『報酬主義をこえて』という本についてアマゾンに書いた書評を削除し、こちらにUPしておこうと思う。

 本書のような本は、本来は黙殺したいところだが、日本で「少し有名」な評論家が擁護し、メルマガで宣伝し、アマゾンの書評で5つ星をつけ、よほど気に入ったとみえて自身のブログで「今年一番インパクトのあった本」と持ち上げているのだ。

(今のような時代だと、何冊本を書いても決して「すごく有名」にはなれない。この評論家氏もつねに第一線にいないといけないという焦りがあると思う)

 既に評価の定まった学説について、言いがかり的な議論を吹っかけているこの本が日本で再評価されることが、そもそも不思議でならない。再版自体が、教養のない人による間違った意思決定だったということはないのだろうか。

「あっ、あの本また出してみようか。初版のときそこそこ売れたから」
「6000円で1冊でも売れたら儲けものだからな。世間には高いものずきの需要もあるし」

 こんなバブリーな会話がきこえてきそうだ。

 読者の皆様、アマゾンの本書のページに掲載されている「やや有名」(笑)な評論家による書評とこちらを読み比べてください。

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 ポイントは、心理学の歴史に関する基礎知識の有無。歴史は重要な教養だ。この本を正しいと信じ込んでしまった人には猛省を促したい。本代の値打ちはない。以下、面倒ではあるが一つ一つ本書の主張の問題点を指摘したい。

 本書は、行動主義と行動理論、行動科学を意図的に混同したミスリーディングな本。専門の人が見ればすぐわかる話題。行動主義は20世紀前半に、動物実験に基づき過激な主張を行った。その後行動理論、行動療法、行動科学と発展した際に、鬱や不登校の治療、スポーツ・コーチングの指導法など、れっきとした人相手の理論として評価を確立した。本書はそれらを混同したうえで、「行動主義のうちの過激な主張」あるいは「行動主義を中途半端にかじった人々の間違った行動」を批判することで、「行動理論―行動療法」の主張までひっくるめて否定してしまう乱暴な議論をしている。 

 この著者がいかに否定しようと、行動理論、行動療法以降の理論の恩恵を受けた膨大な数の人々がいたことは疑いようがない。これはエビデンスである。現在も、学校教育をはじめ技能訓練などの場面で幅広く活用されている。山本五十六の「やって見せ言って聞かせてさせてみて褒めてやらねば人は動かじ」は見事に行動理論の模倣学習―オペラント条件付けと同じことを言っている。

 さらに、「ヒトは動物と違う存在だ、ヒトが動物と同じ行動原理で動くなどというのはヒトに対する冒涜だ」という主張は、失笑を通り越して危険でさえある。私たちは動物と同様に食欲や性欲をもち、生命の危険にさらされれば心臓が早鐘のように打ち、身体が総毛立つ。それは私たちが動物の脳をベースとして進化してきたからであり、動物と共通の部分がきわめて多いのである。

 著者は「報酬主義」という独自の用語を使っているように、自身がイデオロギー志向の強い人のように見える。自分の気にそまないデータを無視して議論しているし、人間が動物と違うという本書の主張は、むしろ人は神によって創られたと主張する原理主義に近い非科学的なものである。

(じゃあ、動物実験―臨床試験によって開発されるほとんどの医薬品はどうなるのだろうか?また動物行動学から私たちヒトの営みを考える試みも近年隆盛なのだ)


 著者の主張には、現時点の心理学、脳科学の知見に基づいて反駁できるものが多々ある。

 「褒めることによる動機づけには持続力がない」ということについては、20世紀後半の行動理論―行動療法の中にはちゃんと答え(対処法)があり、著者の言うように致命的欠陥ではない。

 また、「セルフイメージの崩壊を恐れて失敗を恐れ、冒険しなくなる」という主張については、褒め方の問題であり、「あなたは天才ね」「賢いわね」といった、人格や能力を褒める褒め方をすると確かに失敗を恐れて冒険しなくなるが、「よく頑張ったわね」といった、行動や努力にフォーカスする褒め方だと、次回以降も失敗を恐れず挑戦することが心理実験で確かめられている。

 著者がいかに否定しようと、人は脳の報酬系で動く。例えば、「罰」についての感受性が低い人は犯罪者気質となることなども近年明らかになっている。

 著者がイデオロギー的に礼賛する「内発的」も、所詮広い意味の報酬系の所産なのだ。教育の世界では「内発的」はこれほどインパクトのある、水戸黄門の印籠のようなものなのだろうか。

 ただ、本書の初版出版当時(1993年)は、こうした「内発」「自律」礼賛論が全盛であったようで、時代の制約を受けた本。歴史的検証には耐えられない。「内発的」であれ「外発的」であれ人が動機づけられた時には脳の同じ部位が活性化するのであり、「内発」か「外発」かの二元論はあまり意味がない。

 このように、現代(2011年時点)の心理学・脳科学の知見は、行動理論―行動療法の主張をサポートするようなものが多いのである。むしろ「行動観察」という行動理論の手法はますます重要性を増しているように思える。現代の目でみると本書の主張は噴飯ものというしかない。  

 著者、アルフィ・コーンは前著『競争社会をこえて』でアメリカ社会を覆う競争至上主義を批判したが、返す刀で書いたような本書は、当時の心理学上のメジャーな主張を十把一からげにして批判するというやっかみめいた本で、議論の粗さが目立つ。「良心的」ではあるが、強い反発心に動機づけられている。実践に長く携わった目からすると、「反発心の強い人は褒められても喜ばない」単にそこからすべての論理構築をしている気がする。

 以上のように極めて一面的な偏った主張を学術的に装った本と言うしかないが、むしろこの主張ががあたかも学問であるかのように評価されこの本が出版された経緯に興味が湧く。

 本書が高く評価されることが招く未来とは何か。そしてそれをもたらしている現代の「思考法の混迷」とは何か。この本を称揚する人たちはその後何をしたいのだろうか。いささか暗い気分になる。良心的な研究者が積み上げてきた成果を一笑に付そうとする本書のもつ「負のエネルギー」にこれ以上、巻き込まれる人が出ないことを願う。


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(アマゾンで掲載しのちに削除した書評の引用はここまで)



 その後著者アルフィー・コーンについての英文ウィキペディアをみつけた。
 http://en.wikipedia.org/wiki/Alfie_Kohn


 1957年生まれ。生涯に12冊の本を書いたこと、とくに"behaviorist"(行動主義)批判などがよく読まれていることなどが記されている。2000年以降の著作には『条件付けしない親業Unconditioned Parenting』などがあるが、

私が興味を持つのは、これだけ「教育」について発言した人が、現代の脳科学の知見についてなんと言っているのだろうか?ということ。

 このブログでなんども繰り返し言うように、「報酬」という言葉の響きがいかにいやらしくても、人は「報酬系」で動いているのは間違いないことなのだ。行動理論的に言えば、「その人にとっての『強化子』は何か?」という問題であり、人によってあるいは状況によって、それは内発であったり外発であったりするのだ。

 熟練した指導者なら、その人が「内発」によって動いているか、それとも「外発」によって動いているか、見てとることは簡単である。そして「内発」の影響の強い人―往々にしてそれは唯我独尊であったり、周囲の人との関係を顧みない人だったりするのだが―であれば、それを尊重した働きかけをする。それだけのことである。


 私なりの理解によれば、アルフィー・コーンという人は、前著『競争社会をこえて』において、「アメリカの不幸」のもとになっている思想を真摯に考察した。そしてアメリカ心理学会賞を受賞した。

 本書『報酬主義をこえて』は、精神においてはそれと共通するものがあるが、しかし闘う相手を間違えた。「敵」の選定を間違えた。

彼が闘うべき相手は、所謂「報酬主義」ではなく、むしろ彼の称揚する「内発・自律」が象徴する、アメリカの「アトム的自己」だったのではないか。

(こういう、精神においては共感する余地があっても、切り口を間違えた議論というのは一杯ある。研究者で似たような分野を研究していてもノーベル賞をとる人とそうでない人の違いはおおむね出発点の切り口の違いである)

(また正田が「一生懸命だ」「熱心だ」という類の褒め言葉を嫌うのもここに起因する。精神において「一生懸命」「熱心」はたまた「真摯」であっても、切り口を間違えて決定的に間違ってしまう人がいる。だから、お客様のためを思えば、一生懸命かどうかなど、私には大した問題ではない。最近も友人に対して、「私について『あの人は熱心だ』なんて言わないでください。言うなら『あの人は本気だ』と言ってください」と言ったものである。「本気」と言えば、単に一生懸命なだけでなく正しくあるために最善の思考をめぐらしていることが伝わるだろう)


そして、「内発・自律」礼賛思想の行き過ぎに警鐘を鳴らしたのが2008年のイーストウッド作品『グラン・トリノ』だったのではないか。アメリカではむしろ、もう「終わった」議論なのではないか。

「アメリカで終わった商品」を日本に持ってきてやたらと褒めそやすのは、コンサル業界ではよくあることなのだ。


あるいは、こう思ったりもする。アルフィ・コーンという人は『競争社会をこえて』で賞を獲り、「大きなものに噛みつくスタンスが良心的として評価される」ことに味をしめたのかもしれない。だとしたら気の毒だが、それも「報酬系」のなせるわざなのである。


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行動理論―行動療法を正しく使用したときに上がる成果の高さや再現性の高さは、一方で往々にして、凡庸な主張の中に埋没することを潔しとしない目立ちたがり屋さんの反感を呼び、異論が出る。

その人は定説に逆らうことで一定のポジションを得、教育雑誌などからそこそこの頻度で原稿依頼が入る。いかにその主張がトンデモであっても。(どうもアルフィ・コーンはそういう生き方をしている人のようだ)


そして、そうした議論の尻馬に乗るオッチョコチョイな(か、自分自身目立ちたがりやで、行動理論の正しさを目の上のたんこぶのように思っている)人も出る。


問題の「変な5つ星レビュー」の載ったページも、別に隠すつもりはないので、リンクを載せておきます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4588007041/


「一人の人間の持っている可能性は、もっとすごいはずです。望ましい行動を取らせるために報酬というニンジンを与えることは、その人が持っている「行動そのものへの興味」を殺し、ニンジン中毒を作り出してしまう可能性があるのです。」


などと、本書の奇妙な、反証を挙げるのさえ馬鹿馬鹿しい主張を引用しつつ自分の言葉でナイーブにロマンティックに語った実名の評論家氏にとって、これは誇りにできる仕事なのだろうか。


 私は例えば信頼する指導者から褒められる、認められるときの人としての喜びを「アメ」だの「ニンジン」だのと汚い言葉で表現するセンスに、この著者と評者双方の人格の傲慢さを感じてしまう。この人たちは、「自分はだれかに育ててもらった」という気持ちがないのだろうか。

 
 ブログ読者の皆様、上記に書いた諸々のことを踏まえ、この評論家氏の美辞麗句を見てやってください。うわべの言葉の美しさに流されず、皆様ご自身の批判思考をしっかりと働かせてください。そして、文末の「このレビューは参考になりましたか?」のところで「投票」をしていただけますので、是非このレビューに皆様のご意見を投票してやってください。

この人はよほどこの本に感動したようで、自身のブログでは「今年一番インパクトのあった本」として本書を挙げている。

「プチ有名」の地位にすがることはこれほど苦しいことか。目立ちたい一心の行動に出ることか。
 この人はこんなトンデモ文章を書いてしまった以上、例えば文科省の教育審議委員みたいな役職は一生もらえないだろうな。なりたいのかどうかわからないけれど。

 まあ、この人にも今後、一定頻度で教育雑誌などから原稿依頼があって仕事に不自由しないだろう。アルフィ・コーンのように。




 私自身は、"Controlling(主導型)"なので褒められることを一番苦手とする性格だし口先だけのお世辞はすぐ読み取ってしまう。しかもこの性格の人のつねで、独創的な何かを提示したいという「欲」もある。


 ただし、多数の人の幸福のために役立つものを提示したいという「欲」のほうが、私のばあい最終的には勝つ。自分自身が独創的な人として見られたいという「我欲」よりも。



 受講生の皆様、行動主義はさておき行動理論―行動療法は正しいものです。私どもでは受講生様にお伝えするコンテンツを1つ1つ丁寧に吟味しています。誤解の余地のないよう丁寧にお伝えしてまいりますので、どうぞこれからも安心してご使用ください。


 そして、以前にもこのブログに書いたこと―、
何が「王道」で何がそうでないか、わかる人であってください。教育学、心理学にしてもほかのことにしても。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp