正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

タグ:承認欲求

認められたい表紙


 ネット時代の「承認欲求」について語らせたら第一人者、Dr.シロクマこと精神科医・熊代亨氏の新著『認められたい』(ヴィレッジブックス、2017年2月28日)が出た。
 表紙の可愛らしい男の子と女の子のイラストの目がまっすぐにこちらを見てくる。(本を読まない時代、「イラスト」の存在は大きいですね。)

 「私は精神科医として、一人のインターネットマニアとして、私自身と他の大勢の人々の『認められたい』気持ちと、その気持ちに引っ張られた人生模様を観察し続けてきました。」
と、熊代氏は書く。
 きわめて大きな切り口だ。ネットで否応なく肥大した承認欲求の観察というのは。
 (アメリカではそれを「ナルシシズム」という文脈で考えているようにみえる)

 わたしはちなみに、承認を長くやっていますがここまで丁寧に「承認欲求」を観察していない。多くの人がそうであるように「承認欲求」の観察というのは気恥ずかしいものだ。自分の奥のほうがくすぐったい感じがする。熊代氏はそれを本書で入念にやっている。自身、精神科の患者さん、そしてネットユーザーと3つの視点で。

 では心に残ったところを抜き書きします。

●承認欲求を持っていない、例外はいるものでしょうか。
 …たとえば統合失調症で長期入院している患者さんのなかには、仙人のような心持で過ごしている人がいなくもないのです。しかし、精神医療の世界でさえそういった人は例外中の例外で、褒められたがりな人にはたくさん遭遇しますが、褒められることに興味の無い人は非常に少ないのです。

●何かを学びたい・身に付けたいと思った時、承認欲求を充たせるか否かはとても重要です。

●承認欲求の時代がやってきた。企業の雇用も流動化する現代には、滅私奉公を良しとする所属欲求の強い心理よりは、他人から褒められたり評価されたりしてモチベーションを獲得するような、承認欲求の強い心理のほうが都合がよかったとは言えるでしょう。

●ネットでいかにも承認欲求を充たしたくて頑張っている人。なにか気の利いた事を書いて「いいね」や「リツイート」を集めたがっているツイッターアカウント、グルメや観光地の写真をせっせとアップロードして「いいね」をもらいたがているFacebookアカウント。ユーザーの褒められたい欲求を充たしやすく、刺激しやすいようなシステム上の工夫。

●変化は2000年代の中ごろから。ネットコミュニケーションは匿名アカウントから個人のアカウントへ。

●情報の真偽には注意を払わない。大半の人は自分がどれだけ褒められ、他人にどんな風に評価されるのかに心を奪われながら使っているのではないでしょうか。


――「承認欲求」の「レベルが高い人」と「レベルの低い人」がいる、と熊代氏。

●レベルの低い人の事例1。始終認められたい、評価されたい。「認められなければならない」があらゆる人間関係に付きまとっていて、身も心も休まる時間がありません。

●レベルの低い人の事例2。大学で演劇部にのめりこみ、次いでオンラインゲームにのめりこんで、そこで目立てるからやめられなくなり、留年確定。

●「承認欲求は貯められない」。この点でお金より食欲に似ている。いっぺんに沢山充たしても定期的に充たさなければ、じきに飢えてしまう。また注目や承認を繰り返していると、充足感を実感するためのハードルが高くなってしまいがち。

――食欲の比喩はまた出てきましたね

●承認欲求が低レベルな人の類型。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)承認欲求が強すぎる人 3)褒められ慣れていない人 4)褒められどころの“目利き”が下手な人 5)承認欲求が承認義務になってしまっている人。

――こうした類型を知っておくと、実際にそうした人に遭遇したときに役に立つ。本書では熊代氏独自の類型が多数でてくるが、その思考の緻密さに驚く。

●承認欲求を充たすにはどうしたらいいか。オンラインゲームに時間をつぎこむ、Youtube等で肌をさらす、ホストクラブやキャバクラに行く。そうした充たし方は代償が大きすぎ、お勧めしない。

●承認欲求の充たし方が上手な人は、「褒めたり評価してくれる人にきちんと“お返し”をする」能力に長けている。40代〜50代の人たちにはこういう人がゴロゴロいる。

――うちの受講生さん方などはこういう人たちだろうな。

●承認欲求を抱えているのは自分ひとりではない以上、自分だけではなく、周りにいる人達も承認欲求が充たされるような、いわば認め合いのエコサイクルを成立させるほうが、結果として幸福な状態を維持しやすいはずです。

――「認め合いのエコサイクル」いい言葉だ。
 わたしが本を書くばあいは、出発点がここから始まる。対象者はいつも大体40代以上の管理職だ。その人たちにここまで「承認欲求」について話してあげることはしない。
 なぜかというと、やや言い訳めくが、「認め合う」ことを実現するためには「認める」という行為をしなければならなくて、その行為にもそれなりに練習が必要なのだ。40代以上の男女は、仮に会社で言われたから、マネジメントを上手くいかせたいからといった即物的な動機でもいい。まずは「認める」ということにスポーツトレーニング的に取り組んで欲しいのだ。細かいことはそのあとで「つかんで」もらえるだろう、と思っている。ただしそうやって彼(女)ら自身の学習能力に期待ばかりしているので、わたしはここまで丁寧に言語化する作業をおこたってきた。

●私は、承認欲求を“独り勝ち”的に充たせる状況を夢見るのは、危なっかしいと思っています。…私には、街でまずまず幸せそうに暮らしている人達の大半は、自分ばかりが褒められたがる人ではなく、周囲の人達と認め合える関係をつくりあげている人にみえるのです。


●昔の日本人は所属欲求で回っていた。承認欲求のレベルの高い人の例、家ではマイホームパパであり会社の付き合いも上手にこなす。所属欲求と承認欲求を両方うまく使っている。

●社会のすべての人が自分自身が褒められること・評価されることでしか心理的に充たされなくなったら、どうなってしまうだろうか。部分的にはそうした世界がある。お受験にわが子を駆り立てる親などもそう。

――『嫌われる勇気』の中心読者層が30-40代男女だ、というのも思い浮かべた。恐らく「自己啓発本のヘビーユーザー」と「お受験親」がまじりあっているであろう。お受験も、みんながみんな勝者になれるわけではなく、国立小を目指しても倍率は5倍だから5人に4人は敗者になる。そんな負け気分のとき、「人生の悩みは対人関係の悩みである」「他人の評価を気にする必要はない。承認欲求を否定せよ」の教えには、ほっとするであろう。
 熊代氏はそうしたベストセラーのことを挙げつらってはいないが、部分部分で「ベストセラーの謎」にうまく“回答”してくれている。

●所属欲求には、「自分自身が褒められたり評価されたりしなくても、心を寄せている家族や仲間や集団が望ましい状態なら、それだけでも自分自身の気持ちが充たされ、心強くなる」という性質があります。ほとんどの人間関係が承認欲求だけで成り立っているのではなく、こうした所属欲求も含んでいるからこそ、人間は家族や集団をつくり、お互いを信頼したり敬意を払ったりしながら、長く付き合っていられるのではないでしょうか。

●所属欲求にも、「低レベルな人」がいる。それは「承認欲求が低レベルな人」とも重なるという。1)自分の承認欲求しか意識していない人 2)「ひとりが一番」な人 3)「我々はかくあるべし」と思い込む人 4)完璧な人間を追いかけている人 5)いつも減点法の人

●承認欲求や所属欲求をうまく活かせる人と、そうでない人は、人生の難易度も幸福感も断然違ってくる。人間関係は私たちが思っている以上に、承認欲求や所属欲求のレベルに左右される。

●「認められたい」はレベルアップできる。

●子どもや若者は承認欲求や所属欲求のレベルが低い。たとえば保育園や幼稚園に通っているぐらいの子どもは、自己中心的に出しゃばり、褒められたがるもの。思春期の男女も、“中二病”や“意識高い系”のように安易に自分自身を特別だと思いたがる。

●「認められたい」のレベルアップが進んでいる人は、日常の挨拶などからも、承認欲求や所属欲求を充たすことができる。

●コフートの主張「自己愛は生涯にわたって成長し続ける」

●コフートの考えたレベルアップ―「変容性内在化(transmuting internalization)」、雨降って地固まるの経験。他人に期待した「認められたい」が充たされなくて失望しかけても、その辛さがあとで理解してもらえたり、仲直りして次の機会にはまた気持ちが通じ合えたりするなら、自己愛は成長していく。

●コフートによると、“適度な欲求不満”があるくらいの関係が良い。いつもいつも承認欲求を充たしてくれるとは限らない。

●「認められたい」のレベルアップをしたいなら、“雨降って地固まる”が成立し得る人間関係を大切にし、そのような人間関係に発展する目をつまないこと。多少の摩擦を含んでいても、お互いに「認められたい」をまずまず充たし合えるような人間関係を長続きさせること。

●ネットコミュニケーションを通じてのレベルアップは可能だが、時々会う機会ももつこと。

●認められたいあまり四六時中LINEやSNSにはりついているのは考え物。LINE疲れやSNS疲れに陥りやすく、疲れの蓄積はメンタルヘルスにもよくない。

●思春期の子どもの「認められたい」を親が充たしてやるのは役不足になる。外の関係を築くのが望ましいが、外の関係で傷ついて帰ってくる場合もある。躓いた子供に手を差し伸べられるのはやはり親。この時期の子の親は「裏方」として重要。

●「認められたい」のレベルアップを男女間の関係で行うのは難しい。多くは、「認められたい」のレベルが低い同士がくっついてそれぞれ異なるかたちで「認められたい」を充たそうとする。

●選択の自由が与えられた人間は、意外なほど似た者同士でつるみあう。

●「認められたい」のレベル差を挽回するのに重要なもの。コミュニケーション能力。

●コミュニケーション能力を高めていくときの重要な基礎。
1.挨拶と礼儀作法
2.「ありがとう」
3.「ごめんなさい」
4.「できません」
5.コピペ
6.外に出よう
7.体調を管理しよう
 そして時間をかける。

●友人・家族・会社の同僚との日常的な人間関係で満足している人。コミュニケーション能力は、有名人からではなく、そういう人からコピペすべき。

●ほとんどの人間にとっての幸福は、際限のない承認欲求や、カルト的な所属欲求に支えられるのではありません。もっと身近で、もっと少ない人数で、人間関係の持続期間が数年〜数十年単位の、そういう人間関係が、人間に幸福をもたらします。そのような「認められたい」の繋がりを、世間では「愛」や「友情」と呼ぶのでしょう。

●ヤマアラシのジレンマ。人間関係は近ければ近いほど傷つけあってしまう。

●親子関係のヤマアラシのジレンマ。子育ては核家族単位で行われるため、小学校以上の子どもの面倒まで、親がみる。親子間の距離が近い。「毒親」もそうした背景から生まれやすい。

●親は、子育て一本槍の生活や人間関係を改めて、他の人間関係に「認められたい」の供給源を見出していくこと。

●新しい人間関係ができるたびに相手に急接近してしまい、「ヤマアラシのジレンマ」を繰り返してしまうパターンの人が気を付けたほうがいいのは、「むやみに仲良くならないこと」「新しい関係をむやみに理想視しないこと」。

●あらゆる人との心理的距離を遠くする処世術には、以下のような欠点があってお勧めしない。
1.人と心理的距離の遠い生活をしてきて何かの拍子に近い人間関係を経験すると、距離感がわからなくて心理的距離を詰めすぎてしまい、しんどくなる。
2.スキルを磨きにくくなってしまう。
3.「認められたい」そのもののレベルを上げることも難しくなってしまう。


 抜き書きはおおむね以上。

 本書の中で熊代氏自身言っているように、本書に書かれていることは統計でエビデンスをとったものではなく、精神分析的でもあり、わるくいえば「印象論」である。ただそれが説得力があるのは、氏がきわめて膨大なネット世界の見聞やサブカルチャーの知識を持って発言しているからであろう。

 そこここに独自のパターン帰納がみられ、その観察と分析のきめの細かさに驚く。間違いなく、この分野で後々まで残る1冊となるだろう。

 若者だけでなく、若者を監督したり育成する立場の人、自分自身も承認欲求の使い方が今ひとつわかっていないという自覚のある人には、ぜひお勧めしたい。




 精神科医・ブロガーである、Dr.シロクマこと熊代亨先生の新着記事を、こちらにも全文転載させていただきます。

※元の記事
>>http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20170209/1486634304


 熊代先生は従来より精神科領域から「承認欲求を否定することは危ない」と発言。
 2014年にはブログ「シロクマの屑籠」「承認欲求四部作(リンクは第一記事)」をまとめられ、当ブログでも引用させていただいたりしました。
 (当ブログの引用記事はこちら


 このシロクマ先生に最近、わたしから3つのご質問を投げましたところ、それへのお答えをこんな風にブログ記事にまとめてくださいました。

 大変熟考されたうえ、記事としては手際よくまとめてくださっています。わたし自身にも大変参考になりました。

「承認欲求を否定したら、どうなりますか?」普通の精神科医なら「考えたこともない」と答えるであろうご質問にシロクマ先生は、「抑うつ的になるでしょうね」。明確に言い切られました(←某ベストセラー的表現)

 読者の皆様も、よろしければご覧ください:


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「 トラウマは本当に「ある」?/目的論・原因論どちらを重視?/承認欲求を否定したらどうなる?


先日、ある方から3つの質問をいただいた。これについて、自分なりに整理してみたかったので、ブログ上で清書をしてみます。
 
 お題は、以下の3本です。
 
 1.「トラウマ」の有無について複数の精神科医に訊いて回ったが、回答がまちまちだった。結局、トラウマは「ある」のか「ない」のか。
 
 2.トラウマの有無はともかく、現場では「原因論」と「目的論」どちらの考え方を重視するのか。
 
 3.「承認欲求を否定せよ」というフレーズがあるが、本当に否定したらどうなるか。
 
 


 
 【1.トラウマは「ある」のか「ない」のか】 
 

 どちらかといえば、私は「ない」派かもしれません。

 私は、フロイト直系の精神分析でいう(古典的な意味の)トラウマについて、あまり考えません。
 
 ちょっと古めの精神医学事典によれば、
 


 心的外傷 psychic trauma
 
 個人に、自我が対応できないほど強い刺激的あるいは打撃的な体験が与えられることをいう。
 (中略)
 フロイトS.Freudの神経症に関する初期の研究の中で提唱されたもので、恐怖、不安、恥、あるいは身体的苦痛などの情動反応を示す刺激として論じられた。これらの刺激は意識的世界では受け入れがたいので抑圧されてコンプレックスを形成することになる。すなわち、心的外傷体験は新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大する。


 とあります。
 
 問題は、「新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大するようなトラウマ体験」が一体どういう体験か、です。私の記憶が間違っていなければですが、古典的な意味でのトラウマとは、特別にひどいエピソード一回で生じてしまうものだったはず。
 
 対して、私が愛好する自己心理学*1では、トラウマに相当するものは、特別な一回や二回の外傷体験によってできあがるものではなく、もっと長期間の、持続的な共感不全や不遇によって生じるもの、とみなされていました。逆に言うと、一回のひどい体験があっても、その体験と当人を周りの人達が適切に受け取って対処できていれば、トラウマへと発展しない、という考えかたです。
 
 私は、世間で騒がれるところの「幼少期のトラウマ」の大半は、こちらの考え方で捉えたほうが妥当だと思っています。
 
 ただし、PTSDを念頭に置いたトラウマに関しては、ある程度「ある」と想定しています。
 
 PTSDという精神疾患は、もともと第一次〜第二次世界大戦に砲弾ショックや塹壕神経症と呼ばれていた軍関係の領域で発展してきたものですから、主に、長期間にわたって極限状態に曝される人々を対象として発展してきた疾患概念でした*2。それが、20世紀末になって戦場帰りではない人々にも適用されるようになり、90年代〜00年代にかけて、たくさんの人々この言葉を好んで用いました。こういった経緯には十分な留意が必要だと私は思っていますが、それでも、重度の災害等でPTSDの診断基準に見合った患者さんを発見したら、そのように診断するよう心がけています。そんなに多く出遭うものではありませんが。
 
 また、PTSDの研究領域では、海馬の縮小や扁桃体の変化といった器質的な変化や、交感神経系の異常な反応などが報告されています。これらも、PTSD領域にトラウマという語彙にふさわしい変化が存在する傍証になるのでは、と思っています。
 
 まとめると、私は
 
 ・精神分析のトラウマに相当するものは、古典的な一発ノックアウト説には懐疑的だが、長期的には発生し得ると考える
 ・PTSD領域のトラウマは、日常臨床ではそれほど多くは出遭わないにせよ、「ある」と考える
 
 という立場を取っています。
 
 
 【2.現場で「原因論」と「目的論」どちらの見方を重視するのか。】

 
 「目的論」と「原因論」については、私自身は、アドラー風の目的論的思考にあまり重点は置いていません。
 
 ですが、患者さんとお話をする時には、「原因論」にもとづいた原因探し、いわゆる“悪者探し”を滅多にやりません。
 
 古典的な神経症の患者さんに出会った時も含め、一般に、過去の出来事や心的外傷を振り返って得をする場面はあまり無いと私は思っています。PTSD系の論説のなかには、過去をほじくり返すとかえって侵襲が増すという話もありますし、また、過去を振り返るよう勧めすぎると「トラウマのねつ造」のようなアクシデントが起こることもあります。その片棒を担ぐようなことはしたくありません。
 
 また、“悪者探し”は家族関係や周囲の援助関係に悪影響を与えやすく、これが、アンコントローラブルな事態をもたらす可能性があります。かりに、99%親が「トラウマの源泉」だったとして、患者さんに「親が悪いんですよ、あなたは悪くないんですよ」と囁く行為が、どこまで患者さんのためになるのでしょうか。
 
 のみならず、患者さんに「親が悪い」と囁くことによって、治療者自身の問題や病理を反映しているってこともあるように思います。これも一種の「転移」ですよね。そういう転移混じりの状況では、治療者は思い切ったことを言いたくなるものですが、それが患者さんにとっての最適解なのか、治療者自身にとっての最適解なのか、よく振り返ったほうが良いことがあるように思います*3。
 
 なにより、過去の原因をどれだけ探したところで、過去は訂正できません。それより未来の社会適応を考えたほうが建設的なので、臨床場面では目的論的な話し合いをする機会のほうが多いと私自身は感じています。
 
 他方で、個人としての私は「原因論」、というよりも「因縁論」者です。私は大乗仏教を広く薄く信奉しており、思考のベースには縁起の考え方があります。
 
 私が見聞している範囲で「因果」と「縁起」の違いを述べてみると、因果とは、科学にみられるような原因-結果を一対一の対応とみなすのに対し、縁起とは、ものごとが起こる種子(要因)は単一ではなく無限にたくさんの要因が寄り集まって結果を生じるもので、その結果が、更に次のたくさんの出来事の種子となっていく、といったものです*4。科学という枠組みで取り扱いやすい物理現象や化学反応のたぐいはともかく、娑婆の出来事を考える際には、こちらのほうが実地に即していると私は感じています。
 
 また、なんだかんだ言っても私は精神分析っぽい考え方が好きなので、患者さんの縁って立つ背景についてはできるだけ情報を集めますし、ネガティブファクターたり得る要因の洗い出しは不可欠とも考えます。ただし、集めた情報とその分析結果をどこまで患者さんに伝えるべきかはケースバイケースで、伝えるとしても、細心の注意が必要です。
 
 なので私は、頭のなかではだいたい「原因論>目的論」ですが、実地に人と喋っている時には「目的論>原因論」という構えをとることが多いです。
 
 
【3.承認欲求を否定したらどうなる?】
 

 マズローの欲求段階説をベースに、「承認欲求を否定したらどうなるか」について私なりの考えを書いてみます。
 
 現代日本には個人主義的な自意識とイデオロギーが浸透しているので、承認欲求は、関係性の欲求として最も重要とみなしても良いのだと思います。ですから、その承認欲求が断たれてしまえば抑うつ状態に陥りやすいでしょう。あるいは酒やギャンブルといった嗜癖に溺れやすくなるか。このあたりは、実地の観察とも矛盾しません。
 
 ただし、昭和時代の日本人、途上国の町村部といった個人主義的な自意識やイデオロギーがそれほど広まっていない地域では、承認欲求よりも所属欲求のほうが関係性の欲求として重要度が高いので*5、承認欲求を否定されても、現代人ほどにはメンタルヘルスに打撃を受けないんじゃないか、と思っています。
 
 自分自身が承認の焦点になっていなくても、自分が所属している集団を誇りに思えたり、仲間意識や一体感が感じられれば、所属欲求が充たされてまあまあ幸せになれたのではないでしょうか。そのような現代以前の社会*6では、承認欲求を否定されるよりも所属欲求を否定されるほうが“堪えた”のではないかとも思います。これは、現代の大都市圏でスタンドアロンに働く人には、信じられない世界の話と聞こえるかもしれませんが。
 

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

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 このあたりは、リースマンやエリクソンやマズローといった昔の社会心理学っぽい書籍だけでなく、『昨日までの世界』のような最近の書籍を読んでいても、さほど間違っていないんじゃないかと感じます。また、私自身の親世代〜祖父母世代を見ていても、20代〜30代に比べて所属欲求への親和性は高いように見受けられます。
 
 ですから「承認欲求を否定したらどうなる?」の答えは「現代日本ではヤバいことになる。しかし人類史全体で考えるならそうとも限らない」が正解だと思っています。特に、内戦中の国のような境遇では、承認欲求/所属欲求どころではなく、マズローの三角形でいえば下のほうの、生理的欲求や安全欲求が脅かされるので、まず、それらを充たすことこそが焦眉になることでしょう。そのような状況下では、承認欲求が充たせるかどうかは、もっと後回しの問題になっているのではないでしょうか。あくまで相対的に、ということですが。
 
 

 
 ここに挙がっている3つの問題は、どれも、つきつめてYesかNoかで考えると割と考えが狭くなりやすいものだと私は思うので、ガチガチに肯定したり否定したりせず、コンテキストに即した柔軟な捉え方をしていくのがいいのかな、と私は思います。少なくとも実地で応用する際にはそうでしょう。そろそろ時間切れなので、今日はここまでにいたします。
 


*1:H.コフートが創始した自己愛についての精神分析学派。自己愛パーソナリティの研究で名を馳せた

*2:全米ベトナム戦争退役軍人再適応研究NVVRSによると、戦争に従事した後の30%の人がPTSDの診断基準をみたし、22.5%が診断基準の一部をみたすそうです。

*3:こういう、治療者自身の病理の取り扱いって、現在の精神科研修医はきちんと教わるものなんでしょうか。教えて偉い人。

*4:ちなみに宗教的には、そういった多岐にわたる縁起の連なりを全て把握できるのは人間には不可能とされています。それができるのは如来。

*5:「所属欲求よりも承認欲求が上」というあのピラミッドの書き方は、現代日本の個人にはあまり当てはまらないものだとは思いますが、西洋史観にもとづいて文明発達を考えるなら、順序として当てはまっているように私にはみえます

*6:ああ、これも西洋史観的なモノ言いですね、その点には留意しましょう


(太字一部正田)
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 いかがでしょうか。

 熊代先生は、「承認欲求」の定義としてはマズロー説にしたがっていらっしゃるので、当ブログの通常のつかいかたとしての「承認欲求」と少しずれるのですが、その点もメールで少しお話ししたうえで、ここでは熊代先生の定義のほうを採用させていただいています。

 熊代/マズロー説による「承認欲求」でも、否定すれば抑うつ的になってしまう、ということですね。

 当ブログの定義による、「赤ちゃんのころから」の「承認欲求」だと、どうなってしまうでしょう…


 とまれ、素人のわたしのご質問に真剣に悩んで答えてくださいましたシロクマ先生、どうもありがとうございました!


『人を伸ばす力』も、よくみると攻撃対象を「行動主義」に設定している。

「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。

このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。

私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)

さらに、スポーツ・コーチングであれば選手の側に「そのスポーツをやりたい」とか「試合に勝ちたい」という意欲があることが前提なので、これも問題にならない。

(補足:ここまで書くと会社員の場合はどうか、ということになるが、私は従来から「コーチングだけじゃなく理念大事。理念に共感した人がその会社に入るという前提にたつべき」という立場をとっているので、やや逃げ道めいてみえるかもしれないが、その会社の一員としてお客様に商品・サービスを提供し、利益を上げることに貢献したいという意欲をもっていることが前提となる。無駄飯を食ってぶらさがりたい人にコーチングしても意味はない)

つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。

しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。

もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。


繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。


しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。


「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能で効果的に手助けしてくれる人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。


それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。


彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。


**********************

ここまで書いて、自分が「子どもの自発性」と出会ったときのことを思い出した。

初めての子を授かったのが1992年。これが勘の強い、よく泣くお子様だった。今でも彼女に「あんたは手のかかるあかちゃんだった」とからかう。

2歳ぐらいになると、「自分でお着替えする!」と主張。それは尊重して時間がかかってもとことん待った。何故かというと、以前にも書いたかもしれないが、「じぶんでやる〜!」と言ってやっている時の彼女の脳の中で急速に「シナプスが伸びる」のが見えるような気がしたからだ。

「コーチング」と出会うのはそれから9年ほどあとのことである。

「子どもの自発性があれば、それに委ねることが大事だ」。

それは私の場合、勘の強い長女を観察することによって培われたとおもう。(その後この子は「もしドラ女子高生」になった・・・)

**********************


私自身、「内発と自律」があまりに不足していてまずい、と思う状況はある。いまどきの日本のお母さん方の「早期教育熱」である。
子どもにあれもこれも習わせたい、つねにほかのお子さんと比較して叱咤激励ばかりしているお母さんなどをみると、「内発的動機づけ大事ですよ」と、言ってあげたくなる。そういうお母さん方にあまり行動理論を「悪用」してほしくはない。

(私なりの表現をすれば、それは「ありのままのその子を受け容れ愛する」という意味の承認だったり、「その子の成長意欲に応じた課題を与える」という意味の承認が足りないのだろうと思うが。逆にこういう育てられ方をして自信がないタイプの子は、職場で「承認型企業内コーチ」に出会うと非常によく育つ)


そういうことに警鐘を鳴らしたい場合、そういう性格のお母さん(お父さんもいるかもしれないが)、お母さんをそういう状態にしてしまっている情報過多の状態か、あるいはお母さんが専業主婦で家にいて変に子育てに仕事的な成果を見出したがる状態、に的を絞って話をすれば「内発と自律思想」はもうちょっと説得力が出てくるようにおもう。

「外的動機づけ」を悪者にしているから、話がややこしくなるのだ。

「敵はだれか」

というか、

「ほんとうに解決したい課題は何か」。

これ何思考法っていうんだっけ?

一々名前をつけなくても、常識力のある人ならワンフローでやれることだと思うのだが。


※この記事は、もともと1つ前の記事の追記として書いていましたが長くなったので別立ての記事にしました



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



(追記)
いい加減この話題にうんざりしているが、やっぱりこういう可能性についても書いておこうと思う。
ほんとうは、人間社会のもっとずっと美しい現象について書きたいのだが、それはいつでも書ける、ということで。


アルフィー・コーンの見ていた風景とはどんなものであったか。

彼が引き合いに出す「外的報酬でコントロールするけしからん場面」についての記述が、どうも曖昧でリアリティに欠けるのだが、

たとえば
「これをできたら…をあげるよ」
というのが、よく出てくるように思う。

カネや物で釣る、というやり方。

私自身はそれを子どもにやってみたところ、あまり上手くいかなかった。
確か、「肩をもんでくれたら、お金をあげるよ」と言ったところ、
「いらな〜い」と断られたので、その後はあきらめている。
(100円だと安かったのだろうか)

いい成績をとったら幾らあげるとか物をあげるとかは、やったことがない。
単に高校に受かったからお祝いに食事でもいこうか、というのはある。
ご褒美は「あとづけ」で、サプライズ的にあげるのがお互い楽しいのだ。
事前に釣ると、貰った時に驚きがなくてあんまり楽しくないんではないかと思う。
それは、下手くそなやり方だと思う。

家族間だとルール化していないからサプライズができるが、
会社だとルール化せざるを得ない。だから事前に見えていることになる。
それが「事前に釣る」ことになり、やる気をそぐことはあり得るだろうと思う。


このほか想像で思い浮かぶのは、
コーン氏は自分の講演会に来る経営者をあまり好きだったとは思えないのだが、
たとえばこんなセリフ。

「先生、わてうちの息子に『100点とったら小遣いはずんだるで〜』って釣ると、
坊主張り切って勉強しまんのやが、
ヤツの要求する小遣いの額がだんだん吊り上っていきまんねん。
どないしたらよろしいんでっしゃろか」

こういうセリフは関西弁が似合う。
これは報酬が悪いんだろか、お金が悪いんだろか。

私なりの答えは、
「その子は生まれつきお金が好きなんですね」。

個別性の観点でみると、人は結構、言葉に言えない恥ずかしい欲求を個々にもっている。
前、セミナーに来られた経営者さんが、実際に子どもの頃のエピソードを探ってみると、
「お金が好き。儲かるのが嬉しい」
という価値観をもっていると思われたことがあった。
でもその人は、自分のシートに「努力」とか「貢献」とか別の言葉を書きこんでいた。

根っから「お金が好き」な子であれば、お金を励みに勉強したり、
小遣いの要求を吊り上げたり、というのもあり得ることなのだ。

また、そういう「お金好き、儲け好き」の性向はけっこう遺伝するようだ。

最近読んだ経営者の伝記では、ザッポスの創業者がそういう人だったようだ。


だから、

「これをしたらお金をあげるよ」

という強化子がうまくいった場合、それはその子にとって有効な強化子だ、
ということだ。

こういうタイプの子をどうやったら上手く導くか。
それもそれなりのやり方がありそうだ。

いかにコーン氏がその風景に嫌悪感をもったとしても、
「個別性」の観点で読み解けば、そうなる。
それは、やっぱり外的動機づけの罪ではないのだ。

私の言っていることは、どこかおかしいだろうか。



またもう1つ思い出してしまった。

「褒められ中毒になる」ということについて。

実際にそういう「個体」はいるようだ。ごめんね動物行動学のような言葉をつかって。

以前実際にお母さんから相談を受けたのだが、
幼稚園の先生から、
「この子はどんなに褒めても褒められ足りないタイプの子ですね」
と言われた、という。

そしてその子は高校卒業してフリーター。仕事しても長続きしない。

周囲の人から見て、この子の働きに対してはこのぐらいの「承認」が妥当だ、と考える量と、
本人の思う、自分はこれぐらいの「承認」をもらって当然だ、と考える量が
釣り合わない、後者があまりにも大きすぎる、という人がいるようなのだ。

そうすると、残念ながら大抵の仕事はつとまらない、能力は低いのにいつも承認不足だと不満をたれている人になってしまうことだろう。

実はいわゆる「能力の低い人」の話をきいていると、このタイプの人が多いように思う。生まれつき「承認欲求」がものすごく高いので周囲への不満が尽きない。自分自身の能力不足に気づけばいいが、気づかない人はいつまでも努力するということをしない。気の毒だがそういう風にプログラミングされてしまっているのだ。

閑話休題、
こういう「承認欲求過剰」な人は、やっぱり「褒められ中毒」になりやすいだろう。
それも褒めることの害ではなく、その人の個性なのだ。

人によっては、少年院とか刑務所とか、強制的に規則正しい生活を課せられるところで暮らすと、ちゃんと生活できることがあるらしい。

そういう少数の個体の方にばかり目が行って普通の勤勉な人を褒めないというのは、それも馬鹿馬鹿しいことである。ごく一部に急性アルコール中毒になりやすい人がいるからといって、国民全員が禁酒する必要があるだろうか(ほんとは、アルコールは非常に依存性の高い危険な麻薬だというのだが)やっぱり、論の立て方が間違っている。

コーン氏はご自身が人の個性に対する理解が足りないので、いろんな人に嫌悪感をもって生きているのではないだろうか。その嫌悪感をぶつけやすい相手が「外的動機づけ」であり「行動主義」であった、ということはないだろうか。

そして、やはりEQの低い人特有の現象で、自分が見聞きした2,3の極端な現象を一般化してしまう誤りを犯していると思う。
自分がどういう個別の体験をし、それについての感想や解釈をもったか、というところを明示するという手続きをとればいいのだが、限られた体験から一般化をして、それに嫌悪の感情をまぶしながら学問のような記述で言う、ということをやっている。体験の記述も曖昧なので、コーン氏の解釈(つまり、外的動機づけはわるいものだという)が正しいのかどうか、検証しにくい。


最後に厳しいことを言うと、実は「褒められ中毒」に一番近い所にいるのは、コーン氏を含む大学の先生や文筆業、講演業の人たちなのだ。「チヤホヤ中毒」といってもいいかもしれない。

これも、ひょっとしたら自分自身に起こったことか、あるいは虚業のご同業者に起こったことをとらえて、「だから褒めることは良くない」という論拠にしている可能性がある。そうだとしたら本当に馬鹿げている(でもコーンという人の思考回路をみていると、本当にそういうことをやってしまいそうだ)。そんなことを根拠に真っ当に頑張っている子どもや大人を褒めないなんて。

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