シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判




 みたび、『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 ググってみるとわたしと似た「主張」をしている方がいらっしゃいました。

 http://garnet.cocolog-nifty.com/miya/2015/08/post-6a94.html

 
 こちらの方のほうが多くのポイントを載せていらっしゃいますし、エビデンスも豊富です。
 まあ、「中室本」っていくらでも反証を挙げられるんですね。
 これからもどんどんこういうのが出てきてほしい。

 さて、この記事の中から1つポイントを絞ってこちらでご紹介したいのは、「少人数学級制」についての話題です。

 4. 少人数制でも学力は上がらない ×
 これはAkabayashi&Nakamura(2014)という文献が根拠です.原著は6ドル払わないと読めませんが,著者による解説が
http://synodos.jp/education/12530
 で読めます.本書でも述べられていますが,研究方法の基本は,40人クラスと,転勤等による人数増で偶然20人2クラスに分かれた場合で,差を統計的に比較するというものです.教育現場の対応としては,偶然2クラスに分かれてしまっても,急に教材や授業内容を大幅に変えて少人数制用にしているとは考えられません.40人クラスのときと20人のときで,同じ教材を使って同じような授業をしたら,学力の向上がそんなに変わらない,というのは当然です.たまたま20人になったクラスと,40人になったクラスで学力差がついてしまっては,保護者から批判の的になってしまいますから,むしろ,人数差の影響がでにくくなるように努力するかもしれません.
 少人数制の方が教育効果が高いと評価されているのは,40人では使えないが,20人ならできるよりよい授業方法や教材が使えるからです.これは,PISA調査の結果を使った国際比較でも確認されています.こんなことで,少人数制はお金の無駄というような教育政策を決められたのでは教育現場はたまりません.(太字正田)


 これ、まったくその通りと思います。読者の皆様、いかがですか。

 この「赤林研究」は「自然実験」といわれるものです。実験用に作ったのではなく、自然にランダム化比較試験に近い状況ができたのを利用してデータを調査したものです。「赤林研究」が扱った「少人数学級」のシチュエーションとはどういうものだったかというと、
 例えば、ある学校の3年生が1組2組3組まであり、各40人ずついた。そこへ、夏休みに転校生が1人入ったので、3組が41人になり、3組だけを2学期から21人と20人の2クラスに分けることになった。
 こういう場合の「旧3組」である3組と4組の成績がそれまでより上がったか?というものです。

 読者の皆様、これ、上がると思いますか?
 まず、「担任交代」があります。新たにできた「20人クラス」である3組と4組のうち3組は以前の担任がスライドするかもしれないけれど、4組は「担任交代」となります。学年の途中で担任が替わるというのは、それだけで子供たちにとっては落ち着かない要因になります。1学期の状態に逆戻りです。

 加うるに、わたしが校長の立場だったら、急遽余分にできたクラスである4組の担任には、非正規の産休補助の先生か、学校内で「無任所」だった、鬱休職明けの先生、あるいは指導力がないことがわかっている先生、などを充てるでしょうね。その学校の「エース」のような優秀な先生を充てることはないと思います。

 ですので、教え方の工夫をしない、特別な教材を使わないのに加えて、むしろ成績が「下がる」方向に働く要因があり、それがせっかくの20人学級のメリットを相殺してしまった可能性があるのです。


 要するに、「中室本」の「赤林研究」のエビデンスからいえることは、

「少人数学級にしても教え方や教材の工夫がなければ学力は上がらない」

ということだけです。

「少人数学級にしても学力は上がらない」
と言ってしまうとそれは言い過ぎになり、「×」になります。拡大解釈です。
 是非、高校の時の国語の先生のところに行って小論文として採点してもらってください、中室先生。

 なんで、「政策提言」と大見得をきった人の本をこんなに全部「裏読み」しないといけないんでしょうか。
 この人を生んだアメリカのアカデミズムがそもそも間違ってるんじゃないでしょうか。
 オボカタさんもハーバード行ってましたしね。
 最近、アメリカで本を書く女性学者さんって妙に「美形」が多いですよね。スタンフォードの意志力の先生とかね。あれ、気になってたんです。

 美形だと博士号をとったり教授になりやすい、甘々の世界なんじゃないでしょうか。


 わが国でも、大竹文雄氏、竹中平蔵氏といった錚々たる学者たちがこの女性学者さんに肩入れしてらっしゃるようですが、あなたらこんな単純なミスを読み取れないで、「下半身」でもの考えてる人、決定ですね。惑わされましたね。

 それは余談ですが、

 正田は3つ前の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場をいかにして良くするかの試論)で、「少人数学級にしたうえで承認や個別面談など個に向き合うアプローチをし、先生の相互学習も推進する」という提言をしていますが、
 少人数学級にするのは、「次の一手」をするためなんです。これって、実社会ではふつうのことです。

 統計というのは、1つの変数だけを変え、ほかは一切変えないという原則がありますから、逆に統計で測れることには元々限界があるんです。統計の専門家であればあるほど、そういう限界もある、ということを誠意をもって社会に示さないといけません。


 わたしたちの社会の未来をこんないい加減な本に決められてはいけません。


 科学と目の前の現象との乖離について、1月1日の記事に書いた中国の故事、「群盲象を撫でる」についての文章を再掲します:

 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。






正田佐与
 

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

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「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

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