正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

カテゴリ:学びに感謝 > アドラー心理学批判

現代アドラー心理学(上)画像
現代アドラー心理学(下)画像

 『現代アドラー心理学』(上)(下)(ガイ・J・マナスター、レーモンド・J・コルシーニ、春秋社、1995年)を読みました。

 ここでは、下巻の「教育」のところを主に読みました。アドラー思想の継承者として1に挙げられるのがドライカース、そしてそのさらに弟子の世代のコルシーニが個人心理学教育を確立し、個人教育学校を設立しました。

 「ほめない叱らない(No Reward No Punishment)」方針を徹底したその教育とは――。

 詳細ははぶきますが子どもたちは自分で自分の学びたい教科を選び、その選んだクラスに出席するもしないも自由である。テストは子どもが要求したときに行う。という徹底した自己責任を求められる。

 子どもが自分のクラスで騒いだら、先生は叱らない。叱るかわりに黙ってドアを指差す。すると子どもは教室から出ていかなければならない。もし指差されても出て行かなかったり、すぐに出て行かなかったりすればルール違反であり、ルール違反の回数がたまると退学になる。

 「叱らない」を標榜する学校の「叱る」に代替するものは、「排除」なのではないか?との疑問がわきます。

 それ以外には「共同体感覚」を増すようなグループワーク等の取り組みが行われ、共感できるところも多々あります。子どもたちはこうした学校に通うのが好きであるし、教師たちもこうした学校で教えることを楽しいと感じるといいます。

 ――うん、合わない子をどんどんドロップアウトさせれば、均質になって「楽しい」かもしれないですね。

 以前から、アドラー式子育てや教育には、「ドロップアウトを出すこと必至」の印象がありました。特定の資質をもった人や子どもさん――おおむね、知的レベルが高く言語能力の高い穏やかな気質の人――だけが対象になりやすい。そういう人たちだけを集めたら、たしかにエリート教育はできます。


 Wikiなどによるとこうした徹底したアドラー式の「個人教育学校」は1972年にハワイのワヒオワで設立されたのを皮切りに、最盛期の1980〜90年代には世界で12校ほどあったようです。その後閉校が相次ぎ、現在ではワヒオワ校をはじめ数校になっています。

 非常に高い教育の理想を掲げた、モンテッソーリやシュタイナーと同様のオルタナティブ教育のひとつなのではないかと思います。もし自分の子どもがそこに適合するような資質があり、かつ自分に資力があれば、子どもに与えてやれる可能なかぎり理想的な教育でしょう。


 この本の上巻では、アドラー派の学生たちが、「ほめ育て」の祖ともいうべき行動主義者のB・スキナーのベストセラーとなった著作を茶化して、「支配者と被支配者の論理」と揶揄してごっこ遊びをするようなくだりが出てきます(pp.50-51)

 この著作とは『ウォールデン・ツー』(邦訳『心理学的ユートピア』)というもので、小説家志望でもあったスキナーが行動主義を使った理想的なコミュニティを描いたもの。実際には単独の独裁者ではなく、数名のプラトン型哲人が集団指導式に社会をデザインしたらしいのだが、アドラー派の学生からみるとこれは独裁者による「支配―被支配」の世界に映ったようです。

 『嫌われる勇気』の続編、『幸せになる勇気』で、岸見一郎氏扮する「哲人」が「ほめ育ては独裁者の武器」という珍妙な論理を振り回していますが、これのルーツはここにあったのか、と納得がいきました。


 そして苦笑しました。アドラー派はアドラーの死後弟子たちもあらかたナチスに捕らわれて亡くなってしまい、一時期滅亡の危機に瀕しました。ブラジルに難を逃れたドライカースがアメリカに移住し必死で建て直しました。ドライカースは非常に戦闘的な人だったようですが、その建て直しの過程で、「アンチ・フロイト」「アンチ行動主義」がDNAとして深く刻み込まれたようなのです。

 いわば「ほめ育て」の悪口を言うのは、アドラー派の伝統に深く根差したもの。彼らのアイデンティティの一部なので、仕方のないことなのです。


 ちゃんとしたエビデンスがあれば、他流派のわるくちなど言わなくて済むんじゃないでしょうかねえ。

 「ほめない叱らない」と言いながら、アドラー派の教育にも「教師によるフィードバック」はちゃんとあるし、学生の長所を指摘するようなこともします。"No Punishment"と言うわりに、「問答無用で教室から出ろ」というのはけっこうキツい「罰」です。だから定義の仕方が変なのです。


 その他アドラー派の心理療法について、専門家のかたは学べるところがあるかもしれないが、わたしは個人的には「パス」です。現在「神経症」という病名そのものがどれだけ有効かも不明になっています。発達障害概念が生まれ、いまや人格障害も摂食障害も食べ物の好き嫌いも発達障害に関連して理解されるようになるなど、疾患名や病因の理解もドラスティックに変わってきています。アドラー派の人に言わせればそうした「病因」とか「基礎疾患」という発想も「原因論的だ」と一蹴されかねないので、話しても不毛であるように思います。(以前野田俊作氏に振ってみたが、発達障害と知的障害を混同していたようだった)

 わたし個人的にはアドラーの原著に人間的に共感するところは多々あるし、当時として革命的なことをした偉大な人だとは思いますが、今の時点であえて採用する意義はないように思います。

 
 ともあれ、アドラー派の人はフロイトの悪口を言いたいし行動主義およびほめ育ての悪口を言いたい。また、『嫌われる勇気』で「承認欲求を否定せよ」と言ったのと同様、アドラー派の人のブログやFacebookをみると「承認欲求」のことも貶す”風習”があるようで、これはわが国独自の「承認欲求バッシング」の尻馬に乗っているだけなようなのだが、とにかく何かの悪口を言っていないと気がすまない伝統のようです。


 というわけで、このブログでアドラー派のことを調べて書くのもそろそろ終わりにしたいと思います。いつかはこの時ならぬブームも自然消滅するでしょう。
 


 精神科医で、家族機能研究所所長の斎藤学氏から、『嫌われる勇気』についてのコメントをいただいた。斎藤氏は日本のトラウマ治療者としては草分け的な存在で、NPO法人日本トラウマサバイバーズユニオン理事長を兼任するなど、トラウマをもつ人の支援も行ってきた。

 フロイディアンである同氏からは、「フロイトをよく知らないでフロイトを批判している」「アドラー1人が屹立して他はダメだというのはどうか」と厳しい言葉があった。


 斎藤氏はコメントを引き受けられたあと『嫌われる勇気』を取り寄せて読まれたうえで、非常にきっちりとしたコメントをくださった。
 他の多くの先生方もそうだが、斎藤氏のコメントを引き受ける姿勢、コメントする姿勢には、とりわけ「これぞ知識人」と感銘を受けるものがあった。

 ご了承をいただき、謹んでブログに掲載させていただきます。


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 いい本だと思います。読みやすいし。しかしアドラーの心理学ではないな。
 著者がプラトンを研究している人ということなのでそちら側に引き寄せているのかも。アドラーの中の著者たちにわかりやすいところを抜き出している印象。

 しきりにフロイト的因果論を否定しているが、そもそもフロイト的因果論などというものはない。フロイトと言っても、初期、中期、晩期で言ってることはまったく違うんですよ。例えばフロイトは1886年に『ヒステリーの源流』で大人の子どもに対する誘惑(性的児童虐待)が後年子どもの神経症を作ると言った。その後彼自身が、この仮説を引っくり返してしまう。「フロイトの撤退」と呼ばれている事態で、その代わりに登場したのが「子どもは親たちからの被害を空想するものだ」というファンタジー説。そのファンタジーの中身が「エディプス・コンプレックス」です。

 ところが今の精神医学では彼が引っくり返す以前の説のほうが正解ということになっていて、児童期のインセスト・アビューズ(近親姦虐待)の成人になってからの障害(例:境界性パーソナリティ障害)をどう治すかということが課題になっています。1970年代以降、フロイトの空想説によって消えかかったシャルコーからジャネを経てフロイトにつながる外傷体験説が復活して今のPTSD論の一部を構成しています。脳図像学の発達によって心的外傷による海馬体の萎縮などが明らかになっているので、単なる「論」や「仮説」を越えた実体として治療対象になっているのです。

 確かに「子どものころ親に虐待されました。」で終わっては治療にならない。例えば私は外傷性記憶の曝露療法というものをやっています。外傷体験を言語化するのは苦しい。しかし過去を明らかにすれば治るなんて誰も考えてないので、目の前に居る患者の人格障害や解離性フラッシュバックという、「今、ここ」の苦痛の解消が私たち治療者の仕事です。他者に向けて外傷体験を曝露するという作業はあまりに痛いので、過去の外傷そのものは大した痛みでなくなり、過去のとらわれから解放されるのです。 

 以上がひとつの例で、この本には誤解(あるいは省略)が多すぎる。とは言っても私はこの本全体を否定するつもりはないのです。正しいこと、常識的なことも多いのですが、その多くは既にフロイトやその後輩たちによって吸収されてしまっています。例えばサリヴァンなどを読むと、アドラーとの類似に驚くでしょう。アドラー1人が屹立していて他はダメだといい、フロイトを否定して敵を作って叩いて売っているというのは商法ですよね。フロイトをよく知らないでフロイトを否定している。読む方はそんなことどうでもいいでしょうけれど。

――教育心理学の分野などでも常識の逆張りを狙って明らかに間違いということがベストセラー本に書かれ、学識経験者はあまりにもバカバカしいからと黙殺しているとそれが一人歩きするということがよくあります。

 変だよね、ということはいっぱいある。
 「承認欲求を否定せよ」などは、単なるレトリックですよね。あとの方で自己受容はいい、と言っているじゃないですか。受容は承認されることで生まれますから。何も根本的な違いはない。
 「トラウマは存在しない」という言い方は派手ですが、上に述べたように誤りです。アドラーは「トラウマは無い」と言っているのではなく、「トラウマを含む過去にとらわれてはいけない」と言っているのです。

 アドラーの代表的仮説である劣等コンプレックスや器官劣等性の概念は外傷体験というものを前提にした因果論そのものじゃないですか。これらはアドラーの代表的著作「Adler, A: Der Aggressionstrieb in Leben und in der Neurose.〔『日常生活と神経症における攻撃欲動』〕」(1908)に収められていますが、記述の仕方そのものが精神分析です。アドラーの著作は彼が望んだか否かは別として、精神分析を補完するものです。

 アドラーの評価を語るに当たっては、エレンベルガ―の書いた『無意識の発見』(第8章,邦訳,弘文堂)が参考になります。そこではアドラーに100頁ほどが当てられています。その前の第7章はフロイトに当てられていて、こちらは約200頁。公平な評価で、アドラーがフロイトに比肩される心理臨床家であることには間違いありません。その点、この本(『嫌われる勇気』)はアドラーを誤解させますね。

 アドラーは1902年から1911年まで精神医学会の4人の理事の1人でした。
 アドラーは、フロイトのエディプスコンプレックス仮説を受け入れられなかった。リビドーとは無関係に発生する攻撃性や権力意志が存在すると説いたのです。そしてそれは後期のフロイトによってもタナトス(エロスと対立して自己破壊に向う衝動)という言葉で説明されています。それと、アドラーはトロツキーの友人でもある社会主義者でした。フロイトは同じくユダヤ人の医者ですが、金持ちばかりを診ていたし、本来「大学の人」でウイーン大学の客員講師(後に客員教授)でした。アドラーにはこうしたことへの反発もあって、フロイトたちから離れたのではないでしょうか。

 1911年以降のアドラーは大衆への説教者になっていきます。説教をして、社会共同体の向上をはかる。これが何につながるかというと、自己啓発ですね。デル・カーネギーや『7つの習慣』などの。専門家でもなくて。扇動者とまで言わないが、大衆を集めて真理を説く人の元祖になりました。

 1920-30年のアドラーは社会状勢の読みがよかった。早々とアメリカに移ったので。フロイトのようにナチの迫害にも遭わなかった。恵まれない人たちの人間共同体にどう関心を向けるのかに力を注いだ。啓発者としてのアドラーですよね。その件に関してアドラーは偉大です。

 この本(『嫌われる勇気』)について憂慮するのは、この本を鵜呑みにする「無智な大衆」の中に大かたの精神科医も入ってしまうことです。実は医学生の訓練課程ではフロイトの「フ」の字も習いません。精神科医になってからも同じことです。未だに精神分析は学びたい者だけが時間とお金をかけて、苦労して身につけるものなのです。

 今や患者さんのほうが精神療法をよく知っています。自分が困っていますから真剣に勉強します。しかしその中には、ネットの解説だけでわかった気になってしまう人たちも出てくる。この本は150万部も売れているそうだから、わかった気になった患者がわかっているつもりの精神科医と出会うことも多々あるでしょう。

 そんな人の中で「トラウマはない」とか「過去は要らない」みたいなことが常識になれば、そういう親たちに育てられた子どもたちの問題が深刻なことになるでしょう。

 『嫌われる勇気』のオールオアナッシングの断定口調ぶりを、数字で検証してみた。

 とりあえず先日『暴力の人類学』(下)で学んだ、「統合的複雑性(integrated complexity)」の初歩のところを調べてみることにした。


 『嫌われる勇気』の文章の中の断定的な単語を抜き出し数える。「すべての」とか「あらゆる」とか「何もない」「誰も…しない」「いつも」「必ず」「絶対に」「無条件の」など。

 数えてみると、著者らのあとがきを除いた本文で349個。本文283ページ、1ページあたり1.23回断言口調があったということになる。ちなみに「すべての人の悩みは…」のように多用された「すべて」という語は55回登場した。一方「非断定的」な単語も数えてみた。「ほとんど」とか「基本的に」「多くの場合」など。こちらはわずか29個で、1ページあたり0.10個だった。

 これだけでは多いのか少ないのかよくわからないかもしれない。そこで、比較対象に先日読んだ『認められたい』(ヴィレッジブックス)をもってきてみた。熊代亨氏、怒るかな。

 『認められたい』に比較的よく出てきた「断定語」は、「〜だけ・〜ばかり・〜しか」などの語の後ろにつけて限定するもので、これが35回で最多だった。その次が「まったく(ちっとも)〜しない」で16回。全体では185ページに158回登場して、1ページ当たり0.85回。「非断定語」は133回で、0.72回/ページ。



 どちらの本もページあたりの文字数は同じようなものだが、念のためちゃんと字数を調べることにした。といってもおおざっぱに各ページの行数と1行当たり字数を数え、それにページ数を掛けて400字で割る。すると『嫌われる勇気』は505.155枚だった。『認められたい』は330.225枚。

 こうして分母をそろえたところで比較してみると下記のようになった(数字はいずれも400字詰め1枚あたりの出現回数)

『嫌われる勇気』
断定語   0.69
非断定語 0.0057

『認められたい』
断定語   0.48
非断定語 0.40

 やはり、『嫌われる勇気』の断定語が多いのがわかる。『認められたい』の1.5倍。アドラー自身は、「親相手に断定口調でものを言ってはいけない」と言った人なのだが。

 『嫌われる勇気』では非断定語が極端に少ないが、これは断定語を使いすぎて非断定語を使う余地がなかったのだろうか。あるいは非断定語を使うと自信がないように見えてしまうからだろうか。
 断定語の「すべて」を多用したり、「〜ばかり」「ちっとも〜しない」といったフレーズを読まされていると、それらの言葉の背後にある刺激の強い言葉で注目を集めたい幼稚な自己顕示欲か、あるいは他人への拒絶の姿勢、他人の行動に向ける強い嫌悪の視線のようなものを感じて、わたしなどは気分が悪くなってくる。だからこの本を最初読み通せなかったのだ。
 しかし自己啓発本の読者はこういう言葉が好きなのだろう。最近も筋トレを自己啓発に応用して「あらゆる悩みは筋トレで解決する」というフレーズをみた。断定語はマッチョでもあるようだ。

 またおもしろいのは、『嫌われる勇気』では「断定語」を「青年」も「哲人」も「地の文」も、それこそ「みんなが」言っている。三者とも「断定語」の使い手なのだ。こういうオールオアナッシング思考や過度な一般化の思考は、認知行動療法では「認知の歪み」と呼び、鬱になりやすい思考だからカウンセラーは修正を図ろうとするものだ。しかし『嫌われる勇気』の世界では、青年だけが「断定語」の使い手なのではなく、「哲人」も果ては「地の文」さえも「断定語」を使うのだから、始末におえない。狂気の世界に巻き込まれそうだ(途中、「哲人」がとってつけたように「神経症の人は『すべて』と言いやすい」云々と言うくだりもあるが、その「哲人」自身が「すべての」「あらゆる」を連発している)




 いっぽう『認められたい』は、極端から極端ではなく、もっと狭い振れ幅のなかでロジックが動く。
「○○な人も、××な人もいるでしょう」
「そうかと思うと、△△な人もいます」
等。
 文章が「キラキラ」でないから、わたしなどは安心して読める。一方、「キラキラ」文章ばかり読んで中毒になっている人だと、何が書いてあるかマイルドすぎてよくわからないかもしれない。
『認められたい』では、「〜だけ」「〜ばかり」が登場するのは、おおむね行動傾向が偏っていて特定の行動ばかりとりがちな人に向けられている。戒める文脈である。


 なお、こうして「統合的複雑性」を調べてみたが、
 1月にUPした『暴力の人類史』(下)の読書日記で、

 「統合的複雑性があまり高くない言語を用いる人々は、フラストレーションに対して暴力で反応したり、戦争ゲームに参戦したりする確率が高い。」

というフレーズがあることにも注意したい。それからしても『嫌われる勇気』を好んで読んでそれと同じ言語を使う人々がほかの人と平和的に共存できるとはとても思えない。





 ついでに便乗して、わたしの拙著『行動承認』の紙版も同じ尺度で測ってみた。

『行動承認』
断定語  0.26
非断定語 0.25

 断定語も非断定語も3冊の中で圧倒的に少なかった。3年前の本。

 これにはわけがあって、「統合的複雑性」の概念は執筆当時知らなかったが、この本のミッションというのはそもそも、読んだマネジャーに気持ちよく実践したいと思ってもらうこと。そのために、

,笋譴个垢瓦だ果の出るものだとわかってもらう
△靴し、反感を買ってはいけない。

 著者のわたしの語り口に少しでも強引なところがあったら、良識的なマネジャーは「引いて」しまう。「すごい成果が出ることは言っているけど優しい語り口でいっさい強引さのないロジック」という難しいかじ取りが必要だった。
 そのために断定語を極力省いた。非断定語も、恐らく使うとあいまいな印象を持たれてしまうのを危惧して省いた。数字で言えるところはできるだけ数字で言った。

 そういう工夫が読んだ人の「やりたい」と前のめりになる気持ちに直結しているかどうか――。

 でも自分が工夫したことが数字で証明できたのでちょっと満足している。


 わたしはわたしの文章を読んだマネジャーたちがわたしのように思考してもらいたいと思っている。緻密に細やかに、愛情をもって。幸い類は友をよぶのか、過去にわたしのもとに集まってくれた人たちは似たような言葉づかいをしていた。

 ちょっと最後は手前味噌がすぎたかもしれない。


 参考リンク・断定口調で話す専門家の予測は当たらないという研究

●断言する人は信用しないのが一番―『専門家の予測はサルにも劣る』
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51819125.html


 「トラウマは存在しない」というフレーズについて、
 女性や子どものトラウマ治療を多く手がけ、『赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア』(アスク・ヒューマンケア)などの著者である精神科医、白川美也子氏からコメントをいただいた。白川氏のクリニック「こころとからだ・光の花クリニック」のFBページのブログにて。

 ずしんと持ち重りのするような、最前線の治療者からのコメント。
 ご了解をいただきこちらにも転載させていただきます。

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【院長ブログ:ほんとうに「トラウマなんて存在しない!」のか?】

正田 佐与 (Sayo Shoda)​さんから「嫌われる勇気」という本を契機にしてアドラーの言葉として一人歩きしている「トラウマなんて存在しない」という言葉に関する2つの質問をいただきました。

【正田佐与の愛するこの世界】
http://c-c-a.blog.jp/


とても重要な問題だと感じたため、以下に考えたことをまとめてみました。

1.「トラウマは存在しない」という言葉は、現にトラウマに苦しむ人にとって二次被害になることはありえますか。

→文脈によって十分あり得ると思います。

2.「トラウマは存在しない」という言説に対してどのようなご感想をお持ちになりますか。快、不快でいうとどちらになりますか。

→これも文脈によります。実際「嫌われる勇気」は拝読しておもしろいなと感じ、クリニックの書棚においてあるくらいです。ただ正田さんのブログを拝読し、アドラーは、実際はそんなこと(「トラウマなんて存在しない」)とは言っていない、という詳しい検証を見せていただき、それはまた別の重要な問題だと思います。また、以前ある心理臨床家の論文に「トラウマは存在しない」という文章を見つけて、それは、心理療法全般におけるトラウマ治療の否定だと感じたため不快であり、問題を感じたことがあります(その論文がどうしても見つけられません)。

以下にどうしてそうお答えしたかということの説明を書きます。

よくトラウマ・ケアのトレーニングのときに、使う比喩ですが「俺、失恋してさ、トラウマになっちゃってさ」という男の子が、6ヶ月後には別の女の子と楽しくしていたら、それはトラウマではないという話をします。そのときにそのときのガールフレンドの記憶は既にセピア色のものになっているでしょう。

トラウマ記憶はそんなものではありません。どれだけ時間がたっても生々しく鮮明に甦ります。〔技間性、∩杁に苦痛な情緒を伴う、8斥佞砲覆蠅砲い、という3つの大きな特徴をもちます。ここに私が書く<トラウマ>の定義はPTSDの診断基準Aに該当する重篤なトラウマです(子どもは別ですが話が難しくなるのでまた別の機会にします)。

トラウマ記憶の実体はこれも比喩でしかありませんが、特殊なメモリーネットワークということができます。PTSDや、その他のストレストラウマ性疾患として現れることもあれば、再演なども含め、行動パターンとしてその人の人生そのものに影響を及ぼすこともあります。

そして、その様態は、その人が置かれた状況や体験、回復レベルなどで刻々と変化していきます。最終的には、ある体験が、現在から振り返ると、非常にそこから学べるよい体験だったと結論できることもできます。

ただ問題は、「そのこと」をどう捉えるかは、その時、その人にしか定めることができないものであるということです。すなわちトラウマ問題は、経験したことがない人は理解しにくいということも含めて、一般論では語りにくい問題であることは間違いないと思います。

そして、トラウマをどう捉えるか、ということについての治療論(目的論と原因論)の異なりと、トラウマがあるかないか、ということの混同が、話をより複雑にしています。

密かにファンであるゆうメンタルクリニックの漫画にアドラー心理学の説明として、目的論と原因論についてわかりやすく述べられています(ただし、再度書きますが、正田さんによればアドラーは「トラウマなどない!」とは言っていないそうです)。

http://yuk2.net/man/110.html

原因論と目的論の違いは、.肇薀Ε淆慮海砲茲辰鴇評が出ていることを重用しする(それに気づくこと、そこになんらかの操作を行うことで変化が起きる)、▲肇薀Ε淆慮海砲茲觚絨箴匹鮟纏襪垢襪茲蠅癲¬榲にむかってどういう対処を取るか・どういう考え方をしていくかが重要だと考えるーこの違いだと思いますが、多くのトラウマを診る臨床家はその2つの考えを柔軟に自分の臨床に活かしています。

たとえば、私であれば、通常の診察では感情に焦点をあてながら未来志向・解決思考的なソリューションフォーカストの話法を中心に問題解決を行ないつつ、リソースを形成し、対処スキルを増し、それでも課題がある場合、長めの時間をとってトラウマ=特殊な記憶ネットワークの処理を特殊技法で行う、というように、治療上の文脈に応じて様々な介入をしていきます。そうやっていろいろやっても治療が難しいのがトラウマサバイバーの治療なのです。

多くのトラウマに焦点をあてる治療を行ったことがなく、かつトラウマ治療を批判するセラピストは、トラウマ治療というのは、「過去にこだわる治療」だと考えているのだと推測します。

「赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア」に書いたようにトラウマの処理とは、患者の過去を癒すのではなく(実際にどうやっても過去に起きたこと自体は変えることができない:過去そのものを癒すことはできない)、そのような体験をしたことによってトラウマ記憶が生じ、それが患者の「今ここ」に影響を及ぼしていることに変化を及ぼして行くわけです。

多くのトラウマを重視しないと述べる治療者が、重度のトラウマを経験した方の治療経験を欠き、トラウマ治療の実際を知らないという現実が、さらに問題を大きくしています。

実際のトラウマ記憶に苦しむ患者を診たことのある治療者は、その生物学的なレベルで残る後遺症が、どれほど患者が「今ここで」を幸せに生活して行くかを阻害するかを知っています。

人の苦悩に対してどういうアプローチをするのか、<原因論を取るのか、目的論を取るのか>ということと、<トラウマがあるのか、ないのか>という考えを混同しないでほしいと思います。

自分の治療的な立場が目的論<のみ>で(実際にそれでいけるということは、素晴らしいセラピストであるか、重篤なトラウマサバイバーの治療を行なったことがないか、あるいは壮絶な被害を体験した直後の方にも出会ったことがないか、のどれかであると思われます)あったとしても、もし、その治療法のみでうまくいっていたとしても、一般的に「トラウマという現象がない」というような安易な机上の論考をしないでほしいと切に願います。


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 非常に「熟考」してくださった白川氏。丁寧に完成度の高い文章として、コメントを執筆してくださった。この記事は既に10数件「シェア」されている。
深く感謝します。
 
 実は、心底「この件でコメントをいただいて良かった」と思ったことが、白川氏のこのご投稿の直後にあった。投稿についた読者コメントの中に、こういうものがあったのだ。

「患者さんがアドラー関連書を読み、トラウマがないなら今の私は何に苦しんでいるんだと混乱されていました。
正しい知識が広まることをねがうばかりです。」

 やはり、あるのだ。


 このところの見聞で、『嫌われる勇気』のコアな読者層は自己啓発本のヘビーユーザーの読者層なのであろう、その層にだけ通じる言語で書かれているのであろうと思っているのだが、

 それがすでに155万部の「国民的」ベストセラーとなり、一人歩きしている。書かれている文言も一人歩きする。

 そうなった今、”実害”も既に出てきているのだ。

 もはや、「若者世代の軽口」と見過ごしていい段階ではなくなった。


 というわけでこの問題の追及はまだまだ続きます。。


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 そんななか、正確には今月22日、当ブログは通算来訪者40万人の大台に乗った。ブログ開始から40年、じゃなかった12年。

 ベストセラーと比べ一けた少ない(泣笑)けれど、ここまで支えてくださった読者の皆様に感謝。





 

 ブログ読者の40歳女性、NYさんからメールをいただいた。
 ちょっと疲れ?が出ているわたしには涙が出るほどありがたかった。

 ご了解をいただき2回のメールをご紹介させていただきます。

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岸見氏の講演参加、また質問状のやりとりお疲れ様でした。
講演中、嫌なストレスをお感じになりませんでしたか?
ご体調に悪影響かないか少々心配しております。
くれぐれもご無理はなさらないでください。

正田先生が火中の栗を拾うかのように、
アドラー批判をはじめ正しく現実的な情報を発信してくださっているのに、
なかなか有益なお手伝いが出来ず、申し訳ありません。

個人的には野田俊作氏がおっしゃる、理論と技術の違いとう部分を納得しました。
身近に医者しかも外科医がいるからかもしれませんが、
理論がわかっても技術が追いつかないと、手術はできません。
手技が下手な外科医は、いくら理論を知っていても、患者の命を危険にさらします。

そういう意味で、岸見氏は理論家(それも正田先生の分析によれば、それもあやしいですが)なのかもしれませんが、
その理論は手技を伴わないものだということ。
そう考えると、あの本の位置づけわかった気がしました。

「嫌われる勇気」は空想の話=フィクションで、現実世界に適用できるものではない。
だが、なぜか読者のほうが現実世界に適用できると勘違いして、
(あるいは勘違い生むように岸見氏他の関係者は振る舞っている?)
その勘違いを誰も訂正しないまま、今に至っている。

アドラーのような自己啓発とも重なる分野の話は、
その性質上、理論と実践の整合性をチェックすることが難しいのだと思います。
そんな中、正田先生が反証や検証をしてくださっていることは
本当にありがたいことだと思います。

嫌われる勇気のような本が売れる背景を思うとき、
現代社会の問題の深刻さを考えてしまいます。
中庸を忘れ、多様性や寛容さといった人間の知性やあるいは思いやりを軽んじるような風潮が人の心を浸食している気がします。
嫌な世の中ですが、そういう現実を変えて行くのもやっぱり一人一人の心と実践なので、
行動承認の実践は、善い変革のもとになる1つの大きな実践と思います。
「まずは、ささやかでもできることから」を、自分も心がけたいと思います。


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正田先生

お世話になります。

メールのブログへの掲載、どうぞお使いください。
お返事がおくれてすみません。

ブログやメルマガの読者の多くの方が、
私と同じような想いを感じていらっしゃると思います。

その後の、著者、編集者の皆様のお返事をよませていただくと、
正田先生の質問に正面から回答することはさけていらっしゃるようなので、
たぶん、彼らの視界には、先生が指摘されている深刻なトラウマを抱えた少年だったり、
あるいは褒め育てて成果をあげている教師や組織のマネージャー層というのは
全く入っていないのだと思います。

また幸福や自由、あるいは勇気についても、
例えば貧困や虐待、あるいは戦争、人種や宗教による差別、
などの理由によってそれらを享受することが不可能な人々にとっての幸福や自由、
あるいは勇気については考えが及んでいないのだと思います。

なので、「誰もが」の意味するところが、先方とこちらでは乖離していて、
議論の前提が噛み合ないのではないでしょうか。

私は、やはり「誰もが」の中には、
やはり貧困や虐待、あるいは戦争や差別に苦しむ人が含まれているべきだと思いますし、
もしそういう人々が対象者に含まれないならば、
誰もがという表現を使うことは不適切にも感じてしまいます。

そういう部分にそれほど過敏になる問題ではないと言う意見が大半なのかもしれませんが、
正田先生のおっしゃるように例えば公教育だったり、社会的に影響力の大きい組織や団体が、
弱者に対する眼差しを欠いた思想を積極的に採用することは危険だと思います。
そういう意味では、やっぱり今の状況はかなりおかしい、危ない状況にも思えます。

私はアドラー心理学も、教育も門外漢なので、的外れなことを考えているのかもしれませんが、
私のように感じるものの先生の読者の中にはいるということをお伝えすることが
少しでも先生のパワーにつながるといいのですが。


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 NYさん、ありがとうございます。しっかりパワーになっていますよ。

 気がつくと「独走状態」なのである。「アドラー心理学批判」では。
 今月初めからGoogle1-4位独占、Yahoo!1-6位独占になり、その状態が続いている。

 新聞はじめ大手メディアは2月10日に日本アドラー心理学会のフジテレビへの抗議文掲載を報じたあと、また「だんまり」になっている。
 出版界、広告料への気兼ねだろうか。

 だから「独走」していてもしょっちゅう考える。本当に正しいことをやっているのだろうか?わたしの独りよがりではないのか?

 そういっているうちに豊中市の国有地の学校法人「森友学園」にたいする売却価格の問題と、同学園の認可が下りない可能性が報じられた。

 結びつけるのは強引すぎるかもしれないが、「おかしい」と感じたことはおかしいと言わないと。今、そのセンサーが「いいね!」や「ほめない叱らない」「怒らない」のはんらんでで皆さん弱っているのかもしれない。


 
 いろんな形でお友達が支援してくれる。NYさんのようにご感想を寄せてくれる人、アドラー関係の催しに「潜入ミッション」をするわたしにイベントの案内をしてくれる人、そしてFacebookで「いいね!」をつけたりコメントしてくれる人。


 そしてここまで、当ブログに貴重なコメントをくださったトラウマ支援者の方、精神科医、小児科医の皆様、ありがとうございます。









 表題の通り、『嫌われる勇気』の編集者、(株)コルク 柿内芳文氏より当方の質問へのご回答をいただいた。
 心の準備をされていたのか、若干丁寧な文面だった。

*******************************************

正田佐与様

先日は不在で電話に出れず、たいへん失礼いたしました。
『嫌われる勇気』および『幸せになる勇気』の編集を担当した、コルクの柿内芳文と申します。
このたびはご質問をいただき、まことにありがとうございました。

わたしは編集者として、「自由」や「幸福」、また「勇気」をテーマに、わたしたちが幸せに生きるための提案のひとつとして、両書を出版したつもりです。
また、現在たくさんの読者の方々からご支持いただいている理由も、わたしたちの真意が届いた結果ではないかと受け止めております。
ご意見、ご批判は真摯に受け止めたいと思いますが、そうしたわたしたちの制作意図をお酌みとりいただけますと幸いです。
なにとぞ、よろしくお願いします。 柿内拝


*******************************************


 「自由」や「幸福」、また「勇気」をテーマに。

 かっこいい言葉だ。クリエイターなら誰しも一度は言ってみたいであろう。

 ともあれ、二人の著者・編集者計3氏の回答はこれで出揃った。




 柿内氏の回答内容とは別に、このところモヤモヤしていること。

 質問リストに書いたように、社会の分断は本の作り方、いやクリエイティブな仕事全般に現れているのだろう。

 本が読まれない。だから今の出版界でメガヒットを作ればそれは間違いなく出版社の功労者で、
 「ヒットを作ればいいんだろ」という「勝てば官軍」の姿勢にもなる。

 またヒットが出ると、
「これ本当は問題はらんでるよ。ほどほどのところで撤収しようよ」
というような「慎重論」は出てこず、韓国へ台湾へ中国へ「アドラー女子」へTVドラマへ、ガンガン売りまくる。

 そして怖いのは、本というメディアが今読む人・読まない人にくっきり分かれているために、
 「本を読まない層については何を書いてもいいんだ!」
という姿勢になるかもしれないこと。たとえば「トラウマは…」のように(本当にそうなのかどうかわからないが)

 それは当然、差別の固定化・激化にもなるだろう。

 「今までにない、新しい切り口」
ともてはやされるものが、実は単に自分と異なる層への想像不足なだけで、見る人が見ればとんでもないものかもしれない。単に良識的なクリエイターがそこまでやらなかった、というだけの。

 こんなことを考えるのがわたしだけなのだろうか、出版界のことだけに相互批判が生まれにくいのだろうと思うが、ちょっと怖い。


 来ないかと思っていたら古賀史健氏(『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』共著者)から、本日ご返信が来た。

 内容的にはほぼ、先日の岸見一郎氏と同様の文面。

ダイヤモンドオンラインのこちらの記事などによれば、古賀氏が岸見氏に『嫌われる勇気』の企画を持ちかけ、10数年越しで実現したのだという。

 古賀氏の回答内容から紹介させていただこう。


正田様

先日はお問い合わせありがとうございました。『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』共著者の古賀です。
ご質問の中、初めて耳にするようなお話も多く、幾分困惑しております。ただ、さまざまなご意見に対するわれわれの思いは、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』両書の中で述べられており、特にこれ以上申し上げるべきことはないように思われます。われわれとしましては、両書を「人は誰でも幸せになることができる」「勇気をもって一歩を踏み出そう」という希望的なメッセージを届ける本としたつもりです。
正田様のご著書が有益な一冊となりますことを祈念しております。

古賀史健



 ちなみにわたしからの質問状は9問で、先日の岸見氏に宛てたものより少し詳しくなっている:

株式会社バトンズ
代表取締役社長 古賀史健 様

はじめまして。先ほどはお電話で大変失礼いたしました。わたくしは正田と申します。神戸に住む研修講師兼ブロガーです。『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』とそれらが生み出した社会現象について調べ、書籍にまとめさせていただこうとしております。
共著者である古賀様に、お忙しいことと存じますが、ご質問をさせていただきたいと存じます。以下のご質問にお答えいただければ幸いです。
(すべてが難しくても、答えやすいご質問にだけでもお答えください。)

1.『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(以下「両書」と略)の中で「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」など、読む人の置かれた状況によっては非常に残酷な言葉が使われています。このことについてどうお考えですか。

2.「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」は、既にネットやメンタルクリニックのキャッチフレーズ、常識のウソ本などで二次使用、三次使用されています。このことについてどんなご感想をお持ちになりますか。

3.両書に出てくるフレーズで、上記の2つを含め、アドラーが実際には言っていない言葉や、実際に言ったのとはほど遠い言葉が多数あります。本を作るにあたってアドラーの原著を参照して確かめるということはなさらなかったのですか。

4.「承認欲求を否定せよ」は、まともにその通りやると抑うつ的になるだろうという精神科医からの指摘があります。また「トラウマは存在しない」というフレーズは、現にトラウマに苦しんでいる患者さんが二次被害に遭ってしまう可能性があり、いずれも深刻な事態を招くおそれがあります。こうした本を作りアジア各国で400万部も売ったことについての社会的責任についてはどのようにお考えですか。

5.岸見一郎氏の『アドラー心理学入門』『アドラー心理学シンプルな幸福論』(いずれもベスト新書)では、まだ「承認欲求を否定せよ」という言葉は入ってきていません。この語を『嫌われる勇気』に入れるよう進言されたのは古賀様ですか。またそれはなぜですか。

6.『幸せになる勇気』では「ほめ育て」について、独裁者の武器であるかのように言っている箇所があります。全国にはほめる教育で成果を上げ、ひたむきに従事している多数の先生方がおられますが、その先生方の心を傷つけることはご想像されませんでしたか。

7.『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』がともに、深刻な状態の弱者を視野に入れておらず、「社会の分断化の象徴」という見方をされることについてはどんなご感想をお持ちになりますか。

8.韓国での熱狂的な歓迎にみられるように、「経済的に深刻な状態の国の抑圧された若者にとって絶望を固定化させる書物だ」と見られていることについてはどんなご感想をお持ちになりますか。

9.最終的に、両書はどんな読者にどんなメッセージを届けたいというコンセプトでしたか。

以上
ご質問は以上です。何卒よろしくお願いいたします。


 質問状を送ったのは13日だったので、1週間後に回答がきた。

 

 ちょうどこれと前後して、日本アドラー心理学会からもご回答がきていた。

正田佐与様

ご返信がおそくなり、申し訳ありません。
当方の状況についてご配慮いただき、感謝申し上げます。

さて、ご依頼の件について、理事会にて検討させていただきました。
結論としては、取材はお断り申し上げます。
理由は、当学会はテレビドラマ『嫌われる勇気』について株式会社フジテレビジ
ョンに抗議をいたしましたが、岸見一郎氏の学説そのものについては、現段階で
は態度を保留しております。したがって、これについては公的な立場でコメント
できることはありません。また、テレビドラマ『嫌われる勇気』に対する抗議内
容は抗議文に書いた通りで、それ以上コメントすることはございません。従いま
して、取材していただいても、お答えできる内容がございません。

ご期待に添えず、申し訳ありません。


日本アドラー心理学会会長
中井亜由美


*******************************************
日本アドラー心理学会
〒532‒0011 大阪市淀川区西中島3‒8‒14‒502
TEL:06‒6306‒4699 FAX:06‒6306‒0160
Mail:lem02115@nifty.com
*******************************************



 というわけで、取材へのガードは固い。
 でも理事会にもかけていただいたということだし、当方の真摯さは理解してくれたようだ。


 ”宿題”は少しずつやっている。

 きのうは急に下血してしまった。お友達に「もう免疫つきましたから〜」などと言っていたが、ちょっとストレスだったかな。





 




※先ほど、誤ってタイトルをデフォルトにしたままメルマガを送信してしまい
ました。読者の皆様には、ご不審に思われたのではないかと思います。改めて
タイトルを変更したものを送信させていただきます。メール受信件数を余分に
増やしてしまい誠に申し訳ありませんでした。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ・・・……<<<エウダイモニア通信>>>……・・・
発行日 2017.2.20
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ※「エウダイモニア」は「幸福」、また「栄える」という意味のギリシア語
です。
 「業績1位」の山を築いてきた承認マネジメントの研修講師・正田佐与が、
経済的繁栄を含めたわたしたちの「幸せ」についてご一緒に考えるメルマガで
す。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントや
セミナーにご来場いただいた方にお送りしています。
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【1】 アドラー心理学特集:
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     これが最先端の「アドラー心理学批判」だ!
     岸見一郎氏、野田俊作氏とのやりとりも収録。

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【1】 アドラー心理学特集:
     Yahoo!トップ6、Googleトップ4達成。
     これが最先端の「アドラー心理学批判」だ!
     岸見一郎氏、野田俊作氏とのやりとりも収録。

 アドラー心理学をベースにした人生論の書『嫌われる勇気』とその続編、
『幸せになる勇気』。今月初め時点で、2冊合わせて日本・韓国・台湾・中国
で計400万部を超えるメガヒットになっています。メルマガ読者の皆様も手に
とられた方が多いでしょう。
 しかし、その内容に「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」など、
アドラーが言ってもいない「捏造語録」や、アドラー心理学としても一般的で
ない、かつ人の心身にとって有害なことが多数含まれている…ということは、
まだあまり広く知られていません。
 今月10日には、同書を原案とした関西テレビ系ドラマ「嫌われる勇気」が、
「アドラー心理学に対する誤解を招くおそれがある」と、日本アドラー心理学
会からの抗議を受けています。
 わたくし正田は昨日、兵庫県教委播磨東教育事務所・加古川市教委・加古川
市PTA連合会の共催による岸見一郎氏の「アドラー心理学講演」に約1年ぶり
に行ってまいりました。
 そこでは、同氏が相変わらず「ほめない叱らない」という、非科学的な子育
てのお話をしていました。
 大新聞やTVはアドラー心理学と『嫌われる勇気』を礼賛するばかり。一方、
拙ブログ「正田佐与の愛するこの世界」での「アドラー心理学批判」のシリー
ズ記事は検索エンジンから高く評価されており、本日現在、Yahoo!でトップ6、
Googleでトップ4にランキングされます(いずれもPC版)。
 昨日未明は、下記のように岸見一郎氏本人から、不完全なものですが質問へ
の回答を受け取りました。「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」
など、有害なフレーズを含む本をなぜ上梓したのか、読者の置かれた状況によ
ってはこうしたフレーズで深刻な影響を受ける人が出ることをなぜ想定しなか
ったのか、についての回答です。
 今号のメルマガは、「アドラー心理学批判特集」として、一連のシリーズ記
事の主なものをご紹介いたします。
 わたしは、お出会いするすべての方々が正しい情報を知り、その方々と共有
しながらお話をできることを願っています。
 なぜか、ここでしか読めない本当の話。お仕事のかたわら、どうぞご覧くだ
さい:

●「人は誰でも幸せになれる」「私たちの思いはすべて両書の中に」『嫌われ
る勇気』著者岸見一郎氏への質問とその回答(2017年2月19日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51953105.html

●重い傷を負った少年たちとともに「トラウマ」と向き合う――土井ホーム・
土井高徳氏の話(同2月17日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51953044.html

●三たび野田俊作氏が口を開く 岸見氏の問題は「手術じゃなくて解剖」(同
2月14日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952959.html 

●精神科医・熊代亨先生より「トラウマは本当に『ある』?/目的論・原因論
どちらを重視?/承認欲求を否定したらどうなる?(同2月10日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952757.html 

●トラウマの存在と野田氏との最後のやりとり(同2月4日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952515.html 

●野田俊作氏との対話。トラウマ、米国でのアドラー心理学、承認欲求、その
他。(同2月2日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952455.html 

●岸見氏の「脳内混線」の起源を探る――『アドラー心理学入門』をよむ(同
2月1日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952397.html 

●アドラー心理学批判 再度のまとめ:オールオアナッシングと「明確に否定」、
バグだらけのプログラム…『嫌われる勇気』は発達障害者の自己正当化だ!懸
念される「アドラー心理学鬱」(同1月14日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51951658.html 

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
(2016年5月29日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html 

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在し
ない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪(同5月30日)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

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 ┃今日の一筆箋  
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 梅の季節となりました。わたしの住む六甲アイランドにも梅林があり、紅白
の花が清らかな香りを運んでくれます。

※今号の「ユリーの星に願いを」は、お休みです。

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┌─<<現役マネージャー必読!>>──────────────────>
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100年後に誇れる教育事業をしよう。

 発行者 正田佐与承認マネジメント事務所代表 正田 佐与

◇―――――――――――――――――――――――――――――――――◇
このメールは転送歓迎です。

 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の主著者、岸見一郎氏にメールで質問をした。
 1週間後のきょう未明、メールでご回答があった。
 質問と回答を原文のまま掲載。

 なお共著者の古賀史健氏、編集者の柿内芳文氏にもメールで同様の質問を出してみたが本日まで回答はない。
 岸見氏の回答文中の「私たち」とは、古賀氏や柿内氏まで含むものと解してよいのだろう。


*******************************************


岸見 一郎先生

初めてお便りいたします。
わたくしは神戸で管理職教育の研修講師・ブロガーをしております、正田佐与と申します。
現在、「アドラー心理学の真実」について、本にまとめようとしています。

『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』その他講演でのご発言について、岸見先生にご質問したいことがございます。
ご質問内容は以下の通りです。


1.『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』のほ中で「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」など、読む人の置かれた状況によっては非常に残酷な言葉が使われています。このような配慮に欠ける本をなぜ作ったのですか。

2.上記のフレーズをはじめとして、アドラーが実際には言っていない言葉や、実際に言ったのとはほど遠い言葉、真逆の言葉が多数あります。アドラー心理学が社会から誤解を招くリスクはお考えになりませんでしたか。

3.「承認欲求を否定せよ」は、まともにその通りやると抑うつ的になるだろうという精神科医からの指摘があります。また「トラウマは存在しない」というフレーズは、現にトラウマに苦しんでいる患者さんが二次被害に遭ってしまう可能性があり、いずれも深刻な事態を招くおそれがあります。こうした本を作り400万部も売ったことについての社会的責任についてはいかがお考えですか。

4.『嫌われる勇気』また『幸せになる勇気』の文章は、いずれもフロイト学派やほめ育ての手法、承認論などへの強烈な対抗意識を含んでいます(本来のアドラーの思想はここまで露骨に他の手法を貶したりはしていません)。それらの人々のこれまでの実践を侮辱し、それらの人々の感情を傷つけるということは事前にお考えになりませんでしたか。

5.本日、フジテレビ系ドラマ『嫌われる勇気』の内容について、日本アドラー心理学会が抗議したことが報じられました。同学会はこれまでにも岸見先生にコンタクトを試み、ドラマの内容がアドラー心理学への誤解を招いていることについて善処を要望していたときいております。岸見先生はドラマの内容についてどの程度の指導等をされたのでしょうか。


ご質問は以上です。できれば、これらのご質問について、お電話か面談でお答えいただけたらと存じますが、お忙しければメールでも結構です。
本日より1週間以内、2月19日までにご回答もしくはお電話または面談によるご回答の日程設定をお願いできればと存じます。


※尚、野田俊作先生は、厳しいご質問にも真摯にお答えいただき、対話から逃げるようなことはされませんでした。
真実のアドレリアンはそうしたものだと思っております。

何卒どうぞよろしくお願いいたします。



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 100年後に誇れる人材育成をしよう。
   正田 佐与(しょうだ さよ)
正田佐与承認マネジメント事務所

‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥


正田様

ご連絡いただきどうもありがとうございます。
私たちとしましては、『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』によって特定の方々を傷つける意図はなく、アドラーの思想をベースに「人は誰もが幸せになれる」という大きなメッセージを投げかけたつもりでいます。ご批判は真摯に受け止めたく思いますが、私たちの思いはすべて両書の中に込めてありますので、それ以上のご返答は差し控えさせていただきます。
どうもありがとうございました。

岸見 一郎(ichiro kishimi)



*******************************************


 さて、上記の回答の中で岸見氏は「『人は誰もが幸せになれる』という大きなメッセージ」と言う。確かに『嫌われる勇気』も『幸せになる勇気』も最終的に同様のフレーズを謳っているが、しかし承認欲求を否定した人が幸せになることはそもそも不可能である。できるとしたらそれは認知能力の重篤な障害のある人が主観的にそう思っている、という世界だろう。そしてトラウマを負っているのにトラウマを否定される人も…。

 「人は誰もが幸せになれる」という言葉を言えば、ほかのことすべての免罪符になるんだろうか?

 ともあれ、岸見氏古賀氏柿内氏への質問というのは非常に気の重いフェーズだったので、少し肩の荷を下ろした気分だ。

 今日はいい天気。

 『嫌われる勇気』について調べるなかで、引き続き様々な関係者にご意見を伺っている。
 Facebookでご縁をいただいた、土井ホーム運営・土井高徳氏のコメントを、ご了解をいただいてブログにUPさせていただく。

 子どもたちの中でももっとも重い傷を負った、被虐待経験や少年犯罪、非行の経験をもつ少年たちを受け入れ、日々目の前にみて向き合い、励まし、時には真剣に叱りもする土井氏の目には、「トラウマは存在しない」が一人歩きする現状はどう映っているだろうか。


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 こうした、「トラウマは存在しない」が一人歩きしている現状について、「トラウマ」を抱える当事者と現在形で向き合っている支援者はどうみているだろうか。
 福岡県北九州市で、深刻な発達上の課題を持つ少年を多く受け入れている里親型ホームを運営する土井高徳氏にお話を伺った。

 土井氏は1970年代から不登校や引きこもり、ネグレクトの少年たちの支援を行ってきた。今世紀に入ってからの支援は、親から虐待された過去を持つ少年を多数受け入れるようになり、治療的専門里親として少年の生活全般を建て直す方針になっている。
 土井ホームで受け入れた少年たちは、家庭や児童養護施設で激しい虐待を受け、虐待の影響によって解離症状などの深刻な精神医学的症状を見せる少年、深刻な少年犯罪や非行、逸脱行動を表出する少年、不眠や抑うつ症状、自傷行為を見せる少年など、深刻な状態の少年ばかり。このような虐待と発達障害の重複という子どもも多い。少年同士の激しい対立が起こり、警察を呼ぶことすらあった。

「トラウマは存在しない」というフレーズが独り歩きしていることについて、土井氏はこう語る。

「トラウマ概念は紀元前8世紀のホメロスのイリアス、紀元前5世紀のヘロドトスの著作物にトラウマ類似の事例が記載され、戦争神経症、鉄道脊椎症候群などと時代時代で報告されてきました。こうした驚愕反応や侵入症状などの中核症状は、フロイト、フィレンツ、ジャネによって次第に明確化され、戦争体験者、大規模災害やユダヤ人収容所の生存者、性被害者などに広く認められる症状として、1980年にアメリカ精神医学会によって提唱され、引き続き1992年にWHOの診断基準に掲載されたという歴史があります。トラウマの存在を前提とした診断と適切な治療や援助は、臨床医学や臨床心理学、保健学や看護学などの分野ですでに確立されたものであることは論を待ちません。」

 児童養護施設で同室の子どもの体の50か所以上にやけどを負わせ、年下の男の子に性的いたずらをするなどして土井ホームに入所してきたA少年のケース。
 入所後も、少年の暴力と規則に従わない行動、それに解離症状は折に触れ噴出した。A少年も大事だがホームの他の少年も守らなければならない。このため土井氏はA少年に対して4点の指導方針を決めた。
1.「再演」としての逸脱行動に対する「強い枠付け(禁止)」
2.自分自身の行った行為に対する事実とそれに対する感情の徹底的な言語化
3.逸脱行動の背後にあるこれまでの心的外傷の語り
4.加害少年と被害少年との修復的司法の取り組み

 土井氏はA少年の被害にあった少年2人から聞き取りを行い、A少年による暴力行為の内容を確認。続いてA少年と面接を行った。
 A少年は身体的暴力だけでなくペットボトルの小便を飲ませるなど、性的暴力も行っていた。土井氏はA少年に、
「ひとが苦痛を覚えることを力で強要するのは最大の暴力だ。やってきたことはおまえ自身が施設でされてきたことではないか」
と施設での体験を話すように促した。するとA少年は激しい葛藤の表情を見せ、話すことへの強い躊躇を示した。
 土井氏がさらに
「つらく傷つくような体験をいっぱいしてきたと思う」「そうした体験をじっと心に隠しているといつまでもそのことに囚われてこころが晴れない」「言葉にすることで自由になれる」と促すと、A少年はようやく以下のような体験を語り始めた。

A少年:「養護施設では、小学生の間はまだ良かったが、中学生になったころからいじめが酷くなり、態度が悪い、言葉遣いが悪いと殴られたり蹴られたりした。子どもたちが囲んだ中で年長児とのたいまんを強要され、ボコボコにされた」「首を絞められ喉から血が出た」
土井氏:「施設の卒業生によれば、風呂場が一番苦痛だったとT教授から聞いたが」
A少年:「熱湯や洗面器に入れた小便をかけられた」「気を失うまでお湯に体を沈められ、浴槽のお湯を飲め、飲まないと殴るぞと強要された」
 その後A少年は施設で年長児3人から性的暴行を受けていたこと、自分も下級生に性的暴行をする側になったことなども語った。
 土井氏は「そうか、辛かったな。施設での出来事をよく勇気をもって話してくれたな」
とA少年を評価した。そして、ホームの多くの少年が家族愛に恵まれない中でA少年には母親や姉がいること、また土井氏の夫人がA少年を受容的に処遇したいと言っていることなどを語ってきかせた。A少年は号泣した。

 「明日からがんばるな」と土井氏とA少年は握手。「ただし再発した場合は即座に断固とした処置をとる」と告げた。面接終了は夜中の11時15分だった。
 「トラウマ記憶の言語化」については、90年代アメリカで「記憶の捏造」が訴訟問題にまで発展し、そのために今でもトラウマの存在に懐疑的な精神科医もいる。土井氏は大学の先生や出身施設など少年の周囲から情報を得ることでその問題をクリアしている。

 翌日、A少年は被害を受けた少年2人に謝罪。被害少年たちも謝罪を受け入れた。
 A少年はこの後、トラブルを起こすことはなかった。暴力の再発はなく、周囲からも「A少年は変わった」「以前は暴力で解決しようとしていたが、今は言葉で解決しようとするようになった」という評価の声が上がった。やがてコンビニエンスストアで高校の放課後アルバイトをするようになり、地場の企業に合格し、会社の社員寮に入ってホームから巣立っていった。

 土井ホームでのこのエピソードを紹介したのは、ほかでもない。
 「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」に代表される、まったくの「頭でつくった言葉」がベストセラーに載り、一人歩きしている状況にNOを言いたかったのだ。
 切実にトラウマに苦しみ、自分が苦しむのみならず周囲にまで苦しみをもたらしてしまう当事者がいる。そしてその当事者と「本気」で向き合う支援者がこの地続きの世界に、いる。

 土井氏に、「目的論か、原因論か」について問いかけるのもいささか「野暮」のような気がする。氏の手法は、発達障害児への支援技法(構造化など)を加味しているが、基本的にオーソドックスな行動療法。そして上記のA少年に対しては、「トラウマを言語化する」という、認知行動療法の手法も使っている。大いに「原因論的」といえる。
(実は、筆者も自分の子がいじめによって不登校になり、鬱が治り元気になりはじめた頃家族にたいして荒れた。このときに「いじめっ子にされたことを言語化する」ことを勧めたことがある)

 あえて土井氏に伺ってみた。
Q.土井ホームで受け入れているような深刻なトラウマを抱えた少年について、この例のように原因にさかのぼって言語化してもらうことは多いですか?全体の何割ぐらいのお子さんにこういうアプローチをしますか?

A.子ども支援はマラソンです。まず安全感のある環境を保障し、内面で言語化の用意が十分に整ったことを見極めてから取り組みます。準備のできないうちに言語化を急ぐと回復の基礎が崩壊するからです。
 基本、虐待などの被害体験がどの子にもあり、その被害が加害へと転化した深刻なケースを長期にわたって取り組むことも少なくありません。「安全」、「相互性」、「回復・自立」という段階をゆっくりと穏やかに円環的に進めていきます。このようなアプローチはどの子に対しても同様です。子どもの傷の深さによって、「安全」の段階で回復する子も「相互性」の取り組みによって回復する子などそれぞれです。現場と子どもは実に個別的で、ケースバイケースす。
それと同時に、最近ではこうした「リスク管理モデル」から「長所基盤モデル」へとスライドし、子どものストレングスやレジリエンシー重視という方向へと向かっています。その際に、私たちと子どもにとどまらず、子ども同士の相互性を生かした言語化という取り組みを行っています。」

*******************************************

 ちょうど奥様がインフルエンザで発熱、ホームレスの少女が来訪するなど大変な取り込み中のさなか、いただいたコメントだった。
 重い。でもこちらが確実に真実だ。

 ウソや軽い言葉より真実を尊ぶ私たちでありたい。

 この場を借りて土井高徳氏に深く感謝します。

 元アドラー心理学会会長、現アドラー・ギルド代表の野田俊作氏から再度メールのご返信をいただき、公開をお許しいただいた。

 今回は、正田から『嫌われる勇気』の中のアドラーの言葉の”捏造疑惑”についてお問合せしたことへの回答として。

 余談だが野田氏は日本人として初めてアドラー心理学をアメリカで学び日本に持ち込まれた方。帰国の2年後に日本アドラー心理学会を設立、初代会長に就任されている。正田はカジュアルにメール差し上げているが…偉い方なのだ。

*******************************************

岸見氏は、私などよりははるかにアドラー自身の文献には詳しいので、彼が言う
ことは、探せばどこかに出典はあるのだろうと思います。また、出典があろうと
なかろうと、そこが問題ではないと思っております。むかし(1960年くらいまで
かな)のフロイト派は、「あなたの言葉はフロイト全集に出典がない」などと言
って他の学者を批判したりしていたようですが、アドラー派は、アドラー在世の
時代から、アドラーの言葉を引用しているかいないかを問題にしたことはありま
せん。それは現在もそうなので、岸見氏の書かれたものがすべてアドラーの言葉
の引用であっても、逆にすべて岸見氏のオリジナルであっても、どちらでも別に
かまわないのです。要は、彼が言っている言葉が、アドラー心理学の基本的な理
論や思想や技法と矛盾していないかどうかが問題です。

たとえば古典物理学は、アイザック・ニュートンやその後継者たちが作ったシス
テムですが、誰もニュートンやその他昔の学者の文献を引用して話をしません。
若いころに実際にニュートンの『自然における数学的原理』という著作を読んだ
ことがあるのですが、いまの物理学と違って数式はまったく使われておらず、幾
何学的な方法で説明がされています。それを、ある時代に、誰かが、すべて数式
に書き換えたわけです。だから、たとえば現在の高校の物理学の教科書には、た
だのひとこともニュートン自身の著作からの引用はありません。しかし、紛れも
なくニュートンの力学です。

アドラー心理学も同じことで、アドラー心理学の理論と思想と技法というものが
あって、それをわれわれは伝えています。ある主張がアドラー心理学であるかど
うかは、アドラーや他のアドレリアンの文献の言葉を引用しているかどうかでは
なくて、アドラー心理学の理論や思想や技法に矛盾していないかどうかで決まり
ます。

理論に関しては、ハインツ・アンスバッハーという人がアドラーの死後に、アド
ラーの理論を抽象的にまとめました。いまでは、私たちは、アドラーを引用する
代わりに、アンスバッハーがまとめた言い方(たとえば目的論)をもとに話をし
ています。では、岸見氏はアンスバッハーがまとめた理論について問題があるか
というと、詳細に検討したことがないので断言はできませんが、そんなに大きな
逸脱はないんじゃないかと思っています。つまり、理屈はわかっているんじゃな
いかということです。

思想に関しては、岸見氏の共同体感覚論は議論の余地があると思いますが、そも
そも共同体感覚論そのものが、理論のような科学的なものではなくて、だからさ
まざまの解釈の余地があると思います。岸見氏の解釈もありうるかもと思ってい
ます。私は好きではありませんが、許容範囲内かもしれません。共同体感覚論は
科学理論ではなくて思想ですので、そこで論争すると、宗教論争になってしまい
ますから、避けたいのです。

技法はルドルフ・ドライカースが大成しましたが、岸見氏に問題がもしあるとす
れば、技法論においてでしょうね。彼は、アドラー心理学の治療技法のごく初歩
しか学んでいないので(「カウンセラー」という資格はそういう意味です)、し
ょうがないのかもしれませんが、われわれ専門の治療者から見ると、「それじゃ
治療にならないでしょう」というようなものの言い方をしばしばされるように思
います。正田さまが引っかかっておられる部分も、多くはそれに関連していると
思います。

たとえば、岸見氏が、「不安だから、外に出られないのではなくて、外に出たく
ないから、不安という感情をつくり出している」という意味のことを言われるの
は、理論的にはそのとおりだと思います。しかし、治療現場で患者さんに向かっ
て、「あなたは外に出たくないから、不安という感情を作りだしているんです
よ」というようなことを言うのは、ほとんどの場合に反治療的だと思います。ア
ドラー心理学の目的は、「人間を知る」ことではなくて、「人間を援助する」こ
とです。「人間を知る」のは、あくまで「人間を援助する」ためです。ですから、
ものの言い方にはいつも敏感でなければなりません。たとえば私が、「あなたは
不安なのは、所属がうまくいっていないからだと思います。ですから、どうすれ
ば所属できるようになるか、一緒に考えていきませんか」というのは、岸見氏と
同じ意味のことを、治療的に言っているわけです。岸見氏は、私が知るかぎりで
は、この部分を習ったことがないと思います。まあ、私以外の治療者からどこか
で習ったかもしれませんので断言できませんが、そうであったとしても、まった
く勉強が足りないように感じます。つまり、岸見氏の問題点がもしあるとすれば、
治療の勉強をしていないのに、治療の話をするところではないかと思います。そ
の結果、しばしば反治療的な結末を作りだしているように思います。

大昔のことですが、郭麗月というお医者さんが、アドラーの本(たぶん "The
Science of Living" ではなかったかと思う)を訳して、『子どものおいたちと
心のなりたち』という本を出されました。その後書きに、当時、近畿大学医学部
精神医学教室の教授であった岡田幸夫先生が、「アドラーは人間を見るまなざし
がやさしいのがいい」と書いておられたことを、印象的に覚えています。私も本
当にそう思っていますし、その点が私がアドラー心理学を好きな最大の理由です。
岸見氏が現在説かれるアドラー心理学には、どうもそのあたりに問題があるよう
に思っています。

もっともこれは、岸見氏の人格的な問題ではなくて、治療理論と治療技法をきち
んと習わないままで、アドラー心理学の解説を始めたことによるのだと思ってい
ます。外科の実技を習ったことがない医学生が手術の話をしているようなもので、
「それでは手術じゃなくて解剖で、患者さんは死んでしまうよ」と思います。外
科手術のほとんどの手数は止血です。少し切っては出血部を糸でくくり、また少
し切ってはくくり、無限にそれを繰り返して、そうして最後に患部を切除します。
その途中の手数は、実際に手術場にいた人間しか知りません。ちなみに私は、若
いころに麻酔の研修医をしていたことがあって、2年あまり手術場をウロウロし
て暮らしていましたので、外科医がやっていることはよく知っています。心理療
法も外科手術に似ていて、すこしずつすこしずつ患者さんの納得をいただきなが
ら治療していきます。その手順の習得には、かなり長い期間の研修が必要です。

岸見氏と学術的な場で会えそうな感じになってきています。その際には、そのあ
たりの話をしようと思っています。テレビドラマは見ていないのですが、人々の
噂によると、「止血をしない外科手術」みたいなことが行なわれているようです
ね。そういうのは手術と言わないで、傷害事件と言います。それをみてアドラー
心理学だと思われると、本当に困ってしまいます。

野田俊作

*******************************************

 「所属がうまくいっていない」
この言葉は、とりようによっては「承認欲求を満たしてあげましょう」と同義のようにとれなくもない。
「承認欲求」の定義しだいだが、わたしなどはマズローのいう承認欲求と所属欲求をひっくるめて承認欲求と呼んでいる(ヘーゲル-ホネットの承認論から逆算して考えても、そうなる)。承認欲求とは、決して「悪目立ちしたい」とかいう意味ではない。

 もうひとつ、
 「治療理論と治療技法をきちんと習わないままで」というところがわたし的にはヒット。

 そう、岸見氏は学会認定カウンセラーではあるのだが、その語るカウンセリング場面には今ひとつ援助職の人の共通してもつありようが見えない。私ごときですら、武田建氏(関学大名誉教授)が口を酸っぱくして言われたこと、「共感」を叩き込まれたのに。

――ちなみに武田氏はロジャーズの孫弟子でありかつ、行動療法家でアサーションの始祖ジョゼフ・ウォルピの直弟子でもあるという稀な人で、そういう人から行動療法を学べたのは私にとって幸運だったと思う――


 「治療」としてのリアリティが見えない。これは、他の精神科医の方も言われたことだ。

「親から優秀な兄と比べられて育ったことがトラウマだったんです」
「トラウマは存在しません。アドラー心理学ではトラウマを否定します」

 非常にライトな文脈で「トラウマ」と軽々しく言い、そのライトなのを受けて「トラウマは存在しません」と大見得を切る。なんというリアリティの無さか。

 いや、そのままだともの知らずの人同士の会話だと聞き流しておけた。わたしも3年間聞き流していたが、大真面目に二次使用三次使用され講演でも堂々と言っているとなると、ね。


 岸見氏がアドラーの訳書を出したのは10冊以上になり、国内ではぶっちぎり最多。そういう独自の立ち位置があったので独特の解釈を打ち広げることができ、またほかの人も意見できなかったのかもしれない。

 
 このブログではスルーしていたが、日本アドラー心理学会は今月10日、フジテレビに対してドラマ『嫌われる勇気』への抗議文をホームページに載せた(抗議文は3日付)。それより前、野田氏、岸見氏らにそれぞれのアドラー心理学観をきくコラムがHPから消えていた。

 というわけでこの項まだまだ続きます…

 精神科医・ブロガーである、Dr.シロクマこと熊代亨先生の新着記事を、こちらにも全文転載させていただきます。

※元の記事
>>http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20170209/1486634304


 熊代先生は従来より精神科領域から「承認欲求を否定することは危ない」と発言。
 2014年にはブログ「シロクマの屑籠」「承認欲求四部作(リンクは第一記事)」をまとめられ、当ブログでも引用させていただいたりしました。
 (当ブログの引用記事はこちら


 このシロクマ先生に最近、わたしから3つのご質問を投げましたところ、それへのお答えをこんな風にブログ記事にまとめてくださいました。

 大変熟考されたうえ、記事としては手際よくまとめてくださっています。わたし自身にも大変参考になりました。

「承認欲求を否定したら、どうなりますか?」普通の精神科医なら「考えたこともない」と答えるであろうご質問にシロクマ先生は、「抑うつ的になるでしょうね」。明確に言い切られました(←某ベストセラー的表現)

 読者の皆様も、よろしければご覧ください:


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「 トラウマは本当に「ある」?/目的論・原因論どちらを重視?/承認欲求を否定したらどうなる?


先日、ある方から3つの質問をいただいた。これについて、自分なりに整理してみたかったので、ブログ上で清書をしてみます。
 
 お題は、以下の3本です。
 
 1.「トラウマ」の有無について複数の精神科医に訊いて回ったが、回答がまちまちだった。結局、トラウマは「ある」のか「ない」のか。
 
 2.トラウマの有無はともかく、現場では「原因論」と「目的論」どちらの考え方を重視するのか。
 
 3.「承認欲求を否定せよ」というフレーズがあるが、本当に否定したらどうなるか。
 
 


 
 【1.トラウマは「ある」のか「ない」のか】 
 

 どちらかといえば、私は「ない」派かもしれません。

 私は、フロイト直系の精神分析でいう(古典的な意味の)トラウマについて、あまり考えません。
 
 ちょっと古めの精神医学事典によれば、
 


 心的外傷 psychic trauma
 
 個人に、自我が対応できないほど強い刺激的あるいは打撃的な体験が与えられることをいう。
 (中略)
 フロイトS.Freudの神経症に関する初期の研究の中で提唱されたもので、恐怖、不安、恥、あるいは身体的苦痛などの情動反応を示す刺激として論じられた。これらの刺激は意識的世界では受け入れがたいので抑圧されてコンプレックスを形成することになる。すなわち、心的外傷体験は新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大する。


 とあります。
 
 問題は、「新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大するようなトラウマ体験」が一体どういう体験か、です。私の記憶が間違っていなければですが、古典的な意味でのトラウマとは、特別にひどいエピソード一回で生じてしまうものだったはず。
 
 対して、私が愛好する自己心理学*1では、トラウマに相当するものは、特別な一回や二回の外傷体験によってできあがるものではなく、もっと長期間の、持続的な共感不全や不遇によって生じるもの、とみなされていました。逆に言うと、一回のひどい体験があっても、その体験と当人を周りの人達が適切に受け取って対処できていれば、トラウマへと発展しない、という考えかたです。
 
 私は、世間で騒がれるところの「幼少期のトラウマ」の大半は、こちらの考え方で捉えたほうが妥当だと思っています。
 
 ただし、PTSDを念頭に置いたトラウマに関しては、ある程度「ある」と想定しています。
 
 PTSDという精神疾患は、もともと第一次〜第二次世界大戦に砲弾ショックや塹壕神経症と呼ばれていた軍関係の領域で発展してきたものですから、主に、長期間にわたって極限状態に曝される人々を対象として発展してきた疾患概念でした*2。それが、20世紀末になって戦場帰りではない人々にも適用されるようになり、90年代〜00年代にかけて、たくさんの人々この言葉を好んで用いました。こういった経緯には十分な留意が必要だと私は思っていますが、それでも、重度の災害等でPTSDの診断基準に見合った患者さんを発見したら、そのように診断するよう心がけています。そんなに多く出遭うものではありませんが。
 
 また、PTSDの研究領域では、海馬の縮小や扁桃体の変化といった器質的な変化や、交感神経系の異常な反応などが報告されています。これらも、PTSD領域にトラウマという語彙にふさわしい変化が存在する傍証になるのでは、と思っています。
 
 まとめると、私は
 
 ・精神分析のトラウマに相当するものは、古典的な一発ノックアウト説には懐疑的だが、長期的には発生し得ると考える
 ・PTSD領域のトラウマは、日常臨床ではそれほど多くは出遭わないにせよ、「ある」と考える
 
 という立場を取っています。
 
 
 【2.現場で「原因論」と「目的論」どちらの見方を重視するのか。】

 
 「目的論」と「原因論」については、私自身は、アドラー風の目的論的思考にあまり重点は置いていません。
 
 ですが、患者さんとお話をする時には、「原因論」にもとづいた原因探し、いわゆる“悪者探し”を滅多にやりません。
 
 古典的な神経症の患者さんに出会った時も含め、一般に、過去の出来事や心的外傷を振り返って得をする場面はあまり無いと私は思っています。PTSD系の論説のなかには、過去をほじくり返すとかえって侵襲が増すという話もありますし、また、過去を振り返るよう勧めすぎると「トラウマのねつ造」のようなアクシデントが起こることもあります。その片棒を担ぐようなことはしたくありません。
 
 また、“悪者探し”は家族関係や周囲の援助関係に悪影響を与えやすく、これが、アンコントローラブルな事態をもたらす可能性があります。かりに、99%親が「トラウマの源泉」だったとして、患者さんに「親が悪いんですよ、あなたは悪くないんですよ」と囁く行為が、どこまで患者さんのためになるのでしょうか。
 
 のみならず、患者さんに「親が悪い」と囁くことによって、治療者自身の問題や病理を反映しているってこともあるように思います。これも一種の「転移」ですよね。そういう転移混じりの状況では、治療者は思い切ったことを言いたくなるものですが、それが患者さんにとっての最適解なのか、治療者自身にとっての最適解なのか、よく振り返ったほうが良いことがあるように思います*3。
 
 なにより、過去の原因をどれだけ探したところで、過去は訂正できません。それより未来の社会適応を考えたほうが建設的なので、臨床場面では目的論的な話し合いをする機会のほうが多いと私自身は感じています。
 
 他方で、個人としての私は「原因論」、というよりも「因縁論」者です。私は大乗仏教を広く薄く信奉しており、思考のベースには縁起の考え方があります。
 
 私が見聞している範囲で「因果」と「縁起」の違いを述べてみると、因果とは、科学にみられるような原因-結果を一対一の対応とみなすのに対し、縁起とは、ものごとが起こる種子(要因)は単一ではなく無限にたくさんの要因が寄り集まって結果を生じるもので、その結果が、更に次のたくさんの出来事の種子となっていく、といったものです*4。科学という枠組みで取り扱いやすい物理現象や化学反応のたぐいはともかく、娑婆の出来事を考える際には、こちらのほうが実地に即していると私は感じています。
 
 また、なんだかんだ言っても私は精神分析っぽい考え方が好きなので、患者さんの縁って立つ背景についてはできるだけ情報を集めますし、ネガティブファクターたり得る要因の洗い出しは不可欠とも考えます。ただし、集めた情報とその分析結果をどこまで患者さんに伝えるべきかはケースバイケースで、伝えるとしても、細心の注意が必要です。
 
 なので私は、頭のなかではだいたい「原因論>目的論」ですが、実地に人と喋っている時には「目的論>原因論」という構えをとることが多いです。
 
 
【3.承認欲求を否定したらどうなる?】
 

 マズローの欲求段階説をベースに、「承認欲求を否定したらどうなるか」について私なりの考えを書いてみます。
 
 現代日本には個人主義的な自意識とイデオロギーが浸透しているので、承認欲求は、関係性の欲求として最も重要とみなしても良いのだと思います。ですから、その承認欲求が断たれてしまえば抑うつ状態に陥りやすいでしょう。あるいは酒やギャンブルといった嗜癖に溺れやすくなるか。このあたりは、実地の観察とも矛盾しません。
 
 ただし、昭和時代の日本人、途上国の町村部といった個人主義的な自意識やイデオロギーがそれほど広まっていない地域では、承認欲求よりも所属欲求のほうが関係性の欲求として重要度が高いので*5、承認欲求を否定されても、現代人ほどにはメンタルヘルスに打撃を受けないんじゃないか、と思っています。
 
 自分自身が承認の焦点になっていなくても、自分が所属している集団を誇りに思えたり、仲間意識や一体感が感じられれば、所属欲求が充たされてまあまあ幸せになれたのではないでしょうか。そのような現代以前の社会*6では、承認欲求を否定されるよりも所属欲求を否定されるほうが“堪えた”のではないかとも思います。これは、現代の大都市圏でスタンドアロンに働く人には、信じられない世界の話と聞こえるかもしれませんが。
 

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 このあたりは、リースマンやエリクソンやマズローといった昔の社会心理学っぽい書籍だけでなく、『昨日までの世界』のような最近の書籍を読んでいても、さほど間違っていないんじゃないかと感じます。また、私自身の親世代〜祖父母世代を見ていても、20代〜30代に比べて所属欲求への親和性は高いように見受けられます。
 
 ですから「承認欲求を否定したらどうなる?」の答えは「現代日本ではヤバいことになる。しかし人類史全体で考えるならそうとも限らない」が正解だと思っています。特に、内戦中の国のような境遇では、承認欲求/所属欲求どころではなく、マズローの三角形でいえば下のほうの、生理的欲求や安全欲求が脅かされるので、まず、それらを充たすことこそが焦眉になることでしょう。そのような状況下では、承認欲求が充たせるかどうかは、もっと後回しの問題になっているのではないでしょうか。あくまで相対的に、ということですが。
 
 

 
 ここに挙がっている3つの問題は、どれも、つきつめてYesかNoかで考えると割と考えが狭くなりやすいものだと私は思うので、ガチガチに肯定したり否定したりせず、コンテキストに即した柔軟な捉え方をしていくのがいいのかな、と私は思います。少なくとも実地で応用する際にはそうでしょう。そろそろ時間切れなので、今日はここまでにいたします。
 


*1:H.コフートが創始した自己愛についての精神分析学派。自己愛パーソナリティの研究で名を馳せた

*2:全米ベトナム戦争退役軍人再適応研究NVVRSによると、戦争に従事した後の30%の人がPTSDの診断基準をみたし、22.5%が診断基準の一部をみたすそうです。

*3:こういう、治療者自身の病理の取り扱いって、現在の精神科研修医はきちんと教わるものなんでしょうか。教えて偉い人。

*4:ちなみに宗教的には、そういった多岐にわたる縁起の連なりを全て把握できるのは人間には不可能とされています。それができるのは如来。

*5:「所属欲求よりも承認欲求が上」というあのピラミッドの書き方は、現代日本の個人にはあまり当てはまらないものだとは思いますが、西洋史観にもとづいて文明発達を考えるなら、順序として当てはまっているように私にはみえます

*6:ああ、これも西洋史観的なモノ言いですね、その点には留意しましょう


(太字一部正田)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 いかがでしょうか。

 熊代先生は、「承認欲求」の定義としてはマズロー説にしたがっていらっしゃるので、当ブログの通常のつかいかたとしての「承認欲求」と少しずれるのですが、その点もメールで少しお話ししたうえで、ここでは熊代先生の定義のほうを採用させていただいています。

 熊代/マズロー説による「承認欲求」でも、否定すれば抑うつ的になってしまう、ということですね。

 当ブログの定義による、「赤ちゃんのころから」の「承認欲求」だと、どうなってしまうでしょう…


 とまれ、素人のわたしのご質問に真剣に悩んで答えてくださいましたシロクマ先生、どうもありがとうございました!


 
「トラウマは存在しない」についての進展。

 結論から先に言いましょう、「トラウマはありまーす!」

 精神科医の先生により表現方法が違い、興味深かった。

 そのなかで日本トラウマティックストレス学会会長の岩井圭司氏(兵庫教育大学教授)からのメール。

 引用について正式のお許しがまだ出ていないので、要旨部分だけ抜き出すと、

※※※※

結論を先取りするならば、
> 1.動物でもトラウマに似た現象はあるのではないか
> 2.被災地にトラウマ、PTSDという現象はみられるのではないか
> 3.とくにASDの人ですと扁桃体が大きく、トラウマが残りやすいので、他人からみると些細なことでもトラウマになって動けないということが起きるの
> ではないか
>
すべてイエス、です。

で、敢えてわたくし流の独善的な言い方をするならば、
  PTSDはたしかに存在する。
  一方、トラウマは実在物ではない。ただ、構成概念ないし仮想実体としてのみ存在する。
ということになります。
・・・われながら、禅問答めいてきましたね(笑)

※※※※

と、いうことだった。

 ご自身は「隠れアドレリアン」とのこと。
 

 
 また今朝(2月6日)のNHK「あさイチ!」では、「いじめ後遺症」の特集をやり、そのなかで「トラウマ」に触れた。

>>http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/170206/1.html


※※※※

いじめの認知件数は、22万4,540件と過去最高(文科省調査・2015年度)。そんな中、子どもの頃にいじめを受けた人が大人になってもその後遺症に苦しむ“いじめ後遺症”の実態が、最近明らかになってきました。容姿のいじめをきっかけに何十年も「摂食障害」に苦しむ女性や、いじめから20年後に突然思い出して「対人恐怖症」に陥った女性もいて、多くの精神科医がその深刻さを訴えています。
いじめ被害者のその後を追ったイギリスの調査では、40年たってもうつ病のなりやすさや自殺傾向がいじめられていない人と比べてかなり高くなることが疫学的に明らかになっています。いじめはその人の健康リスクや人生までも脅かすのです。さらに、最新の研究では、いじめなどの幼い頃のストレスが、脳の形や機能に影響を及ぼす可能性も指摘されています。
番組では、知られざる“いじめ後遺症”の実態を明らかにするとともに、いじめの過去を精算する克服法もお伝えし、“いじめ後遺症”について考えました。

※※※※

という問題提起で、実際に”いじめ後遺症”に苦しむ人や精神科医が登場した。

 またこのブログで以前にも登場した、福井大学医学部の友田明美教授の研究により、

 幼少期の虐待で脳の一部の変形や萎縮が起こることが脳画像で示された。




 というわけで、トラウマは「あります」。この番組ではあまりにも「トラウマ」が人口に膾炙しすぎて否定的感情を生むことに配慮したためかあまり使わなかったが、ところどころではやはり「トラウマ」と言っていた。


 番組に登場した「いじめ後遺症」に40代になっても苦しむ女性は、摂食障害を患い、ずっとマスクを着けていた。
「誰かに認めてもらいたいと思うほうが高望みだし自分が我慢したほうが…」
という言葉が印象的だった。

 以前の「アドラー心理学特集」で「トラウマは存在しない」「承認欲求を否定せよ」と大きなテロップで流したうっかりさんのNHK、軌道修正してきたか。


 一方で元アドラー心理学会会長の野田俊作氏(精神科医)とのメールのやりとりは昨5日まで続き、最後は野田氏の「コメント拒否」で完結したのだが、そこへ至るまでのメール公開はお許しいただいた。


 そこは「続き」部分で。続きを読む

 元日本アドラー心理学会会長で現アドラー・ギルド代表の野田俊作氏とメールのやりとりをさせていただいた。

 野田氏のご了承をいただき、そのやりとりを公開させていただこうと思う。

 かなり長いやりとりなので、中身は「続き」で…。

続きを読む

アドラー心理学入門表紙画像


※2017年2月1日現在「アドラー心理学 批判」のキーワードで、Googleのトップから4本、当ブログ記事がランキングされるようになっていました。ありがとうございます。


 『アドラー心理学入門』(岸見一郎、ベスト新書、1999年9月15日)。

 『嫌われる勇気』の系統の「アドラー心理学」をわたしが看過できない理由は、ひとつにはそれが若い人たちに及ぼす影響の深刻さを考えるからだ。周囲の人に心を閉ざし人との交わりから学んだり視野を広げたりすることができない。頼るのはもっぱらネット情報。そのもとからある傾向に「承認欲求を否定せよ」「人の期待に応えるために生きているわけではない」が拍車をかける。

 2つ目は、なんども書いていることだが「トラウマは存在しない」といったフレーズの傲慢さ。医療でいえば(精神医学も医療だが)ある特定の疾患について「存在しない」と言い切ってしまうことがどれほどその患者さんたちにとって残酷だろうか。

 3つ目は、笑われるかもしれないがアジア各国に我が国発でおかしな不良品を垂れ流しているということが我慢ならないのだ。それは過去に「トヨタやソニーの国」と尊敬された時代をなまじ知っているからかもしれない。


 そんなわけで異常な執念のようではあるが岸見思想の源流を探るため『アドラー心理学入門』を手に取る。1956年生まれの著者の43歳当時の著作ということになる。

 
「アドラーは人間の悩みはすべて対人関係の悩みである、といっています」(『個人心理学講義』26頁)(p.44)

 「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」。このフレーズも以前から不思議だった。せっかく出典が付してあったので手元にある『個人心理学講義』の該当のページを調べてみたが、そんなフレーズはない。版が違うからだろうかと、その周辺のページをくまなくみたが、やはりない。

 かろうじて近いと思われるのは、

「個人の人生を統一のとれたものと見なすことに加えて、人生を社会的な関係の文脈と関連づけて考察しなければならない」

という書き出しで、劣等コンプレックスにつながる話をするくだり。個人・個体として見るだけではなく周囲の人間関係も見なさいよ、と言っている。治療者としての視点で書かれており、「人間の悩みは」などという哲学者めいた主語のセンテンスはない。
※2017年2月現在、このフレーズは出典を付さないまま他の捏造語録と同様、「アドラー心理学ではこう言います」「アドラーはこう断言しています」とネット上に流布している。捏造語のリストはすなわち巨大なフェイク・ニュースの塊なのだ。

※※その後『人生の意味の心理学』を探すと、やや近いと思われるフレーズがあった。それでも言っている中身は「人間の悩みは…」とは180度真逆である。冗長になってはいけないので、この記事の末尾に追加したい。


 やれやれ、この時期から既に奇妙なフィルターをつけて「アドラー心理学」を名乗っていたのだ。

ちなみに昨年5月にまとめた「捏造語リスト」はこちら
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html">http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 このあとは、岸見一郎氏の「息子さん」とその周囲の人にまつわる記述がある。「息子さん」についていろいろと感じることはあるがここでは触れない。

 このあとp.48-69あたりは、「目的論」の題目のもと、アドラーのみた問題行動をとる子どもに関する記述が続くが、たしかにこれらは子どもが「注目を引きたい(=承認欲求の一部。自己顕示欲)」あまりに問題行動をとるケースのようである。これらの症例に目が釘付けになっていると、いかにも承認欲求はわるいもののように見えるだろう。

(ちなみにこの本にはまだ「承認欲求を否定せよ」のフレーズは出てこない。やはり、出版界の「承認欲求バッシング」の尻馬に乗った捏造と考えていいのだろう。「承認欲求バッシング」は2008−11年ごろ流行った出版界の潮流である)

 ただし、アドラーはカウンセラーとして問題のある子どもを診てはいたが、自分の子どものことはよく見ていなかったということにも注意しておきたい。普通の子どもの中にも自然に「注目されたい」という承認欲求はあるし、親はそれを適当に満たしたり、無視したりしている。その中の病的な領域の子どもがアドラーの元を訪れるわけである。病的でない普通の子どもの日常生活をアドラーがどこまで見ていただろうか。

 また、「目的論」の正当性がもっぱらこれらの「注目を引きたい子ども」の症例によってサポートされているなら、だからといって「原因論」を完全否定することはできないだろう、という結論にもなる。注目を引きたいだけの子どももいれば、ひどいいじめに遭って外に出たくなくなり、今も人の目が怖いと思っている子どももいる。



 「課題の分離」と「責任・責任範囲」というふたつの概念についても色々と思うところがある。
 アドラー(と岸見氏)が「課題の分離の例」として挙げる例のうち、かなりの部分が、「責任感の高い人だったらその課題までを自分の責任範囲とみなすだろう」というもの。課題の分離と責任範囲と2つの物差しを見比べてどちらを使うのがふさわしいか決めないといけない。また、特に企業のマネジメントでは部下の一挙手一投足にマネジャーが責任を負うので(その感覚が肥大しすぎると問題があるが)「課題の分離」は、使えない場面のほうが多い。

もちろん、今のお受験目的で「勉強しなさい」といい続けて親子関係にひびが入っている例だとその限りではない。アドラー心理学が子育てに効くというのは、その「勉強しなさい」という言葉の多用を戒めるところではないだろうか。



 修学旅行中の電車の中での先生と生徒の会話。

●「『いいか、先生の降りる駅はA駅だ。君らが降りる駅は次の次のB駅だ。降り間違ってはいけないぞ』
 私がこの会話を聞いて感じたことは、先生が生徒を対等の関係の存在と見なしていない、ということです。
」(p.84)

 本当はこの前段もあるのであまりいい例とはいえないが、この先生の立場にも大いに同情してしまう。修学旅行である。失敗が許される場面とはいえない。もしそこで迷子が出たら、あるいは生徒たちが自分の正しい目的地で降り損なったためにコースの大半を辿れなくなったら、途中まで引率していた先生が責任を問われてしまう。電車の中という制約もあり、先生は短い指示語で言っただろう。それを責めるのもどうかと思うのだが。

 
 
●「アドラーはいっさいの罰に反対しました」(p.87)

 これも眉唾。さきの『個人心理学講義』や『人生の意味の心理学』などを読むかぎり、体罰や厳しすぎる態度に反対していたという風にしかとれない。ただアドラーの生きた時代には体罰は今よりはるかに一般的で、普通のご家庭でも子どもを鞭で打っていたので、それに反対したのは先見性があったのは確か。


「アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である、と考え、横の対人関係を築くことを提唱します。」(p.89)

 これには反論が3通りほど考えられる。
 まず、そもそもアドラーはそのようなことを言ったのか?ということ。ここでは出典自体述べられておらず、どこで言っているのかわからない。(もしこのブログの読者にアドラー心理学に詳しいかたがおられたら、ご教示いただきたい)
 2つめは、ネットでもよく見られる反論。「そうは言っても現実世界は縦関係で動いているではないか。親子関係も縦関係ではないか」というもの。
 縦関係を否定し、横関係を称揚するのは、学者やコンサルタントにはよくみられる。メディア関係者にもよくみられる。個人主義的で独立心高く、個として業績を挙げ、「上」からの管理を嫌う、その自分たちの性質を正当化するために、この人たちはよく「縦ではなく横関係」のほうを礼賛する。しかし多くの組織には当てはまらない。私はよくいうのが、「組織を否定するなら、電車が動いている恩恵にもあずかれない」。
 3つめは、「ケアと依存」のモデルだ。人は赤ちゃんのころ全面的に周囲の人に依存し、大人はそれをケアする。子どもはいずれ独立して巣立つが、やがて老人になり、またケアされる側になる。病気のときも然りだ。「私たちは依存がデフォルトなのだ」と上野千鶴子氏はいう。
 もちろんケア関係でも子ども・利用者の尊厳をとうとび、関係をより対等に近づける試みはなされる。それでも、「依存」という現実はなくならない。完全な横ではなく、斜め横ぐらいになるだけだ。依存することを弱者に許さなければ、生存すること自体できない。

 このあとにアドラー心理学の継承者であるリディア・ジッハーのロマンチックな言葉の引用が出てくるが(pp.90-91) この本全体で、アドラー以外の人名、たとえばソクラテスやプラトン、が出てくるときは要注意で、論理の筋が通っていないのを視点を変えて誤魔化しているようにしかみえないのだ。読者が反論するタイミングを逸するように仕向けているとでもいうか。


ほめてはいけないという話を聞いたある人が、その場にいあわせた小さな子どもに「おりこうさんやね」と声をかけました。ほら、そういうのがほめるということなのですよ(だからいけないんですよ)(p.95)

 これがまさに、上記の3つめの反論にあたる話である。わたしたちは体感的に、就学前ぐらいの子どもだと大人への依存度が非常に高いことを知っている。だから「上から」であろうと、ほめられたら嬉しいということを知っていて、学のない人でも自然と声をかけるものだ。とりわけ、親以外のよその人からほめられるとさらに嬉しいものだ。
 なのだが岸見氏は独自理論でこれを否定する。自然な近所の人同士の心のつながりを断ち切ってしまっている。


 さて、この本で「トラウマは存在しない」という言葉の起源らしいところを見つけた。それも意外な「出所」だった。

 V.E.フランクル『宿命を超えて、自己を超えて』(春秋社)の中の言葉として。

「フランクルがこの著書の中で非常に明確に、「反」決定論に立っていることは興味深く思います。『後まで残る心的外傷という考えは、根拠薄弱である」とフランクルは明言していますが、しきりにトラウマ(精神的外傷)が問題にされる今日、アドラーの見解は改めて考察するに値します」(p.138)

 つまり、「トラウマはない(んじゃないのか)」と言ったのは、アドラーではなくてフランクルである。岸見氏の頭の中で後年そこがごっちゃになってしまったのではないかと思われる。
 この文の末尾に「アドラーの見解は改めて考察するに値します」とあるので、アドラーがトラウマの有無について何か言った箇所が前段にあるのだろうかと探したが、見当たらなかった。岸見氏は他の論文か何かと混同したのだろうか。アドラーが言ったとすれば、これまでにみたように、「トラウマに新しい意味づけをして乗り越えよう」という意味の言葉である。
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.htmlなど参照。

 それと、フランクルのこの著作をまだ見てないのだが、フランクル自身はご存知のようにアウシュビッツの過酷な経験を生き延びた人だった。そのあとに精力的な学術発表を続けたから、「トラウマなど存在しない」と言う資格は、この人にはあるかもしれない、と思う。ただそれをほかの人に押しつけることまでできるかどうかはわからない。

 2月4日注:フランクルの『宿命を超えて、自己を超えて』を入手したところ、上記の「後まで残るトラウマは…」という言葉は、これもフランクル自身の言葉ではなく著書に登場する他の人の言葉の引用だった。伝聞として言っているのである。したがって「フランクルは明言した」は成り立たない。岸見氏の本の読み方や引用の仕方全体がおかしい、としか言いようがない。


 岸見氏が1999年のこの著作の中でトラウマ(精神的外傷)に言及した背景にはどんなものがあったろうか、とも思う。4年前の1995年に阪神大震災とオウム・サリン事件があった。97年には神戸で酒鬼薔薇の小学生連続殺傷事件があった。大事件事故災害のたびに「トラウマ」「PTSD」が話題になり、その治療技術をもつ臨床心理士が現地に派遣された。一般人の間でも「トラウマ」は日常語として、「俺、あの失敗がトラウマだよ」などと使われるようになった。

 「真性のトラウマ」もあるが「なんちゃってトラウマ」もある、そうした状況に苛立ち、「トラウマ」を標的にするようになった。そして著名人の言葉に「トラウマ否定」のフレーズがあることに救いを見出した、ということはないだろうか。

 
 『嫌われる勇気』の中の捏造フレーズ「トラウマは存在しない」は、昨年5月、NHK「おはよう日本」のなかでも大きなテロップで流れた。識者の懐疑的なコメントなどつけず、あくまで肯定的に。また最近書店で手に取った「常識のウソ」の本には、冒頭付近に「トラウマは存在しない」とある。理由は、「トラウマはフロイトが提唱したものであり、フロイトは原因論者で誤っているから」と、『嫌われる勇気』の論法そのままである。ライター自身が『嫌われる勇気』の信者で恐らく身内にトラウマに悩む人などいなかったのだろうし、編集部にもチェック能力が働かなかったということである。


 だから、ある程度大人の友人は「ウソなんか放っておけばいいよ」と言うが、わたしにはそうは思えない。本気で真に受けている人びとがいるからだ。とんでもなくいびつな人間理解がはびこり、どこかでそのために苦しんでいる人がいる。そしてアジア各国にも広まってしまっている。
 日本の片隅で、だれかが「それはおかしい」と言わなければならないと思うのだ。
 
 

※※「人間の悩みのすべては対人関係の悩みだ」に該当すると思われる『人生の意味の心理学』の中のフレーズ。

「われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない。…そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。…それゆえ、人生の問題へのすべての答えはこの結びつきを考慮に入れなければならない。」(p.11-12)

 ごく常識的な言葉である。しかしこれが「人間の悩みのすべては対人関係の悩みだ」というフレーズとして一人歩きしているため、TVドラマ「嫌われる勇気」の初回でヒロイン・庵堂蘭子の恩師は、この言葉のあとさらに「つまり他人さえいなければ私たちの悩みは消えるんです」と180度反対のことを言っているのである。
 

 「誕生学」という分野が最近あるらしい。このところFacebookで話題になっている。
 子供がその年齢でなくなってだいぶ経つので、すっかりこういう分野に疎かった。
 
 「誕生学アドバイザー」という民間資格をもった人が小学校等を訪れ、「いのちの大切さ」を教える。

 この資格を認定している「公益社団法人誕生学協会」によると、誕生学スクールプログラムとは、

『誕生』を通して、子供に「自分自身の産まれてくる力」を伝え、生まれる力を再認識することで自尊感情を育むことを目的とした次世代育成のためのライフスキル教育*プログラムです。

 
と説明されている。


 一見すばらしい、誰にも反対できないような授業。しかし、これに疑義を呈する声がこのところ強くなっている。
 代表的なのが精神科医・松本俊彦氏の論考。

●「誕生学」でいのちの大切さがわかる? - 精神科医 松本俊彦

 ここでは、
・誕生学プログラムは自尊感情を高める効果はないこと
・自殺予防にはまったく役に立たないこと。むしろ自殺予防の専門家からみると非常にまずい
・中高生の約1割に自傷経験があり、この子たちに必要なのは「いのちの大切さ」の教育ではなく、他人に助けを求めるスキルと、信頼できる大人を探すスキルであること。またわたしたちが「信頼できる大人」であること。

を、述べている。

 誕生学は幸せに育った上位9割の人にとっての真実であり、深刻な虐待やいじめに遭ってきた1割の子どもにとってはただのきれいごとでしかない。

 なるほど。
 このところこのブログで批判している某「心理学」とも絡め、おおいに頷いてしまった。


 一昨日1月26日には、産婦人科医宋美玄(ソンミヒョン)氏が松本氏の論考に賛同するこんな記事を掲載している。

●「誕生学」に疑問 生きづらさを抱える子を追い詰めるのはやめて! 

誕生学は、感動させたい大人自身が満足するためのものになってはないでしょうか? 教育は子どものためであってほしいですし、それも本来、最も助けが必要な子どものためであってほしい。その子たちを追い詰めるような教育をして、大人が満足するなど、あってはいけないことだと思います。
 


 これも、なるほど、だった。


 ネットで見ると「誕生学」への批判は2012年ごろから出始めている。
 (松本氏や宋氏よりもっと過激なものもある)

 宋氏は上記の記事の中で

私自身、誕生学関係者にはよく知っている方々もいますし、共通の人間関係も非常に多いです。そのため、今までは批判をすることが 憚はばか られていましたが、よく聞いてみると、その中でも実は疑問に思っているという人たちに会い、勇気を持っておかしいと言うことにしました。


と、「批判のしづらさ」を乗り越えて今、はっきりと批判をすることにしたと述べており、こういう分野にもやはり乗り越えなければならない「壁」があることがわかる。



 今回は私があまり詳しくない分野のことなのであまり突っ込んだことは言えず、ほかのかたの議論をご紹介するにとどめたいと思うが――、



 某「心理学」のブームと一緒で、「想像力不足」があるのではないか、と思ってしまった。

 少数派の1割がどれほど傷つくかにたいする想像力の不足。
 それは某「心理学」の、「トラウマは存在しない」もそう。トラウマを抱える人にとっては残酷な言葉だ。また周囲の人にこういう考え方をする人が1人いただけで有効な治療が遅れてしまうおそれがある。
 「原因論はダメで目的論」というのも、上記の松本氏の記事のなかで、自傷行為をしたり「死にたい」という子供には「何があったか(原因論)」を十分に聴く姿勢で寄り添うこと、と述べている。常識的にはそちらだろう、と思う。フロイトが言ったからどうとか、どうでもいい。傷つき失意のどん底にある人に「あなたは目的があってそうしているのだ」と告げるとはいかに残酷だろうか。それは単に某「心理学」の限界を示しているに過ぎない。重症の人は力不足で扱えないのだ、という。


 社会の分断、想像力不足。先の米大統領選も含め、さまざまなことがつながっている。
 やりきれなさでしかこういうことを記述できない。
 

追記: もう一つ言うと最近学校で「自己肯定感を持とう」という出張授業をするのが増えているようなのだが、これにもわたし個人は違和感を禁じ得なかった。やはりいじめや虐待を受けた子供に、「自助努力」で自己肯定感を持てというのは無理があるのではないだろうか?信頼できる周囲の人との関わりの中で初めて自己肯定感を持てるのであり、こうした教育はまずは子供たちの周囲の人すなわち先生や親御さんにすべきなのではないだろうか?

読者の皆様は、どう思われますか。

 再度のアドラー心理学批判のまとめ記事である。今日は少し物騒なタイトルをつけてみた。

 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(いずれも岸見一郎+古賀史健、ダイヤモンド社)はそれぞれ2017年1月現在で累計150万部と44万部のベストセラーだ(同社調べ)。

 だがその論法を少し丁寧にみれば、この本の著者と想定読者層の独特の「認知的な偏り」をみてとることができる。既に日本の全人口の1,5%前後の方が購入した本であるが、その多くの方はこの本の内容をご自身の生き方やお子さんの子育てに応用する必要はない。できれば早めに内容を忘れたほうがいい、そういう本である。

 「この特性がなぜ発達障害?」と首を傾げる読者の方もいらっしゃるかもしれない。その場合は、発達障害の人の特性について比較的詳しいこちらのリンク先

●発達障害者は注意するのが好き?『大人の発達障害ってそういうことだったのか』を読む」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51873335.html

も、参照しながらこの記事を読み進めていただくとありがたい。

 また過去のアドラー心理学批判のまとめとしては、下記2本の記事がGoogleトップにランキングされているので、ご興味のある方はこちらも参照されたい:

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html
●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 さて、今日の記事の目次は以下の通り。今回も長い記事になるので本文は「続き」部分に。

1.オールオアナッシング、論理の飛躍
 ――フロイトが原因論ならアドラーは目的論だ!

2.「…してはいけない」「トラウマは存在しない」極論の否定形連発
 ――「構造化」が好きな発達障害者向けのパフォーマンス

3.体内感覚との乖離
 ――承認欲求への嫌悪、しかし本来は「共同体感覚」「協力」「貢献」と不可分のもの。

4.尻切れとんぼのプログラム、 「実行」への想像力不足
 ――ほめるを否定し勇気づけを肯定、承認欲求を否定して貢献・協力を肯定

5.現場的努力への不敬/「ほめる」「承認」が定着した職場や学校への異常な妄想

6.「すべての悩みは人間関係からくる」は出家遁世のすすめ

7.結局「何もしない」で、嫌悪の感情が残るだけ!!

8.「アドラー心理学離婚」も発生?「アドラー心理学鬱」は?

9.アドラーは科学哲学者ポパーの反面教師だった!

10.「行動承認プログラム」は、「能動態の承認」



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 アドラー心理学最新情報。アメリカの権威からみた「岸見アドラー心理学」とは。

 北米アドラー心理学会元会長のリチャード・ワッツ氏からメールをいただいた。昨日昼に思い立ってお問い合わせのメールを書いたところ、夜中にご返信があった。

 その内容をご紹介させていただきましょう:

著者はアドラーの教えについてアドラーとはかけ離れた解釈をしているようですね。

まず、他人の注目を集めることだけを考えて生きるのは不健全なことです。しかし、他者の承認を求めるのは正常なことです。私たちは所属とつながりの感覚を切望する存在なのですから。ヒトは社会的存在であり、よい関係性のためには協力は不可欠なものです。

第二に、上と同様、他人の期待だけに基づいて意思決定をするのは不健全なことです。しかしながら、周囲の人との協力という概念、また共同体感覚/社会的利益(ゲマインシャフト、共同社会)という概念は、関係性の中のギブアンドテイクを含むのです。それはすなわち、われわれは関係性の世界の中で自分の意思決定が他人に及ぼす影響を考慮しなければならないということです。自己の利益にだけ動機づけられているというのは正しくありません。

第三に、「他人の問題に介入しない」という概念は、主に問題を抱えたお子さんをもつ親御さんに向けて言ったものです。「絶対にしない(never)」という言い方は、アドラーもドライカース(注:アドラーの弟子の1人。アドラーの死後、アメリカでシカゴを拠点として活発なグループを設立し、個人心理学国際ニュースレターを発行した)もしていません。彼らは、「子どもにはできる限り自分の問題を自分で解決する機会を与えよう」と言ったのです。これは大人にも当てはまると私は思います。子どもが自分で解決できなかった場合、まただれかが攻撃的になった場合には、親や監督者が介入します。要は、私たちはほかの人たちに、自分で問題解決する機会をできるだけ多く与えるべきだ(そして私たち自身の問題解決にベストを尽くすべきだ)、介入したり助けを求めるのはそのあとだ、ということです。「絶対に介入しない」「絶対に助けを求めない」という言い方はアドラー心理学の常識を超えています。

このメールが助けになればと思います。

最高の勇気の表現の1つは、不完全であることの勇気だ。―アルフレッド・アドラー


リチャード・E・ワッツ、Ph.D.LPC-S, Distinguished Professor of Counseling
テキサス州立大学System Regents' 教授
サムヒューストン州立大学カウンセラー教育学科(テキサス州ハンツビル)

米カウンセリング協会フェロー
アドラー心理学会資格保持者
元北米アドラー心理学会会長(Past-President)

Hello, Sayo Sodo.

It appears the author takes some of Adler’s ideas far beyond what Adler meant.

First, to base one’s view of self solely on how much attention one receives from others is not healthy. However, it is normal to seek recognition from others in the sense that we all desire to have a sense of belonging and connection. Humans are social beings and cooperation is a crucial value for successful relationships.

Second, and similar to the first, to base all our decisions merely on the expectations of others is not healthy. Nevertheless, the notion of cooperation, as well as community feeling/social interest (gemeinschaftsgefuhl), with our fellow human beings includes relational give and take; that is, we should consider the impact of our decisions for others in our relational world and not be solely motivated by self-interest.

Third, the notion of not intervening in problems is typically addressed to parents when siblings are having difficulties. To use “never” is not what Adler or Dreikurs stated. What they said is that we should give children every opportunity to work out problems for themselves. I believe this applies to adults as well. Leaders should give those they supervise every opportunity to work our problems. If the cannot work them out, or if one of the persons becomes aggressive, then a parent or a supervisor should intervene. In summary, we should give others the space to work out problems as often as possible (and we should do our best to work out our own problems) before intervening or seeking help from others. To say we should “never” intervene or “never” receive assistance goes well beyond the common sense of Adlerian psychology.

I hope this is helpful. rew

One of the highest expressions of courage is the courage to be imperfect. - Alfred Adler
Richard E. Watts, Ph.D., LPC-S, Distinguished Professor of Counseling
Texas State University System Regents’ Professor
Department of Counselor Education
Sam Houston State University
SHSU, Box 2119
Huntsville, TX 77341-2119
Phone: 936/294-4658
Fax: 936/294-4277
Email: rew003@shsu.edu
SHSU’s CACREP Accredited Ph.D. Program: http://www.shsu.edu/programs/doctorate-of-philosophy-in-counselor-education/

Fellow of the American Counseling Association
Diplomate in Adlerian Psychology, NASAP
Past-President, North American Society for Adlerian Psychology (NASAP)
ResearchGate Webpage: https://www.researchgate.net/profile/Richard_Watts8
My Website: http://sites.google.com/site/richardwattswebsite/Home
Twitter: @Richard_E_Watts
Article on Reflecting As If in Counseling Today: http://ct.counseling.org/2013/04/reflecting-as-if/
ACA Podcast on Reflecting As If: http://www.counseling.org/knowledge-center/podcasts/docs/aca-podcasts/ht026-reflecting-as-if-(rai)-adler-and-constructivists-unite





 このブログの少し長い読者の方には、もうワカッテイルお話だとは思うが、こうして米アドラー心理学界の重鎮の方が言ってくださると重みがある。

 できれば、日本のアドレリアンの方々もきちんと発言していただきたいものだ。



※ちなみにワッツ氏から上記のメールをいただいた元の私からのお問合せメールはこういうものです:


こんにちは、私は日本の研修講師兼ブロガーです。
日本のアドラー心理学のトレンドについて先生のご意見を伺いたいと思い、メール差し上げました。
近年、アドラー心理学に関する『嫌われる勇気』という本が日本とアジアでミリオンセラーになっています。
私はこの本を読んだらとても変に感じ、アドラーの原著を読んでみたところ大きなギャップがあることがわかりました。『嫌われる勇気』は個人心理学について誤解を招いてしまうのではないかと思います。「他者からの承認を求めるな」「他人の期待に応えるな」「他人の問題に介入するな、自分の問題に他人を介入させるな」などと、アドラーの思想であるかのように言っているのです。私はそれは変だと思いましたしアドラーがそんなことを言うわけないと思いました。

先生がこの状況をどうお考えになっているかぜひお伺いしたいです。私の友人たちはこのままだと、アドラーの教えは若い人に有害な教えだと思われてしまうかもしれないと不安がっています。私たちに正しいお導きをください。

Mr.Richard Watts,

Hello. I’m a Japanese business instructor and blogger.
I’d like to ask you about your opinion on Japanese Adlerian trend, if you don’t mind.
These years, a Japanese book on Individual psychology, ‘Kirawareru Yuuki’ (means ‘Courage to be Hated’) has become million seller in Japan and other Asian nations.
I read the book and felt very odd, so I read Adler’s original works and found many large gaps between the books.
I felt the book, ‘Kirawareru Yuuki’, induces a lot of misunderstandings about the individual psychology. It says "do not seek recognition from others," or "there is no need to fulfill others' expect," or "never intervene to others' problems and never let others intervene to your problems" as if they are Adler’s thought. So I felt it odd and thought that Adler should not say such a matter.

Please tell me how you think about this situation. My friends are anxious that if it were in this way, Adler’s teaching would be taken as a harmful to young people. Please give us a collect guidance.

Thank you,

Best Regards

Sayo Shoda
Koyocho-naka 1-4-124-205, Higashinada-Ward, Kobe-City, Hyogo-Prefecture, Japan



 今日はとりわけ当ブログの「アドラー心理学批判」の記事にアクセスが多いです。
 たぶん、ドラマのせいです。

 「嫌われる勇気」フジテレビ系、木曜22時〜
 http://www.fujitv.co.jp/kira-yu/

 アドラー心理学をベースにした刑事もの。
 毒食わば皿まで、この国で起こっている思想的狂騒を見ておこうとわたしとしては珍しくTVをつけました。

 香里奈が、冷え冷えとしたなんの潤いもない心のヒロイン「アンドウランコ」を好演しています。

 岸見アドラー心理学本の文体をまねしてか、「明確に否定します」というセリフをやたら乱発。少女が泣きわめくのを尻目に満足顔でショートケーキを食べる冒頭シーンなどは異常性格にしか見えません。

 (あとのほうになると、「皆さんは先生がいいというものをすべていいというのですか?」なんていう、正論めいたことも言います)

 椎名桔平扮するヒロインの恩師役によれば、アンドウランコは教育を受けてそうなったわけではなく生まれながらのアドラー、ナチュラルボーンアドラーなのだそうで、これなどは岸見アドラー心理学はもともと適性のある人を吸い寄せる性質のものなので、違和感はありません。そのマイペースでやれる人はやればいい、ただそれをやる人達はなまじアドラー心理学というテキストを手に入れたので教条主義的になってすごく鬱陶しくなる、ということだと思います。自己正当化しまくってはいますが香里奈の表情はお世辞にも幸せそうとは言えません(このあたり、上手い演技なのでしょうか)

 で、アンドウランコ的生き方が成立するのは、「上司も同僚もあたしよりバカばっかり」という状況であるということも指摘しないといけません。現実にも遭遇する「信者」の方の周囲へのリスペクトの無さも想起します。普通はここまで極端な職場環境はあり得ず、上司先輩周囲の人々に教えてもらって仕事するのですから、「つながり感」はもっと重要なのです。アドラー心理学信者には世界はこのようにみえている、ということでしょうか。


 さて、「この国で起こっている思想的狂騒」という言い方をしましたが…、


 国際的にみても、やはり日本のアドラー心理学の現状はかなり奇妙なことになっているようだ、という証左をみつけました。

 元日本アドラー心理学会会長・野田俊作氏の昨年3月31日のエントリ。

 http://jalsha.cside8.com/diary/2016/03/31.html


 この記事では野田氏は、米国のアドラー心理学会関係者の問い合わせに答えてこんな苦渋に満ちた回答をしています。

残念なことに私は彼の本を好意的に評価することができません。彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。多くの日本のアドレリアンたちは当惑していて、彼の本を無視していますが、けれども彼の本は爆発的に売れています。たくさんの人たちが彼の本を読んでそれが与えた先入観をもって私たちの講座にやってきます。私たちアドラー心理学の教師たちは彼らの間違いを修正することでとても忙しいです。経済的には幸福ですが、学問的には不幸です。私たちは「アドラー・ブーム」に圧倒されていて、ただ台風が過ぎ去るのを待っています。これが私たちの状況です。



 いかがでしょうか。
 以前にこのブログに「日本のアドラー心理学関係者や研究者は、岸見氏の暴走を批判しないのでしょうか」というようなことを書きましたが、ここでは野田氏は「台風が過ぎ去るのを待っています」と述べています。批判を封じられており奥ゆかしいので、公に批判したりはしないようです。


 しかし、以前にも書きましたように「岸見アドラー心理学」はアドラーの原著から恐ろしくかけ離れたことを言っていて、ほとんど虚構に近く、しかも人間性に対して有害な要素がいっぱい入っているのです。下手にかぶれた人が気の毒なのですが。

 そんないわば”不良品”をここまで大きくしてしまったのは、早いうちに誰も適切な批判をしなかったせいなのでありアドラー心理学関係者らの罪は大きいと、わたしは思っているのでした。

(だから、畑違いのわたしが今やっているのです)
 

 アドラーの「子供」に関する原著をまた2冊読みました。『子どものライフスタイル』(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2013年。原題'The Pattern of Life'1930年)と『子どもの教育』(著者訳者出版社同上、2014年、原題'The Education of Children'1930年)

 どうしても「承認欲求を否定せよ」と「ほめない叱らない」に関連する語を探し出したいという、しょもない執念からであります。この「アドラー心理学批判シリーズ」としては、1つ前の記事に「まとめ」として中間報告のようなものがあります。「捏造語録」の「正誤表」のようなものも載せていますので、お時間のない方はそちらをご参照ください。


●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

(本記事での発見に伴い上記の記事の「一覧表」を一部修正しております)


 今日の記事は上の記事の補足のようなものです。


 『子どもの教育』のほうから行きましょう。

 ここには、相変わらず優越コンプレックス、劣等コンプレックスなどの極端な性格の例が出、やはりアドラーはカウンセリング畑の世界の人だなと思わせます。

 そして「第十三章 教育の誤り」「第十四章 親教育」これらの章に、「ほめない叱らない(捏造と認定)」に当たるフレーズはあるか?やはり残念ながら、ありませんでした。あるとしたらこの本のこのあたりの章にあるだろう、と目星をつけておいたのですが。

 あるのは、「絶えずがみがみ言って息子を破滅に追い込んだ教育者」といった、極端な例です。また殴るとか鞭打ちとかの体罰への批判です。(p.191)

 「ほめない」に関わりそうな言葉はようやく、みつかりました。

「子どもをあまりにほめるのは賢明ではない。あまりに多くのことが自分に期待されていると思うようになるからである。」(付録II 五つの症例と症例のコメント p.228)
「いつもほめ、知能指数が高いということで認めるというようなことをしてはならない」(同、p.229)

というふうに「過剰」を戒めています。「行動承認」論者からは、とくに異論はありません。「行動承認」に徹しておけばいいんじゃないの?というだけです。

 これも、じゃあ「ほめてはいけない」「ほめない叱らない」に即結びつけていいわけではなく、むしろ現代からみてもごく常識的な、「過剰の害」を戒めたにすぎません。よって、上記に挙げたまとめ記事の結論は変わりません。

 後世のアドラー心理学信者の方々が、「アドラーは賞罰主義を否定した」と言いますが、それにあたると思われるフレーズはありません。

 


 それから、「承認欲求を否定せよ(捏造語録に認定)」に関係ありそうなフレーズ。
 実は、180度真逆のことをアドラー自身は言っていることがわかりました。

 
 「第十二章 思春期と性教育」。ここでは、以前にご紹介した『人生の意味の心理学』で使ったと同じと思われる少女のエピソードがまた出てきます。

 いわく、病気の兄や父、小さい妹がいて自分に注目を向けられずに育った少女がいた。少女は人に世話をされ認められることを熱烈に希求するようになった。中学では成績が良かったが高校では成績が振るわず、先生に認められなくなった。すると家出して知り合った男性と2週間過ごしたが、男性に飽きられてしまった。すると家族に手紙を送り自殺を予告した。しかし実際には自殺せず、母親が家に連れ帰った。(pp.170-171)

 このエピソードを紹介したうえで、アドラーはなんと言っているか。

「われわれが知っているように、もしも少女が、人生のすべては認められたいという努力によって支配されていることを知っていれば、これらすべてのことは起こらなかっただろう。」(p.171)

 おわかりになりますか。
 アドラーのこの言葉は、ニーチェ的なニヒリズムよりもむしろヘーゲルの「承認をめぐる生死を賭けた闘争」という言葉を彷彿とさせます。つまり、「認められたい」一心でばかげたことをしてしまう少女の例を紹介しつつも、それにたいするアドラーの処方箋は「承認欲求を否定せよ」ではないのです。むしろ180度真逆の、ヘーゲル的な現実認識を示したうえで、少女自身にもそれを教えてやり、欲求を自覚させ、そのうえで欲求に振り回されない対処法をおぼえよう、ということを言っているのです。
 常識的ですよね。
 現代の「承認欲求バッシング」の書籍の著者らにも言ってやりたいぐらいです。

「また、もしも高校の教師が、少女がいつも学業優秀で、彼女が必要としていたのは、いくらかでも認められるということであったということを知っていれば、悲劇は起こらなかっただろう。状況の連鎖のどの点においてでもいいが、少女をしかるべく扱えば、少女を破滅から救うことができただろう。」(同)


 この言葉は、処方箋の第2としてアドラーは、教師や親はじめ周囲が「認めてやる」ことが解決策だ、と考えていたことがわかります。

 アドラー先生、すごく正しいではないですか。

 だから、もうやめましょう。「承認欲求を否定せよ」なんていう現実離れしたことを言うのは。



 次の本『子どものライフスタイル』は、問題のある子どもの症例報告とアドラー自身によるカウンセリングからなっています。

 これをご紹介するのは、ちょっと言ってはわるいですがアドラーの「誤診集」のようなおもむきがあります。やはり、20世紀初頭のカウンセラーであったアドラーの時代的制約だろうなと思います。

 てんかん発作がある少女。男兄弟の間で育ち、男と闘わなければならないと思って男の子らしいスポーツを好んできた。同じ男性と8年つきあい婚約して3年。婚約して以来発作が頻繁になった。

 アドラー:トラブルのすべては、あなたが十分勇気がないからです。あなたが自分自身の行動の全責任を負う決心をすることを提案しましょう。私はあなたがこの一歩を踏み出せば、そのことは大いにあなたのためになると確信しています。
 フローラ:私が勇気を持てば、発作を治せるという意味ですか?
 アドラー:そうです。
 フローラ:どんなことでもやってみます。
(カウンセリングおわり)


 うーん。。。今ならてんかん治療に別のアプローチがあるだろうし、「行動療法」からは脱感作療法のような提案があるだろうし、。。。
 一事が万事、アドラーは「勇気を持つ」を提案するのですが、わたしがみてこれに同意するクライエントは、多少カウンセラーに迎合しているようにもみえます。軽症だから素直に受け入れるのだろうともいえます。

 勇気がない人に対して勇気をもってもらうためにはどうするか。

 「行動承認」では、オキシトシン、セロトニン、ドーパミンを同時に分泌してもらうことだ、そのうえで、小さな行動を1つずつ着実にとってもらい、行動をとるたびに認めてあげることだ、というでしょうね。その繰り返しが勇気と自信を生みます。決して、「勇気を持ちなさい」とお説教すればほんものの勇気が出るわけではありません。


 そんなわけで、アドラー良心的な人だとはいえ、今の尺度からは賛成できないところがいっぱいあります。




 ところで、この記事のタイトルの後半のほうのお話。

 「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?」というところです。

 これはわたしも詳しくないのですが、わが国ではアドラー心理学の組織は「東」と「西」に分裂しているんだそうです。

 参考URL:http://onigumo.sapolog.com/e427281.html

 これによると、「西」はアドラー心理学会。「東」はヒューマン・ギルドといい、操作主義OKの教義。

 上記の記事では操作主義はわるいことだと言っているようなのですが、記事の筆者は『嫌われる勇気』の愛読者なのでこれも注意が必要です。だって、アドラー自身は操作主義はよいとも悪いとも言っていないのですから。

 「操作主義」といわれるものは後世の「行動理論―行動分析学」の「ほめ育て」を外部の人が揶揄していったもので、アドラーの時代にはそもそもありませんでした。

 たぶん、行動理論的な「ほめ育て」に対して「内発的動機付け至上主義」の人から批判が起こったとき、アドラー心理学の内部の人もそれに同調する人、いやほめ育てしたってええじゃないかという人、議論が分かれたのでしょうね。・・・というあくまでわたしの推測です。

 で、岸見一郎氏はその「操作主義反対」のほうの流派で、「西」のアドラー心理学会の理事をしています。ただその中でも最右翼のようです。

(※上記の記事からさらにリンクをたどって論文を読むと、たとえば「ヒューマン・ギルド」の操作主義のわるい例として、小さいお子さんが熱いコーヒーカップに触りたがったとき、ヒューマン・ギルドの講師が「触りたいの?ほら、熱いよ」と言って実際に触らせ、お子さんが熱いと泣いた例を挙げています。わたしなどには何がわるいのかわかりません。親の管理下であれ自然の環境であれ、子供は負の経験からも学ぶのです。アドラーがこの例をわるいと言うとも思えないのですが、この例ではどう働きかけるのが正解なのでしょうか)


 素直にアドラーの著作を読むと、過剰な場合を除いて普通にほめること叱ることについてはいいとも悪いとも言っていない、むしろ前提としていたように読めます。

 分派すると、過激なことを言い出すってよくありますよね。

 「行動承認」も気をつけなくっちゃね。


 

<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

●アドラー心理学批判 まとめの補足:正確な言葉は「人生のすべては認められたいという努力によって支配されている」、「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941508.html

 「アドラー心理学批判」のまとめとして、現在アドラーの言葉として出回っている「有害フレーズ」を一覧にしてみました。


アドラー心理学批判:発言の捏造ver2


※2017年1月31日、「トラウマ」の項を更新しました。
 
 いかがでしょうか。

 今のところわたしはアドラーの著作を全部読んだわけではなく、『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』それに『子どものライフスタイル』『子どもの教育』しか読んでないので、「中間報告」のようなものです。上記のフレーズが他のアドラーの著書のどこかに絶対ないとは言えないです。それは「STAP細胞が絶対にない」ということが難しいのと一緒です。ただし、代表的な著作には出ていないし、それらの文章のトーンから考えてもほかの著書に出てくるとは考えにくい。仮に出たとしても偶発的な、文脈依存のもので、アドラーの主たる主張とはいいがたいものだろう、ということですね。

 (まあもし、「いや、アドラーは言っている」というのであれば、何という著作の何頁にあるかまできちんと言ってください)


 それで、こういう捏造は果たして許されるか?ということを考えてみたいと思います。


 わたしたちは日頃、孔子の言葉、アリストテレスの言葉、マザー・テレサの言葉…に触れることがありますが、ここまで極端に捏造された言葉をきかされているだろうか?

 まさか、中間の人がここまで勝手なアレンジを加えた言葉を「アドラーの言葉」としてきかされるとは、思っていないんじゃないでしょうか。しかも有害なことを。

 原著を読んだ限りではアドラーは、ところどころ見立ての間違いがあるとはいえ良心的な常識的なカウンセラーです。「逆張り」などはしていません。時々「過剰」を憂慮していたにすぎません。しかも彼自身は、誰かの言葉を借りて言うということもほとんどしていません。けっして「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」などではありません。そこまで悪ノリして暴走するタイプの人ではありません。


 「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」は、主に、岸見一郎氏です。

 岸見一郎氏のWikiはこちらですが――

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E8%A6%8B%E4%B8%80%E9%83%8E

 まあ大学の非常勤講師を務めながら売れない頃からずっとアドラーの著作を訳してきたわけですね。わが国のアドラーの翻訳書はほとんど岸見氏の手になると思っていいぐらいです。

 しかもアドラー以外の心理学書はほとんど読んでない、というのも変わった方ですねえ、というかんじですが。そこまでアドラーがすきだったんですね。そのコダワリの強さは、あれっぽいですね。

 たしかにアドラーは同時代のフロイトやユングに比べてもまっとうな気がしますが、それでも現代のちょっと知識のある人からみれば間違いがたくさんあります。「トラウマを乗り越えよう」というのも、良心的な言葉ではありますが、重度のトラウマを負った人からみれば有害フレーズです。

 だから過去の遺物としてみるぶんにはいいんですけれどね。
 どういうわけか近年スポットライトが当たってしまい、そしておそらく、ヘーゲルの時代の哲学者よろしく、人生のあらゆる局面について発言していますから、「偉人」あつかいして「語録」あつかいするには都合がよかったんですね。
 しかし、過去のどの偉人と比べても発言を捏造されていますよ。


 よくわかりませんが『嫌われる勇気』のときに、なんでもダイヤモンド社の敏腕編集者がついていろんな提案をしたそうですが、そのときに今どきの「承認欲求バッシング」を入れこもうとか、「ほめない叱らない」を強いトーンで入れようとか、が入ってきた可能性があります。
 そのとき、売れたい一心の岸見氏がそれに乗っかったのかなと。

 ほんとうに良心的な専門家なら、「いや、アドラー自身はそこまでのことは言っていません。アドラーの言葉として言うのはやめてください」と言うと思います。でも「今が売れるチャンス!」と思ったら、乗っかるかもしれません。


 そのあたりはわたしは事実関係を良く知らないんですけどね。

 それにしても一連の「承認欲求バッシング」の書籍の中でも、「承認欲求を否定せよ」は、もっとも過激な、そして有害なフレーズです。他の本はおおむね、承認欲求ゆえに問題行動をとる人の例を挙げて嘆いてみせているだけなのです。承認欲求は人間の基本欲求なので、否定すれば簡単に鬱になってしまいます。もう既に鬱になりかけの人も多いかもしれません。

 「承認欲求バッシング」自体が、気に食わない優等生を袋叩きにする「いじめ」のような現象だったのですが、その中でも「承認欲求を否定せよ」とは、いじめグループの中の一番ヘタレの弱虫君が一番悪質なことをやってしまうというようなおもむきがあります。


 一般人のわれわれが知っておくべきことは、アドラーの言葉として出回っているものにはかなり「捏造」でかつ「有害」なものがあるので、聞き流しておくのが賢明だ、ということです。





 岸見氏の暴走ぶりというのは、例えば過去に講演で

「反抗期などというものはない」

と発言。

 詳細はこちらの記事参照

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html


 このあとすぐ某週刊誌で、思春期の子どもの脳についての特集があり、ちゃんと「反抗期はある」と実証されているわけですが。
 またアドラーも、思春期の子ども特有の逸脱行為について書いており、決して「反抗期はない」などと思っていたようにはとれません。


 またその後わたし自身が聴講した講演では、「自分の息子」をしきりに例として挙げながら「ほめない叱らない」論をぶっていたので、私が切れて反対質問をしたのでした。

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

 岸見氏の息子さんは、のちに京大に入って哲学者になられたのだそうで、自慢の息子なのだろうと思います。講演では、この息子さんがプラレールか何かを上手に組みあげたので、ほめたところ嬉しそうな顔をせず、「お父さん僕は当然できることをしただけだよ」と言ったという。その例を挙げて、「ほめることは対等の関係ではないんだ。上から目線だ。ありがとうと言わなければならない」と、いうのでした。

 これは「行動承認」の側から当然、反論があります。息子さんはIQの高い、言語能力の高いお子さんだったのであろう。また「ツンデレ」だったのであろう。あくまで息子さんの個体差の問題で、一般的にはお子さんは大人からほめられれば喜びます。また、「ツンデレ」を回避したければ、「行動承認―Iメッセージ」を使っておけば問題はありません。

 この講演では、3時間の講演と質疑の間に「うちの息子」の例が10回ぐらい出てきたのではないだろうか。息子自慢に終始した講演だったのでした。

 べつの例としては、お母さんのカウンセリングの50分間、一緒に入って静かに過ごした4歳か5歳の子供に、お母さんが「静かにしていてえらかったね」と言った。それが良くないと、岸見氏は言います。
「えらかったね。これを大人相手には言いますか?対等な関係だったら言えないことを子供に言ってはいけません。『静かにしてくれてありがとう』と言うのが正しいのです」
 しかし、岸見氏はそれを直接このお母さんに伝えたわけではないようでした。講演でカゲ口として言うのでした。
 わたしがきいていて、このケースでえらかったね」と言うのは、何も間違っていません。だって、4-5歳の子どもさんですよ?

 
 しかし、岸見氏の講演はこんな話が満載なのでした。300人ぐらいの善男善女ふうの人たちがこういう話をかしこまってきいているのでした。

 今から日本には「ほめられない子供」があふれることになります。やれやれ。この責任、どうとるのでしょう。製造物責任じゃないですか。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
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●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

●アドラー心理学批判 まとめの補足:正確な言葉は「人生のすべては認められたいという努力によって支配されている」、「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941508.html

 引き続きアドラーの原著を読みます。『人生の意味の心理学』(上)(下)(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2010年。原題'What Life Should Mean to You'1931年。

 この本は、NHK「100分de名著」に今年2月に取り上げられています。

>>http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html
 

 で、この本にどうやら「承認欲求否定」と「トラウマ否定」につながりそうなフレーズが見つかりました。

 しかし、「つながりそうな」というだけです。アドラーは決して「承認欲求を否定せよ」「トラウマなど存在しない」などという言葉は言っていません。では、何と言っているのでしょうか。

 上記番組でも上記のフレーズを使っていますが、番組プロデューサーさん、この本をちゃんと自分の目で読みましたか。


 まずは、「トラウマなど存在しない」(の起源)のほうから。


 
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(前掲書上巻第一章「人生の意味」、p.21)


 トラウマに苦しむのではなく、経験に意味を与えなおすことで自らを決定せよ。そういう意味のことを言っています。

 この一節の前には、子供時代の不幸な経験について、不幸な経験があってもその経験にとらわれず今後は回避できると考える人もいるし、同じような経験をした人が人生は不公平だと考えたり、自ら犯罪に手を染めて不幸な経験をその言い訳にする人もいる、という意味のことを言っています。

 なんども言うように、アドラーは心理学者・カウンセラーさんです。トラウマに苦しむ人を膨大な数、みてきました。この本にも他の本にも、アドラーがみてきたトラウマのために社会不適応を起こす人、問題行動をとる人、が多数登場します。

 だから、「トラウマなど存在しない」という言い方は誤り。

 ただし、そうとれることを言っている、というのは、アドラーは恐らく過去の経験に囚われている人を何とか治したかったのだろうと思います。実際に治せたかどうかはわかりません。治したい一心で言った言葉が、上記で引用した一節であろうと思います。すなわち簡単に言えば、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

と。

 読者の皆様、どう思われますか?

 「トラウマ」については、現代では色々な形で反論できるんです。

 例えば、

1.動物でもトラウマと似た反応はある。セリグマンの「学習された無力感」の実験などはそう。

2.地震大国の日本では阪神淡路、東日本大震災などで家を失い、近親者を失ったことなどによるPTSD患者が多数出たことを知っている。その人たちに「トラウマなど存在しない」と言えるだろうか?

3.発達障害の一種、自閉症スペクトラム(ASD)の人ではトラウマが残りやすいことが知られている。彼らは恐れをつかさどる偏桃体が普通の人より大きい。

・・・などなど。

 アドラーは身体の障害には言及していますが、こころの個体差にはかなりむとんちゃくでした。知能にも限界はないと言ったように、個体差を否定したがる傾向がありました。
 それもまた度を過ぎたポジティブさとも言えるし、優生思想を回避したいがための「べき論」とも言えるし。現代のわれわれは、人間は「タブラ・ラサ」ではなく、生まれつき脳の個体差があることを知っています。また遺伝形質の影響が大きいことも知っています。


 ただ上記のような、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

こういうフレーズを、現代でも認知行動療法のカウンセラーさんなどは言っているような気がします。不遜な言葉ですけどね。わたしならそのカウンセリング、やめますね。

 こころの痛みを負った人には、まず十分な傾聴、共感、慰め、いたわりが必要です。そののちに、もしトラウマとして残っているようであれば、以前にも書きましたがEMDRは、クライエントに治りたいという意志が強いならいい選択だと思います。

 
 ともあれ、まとめますと、アドラーは「トラウマは存在しない」などということは言っていない。ただ「トラウマを乗り越えよう」という意味のことを言っている。ということです。




 もうひとつ、「承認欲求否定」につながりそうな一節をご紹介しましょう。「第八章 思春期」に出てきます。

 
 
以前は貶められ無視されていたと感じた子どもたちは、おそらく今や、仲間の人間とのよりよい関係を築いたときに、ついに承認されるだろう、と期待し始める。彼〔女〕らの多くは、このような賞賛の渇望にとらわれる。少年が賞賛を求めることにあまりに集中することは危険だが、他方、多くの少女はいっそう自信を欠いており、他者に認められ賞賛されることに、自分の価値を証明する唯一の手段を見る。このような少女たちは、容易に彼女たちをおだてる方法を知っている男の餌食になる。私は家では賞賛されていないと感じ、セックスをし始める多くの少女に会ってきた。それは自分が大人であることを証明するだけではなく、ついに、自分が賞賛され、注目の中心になるという状況を達成できるという空しい希望からである。(下巻第八章思春期、pp.47-48))



 思春期は、たしかに承認欲求が亢進する時期なんですね。また承認欲求ゆえに性的逸脱行動も出ます。そういう現象にこの時代に目をとめたのはアドラー、えらかったですね。ここで使っている「承認」「賞賛」は英語で言うとなんなんだろう、と気になりますが。
 そしてこの次に、承認欲求が家庭でも学校でも適切に満たされず問題行動に走る少女の例が出てきます。


 …絶え間なく勇気をくじかれた。すぐにほめられることをあまりに強く願っていた。学校でも家でもほめられないことがわかった時、一体何が残されていただろうか。

 彼女は、彼女をほめるであろう男性を探し求めた。何回かの経験の後、彼女は家から出て、2週間男性と一緒に住んだ。(同p.49)


 このあと、この少女は家出先から家に「毒を飲んで死ぬ」と予告したが、実際には自殺せず家族が迎えにくるのを待っていた。…


 このエピソードは、どう解釈したものでしょうねえ。確かにこの女の子は承認欲求、それに自己顕示欲の強い子だったのだと思います。
 もちろんアドラー、慧眼です。21世紀になると、こうした承認欲求ゆえに問題行動をとる子、とりわけ売春のような性的逸脱行動をとる子の事例はうんざりするほど報告されるようになります。


 ただまあ、上で言いましたように思春期は性ホルモン値が男女ともに生涯最高に上昇する時期で、それとともに承認欲求も性欲も両方亢進します。両者は連動するといっていいです。なので中には承認欲求の亢進にともなって性産業にいく子、逸脱行動をする子がいてもそんなに不思議ではない。もちろん、ご家庭や学校で承認欲求の正しい満たされ方ができればそれは何よりですが。

 あと、上のエピソードを読むかぎりほめることが悪いことだというふうには読めないですね。ほめられることを渇望するヒロインの姿に多少のグロテスクさはありますが、ご家庭や学校の周囲の人はほめてやったほうが良かった、というふうにとれますね。

 まあ、私はほめるという言葉もあまり好きではなくて使いたくないんですけれど、少女は「かけがえのない存在」だと誰かに言ってほしかったんだと思います。それは一義的には、親が与えてやるべきだったのです。


 で、この本『人生の意味の心理学』が承認欲求に触れたのはこのあたりです。「承認欲求を否定せよ」という言葉はどこにも書いてありません。それは、岸見一郎氏の「誤読」ないしは「捏造」です。


 ただ、承認や賞賛を求めるあまりに問題行動をとる思春期の少年少女たちを描写していると、まあ滑稽ともいえるのですけれども読者はそこにグロテスクさを感じ嫌悪の念をもよおすかもしれません。わたしの想像ですが、岸見一郎氏はこのエピソードを嫌悪したのではないかと思います。それが昂じて、「承認欲求を否定せよ」という彼オリジナルのテーゼを作ったのではないかと思います。


 しかし、アドラーはそれを望んだでしょうか?
 わたしの目には、アドラーはクライエントを治したい一心の良心的なカウンセラーだったと思います。ただし現代人なら持っているはずの新しいツールは持っていませんでしたが。そこで教条主義的なテーゼなどは言っていなかったと思います。上記のエピソードをみていても、アドラーはむしろ、ご家庭で適切な承認は与えてしかるべき、と考えていたようにとれます。


 アドラーの名を騙って勝手なテーゼを触れ回るということが許されるのだろうか――。
 先日、週刊誌の記者さんにわたしは

「アドラーの教えとして『ほめない叱らない』『承認欲求を否定せよ』なんてことを信じているのは世界中で日本人だけかもしれませんよ」

と言ったのでした。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
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●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
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●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
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●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
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●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
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●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
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●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
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●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
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●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
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●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
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●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 「アドラー心理学」について、友人の40代女性からメールをいただきました。実務経験の長い聡明な方です。
 わたしが書くよりコンパクトでわかりやすいアドラー心理学批判になっているかと思います。 「幼稚―成熟」という切り口も新鮮です。

 ご了承をいただいて、ご紹介させていただきます。


*********************************************


ブログで話題のアドラー心理学、私、お恥ずかしいことに
正田先生の最近の批判記事を読んで、やっと手に取ってみようかと思い始めました。

ベストセラーの『嫌われる勇気』は、文体が好みではなくて食指が動かず、
近寄らなかったのですが
最近になって、読んでみたいと言う家人のリクエストで、
続編の『幸せになる勇気』とあわせて手元にあります。

文体や語彙が好みでない(を通り過ぎてなんだか気持ちが悪い)、
読み進めるのは苦痛なのですが、
せめて大きな論旨とキーワードだけでも拾いたいと、ぱらぱらめくっています。

いくつか気がついたことです。

時代背景や社会状況に依存する事象を、
普遍的な価値として提起していて、
つながりや関係のもつ価値や意味が、
Gemeinschaftを前提にしたものに偏っているのではないかという疑問がわきます。
(この本は設定では、それでいいのかもしれませんが)
Gesellschaftを前提とした一般社会人には当てはまらないと思えます。

子育てに関わる部分は私には経験もないのであくまで第三者的な考えですが、

褒めず叱らずで、子供に規律や倫理や秩序をどうやって教えるのか、
人は永遠にGemeinschaftに留まれるわけではなく、
Gesellschaftのなかで生き抜いていくために必要な知識や知恵としての信賞必罰や他者との関係性は、
どこで学ぶのか?といった疑問がわいてきます。

そして、『嫌われる勇気』という受動表現に端的だと感じたのですが、
周囲に干渉される存在であることが暗黙のうちに前提となっている読者のために書かれた本で、
(正田先生の表現をおかりすればナルシシズムが亢進気味の人)
成熟した内面をもつ大人を対象に書かれた本ではないような印象です。


そして、家人とこんな話をしました

家人「今の若手は(若手と言ってもそれは40代の教授だったりするんですけども)、
何がやりたいのかわかってない人が多い、自分のテーマをもっていないんだよ。
結局、医学部に入って医者になって、海外にも留学して、博士もとって、論文を書いて、
で運良く教授になっても、自分のテーマを持っていないから、結局、ポストだけにこだわって、
学内や学会のポスト漁りに躍起になってみたりするんだよなあ。
そういうところを、彼らの部下はしっかり見ていて、自分の教室は迷走してるって言ってるよ」

私「結局、教授になるまで競争に勝つことだけをやってきて、自分が本当にやりたいことに向き合ってこなかったってことかしら。
大企業にいる高学歴な幹部社員にもそういう人はいて、都度都度の競争に勝つことが目的になってしまってて、それしかできない人もいるよ。
競争ではなくて、ゼロからの創造が必要なシーンになるとそういうタイプは全然機能しないんだけど、
最近は、競争に勝つためにゼロからの創造が必要なこともあるから、その辺りに気づき始めている企業もあるにはあるけども、まだ少ないかなあ」

家人「例えば、●●先生(若手教授)には嫌われる勇気が必要だということなんじゃないかなあ。若いやつを見てるとそういう気もしなくもないよ。」

という意見でした。
私はそこまで短絡的には思えないのですが、
話題になった教授がそうであるように、ナルシシズムが亢進気味で迷路にはまった人には、
嫌われる勇気は響くのかもしれないようです。
ただ、多数の一般社会全体には適用できない話だと思います。


そして、ナルシシズム亢進で思い出しましたが、
小保方氏と瀬戸内寂聴氏の雑誌での対談、たまたま見ました。
小保方さん、かなり「幼稚」な人なのですね。
寂聴さんが、小説としての「あの日」の文章を褒めて、もっと文章をかきなさいとすすめると
その返答に「私に小説の書き方を教えてください。」と言い出す。
んー、たぶん、これまでもそうやって年長者と関わってきたんだろうなと思えるやりとりでした。

しかし、幼い。発言が1つ1つが幼い。
うつ病の治療を続けているそうなので、
そのせいかもしれませんし、もともとそうなのかもしれないですが、
いずれにしても人格の幼稚さが透けて見え、
その点がもしかしたら、彼女を擁護する人々があれだけいる理由かと思ったり。

彼女を擁護する人々の側にある教条主義は、
彼女のもつ独特の幼稚さによって刺激され活性化するように見えます。
その幼稚さの正体が何なのか、そして相手の何を刺激しているのかを分析できれば、
現代の大衆病理を読み解けるのでしょうか。
私がそれがわかったところで、正しい治療法がわかるとは思えないですが、
正田先生のあの日の解説を読ませていただいたことも手伝って、そのような興味が深まっています。


先日、違和感の正体という新潮新書を読んだのですが、
そのなかで、著者(先崎彰容氏)は現代日本社会を「ものさし不在」で「処方箋を焦る」社会と形容していました。
言い得て妙だと思いました。
そういう社会になっている要因には、何かしらの「幼稚さ」が関係するのではないかという気もします。
成熟を拒否しているのかあるいは成熟できないのか、
その精神性や風潮が、我が物顔で世の中を跋扈しているような状況にも思えます。

本来であれば、未成熟なことは恥ずかしいことで、自分を成熟させていく努力をすべきなのに、
幼稚さを純粋さとを同一視してそれを美徳として煽り、
成熟に向かわせようとしない風潮があるような気もします。

未成熟な人材を管理職に登用することで経営者に都合のいい独裁的な体制を強化している企業もあり、
私のいたIT業界でも、新卒を大量に採用し、ある種の洗脳をしていくような経営がもてはやされています。

極端な考えと思いますが、そういう経営者を見ていると、
知識人を追いやり虐殺し、
文字の読めない人や子供を煽動して独裁を進めたポルポト派のことがなぜか思い出されて、
ぞっとします。

正田先生の発信を読ませていただいているうちに、
行動承認に対する態度は、成熟した内面を持つ大人であるかどうかの試金石のように思えてきました。
行動承認の効果やあるいはその大きな意味を、自分ごととしてとらえることの出来る方は、
「幼稚さ」とは縁遠く、内面の成熟に向かわれているような印象です。

内面の成熟とは、自分の努力でしかなし得ないものであり、
挫折に向き合い、葛藤をかかえ、矛盾にさいなまれておきる心境の深まりなのかと思います。
暗くて深い地下トンネルの中で孤独の空気に囲まれて眠るワインのようです。

(注:2通のメールをドッキングさせていただきました)

*********************************************

 いかがでしょうか。

 最後のほうに「行動承認」について、またその世界の人びとについて、過分なお褒めをいただいてしまいましたが、わたしも内心、そう思っています。
 「行動承認」は人を成熟に導きます。また、成熟度の高い人びとに響きます。
 トレーニングの易しさ続けやすさのお陰もあって、「行動承認」の人びとは、一般社会とは段違いの成熟度と思考能力の高さを獲得していきます。

 
 逆に、このところの出版業界のベストセラーの作られ方をみていると、
 
 まず年齢層が、20−30代の独身者層をターゲットにするのですが、その中でも、この友人のメールの中にもあったナルシシズム亢進気味の人をターゲットにします。『嫌われる勇気』などを読むと、社会人の中のいわゆる「中二病」で社会不適応気味の人が、これを読むとかぶれそうだなと思います。

 「中二病」の人は、現実世界で出会う人をリスペクトなどしません。叱られてもききません。そうして浮き気味のときに、ベストセラーで「哲人」が上からお説教をしてくれる『嫌われる勇気』は、ウレシイのです。

 うーん、ストレングスファインダーで言うと何?というと、大体答えは出ているのですけどね。

 今のベストセラーの作られ方をみていると、「中二病」が中二のときだけでなく社会人になっても延々と続くように、ベストセラーが仕向けているような気すらします。

 それは、友人の言うように思考能力の低下にもつながるし、カルト形成にもつながりますね。はたからみるとすごく変な教祖様を尊師とあがめていて、つじつまの合わないおかしな考え方にかぶれている集団。
 
 その集団のコアには戦略的に大衆を騙そうという仕掛け人がいます。そして当初は思考能力の偏りのひどい人、判断力のない若い人が取り込まれ、コア集団を形成し、そして一定の勢力を形成すると、周囲のそれほど偏りのない人も取り込まれていきます。普通の善男善女が入信していきます。

 
 アドラー心理学も小保方擁護派も結局そうです。

 さあ、こうやって社会を幼稚化させるたくらみに対抗するすべはないのでしょうか――


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 アドラーの原著の1つ『個人心理学講義―生きることの科学』(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2012年。原題'The Science of Living'1928年)を手にとりました。

 興味としては、わたしが批判する(岸見)アドラー心理学の非常に問題の多い幾つかのポイント

1.人に認められなくてもいい
2.ほめない、叱らない
3.トラウマはない


などは、どこからくるのか。アドラーの原著ではそれは、どういう文脈で出てくるのか、あるいは根本的に原著にないものか、ということです。


 で、結論から言うと予想どおり、この本にはそれにあたるフレーズは出てきませんでした。


 もちろんこの本1冊で判断するのは早計です。でもこの本の奥付には

「アドラー心理学入門の決定版!
ウィーンからニューヨークへと活動の拠点を移したアドラーが初めて英語で出版した、アドラー心理学全体を俯瞰できる重要著作。

過去と自己への執着から離れ、仲間である他者に貢献することを目指す共同体感覚をいかに育成するべきかを人生の諸像の考察を通じて明らかにする」

とあります。いちおう「アドラー心理学全体を俯瞰できる」とありますので、この本をじっくり読んでみるのもわるくないと思ったわけであります。

 で、ぼんやり思うのはアドラーの考える「共同体感覚」なるものは何か、ということです。どうもここが上記の”変な思想”のすべての起源になっていそうです。


 ただ、最近の読者の方は文字をびっしり書いてあるのを読むのは「たるい」とお感じになると思います。なので、
スライドで図をつくってみました。


スライド1


 おそらく、この本が構想しているのはこういうものであろう、ということです。ひとりひとりが向上し、共同体感覚をもって貢献しあいましょう。
 学校の教室の目標に貼ってありそうです。


 わるいけど、わたしはこの図を作りながら「革命家の青い思想だなあ」と思ってしまいました。ひとりひとりが誰の助けも借りずにここまで立派に向上して、というのは絵空事です。マルクス主義がすごく自立した立派な人が構成する社会を念頭に置いてできていてすぐポシャッたのと同じ。もし組織の成員のだれか1人がこういうことをお勉強してやりはじめたとしても、線香花火で終わるでしょう。

 もちろん、理想は理想として結構です。ただ、これは組織が非常に大きく「リーダー」に依存しているという現実をみていません。泣いても笑ってもそれが現実です。その部分を無理やりスルーして、フォロワー側の努力で良くしようと思っているようですが、それは現実逃避です。

 現に、いまどきの学校ではしょっちゅう学級崩壊が起きるのですが、そこでは生徒をリスペクトしていない、褒めない先生のもとで容易に起きます(学級崩壊の原因をたどると大抵はそういうところにたどりつきます)。そういう先生が「ひとりひとりが向上して貢献しあいましょう」と声をからして言ったところで無意味なのです。


 で、手前味噌で恐縮ですがわたしが数年来研修で使っている「承認モデル」の図というのをお出しします。


スライド2
スライド3
スライド4


 これは法螺を吹いているわけではなく、実際に働きかけをすることでこうなってきました。
 こちらのほうが、学習機会を与えるのはリーダーに対してだけで良いのです。あとはリーダーからフォロワーへ、日々のやりとりの中で自然に良いものが流れていくのです。

 おそらく過去10数年にわたる再現性からみて、こちらのほうが人間社会の真実です。



 この「共同体感覚」というものについて、この本の末尾の訳者・岸見一郎氏の「解説」から引用します。


 
アドラーがこの共同体感覚という考えを友人たちの前で初めて披露したのは、アドラーが軍医として参戦した第一次世界大戦の兵役期間中、休暇で帰ってきた時、なじみのカフェにおいてであった。

 このことで、アドラーは多くの友人を失うことになった。価値観にもとづくような考えは科学ではないというわけである。しかし、アドラーにとって個人心理学は価値の心理学、価値の科学である。(前掲書p.182)


 おいおいー。

 ここは、アドラーにも書いている岸見氏にも両方ツッコミを入れたくなります。「価値の心理学」そして「価値の科学」ってなんだよ!?主観に科学ってつけないでくれよ。

 要は、アドラーさんは自分の価値観を一般論みたいに書いているだけのようです。「貢献することが好き」これは、ソーシャルスタイルのFタイプさん、4つのタイプ分けでいうサポーターさんが当てはまります。みんなが私みたいだったらいいね!ということを言ってるんです。


 「私は貢献することこそ自分をそして全体を幸福にすることだと発見した。」

 別に、間違ってはいないんですが。

 問題はそれに「承認欲求否定」「ほめない叱らない」がどうしてひっつくのか、ということです。この本にはそうした言葉そのものでは出てきません。では、文脈上そう読み取れるところがあるのでしょうか。

 あくまで、この本単体から読み取れることで言いますと――。


 この本をパラパラめくると、「甘やかされた子ども」「憎まれた子ども」という言葉が多数出てきます。父親や母親が過度に罰して虐待したことによってもたらされる、抑圧された感情という言葉が出てきます。それから、「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」という言葉も出てきます。

 それに関連したいくつかの症例も出てきますが――、

 要は、カウンセリングの世界の話なんです。

 以前から言っていることと同じです。アドラーは、心理学者・カウンセラーとして、社会不適応を起こした大人や子供さんをみてきました。その背景に、さまざまな「過剰」の現象をみてきました。すなわち、甘やかしすぎ。叱りすぎ。他者に優りたいという気持ちが強すぎ。劣っているという気持ちが強すぎ。


 そこから、どうも、「過剰」がなければ、「共同体感覚」のある、アドラーの考える「いい人」をつくれると考えたようです。

 引き算の発想ですね。岸見アドラー心理学の「ほめない叱らない」の起源は、どうも、ここにあるようです。

「この主題を扱う時、罰することや、諭すこと、説教することでは何も得ることはできないということは、いくら強調してもしすぎることはない。」(p.20)

 さあ、「叱らない」に通じそうな言葉が出てきました。
 しかし、この言葉はその前段に出てくる問題行動をする子供たちの例との絡みで理解する必要がありそうです。
 いわく、怒りっぽい父親をもった女の子が男性を排除する。厳格な母親によって抑圧された男の子が女性を排除する。あるいは内気ではにかむ、性的に倒錯する。
 こういう子たちを罰しても意味はない、ということを言っているのであって、一般論としていついかなる時も罰することがいけないと言っているわけではありません。


 そして、理想的な状態をどうやってつくるか。


 一番最初から共同体感覚を理解することが必要である。なぜなら、共同体感覚は、われわれの教育や治療の中のもっとも重要な部分だからである。勇気があり、自信があり、リラックスしている人だけが、人生の有利な面からだけでなく、困難からも益を受けることができる。そのような人は、決して恐れたりしない。(p.16)



 その理想は大変結構なんですけど。じゃあどうやってそういう人をつくるの?「過剰」さえなければつくれるの?

 これが結局、カウンセリングの側から教育を語ることの限界を物語っているのだろうと思います。「治療」と「教育」は違うものです。「治療」は、「過剰」を是正することが大きな仕事になります。しかし「教育」は、なにかを加算することです。


 「行動承認」の世界にいるわたしは、そこで「訓練」の存在をみます。訓練は、人為的に指導者が負荷をかけたのかもしれないし、人生のあるいは不幸な巡り合わせで困難な課題を与えられ克服する経験を通じてもたらされたのかもしれない。「過剰」を控える以外何もしないでつくれるわけではありません。また、困難な負荷であれば、それを乗り越えたときには「承認」が必要でしょう。




 アドラーも「訓練」の重要性を、実は言っています。
劣等感と社会的な訓練の問題は、したがって、本質的に連関している。劣等感が社会的な不適応から起こるように、社会的な訓練は、それを用いることで、われわれ誰もが劣等感を克服することができる基本的な方法である。(p.31)


 ほかにも、甘やかされて行動しない子どもには訓練が必要だ、というフレーズが出てきます。


 これは後世のアドラー心理学の人が「操作」を罪悪視するのとはちょっと矛盾するのですが。訓練っていわば操作じゃないんですか。 「・・・をしなさい」って言って、できたらほめたりするのを訓練って言わないですか?


 この「操作」が悪玉になった流れというのは、アドラーの時代からずっと下った1990年代ぐらいに、「内発と自律論」がもてはやされました。どうもそのころ行動理論があまりにもメジャーになったので、反発を買った。また、部分的には弊害も出てきた。『報酬主義をこえて』でアルフィー・コーン氏が批判したような、子供をお金で釣って勉強させるような。(2015年日本では某美人学者さんが「お金で子供を釣ってよい」と本に書いているが、コーン氏はそれにはどう言うのだろう…)

 その当時は、「ほめたり叱ったり」というのを、「アメとムチ」と、汚い言葉でくさすのが主流になりました。それとの絡みで、アドラー心理学陣営も、「操作はいけない」ということを言うようになったのではないかと思われます。いかにも、「過剰」には「過剰」に反応するアドラー心理学らしいです。
 
 アドラーが、普通のご家庭の躾としての「ほめたり叱ったり」までを否定していたのかというと、この本でみるかぎりクエスチョンですね。


 
 そういうわけで、この『個人心理学講義』からは、「認められなくてもいい」「ほめない叱らない」「トラウマ否定」は、読み取れませんでした。

 これらのフレーズは、岸見一郎氏の誤読、牽強付会あるいは創作の可能性が高いです。もともと、『嫌われる勇気』をはじめとする岸見氏の一連の著作、ならびに他の著者によるアドラー心理学本は、アドラーに依拠したというより、「二次創作」のようなものが多いのです。コミケで売っている同人誌のようなものが多いのです。





 「承認欲求否定」に関しては、アドラーからとったというより、わが国の出版業界の流行りである「承認欲求バッシング」の尻馬に乗ったのではないか、というのが、わたしの見立てです。

 このブログでかねてから批判していますように、出版業界の流行りで、わが国では2008年ごろから「承認欲求」をやたらに非難する書籍が続々と出てきました。
 その「はしり」のような本が、『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)。
 この本についてのブログ記事
●奇妙で不快な論理構築:承認欲求バッシングはこんなに変!―『友だち地獄』『希望難民ご一行様』
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927340.html

 その後2011年には『「認められたい」の正体』『人に認められなくてもいい』といったタイトルの新書本が相次いで出、ちょっとした「承認欲求バッシングブーム」の感がありました。

 岸見氏の「承認欲求否定」は、どうも、このバッシングブームの尻馬に乗って言っているだけ、という感があります。前にも書きましたようにアドラー自身は「承認欲求」という言葉を使っていません。

 「甘やかされた子ども」「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」これらは、「承認欲求」が絡んでいないとはいえないですが、どれも異常に暴走して正常範囲から逸脱したものです。


 岸見氏の言う「認められたいと思わないで、貢献しようと思えばいい」このフレーズは、個別のクライエントに対するカウンセラーのアドバイスとしては、「あり」だろう、と思います。
 例えば、「認められたい」がやたら強すぎる人。「自分が人に10やってあげたら、20も30も50も認められたい」と思っている人。
 あるいは昇進し損ねて、同期より昇進が遅れてしまい、それがコンプレックスになって鬱になってしまっている人(実際、男性はそういうきっかけで鬱になることがよくあります)。

 そういう人を目の前にして言う場合には、「認められたいと思わなくていい。貢献しようとだけ考えればいい」これは、「あり」です。わたしでもそういう人に対してはそう言うかもしれない、と思います。
 しかしあくまでそういう個別の人に対してだけ有効なテーゼなのであって、一般化して教育の教義にまで格上げするようなものではありません。




 これはあくまでわたしの想像ですが、岸見氏はこの出版界の流行りである「承認欲求否定」と、アドラーのいう「共同体感覚」「貢献する」を合体させて、これならうまくいく、と思ったのかもしれません。つまり、各自が「共同体感覚」をもち、「貢献さえすればいいんだ」と強く思っていれば、「承認欲求」は必要なくなる(これも幻想なのですが)。

 それプラス、アドラーの「甘やかされた子ども」の概念も使って、つまり親がほめるから子供が甘やかされるんだ、承認欲求をもった人に育つんだ、と。親がほめないで育てれば、承認欲求のない、「人から認められたい」という願望のない人ができるんだ、と。
 
 それはサイボーグづくりのような、ものすごい人間性に反した考え方ですけどねえ。




 
 なんどもいいますように「承認欲求」はたまに逸脱も起こしますが、圧倒的に多くの場合は人びとが規範的に振る舞うことを促します。わたしたちの規範意識はそもそも承認欲求によってつくられていると言ってもいいのです。そして承認欲求は精神における食欲のようなもの、根源的に大事なものです。

 「角を矯めて牛を殺す」という言葉がありますが、一部の問題行動をとる人にばかり注目して原因を過剰に摘み取ろうとするのは、癌細胞は細胞だから細胞が全部わるい、と言っているようなものです。ターゲット以外のものを叩いてしまう副作用の強い薬のようなものです。






 それから、アドラー自身について思うのは、この人はやっぱり発達障害が全然わかっていないですね。時代的に仕方ないですけれどね。『個人心理学講義』の中にも、「その子はADHD」と思うような症状の子が、「甘やかされた子ども」と解釈されている例があります。岸見氏も全然わかっていないです。またLGBTもわかっていないです。性的倒錯を育て方のせいにしている記述がこの本にはあります。

 今からはもう少し、今年2月にNHKが名著として取り上げた『人生の意味の心理学』も、読んでみようと思います。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
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●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
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●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
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●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
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●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
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●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 本日、NHKおはよう日本(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集し、それに対して私が批判の書き込みを即、フェイスブックにUPしたものだから、お友達がコメントをくださいました。

 
 お名前を伏せて、貴重なコメントを紹介させていただきます。

「ほめること、承認することは必要です。また、勇気づけることも大切です。仮説に過ぎないアドラーの考えを、無批判に振り回すのはやめませんか。」(学校教員)


「情けは人のためならず、とか、無私、とかが好きな日本人には「承認されること」「褒められること」にたいする含羞というか、拒否感があって、しかもその拒否が建て前で、実はとても認められたい欲求が強いくて、それを外に出せないし、他人の欲求も否定する。
お礼は言らないよ、といいつつ、好きでやってるのだからと、無理に努力をして、結局それを評価されないと落ち込む自分がいて、しかも、そういう自分を汚いと思い。内心を人から見透かされないよう気をつけつつ気づいてほしいというねじくれた状況に陥りやすいですね。」(
料理研究家)


 お二方、それぞれおっしゃる通りです。まず、人が育つ現場において「承認欲求」は根源的な欲求だということ、それは目の前の存在のもつ性(さが)を素直に観る力のある方なら見てとれることでしょう。
 また、日本人特有の「承認欲求」に対する含羞の気持ち、これもマネジメント分野で「承認論」を唱えた太田肇氏が当初から言われていたことで、「『認められたい』は人の心に眠る巨大なマグマ」であると、かなり深層のインタビューをしないとそれは見えてこないと。


 お次はご同業の友人、宮崎照行さんより。

「私もNHKのニュースを拝見しました。

大手メディアが取り上げるということは、まさに「権威に訴える論証」。
「権威に訴える論証」は、アドラー心理学の表面的な部分、アドラー心理学が流行っているからということで盲目的に信じている人たちにとっては、まさしく無批判に考え方を正しいと強化するものです。

特にアドラー心理学を信奉し一般化している人は批判的思考能力が高いとは言えないのでその傾向は強いと思います。多分、原著を読まれている人は殆どいないでしょう。多くが岸見本の受け売りです。(アドラーの原著は抽象的すぎるので読破することは難しいでしょう)

最近、私が危惧しているのは、キャリコンをされている方に岸見本で解釈されているアドラー心理学を盲目的に信じている人が多いということです。キャリコンやカウンセラー・、コーチの方々のクライアントに対して影響力を及ぼしている方が無批判に浅い理論や考え方を使用すると大いに「毒」となります。


例えば、荒れている高校生に対してアドラー心理学の考え方を講演等で押し付けてしまうと、却って素直なので彼(女)からそっぽを向かれます。

彼(女)らは様々な環境で傷ついています。不器用で且つ限られた中でしか生きていないので、自分の存在を反抗という形で表しています。

こういう人たちに対して、例えば、岸見本にあるように「学歴が低いことで卑屈になるのは自分の見方がおかしい」といえるでしょうか。多分、猛反発を食らうでしょう。

比較するほどではありませんが、相手の存在を承認し、話をする・聞くという「場」をつくり、建設的に構成していくほうがよっぽど効果的です。


私はアドラー心理学が存在すること自体は否定しませんが、専門的職業と名乗っている方々で岸見本レベルで仕入れた表層的な知識だけで、すべてが解決するということに対して猛烈に批判します。

私自身、「嫌われる勇気」があるので「嫌われる勇気」のような本を全く必要としないというのは皮肉でしょうか(笑)
..


 そうなのだ、(岸見)アドラー心理学は、「承認欲求批判」「期待に応えなくてもいい」以外にも、非常に気になるところがいっぱいある。

 弱者目線を欠いている、というのは、上記の「学歴が低いことで卑屈になるのはおかしい」もそうだし、発達障害などの障碍者目線がまったく入っていないこともそう。

 (これは『個人心理学』のAmazonレビューにもそういう批判があった。今からその本を読んでみるが)

 以前にも、わたしとは別の方による「岸見講演」講演録をUPしたが、それによると講演には産業カウンセラーの方々がわんさか来ていたという。キャリコンや産業カウンセラーの先生方が、弱者であるクライアントに

「承認欲求を持たないほうがいいんだよ」

と、説教している図を想像したら…、

 ゾッとする。弱者を痛めつける、悪用されやすい思想だと思う。

(アドラーが影響を受けたニーチェ思想は実際にナチに悪用されたそうだ)


 アドラー心理学がまき散らす害について語りつくせる日はくるのだろうか。

 これ、アメリカでは今どういう位置づけになっているんだろうか。ご存知の方はご教示ください。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

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●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 「メディアの劣化」という話題についていよいよこのブログにカテゴリを立てなければならなくなったかもしれません。
 わたしのいや〜な予感が当たってしまいました。表舞台に出てはいけないものが出てしまいました。


 今朝、NHKの「おはよう日本」(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集していました。

 全然予期していなかったので録画などはしておりません。しかし非常に問題のある内容で、わたしは9時になるのを待ちかねたように「NHKふれあいセンター」(Tel.0570-066-066 )に抗議してしまいました。

 
 

追記: こちらに特集内容がUPされています
http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2016/05/0524.html

途中からみたのかもしれないのでもし違っていたら訂正していただきたいのですが、

 「アドラー心理学で心の安寧を得た(番組ではそういう表現ではなかったが)人」として、2人の人物が登場します。
 1人は、男性のビジネスマン。「承認欲求批判」がモチーフです。
 「認められたいと思っていて苦しかった。アドラー心理学に出会い、『人に認められなくていいんだ』と思えるようになって、楽になった。『人を信頼し、貢献せよ』という教えに従って、貢献しようという気持ちでいると楽になった。今では自分から人に貢献することだけを考えている」

 もう1人は子育て中のお母さん。「期待に応えなくていい」がモチーフ。
 「子供たちをひどく叱ってばかりいた。アドラー心理学で、『他人は自分の期待に応えるためにいるのではない』と習い、気持ちが楽になった。(叱らなくなった?)」

 これを取材してきたディレクターと男女のアナウンサー2人が少し会話して終了。
 
 女性アナウンサーが、「これまでにも普通に言われてきたことではないですか?」と怪訝そうにいうが、それ以上の追及はなし。


 さて、上記のどこに問題があるでしょうか。
 このブログの長い読者の方だと、お分かりいただけるのではないでしょうか。

 簡単に言うと、「人に認められなくていい」「期待に応えなくていい」
 これらが正解なのは、「過剰」な場合だけなんです。 
 多くの場合は、「認められたい」と思うことも「期待に応える」ことも正常なことで、否定するのはおかしいことなんです。否定して鬱を作ったり人間関係の問題を作ることのほうがはるかに怖いんです。


 「人に認められなくていい」
 このフレーズは、ごく限定された場面でだけ正解です。
 すなわち、承認欲求が極端に強いナルシシストの場合。リーダーには、昇進などが原因でナルシシズムが亢進することがあります。TVに映っていた人はこのタイプのようにみえました。
 また往々にして、能力の低い人ほどセルフモニタリング能力が低く、自分の能力には見合わない評価を求めることがあります。
 あるいは、自ら選んだボランティアのような仕事をしていて、時折「誰も認めてくれない…」という無力感にさいなまれるようなケース。その場合は、自分が選んだ道そのものの意義と認められない苦痛と天秤にかけて、どちらをとるか決めないといけません。選んだ道そのものの意義を重視するなら、とりあえず「認められたい」は封印したらいいでしょう。

 人は誰でも認められたいと思っています。だから効果的に認められれば、絶大なる力を発揮します。こちらのほうが、パフォーマンスを上げるには正解です。もちろん精神衛生上も正解です。「行動承認」を導入してくれたマネジャーの下では、何年もにわたって大きな問題が起こらず成長を続けています。
 (ごくたまに、その中で伸びすぎて問題行動を起こす人が出て退社してもらうケースも出るようです。それはむしろ例外的な例です)

 「承認欲求」は食欲と同じで、人間の基本欲求。精神における食欲と同じようなものです。
 もし「承認欲求はわるいものだから、押さえこみなさい」というなら、それは「食欲はわるさをするものだから、抑えなさい」というのと一緒。よほど食欲が亢進しておデブになっている人には必要なことかもしれませんが、必要な食欲まで抑えたら摂食障害になってしまいます。ガリガリにやせて低栄養になってしまいます。

 
 たとえば、「認められたいと思わないで、相手に貢献することだけを考える」という方針で、みんなが仕事をしたらどうなるか?
 これは、独りよがりな仕事の仕方にすぐ、なるでしょうね。相手が喜んでくれようがくれまいがどうでもいい、ということになりますから。会社の中が独りよがりな仕事だらけ不協和音だらけになるでしょうね。

 また、万一マネジャーが「承認欲求は否定してよい」と思っていたらどうなるか?
 自分の承認欲求だけを否定していればよいですが、それだけにはとどまらないでしょう。部下が承認欲求を持って働くことにも否定的な目を向けるでしょう。「認められたい」と思っている人を、自分と違ってレベルの低い人だとみなして見下すでしょう。

 そう、「承認欲求」を見下す人は、最終的には人間性全般を見下すようになりますね。

 いみじくも、TVに映っていたビジネスマン氏は、職場で人と話しているときも相手の目を見ないで会話していました。「相手の目をきちんと見て話す」これも広い意味での承認を与えていることですが、それを重視していないことが仕草に出ているのでした。

 だから、「承認欲求」を否定することで、自分が高級な人になったなどと思ったら大間違いなんです。人間性全般を見下した不遜な人間になってるんです。独りよがりな人間になっているんです。

 

 もう一人の「期待に応えない」を習ったことで子供さんを叱らなくなったお母さん。
 これも、それまで何のためにガーガー怒っていたのかわかりませんが、「ゆきすぎ」のケースであったのかもしれません。例えば、「最上思考」の人が、子供さんにやたら塾習い事の早期教育をさせて、それが思い通りにならないで怒っているケース。あるいは、「活発性」や「指令性」の高い人が、やはりあっち、こっちと自分の思い通りに連れまわして、子供がどこかで引っかかって動かなくなると怒っているケース。

 そのタイプの人が、ガーガー叱っていたのを多少和らげることができたのなら、それは喜ばしいことなのかもしれませんが――、
 一面、怖いことでもあります。
 「人の期待に応えなくていい」
 では、子供に道徳の躾はしなくていいのでしょうか?
 お兄ちゃんが弟の頭をガンと殴りました、それを叱るのも「期待に沿わせる」ことになるのでしょうか?

 この「倫理道徳の躾」というものが、わたしの子育て時代にも既に周囲のお母さんの間ではナアナアになっていて、唖然としました。

 わが家では歳の近い3人きょうだいだったので、きょうだい喧嘩とそれを仲裁する機会には事欠きませんでした。
 そのたびに「どっちが先に悪いことをした」と認定し、バシッと叱り、謝らせました。まず端緒を作ったほうに謝らせ、そして最終的に両方が謝るようにさせました。

 「いじめ」的になる場面も時折あったので、「いじめは許しません」を伝える機会にも事欠きませんでした。
 「ちょっと待って。今の『●×におやつやらない』っていうのは何か?それはいじめやで。いじめは許さへんで」

 しかし、こうして親が子に自分の道徳観を伝える作業も、「他人を自分の期待に応えさせる」ことにはならないでしょうか?
 「他人を自分の期待に応えさせる」ことのすべてを否定すると、倫理道徳の躾というのはすべて不可能になってしまうのではないでしょうか?

 もちろんこれは会社組織にも言えることで、例えば「会社の理念」というのも、ある意味押しつけです。ある行動規範に社員を従わせる作業です。もしも社員が「他人の期待に応える必要はない」と信じていたら、会社の理念にも従う必要はありません。
 それで会社、回りますか?


 実は、この件であるアドラー心理学者(大学の心理学の教授。特に名は秘す)に伺ったところ、
「アドラーの著書に承認欲求(needs for esteem)という言葉はない」
ということがわかりました。

 具体的には、アドラーの主著でバイブル的な'The Individual Psychology of Alfred Adler' (邦題『個人心理学』)には、esteemという語はない。self-esteemという語はある。といいます。

 もともと、承認欲求(needs for esteem)は、五段階欲求説のマズローの造語のようなもので、時代が後になります。だからアドラーが「承認欲求」という語を言うのはおかしいのです。(マズローはアドラーから影響を受けたそうです)

 アドラーは「承認欲求」という語そのものを使っていないとしたら、どういう文脈で言ったのだろうか…。

 アドラー(1870-1937)の時代ですと、ヘーゲル哲学の「承認」は、既にあったものです。またそれのアンチテーゼとしてのニーチェ(1844-1900)は既にあり、アドラーはニーチェからは影響を受けたといいます。

 ニーチェ。。。
 わたしはニーチェ哲学には疎いです。はっきり言ってどうでもいいと思ってるんですが、
 Wikiからニーチェ思想を引用しましょう。

「ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。」

 わかります?まあ、ぱっと浮かぶイメージは「ニヒリズム」なんです。隠遁者の夜郎自大の思想、というイメージをわたしは持っています。勝手にやっててください、という感じ。

 たぶんすごく頭のいい人だったのでしょうが、自己完結的な世界で生きる人。強い人だけに可能な、他人に期待しないで生きる生き方。(内心ではぶっちゃけ、「その人アスペだったんじゃないの?」とも思っています)
 
 それから影響を受けたのがアドラーらしいんです。

 だから、そういうアドラー思想を子育てなんかに応用するのは大変におかしなこと。隠遁したひきこもりの人や、すごい実力のある個人事業者の人が信じていればいい思想なんです。だから承認や承認欲求、期待を否定する。


 これを会社に応用して部下育成などに応用するのも、大変におかしなことです。

 (なお、学者さんによればアドラー心理学を子育てに応用したのはアドラー自身ではなく、その弟子の代からだそうです)


 ああもう言っているのもたるくなった。

 NHKふれあいセンターのオペレーターの人には、

「職場に鬱を作ったらどうするんですか?アドラー心理学はブームとはいえカルトのようなものです。それをNHKさんが全国ニュースの特集で流すというのはものすごく影響力が大きいです。過剰なダイエットブームを取り上げるのと一緒で、専門家からの批判的なコメントを入れるのが正しいのです。視聴者に対して何らかの訂正をしてください」

 オペレーターは「よくわかりました、担当者に伝えます」と言いましたが、のれんに腕押しの気配あり。

 これ、どういう落としどころになるんでしょうか…

 オペレーターさん、モンスタークレーマーに怒鳴られても、上司がねぎらってくれると期待しちゃダメですからね…


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
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 今日は、わたしの中で長年モヤモヤとしていることについて書いてみます。ただあまり纏まっていないかもしれません。下書きレベルの記事になるかもしれません。

 『行動承認』は、2015年1月に絶版となったあと、何度か大手出版社での再出版を検討していただいたことがありました。
 中には、『聞く力』や『女性の品格』と同様の人生論の本として位置づけて大きく売り出すことができないか、という形で働きかけてくださった方もいました。有り難いことです。
 しかしいずれも沈没。

 出版社側の返事は、

「既に一度出版され市場からの評価も定まったものについての再出版は難しい」

 それから、

「読者対象が狭い」

でした。

 前者はともかく、(わたしの方は、前者にも相当言いたいことがあるのだが)

 後者は、メディアの考える「読者対象」とは、なんなのだろう?と改めて考えるきっかけになりました。


 『行動承認』は、ある教育の効果を最大化するために、「この教育を受けたらこうなった」という事例(もちろんすべて実話)を集めた本ですが、

 逆にこういうドラスティックに人びとが前後で変化してしまう話というのは、メディアが考える「読者」とは、結びつかないのかもしれないなあ、と。

 彼らの考える読者は、「静的(スタティック)」であります。成長とか変化とかは似合いません。TVの前で日がな一日、ポテチ食べながらワイドショーをみてあーだ、こーだ言っているのが似合います。

 その人たちの発する言葉は、「けしからん!」「いやーねー」それに「それおもしろそう!」「それ美味しそう!」

 その人たちの期待に応えて、その人たちの想像の範囲内のことでちょっと奇をてらったことを提供して、みてもらう、アクセスしてもらう、というのが今のメディアの仕事になっています。

 
 「想像の範囲内のことで」というのが、上手く言えないのですが、納豆ダイエットとかバナナダイエットみたいなことだと、むしろOKなんです。でも行動承認はダメ。どこにOKラインがあるのかはよくみえません。

 ともあれ、メディアが想像する「お客様」は、怠惰なんです。そして被害者的なんです。何かを実際にやるということはあまり想定しなくていい。『行動承認』のように、

「実際にやってやり続けた人はこんなに素晴らしくなりました」

などという物語は、お客様にとってはかえってウザいのです。メリットよりは、「ウザい」という感覚が先に立ってしまうのです。

 なので、市井にあふれる「人生論」の本は、怠惰で何も努力しない人向けの「とかくこの世は生きづらい」「その中でどうやってしのぐか」というたぐいの話であふれます。たぶん最大の読者層は定年後の脳の萎縮がはじまっている人たちだと思います。
 『聞く力』はどうかというと、あれも読むだけで、やらなくていいのです。だって、職業的インタビュアーの話ですから、自分ごととして読みませんから。

 たしかに「怠惰で何も努力しない人」のためにわたしが本を書けるかというと、難しい。延々と人間関係で悩む話を最後まで書き続けられるかというと。『行動承認』でいうと、「はじめに」のところに、現代の上手くいっていない典型的な職場の事例を4話載せていますが、あれも書いていてものすごく苦痛だったんです。すぐにでも問題のあるマネジャーに飛びかかって改造したい、わたしだったら。

 『行動承認』は、本でも研修でもあえて省略している部分が本当はあって、「被害者になるな。行為者であれ」というメッセージが、暗に入っているんです。
 でもそれをわざわざ言わなくても成立する。なぜなら「行動承認」をするということ自体とてもシンプルなので、あの一連のエピソードを読んだ人だと「やってみたい」「やれそう」と思えますし、実際やれてしまうからです。

 ただ、根っから怠惰で行動することがキライな人にとっては、そういうベクトルをもった本というのは迷惑なんだと思います。
 日本人の大半がそこまで怠惰だとは、わたしは思いたくないのですが――。

 
 というわけで、メディアが怠惰で成長のないワイドショー視聴者の人びとをお客様に想定している限り、わたしは「行動承認」のお話をどこか大手で書いてメインストリームにするということはあり得ないです。

 本当は、心のどこかで

「マネジャーという狭い範囲の人びとを対象にしてはいるが、この本がもつ推進力はマネジャーの周辺にいる人びと、中堅から部下世代の人(男性女性含め)、奥さんやお母さんまでも取り込めるはずだ」

という発想が出版社の人にあったなら、そしてそのつもりで気合を入れて広告宣伝を打ってくれたなら…という淡い期待があったのですけれど。

 編集者自身がその世界の人からほど遠く、彼ら自身の世界観が全然別のところに築かれているようなので、しょうがないですね。



 
 この話はしょもないのでこれぐらいにして、

 タイトルに書いた後半部分、「王道」と「パチモン」のお話です。

 実はここでも、「STAP細胞」の話が奇妙に交錯してきます。

 ご存知のようにSTAP細胞は、京大山中伸弥教授らのiPS細胞への対抗馬として論文発表されました。

 iPS細胞は、山中教授のノーベル医学・生理学賞受賞(2011年)の時に大きく経緯を報道されましたが、その後STAP細胞がクローズアップされたときに忘れてしまった人が多いかもしれません。

 iPS細胞は、皮膚などの体細胞にわずかな操作をして培養するといわゆる「万能細胞」になります。つまり、様々な組織や臓器の細胞に分化する能力とほぼ無限に増殖する能力をもつ多能性幹細胞になります。例えばどこかの内臓が病気になりそれを治したいと思ったとき、その内臓になってくれる細胞をその人の体の細胞から作ることができますから、他人の内臓を移植する臓器移植のような拒絶反応の問題が起きません。

 このiPS細胞のマウス由来のものを山中教授らは2006年に、またヒト由来のものを2007年に作製に成功。その作製方法がシンプルなことと再現が容易なことで、今では世界中の研究機関が追随するようになりました。人の病気の治療への臨床応用も始まっています。

 日本生まれ日本育ちの「万能細胞」であることから、国歌や国旗ならぬ「国細胞」というものがあるなら日本の「国細胞」はiPS細胞だ、とまで言われています。

 しかし、このままではiPS細胞に幹細胞研究や、再生医療研究の研究費の大半を持っていかれてしまうかもしれない。そういう危機感が、理研の笹井氏らによるSTAP細胞研究の大々的な発表につながったようです。しかし、なんども言いますようにSTAP細胞は架空の細胞で、論文はほとんどすべてのデータが捏造の塊でした。

 
 そして今、奇妙なことですがわが国では「STAPあるある派」による「iPS憎し」の議論が起こっています。iPS陣営がSTAP研究を潰したというのです。
 これがどの程度世論の支持を得られているのかわかりませんが――、何度も書きますように何も知らない人がうっかりネットを見てしまうと、「STAPあるある派」の言説のほうに触れてしまうようにネット世論が誘導されています。彼らはデマゴーグの訓練をどこかで受けてきたのかと思うぐらい、誘導が上手いです。だから今後も気をつけないと、「あるある派」の言説が「世論」として格上げされてしまわないとも限らないのです。
 ほとんどの日本人は無関心ですが、無関心だから怖い。

 
 この、明らかに「パチモン」であるSTAP細胞が、「本家」「王道」であるはずのiPS細胞を大衆的人気において食ってしまっているという図は、どこかでみたことがあります。

 
 
/翰学の「行動理論―行動科学―行動分析学」への対抗軸としての「内発と自律論」。△△襪い蓮崗鞠論」への対抗軸としての「承認欲求バッシング論」。  
 これらの対抗軸は、とっくに定説となっていいはずの有力な理論への反発心から生まれ、片隅でやっていればいいものが妙に有力になり本家にとって代わる勢いだというところが、「iPSとSTAP」の構図と似ています。

 対抗軸の側はエビデンスなんてないのです。本家のほうがはるかに高い数字を叩きだしています。人類を幸せにする力があります。なのに、本家が偉そうで気に食わない、そして今更本家に取り込まれるのはプライドが許さないという理由であえて対抗軸を立て、本家を汚い言葉で罵る「芸風」で大衆的支持を集め、のし上がってきたわけであります。

 このブログでは,領磴箸靴謄▲襯侫ー・コーンという人の『報酬主義をこえて』という本を2011年12月、ボロクソに批判しました。また△領磴蓮∈鯒来「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリをこのブログに立てて、連続して批判してきたのをご存知の方も多いかと思います。

 本当は、△領れで2014年以来では『嫌われる勇気』などの「岸見アドラー心理学」がとんでもなく勢いをもってしまっているので、このブログでもちょこちょこ批判していますけれども本格的にやらないといけないのですけれども着手が遅れています。

 そんなわけでまたSTAP問題と交錯してしまいました。




 ちなみに今日フェイスブックでご紹介したのですが、台北で発行されている科学雑誌「PanSci(汎科学)」に、わが国の「STAPあるある論」のことが記事になっていました。

 http://pansci.asia/archives/98876
 
 過日Biochemical and Biophysical Research Communications(BBRC)に発表された独ハイデルベルク大学の論文のことを日本のネットニュースが報じ、「STAPあるある」の人びとが騒然となったが、よく読めばこの論文は小保方氏のSTAP研究とはまったく「別物」だった…という意味のことを言っています。

 わが国の「STAPあるある論」は、日本の恥。

 韓国の捏造科学者、黄禹錫氏にもいまだにファンがいるそうですが、「STAPあるある論」がMSNニュースのような変にメジャーなところに間違って上がってくるのは避けたいものです。アングラな一部の人の趣味にしておけばよろしい。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

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 「情熱の営業マネジャー」OA機器販売業主席の永井博之さんから、メールをいただきました。
 こちらも、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてのものです。

 ご了解をいただいてご紹介させていただきます。

正田さん

ご無沙汰しています。永井です。

会場にいた人達はその場では間違った事を覚えたとしても、子育てや仕事をしっかりしていればいずれ必ず褒める事、叱る事の重要性がわかると思います。
(中には手遅れになる場合もあるかもしれませんが)

それは正田先生がその場で勇気を持って指摘されたからこそ記憶に強く残り案外早くに考えを改めることになるのではないでしょうか。

正田先生が意見したその会場にいた人達は本当に幸運でしたね。

先生の勇気ある行動、心から尊敬致します。

先生の最近の記事からは弱い立場にいる人間への愛を強く感じます。
また仕事だけでなく生きる事に必要な智慧も教えてもらっています。

メールでの応援くらいしか出来ませんがこれからも引き続きどうかよろしくお願いします。


(注:2通のメールをドッキングして編集済)


 過去の永井さんの登場記事は…、ご紹介していると際限なく長くなりそうです。
 永井さんは京都営業部長時代の2010年夏に神戸のオープンセミナーで「承認コーチング」を学ばれ、その年の売上を1.2倍に伸ばされました(もちろん、永井さん自身の実力でもあったのですが)
 2011年4月、事例セミナーに登壇。
 その後は遠方に異動になりましたが、折にふれ新しい職場のご様子や正田に対するコメントなどをメールでいただいています。

 「承認マネジャー」は仕事も家庭もしっかりした人たち。仕事では、責任を負っていますから、誰よりも「叱ること」の必要性をわかっています。また子供たちが社会人として就職した後の振る舞いなども上司の立場から想像がつき、それをもとに現在の子育てを考えることができます。
 その人たちから支持されているのが、「行動承認」です。

 この人たちからの支持の言葉が、何よりもわたしには励みになります。


 ・・・ところで、「アドラー心理学」の信者の方々って、職場では出世できないほうの人なんじゃないかと思いますがいかがでしょう。そんな功利的なことを言っちゃいけないのですが。「叱らない、ほめない」では上司は一日も務まらないはずですよね・・・それでもやってる人、いてるのかな。


2016.1.25追記

 実は、ここからは永井さんのメールと直接関係ないのですが、アドラー心理学セミナーの中には、1位マネジャー育成研修講師としては気になる点が他にもありました。

「職場の人間関係にはコミットしなくていい」
と勧めている点です。
 わたしは詳しくないのですが、岸見一郎氏によればアドラー自身がそう勧めているそうです。

 曰く、職場の人間関係というものは仕事の間だけのかりそめの関係である。仕事が終わったら即スイッチオフにしてよい。プライベートまで引きずる必要はない。

 部分的には、それも正しいと思えます。
 しかし、全面的に正しくはありません。わたしなら研修中に講師としてこういうことは言えません。

 理由はマネジャー側、部下側両方にあります。

 たとえばマネジャーの立場であれば、部下の私生活まで気に掛けるのが仕事の1つだからです。当方から積極的にお勧めするわけではありませんが、「承認マネジャー」であれば、ある部下の顔色が悪かった、受け答えに元気がなかった、ということが仕事が終わってからでも気にかかるのが自然だからです。ミンツバーグ的にいえば「マネジャーの仕事には終わりがない」のです。

 かつ、部下の側であれば、良いリーダーシップの下では全人格的に「仕事に巻き込まれる」という場面があっていいからです。とりわけ仕事が大詰めのとき、従来の自分のキャパを超えるようなサイズの仕事が襲ってきたとき、にはそうです。そういう場面を経験して人は仕事人として成長するのです。ワークライフバランス的には、「時間になったらオフにしよう」というのは間違いではありませんが、それを金科玉条としていついかなる時も全面的なコミットをしないでいると、その人の成長はありません。
 良いリーダーに出会っても心動かされないというのは、不幸なことですね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 読者で、昨年も2回ほどこのブログに登場された「NYさん」から、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてメッセージをいただきました。
 NYさんからのご了解をいただいて、掲載させていただきます。


正田先生


 アドラー講演会、お疲れ様でした。あのように意見をお述べになるのは、大変な勇気と覚悟でいらしたと思いますが、会場にいらした方の中にも、正田先生の指摘から気づきを得て、覚醒された方がいらしたと確信しました。

 知人が発達障害時の放課後支援サービスを立ち上げることになり、昨日もその知人と施設運営の話をしました。
 発達障がい者のための施設に使いたいというと、そもそも不動産物件を借りることすらかなりハードルが高く、みつからないとこぼしていました。法律で支援制度ができても、結局はこのような現実を変革しなければ、実態の改善は進まないということだと改めて思い知りました。

 そして、こういう社会を変えていくことにつながる正田先生の発信は、やはりとても重要と思いました。

 また、その発信からまなび、承認を現実社会の中で実践していくことは、私たち一人一人の使命であるとも思います。本当の意味で「誰もが活躍できる社会」と言うのは、結局「承認社会」とでもいえばいいか、多様性と寛容が当然の社会なのでしょう。

 でも現実をみると、誰もが活躍できる社会を作ると口ではいいながら、国家が目指している社会は、真逆に向かっているのではないかという不安がよぎります。その不安を払拭するためにも、日々の自分の行動と実践のなかに、承認をしっかり意識して取り組みたいと思いました。



 
 とても嬉しいメッセージでした。
 読者の方はどう思われているかわかりませんが、わたしは決して本来すごく好戦的な性格ではないと思います。
 それでも、2つ前の記事の末尾のほうに書きましたように、叱られないほめられない子供さんたちのことを思うと、たまらなくて発言してしまったのです。
 そういうことをすると、かつ会場の反応も冷えびえとしていましたから、時間がたつにつれ気持ちが落ち込みました。
 そんなときにいただいたNYさんからのメッセージ。
 ただ、その中にはまた、新たな”課題”が含まれていました。

 以下は、わたしからNYさんへのお返事です:


NYさま
 ご返信ありがとうございます。
 お察しのとおり、今日はいささか落ち込んでいます。
(お天気のせいもあるでしょうが。。今日の神戸は昨日までの快晴から一転、雨です。そちらはいかがですか)
 NYさんのメッセージ、とても力づけられました。

 発達障害の施設を借りることについてお話のような軋轢があることは、お恥ずかしいことに存じませんでした。わたしたちの子供世代の1割が該当するのだ、ということがわかっていたら、差別することでもなんでもないのにね。自分の子でなくても親戚の子や友達の子、どこかに該当するでしょうに。

 おっしゃるように、今国家、それにアカデミズム、マスコミ、すべてが「リバタリアンと貧困社会」をつくるために走っているような、うすら寒いものを感じます。
 決して大きなことはできませんが、「承認」を言い続けることでせめて局所的にでも本物の良い場所を作っていけたらと思います。




 NYさんからはこのあとのメッセージで、

「不動産が借りにくいのところは、これは、発達障害に限らず、総ての障がい児者、また高齢者施設でも同様の問題はあるようです。また、数年前には、世田谷区のほうでは一般保育園の移転をめぐる住民トラブルが報道されていました。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/10/1009.html
このような報道もあったことから、ぜひ、正田先生には、今回の話を、発達障害に限らず障がい者、高齢者、子供などを含む包括的な視点で問題をとりあげていただければ、多様性と寛容、そして承認について、読者の皆様の思考が深まり変革のきっかけができるのではないか、と思う次第です。」

という”宿題”もいただきました。

 そう、わたしの視野が狭かったと言わなければならない。
 発達障害だけでなく、すべての障がい者、高齢者、子供さん、が排除の対象になっているのです。

 そのことは、「今に始まったことではない。昔からあったことだ」という反論がくるかもしれません。

 でも、優勝劣敗でなくより進化した社会になっていきたいではありませんか。
 差別を生むような、わたしたちの中に抜きがたくある不安感、それを乗り越える知恵が求められていると思います。


 わたしにはそんな力はない。ほんとうは、研修で関わらせていただく先を少し進化形の職場になっていただくぐらいしか、これまでも出来てこなかった。

 自分の非力さを恥じつつも、少しでも発信できることはしていきたいと思います。
 実は「承認」は「インクルージョン(包摂)」をさらに進化させた思想とよぶこともでき、「承認」の普及は弱者や異質との自然な共生のできる社会にもつながってゆきます。

 これまでもそうでしたが、これまで以上にそれを念頭に置きながら、発信をしていきたいと思います。

 NYさん、小さなことしかできませんが、許してくださいね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

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●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
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●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 阪神淡路大震災から21年目の1月17日、正田は和歌山に参りました。

 アドラー心理学の一昨年のベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏の講演会に参加するためです。

 アドラー心理学については、昨12月初めにシリーズで批判記事を掲載しました。

褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会

「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ

増殖中!インフルエンザより怖い「妄想症・ナルシ症」リスク対策は

 でフェイスブックで一度書いた話題ですが、結論からいうと、この講演会で質疑の時間に正田は「爆発」してしまい・・・。
 会場からマイクを握って「吠えて」しまいました。

 何を言ったかというと、

「会場の皆さんこんなこと信じちゃダメですよ!子どもさんは大いにほめてください、そして叱ってください。子どもはほめられたり叱られたりして規範を覚えていくんです。子どもと大人は対等ではない。子どもは無力で、そして依存しているんです」

「承認欲求を今否定されましたが、承認欲求は食欲と同様、人間の基本的欲求です。あまりにも承認欲求を満たされなかったらわれわれは鬱になってしまうんです。承認欲求を否定して、この会場にいる人の周りにうつが出たら岸見先生は責任を取れるんですか!」

「岸見先生の息子さんの話がなんども出てきますが、親の養育より遺伝形質が子どもさんに決定的影響を及ぼす、これは遺伝学者の共通見解です。岸見先生の息子さんは、IQの高い、言語能力の高い人だったのだと思います。おっしゃっていることはあくまで息子さんという個体に対して上手くいったということに過ぎない。個体差の問題なのです」

 ここで、会場から「質問は1つでしょう」と遮られて終わり。
 私としては人道的理由であえてルール破りをしたけれど致し方ない。
  本当はもう1つ、

「発達障害についてまったく『ない』ものであるかのように語っているがおかしいのではないか」

というのも言いたかったが果たせませんでした。

 講演の最初から、岸見氏が一言言うたびに

「それは、エピソードに登場する人物が発達障害なのではないか?」
「岸見氏のいうそのやり方でうまくいくのは、定型発達のIQの高い子だけではないか?」

といった疑問がわたしの頭の中をぐるぐる回っていたのでした。
 
 岸見氏と先日このブログで取り上げた『ほめると子どもはダメになる』の榎本博明氏は同じ1956年生まれですが、どうもこのへんの世代の心理学の人は「発達障害」がわかっていない。あるいは、知っていても意図的に隠している。

 「発達障害」という概念を避けながら人間関係の悩みについて説明すると、「理解不能な人」は永遠に「理解不能な不条理な人」だし、「こうすればうまくいくよ」という言い様が、すべて世界は定型発達の人だけでできている、という前提に立ったものだったりする。
 結果、一般人はいつまでも迷宮の中をさまよい、心理学者は永遠に優位に立ち続ける。

 本当は、「発達障害」の視点で問題をとらえてみるというのは、決してレッテル貼りではなく、有効な問題解決の方策であり、実は「悩みがストップ」する道筋かもしれないのです。
 でも、そのほうが親切なやり方だとは、かれら心理学者は考えない。底意地悪く、実際の問題解決に役立たないやり方を勧めるばかりです。

 
 さて、しかし冒頭のようなことを言ったわたしに会場からの目は冷たく。

 わたしの次に発言した年配の男性は、岸見氏に

「他人をけなすという人がいますが、どういうものですかな?」

と質問し、あたかも直前のわたしがした行為は「けなす」ということだった、と言わんばかりでした。実際、この人が「けなす」という言葉を発音したとき、会場の多くの人が私のほうを責める目つきで振り返りました。

―これは宗教の集会だ―

 ある程度は覚悟していましたが、ここまで「空気を読む」人々の集団だとは思いませんでした。

 もともと心理学の世界の辞書に「批判する」という言葉はないのです。「肯定しない」は、イコール「否定する」ということであり、「悪」なのです。
 哲学倫理の世界にはちゃんと「批判する」という行為は建設的な行為としてあり、また哲学のほうが心理学よりはるかに古い学問なのですが。

 
 また、わたしが思うに、そもそも「叱らない、ほめない」が好きな人たちというのは、ストレングスファインダーでいう「〇〇〇」、もしくは「受動型ASD」の人が多いのではないかと思います。波風を立てることがとにかく嫌い。葛藤が嫌い。岸見氏自身もその気があります。ひたすら穏やか。(ついでにいうと「子育ての成功例」として度々言及される岸見氏の息子さんも穏やかで知能も高い子どもさんだったのではないかと思います)

 彼(女)らは、たとえば「悪いものは悪い」とガンという、ということがそもそも苦手なのです。極端に不安感が高く、人に強いことを言うことができない。本人さんがアサーション的な問題を抱えています。また自分以外の他人が大声でだれかを叱っているのをきくのも嫌い。身が縮みます。

 「アドラー心理学が好き」という人は、その波風立たない穏やかな空気が好きなんです。

 だから、彼(女)らにとっては、強い口調でアゲンストな質問をするわたしのような女は、波風を立てるというそれだけで「悪人」なのです。


 この講演会では、れいによって「ほめてはいけない」の話が出て、たとえば岸見氏によれば、お母さんが3歳の女の子に
「よく静かにしていたね、えらかったね」
というのもいけないんだそうです。理由は、相手が大人だったらそんなことは言わないはずだからだそうです。そして「静かにしていてくれてありがとう」と言わなければならないのだそうです。

 質疑の時間では英語塾の先生が、子供たちに「来てくれてありがとう」「片付けてくれてありがとう」と言うが、「できてなかったことをできるようになった時、Good Jobと決まり文句があるが、ほかには言い方はないのか」という質問も出ました。
 Good Jobもダメな世界なんです。異常なの、おわかりになりますか?


 その後フェイスブックのお友達とのやりとりの中でわかってきたのですが、わたしも元々、「道場破り」をやりたくて講演会に行きたかったわけではない。本来は、話だけきいて大人しく帰ろうと思っていたのですが、

 会場で生身の人々をみていると、たまらなかったのです。本気で「泣けた」のです。
 
 ほめられも叱られもせずに貴重な子供時代を送る子供さんがいるということに。それが、ここにいる一見良心的そうな人々の子供さんだということに。

 また、「承認欲求」をまるで悪いもののようにくさされて、自分の承認欲求を他人に気取られるのをびくびく怖れながら生きていく人ができてしまう、ということに。


 でもその気持ちは会場の人々には恐らく伝わらなかったので、少し気落ちして帰って、そしてフェイスブックのお友達の皆様に慰めていただいたのでした。

 ある学校の校長先生は、

「子どもは褒めて、叱らないと育ちません。(^^)」

と書かれました。

またあるお友達は、

「私自身も職場によっては評価をされない職場がありました。その時の自分を振り返ると、人間はこうも脆いものなんだと思うほど、自信を喪失してしまったことを思い出します。ですので、承認は重要だと思っています」

と書かれました。

 そういう「当たり前」の感覚が今、すごく通りにくくなっています。

 そして本来幸せになれるはずの人たちが幸せになれないのです。
 この焦燥感、どうしたらいいのでしょう…。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

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●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
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●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
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●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html 

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 お誕生日にいただいたメッセージのご紹介 第二弾です。
 佐賀県の研修業・Training Officeの宮崎照行さんより。先月、新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより の記事で登場していただきました。

****

正田先生

お誕生日おめでとうございます。
いつも考えるキッカケを与えてくださるブログの投稿、ありがとうございます。

この1年もさまざまな視点でのご投稿を心より楽しみにしております。

===========
昨日のブロク『褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―「嫌われる勇気」著者講演会』を興味深く拝読いたしました。

私が疑問を感じたのは下記の点です。

>「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」
私は、自己認識をする上において、第三者からのフィードバックにより事実を意味づけることが可能になると考えています。特に、タブラ・ラサ状態の子供に対しては、そうなると「叱る」「褒める」などの行為を通してのフィードバックによって事実を客観視させていく必要があります。
何も相手を“下”だと思っているわけではありません。”希望”や”期待”からフィードバックをしています。”希望”や”期待”が相手に伝わるために必要なことは何か?私は、信頼関係だと思っています。だからこそ、普段の何気ない声がけやそれこそ「承認」が必要です。信頼関係が築けると”下”や”対等”などの階層的意味付けは自然消滅してしまうと思っています。


>「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」
私は、褒められたら素直に「嬉しい」です。それがエネルギーになることも多々有ります。別段、自分の能力が劣っているとも思っていません。この点は、岸見氏の表現は危険極まりません
「褒める」も肯定的なフィードバックの一つだとすると、行動を強化する強化因になるわけですから、別段、「褒めて欲しいから行動する」わけではなく、「その行動が正しいから行動する」だけであると思います。

私自身、「褒める」という表現は肯定的なメッセージの一部分しか表していないので「承認」という表現を好んでいます。今回、岸見氏の講演では、肯定的なメッセージを「褒める」ということだけに限定されていることに無理があるのではないかと思っています。
そして、私が危惧していることは、岸見氏のような大ベストセラー作家の講演に対して、、産業カウンセラーの方々が思考的盲目になられている点にあります。「売れている」=「正しい考え」のような図式が成り立っているようなきがしてなりません。専門職の方々に声を大にしていいたい。「もっと深く勉強をしてください」「自分の力でもがき苦しみ、解決の方略としていろいろと調べて下さい」と。

『嫌われる勇気』は読み物としては面白いかもしれませんが、わたしは参考になる点は、残念ながらあまりありませんでした。

================
【私が正田先生を尊敬する理由】
|療好奇心が旺盛なこと
表面上の知識だけでなく、深いレベルで理解されようとすること
H稟修気譴襪箸は客観的なデータを用いたり、一過性の感情論ではなく、しっかりと論理的矛盾をつかれること
ご蕎陬譽戰襪範斥レベルがうまくバランスがとられていること

改めて、お誕生日おめでとうございます。
乾杯!!

****

 いかがでしょうか。
 正田は、このメッセージをいただいたとき、ほっとしてしばらくダラーっとしてしまったのですが(情けない・・)本当はこういうのは、承認される側より承認する側が偉い、のかもしれないです。器が大きいのかもしれないです。あたしはどうみてもこんな賛辞には引き合わない。
 
 と思うんだけれども、万一ひょっとしてこの世のどこかにもうお1人ぐらい、正田のことを「いい」と思ってくださってる方がいて、そのことがその方が「承認実践者」であられるためのモチベーションになっているとしたら、その方にとっては自分と同じように思っている人が少なくとももう1人いる、と思えることは勇気づけになるわけじゃないですか。
 などという言い訳をして、ナルシスティックかもしれないんだけれどもおほめの言葉をいただいたのをUPしてしまうのでした。

 宮崎さんの岸見講演について言われた論点、「ふだん承認をしていればフィードバックに上下の感覚は入らない」、これはおっしゃる通りだとわたしも思います。わたしの記事ではそこが抜けていました。
 「褒めてほしいから行動する」のではなく「正しいから行動する」。大事なポイントですね。「自律」というとき、ある人が自律的に行動するに至るメカニズムとは何か。要はこういうことなのではないか。と、思ったりします。(これはまだ考え中の段階ですが)

 また、聴衆の方々がクリティカルシンキングが出来ていないようにみえること。ちょうどこのブログでも、某自己啓発本のWEB書店ページにならぶ賞賛のレビューの数々のことを言っていたところです。それはステマかと思っていたのですが、実際にこの講演レポートが紹介されたFBページでも、アドラー心理学への賞賛のコメントばかりが並び、わたしなどは「えっ?」と思いました。そこへわたしが「アドラー心理学を批判していいですか?」と記事引用のお願いのコメントを入れたので、すごい空気読まないことをやっていたわけです。

 皆さん、やっぱりもうちょっとちゃんと考えましょう。皆さんの現場での実感と食い違ったらそう言っていいんですよ。でないと皆さんの大切なお子さんを不幸にしてしまいますよ。
 

 あと、宮崎さんは、「自分の名前を出してもらって構わない」と言われたのですが、岸見氏のようなベストセラー作家を公開で批判するというのは、ほんとうはご自分が今後出版の世界で上手く泳ぐには不利になるかもしれないんです。このところ出版業界さんというのは、言うては悪いですが「石橋を叩いて渡る」、ベストセラー作家頼みの傾向が強まっています。そして売らんかなで「逆張り」をやり、反常識を通り越して非科学トンデモ、のこともお構いなしです。

 でもそういうドン・キホーテ的なことをあえてする人がもう一人いたというのは、ちょっと嬉しいですね。


 ドン・キホーテついでに、本日21時すぎ、わたしがフェイスブックに投稿した文章もご紹介します:

****

お友達の皆様ありがとうございます❗昨日21時56分にUPしたこちらの記事(褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 )が、今まで約1日のうちに学校の先生を含む10人の方にシェアしていただき、654PV、110いいね!と、ささやかな私のブログとしては過去最高の数字となりました。
昨年来、このベストセラー書の影響を受けた方が残念な言動をとられ、職場の雰囲気が悪くなることを垣間見、憂慮してきました。子育てに深刻な影響をもたらすことも予想されました。どんな子育てを選ぶかは、どんな未来を選ぶかにもつながります。
このTLを読まれる方には出版界の方もいらっしゃり、きっとベストセラー書とその著者というのは大事な収入源でいらっしゃると思いますが、それでも食品添加物の問題などと同様、消費者に良質のものを届けることを大事に考えていただきたいのです。未来を担うお子さん方に関することなのです。
目の前で起こっていることについて真摯に考え、態度表明されることを厭わないお友達の皆様に感謝と畏敬の念を持ちます。私にとってまたとないお誕生日プレゼントでした。ありがとうございます❗️これからもよろしくお願いいたします。

****

 では、宮崎さんの「乾杯!!」に少し遅れて、わたしもお猪口のワインで乾杯して寝まする。。


正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
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●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
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●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 久々に「批判記事」でございます。

 このブログの少し長い読者のかたは、「正田の批判ずき」にもうだいぶ慣れてくださったかと思いますが、中には「たたかう正田は苦手」というかたもいらっしゃるようです。このところのエントリが「愛」づいていて「愛の化身」みたいに振る舞っていたのに(爆)ゴメンナサイ!!そういう方は、この記事はスルーなさってくださいね。

 2015年現時点でいまだに非常に影響力があるとみられる、『嫌われる勇気』の著者、「アドラー心理学」の岸見一郎氏について。
 影響力がどういうところにあるかというと、これからご紹介する講演記事によれば、産業カウンセラーさんらしき人多数が出席されていたということです。

 さあ、産業カウンセラーさんがこういう講演の内容を鵜呑みにしたら、どういうことが起こるんだろうか…。

 講演会に参加された、記事の筆者の田中淳子氏(グローバルナレッジネットワーク株式会社 人材教育コンサルタント&産業カウンセラー)のこころよいご了解に感謝し、引用させていただきます。


(1)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート前編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128.html

(2)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート後編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128_1.html 

 
 この中にはもちろん一般的で正しいと思える部分も大いにあるのですが、記事を短くしたい都合上、批判点だけを抽出させていただくことになります。全体像をお知りになりたい方は、どうぞ上記の記事のほうをご参照されてください。

 まずは、(1)の記事から。(今回は、正田の批判を青字にさせていただきます)

■「子どもに"反抗期"はないん。反抗させる大人がいるだけ。反抗したくなるような言動をする大人がいるだけ、とアドラー心理学は言っています」

 これ、大真面目に言ってるんでしょうか。産業カウンセラーさんで「おかしい」と思った人はいなかったんでしょうか。
 反抗期はあります。思春期の反抗期では、男女とも性ホルモン値が上昇し、攻撃的になります。大人にやたらとつっかかるのはそのせいです。非行・犯罪リスクも増します。男の子では、テストステロン値はそれまでの14倍にも上昇します。そういう生理学的な知識が少しでもあれば、このフレーズは「間違い」あるいは「冗談」だと思えるはずです。しかし大真面目な言葉として発せられ、聴衆も大真面目に受け取っている感じなんです。



■「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」

 これも困ったものですねえ。こういう言辞を鵜呑みにする人が、今度は叱れなくて困るんです。子供さん相手の場合、褒めることも叱ることも必要です。子供は褒められたり叱られたりすることによってその社会の規範を学び、いわば文化を身につけていきます。叱られることなしに自分で頭打ちを経験できるかというと、その状況になっても頭打ちを自覚できないことが多いでしょう。
 例えばの話、自分より弱い子を殴って泣かせた、あるいはひどい言葉で罵って泣かせたとします。相手が反撃する力がない時、どうやって「自分は悪いことをした」と知ることができるでしょう?その場合、身近な大人が本気で叱って、「自分は決定的に悪いことをしたんだ」とわからせなければなりません。
 そうすることが、岸見氏の言うように「顔色を見る」「叱られないならやる」子供を作ってしまうか?
 わたしが3人の子供をみてきた経験では、3人のうち1人は確かにそうなりやすい資質をもった子供だった。それは、彼の担任の先生も同意見でした。「彼は賢いから、こちらの顔色を見ますね」と。その子に関しては残念ながら叱る回数が多くなった。どのみち、叱らなくてはそれぞれの問題行動にストップをかけられませんでしたし、わたしの尊敬するベテラン先生もそこを見切って叱っていました。
 残る2人は、回数としては数少ない「叱られ体験」が自分の規範として残るタイプの子たちでした。いわば、そういう子では、「叱られ体験」がのちのちの自律の材料になっていったのです。要は、子供の資質による、ということです。
  ここは現場の先生方におききしたいところですが、上記のような、「叱っても顔色をうかがって性懲りもなく同じことをやる子」と、「叱られたことで学習して同じことをしなくなる子、自律できるようになる子」とどちらが比率として多いんでしょうか。岸見氏の言い分だと子供は前者の子ばかりだ、というようにきこえますね。

 なお、「褒める」という言葉を使うと、どうしても「君は賢い子だね」という、NG褒め言葉もOK、というニュアンスになってしまうので、それを避けるため、正田は「承認」と言っています。ところが「褒めてはダメ」と言ってしまうと、今度は「君はよく頑張ったね」という望ましい言い方までNG、ということになってしまうので、それはダメでしょう、ということです。




■「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」

 褒めることの否定。
 確かに、対等な立場での「承認」を重んじる当方の流儀では、「褒める」にたいする評価はやや低くなります。しかし、肯定的評価はだれでも嬉しいものです。それを伝えそこなうよりは、伝えたほうがよっぽどよい。
 いわば、誰かが良いことをしたとき、どう反応してあげるか。
  承認 > 褒める > 何も言わない
という図式が成り立つと思えばいいです。とっさにそんなに選べるわけではないので、言うことに迷ったら、「えらいね」でもいいんです、別に。相手が子供さんなのでしたら。
 「承認」という言葉が何を指すか。これは相手に肯定的なメッセージを送る、意外と幅の大きいパッケージなので、そこには存在承認、行動承認のほか、岸見氏が推奨する「感謝」もその1つに含んでしまっています。褒めるも含んでいまして、別に排除するわけではありません(ちょっと評価は低いですけど)。宣伝になりますが拙著『行動承認』で、受講生様にお配りしている「承認の種類」の表を掲載していますので、よろしければご覧くださいね。


「褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」
 語尾を「しれない」で逃げていますけれど、これは褒められて喜ぶ性格のPromotingやFacilitatingの人に対して失礼なんじゃないですか?よくある、「偉い先生は自分のことを研究することが好き」というやつで、岸見先生はご自分が「ツンデレ」なだけじゃないですか?(いや、本当はわたしもそうなんですけど;;)


「褒めて欲しいから行動する、というような振舞いになっていく」
 これも古くから言われてきた「都市伝説」のようなことです。あちこちの立ち回り先でききました。実際にそうなるかどうか、やってみればいいこと。往々にしてやっていない人がこういうことを言うことが多いです。
 正田流では「褒める」でなく「承認」あるいは「行動承認」と言っていますが、それをきちんとやってあげると、ほとんどの子供はより自律的になり、言われなくても良いことをするようになります。それは大人が見ていないときでも、です。例外的に、上の「叱る」の例でみたように、大人の顔色を窺いみていないところでは良いことをしない、というタイプの子が確かにいます。しかし大勢はそうではないのです。というのは、過去に「承認研修」を受講されたマネジャーたちの自宅での子育てについての聞き取りをした結果、そうです。


(2)の記事について。ここでは、講演後の質疑が記録されています。詳細な記録に、田中さん、改めて感謝です。

■(祖父母だが4歳の孫をつい褒めてしまう、という質問に対して)
A1:お孫さんと同居ですか。それはそれは。「孫」「小さい子」と思うと、つい褒めてしまうのですが、「大切な友だち」と思ったらどう言いますかね。そう考えてみてはどうでしょう?何かをしたとき、大切な友だちだったら、「いい子だね」「よくできたね」なんて言わないですよね。たぶん、「ありがとう」と言うんじゃないかと思います。

 4歳のお孫さんは、おじいちゃんおばあちゃんから、「いい子だね」「よくできたね」って言われて嬉しいと思いますよ(なんと、「よくできたね」もダメ扱いなんですか!?)。このブログで11月9日のエントリ(ケア労働、ジェンダー…市民社会の新しい主要モチーフ―社会思想史学会聴講記) にあるように、「私たちは依存関係がデフォルト」なんです。今、ケア社会が現実に目の前にあるとき、それを前提としないと人類はやってられないところに来ているんです。私たちは周囲にどうしようもなく依存していた乳幼児時代を経て、学齢期〜青年期に長い時間をかけて自律を獲得し、そして高齢者になってまた依存的な存在に戻っていくんです。人は生まれながらに自律的だなどと考えるのは、自分が依存的だった時代を忘れてしまった傲慢な人だけですよ。
 少なくとも4歳であれば、おじいちゃんおばあちゃんから言ってもらう「いい子だね」「よくできたね」を栄養にし、材料にして、社会で生きていく規範を獲得していきます。そういう時代はまだまだ続くと思っていいです。大事な栄養を上げてるんですよ。

 
■(職場で相談業務をしているが承認欲求っていけないものなのですか?という問いに)
A2:職場では、上司の顔色をうかがう、誰かの評価を気にしなければ、出世できない、などいろいろあるでしょうけれど、でも、なんでも「その通りです」というものでもないですよね。誰かが言っていることが間違っていると思ったら、「それは違うのではないか」と言う勇気も持たなければならない。
つい「誰がそれを言っているか」を考えてしまいますが、一度でいいから、「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」に注目してみるといいのです。

 この岸見一郎先生にとっては、「承認欲求」というのは、「顔色をうかがう」とか「なんでもその通りです」というのとイコールなわけですね。変なところと等号で結ばれていますなあ。よく「チャンクが大きい」「小さい」という言い方をこのブログでしますが、概念と概念の位置関係とか「含む、含まれる」の関係を正しく捉えていません。
 「承認」と「承認欲求」の関係は、「栄養」と「食欲」の関係とイコール、と思えばいいのです。身体にとって栄養が必須のものであり、それを取り込んで生存するために食欲があるように、人のこころにとって承認は必須のもので、それを取り込むために承認欲求があるんです。承認欲求があるから、人は少しでも良い仕事をしようと頑張ります。よく「内発」「外発」なんて混乱させるような言い方をしますが、お客様に喜ばれるのも上司に喜ばれるのも、働き手にとっては同じ「承認」なんです。産業カウンセラーさんに「承認欲求はいけない」なんて、間違ったことを教えちゃいけません。
 また、「違うことを『違う』という勇気」も、「承認」によって生まれるんです。わたしは、「承認」がある程度浸透した職場では、今度は「反論しよう」という課題を課します。少々反論したからって相手との人間関係が壊れるわけではない、人格批判をしたことにはならない、という信頼があれば、そこで初めて「反論」ができるようになります。迂遠なようですが、実際に「違うことは違うと言える人」をつくるには、談論風発な職場をつくるには、それが一番現実的な道筋なんです。

 
 「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」。
 この言葉は、そっくり岸見先生の言葉に当てはまりますね。偉い岸見先生の言うことが正しいわけではない、ということです。むしろ批判的に吟味したほうがいい、ということです。



■アドラーはこうも言っています。
「患者を無責任と依存の地位に置いてはいけない」と。
「無責任」にするというのは、「あなたの症状、病気は、あなたのせいではないよ」と言ってしまうことです。
一方でカウンセラーや友人が「依存」されたら、力になってあげることができません。課題を抱えた自分自身の力でよくなっていかないといけないのです。

 うーん。
 部分的に同意したい部分もないではないが、基本的にそれ、ダメでしょ。
 「責任」の問題。メンタルを病んだ人に、多少そうなりやすい器質的な問題があるかもしれないが、状況的に本人にどうしようもないことがある。職場の上司部下関係では、部下側に出来ることは少ないです。むしろ大うつ病になる人なんかはまじめで責任感が強い人が多いので、「本人の責任問題」なんかを問い詰めたらかえって打ちのめすことになります。そういうのは、アドラーがどう言おうとシカトしていいんじゃないかと思います。
 どうも、色々アドラーの言葉を引用してるのをきいてると、アドラーって今の時代の精神疾患分類とか発達障害のような個体差の問題まで知らないし考えないで言ってる人なんじゃないの?と思います。はい、無視していいです。
 そして「依存」の問題は、1つ前の項目で言っています。私たちはデフォルトで依存しているんです。壮年期の人でも、こころを病めば、すぐ「依存状態」に逆戻りします。友人関係だと背負いきれないからほどほどにお付き合いするのは「あり」だと思いますが、わたしは家族に鬱患者がいましたから、鬱の勢いが強いときは思い切り「依存」させてあげてました。その時期はそうすることが栄養になるからです。その代り、治ってきた段階でわがままが出たら叱り飛ばしてました。
 カウンセラーさんの場合は、約束の日時を守るとかセッション時間の制限を守るという部分での「依存を防ぐ」は必要だと思いますが、セッション内では状況に応じて甘えさせてあげていいと思います。泣きたいクライエントには泣かせてあげる、ぐらいでいいんです。このあとご紹介する別の記事にありますが、親から十分に愛されなかったクライエントが「カウンセラーのカウチの横で子供のように丸くなりたかった」ということを言います。そのぐらいの引き出しを持ってないカウンセラーがするカウンセリングは、拷問です。
 「課題を抱えた人が自分の力で」っていうのは、なんか心が健康な人を前提とした、コーチングのようなセリフだなあ。「病んでる状態」っていうのを本当には想像できてないんと違います?




■(成育歴によって、「存在しているだけで貢献だ」と思えない人には?)
親子関係のあり方によってこれは変わってくるはずです。「生きている」という時間を味わう、そういう体験をしてこなかった人がいたら、つまり、父も母も自分の「仲間」だと思えないような育ち方をしてしまったとしたら、そうだとしても、彼ら・彼女らに「過去がない」と言う風に考えるのではなく、「過去のことを、今、問題にしても仕方がない」と考えたらよいのです。

 これも程度問題ですねえ・・本当に深刻な、例えば虐待を受けて育ったなどのケースを想定できているでしょうか?被虐待児では脳の報酬を感じる部分の働きが弱い、という研究結果が最近出ていましたが…。岸見氏は、さまざまな場合の「ワーストケース」についてあまり想像できていないのではないでしょうか。現代にはその想像力は必要です。
 成育歴が本当に問題になるようなケースの場合、産業カウンセラーの手には余るということでもっとディープな分野のカウンセラーに紹介する、というのが良心的なやり方ではないでしょうか。



■Q6:企業内で看護師をしています。自信過剰で、上司に立ち向かっては叱られている若い人がいます。「自分には能力があるのに、だから、もっと能力にあった仕事をさせてください」という社員がいるのですが。

A6:「優越コンプレックス」と言いまして、現実が伴っていないのに、過剰に自分を誇示する人というのがいます。これは、劣等感の裏返しなんですね。
「支戦場(しせんじょう)」・・・本来の仕事の場で戦わず、上司は部下に理不尽に叱るのも、上司側の「承認欲求」の表われです。上司も劣等感がある。
部下は部下で、そのやり方にのっかって、はむかっていく。こちらも劣等感の表われ。
子どもの例ですけれど、問題行動を起こす子どもというのは、「責めて叱られたい」と思うという屈折した欲求があります。

 また「承認欲求」をわるものにしている。岸見氏はよほど「承認欲求」がお嫌いなんだなあ。
 わたしだったら、このQに対してはもう少し詳しい聴き取りをします。これだけの情報量で即回答することはしません。本人の自己評価は本当に正しいのか。「立ち向かっている」というのはどういう言動か。上司はどんな言葉で叱責しているのか。もし、本人が能力が伴わないのに、身の程知らずに高度な仕事をしたがるのであれば、それを叱ることは上司の承認欲求とはいえません。看護の仕事などでは、安全上の問題でスキル不足の人にはさせられないことがあります。
 この回答が質問者の状況に本当にフィットするものなのかどうか、フィットしてなかった場合、質問者はどんな気持ちを職場に持ち帰るのだろうか、どんな眼でこれからの職場をみるのだろうか。


■Q7:家庭の問題で、問題行動を起こす子ども。どうしたらよい?

A7:「不適切な行動」を無視するのがよくないです。アドラー心理学で言っているのは、「注目しない」であって、「無視する」ではありません。・・・(後略)

 これも上記と同じ。問題行動の種類によるので、そこを聴き取りします。
 行動理論では、軽微な問題行動は無視することを教えます。
 それ以外のところで良い行動を認めてやることで、軽微な問題行動は自然と消失することがあるのです。
 もちろん重篤な問題行動の場合はそれにとどまらないので、とりあえずこの質問が出た段階で聴き取りです。アルゴリズムがあるのです。
 多分アドラー心理学の人は行動理論はお嫌いなんだろうな。



■(大学に10日で通わなくなったお子さんがアスペルガーの症状に当てはまる、という相談について)
A9:まず最初に言えることは、「病名」をすぐつけるのはよしたほうがよいです。それと、アドラーは「原因」を探すのは止めよう」とも言っています。
原因、理由・・・何かあるはずだ!と周囲は考えたくなりますが、理由は後付けになります。

 すいません。わたしなら、そのアスペルガーの線を重視して聴き取りをします。だって、「出現率4%」ですよ。25人に1人は可能性があるわけです。それが、高校までは顕在化しなかったのが大学で顕在化した、大いにあり得ることです。アスペルガーの人は構造化されていない環境が苦手なので、カリキュラムを自分で選んでどの教室に行っても違う人がいて、という環境はストレスになり得るだろうからです。
 もしアスペルガーだと特定できると、恐らくそのほうがそのケースではハッピーになります。若いうちに診断を受けられたほうがいいんです。大学1年なら、就職に備えて社会人になったとき困らないような立居振舞を今からおぼえることもできます。周囲に対して環境調整をお願いすることもできます。障害識をもったほうが幸せなんです。とりわけ、高校までは顕在化しなかったような軽症のアスペルガーのほうが、自覚していないと職場では問題が多いんですよ。
 岸見氏は、要はアスペルガーについて良く知らないだけなんじゃないですか?



 ツッコミもとい批判は以上であります。ああ疲れた。
 しかし改めて、ここまで詳細なメモを残してくださった田中氏に感謝です。講演では岸見氏はささやくような小声で話すということだったので、なおさら。(実はそれをきくと、「岸見氏ってナルシなんじゃないの!?」というツッコミも、わたしの心に湧きます。本記事をシェアしてくださったある学校の先生が言われましたが、褒めるアプローチを否定する人って自分の承認欲求が強い人が多いんですよね)

 1つ1つは些細なことかもしれませんが、聴衆が産業カウンセラーさんだときくと、やっぱりこれは聞き捨てならないなあ、と思います。カウンセラーさんや精神科医さんのところでの「見立て間違い」は、患者さんを一生の不幸につきおとしてしまうことがあります。治るものをダラダラ治さないことがあります。そして鬱は、一度本格的になってしまうと再発も多い、一生ついて回る、自殺もあり得る、怖い病気です。

 正しい(というか普通の)部分も多いとはいえ、1回の講演でこれだけ「明らかな間違い」というところがあったら、クルマならリコール、マンションなら建て替え賠償、のレベルです。最近、知識人のこういう「仕事」に向ける眼が厳しくなったわたしです。

 あえて、厳しいことを言います。
 『嫌われる勇気』を読んだときも思ったことですが、こういう論理構築って、基本的に子供との問題やクライエントとの問題で疲れ果てている人を対象に、あえて「褒めてはいけない、叱ってもいけない」とか「反抗期はない」とか「常識の逆張り」みたいなことを言ってやることで、
「あ、それは私が今やっていることだわ。今までのやり方が間違っていたんだわ」
と、虚をついてこころを思考不能にし、空白をつくり、そこへいい加減な頭の中だけでつくったロジックを畳みかけて注入してるんじゃないでしょうか。悪質な詐欺と同じテクニックなんじゃないでしょうか。


 そして、「承認欲求」というものの日米の扱いの違い。わが国でのような、底意地の悪い使われ方は、アメリカではしません。
 最近見つけた、アメリカの女性臨床心理士によるこんな記事をご紹介します。自己愛の強い母親に育てられた娘の悲劇、という題材です:


「母親が乳児のあらゆる動きや言葉、欲求に応えるとき、そこに信頼と愛情の堅いきずなが結ばれる。子どもは安心して母親に面倒を見てもらい、温かい愛情と承認を受けとる。それが娘に自信をもたらす。

ところが、深い感情をもたない母親は、娘とのあいだにきずなが結べない。母親が子どもに愛情を与えるのは、自分の利益にかなうときだけだ。娘は母親に頼れないことを学ぶ。そして、いつも落ち着かず、見棄てられる不安を感じ、なにかにつけて母親に裏切られるのではないかと思ってしまう。」(太字正田)

「自己愛の強い母親が、ムスメを不幸にする! その「束縛」から逃れる方法放置すると自分の恋愛にまで悪影響が…」(3)

 いかがでしょうか。ここでは、「承認」が「愛」と同等の、「与えられてしかるべきもの」として、いわば「心を潤す栄養」のようなものとして、描写されています。
 これが、「正しい使い方」なんです。

 このところ当ブログでご紹介してきた、フランクフルト学派による「承認論」も、「民族差別」や「フェミニズム」の問題に注目するように、当然与えられて然るべきものが与えられないことについての、弱者の側にたった憤りが出発点にあります。
 「承認」は弱者の側にたつための論理であり、わが国のように弱者を嘲笑することに使われるのは、また「与えない」ことを指南するのは、大きな間違い、恥ずべき間違いなのです。これは、日米欧の「知識人」のレベルの違いなんでしょうか。


 そういうわけでわたしは、岸見氏の講演が全国各地で行われ、患者さんに接する最前線にたつはずの産業カウンセラーの方々がそれを拝聴している、という図を大いに憂えます。

 どうかこれからの講演会では、「それはおかしい」と声を上げる勇気ある人が出てきますように。

 改めて、引用をお許しくださった田中淳子氏、またそもそものきっかけを作ってくださったお友達に感謝し、筆を置きます。



正田佐与
 

<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 例によって「はしたない」話題ですが副作用情報を。

 ここ1−2年非常に流行った心理学の分野に「アドラー心理学」があります。
 特定の本の題名を挙げず「アドラー心理学」というにとどめておきたいと思います。

 アドラー心理学で勧める手法に、「勇気づけ」というのがあります。


 それだけきくと、何もわるいことはない、いいもののようにみえますが…、「勇気づけも『承認』の一部分としてあるから、わるいものじゃないよね」と当初は思っていました。

 こういうものでも「副作用」がちゃんとある、という体験を最近しました。これは、実際体験してみないとわからないですねえ。


 今年またベストセラーになったこの分野のある本では、文中で「承認欲求」を否定しながら、有効な手法として「勇気づけ」を勧めます。


 この結果―。

 わたしが実際体験したある会話。

 わたしの出してきたエビデンスや、出版や事例セミナーといったそれらのエビデンスを提示する誠実な手続きを完全否定し、何の価値もないように言う。そうしたエビデンス提示を何もしていない同業他社といまだに横一線、何の差別化も出来てないように言う。

 そのうえで、「あなただけではない、女性経営者はみんな大変な思いをしていると思いますよ」と訳知り顔で言う。50代の男性です。
 やれやれ、わたしがどんなレベルの辛酸をなめてきたかなんてあなた知らないでしょ。またそういう理不尽を繰り返していいなんてとんでもないことです。


 恐らく、この男性はアドラー心理学の本を読んだのだろうな、とわたしは睨んでいます。

 アドラー心理学では、当協会方式のような「承認」や「リスペクト」が不在なんです。「承認欲求」を否定しているわけですから、他人の承認欲求を満たす行動をとる必要もありません。リスペクトについては一切触れてないんじゃないかなあ。大体「哲人」なんていう上から目線の人が説教するわけですから…。

 承認とリスペクトが不在のまま「勇気づけ」だけを行ったのが、上記の男性の事例であります。


 「盗人猛々しい」ということわざは状況的に今ひとつ当てはまらないが、感覚的にはそれに近いものを抱きました。

 あなたごとき苦労の足りない人があたしに説教垂れるんじゃない。

 あたしがどんなレベルの苦労をしてきたかをしっかり推し測ったうえで、共感とリスペクトを示したうえで、そういうことを言うなら言いなさい。ていうか知ったらもう言えなくなると思うけど。


 この感覚、まっとうじゃないですか?
 わたしは少なくともこの同じことを他人様にはできません。してはいけないことだという感覚があります。


 あえてこれを言わなくてはならないと思うのは、今年そのベストセラー本のお蔭で、全国津津浦浦でそういう事態が起こっているだろうと思うからです。たぶん似たようなやり方で他人に不愉快な思いをさせる人がいっぱいいるだろうと思います。
 「上から目線」でしたり顔で「勇気づけ」を行う、「釈迦に説法」状態の人。相手にリスペクトも何もないまま。

 でも、その人たちは正しいことをしてると思ってるんです。ベストセラー本に書いてあることだから。


 このベストセラー本については、以前も少し言及しましたが

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51900284.html 

 要は、「オウム信者」になるような人たちとこの本にはまり込む人たちとは重なるだろう、という意味のことを書いています。

 ここで書いたことは今も全然間違ってない、と思うのと、いざ自分が被害に遭ったとき「ああこれはイヤだなあ」と心底思いました。ので、「副作用情報」を迷わず書こうと思いました。


 恐らく、今年何かのきっかけで「心理学」に興味をもった人が、ベストセラーだから読んどこうと手にとったのが「この本」。
 そしてまた恐らく、子供のころからの読書経験の少ない、教養レベルの低い人ほど「この本」にはまり込みます。
 かつ、恐らくASDの傾向のある人がはまりやすいだろう、というのは、意味もなくプライドを持ち他人を見下したがっている人が、見下すための「言い訳」を与えてくれる、というたちのわるい性質をもった本だからです。「見下し病」が強化されます。


 そして、どうも「研修担当者」の層の人たちにそういう人が多く分布しているだろう。
 こういう場合も決して「みんながみんな」と思っていないのは少し長い読者の方はご理解いただけると思います。

 「想像力の欠如」と「一面的な論理への傾倒」。

 わたしは1963年生まれで、学生運動などは一通り終息した時代に学生生活を送りましたが、恩師・中嶋嶺雄のもとで、「文革」のファナティシズムの愚かさはしっかり学んだと思います。だからそれにつながる可能性のあるものは敏感に嗅ぎ分けます。でも近い世代の人でも似た状態にはまりこんでしまう人がいます。



 
 もうひとつ、出版界のベストセラーの作られ方についても、今に始まったことではないですが思うこと。
 お金を出して本を沢山買うのは、基本20〜30代の独身者なんです。
 だから、その層をターゲットに本を作ったほうが「堅い」。自己啓発本の類い。前出のアドラー心理学の本もその類いです。
 わたしからみると、視野の狭い人向けにますます視野狭窄にさせるような文体や内容の本が好まれる傾向があります。

 また、「書店の店員さん」も基本、その層の人たち(中堅〜若手の中の本が好きな人たち)。

 前著『認めるミドルが会社を変える』も、ミドル層自身からは非常に評価の高かった本ですが、売れませんでした。
 わたしは近場の書店に営業に行き、比較的見る眼のあると思われる書店の店長さんにあって「管理職からすごく共感してもらえる本なんです」と言いました。
 「わかりました、ビジネス書担当に話してみましょう」
と店長さんは言い、数週間後、同じ書店に行ってみると、コーチングの近い分野の別の本が「推薦図書」になってPOPが立っていました。ああ中堅層以下の人はこういうトーンの本が好きだよね、と思う自己啓発がかった雰囲気の本でした。


 前出のアドラー心理学本が出版されたのは昨年12月。今年大変な売れ方になりました。
 今年11月に出版された『行動承認』が来年それ並みに売れるのかというと、ターゲット層(ミドル)から考えると難しいかもしれない、と思います。

 内容は恐らく圧倒的に『行動承認』が正しい。
 いつもそうですが「100年後に残る仕事」だと思います。

 1つ前の記事にもあるように人事の人向けの雑誌から早速お声がけいただいたり、最近もフェイスブックで大学の先生のお友達から「学生に勧めます」と言っていただいたり人事の人から「当社の管理職に良書として勧めました」と言っていただいたりしています。
(ちなみにこの人事の人からは「あの承認の一覧はよくできていますね」とおほめの言葉をいただきました^^)


 出版の経緯もいろいろありましたが、基本パブラボ社さんが『行動承認』の正しさにほれ込んだ、と言ってくださり、新人著者同然のわたしの構想通りに本を書かせてくださり、大きな知性による判断をしていただいた、それの連鎖が起こった、と思います。

 
 そして平易な文体で書かれた本としてミドルの手元に届いたときの、ミドルたちからの熱い支持が、今も「ああ真実を探りあて丁寧にエビデンスを積み重ねてきてそのうえで書いてよかった」と思わせてくれます。


 さあ、このあとはどんな展開になることでしょうか…。


 
 
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

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