正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

タグ:中室牧子

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ろくたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 お待たせしました、”中室提言”に対する「正田の回答編」です。

 1つ前の記事では、「中室本」の第4章・第5章を丁寧にみたうえで、”中室提言”のまとめとして、

1.少人数学級に「しない」。40人学級を維持(一部貧困地域では35人学級でもよい)
2.子供に未来のおカネの話をしておカネのご褒美を出すと学力が上がる。ほめない
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「おカネ返して方式」の「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

と、いうことでした。

 これに対してわたくし正田の回答は、いくつかの項目がありますので、最初にまとめておきましょう。


【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

【補足】少人数学級の財源問題を考える

【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の質の高い先生とは本当に2.おカネで釣る、ほめないをやっている先生なのか?

【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要



 それでははじめたいと思います―

【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

 詳細は、今月3日の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 )に書かせていただきました。
1つ前の記事を見て「じゃああんたは教育あるべき姿はどういうものだというんだ?」というリアクションをされる方もいらっしゃいましたが、ここの記事で言いつくされています。

 個々に向き合うきめの細かい指導とセットにした「少人数学級」は、大きな効果を上げます。企業では、「承認+個人面談」は、学齢期の子供たちと共通の問題をもち指導しにくい今の若い人たちにも非常に有効だということがわかっています。もちろん極端に人数の大きな部署というのはその場合あり得ません。
 そして、今も10人に1人ぐらいはいる「スーパー先生」から他の先生が学べるよう、経験交流の時間を頻繁にとります。ここでも「承認」をベースにした対話が大きな効果を上げます。マネジメント層の方々は、ぜひそこで経験交流のためのファシリテーターの役割を果たしてください。
 「少人数学級」以外のことは、大きな予算措置を必要としません。

【補足】少人数学級の財源問題を考える
 でも「少人数学級」財源をどうするかって?
 35人学級を40人学級にすると86億円が浮くとのことでしたが、これは単純に、学級定員を5人減らすごとに86億円支出が増えるということだと思っていいんでしょうか。2015年度文教及び科学振興費全体は5兆3,600億円余で全体の5.6%でした(医療福祉費は31兆円)。もし30人学級にしたら86億円、25人学級にしたら172億円増えるんですね。それぐらい何とかなりませんか。国民1人当たり172円の増ですよね。

 わたしが思うのは、産業界によびかけて、法人税に上乗せした目的税にできないのか、ということです。未来の産業人を作るための重要な投資です、15年後には確実にリターンがあります、と言って。逆に今これをしなければひょろひょろのもやしっこしか入ってきませんよ、求人難倒産かメンタルヘルス倒産になりますよと言って。先生方は夜中までプリントつけして家庭生活も削ってるんです、普通の生活ができるように、企業で分担し合って先生を余分に雇うつもりになりませんか、と言って。公的教育が充実すれば、社員さんがたも子弟を私学まで行かさなくても地域の公立学校でいい教育を受けさせられますよ、と言って。だめでしょうか。 

 そういう、「今40人だから5人減らして35人にしてよ」「それには予算が―」みたいな、ちまちました議論ではなくて、「まずあるべき姿から」の議論をしてもいいと思うんです。企業の側は、むしろエビデンスなどなくても、部署編成をフラット化の30人40人ではまずいと思ったらすぐ昔同様の10人7人の規模に戻しているわけです。そういう判断が学校には随時出来なくて、身動きとれないというところが気の毒なんです。

 そのためにやっぱりエビデンスが全然無いのもまずいので、どこかモデル校で始めてほしいなあ、とせつに思います。「少人数学級が単独でどうか」ではなくて、「少人数学級+承認、きめ細かい指導」のセットで、2剤併用の形で。

 ただし、「ランダム化比較試験」にこだわる必要もないのではないか、とも思います。そのことは【5】で。



【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「おカネで釣る」。「中室本」には、ことのほか頻繁に出てきます。第2章で「お金でご褒美を上げても『よい』」。第4章で「将来のお金の話をすると、学力が上がる」。

 このくだりをみて、ひょっとしたらこのブログ読者の方は、いや〜な気持ちになった方もいらしたのではないでしょうか。わたしなどは、3人の子供をお金で釣ったことはほぼゼロ回に近いです。それでも子供たちは自分のお弁当をつくり、おせち料理をつくり、その年頃の子の中ではダントツで家事をする子たちでした。「子どもをお金で釣ることは、よくわからないけれどしてはいけないことだ」というタブー意識がわたしの中にはありました。読者の中にもそういう方はいらっしゃいますでしょうか。それは意味のないむだなタブー意識で、打破したほうがいいものなのでしょうか。
 いや、その勘は正しいと思います。

 『経済は競争では繁栄しない―信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と信頼の神経経済学』(ポール・ザック、ダイヤモンド社、2013年8月)では、「お金の話をすると人は道徳性が低下する」という話が出てきます。
(詳しい読書日記はこちら わが国ではハグはちょっと―じゃあ、どうする?神経化学物質オキシトシンの知見『経済は「競争」では繁栄しない』
「プライミング」(暗示)の実験で、お金を一瞬見せられお金について考えるよう仕向けられたグループは、他人を助けたり、他人に助けを求めたりする度合いが低く、一人で物事をこなす可能性が高まった。また、面接のために椅子を並べるように頼まれたとき、お金について考えるようにプライミングされたグループは、他人とのあいだに物理的に大きな距離を置いた。


 つまり、子供たちをお金のために頑張るよう仕向けると、人と助け合うより自分一人が勝って儲かればよいという「1人勝ち大好き」の人になってしまう可能性があるのです。このやり方で学力が上がったしても、そこで作った「学力」は、「人を蹴落とせ」という競争心を土台とした学力である可能性があるのです。
 人の個体差について考えるのがすきなわたしが考えるに、子供たちの中には、確かに生得的に「お金」がすきな子がいます。お金の価値観をもっている、という子。そういう子には、確かに「お金」をイメージさせて訴えるのが、勉強させるにも有効かもしれません。
 しかし、それはその子たちの個別指導で使えばよろしい。お金がとくに好きではない子まで、お金をインセンティブに使う必要はありません。従来通り、学ぶことそのものの楽しさを先生の言葉で伝えていただければいいと思います。
 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生だ」と言います。子供たちの学力を上げた先生が、20年後も子供たちの収入を高めていたと。
 しかし、個人として「収入の高い」人を作ることが経済効果と言えるかどうか。
 わたしたちは、早期教育が作ったのか何が作ったのか、個人として優秀だがきわめて競争心の高い人物をビジネスの中でみることがあります。自分の周りのちょっと優秀な人を目障りだからと平気で潰してしまい、その人の半径10mぐらいにはペンペン草も生えない。そういう人は、自分自身は稼いでいても、周囲の人の年収を下げているはずです。したがってその人を育てたことの経済効果は、その人が潰した周囲の人まで込みでみた場合、非常に低くなるはずです。
 そうした「長期毒性」は、「中室本」の「お金で釣って勉強させる」方式について、まだ全然明らかになっていません。
 
 一方で、「正田試論」の記事の中に出て来た「スーパー先生」は、そのような優秀だが競争心が極端に高い人物を作っていたのではありませんでした。人格教育をし、1人ひとりの良いところを見出させ、優秀な子にはその優秀さをいかんなく発揮させながら、同時に周囲の子に思いやりを持つように仕向けていました。
 こういう子は、将来収入の高い人になった場合でも周囲の人の収入をも高めることができるのです。そういう人を作ってこその経済効果ではないでしょうか。
 競争ということも生まれつきの価値観で好き嫌いがあり、わが国では競争があまり好きではない人が多いようです。それに比べアメリカ人は比較的競争を好むところがあります。
 わが国で従来、優秀な人を作ってきたやり方をだいじにした方がよいのではないでしょうか。


【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見と、「学力を上げるためにはお金の話をしたほうがよい」という知見が無造作に並べられているので、じゃあ学力を上げ、20年後まで本人の収入を高めていた先生がやっていたことはそれだったのか、と錯覚してしまいそうです。しかし、この両者がつながっている保障はありません。
 「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見を導き出した「チェティ研究」は、(1)1人の子供の学力の向上(2)その子の20年後の収入を追跡調査したもので、学力を上げた先生が具体的にどんなやり方で学力を上げていたかまではみていません。"中室提言”2.と3.は、まったく別々に出て来た知見です。むしろ、「チェティ研究」に出て来た優秀な先生は、わが国の「スーパー先生」と同様に、良い人間関係、高い道徳性に立脚した学力向上をやっていた可能性が大だと思います。
 「スーパー先生」たちが何をやっていたか。「結果変数」ではなくほとんどの瞬間、「媒介変数」のところを見て、つまり数字で測れない定性的な子供たちの様子を見、またそれらを「小目標」」として念頭に置いて仕事をしていた可能性があります。というお話を、こちら(「学力を上げる先生」はどこを見ていたか)に書かせていただきました。
 わが国でもし「チェティ研究」的なものをやるのであれば、今国内で高い学力向上をもたらしている「スーパー先生」方の生徒さんたちの「その後の収入」プラス「対人的行動様式」を追うといいかもしれませんね。そのうえで、先生方のやっていることを「解剖」するなら、それは意味のある研究になるだろうと思います。


【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

 1つ前の記事では、先生方の質を向上させるために、成果主義が試みられたがあまり成功しなかった。ところが、成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究がある。というお話でした。
 「ふつうの成果主義」がなぜ上手くいかないか、その理由は経済学者の間でわかっていない、ということでした。
 えーっ、なんでわからないの!?とわたしなどは思います。読者の皆様、そう思いませんか?
 先生になる人というのは、基本的に「人がすき」なんです。そうでない人は、もともとあまり適性がなかった人だと思います。そして「人がすき」な人というのは、お金がすきという価値観をあまり持っていないことが多いです。絶対に両立しないとは言いません。でも多くは、「仕事はお金のためにやっているのではない。生徒やお客様に喜んでもらえるためにやっているのだ」と思っています。そういう人が多く分布している業界だと思ってください。
 経済学者にとっては「想定外」かもしれませんが、「経済人(ホモ・エコノミクス)」ではない人びとがいるのです。お金で釣られても心が動かない人びとがいるのです。
 それなのに「動け!」とばかり、「減点法の成果主義」まで実験してしまうというのは、知らないからとはいえなんと残酷なことでしょうね。「経済学者=バカ」という式がわたしの頭で渦巻きます。
「40人学級を維持した上で、先生方には残酷な負の成果主義を」
"中室提言"が言っているのは、とどのつまり、そういうことなのです。それで学力向上したからといって全然威張れません。わたしには、神をも懼れぬ行為をしているとしか思えません。そのやり方で単年度ぐらい学力向上の効果が上がったとしても、遅かれ早かれ先生の鬱休職や離職が続出するであろうことは火をみるより明らかです。中室先生ちゃんと責任を取っていただけますか。それを決定した役人も責任取れますか。

 逆に、学校の先生のような感情労働の人たちは「承認人」という概念が当てはまります。経営学で「承認論」を提起した太田肇氏の造語ですね。
 先生方に奮起してもらいたかったら、「承認」してあげればよいのです。多くは、「教室の王様」で、逆にだれも自分の仕事を監督してもらえない立場で実は「承認」に飢えています。マネジメントの人たちが細かく授業をみて、先生のちょっとした教材づくり、ちょっとした子供たちとの関わり、ちょっとした判断、を賞賛してあげたらどうでしょう。あるいはその自治体の首長や地元出身の有名人が―たとえばうちの神戸市だったら藤原紀香とか―が、しょっちゅう学校を視察して先生方にねぎらいの言葉をかけたらどうでしょう。
 そういうことをまだランダム化比較試験でやってみたことがないんですよね?たぶん、経済学者さんが興味を持たなそうなところですよね。
 でも経済学者さんが考えるほど、多くの人は「経済人」じゃないんですよ。そろそろ、そういうことを受け入れなくちゃ。

 
【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

 上記の「成果主義導入」と関連しましたが、実はひところ「アメリカ式」を繰り返し輸入して、どんどんダメになった分野があります。経営学です。
 『企業の錯誤・教育の迷走 人材育成の「失われた10年」』(青島矢一編、東信堂、2008年)という本では、バブル崩壊後に自信を失い、アメリカのビジネススクールで生まれた手法をどんどん輸入した日本企業の迷走ぶりを描いています。
(詳しい読書日記はこちら何を失ったのか、何を回復しなければならないのか―『企業の錯誤・教育の迷走』

 ここでは、「成果主義導入」で日本企業の営業組織・研究組織がそれぞれどうなったか、が出てきます。
 
 
営業職では・・・、
 転勤時の得意先の引き継ぎをしなくなった。引き継いでも、特に親しい顧客には「後任に引き継ぎ後半年たったら自社製品の購入をやめてください」と依頼する。
 随行営業をしなくなった。
 若手営業員の定着が悪化した。それまで離職率が低かったA社でも、2002年に入社した営業部員の3分の1が2005年までに辞めた。
 ・・・と、競争の「負の側面」が大きく出てしまいました。

 研究開発職では…
 創造性のある研究員を業績給でつくることはできなかった。創造性のある研究員が求めているのは金銭的報酬ではなく、インフォーマルなフィードバック。(もろに「承認」ですね)しかし業績給導入の結果、インフォーマルなフィードバックは減少した。
 組織としての創造性を発揮するには、部門間協力が必要だが、業績給で評価基準が明文化されると、協力にかかわる関係構築の作業が捨象されてしまい、部門間協力がわるくなる。(⇒実はこれも「承認」の応用で解消することがわかっている)



 さあ、では学校の先生の世界に「(減点法の)成果主義」を導入したら何が起こるでしょう?
 生徒の成績の改ざんなどは容易に起こりそうですね。また、ノウハウを教えない、承認しあわない、協力し合わない。

 もともと日本人はアメリカ人に比べて不安感が高く、競争心の低い人が多いので、わが国で成果主義を入れたら負の影響がもろに出やすいのです。喜んで競争して頑張る人などほんの少数、大半は他人の足を引っ張るという後ろ向きの頑張り方をします。

 さて、医薬品の世界には「ブリッジング(橋渡し)試験」というものがあります。
 アメリカで一通り開発して臨床試験までクリアした医薬品も、日本人では体質の違いで効果が弱かったり、副作用が強く出たりする可能性があります。日本人での安全を確認するため、数年にわたってもう一度日本で臨床試験をします。

 経営学の分野でも教育学の分野でも、「ブリッジング」は必要です。体質が違うものを試しもせずに入れるべきではありません。ただでさえ日本人とアメリカ人は、「不安遺伝子」の出現率において両極端。その他いくつかの「性格」に相関することが分かっている代表的な遺伝子型の分布もほぼ正反対、それぐらい、民族の「気質」が根本的に違うのです。
 いくらハーバードでいい結果が出たという知見でも、わが国で即政策として取り入れるようなことはないように願います。



【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要


 ランダム化比較試験にこだわると、現実問題として、4つ前の記事(「少人数学級で学力は上がらない」はウソ!」にみた赤林研究のように、倫理的問題を避けるあまりきちんとした差が得られない結果に終わるという問題がついて回ります。

 医療でも臨床試験で治療群と対照群に分けるときにかならず倫理的問題が多少はあるわけですが、こと子供の教育は、対象が子供さんなので、自己決定に基づき参加する臨床試験より倫理的問題がより大きくなります。

 すると、全然思い切ったことがやれない。結果的に、現場が考える、実際に成功体験もあるような、本当に効果的な手法というのは、ランダム化比較試験では検証できないことになります。これはもう自己撞着のようなものです。

 だから、現場の感覚からいうと「なんで、そこ!?」というような、どうでもいいような仮説ばかり立てて実験してるじゃないですか。


 なので、いくら米教育省が「エビデンスはランダム化比較試験のことを言う」と明言したからと言っても、米国は米国、追随しないでいいと思います。たぶん多くの先進諸国で20人学級を導入したとき、いちいちランダム化比較試験で決めてはいないだろうと思います。「現場感覚」で決めたと思います。



 そして「つぎはぎ提言」の問題―、
 例えば、
(1)上記の「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「2.学力を上げるためにはお金で釣る、ほめない」という知見をくっつけて提言するのは正しいか?
(2)また「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「4.先生の質を高めるためには減点法の成果主義と教員免許制撤廃」をくっつけて提言するのは正しいか?
 (1)に関しては、チェティ研究に登場する質の高い先生たちが、現場でどんなことをやっていたかをみないといけません。2.お金で釣る、ほめない ではなかった可能性が大です。
 「お金で釣る」でみることができた学力向上はあくまで1学年の短期的な結果です。そのために何年にもわたって努力できるかどうか、は未知数です。一般には、お金によるモチベーション向上効果は短時間しか持続しません。
 また(2)提言3.と提言4.をくっつけることは正しいか?
 それはチェティ研究に出て来た質の高い先生が、「減点法の成果主義」でつくられたわけではない、ということです。「減点法の成果主義」というのは先にも述べたように、ものすごく非人道的な方法なのですが、それをやって先生方が1−2年は頑張れたとしても、数年内に息切れして鬱になっていくかもしれません。だれが責任をとるんですか。学級定員にもからむ問題ですが、先生方が鬱で休職する、離職するという問題も「コスト」としてきちっと扱わないといけません。現実にあることなのですから。

 こういう、現実にはつながっていない「つぎはぎ提言」、入山章栄氏の「複数次元のダイバーシティーを同時に導入しよう」という提言もそうなのですが、それが正しいかどうかは、その「つぎはぎ提言」を「多剤併用試験」として、新たに検証する必要があります。上手くいかない可能性が大ではないかと思います。

「質の高い先生」+「お金で釣る」でしたら、そのやり方で20年後まで収入が高かったか、また周囲の人間を潰すような行為をして複数人の総和でみると低収入になっていないか、そこまでみないといけません。
 わたしなどは、「お金で釣る」方式で育った子供さんが、将来犯罪者になる確率は普通より高いのではないか?ということを、本気で心配するほうです。

 そんなリスクのある教育を、実験できますか?

 経済学者という人種は、教育や実験の倫理的側面にあまり興味をもたないようです。わたしは多分それで、この本を読んだときイヤーな気分になりましたし第4章第5章を読んでも内容がなかなか頭に入らなかったのです。

 そんな極端なことをしなくても、今現場の先生方がおやりになっている優れた実践を「症例報告」として、エビデンスとして扱ったらいかがでしょうか。ランダム化比較試験は必ずしも必要ありません。



 以上がわたしからの「回答」です。

 この記事へのご意見、ご感想を歓迎いたします。是非、FBコメント、メッセージ、ブログコメントなどの形でお寄せください。

 
 きのう、美容院に行ってカットしてもらった25歳の美容師見習いさんは、入店5年目でした。シャンプーと掃除担当からいよいよお客さんのカットをできるように、今テスト準備を頑張っています。

「やめたいと思ったことはないですか?」
「ありますよー。シャンプーで肘の上までかぶれちゃったんです。こんな手でお客さんに触って申し訳ない…と落ち込んでいたら、お客さんが優しくて。
『頑張ってるね』
『手大丈夫?良くなった?』
『気にしないでいいのよ』
そんなふうに言ってもらうと、手治っちゃったんですよ」
「え、そういうので治っちゃうんですか」
「はい。あたしアホなんで、お客さんにほめてもらうと嬉しいんです」

ほめてもらえればうれしい、辞めないでいられる、皮膚も治っちゃう。なんと、いいご性格ですね。
そういうのが「頑張れる人」なんです。また、「周囲の人もハッピーにできる人」なんです。




正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 2016年1月14日現在、Googleで「学力の経済学 批判」で検索すると、本記事がトップページの上から2番目に出るようになっています。有難いことです。

※2017年1月5日追記:本日現在、「批判」をつけずに「学力の経済学」でGoogle検索しても、本記事がトップページに出てくるようになりました!全国の自治体や教委のドメインから多数のアクセスをいただいております。有難うございます!

 一昨年のベストセラー『「学力」の経済学』に疑問をもたれた良心的な読者の方々へ。当ブログでは、企業人向けの女性研修講師53歳が、子ども3人を公立学校で育て、、主宰するイベント「よのなかカフェ」で学級崩壊ほか教育問題をテーマに討論し、現役の優れた先生方にインタビューした経験を基に、『「学力」の経済学』のはらむ諸問題を真摯に考察しています。もしもあなたの心の琴線に触れるところがありましたら幸いです。


シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

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本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ごたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

「またあ?」とこのブログを愛してくださる、心ある読者の皆様の呆れ顔がみえるようですー
 
 ほんとうは、わたしももっと楽しい美しいことを読んだり語ったりしたい。 
 でも目の前に「悲劇」が口を開けて待っているとわかる時には、やはり自分の出来ることでベストを尽くしたいのです。
 その「わかる」のも、ほかでもないわたしのポジションだからわかるのかもしれない。


 今日のお話は、『「学力」の経済学』(以下、「中室本」と略)という本が後半部分で述べているわが国の教育政策への提言、これがどれほど恐ろしいものか、というお話をしたいと思います。

 2-3日前までのわたしと同様、この本を感覚的に「不愉快だ」と感じ、それゆえに「黙殺してよい」「まさかこんなことが実現するわけがない」と思っていた、良心的なわたしの友人の皆様。ぜひ、この恐ろしさを共有してください。そしてまた、これは論理的によく見ると破綻している、しかし役人が騙されていそうだ、ということも。
 
 大まかに言うとそこには、「教師も子供もカネで釣れ」という”思想”が流れています。しかしそれを実現した場合、どんなことが起きるのか?だれが責任をとるのか?

(2017年2月13日追記:
"カネで釣る"は何故ダメなのか?実はお金の存在を意識しただけで、人は利己的になり助け合わない、孤立主義的になるという知見があります。
こちらの記事の後半で詳しくご紹介しています

●『信頼はなぜ裏切られるのか』をよむ◆次爾カネのせいでウソをつく、ネットのせいでウソをつく、信頼を損なう4つの仕草
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952837.html

「第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?―科学的根拠(エビデンス)なき日本の教育政策」「第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?―日本の教育に欠けている教員の「質」という概念」での本書のロジックをまた、丁寧に追ってみたいと思います。


(なおお急ぎの方は、手っとり早く本記事への「回答編」を読みたい、と思われるかもしれません。
「回答編」はこちらです
本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』のもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!  )



 「少人数学級は費用対効果が低い」と「中室本」は言います。学級規模を35人から40人にすると削減できる費用は86億円なのだそうです。
 ここで紹介する知見は3つ、

1.米国の「スタープロジェクト」
−少人数学級(1学級当たり13-17人)と通常学級(同22-25人)を比較したところ、少人数学級の子供のほうが学力が高く、とりわけ学齢の低い子供、マイノリティである黒人、貧困家庭の子供に対する効果が高かった
2.ヘックマン教授らの少人数学級と子供の生涯収入の推計(結果は負の相関、学級定員を5人減らすと55〜77万円の減収)、
3.慶応大の赤林教授らの横浜市データを使った推計(学力の変化ほとんどなし)

 上記のうち、3.に関しては、学力変化がなかったのは自然実験であるため、(1)教材や教え方の工夫がなく(2)むしろ学力変化が生じないよう配慮した可能性がある(3)学力低下につながるような要因が作用し、少人数学級のメリットを相殺した可能性がある―でありデータとして依拠するに値しないことを、3つ前の記事「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判 」で述べさせていただきました。実は1.と2.にも似たような問題があるのではないだろうか?とわたしは思っています。

 「中室本」では、しかし、「少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの、他の政策と比較すると費用対効果は低い政策であることもまた明らかになっている」と言います。

 そして、より費用対効果(「コスパ」ですね)の高いやり方として、「教育の収益率」に関する情報を子供たちに知らせることを挙げています。つまり、「学歴が高いほうが年収が高い(=教育を受けることの経済的な価値)」ということを教えてあげると、他の「ロールモデルを見せる」などの介入よりも学力向上効果が高かった、というものです。要は、「教育を受けたほうが『儲かる』よ」と子供たちに教えてあげることです。
―さあ「カネで釣る」が出てきました―

 このあと「学力テストには学校教育の効果を測る意味はない」「都道府県別の結果も公立だけなのでバイアスが入っている。私学に多く通う東京都・神奈川県の場合残った公立校の成績をみると低く出る」などの議論は正論として、

 「少人数学級は貧困世帯の子供には効果が特に大きかったことが明らかになっています。」として、「少人数学級を全国の公立小学校の1年生「全員」を対象にするのでなく、就学援助を受けている子供が多い学校のみで導入すれば、大きな効果がみられたかもしれません」と”提言”します。

 次に、「いい先生」とはどんな先生なのか。教員の質を計測する方法として、「担当した子供の成績の変化」をみるという方法があり、この学力の変化を「付加価値」というそうです。

 ここで出てくるのがハーバード大学のチェティ教授らの研究。「全米の大都市圏の学校に通う100万人もの小・中学生のデータと納税者記録の過去20年分のデータを用いて、付加価値が教員の質の因果効果をとらえるのに、極めてバイアスの少ない方法であることを明らかにしました」。さらに、質の高い教員は、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めているということです。

 では、教員の質をどうやって高めるか。

 「成果主義」はどうか。あまり効果があがらなかったようです。「成果主義が教員の質の改善につながらない理由は、実のところよくわかっていません」と「中室本」はいいますが、ここは「つっこみどころ」が大いにありそうです。
 ところが、同じ成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究が紹介されています。ボーナスを「失う」という設定。最初に一定のボーナスを受け取るが、学年末に目標の付加価値を達成できなかった場合はそのボーナスを返還する。このグループは成績が上がったそうです。人間がいったん得たものを失うのは嫌だと思う気持ちを逆に利用して、教員の質を高めることに成功したと「中室本」では賞賛します。ハーバード大学のフライヤー教授の研究。

 読者の皆様、どう思われますか?「ええい、ボーナスを出すと言っても働かないのか!じゃあボーナスを取り上げてやる!」と、いかにも機械論が行くところまで行ったような、サディスティックな実験。
 先に「つっこみどころ」と言いましたが、そもそもこういう実験をする人は、学校の先生がなぜボーナスを約束してもパフォーマンスが上がらないのか、その理由を特定できていないのです。だからこんな、まさしく「人体実験」のようなことができる。
 いくら財政負担が少ないやり方だからといって、こんなやり方をされたのでは教師はひとたまりもないでしょう。すいません、このくだりを入力しながらわたし自身はちょっと涙が出てきています。

 たぶん、中室牧子氏の中にはこういう実験をみても「残酷だ。かわいそうだ」などという感情は動かないのです。なぜならこの人は元々経済畑の人で、「経済人」というモデルに慣れてしまっているので、そのモデルが正しいと証明するためにはどんな手段をとることもいとわないからです。
 
 このあと、「教員研修は教員の質に影響しなかった」という研究を紹介。(しかし、どういう内容の研修をどういうデザインでやったか、は言及なし。統計学者らが実験デザインにこだわるのと同様に、研修もデザインがダメであればどんないい内容でもダメ、という場合があるのですが)

 そして「中室本」が教員の質を高めるために「決定打」のように太字で推すのが、
 教員になるための参入障壁をなるべく低くする、つまり教員免許制度をなくしてしまう
 というやり方です。
 経済学者の間では教員免許の有無による教員の質の差はかなり小さいというのがコンセンサスなのだそうです。
 ―なぜここで「経済学者の間では」が出てくるんでしょうね…教育学者は出てこないんでしょうね…既得権益者だからでしょうかね…

 まとめると、「中室本」の「政策提言」とは、

1.少人数学級に「しない」
2.子供に未来のおカネの話をすると学力が上がる
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

 どうでしょう。
 対子供部分はこれに、第2章で出て来た「ほめ育てはしてはいけない」「お金のご褒美はあげてよい」も組み合わせると、
「子どもはおカネで釣って勉強させる。ほめるなどの精神的報酬は与えなくてよい」
という結論にもなります。また、
「クラスの人間関係を良くするなどの取組は学力向上に寄与しないので、しなくてもよい。おカネおカネで走らせればいい」
という結論にもなりそうです。

 はい、これらの提言や結論が「OK」だと思う方。



 わたしの予想では、このブログを続けて読んでくださっている方々は、こんなのはそもそも頭から信じないでしょうし、「まさか、こんなことを真に受ける人がいるわけないでしょ」と思われると思います。
 ところが、どうもそうではないのです。
 わたしたちが自然と共有している「常識」を全然共有しないまま、この本を読み、そして「数字で証明済みなことだけがやるに値することだ」と信じてしまう層の人がいるのです。主にアカデミズム、そして役人の中に。

(大きな声では言えませんが、かれらの中にASDはすごい高率で分布しています。基本的に対人不安が高くて、現場に足を運んで人と話すなんてしたくない、そこに「数字だけで判断すればいいですよ」という「中室本」の”主張”は、すごく魅力的です)

 そしてたちの悪いことに、「中室本」は「老婆」「お母さん/母親」などの言葉で、実体験を貶めてしまいます。また「米国の教育省は、落ちこぼれ防止法の中で、エビデンスとはランダム化比較試験に基づくものであると明言しています。」なんてことを太字で書き、「エピソードのシリーズ(医療で言う症例報告)」にも全然価値がないように言ってしまいます。
 
 そのルールは米国だけにしておいてください。どうせ教育省に同窓生でも送り込んだんでしょう、と思います。



 さて、「数字を持ってる女」中室牧子女史の言う通りの未来が出現してしまうのでしょうか。子供たちを精神的報酬を与えないままおカネで釣り、40人学級を変えないまま先生方を「カネ返して方式」のムチでしばき「学力がすべて」と学校をギスギスした空気にする。

 読者の皆様、それをお望みになりますか?

 「そんなの、イヤだ」と思われるなら、この”主張”にきちんと反論しなくちゃいけません。
 「数字に反論するなんてムリ」なんて思わないで。

 
 次回の記事は、「数字に弱い女」正田の「回答編」です。さあうまくいきますかどうか…。応援してくださいね!






シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 よたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。


「質の高い先生とは学力を高める先生だ」。

 このことに別に異存はありません。というのは、やはり4つ前の記事「優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 」で、登場していた「スーパー先生」たちは、例外なく学力を高めていたからです。

 問題は、冒頭のフレーズが、「では学校の先生は塾や予備校の先生のように、生活指導を一切せず教科の指導だけをやっていればいいのか?」という誤解を招きやすいことです。「中室本」には、そうした誤解を防ぐような記述は一切ありません。単に「そうした先生は10代の望まぬ妊娠を予防する」と書いてあるだけです。

 ほんとうは、「学力を上げる」は、「結果」にすぎなかった可能性があるのです。結果変数に至る途中経過、媒介変数のところをみないと、「学力を上げる先生」のやっていることの全体像はわからない可能性があるのです。ここでも「群盲象を撫でる」ですね。

 わたしのマネジャー教育も「10数年1位マネジャー輩出」と、やたら「業績向上」の結果が出てきてしまい鼻につくので、同じことかもしれません。ですが、「承認マネジャー」たちは、「業績を上げる」ことをそんなに強く目標として意識していないのです。というと語弊がありますが、彼(女)らは日々、「みんながいい顔で働いているか」ということに耳目をそばだて続けるのです。

 
 「教育」に関して具体的に言いますと、
 やはり上記の記事に出てきますが、「スーパー先生」たちは

1.ほめる叱るを上手く駆使して規範意識を高め、
2.ほめあいの活動などを通じて子供たちの人間関係を良くし、
3.仕事を任せてほめて自己効力感を高め、
4.小テストを課して実力を測り自己効力感を高める
5.音楽、ディベート、などの実習の中でも細かく評価し達成感を与える

ということをしていました。

 そこで学年初めなどに意識して行われていたのは、「規範維持」と「良好な人間関係」です。
 上記の記事にも出てきましたが、ある先生は学級びらきの日に
「先生はいじめは大嫌いです。皆さんがいじめをしたら、先生は体を張ってでも止めますよ」
と言われました。
 いじめをされないという安心感、次いでもう一段階上の良好な人間関係。
 「ある学校で道徳教育に取り組んだところ学力が上がった」という報道がありましたが、道徳教育も要は、人間関係を良くしいじめをなくすという意味で一緒なのです。
 「学力」に至る媒介変数としては、「規範意識の向上」「人間関係の向上」があります。

 そして、もう1つの媒介変数である「自己効力感」の取組み。「小テスト」「仕事を任せてほめる」「実習の中でも細かく評価」。ほかにも「やり抜く力」というのもあり得ますが、自己効力感の副産物と考えてもいいでしょう。

(なお、「学力が上がったことが将来の納税額の指標になる」これも、少し「カッコつき」で読みたいかな、と思います。
「学力が上がった→自己効力感が上がった→仕事でも頑張る人になった→納税額が上がった」という流れである可能性があるからです。つまり、「学力」はさらに次の「自己効力感」の媒介変数となった、という可能性。)
 

 閑話休題、あくまでわたしの感想ですが、優れた先生方は、これらの初期の「媒介変数」つまり途中経過に現れる変化のほうを、「小目標」として日々、意識しておられた気がします。上記の「承認マネジャー」たちと同様に、ですね。

 だから、「納税者をつくるのは学力かその他か」の論争には、あまり意味はないと思います。媒介変数のところを上げられる先生が、学力も上げる力量がある。媒介変数のところから学力までは、ほんのちょっとしたテクニックの問題であるような気がします。
 そして、いかに真面目な熱心な、「媒介変数の人間関係とか規範のところを良くしよう!」という意気込みに燃えた先生でも、その意欲だけでは効果が上がらないことがあります。まあそれはおおむね「承認」の問題でしょうね…。「肯定する構え」のない人だと、いくら意欲があっても空回りするはずです。

 
 「中室本」では、

1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ
2.少人数学級制は学力を上げない

(注:2.は1つ前の記事でみたようにそのように結論づけることはできない)

というエビデンスを並べ、そこから

「学級サイズはそのままで、先生の質を高めよう」

という提言をします。

 これが、先月にも似たようなものを見ました。「入山経営学エビデンスドヤ顔本」こと『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』でみた、「ダイバーシティー」の議論における「複数のデモグラフィーを同時に多様化するダイバーシティーをしよう」という提言、この提言が「つぎはぎ」であまり意味がないのと同じです。

 この提言は以前にみたように、

「現在ダイバーシティー経営を取り入れ業績が上がっている会社がそのような状態(すなわち、3つ以上のデモグラフィーが同時に存在している状態)だから」

ということを根拠に出ています。しかし、それらの企業も初期には一歩ずつダイバーシティーの幅を広げたであろうことを考えれば、現在その企業が上手くいっていることを、これからダイバーシティーを取り入れることの根拠にはできないのです。結局身の丈に合ったやり方で一歩一歩進め、研修なども併用しながら多様な人材に慣れていくしかないのです。

 
 「中室提言」も同じです。エビデンスからこういうことが言えるからこうしよう、というのは、やはり空中分解必至、の議論です。
 1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ のところにはそんなに問題ありませんが、
 2.の「少人数学級制」の結論が間違っているため、提言も成り立たないのです。

 すなわち、2.の学級定員のところを変えようとしない「中室提言」というのは、今40人学級で高いパフォーマンスを上げている「スーパー先生」のレベルにすべての教師がなる、ということを意味します。このことが「無理」なのは、「スーパー先生」の中に女性が極端に少ないことからもうかがわれます。

 一部に少数の「スーパー先生」がいらっしゃるにせよ、「みんながオリンピック選手になれ」と言っているようなもので、物理的に無理。そんなことはちょっと考えて常識でわからないといけません。

 「少人数学級制で学力が上がらない」というのは、1つ前の記事でみたように、「教え方や教材を工夫しないから学力が上がらない」。
 普通の先生方が発達障害の子供、スマホに気をとられている子供、LINEいじめで苦しんでいる子供、モンスターペアレント…に押し潰され疲れはてている時には、「教え方や教材を工夫しよう」と思うためにも、学級定数を減らして仕事のサイズ全体を適正化する必要があります。


 統計から言える提言、というのは、「カッコつき」で考えたほうがいいのです。わるいけど「なんちゃって提言」なのです。もともと「現場を知らない」から、中室氏らは2.の知見についての考察で「ン?おかしいな」と考えることをしなかった。そういう、「現場を知らない」がゆえの、思考の誤りがプロセスのあちこちに入りこんでいるようなものを、「個人的体験より価値がある」なんて喧伝されては、たまったものではありません。現場で格闘している先生方などのほうが、むしろ「思考の誤り」を生まない知恵をもっているものです。

1つ前の記事で見たように、統計の知見というのは、「一度に一個」のことしかわかりません。1つだけ変数を動かし、他の条件は変えないという形で行いますから。そこから生まれた知見を2-3組み合わせてできる提言というのは「つぎはぎ」になり、現場の人が知っている現実に有効そうな解の組み合わせとは違うものになってしまう可能性が多分にあるのです。



 わたし自身は、本当は元々北欧の教育がすきで、「デンマークの教育」に一時期熱中していた流れで「コーチング」に入った人間なので、「アメリカ」に依拠するのもそんなにすきではないのです。
 今はどうなのかわかりませんが、デンマークでは小学校段階は「道徳教育」「人格教育」に大きなウェートを置きます。良い人格を作り、意欲高く、他人への基本的信頼感高く育った子は、中学ぐらいからハードな勉強に耐えうるようになる。そして専門性を高め、進学していく。
わが国の「スーパー先生」たちは、結果的には40人学級の逆境の下で、デンマークに近い教育をしていたかもしれません。
 中室氏ら教育経済学者はアメリカ育ちなようなのですが、なぜ人格の共通点の少ない「アメリカ」をお手本にしないといけないんでしょうね。

 
 もうひとつ厳しいことを言いますが、上記の入山氏、中室氏とも、どうもアメリカのアカデミズムのわるいところを学んで帰ってきた人達なのではないか、と思います。
 「エビデンスであえて常識の逆張りのようなことを言ってドヤ顔」という、悪い行動パターン。
 
 「常識と違う」というのは、「現場の実感と食い違う」ということでもあります。普通の人なら、そこで
「ン?おかしいな。これは実験デザインに不備があったのかな」
あるいは、
「”統計特有の限界”を意味するのではないかな」
と考えるでしょう。
 ところが、入山氏中室氏は違います。
「どや!これが統計の凄いとこや!あんたらの『個人的体験』なんか価値のないものなんや」
ということを言う、「ネタ」に使ってしまうのです。
「統計そのものがダメなんじゃないか」という考え方は、絶対にしない。ASDの人のパターンよろしく、むきになって正当化します。
(「中室説」にはどうも、「同世代の研究者同士のごますり」も入っていそうです。ほかの研究者の導き出した結論を批判できない)

 中室氏によると、アメリカの教育政策も彼ら教育経済学者の言葉で動いているらしいのですが、恐らく、アメリカ教育経済学というのは、そういうヤクザの脅しのようなスタイルを「売り」にしてきたのではないでしょうか。中室氏などはそれの申し子なのではないでしょうか。


 中室氏自身の経歴をもうちょっと詳しく知りたい気がするのですが、あまりいい資料がありません。日本銀行に勤めていたとか世界銀行に勤めていたとかいう断片的な言葉がご本人からぽろぽろ出ます。もともと教育に興味のある人ではなかったのではないか。なぜ、それがあるとき「教育経済学」という分野に転向したのか。

 ひょっとしたら、とイヤな予感です。アメリカ帰りのスピーカー業の人によくあるんですが、何かの成功哲学にかぶれていて、「自分が世界を変える」とか「VIPになりたい」とかいう”宗教”に突き動かされていて、
「教育という分野では数字がわかると希少価値があるので、政策に関われるよ」
とききつけて、新しい分野である教育経済学を専攻したのではないか。たったそれだけのために何年もコロンビア大学で修業というのも立派といえば立派ですが、要は今のこの人のポジションは、強力な「自分マーケティング」の産物で、教育とか子供さんがたに愛情も何もないのではないか。

 で、「ASD説」のところでも書きましたが、わるいですけれどこの人の知性では本来大学の准教授とか政策提言をする立場になることはできないです。全体的な視野を欠いていますから。せいぜいシンクタンクの統計担当者ぐらいが適当です。人に迷惑を掛けないところでひっそり仕事していればよろしい。


正田佐与


シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

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中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判




 みたび、『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 ググってみるとわたしと似た「主張」をしている方がいらっしゃいました。

 http://garnet.cocolog-nifty.com/miya/2015/08/post-6a94.html

 
 こちらの方のほうが多くのポイントを載せていらっしゃいますし、エビデンスも豊富です。
 まあ、「中室本」っていくらでも反証を挙げられるんですね。
 これからもどんどんこういうのが出てきてほしい。

 さて、この記事の中から1つポイントを絞ってこちらでご紹介したいのは、「少人数学級制」についての話題です。

 4. 少人数制でも学力は上がらない ×
 これはAkabayashi&Nakamura(2014)という文献が根拠です.原著は6ドル払わないと読めませんが,著者による解説が
http://synodos.jp/education/12530
 で読めます.本書でも述べられていますが,研究方法の基本は,40人クラスと,転勤等による人数増で偶然20人2クラスに分かれた場合で,差を統計的に比較するというものです.教育現場の対応としては,偶然2クラスに分かれてしまっても,急に教材や授業内容を大幅に変えて少人数制用にしているとは考えられません.40人クラスのときと20人のときで,同じ教材を使って同じような授業をしたら,学力の向上がそんなに変わらない,というのは当然です.たまたま20人になったクラスと,40人になったクラスで学力差がついてしまっては,保護者から批判の的になってしまいますから,むしろ,人数差の影響がでにくくなるように努力するかもしれません.
 少人数制の方が教育効果が高いと評価されているのは,40人では使えないが,20人ならできるよりよい授業方法や教材が使えるからです.これは,PISA調査の結果を使った国際比較でも確認されています.こんなことで,少人数制はお金の無駄というような教育政策を決められたのでは教育現場はたまりません.(太字正田)


 これ、まったくその通りと思います。読者の皆様、いかがですか。

 この「赤林研究」は「自然実験」といわれるものです。実験用に作ったのではなく、自然にランダム化比較試験に近い状況ができたのを利用してデータを調査したものです。「赤林研究」が扱った「少人数学級」のシチュエーションとはどういうものだったかというと、
 例えば、ある学校の3年生が1組2組3組まであり、各40人ずついた。そこへ、夏休みに転校生が1人入ったので、3組が41人になり、3組だけを2学期から21人と20人の2クラスに分けることになった。
 こういう場合の「旧3組」である3組と4組の成績がそれまでより上がったか?というものです。

 読者の皆様、これ、上がると思いますか?
 まず、「担任交代」があります。新たにできた「20人クラス」である3組と4組のうち3組は以前の担任がスライドするかもしれないけれど、4組は「担任交代」となります。学年の途中で担任が替わるというのは、それだけで子供たちにとっては落ち着かない要因になります。1学期の状態に逆戻りです。

 加うるに、わたしが校長の立場だったら、急遽余分にできたクラスである4組の担任には、非正規の産休補助の先生か、学校内で「無任所」だった、鬱休職明けの先生、あるいは指導力がないことがわかっている先生、などを充てるでしょうね。その学校の「エース」のような優秀な先生を充てることはないと思います。

 ですので、教え方の工夫をしない、特別な教材を使わないのに加えて、むしろ成績が「下がる」方向に働く要因があり、それがせっかくの20人学級のメリットを相殺してしまった可能性があるのです。


 要するに、「中室本」の「赤林研究」のエビデンスからいえることは、

「少人数学級にしても教え方や教材の工夫がなければ学力は上がらない」

ということだけです。

「少人数学級にしても学力は上がらない」
と言ってしまうとそれは言い過ぎになり、「×」になります。拡大解釈です。
 是非、高校の時の国語の先生のところに行って小論文として採点してもらってください、中室先生。

 なんで、「政策提言」と大見得をきった人の本をこんなに全部「裏読み」しないといけないんでしょうか。
 この人を生んだアメリカのアカデミズムがそもそも間違ってるんじゃないでしょうか。
 オボカタさんもハーバード行ってましたしね。
 最近、アメリカで本を書く女性学者さんって妙に「美形」が多いですよね。スタンフォードの意志力の先生とかね。あれ、気になってたんです。

 美形だと博士号をとったり教授になりやすい、甘々の世界なんじゃないでしょうか。


 わが国でも、大竹文雄氏、竹中平蔵氏といった錚々たる学者たちがこの女性学者さんに肩入れしてらっしゃるようですが、あなたらこんな単純なミスを読み取れないで、「下半身」でもの考えてる人、決定ですね。惑わされましたね。

 それは余談ですが、

 正田は3つ前の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場をいかにして良くするかの試論)で、「少人数学級にしたうえで承認や個別面談など個に向き合うアプローチをし、先生の相互学習も推進する」という提言をしていますが、
 少人数学級にするのは、「次の一手」をするためなんです。これって、実社会ではふつうのことです。

 統計というのは、1つの変数だけを変え、ほかは一切変えないという原則がありますから、逆に統計で測れることには元々限界があるんです。統計の専門家であればあるほど、そういう限界もある、ということを誠意をもって社会に示さないといけません。


 わたしたちの社会の未来をこんないい加減な本に決められてはいけません。


 科学と目の前の現象との乖離について、1月1日の記事に書いた中国の故事、「群盲象を撫でる」についての文章を再掲します:

 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。






正田佐与
 

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 物議をかもしそうなタイトルをあえてつけてしまいましたが、このブログの長い読者の方からみるとむしろ「自然」な結論ではないかと思います。

 わたしもきのうの記事(月刊人事マネジメント連載 部下の凸凹を包んで戦力化する)を入力していて気がつきました。別に悪意でもなんでもありません、「ASD」「発達障害」という言葉も別に差別語ではないですし。

 昨日の記事の中から、「ASD(自閉症スペクトラム障害)」について書いたところを抜き出しますね。

 またASDは、全人口の1〜2%(最新の報告では4%)を占めるとされ、「こだわりが強い、固定観念が強い」「他人の気持ちに想像力が働かない」「変化、変更が苦手」「ごく狭い範囲の仕事にしか関心がない」などがあります。


 中室氏を昨年一気にスターダムに上らせた著書、『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の中の記述の1つ1つ、またロジックの1つ1つに、「これだけIQが高くてかつ定型発達の人だったらまずやらない」と思われるような、間違いや雑な(荒っぽい)記述があります。


1.1月1日の記事に取り上げたように、「ほめ育てはしてはいけない」と本の冒頭で言いきっているが、中身をみると論理が破綻している。結論ありきで、データは単に並べてみただけ。こういうのは「エビデンス詐欺」とでも言うレベルで、学者として信頼するに値しません。

2.「老婆の個人的体験」という言葉を統計学の西内正啓氏の引用ではあるが、何の疑いもなく言ってしまっている。「脳科学おばあちゃん」の久保田カヨ子氏のことだと思いますが。「老婆」って普通言わないでしょう、中室氏は40歳でかなり美形の方であるのは認めますが。

3.本当は、エビデンスの中にも「エピソード(のシリーズ)」は含まれるので、現場の個別の情報をないがしろにしていいわけではないのです。(Wikiの「根拠のある医療」の項参照)中室氏はそうしたことは一切言わないし、「老婆」「お母さん/母親」などという言葉で貶めるので、エピソードを語ることは恥ずかしいことだ、という思い込みを読者に作らせていなかったろうか。
(注:「一切言わない」は言い過ぎでした。この本の「補論」のところに、Wikiにもあるようなエビデンスの階層表を載せ、その中に「症例報告」というのも入っています。ただ、多分この人自身、「症例報告」の意味が分かってなかったのではないでしょうか)

このほかにも、

4.親を読者対象にした第2章は全体に記述が雑。1.にみるような、エビデンスと結論のフレーズのつながりが悪い例がほかにもみられ、「親をばかにしているのだろうか、この人は」と思う。逆に他の専門家、政策担当者を読者として想定した章はみたところ慎重かつ丁寧な筆運び。専門家筋からこの本が評価が高いのも頷ける。そうした、人としては不愉快な二面性も、権威にすがることが大好きな一部のASDの人の特徴を想起させる。


5.Amazonレビューのコメント欄に中室氏自身とみられる「カスタマー」名のコメントが頻繁に出てくるのだが、3.と同様、「目の前の子供さんなど現場の個別情報」を軽視し、「統計が出した結論通りに対処するのが正しい」とむきになって言い張っていた。上記のWikiのページにも、「エビデンスがいくらあっても目の前の個々の患者をみなければならない」ということは明記されているのだが。こういう人は学問をする資格も政策提言をする資格もないのではないだろうか。

・・・

 いかがでしょうか。
 このブログの長い読者の方はご存知と思いますが、わたしはもともと女性のことは応援したい方です。せっかく頭角を表した女性学者さんを貶めたいなどは、本来つゆほども思わない人間です。

 しかし、この中室氏の言動はいただけない。
 「ほめる否定」ひとつをとっても、それが現場と子供さん方をどれだけ不幸にするか、想像力が働いていない。

 で、わずかこれらの証拠だけをとっても、この人がASDである可能性は高いだろうと思います。コダワリが強く、固定観念が強いので、「エビデンス=統計データ、≠エピソード」というような記述をしてしまう。また自分が「ほめる」を嫌いなので、それを正当化するためにめちゃくちゃな論理構成をしてしまう。他人の気持ちが想像できない(ただデマゴーグ的な才能は割とあるようだ)。現場情報を軽視するのは、興味の範囲が狭いから。

 統計というのは、その専門の方に失礼な言い方をしてしまいますが、「数字遊び」のようなところがあります。数字が好きな方だったら、飽きずに何時間でも何日でもその世界に浸っていられる。で、ASDの傾向のある人に数学的才能のある人も多いですから、そこにのめり込むことも自然です。
 ただし、統計は価値のあるものですが、あくまで手段でしかないのです。目的ではないのです。目的は、目の前の状況に最適解を出していくことです。


 ASDだということがわるいわけではありません。ASDを含む発達障害の人が普通に就労機会が与えられるように、ということをわたしも願って、このブログで一貫して記事を書いてきました。
 しかしそれとは別に、思考能力の一部に重大な欠損をもったASDの人が、沢山の人の幸せに関わるようなポストにつくことは正しいか?という問題はあります。
 企業なら、マネジャーに昇格させることは正しいか?また中室氏のように、「政策提言」それも教育という、沢山の子供さんの幸せに関わる政策提言をする立場になることは正しいか?

―他社さんの宣伝をするようで恐縮ですが、「インバスケット研修」をすると、上記のような「思考の一部情報への固着傾向、i.e.くっつきやすくはがれにくい傾向」のある人はある程度スクリーニングできます。ただしインバスケット傾向も、「決断過多」のリーダーをつくってしまう危険性はあります。また人によっては、インバスケット研修について膨大な予習をして、高得点をとることができるようです。

彼女がもし社会に対して誠実でありたいなら、診断を受け結果を公表し、

「私はこういう障害を持っていてそのために大事なことをよく見落とすことがある。現実の子供や子育てには興味は全くない」

と、きちっと公表したほうがいいと思います。子育て経験がないことを、「エビデンスのほうが大事だから子育てする必要はない」って正当化しちゃいけません。ASDの知能の高い方は、よくむきになって自己正当化をやりますね。

また、「承認」の講師として実感を込めていいますが、ASDの人は一般に「承認/ほめる」を苦手とします。気の毒なことですが感覚過敏なので、通常よりはるかに大量の「不快感情」を持って生きているからです。
中室氏は、「私自身人をほめることが苦手です。ですからこの件について語れる資格はありません」と、正直に認めたほうがよいのです。そういう謙虚な姿勢があれば、障害を持った学者として認知されても、信頼されて仕事していくことができるでしょう。


 彼女の出世作である本をぱっと読んだだけでも(多くの人は気づかなかったようだが)上記のような見落とし、間違いがあったわけです。
 専門家・政策担当者向けの章については、わたしは正直、ささっとしか読んでいないのですが、ここにも親向けのパートのように、恣意的なエビデンスの選択、並べ方、無理のある結論の出し方、が隠れている危険性はあります。書き方みこそ比較的丁寧でしたが。だからわたしはあんまりまじめには読めませんでした。鵜呑みにするととんでもないことが起こるな、という感じでした。
 そういうのは是非、ほかの教育経済学者さんが出てきてじっくり検証していただきたいと思います。この人以外の教育経済学者さんのご意見が是非ききたいです。

 ひょっとしたら、中室氏は「教育経済学界のオボカタ嬢」のような存在なのではないですかねえ…。


正田佐与

 
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

http://c-c-a.blog.jp/archives/51932847.html" target="_blank" title="">「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判
「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 引き続き体調不良ぎみです。

 このところの読書から思い切って離れて、わたしが3人の子育てを通して「学校の先生」をみてきた体験と、よのなかカフェで「教育」をテーマにしたり関連で何人かの優れた先生方にインタビューした経験にもとづいて、(はい、「老婆の個人的体験」です笑)思うところ考えるところを書いてみたいと思います。


 変に数字をみていると大事な直感のはたらきが悪くなってしまいそうです。免疫は既に害してしまいました(笑)


****

 わたしは子供たちから担任の先生の話を聴くのがすきでした。先生の力量によって、子供たちのモチベーションも学力も見事に左右されました。優れた先生に持っていただいたときの子供は、言うことがしっかりし、自律的になり、学業にも身が入ります。勉強のおもしろさに目を開かされるようです。
 また人間関係の悩みが激減しているようだ、というのも感じました。子供の話からその手の愚痴がなくなりました。
 
 後年、子供たちを持っていただいた優れた先生方にインタビューさせていただきました。2012年5月、「学級崩壊」を扱ったよのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催準備のためです(肩書は当時)


◆「公平」は絶対的に大事なもの。しかしむずかしいもの―神戸市青少年補導センター・井上顕先生

http://c-c-a.blog.jp/archives/51802377.html

◆子どもには仕事を任せる。一線を超えたら叱る。人を傷つけたら叱る―吉森道保先生(渦が森小学校教頭)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51803263.html


 それぞれ、大変おもしろいお話をしてくださっています。両先生とも、「ほめる」を上手く使い、「ほめる叱る」のメリハリをはっきりつける方でした。井上先生はそれに加えて小テストをこまめにされ、これも「行動理論的」に、子供たちが自分の実力を計測できるようにしていました。吉森先生はまた、「仕事を任せる」という、これも「承認」の一形態を効果的に使われ、任せた仕事をやりとげるとしっかりほめてあげる、を繰り返すことで問題のあったお子さんもどんどん能動的自律的、責任感のあるお子さんになっていきました。

 こういう、数字には表れなくても結果を出す優れた先生のされることは大体共通項があり、「ほめる」「承認」は欠かせないものです。

 その後は、フェイスブックのひょんなご縁から千葉県船橋市の小学校の先生、城ケ崎滋雄先生の実践を見学させていただきその後インタビューもさせていただきました。大変楽しい経験でした。

◆褒めること聞くこと、記録、スピード、歌声・・・城ヶ崎先生クラス訪問記 (2013年2月)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51846161.html

(城ケ崎先生―正田の対談はこちらから。全13回シリーズの、ちょっとオタクな会話です)
◆城ヶ崎×正田対談(1)メンバーの個性をどうつかむか

http://c-c-a.blog.jp/archives/51853434.html 

 
 こうして、あくまで「エピソード」として積み上げたものではありますが、優秀な先生の行動様式にはかならず共通項があります(エピソードのシリーズも「エビデンス」の1つです。"中室エビデンスおばあちゃん本"を読むと、うっかり「統計のデータでないとエビデンスと言わないのか?と錯覚してしまいそうですが…)。
 …そういう、ちょっと現場のことをかじった程度のわたしが知っていることを、「ほめ育てはしてはいけない」「教育経済学」の某女性学者さんはなぜご存知ないのでしょうね…このままではとんでもない悲劇が起こりますね、もし彼女の言う通りに現場が動いてしまったら…

 
 ただし。
 あくまでわたしの「感触」のようなものですが、井上先生や吉森先生や城ケ崎先生のような「スーパー先生」は、出てもせいぜい10人に1人ぐらいです。
 残念ながら一般企業にも、「マネジャーになる人、そうでない人」というのがいらっしゃると思います。それと同じぐらいの確率だといえばいいのか…。
 個体としての「強さ」が違うんです。やっぱり頑健な方、となりますね。城ケ崎先生は陸上の先生で、武術家で、毎日プールで泳いでいらっしゃいました。かつ、強い軸をもち、正義感、責任感、人に向かっていく強さ、それに教えるスキル、コミュニケーションスキル、など総合して優れた方。男性が多いのは、恐らく家事育児を負担していると時間的体力的に難しい仕事だからでしょうか、残念なことに。

 で、そのラインまで届かない人はどうなるか。今の35人とか40人学級のもとでは、下手にまじめだと壊れて脱落していくか、生き残ろうと思えば、やや「半身」で仕事をするか、に分かれることになると思います。スーパー先生とそれ以外の先生の差がどんどん開いていきます。

 その状況をどうしたらいいのか。
 ここからはあくまで試論です。

 わたしは、多めにみてもざくっと「10人に1人」ぐらいしか出現しない一部の「スーパー先生」にみんながなることを期待するのではなく、もう少し普通の体力、資質の先生でも(だって一般企業のサラリーマンだってそうなんですから)勤まるような仕事にしていく必要があると思います。
 そこでまた「学級定員は」という話になりますが、このところの記事で繰り返し出るように、「スマホ(LINE)の登場」「発達障害の急増」という要素が、子供〜若者の世界を激変させています。かつてなく彼らと心を通じ合わせることがむずかしくなっています。
 それに対して、「承認/ほめる」「個人面談」「思い切った少人数ゼミ/部署」といったやり方が、大学〜社会人の世界では功を奏しているわけで、それらの組み合わせで初めてこの難しい時代のフィルターを飛び越えて若い人のこころと接続できるのです。そんなことは、もちろんエビデンスも必要ですが、エビデンスが間に合わなくても早急に考慮すべきでしょう。

 そのうえで、「スーパー先生」から周囲の先生が学べるようにする。こまめに経験交流をする。学習する組織にする。ここでマネジメントの人の役割は大事です。
 過去によのなかカフェで出たように
◆マニュアル思考×同僚に教え同僚から学ぶ気風―よのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催しました (2012年5月)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51804206.html  
 先生方の世界の「学び合わない」気風は深刻なのです。このとき出席されたスーパー先生の1人、「学級崩壊お助けマン」の間森誉司先生は、「若い先生がぼくから学ぼうとしない」とぼやいていました。上の城ケ崎先生も、「若い先生はぼくの授業を見ても、ほんの表面しか見てないんですよね」と嘆いていました。

 「先生の質の向上」を語るにあたって、「教職大学院」が話題になりますが、わたしは大学院の2年間が優れた先生をつくるとは思えません。仕事の実務の中でつねに現実から学び、内省し、また外にも目を向けて情報を集め…、その繰り返しが優れた働き手をつくります。それはどの仕事でもそうだろうと思います。
上記の、井上先生吉森先生城ヶ崎先生間森先生とも、大学院で学んだわけではありません。吉森先生は、「先生はいじめは許しません。体を張ってでも止めますよ」と言われるほど、いじめについて毅然とした態度をとった方でしたが、それは「最初からそうだったわけではなく仕事上の経験、人生経験を通じてそういうスタイルになった」ということをおっしゃいました。そうした「経験知」を質量ともによりよく蓄積していくためには、対話を通じて言語化し、内省し、また同僚と経験交流することが大きな役割を果たすのです。

 だから、「経験交流」をファシリテートする役割を、マネジメントは果たしていただきたい。以前「マネジャーズ・カフェ」といってミンツバーグの「リフレクション・ラウンドテーブル」に「承認」を組み合わせたようなものをやったことがあります。週1回45分程度、マネジャー同士が対話を通じて経験交流をするもの。先生同士でも有効だろうと思います。またもちろん授業の相互見学もどんどんしていただきたい。
 そして「現実を直視し、内省する」そういう人材をつくるためにマネジメントがどうアプローチするのが正しいのか?
 「学ばない気風」を改めるため、自我のバリアを外して周囲を信頼し、周囲から素直に学ぶ人材をつくるためにマネジメントはどうアプローチするべきか?
 このブログを続けてみられている方は、もうおわかりですね。

 まとめると、
1.学級定員を妥当なところまで減らす
(目的は、「普通の先生」でも努力すれば「スーパー先生」に近いことができるような環境を作る)
2.承認、個別面談など個々のお子さんに向き合うアプローチをする
3.教員同士の経験交流を促す対話、見学などをする

 ”中室説”では、2.とか3.を全然やらなかったので、せっかく1.をやっても「宝の持ち腐れ」だった可能性があるんですね。
 (この内容を支持するブログ記事を3つ後の記事でご紹介しています)



 このほかに『「学力」の経済学』にもちらっと出ていたような、「有資格者でない先生も任用する」というのも組み合わせてもいいと思いますが。

 
 あんまりまとまっていませんが、気分がふさぐので少しでも「前向き」なことを書きたかったものですから。


追記:

 上記の話とどう組み合わせていいかわからなかったのであとで追加することになってしまいましたが、ドイツのように、中学生ごろから「職業訓練校」の選択肢をつくる、ということも考慮されたらよいのではと思います。
 「労働」は人に誇りを与えます。学業に身が入らないお子さんも、中学高校大学まで我慢してお勉強の学校に通うより、仕事の実習プログラムを多く含む学校に早くから行ったほうが、そこで自分の誇りの源泉を見つけられるかもしれません。
 また「個人的経験」ですが、わたしの3人の子のうち2人は高校で普通科に行きませんでした。それぞれ、「美術科」「国際経済科」に行きました。(あとの方は残念ながら普通科に統合されて、今はありません)
 美術科に行った子は、「あたし、プロの芸術家になるほど才能はないのはわかってるの。でも今は、思い切り美術をしたいの。大学は普通の大学に行くかもしれない」と入学時に言い、実際にそうなりました。ある年齢のとき専門性のあることに打ち込みたい、そういう選択の仕方もあるのか、と思いました。
 国際経済科は、これも地域で特殊な立ち位置の学科でしたが、簿記やタイピング、英検など細かい実技の検定を受検させ、自信をつけさせます。3年までに全商と日商両方で簿記一級をとる子もいました。企業見学にも行きます。社会人の面白い取り組みの人、経営者さんなどを呼んで話をしてもらいます。熱心な先生方のもとで、入学時には成績「中」ぐらいだった子供たちが卒業時には有名大学に受かっていきます。「仕事の現場」をつねにイメージさせながら教育を施すことが、子供たちのモチベーションを刺激します。
 子供たちは、案外「仕事」がすきなのではないかと思います。昔の日本人が丁稚奉公で、小学生年齢から奉公に上がり仕事の中で勉強をさせてもらったというのも、わるくなかったのではないかと思います。
 
 
正田佐与

※この記事はその後、シリーズ化しました。『「学力」の経済学』のはらむ問題点、欺瞞、もたらす恐ろしい未来を多角的に丁寧に、だれにでもわかるようにご説明し、「正しい処方箋」を提示しています。
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判


『学力の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年6月)。

 昨年の出版当時から違和感を禁じえなかった本でしたが当時はわたしがパワー不足で記事化するに至りませんでした。新年早々「批判記事」になってしまいましたがお許しください。


 またもや「ほめてはいけない」論。しかし、よくみるとこの人自身の論理が完全に破たんしています。近年こういう雑で不正確な議論が多いのだが、慶大准教授とかコロンビア大学大学院とかご立派な肩書をつけているにもかかわらず、「高校の小論文からやり直してきてください」というレベル。女性の悪口はあまり言いたくないのだが、「くれぐれもこの人の肩書にダマされないように」と声を大にして言いたい。その論理の部分はこの記事の後半でじっくりご紹介しますので、この人が正しいかわたしが正しいか、お時間のある方は見比べてくださいね。

 ごめん、あたしヒューリスティックとかの認知科学のエビデンス満載の本を読み慣れてるんで、いかにエビデンス満載でも論理がおかしいものはすぐ気がつくんですよ。

 「教育にエビデンスを」。
 この主張自体は、企業研修に統計調査を併用することをお願いしているわたしも賛成です。ただ、暮れの広井良典教授との対話にあったように、また経営学でもみたように、エビデンスをとったらとったで、EQの低い人々は極めて部分的な知見についてエビデンスをとって振りかざす傾向があります。下手にそれをきいて現場の意志決定に反映させるととんでもなく間違ってしまうことがあるので要注意です。
 
 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。

 「舌鋒鋭い人」のことをわたしも言えなくなってきましたが。

 で、中室氏は慶応大学准教授、教育経済学者。このところ「教育にエビデンスを」という話題になると必ず引き合いに出されます。コロンビア大学で博士号を取り、沢山のエビデンスを引用しながら語る方ですが、でもこの方の“主張”にもわたしは「ン?」となってしまうのは、例えば教員定数削減が是か非かという議論のときに、「教員定数を増やす(=少人数学級制にする)ことの目的は学力を上げることですよね」と、なんの疑いもなく言ってしまうところです。

 えっと、そうじゃないでしょ。とわたしなどは思います。学力も上げたいが、それ以外のところのメリットを大いにみないといけないでしょ。まず、「学力」については遅咲きの子がいるので、小学校ぐらいの段階では先生の働きかけによって伸びる子伸びない子がいること。

 そして大きいのはメンタル面です。いじめによって失われるコストがどれほど大きいか。いじめ被害によって受けたダメージはトラウマになり、その人の生涯にわたってメンタルヘルス、対人信頼感に影響を与え続ける、という研究があります。今、LINEの登場で容易にいじめ・いじめられ関係が生まれるんですが、そちらには中室氏は恐らく全然関心がないようです。だから、「研究によってこういうことが証明されています」といくら学者さんが言っても、単にあなたがほかのことに関心がなかっただけでしょ、という見方もできるのです。意欲の喪失、人に対する信頼感の喪失。こういうことを「コスト」と認識できないのだろうか。小さい時の学力がどうより、そちらのほうが、大人になって「よい企業戦士」になれるか、「納税者」になれるか、ということに関わってきます。

 大体、わたしが企業研修をさせていただくときお客様にお願いする1クラスの人数というのはここでは言えないような超・少人数です。40人とか35人なんてあり得ません。そのへんだと、5人ぐらい減らしても一緒。経験的に閾値があって、「この人数設定にしないといい学習効果を生まない」ということが、年の功でわかってきましたので確信をもってお願いしています。そこは厳密にエビデンスをとっているのではないが、「技術屋の勘」ですね。また、1人のマネジャーが部下をちゃんと育成指導も含めてみれるのは7人ぐらいが限界、このあたりは心あるマネジメントの人とは共通認識です。

 それからすると、今の40人とか35人学級でやっている先生方はお気の毒としか言えません。壊れていくのも当たり前です。 


 まあ、『学力の経済学』に戻ります。この本には
「子どもはほめ育てしては『いけない』」という項があります。わたしはここに非常に引っかかりをもちました。引用している知見には特に問題はありません。問題は中室氏の「書き方」のほうなのです。

 ここでは、

「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これも、私が友人からよく受ける相談です。

という書き出しで始まります。中室氏はここからほめ育てを推奨している育児書を読んでみると、
「ほめて育てると自尊心が高まる」
という意味のことが書いてあり、ここから、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
は成立するか?という中室氏の問いになります。ところが、過去の研究から導かれた知見は:
 自尊心が高まれば、子どもたちを社会的なリスクから遠ざけることができるという有力な科学的根拠はほとんど示されなかった。
 学力が高いという「原因」が、自尊心が高いという「結果」をもたらしているのだと結論づけたのです。
 このあたりは太字表示され、世の常識を破ったことに、中室氏のドヤ顔が伺われます。
 
 えー。ぽりぽり。
 ここまでの記述、受講生及び『行動承認』読者の皆様はいかがですか。
 よそさんのことは知りませんが、少なくともあたしの「承認研修」では、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
という論理構築はしておりません。しているのは、
良い行動を(行動理論的に直後に)ほめる/承認する⇒その行動を繰り返す、自律的になる⇒仕事ができる人になる
という論理構築です。で、やっていただくと大体この通りになります。

 というわけで「中室説」に浮足立ちませんように。やっている論理構築が違いますから、中室氏の指摘はうちには当てはまりません。もともと正田は「ナルシシズム」に対して警戒感が強いのでー、「自尊心が高まる」は中室氏の言うように、仕事ができる人になったから結果としてそうなったと思います。行動したか、しなかったか、その行動が正しかったか。そういう現実に揉まれる中で身の丈にあった自尊心を持てばよいのです。
 
 次に、中室氏が紹介したのは、「あなたはやればできるのよ」という「ほめ言葉」を伝えて自尊心を高めた学生がテストの成績が良くなったかどうか、という研究。結果としては良くなりませんでした。

 これも、まず「やればできる」というのを「ほめ言葉」と言えるのか、というのがあります。何の根拠もないですやん。単なる期待というか妄想というか、ですやん。近頃は「YDK(やればできる子)」という言葉まであるそうですが、これって上げているようで落としてますよね。「行動承認」的にはもちろん、あり得ません。

 それを言われて、学生の側が自尊心が本当に高まったのかどうか、もクエスチョンです。
まあ、高まったかどうかは「うち」的にはどうでもよろしいのですが。
 
 このあとは本書では、「能力をほめる」のと「努力をほめる」のとどちらがいいか?という研究を紹介します。はい、これは以前別の本の読書日記で出てきましたね。言い古されてますが、あとの方です。ここでも「行動承認」をやってくだされば、問題はありません。

 …で。
 最初の、中室氏が友人から受けるという質問。
「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これへの応答として、中室氏は本書で言っているのは
(1) 自尊心を高めても成績は良くならない
(2) 能力をほめるのは×、努力をほめるのは〇
です。この答え方、どう思いますか?

 「努力をほめるのは〇だよ」
 常識的で親切なあなただったら、お友達にそう答えるんじゃないですか?

 わたしなら、
「ほめるというと中にはダメなほめ方があるのでお勧めできないが、わたしどもで『行動承認』と呼んでいるやり方なら問題が起きず、いい結果になります。むしろこちらはやらないと損なぐらいです。是非おやりになってください」
と答えるでしょうね。
 子供でも親でもそこは一緒なんです。「〇×をしてはダメ」という「禁止」のメッセージばかり与えられると、何をしていいかわからなくなり萎縮して何もしなくなってしまうんです。
「〇〇をやってください」
と、「肯定語」ではっきりしたメッセージを伝えてあげることが大事。

 学問的に正しくあろうと、ああでもないこうでもないと言いたくなる気持ちはわかりますが、いやしくも教育にたずさわる立場の人なら、相手が子供であれ親であれ、混乱させないようなメッセージを伝えてあげてください。中室先生、あなたの生徒さん、成績大丈夫ですか。あたしは正直言って、中室先生に指導教官になっていただきたくありません。

 正田が「行動承認」という限定的な言葉を使っているのは、忙しい受講生様方に無用の混乱を招かないように、という配慮で言っています。わたしの生徒さんがどんどん「1位」になる理由、おわかりいただけますかしら。

 どうも、先日の「アドラー心理学」の件以来思っているんですけど、多少本を読むようなお利口さんの方々というのは、「…してはいけない」というメッセージに弱いのではないかという印象があります。上から、「ガッ」と言われると嬉しくなってしまう、「ああ、偉い人に言ってもらえた」と思って。「M」ですね。お利口さん層を嬉しがらせるフレーズなのではないかと思います、「…してはいけない」というのは。(ストレングスファインダーでいうと何の持ち主かなー、というのは大体想像つくんですが)

 そういうおバカな人はほっておいて、わたしの研修を受ける本当にこころが賢い人は、素直に「〇〇してください」というメッセージを受け取っていただけることと思います。仕事上の指示って大体そういうものでしょ?

 そして上記のように「ほめる」に関して「是々非々」の知見が出ているにもかかわらず、中室氏は「ほめ育てはしてはいけない」と逆張りっぽく、本書の冒頭で言い切ってしまっています。ミスリーディングですね。そこの部分だけ読んで早とちりして「そうなんだ、いけないんだ」と思っちゃう人が、先生にも親御さんにも出てくる可能性があるのでイヤーな気分になります。親に褒めてもらえない子供さんが増える。そういう自分の言ったことの結果について想像力が働いていないのではないか、この人は。先日の経営学のエビデンス坊や、入山章栄氏と一緒ですね。

 少し丁寧に中室氏の論法をたどってきましたが、ここは誰の目にも明らかに論理の飛躍があります。わたしの想像では、ここは中室氏自身のバイアスが入っています。おそらくこの女性学者さんは、「ほめて育てる」ことをご自身が苦手とされてるんです。学者さんにそういう人格の人は実は多いですね。それをなんとか正当化したいので、自分の都合のいい知見を並べ飛躍のあるロジックを展開してしまっています。

 本当は、上に「是々非々」と書きましたけれど、行動理論的に正しい褒め方をして成果が上がったエビデンスなんて、心理学の方には山のようにあるはずですよ。わたしの恩師の一人、武田建氏なんかはアメフトの行動理論で全国7連覇しちゃってますからね。こういう常識的なエビデンスのほうをもっと見た方がいいです。彼女の選び出したエビデンスがそもそも偏っていると思います。本当は、(行動理論的な)「ほめる」と「ほめない」は、1970年代ぐらいからとっくに決着のついている問題なんです。中室氏の個人的な負け惜しみに耳を貸しちゃいけません。

 要は、この人は「エビデンスだけは使っているが、考察部分と結論は×」なんです。ぜひ、高校の小論文をみる教諭になったつもりでこの人の文章を読んでみてください。たぶんほかにも色々な部分で「眉唾」だろうと思います。エリートコースを歩んできて世の中をなめてるんじゃないでしょうか。



 中室氏は本書のあとのほうでは、教員の「質」の問題を言っていますが、そこで「研修」は無効、ということも言っています。それでまた、「研修屋」としては、「ちょっと待ってよ」と思います。

 というのは、教委などで企画する「教員研修」って、やっぱり50人とか100人単位の「マス」の研修が多いんです。大教室での「マス」の講義が、どれほど学び手に「自分なんか、いてもいなくても同じだ」という「承認欠如」の気分を味わわせるか、というのは2つ前の記事(「わざの教育、自我の確立と自我からの解放―『スピリチュアリティと教育』をよむ」)に出てきました。大学生でそうなのですから大人でももっとそうだと思います。

 そういう、研修事務局に「研修とはこういうもの、だって過去もこうだったんだから」という思い込みがある限り、「研修は無効」という結果になり続けるでしょう。ごめん、わたしからみるとそんなのは周回遅れですね。わたしは正しい効果発現メカニズムを早くから特定した人なので、それをどうやってより強力に効果発現させるか、というところにも早くから心砕いた人なんです。過去に自治体研修などでも「50人100人のマスで、かつ1日研修でコーチングの承認傾聴質問叱責の4つをやってください」というご依頼をいただいてお断りしちゃいました。

 というわけで中室氏も先日の入山章栄氏と同じく、「エビデンスをふりかざしてドヤ顔」の人です。今からはこういう人が増えるのでそれに向けたニックネーム考えないといけないですね。(可愛く「エビちゃん」かな)わたし的には「部分的には正しく、部分的には間違い」の人です。「ほかのことはともかくこの主張に関しては現場の実感に照らして間違ってる」と思ったらシカトしていいと思います。ただ政策に関わる人たちは、エビデンスを無視するわけにもいかないんでしょうけどね。

****

 新年早々、批判記事におつきあいくださり、読者の皆様ありがとうございます。そしてごめんなさい、お目汚しで。
 たぶんこの次も批判記事になるでしょう、というのは年末にまた、「逆張り」を狙ったらしいおバカな本が出たからです。

 今年も延々とこんなことばかりして暮らすのかなあ〜。それぐらいよくいえば百家争鳴ソフィズム全開の時代なんです。「批判屋」っていうのが商売として成り立たないかなー。。

 たぶんやればやるほど、
「行動承認最強」
を確認することになるんですけどね。


正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

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