2016年1月1日補足:この記事にはその後いくつか厳しいコメントが寄せられ、驚いています。(コメント欄参照)
たぶんブログ全体の流れをみずこの記事のみ単独でご覧になる方がいらっしゃった場合、誤解を招くおそれもあるので追記します。

このブログは「承認」を何よりも重要なこととして掲げる研修講師の日記です。既に成人した子供たちに対しても、彼(女)らが小学生のころから、「承認」を基調として接してきました。しかし子育ては一筋縄ではいかないもの。きっと「承認研修」を受講後、日常行動として「承認」をされている受講生のマネジャーの方々はお分かりになると思うのですが、セオリー通りでないことは起こります。日常の接触機会100回に1回か、あるいは10回に1回にせよ。

そうしたセオリーの想定外の出来事についてどう対応するか、その都度”家元”のわたしでも悩みながらセオリー外のやりかたで対応していることがあります。子育ては綺麗ごとではいかない、簡単にいえばそういうことです。

この記事のやり方が極端でクレージーにみえるかもしれませんが、その前後は通常の親子関係よりはるかに濃密な「承認」をもって対応していることは、ご理解ください。それがあったからこそこの記事の対応が可能だったのかもしれないのです。

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これも、私は決して子どもの教育の専門家ではなくて自分の3人の子を育てた経験しかないが、ひとつの経験として記録しておこうと思う。


私が死んでも誰かが見てくれるだろう。



よく泣く怒りっぽいあかちゃんであり、「じぶんでやる〜!」の2歳児であった長女に、「共感」を叩きこんだ、と思われる瞬間があった。


彼女が小学校3年ぐらいのこと。学校で須磨水族園に遠足に行ったが、それから帰ってきた長女がヘラヘラした感じで言う。

「今日、水族園の駐車場で変な人を見たの」

「ふ〜ん、どんな?」

「自分が連れていた犬の足が車にひかれて切れてしまったの。その人はおばあさんだったけど、ワンちゃんを指さして『ひっ、ひっ』と泣いて言葉が言えないの」

彼女は「ひっ、ひっ」というしぐさを真似しながら言った。

で私はブチ切れた。

「なんでわからないの!その人は自分の可愛がっていたワンちゃんの足が二度と戻ってこない姿になって、ワンちゃんだってどんなにか痛かったろうし、そんなひどい場面みたらふつう言葉にならないでしょ!あんたなんでその人がそれだけ悲しいんだってわからないの!なんでそんなヘラヘラした顔でそんなこと言えるの!」

ぼーっとした顔で私をみる長女。何が起きているかわからなかったらしい。


そこへ夫が帰ってきて、私は「今この子がこんなことを言ってそれで怒ってるの」とチクリをした。

すると夫も私と同じようにブチ切れ、夫婦そろって、

「共感能力のない子なんて大嫌いだ!」

と自分の娘に大合唱した。


手は上げなかったものの、その光景をみて「精神的虐待だ」という人も世の中にはいると思う。


しかし、今19歳になっている長女は、

「あのとき母ちゃんがあれだけ怒ってくれなかったら、私は人の気持ちがわかるようにならなかったと思う」

と言う。

彼女なりに「自分には生得的な共感能力が欠けているようだ」と自覚し、その後本を読むなどして人の気持ちに対する想像力を養うようにしたようだ。


小学校中学年までは友達の少ないキャラだったこの子は、高学年になると、よそのグループでいじめられていたお友達を自分のグループに招き入れ仲良くする、ということをした。

それはたっぷりの賞賛をしてあげたことはいうまでもない。



その後は地味キャラながら中学で副部長、高校で2つの部の部長、とやっている。

共感能力と正義感はあんまり両立しないものかもしれない。

共感能力が低いのは要するに「男性脳」ということだが、その偏りの程度と本人の自覚によっては後天的に学習することは可能である。

ただ、外的な刺激―この場合は動機づけというより介入と言ったほうがいいのだと思うが―がなくてその「自覚」が生まれるかどうかは疑問だ。



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