アドラー心理学入門表紙画像


※2017年2月1日現在「アドラー心理学 批判」のキーワードで、Googleのトップから4本、当ブログ記事がランキングされるようになっていました。ありがとうございます。


 『アドラー心理学入門』(岸見一郎、ベスト新書、1999年9月15日)。

 『嫌われる勇気』の系統の「アドラー心理学」をわたしが看過できない理由は、ひとつにはそれが若い人たちに及ぼす影響の深刻さを考えるからだ。周囲の人に心を閉ざし人との交わりから学んだり視野を広げたりすることができない。頼るのはもっぱらネット情報。そのもとからある傾向に「承認欲求を否定せよ」「人の期待に応えるために生きているわけではない」が拍車をかける。

 2つ目は、なんども書いていることだが「トラウマは存在しない」といったフレーズの傲慢さ。医療でいえば(精神医学も医療だが)ある特定の疾患について「存在しない」と言い切ってしまうことがどれほどその患者さんたちにとって残酷だろうか。

 3つ目は、笑われるかもしれないがアジア各国に我が国発でおかしな不良品を垂れ流しているということが我慢ならないのだ。それは過去に「トヨタやソニーの国」と尊敬された時代をなまじ知っているからかもしれない。


 そんなわけで異常な執念のようではあるが岸見思想の源流を探るため『アドラー心理学入門』を手に取る。1956年生まれの著者の43歳当時の著作ということになる。

 
「アドラーは人間の悩みはすべて対人関係の悩みである、といっています」(『個人心理学講義』26頁)(p.44)

 「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」。このフレーズも以前から不思議だった。せっかく出典が付してあったので手元にある『個人心理学講義』の該当のページを調べてみたが、そんなフレーズはない。版が違うからだろうかと、その周辺のページをくまなくみたが、やはりない。

 かろうじて近いと思われるのは、

「個人の人生を統一のとれたものと見なすことに加えて、人生を社会的な関係の文脈と関連づけて考察しなければならない」

という書き出しで、劣等コンプレックスにつながる話をするくだり。個人・個体として見るだけではなく周囲の人間関係も見なさいよ、と言っている。治療者としての視点で書かれており、「人間の悩みは」などという哲学者めいた主語のセンテンスはない。
※2017年2月現在、このフレーズは出典を付さないまま他の捏造語録と同様、「アドラー心理学ではこう言います」「アドラーはこう断言しています」とネット上に流布している。捏造語のリストはすなわち巨大なフェイク・ニュースの塊なのだ。

※※その後『人生の意味の心理学』を探すと、やや近いと思われるフレーズがあった。それでも言っている中身は「人間の悩みは…」とは180度真逆である。冗長になってはいけないので、この記事の末尾に追加したい。


 やれやれ、この時期から既に奇妙なフィルターをつけて「アドラー心理学」を名乗っていたのだ。

ちなみに昨年5月にまとめた「捏造語リスト」はこちら
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html">http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 このあとは、岸見一郎氏の「息子さん」とその周囲の人にまつわる記述がある。「息子さん」についていろいろと感じることはあるがここでは触れない。

 このあとp.48-69あたりは、「目的論」の題目のもと、アドラーのみた問題行動をとる子どもに関する記述が続くが、たしかにこれらは子どもが「注目を引きたい(=承認欲求の一部。自己顕示欲)」あまりに問題行動をとるケースのようである。これらの症例に目が釘付けになっていると、いかにも承認欲求はわるいもののように見えるだろう。

(ちなみにこの本にはまだ「承認欲求を否定せよ」のフレーズは出てこない。やはり、出版界の「承認欲求バッシング」の尻馬に乗った捏造と考えていいのだろう。「承認欲求バッシング」は2008−11年ごろ流行った出版界の潮流である)

 ただし、アドラーはカウンセラーとして問題のある子どもを診てはいたが、自分の子どものことはよく見ていなかったということにも注意しておきたい。普通の子どもの中にも自然に「注目されたい」という承認欲求はあるし、親はそれを適当に満たしたり、無視したりしている。その中の病的な領域の子どもがアドラーの元を訪れるわけである。病的でない普通の子どもの日常生活をアドラーがどこまで見ていただろうか。

 また、「目的論」の正当性がもっぱらこれらの「注目を引きたい子ども」の症例によってサポートされているなら、だからといって「原因論」を完全否定することはできないだろう、という結論にもなる。注目を引きたいだけの子どももいれば、ひどいいじめに遭って外に出たくなくなり、今も人の目が怖いと思っている子どももいる。



 「課題の分離」と「責任・責任範囲」というふたつの概念についても色々と思うところがある。
 アドラー(と岸見氏)が「課題の分離の例」として挙げる例のうち、かなりの部分が、「責任感の高い人だったらその課題までを自分の責任範囲とみなすだろう」というもの。課題の分離と責任範囲と2つの物差しを見比べてどちらを使うのがふさわしいか決めないといけない。また、特に企業のマネジメントでは部下の一挙手一投足にマネジャーが責任を負うので(その感覚が肥大しすぎると問題があるが)「課題の分離」は、使えない場面のほうが多い。

もちろん、今のお受験目的で「勉強しなさい」といい続けて親子関係にひびが入っている例だとその限りではない。アドラー心理学が子育てに効くというのは、その「勉強しなさい」という言葉の多用を戒めるところではないだろうか。



 修学旅行中の電車の中での先生と生徒の会話。

●「『いいか、先生の降りる駅はA駅だ。君らが降りる駅は次の次のB駅だ。降り間違ってはいけないぞ』
 私がこの会話を聞いて感じたことは、先生が生徒を対等の関係の存在と見なしていない、ということです。
」(p.84)

 本当はこの前段もあるのであまりいい例とはいえないが、この先生の立場にも大いに同情してしまう。修学旅行である。失敗が許される場面とはいえない。もしそこで迷子が出たら、あるいは生徒たちが自分の正しい目的地で降り損なったためにコースの大半を辿れなくなったら、途中まで引率していた先生が責任を問われてしまう。電車の中という制約もあり、先生は短い指示語で言っただろう。それを責めるのもどうかと思うのだが。

 
 
●「アドラーはいっさいの罰に反対しました」(p.87)

 これも眉唾。さきの『個人心理学講義』や『人生の意味の心理学』などを読むかぎり、体罰や厳しすぎる態度に反対していたという風にしかとれない。ただアドラーの生きた時代には体罰は今よりはるかに一般的で、普通のご家庭でも子どもを鞭で打っていたので、それに反対したのは先見性があったのは確か。


「アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である、と考え、横の対人関係を築くことを提唱します。」(p.89)

 これには反論が3通りほど考えられる。
 まず、そもそもアドラーはそのようなことを言ったのか?ということ。ここでは出典自体述べられておらず、どこで言っているのかわからない。(もしこのブログの読者にアドラー心理学に詳しいかたがおられたら、ご教示いただきたい)
 2つめは、ネットでもよく見られる反論。「そうは言っても現実世界は縦関係で動いているではないか。親子関係も縦関係ではないか」というもの。
 縦関係を否定し、横関係を称揚するのは、学者やコンサルタントにはよくみられる。メディア関係者にもよくみられる。個人主義的で独立心高く、個として業績を挙げ、「上」からの管理を嫌う、その自分たちの性質を正当化するために、この人たちはよく「縦ではなく横関係」のほうを礼賛する。しかし多くの組織には当てはまらない。私はよくいうのが、「組織を否定するなら、電車が動いている恩恵にもあずかれない」。
 3つめは、「ケアと依存」のモデルだ。人は赤ちゃんのころ全面的に周囲の人に依存し、大人はそれをケアする。子どもはいずれ独立して巣立つが、やがて老人になり、またケアされる側になる。病気のときも然りだ。「私たちは依存がデフォルトなのだ」と上野千鶴子氏はいう。
 もちろんケア関係でも子ども・利用者の尊厳をとうとび、関係をより対等に近づける試みはなされる。それでも、「依存」という現実はなくならない。完全な横ではなく、斜め横ぐらいになるだけだ。依存することを弱者に許さなければ、生存すること自体できない。

 このあとにアドラー心理学の継承者であるリディア・ジッハーのロマンチックな言葉の引用が出てくるが(pp.90-91) この本全体で、アドラー以外の人名、たとえばソクラテスやプラトン、が出てくるときは要注意で、論理の筋が通っていないのを視点を変えて誤魔化しているようにしかみえないのだ。読者が反論するタイミングを逸するように仕向けているとでもいうか。


ほめてはいけないという話を聞いたある人が、その場にいあわせた小さな子どもに「おりこうさんやね」と声をかけました。ほら、そういうのがほめるということなのですよ(だからいけないんですよ)(p.95)

 これがまさに、上記の3つめの反論にあたる話である。わたしたちは体感的に、就学前ぐらいの子どもだと大人への依存度が非常に高いことを知っている。だから「上から」であろうと、ほめられたら嬉しいということを知っていて、学のない人でも自然と声をかけるものだ。とりわけ、親以外のよその人からほめられるとさらに嬉しいものだ。
 なのだが岸見氏は独自理論でこれを否定する。自然な近所の人同士の心のつながりを断ち切ってしまっている。


 さて、この本で「トラウマは存在しない」という言葉の起源らしいところを見つけた。それも意外な「出所」だった。

 V.E.フランクル『宿命を超えて、自己を超えて』(春秋社)の中の言葉として。

「フランクルがこの著書の中で非常に明確に、「反」決定論に立っていることは興味深く思います。『後まで残る心的外傷という考えは、根拠薄弱である」とフランクルは明言していますが、しきりにトラウマ(精神的外傷)が問題にされる今日、アドラーの見解は改めて考察するに値します」(p.138)

 つまり、「トラウマはない(んじゃないのか)」と言ったのは、アドラーではなくてフランクルである。岸見氏の頭の中で後年そこがごっちゃになってしまったのではないかと思われる。
 この文の末尾に「アドラーの見解は改めて考察するに値します」とあるので、アドラーがトラウマの有無について何か言った箇所が前段にあるのだろうかと探したが、見当たらなかった。岸見氏は他の論文か何かと混同したのだろうか。アドラーが言ったとすれば、これまでにみたように、「トラウマに新しい意味づけをして乗り越えよう」という意味の言葉である。
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.htmlなど参照。

 それと、フランクルのこの著作をまだ見てないのだが、フランクル自身はご存知のようにアウシュビッツの過酷な経験を生き延びた人だった。そのあとに精力的な学術発表を続けたから、「トラウマなど存在しない」と言う資格は、この人にはあるかもしれない、と思う。ただそれをほかの人に押しつけることまでできるかどうかはわからない。

 2月4日注:フランクルの『宿命を超えて、自己を超えて』を入手したところ、上記の「後まで残るトラウマは…」という言葉は、これもフランクル自身の言葉ではなく著書に登場する他の人の言葉の引用だった。伝聞として言っているのである。したがって「フランクルは明言した」は成り立たない。岸見氏の本の読み方や引用の仕方全体がおかしい、としか言いようがない。


 岸見氏が1999年のこの著作の中でトラウマ(精神的外傷)に言及した背景にはどんなものがあったろうか、とも思う。4年前の1995年に阪神大震災とオウム・サリン事件があった。97年には神戸で酒鬼薔薇の小学生連続殺傷事件があった。大事件事故災害のたびに「トラウマ」「PTSD」が話題になり、その治療技術をもつ臨床心理士が現地に派遣された。一般人の間でも「トラウマ」は日常語として、「俺、あの失敗がトラウマだよ」などと使われるようになった。

 「真性のトラウマ」もあるが「なんちゃってトラウマ」もある、そうした状況に苛立ち、「トラウマ」を標的にするようになった。そして著名人の言葉に「トラウマ否定」のフレーズがあることに救いを見出した、ということはないだろうか。

 
 『嫌われる勇気』の中の捏造フレーズ「トラウマは存在しない」は、昨年5月、NHK「おはよう日本」のなかでも大きなテロップで流れた。識者の懐疑的なコメントなどつけず、あくまで肯定的に。また最近書店で手に取った「常識のウソ」の本には、冒頭付近に「トラウマは存在しない」とある。理由は、「トラウマはフロイトが提唱したものであり、フロイトは原因論者で誤っているから」と、『嫌われる勇気』の論法そのままである。ライター自身が『嫌われる勇気』の信者で恐らく身内にトラウマに悩む人などいなかったのだろうし、編集部にもチェック能力が働かなかったということである。


 だから、ある程度大人の友人は「ウソなんか放っておけばいいよ」と言うが、わたしにはそうは思えない。本気で真に受けている人びとがいるからだ。とんでもなくいびつな人間理解がはびこり、どこかでそのために苦しんでいる人がいる。そしてアジア各国にも広まってしまっている。
 日本の片隅で、だれかが「それはおかしい」と言わなければならないと思うのだ。
 
 

※※「人間の悩みのすべては対人関係の悩みだ」に該当すると思われる『人生の意味の心理学』の中のフレーズ。

「われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない。…そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。…それゆえ、人生の問題へのすべての答えはこの結びつきを考慮に入れなければならない。」(p.11-12)

 ごく常識的な言葉である。しかしこれが「人間の悩みのすべては対人関係の悩みだ」というフレーズとして一人歩きしているため、TVドラマ「嫌われる勇気」の初回でヒロイン・庵堂蘭子の恩師は、この言葉のあとさらに「つまり他人さえいなければ私たちの悩みは消えるんです」と180度反対のことを言っているのである。