正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

タグ:アルフィー・コーン

『人を伸ばす力』も、よくみると攻撃対象を「行動主義」に設定している。

「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。

このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。

私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)

さらに、スポーツ・コーチングであれば選手の側に「そのスポーツをやりたい」とか「試合に勝ちたい」という意欲があることが前提なので、これも問題にならない。

(補足:ここまで書くと会社員の場合はどうか、ということになるが、私は従来から「コーチングだけじゃなく理念大事。理念に共感した人がその会社に入るという前提にたつべき」という立場をとっているので、やや逃げ道めいてみえるかもしれないが、その会社の一員としてお客様に商品・サービスを提供し、利益を上げることに貢献したいという意欲をもっていることが前提となる。無駄飯を食ってぶらさがりたい人にコーチングしても意味はない)

つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。

しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。

もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。


繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。


しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。


「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能で効果的に手助けしてくれる人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。


それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。


彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。


**********************

ここまで書いて、自分が「子どもの自発性」と出会ったときのことを思い出した。

初めての子を授かったのが1992年。これが勘の強い、よく泣くお子様だった。今でも彼女に「あんたは手のかかるあかちゃんだった」とからかう。

2歳ぐらいになると、「自分でお着替えする!」と主張。それは尊重して時間がかかってもとことん待った。何故かというと、以前にも書いたかもしれないが、「じぶんでやる〜!」と言ってやっている時の彼女の脳の中で急速に「シナプスが伸びる」のが見えるような気がしたからだ。

「コーチング」と出会うのはそれから9年ほどあとのことである。

「子どもの自発性があれば、それに委ねることが大事だ」。

それは私の場合、勘の強い長女を観察することによって培われたとおもう。(その後この子は「もしドラ女子高生」になった・・・)

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私自身、「内発と自律」があまりに不足していてまずい、と思う状況はある。いまどきの日本のお母さん方の「早期教育熱」である。
子どもにあれもこれも習わせたい、つねにほかのお子さんと比較して叱咤激励ばかりしているお母さんなどをみると、「内発的動機づけ大事ですよ」と、言ってあげたくなる。そういうお母さん方にあまり行動理論を「悪用」してほしくはない。

(私なりの表現をすれば、それは「ありのままのその子を受け容れ愛する」という意味の承認だったり、「その子の成長意欲に応じた課題を与える」という意味の承認が足りないのだろうと思うが。逆にこういう育てられ方をして自信がないタイプの子は、職場で「承認型企業内コーチ」に出会うと非常によく育つ)


そういうことに警鐘を鳴らしたい場合、そういう性格のお母さん(お父さんもいるかもしれないが)、お母さんをそういう状態にしてしまっている情報過多の状態か、あるいはお母さんが専業主婦で家にいて変に子育てに仕事的な成果を見出したがる状態、に的を絞って話をすれば「内発と自律思想」はもうちょっと説得力が出てくるようにおもう。

「外的動機づけ」を悪者にしているから、話がややこしくなるのだ。

「敵はだれか」

というか、

「ほんとうに解決したい課題は何か」。

これ何思考法っていうんだっけ?

一々名前をつけなくても、常識力のある人ならワンフローでやれることだと思うのだが。


※この記事は、もともと1つ前の記事の追記として書いていましたが長くなったので別立ての記事にしました



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



(追記)
いい加減この話題にうんざりしているが、やっぱりこういう可能性についても書いておこうと思う。
ほんとうは、人間社会のもっとずっと美しい現象について書きたいのだが、それはいつでも書ける、ということで。


アルフィー・コーンの見ていた風景とはどんなものであったか。

彼が引き合いに出す「外的報酬でコントロールするけしからん場面」についての記述が、どうも曖昧でリアリティに欠けるのだが、

たとえば
「これをできたら…をあげるよ」
というのが、よく出てくるように思う。

カネや物で釣る、というやり方。

私自身はそれを子どもにやってみたところ、あまり上手くいかなかった。
確か、「肩をもんでくれたら、お金をあげるよ」と言ったところ、
「いらな〜い」と断られたので、その後はあきらめている。
(100円だと安かったのだろうか)

いい成績をとったら幾らあげるとか物をあげるとかは、やったことがない。
単に高校に受かったからお祝いに食事でもいこうか、というのはある。
ご褒美は「あとづけ」で、サプライズ的にあげるのがお互い楽しいのだ。
事前に釣ると、貰った時に驚きがなくてあんまり楽しくないんではないかと思う。
それは、下手くそなやり方だと思う。

家族間だとルール化していないからサプライズができるが、
会社だとルール化せざるを得ない。だから事前に見えていることになる。
それが「事前に釣る」ことになり、やる気をそぐことはあり得るだろうと思う。


このほか想像で思い浮かぶのは、
コーン氏は自分の講演会に来る経営者をあまり好きだったとは思えないのだが、
たとえばこんなセリフ。

「先生、わてうちの息子に『100点とったら小遣いはずんだるで〜』って釣ると、
坊主張り切って勉強しまんのやが、
ヤツの要求する小遣いの額がだんだん吊り上っていきまんねん。
どないしたらよろしいんでっしゃろか」

こういうセリフは関西弁が似合う。
これは報酬が悪いんだろか、お金が悪いんだろか。

私なりの答えは、
「その子は生まれつきお金が好きなんですね」。

個別性の観点でみると、人は結構、言葉に言えない恥ずかしい欲求を個々にもっている。
前、セミナーに来られた経営者さんが、実際に子どもの頃のエピソードを探ってみると、
「お金が好き。儲かるのが嬉しい」
という価値観をもっていると思われたことがあった。
でもその人は、自分のシートに「努力」とか「貢献」とか別の言葉を書きこんでいた。

根っから「お金が好き」な子であれば、お金を励みに勉強したり、
小遣いの要求を吊り上げたり、というのもあり得ることなのだ。

また、そういう「お金好き、儲け好き」の性向はけっこう遺伝するようだ。

最近読んだ経営者の伝記では、ザッポスの創業者がそういう人だったようだ。


だから、

「これをしたらお金をあげるよ」

という強化子がうまくいった場合、それはその子にとって有効な強化子だ、
ということだ。

こういうタイプの子をどうやったら上手く導くか。
それもそれなりのやり方がありそうだ。

いかにコーン氏がその風景に嫌悪感をもったとしても、
「個別性」の観点で読み解けば、そうなる。
それは、やっぱり外的動機づけの罪ではないのだ。

私の言っていることは、どこかおかしいだろうか。



またもう1つ思い出してしまった。

「褒められ中毒になる」ということについて。

実際にそういう「個体」はいるようだ。ごめんね動物行動学のような言葉をつかって。

以前実際にお母さんから相談を受けたのだが、
幼稚園の先生から、
「この子はどんなに褒めても褒められ足りないタイプの子ですね」
と言われた、という。

そしてその子は高校卒業してフリーター。仕事しても長続きしない。

周囲の人から見て、この子の働きに対してはこのぐらいの「承認」が妥当だ、と考える量と、
本人の思う、自分はこれぐらいの「承認」をもらって当然だ、と考える量が
釣り合わない、後者があまりにも大きすぎる、という人がいるようなのだ。

そうすると、残念ながら大抵の仕事はつとまらない、能力は低いのにいつも承認不足だと不満をたれている人になってしまうことだろう。

実はいわゆる「能力の低い人」の話をきいていると、このタイプの人が多いように思う。生まれつき「承認欲求」がものすごく高いので周囲への不満が尽きない。自分自身の能力不足に気づけばいいが、気づかない人はいつまでも努力するということをしない。気の毒だがそういう風にプログラミングされてしまっているのだ。

閑話休題、
こういう「承認欲求過剰」な人は、やっぱり「褒められ中毒」になりやすいだろう。
それも褒めることの害ではなく、その人の個性なのだ。

人によっては、少年院とか刑務所とか、強制的に規則正しい生活を課せられるところで暮らすと、ちゃんと生活できることがあるらしい。

そういう少数の個体の方にばかり目が行って普通の勤勉な人を褒めないというのは、それも馬鹿馬鹿しいことである。ごく一部に急性アルコール中毒になりやすい人がいるからといって、国民全員が禁酒する必要があるだろうか(ほんとは、アルコールは非常に依存性の高い危険な麻薬だというのだが)やっぱり、論の立て方が間違っている。

コーン氏はご自身が人の個性に対する理解が足りないので、いろんな人に嫌悪感をもって生きているのではないだろうか。その嫌悪感をぶつけやすい相手が「外的動機づけ」であり「行動主義」であった、ということはないだろうか。

そして、やはりEQの低い人特有の現象で、自分が見聞きした2,3の極端な現象を一般化してしまう誤りを犯していると思う。
自分がどういう個別の体験をし、それについての感想や解釈をもったか、というところを明示するという手続きをとればいいのだが、限られた体験から一般化をして、それに嫌悪の感情をまぶしながら学問のような記述で言う、ということをやっている。体験の記述も曖昧なので、コーン氏の解釈(つまり、外的動機づけはわるいものだという)が正しいのかどうか、検証しにくい。


最後に厳しいことを言うと、実は「褒められ中毒」に一番近い所にいるのは、コーン氏を含む大学の先生や文筆業、講演業の人たちなのだ。「チヤホヤ中毒」といってもいいかもしれない。

これも、ひょっとしたら自分自身に起こったことか、あるいは虚業のご同業者に起こったことをとらえて、「だから褒めることは良くない」という論拠にしている可能性がある。そうだとしたら本当に馬鹿げている(でもコーンという人の思考回路をみていると、本当にそういうことをやってしまいそうだ)。そんなことを根拠に真っ当に頑張っている子どもや大人を褒めないなんて。

また、内発・自律思想のお話について。



「内発」ということを、なんで外的動機づけとそんなに対比して言わないといけないのか、本当にわからない。


 このブログでなんども「報酬系」という言葉を使うけれど、例えばある作業をして成果が上がった、その手ごたえが嬉しい。これも「報酬系」で説明できる。「手ごたえ」という「ご褒美」をもらったのである。


 またそれは行動理論で言ったら「強化子」という。強化子はなにも他人からの褒め言葉でなくてもいい、自分が作業から得られる手ごたえも、それが次の行動を誘発するなら強化子とよべるのである。


 また、お客様から喜ばれた、感謝された、ということも当然「強化子」である。


 「内発」か「外発」か、の分け方にこだわる人は、要するに「外発」というのは上司や親が言葉がけしてコントロールする作業だ、というところにこだわっているのだと思う。


 どうなのだろうか、例えば初学者はなんでも最初は上手にはできないし、作業そのものから貰う手ごたえというのもそんなにはない。そういう場合横にいる指導者が「うまいうまい」「それでいいよ」「私も最初はそうだったよ」などと声掛けして強化子を与えてやる。そうしているうちに徐々に本人が作業から手ごたえを感じられるようになる。

 それが「内発」のものに変わっていったからといって、じゃあ「外的動機づけ」はもう要らないか、というとそんなことはなくて、何か作品をつくり上げたら一緒に喜んでやる。いいところを言ってやる。結果が出たときだけではなく、途中経過でも「ごせいが出ますねえ」「がんばってるねえ」みたいな、ちょっと栄養補給をするようなことを言ってやる。「外的動機づけ」の仕事は決してなくならない。


 そんなのは大抵の指導者はわかっていて、ワンフローでやることなのではないだろうか。


 だから、「外的…」をアメだムチだニンジンだと汚い言葉でくさすのは大変おかしなことなのだ。人をさげすまない、静かな気持ちでやり続ければいいだけのことだ。


 アメだムチだニンジンだといった言葉を使う人は、自分自身が他人に対していつも蔑みの目線をもっているのだと思う。それを行動理論の指導者に勝手に投影する。


 普通は、人は自分を見下している人から褒められても動かない。だから、そういう蔑みの心の状態が出現して、相手をコントロールしようという気持ちで褒め言葉を発したときは、単に「何も効果がない」という結果が返ってくるだけなのだ。


 うちの協会のプログラムでは、武田建氏の言葉を引用しつつ、「無条件の畏敬と尊重」ということを言う。その姿勢を守っている限り、アメだムチだニンジンだ動物だなどという荒涼たる情景にはならない。

―武田氏曰く、「行動理論では行動を扱うから傾聴のロジャース流の畏敬と尊重をしないでいいかというとそんなことはない。われわれ行動理論家は行動を扱うからこそ、「無条件の畏敬と尊重」は「必須」なのだ―


 そう、アルフィー・コーンの著書『報酬主義をこえて』は、行動理論をやたらと言いがかりをつけてくさした本なのだけれど、コーン自身がなにものにも非共感的で、反抗と見下しの目線をもった人だというのは、文体をみればわかる。下から上へ突き上げの視線、そして「上から目線」。彼は多くの良心的な人々の長時間にわたる労力を汚い言葉であざ笑う。


 最近『上から目線の構造』という本を読んでいたら、「『上から目線はやめてください!』と言う人は、自分自身上から、下から、という考え方に縛られている人だ」というフレーズがあり、そうそう、と膝をうった。


「コントロール」「操作」
「外的動機づけ」
「ハトやネズミ:」

といったことを目の敵にして扇動キーワードとして使うコーン氏は、実は彼自身がそれらに非常に「囚われ」ており、非常に敏感な人なのではないだろうか。


実は彼自身が非常に支配欲が強かったり、自分の内なるものにしか従いたくないという気持ちが強かったり、自分の講演に来る経営者たちを実験動物のように見下している人なのではないだろうか。(もちろん、彼の本を参考文献に使ったり引用する人たちもそうだ。)


こういうタイプの人が言う「内発的動機づけ」には、全然共感できない。

(少し脱線だがある種の「邪悪」な人格の人に、「共感能力はないけれども人を『操作』することはものすごく上手」という人がいる。コーン氏が「操作」ということにやたらと反応するところで、もしかしたらそれかな、と思ってしまう。全体にこの人の文章から私は「邪悪」のオーラを感じるのだ)




デシ、フラストの『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ―』は、それに比べるとごく穏健な主張で、言葉に毒もなく、割合共感できる部分が多かった。
この本は『報酬主義をこえて』の初版の2年後に出版されているが、おもしろいことに、同一陣営であるにもかかわらず、『報酬主義をこえて』については全然触れていない。参考文献リストに載っていない。

その気持ちはわかる。『報酬主義』の本はいくら似たような主張でも、論理構成はめちゃくちゃだし、当事者を傷つけるような表現がいっぱい入っていて、「こんな本や著者と一緒にされたくない」と思っても不思議ではない本なのだ。


さて、『人を伸ばす力』だけれど、この本にしても、読了後浮かぶのは、「内発と自律に一番近いところにいる社会人って、大学の先生じゃないの?」ということ。

大学の先生の労働観、組織観はちょっと特殊なのだ。学問の自由、表現の自由と、一般社会人に比べるとかなり大きな自由を享受し、一般の人のように組織中心にものを考えずに済む。そういう彼らの皮膚感覚で、
「こういうふうに扱われたい」
「こういうふうに仕事させてほしい」
というのを組織に求め、またあるべき姿として提示されると、ちょっと困るな、という感じがする。

例えばものづくりの人であれば、作ったものに何かの不良があればお客様を死なせてしまうかもしれない。ところが、大学の先生は少々間違ったことを言ってもそれで即、人が死ぬことはない。因果がまわりまわって死ぬことはあるかもしれないがそれは大学の先生の関知しないところで起こる。

こういう「責任」の質量の違いが、大学の先生の考える労働観、組織観についての違和感となる。
「そんなんで複数の人で仕事ってできるの?」と、首を傾げることになる。コンサルタントさんも、独立性の高い職人のような人たちなので、また結果責任を負わない人たちなので似たようなところがある。研修講師もそうである。

チクセントミハイの「フロー状態」の説明をしながら、デシは言う。

「テニス選手、外科医、小説家、画家、ダンサーたちは、そのようなフロー体験をしているに違いない。」

これをみていきなり「みんな職人じゃん!」と突っ込んでしまうのは私だけだろうか。
(現代でいえば、IT技術者などもその中に入るだろう)


子どもの頃に何かに熱中してフローを体験させるのはいい。でもほとんどの社会人は、ごくまれにしか仕事の中でそういう体験をしない。まったくしない人も多いだろう。


で、それは不幸せなのだろうか。

フロー体験も、いわばマズローの「自己実現者」と程度は違えど一緒で、ごく一部の人のぜいたく品なのではないか。仕事がそういうものを提供してくれないからといって、はたらく人に自分は不幸せだと感じさせるのは間違いだ。もっと別のいいものをもらっているはずなのだ。

大体、うちの会員さん方のようなマネージャー職になると、「フロー状態」で仕事をすることはまず無理だ。それで彼ら彼女らが「自分は不幸だ」と感じさせるのはよろしくない。

「フロー状態」が何が何でもいいものだ、人として一番幸せな状態だ、というのは少し考えなおしたほうがいいんじゃないかと思う。


(なお、「ストレングスファインダー」で、フロー状態に好んで入りたがる人、というのはどの資質の持ち主か、大体想像がつく気がする)

(IT技術者はフロー状態をよく経験するだろう、と述べたが、この人たちも今、「時間管理」や「ワークライフバランス」が課題になっている)

(もうひとつ、「フロー状態を経験すると超越者になって人格が良くなる」みたいなことも書いてあるが「ほんとか?」と私は思う。大学の先生やIT技術者、この集団に人格の良い人が多く分布しているという証拠はあるだろうか。ある種のディープな心理学セミナーを受けて、「自分は変わった!!」と豪語する人はいるが、周囲からみて何も変わっていない、それまで以上に身勝手でくるくる気の変わりやすい人になっていたりする。また承認欲求が亢進していたりする。そういう種類の勘違いじゃないだろうか)

これとは別に大学の先生の困ったところは、彼等はEQの低い人が多いので、「自分は…と感じる」ということを、すぐ「一般的に…だ」と、一般論にすりかえる。

「上司の褒め言葉は、統制の手段として受け取られることが多い」

これは、本当は
「私は私の今の上司が嫌いだ。彼が褒め言葉らしきことを言うと、私には統制してきた、と感じられ不愉快だ」
ということを言っているのである。
こういうのを学者さんが言うからといって学問だと混同してはいけない。


実際には、「上司だから統制だと感じる」ということは、うちの会員さんのところではあまり耳にしない。あるんだろうか。
私個人の経験では、承認のプログラムを受け、実際にやり始めたマネージャーさんにしばらくして会うと、
目元の感じが優しくなっている。
それで、ああ、いい手応えをつかんだんだな、と思う。

自分の投げかけた言葉が部下の喜びにつながる。
自分の働きかけによって他人が喜びながら新しい行動をとり、いきいきと報告してくる、そういう現象をまのあたりにすると、自然と目元が優しくなるんではないか、と思っている。
「アメとムチ」などという冷たい風景はそこにはない。




・・・あと、「内発と自律」を言う人には、かけている視点がある。子どもは反抗期になると親の言うことをきかない。褒め言葉もアドバイスもきかない。これまで親に頼りきりだった子どもも、自分を動機づけてくれる人を家の外に求める。

これは、「外的動機づけの限界」とか「内発的動機づけの人になった」といえるだろうか。いや、単に「外的…」を与えてくれる人が交代したに過ぎない。



「内発と自律」論者の想定するよりも、人ははるかに大量の「外的動機づけ」を欲しい生き物なのである。プライドの高い人にとって苦痛であっても、それを認めないといけない。


(もし、「いや、自分は要らない」と言うなら、その人のことは以後一切褒めなければいいのだ)



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



(追記)
『人を伸ばす力』も、よくみると攻撃対象を「行動主義」に設定している。
「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。
このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。

私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)

つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。

しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。

もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。


繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。


しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。


「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能な人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。


それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。


彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。

 『報酬主義をこえて』という本についてアマゾンに書いた書評を削除し、こちらにUPしておこうと思う。

 本書のような本は、本来は黙殺したいところだが、日本で「少し有名」な評論家が擁護し、メルマガで宣伝し、アマゾンの書評で5つ星をつけ、よほど気に入ったとみえて自身のブログで「今年一番インパクトのあった本」と持ち上げているのだ。

(今のような時代だと、何冊本を書いても決して「すごく有名」にはなれない。この評論家氏もつねに第一線にいないといけないという焦りがあると思う)

 既に評価の定まった学説について、言いがかり的な議論を吹っかけているこの本が日本で再評価されることが、そもそも不思議でならない。再版自体が、教養のない人による間違った意思決定だったということはないのだろうか。

「あっ、あの本また出してみようか。初版のときそこそこ売れたから」
「6000円で1冊でも売れたら儲けものだからな。世間には高いものずきの需要もあるし」

 こんなバブリーな会話がきこえてきそうだ。

 読者の皆様、アマゾンの本書のページに掲載されている「やや有名」(笑)な評論家による書評とこちらを読み比べてください。

*********************

 ポイントは、心理学の歴史に関する基礎知識の有無。歴史は重要な教養だ。この本を正しいと信じ込んでしまった人には猛省を促したい。本代の値打ちはない。以下、面倒ではあるが一つ一つ本書の主張の問題点を指摘したい。

 本書は、行動主義と行動理論、行動科学を意図的に混同したミスリーディングな本。専門の人が見ればすぐわかる話題。行動主義は20世紀前半に、動物実験に基づき過激な主張を行った。その後行動理論、行動療法、行動科学と発展した際に、鬱や不登校の治療、スポーツ・コーチングの指導法など、れっきとした人相手の理論として評価を確立した。本書はそれらを混同したうえで、「行動主義のうちの過激な主張」あるいは「行動主義を中途半端にかじった人々の間違った行動」を批判することで、「行動理論―行動療法」の主張までひっくるめて否定してしまう乱暴な議論をしている。 

 この著者がいかに否定しようと、行動理論、行動療法以降の理論の恩恵を受けた膨大な数の人々がいたことは疑いようがない。これはエビデンスである。現在も、学校教育をはじめ技能訓練などの場面で幅広く活用されている。山本五十六の「やって見せ言って聞かせてさせてみて褒めてやらねば人は動かじ」は見事に行動理論の模倣学習―オペラント条件付けと同じことを言っている。

 さらに、「ヒトは動物と違う存在だ、ヒトが動物と同じ行動原理で動くなどというのはヒトに対する冒涜だ」という主張は、失笑を通り越して危険でさえある。私たちは動物と同様に食欲や性欲をもち、生命の危険にさらされれば心臓が早鐘のように打ち、身体が総毛立つ。それは私たちが動物の脳をベースとして進化してきたからであり、動物と共通の部分がきわめて多いのである。

 著者は「報酬主義」という独自の用語を使っているように、自身がイデオロギー志向の強い人のように見える。自分の気にそまないデータを無視して議論しているし、人間が動物と違うという本書の主張は、むしろ人は神によって創られたと主張する原理主義に近い非科学的なものである。

(じゃあ、動物実験―臨床試験によって開発されるほとんどの医薬品はどうなるのだろうか?また動物行動学から私たちヒトの営みを考える試みも近年隆盛なのだ)


 著者の主張には、現時点の心理学、脳科学の知見に基づいて反駁できるものが多々ある。

 「褒めることによる動機づけには持続力がない」ということについては、20世紀後半の行動理論―行動療法の中にはちゃんと答え(対処法)があり、著者の言うように致命的欠陥ではない。

 また、「セルフイメージの崩壊を恐れて失敗を恐れ、冒険しなくなる」という主張については、褒め方の問題であり、「あなたは天才ね」「賢いわね」といった、人格や能力を褒める褒め方をすると確かに失敗を恐れて冒険しなくなるが、「よく頑張ったわね」といった、行動や努力にフォーカスする褒め方だと、次回以降も失敗を恐れず挑戦することが心理実験で確かめられている。

 著者がいかに否定しようと、人は脳の報酬系で動く。例えば、「罰」についての感受性が低い人は犯罪者気質となることなども近年明らかになっている。

 著者がイデオロギー的に礼賛する「内発的」も、所詮広い意味の報酬系の所産なのだ。教育の世界では「内発的」はこれほどインパクトのある、水戸黄門の印籠のようなものなのだろうか。

 ただ、本書の初版出版当時(1993年)は、こうした「内発」「自律」礼賛論が全盛であったようで、時代の制約を受けた本。歴史的検証には耐えられない。「内発的」であれ「外発的」であれ人が動機づけられた時には脳の同じ部位が活性化するのであり、「内発」か「外発」かの二元論はあまり意味がない。

 このように、現代(2011年時点)の心理学・脳科学の知見は、行動理論―行動療法の主張をサポートするようなものが多いのである。むしろ「行動観察」という行動理論の手法はますます重要性を増しているように思える。現代の目でみると本書の主張は噴飯ものというしかない。  

 著者、アルフィ・コーンは前著『競争社会をこえて』でアメリカ社会を覆う競争至上主義を批判したが、返す刀で書いたような本書は、当時の心理学上のメジャーな主張を十把一からげにして批判するというやっかみめいた本で、議論の粗さが目立つ。「良心的」ではあるが、強い反発心に動機づけられている。実践に長く携わった目からすると、「反発心の強い人は褒められても喜ばない」単にそこからすべての論理構築をしている気がする。

 以上のように極めて一面的な偏った主張を学術的に装った本と言うしかないが、むしろこの主張ががあたかも学問であるかのように評価されこの本が出版された経緯に興味が湧く。

 本書が高く評価されることが招く未来とは何か。そしてそれをもたらしている現代の「思考法の混迷」とは何か。この本を称揚する人たちはその後何をしたいのだろうか。いささか暗い気分になる。良心的な研究者が積み上げてきた成果を一笑に付そうとする本書のもつ「負のエネルギー」にこれ以上、巻き込まれる人が出ないことを願う。


*******************************
(アマゾンで掲載しのちに削除した書評の引用はここまで)



 その後著者アルフィー・コーンについての英文ウィキペディアをみつけた。
 http://en.wikipedia.org/wiki/Alfie_Kohn


 1957年生まれ。生涯に12冊の本を書いたこと、とくに"behaviorist"(行動主義)批判などがよく読まれていることなどが記されている。2000年以降の著作には『条件付けしない親業Unconditioned Parenting』などがあるが、

私が興味を持つのは、これだけ「教育」について発言した人が、現代の脳科学の知見についてなんと言っているのだろうか?ということ。

 このブログでなんども繰り返し言うように、「報酬」という言葉の響きがいかにいやらしくても、人は「報酬系」で動いているのは間違いないことなのだ。行動理論的に言えば、「その人にとっての『強化子』は何か?」という問題であり、人によってあるいは状況によって、それは内発であったり外発であったりするのだ。

 熟練した指導者なら、その人が「内発」によって動いているか、それとも「外発」によって動いているか、見てとることは簡単である。そして「内発」の影響の強い人―往々にしてそれは唯我独尊であったり、周囲の人との関係を顧みない人だったりするのだが―であれば、それを尊重した働きかけをする。それだけのことである。


 私なりの理解によれば、アルフィー・コーンという人は、前著『競争社会をこえて』において、「アメリカの不幸」のもとになっている思想を真摯に考察した。そしてアメリカ心理学会賞を受賞した。

 本書『報酬主義をこえて』は、精神においてはそれと共通するものがあるが、しかし闘う相手を間違えた。「敵」の選定を間違えた。

彼が闘うべき相手は、所謂「報酬主義」ではなく、むしろ彼の称揚する「内発・自律」が象徴する、アメリカの「アトム的自己」だったのではないか。

(こういう、精神においては共感する余地があっても、切り口を間違えた議論というのは一杯ある。研究者で似たような分野を研究していてもノーベル賞をとる人とそうでない人の違いはおおむね出発点の切り口の違いである)

(また正田が「一生懸命だ」「熱心だ」という類の褒め言葉を嫌うのもここに起因する。精神において「一生懸命」「熱心」はたまた「真摯」であっても、切り口を間違えて決定的に間違ってしまう人がいる。だから、お客様のためを思えば、一生懸命かどうかなど、私には大した問題ではない。最近も友人に対して、「私について『あの人は熱心だ』なんて言わないでください。言うなら『あの人は本気だ』と言ってください」と言ったものである。「本気」と言えば、単に一生懸命なだけでなく正しくあるために最善の思考をめぐらしていることが伝わるだろう)


そして、「内発・自律」礼賛思想の行き過ぎに警鐘を鳴らしたのが2008年のイーストウッド作品『グラン・トリノ』だったのではないか。アメリカではむしろ、もう「終わった」議論なのではないか。

「アメリカで終わった商品」を日本に持ってきてやたらと褒めそやすのは、コンサル業界ではよくあることなのだ。


あるいは、こう思ったりもする。アルフィ・コーンという人は『競争社会をこえて』で賞を獲り、「大きなものに噛みつくスタンスが良心的として評価される」ことに味をしめたのかもしれない。だとしたら気の毒だが、それも「報酬系」のなせるわざなのである。


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行動理論―行動療法を正しく使用したときに上がる成果の高さや再現性の高さは、一方で往々にして、凡庸な主張の中に埋没することを潔しとしない目立ちたがり屋さんの反感を呼び、異論が出る。

その人は定説に逆らうことで一定のポジションを得、教育雑誌などからそこそこの頻度で原稿依頼が入る。いかにその主張がトンデモであっても。(どうもアルフィ・コーンはそういう生き方をしている人のようだ)


そして、そうした議論の尻馬に乗るオッチョコチョイな(か、自分自身目立ちたがりやで、行動理論の正しさを目の上のたんこぶのように思っている)人も出る。


問題の「変な5つ星レビュー」の載ったページも、別に隠すつもりはないので、リンクを載せておきます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4588007041/


「一人の人間の持っている可能性は、もっとすごいはずです。望ましい行動を取らせるために報酬というニンジンを与えることは、その人が持っている「行動そのものへの興味」を殺し、ニンジン中毒を作り出してしまう可能性があるのです。」


などと、本書の奇妙な、反証を挙げるのさえ馬鹿馬鹿しい主張を引用しつつ自分の言葉でナイーブにロマンティックに語った実名の評論家氏にとって、これは誇りにできる仕事なのだろうか。


 私は例えば信頼する指導者から褒められる、認められるときの人としての喜びを「アメ」だの「ニンジン」だのと汚い言葉で表現するセンスに、この著者と評者双方の人格の傲慢さを感じてしまう。この人たちは、「自分はだれかに育ててもらった」という気持ちがないのだろうか。

 
 ブログ読者の皆様、上記に書いた諸々のことを踏まえ、この評論家氏の美辞麗句を見てやってください。うわべの言葉の美しさに流されず、皆様ご自身の批判思考をしっかりと働かせてください。そして、文末の「このレビューは参考になりましたか?」のところで「投票」をしていただけますので、是非このレビューに皆様のご意見を投票してやってください。

この人はよほどこの本に感動したようで、自身のブログでは「今年一番インパクトのあった本」として本書を挙げている。

「プチ有名」の地位にすがることはこれほど苦しいことか。目立ちたい一心の行動に出ることか。
 この人はこんなトンデモ文章を書いてしまった以上、例えば文科省の教育審議委員みたいな役職は一生もらえないだろうな。なりたいのかどうかわからないけれど。

 まあ、この人にも今後、一定頻度で教育雑誌などから原稿依頼があって仕事に不自由しないだろう。アルフィ・コーンのように。




 私自身は、"Controlling(主導型)"なので褒められることを一番苦手とする性格だし口先だけのお世辞はすぐ読み取ってしまう。しかもこの性格の人のつねで、独創的な何かを提示したいという「欲」もある。


 ただし、多数の人の幸福のために役立つものを提示したいという「欲」のほうが、私のばあい最終的には勝つ。自分自身が独創的な人として見られたいという「我欲」よりも。



 受講生の皆様、行動主義はさておき行動理論―行動療法は正しいものです。私どもでは受講生様にお伝えするコンテンツを1つ1つ丁寧に吟味しています。誤解の余地のないよう丁寧にお伝えしてまいりますので、どうぞこれからも安心してご使用ください。


 そして、以前にもこのブログに書いたこと―、
何が「王道」で何がそうでないか、わかる人であってください。教育学、心理学にしてもほかのことにしても。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

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