『人を伸ばす力』も、よくみると攻撃対象を「行動主義」に設定している。
「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。
このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。
私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)
さらに、スポーツ・コーチングであれば選手の側に「そのスポーツをやりたい」とか「試合に勝ちたい」という意欲があることが前提なので、これも問題にならない。
(補足:ここまで書くと会社員の場合はどうか、ということになるが、私は従来から「コーチングだけじゃなく理念大事。理念に共感した人がその会社に入るという前提にたつべき」という立場をとっているので、やや逃げ道めいてみえるかもしれないが、その会社の一員としてお客様に商品・サービスを提供し、利益を上げることに貢献したいという意欲をもっていることが前提となる。無駄飯を食ってぶらさがりたい人にコーチングしても意味はない)
つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。
しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。
もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。
繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。
しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。
「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能で効果的に手助けしてくれる人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。
それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。
彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。
**********************
ここまで書いて、自分が「子どもの自発性」と出会ったときのことを思い出した。
初めての子を授かったのが1992年。これが勘の強い、よく泣くお子様だった。今でも彼女に「あんたは手のかかるあかちゃんだった」とからかう。
2歳ぐらいになると、「自分でお着替えする!」と主張。それは尊重して時間がかかってもとことん待った。何故かというと、以前にも書いたかもしれないが、「じぶんでやる〜!」と言ってやっている時の彼女の脳の中で急速に「シナプスが伸びる」のが見えるような気がしたからだ。
「コーチング」と出会うのはそれから9年ほどあとのことである。
「子どもの自発性があれば、それに委ねることが大事だ」。
それは私の場合、勘の強い長女を観察することによって培われたとおもう。(その後この子は「もしドラ女子高生」になった・・・)
**********************
私自身、「内発と自律」があまりに不足していてまずい、と思う状況はある。いまどきの日本のお母さん方の「早期教育熱」である。
子どもにあれもこれも習わせたい、つねにほかのお子さんと比較して叱咤激励ばかりしているお母さんなどをみると、「内発的動機づけ大事ですよ」と、言ってあげたくなる。そういうお母さん方にあまり行動理論を「悪用」してほしくはない。
(私なりの表現をすれば、それは「ありのままのその子を受け容れ愛する」という意味の承認だったり、「その子の成長意欲に応じた課題を与える」という意味の承認が足りないのだろうと思うが。逆にこういう育てられ方をして自信がないタイプの子は、職場で「承認型企業内コーチ」に出会うと非常によく育つ)
そういうことに警鐘を鳴らしたい場合、そういう性格のお母さん(お父さんもいるかもしれないが)、お母さんをそういう状態にしてしまっている情報過多の状態か、あるいはお母さんが専業主婦で家にいて変に子育てに仕事的な成果を見出したがる状態、に的を絞って話をすれば「内発と自律思想」はもうちょっと説得力が出てくるようにおもう。
「外的動機づけ」を悪者にしているから、話がややこしくなるのだ。
「敵はだれか」
というか、
「ほんとうに解決したい課題は何か」。
これ何思考法っていうんだっけ?
一々名前をつけなくても、常識力のある人ならワンフローでやれることだと思うのだが。
※この記事は、もともと1つ前の記事の追記として書いていましたが長くなったので別立ての記事にしました
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
(追記)
いい加減この話題にうんざりしているが、やっぱりこういう可能性についても書いておこうと思う。
ほんとうは、人間社会のもっとずっと美しい現象について書きたいのだが、それはいつでも書ける、ということで。
アルフィー・コーンの見ていた風景とはどんなものであったか。
彼が引き合いに出す「外的報酬でコントロールするけしからん場面」についての記述が、どうも曖昧でリアリティに欠けるのだが、
たとえば
「これをできたら…をあげるよ」
というのが、よく出てくるように思う。
カネや物で釣る、というやり方。
私自身はそれを子どもにやってみたところ、あまり上手くいかなかった。
確か、「肩をもんでくれたら、お金をあげるよ」と言ったところ、
「いらな〜い」と断られたので、その後はあきらめている。
(100円だと安かったのだろうか)
いい成績をとったら幾らあげるとか物をあげるとかは、やったことがない。
単に高校に受かったからお祝いに食事でもいこうか、というのはある。
ご褒美は「あとづけ」で、サプライズ的にあげるのがお互い楽しいのだ。
事前に釣ると、貰った時に驚きがなくてあんまり楽しくないんではないかと思う。
それは、下手くそなやり方だと思う。
家族間だとルール化していないからサプライズができるが、
会社だとルール化せざるを得ない。だから事前に見えていることになる。
それが「事前に釣る」ことになり、やる気をそぐことはあり得るだろうと思う。
このほか想像で思い浮かぶのは、
コーン氏は自分の講演会に来る経営者をあまり好きだったとは思えないのだが、
たとえばこんなセリフ。
「先生、わてうちの息子に『100点とったら小遣いはずんだるで〜』って釣ると、
坊主張り切って勉強しまんのやが、
ヤツの要求する小遣いの額がだんだん吊り上っていきまんねん。
どないしたらよろしいんでっしゃろか」
こういうセリフは関西弁が似合う。
これは報酬が悪いんだろか、お金が悪いんだろか。
私なりの答えは、
「その子は生まれつきお金が好きなんですね」。
個別性の観点でみると、人は結構、言葉に言えない恥ずかしい欲求を個々にもっている。
前、セミナーに来られた経営者さんが、実際に子どもの頃のエピソードを探ってみると、
「お金が好き。儲かるのが嬉しい」
という価値観をもっていると思われたことがあった。
でもその人は、自分のシートに「努力」とか「貢献」とか別の言葉を書きこんでいた。
根っから「お金が好き」な子であれば、お金を励みに勉強したり、
小遣いの要求を吊り上げたり、というのもあり得ることなのだ。
また、そういう「お金好き、儲け好き」の性向はけっこう遺伝するようだ。
最近読んだ経営者の伝記では、ザッポスの創業者がそういう人だったようだ。
だから、
「これをしたらお金をあげるよ」
という強化子がうまくいった場合、それはその子にとって有効な強化子だ、
ということだ。
こういうタイプの子をどうやったら上手く導くか。
それもそれなりのやり方がありそうだ。
いかにコーン氏がその風景に嫌悪感をもったとしても、
「個別性」の観点で読み解けば、そうなる。
それは、やっぱり外的動機づけの罪ではないのだ。
私の言っていることは、どこかおかしいだろうか。
またもう1つ思い出してしまった。
「褒められ中毒になる」ということについて。
実際にそういう「個体」はいるようだ。ごめんね動物行動学のような言葉をつかって。
以前実際にお母さんから相談を受けたのだが、
幼稚園の先生から、
「この子はどんなに褒めても褒められ足りないタイプの子ですね」
と言われた、という。
そしてその子は高校卒業してフリーター。仕事しても長続きしない。
周囲の人から見て、この子の働きに対してはこのぐらいの「承認」が妥当だ、と考える量と、
本人の思う、自分はこれぐらいの「承認」をもらって当然だ、と考える量が
釣り合わない、後者があまりにも大きすぎる、という人がいるようなのだ。
そうすると、残念ながら大抵の仕事はつとまらない、能力は低いのにいつも承認不足だと不満をたれている人になってしまうことだろう。
実はいわゆる「能力の低い人」の話をきいていると、このタイプの人が多いように思う。生まれつき「承認欲求」がものすごく高いので周囲への不満が尽きない。自分自身の能力不足に気づけばいいが、気づかない人はいつまでも努力するということをしない。気の毒だがそういう風にプログラミングされてしまっているのだ。
閑話休題、
こういう「承認欲求過剰」な人は、やっぱり「褒められ中毒」になりやすいだろう。
それも褒めることの害ではなく、その人の個性なのだ。
人によっては、少年院とか刑務所とか、強制的に規則正しい生活を課せられるところで暮らすと、ちゃんと生活できることがあるらしい。
そういう少数の個体の方にばかり目が行って普通の勤勉な人を褒めないというのは、それも馬鹿馬鹿しいことである。ごく一部に急性アルコール中毒になりやすい人がいるからといって、国民全員が禁酒する必要があるだろうか(ほんとは、アルコールは非常に依存性の高い危険な麻薬だというのだが)やっぱり、論の立て方が間違っている。
コーン氏はご自身が人の個性に対する理解が足りないので、いろんな人に嫌悪感をもって生きているのではないだろうか。その嫌悪感をぶつけやすい相手が「外的動機づけ」であり「行動主義」であった、ということはないだろうか。
そして、やはりEQの低い人特有の現象で、自分が見聞きした2,3の極端な現象を一般化してしまう誤りを犯していると思う。
自分がどういう個別の体験をし、それについての感想や解釈をもったか、というところを明示するという手続きをとればいいのだが、限られた体験から一般化をして、それに嫌悪の感情をまぶしながら学問のような記述で言う、ということをやっている。体験の記述も曖昧なので、コーン氏の解釈(つまり、外的動機づけはわるいものだという)が正しいのかどうか、検証しにくい。
最後に厳しいことを言うと、実は「褒められ中毒」に一番近い所にいるのは、コーン氏を含む大学の先生や文筆業、講演業の人たちなのだ。「チヤホヤ中毒」といってもいいかもしれない。
これも、ひょっとしたら自分自身に起こったことか、あるいは虚業のご同業者に起こったことをとらえて、「だから褒めることは良くない」という論拠にしている可能性がある。そうだとしたら本当に馬鹿げている(でもコーンという人の思考回路をみていると、本当にそういうことをやってしまいそうだ)。そんなことを根拠に真っ当に頑張っている子どもや大人を褒めないなんて。
「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。
このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。
私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)
さらに、スポーツ・コーチングであれば選手の側に「そのスポーツをやりたい」とか「試合に勝ちたい」という意欲があることが前提なので、これも問題にならない。
(補足:ここまで書くと会社員の場合はどうか、ということになるが、私は従来から「コーチングだけじゃなく理念大事。理念に共感した人がその会社に入るという前提にたつべき」という立場をとっているので、やや逃げ道めいてみえるかもしれないが、その会社の一員としてお客様に商品・サービスを提供し、利益を上げることに貢献したいという意欲をもっていることが前提となる。無駄飯を食ってぶらさがりたい人にコーチングしても意味はない)
つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。
しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。
もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。
繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。
しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。
「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能で効果的に手助けしてくれる人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。
それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。
彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。
**********************
ここまで書いて、自分が「子どもの自発性」と出会ったときのことを思い出した。
初めての子を授かったのが1992年。これが勘の強い、よく泣くお子様だった。今でも彼女に「あんたは手のかかるあかちゃんだった」とからかう。
2歳ぐらいになると、「自分でお着替えする!」と主張。それは尊重して時間がかかってもとことん待った。何故かというと、以前にも書いたかもしれないが、「じぶんでやる〜!」と言ってやっている時の彼女の脳の中で急速に「シナプスが伸びる」のが見えるような気がしたからだ。
「コーチング」と出会うのはそれから9年ほどあとのことである。
「子どもの自発性があれば、それに委ねることが大事だ」。
それは私の場合、勘の強い長女を観察することによって培われたとおもう。(その後この子は「もしドラ女子高生」になった・・・)
**********************
私自身、「内発と自律」があまりに不足していてまずい、と思う状況はある。いまどきの日本のお母さん方の「早期教育熱」である。
子どもにあれもこれも習わせたい、つねにほかのお子さんと比較して叱咤激励ばかりしているお母さんなどをみると、「内発的動機づけ大事ですよ」と、言ってあげたくなる。そういうお母さん方にあまり行動理論を「悪用」してほしくはない。
(私なりの表現をすれば、それは「ありのままのその子を受け容れ愛する」という意味の承認だったり、「その子の成長意欲に応じた課題を与える」という意味の承認が足りないのだろうと思うが。逆にこういう育てられ方をして自信がないタイプの子は、職場で「承認型企業内コーチ」に出会うと非常によく育つ)
そういうことに警鐘を鳴らしたい場合、そういう性格のお母さん(お父さんもいるかもしれないが)、お母さんをそういう状態にしてしまっている情報過多の状態か、あるいはお母さんが専業主婦で家にいて変に子育てに仕事的な成果を見出したがる状態、に的を絞って話をすれば「内発と自律思想」はもうちょっと説得力が出てくるようにおもう。
「外的動機づけ」を悪者にしているから、話がややこしくなるのだ。
「敵はだれか」
というか、
「ほんとうに解決したい課題は何か」。
これ何思考法っていうんだっけ?
一々名前をつけなくても、常識力のある人ならワンフローでやれることだと思うのだが。
※この記事は、もともと1つ前の記事の追記として書いていましたが長くなったので別立ての記事にしました
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
(追記)
いい加減この話題にうんざりしているが、やっぱりこういう可能性についても書いておこうと思う。
ほんとうは、人間社会のもっとずっと美しい現象について書きたいのだが、それはいつでも書ける、ということで。
アルフィー・コーンの見ていた風景とはどんなものであったか。
彼が引き合いに出す「外的報酬でコントロールするけしからん場面」についての記述が、どうも曖昧でリアリティに欠けるのだが、
たとえば
「これをできたら…をあげるよ」
というのが、よく出てくるように思う。
カネや物で釣る、というやり方。
私自身はそれを子どもにやってみたところ、あまり上手くいかなかった。
確か、「肩をもんでくれたら、お金をあげるよ」と言ったところ、
「いらな〜い」と断られたので、その後はあきらめている。
(100円だと安かったのだろうか)
いい成績をとったら幾らあげるとか物をあげるとかは、やったことがない。
単に高校に受かったからお祝いに食事でもいこうか、というのはある。
ご褒美は「あとづけ」で、サプライズ的にあげるのがお互い楽しいのだ。
事前に釣ると、貰った時に驚きがなくてあんまり楽しくないんではないかと思う。
それは、下手くそなやり方だと思う。
家族間だとルール化していないからサプライズができるが、
会社だとルール化せざるを得ない。だから事前に見えていることになる。
それが「事前に釣る」ことになり、やる気をそぐことはあり得るだろうと思う。
このほか想像で思い浮かぶのは、
コーン氏は自分の講演会に来る経営者をあまり好きだったとは思えないのだが、
たとえばこんなセリフ。
「先生、わてうちの息子に『100点とったら小遣いはずんだるで〜』って釣ると、
坊主張り切って勉強しまんのやが、
ヤツの要求する小遣いの額がだんだん吊り上っていきまんねん。
どないしたらよろしいんでっしゃろか」
こういうセリフは関西弁が似合う。
これは報酬が悪いんだろか、お金が悪いんだろか。
私なりの答えは、
「その子は生まれつきお金が好きなんですね」。
個別性の観点でみると、人は結構、言葉に言えない恥ずかしい欲求を個々にもっている。
前、セミナーに来られた経営者さんが、実際に子どもの頃のエピソードを探ってみると、
「お金が好き。儲かるのが嬉しい」
という価値観をもっていると思われたことがあった。
でもその人は、自分のシートに「努力」とか「貢献」とか別の言葉を書きこんでいた。
根っから「お金が好き」な子であれば、お金を励みに勉強したり、
小遣いの要求を吊り上げたり、というのもあり得ることなのだ。
また、そういう「お金好き、儲け好き」の性向はけっこう遺伝するようだ。
最近読んだ経営者の伝記では、ザッポスの創業者がそういう人だったようだ。
だから、
「これをしたらお金をあげるよ」
という強化子がうまくいった場合、それはその子にとって有効な強化子だ、
ということだ。
こういうタイプの子をどうやったら上手く導くか。
それもそれなりのやり方がありそうだ。
いかにコーン氏がその風景に嫌悪感をもったとしても、
「個別性」の観点で読み解けば、そうなる。
それは、やっぱり外的動機づけの罪ではないのだ。
私の言っていることは、どこかおかしいだろうか。
またもう1つ思い出してしまった。
「褒められ中毒になる」ということについて。
実際にそういう「個体」はいるようだ。ごめんね動物行動学のような言葉をつかって。
以前実際にお母さんから相談を受けたのだが、
幼稚園の先生から、
「この子はどんなに褒めても褒められ足りないタイプの子ですね」
と言われた、という。
そしてその子は高校卒業してフリーター。仕事しても長続きしない。
周囲の人から見て、この子の働きに対してはこのぐらいの「承認」が妥当だ、と考える量と、
本人の思う、自分はこれぐらいの「承認」をもらって当然だ、と考える量が
釣り合わない、後者があまりにも大きすぎる、という人がいるようなのだ。
そうすると、残念ながら大抵の仕事はつとまらない、能力は低いのにいつも承認不足だと不満をたれている人になってしまうことだろう。
実はいわゆる「能力の低い人」の話をきいていると、このタイプの人が多いように思う。生まれつき「承認欲求」がものすごく高いので周囲への不満が尽きない。自分自身の能力不足に気づけばいいが、気づかない人はいつまでも努力するということをしない。気の毒だがそういう風にプログラミングされてしまっているのだ。
閑話休題、
こういう「承認欲求過剰」な人は、やっぱり「褒められ中毒」になりやすいだろう。
それも褒めることの害ではなく、その人の個性なのだ。
人によっては、少年院とか刑務所とか、強制的に規則正しい生活を課せられるところで暮らすと、ちゃんと生活できることがあるらしい。
そういう少数の個体の方にばかり目が行って普通の勤勉な人を褒めないというのは、それも馬鹿馬鹿しいことである。ごく一部に急性アルコール中毒になりやすい人がいるからといって、国民全員が禁酒する必要があるだろうか(ほんとは、アルコールは非常に依存性の高い危険な麻薬だというのだが)やっぱり、論の立て方が間違っている。
コーン氏はご自身が人の個性に対する理解が足りないので、いろんな人に嫌悪感をもって生きているのではないだろうか。その嫌悪感をぶつけやすい相手が「外的動機づけ」であり「行動主義」であった、ということはないだろうか。
そして、やはりEQの低い人特有の現象で、自分が見聞きした2,3の極端な現象を一般化してしまう誤りを犯していると思う。
自分がどういう個別の体験をし、それについての感想や解釈をもったか、というところを明示するという手続きをとればいいのだが、限られた体験から一般化をして、それに嫌悪の感情をまぶしながら学問のような記述で言う、ということをやっている。体験の記述も曖昧なので、コーン氏の解釈(つまり、外的動機づけはわるいものだという)が正しいのかどうか、検証しにくい。
最後に厳しいことを言うと、実は「褒められ中毒」に一番近い所にいるのは、コーン氏を含む大学の先生や文筆業、講演業の人たちなのだ。「チヤホヤ中毒」といってもいいかもしれない。
これも、ひょっとしたら自分自身に起こったことか、あるいは虚業のご同業者に起こったことをとらえて、「だから褒めることは良くない」という論拠にしている可能性がある。そうだとしたら本当に馬鹿げている(でもコーンという人の思考回路をみていると、本当にそういうことをやってしまいそうだ)。そんなことを根拠に真っ当に頑張っている子どもや大人を褒めないなんて。