正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

タグ:内発的動機づけ

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html






『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月、以下、「本書」と略)
 読書日記考察編(1)に続き、考察編の第二弾です。

 考察編(1)の「ダイバーシティー経営」の話題に比べると、”実害”はそれほどないかもしれない、したがって緊急性・重要性とも低いかもしれない部分。
 でも「神戸の承認屋」としては、「世界の経営学ってまだそんな(遅れた)ことやってるの!?」と言いたくなるところです。また、もう少し現実的なところを知っておいたほうが実務家には役立つのではないか、と思われるところです。

 こういうのも、あとで改めてまとめて考察すると時間のムダなので、今やっておきましょう。
 ほんとは、「承認教育はこんなに優れている」と主張することになりますから、わたしの性格的にあんまり気が乗らないんですけれど。

 ポイントは3点、
(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう
(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割
(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変
 
です。

****

(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう


 「モチベーション」に関わるところです。
 おさらいで、2つ前の読書日記の記事でのこの項目に関する要約部分を再掲いたしましょう:

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

 めんどうでも言葉の定義を確認しながらすすめたいんですが、ここでいう「外発的な動機」とは、「給料・昇進・周囲からの評価など、当人の外から与えられるモチベーション」と本書は言います。また「内発的な動機」とは、「当人の心の中からわきあがってくるモチベーションです。仕事へのやりがい、楽しさなどを感じることがその典型」とのことです。
 そして、近年の研究成果では、特に後者の「内発的な動機」の重要性が主張されている、といいます。

 さて。以前からこのブログでは、この「内発、外発」の分け方には意味がない、ということを言っています。「区切り方が変」といいますか。
 本書の記述やその他のこれまでの研究で言っていることを要約すると、「外発」はすなわち、カイシャから与えられるモチベーション。「おカネによる報酬」も「昇進」も「上司からの褒め言葉」もそこに入ります。「内発」はそうではなくカイシャの外から与えられる、あるいは外向けの動機―すなわちお客様からの感謝の言葉とか仕事そのものの意義、例えば社会に与えるインパクト、社会的貢献度など―を指すようです。

 でもそれは、「承認屋」からみると、全部「承認欲求」でくくれてしまうものなんです。単に「承認」を与えてくれるひとが誰か、の違いだけです。 
 本書で例として出している「テッセイ」を例にとりましょう。

 そもそも掃除現場はいわゆる3K職場のようなところがあり、テッセイのスタッフの士気も、以前はとても低いものでした。それを、親会社であるJR東日本からやってきた矢部輝夫氏が、大胆に変革したのです。例えば矢部氏は掃除の仕事を「おもてなし」と再定義し、乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにしました。そのために、制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにしました。
 さらに矢部氏は現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにしました。すると次第に新幹線の乗客がスタッフに対し、「ありがとう」というようになり、それがテッセイのスタッフの仕事に対するプライドへとつながり、スタッフの士気が高まっていったのです。(pp.225-226)

 
 ここでは、
「乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにした」
「制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにした」
 これらは、言葉は悪いですが「自己顕示欲(承認欲求の一形態)から仕事に誇りを持たせる」ということをしています。また、
「現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにした」
 これも「任せる」という、「承認」の一形態をやっています。「任せる」とは、「あなたの判断力を信頼していますよ」という、信頼やリスペクトの表現です。
「乗客がスタッフに対し、『ありがとう』というようになった」
 これは、乗客が「承認」をしてくれた、ということですね。

 そして、本書には載ってないんですが、『新幹線お掃除の天使たち「世界一の現場力」はどう生まれたか?』(遠藤功著、あさ出版)によれば、矢部氏はテッセイに赴任後、マネジメント内部で「現場へのリスペクト」の精神を徹底した、とあります。
 カラフルで素敵な制服を与えるのも、「彼女らは誇りを持つべき人々だ」「だから、彼女らに誇りを与えよう」という、マネジメントから彼女らへのリスペクトの表現だ、とみることができます。
 ひょっとしたら、それ以前はホワイトカラーのマネジメントの人たち(たぶん男性)は、現場の彼女らを「お掃除のおばちゃん」と一段階低くみていたかもしれません。言動にも処遇にもそれが出ていたかもしれません。そしてそんなマネジメントへの反発心で、あるいは見下されることからくる自己評価の低さで、だらだら仕事をする人がいたかもしれません。そして案外、一連の改革プロセスの中でここが一番難しく、かつほかのすべての施策の土台になったところかもしれないのです。

 そういうふうに、テッセイの事例はわたしなどからみると、「マネジメントからの承認、そしてお客様から承認を得られるための仕組みづくり」を組み合わせた例、と考えることができるのです。
 現場の人にとっては、マネジメントからの承認「も」お客様からの承認「も」両方大事です。テッセイの場合は多分とりわけ、お掃除という一般には世間からの評価の低い仕事だからこそ、また人目に触れる仕事だからこそ、「世間/お客様からリスペクトされる」ことを重視しないといけなかったのでしょう。
 一方、看護や介護など専門性の高い仕事では、一般に思われているような、お客様(患者)からの「ありがとう」よりも専門性を熟知している上司・先輩からの(専門性を評価した)承認のほうが嬉しい、という調査結果もあり、どちらが有効かは一概には言えないのです。職種による、ということです。
 あるいは、テッセイの現場の内部でも、「上司・先輩からの個々の仕事に基づく承認」は行われているかもしれません。それがなかったり、攻撃的他罰的な人が混じってギスギスしていたりすると、いかにお客様からの承認があっても上手くいかないかもしれないのです。
 …カイシャの「外」からの評価が嬉しい、というのは、約30年前のわたしが会社員時代にはそうだった。というのは、上司のことがイヤでイヤでたまらなかったから。それは余談です。訓練不足の上司のもとでは、カイシャの「外」からの評価が嬉しい、それだけを励みに仕事している、という人が多くなるかもしれないですね。

 いずれにせよ、「内発的な動機づけ」「トランスフォーメーショナル型リーダーシップ」という概念を使うより、働く人々の「承認欲求」とそれを満たす行動である「承認」という、はるかにシンプルな概念を使った方が、一般のマネジャーにとっては学習のしやすさが全然異なります。「承認」のほうがはるかに学習しやすいです。

 この「テッセイ」の件は「内発的な動機が現場を強くする」事例として高く評価され、ハーバードMBAのケーススタディーとしても取り上げられているそうですが、わたしはハーバードのケーススタディーがいかに自分の理論に合わないものを捨象して出来ているかを知っている人なので、「またやってるな」という感じです。「内発って思いたい」んですよね、大学の先生は。シンプルに、脳のどの部分が活性化するかみればいいんじゃないですか。だめですか。
 
 
****

(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割


 本書では、手っ取り早くいうと「優れたリーダーはイメージ型の言葉を使う」と言っています。ただし補足で、「イメージ型の言葉を使うから優れたリーダーになるわけではない、因果関係というより相関関係を示している」ということも言っていたのは、評価できます。

 さて、では、一般のマネジャーがこれを学んで、「伝わる話をするためにイメージ型の言葉を使おう」と思うことは、正しいでしょうか?読者の皆さんはどう思いますか。
 たぶん、いきなりそれをやったら空回りするでしょうね。
 それは何が足りないのか。

 まず、本書で例に挙げたような、アメリカの歴代大統領、こうした「雲の上の人」については、わたしたちはその人との個人的関係がまったくありません。日頃の関係性を「抜き」にして純粋にレトリックだけで左右されると考えられます。ところが、一般の部下と日々接しているマネジャーはそうではないですよね。そこでは、日頃の関係性が、言葉の伝わりやすさに大きく影響します。
 このブログの読者の方はマネジャー以上の立場の方が多いかと思いますが、だからちょっと記憶が遠いものになっているかもしれませんが、皆さんが若くて末端の働き手だったころ、自分の嫌いな上司の言うことを理解できましたか?3分の1とか4分の1ぐらい、「ひゅーひゅー」だったということはないですか?
 とりわけ、その「嫌いな上司」が「組織の理想」のようなことを語った場合、綺麗ごとにきこえてしまって実感がわかなかった、ということはないですか?
 では何が「好き、嫌い」に影響するかというと、とりわけ「上司部下関係」の場合は、「承認」がほとんどすべてを決めてしまうと言っていいと思います。
 このブログでは何度目かの繰り返しになりますが、人は、脳の「内側前頭前皮質」という部位から、他者の自分に対する評価を取り込み、自己評価を作っていきます。そして「内側前頭前皮質」は同時に、外部の規範を取り込み自分の規範意識を形づくる、という役割を担っています。
 だから、「承認してくれる上司の言うことは自分の規範として取り入れやすい」。

 もう1つの説明としては、普通のはたらく人というのはポジティブ心理学でいう「ポジティビティ(ポジティブ感情)」が低いのです。ポジティブ感情の有無は、人が中長期的視野でものを考えられるか、あるいは目先のことしか見えないか、に影響を与えます。ポジティブ感情のある人は少し長い視野でものを考えられ、未来へ目を向けることができるのです。このポジティブ感情の土台がないところに、「ビジョン」を語りかけたり「未来の姿をイメージさせる言葉」をレトリックとして使ったりしても、ぴんと来ないであろうと予測できます。そこまで気持ちがあがってこないのです。

 では、どうしたらいいでしょうか。1つの例を挙げましょう。
 拙著『行動承認』に出てくる事例です。中国工場の総経理である脇谷泰之さんという人が、中国人スタッフに向けて語りかけます。工場が不良を出し、連日深夜までやり直しの仕事に追われていたさなかのこと。

「あなたがたには、十分いいものを作る能力がある。
どこにも負けない技術がある。
ただ、小さな問題が続き、自信がなくなっているだけだ。
僕は、あなたたちの能力を信じている。
だから、自信をもってお客様にいいものを届けよう。
そうすれば、必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」

 いかがでしょうか。
 この「ミニ・スピーチ」の最後の一行が「ビジョン」であり「イメージ型の言葉」になっています。しかし、冒頭の4行は「承認」になっています。いわばビジョンに行き着くための「助走部分」に「承認」を使っているのです。
 ここで、「承認」はマネジャーに対する「求心力」―信頼感とも、愛着心とも言いかえられます―を高める働きと、「ポジティブ感情」を高める働きの両方をしています。いわば、従業員たちとマネジャーの間の心のつながりを太くし、そして従業員の心を浮き上がらせ、少し遠くを見られる状態に持って行ってあげる、そういう役割を果たしているのです。
 こういう「下地づくり」を手順として行うと、「必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」という、ビジョンの言葉がリアルな言葉として響くようになるのです。

 こうして「技術解説」をすると、操作的にきこえてしまいますし単なるレトリックのようにもみえてしまいそうですが、脇谷さんはこの事例の少し前に「承認」の概念に出会い、個人個人へのスタッフへの「承認」を行うようになっていました。
 承認を理論レベルでなく、実践レベルで行うということは、その人自身にとっては、「他者の視点を取得する」体験にもつながります。とにかく相手は「承認」を欲しているのだということ、適切に与えれば嬉しいものなのだということ。その体験を繰り返すことが、他人視点の取得につながり、そしていざという時に、部下が欲するものに応える行動として、「ビジョンの言葉を発する」能力を形成することにもつながるかもしれません。
 「ビジョンを発したリーダーが成功した」「イメージ型の言葉を発したリーダーが成功した」
 それは、実は「ビジョン」や「イメージ」に付帯していたものが大きかったのかもしれないのです。

 脇谷さんは2011年の初めに「承認」の概念に出会って実践者となり、総経理を務める上海工場はその年から2年連続で「業績倍々ゲーム」の快進撃になります。「2年間、お客様のもとに不良を1件も出さなかった」という快挙、そして2014年にはお客様の「優良協力工場」として表彰されます。

 まとめると、「ビジョンの前に承認」これを、日常行動としてもその場のスピーチの構造としても、意識しておいたほうがよいでしょう。わたしからの実務家へのアドバイスは、そうです。

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(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変

 本書では、「トランザクティブ・リーダーシップ」と「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」という2つの概念を紹介し、これらが経営学でコンセンサスとなっているものだ、といいます。
 「トランザクティブ・リーダーシップ」とは、
1)報酬を与え(ほめ)、
2)部下の失敗に事前介入、
3)部下の失敗に事後介入 
ということだそうです。なんか現実の人格ではない、要素だけを抜き出した感じの概念ですが。これだけしかやってない人っているのかしら。
 そして「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」とは、これもおさらいですが、
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
ということだそうです。

 で、優れたリーダーはトランスフォーメーショナル・リーダーシップの4項目プラス、トランザクティブ・リーダーシップの1)を持っているのだそうです。
 これもうーん、なんでそういう分け方になるかなあ。とわたしは思います。
 「内発、外発」のときもそうでしたが、いちどある分け方を決めると、経営学者はみんなそれに沿って追試して、ほかの分け方の可能性をみなくなるのではないかしらん。また、なんでこんな舌をかみそうな用語をがまんして使わなくちゃいけないのかしら。

そして今回の記事の3項目に共通して言えるのは、カイシャやリーダー/マネジャーに対する愛着心(attachment)という要素には全然フォーカスしてないですね。わたしは承認研修の統計の質問紙に「職場アタッチメント」という言葉を入れましたけどね。この項目は研修後に如実に上がりました。
 
 
 ・・・でもわたしもちょっと疲れてきたので、また特に実害のありそうなところでもないので、ここは「違和感の表明」だけにとどめたいと思います。

 「批判記事」書かなきゃなあ、と思うと歳のせいで肩や腰が痛むんです。今回の記事はそんなに「批判」でもないですけどね。お友達の助言に従い、少し休もう…。


正田佐与

また、内発・自律思想のお話について。



「内発」ということを、なんで外的動機づけとそんなに対比して言わないといけないのか、本当にわからない。


 このブログでなんども「報酬系」という言葉を使うけれど、例えばある作業をして成果が上がった、その手ごたえが嬉しい。これも「報酬系」で説明できる。「手ごたえ」という「ご褒美」をもらったのである。


 またそれは行動理論で言ったら「強化子」という。強化子はなにも他人からの褒め言葉でなくてもいい、自分が作業から得られる手ごたえも、それが次の行動を誘発するなら強化子とよべるのである。


 また、お客様から喜ばれた、感謝された、ということも当然「強化子」である。


 「内発」か「外発」か、の分け方にこだわる人は、要するに「外発」というのは上司や親が言葉がけしてコントロールする作業だ、というところにこだわっているのだと思う。


 どうなのだろうか、例えば初学者はなんでも最初は上手にはできないし、作業そのものから貰う手ごたえというのもそんなにはない。そういう場合横にいる指導者が「うまいうまい」「それでいいよ」「私も最初はそうだったよ」などと声掛けして強化子を与えてやる。そうしているうちに徐々に本人が作業から手ごたえを感じられるようになる。

 それが「内発」のものに変わっていったからといって、じゃあ「外的動機づけ」はもう要らないか、というとそんなことはなくて、何か作品をつくり上げたら一緒に喜んでやる。いいところを言ってやる。結果が出たときだけではなく、途中経過でも「ごせいが出ますねえ」「がんばってるねえ」みたいな、ちょっと栄養補給をするようなことを言ってやる。「外的動機づけ」の仕事は決してなくならない。


 そんなのは大抵の指導者はわかっていて、ワンフローでやることなのではないだろうか。


 だから、「外的…」をアメだムチだニンジンだと汚い言葉でくさすのは大変おかしなことなのだ。人をさげすまない、静かな気持ちでやり続ければいいだけのことだ。


 アメだムチだニンジンだといった言葉を使う人は、自分自身が他人に対していつも蔑みの目線をもっているのだと思う。それを行動理論の指導者に勝手に投影する。


 普通は、人は自分を見下している人から褒められても動かない。だから、そういう蔑みの心の状態が出現して、相手をコントロールしようという気持ちで褒め言葉を発したときは、単に「何も効果がない」という結果が返ってくるだけなのだ。


 うちの協会のプログラムでは、武田建氏の言葉を引用しつつ、「無条件の畏敬と尊重」ということを言う。その姿勢を守っている限り、アメだムチだニンジンだ動物だなどという荒涼たる情景にはならない。

―武田氏曰く、「行動理論では行動を扱うから傾聴のロジャース流の畏敬と尊重をしないでいいかというとそんなことはない。われわれ行動理論家は行動を扱うからこそ、「無条件の畏敬と尊重」は「必須」なのだ―


 そう、アルフィー・コーンの著書『報酬主義をこえて』は、行動理論をやたらと言いがかりをつけてくさした本なのだけれど、コーン自身がなにものにも非共感的で、反抗と見下しの目線をもった人だというのは、文体をみればわかる。下から上へ突き上げの視線、そして「上から目線」。彼は多くの良心的な人々の長時間にわたる労力を汚い言葉であざ笑う。


 最近『上から目線の構造』という本を読んでいたら、「『上から目線はやめてください!』と言う人は、自分自身上から、下から、という考え方に縛られている人だ」というフレーズがあり、そうそう、と膝をうった。


「コントロール」「操作」
「外的動機づけ」
「ハトやネズミ:」

といったことを目の敵にして扇動キーワードとして使うコーン氏は、実は彼自身がそれらに非常に「囚われ」ており、非常に敏感な人なのではないだろうか。


実は彼自身が非常に支配欲が強かったり、自分の内なるものにしか従いたくないという気持ちが強かったり、自分の講演に来る経営者たちを実験動物のように見下している人なのではないだろうか。(もちろん、彼の本を参考文献に使ったり引用する人たちもそうだ。)


こういうタイプの人が言う「内発的動機づけ」には、全然共感できない。

(少し脱線だがある種の「邪悪」な人格の人に、「共感能力はないけれども人を『操作』することはものすごく上手」という人がいる。コーン氏が「操作」ということにやたらと反応するところで、もしかしたらそれかな、と思ってしまう。全体にこの人の文章から私は「邪悪」のオーラを感じるのだ)




デシ、フラストの『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ―』は、それに比べるとごく穏健な主張で、言葉に毒もなく、割合共感できる部分が多かった。
この本は『報酬主義をこえて』の初版の2年後に出版されているが、おもしろいことに、同一陣営であるにもかかわらず、『報酬主義をこえて』については全然触れていない。参考文献リストに載っていない。

その気持ちはわかる。『報酬主義』の本はいくら似たような主張でも、論理構成はめちゃくちゃだし、当事者を傷つけるような表現がいっぱい入っていて、「こんな本や著者と一緒にされたくない」と思っても不思議ではない本なのだ。


さて、『人を伸ばす力』だけれど、この本にしても、読了後浮かぶのは、「内発と自律に一番近いところにいる社会人って、大学の先生じゃないの?」ということ。

大学の先生の労働観、組織観はちょっと特殊なのだ。学問の自由、表現の自由と、一般社会人に比べるとかなり大きな自由を享受し、一般の人のように組織中心にものを考えずに済む。そういう彼らの皮膚感覚で、
「こういうふうに扱われたい」
「こういうふうに仕事させてほしい」
というのを組織に求め、またあるべき姿として提示されると、ちょっと困るな、という感じがする。

例えばものづくりの人であれば、作ったものに何かの不良があればお客様を死なせてしまうかもしれない。ところが、大学の先生は少々間違ったことを言ってもそれで即、人が死ぬことはない。因果がまわりまわって死ぬことはあるかもしれないがそれは大学の先生の関知しないところで起こる。

こういう「責任」の質量の違いが、大学の先生の考える労働観、組織観についての違和感となる。
「そんなんで複数の人で仕事ってできるの?」と、首を傾げることになる。コンサルタントさんも、独立性の高い職人のような人たちなので、また結果責任を負わない人たちなので似たようなところがある。研修講師もそうである。

チクセントミハイの「フロー状態」の説明をしながら、デシは言う。

「テニス選手、外科医、小説家、画家、ダンサーたちは、そのようなフロー体験をしているに違いない。」

これをみていきなり「みんな職人じゃん!」と突っ込んでしまうのは私だけだろうか。
(現代でいえば、IT技術者などもその中に入るだろう)


子どもの頃に何かに熱中してフローを体験させるのはいい。でもほとんどの社会人は、ごくまれにしか仕事の中でそういう体験をしない。まったくしない人も多いだろう。


で、それは不幸せなのだろうか。

フロー体験も、いわばマズローの「自己実現者」と程度は違えど一緒で、ごく一部の人のぜいたく品なのではないか。仕事がそういうものを提供してくれないからといって、はたらく人に自分は不幸せだと感じさせるのは間違いだ。もっと別のいいものをもらっているはずなのだ。

大体、うちの会員さん方のようなマネージャー職になると、「フロー状態」で仕事をすることはまず無理だ。それで彼ら彼女らが「自分は不幸だ」と感じさせるのはよろしくない。

「フロー状態」が何が何でもいいものだ、人として一番幸せな状態だ、というのは少し考えなおしたほうがいいんじゃないかと思う。


(なお、「ストレングスファインダー」で、フロー状態に好んで入りたがる人、というのはどの資質の持ち主か、大体想像がつく気がする)

(IT技術者はフロー状態をよく経験するだろう、と述べたが、この人たちも今、「時間管理」や「ワークライフバランス」が課題になっている)

(もうひとつ、「フロー状態を経験すると超越者になって人格が良くなる」みたいなことも書いてあるが「ほんとか?」と私は思う。大学の先生やIT技術者、この集団に人格の良い人が多く分布しているという証拠はあるだろうか。ある種のディープな心理学セミナーを受けて、「自分は変わった!!」と豪語する人はいるが、周囲からみて何も変わっていない、それまで以上に身勝手でくるくる気の変わりやすい人になっていたりする。また承認欲求が亢進していたりする。そういう種類の勘違いじゃないだろうか)

これとは別に大学の先生の困ったところは、彼等はEQの低い人が多いので、「自分は…と感じる」ということを、すぐ「一般的に…だ」と、一般論にすりかえる。

「上司の褒め言葉は、統制の手段として受け取られることが多い」

これは、本当は
「私は私の今の上司が嫌いだ。彼が褒め言葉らしきことを言うと、私には統制してきた、と感じられ不愉快だ」
ということを言っているのである。
こういうのを学者さんが言うからといって学問だと混同してはいけない。


実際には、「上司だから統制だと感じる」ということは、うちの会員さんのところではあまり耳にしない。あるんだろうか。
私個人の経験では、承認のプログラムを受け、実際にやり始めたマネージャーさんにしばらくして会うと、
目元の感じが優しくなっている。
それで、ああ、いい手応えをつかんだんだな、と思う。

自分の投げかけた言葉が部下の喜びにつながる。
自分の働きかけによって他人が喜びながら新しい行動をとり、いきいきと報告してくる、そういう現象をまのあたりにすると、自然と目元が優しくなるんではないか、と思っている。
「アメとムチ」などという冷たい風景はそこにはない。




・・・あと、「内発と自律」を言う人には、かけている視点がある。子どもは反抗期になると親の言うことをきかない。褒め言葉もアドバイスもきかない。これまで親に頼りきりだった子どもも、自分を動機づけてくれる人を家の外に求める。

これは、「外的動機づけの限界」とか「内発的動機づけの人になった」といえるだろうか。いや、単に「外的…」を与えてくれる人が交代したに過ぎない。



「内発と自律」論者の想定するよりも、人ははるかに大量の「外的動機づけ」を欲しい生き物なのである。プライドの高い人にとって苦痛であっても、それを認めないといけない。


(もし、「いや、自分は要らない」と言うなら、その人のことは以後一切褒めなければいいのだ)



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



(追記)
『人を伸ばす力』も、よくみると攻撃対象を「行動主義」に設定している。
「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。
このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。

私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)

つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。

しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。

もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。


繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。


しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。


「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能な人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。


それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。


彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。

お世話になっている皆様





おはようございます。NPO法人企業内コーチ育成協会の正田です。

クリスマスの3連休、皆様いかがお過ごしでしたか。

 仕事納めまであと数日。ラストスパートの忙しさのさなかという方、大分忙しさのピークは過ぎたという方、色々でいらっしゃることでしょう。


 
 このメールニュースは今回が年内最後の発行となります。皆様、今年1年、ご愛読いただき本当にありがとうございました。





 さて、私は「NPO法人」という形で活動しているので、「なぜNPOなのか?」と、初めてお会いする方によくきかれます。


 これに対するお答えは、以下のようなものです:


 「コーチング」も、また私どもで深く依拠する「行動理論」「承認論」も、既にあまり耳新しいものではありません。世間にはもっと新しくワクワクするような教育商品がリリースされています。しかし、現実にコーチングを職場に導入した時―詳しく言うとそれは、真摯なマネージャーさんが担い手になり、やり続けた場合―驚くほどの効果が出ます。「成果」という点で、恐らくこの「企業内コーチング」に優るものはないでしょう。


 このことに鑑み、私たちは一般的な企業活動と少し違う道を行くことにしました。


 日進月歩、新しい商品をリリースして注目を集めるよりも、信念をもってお客様にひとつの商品をお勧めし続けることにしたのです。だからこそ、NPO(特定非営利活動法人)という形をとりました。


 その代り、私たちはご提供する商品・サービスの品質を最高に高めることを目指しています。


 現在、ハンドブック「最高のプロの2日間の授業」を作成中です。英国在住の日本人哲学者が、不肖わたくしの授業風景をご覧になったあと、正田の「教え方」に着眼して言われたご感想を小冊子にしました。

 
来年には、皆様にお分けできることになるかと思います。しばらくお待ちください。



 
 さて、本日の話題は:



■「アメとムチ」は卑しいか?
 「内発的動機づけ」信仰とイーストウッド流師弟関係



■「元気が出そうですね」金融と世界経済のあすを占うよのなかカフェ(1月5日夜)



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■「アメとムチ」は卑しいか?
 「内発的動機づけ」信仰とイーストウッド流師弟関係



 お陰様で、「承認」というものについて、ご理解がより一層広がった1年でもありました。


 私たちは「承認」というものを、日本人に最も適した、日本人を最も伸ばすシンプルな手法としてお伝えしています。


 先日も、1年ほど前のセミナーに来られた方(大企業の営業マネージャーさん)が、私の顔をみるなり

「『承認』って本当ですね。あのセミナー以来、われわれの間でもそう話するんですよ」

と、言ってくださったのです。


 ところが、「承認」についてお話すると、人材育成担当者のかたは特に、


「褒めたり叱ったりする『アメとムチ』で人を操るのは、卑しいことなのではありませんか?」

「人は、もっと『内発的動機づけ』で動くべきなのではありませんか?」


と、反論されます。


 どうも、1990年代以降のアメリカの教育学―心理学の風潮で、「アメとムチ、ニンジンで外から人を動機づけるのは卑しいことだ。人は内発的動機づけで動くべきだ」というものがあったようなのです。そして、現代日本の人材育成担当者の皆さんにはそれが今も浸透しているようなのです。


 しかし、「内発的動機づけだけが大事だ」と信じられた結果、アメリカでは何が起こったでしょう?


 実は、現代の脳科学では、人の「道徳規範」は脳の報酬系のはたらきによるものが大きいことがわかっています。悲しんでいる人に同情するなど、プリミティブな共感能力は乳幼児でもあります。が、少し複雑・高度なことである行為が「よい」か「悪い」かを判断するのは、脳の報酬系が学習した集積なのです。


 そのあと、道徳的にふるまうことへの学習能力の高低は、個人差があります。たとえば、「罰」についての感受性が低い人―たとえば親や大切な人の悲しむ顔をみて、それを生んだ自分の行為に嫌悪感がわき、以降しなくなる、ということが起きない人―は、犯罪者気質の人に多い、などということも既にわかっています。



 これとは別に、「外発的動機づけ」とくに「認められる」ことと、「内発的動機づけ」との関係が、思いがけない作品に出てくることがあります。


 師弟関係を描いた作品の多いクリント・イーストウッド監督の2008年の作品、「グラン・トリノ」。イーストウッド自身が演じる頑固な老人がチャーミングですが、この中にこんな場面があります。


「グラン・トリノからキャリア教育、『育てなおし』へ…」

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51475197.html


 ここでは、ある少年が「外から押し付けられた仕事」にだんだんとやり甲斐を見出す様子が描かれています。


 もともと、師弟関係、徒弟制、というものは、行動理論の「模倣学習―オペラント条件づけ」のカタマリなのです。学問の世界の人ではないけれどもコモン・センス溢れるイーストウッド監督は、「内発・自律全盛」の思潮に「なんじゃこりゃ?」と首を傾げたことでしょう。この映画の中で、アジア人の中でもひときわ伝統的道徳観を維持しているといわれるモン族の少年が題材になるところも示唆的です。


 このあとに同監督が撮った、南アのネルソン・マンデラ元大統領を描いた映画「インビクタス/負けざる者たち」は、思い切り「承認」のオンパレード。名優モーガン・フリーマン演じるマンデラ大統領が、ごく自然体で、「承認」のありとあらゆるワザを周囲の人に発し続けます。それが嫌味に響いているかどうか、お正月休みの間に是非、DVD等でご覧になってみてください。


 私自身は、「内発」も「外発」も分けることにあまり意味はないと考えるほうです。もともといずれにしても、人が動機づけられると脳の同じ部位が活性化するのです。外発の「アメとムチ」を卑しいなどとする議論は、ほとんど意味がありません。よほど「曲解」して、おかしな使用法をした場合でしょう。

(そうしたことが起きないよう、「行動理論」の使用法について、少しじっくりお時間をいただいて解説することにしています)



 日常生活の中での「行動理論」の使用風景、また「内発」「外発」が1人の人の中で容易に入れ替わることについては、こちらに簡単な例をお載せしておきました。もしお時間がありましたら、ご覧ください。

 

「地元の人に誇りだと思ってもらえたら嬉しい―行動理論の現場、イブの食卓の裏話」

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51780707.html
 


 この記事の中で書きましたように、私自身は、たとえば「行動理論」があまりにも正しくて効果が上がりすぎ、再現性がありすぎ、そしてさほど普及はしていないものの長年言われ続けたために、今更言うのが凡庸に響く、ということであっても、「偏った独創」よりも「正しい凡庸」をとりたい、それは多くの人の幸福のために必要なことだから、と考えています。


 受講生の皆様、行動主義はさておき行動理論―行動療法は正しいものです。私どもでは受講生様にお伝えするコンテンツを1つ1つ丁寧に吟味しています。誤解の余地のないよう丁寧にお伝えしてまいりますので、どうぞこれからも安心してご使用ください。




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■「元気が出そうですね」金融と世界経済のあすを占うよのなかカフェ(1月5日夜)



 前号でもお知らせしたとおり、社会人のディスカッションの会「よのなかカフェ」は、次回1月5日で第30回を迎えます。


 http://c-c-a.jp/cafe/



 既にこの回のカフェにお申込みいただいた方々のうちお1人の方は、


「ありがとうございます。元気が出そうですね」

 と、メールをくださいました。


 金融機関出身で、大学学長を務めたあと退官し客員教授になられた方でした。


 この方に限らず現・元金融関係者の方は、恐らく今直面している事態がどれほど「怖い」ものか、想像がつかれていることと思います。


 それでも、そのことを近所の人同士が集まって語り合い、共通の認識をもつ、それだけで、「元気が出る」そういう効果は、ひょっとしたらあるかもしれません。

 今からどうしよう、という道筋もみえてくるかもしれません。


 空元気を売り物にするつもりはありません。「考える社会人づくり」を目指すよのなかカフェ。「ともに考える」ことによって知恵を生みましょう。



 皆様、年明け5日(木)の夜19時より。大きな歩道橋が目印、三宮・加納町交差点そばのカフェ「アロアロ」にて。参加費500円+ドリンク代。
 
 是非、いらしてください。お待ちしています。

 詳細とお申し込みは ⇒ http://c-c-a.jp/cafe/


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★このメールニュースが「届かない」あるいは、「タイトルに【Spam】とついているので怖くて開けない」というご質問を、このところよくいただきます。

 サイバーテロのため会社のセキュリティが厳しくなったことが原因のようです。

 発信元が"info@…"となっているメールは自動的に削除されることがあり、その場合は本メールの発信元"info@c-c-a.jp"は削除の対象外としていただく、という対策をとっていただくと解決するようです。

 ただ皆様にご迷惑になることを避けるため、発信元アドレスの変更あるいはマガジン発行サービスの変更といったことも検討したいと思います。

 来年もどうぞよろしくお願いいたします。



※このメールは、NPO法人企業内コーチ育成協会のスタッフ及び
代表理事・正田が、過去にお名刺を交換させていただいた方・
当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方に
お送りしています。

今後ご不要の方は、
空メールをご返信いただくか、こちらのページ

http://www.webcordial.com/bn/tk.html

より解除していただければ、
購読リストから外し、次回から送信されないようにいたします。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

 ラストスパート、皆様最後まで元気にまいりましょう。

 良いお年をお迎えくださいませ。



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神戸のコーチング講座
特定非営利活動法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
代表理事 正田 佐与
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Email:info@c-c-a.jp
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ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
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愛する日本を、人が元気になる国にしませんか。
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「企業内コーチ育成のすすめ」
(株)帝国データバンク社『帝国ニュース兵庫県版』
に好評連載中
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 先日、3泊4日という、結婚してからの私としては最長の出張をしたとき、仕事先の方から言われたのが、

「お子さん方だいじょうぶですか」
「心配でしょ」


 その都度、こういう材料を4日分買い置きしたので娘たちがシチュー、肉のグリル、サラダなどを作るはずだとお話しすると驚かれる。


「しっかりしてますねえ〜」


 社交辞令かもしれません。はい。

 ただうちの娘たちは同学年の人の中で家事ができるほうとみなされているようで、中学時代からお弁当は自分たちで作っていたし、友達同士の集まりで率先して立って必要な家事をするので「マザー・ハルカ」と呼ばれていたのだそうだ。


 私自身は全然自慢できるようなしつけをできる人間ではないが、もし何か秘訣があるとしたらそれは「行動理論」ぐらいだ。


 彼女たちがあまりにも何もしないときには雷を落とすような場面もあったが、基本的には小さなことをやれば褒め、作ってくれたものは美味しいと言って食べた。

 (「C」の性格なので本当はちょっと褒めるのにも努力を要するのだ)


 そのうち、野菜切りや焼きそばの最後の炒めといった単純な仕事から、「一から肉野菜を切ってシチューを作る」といった一連の仕事までこなせるようになった。


 こういうのは「小さな行動から始まってより大きな望ましい行動へ」=「形成化」(シェイピング)というものだが、
決してその手法の名前から想像するように、徹底して行動を監視して言葉がけした結果そうなるというわけでもない。ある時期から本人が面白さに目覚めて自分で勝手にやりだすから。

 特に二女は今年料理作りに目覚めたようだ。イブの食卓も、チキン以外のメニューはほぼ彼女が、冷蔵庫にあるものを基に決め、トマトのディップは買ったクラッカーの外箱にレシピが載っていたのを見て作っていた。

 これは「外発」から始まって「内発」になっていった現象といえるかもしれない。

 


 2人とも絵は得意なので(そういうのはかなり生まれつきで、これは「内発的動機づけ」と呼ぶかもしれない)、作った料理は色どりの美しさを褒めることも忘れなかった。


 「内発」の行動であっても外から褒められることはやはり伸ばす役に立つ。

 だから、内発か外発かどっちが大事か、外発のアメとムチは卑しいことかなんて議論することにあまり意味はないのだ、本当に。

 そういうのは、現場を知らない人が言うんだろな、と思うだけだ。


 『報酬主義をこえて』という本の言っていることがどれだけおかしいか、お分かりいただけるだろうか。

 『報酬主義をこえて』という本について私の書評は、こちらの記事をご参照ください



 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51780572.html



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 さて、たのしくないことでも真っ直ぐ見つめるのが私の流儀で、


 『報酬主義をこえて』というおかしな本について起きたここ2−3日の出来事を書いておきたい。


 最後にいいことが起こるので、ちょっとだけ我慢しておつきあいいただきたい。



 例の「変な評論家氏」がメルマガで同書のことを褒めそやしたのが21日。翌22日、私はアマゾンでこの本のページをみると、この同じ評論家氏が長々とレビューを書き5つ星をつけていた。

 これに反論しこの本の誤謬を指摘する書評を私が書いたところ、

 
 何が起こったかというと、私の書いた書評に「参考にならなかった」という投票がみるみる増えていった。


 最終的には、「6人中2人の人が『このレビューが参考になった』と評価しています」という数字になった。

 わざわざ「参考にならなかった」と投票した人が4人もいた、ということである。


 たまりかねて23日の夜、フェイスブックのお友達で学校の先生をしている私から見て非常に真っ当な人に、


「このページをみて、レビューを見比べていただけませんか。少し知識のある人ならすぐわかる話題のはずです」

とお願いした。


 すると、「私からみて正田さんのレビューの方が妥当だと思います。正田さんに投票します」と言っていただいたが、

 その時既に「6人中2人」という数字になっていたので、このお友達を巻き込むのも申し訳ないと思い、自分のレビューを削除した。そしてブログの方に転載した、という次第である。


 問題はそれだけではない。私はアマゾンにレビューを書いた経験はあまり多くないが、わずかに書いた、自分が本当に良心的だと思う2,3の本のレビューについて、たどってみると、


 突然、「このレビューは参考になりませんでした」の票数が各2人ずつ増えているのだ。


 例えば比較的新しい、まだそれまで投票をされていなかったレビューについては「2人中0人」。


 これは、私が本当に良いと思い、5つ星をつけて支持のレビューを書いたものについての「参考にならなかった」という投票なので、本当に腹が立った。


 さらに、過去に1冊、私がレビューでボロクソにけなした本があり、このレビューにはこれまで「3人中3人が『このレビューが参考になった』と評価しています」と、なっていたのだが、このレビューについても急に、「5人中3人が…」と、変わっていた。

 つまり、過去に投票した人の人数に加え、急に2人、「参考にならなかった」に票を投じた人がいるということである。


 こういうことが出来る仕組みになっている。レビューは私はペンネームで書いているが、そのペンネームをクリックすると、同じレビュアーの書いている他のレビューをたどることができ、「投票」をすることができるのである。

 今回の論争を機に、そのような行動をとった「2人」の人がいたらしい。


 繰り返すようだが、私が本当に心から「この本は良心的ないい本だ。後世に残していい本だ」と感じてレビューを書いたものについても「参考にならなかった」と投票したのだから、これは極めて悪質な行為といえる。私の投じた5つ星の信憑性が疑われ、その本の良さを信じてもらうことができなくなるわけだ。反論のレビューを書くだけの知識もないくせに。

 アマゾンの罪ではない、利用した人の問題だ。「変な評論家」にかかわったばかりに。


 なので、過去に自分がアマゾンに書いたレビューを削除した。また別の形でこれらの良書には貢献したい。


(この悪質な嫌がらせは本日(25日)時点も続いていることがわかった。私が良書と感じた本のレビューで、一旦削除し、新たに投稿しなおした記事に、また1人の人間が「参考にならなかった」と投票したのだ。このたぐいのことは「ゲーム」と言い、「承認欲求」が病的に強い人間のやることだ。まあ、要するに今後、アマゾンのレビューというところに関わらなければいいのだ)



 以上が「嫌なこと」だったのだけれど、そのあと「良いこと」が起こった。


 フェイスブックで、このブログに書いた書評の記事のリンクを張り、自分のウォールにこう書きこんだ。

「独創的でありたいという「欲」より、多数の人の幸福に役立つものを提示したいという「欲」のほうが、私のばあいは最終的に勝つ。評価の確立した正しいものの凡庸さに耐えられないという人も中にはいるだろう。
受講生の皆様、行動主義はさておき行動理論―行動療法は正しいものです。私どもでは受講生様にお伝えするコンテンツを1つ1つ丁寧に吟味しています。誤解の余地のないよう丁寧にお伝えしてまいりますので、どうぞこれからも安心してご使用ください。

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51780572.html


 この書きこみに、フェイスブック流の「いいね!」を、みるみる19人もの方々からいただいたのだ。


 お1人お1人にお礼を述べたことは言うまでもない。



 私は神戸に住む一介の女性NPO代表。

「ただの主婦じゃん」

 と思う人もいるだろうし、実際面と向かってそう言われたこともある。


 この程度の人間に、「過去に書いたレビューを全部たどって嫌がらせをする」などという「大物扱い」をしてくださってありがとう。


 私は地元兵庫・神戸の人たちに誇りに思ってもらえるような生き方をしたい。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


 


 
 
 

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