフェミニストから、福祉国家類型論はジェンダー中立的な用語で記述や分析をおこないながら、分析概念や分析単位が男性を起点にすることが少なくないという批判が起こった。
 これをうけてアンデルセン自身が、ジェンダー視点も取り入れて自説を「福祉レジーム」の三類型へと進化させる。
 ジェンダー視点はそこで、「脱家族主義化(de-familialization)」という新たな概念として導入されている。脱家族主義化は、メンバーの福祉やケアにかんする家族の責任が、福祉国家からの給付ないしは市場からの供給によって緩和される度合い、あるいは社会政策(または市場)が女性にたいして自律性を与える度合いを示す。(pp.26-27)

 アンデルセンの類型論の限界。
1)「社会的経済(social economy)ないし「サードセクター」が位置づけられていないという批判がある。
2)現金給付中心の福祉国家の機能不全が露わになった。たとえば「ポスト工業化」に伴って顕在化してきた「新しい社会的リスク(new social risks)」に対処しがたい。
 新しい社会的リスクの例:仕事と家族生活が調和しないリスク、ひとり親になるリスク、近親者が高齢や障害により要介護になるリスク、低いスキルしかもたないか、身につけたスキルが時代遅れになるリスク、そして「非典型的」なキャリア・パターンのためにshs会保障から部分的にせよ排除されるリスク(ボノリによる)(pp.27-28)

 福祉国家論も福祉レジーム論も、国家福祉の比重が急速に高まり、際立っていた20世紀第3四半期の先進国の分析には有効だった。しかし、それ以外の時代や社会を分析したり説明するうえでの有効性は限られている。日本は諸類型の“ハイブリッド型”や“例外”として片付けられがちだったが、それは福祉国家論ないし福祉レジーム論の限界の現れともいえよう。(pp.28-29)
⇒そこで生活保障システム論

 生活保障システム論で設定する3類型(1980年前後の実態を念頭に)
「男性稼ぎ主」型、「両立支援(ワーク・ライフ・バランス)型」、「市場志向」型
・「男性稼ぎ主」型:男性の稼得力喪失というリスクに対応して社会保険が備えられ、妻子は世帯主に付随して保障される。大陸ヨーロッパ諸国と日本など。
・「両立支援」型:北欧諸国。ジェンダー平等。雇用平等のための規制、児童手当、乳幼児期からの保育サービス、高齢者介護サービスや育児休業などの家族支援制度。税・社会保険料を負担する単位は世帯でなく個人。税の家族配慮は控えめ、遺族給付は廃止。社会サービスは政府部門から提供される割合が高く、非営利セクターが活発なのは、市民の自己啓発や権利擁護の分野。
・「市場志向」型:アングロサクソン諸国。家族の形成を支援する公共政策は薄く、労働市場の規制は最小限。賃金は成果にみあうものとされ、生活保障を意図しないが、企業にとって価値があるとみなされる労働者には、相当に厚い企業福祉が提供される場合がある。非営利セクターが経済に占める比重は中位のレベル。なお米国はそのなかでも全国民をカバーする公的医療保険制度が存在しないという特異性をもつ。(pp.29-30)

「1人の稼得者と主婦という家族は、制度というより歴史上の例外だったように見える。それはつかの間の、20世紀半ばの幕間劇だったのだ(エスピン=アンデルセン)(p.31)

 生活保障システム論は、労働や経済にかんするジェンダー分析をふまえつつ、「福祉」を公的な所得移転や財・サービスの給付に限定せず、以下のようにあらゆる財・サービスの生産・分配やそれに伴う購買力の流れを視野に収めようとする。
4つの生産関係:
1. 賃金労働による商品の生産
2. 賃金労働による非商品の生産
3. 非賃金労働による商品の生産
4. 非賃金労働による非商品の生産(pp.31-33)

 ここで、生活保障システムの機能ないし機能不全について、「社会的排除/包摂」論を取り入れてそれをシステムの「成果(outcome)」を表す概念とする。
社会的排除:低所得や所得格差はもちろん、雇用機会の不足、言語や情報(教育)の格差、健康の不平等、市民権の壁などのために、社会のいろいろな場面に参加できないこと。1997年のアムステルダム条約では、社会的排除にたいする闘いが欧州連合(EU)の主要目標の1つに位置づけられた。
対理宇西欧諸国では社会的排除がとくに構造的な失業として現れたが、途上国では労働市場の内部にいても排除されている場合を軽視できない。…それはパートタイム労働者をはじめ一時的雇用、劣悪な条件の就労、社会保障へのアクセスから部分的あるいは全面的に排除された者などである。(p.33-34)

日本では
相対的貧困率:「相対的貧困」とは、世帯所得を世帯員数で調整した「等価」所得の中央値にたいして、その50%未満の低所得をさす。相対的貧困の世帯に属する人口が全人口に占める比率が相対的貧困率であり、中位所得から下方での所得分配(格差)を表す。(p.34)

 日本の貧困率がOECD諸国のワーストクラスにあるという状況にかんして、世帯主が労働年齢(18-64歳)である世帯に属する人口(以下、労働年齢人口)に焦点をあわせると、日本の特徴はつぎの通りである。
1. 貧困層に属する世帯のうち、就業者が2人以上いる世帯の比率が約4割と高い。他国では、労働年齢における貧困層といえば、ほとんど就業者のいない世帯かひとり親世帯であるが、日本では共稼ぎでも貧困から脱しにくいのだ。
2. 日本では貧困率の総体的な高さが、税と社会保障制度という政府による「再分配」に起因する。
2. について。日本の可処分所得レベルの貧困率は12.47%で、OECD諸国のなかで6番目に高い。市場所得レベルの貧困率は13.58%で韓国についで低いものの、可処分所得レベルでごくわずかしか低下しないため、OECDのワーストクラス入りしてしまう。(市場所得から可処分所得への貧困率の変化幅を市場所得レベルの貧困率で割った値を、再分配による貧困削減率と呼ぼう)
日本の特徴は、成人の全員が就業している世帯にとって貧困削減率がマイナスになっている。OECD諸国でこのような国は他に存在しない。日本の社会保障システムがOECD諸国きっての「男性稼ぎ主」型であるため。(pp.35-36)

日本の公的負担=歳入は、この間に低所得者にたいする冷たさを増した。1990年のGDP比歳入規模29.5%をピークに2003年まで低下し、2010年で27.6%となった(1990年代末以降に企業と高所得者・資産家にたいする減税がおこなわれ所得税の累進性は顕著に低下した)。この間に社会保障負担は一貫して上昇して2010年度にはGDP比12.4%となった(逆進性があり負担上昇は低所得者により重くのしかかる)上記のような労働年齢人口に対する貧困削減率がOECD諸国中もっとも低く、成人の全員が就業する世帯にとって貧困削減率がマイナスになる事態は、1990年代初年以来の税制改革および社会保障「構造改革」をつうじてつくり出された(pp.36-37)

米国政府が借金による過剰消費を煽ったのは、社会的セーフティネットが粗放なために、格差の拡大と雇用不安にたいする有権者の不満が昂じやすく、それをてっとり早く解消する必要があったからだ。…1990年代初め以来、景気の拡張が雇用増加を伴いにくくなっており(jobless recovery)、有権者と政治家の雇用情勢への反応はいっそう鋭くなったという。
しかも、米国の過剰消費の筆頭項目は医療費である。…米国の国民医療費は対GDP比で15%を超え、OECD諸国のなかで断然トップである。そうした米国の生活保障システムが、世界経済危機の原因ともなったのである。(pp.38-39)
 
日本:2010年の経済財政報告は、先進10か国について、最近の景気の底から3年間における所得の成長にたいする寄与を、営業余剰と雇用者報酬(ともに名目値)に分けて見ている。日本でのみ雇用者報酬の寄与はマイナスのままで、それを示す図の副題は「所得面での企業から家計への波及が遅れたのは我が国特有」となっている。(ただし、日本ほどではないにせよ、同様のパターンはドイツでも見られる)
 格差の拡大と社会保障の不備ないしその将来不安が、中国や日本での過少消費と過剰貯蓄を招いたとすれば、ここでも生活保障システムのあり方が、世界的危機の一因となったといえるだろう。その生活保障システムの類型と機能では、ジェンダーが基軸となっているのである。(p.39)


第2章 労働法の再検討(浅倉むつ子)

 ここでは、「(現状の)労働法の男性中心主義」と、すべてのマイノリティの引き上げにつながる「女性中心アプローチ」について語られます。

 しかし、労働法が包摂したのは男性労働者であり、女性労働者ではなかった。なぜなら、そもそも労働契約法理や集団的労働法の基礎理論の形成にあたり、労働法が対象とした「労働」とh、あくまでも市場労働としての「ペイド・ワーク(有償労働)」であり、その中心に位置したのは常に男性だったからである。(p.44)

 日本においても、1990年代には、.哀蹇璽丱覯修鉾爾Π豺駭働市場の維持の困難性、国内外の競争の激化、人口構造の変化(高齢化、少子化)、は働力の女性化(フェミナイゼーション)、ハ使の意識変化など、急速な社会変化がみられた。かつての標準的な労働者は減少し、多様なタイプの労働者が増大した。(pp.44-45)

 1995年に日本経営者団体連盟(日経連)が出した「新時代の「日本的経営」」は、非正規労働者の大胆な拡大を方向づけ、その後短期間で、日本の労働者全体の「正規」から「非正規」への転換が、大規模に生じたのである。(同)

 2010年時点で、労働者全体の35%に迫ろうとしている非正規労働者の中心にいるのは、女性労働者である。ただし、女性は正規労働者の中心ではない。実は、資本主義の時代を通じてずっと重要な労働力であり続けていたにもかかわらず、2つの理由によって、女性は常に「二流の労働者」であった。1つは、家族圏で担う「ケア労働(アンペイド・ワーク)」のために、もう1つは、妊娠・出産する身体をもつ存在であるために。
 ケア労働は対価を伴わないアンペイド・ワークとして、労働法の対象外であり、そのケア労働を担う者が女性であるため、女性は常に、労働法においては周縁的で補助的な労働者と位置づけられてきた。女性はまた、常に「労働する身体」と「産む身体」の矛盾の中で生きており、一時的に「労働する身体」として敬意やメンバーシップを獲得し、<承認>されたとしても(たとえば「男性並みの有能さ」を認められた総合職女性)、いったん妊娠・出産というプロセスに至れば、まぎれもない「女の身体」による困難さを経験する。労働法は、このような「女性」を、二流の労働者として「保護の対象」とすることはあっても、労働法の中心的担い手として登場させることはないのである。(同)

―大事な視点ですね。繰り返しこの認識に立ち戻らないといけないので、少し長く引用してしまいました。

―そこで本章の筆者は「女性中心アプローチ」を提唱します。

 女性中心アプローチは、従来の労働法理論にさまざまな修正を迫る。女性労働者は、労働市場において、低賃金で社会的評価の低い労働に従事してきた。女性の労働には、正当な経済的評価が与えられず、十分な物質的対価が付与されてこなかった。(p.46)

―このくだりは、ご想像される読者の方もいらっしゃるかと思いますが、わたし自身が引き受けてきた痛みでもあります。今の研修業について10数年、自分よりはるかに力量の低い男性が高額のコンサルティング料、講師料をとって仕事をするのを、何度目をつぶってみないふりをしてきたことだろう。かれらは何の成果も挙げなくても、企業研修・コンサルティングを実施した件数だけは「実績」としてわたしよりはるかに多い。それは、同じ男性の購買担当者が、男性同士思いやり合って優先的に生活の援助を行っているとしかみえなかった。また女性購買担当者も同様に差別的だった。彼女らは魅力的な異性である男性コンサルタント、男性講師のほうを選んだ。

 最低賃金制度の遵守、同一価値労働同一賃金原則の実現は、誰よりもまず、女性労働者にとって不可欠な要求である。女性は、男性が自分では引き受けたくない無償のケア労働を主として負担しているため、アンペイド・ワークとペイド・ワークをあわせれば、男性よりも長時間、労働に従事してきたことになる。労働時間短縮と休暇取得による私生活の確保は、女性労働者にとって何よりも優先すべき要求である。女性労働者は、妊娠・出産する身体をもつため、男性モデルとは異なり、格別な「生命・健康」の保障を必要とする。にもかかわらず、妊娠・出産・育児・介護により、女性労働者はしばしば就労できなくなったり、労働能力が低下したりすることが多く、これらに関連した不利益取扱いを経験してきた。(同)

 「労働する身体」モデルが「男性の身体」という強靭な体力・能力を前提とするものであるとすれば、そのモデル自体の強制に異議を唱え、障がいのある人、病気の人などを含む「多様な身体」をもつ労働者モデルが提示されるべきであろう。そして、性暴力や偏見をなくし、職場における人権侵害を根絶すること、すべての労働者の人格の尊厳を確保することは、職場の内部に「多様な身体」を受容し、<承認>することであって、これは女性中心アプローチにとっての基本的な要求である。(同)

留意点
(1) 女性中心アプローチは女性だけを特別扱いすることではない。「男女」のあらゆる労働者により広範に適用する。さまざまな雇用差別を禁止する法理、ワーク・ライフ・バランスの保障、妊娠・出産・ケア労働を理由とする不利益取扱いの禁止、同一価値労働同一賃金原則などは、女性のみならず、障がいのある人や非正規労働者にも汎用性の高い理論を提供してきた。セクシュアル・ハラスメントの概念を生み出した研究も、他の多彩なハラスメント概念の定着に貢献してきた。女性中心アプローチは、労働法がこれまで「他者」として排除してきたさまざまな人々の問題に焦点をあてる、それらの人々の<承認>の理論ともいえる。
(2) ここで変更を迫られる「男性労働者モデル」は、決して男性労働者の実像ではない。現実の男性労働者は、…身体的・心理的に脆弱性を有し、かつ、家庭でも職場でも、女性によるケアを支えにかろうじて職務をこなしている人々だといっては言い過ぎだろうか。…女性中心アプローチは、実は「男性規範」にとらわれ苦闘している現実の男性労働者の<承認>の理論でもある。

 今世紀になってからの少子化対策の中心には少子化対策基本法(2003)があり、「生活」への介入に抑制的な労働諸立法を尻目に、「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し、少子化の進展に歯止めをかける」と、生活の内容にまで踏み込む前文をもつ。(p.48)

 WLBの内容については、2007年末に策定・公表された「WLB憲章」と「同行動指針」が、その大枠を示している。そこには、すべての労働者を対象とする包括的な「仕事と生活の調和政策」(広義のWLB)と、家族内のケア労働に責任をもつ男女労働者を対象とする「仕事と家庭の両立支援政策」(狭義のWLB)が含まれている。このようにWLB政策の全容が示されている現段階でなすべきことは、WLBを、少子化対策に従属するジェンダー不平等を伴う政策としてではなく、憲法、労働基準法(以下、労基法)などに規範的根拠をおく、ジェンダー平等の基本的要請にかなう政策として位置づけるために、積極的な提案をすることであろう。(p.49)

―このくだりの後半はちょっとわかりにくいですが、少子化対策は、「産む性」である女性に期待するところが大きい。ところが女性に産むことを強要することは女性の経済的損失につながりかねない。損失につながらない十分な保障をともなったうえで「産む選択」をうながすものでなければならない、という言い換えでいいんでしょうか。

―「承認と包摂」のなかにWLBが出てきました。うちの県(兵庫)には、全国でも唯一のWLB推進外郭団体があるんですが、2007年末の「WLB憲章」と「同行動指針」を受けて2009年、設立されたという流れと考えられます。
 それ自体は讃えるべきことですしわたし自身もそこで外部相談員をやらせていただいていますが、「承認概念」とWLBどういう関係性なのか、ということで、今ひとつ同意できないところがあります。
 「承認」は憲法でも保障されている基本的人権のもとになった概念なのです。近代以降の倫理、人格対人格の相互承認、それを法制度化したものが「基本的人権」なのであり、その一環として具体化するのがWLBなのです。わたしたちの社会の成り立ちとしてどちらがおおもとなのか、順序を忘れないでくださいね。なんて、ケンカ売りたいわけじゃないんですけどね。「承認なきWLB」は、「承認なき傾聴」と同様に本末転倒なんです。


 では「女性中心アプローチ」の観点から、WLB政策が備えるべき基本的要請:
第1の基本的要請は、「ワークの規制」と「ライフの自由」である。法は「ワーク」のあり方の枠組みを示し、その権利義務関係等を明確にする役割を担うが、他方、「ライフ」のあり方は、個々人の自由の領域でなければならない。
第2の基本的要請は、生命・健康の確保。それと矛盾する政策は排除されるべきであろう。
第3の基本的要請は、社会的価値が付与された活動の尊重が優先するということ。育児・介護など家族内のケア活動は、社会を支える再生産活動そのものであり、不可欠な社会的価値が付与されている。広義のWLBにおける「ライフ」には、すべての労働者を対象とする、自己啓発や社会貢献活動のための休暇の確保なども含まれるが、休暇日数の確保に上限がある場合や、業務上の必要性から配転すべき労働者の一定数を確保しなければならない場合などにおいては、優先的に配慮されるべき「ライフ」として、まず「家庭内のケア活動」がくることは当然といえよう。

―ここでいう第3の要請、これも以前WLB関係の人の発言に異を唱えた部分でした。妊娠出産子育て介護の要請と、例えば独身者の自己啓発の要請を同列に扱ってよいか、という問題。後者も大事は大事だが、前者の「ケア活動」すなわち社会の維持、種の保存に決定的に関わる活動とは重みが異なるのは当然だろうと思います。その当然が当然とされないのはわたしにはむしろ驚きでした。


―そして妊娠・出産と不利益処遇の問題。

 母性保護に関するILO条約は、「いかなる場合にも、使用者は…給付の費用について個人として責任を負わない」と規定する(4条8項)。しかしその意味は、出産休暇中の金銭・医療給付は、「強制的社会保険または公の基金」によるべきだからである(4条4項)。…すなわち、出産休暇の使用者負担の免除は、休暇の権利性を弱めるものではなく、むしろ、妊娠・出産が、女性労働者にいかなるマイナス効果ももたらしてはならない、というメッセージに他ならない。(p.52)

 ソフトロー・アプローチ(努力義務規定)の問題点。和田肇は、…ソフトローの多用は、法律の樹反論としても、法政策の実現手段としても、疑問であると述べる。両角道代は、ハードロー化を予定した「過渡的努力義務規定」の役割を、スウェーデンでは、労働組合・使用者団体の上部組織が締結する基本協定等が果たしていると紹介しつつ、男女雇用差別の禁止には、協約による逸脱を許さない純粋な強行規定である、と述べる(p.53)

 近年ではむしろ、<承認>の実現を重視する立場から、平等を促進する、より積極的な方策が主張されている。たとえばサンドラ・フレッドマンは、平等の潜在的な「4つの目標(すべての人々の尊厳と価値の尊重、コミュニティ内部への受容・承認、外部グループの人々への不利益のサイクルの分断、社会への完全参加)を達成するための、国家の「積極的義務(positive duty)」の存在を強調している。(同)

―おー。まさに現代、「承認」の立法化という視点で立法を論じる人びとがいるんですね。

間接差別と複合差別。

 【間接差別】ところが、均等法7条は、間接差別を一応禁止するものの、その範囲を厚生労働省令で定めるもののみに限定している。具体的には、(臀検採用時の身長、体重または体力要件、▲魁璽絞霧柩儡浜制度における総合職の募集・採用時の転勤要件、昇進時の転勤経験要件、という3つである(均等則2条)。省令による限定には批判も強く、2006年均等法改正時の附帯決議では、厚生労働省令で規定する以外にも司法判断で間接差別が違法とされる可能性があること、厚生労働省令の見直しを機動的に行うことが確認された。(p.54)
 【複合差別】ある人に対して、重複する2つ以上の差別事由がある場合には、その差別的効果や被害は甚だしくなる。たとえば、人種とジェンダーが交差する差別について、ある論者は、黒人女性と白人女性が経験する差別が類似しているというのは誤った仮説だ、と述べる。人種とジェンダーが一緒になると、2つの差別が加算・総計されたものよりも、さらに悪化した条件がもたらされ、相乗作用が生まれる、という。このような認識に基づき、最近のEU指令やイギリスの立法は、「複合差別(multiple discrimination)」や「結合差別(combined discrimination)」を禁止する条文を設けるに至った。
重要なのは、かかる複合(結合)差別禁止概念を設けることによって、差別の立証が容易になるということである。(pp.54-55)

―たぶん、わたしが受けている差別は「(大学人でない)民間人」と「女性」それに「主婦」「母親」が複合したものなんだろうなー。


―さて、やっと「同一労働同一賃金」が出てきました。

 労働法の学説には、同一価値労働同一賃金原則は、職務給を採用している欧州的な賃金形態を前提として構築されたものであり、日本では適用不可能であるとか、あるいは、かなり日本的にアレンジしたものでないかぎり適用できない、とする否定的な見方がある。たしかに日本と欧米の賃金支払形態は異なる。欧州では、企業横断的に締結される労働協約によって職務給を定めるシステムがとられているが、大半の日本企業が採用している賃金制度の多くは「職能給」である。ILO条約勧告適用専門家委員会も強調するように、同原則を適用するうえで「職務評価システム」は欠くことのできない手段である(p.55)

―では日本では実現不可能なのか。筆者らは2010年に「同一価値労働同一賃金原則の実施システム」を提案した。以下はその概要。

 まず、同一価値労働同一賃金原則を、男女間/正規・非正規間に適用される立法において明文化する必要がある。男女間の賃金差別を禁止する条文である労基法4条には、「同一価値労働同一賃金」を定める明文規定はない。…まずは労基法に、明文で男女同一労働・同一価値労働同一賃金原則を盛り込む必要がある。
(中略)
また、正規・非正規労働者間でこの原則を具体化するために、労働契約法、パートタイム労働法を改正し、「使用者は、合理的な理由がある場合を除いて、同一価値労働同一賃金原則を遵守しなければならない」旨を条文化することも必要である(p.56)

より重要なことは、日本にかかる原則を根づかせ、かつ、裁判所や行政機関が同原則にのっとって判断する「具体的なシステム」を構築し、提案することである。
1.「得点要素法」による職務評価システム実施マニュアルの策定。職能給制度しか経験していない企業には、職務の価値評価の可能性を示すメッセージとなる。厚生労働省は、2010年4月に「職務分析・職務評価実施マニュアル」を公表し、パートタイム労働者と通常労働者の職務を比較する提案をした。ただしこれは、比較すべき職務の範囲がきわめて狭い「単純比較法」である。これに対して、私たちの提案は、「知識・技能、負担、責任、労働環境」の4大ファクターを採用する「得点要素法」であり、労使が参加する7つの段階を踏むことを求めている。
2.「賃金差別」に事後的に対処するため、司法の領域において「独立専門家」制度を設けること。
3.賃金の平等をより積極的に推進する政策としての「平等賃金レビュー」の実施という提案。イギリスの政策に倣い、企業が労働組合と一体となって、個別訴訟を待つことなく、事前に積極的に組織内の賃金格差の有無をチェックして、自らの手で可能なかぎり不合理な賃金格差の解消をはかるというものである。(p.57)

―最後に本章は、ハラスメント概念の定着を「女性中心アプローチ」の労働法における貢献として締めくくっています。

 このことは、労働の場では非能率的と評価されやすい病者、弱者、妊娠・出産する女性、障がいのある人や高齢者などを尊重する結果をもたらしている。「労働する身体」をもつ健康な男性のみのホモ・ソーシャルな場であった労働の領域が、「労働する身体」に足りない存在である多様な労働者の存在を可能にするように、変容を迫られているのだ。(p.58)


―次の章では、より具体的に「同一労働同一賃金」を取り上げます

第3章「価値の承認」・「資源の配分」の実証研究
―ペイ・エクイティ研究の意義(森ます美)

 今日に至るも、日本の男女間賃金格差問題はなんら解消されていない。2009年の女性の賃金は男性の69.8%に留まっており(厚労省「賃金構造基本統計調査」、一般労働者の所定内給与額)、OECDの国際比較データで見ても、2007年の日本ののフルタイムでの男女間の賃金格差(男性=100として女性は68)は、韓国(同62)に次いで2番目に大きく、これに続くカナダ(同79)、イギリス(同79)、アメリカ(同80)などアングロサクソン諸国に比べても際立っている。
 女性雇用者の55.1%がワーキング・プア(働く貧困層)である。労働市場のジェンダー・バイアスが、女性の貧困と生活困難を男性以上に深刻化させていることは明らかである。(p.63)

「政権交代」後の2010年、第三次男女共同参画基本計画に「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約(ILO第100号条約)の実効性確保のため、職務評価手法等の研究開発を進める」ことが明確に位置づけられた。また、同年4月、厚労省が「パートタイム労働法に沿った職務評価手法」である「職務分析・職務評価実施マニュアル」を公表した。(同)

 ペイ・エクイティ(pay equity)は、ILO第100号条約(「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約」、1951年採択)が規定する同一価値労働同一賃金原則(equal pay for work of equal value)を指す。…この原則では、男女の従事する職務の価値が「同一価値」でない場合でも、職務の価値に比例した賃金の支払いを求める「比例価値労働比例賃金(proportionate pay for work of proportionate value)」がその論理にかなった拡張概念として認められている。(p.65)

 ペイ・エクイティの実施プロセスは、大きくは次の4つの段階から成っている。―性職(女性の職務)とその比較対象となる男性職(男性の職務)の選定と職務分析、⊃μ撹床船轡好謄爐虜定、職務評価の実施(職務/労働の価値の決定)、て碓豌礎/比例価値に応じた女性職(女性)の賃金の是正、である。このプロセスで最も重要な局面は、ジェンダーに中立な職務評価システムの設定と労働の価値に基づく賃金の配分である。(同)

 ジェンダーに中立な職務評価システムの策定とは、ブルーカラーや管理職など男性職に有利な評価基準に立つ伝統的な職務評価制度のジェンダー・バイアスを廃し、従来見落とされ、過小評価されてきた女性職の特性を公正に評価できるシステムを再構築することである。例えば、女性が従事する看護・介護・保育など対人サービス職種に要求される「感情的負担」や「患者や利用者に対する責任」、人事部または顧客サービス課の事務職に求められる従業員や顧客に関する「個人情報の管理に対する責任」などのサブファクターの採用とポイントの適切な配分である。(p.67)

1970-80年代の(欧米諸国の)ペイ・エクイティ運動の固有の意義は、ジェンダーに中立な職務評価システムによって女性職(女性)の労働の価値の公正な承認と、労働の価値に基づく資源(賃金原資)の公平な配分を実現することにあった。男女間の配分の不平等、経済的不公正への異議申し立てである。(同)

日本での調査事例(商社):
1997年、ペイ・エクイティ研究会が行った「商社の職務に関するアンケート調査」による職務評価の結果。回答者は大手総合商社を含む15の商社の営業職に従事する男性42人と女性77人(男性は全員が総合職、女性は74人が一般職、3人が総合職)。
 指摘される点:
1. 女性の担当職務の価値(95-110点前後に集中)は、男性(105-125点前後に分布)よりも相対的に低く、商社営業職における性別職務分離が推察される。女性従業員にその「価値」に比例した賃金が支払われているかを平均として見ると、職務の価値の男女比100:88に対して賃金額の比は100:70と低く、女性に対して公平な賃金原資の配分が行われていない。
2. 実際に同一価値の労働に従事する男女が混在する職務評価点106-116点の範囲に注目すると、総じて女性の賃金は男性よりもかなり低く、男女間賃金格差が大きい。女性に比べると、男性従業員は同一価値労働に対して過大な承認を受け、高額な配分を受けていることがわかる。
3. 同一価値労働に対する賃金格差は男性間でも非常に大きいことが明らかである。例えば、職務評価点120点前後の同等価値労働に対する賃金格差は最大で50万円(最低賃金額25万円、最高賃金額75万円)にも及んでいる。同様の傾向は他の職務評価点でも指摘できるが、賃金額が40万円以下の営業職男性のほとんどは勤続年数が10年未満の若年層である。
 以上から明らかなように、日本の賃金は、ペイ・エクイティの原則から見ると、性と年齢による差別賃金である。女性と若年男性の職務/労働には、その価値に相応しい賃金原資が配分されておらず、公正な配分から排除されている。換言すれば、その「価値」に見合った承認を受けていないのである。(pp.67-69)

 「男性稼ぎ主」規範にたつ日本の年功賃金制度が性と年齢による差別賃金をもたらす。日本の雇用を特徴づけてきたのは、<終身雇用と年功賃金>制度であり、それを支えてきたのは男女の<性別役割分業(規範)>である。(p.69)

 日本の「男性稼ぎ主」型賃金制度が持続されてきた社会・経済的要因:
1. 男性正規労働者間(女性不在)での「公平観」。
2. 「企業」と「賃金」への依存度が極めて高い日本型生活保障。家計収入構造の比較では、実収入に占める男性世帯主勤め先収入の割合は80.9%(2009年)で突出して高い。日本の低い社会保障・社会福祉を「企業福祉」が代替してきた。
3. 日本の社会では、賃金決定が「企業内在的」に行われている。(組織ベースorganization-based 賃金制度)。日本の企業における賃金原資の労働者間配分の企業内在的な決定という原則は、「男性稼ぎ主」規範と結合して、若年者と女性への低い配分と、成人男性への高い配分を可能としてきた。パイが一定に枠づけられたなかでは、ジェンダーによる差別的配分としての女性の低賃金が男性の高賃金を保証し、両者は競合関係に立っているのである。(pp.72-73)

 正規・パート間賃金格差の根本的な問題は、雇用形態の差異を根拠に、パートと正規労働者の賃金決定基準がまったく異なっていることにある。そこでは職種・職務の同一性・同等価値性は少しも顧みられていない。日本の企業別・正規労働者中心の労働組合組織が、パートタイム労働者への同一価値労働同一賃金原則の適用に力を発揮していないことも、正規・パート間の賃金格差の解消を遅々としたものにしている。(p.73)

―そしてふたつの職種での「ペイ・エクイティの実証」が紹介されます:

【ホームヘルパー】
(結論部分)介護職であるホームヘルパーや施設介護職員には、仕事の価値に比べて過少に、他方、診療放射線技師に対しては、仕事の価値を超えて過分に賃金配分がなされていることになる。年収換算の自給では、ホームヘルパーと診療放射線技師の賃金が仕事の価値から乖離する度合いはさらに拡大し、同等価値労働に対する賃金評価はおよそ2.3倍である。
 仕事の価値から乖離したこの賃金格差は、ホームヘルパーや施設介護職員が公正な配分から排除されていることを示している。4職種の職務評価によって、介護労働者に対する賃金差別が可視化されたのである。ペイ・エクイティの原則に基づいてこれを是正すると、ホームヘルパーの「公平な賃金」は、表1に示したように、月収ベースでは現在よりも369円上昇して1605円に、年収ベースでは742円アップして1985円となる。(p.76)

【スーパーマーケット・パートタイム労働者】
(結論部分)正規従業員、役付パート、一般パートの職務の価値の比「100.0:92.5:77.6」に対して賃金額の比は「100.0:70.2:54.8」である。年収換算の時給で見ると、賞与が支給される正規従業員の賃金は2153円に上昇し、賞与が支給されないパート賃金との格差は「100.0:63.9:47.6」へと拡大する。少数の正規従業員の賃金水準に比較すると、外部労働市場で採用された多数のパートタイム労働者への賃金配分は、仕事の価値の高さにもかかわらず極度に少なく、大きな差別を受けていることがわかる。スーパーマーケットにおいて役付パ―トや一般パートの労働は相応の承認を受けていないのである。こうした公正な配分からの排除がパートタイム労働者の自立を困難にしている。
 ペイ・エクイティの原則によれば、年収ベースでは、役付パートで1991円、一般パートで1671円が仕事の価値に相応する合理的な水準であり、現在の賃金額よりもそれぞれ600円以上引き上げる必要がある。(pp.77-78)



「男性稼ぎ主」賃金(規範)は、グローバル化が進展する現代社会においては、三重の意味で時代不適合に陥っている。
1. 企業にとって。国際的な低価格競争に打ち勝つためには、コスト高の「男性稼ぎ主」賃金とフレキシビリティを欠く長期雇用は、企業にとって時代不適合となった。
2. 雇用者世帯における「男性稼ぎ主」賃金(規範)の時代不適合。1990年代末以降、企業による男性正規労働者の賃金の抑制と絶対額そのものの現象は、家計に深刻な影響を及ぼした。実収入に占める配偶者の勤め先収入の割合は低い分位ほど高くなっており、労働者世帯において「男性稼ぎ主」賃金による家族扶養」が急速に崩れ、夫婦共働きによる家計の維持へと移行している。
3. グローバルなジェンダー平等の地平から見た「男性稼ぎ主」賃金(規範)の時代不適合。欧米諸国に比較して突出して大きい日本のフルタイムでの男女間賃金格差、「家計補助」として市場評価されてきた主婦パートの低賃金、さらにこれを基準とした男女非正規労働者全般の低賃金という不公正の連鎖は、「男性稼ぎ主」賃金(規範)に起因している。(pp.78-79)

 ペイ・エクイティへの抵抗。非正規労働者の賃金上昇を怖れる企業経営者、企業によるその悪用と男性正規労働者の賃金低下を恐れる労働組合、真剣に家族の生活を心配する男性労働者などからの抵抗。(p.80)

 広島電鉄(従業員数1300人)の取り組み。同社と組合は2009年3月に、契約社員150人を全員正社員化し、「正社員2」と呼ばれる150人の社員も含めて賃金制度を「正社員」と一本化することで合意した。この改定で、「契約社員」「正社員2」の賃金が上昇する一方で、300人弱のベテラン「正社員」の賃金が月額5-6万円下がる。会社は、これら正社員の賃金の急減を避け、10年かけてゆるやかに減額し、かつ定年を5年延長したという。
 正社員は、「いつか契約社員と正社員の人数が逆転するのではないか。そうなった時、わしら正社員が契約社員の方に労働条件をあわせなければいけないのではないか」という事態を避けるために労組の説得を受け入れた。また会社は、今回の賃金制度の一本化に際して、総額人件費(パイ)を3億円増やすことを受け入れた。社長(現会長)は、「非正規の社員を犠牲にして企業が成り立つのは好ましいことではない。同じ職種なら公平な賃金の下で勤務をするようにした」と述べる。(同)

 賃金の公平観を経営者・労働者間で共有するにはどうしたらよいか。「分かち合い」の思想が労働者間で共有されることが重要だ。(p.81)

 ペイ・エクイティにより公平な賃金を労働の価値に相応しい適正な水準で確保するためには、1990年代後半以降大幅に削減されてきた総額人件費/雇用者報酬を回復し、賃金原資(パイ)の拡大を図ることが必要である。(同)

 労働市場において賃金の平等を達成するためには、正規・非正規労働市場を横断するペイ・エクイティを法や政策によって社会的に進めることが必要である。それは正規労働者と非正規労働者、男性労働者と女性労働者を同一労働市場に包摂することによって均等待遇の実現を図るものである。(p.82)

 労働規制の緩和を進め、賃金決定を市場の労働力の需要と供給の均衡にゆだねる主流経済学の賃金政策が格差と貧困を増大させてきたことは、1990年代後半以降すでに確認済みである。平等賃金規制が強いEU諸国において、賃金のジェンダー格差が小さいこと、他方、日本でも改正パートタイム労働法によって、全く不十分ながら同一(価値)労働同一賃金規制を部分的に導入せざるを得なくなったことはその証である。(同)

 とはいえ、ペイ・エクイティ政策は、その先進国であるアメリカ合衆国において、1990年代以降、「経済の再構築」を追求する新自由主義の政治経済勢力から労働市場への干渉として激しく攻撃され、後退を余儀なくされてきた。賃金に対する政府の規制は労働市場の硬直化を招き、規制緩和と雇用のフレキシブル化による現代の経営戦略と直接に矛盾すると批判されたのである。(同)

 日本ではまずはペイ・エクイティの実施システムを確立することが喫緊の課題である。
1. ILO第100号条約に基づくペイ・エクイティ理念を社会に浸透させること
2. ペイ・エクイティの実施を担保する日本の法制度の整備
3. ペイ・エクイティの基礎をなす職務評価システムと職務評価の実施プロセスの構築と社会的確立。(pp.82-83)

第3章のまとめ: 「賃金」と「社会保障」のバランスのとれた生活保障へ。
 西欧諸国と比較して日本の社会保障支出が著しく少なく、しかも社会保障は年金と医療保険に特化した、所得保障中心の構造を持つことはよく知られている。夫婦共稼ぎ世帯の主流化は、これまで妻が無償で担っていた家事・育児・介護等を代替する福祉サービスへの需要を高め、生活を維持するための公共的な対人サービスの提供が不可欠となる。(p.83)

 家族扶養にかかわる家計費とケアサービスが、ユニバーサルな家族手当や福祉サービスとして十全に提供されるならば、ペイ・エクイティによる公平な賃金の最低水準は、論理的には労働者自身の再生産費に近づくことができる。この段階になれば、生活を維持するための「賃金」と「社会保障」のバランスは、現在とは大きく変化しているはずである。(同)


第4章 承認と連帯へ

―ここでは、「ネオリベラリズム」とそれに対抗するものとしての「ジェンダー社会科学」の関係に紙幅を割きます。
 だいぶ疲れてきたので、途中の内容は後日改めて加筆させていただくことにして、章末のまとめ部分の文章だけを抜き書きいたしましょう。

 このように考えてくると、福祉国家の制度がその実現をめざしているのは<承認>と
<連帯>だということができる。もっとも社会給付(再分配)は<連帯>の証しであるが、<承認>のために社会給付が必要となることもありうる。また社会規制は<承認>の前提だが、<連帯>のために社会規制が必要となることもありうる。用語法はともかく、このような<承認>が福祉国家をめぐる規範的議論の中心に据えられるようになったということも、ジェンダー社会科学の影響の1つの表れである。
 20世紀の第4四半期以降、ネオリベラリズムが隆盛を極めた。それは生産レジーム、システム統合、交換の正義を重視するものだった。ジェンダー社会科学は、このトリニティを相対化するうえで重要な役割を果たしてきたと思われる。(pp.106-107)

―思い切りアバウトに考えると、東西冷戦の終結以降、資本主義が我が世の春を誇ったわけですが、資本主義の暴走の形態としてのネオリベラリズムを止める、社会主義に代わる対抗勢力としてジェンダー社会科学が台頭した、そんな感じで理解しておいたらいいのでしょうか。

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後編では貧困と社会的排除、雇用の非正規化などの章を引き続き取り上げます。
あたまがつかれる…でも押さえておかないとね。


正田佐与



 昨年末、佐賀県の研修業、宮崎照行さんより、
「教育困難校の高校でビジネスマナーを教え、『行動承認』によってヤンキーの生徒さん方の行動を変容させた」

というお便りをいただきご紹介しました。

 新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより

 それへのお返事の中で、正田は

「この手法はこの社会を建て直す力のあるものだと、私は信じてるんです」

ということをお書きしました。

 また、

「承認企業は若者の最後のセーフティーネット」

ということを、このブログで今年の年頭に書かせていただきました。

厳しさの復権、異論叩き、最後のセーフティーネットー力の限りお伝えし続ける「承認2016」


 それらは例によって(裏づける事例はいくつかあるにせよ)漠然と直感で言ったものですが、それを裏づけてくれるような知見が、やっぱりありました。

 「愛着障害」により「少年犯罪」に走る少年・若者をどう更生させるか。そこに、「行動承認」プラス「オキシトシン」が大きな役割を果たすようだ、というものです。いわば「最悪の状態」になった子を救える最後の手法であるようなのです。

 http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3613.html

 1年ほど前のNHK「クローズアップ現代」の放送内容。
 フェイスブックのお友達のシェアに感謝しつつ、お友達でない皆様のために、改めてこのブログに記録しておこうと思います。

 
 この番組では、子供のころに親に愛されず、暴力を振るわれたりネグレクトされていたために脳に大きな障害を負った少年少女を取り上げます。

 脳科学研究によるとそうした子供たちでは、脳の前頭皮質の体積が普通の子供より小さくなっており、また線条体の反応が小さくなっている、とのことです。

「これがうまく働かないと、良い行いをして褒めても響かない。
悪い行いをしたときにフリーズといいますか、行動を変えることを止めてしまう、そういうことがあり得る。
ささいな情報で逆ギレしてパニックをよく起こしてしまう。」

と、福井大学子どもの心の発達センターの友田明美教授。


 ほめても響かない。それは、行動変容を起こさせる有効な道筋が閉ざされてしまっている、ということを意味します。そういう子供さんに何ができるというのか。

 
 ここで、「オキシトシン」という解がひとつ出てきます。
 このブログでも度々登場する、信頼ホルモン、共感ホルモン、愛情ホルモンなどと言われるオキシトシン。
 これを薬剤として投与することが3年ほど前から行われています。

 オキシトシンは線条体に強く働くので、脳機能回復に良い効果が見込まれるのではないか、といいます。

 
 もうひとつのアプローチは、人間関係の中での愛着形成。施設の職員や心理士、そして学校の教師などとチームを組んで、誰かが必ず少女に関心を抱いている環境を作り、幼いときに育まれてこなかった愛着の形成を促そうとするのです。

 問題を抱えた子が周りの子供との間に愛着が形成されたとみられる行動を取った場合。
 たとえば同じ施設の4歳の子がおしっこをしたので、着替えさせて、横に寝かせてやった。するとその行動を「是認」してやる。必ずしもほめる言い方でなくても構いません。でも、あなたは良いことをしたんだよ、それでいいんだよ、という意味のことを言ってあげる。すると、本人も「これでいいんだ」と思い、その行動が強化される。

 要は、「行動承認」なのです。「愛着のある行動」というターゲットの行動をきちんと絞り込めば、そこに「行動承認」を使ってやることで、愛着障害で脳機能の低下した子供さんのこともじわじわと良い方向に導いていける。

 非常に辛抱づよいプロセスと思います。また、そのとき使う「是認」の言葉は、「すごーい」みたいな、あからさまな、けたたましいほめ言葉では全然響かないだろうなとおもいます。放送では、「その子はあなたに頭が上がらないね」と、第三者メッセージと結果承認が混合したようなものを使っていたようです。

 
 おわかりでしょうか。

 今どきの、親御さんがスマホに夢中で子供さんを碌にみていないような時代では、子供さん全員がかるい愛着障害になってしまうのではないかと私は本気で心配しています。無反応/反応が薄い、だったり、行動の抑制がきかなかったり修正されるとキレてしまったり。(「反応が薄い」については実際、今上司の側から非常によく聞かれる話です。)そしてその子たちの育て直しに本腰を入れて取り組めるのは、少人数制を採用している大学か、あるいは企業に入社して良い上司の管理下に入ったとき、だけなのではないかと。幸運にしてそうでなかった子は、「生きる力のない若者」として見殺しにされるのではないかと。

 だがそこで、「行動承認」をきちんと理解している教員や上司であれば、その子を改善させられる可能性はあるのです。
 もちろん、もっと早い段階で、どの指導者もそういう介入ができるようであってほしいとせつに願います。

 だから「少人数学級制」。って言いたいなあ。


 
 また、これまで「13年1位マネジャー輩出」―リヨンセレブ牧様での事例を「13年目」のそれとみなさせていただいております―は、こういうメカニズムの積み重ねだったと思います。
 もちろん、ハイパフォーマーをもっと伸ばした事例も多いのですが、「下」のほうの人たちを底上げした効果も大きかった。それは、それまでの人生で親ごさんを含めて指導者に恵まれなかった人たちにとって、本当に「セーフティーネット」的な役割を果たしたでしょう。

 
 だから、この詭弁と混乱の時代に「行動承認」に出会って来た人たちへ。
 どうか、その出会いを誇りにしてください。そして、やめないでください。



正田佐与

 

 読者で、昨年も2回ほどこのブログに登場された「NYさん」から、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてメッセージをいただきました。
 NYさんからのご了解をいただいて、掲載させていただきます。


正田先生


 アドラー講演会、お疲れ様でした。あのように意見をお述べになるのは、大変な勇気と覚悟でいらしたと思いますが、会場にいらした方の中にも、正田先生の指摘から気づきを得て、覚醒された方がいらしたと確信しました。

 知人が発達障害時の放課後支援サービスを立ち上げることになり、昨日もその知人と施設運営の話をしました。
 発達障がい者のための施設に使いたいというと、そもそも不動産物件を借りることすらかなりハードルが高く、みつからないとこぼしていました。法律で支援制度ができても、結局はこのような現実を変革しなければ、実態の改善は進まないということだと改めて思い知りました。

 そして、こういう社会を変えていくことにつながる正田先生の発信は、やはりとても重要と思いました。

 また、その発信からまなび、承認を現実社会の中で実践していくことは、私たち一人一人の使命であるとも思います。本当の意味で「誰もが活躍できる社会」と言うのは、結局「承認社会」とでもいえばいいか、多様性と寛容が当然の社会なのでしょう。

 でも現実をみると、誰もが活躍できる社会を作ると口ではいいながら、国家が目指している社会は、真逆に向かっているのではないかという不安がよぎります。その不安を払拭するためにも、日々の自分の行動と実践のなかに、承認をしっかり意識して取り組みたいと思いました。



 
 とても嬉しいメッセージでした。
 読者の方はどう思われているかわかりませんが、わたしは決して本来すごく好戦的な性格ではないと思います。
 それでも、2つ前の記事の末尾のほうに書きましたように、叱られないほめられない子供さんたちのことを思うと、たまらなくて発言してしまったのです。
 そういうことをすると、かつ会場の反応も冷えびえとしていましたから、時間がたつにつれ気持ちが落ち込みました。
 そんなときにいただいたNYさんからのメッセージ。
 ただ、その中にはまた、新たな”課題”が含まれていました。

 以下は、わたしからNYさんへのお返事です:


NYさま
 ご返信ありがとうございます。
 お察しのとおり、今日はいささか落ち込んでいます。
(お天気のせいもあるでしょうが。。今日の神戸は昨日までの快晴から一転、雨です。そちらはいかがですか)
 NYさんのメッセージ、とても力づけられました。

 発達障害の施設を借りることについてお話のような軋轢があることは、お恥ずかしいことに存じませんでした。わたしたちの子供世代の1割が該当するのだ、ということがわかっていたら、差別することでもなんでもないのにね。自分の子でなくても親戚の子や友達の子、どこかに該当するでしょうに。

 おっしゃるように、今国家、それにアカデミズム、マスコミ、すべてが「リバタリアンと貧困社会」をつくるために走っているような、うすら寒いものを感じます。
 決して大きなことはできませんが、「承認」を言い続けることでせめて局所的にでも本物の良い場所を作っていけたらと思います。




 NYさんからはこのあとのメッセージで、

「不動産が借りにくいのところは、これは、発達障害に限らず、総ての障がい児者、また高齢者施設でも同様の問題はあるようです。また、数年前には、世田谷区のほうでは一般保育園の移転をめぐる住民トラブルが報道されていました。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/10/1009.html
このような報道もあったことから、ぜひ、正田先生には、今回の話を、発達障害に限らず障がい者、高齢者、子供などを含む包括的な視点で問題をとりあげていただければ、多様性と寛容、そして承認について、読者の皆様の思考が深まり変革のきっかけができるのではないか、と思う次第です。」

という”宿題”もいただきました。

 そう、わたしの視野が狭かったと言わなければならない。
 発達障害だけでなく、すべての障がい者、高齢者、子供さん、が排除の対象になっているのです。

 そのことは、「今に始まったことではない。昔からあったことだ」という反論がくるかもしれません。

 でも、優勝劣敗でなくより進化した社会になっていきたいではありませんか。
 差別を生むような、わたしたちの中に抜きがたくある不安感、それを乗り越える知恵が求められていると思います。


 わたしにはそんな力はない。ほんとうは、研修で関わらせていただく先を少し進化形の職場になっていただくぐらいしか、これまでも出来てこなかった。

 自分の非力さを恥じつつも、少しでも発信できることはしていきたいと思います。
 実は「承認」は「インクルージョン(包摂)」をさらに進化させた思想とよぶこともでき、「承認」の普及は弱者や異質との自然な共生のできる社会にもつながってゆきます。

 これまでもそうでしたが、これまで以上にそれを念頭に置きながら、発信をしていきたいと思います。

 NYさん、小さなことしかできませんが、許してくださいね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 また、お客様のところにリサーチをかけてしまいました。

 今年は統計調査へのご協力例がなかったので、研修効果測定はお客様へのインタビューのみになります。
 LINEの登場により、恐らく組織の上司部下関係は激変しています。そこに「承認研修」はどれほど役立っているのか、気がかりなところではありますが、

 結論からいうと、問題は起きていませんでした。というか治っていたようでした。

 あるお客様のところでは、若手に「LINE禁止令」を出しました。以前からLINEで組織や上層部に対する悪い噂や悪感情が広まる、という現象がありましたが、それに関してはリーダーから「禁止令」を出したそうです。グループを作ることまでは禁じられませんが、会社や部署について中途半端な情報を書き込むことはやめなさい、中には部外秘のこともあるので、ときっちり、全体に対しても本人に対しても言い、それ以来目立った問題は起きていないそう。

「手前味噌ですが、それはやはり『承認』導入後だからでしょうね」

とわたしは言いました。「承認」抜きで一足飛びに「LINE禁止令」を出したら反発を食うだけでしょう。「承認」で上層部に対する大きな不満がなくなり、かつ「やめなさい」という上司の言葉が素直にきける状態になった、ということでしょう。

 こういうのは、例えば小中高生へのスマホ対策で「自分たちで話し合いをさせルールを決めさせる」というノウハウもあるわけですが、それを杓子定規に当てはめるわけにもいかないのが会社というところだと思います。会社は会社で、自力で試行錯誤しながらやり方を模索しないといけません。学生よりははるかに求められる規律の質が高い世界です。

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 というわけで、「承認研修」はLINE時代であっても上層部と若手〜中堅層の分断を防止する、と聴き取りの結果もそういう結論です。

「先生、何をいまさら気にしてらっしゃるんですか。『承認』は間違いないと私たちは思っていますよ。堂々とされたらいいじゃないですか」

「いえ、自分が慢心していないかと怖いんです。『これでいい』と思っていいのかずっと不安です。本当は皆様のところで起きた化学変化をすべて動画か何かに残しておきたいぐらいなんです。それを常に疑っていないと、本番の研修で短い時間の中で『皆さん、これさえやっていただければ大丈夫です』と確信をもって言えない、と思っていまして」



 ほんとうはここで「実は若手に新たにこういう問題が起きていまして」という話にでもなれば、「じゃあ今度は若手向けに追加でこういう研修を」という次のお仕事の話になったのかもしれないですけど。

 商売下手の正田は新たなビジネスチャンスを創出できませんでした。残念残念。うそです。

 結論としては、「承認研修」のほうを「史上最強の研修」として、それでも最適条件というのはありますから、失敗のないように大事にやっていただければいい、そういうお話です。

 それを打ち合わせ段階でしっかりお伝えすることが業者の誠実さだと思いますね。


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 正田は、「承認」以外の原則をあまり立てません。一応、「承認中心コーチング」といって、「傾聴」や「質問」などのトレーニングメニューも持っているんですが。

 お客様の現役マネジャーたちは、実務の中で臨機応変に「承認」以外の補助線をいくらでも引いていると思います。本来は、仕事の本筋の何をどうするべき、という原則があり、もう1つの原則として「承認」を導入し、そしてその場面そのお客様その部下についての無数の補助線があります。

大原則と無数の補助線と。拙著『行動承認』が「承認研修」の再現のパートと大量の事例で出来ているのは、各事例の中にマネジャーたちが承認の実践にプラスアルファどういう補助線を引いたかが入っているからです。

 あまりいくつも原則を立てると、たとえば先日の「カウンセラーはクライエントに依存させない」という原則にもいくらでも「除外規定」を設けないといけないように、話がややこしくなってきます。除外規定のあまり多い原則は立てないほうがよろしい。

 ところが、「承認」はほとんど除外規定がないといってよい原則です。これも実際にやってみていただけるとわかります。

 たぶん、そういう構造のシンプルさも、受講生さん方の高業績につながっていると思うんですよね。

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 今年は、NPOをたたみ財団を設立しその財団もたたんで個人事務所、という展開になりました。展開というより衰退の歴史のような気もしますが―、

 商品力としては、どう転んでも「承認研修最強」。お役立ちを志向するなら、これをやり続けるしかない。しかし世間様は飽きっぽくお客様も(真理にもかかわらず、そしてメリット多大にもかかわらず)飽きっぽく。正田自身もモチベーションを保つことはなかなか難しい。

 
 そんななか今年も聡明なお客様方にめぐまれました。正田に依頼してくださるお客様というのは、「内省力」のすぐれた方々なのだろうと思います。問題が起きている、それはマネジメントの問題である、そしてこういうトレーニングが必要だと思えるというのは。
 それがないところには、正田はそもそも営業に行くことはできません。

 そして、秋以降は複数のご同業の研修講師の方から、「行動承認は本当だと思う」というご連絡をいただきました。
 残念ながら、全国展開でセミナーをやって、という晴れがましい家元ではないので申し訳なく。

 地味ですが、この世界のほかの何よりも、この社会を建て直す力のあるもの。そういうものと出会ったときに、地味を承知で盛り立てる覚悟のある方でしたら、大歓迎です。


 わたしの生きているあいだに大きな潮流になることがあり得るのかまったく見当もつきませんが、たぶん来年もまだやり続けます。


正田佐与


 きょうは52歳の誕生日。
 先日来、52歳52歳と自称していましたが、誕生日の少し前から自称してしまう癖があるのです。まあこの歳になると変わらないですよね。
 
 親しい友人(女性)からいただいたメールをご紹介します。聡明な、やさしい言葉遣いの方です。

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正田さま

お誕生日おめでとうございます!
これからもたくさんのしあわせが
正田さまのもとにやってきますように・・・!
゜ヽ(*´∀`)ノ゜♪


その後、お元気でいらっしゃいますか。
財団解散の手続き、大変でいらしただろうと思います。
(略)
本当にお疲れ様でした。

ブログ、毎日拝見させていただいております。
とても濃密で今の私の心にずんと響く大切な内容を、
いつもありがとうございます。

私の職場では、以前お話ししておりました
担当の長時間残業のトンネルは、やっと抜けることができました。
まだまだ新しい仕組みは頼りないところも多く気を抜くことはできませんが、
一番過酷な時期を彼らは乗り越えてくれました。

ともすればじっと見守るしかできない私が、
せめて、と心掛けていたのが、「行動承認」でした。
彼らの頑張りを、きちんと見て、認めて、
それをできるだけ周りにも伝える、
ひたすらそれだけを心掛けてきました。

その結果、ひとりも倒れたりすることなく、投げ出すことなく、
モチベーションを保って、なんとかここまでくることができました。
これからもしっかりひとりひとりをみつめていきたいと思います。

本当にありがとうございました。
ご多忙のことと思いますが、お体には十分お気をつけて。

今日が素敵なお誕生日でありますように。

****

 彼女の職場では、1万人余の組織はじまって以来のシステムを導入し、彼女はそのシステムを司る職場の発足直後から長の立場でした。

 若手担当者の長時間労働、それはWLBにうるさい昨今ではいささか「長」の決断力の要ることでした。その状態がもう2年以上にわたって続いていました。数か月に一度、そんな職場の様子を伺うことができました。

 
 よくこのブログでは「10何年1位マネジャー輩出」というような言い方をしますが、そういうのではない、長期にわたる地道なプロジェクトを1人も欠けず、倒れず完遂する、一番過酷な時期を乗り越える、という達成もあるのです。
 
 責任感の高い細身の彼女の頬に苦悩の色はあるのか?会うたび、毎回わたしにはよくわかりませんでした。ともかく時間のかかることを前提に耐えているようにみえました。

 その中に日々、ひっそりと「行動承認」があったことを、あらためて報告いただくと小さな感動をおぼえるのでした。


正田佐与


 今年、このブログに2回登場された「Y子さん」(仮名)から、また丁寧なメールをいただき、それへのわたしのご返信を紹介します。

 Y子さんの登場記事


「研修営業」をしないわけ、ブログ発・幸せな発達障害部下? (9月8日)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922006.html

働くことの重さと貴さ、幸せ連鎖の頂点、そして自信のない正田(9月18日)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922570.html


 Y子さんが、メールの中で

「マネジメントに愛のブログ、心に響きました。
承認は愛の技術だなあと、つくづく感じております。」

と書かれていたことを受けてのものです。


****

____さま

メールありがとうございます。正田です。
札幌は40cmの雪ですか。__さん、お元気でお過ごしですか?

私は今は財団の解散登記の雑用などをしていて、
こうした作業は少し気がふさぎます。

(中略)

ブログ読んでいただきありがとうございます。
__さんはじめ、今年は研修業の方の中から
行動承認を良いと言ってくださる聡明な方が登場されました。

そしてドイツ思想がかなり入ったので
研修業としては、道なき道だなあと思っていたところ
思いがけず、多くの方から支持していただきほっとしています。
メジャーなブログに比べるとささやかなものですが―。

「マネジメントに愛」は、
これも研究者の方からは賛同を得られないので
現場の方々からのご支持を頼みにしてすすむしかないことだと思います。
「愛の技術」と言っていただいてありがとうございます。
思うのですが、「愛」とか「やさしさ」と言えば、
広く賛同は得られるのですが現実の力にはなりにくい。
本気で現実を変えようと思ったら「力」に変換する必要があり、
そのとき「承認」はその受け皿になりうる概念なのだと思います。

財団は解散しましたが、
いつか、本当に良いと思って下さる専門職の方が集まって
何らかの形にできる日がくるかもしれませんね。

先般お会いしたヘーゲル研究の札幌大学の高田純教授は、気さくな良い方でした。
__さんもしご興味があれば、コンタクトとられてみてください。


それでは
いつかお会いできることを楽しみに。


****


 ここでは、「マネジメントに愛」と考えていることに加え、過去のY子さんとのやりとりならびにブログ記事に出ていたのでメールでわざわざ触れなかったのですが

「社会に愛を伝播させるには、マネジメントに働きかけることがもっとも効果が高い」

と考えていることも、付け加えないといけないかもしれません。


 そういうのは経営者さん方は本来預かり知らないことで、そんなのは国とか自治体がやってくれよ、と思っているかもしれませんが。
 でも結果的には、そうなるんです。

 (これも研究者さん方に理解していただいたり裏づけていただくのは難しいことなので、ただ「実感」として、現実に起きていることを丁寧にご紹介しながらすすむしかないことなのでしょう。)


 ささやかな身ではありますがそれほどの大きなものに関われる人生であることに感謝していたいと思います。

 こういう感覚をともにできる友人とつながっていられることにも。





※なお、研究者さん方が「マネジメントに愛」という考えへの抵抗が強いのは、自身が大学教員であり講義対象が大学生さんである、という制約が大きく影響していると考えたほうがいいかもしれません。
 わたしでも、仮に今から社会に出ていく大学生さんに向けて、
「マネジャーに承認教育を施すことによって愛のあるマネジメントとなり、成員のパフォーマンスが上がり組織のアウトプットが上がる」
てなことを講義できるか、というと、いささかためらいをおぼえます。
 大学生さん〜若手社会人は、それに関して「受益者」の立場であります。「実践者」ではありません。
 マネジメントにそういうものを期待して、虫の良い考えで社会に出ていったら、不幸になるのは目に見えています。

 しかし「承認教育で強烈な業績向上が起きる」という現実は、10数年前から厳然としてあるわけです。
 大学や研究機関は、それを証明するにふさわしい機関では恐らくないということです。

 そしてまた、目を転じれば、わが国には「会社は家、従業員は家族」という言い方はもともとあり、もちろんそれは「家父長制」「私物化」などとも繋がりやすいものではありますが、「家族愛」に近い感情的距離の近さは現場では普通にあったわけです。ただの家族愛ではなくそこに「公正さ」を持ち込んで、かるく修正を加える、という効用も「承認」にはあります。


※なお繰り返しになりますが正田も、あからさまに「マネジメントに愛を」という教育をしているわけではありません。「行動承認」というごく簡単な行動をマネジャーの皆さんにやっていただき、それが結果的にほぼ「愛」と同じ効用―オキシトシン値の上昇とか信頼感のアップとか規範の取り込みや行動量創意工夫の増加とか―をもつことを実際に体験してもらう、ということをやっているだけです。



****

 フェイスブックで新しくお友達申請いただいた方(複数)から丁寧なメッセージをいただき、このブログの「発達障害」関連の記事を読まれ「当事者でないのにここまで深く探求している」ことに感銘を受けたことが述べられていました。
 いや正田も限りなく怪しい、「半当事者」のようなものだと自分で思っていますが(苦笑)

 大手メディアが「触らぬ神に祟りなし」と避けているぶん、いまだに「知っている人だけが知っている」話題です。(研修でご紹介すると「初めてきいた」というリアクションがかなりあります。)でも日本はそんなことをやっているから発達障害への学校・職場の対応が先進国の中でも遅れるのです。

 このブログの発達障害関連の記事の中には、個別には、ちょっとキャッチ―なものもあるのですが、そこだけを見ずに全体を真摯なものとして受け止めていただいたことに感謝でした。


正田佐与



 気がつくと今日は勤労感謝の日。
 読者の皆様、いい骨休めをされていますか。

 正田は先週末、お客様にお電話したところ色々収穫がありました。今年前半に「承認研修」を受けてくださったお客様3社。

 3社様とも、「フォローアップお願いします」というお話になり日程やプログラムのお話をさせていただきました。このブログやメルマガはこのところ「思想」づいていますが、それはマイナス点にならなかったよう。

 このほか、研修後の受講生様方と組織のご様子を伺うことができました。

「人に任せるという点で難のあったリーダーが、今は任せることができ、上手く組織が回っている」
というお客様。
 
「新装オープンのお店が大賑わいのほか、新しく人が3人入った」
というお客様。このお客様のところでは人材の供給源である専門学校と上手く連携ができ、専門学校からは「あそこに行った子は学校時代よりもいい顔で働いている」と評価されているそうです。

 またもう一社様では、
「概ね良好なのだがスタッフの妊娠が続けて3人わかり、人繰りでバタバタしている」。

 それは大変…。
 前にも触れたと思いますが以前から、「承認」のお客様のもとでは社員さんの結婚、出産、といったイベントは多いです。それがもとで優秀な女性スタッフが残念ながら「寿退社」という事態になることも、珍しくありませんでした。

 (そこは辞めずに残ってくれよ、と思いますが、もちろん慰留はしているわけですが、女性の「責任感が高い」という資質は、「両立はムリ」「中途半端はイヤ」という決断にもつながってしまいやすいようです。男性の育児参加が望まれるところです)


 まあ、「承認」の定義の1つの大きな要素として「愛」が入っているので、そういう現象も今はわからなくないのです。職場が愛や信頼という気恥しくなるようなものに満ちたところであると、プライベートで異性(同性?)を愛したりパートナーを愛したり、ということにも自然とつながります。映画「マイ・インターン」にもそれを匂わせるシーンがありました。

 先日の藤野教授との対話の中で、

「これまでは研修の仕事の中で『愛』という言葉を表立って使ったことがないんです」

「それは使わないほうがいいでしょう」

という話になったのですが、
 一方でこのブログのタイトルは10年前から「愛するこの世界」です。何を企んでいるかバレバレ、であります。

 たしか10年前、突然「降りてきた」ように、このタイトルが頭に浮かんだのです。大丈夫かなあたし、と思いながら、それまでのタイトルから変更してしまいました。

 (一方で最近、気がつかれたかもしれませんが、「コーチ」の単語をとり「正田佐与の愛するこの世界」としました。) 


 先日は、加東市商工会様での3回研修の中で、1回目に「承認の定義」を掲げたときにはまだ、「愛」を含む「ホネット承認論」を入れてませんでした。
 そこに触れずにマネジャーたちに「承認」を実践してもらい、3回目になってから「ホネット承認論」の講義を入れました。


 経営者様方、社員様が「人を愛する主体」であったほうがいいですか、ないほうがいいですか。

 ホネットや藤野教授は、家族以外のところに「愛」を適用するのに反対の立場です。
 しかし、わたしが思うにここが学者さんと企業のマネジャーの立場の違いで、部門を束ねるマネジャーは研究の世界よりはるかに部下との「一体感」が必要になります。疑似家族のような磁場をつくります。

 そこに「濃淡」が出ないように、また「不適切な関係」にならないように、クギをささないといけませんね。藤野教授ともそういう話になったのでした。

 録音起こししなくちゃ・・・。




正田佐与

 このところ嬉しいお出会いが続きやりとりをさせていただいています。


1)ヘーゲル研究書の『承認と自由』の著者である札幌大学の高田純(まこと)教授(西洋哲学、環境倫理学、教育哲学)からいただいたメールへの正田からのご返信。

高田先生、思いがけず、ご丁寧な温かいメールを頂戴し、感激しております。社会思想史学会でお出会いさせていただいただけの素人学習者に嬉しいお言葉を有難うございます。

私は今年に入ってヘーゲルを起源とする思想としての「承認」を理解したいと学びはじめ、
幸いにも先生の御本『承認と自由』に出会わせていただきました。
ヘーゲルの年譜とともに思想の変遷、発展がわかり、大変助けになる本でした。
高田先生が徹底した原典の読み込みとヘーゲルの懐に入った理解に基づいて初学者への親切なガイダンスを書かれたことも、素人には伝わってくる御本でした。

(ご献本させていただいた)拙著は昨年時点のものなので、まだヘーゲルの学びは入っておりません。
それでも、無意識のうちに、先達の方々の「承認」に込めた思いを汲み取ってすすんで来させていただいたのではないかとひそかに自負しております。
私の段階での課題は、どうやってこの大きな思想を、特別哲学倫理学の素養があるわけではない企業のマネジャーたちに、無理なく実践レベルで共有してもらえるか?にあります。
「行動承認」は、その試行錯誤の中で生まれてきたものです。

先生が見事に看破されたように、「行動」を承認するということは相手の意志、気持ち、アイデア、意見等を承認するということとイコールです。実践の中では自然にそのようにつながってまいります。また、ホネットが危惧したような、「属性の承認」によって差別を固定化させるというような負の現象も、「行動承認」ですと無理なく回避することができます。
多分これは思想のスケールの大きさに比べれば現場での「小技」のようなものなのですが。


―高田教授は、北海道哲学学会会長を務めるなど斯界の重鎮のお1人です。風貌や空気感は、それこそ「市井の素朴な哲学者」というもの。痩身で、ひょうひょうとした雰囲気の方です。


2)1つ前の記事にある、講義原稿を送ってくださった一橋大学の藤野寛教授に宛てたメール。

大変お世話になっております。
正田です。
藤野先生、あれから、録音起こしがなかなか進まず
先生に申し訳ない気持ちでおりましたところ、
メール有難うございます。救われた気分です。
講義原稿、拝見させていただきました。貴重なものを有難うございます。
こういう風に先生は講義原稿をお作りになるんですね…。
(大学の先生の講義録も、初めて拝見しました。)

終わりまで読ませていただきましたら、
経営学の中の承認法という現世の垢にまみれたものを、

「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。

このように位置づけてくださったようで、
とても光栄です。

先生の講義原稿の中にもありましたように、
ハーバーマスについては、私もいささか不満に思うところがあります。
「コミュニケイション行為」「討議倫理」をいくら読んでも
(まだまだ浅い読解とは思いますが)
私どもが現場でジタバタしているような、
「こうすれば問題が起きなくなる(最小にできる)」
という、ああでもないこうでもないという思考と重なってこないので、
歯がゆいのです。
そんなに現実問題の解決と遠いところに身を置いていていいのか?
と思います。
それに比べると、ホネットのほうがもう少し現実界に近く、
親近感が持てるように思います。
(子供レベルの感想と聞き流してくださいね。)


「承認依存」にまつわる議論についても、
今まだこの件についてギャーギャー言っているのが
ほとんど私一人(ともうお一人)のようなものなので、
こうして位置づけていただけることを心から有難く思います。



それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

 ここもなるほど!と思いました。
 そうです、「愛」が位置づけられていないのです、というのは、経営学全体もそうですし、最近も某有名大学の「フィードバック研究会」において、私は出席していませんでしたがそこで取り上げられた論文を紹介されたところによると、「フィードバックによって人は改善される、あるいは場合によってされない」の議論の中に「愛着関係」の要素が全然入ってこなかったので、こういうことをわざわざ取り上げる必要があると思う研究者さんがいないんだな、と思っていたところです。
 藤野先生の言葉でこのように概観していただくと、腑に落ちますね。なぜ「承認論」を私も10年も取り組んでこれたかわかる気がします。


 実際の講義にはこの原稿にもっと枝葉がついていたのでしょうか。聴講できた方々が羨ましいです。

 手前味噌ですがわたくしのしている「行動承認」は、「承認論」に心理学の「行動理論」をドッキングした改良品のようなものです。単純なものなので世界には同じようなことを考えた方がいるのではないかと思います。この方法だと「属性の承認」が差別につながるというような、予想される弊害をほぼ回避でき、非常に安定して実践してもらうことができます。
 ホネット自身がそこまで考えなかったというのはちょっと意外な気すらしますが、そこまで懇切丁寧に現実にコミットする必要はない、と考えていたのでしょうか。


批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。

 このフレーズもいいですね。ホネット自身が何と言うか、きいてみたい気もします。



 藤野教授のお会いしてみた人となりというのは、文章から想像する雰囲気よりは「かたい」感じ。批判、懐疑、など人を寄せつけない感情の働きを外側に感じさせるけれども懐に入ると温かい感じ。そしてそもそものお出会いがジェンダー論のリレー講義の論考集であったように、女性に対して特別馬鹿丁寧ではないけれども配慮があり、一切の「不敬」が入りこまない方であります。



 拙著『行動承認』は、あまりやたらと色々な先にご献本していません。内容が愛する教え子さんたちの汗と努力の結晶なので、「実践」「成果」の価値のわからないタイプの人に手渡したくないのです。

 「承認研究」の先生方には、わかっていただけたみたいです。

  たぶんわたしの「承認研修プログラム」も影響し影響されることによって、少しずつ変わっていきます。


 きのうで、一般財団法人承認マネジメント協会は解散しました。
 今日からは個人ということになります。


正田佐与

マイ・インターン


 お友達が「レディースデーに行ったらコメディーなのに周囲の女子が泣いていた」と推薦していた「マイ・インターン」(原題’The Intern’、ナンシー・マイヤーズ監督、2015年)。

 ご存知、ロバート・デニーロ扮する70歳の老インターン、ベンがネット通販企業に入社し、問題解決していくお話。男性女性問わず、見終わると元気になる映画です。

 これが、何となくハートフルな映画なのか、それとも深遠な思想があるのか。どちらなのだと思いますか?

 本日はこの映画を勝手に思い切り「承認」で読み解いてみたいと思います。
 かなり「ネタバレ」を含みますので未見の方は読まれないほうがいいかも―。


 この映画の舞台は、1年半前に創業しあっという間に従業員220人の規模になったアパレルのネット通販企業。

 ここには、IT企業によくある「祝祭感覚」がもともと存在します。
「インスタグラムでいいね!を2500獲得しました」ワーッとみんなで拍手。社員一人一人のお誕生日を祝う。

 活気があるが、混乱している。温かみはあるものの微妙な「承認欠如」が漂っている状態から始まります。

 主人公はアン・ハサウェイ扮する女社長のジュールズ。美人で頭の回転が速く、配慮に満ちて魅力的な人柄ですが予定はいつもパンパン。スタッフが次々とジュールズに話しかけますが、どの案件に対してもジュールズ自身の時間が足りません。物語は、このジュールズを中心に放射状に作られる人間関係に、それぞれベンがからむことで変化がもたらされます。

●ジュールズ―ベン
 70歳のベンがインターンで入社し、社長付になったことに、ジュールズは当初不満顔。高齢の男性に良いイメージを持っていないようです。ベンが普通以上に目ざとい人物なのをみると、ベンを配置転換させようとしたほど。しかしベンが献身的で有能で出しゃばり過ぎず、良い人柄なのを知り、徐々にベンに信頼を寄せます。自分の家族関係をオープンにし、さらに重大な秘密と心の迷いまで打ち明けるようになります。

「自分の代わりになるCEOを」ジュールズは気の進まないまま、CEO候補と面接を繰り返します。浮かない顔で面接に出かけるジュールズに、ベンが声を掛けます。
「1年半前創業し、220人の会社に育て上げたのは誰の偉業?」
 君は君の偉業を思い出せ、というメッセージ。きれいに「行動承認」になっています。

●ジュールズ―ベッキー(秘書)
 ジュールズと同様ベッキーも働き過ぎ。そして「認めてくれない」が不満の種です。
「1日14時間も働いてるのにジュールズは理解してくれないの!私、ペンシルベニア大経営学部を出てるのに!」と泣きじゃくります。
 ベンはベッキーの仕事の片づけを手伝い、ジュールズに対して顧客動向の分析をプレゼンする際、「ベッキーのお蔭だ」「ベッキーは経営学部卒だから」を連発、ベッキーの貢献をアピールします。「忘れてたわ。褒めてあげなくちゃ」と応じるジュールズ。最も頼りにしている右腕の貢献は、酷使していても忘れがちになるのは洋の東西を問わないものでしょうか。
 劇中後半、余裕が生まれたベッキーはフェミニンな花柄の服を着ています。ベンにも「顔色が悪いわ」と労わる余裕を見せるように。

●ジュールズ―マット
 夫のマットは専業主夫となり、一人娘のペイジを育てています。妻の辣腕ぶりに自ら家庭に入ったマット、しかし内心は鬱屈しています。実はCEO探しも「夫婦の時間を取り戻したい」というマットの希望。ベンはマットに、「ジュールズには幸せになってほしい。物凄く頑張ってきた人だ」。
 マットにとっての「承認欠如」はある残念な行動を生みます。そこからの夫婦の再生は可能なのか?脚本も担当したナンシー・マイヤーズ監督は実生活ではパートナーと別れているそうなのですが…。

●ジュールズ―ママ友
 多忙で夫を専業主夫にしてしまっているジュールズに、ママ友の目は厳しい。ある朝、ママ友からジュールズに「ワカモレを18人分お願い。忙しいだろうから市販のでいいのよ」。「あら、作るわよ。大丈夫」とジュールズ。ベンの待つ社用車に乗り込んでジュールズはドッと疲れた表情。(ちなみにワカモレとはメキシコ料理でアボガドをベースにしたディップのようなものです)
 ペイジの親友、マディのお誕生会にはマットの病気でベンがペイジを送ってきました。ママ友たちに「ジュールズの部下です」と自己紹介した年上男性部下のベンに、ママ友は「あら、ジュールズってキツイ(タフ)ってきいたわ」。ベンはにっこりし、「確かにタフだ。だから彼女は成功した。あなた方も誇りに思うべきだ、友人がネット業界の風雲児だということを!」。
 ここでは、「公正な評価」と「嫉妬の克服、理性による祝福」という、感情に流されるとむずかしい舵取りを「承認ルール」で乗り切ろうよ、というメッセージがあります。

●ジュールズ―CEO候補たち
 劇中では3人のCEO候補と面談します。1人目は、ジュールズの言葉を借りると「女性差別主義者で、イケ好かないヤツ」。2人目は、「アパレルを『ギャル商売』と呼んだ」。3人目は、「礼儀正しくて、考え深い人」。女性社長のジュールズとその業種をリスペクトするかどうかが、大きな評価基準でした。

●ベン―若手男子たち
 ベンも入社後、自分の周りに磁場をつくります。IT企業の若手男子たちにとってベンは格好のメンター。彼女とメッセージでこじれた男子には、「リアルで話せ」。セレブの家に宅配に行くことになった男子には「襟のあるシャツを着ろ。シャツの裾はズボンに入れて」。下宿探しが暗礁に乗り上げた男子は、ベンが自宅にしばらく泊めてやります。

●ベン―フィオナ
 社内マッサージ師のフィオナとは恋愛関係を育みます。
 ジュールズとベンは上司部下として急速に信頼関係を作り接近しますが、それが男女の関係になるとは限らないのです。というメッセージは監督インタビューによると、実際に込められていたらしいです。

●最後の判断
 最後は、「承認」が判断基準になります。だれに対する「承認」?何が最優先すべき「承認」?それがカギでした。
 大団円はご都合主義に見えるかもしれない、しかしプレーヤーの全員が自己理解を徹底し、共通ルールを理解しているとこういう解決もあり得るかも。



 と、メカニズムをわかっている人がみるとこの映画聞かせどころのセリフは全部「承認」あるいは「承認ルール」じゃん、と手の内がわかるのですが、それでも感動できるし爽やかな感覚が残ります。イーストウッド監督の「インビクタス」と並んで「承認映画」として推したいゆえんです。

 ナンシー・マイヤーズ監督は1949年生まれの団塊世代、アクセル・ホネットと同い年ですが何か関係あるのでしょうか。ネット上の監督インタビューでは残念ながら承認’Recognition’との関連はわかりませんでした。成功した女性の男性との悩ましい関係、女性同士の悩ましい関係、リアリティがあります。「上手く解決してほしい」という祈りがこめられているかもしれません。

 ベンチャーに詳しい人がみると映画冒頭の会社の様子はスタートアップ時のベンチャーの典型的なもの、ジュールズの異常な働きぶりもベンチャー起業家ならよくあるもの、です。で支援のプロからみるとどこかの時点でそこにコーチングまたは「承認ルール」を導入すべきだというのは火をみるより明らかなのですが当事者には中々みえないものです。そして、往々にして外部からの介入を拒みます。

 そこでベンのような魅力的な高齢者が入社して出過ぎずにさりげなく介入してくれれば。健康な頭脳をもった高齢者の働き方の理想をみせてくれるのでした。


 

正田佐与

 佐賀県唐津市の研修業・Training Office代表、宮崎照行さんから、「行動承認マネジメントを学びたい」と嬉しいメールをいただきました。

 ご興味をもっていただいたきっかけは、宮崎さんの仕事上の実体験だったということです。以下、ご了解をいただいて宮崎さんのメールからの引用です。:


〈行動承認マネジメントに興味を持つようになった経験〉
現在、業務の一つとして高校生に対象にビジネスマナーの研修を担当しております。
私が依頼をいただく高校様の多くは、一般的に教育困難校といわれている高校様でございます。ほとんどの生徒は、いわゆるヤンキー(死語?)といわれる生徒さんです。
以前の研修スタイルは、「目標を持つことの大事さ」「価値観を大切しよう」という内容でしたが、彼ら(彼女ら)にとっては、「それがどうした?」と意に介せず研修に参加しようとする意識が非常に低い状態でした。
このままではいけないと感じ、彼ら(彼女ら)の行動に対する承認、例えば「皆さんが話しを聞いてくれるので、こちらは話しやすいよ」「面倒くさいと思っていたお辞儀、すごく綺麗で格好良かったと、やればできるやん。もっと格好よくしていこうか」
など私が感じた事実をフィードバックすることで、真剣に練習に取り組むようになりました。(感受性豊かな生徒さんたちに対し、おべっかを使うと見透かされてしまいます)

上記のような強い経験をしましたが、何分、我流のため体系的に学習方法を確立できておりません。
よって、もっと行動承認マネジメントを深く学びたいと思った所存でございます。



私見ですが、「承認」の難しさは「テクニック」レベルで捉えようとすると効果が薄くなると思います。例えば、「こちらの話を聞いてもらうために、承認のスキルを使って振り向いてもらおう」や「こちらが意図する行動をとってもらうために、承認のスキルを使えば意図するように行動してもらえるのではないか」など利己的な観点から「承認」を捉えようとすると、うまくいかない気がします。一方で、昨今の研修素材はどちらかというと「テクニック偏重」「即効性偏重」が受けるようです。だから、そのような枠組みからいくと一般的なものではないのかもしれません。しかし、「人」はそう単純なものなのでしょうか?だからこそ、「承認」を使用する側は「スキル」を超越したものを構成していく必要があると考えています。




 嬉しかったですね。
 わたし自身は学校の生徒さん相手の実体験がありません。マネジャーさん方のご報告から、新卒の方にも著効があるようなので、もっと若い学生さん方にも上手く行くだろうな、とは思っていました。

 やっぱり実体験のある方は、言葉の力が違いますね。

 正田からのお返事です:


宮崎さんの教育困難校でのご経験を大変興味深く読ませていただきました。
貴重な体験をされましたね。
教育分野での「行動承認」の応用経験は、まだ私にはありません。
ただマネジャーたちの実践から、新卒の方にも非常に有効なことから
学生さんにも有効なのではないかな、と類推するばかりです。
大学では、関西国際大学での松本茂樹先生の実践があります。

お問い合わせいただいた、行動承認を体系的に学習していただくということですが
オープンセミナーは、力不足のため現在開講していないのです。
もし、書籍でもよろしければ
拙著の『行動承認』(パブラボ社、2014年)は、ご参考になるのではないかと思います。
スキルとしてはごく簡単なものですので、宮崎さんでしたらすぐ習得していただけると思います。

こうしてご理解者の輪が広がることは幸せなことですね。
世間一般では、「承認」は決して一般的ではありません。
心無い中傷をされることも多いです。
でも宮崎さんが体験された、学生さん方の目覚ましい変容は多分本物です。
どうぞ確信をもって進んでいかれてください。
若い方々に本当に必要なものを、宮崎さんは提供されたのだと思います。
今後の学生さん方の人生に大きな影響を与えていただけることでしょう。

私は力不足のため、財団を今月21日には解散し、個人事務所に戻ります。
それでもこうして、
確信をもって実践される方が育っていかれることは心強いです。
この手法はこの国を建て直す力のあるものだと信じています。
どうか宮崎さんも、担い手になられてください。


 
 こういうときに、「書籍でよければどうぞ『行動承認』で…」と書けるように、『行動承認』の本は作られていますから、つまり真摯な学習者・実践者の方のためのテキストとしては手前味噌ですが良く出来ていますから、まあ悔いのない作り方をして良かったナと思います。

 
 そして、今はわたしはリビングの片隅にホネットハーバーマスヘーゲルの本を60cmほど積み上げて満足もといさあ読まなくちゃナと思っているところですが、
 それはそれとしてやっぱりこういう実践の現場の手触りを忘れたくない。
 理論は理論として、一方で生身の「人」が何を求めているのかを。
 それは、ドイツ観念論フランクフルト学派で物足りなければ科学哲学も援用すると思う、とにかく現場の「人」のことを一番たいせつに考えていたい、と思うのでした。そこから逆算して発想したい、と。
(けっして今の時点で理論に不満があるわけではないですよ。)



 宮崎さんへのわたしのメールにも書きましたが、

「この手法はこの国を建て直す力のあるものだと信じています」

これはわたしが嘘いつわりなく日々思っていることです。
 
 そして宮崎さんが気づいてくださっていたように、「行動承認」は極めてシンプルなもので、表面的に学ぶことはたやすくできます。むしろそのあまりのシンプルさゆえに、軽んじられ「いろんなその他の手法と同等かそれ以下」のように見なされるきらいがありました。
 ところがそれは実は巨大なコンテンツで、講師あるいはマネジャーの人としての「ありかた」もまた問われますし、加えてわたしが無意識に「認識論」や「討議倫理」や「正義の判断基準」にまで手を広げていたように、日常のあらゆる場面をカバーし得るものです。そして学び手もその巨大さを感じながら学んでいただきたいものです。

 
 しかし心身ともに衰弱している52歳。(ほんとは、52歳になるのは来月ですが)

 生きているうちにこれの全容を教育プログラムとして完成し、商品化できるのかどうかは謎です。



正田佐与

 さて、「藤野寛論文シリーズ」を終えてマネジャー教育の「行動承認」の教師である正田がおもうこと。

 ここでは、

●わたしが経験した「承認をめぐる闘争」
●実践者たちの強さと脆弱さ

という話題を書こうと思います。


 「承認教育」にも、「闘争(葛藤)」の側面があります。52歳女の正田はそれの当事者となり続け、実はそのことにもうかなりくたびれてもいます。

 その「疲れた」という自分の中の正直な感覚も含め、これまでに経験した「闘争」について、この機会に書いておこうと思います。
 たぶんそれは歴史の一コマで、記録するに値することだと思うのです。


 もともとホネットが「承認をめぐる闘争」というとき、正田のやるようなマネジャー教育が「与える承認」を社会に供給するという事態を想定しているのかどうか―。
 藤野論文にも「承認は「認められる」という受動態であるところに独特の意味がある」ということを言っていて、「与える承認(=能動態の承認)」が、そこで想定されているのかどうかわかりません。
 
 でも、「与える承認」をマネジャー向け教育プログラムとしてご提供し続けてきて、10数年来強烈な成果を出し続けてきたのは厳然たる事実です。

(ちなみに、「学術的に検証」してもらうのはもう、諦めています。だって少々の学者さんが想定するような業績向上のレベルではありませんもの。論文書いてどこかに出しても「捏造?」って言われるだけで、学者さんにとってもメリットないと思います。
 学者さんたちがやるような業績1.05倍とか1.1倍とかの程度の、「学術的に検証された」教育プログラムより、民間療法の当方のほうが「はるかに上」だ、ということです)

 さて、「与える承認」を社会に供給するには、社会の上のほうの階層に働きかけないといけません。経営者、マネジャー…あたりに担い手になってもらわないといけません。
 そこで経営者教育、あるいはマネジャー教育、という選択肢になるわけですが、その市場には独特の流通のルールがあり、購買担当者は独特の人格、独特の利害関係をもった人たちであり、一介の主婦から出発した正田の参入は容易ではありませんでした。

 以前にも書いたと思いますが正田が初めて勇気を奮い起こして「法人営業」にいった先の購買担当者は、営業資料を投げ返したものです。「主婦」の正田が、「でもわたしの生徒さんは業績1位なんです!」てなことを言うからです。その件はいまだにトラウマになっています(苦笑)

 正田が経験してきた「闘争」というのは、そうした「社会の上層部」に働きかけようとする際の参入障壁のようなものであったり(「無視」「軽視」にカテゴライズされるでしょう)、いざ参入したあとも起こる妨害であったり、またその参入の困難をいくら訴えても理解しない周囲の人の鈍感さとの間の葛藤であったり、します。
 参入障壁を詳しく言うと、そこには関西の風土特有の、「お爺さんコンサルタントをありがたがる」気風も影響していたと思います。より特定すると、「団塊コンサルタント」ですけれど。その方々が今の時代到底通用しないような、イケイケドンドンの論調のリーダー研修を行い、それは受講生がまじめに取り組めば取り組むほど死屍累々になるようなものでした。そういう類のものがメンヘル疾患や自殺、パワハラ訴訟をつくりだしていないか、わたしなどは本気で危惧しますが、まあそういう因果関係に思い当たる人はいませんナ。
 また下手にわたしのために動いてくれた人びとが動いた先で「憤死」するのもみてきました。中にはこころを病んだ人もいました、まじめな話。

 ちょうど1年ほど前、通算7回目の事例セミナーを神戸で行った際(7回もやらなければならなかったことが、既に「無視、軽視」を象徴しているのだが)、あろうことかパネリストの1人がイベントの席上で反旗を翻し、この教育プログラムに何も価値がなかったかのように言い、自分の部下が優秀だっただけだと強弁し、かつわたし個人のことも侮辱した、という事件もありました。
 そういうのも「承認をめぐる闘争」の一部でしょう。歴史の一コマですから、担い手の名前とともに記録しておきたいものです。

 また、ブログの長い読者の方はお読みになっているかと思いますが、他社批判の作業の忙しいこと。
 このブログの右側に最近表示させた記事カテゴリに「研修副作用関連」というのがありますが、そこをみていただくと、主に心理学系の教育研修や自己啓発本を軒並み批判してきました。「内発と自律論」や「離職者続出」にするコーチングの某流派やNLP、アドラー心理学の「勇気づけ」、自己啓発本、さては「傾聴教」も批判しました。中には善意の担い手の方もいらっしゃるかと思いますが、多くは専門家の間では常識である「暗黙の前提」を欠いたプログラムであるために、素人である受講生の中に落ちるとおかしなことが起きてしまう。そこまでの想像力をもたずに提供しているなら、それは「わるい研修」です。クルマのリコールをわらえません。

 そうして、「他社批判」という汚れ仕事は、「承認」のもつあたたかく受容的な雰囲気にそぐわないものでした。それで味方のロイヤリティが下がる場合もありました。「承認」は「内集団」のなかでは限りなく温かいのです。しかし、「外集団」が攻撃してくるときには無防備ではいられません。また「外集団」との間になぜきっちり線をひく必要があるのか、なぜぼやけてはいけないのか、ということもきっちり言わないといけません。とはいえ批判の仕事はあまりにも多すぎ、自分の人格がおかしくなったのだろうか、と思えるほどでした。

 残念ながらその汚れ仕事を担うのはずうっとわたし一人で、その孤独感は半端ありませんでした。

 最近懺悔したのですが、「他社批判」「他理論批判」をやる中で、「承認欲求バッシング」に対する批判は、後手に回りました。そこまで手が回らなかった、と言ってもいいです。現象としては2013年ぐらいから、どうも出版界のこの傾向はおかしい、と気づいていましたが、ほかに批判しないといけないものがあまりにも多すぎて、そこに手をつけられないできました。

 もっと早く
「そこに照準を合わせないといけない」
と気づいていれば、また
「なぜそれがおかしいか」
をきっちり言っておけば、そこに連座しないですんだ人もいたかもしれない。

 わたしを「他社批判ばかりする」と批判する立場もあるでしょうけれど、自分の責任を全うするために批判をしなければならない場面もあるわけです。批判が遅れて悲劇を生むかもしれないわけです。
 

 
 ともあれ、正田は失うものもない身ですので、売られた喧嘩は喜んで買います。今社会で下の階層に沈められ苦しんでいる人々のためであれば、「えせ知識人」の1人や2人、にどと表舞台に立てなくするぐらい全然平気です、たとえ相打ちになっても。
 そして喧嘩慣れしているので、たぶん喧嘩になったらわたしのほうが強いです。このあいだも某ダンジョンで自称武術家の人を投げとばしました、言葉で。喧嘩売りたければどうぞ売ってきてください。52歳女性のわたしを怒らせたかったら怒らせてみなさい。


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 さて、「承認教育」は、極めて優れたマネジャーをつくり、高い業績向上を起こします。

 その担い手となるマネジャーは、決断力に富み、配慮に富み、行動力があり、人々を上手にモチベートし、人々を公正に評価し、人の痛みがわかり、柔軟で過去にとらわれず、また責任感高く、真摯で考え深い人々です。
 それはもともとそうした才能があった人々が担い手として定着しやすいのだと思いますが、トレーニングと実践により、それらがますます高まります。ワーキングメモリが増え思考や感性の密度が上がり、恐怖を感じる扁桃体の細胞密度が減り、ものごとを前向きに考え決断します。

 いいことずくめのようですが。
 ところが、この人々にも弱点があります。
 どうも、「悪意に無関心でいられない、傷つきやすく落ち込みやすい」という脆弱さがあるようなのです。

 これは過去の複数の事例をみて言っているので、「どういう実体験に基づいて?」という探りはおやめください。

 たぶん彼(女)らの鍛え抜かれたミラーニューロンは、他人の悪意ある言動をもフォローしてしまい、その意味・意図を理解してしまうのでしょう。また共感ホルモンのオキシトシンには、沢山のよい作用がある一方で、「おちこみやすい」という副作用があります。

 だから、実践者を傷つけるのはやめてほしい。

  また、傷つけ(harm)を誘いこみやすい、というんでしょうか―
 正田もクソマジメなたちなのでよくわかるのですが、真摯でない人は、真摯な人をばかにしたくなる。真摯な人というのは、からかい甲斐がある。
 なので、真摯な人々に向けた「からかい」というのは、よく出やすい。

 大きなワーキングメモリをもった人というのは、ものごとを通常より一段階深く考えることを厭いません。
 その姿勢は部下からは絶大な信頼を生むものですが、(ドラッカーの「マネジャーは真摯であれ」というフレーズも想起されたい)そこまで真摯ではない同輩や上司からみると、鬱陶しくみえます。それが、こころを傷つける揶揄につながりやすいものです。

 そして、昨今のクルクル変わる研修採用の問題。
 「承認教育」が有効なのは既に自明のことですから、彼(女)らから取り上げないでほしい。1年やそこらで取り上げて次の類似の研修を採用してしまったら、恐らく真摯な人ほど深く傷つきます。

 そこで起こる「傷つき、落ち込み」は、真摯でない人からは恐らく想像がつかないものです。



正田佐与
 

 

 


 

 


「『インクルージョンの波』が来年度、職場に押し寄せてきます。」

 こういう書き出しの文章を「月刊人事マネジメント」編集部にお送りしました。
 
 今年連載させていただいている、「上司必携・行動承認マネジメント読本」の6回目の原稿です。

 今回は、「障害者雇用・活用」がテーマです。後半は「発達障害」についての記述が中心になりました。


 わたしなんかがこういう記事を書く資格があるのだろうか。

 実はこの記事に備えて、今年「ガイドヘルパー全身」「同行援護」「行動援護」の研修を受けました。大げさな。(行動援護は今も受講中。きょうはその2日目です)

 でもまあ、2800字で触れられることはたかが知れています。

 

 情報提供をすることは、「寝た子を起こす」ことでもあります。

 先日もまた、「承認研修」2日目はそのお話をする場面があり、午後の睡魔のお時間もそこは皆さんしゃきっとなられました。決して目覚ましに使っているわけではないんですよ。

 そして「承認研修」の中では不愉快な気分が出やすい場面でもあるのですが、しかし情報提供をしないことには問題解決もありません。

 
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 「一億総活躍」は、ネーミングからして評判のわるい政策です。

 ただ趣旨はわるくはないのではないかと思っています。中身はこれから詰めるそうなのではっきりしたことは今言えませんが。

 この国の人が陥りがちな「均質」「一律」のバイアスがとれて、色々な人が共生し、仕事で能力を発揮できるようになるのなら、いいことです。
 そこには「女性」もそうですし障害者、外国人、元気な高齢者、が入ることでしょう。
 漏れ聞こえるのは「引きこもり」を外に出そう、ということですが―。


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 「女性活躍」が言葉として消えるのはいいのか悪いのか。

 「女性」に特化した施策が必要だ、という声もあり充分傾聴に値する一方で、

 首相が「女性活躍」と言えば言うほど、実感としては社会のミソジニー指数が上がった気がします。ミソジニーお爺さんが妙に元気に発言し、普通にまともだと思っていたコンサルの人も「男女別の会社を作ったらいい」と発言するに至っては。
(これについてはFBの自分のTLで「女性を同僚として正しく評価できない人が女性の協力会社を正しく評価できるわけないではないか」と反論しました)


 まあ「女性特化施策」が、保育所の整備や短時間勤務などハード面でわんさかやらないといけないことがあるのとは別に、従来の主張ですが、ソフト面の人の心の問題に関しては、「女性」と意識してやらないほうがいいのだろう、とわたしは思うんですよね。「女性女性女性」って思えば思うほどドツボにはまりますね。

 なので、「女性活用研修」より「承認研修」のほうが実質的効果がある。
あっ女性自身も「自分は女性だ」と意識しないほうがいいパフォーマンスが出せる、という知見がありまして、女子学生に「自分は女性だ」と意識づけさせてからテストを受けさせると、テストの成績が悪かったそうです。「自分は優秀な学生だ」「テストでいい成績をとったことがある」ということを思い出させると、テストの成績が良くなったそうです。

 
 ただ、うーんこれは難しいところで、上で言った「女性と意識しないほうがいい」のはまだ問題が出ていない白紙の状態の場合です。多くの職場では、あるいは社会のさまざまな場面では、「女性」が差別・搾取・過剰な依存・DVの対象になっていてそれを解決したり是正することをまずしないといけなかったり、当事者の女性が傷ついているのを治してあげないといけなかったりするわけです。やっぱり、相手が男ならこんなひどいことはしないだろう、ということを女だから平気でする、みたいな現象もゴロゴロあるわけです。だから「男女を意識しない」の前に「起きている問題を解決する」がやはり、必要かもしれないです。「それ、ダメだよ」っていうことをきっちり、言ってやっていかないといけないです。

 以前このブログに書いた「男性原理の会社でハーレム化しちゃったところがあります」というのは決して誇張ではなくて、労働局雇用均等推進室なんかではゾッとするようなセクハラの事例を今も多数みているそうです。自分の教え子がそういう目に遭うということが想像つかないなんて。


 またそういうのがあるから、「女性活躍」を当事者の女性にばかり任せるのはおかしな話なのでした。そういうこと反省してるのかなあ。関係ないからいいですけれど。

 やっぱり、「女性」のお話が長くなっちゃいましたねえ。
 もう研修に行かなくちゃです。
 今日の記事もオチなしです。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 
 
 

 1つ前の記事に取り上げた本『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』はわたしの仕事的に非常に示唆に富んでおりました。

 モチベーションに関しては従来心理学分野で言われ、そこでは割と「言ったもん勝ち」と言いますか、恣意的にいろんなことが言われておりました。「内発と自律論」もそうですが承認教のご本尊の1つともいえるマズロー五段階欲求説なども、広く流布してはおりますがどこまでの妥当性があるのかの議論は「保留」という感じでした。

 アメリカは1990年代を「脳の10年」と呼びその後も脳科学が発展し続けました。fMRIについては一部でその限界も言われておりますが、本書でほとんどすべての実験にfMRIによる検証が行われているのは、心強く感じることであります。そういうものが「ない」状態で恣意的なことが言われてきた時代に比べれば。

 また遺伝子学や認知科学、それに神経経済学もそれぞれ発展し、心理学で言われてきたこともさまざまな自然科学分野の手法でメスが入れられるようになりました。実験デザインもそれぞれに工夫され、「ミラーニューロン」の知見についても「発見―批判―再発見―再批判」が繰り返されて「ここまでのことは言える」と精度が上がっているのはすばらしいことです。

 さて、本書に触発されて、
1.「マズロー五段階欲求説」のわたし流の解体、
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討、
3.「承認」と「規範」の関係
―を書きたいと思います。よろしくお付き合いくださいませ。


1.「マズロー五段階欲求説」の解体

 本書には
「生理的欲求の中に『愛されたい欲求』が含まれる。マズローのピラミッドの最下段にこの欲求が来ないといけない。愛され世話されないと人間の乳児は即死んでしまう。そのため『愛されたい欲求』を人間は生涯持ち続ける」
という指摘があります。
 大いにうなずけるもので、「愛される欲求」は従来マズローのピラミッドの下から3番目、「社会的欲求/所属と愛の欲求」に入れられていましたが、実はもっと根源的なものであろうと思います。
 たぶん人間は老人になっても生涯「愛されたい(ついでにリスぺクトされたい)」と願うものです。たとえ愛される愛されないが自分の生死に関わる問題でなくても。

 欲求には階層がある、と最初に言ったのはヘーゲルだったんじゃないですかね。『法の哲学』の中にそういうのが出てきましたね。もっと前の人も言ってたでしょうか。ヘーゲルはあんまり細かい区分は言ってなかったと思いますけど、「承認」という言葉を再生させたマズローはヘーゲルの影響は受けたんでしょうか。

 ちなみにマズローの欲求5段階説をWikiに載っていた図を拝借すると、こうなります

欲求5段階説


 でわたし流の欲求の再区分は、ざくっと「生理的欲求」と「社会的思考の欲求/承認欲求」「非社会的思考の欲求」の3つに区切ってしまいます。すごいアバウト。血液型O型ですかって?いえA型ですけどね。

 でもオリジナルで(まあ、『21世紀の脳科学』に触発されてるんですが)「非社会的思考の欲求」というのをつくって、これは「社会的思考の欲求」の領域の中に食い込んでいます。よくみると従来「自己実現欲求」に分類されていたイチロー的なものがそこに入っているかも…。
 
 議論が分かれると思いますけどね。とりあえず暫定的に作ってみましたね。盗用剽窃しないでくださいね。

欲求段階説正田バージョン201510


欲求段階説正田バージョン2015年10月。禁無断転載



 図形の形がゆがんでいるとか色遣いがヘタクソだ、といった批判は受け付けません。

 えーと、「社会的思考の欲求/承認欲求」として、従来「承認欲求」「所属と愛の欲求」とされていたものを、ここにひとまとめにしてあります。
 よく言葉の乱れとしてあったのは、従来の区分で「所属欲求」としたほうがよいと思われるものを「承認欲求」の中に入れていたことです。スマホで友だちとつながりたい欲求を「承認欲求」とよぶとか、いじめの共犯者や傍観者の形で加担することを「承認欲求」とよぶとか、ですね。
 で今回の区分では、所属欲求も「承認欲求」の下位概念ととらえ、包摂してしまいます。何でも食ってしまうブラックホールみたいな奴だ。たぶん脳科学的にもきれいに「切れない」んではないかと思いますのでね。そのぶん「承認欲求」がわるさもすることにはなりますけどね。
 あっ、犯罪心理学でおなじみの「自己顕示欲」もやっぱり「承認欲求」に入れちゃいました。わるさをすることにつながりそうな要素を「承認欲求」の最下段にまとめましたね。
 また、「内発と自律論」について以前「含む、含まれるの関係でございます」なんて書きましたが、「自律欲求」を、やはり「承認欲求」の少し高次な1ジャンルとして加えてあります。「私、自律的に仕事ができるんだからアゴで使わないで任せてください」っていうのも「承認欲求」の一形態です。今どきの在宅勤務なんかもこれで解決できるんではないかと思います。

 
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討

 1つ前の記事でもかなりコメントを書きましたけれど、欧米的な「独立した個人としての自己」という自己感がだいぶ怪しくなってきました。
 当ブログでは、2009年の秋に大井玄という人の『環境世界と自己の系譜』という本の読書日記を延々とUPして、欧米の「アトム型自己」と東洋の「つながりの自己」との対比を取り上げました。
 参照されたい方はこちらが筆頭の記事になります
 日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より

 その欧米の「アトム型自己」がどうも幻想に基づくもののようだ、ということが本書では沢山の脳科学の知見を添えて書かれています。
 わるいのは「人間は利己的だ」と言ったホッブズとヒューム、それに「心身二元論」を言ったデカルトみたいです。
 そういう“美しい誤解”をしていても欧米社会がそれなりに繁栄してきたのは、ひとつには元々オキシトシン受容体遺伝子の高オキシトシンのスニッブを持つ人が多く、ほっておいても他人との信頼関係のつながりを強く感じて生きられる人が人口比で多いから、という解釈ができるんではないかと思います。

 日本人をはじめアジア人種は遺伝子的にはそういうつながり感というのは弱くて、どうやってカバーしてきたかというとひょっとしたら、フェミニズムの人に叩かれるかもしれませんが、お母さんがずーっとおんぶとか抱っこして皮膚接触を絶えずするような子育てをしていたから、という解釈ができるかもしれません。べつに「お母さんが」じゃなくてもいいんですけど。
 なので、保育所の数が整備されてもそこで働く保育士さんの数が十分確保できないうちは、私個人は子供を乳児のうちから預けて働くことにあんまり賛成できないのです。皮膚接触の絶対量が少なくなってしまいますから。

 あ、それは脱線でした。

 で「内発と自律論」です。
 これらは、上記のホッブズヒュームデカルトらの言葉を盲信しちゃった延長線上にあるであろう、「自分は依存的ではない、自律的だ」と思ったほうが自分に誇りが持てるであろう。とともに断言はできませんが、「内発と自律論」は元々アメリカ心理学界で行動主義/行動理論が普及し権威を持ったことへの反発反感から生まれたようなところがあり、デシの「金銭的報酬がやる気を下げる(ことがある)」という実験も、「だから、報酬を与えることは良くない」という結論を導き出すことはできないものでした。そういう風に拡大解釈して乱用した方も一部にいらっしゃいますが。
 そしてリバタリアニズムの、「がしがし働いてアメリカンドリームを実現した人だけが大金持ちになればいい」という、なんというか「夢中華思想」「成功者ナルシシズム」っていうか、そういうのにも合流し利用されたようにもみえます(リバタリアニズム本当にそんな思想なのか!?)
 このへんはあまりちゃんと調べて書いてるわけではないんですけどね…。
 「内発と自律論」はモチベーション業界で周期的に流行るもので、最近のアメリカではジャーナリストのダニエル・ピンクの『モチベーション2.0』がこの流れで有名ですが、ジャーナリストは唯我独尊の小生意気な職業ですからねえ。
 いくら「ものは言いよう」的にジャーナリストやモチベーション業界の人が言っていても、本書で言うように課題をこなしたあとの休憩時間には他人のことや社会のことが頭に浮かぶのが人間の習性であります。逆にそれが「ない」人は…問題発言になるから、やめとこ。
 「内発と自律論」をわたしが毛嫌いする理由はほかにもあって、実はそれは悩める青少年〜中堅を自己啓発本・自己啓発セミナーの永遠の迷路に引きずり込む入口の商材にもなり得るからです。
 「承認研修」がいくら正しくても、頭でっかち系の職種のこの手の自己啓発にかぶれた若手〜中堅のこころには入っていかない。それは、本書で言う(「自立した個人」という)「自己充足的予言」にかぶれているため、こころが頑なになっているからです。
 それは、彼ら彼女らのために惜しい、と思います。彼ら彼女らの学習能力をむしばんでいます。
 あとは、わたしにとって難攻不落のように思えていた「ジョブズスピーチ」の誤りも指摘してくれているので、ジョブズ決して嫌いではないんですが、あれも「自己充足的予言」に結構なりえるので、非常にスッキリしました。


3.「承認」と「規範」の関係

 これも1つ前の記事の後半部分にかなりコメントで書いておりますが、
「承認すると規範意識が上がる」
という、風が吹けば桶屋が儲かる的な現象があります。
 あるリーダーが部下を承認していると、リーダーが会社のルールやコンプライアンス的なことで指示やお説教をした場面でも、部下はリーダーの言うことを素直に受け取ってくれやすい。
 現象としてはこれまで繰り返し見られてきたことで、これまではその理由を、
「自分を承認されて(特に行動承認を含む承認をされて)感じる喜びはリアリティのあるものなので、承認してくれる人の言うことはそれがコンプラ的なことであっても、リアリティをもって聴けるのです」という説明をしてきました。この説明自体も別に間違いではなかったと思います。
 ところが、脳科学的に、「承認されて喜びを感じる領域」と「外部の規範を取り入れる領域」は同じだ、というではありませんか。
 それじゃ、この2つがダイレクトにつながっていても無理ないですよね。
 社員の規範意識を高めたかったら、承認をしましょう。
 逆にたとえば、ベネッセの個人情報流出なんかも犯人は契約社員だったということですけれど、本人の性格や経済状況の問題もありますが「承認されてない」という問題を抜きには語れなかったんではないでしょうか。(だから、やっぱり正社員/非正規社員の区分も、見直しが必要なんですよねー。改正派遣法は改悪なんちゃうの?と思いますが)

 以上で「考察編」は終わりであります。

 まだ未熟な考察ですが、ご意見ご批判がありましたらコメントかメッセージでもいただければ幸いです。

 

 今年出た資本主義論の中の「白眉」である『ポスト資本主義』の著者、広井良典氏(千葉大学法政経学部教授、科学哲学専攻)より、新たに「承認論」について大変興味深いご示唆をいただきましたので、ご紹介したいと思います。

 ちなみに『ポスト資本主義』については、当ブログではこちらにご紹介しております

 アカデミズムからの責任ある論考、「福祉」と「環境」の興味深い相関―『ポスト資本主義』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921557.html

 ここでは、4つの自然観が最終的に帰結するものとして、また定常化社会に移行する時期に生まれるであろう「心のビッグバン」「文化のビッグバン」を経て「地球倫理」というものが生まれるとすれば、その候補になるものとして「アニミズム」というものに言及されています。ここから広井教授は、「鎮守の森エコプロジェクト」すなわち村の「神社」などに自然発電の拠点をつくる、というご活動を独自にされています。


 今回のやりとりの舞台はフェイスブックメッセージで、広井教授にお友達承認をしていただいた返礼としてわたくし正田が書いたメッセージから始まりました。

正田:「広井先生、ご承認ありがとうございます! FBページで広井先生のリアルなご活動の一端を知り、益々勉強になります。
このシルバーウィークの連休で熊野方面に参り、先生が仰った『アニミズム』をまだ体感できていないけれどこういうことかなあ、と思いました。これからも色々勉強させてください。よろしくお願いいたします。」


広井教授:「メッセージありがとうございます。それは幸いで、前から少し思っている点ですが、アニミズムや自然信仰(自然とのつながり)は、ある種の『承認』をもたらすもののようにも思います(自己の土台、よりどころのようなもの)。通常の意味の他者からの承認とは異なりますが、このあたりは結構おもしろいテーマかもしれませんね。」


正田:「広井先生、メッセージ頂き色々な意味でびっくりいたしました。
 あえてお伺いしてみたいことがあります。 広井先生にとって、自然信仰やアニミズムの対象物に向き合っておられるとき、自分がそこからある種の『承認』を得られていると感じるとき、その感覚を何と名づけますか?
 わたしどもでは、マネジメントの中で『承認されている』と感じたとき、『みていてくれてるんだなあ』という感覚がわき、幸福感につながり行動や成長につながります。この感覚に何かもっといい名前をつけられないか?と思っているのです」


広井教授:「メッセージありがとうございます。さすが正田さんで、根源的な応答をいただき感謝いたします。その点は私もまだ探究途上のものですが、『みていてくれている』というよりもう少し広い印象のもので、自分が生きている土台というか『根っこ』があるといった感覚でしょうか。また、『包まれている』という感覚ともつながり、さらに角度をかえて言えば『世界(宇宙)の中の自分の居場所』とでも呼べるかもしれません。 正田さんとのやりとりで『承認』のテーマが私にとって別のテーマだったもの(自然のスピリチュアリティ)とつながり幸いでした。」


正田:「広井先生 ありがとうございます!こちらこそ、本来広井先生が大事にしてこられ現実に『鎮守の森エコプロジェクト』のような形で取り組んでこられたアニミズムというテーマについて、『承認』との共通性を語っていただけたということは望外の喜びでした。別個のものとして在るのも仕方ないのでは、と思っていました。
 連休に友人と議論したことで、承認はドイツ観念論から生まれそこでは人はまず神から承認を受ける、神による承認を起点として人同士の承認が生まれる、と考えたのだから日本には根づかないというのが友人の説だったのですが、私はピアノやバレエやバイオリン等本来日本文化の中になかったものを受容して今は日本人が国際コンクールで優勝するようになっている、それと同様に日本的な承認の受容と発展があってもいいのではないかと思っていました。なので広井先生からのご示唆はタイミング的にも目から鱗で、そうか自然信仰を起点とした承認があり得るのだ、と思いました。」


広井教授:「書かれている点そのとおりで、私も承認というテーマは広い意味での宗教と深く関わると思ってます。以前ケアというテーマに関し、『絶対的なケアラーとしてのイエスとブッダ』ということを書いたことがありますが、ここでのケアラーは「(自分を)承認してくれる人」ともいいかえられると思います。
 ちなみに承認論を含むポジティブ心理学について、統合医療でよく知られたアンドリューワイルさんが『ワイル博士のうつが消えるこころのレッスン(原題はSpontaneous Happiness〕)』で評価しながら関連して『自然とのつながり』の重要性を指摘していますが、その中でリチャード・ルーヴというアメリカの作家の『あなたの子どもには自然が足りない』という本(アメリカでベストセラー)での「自然欠乏障害nature deficit disorder」というコンセプトを重要視しています。多少話題を広げてしまいましたが、私自身はこうした自然とのつながりが大きな意味をもっていると感じています。大変有意義なやりとりができて幸いでした。」


・・・やりとりは以上です。
 以前拙著『行動承認』について、「土台に哲学的な思考」と勿体ないような賛辞をくださった広井教授でしたが、今回はメッセージ中にもあるように、同教授ご自身の長年取り組んでこられたフィールドと共通するところに「承認」を位置づけてくださったことは、また望外の喜びだったのでした。

 自然から承認されていると感じるときの、
「包まれている」
「自分の土台、根っこ」
 こういう感覚の下位概念として、
「みていてくれるんだなあ」
を位置づけることができるかもしれない。
 「承認」の与え手が人間であるとき、そこに「みる」というフィジカルな行為が介在するので、「みていてくれるんだなあ」になるわけですが。
 古来、武将や僧侶や修験者たちは山に向かいましたね。
 崖っぷちに立って、「神仏もご照覧あれ」なんて言いましたね。

 6月ごろこのブログにも、
「私はクリスチャンだから、神様がみていてくれる、という感覚があるんです」
と仰ったリーダーの方がおられましたね。
 それが、「神様」をもたない平均的な日本人だとどうしたらいいか?というと、自然から発する承認を受け取ることができるかもしれない。
 それを起点として対人の承認をすることのできるリーダーや教育者の方もいらっしゃるかもしれない。

 不肖正田は、「この手法は人間社会を幸せにするんです!」と、誇大妄想かと思われるようなことをすぐ言います。そしてアカデミズムの世界でまともに評価してくださる方は、「承認論」以外の世界の方は皆無でした。とりわけ前にも言いましたように、経営学、経営教育論、心理学、等の方々はそうでした。


 あとは、感激して言葉が出なくなってしまったので、読者の方々の評価をまちたいと思います。

 でも受講生様方、大丈夫です。この道は正しい道です。太古から人類が歩んできた道の続きです。自信をもって、引き続きお取り組みくださいね。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 先日、「コミュニケーショントレーニングは『徳』に至る手段c菊池省三先生」ということを書きましたが、

 やはり哲学・倫理の素養のある人もコミュニケーショントレーニングが必要、ということを最近思いました。

 たとえば、

「さえぎらず聴く」
「質問を発したら、待つ」
「話しながら激さない」
「自分ばかり一定時間以上話さない」
「会話の中でいくつもの話題を自分が話すときに入れない」
「相手が何かしている最中にあまり矢継ぎ早に話しかけない(相手の認知的負荷をおもんぱかる)」

など、「行動抑制」に関わること。当たり前だけどやっぱり大事なことです。恐らくトレーニングを受けないとできないことです。

 会社では、上司がこれらをやるだけで部下は疲弊してしまいます。
 そして上司になったらだれも注意してくれる人はいません。

(なお「正田は行動抑制ができてるのか?」というツッコミは、無視します)


 そして「行動承認」の場合は、前提として「みる」トレーニングが入ります。
 部下の仕事ぶり、行動ぶりを一定時間継続して「みる」。そして相手の行動の記憶を蓄積し、それを事実そのとおり言語化する。
 これらも、そういうものだとわかった上でトレーニングしないとできるようになりません。すごく単純なことではあるんですけれど。


****


 「哲学」分野の人でよくいらっしゃるのが、「思考」の強みが優れていて、ものごとをすべて「認知のレベル」で理解しようとします。
 「思考」の強みが優れている人は、「感情」をバカにしやすい。女子供のめめしいもの、と思いやすい。
 こうした人と「承認」について議論しても、しょうがない。役人や記者にもそういう人がよくいます。

 ほんとうは「思考する力」と「感情認識力」は、トレード・オフ関係なのではなく独立した因子で、どちらも優れている人も世の中にはいらっしゃると思います。

 正田は決してそれほど「感情的」な人間ではなく、「論理8:感情2」ぐらいの人間だと自分では思っていますが(ほんとか?)
 それでも、こうした「思考」に偏った知覚感覚の人に対しては、
「あなた、頭だけで物事を理解してもしょうがないよ」
と思います。
 視覚や身体感覚も総動員して理解しないといけないものが、世の中にはあります。「承認」もその中の1つです。

 そして身体感覚は―、残念ながら、子育て経験のある・なしがかなり大きく影響します。「ない」人はかなり努力していただかないといけないかもしれません。

****

 拙著『行動承認』は、現場のリーダーにも読んでいただきやすいようできるだけ平易な言葉で書き、かつ論理だけでなく、視覚や身体感覚まで総動員して味わっていただくことを狙って書きました。

 「承認」で幸福な状態になった職場を視覚的、身体的に味わっていただくこと。
 そこに行くまで暗中模索を繰り返しときには自己嫌悪、自己否定にまで陥ったリーダーたちのこころの軌跡も味わっていただくこと。

 残念ながらそれは読解力に依存したりもするんですけどね―、幸い、セミナーテキストとして読んでいただいた現場の方々には、それはリアルな物事として受け取っていただけたようです。

 わたしに対して「行動承認」についてのさまざまな質問を発したい方は、まず拙著を読んで視覚、身体感覚まで総動員してその幸福の世界を体験していただきたい。
 そこまでやって「これはリアルなものなんだ」と実感してから、理論上の色々なことについて質問していただきたい。
 
 そういう要求をするのは、決してわたしが傲慢なのではないと思います。

 あの本で言語による表現を尽くして幸福の状態をリアルに描いたものを、立ち話のような会話で再現できるわけではありません。230ページ分の情報量は、まずは読んでください。

 ひょっとして、「この教育」が実現してきたものは、ヘーゲルもカントも実現しえなかったものかもしれないのです。またしょってる発言。カントも勉強しよう。

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 シルバーウィーク、読者のみなさまはどんな風にお過ごしになりましたか。

 正田は1日和歌山方面に行って観光&友達に会い、
 最終日は、地元神戸・板宿の「井戸書店」さんに行って、寄席を聴いてまいりました。
 店主・森忠延社長の創作落語(桂三枝師匠の)「読書の時間」、お腹がよじれるほど笑いました。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 

 久々に明るい話題(批判でない話題)です。

 先日、「ブログ発・幸せな発達障害部下?」の記事に登場されたブログ読者の方(仮にY子さんとします)から、このときの部下の方について詳細なエピソードを綴った体験談が届きました。Y子さんのもとで仕事に自信をもち、障害とも向き合い人生全般幸せになってしまった、というお話です。
 

 能力の凸凹があり、ある部分ではすごく有能だけれど時間管理ができず、プロジェクトを完遂できそうにない部下。マネジャーとして初めて直面するタイプの部下に戸惑い悩んだすえ、Y子さんは自己流で、この部下のために「詳細なタスク分解をし、スケジュールを把握し、細かくGOとSTOPをかける」というやり方を編み出します。そのやり方は、「行動承認」の応用編のようなものでした。細かく分けたタスクを達成するごとに承認を与え、自信を持たせて前に進ませました。

 その結果この部下は、「生まれて初めてプロジェクトを1人で完遂できた」と言いました。
 だけでなく、自ら医療機関に赴き発達障害の診断を受け、障がい者手帳も取りました。職場でも障害をオープンにし、自分の出来ること、出来ないことを周囲に伝えて仕事をするようになりました。

 さらに半年後には結婚もし、今は幸せに暮らしているといいます。
 結婚式にもよばれたが上司のY子さんは都合で行けなかった。その後、「自分が障碍者を作り出してしまったのではないだろうか…」と悩み続けたそうです。

 一方で、「大人の発達障害」の本も読み、さらにこのブログの一連の発達障害に関する記事を読むことで、「あれで良かったのだ」と氷解したそうです。


 このくだりでY子さんの記述が心に沁みます:

私のとった方法が正しいものだったのどうかは、未だ自信が無い。ただ、Aさんがプロジェクトの完遂を成功体験として認識したことは、心から嬉しかった。そして、発達障害であることを受け入れ、その中で自分なりの働き方を見つけようとしてくれたことについては、驚きをこえ彼女の勇敢さに尊敬すら感じた。

彼女のことを思い出すと、仕事をする、働くということを通して人が得られる意味の重さ、その貴さの前に、跪いてひれ伏したいような気持ちになる。(太字正田)


 働くということの意味の重さ、貴さ。
 
 そうなのでした。
 人はこれほどに、働くという行為から人として自信を得、そこから人生すべてを変え得るのでした。

 そしてこの部分を読んで、わたしは思い出したのでした。なぜ、「マネジャー教育」というドメインを自分が選んだか。

 通信社記者、主婦、母親、医薬翻訳者、というそれまでの経歴から連続性がありません。でも、「いや、恐らくこれが正解だから、これをやるしかないんだ」と思ってきました。

 それは、人がもっとも人として誇りを持って生きられるのは「仕事」の場であり、それは上司のマネジャーからの働きかけによってもっとも効果的になされる、とわかっていたから、ではないでしょうか。

 もっといえば人が仕事の場で誇りをもった存在でいられるとき、その人は家庭、地域でもよいメンバーでいられ、ひいては子供さんたちにも良い影響を及ぼすことができる。
 子供たちの幸せは親御さんに大きく依存するのだけれど、じゃあ親御さんの幸せや誇りや子供を愛する能力を育めるのはどこか。それは「職場」なのだ。

 社会に幸せの連鎖を生む、その頂点は職場にある。もっといえばマネジャー(経営者を含む)に。決して、同じことをご家庭から発してできるわけではない。


 そういう「結果」が見えていたので、自分自身マネジャー経験がなくてもマネジャーに教える仕事をするという無謀な賭けに出たのでした。
 不思議なことにマネジャーたちはそんなわたしを許容してくれました。許容しなかったのは「間の人」たちですね。今でもしつこくその人たちに「主婦」って呼ばれますからね。

 長い間の「間の人」たちの無理解で、心や身体に随分ガタがきていますけれど、やはり「この教育」が人々に作り出すことのできる幸福のスケールの大きさは、それとは引き換えにできないものです。

 いえ、お蔭様でこのところ皆様に良くしていただいています。
 

****

 上記の記事で「子供さんの幸せは親御さんに大きく依存する」ということを書きましたけれど、ちょうど昨日「小学生の暴力行為が過去最多」というニュースが流れました。中高生の暴力行為が減っているのに、小学生さんに増えているといいます。

 わたしなどは「ああ、スマホ(親世代の)だなあ」と直感的に思いましたし、また専門家の方々は様々に分析しておられるようですのでちょっと資料を集めたいと思いますが、
 大げさに言えば、「社会崩壊の危機」が、はじまっているのではないか、という予感があります。

 既に小学生さんになっているお子さんたちが前頭前皮質/実行機能の発達が大きく遅れ、行動抑制ができない、という事態だとしたら、何がしてあげれるのでしょうか。

 教育すべきはお子さんでしょうか、親御さんでしょうか。

 すっこんでろ団塊。いやなんで今それが出てくるの。

****


 先日研修をさせていただいたベーカリーチェーン「リヨンセレブ」の牧田社長より、「正田の第一印象」を教えていただきました。

 牧田社長は今年5月の連休前後に史上初の「メールサポート」を受けて「行動承認の宿題」に取り組まれ、見事飯田GMほか社内の人との関係を改善され、その効果に確信をもって翌6月、当方に社内研修を依頼してこられました。

 さらに6月中旬、飯田GMとお2人で関西まで正田を訪ねてこられました。お忙しいトップとNO.2が日程を合わせて関西に1日来られるというのはそれだけで大変な決断だったでしょう、わあ「三顧の礼」ってこういうことを言うのかしら、と正田は柄にもなく感激しておりました。

 ちょうど新大阪で企業研修があった日の夕方に駅で待ち合わせてお会いしました。
 その日の正田の印象というのは―。

 ここからは牧田社長のメールからの引用です。

さて先生にお会いした時の印象は、品格もあり丁寧で印象の良い方だなと思いました。私はそういう方と話すのは実は苦手なほうで、(自分は品がないので)ちょっと緊張感が走りました。
その後お話ししていく中で、少し先生が引かれているのかなと感じる場面もありました。でもそんなことはないはずなのにと思い直したりしました。何とかやってもらえることになり、安堵して帰った記憶があります。
帰りに飯田GMの印象は、先生は自信がないようだったけど、大丈夫ですかね?と言ってきました。私の勢いに押されてしまわれたんですかね?でも社長の私の印象としては、「うちのような会社の講師経験が少ない事を心配されているのか?わからないけど、当社には必要なので先生にかけてみるしかないね」という結論で話は終わりました。その後、正田先生と当社とのやり取りの中で、机の位置やどこまでコーチングを社内に落とし込んでいるのか等のやり取りの中で、講習を充実した内容にしたいという先生の思いが伝わってきて、私も飯田GMも安心した思いがありました。現在は何の心配も無く、本当に良かったと思っています。



 「品格もあり丁寧」だって…その当時はあまりブログを更新していなかったので、最近のような悪口雑言の文章を牧田社長にお目にかけないで済んだみたいですね(苦笑)

 「自信がない」というのは多分本当にそうだったと思います。多分性格的に「自信のある」表情など一生できないのかもしれませんが―、

 ベーカリーチェーン様での講師経験がなかったというのも本当です。加えて「職人気質の人もおり、難しい」ということも伺っていたので、「どう難しいの?どんなわだかまりがあるの?」という疑問とプレッシャーが頭の中でぐるぐる回り、
(実際には研修でお会いした店長、リーダー様方は職人出身の人も気持ちのいい人ばかりだった)

 いつも研修前は情報収集をしたがるのですが必要な情報を事前に十分入手できるだろうか、とか、
 研修は水もの当日何が起きるかわからない、とか、

 要は、『行動承認』のせいで研修効果についての期待値が上がってしまっているので、事前期待が高ければ高いほど正田は自信のない表情になる、という現象なんですけどね。


 なので、これからお会いする方々も、どうか「正田の自信のなさそうな様子」は、あまり気になさらないでください。いつものことですから。多分本番になると腹をくくってしゃきしゃき喋るとおもいます。そして結果を出すとおもいます。


 牧田社長、わたくしからの変なお願いに応えていただきありがとうございました。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 


 

 今年は色々と事情があって、「研修営業」ということをしないことにしています。

 企業の人事とか研修担当者の方に頭を下げて「承認研修を採用してください」とお願いすることをしないことにしています。先方からご依頼があったときだけ、お仕事をする。殿様商売。

 だから、「内製化批判」のようなことも書けるのかもしれないです。


 わたしは「承認研修」で人々が幸せになるのを見すぎてしまいました。それは動かしがたい現実です。

 だから、ほとんどの人事とか研修担当者の方々とお話するのが苦痛です。「選ぶのは当方だ」とばかりにふんぞり返って、いかにもほかの選択肢も考えてるんだ、という空気を匂わすところへ行ってプレゼンするのが辛いのです。かれらの妄想がわたしの知る現実より「上」だ、高級なものだと考えているのをみるのが辛いのです。わたしのことを「オーラのない女だな」という目でみるのが辛いのです。


 「承認研修」の価値を露骨に鼻で笑う人もいます。また、アポには応じ続けるのですが、採用はしない。情報収集だけのためのアポだと思っている。

 後者の人とみられる、とある大企業の研修担当者との会話。先方が「謎かけ」のような話を振ってきました。去年ぐらいに実際にあった会話です。



担当者「例えばうちで最近出た部下からの不満で、『上司が色々なフォーマットを要求してくるから面倒だ。統一してほしい』というものがありました。各部署の月次の予算達成の状況を報告するフォーマットが、上司ごとにばらばらなフォーマットを要求する。見たい指標が違うらしい。部下にとってそれは煩雑だ、と映るようだ」


正田「詳しい状況がわかりませんが、部下がどれくらいの仕事量を抱えている中でその上司の要求に応じているのでしょうか。
 ひょっとしたら、『臨機応変』に対応するのが苦手だ、という部下の方なんでしょうか。
 あくまでひとつの答えですが、そうした月次の報告というようなのはいわば『雑用』ですが、そうした『雑用』は今、細かくタスク化して障害のある方に集約してやってもらう、という流れがあります。(注:かなり大きな規模の会社で、ここでいう『各部署』も数百人規模である)そこでそういうきめ細かい、上司1人1人ごとに報告する指標を変える、というような作業はその方々の手に余る、という話になるかもしれません。統一フォーマットで報告してもらい、上司のほうが譲歩する。すべての指標を盛り込んだフォーマットを作るとか、特別に見たい指標には上司が自分でアクセスするとか。」


 すると質問をした担当者氏は怒ってしまい、

「そんな障害をもった人がいるなら話は別ですが、うちにはいませんので」

という。

 そうなんだ、おたくの会社にはいないんだ。すばらしいですね。

 で、ここの会社にはめんどくさいのでもうご訪問しないことに、わたしはしました。有名な食品メーカーさんですけどね。まあ、こういうのも歴史の一コマなので記録しておきます。


 まあ、わたしのこの時の答え方も不完全で、こういう考え方もあります。

 「特別な指標をみたい上司」が、「ごめんな忙しいのに無理いって。頼むよ」と可愛げのある態度で「お願い」をしていればまた話は違ったかもしれないです。いかにも当然という態度で命令するから反発されるかもしれないのです。要は「承認」の問題です。とっさにはそこまでの可能性について答えられないものですが、わたし的にはそれは当たり前すぎる答えなので―。(え、当然それはやっていらっしゃるわけですよね?)


****

 嬉しかったこと。

 このブログを5〜6年前からみていたというある読者の方とお話することができました。

 その方は、

「発達障害と思われる部下を先生のブログでヒントを得て『行動承認』で成長させました」

と、体験談を話してくださいました。

「タスクを細かく割り、承認することで達成感を持たせました。20代後半、それまで成功体験がなく転職を繰り返していたという部下はそれで一気に自信を得、自ら診断を受けて障害者手帳を取り、さらには結婚もしました。今は幸せに暮らしているときいています。この部下のあまりの変容ぶりに、自分はやりすぎたのではないかと思うぐらいでした。

 だから正田先生とこのブログには感謝しています。そういう人はいっぱいいるんじゃないかと思う、ただ忙しさに紛れて感謝を届けられないのだと思う」


 えっどんな気持ちだったかって?
 嬉しいに決まってるじゃないですか(*^_^*)


 だから、わたしはこのブログで「発達障害」と、ストレートに言葉を書くことをためらいません。たとえ批判を浴びても。結果的に当事者の方が幸せになれるんです。

 ―でも、「幸せになる」というのがこの方のお話のようなレベルにまで幸せになるということは想定していませんでしたけれど。「仕事で自信をつけた結果すすんで診断を受けた」というところは、何日か前のブログ記事での「承認の作る幸福感がイヤなことと向き合う勇気につながる」という話に通じるかも―


 この読者の方がまたいわく、

「『行動承認』は、すごくシンプルだけれどすごく難しく、そして『できるようになる』と、今度は『当たり前』になってしまい、有難みが薄れ、感謝がなくなってしまう。
 でも『当たり前』だと思って感謝がなくなったとたんに『落ちて』いく、そういうものですね。

 だから、繰り返し確認しないといけない、自分が『行動承認』という形でできているかどうか。

 月に1回ぐらい、ちゃんとできているかどうか確認するためだけの集まりがあればいいと思う。仏教の法会などのように」


 そうなのかもしれません。
 
 この方の言われたように、一度承認の恩恵を受け、そのあと感謝が薄れ、とんでもない「罰当たり」な行動に出る人、というパターンに、去年ぐらいからあまりにも沢山遭いすぎてしまいました。それでわたしは心を痛めることが続き、一時期自分の健康を害しました。

 いちど「罰当たり」になってしまった人とは、にどと関係を修復できません。また、その人の人生ももう良くなる見込みはありません。「承認」というたいせつなものを否定してしまったら、それの類似の何もかも全部価値を見いだせなくなるはずです。よいものから目を背け続け、だめになっていきます。「悪相」で長い老後を生きることになります。


 この「思想」―最近わたしは「思想」ということをためらわなくなっている―をより大きく広めるということについて、新しい展開というのは何かあり得るのでしょうか。

 それは、今の段階ではわたし以外の人の行動が問われると思います。

 わたしは、もう頑張れません。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 この夏「ピクサー長編アニメーション20周年記念」の話題映画「インサイド・ヘッド」は「感情」がテーマの作品でした。

 ヨロコビ・イカリ・カナシミ・ムカムカ・ビビリの5つの感情がヒロインの女の子ライリーの頭の中にあり、大騒ぎしながら、調整しながら、ライリーの言動を決めているのです。
 物語はそれら5つの感情たちにある日生まれたトラブルとそれの解決のためのそれぞれの活躍が描かれます。こういうことが映画のモチーフになり得るということも目からウロコでしたが、内容は最新の心理学の知見を踏まえたものだそうです。大団円ではわたくしも思わず落涙してしまったのでした・・・。


 ところで、
 5つの感情の中で唯一のポジティブ感情である「ヨロコビ」。なぜ、1つしかないのか。

 結局わたしたち人類は生存のためにネガティブ感情を先に発達させました。最も原始的な「爬虫類の脳=脳幹」は、ビビリ(恐れ)とイカリの塊のようなものです。
 現在でも、わたしたちは自分の生存が危うくなると、これらの感情が支配的になります。

 しかし、わたしたちの生がサバンナで肉食獣に捕食されるかどうかだけを考えることだけでできているのなら別ですが、周囲とつながり集団をつくって狩猟採集農耕をするようになると、ポジティブ感情が必要になります。


 そこで後から発達した「ヨロコビ(ポジティブ感情)」。ポジティブ心理学では、ポジティブ感情を以下の10通りに分類します。
 。ヾ遒(Joy) 感謝(Gratitude) 0造蕕(Serenity) ざ縮(Interest) ゴ望(Hope) Ω悗(Pride) 愉快(Amusement) ┯殄(Inspiration) 畏敬(Awe) そして 愛 (Love)
(『ポジティブな人だけがうまくいく 3:1の法則』バーバラ・フレドリクソン、日本実業出版社、2010年)


 すみません、ここまでは例によって「長すぎる前振り」でした…。


****

 研修のお客様から、また嬉しいお知らせをいただきましたので、ご紹介させていただきます。


 研修後2週間、お盆の土曜日のある店舗。

 忙しいながらスタッフ6名が全員そろっている日だったので、会社のゼネラルマネジャー(GM)から店長に、「三者面談に同席してくれませんか?」と提案。

 店長も同意し、急遽、GMと店長による社員への三者面談となりました。

 
 その結果、どうなったでしょうか・・・。

 ここから先は、GMからいただいたメールをそのまま引用させていただこうと思います。

 (固有名詞だけ伏せております)



毎日毎日、朝から晩まで社員さんと向き合い闘っている店長、
嫌われ役になって、親の気持ちになって、
叱責、注意、励まし、それを諦めず繰り返して頑張っていました。

ただ、昨日の面談は、まず承認から入って、
たくさんたくさん相手を認め、そして改善してほしいことを
店長が話しました。

私は店長と社員さんの話をじっくり黙って聞いて、
一通り終了したところで、店長を後押しするよう、
まず相手をたくさん承認して、
それから、少しコーチングを織り交ぜ質問して考えさせたり、
また若い従業員にはわかりやすく例を挙げて、
「A君とB君がいて・・・
A君はこういう人、B君はこういう人、
もしあなたが社長だったら、A君とB君のどちらを選択しますか?」
など、とにかく相手のレベルに合わせ、優しく向き合いました。

そう、店長と私、本当に向き合いました。
そういう面談になりました。

今まで店長も手に負えなく悩んでいたくらい手ごわかった若い社員さんたちが
みるみるその場で変わっていくのがわかりました。

これが承認の成果だと思いました。

現場で毎日のように彼らと向き合い、
叱り、諭し、励ましていた店長ですが、
なかなか相手には通じていなかったので、
悩み苦しんでいた店長ですが、

昨日は、まず承認から入り、
自分の言葉で相手をたくさん認めていました。

社員さんたちも「面談→叱られる」と思っていたようで、
いきなりたくさん認めてもらって調子が狂ったような?
でも、心の中では嬉しくて、素直にならざるを得なくなってしまったかのようでした。

私は、社員さんの変わり方もさることながら、
店長の成長を目の前で見ることができて、
嬉しくてそれだけで感無量の気持ちでした。
正田先生の「承認マネジメント」が目の前で実践され、
相手がどんどん変わっていく・・・
本当に素晴らしかったです。

6人の社員さんの面談をいたしましたので、
連続して4時間、狭い休憩室で、
店長と私は足がしびれて参りましたが、
承認マネジメントの心地よさで二人とも
足の痛さが吹き飛びました。

休憩室から現場に戻った時、
そこには依然より顔つきも良くきびきび、
生き生き動いていた社員さんたちがいました。

店長と私の承認が彼ら一人一人の心に確実に響いたのだと
確信が出来ました。

今まで味わえなかった心地よさを充分に感じて、
私の帰宅の足取りも軽く、本当にすがすがしい気持ちでした。
ここに「承認マネジメント」の成果を充分に感じ、
先生にご報告申し上げます。

本当に正田先生との出会いに感謝いたします。
と同時に、先生を見つけてくださった弊社牧田社長と
そして、あの講習をしっかりと自分の中に取り入れ、
実践をしてくれた店長の成長に感謝したく思います。

7月29日の先生の講習を店長はとにかく楽しみにしておりました。
「自分に必ず何かを習得したい」とそうも申しておりました。
その言葉通りに彼女は、「承認」を習得し、
それを実践して、素晴らしい成果を手に入れました。


社員さんたちは若い社員さんも多いので、
今回だけの承認では足らず、これからもこういう承認を繰り返す必要はあると
思いますが、態度が明らかに違ってきておりますので、
これからが楽しみです



 こういうご報告(お客様にわたしからそんな言葉もおこがましいんですが)でした。

 ・・・さて、何か補足できることがありますでしょうか・・・


 メールに出てきた「店長」は、タカラヅカの男役のようにビシッと背筋の伸びた、かっこいい女性です。
 きっとご自身は厳しい環境で歯を食いしばって育ってこられただろう、と思うような。

 そういう方にして「承認」を学ばれるというのは、ご自身の過去の整理も意味するであろう、また繰り返し自身の中に湧く「背中を見てついてこい!!」という思いとの葛藤でもあるであろう、決して簡単ではなかったはずです。

 でもこの方は乗り越えたのでした。たぶん信頼するGMからの背中押しによって、またご自身のもともと持っている克己心によって。
 そこへもうひと押し、たぶん『行動承認』の嘘いつわりのない世界によって。ひょっとしたらそこに出て来た男女のマネジャーたちの「成長物語(ビルドゥングス・ロマン)」は店長の目にも魅力的に映ったかもしれない。


 
 きっとこの店長からの「承認」というのは、厳しい中に人一倍正確な観察眼に基づいた、若いスタッフたちの成長意欲を刺激するものであっただろう。そういう言葉に出会えるというのは、若い働き手たちにとってどれほどの幸せでしょう。


 この三者面談の翌日も、「スタッフたちの態度が変わったことで店長も力がみなぎったようだ」とGMからのメールにあり、研修で意図した「両方よし」が実現できたようなのでした。



 当協会の「承認」自体は、いまだ学術的に検証されていませんけれども正しいものです。
 ただ同じものでも、信念を共有してくださる、心正しく真摯なお客様のもとにインストールされたとき、絶大な力を発揮します。

 そしてわたしは決して力を誇示したいわけではなく、ひとえに当事者の方々の人生がどれほど幸せだろう、と想像することで心が満たされるのでした。また、「学術的に検証されてない」ということについても、聡明な方ならこうやってわかってくださる、これ以上わざわざ証明が必要だろうか、という気もするのでした。


 お忙しい中のひとときを割いて嬉しいご報告をくださったお客様に感謝です。



 また、こうしたことをブログで公表することで「承認学校」に自分が否定された、と感じる人びとがわたしを罵り嘲りたいなら、どうぞそうなさってください、幸せになるべく努力する人たちの幸せと引き換えにはできませんから、と思うのでした。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 ここ数週間でブログに書いた以外にもたくさんのお出会いと感動、感激、感謝の場面がありました。


 諸般の事情でなかなかそれを言葉にできずにいます。本来のわたしであればその方々の人となりについて、文脈について、リスペクトを込めて延々と書き綴るところです。


****


 「バーチャル」になることのほうがはるかに簡単なこの時代において、「行動承認は真実ですね」というお言葉があちこちで聴けたのは、むしろ奇跡のようなことでした。


 せっかく一度伝えることができても、すぐ次の情報次の情報に押し流されていく現代です。


 


 「正田は生意気だ、傲慢になっている」
という声をきくときもあるけれど、

 わずか1回「経済団体主催セミナー」をさせていただくために、何回「自団体主催の事例セミナー」をしてきたことだろう、この12年。

 「セミナー」でなく「事例セミナー」と言っていることに注意してください。セミナー研修の実験室の場や、専門家との個人契約の会話空間の中で人の心にあれこれ手を加えるのは、技術的には簡単なことなのです。
 それに基づいて「組織」について仮説レベルのことを言うことも。

(「実験室の会話」という言い方は、行動理論家でアメフト常勝監督の武田建氏もよくしていました)


 そうではなくて、「事例セミナー」というのは、ほかの意味でも聡明なリーダーたちが一定期間確信をもってやり続け、その結果組織に無理なくよい方向への化学変化を起こし続け業績が向上した、それが続出した、ということです。

 …そういうのは「先験的にわかっている」タイプの人には一々言うまでもないのでしょうけれど。


 はたらく人たちの「現場」にひとつの手法が正しく落ち、よい方向への持続的な化学変化を起こし続けるためには、セミナー研修個人契約等の「実験室」を成り立たせるのとは質の異なる思考が要ります。多数の方式を横断的にみたうえでの効果発現メカニズムの見極めと副作用への配慮、そして教授法の工夫が要ります。それらの結実が「12年1位」とか「事例セミナー7回」になっている、ということです。


 それら事例セミナー開催のためにどれほどの労力と私財を投じてきたことだろう。そしてそれでもバーチャルな人々には「ぴんとこなかった」ことだろう。「これが決定打だ」とは考えず、腰の据わらないまま次の手法次の手法を追い求めてきた、アトム型自己観の人々が「永遠に拡大し続ける世界」を追い求めるように。

 それは、自分個人の幸福とか成功を考えたら本当にばかばかしい労力でした。生まれ変わったらもっと別の、人に侮られない仕事をしたい。

 それでも、「この手法」を伝えることでお客様に作ることのできる経済的精神的幸福には替えられないのです。


 
 「この手法」に親しんだあとの人の口から、よく「承認って、当たり前のことですよね」という言葉がきかれます。

 「この手法」で現に自分の会社を幸せにしている人でもあったりするのですが、その言葉はことわたしには、「承認欠如」の言葉として残酷に響きます。

 「当たり前」ではないはずです。上の世代から継承された価値観に当たり前に流されていたらこの人の会社の成功はありえなかったし、わたしは率先してそれに異を唱えるものとして普通の人なら浴びないはずの迫害や非難を浴びてきました。

 そして先にも書いた「1回の(あなたが参加した)経済団体主催のセミナーのために何回の事例セミナーをしてきているか」という問題であったり、またこの情報の多い、ともすれば「実験室レベル」の話に流されてしまいそうな時代に、ブログやメルマガで絶えずあの手この手と切り口を変えながら「この手法」にリーダーたちの心を引き戻しブレさせないようにしていること。

 「承認」がいくら再現性を持って生物学的その他あらゆる視点から正しいものであっても、わたしがその作業をしていなかったらこの人はブレていただろう。


 また、「教授法」の問題―、
 わたしは「弱い」と言われることがあります。過去に無数の心理学系のセミナーの類をみてきて、上手だと言われるそれらの先生方の手法とは意識的に一線を画してしまったところがあります。
 要は、
「実験室ではいくらでもディープなことエクストリームなこと非現実的にポジティブなことは言えるし、できる。でも現場に落ちるには何が大事かをみなければならない」
ということなんですが。
 逆に「正田の講師ぶり」を過去に高く評価いただいた英国の倫理学の教授とは、実は向こう式の「授業の相互評価」を担当する先生でもありました。そこで論理性客観性や「フェアネス」を担保いただいたようなものですが、それはさておき、最近ある受講生のリーダーの方から言われたのは、
「心地いい空間だった」
ということでした。これもなかなかに癖のつよい一家言ありそうな方だったので嬉しい評価でした。

 わたしなりに、自分が現場を預かるリーダーだったとして、こういう「決定的だ」と思える教育コンテンツに出会うとき、それをどんな先生にどんな口調で教わりたいと思うか。

 それは強引に押し流すタイプのものではないと思います。大風呂敷を広げたり、講師のナルシシズムが前に出たような強気なスタンスではなく、教えられたものであっても自分の判断を働かせたうえで「とりにいった」と感じるものでなければなりません。

 だから、リスペクトを基調とした一見こちらが「弱い」と感じられるような口調を維持しています。

 それを「弱い。この人ダメだ」と思うか、「いや、こういう語り口を介して真実に出会うことができてラッキーだ」と思うかは、その人の元々の頭が「バーチャル」か、それともこのブログが読者として想定しているところの「タフな実務家」かによると思います。
 その語り口を維持するがゆえに、実務家ではないタイプの人々からの攻撃にも遭ってきました。


ーここまで書いて気がつきました、これは二律背反の話なのだなと。
実務家に訴えかけたければ淡々と、「相手に判断させる」語り口で話せばよい、そうではないほうの人たちには「夢をみさせてあげる」あるいは「少々の矛盾をものともせず強気で押し切る」口調で話せばよい、あとのほうの話し方をすると実務家タイプの人たちは最初から「これは自分とは関係ない」と思ってきいているのでどのみち大きな波乱は起きないー

ー実務家タイプの人に語りかけるセミナー、研修をそうではない人も混じっているところで質疑も含めて成立させるにはどうするか?
そこは事務局の方々にやり方を一考していただきたいところでありますー



 だから、「これって当たり前ですよね」というひとは、自分が「これは真実だ」と直感できた理由であるところのその教授法が、講師の自己犠牲とひきかえのものであることを見落としています。


 わたしの心と身体の無数の痛みの上に、自分の人生を諦めた生き方の上に、その人の会社組織の成功や生き残りは載っています。
 それがわからない人は…。それは謝金とかの問題ではないのです。


****


 と、嘆き節のような内容の日記になってしまいましたが、、

 このところお出会いする、非常に世慣れた方々が、ここ数か月のわたしの決断の意味を行間から理解してくださることが、有難いと言わざるをえません。

 一度言葉にまとめておきたく思いました。

 その方々にはむしろ言うまでもないことなのかもしれませんが。

 深い感謝を込めて。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp
 

「上司が部下に指導するとききつい言い方をしてしまう、また部下がそれに従わずほかのやり方をして失敗したとき『あの時私の言うことをきかなかったからだ』と責め、ますます部下にイヤがられてしまう、どうしたら?」

というご相談がありました。

 わたしからは、

「今どきの傾向を考えると、上司側部下側両方の問題をみた方がいいと思います」

というご回答をしました。

 上司も、当然言い方がきつくなりやすい人はいる。同じことでも言い方を意識して和らげることで部下にきいてもらえるケースはある。
 具体的にはストレングスファインダー○○○○とか▽▽とか×××とかを持っている方だと…、、、
 そのへんはコミュニケーションの世界の「定石」のアプローチといえます。

 ただ、一般には上記の回答だけで終わるんですけど、
 数日前のこのブログでも尾木直樹さんのコメントを取り上げたように、「今どき部下」が上司や先輩の言うことをきかないで失敗してしまうケースも大いにあり得るのです。

 下手にネットやスマホでほかから情報を仕入れるので、目の前の上司が同じ社内や同じ顧客について蓄積した経験に基づいて言うことがきけない。

 著書にも書いた、

「目の前の肉体を持った人をリスペクトしない」

という状態です。
とても非効率です。

 まあ理想は部下にも「承認」を学習させて「承認の精神」を浸透させて、がいいと思いますがそれはちょっと理想論ぽいかな。できればいいですけれど。

(無理ではないんですよ。知り合いの数名規模の会社の経営者さんで、「わが社は全社で『行動承認』の考えでいっています」という方もいらっしゃいます。それはうまくやれば、上司部下の心がベストの状態でかみ合う方法だからと思います)

 とりあえずはそこでは、

「上司や先輩が経験に基づいて言ってくれたことは聴くんやで」

と部下に意識づけする、というのが解になるかと思います。


 そんなときある優秀な女性経営者さんとお食事し、この件を伺ってみました。

 この方の会社も大筋「承認」で統一されうまくいっていらっしゃるのですが、

 リーダー格の女性2人、AさんBさんが人格能力非常にしっかりされていて、かつ部下の不足については過不足なく適時に指摘する、ということができている人なので、

経営者さんは他の部下に対しては

「(中間管理職の)AさんBさんが注意してくれたりアドバイスしてくれることは、仲間に対して言うのは勇気も責任も要ることなんだから、大事に聴きなさいよ」

と、言われるそうです。

(ちなみにこの方は、とても人格の練れた方で、上記のようなことも押しつけがましくないやんわりとした言い方ができる方です)

 そして注意して憎まれ役になるAさんBさんに対しては、

「私は応援してるからね、追い風になるからね」

と伝えているそうです。

「大事なことですね」

わたしはタイムリーに、教科書に載ってない重要な現場の知恵を教えてもらったことに感謝しました。

「わたしも『承認』を教えている身ですが、その部分がなかったらゆるゆるの組織になってしまうと思います。中間管理職が勇気をもって注意すること、また上位者の方がそれを後押しすること、ほんとうに大事ですね、規律規範を維持するために」


このブログでも以前、ご家庭のお父さんお母さんお子さんの間のダイナミズムについて、「お母さんが叱り役の時お父さんが子供さんの肩を持ってしまう現象がある。ケースバイケースだが『お母さんの言うことをききなさい!」と子供に言ったほうがいいことが多いのではないか」てなことを、書いたことがあります。

子供に逃げ場を与えてやらなければ、という考え方もありますが、スマホ時代はむしろ子供の逃げ場がありすぎるんですね。叱り役の人の権威は、損なわない方がいい。


 読者の皆様、いかがでしょうか。皆様の職場に当てはまるところはありますか。

 なお上記のような、「中間管理職が注意する、上位者がそれを後押しする」というモデルは、やはりAさんBさんが上記のように人格能力的にも高く、注意することも的確に行い、パワハラ的な無駄な理不尽な言い方をしない、という前提のもとで是となります。


 AさんBさんがパワハラ的だったらどうするか?やっぱりそこを直すのが優先になりますかね…。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

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