正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

タグ:外発的動機づけ

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html






『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月、以下、「本書」と略)
 読書日記考察編(1)に続き、考察編の第二弾です。

 考察編(1)の「ダイバーシティー経営」の話題に比べると、”実害”はそれほどないかもしれない、したがって緊急性・重要性とも低いかもしれない部分。
 でも「神戸の承認屋」としては、「世界の経営学ってまだそんな(遅れた)ことやってるの!?」と言いたくなるところです。また、もう少し現実的なところを知っておいたほうが実務家には役立つのではないか、と思われるところです。

 こういうのも、あとで改めてまとめて考察すると時間のムダなので、今やっておきましょう。
 ほんとは、「承認教育はこんなに優れている」と主張することになりますから、わたしの性格的にあんまり気が乗らないんですけれど。

 ポイントは3点、
(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう
(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割
(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変
 
です。

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(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう


 「モチベーション」に関わるところです。
 おさらいで、2つ前の読書日記の記事でのこの項目に関する要約部分を再掲いたしましょう:

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

 めんどうでも言葉の定義を確認しながらすすめたいんですが、ここでいう「外発的な動機」とは、「給料・昇進・周囲からの評価など、当人の外から与えられるモチベーション」と本書は言います。また「内発的な動機」とは、「当人の心の中からわきあがってくるモチベーションです。仕事へのやりがい、楽しさなどを感じることがその典型」とのことです。
 そして、近年の研究成果では、特に後者の「内発的な動機」の重要性が主張されている、といいます。

 さて。以前からこのブログでは、この「内発、外発」の分け方には意味がない、ということを言っています。「区切り方が変」といいますか。
 本書の記述やその他のこれまでの研究で言っていることを要約すると、「外発」はすなわち、カイシャから与えられるモチベーション。「おカネによる報酬」も「昇進」も「上司からの褒め言葉」もそこに入ります。「内発」はそうではなくカイシャの外から与えられる、あるいは外向けの動機―すなわちお客様からの感謝の言葉とか仕事そのものの意義、例えば社会に与えるインパクト、社会的貢献度など―を指すようです。

 でもそれは、「承認屋」からみると、全部「承認欲求」でくくれてしまうものなんです。単に「承認」を与えてくれるひとが誰か、の違いだけです。 
 本書で例として出している「テッセイ」を例にとりましょう。

 そもそも掃除現場はいわゆる3K職場のようなところがあり、テッセイのスタッフの士気も、以前はとても低いものでした。それを、親会社であるJR東日本からやってきた矢部輝夫氏が、大胆に変革したのです。例えば矢部氏は掃除の仕事を「おもてなし」と再定義し、乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにしました。そのために、制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにしました。
 さらに矢部氏は現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにしました。すると次第に新幹線の乗客がスタッフに対し、「ありがとう」というようになり、それがテッセイのスタッフの仕事に対するプライドへとつながり、スタッフの士気が高まっていったのです。(pp.225-226)

 
 ここでは、
「乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにした」
「制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにした」
 これらは、言葉は悪いですが「自己顕示欲(承認欲求の一形態)から仕事に誇りを持たせる」ということをしています。また、
「現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにした」
 これも「任せる」という、「承認」の一形態をやっています。「任せる」とは、「あなたの判断力を信頼していますよ」という、信頼やリスペクトの表現です。
「乗客がスタッフに対し、『ありがとう』というようになった」
 これは、乗客が「承認」をしてくれた、ということですね。

 そして、本書には載ってないんですが、『新幹線お掃除の天使たち「世界一の現場力」はどう生まれたか?』(遠藤功著、あさ出版)によれば、矢部氏はテッセイに赴任後、マネジメント内部で「現場へのリスペクト」の精神を徹底した、とあります。
 カラフルで素敵な制服を与えるのも、「彼女らは誇りを持つべき人々だ」「だから、彼女らに誇りを与えよう」という、マネジメントから彼女らへのリスペクトの表現だ、とみることができます。
 ひょっとしたら、それ以前はホワイトカラーのマネジメントの人たち(たぶん男性)は、現場の彼女らを「お掃除のおばちゃん」と一段階低くみていたかもしれません。言動にも処遇にもそれが出ていたかもしれません。そしてそんなマネジメントへの反発心で、あるいは見下されることからくる自己評価の低さで、だらだら仕事をする人がいたかもしれません。そして案外、一連の改革プロセスの中でここが一番難しく、かつほかのすべての施策の土台になったところかもしれないのです。

 そういうふうに、テッセイの事例はわたしなどからみると、「マネジメントからの承認、そしてお客様から承認を得られるための仕組みづくり」を組み合わせた例、と考えることができるのです。
 現場の人にとっては、マネジメントからの承認「も」お客様からの承認「も」両方大事です。テッセイの場合は多分とりわけ、お掃除という一般には世間からの評価の低い仕事だからこそ、また人目に触れる仕事だからこそ、「世間/お客様からリスペクトされる」ことを重視しないといけなかったのでしょう。
 一方、看護や介護など専門性の高い仕事では、一般に思われているような、お客様(患者)からの「ありがとう」よりも専門性を熟知している上司・先輩からの(専門性を評価した)承認のほうが嬉しい、という調査結果もあり、どちらが有効かは一概には言えないのです。職種による、ということです。
 あるいは、テッセイの現場の内部でも、「上司・先輩からの個々の仕事に基づく承認」は行われているかもしれません。それがなかったり、攻撃的他罰的な人が混じってギスギスしていたりすると、いかにお客様からの承認があっても上手くいかないかもしれないのです。
 …カイシャの「外」からの評価が嬉しい、というのは、約30年前のわたしが会社員時代にはそうだった。というのは、上司のことがイヤでイヤでたまらなかったから。それは余談です。訓練不足の上司のもとでは、カイシャの「外」からの評価が嬉しい、それだけを励みに仕事している、という人が多くなるかもしれないですね。

 いずれにせよ、「内発的な動機づけ」「トランスフォーメーショナル型リーダーシップ」という概念を使うより、働く人々の「承認欲求」とそれを満たす行動である「承認」という、はるかにシンプルな概念を使った方が、一般のマネジャーにとっては学習のしやすさが全然異なります。「承認」のほうがはるかに学習しやすいです。

 この「テッセイ」の件は「内発的な動機が現場を強くする」事例として高く評価され、ハーバードMBAのケーススタディーとしても取り上げられているそうですが、わたしはハーバードのケーススタディーがいかに自分の理論に合わないものを捨象して出来ているかを知っている人なので、「またやってるな」という感じです。「内発って思いたい」んですよね、大学の先生は。シンプルに、脳のどの部分が活性化するかみればいいんじゃないですか。だめですか。
 
 
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(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割


 本書では、手っ取り早くいうと「優れたリーダーはイメージ型の言葉を使う」と言っています。ただし補足で、「イメージ型の言葉を使うから優れたリーダーになるわけではない、因果関係というより相関関係を示している」ということも言っていたのは、評価できます。

 さて、では、一般のマネジャーがこれを学んで、「伝わる話をするためにイメージ型の言葉を使おう」と思うことは、正しいでしょうか?読者の皆さんはどう思いますか。
 たぶん、いきなりそれをやったら空回りするでしょうね。
 それは何が足りないのか。

 まず、本書で例に挙げたような、アメリカの歴代大統領、こうした「雲の上の人」については、わたしたちはその人との個人的関係がまったくありません。日頃の関係性を「抜き」にして純粋にレトリックだけで左右されると考えられます。ところが、一般の部下と日々接しているマネジャーはそうではないですよね。そこでは、日頃の関係性が、言葉の伝わりやすさに大きく影響します。
 このブログの読者の方はマネジャー以上の立場の方が多いかと思いますが、だからちょっと記憶が遠いものになっているかもしれませんが、皆さんが若くて末端の働き手だったころ、自分の嫌いな上司の言うことを理解できましたか?3分の1とか4分の1ぐらい、「ひゅーひゅー」だったということはないですか?
 とりわけ、その「嫌いな上司」が「組織の理想」のようなことを語った場合、綺麗ごとにきこえてしまって実感がわかなかった、ということはないですか?
 では何が「好き、嫌い」に影響するかというと、とりわけ「上司部下関係」の場合は、「承認」がほとんどすべてを決めてしまうと言っていいと思います。
 このブログでは何度目かの繰り返しになりますが、人は、脳の「内側前頭前皮質」という部位から、他者の自分に対する評価を取り込み、自己評価を作っていきます。そして「内側前頭前皮質」は同時に、外部の規範を取り込み自分の規範意識を形づくる、という役割を担っています。
 だから、「承認してくれる上司の言うことは自分の規範として取り入れやすい」。

 もう1つの説明としては、普通のはたらく人というのはポジティブ心理学でいう「ポジティビティ(ポジティブ感情)」が低いのです。ポジティブ感情の有無は、人が中長期的視野でものを考えられるか、あるいは目先のことしか見えないか、に影響を与えます。ポジティブ感情のある人は少し長い視野でものを考えられ、未来へ目を向けることができるのです。このポジティブ感情の土台がないところに、「ビジョン」を語りかけたり「未来の姿をイメージさせる言葉」をレトリックとして使ったりしても、ぴんと来ないであろうと予測できます。そこまで気持ちがあがってこないのです。

 では、どうしたらいいでしょうか。1つの例を挙げましょう。
 拙著『行動承認』に出てくる事例です。中国工場の総経理である脇谷泰之さんという人が、中国人スタッフに向けて語りかけます。工場が不良を出し、連日深夜までやり直しの仕事に追われていたさなかのこと。

「あなたがたには、十分いいものを作る能力がある。
どこにも負けない技術がある。
ただ、小さな問題が続き、自信がなくなっているだけだ。
僕は、あなたたちの能力を信じている。
だから、自信をもってお客様にいいものを届けよう。
そうすれば、必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」

 いかがでしょうか。
 この「ミニ・スピーチ」の最後の一行が「ビジョン」であり「イメージ型の言葉」になっています。しかし、冒頭の4行は「承認」になっています。いわばビジョンに行き着くための「助走部分」に「承認」を使っているのです。
 ここで、「承認」はマネジャーに対する「求心力」―信頼感とも、愛着心とも言いかえられます―を高める働きと、「ポジティブ感情」を高める働きの両方をしています。いわば、従業員たちとマネジャーの間の心のつながりを太くし、そして従業員の心を浮き上がらせ、少し遠くを見られる状態に持って行ってあげる、そういう役割を果たしているのです。
 こういう「下地づくり」を手順として行うと、「必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」という、ビジョンの言葉がリアルな言葉として響くようになるのです。

 こうして「技術解説」をすると、操作的にきこえてしまいますし単なるレトリックのようにもみえてしまいそうですが、脇谷さんはこの事例の少し前に「承認」の概念に出会い、個人個人へのスタッフへの「承認」を行うようになっていました。
 承認を理論レベルでなく、実践レベルで行うということは、その人自身にとっては、「他者の視点を取得する」体験にもつながります。とにかく相手は「承認」を欲しているのだということ、適切に与えれば嬉しいものなのだということ。その体験を繰り返すことが、他人視点の取得につながり、そしていざという時に、部下が欲するものに応える行動として、「ビジョンの言葉を発する」能力を形成することにもつながるかもしれません。
 「ビジョンを発したリーダーが成功した」「イメージ型の言葉を発したリーダーが成功した」
 それは、実は「ビジョン」や「イメージ」に付帯していたものが大きかったのかもしれないのです。

 脇谷さんは2011年の初めに「承認」の概念に出会って実践者となり、総経理を務める上海工場はその年から2年連続で「業績倍々ゲーム」の快進撃になります。「2年間、お客様のもとに不良を1件も出さなかった」という快挙、そして2014年にはお客様の「優良協力工場」として表彰されます。

 まとめると、「ビジョンの前に承認」これを、日常行動としてもその場のスピーチの構造としても、意識しておいたほうがよいでしょう。わたしからの実務家へのアドバイスは、そうです。

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(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変

 本書では、「トランザクティブ・リーダーシップ」と「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」という2つの概念を紹介し、これらが経営学でコンセンサスとなっているものだ、といいます。
 「トランザクティブ・リーダーシップ」とは、
1)報酬を与え(ほめ)、
2)部下の失敗に事前介入、
3)部下の失敗に事後介入 
ということだそうです。なんか現実の人格ではない、要素だけを抜き出した感じの概念ですが。これだけしかやってない人っているのかしら。
 そして「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」とは、これもおさらいですが、
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
ということだそうです。

 で、優れたリーダーはトランスフォーメーショナル・リーダーシップの4項目プラス、トランザクティブ・リーダーシップの1)を持っているのだそうです。
 これもうーん、なんでそういう分け方になるかなあ。とわたしは思います。
 「内発、外発」のときもそうでしたが、いちどある分け方を決めると、経営学者はみんなそれに沿って追試して、ほかの分け方の可能性をみなくなるのではないかしらん。また、なんでこんな舌をかみそうな用語をがまんして使わなくちゃいけないのかしら。

そして今回の記事の3項目に共通して言えるのは、カイシャやリーダー/マネジャーに対する愛着心(attachment)という要素には全然フォーカスしてないですね。わたしは承認研修の統計の質問紙に「職場アタッチメント」という言葉を入れましたけどね。この項目は研修後に如実に上がりました。
 
 
 ・・・でもわたしもちょっと疲れてきたので、また特に実害のありそうなところでもないので、ここは「違和感の表明」だけにとどめたいと思います。

 「批判記事」書かなきゃなあ、と思うと歳のせいで肩や腰が痛むんです。今回の記事はそんなに「批判」でもないですけどね。お友達の助言に従い、少し休もう…。


正田佐与

『人を伸ばす力』も、よくみると攻撃対象を「行動主義」に設定している。

「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。

このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。

私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)

さらに、スポーツ・コーチングであれば選手の側に「そのスポーツをやりたい」とか「試合に勝ちたい」という意欲があることが前提なので、これも問題にならない。

(補足:ここまで書くと会社員の場合はどうか、ということになるが、私は従来から「コーチングだけじゃなく理念大事。理念に共感した人がその会社に入るという前提にたつべき」という立場をとっているので、やや逃げ道めいてみえるかもしれないが、その会社の一員としてお客様に商品・サービスを提供し、利益を上げることに貢献したいという意欲をもっていることが前提となる。無駄飯を食ってぶらさがりたい人にコーチングしても意味はない)

つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。

しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。

もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。


繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。


しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。


「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能で効果的に手助けしてくれる人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。


それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。


彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。


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ここまで書いて、自分が「子どもの自発性」と出会ったときのことを思い出した。

初めての子を授かったのが1992年。これが勘の強い、よく泣くお子様だった。今でも彼女に「あんたは手のかかるあかちゃんだった」とからかう。

2歳ぐらいになると、「自分でお着替えする!」と主張。それは尊重して時間がかかってもとことん待った。何故かというと、以前にも書いたかもしれないが、「じぶんでやる〜!」と言ってやっている時の彼女の脳の中で急速に「シナプスが伸びる」のが見えるような気がしたからだ。

「コーチング」と出会うのはそれから9年ほどあとのことである。

「子どもの自発性があれば、それに委ねることが大事だ」。

それは私の場合、勘の強い長女を観察することによって培われたとおもう。(その後この子は「もしドラ女子高生」になった・・・)

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私自身、「内発と自律」があまりに不足していてまずい、と思う状況はある。いまどきの日本のお母さん方の「早期教育熱」である。
子どもにあれもこれも習わせたい、つねにほかのお子さんと比較して叱咤激励ばかりしているお母さんなどをみると、「内発的動機づけ大事ですよ」と、言ってあげたくなる。そういうお母さん方にあまり行動理論を「悪用」してほしくはない。

(私なりの表現をすれば、それは「ありのままのその子を受け容れ愛する」という意味の承認だったり、「その子の成長意欲に応じた課題を与える」という意味の承認が足りないのだろうと思うが。逆にこういう育てられ方をして自信がないタイプの子は、職場で「承認型企業内コーチ」に出会うと非常によく育つ)


そういうことに警鐘を鳴らしたい場合、そういう性格のお母さん(お父さんもいるかもしれないが)、お母さんをそういう状態にしてしまっている情報過多の状態か、あるいはお母さんが専業主婦で家にいて変に子育てに仕事的な成果を見出したがる状態、に的を絞って話をすれば「内発と自律思想」はもうちょっと説得力が出てくるようにおもう。

「外的動機づけ」を悪者にしているから、話がややこしくなるのだ。

「敵はだれか」

というか、

「ほんとうに解決したい課題は何か」。

これ何思考法っていうんだっけ?

一々名前をつけなくても、常識力のある人ならワンフローでやれることだと思うのだが。


※この記事は、もともと1つ前の記事の追記として書いていましたが長くなったので別立ての記事にしました



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



(追記)
いい加減この話題にうんざりしているが、やっぱりこういう可能性についても書いておこうと思う。
ほんとうは、人間社会のもっとずっと美しい現象について書きたいのだが、それはいつでも書ける、ということで。


アルフィー・コーンの見ていた風景とはどんなものであったか。

彼が引き合いに出す「外的報酬でコントロールするけしからん場面」についての記述が、どうも曖昧でリアリティに欠けるのだが、

たとえば
「これをできたら…をあげるよ」
というのが、よく出てくるように思う。

カネや物で釣る、というやり方。

私自身はそれを子どもにやってみたところ、あまり上手くいかなかった。
確か、「肩をもんでくれたら、お金をあげるよ」と言ったところ、
「いらな〜い」と断られたので、その後はあきらめている。
(100円だと安かったのだろうか)

いい成績をとったら幾らあげるとか物をあげるとかは、やったことがない。
単に高校に受かったからお祝いに食事でもいこうか、というのはある。
ご褒美は「あとづけ」で、サプライズ的にあげるのがお互い楽しいのだ。
事前に釣ると、貰った時に驚きがなくてあんまり楽しくないんではないかと思う。
それは、下手くそなやり方だと思う。

家族間だとルール化していないからサプライズができるが、
会社だとルール化せざるを得ない。だから事前に見えていることになる。
それが「事前に釣る」ことになり、やる気をそぐことはあり得るだろうと思う。


このほか想像で思い浮かぶのは、
コーン氏は自分の講演会に来る経営者をあまり好きだったとは思えないのだが、
たとえばこんなセリフ。

「先生、わてうちの息子に『100点とったら小遣いはずんだるで〜』って釣ると、
坊主張り切って勉強しまんのやが、
ヤツの要求する小遣いの額がだんだん吊り上っていきまんねん。
どないしたらよろしいんでっしゃろか」

こういうセリフは関西弁が似合う。
これは報酬が悪いんだろか、お金が悪いんだろか。

私なりの答えは、
「その子は生まれつきお金が好きなんですね」。

個別性の観点でみると、人は結構、言葉に言えない恥ずかしい欲求を個々にもっている。
前、セミナーに来られた経営者さんが、実際に子どもの頃のエピソードを探ってみると、
「お金が好き。儲かるのが嬉しい」
という価値観をもっていると思われたことがあった。
でもその人は、自分のシートに「努力」とか「貢献」とか別の言葉を書きこんでいた。

根っから「お金が好き」な子であれば、お金を励みに勉強したり、
小遣いの要求を吊り上げたり、というのもあり得ることなのだ。

また、そういう「お金好き、儲け好き」の性向はけっこう遺伝するようだ。

最近読んだ経営者の伝記では、ザッポスの創業者がそういう人だったようだ。


だから、

「これをしたらお金をあげるよ」

という強化子がうまくいった場合、それはその子にとって有効な強化子だ、
ということだ。

こういうタイプの子をどうやったら上手く導くか。
それもそれなりのやり方がありそうだ。

いかにコーン氏がその風景に嫌悪感をもったとしても、
「個別性」の観点で読み解けば、そうなる。
それは、やっぱり外的動機づけの罪ではないのだ。

私の言っていることは、どこかおかしいだろうか。



またもう1つ思い出してしまった。

「褒められ中毒になる」ということについて。

実際にそういう「個体」はいるようだ。ごめんね動物行動学のような言葉をつかって。

以前実際にお母さんから相談を受けたのだが、
幼稚園の先生から、
「この子はどんなに褒めても褒められ足りないタイプの子ですね」
と言われた、という。

そしてその子は高校卒業してフリーター。仕事しても長続きしない。

周囲の人から見て、この子の働きに対してはこのぐらいの「承認」が妥当だ、と考える量と、
本人の思う、自分はこれぐらいの「承認」をもらって当然だ、と考える量が
釣り合わない、後者があまりにも大きすぎる、という人がいるようなのだ。

そうすると、残念ながら大抵の仕事はつとまらない、能力は低いのにいつも承認不足だと不満をたれている人になってしまうことだろう。

実はいわゆる「能力の低い人」の話をきいていると、このタイプの人が多いように思う。生まれつき「承認欲求」がものすごく高いので周囲への不満が尽きない。自分自身の能力不足に気づけばいいが、気づかない人はいつまでも努力するということをしない。気の毒だがそういう風にプログラミングされてしまっているのだ。

閑話休題、
こういう「承認欲求過剰」な人は、やっぱり「褒められ中毒」になりやすいだろう。
それも褒めることの害ではなく、その人の個性なのだ。

人によっては、少年院とか刑務所とか、強制的に規則正しい生活を課せられるところで暮らすと、ちゃんと生活できることがあるらしい。

そういう少数の個体の方にばかり目が行って普通の勤勉な人を褒めないというのは、それも馬鹿馬鹿しいことである。ごく一部に急性アルコール中毒になりやすい人がいるからといって、国民全員が禁酒する必要があるだろうか(ほんとは、アルコールは非常に依存性の高い危険な麻薬だというのだが)やっぱり、論の立て方が間違っている。

コーン氏はご自身が人の個性に対する理解が足りないので、いろんな人に嫌悪感をもって生きているのではないだろうか。その嫌悪感をぶつけやすい相手が「外的動機づけ」であり「行動主義」であった、ということはないだろうか。

そして、やはりEQの低い人特有の現象で、自分が見聞きした2,3の極端な現象を一般化してしまう誤りを犯していると思う。
自分がどういう個別の体験をし、それについての感想や解釈をもったか、というところを明示するという手続きをとればいいのだが、限られた体験から一般化をして、それに嫌悪の感情をまぶしながら学問のような記述で言う、ということをやっている。体験の記述も曖昧なので、コーン氏の解釈(つまり、外的動機づけはわるいものだという)が正しいのかどうか、検証しにくい。


最後に厳しいことを言うと、実は「褒められ中毒」に一番近い所にいるのは、コーン氏を含む大学の先生や文筆業、講演業の人たちなのだ。「チヤホヤ中毒」といってもいいかもしれない。

これも、ひょっとしたら自分自身に起こったことか、あるいは虚業のご同業者に起こったことをとらえて、「だから褒めることは良くない」という論拠にしている可能性がある。そうだとしたら本当に馬鹿げている(でもコーンという人の思考回路をみていると、本当にそういうことをやってしまいそうだ)。そんなことを根拠に真っ当に頑張っている子どもや大人を褒めないなんて。

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