『つながる脳』(NTT出版)の中で、脳科学者の藤井直敬氏が「リスペクトが循環する社会」というものを提唱しています。


 この本によると、

 実験で、お金の報酬を受け取ったグループと、自分の人格へのプラスの評価(社会的報酬)を受け取ったグループを比べると、どちらも基底核の中の線条体が反応をみせました。

 その反応は、お金の報酬ではより高い報酬をもらえる条件のときにより強い活動を示したのですが、「社会的報酬課題」(ほめ)で起きた線条体の活動の強さのほうが、お金の報酬より強かったというのです。

 
 「つまり、この実験が示しているのは、われわれの行動の動機づけとなっているカネの影響と、社会的な報酬つまりホメの間には、共通の神経メカニズムが働いているということを示しています。ホメは、カネでばかり動いていると思われている社会を動かしている、もう1つの隠れたエンジンなのではないでしょうか」


 と、藤井氏は言います。


 人は認められるために働く!という、組織論の中で言われてきた「承認論」が、いよいよ脳科学で裏づけられてきたといえましょう。


 このあとの藤井氏の記述はとても正田は共感できたので、すこし長く引用します:


「しかし、ヒトの脳がホメをカネと同じように扱っているというのは、一見驚きのように思えますが、よく考えたら別に不思議なことにも思えません。なぜなら、私たちの脳は、現在のようにカネ主体の社会以前から存在していたわけですし、その中では何らかの行動を動機づける要素が必要だったはずです。


 僕は、そのような動機づけを行う要素が社会的関係欲求だったのではないかと思うのです。もちろん、その欲求内容は一つではないでしょう。他者と関係を継続すること、他者から社会的に認められること、社会に奉仕すること、そういうことが僕たちを動かす原動力になっていると考えるのがおかしいことでしょうか。しかし、科学は、そのような数値化できない要素についてはほとんど無視してきましたし、科学者がそれに言及すると奇異な目で見られがちでした。」

 


「社会的実存を認めるということは、個人をとりあえず無条件で丸ごと尊重(リスペクト)しますよということです。ですから、まず身近なヒトたちへ自分からそういう気持ちをもって接することから始めるというのはどうでしょうか。…リスペクトは、それを受け取る相手に嫌な思いを引き起こすことはないでしょう。それに、自分をリスペクトしてくれるヒトがいるとすれば、それに対してリスペクトを返そうという気持ちに自然になるのではないでしょうか。つまり、いったん自分からリスペクトを発信すると、それは循環を始めるのです。

 リスペクトが循環する社会はどのようなものになるでしょうか。おそらく過去にその余裕をもつ社会はほとんど存在しなかったのではないかと思います。リスペクトはおそらくヒトとヒトの関係を安定したものにしてくれるでしょう。たとえ議論に負けても、自分の存在が否定されるのでなければあまり苦痛に感じません。むしろ、議論に勝っても、自分が社会から否定されるのであれば全く意味のないことです。つまり、物事の価値が、勝ち負けだけでなく社会的評価軸を含んだものへ移行するのではないかと思います。

 そこには神も仏もいりません。あくまで他者をリスペクトする気持ちだけでいいのです。リスペクトをもって他者と接することは、コストはあまりかかりません。しかも支払ったコストはリスペクトとしてきっと返ってきます。なんとなく試してもいいような気がしませんか。僕たちの幸せはたいてい身近なヒトたちからのポジティブな評価があるだけで十分なのです。ということは、身近な人々が、みなさんが変わることで変わってくれることを実感できれば、少なくとも自分自身が満たされた気持ちになるでしょう。

 そのような社会でヒトの満足は、おそらく今のカネ中心の社会よりも深いものが得られるのではないかと思います。ただ、間違えてはいけないのは、カネとリスペクトの二つを軸とした社会でなければならないということです。現代の社会はカネなしでは回りません。

 今、世界には何か大きな転換期が来ている気がします。これまでの枠組みを壊すのではなく、ゆっくり時間をかけて修正していく、そういう大変な時期なのかもしれません。脳科学が、そのような新しい世界の構築に何らかの役割を果たせるようになるといいと本当に願っています。しかし、その修正の方向はヒトの関係性を大事にすることを一番に考えないといけません。僕たちはカネをいくらもっていても幸せになれませんが、素敵な関係は一つもっているだけで僕たちを十分幸せにしてくれるのですから」



 いかがですか?

 最後のほう、いささかロマンチックに走ったきらいもありますが、
 (脳科学者の記述はまだ裏付けがとれてないことに関してよくそうなります)


 この本は脳科学のやや閉塞的になった状況へのアンチテーゼとして書かれました。


 自己啓発セミナーなどに断片的に脳科学が引用されることへの危惧、個体としての脳をみることに限定されてきた脳科学の方向性への危惧。
 

−「最新脳科学の応用」として、オリンピック選手のような肉体や精神をもつためにはどうするか、のハウツー本がいかに多いことでしょう。ほとんどの人は、オリンピック選手になる人生を送るわけではありません。より深く、社会的関係性の中に生きています。「卓越性」などは多くの人にとってあまり意味がないばかりか、むしろそれを強調することで周囲の人への「見下し」を蔓延させてしまうかもしれないのです。この部分はこの本と関係がなく、正田個人のぼやきであります−


 そこから出発して、「社会的存在としての脳、ヒト」をもう一度とらえなおそうとした意欲的な試みです。

 そこでまた、2005年に組織論の世界で太田肇教授が提唱して間もない「承認論」が大きくクローズアップされているのも、意義深いことです。

 筆者は1965年生まれ、理化学研究所脳科学総合研究センターの適応知性研究チームリーダー。正田てきに今後追跡したい脳科学の系譜であります。